宇宙の秩序に調和しながらの煩悩達成日記

自己実現。そうです、願望実現を通して、自己をさらに深く知ってみようという実験の日記ざます!

人は変化し続け、体験は続く。2006年は大きな転換期?だったかな。

2006-12-20 22:30:16 | 瞑想にまつわる能書き
さて、少し早い気もするが、これが本年最後の書き込みなので、総括でもしてみよう。

◆2006年!なんか結構いい年だったかも~??◆
というか、あまり悪い事も、極端にイイ事も、存在しないと思ってるので、そういう結果を導き出したのだろうと思う。

一番の変化は「周りの人々の顔ぶれ」である。
あまり「好き!」って思えない人とは自然と疎遠になった。

どっかのブログで「シーズン(季節)とリーズン(理由)」というエッセイを読んだ。
いわく、人には誰かと関係を持つ、「季節(時期、タイミング)」と「理由」がある、そんなエッセイ。
だから誰かが離れていったとしても、それは季節が変ったためであり、その人と出会って「交換」する作業を終えた、つまり、出会った理由をまっとうした、という事なのだと。

恋愛においての別れでも、家族とのこの世的な別れでも、みんな、シーズンとリーズンがあって出会う、と。出会うからには、別れは当然、セットになってやってくると。

非常にナルホドと思って、かつて、とても親しくしていて、でも、最近、なんか波長が違うのよね、と思った人に転送した。
そしたら、それっきり連絡が来なくなりました(笑)

私が思ってたと同じように、その人もも「なんか、違うなぁ」を感じていた、って事なんでしょう。

今年はチベット密教本との出会い、ケン・ウィルバーの本との出会いが特筆すべき事だったと思う。
これが、多分、私が楽しく進める「方向性」だと思う。

ヨガをして、玄米食ベジタリアンで、能書きの本を読んで(笑)友達と呼べる人は極少数(笑)それが私の日常。

あれこれするのが好きだ。
だから、それにまつわる能書きも大好きだ(笑)
最近気に入っていて、そして、今年一番実感できたのは、「共鳴・同調」である。
これは人間相手にも、動植物にでも、何にでも応用できる。
多分、人は全ての創造物と「共鳴、同調」可能である。そして、それができれば、自分の事と同じように、相手(対象)のことも理解可能、だと思う。

と思うようになってから、占いに対する関心度合いが減った(笑)

さて、2006年。私は長きに及んで追求していた願望(笑)に手が届いた、ような気がしたが、ここまで来て、この願望は願望で無かった事に気がついた。
この願望への情熱が、私をいろんな世界へ連れていってくれたのである。
まさに、シーズン、リーズン、そのものである。

私の願望って。。。。「結婚」(爆)
来年、多分、結婚?するかな。 予想もつかない相手と(笑) 

これは私が実感し、人生の王道ではないか(笑)と思う事なんで、独身の皆様には、是非、心にとめておいて頂きたいのですが。
結婚してシアワセになる、ではなくて、

シアワセな私が結婚する。

ですよ!お間違えなくね!(笑) まずは、自分一人でハッピーになる。自分を満足させる、自分を好きになる、自分をありのまま受け入れる、自分を信頼する。。。。
いっぱいあるな(笑)
なんでもいいから、一個、実践してみると、多分、世界があなたに微笑んでいるのを実感できると思う^^。

まずはシアワセになってみる。そして結婚したかったらしてみればいいのだ(笑)
人はひとり生まれてきて、そして、ひとりで死んでいく。これは基本ですね。
そのA地点(誕生)からB地点(死)までの旅路に、いろんなおもんが落っこちてるのが人生なのかも知れませんね。
落っこちてるものは、ひとそれぞれ。
ですが、A地点、B地点は平等に、存在しますね。

なんか、まとまりがないですが、2006年、結構、変化もあって楽しかった。
いや、楽しかったというより、格段にラクになった(笑)が正しい表現かもです。
自分を知る旅、ってのはなかなか味わいも深いものです。

自分を知る、それが宇宙を知る鍵かも知れません。

という事で、どちら様にも良いお年を^^



映画アポカリプト、Men Of the Honorからのメッセージは??

