彼女は古い友人。
オーストリアの山の方の出身だそうだ。 日本のどっかの名門大学で博士号の勉強してたそうですが、教授と合わない ETCの問題があって、博士論文提出する前に、「結婚」という逃げ道をゲットし、日本脱出したそうっす。大昔の話ですが。
ブロンドで長身、ナイスバディのバービー人形みたいな彼女。非常に優秀でございます。私の数少ない友人。そして、知識豊富な人でございます。
その彼女はこの都市のバブルが頂点に達する前に、政府系の役所のトップだったコネと財力で、後に大化けする不動産をいくつか買い込んでいた。ラッキー、な人である。バブルの頂点と伴に彼女の購入した不動産は大化け。バブル崩壊後も、立地が非常に良かったため、値崩れするどころか、値上がりを続けているのである。
不動産は賃貸に回し、最高の人気の場所のため、テナントが切れる事もなく、高額で賃貸に出していたので、あっという間にローンを終えていた。確か、不動産収入が月に数百万あるはずである。
不動産収入が安定化するころ、彼女はオーストリアから痴呆の始まった母親を呼び寄せた。理由は温かい(つうか、暑い)気候と、通年プールで泳げるから、だそうで。その後、さらに物価の安い&介護の人を数人雇って24時間看護できるタイに越していった。
母親の痴呆は進み、彼女は不動産収入で暮らし、年に数回、彼女の大好きなバックパッカーに変身して世界の僻地を廻るのを趣味としていた。 私と年が変わらないのだが、よくもまあ、貧乏旅行なんかできるもんだ、と話を聞くたびに感心していた。
そんなミリオネラーな彼女は、大変、ケチである(爆)ので、ほぼお金を使わないバックパックが性に合ってるのだろう。細身の彼女は、食べる事にも全く関心が無く、旅先では宿(ホテルには泊まらない)の朝食を袋に入れて持ち歩き、それで1日間に合わせるような人だ。ケチ、つうかお金を使わないのである。
ミリオネラーになる前からケチだったので、お金持ちになった以降も、全く、変化はなかった。私も貧富の差で友人を選ばないし、他人がどんだけ財産があるか、なんて大した興味も無いので、友人関係も変わらず、であった。
彼女はチコ母の古い友人なため、私が彼女に会うのは、決まってチコ母宅であった。タイに越してからは、6か月毎、彼女が僻地に旅行に行く際に、ここを通過するので、そのたびに会っていた。私は彼女の冷静さと深い知識に触れるのが好きだったのである。
会うのは決まってチコ母宅。 私が料理してみんなで食卓を囲んでいたのであった。
彼女の母親は90才近くになり、痴呆も一層、進んでいると言っていた。母親は随分前から時間の概念が無く、彼女が旅行で留守にして1か月ぶりに母親に再開しても、1か月、という概念が無いそうだ。過去は全部忘れちゃうので、彼女がいつ旅に出たかもわかってないのだ。
ただ、これが母親の人生で一番聞きたかった言葉だったらしく、毎日毎日、何度もDo You Love Me? って聞いてくるんだそうだ。Oh, Yes!I Love You!!と答えると、母親は幼女のように喜び、それで1日中、ニコニコしてるんだそうだ。
彼女が育つ過程での母親は、教員をしていて、物凄く厳しかったそうだ。私は母親の痴呆が軽い頃、夕食を作ってご馳走したことがあるが、年老いても、とにかくキレイな人だった。
キレイでちやほやされていた母親は、なぜか堅物の男と結婚し、I Love You!!の言葉を聞けない生活だったそうだ。これは娘である友人の分析であるが。そのフラストレーションが、母親をとにかく厳しい母親にしてしまったのではないか、と言っていた。
幼少の頃から、「あれが食べたい!」とか「要求」する事はご法度。母親が作ったものを黙って残さず食べる、食べた後は団らんなんかせずに部屋に戻って勉強する、というのが日課だったそうです。そういうのが遠因で、食べる事に抵抗を持ってしまったのではないか、と友人は言っていた。
そんな母親は、全く笑顔を見せた事がなかったそうだ。厳しくて、いつも怖がっていたそうで。28才で日本に留学して屈折していた頃、古い友人の米国人に求婚された際、これで母親の呪縛と、嫌な日本から逃れられる!ってんで、速攻で結婚を承諾したのだそうだ。
