宇宙の秩序に調和しながらの煩悩達成日記

自己実現。そうです、願望実現を通して、自己をさらに深く知ってみようという実験の日記ざます!

叶う願望と叶わない願望。その理由ハッケン!!

2009-12-28 22:03:45 | 瞑想にまつわる能書き
何だかハッキリと認識する事ができた。
今まで、「なぜ????」と思ってきた事に、100%の回答が見つかった。

願望には種類が2つある。
叶う願望と、叶わない願望である。

願望自体、願望を持つ事は、自分を拡大するためにも、良い事である。
そして願望自体には、実は、叶う叶わない、良い悪いの属性なんかない。
願望は、ただ単に「願望」なのである。

叶う願望と叶わない願望に2分割される理由は、願望を持つ者の態度で
決まる。これが私の結論。
「わたし」が願望を持っても、叶うものと叶わないものがある。なぜか?
願望を生産する「わたし」は同一人物なのに?

全ての願望は叶う。

どっかで、いや、何度も目にしたし、私はそう信じたかった(爆)
が、これはある意味真実である。願望は叶う。
しかし、願望と「わたし」の共同作業である願望実現はには、ある条件が
あったのである。
それは何かと言うと、

「楽しい私が願望を生みだし、楽しく育て、楽しく受け取る」

楽しいをハッピーに入れ替えてもOKw
私は長年の願望がなぜ叶わないのか、昨日、唐突に知ったのである(爆)
真実ってやつは、いつも唐突にイキナリ登場するのだ。
前もって「準備は宜しいか?」なんて聞いてこないw

私には「日本人初のカバラティーチャーになる」という願望がある。
今のところ、願望実現のための行動は何もしていない。こうしてネットで
吹聴してる程度(爆)
でも、多分、実現すると思うし、イイ線行くと思っている。
根拠?そんなの無い(爆)

テキトーな願望かつうと、これがそうでもない。
私は特に続けたい仕事とか、職業とかないのである。
カバラを教えることは(まだ、学んでも無いつうのに・笑)、ワタクシにとって生涯
を賭ける事、なんざます。
カバラ教えなかったら、どうにかなってしまうとか、そんなことはないけど、
未来に対して大いなる期待があるのです、正直。
カバラティーチャ―になろうと思いついた時(笑)、ああ、やっと見つかった、と
正直、ホッとしたのである。

そして私の結婚願望。
いやー、イタイ思い出になってしまいまひた(爆)
ま、いいんだけどさ。
同じ願望なのに、これ、なんだか常に私を不安に陥れ、苦悩まみれにして
いたんだよなあ(爆)
叶う方向で、鋭意努力してたけど、アウトカムの殆どは、苦悩として私に
苦行を与えてくれたもの。まあ、真面目なアタクシ、じっと耐えておりましたが。

でも、昨日気がついた。
「そんな自分嫌い!」

なぜか知らないけど、最初から、ずっと昔から、この「願望」は苦行になって
しまうのだ(爆) 私はそんなもの、全然求めていないのに、だ。

理由は自分にある。良くわかった。
実はそれ、欲して無いのだ。私自身、望んでいなかったのだ。だから常に
破壊的な思考を選択し、ネガティブな感情を生みだし、カナシミ満杯の現実を
創造し、苦行として私は味わってきた。

なんてこったい!(爆)

理由は簡単。
私は理想が高い(爆)
でも、市場を考慮して、(あ、自分の市場価値・爆)、垣根はヒジョーに低く設定
していたのだ。
そこに相手が登場。イベントが起きる。ほぼ、私は満足しないw ってか、
まあ、こんなものか、いいや、結婚できれば(爆)とか思っていた。

本当は、その相手では無い、という事を知っていたのだ。
後だしジャンケンみたいなこと、私言ってるけど(爆) ほんとなんだよ。

私の理想はヒジョーに高い。ので、それに合致する人は登場しないかもね、
とどこかで思ってる。
そうすっと、一人の人生はサビシイから、妥協しなきゃ、そんな発想で今日まで
来たのだ。