2006-12-18 22:08:22 | 瞑想にまつわる能書き
たて続けに映画を観た。って、まあ、娯楽は映画、多いけど。今週、「うわあ!」と思う映画に遭遇。
まずは、土曜日、TVの映画チャンネルで、ロバート・デニーロの「Man Of the Honor」という実話を元にしたというハリウッド映画。
1950年代のネイビーが舞台。主人公は初の米海軍初の黒人ダイバーとなった人のお話。

ありがちなストーリーで、差別や困難に耐えていくのだけど、ありがちなストーリーをデ・ニーロの演技力が、素晴らしい感動の巨編に仕立て上げていた。 そういう時代、黒人と白人の差別は激しいものがあったのであろうが、主人公カールは、それを克服していく。そして、『夢』である、海軍の名誉あるマスター・ダイバーになる事に向けて進んでいく。
カール自身の努力も去る事ながら、デ・ニーロ演じる上官のサポートも、夢の実現に多大なる貢献であった。

カールの夢は、かつて名ダイバーでマスター・ダイバーであった上官のサンデー(デ・ニーロ)の心をも揺り動かす。サンデーのサポート無しには、彼の夢は達成できなったであろう。 そして映画に出てくるエリートのイヤーな海軍上司。士官学校出のエリートなので、サンデーやカールより若いが、上司なんである。この上司はレイシストで、黒人のカールが目障りでならない。なので、因縁をつけ軍から追い払おうとするのだが・・・・。
この因縁が凄い。どう考えても不可能!な条件を出し、それをクリアしないと肉体的限界という事でダイビング不能と決定しようという魂胆。カールは事故で片足を失っている。
そして必死のトレーニングが続く。 諦めない、諦めない、、、というより、何かに憑依されたようにトレーニングに没頭していくのであった。

その過酷な試練の課程が、演技力で見事にハートを揺さぶるのだ(笑) 映画の中でのタイムリミットは4週間。4週間後の体力測定に合格しなければ、マスター・ダイバーへの道はそこで閉ざされてしまうのだ。
いやー、素晴らしいシーンの連続であった。 一緒に観ていた友人は、ここ4週間、ダイエットに取組み、毎日のウォーキングと食事療法で7キロ落とした。その彼女は、「いやー、これ(映画)に比較したら、4週間で10キロダイエットなんて、何でもないよね~。」と感心していた。
映画の魔法か何か、主人公の一心不乱に何かに打ち込む姿を見ると、自分も何かしたくなるよねー、と友人と笑った。「明日、私は7時間くらい歩きたい気分よ。」

憎たらしい役のエリート上司も、最終的には主人公の頑張りに納得せざるを得ない。悪役は悪役らしく、とーってもヤーな態度でイジワルであった。しかし思ったね。こういうイジワルでヤーな野郎も、主人公の成功に一役買ってるな、と。 このイジワル、映画では理不尽な人種差別なのだけど、そういうのが起爆剤になって、最高の能力を発揮できる場合も往々にしてあるのでは、と思った。

私のあまり好きではない言葉(笑)、「アナタの苦手でキライな人があなたの最高の師であります。」(爆)も、一理あるなと思った次第です。 そして、諦めないこと。諦めないで目標に向って歩みを続けていけば、必ず、サポートは現われる。
それは、イジワルな上司として、苦手な隣人として登場するかも知れない。
でも。
一度設定した目標が、「わたしのミッション」に適応していれば、どんな逆境も乗り越えるパワーが沸いてくるのでは、と思う。パワーだけでなく、サポートもタイミング良く現われるであろう。それくらい、人というのは誰しも期待値、可能性を持ち合わせているのである。

