宇宙の秩序に調和しながらの煩悩達成日記

自己実現。そうです、願望実現を通して、自己をさらに深く知ってみようという実験の日記ざます!

遂に単独朝ヨガ実施!気持ちいい~!

2017-05-31 04:40:25 | 瞑想にまつわる能書き
ヨガを開始した頃、当時、毎日通ってたヨガクラスの素晴らしい先生、
シバクマール先生が言ってた。
「早朝、日の出の時間に太陽礼拝を12セットすれば、それで十分です。」
はぁ。。。12セット? 朝陽の登る時間に、ですかー?


ヨガにしろ何にしろ、私は教室に通わないとできないタイプだった。
いい加減な性格なので、エクスキューズが無限に出てくるのだ。
仮にヨガってみよう!と思い立ち、ヨガ着に着替えて、そこで他の用事を
始めたり、ヨガマットを床に広げても、床に座ってそのまま、寝ちゃうとか。。。
ひとりでヨガ、ってーのは、相当難しいのだ。
教室に行けば、終わるまで教室を脱走しない限り、1時間ヨガれるのだ。
そういうわけで、情熱が高まっていた頃は、せっせと教室に通っていたが、
自宅でヨガをする事は、全くなかった。


ここんとこ。
適当なヨガ教室が見つからないのと、仕事の時間との兼ね合いで、教室に
通えないため、チコ母とヨガをしている。
インドのヨガキャンプ1か月を経験したチコ母は、知識も技術も文句ない。
そうはいっても、なかなか時間が取れず、せいぜい、月に1回程度のヨガ、であった。

足の骨折後は、まったくヨガをする事もなかったのだ。
自転車に乗れるようになり、朝チャリ瞑想の途中で、ベンチで簡単なストレッチは
しているが、十分ではない。
先日、短い休暇を取り、チコ母宅でヨガった際、トライアングルポーズをしてる私の
写真をチコ母が撮影し、送ってくれた。



ぎょ!!!



なんてこった。
カラダの芯が曲がってる!(号泣)
それにずっとヨガってなかったため、蓮華座のポーズが全くできなかったのだ。
足首の柔軟性が衰えて、くるぶしが床に当って、痛くて座れないという初体験。
こりゃ、まずい。
何んとかしなくっちゃ。


そうこうしてるうちに、ラマダン突入。
富豪様は、朝の3時半に朝食をとられますゆえ、私は4時過ぎにチャリ瞑想に出かける。
あたりは、真っ暗。
朝食の後は、日没まで食事をしないので、基本私は料理は作らないが、購買もあるし、
お菓子作りとかもあって、1日中バタついている。
ただ、スーパーが空く時間まで割と自由になる。
で、キッチンの前の狭いスペース、ガスのシリンダー置き場だが、シリンダー以外に
何も置いてないので、ヨガ程度のスペースがある、でヨガ開始。
前もって、ちょうどセール中のホームセンターでヨガマットの下に敷くラグをゲット。
もちろん、ヨガマットは持っていたので、早速開始!


朝チャリも夏時間で日の出が早いため、5時少し前に家を出ないと、帰路、太陽が
ギラギラと照り付けるのだ。
ちなみに、日の出は6時⒑分くらい。日の出から15分もすると、ギラギラと灼熱に
なってしまうのだ。
5時少し前に家を出れば、チャリで疾走し、静かな池の側にチャリを駐車し、小さい池を
1周ウォーキング・ジョギングして戻る際に、ちょうど日の出、という感じで、ギラギラな
直射日光を回避できるのだ。


ラマダン中は、朝食が午前3時。私は午前1時半から準備をしている。
朝食のサービスを終え、キッチンの片付けなんかしてると、午前4時過ぎ。
この時間は、さすがに真っ暗!
遠く東の空がほんのり紫色に染まり出すのを眺めながらのチャリ瞑想。
その後、朝ヨガ。


で、思い出したのだ。
大昔、ヨガを始めてはまってたころ、シバ先生が静かに語ったのだ。
「早朝、日の出の頃に太陽礼拝を12セットすれば、十分です。他に何も要りません。」と。

いつか、そんな環境がゲットできたらいいと思ってた。でも、諸般の事情で無理かな、と。
いろんな要素が勝手にやってきて、私は遂に、自主的に朝ヨガを開始したのだ。
実行に至るまで、実に15年!(笑)いやはや。

太陽礼拝を、12セット、までには至らないが、6セットを毎朝、日課にしている。
ラマダンタイミングで、私は3時間しか寝れないのだが、それでも、ぐったりせずに何とか
続いているのは、朝ヨガのお陰かな、としみじみ思う。

もっと早くに開始すりゃ良かった、とは思わない。
幾千のエクスキューズが必要だったのだ。
ここで学習し、これからは、よかれと思う事はささっと実行するようにしましょう、自分。