上手くいくわけないわなw

で、これからどうするかというと、どうもしないw
ただ、苦行はしないし、そういう、もう選択しない。
妥協もしないし、垣根も低くしない。

ただ、「本当のわたし」でいる。
これができたら、宇宙は私の思いのまま、である。

これだけを心がけて、2010年を迎えるのです。


ああ、それで結論。
■叶う願望
願望を考えたとき、思った時に、「何も感じない」w というか自然な自分で
いられる。達成のためになんかしようとか、思わない。軽い感じ?
叶わなくてもどっちでもいいんだけど、叶わなかったらどうしよ、とか思わない。
そういう願望はおそらく100%叶う。
なぜなら、「わたし」と同化していて無理が無いから。

■叶わない願望
執着を伴うもの(爆)何とかしようと思う願望。
達成手段を、あの手この手を思いつく願望。
自分の中になくて、外側から持ってこよう、という感覚の願望。
自分と同化していない願望。


■■でも。
努力と、思考のチェンジで、叶わない属性の多い願望を、叶う願望に
変化出来る。
それは、「自分の願望への態度を変える事」が出来た場合に可能です。

自分自身の波動と合わないもんは、引き寄せられないのです。
引き寄せ、は同化ですから。共鳴ともいいますか。

上手くまとめられないけど、素晴らしい発見をしたから。2009年は
良い年だった。

発見、ってか、体験。知識では知ってたけど、やあっとこさ、

腑に落ちた!!!こういうことだったのだ!!



予測できない事の筆頭 ― 人との邂逅

2009-12-24 13:24:33 | 瞑想にまつわる能書き
予想した事は全く!起きずに、予想しない事ばかりの昨今に戸惑っていたら。
さらなる、予期せぬ出来事が、起きた。

人との出会い、って予定できないし、「向こうからやってくる」という感じ。
しかし、相手にとっても、「向こうからやってきた」と思うのは同じなので、これってやっぱり「采配」なのかなと思う次第。

友人の誕生会。
そこにやってきました、イタリア人。遅れてきたので、到着やいなや、ホストの友人に食事を勧められていた。彼は「僕、ベジタリアンなんで。。。」私はその隣に偶然立っていたので、「ほほう。ベジタリアン!私も18歳まで生粋のベジタリアンで、その後、食べる事ができるようになったけど、未だチキン食べないし、自分のためだけに肉を買って料理する事は無いです。」
なーんて話をしていた。
「あなたがベジタリアンになった理由は?」と聞くと、「20年前にグルに出あった。その影響。」

うむむ。グルに出あってベジになるとは、それはインド系(爆) 
私が「サイババ?」と聞くと、びっくりしていた。「そう、だけど。なぜわかるの?
ねえ、君どこから来たの?」
「日本」
「なるほどね。日本人たくさんプッタパルティに来るものね。」

その後、パラマハンサ・ヨガナンダの本は素晴らしいとかの話に花が咲いて、
イタリア人から、この街にも2つほど、サイババの集まりがあるらすい、と聞く。
そしてそれは、私の新居の近く。
この国は回教以外の宗教に非常に厳しい。観光事業に熱心になってから、若干
ゆるくはなっているけど、私が来た頃は、インド人の数が半端じゃなく多いのに(爆)
ヒンドウ―教系の「飾り物」(インド人はこういうのが大好き)は、販売禁止だったのである。
偶像崇拝禁止というかなんというかの影響で。
しかし、最近は仏像も売ってるし、ガネーシャもいっぱい売っている。時代は変わるのである。

いまさらサイババでもないが(爆)私は、そういうのを誰かと共有したいとずっと思っていたんである。
スピリチュアル・トーク(爆)のできる人を探していたのである。
なんたって、グル探し回る症候群だから、私w
カバラグループは存在しないらしいので、サイババでもいっか!(爆) まあ、似たり寄ったりだからさ、こういうのw 

なので、イタリア人の情報に「わーお!」と思っちゃったわけである。ウレシイ。

そして、そんな話を聞いてた、もう一人のイタリア人女性。よくよく話を聞いてみれば事務所が同じビル!
早速、来週お茶しましょう、という事になった。

出無精で、人間嫌い(爆)の私には、一晩で2人の知り合いにができるなんて、奇跡!
人と、いつ、どこで、どんな風に出会うかって、予測できないものねえ。
なんか、嬉しい夜でございました。

啓示? 宇宙の采配? 答え? わお。。。

2009-12-23 19:46:45 | 瞑想にまつわる能書き
という事で、私は若干落ち込んでいた。けど、以前のように海底に潜伏するような重さもなく、「あーあ。じゃあ、いいたいどうしようってんだい?」という感じのものだったが、フェスティバルシーズンとも重なり、結構、ヘビーかなあ、とか思っていた。

オワリは始まり、と思っていても。一歩踏み出せない自分がいた。
そんな私に、カバラ道(爆)は、こんな答えを出してきた。
「今週のお言葉」なので、HPで誰でもアクセスできる。私は数時間前にアクセスして読んで、まるで私個人に宛てられたメッセージのように思えてしまった。

偶然は無いなら、これは啓示とか宇宙からのメッセージとか、そういうアレなものかい?(爆)

でも。
救われました。 神様、ありがとう!

