Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

鮮やかな色の夢

2020-05-08 22:29:50 | 日々のつぶやき

 3か月ほど前の事、面白い夢を見た。

私と妹と10年近く前にただ1度だけ逢った事のある妹の友人と3人で宮崎の夜の街を歩いていると、2階までガラス越しに煌々と明るい靴屋さんへ引き込まれるように入って行った。

 そこで私は紺とアイスグレーのコンビのパンプスを見つけ、相手をしてくれていた中年の男性店員さんに妹の友人はしきりに以前買った靴の話をされていた。2階に揃いのバッグがあるというので階段を上がり鏡に映して居る処で目覚めた。

でも、靴の色と形は夢とは思えないくらいリアルで不思議な感じがして、妹に夢の話を電話で伝えた。

実際にはそんな店は無い…。一体何を言っているのだろう?

  また、1年前にも同じような夢を見た。それは私の住んでいる町を夜一人で港の方から歩いて商店街へ行くと、何処も明るく多くの人で賑わっていた。人込みの中を歩きながら導かれるように3件のブティックへ入って行った。

どの店も全くタイプが違うが、鮮やかな色彩やパステルカラーが溢れていて色の洪水のような感じでスタイルは覚えていないがエレガントな物が多かった。高校生の頃初めて上京した時、六本木や銀座にあったような感じの店だったが、一歩外れるとススキやセイタカアワダチソウなどが生えている荒れ地だった。

 目覚めた時、なぜこんな夢をみたのだろう 欲求不満だうかと不思議に思った。

 どうでもいい夢であれば、後を引かず残らない。夢で霊を憑けていたㇼした時や、前世、又は反対にこれはめったにないが近未来に訪れる事や出来事である場合しか残らないので何の意味があるのか分からない。

今になって感じるのは、今後夢で見たようなものは手に入らなくなりそうだと言う事である。今でも、大店法が亡くなった2000年以降15件ほどあったアーケド街の洋品店は半数以上もなくなり、人の服装もズボンを履いた人ばかりでスカートやワンピース、スーツ姿のきちんとした格好の人はほとんどみかける事は無く寂しいが、厳しい時代が来そうである。

 

 

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隣の同級生 2 職人さんは偉い!

2020-05-06 16:52:27 | 日々のつぶやき

 昨年の秋 消費税も10%になり駆け込み需要の反動で仕事が静かになるだろうと思い、上の階の空き室を出来る事は自分でと9月中にあれこれそう高圧洗浄機やスチームクリーナーや工具、珪藻土などを準備をした。

 母の調子が悪くなってからだんだん自分の方もおかしくなり元々の不眠症がひどくなり、とんでもなく早い時間に就寝すると当然のごとく真夜中に目が覚める。それまでスマホを寝床で見ると言いう事は無かったのが手持ち無沙汰でyoutubeばかり見るようになり毎晩壁塗りを見ているとよせばいいのに自分でもできるような気がしてきた。 

 隣の同級生に声をかけると、塗った事は無いが以前現場で監督をしていた事があるので見様見真似で出来るかなとの事。

住人が居なくなって1月、 小さな男の子が2人いると、襖には大穴、ベランダの障子は全く張替えていないのでボロボロ、障子の桟も折れていたㇼ濡れたり焼けたりして変色していたりしていた。それも探していると木の色を脱色して本来の色にもどすと言う薬品があるのが分かった。