そんな結婚は3年も続かなったそうだ。嘆く夫を尻目に、強引に離婚したそうです。ちなみに結婚相手の米国人は、長身で成功していて、大企業のキャリアの階段を順調に登りつつあり、優しくてダンスが上手で、誰もが夢見るアメリカ人の夫、そのもんだった、とチコ母が回顧していた。チコ母いわく、旦那だった人は、ほんとに性格も良い人で、友人から離婚が決まった、と告げられた時、「なんであんないい人を捨てるの?」とチコ母は泣いたそうです。
賢い友人は、自分の人生の「忘れ物」が母親との関係にある、と気が付き、全く良い思い出はなかったそうだが、それで人生を終えるのを拒否し、痴呆の始まった母親の看護を開始したのでる。記憶が薄れると共に、母親は毎日、幸せそうにニコニコしてるそうだ。そうはいっても90才近い母親は衰弱してきているので、ほぼ、寝たきりだそうで。
友人は母親を看取ったら、自分の人生を始めると言っていた。それは、僻地バックパックの旅、であった。
⒉年前は、食べる事に感心無いけど、これなら食べれる、つうんで、タイから「こぶみかんの葉」をいっぱい持ってきて食べていた。 ちょーっと、それって、青虫じゃないんだから、おかしいよー!って私は言ったけど。 友人は自分の拒食症に気が付いていたし、元気に走れる体力もあったので、気にもとめなかったそうだ。
6か月前、いつものようにチコ母宅で会う。食べる事が苦手な友人は、当然、痩せ気味。なぜか全身に昔のエイズ患者のような大きな斑点ができていた。友人いわく、ヘモグロビンが足りてないとかで、医者から肉食を勧められたと言っていた。彼女は長いこと菜食主義であった。
チコ母は、アユールベーダ医師を紹介したり、その医師に卵とトマトを禁止されたりしていた。体調は完全でなかったにせよ、彼女はウズベキスタンかどっかに3週間旅行に行き、とても感動した話をしてくれた。10月の初頭、だったような気がする。
私は⒑月の後半から、12月に足を骨折するまで、訳あってチコ母には会わなかった。友人とは普段は連絡を取らない。微妙な時差もあるので、スカイプもしなかった。
しばらくぶりに会うチコ母から聞かされた。チコ母は質問せずに黙って聞け、と言ってきた。自分も昨日知ったので、詳細は知らないから、と。
友人はステージ4の大腸がんである、と。
手術して腫瘍は取り除いた、と。現在、人口肛門になっている、と。12月のクリスマス前に、オーストリアに帰る。その際、ここに2泊すると。チコ母はKLにクリスマス休暇で出かけていないので、滞在中のケアをよろしく頼む、そういう事だった。
そういう事だったのか。
エイズ患者みたいじゃない、と笑ったあの斑点も、こぶみかんの葉っぱをかじっていたのも、僻地旅行中に全く食べ物を受け付けなかったのも、みんな、これが原因だったのである。
そんな友人がやってきた。予想したみたいに衰弱してはいなかったけど。さすがに手術後、4週間、元気はなかった。当然、いつものシャープさもなく、弱弱しく語ってくれた。
私はもっと生きたい、と涙を流す友人に、言葉が無かった。ステージ4が何を意味するのかは、彼女が一番良く知っているはずだ。
アフリカ大陸のバックパックが好きで、良く長期のアフリカ旅行に行っていた友人。最近は、旧ソ連領を中心に旅行していた。 インドは避けている、とずっと言っていた。理由は特に無い、と。
彼女の細くなった手をさすりながら、私は言った。
ねえ。これからたくさんの事が待ってると思うけど。いろんな処理をしなきゃならなくて大変かと思うけど。過ぎた事はいいの。今を考えようよ。
この病気もきっと、いい面があるはず。何かを教えてくれるはず。絶対、そうだよ。
新しいバーブラになるために。転換となるデキゴトなんだよ、きっと。
ねえ、覚えておいて。体調が良くなったら、一緒にインドに行こうよ。
インド、いいよ。私はインド旅行中、時折あなたの事を考えていた。インドは避けてる、って言ってた事を。
新しいバーブラは、封印していたインドに行くんだよ。
新しいバーブラは新しい事にチャレンジするんだよ、きっと。一緒に、インドへ行こう。
ねえ、これ、覚えておいてね。