なるほど、曲がった道を行く過程、プロセスで変化していくことが大切なんだと。暗闇を歩く人が一番のひかりを見る者である、と。そうか。
ここで変化していけばいいんだね。私が変化すれば、私の周りの世界も変わるんだものね。ナルホド。ポールとのどうしたこうした、ではなく、私の長い旅のプロセスをみなくちゃ。変わっていく自分、変容していく自分、それを受け取っていく、そういうことかいな。

なんか、ありのままでいい、と相反するような?(爆) そうか。ありのままでいれば、「自然と」変化していくのかも知れない。
変化しようと躍起になるから、変化しない場所にとどまってしまうのかもだ。
うーむ。
わかったようなワカンナイような?w

自然。
もう、不自然を長い事してたから、何が自然かわからなくなっちゃったよ(爆)
あ、そうか、やめればいいんだ。全部。意図的にヨカレと思ってしてきた事とか、何かを分析して予測して布石を打つとか、そういう事。
全部やめれば、自然になるのかなあ。
よくわからないが、「不自然」だった事は無しかなようだw だから、そんなに満足してないもんなあ。。
無理してたかなあ。

自然にしてたら、満たされるのでしょうか?
自然にしてたら、満たされないから躍起になって、満たそうとしていたのだけど。

こういう思考癖をやめる事が早道なのかも。


++++++++++++++++++++++++++++
【日本語が変なのは、私が訳したから】




曲がりくねった道

私の父、ラバイからの言葉の中で私の好きなものの一つに、私達の人生のゴールは、この世を旅立つときに、この人生に到着した時と異なった人になっている、というのがある。これは、簡単に言えば、カバラ流の
人生の視点である。それは、常に変化し成長するというものである。

いくつかの道の一つとして、私達に与えられた自分自身よりも違う方向に進む事、或いは背中を押されるのは、このためである。私達の人生の過程の中で、私達は重要なゴールを設定する。しかし、私達はゴールに到達するプロセスの中で変化していくのが何よりも重視されると、ラバイは私達に教える。

It’s about the journey – not the destination.


それは旅それ自体であり、到達先ではない。

確かに、ゴール自体は大切である。それなしでは、私達は迷ってしまう。しかしながら、成果はなぜ私達が生まれたかではない。私達は変化するために生を受けたのだ。しかし、しょっちゅう、私達の計画の途中に何かが入り込むと、私達は非常に落胆する。

これを新しい視点で見てみると、これは私達の個の変化を達成するための絶え間のない、偉大なプロセスである事がわかる。これは、意識を変容させる事とそのプロセスを楽しむ事だ。
これをさらに理解するために、アブラハム、誰もが知ってるように創造主を最初に理解した人、の例を取ってみよう。神が最初にアブラハムとコミュニケーションした際、それは「家から出よ。生まれた場所から離れよ。そして私が示す場所に向かいなさい。」であった。


カバリストは重要な質問をする。「なぜ神は、アブラハムに行き先を示さなかったのか?」

この質問は、アブラハムに最初に与えられたメッセージにある。「もし、あなたがこの世でのミッションを達成しようとするなら、あなたはどこへいくのかが重要ではないと知ってるはずだ。重要なのは、到達するまでにどれだけあなたが変化するかということだ。」

別の深いコンセプトは、私達の多くが、今現在居る場所の向こう側の方が安心だと推測している。私達はさらに良くなりたいし、もっと満足したい、さらに気づきを増やし、自覚したい要求がある。確かに、この場所で私達はもっと先へ行けるように努力しているが、どうしてそれを見る事ができるだろうか?できない。それは理論的に間違っている。