「自分を知る」ことがとても重要なのである。
多分、自分を知る事無しに他人を知る事も無い。
自分を大切にしない人は、他人を大切に出来ない。
自分に愛を向けない人は、人に愛を与える事もしない。

まずは、自分からだ(笑)

自分の中に、そういう性質、愛、思いやり、情熱、許し、慈愛・・・・を育てていく。そうすれば、周りの世界は、自分の内面に比例して変化していくと思うのだ。それが宇宙の法則ではないか。
自分の中に無いものは、自分の周りにも発見できない。
究極には、自分と自分でないもの(外側)との境界って無い(らしい)。
自分とはミニチュアサイズの宇宙そのものなのだ。
自分サイズの宇宙と無限大の宇宙は呼応しあっている(らしい)。
自分の中に無いものは、当然、自分を含む外側の世界にも存在しない(らしい)。

そこで、例えば、私は「こんなに親切なのに、人は私に親切ではない!」というジレンマが発生する。(笑)
「効果、結果、それによるOut come」を期待するうちは、なんちゅうか、効果は無いと思うのだ。
例で言えば「親切」は自分の思う親切であって、相手は望んでいない場合もあったりするし。

正しい(笑。ホントはコレも無いんだけど)言葉の使い方は、「私はこんなに私自身に親切にしています。」が正しいのでは、と思う。このセンテンスの後に、「なのに、私ったら、反応してくれません。」という愚痴、小言は続かない、よーな気がする。
そう。人にどれだけ親切にしたって、優しくしたって、結果を望んでいては、結局、つまらないカルマを一つ増やすだけである。無為。そんな心境で行為するって・・・・・なかなか出来ないよな(笑)
でも、自分になら、できるかな?というような気がしている。
自分が喜ぶかどうかは分らない。でも、私は私を大切にしたいから、大切に扱うのだ。(笑)と。
ま、「私は私にこんなに親切にしてるのに、親切が還ってこない!」と愚痴る人はいません(笑)
つまるところ、与える対象が「外側」(ここでは他人)に向いてる限り、それは、「分離した状態」にフォーカスしているため、いつまで経っても、満たされる事はないような気がする。

あなたを愛するように隣人を愛せ。

この有名な言葉は薀蓄が深い。 まずは「自分を愛して」それから隣人。 まずは隣人を愛せよ、なーんて言っていない(笑) 
まずは、自分を愛する。そこが全ての始まりである、と私は思うのである。


そして、メル・ギブソンの新作「アポカリプト」
マヤ文明末期のお話。原住民達はマヤ語で会話し、なんか文章(英語)にすると、非常に短い。ので、言葉よりビジュアルでハートに響く映画かな、と思った。
古代人、、ってほどの昔の話でも無いよね。 スペイン人だかポルトガル人が上陸する頃の話だから。
映画によると、人はとても原始的。殺戮を繰り返すのですが、なんせ、ジャングル原住民が主人公なので、武器といえば石器(笑)や、ヤリ、弓の類い。
戦闘シーンは、もう画面、血まみれ(涙)

アカデミーの声も高いそうですが、メル・ギブソンの前作、「パッション」も、血まみれ、、、つうか、見方によれば「残酷」なシーンの繰り返しだったなあ。メル・ギブソン、血が好きなのかな?(笑)
一方で、「残酷すぎる」という評もあるそうだが、私もそう思うよ~。
主人公のジャガーは、逃げ延びるために、ひたすらジャングルを走る。全編、走りまくり(笑) そういう意味でも凄い映画かも。

この原住民の酋長が殺戮される前に、息子であるジャガーに残した言葉。「Don't fear。」
酋長は、「怖れの念を持つと、怖れが忍び寄ってくる。」というような事を息子に話す。Law Of Attraction、引き寄せの法則、です。
ジャガーは怖れを排除し、勇気を持ってジャングルを逃げ延びていく。そして、宇宙のサポートとしか思えないような奇跡に助けられながら、村に接近していくのである。