 10月の連休、6畳の和室が2つと8畳の洋間がありわたし達は手分けして和室の壁を塗る事にし、畳を二人で中央に寄せた。

私は壁塗り前に建具と柱に薬品を塗り木の色を脱色し、マスキングテープを張って準備をした。

 彼のしている部屋を覗くと、マスキングテープも満足に張らず壁を塗っている。

「ちょっと、マスキングテープを張らないとだめよ。」と 注意すると、

「大丈夫、土だから水で拭けば溶けてしまう。」と言ってそのまま塗りつづけた。

初めの壁は真ん中厚く隅はあちこち塗り残しがある。四角い部屋を丸く掃くと言うのと同じ状態で、梁の上になると甚だしい事になっていた。

 2日目の昼前塗り終わったらしく、飛び散った珪藻土を除こうとしたらしいがうまく行かずカッターで削ってもはがれず床もあちこちに土の塊があった。

作業をしている私に、引きつった顔をして

「帰る。」と一言伝えて、そそくさと逃げるように出て行った。

嫌~な予感、覗くと四隅の柱はほぼ埋まり 梁や柱には珪藻土がべったり、肝心の壁はむらむらで四隅は塗り残しの穴だらけ…。泣きそう…。

私の方は珪藻土タイプのペンキのような物を使用したが、マスキングテープをはがすタイミングが遅かった為、これもうまく剝がせず、所々に残っていた。すべて最悪の状態。

 メーカーに問い合わせると、

「土と言ってもね、簡単に剥げると困りますからね凝固剤が入ってます。」と言われる。

「じゃあ~、スチームで溶かせばいいですか?」と言うと、

「スチ~ムでしたら、その他も溶けてします。」と言われ、又途方に暮れた。

 やがて 他の作業を頼んでいた馴染みの大工さんと塗装屋さんがやって来て部屋の惨状をみて、つぶやいた。

柱と障子の桟は

「木が死んでる。」と言われた。壁は当然の如く

「なんやこれ!」の一言。

塗装屋さんにはみ出した珪藻土とマスキングテープの残骸は落として貰い、障子は元の色に塗ってもらう事にした。

そしてこの状態で左官さんに頼むのは無理なので どうしようかと思案していたら、夜中に目覚め、またyoutubeをみていると、スポンジを使う方法を見つけた。

 職人さんた達と一緒に作業をしていると、隅っこの作業の仕方を年配の大工さんが教えてくださった。

「ハガキ寸の厚紙を置き添わせて塗ればいい。」とか、カッターの使い方(方向)を教えてもらい地獄に仏であった。

その後ボツボツと一人で台所用スポンジで一から塗りなおした結果、どうにかごまかし大工さんから

「初め見た時 びっくりしたがまあ~どうにか落ち着いたね。」と言われた。

 体力の落ちていた母が3階に上がる事が出来ずやっと目にした11月には幸いスポンジでほぼ出来上がった処だったので文句が出なかった。

それで障子の張替えは自分でしようと思ってたがもうその気力は無く襖と共に業者に頼み、暇な時間にボツボツと掃除をした。長年の汚れと埃は結構手ごわく、台所は換気扇の掃除やパッキンの張替えと予想以上に手が掛かり、あちこちの建具の傷みも出来る範囲は千恵さんと二人で行い、後は大工さんにお頼みした。

杜撰な仕上がりであったが時間を拘束したので 隣には支払いをした。それでかどうかは知らないが、年末の大掃除は外回りを全部してもらった。

 今では笑い話ではあるが、やはり専門職は違います。それなりの知識と腕を持っておられます。

次回からはもうお任せです。職人さんは偉い。 でも私こういう仕事好き。

 

 

 

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隣の同級生1 中国から帰国しました

2020-04-19 16:28:40 | 日々のつぶやき

 今年はコロナの影響で気分が沈む。

そして冬はいつもより暖かく桜の季節になり花冷えというのだろうか肌寒く、季節がどちらに向いて言行っているのか分からなくなくなりそうになっている。時折どこかから流れてくる桜の花びらでまだ散りきってないのが分かるくらいだ。

 さて本題 中国でコロナが騒がれだした頃、隣の同級生はおばさんの1周忌を済ませ1月26日の朝、 春節で休みになった子供と嫁さんに会うために中国へ行った。

それまでみんなでしきりに止めたが妻子に会いたく聞く耳を持たず、

「14億からしたら大した人数ではないわ。」と言い、大方の人がキャンセルしたガラガラの飛行機で上海へ出かけて行った。

始発便に乗るため駅まで見送り、帰国しても2週間は来ないように伝えた。

 その後、私たちは彼は帰国できないだろう、どうしているのかなと心配していたが、1か月近く経った2月23日の夜帰国を知らせて来た。団体客だけ入国を止め、まだ個人は入国していて四国の空港は運休になっていたが関空は動いていたのを知らなかった。