ゆえに、創造主はアブラハムと人々にに教えた。私達の基本となるスピリチュアルワーク、私達の目的は、私達が明確さが無いプロセス、理解のできないプロセス、或いは、もうゴールを目指すのをやめようと思わせるゆなプロセスを通じて、実現されるのである。

最も大切な事は、この通るべき過程の中で私達が経験する「変化」である。


私個人の人生では、教師たちが(カバラのセンセイ)時折、教師たちが望むほどの多くの生徒たちが、到達するべき場所に到達していないと嘆いている。 それは彼らに、私達がゴールを必要な時、私達の最も重要な欲望はゴールに到達するまでの変化であり、ゴールそのものではない事を思い出させてくれる。

私達が本当にこの考えを理解したとき、私達が進もうとするまっすぐな道を捻じ曲げる複雑さは、もはや私達を落胆させない。それどころか、それを容認するようになる。

ここに美しいイザヤの詩がある。「暗闇を歩くものが、最大のひかりの目撃者であろう。」この美しい言葉が私達に教えてくれるものは、しばしば、人生の道は暗く険しい。そして暗い道にたたずむ私達は、自分が旅の道順から外れていると感じる。 しかし、逆説的に言えば、それはプロセスが背中を押しているという事である。明瞭さにかけてはいるが、それは私達に明瞭さを与えてくれ、そして、人生の偉大な歓喜に近ずかせてくれるのである。

本当にこの教えの意味を理解したならば、あなたが予定やゴールから逸脱したり、破壊したりしたと感じ、それに対して落ち込んだり、自分自身を壊滅したり、疑惑でいっぱいになったりせず、逆に、エキサイトして、もっと背中を押されなさい。さらに光明への道を尋ね続けなさい。そして、人生があなたをこの体験を通して、あなたを光明へと導いている事に気が付きなさい。そしてこれが、あなたにとって変化の最善の道であり、今時点の潜在力である事を知りなさい。

プロセスを信頼しなさい。そして、挑戦の過程であなたに何が起きたかを知りなさい。変化が起き、あなたのゴールへの道をねじったでき事が、ゴールそのものである。

私の行く手を阻むものは私? なんでー!(爆)

2009-12-23 16:19:44 | 瞑想にまつわる能書き
これは、いつもながら私自身の事であって、一般的では無い(爆)かも知れない。

「私の行く手を阻むものの実態は何か?」

クリスマス前にこんな事を考えてる自分ってのも、なんだかなwだが、そういう気運みたいだ。
まあ、「あなたを阻むものはあなた自身」が大方の答えだろうが、表層的にソレは無いだろうwと思うのだ。

自分で行き先を決定して、準備万端、目指せゴールで進みだした私の行く手を阻むものが私自身であろうか?
こういうコンフリクトってあるんだろうか?
全ては自分自身の反映とか、例の金言をここで持って来てはいけない。
そんな思考に嵌ると、自分が進みたいんだか、そうでないのかわかんなくなってしまうではないか?(爆)

行く手を阻むものは、
いわく、「この先行き止まり」(爆)  とか
いわく、「18歳以上お断り」 (爆)  とか
いわく、「満員御礼」          とか
いわく、「スノータイヤ着用要」      とか

いろんな予想もしなかった条件を投げつけてくる。うむむむ。準備万端と思ったのに、こんな事ってアリですか?
はい。アリです(笑)

しかし、その行く手を阻む素因は、「私自身の反映」なのだろうか?だとしたら、なぜ今?
ゴールに向かって楽しく行進!と思った私は、反映されないのか?(爆)
という根本的な疑問にぶち当たるのだ。

望めば望むほど遠のくのはなぜだ?w 望むのをやめたら接近するのだろうか?

いわゆる、「既に在る」状態になれば解決、と理屈上ではなるんだろうけど、あれですよね。
やはり「存在」に大きく左右されてしまうのではないだろうか?
事象に左右されてしまうのではないだろうか?

例えば人間であれば、親密になるどころか捨てられるとか(爆)
例えばお金であれば、株式市場か相場で大損こいてお金を失うとかw
例えば、健康であれば、健康のためにウォーキングしててもガンになったとか、

「あれれ?」って思う現実が目の前にやってくる事は、よくある話であるのでは?
それは、望む結果じゃないから無視して、あたかも「アル」を満喫しろと?

なんかそれは、豪雪地帯で屋外で水着で震えながら「あったかい!」というのにも似てないか?w

こんな事を考えている私に、素晴らしいクリスマスはやってくるのだろうか?(爆)
もう、来ても来なくてもいいよ!