私は怖れない。ジャガーはその言葉を勇気に変えて、ジャングルをひた走る。怖れてる場合ではないのだ(笑)

人にはいろんな怖れが心にはびこっている。
失う事への怖れ、が最もかな? 怖れる前に失ってみる(笑)というか手放してみると、案外、取るに足らない事だった、なんて事も多い。そういう事を、掃除が一番気ずかせてくれるような気がする。

世の中にはいろんなマジナイがある。そういうのを試してみてもそれなりに効果はあるのかも知れない。占いとかね。
が、私は結局、それは怖れがそんな行為を引き起こすのではないか、と思う。
自分を信頼できて、宇宙を信頼できて、いろんな事を手放す事ができたら、マジナイなんかしてチョビットばっかしの幸運を掴もう、とか思わないように思えてならない(笑)
だいたい、幸運、という概念がどうでも良くなっている。
豊かさ、を勝ち得たいとも思わない。
負け組みでも勝ち組でも、どちらでもいい。っていうか、所詮、どちらも同じ土俵(笑) 

友人が「占い師にアポ取った!」とか言っていたが(笑) それもイイ。それで満足するなら、セラピーの一環だと思う。
「あのさ、心配しなくても大丈夫。理由?無い(笑)」という私の金言(爆)は、あまりにも重みに欠け(笑)聞いてもらえなかった。

私は悩める全ての人に言いたい。
「大丈夫だよ。」 そうすると、『根拠は?』とか反論される。根拠なんか無いんだよな(笑) 大丈夫がアタリマエ。だから。
一見、不幸に見える出来事も、
気分の悪い環境も、
単に「自分の思い通りにならない」だけの話で(笑) それが、「世の中は思い通りにいかない」を知るレッスンで。
というか、自分自身の「思いの通り」ってのが、クセモノでエゴが化けてるだけとかね(笑) ながーい目で見ると、その思い、通らない方がいいので、通らないのだ!
まだまだ「自分」が限界だらけで、境界線が入り組んでる状態だと、矮小化した自己しか把握できない。
「こうすべきだ」という概念に束縛されまくり、で自由な自分自身を発揮できなかったりする。

私は長い時間をかけて、やっと、「大丈夫」な心境に至った(笑) これは到達ではなく、入り口だな~と思ったりする。
私が大丈夫なんだから、誰でも大丈夫(笑)と思う。

二つの映画は、同じようなメッセージを与えてくれた。
ホントにベストなタイミングでこういうのは、やってくる。


全てはココにあるって、本当かも??

2006-12-10 22:28:28 | 瞑想にまつわる能書き
日常。

出家したわけでもないので(笑)、私には「日常生活」があり、その中で生きている。
具体的に言えば、会社勤めをしながら少しばかりの(爆)収入を得て、その範囲の中で衣食住をまかない、暮らしている。
そういう生活を意図的に選んだわけではないが、結果、そうなっているのが事実である。

仕事は、どうでもいいような気持で(爆)気楽に取り組んでいる。
かつては、自分のプレゼンスを確立するために(心配性だったので、クビになるのでは?という恐怖がいつもあったのだ!!)、無料休日出勤を初め、いろんなサービスをしていたが、どうでもいいや、と思えるようになってから、自然とそういう行為はしなくなった(爆)

例えば、毎朝、始業1時間前くらいに行って仕事をしていた。私のボスはオフィスに到着するなり、一気に仕事モードに突入できたのである。
でもさ、そういうのも、自分のため?という動機ではなく、クビにならないようにプレゼンスを確立する、という「怖れ」を基本にした行為だったため、私の中で何か地殻変動が起きた時に、意図せず、自然とそういう行為がなくなった。
会社にも丁字にしか行かない。
最初は、私より先に着席しているボスを見て、罪悪感なんか感じていたけど、それもすぐ消滅し、なんとも思わなくなった。それどころか、ボスも私が早く来ないので、定時に出勤するようになった!(笑)
そうか、私に合わせて早く出勤していたのか?!(笑)