「どっちの家にいる?」

「え!!どこにいるの?」

「帰ったぜ、お土産わたしたいから 今から行くわ」と電話の声、母と私は焦りまくり超高齢で持病がたくさんある母は必死だった。

「土産!いらん、いらん、来るな、来るな、来たらいけんで~」と二人の大合唱…。

「土産はこっちで買ったんだけど」というが、この場合頂けない。

「中国は検疫がきつかったけど、こっちはなんもない…。関空からの方がぎゅうぎゅうで若い子がマスクもせず、咳をして怖かったわ…」というがこっちも怖い。

やんわりとお気持ちだけいただくわと言えば良かったものの あとの祭りである。

その後落ち着いてから、

「さっきはご免」と電話したものの、預かった鍵、郵便物の請求があり家の前に電話して置いて帰ったが、ばい菌扱いされたと思ったらしく、毎日来ていたのが2週間経っても来なくなった。

 

存在を示しているのはゴミの日に出ているごみのみでチラッと見かけると引きこもっていたので痩せて眼ばかりぎょろぎょろしていたが、最近は普通に生活しているので以前の姿になっているみたいだが、まだ気分はなおっていないらしい。

 

 

 

駅まで送って

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薬には気を付けましょう3 弱り目に祟り目

2020-02-10 00:16:53 | 日々のつぶやき

 一時期はどうすることもできず落ち込んでいたが、電話での受け答えがおかしく母の異変に気付いた大阪の叔母が、口当たりの良い一流ホテルのポタージュスープの詰め合わせを送ってくれたことから汁物を多くして、麺類も具沢山にして少し軟らかめにして口に合うようにしていったことで何とか乗り切り、 日が経つ毎に徐々に回復していき、食も少し増していった。

しかし、なかなか頭の百会の鋭い痛みは治まらず さてどうしてよいものかと思案していると、マドモアゼル愛先生Youtubeに懐中電灯を2本左右からスポットライトのように重ねて照らしゼロポイントにしてエネルギーを発生させるというのを見て、半信半疑で行ったところ左足からえぐい痛みとしびれが出るのを感じた。10分余り9月の下旬から12月頃まで日に1,2度することで最近はあまり痛みを訴えなくなった。ありがたいことである、どこかでそうやって必要な事は教えていただける。。。感謝です。

それにはシミにも効果があるというので母は喜んで試すと、シミの部分がカサカサになり、幾度か剥げて本当に薄くなった。

この薬のせいで健康な歯が抜けたため、4本根っこだけ残った歯を抜歯して入れ歯を作る事になったが、自分で歩いて通っていた病院へも送り迎えをしないといけなくなった。筋肉が落ち脚力が弱りこの1か月の間2度転び、2度目は頭を打ったためまた、脳外へ診察に行った。

幸い異常はなかったが数日経ち、打って内出血した額ではなく後頭部に痛みが出た。脳震盪を起こしたみたいだった。

それも1週間ほどで消えたが、抜歯も2本抜いたところで延期となった。

母は9月の末診察に行き薬のことを訴えたが、医者は知ってか知らずか

「そんな人は一人もいません。 あなただけです。」と言ったそうで、また他の薬を出そうとしたが」母が強固に拒否することで諦めたと言う。

その帰り、遠縁のものと出会った。その人の妹さんの主治医同じで薬を1ケ月飲み続けて食事をうけつけなくなり8月から入院中だと聞いてきた。まだ60歳代である。

その人はその後12月に娘さんのいる東京の大学病院へ移られたが、他にもこの薬だけに限ったことで無く、あちこちで数人の人から薬のせいで亡くなったという話を耳にした。

先日、医者である友人に

「なぜ、こんな薬を出すのかしらわかってるのかしら」と聞くと、

「上からプッシュされるのよ。」と言った。

やっぱりね。高齢者は体よく始末されるのかな…、人口削減はこうやって見えぬようにされるのかしらと思う。不整脈の薬で働き者だった叔母は痴ほうになり、母もなりかけ、考え事をすると頭が痛くなり、何もできなかったし、その意欲も失せていた。