そんな心境です、はい。

無条件である事、てか、条件って何よ?

2009-12-17 15:26:28 | 瞑想にまつわる能書き
無条件の愛だとか、
条件の無いあるがままの自分だとか、幸福に条件は無いとか、世間は「条件」で満ちているが、実際、条件って何?英語でコンディション。
「こうあって欲しい形」?うーん、違うなあ。

条件。18歳以上とか、日本国籍である事とか、預金1,000万円以上とか、、etc
付随する形態、が条件なのかなあ。私、とか会社とか、車とかに付随する状態。
そうだ、ネット辞書で調べてみよう!


1.約束や決定をする際に、その内容に関しての前提や制約となる事柄。
  「―をのむ」「―をつける」「一日だけという―で借りる」「―のいい会社」

2.ある物事が成立・実現するために必要な、または充分な事柄。
  「いつ倒産してもおかしくない―がそろっている」「一定の―を満たす物件」
  「―が整う」

条件って、条件だけでは一人歩きできないものだよね?
だから、本質にはなれない、付随するもおでしかない、のではないか。

しかし、暇だとつまんない事ばっか考えていけないね!(爆)

条件。なんでこんな事考えてるか、つーと「条件を満たす事に夢中で本質を忘れていたワタクシ」に気がついたから、なのです。はい。
まあ、似たような事をずっと書いてるし、アレですがw もう、条件付けはやめよっかな、と思うのです。

幸せになるための条件    → 無い
素敵な人間になるための条件 → 無い
成功する条件        → 無い

そうだなあ、これをまたいじると、

なぜ幸せにこだわるか?   → 別に幸せでなくてもいいじゃんw
素敵な人間になりたい理由は?→ 別に素敵でなくてもいいじゃん
成功?なにそれw      → 別に成功しなくてもいいじゃん

こういった「条件」が私の自由度(爆)を奪うなら、そんなもの要らない!
そう言えるようになったワタクシに拍手!(笑)

私は私でいられれば、それで十分と思う。
そして、私は私以外になれないのだから、これでいいのだ。
条件は満たせないから(爆)要らないわ。
幸せでない事は、不幸では無い。
素敵でない事は、ブサイクでは無い。
成功してない事は、失敗では無い。

今日は条件を捨てよう。いっぱい作ったなあ、そう言えば。誰にも頼まれていないのにね。

いまここ、このままの「わたし」が最高の作品であり、完璧!条件を取り外すと、おのずとそう思えますな。

私が経験、体験していくこと。それが苦悩であれカナシミであれせつなさであれ、「歓喜」から生まれたものなのだ、と思うなあ。

そうだ。私は日本人初のカバラティーチャ―になるんだけどw、これ、マジで実現すると思う。カバラってマドンナのカルト風カバラね!(爆)
ホントはカルトじゃないけど、そういう扱いされてるのも事実ですな。




闇がひかりを欲した理由 ― 宇宙の話、創造主を想像するw

2009-12-16 21:22:00 | 瞑想にまつわる能書き
昨夜、風邪気味で調子の悪いわたくし、薬の効果でボヨヨンとベッドでしていたら、ふと、「まず初めに闇があり、そこからひかりが生まれた」という説を思い出した。
ひかり、は闇から生まれたのである。ひかりが生まれる前、闇は闇として存在していたのだろうか?
或いは、ひかりが誕生し、はじめて闇は「闇」として安心して存在できるようになったのだろうか?こればっかりは、形而上すぎて、わからんばい。ってわかんなくても全然構わないが、うーん、そうだな、もう少し突っ込めば、なんか見えてくるかな?

しかし、なんだってこんな事、アタクシは考えてるのか?こんな夜更けに。もう寝たらいいのにねー。

んで。闇。闇はなぜひかりを欲したのだろうか?その存在価値のためなんだろうか?ひかりが誕生し、ひかりが拡大する事によって、また闇も拡大することを知って、闇はひかりを誕生させたのかな。闇の生存本能?(爆)
ひかりは、常に闇をもたらす、から、ひかりが文字通り脚光を浴び、闇がさげすまれたとしても、ひかりの存在が闇を消滅させない事は、闇としても知っていた、と思う。