クビになったところで、それはそれ(笑) そしたら、必ず「クビになった」を経由しての道が開かれる。
結局は、どんな「デキゴト」も通過点に過ぎないのだ。 私がこの仕事をクビになったら、そら、多少困るかもですが、それで人生が終わる事はありえないもんね。なんだかんだと、その後も続くのである。
だから、その通過点のデキゴトで、あんまり一喜一憂しててもな、とか思うようになったら、とーっても気が楽になった。
人生は塞翁が馬、だと私は思う。良いも悪いも無いといえば無い。ただ、変化していくだけである。 幸運が訪れたとしても、その喜びは永久に持続しない。カナシミが訪れても、それも永遠ではない。いつか、消滅していくか、カタチを変えていくかする。それが世の中というものだ。
まあ、その一方で不変な何かも、同じに存在してるんだと思うけど。

さて、そんな日常。
まあ、世の中的には特別でもないし、フツーの一般市民な暮らしぶりであると思う。
これもまた、どこに視点をおくかで、随分、その意味が変ってくる。
例えば私は会社で辛酸を舐めている(爆)と思っていて、周りの、イワユル、日本的なエリートが大嫌いだった時期がある。「ふん。何をエラソーに!」と思っていた。
私は生活基準(住まいの家賃等。駐在員には会社が出してるんだけどね。)とか、会社での激しい賃金格差(私は現地採用)とか、それよりも何よりも、「ふん、日本人の中だけじゃん、威張れるのって。世界基準から見たら、あんたなんかプー!」と思ってる日本人駐在員から、同じ日本人でも、私だけ二級市民の扱いを受ける事で、もの凄く気分を害したものだ(笑)
私もホント、小物でございますね(爆)

そんな日常の中で、特別なエンライトメントに遭遇するとか、聖人や賢人が登場する!というイベントも無く、私の探求は相変わらず、遅々としながらも、模索が続いている。
ホントは、ピカーッと空が二つに割れて、、、、とかいう劇的なデキゴトでも起きたら刺激的なんでしょうが、全くそういうのもないです(笑) 残念ながら。

そんな小市民的(笑)に探求の道を辿る自分に「与えられたもの。」は、この「日常的生活」しかないのである。
普通に仕事をし、趣味のヨガにウツツを抜かし、週末には友人と会って映画を観たり、楽しい事をしてみたり。 趣味の読書も延々と続けて、もう、このジャンル飽きたなあ~と思っても、他に関心を寄せる分野が無いので、相変わらず能書き世界の本に沈殿している。

必要なものは、既に、「全て」与えられている。

有名な言葉だ。
人生に足りないものも、欠けてるものも無い!という、小市民をエンカレージ(激励、勇気づける)する言葉かしら?とずーーーっと思っていた。
だって~!私に与えられているもの、、って言っても、特別な才能も無いし、地味な、この単なる日常が『与えられている』?わけ? だったら、あんまり役に立たないよなあァ~^^
それに、仮に私が消滅しても、誰も困らないのではないか?とずっと思っていた。

地殻変動は静かに起きた。いつ、なんどきだったか記憶には無いけど。
私はこの地味な日常の中に、「凄いなあ!」と感じる事を発見し、私の問いへの「答え」を、ものの見事に発見しているのだ。劇的に、ではなく自然に、ゆるやかに。。。
ホント、必要なものは「全て今、ここにある。」ってーのを実感しているのだ。