オーストリアの山の方の出身だそうだ。 日本のどっかの名門大学で博士号の勉強してたそうですが、教授と合わない ETCの問題があって、博士論文提出する前に、「結婚」という逃げ道をゲットし、日本脱出したそうっす。大昔の話ですが。
ブロンドで長身、ナイスバディのバービー人形みたいな彼女。非常に優秀でございます。私の数少ない友人。そして、知識豊富な人でございます。
その彼女はこの都市のバブルが頂点に達する前に、政府系の役所のトップだったコネと財力で、後に大化けする不動産をいくつか買い込んでいた。ラッキー、な人である。バブルの頂点と伴に彼女の購入した不動産は大化け。バブル崩壊後も、立地が非常に良かったため、値崩れするどころか、値上がりを続けているのである。
不動産は賃貸に回し、最高の人気の場所のため、テナントが切れる事もなく、高額で賃貸に出していたので、あっという間にローンを終えていた。確か、不動産収入が月に数百万あるはずである。
不動産収入が安定化するころ、彼女はオーストリアから痴呆の始まった母親を呼び寄せた。理由は温かい(つうか、暑い)気候と、通年プールで泳げるから、だそうで。その後、さらに物価の安い&介護の人を数人雇って24時間看護できるタイに越していった。
母親の痴呆は進み、彼女は不動産収入で暮らし、年に数回、彼女の大好きなバックパッカーに変身して世界の僻地を廻るのを趣味としていた。 私と年が変わらないのだが、よくもまあ、貧乏旅行なんかできるもんだ、と話を聞くたびに感心していた。
そんなミリオネラーな彼女は、大変、ケチである(爆)ので、ほぼお金を使わないバックパックが性に合ってるのだろう。細身の彼女は、食べる事にも全く関心が無く、旅先では宿(ホテルには泊まらない)の朝食を袋に入れて持ち歩き、それで1日間に合わせるような人だ。ケチ、つうかお金を使わないのである。
ミリオネラーになる前からケチだったので、お金持ちになった以降も、全く、変化はなかった。私も貧富の差で友人を選ばないし、他人がどんだけ財産があるか、なんて大した興味も無いので、友人関係も変わらず、であった。
彼女はチコ母の古い友人なため、私が彼女に会うのは、決まってチコ母宅であった。タイに越してからは、6か月毎、彼女が僻地に旅行に行く際に、ここを通過するので、そのたびに会っていた。私は彼女の冷静さと深い知識に触れるのが好きだったのである。
会うのは決まってチコ母宅。 私が料理してみんなで食卓を囲んでいたのであった。
彼女の母親は90才近くになり、痴呆も一層、進んでいると言っていた。母親は随分前から時間の概念が無く、彼女が旅行で留守にして1か月ぶりに母親に再開しても、1か月、という概念が無いそうだ。過去は全部忘れちゃうので、彼女がいつ旅に出たかもわかってないのだ。
ただ、これが母親の人生で一番聞きたかった言葉だったらしく、毎日毎日、何度もDo You Love Me? って聞いてくるんだそうだ。Oh, Yes!I Love You!!と答えると、母親は幼女のように喜び、それで1日中、ニコニコしてるんだそうだ。
彼女が育つ過程での母親は、教員をしていて、物凄く厳しかったそうだ。私は母親の痴呆が軽い頃、夕食を作ってご馳走したことがあるが、年老いても、とにかくキレイな人だった。
キレイでちやほやされていた母親は、なぜか堅物の男と結婚し、I Love You!!の言葉を聞けない生活だったそうだ。これは娘である友人の分析であるが。そのフラストレーションが、母親をとにかく厳しい母親にしてしまったのではないか、と言っていた。
幼少の頃から、「あれが食べたい!」とか「要求」する事はご法度。母親が作ったものを黙って残さず食べる、食べた後は団らんなんかせずに部屋に戻って勉強する、というのが日課だったそうです。そういうのが遠因で、食べる事に抵抗を持ってしまったのではないか、と友人は言っていた。
そんな母親は、全く笑顔を見せた事がなかったそうだ。厳しくて、いつも怖がっていたそうで。28才で日本に留学して屈折していた頃、古い友人の米国人に求婚された際、これで母親の呪縛と、嫌な日本から逃れられる!ってんで、速攻で結婚を承諾したのだそうだ。