闇。なんか暗い、暗澹たるイメージがあるけど、「全てはここで生まれた」のではないかと思うのだ。ひかりはね、成長に必要なエネルギーであり、愛なのだ。
闇もまた、愛なんだけど、なつうか、ひかりが放出する「明らかな愛」ではなくて、なつうか、小難しい愛(爆)な気がするね。まあ、本質、同じなんだろうけどね。

闇は誰の心にも広がっている、と思う。意識可能な人とそうでない人がいるだけで。私の場合、この闇が強力で、ひかりを遮断してしまう勢いだったのである。
最近、少しずつ「ひかり」が輝き始めたかなあ、という感じです。

闇は陰、引っ張るエネルギー、底なし、、そんなイメージがある。
しかし、一方で「ひかり」を生んだのも闇なのである。だから、ひかりにも闇の資質が備わってるはず。

在る=無い

こんな法則もありかな。在る、も無く、無いも無い。私は「わたし」を感じる事にだけ、意識をフォーカスしていこうかと思うのだ。そこが、多分、宇宙を知る鍵。

創造主も闇だけじゃ、なんかツマランと思ったのかなあ。
楽しみたかった、意外性を見たかった、拡大してみたかった、、、、一体、何が理由で宇宙を創造したのだろうか?
私が神様だったら、そーだな「退屈しのぎ」(爆)かなあ。。。


階段で。
その笑顔がみたかったんだなあ。
何があっても、多分、私は変わらないと思うよ。うん。



慈悲のこころ

2009-12-15 16:08:47 | 瞑想にまつわる能書き
まるでどっかのインチキ仏教家のようなタイトル。
何が言いたいかと言うと、クリスマスも近いし、私がプレゼントとして与えたいのは、何か、ってーと「慈悲のこころ」なのである。
これ、どうやって与えるべ(爆) ってか、私持ってんですかね?
あー。あったあった。

与えるものが受け取るもの。宇宙の法則の基本。
私は慈悲の心が欲しいだろうか?……んーっと、


いらん!(爆)


そんなw 自分の要らないものを人様に差し上げてどうする?(笑)
じゃあ、何が欲しいんだ自分?え?何も要らない???

うーん。欲しいもの、って、、、許容される事かな。このままでOKと。
あと明晰な頭脳(爆)

あまり欲しいものない。というか他人から貰おうと全然思わないなあ。
自分で生産するつうか、発見するから楽しいような。

欲しいもの。。。何だろう??

慈悲のこころ、なのかなあ???


今日はクリスマス。楽しんでこよーっと。

不要なもんに反応しない!リアクションしない!快でいるコツね。

2009-12-14 14:38:33 | 瞑想にまつわる能書き
ヨガから離れて1か月。 うわあ!
今週も雑用でいっぱいなので、来週から復活しようかな。

さて。
私の中で大きな変化が起きた。今までの自分とはまったく違った自分の「反応」に、私はとても嬉しかった。久しぶりに「周りの世界でどんな現象が起ころうとも、不変な『何か』に到達したような、そんな気がした。

「おっと!すっとこどっこい!アタクシは全然悪くないわ!プンプン!」ってな出来事が発生したのだが、通常の私なら、普段おとなしい(爆)分だけ、こういう「全うな理由」をゲットすると、「不当」にフォーカスし、激震が走るのである。
毎回、同じ反応でもツマンナイと思ったのか何か、今回、私は私自身に「どうする?爆発してみる?んでもさ、周りで起きる事って、私自身のハピネスと何の関係も無かったんじゃなかったっけ?」と自問自答してみた。

「ああ、そうだったのう。確か数日前に、私をコントロールする(できる)鍵を他人に明け渡さない、って決意を新たにしなかったっけー?」と思い直したのである。

爆発するのも簡単。でもさ、それは「ハイ!確かにアタクシは周りの事象(人の態度とかね)で、自分自身のハピネスを左右してます!アタクシのハピネスは他人の言動でグラグラしちゃうんです!」と宣言してるようなもんである。エゴは「自分自身の権利を守るために、怒りを表す必要がある。」とか、もっともらしい事を囁くが、その手には乗らないぜ!(爆)
私の権利を、誰に知らしめるというのだ?この世界は「ぜんぶ私」なのだ。そこにいるデキソコナイも、あそこで高飛車に振舞うヤツも、お金に困って隣国の王様に助けてもらってるこの国の王様も(実話w)みーんな「わたし」なのだ。ある意味でね。