私は薬もサプリメントも一切飲んでいない。血圧も昔のように年齢プラス90の範囲であればよいと思っているが、歯医者だけは半年に1度にクリーニングに行く。

健康診断も5年前まで毎年受けたが、引っかかることもなく今は受ける気がしなくなりやめたが、支障はない。

毎晩ビールを飲み 好きなものを自分で作りほぼ1日2食の生活をしてほぼ5時間くらいの睡眠であるが健康なほうである。

 

 

 

 

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薬には気を付けましょう2

2020-01-29 21:35:59 | 日々のつぶやき

 前回薬の副作用の事を書いたが 肝臓や心臓の値はわからないが、ほとんどの症状が出ていた。

すぐに服用は止めたものの、副作用は数か月間でた。

食欲不振と便秘、下痢、軟便、吐き気を繰り返し口に入れるものに苦労していたが原因が分かり食事を作る者として少し安堵したものの、現状は変わらず翌日 近くの病院へ点滴に連れて行った。

しかし、50メートルぐらいしかない距離でも 健脚自慢だった母は一人では歩くことが出来なかった。

 点滴にも通うことにしたが 口からとる方が良いという事で経腸栄養剤をもらって帰宅した。

そのまた翌日の火曜日 歯医者に連れて行きそのまま帰宅しようとすると歯科の前にある胃腸科で薬を貰うという。その後、眼科へ行くと言い、商店街のアーケードまで行くと子供服屋へ行きひ孫の服を買うというので又、車を回した。

 ベビー服店では座っているのもままならず、だらしそうに壁にもたれてうなだれていた。その頭を見てハッとした。掃除をする度白髪の抜毛が最近多く気になっていたが髪の毛が太く多かった母の頭の地肌が見えていた。

よほどキツイ薬なのだろう、四谷怪談のお岩さんのように髪の毛が抜け、母は口腔洗浄機で口の中を濯いでいたのに、歯もガタガタになってしまった。

 誘った母は私に数点選ばせてその店を出たが、顔なじみの店主は母の変わりように驚いていた。

その後眼科のあるアーケード街まで行ったが、2,3件内側の眼科が分からなくなっていた。指を差し教えて昼休み近くなるので、千恵さんを帰らさねばならないので気になりながら急いで帰宅した。

慌てて店を閉めて迎えに出かけようと外へ出ると、近所の人に抱えられてヨタヨタと歩いてくるのが見えた。

その人は

「おばちゃんが倒れそうで危なかったけん…。」と言われた。

母は家に入るなり廊下に倒れただしんどいとつぶやく。慌てて血圧を測るが正常値の範囲だったのでしばらく休ませて又、点滴に連れて行った。

参ったのはこの数日間の記憶が無くなっていた事だった。

 胃薬が無いというという。

「前日、歯医者の帰りに貰いに一緒に行ったでしょ。」と言っても、覚えてなく、又整理した薬箱には無く、探し回わってごみ箱から空の胃腸科の袋を見つけ見せると気付く有様で、他の事は全く覚えていなかった。

 ご飯は柔らかく、お肉はミンチかロースの薄切りしか使えず、葉物野菜は噛み切れない言い、お豆腐料理は嫌いだと拒否され、夕張メロンより安価で熟していた熊本メロンを食べさせると熟しすぎていたのでお腹がくだると文句を言われ続け困り果てた。

8月の末、余りにも文句が多いので私ももう手に余り、それならば、薬が抜けるまで点滴に通っている近くの病院へ入院して食事療法をするしかないと母に言うと、今度は泣いて拒否された。

薬と分かっていながら、当たらずにはおれなかったのかもしれないが、私も母のベッドを直していた時にぎっくり腰を起こし、この2,3か月のストレスで心身共に限界を感じていた。

妹は4年前に肺がんと決めつけられ 過呼吸を起こし、心療内科へ行きこれまたきつい薬を渡され その後診療内科を転々として、減薬をしだしたもののまだ、いつもの彼女の状態ではなく あてにできなかった。

 

 

 

 

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