そんな結婚は3年も続かなったそうだ。嘆く夫を尻目に、強引に離婚したそうです。ちなみに結婚相手の米国人は、長身で成功していて、大企業のキャリアの階段を順調に登りつつあり、優しくてダンスが上手で、誰もが夢見るアメリカ人の夫、そのもんだった、とチコ母が回顧していた。チコ母いわく、旦那だった人は、ほんとに性格も良い人で、友人から離婚が決まった、と告げられた時、「なんであんないい人を捨てるの?」とチコ母は泣いたそうです。
賢い友人は、自分の人生の「忘れ物」が母親との関係にある、と気が付き、全く良い思い出はなかったそうだが、それで人生を終えるのを拒否し、痴呆の始まった母親の看護を開始したのでる。記憶が薄れると共に、母親は毎日、幸せそうにニコニコしてるそうだ。そうはいっても90才近い母親は衰弱してきているので、ほぼ、寝たきりだそうで。
友人は母親を看取ったら、自分の人生を始めると言っていた。それは、僻地バックパックの旅、であった。
⒉年前は、食べる事に感心無いけど、これなら食べれる、つうんで、タイから「こぶみかんの葉」をいっぱい持ってきて食べていた。 ちょーっと、それって、青虫じゃないんだから、おかしいよー!って私は言ったけど。 友人は自分の拒食症に気が付いていたし、元気に走れる体力もあったので、気にもとめなかったそうだ。
6か月前、いつものようにチコ母宅で会う。食べる事が苦手な友人は、当然、痩せ気味。なぜか全身に昔のエイズ患者のような大きな斑点ができていた。友人いわく、ヘモグロビンが足りてないとかで、医者から肉食を勧められたと言っていた。彼女は長いこと菜食主義であった。
チコ母は、アユールベーダ医師を紹介したり、その医師に卵とトマトを禁止されたりしていた。体調は完全でなかったにせよ、彼女はウズベキスタンかどっかに3週間旅行に行き、とても感動した話をしてくれた。10月の初頭、だったような気がする。
私は⒑月の後半から、12月に足を骨折するまで、訳あってチコ母には会わなかった。友人とは普段は連絡を取らない。微妙な時差もあるので、スカイプもしなかった。
しばらくぶりに会うチコ母から聞かされた。チコ母は質問せずに黙って聞け、と言ってきた。自分も昨日知ったので、詳細は知らないから、と。
友人はステージ4の大腸がんである、と。
手術して腫瘍は取り除いた、と。現在、人口肛門になっている、と。12月のクリスマス前に、オーストリアに帰る。その際、ここに2泊すると。チコ母はKLにクリスマス休暇で出かけていないので、滞在中のケアをよろしく頼む、そういう事だった。
そういう事だったのか。
エイズ患者みたいじゃない、と笑ったあの斑点も、こぶみかんの葉っぱをかじっていたのも、僻地旅行中に全く食べ物を受け付けなかったのも、みんな、これが原因だったのである。
そんな友人がやってきた。予想したみたいに衰弱してはいなかったけど。さすがに手術後、4週間、元気はなかった。当然、いつものシャープさもなく、弱弱しく語ってくれた。
私はもっと生きたい、と涙を流す友人に、言葉が無かった。ステージ4が何を意味するのかは、彼女が一番良く知っているはずだ。
アフリカ大陸のバックパックが好きで、良く長期のアフリカ旅行に行っていた友人。最近は、旧ソ連領を中心に旅行していた。 インドは避けている、とずっと言っていた。理由は特に無い、と。
彼女の細くなった手をさすりながら、私は言った。
ねえ。これからたくさんの事が待ってると思うけど。いろんな処理をしなきゃならなくて大変かと思うけど。過ぎた事はいいの。今を考えようよ。
この病気もきっと、いい面があるはず。何かを教えてくれるはず。絶対、そうだよ。
新しいバーブラになるために。転換となるデキゴトなんだよ、きっと。
ねえ、覚えておいて。体調が良くなったら、一緒にインドに行こうよ。
インド、いいよ。私はインド旅行中、時折あなたの事を考えていた。インドは避けてる、って言ってた事を。
新しいバーブラは、封印していたインドに行くんだよ。
新しいバーブラは新しい事にチャレンジするんだよ、きっと。一緒に、インドへ行こう。
ねえ、これ、覚えておいてね。