だから、私の権利や意見を「知らしめる」必要なんか、どっこにも無い。ので、なんというか、周囲に対して意図的に何かをする必要なんか、全然無いのだ。今まで私は、自分の分析とそれに基づく予想を基本に行為してきたような気がする。

最近、予想がことごとく外れ(爆)、予想を諦めざるを得ない状況に達したがw、要するに「ここまで来れば」周囲に対して意図的に何かをl行為する必要は無いのである。「知っている」ワタクシならば、そういう行為は一切不要、なのである。

ややもすると、不安を一掃するために誰かの言葉や、保証?が欲しかっただけなのだ。そんなものは、必要が無い!って事がストンと腑に落ちた。不安が無くなった、のだろうか?多分。不安が無くなると、当たり前だが、不安をもみ消そう(爆)という行為が無くなる。無くなったら清々してタイヘン気分がいいよw

不安が無い、つまり安心の状態だと、何もしたくなくなる。もちろん、日常生活を営んでいるので何かはしてるけど、以前のように「意図的に」何かを行為することが不要になったので、「何もしない」というふうに感じるのだ。

爆発しなかった週末の私(笑) 些細なことだが、非常に大きな変化だったと思う。
引っ越し後の整理も順調で、年内には通常の生活に戻れそうな感じです。

「信じる」と「知っている」の違いに関する考察 

2009-12-08 16:20:27 | 瞑想にまつわる能書き
私はずっと、カバラ先生の熱弁『「信じる!」ってーのは、まだまだ疑惑や不安の介入する余地がある。信じていいものか?とか、信じたい(今は信じてない、という事)で、疑惑や不安は、エゴのエサであるからして、信じたいなんて思ってると、エゴの策略にはまっちゃうよ! 』が非常に気になっていた。

そして先生は「知っている!Knowing!!」という姿勢が大切!と腕をブンブン振り回しながら熱弁しておられた。

知る、と信じるの違いに関して、早朝、出勤途中の信号待ちで考えたのだ。

例えば、私はPを愛しているのを信じたい。信じる、とする。
しかし、信じることとウラハラな現実が展開されたりして(非常に多い・爆)、つい不安を膨らませがちである。そして、信じる気持ちには、不安が混じっていた事を認めざるを得なくなる。信じていたのに・・・裏切られた、とかねw 結局は、信じてなかったから、裏切られる?のである。(別に裏切られてはいない、念のため・笑)
カバラ先生の言うように、確かに「信じる。信じている。」には100%!信じ切ってるというスガスガしさが無いような。気がするのは私だけか。

前にもここに書いたけど、信じる、って「何か」を信じるわけだけど、それは自分自身の外側にあるものが対象のような気がする。

それに対して、「知っている」は、対象がすでに自分の一部になっている、ような気がする。だから「知っている」のだ。カバラ先生によれば、知っている、には疑いの入り込む余地もなく、エゴの取り入る隙も無いそうだ。なので、「I Know!」という態度を取れ、と力説しておられた。
「私は宇宙の法則が働くのを知っている。」ならば、目の前に展開される現実という事象に右往左往することも無い。だって知ってるんだからw
「私はPを愛しているのを知っている。」wならば、目の前に展開される彼の行為、言動に右往左往することも無い。だって知ってるんだからw

そして。
愛、いわゆる取引の愛モドキではなく、愛、ならば。相手が何をしてようがカンケー無いのだ。私は愛している、私は愛、なのだから。相手の態度や言動で変動するようなものが、愛であるはずがない(爆)その通りだ。
で、私はPを愛している。それを知っている。だから何もしないw 何もする必要が無いのだ。これが「知っている」という状況なのではないか?

しかし、よくもまあ、私もこうしてヘ理屈をこねるのが好きだなあ(笑)

Pを愛する自分を信じよう!という態度だと、信じる根拠を探す必要があったり、何かしら「働きかける」必要があるよな気がする。何せ、信じる対象は私の「外側」にあるのだ。自分自身と一体化していないのである。それが愛であるなら、愛して「いる」つまり、愛するという行為をしている自分、を信じよう、そんな感じになる?ならないか(爆)
いや、ともかく、「信じる」ためには、不安を取り除く何かの「作業」が必要なのではないかと思うのである。信じる、には信じるに値する条件が必要なのではないか、と。
そこ、そこだよw
宇宙の法則には「条件は無い」のだ。
愛にも条件は無いのだ。
知っている、もすでに知っているので条件は無いのだ。

なんだか、わかったようなワカラナイようなw でも、自分的には、スパッと納得。余計な情報で混乱してもなんなので、これからは単純にシンプルに無条件でw。

私は知っている。これだ。知ってるので何も慌てる事もないし、何かをする必要もない。
宇宙の法則は簡単でシンプル。
与えたものが受け取るもの。
似たものが引き寄せあう。
あと、何があったっけ?