そしてそれは、本から実感する事もあるけど、「周りの人」の人生から、という事がとても多い。人間って、そういう風に影響しあうように出来ているのかも知れない。

例えば、昨日、友人アントニオがマネージャー(実質責任者)をしているカフェ・レストランに夕食に行った。 高級住宅地に隠れ家のように存在するこのカフェは、インテリアにお金をかけてあり、大変居心地がよく、メニュもサラダ中心で、働く人々も若くてフレンドリーな人ばかりで、徐々に人気だそうだ。
アントニオは料理好き。正式な修行はしていないみたいだけど、私のように料理を作って人を驚かせたり、喜ばさせたりするのが好きな人なのだ。

彼は10ヶ月ほどまえ、とあるホテルのレストランマネージャーで採用されたけど、ホントはホテルビジネスの経験も無く、英語も堪能というわけではなかったため、既存の社員からイジメを受け(本人談)、イヤイヤながら仕事をしていた。
結局、数ヶ月もしないうちに、クビになってしまった。 彼はとてもショックを受けていたし、私たち友人もなんと言っていいやら、という感じであった。
その後、彼は就職せずに、好きな料理のケータリングを知人・友人ネットワークを使って始めていた。自宅でパーティする人の家に出向いて、そこのキッチンでパーティ料理を作るのである。
そんな事を数ヶ月しているうちに、彼の料理のセンスを評価する人が現われたのだ。それが、現カフェのオーナー。
アントニオは首になった時点で、凄くスネていたし、荒れてもいた。セルフエスティームも相当下がったと思われる。でも、結果として、あの「悪夢の解雇事件」は、自分のレストランを持つ、という夢への始まりだったわけである。
世の中、上手くできてるねえ~と、彼のレストランで嬉々として働く彼を見るたびに思う。そしてレストランのメニュには、アタクシが直伝した「牛のたたき」サラダがあります!!
もう少し先に、「ジャパニーズウィーク」を企画するから協力してね!というアントニオの申し出を、快く引き受けたのは言うまでも無い。

私はアントニオに起きた出来事を思うたび、「通過点」の一点だけで、全てを判断しても意味無いな、と思うようになった。良い事と悪い事は、結局、同じコインなのだ。裏だけのコインも無いし、表だけのコインも無いのである。
人はハッピーな時や、順調な時には「どうして?」と思う事はあまりないように思う。
思い通りにならなかった時に「なぜ?どうして?」という思いが沸いてくる。そして、このクエスチョンは、必ず回答が与えられるのだ。


またもや、友人。大好きな友人M。
先日、Mの車に同乗していた時、Mの勤務する大ホテルの敷地内であったが、Mは管理職だけど、クリーナーからどんな人にも声をかけるのだ。私の住む場所は、階級社会なので、普通、そんな光景は見ない。しかも職務階層が明確な職場である。
Mはそんな事は一向にお構いなしに声をかけていく。当然、みんな笑顔で応えている。

それを見て思った。
全員が管理職ではホテルは存在できない。
料理する人も、掃除する人も、客室の世話をする人も、全部、「必要」なのである。
その必要性に優劣は無い。「必要」があるだけだ。
そして、ホテルの社長と掃除のオバサンとで、人間的な格差も結局、無いのだ。カルマ的に観れば、幾度もの転生で、人はいろんな役を演じてるそうだから、今回は掃除婦、次回はバチカン法王かも知れない。

そう思えるようになってから、「理不尽な駐在員の私に対する態度」も、納得がいくようになった(笑) そういう「違い」の中で、人は何かを学んで「腑に落として」いくのである。体験、ってやつか。
そして体験には、「体験する、しない」があるだけで、「良い体験」「悪い体験」ってーのは存在しないのだ。良い悪いはあくまで、人間が自分の欲望や満足度を標準に決定しただけに過ぎないのだ。
そしてその欲望も一定ではなく、どんどん変わっていく。変っていくものを満たす事は出来ないと思うのだ。変っていくものを観察する事、で充分と思うのだ。

こうして、私の日常にも、なんと「お宝」が散りばめられているのだ、と思うようになったら、なんか、平安な気分で暮らせるようになりました^^