ありがとう。いつかどこかで。。。。

2017-05-30 03:59:26 | 瞑想にまつわる能書き
昨日、闘病中の友人が亡くなった。
チコ母を通して知った友人。
賢くて、何でも知ってて、頑としたオピニオンがあって、揺るがない人だった。
いつでも笑っていたし、何事も笑い飛ばしていた。

私より一つ上。
若い頃はさぞかし美しく魅力的だったのではないかと想像するが、あまり恋愛に
興味が無く、逃げ道として結婚した相手は、誰もが憧れるような絵に描いた
アメリカの理想の夫、のような男性だったらしいが、どうにも馴染めず、早々に
離婚したそうだ。

長身でスラッとして、博士号ホルダーで明晰さをひけらかすこともなく、淡々と
人生にチャレンジしていた。

類は友を呼ぶ、らしく、美貌以外(爆)に関して、私たちは共通点が多かった。
群れるのを好まない点、お世辞を言わない点、そういうわけで友達が少ない点(笑)、
完璧主義な点、常に次の展開を考慮してしまい、今を楽しめない点、とても似ていた。

不動産で財を成した友人は、早々にリタイアし、東南アジアで痴呆症の母を看護して
いた。
東南アジアは人件費が安いので、24時間のケアサービスが可能なんだそうだ。
友人はオーストリアのチロル地方の人で、オーストリアで在宅看護は無理無理、と
言っていた。


90才近い母親を見送ったら、何かしたいと言っていた。
財産は十分にあるので、儲かったら、発展途上国で頑張る女性を応援したいと言って
いた。

そんな友人が体調不調で医者に行ったところ、ステージ4の大腸がん、だったそうだ。
母親の看護のため住んでいたマニラの病院で手術を受けたそうだが、あまり経過が
良くなったらしい。
術後にオーストリアに帰るということで、ドバイ経由での帰国となった。
ドバイのチコ母宅に2日ほど滞在し、オーストリアに帰って行った。
チコ母は休暇中、私は骨折中でチコ母宅で療養していたため、友人に会う事が出来た。

すっかり痩せ、滞在中、睡眠薬で殆ど眠っており、私と会話したのは30分程度だったと
思う。
今思えば、骨折して療養していたお陰で友人に会う事ができた。私の職場環境は自由が
無く(笑)常にキッチンで何かすることがあるため、なかなか私用で外出できないのである。


オーストリアに戻って、現地の病院に行ってみたら、再手術の必要があるとのこと。
手術を済ませたあと、間もなく化学療法が始まった。


癌に関してネットで調べてみた。ステージ4でも回復する人は、少なからずいる。
そういう人は、できるだけ日常生活を普通に送っている風であった。
それだけの体力があった、ということか。
友人は元気な頃から拒食症で、滅多に食事をしない。そういう性質がたたって、術後、
全く食物を受け付けなかったそうだ。
化学療法が始まっても、回復の兆しが見られなかった。
家族の住む家に帰る体力も無くなっていたそうだ。


チコ母はWhats'Upにサポートグループを作り、それぞれが、愛に満ちたメッセージを
友人に送り続けていた。
友人は時折返事をしてくれたが、それは全く改善しない症状に関するものばかりで、あまり
ポジティブな印象は無かった。
食物を受け付けないため、激痩せし、筋力不足で立てない、と。
1日の9割ほどは、横たわって眠っているそうで、そういう自分を受け入れないでいるのを
感じた。

友人の返事の間隔が長くなり、いつしか友人に変わって、友人の世話をしている友人の姉が
返事をするようになった。もう携帯のメッセージが読めなくなった、と。
みなさんのメッセージは読んで聞かせています、と。

こうして、「その日」がとても近い事を、チコ母も私も、サポートグループの皆も感じて
いた。
数日前、サポートグループのメンバーが、オーストリアの友人の病院を訪問したそうだ。
写真が送られてきた。

友人は、狭くて閉鎖的な故郷が大嫌いだと言っていた。
刺激を受けるものも何もなく、する事も何も無いと。
その友人の故郷は、チロル地方。写真で見る限り、遠くに雪山が聳え、緑の谷間に発達した
小さな街だった。
とても美しいと私は思った。

サポートグループのメンバーは、病室を訪問し、友人に話しかけると友人は笑顔を見せた
そうだ。
友人の病室から見える景色、を送ってくれた。
静か、な景色だった。


たくさんの話をした。
たくさんの刺激を受けた。
心から話せる少ない友人の一人だった。
老後を楽しく一緒に過ごせると思っていた。


この世的には、もう会う事はないけど。
バーブラ。
いつか、どこかで。

ありがとう、ね。