私は神である(爆) こんな事を誰かが言っても、「なるほどね。」と思える昨今。時代は変わりましたがな。以前だったら、変な人と思われた事でしょう。
私は神である、というか、そういう要素から成立しているのだ。 カバラ的に言えば、この物理世界は全体の1%だそうで、これを渦中の人にならずに、大きな視点で眺めてみれば、この1%の世界をコントロールすることが可能であると。それは、私たちが持っている「神の要素」なんだそうだ。

予想はハズレまくりだし、私はもう何もしない。リアクションをしない。予想に沿って何か布石を打つ、のではなく、単純にしたいことをしたい、そう思うのだ。

明日は第二回のカバラ・個人レッスン! カバラ大学(爆)にサインしたけど、家のパソコン繋がってないので、オンライン学習全くできず。まあ、いいや。それはそれで。
何か先生への質問、考えておこうーっと。

確信。それさえあれば、山だって動かせるのだ。

2009-12-08 01:35:02 | 瞑想にまつわる能書き
私の課題でもある「確信」を持つこと。確信と一体化することw
これさえできれば、コワイものなしで、世の中は自由自在になるであろう。

世間にクレンジングだの、クリーニングだのとメソッドがいっぱいあるような気がするが、あれは「確信を曇らせるものを取り除きましょう。」という試みに他ならない。
確信を持つ。その確信した「思い」は必ず現実化する。宇宙はそういう風にできてるらしい。

確信に裏打ちされた「願望」は、なんというかエネルギー状態ですでに存在するらしい。後は確信でソレを形にすれば良いだけなのだ。

信じる。
信じれば、人に相談しない。相談する事が無いじゃないかw
迷うこともないし、不安もない。
不安が発生するのは、100%信じていないから。
明日、東の空から太陽が昇ると確信するのと、同じレベルまで「信じる」のである。
カバラでは「知る」事の方が、信じる、よりも確信度が高いw というか迷いや不安は入り込めない、と言っている。まあ、英語的な解釈だとそうなるかもですが。

信じる。
私はそれができずに、「不安」を他人に相談して「強化」していたことに、今更気がついた。

そうだ。
東洋のトラディションでも「心、口、意」を統一させよ、とかありませんでしたか?確か密教の教え?wみたいな。
せめて、口、言葉で不安を強化しない。つまり、不安を言葉にしない。これを徹底しようと思ったのである。
そのうちに、意、からも不安が撤退すれば、心からも不安が払拭されるはずである。

能天気、気楽に日々過ごす。

こんなのが、幸福な自分を思い出す「こつ」だったなんて、誰も教えてくれなかったので、私は「努力」してしまった(爆)ので、幸福な自分を思い出せないで、失敗した自分、挫折した自分が自分とばかり思っていたのだ。

ま、いいや。この人生で思いだすチャンスが巡ってきたんだもん。
最近、予想も大ハズレだし(爆)何も考えずにボウーっとしてようと思うのだ。

能書きを詰め込んでたけど、やっと最近、「感じる」事のノウハウを体験しているような気がしている。
確かに。
そういう意味では、今年は凄い1年であった、ってまだ終わってないけど。

信じる。

頭のスイッチをポン!と入れただけでできる。知らんかったがなw


予想が外れるから、予想はよそう(寒)

2009-12-05 13:44:48 | 瞑想にまつわる能書き
ここ最近、「予想通り」という事が全く無い。
すべてが裏目というわけでもない。
すべてが反対になったというわけでもない。

こうなったらいいなぁー!なりそうだ!

と思った事が、まずそうならない。
特に人間関係においては、全く予想外の展開になっていく。
なんだろう、いったい。

例えば何かのイベントがあり、私は成り行きを予想する。
と、突然、イベントが中止になるとかw
私は成り行きを予想して、よき結果を期待してたわけだが、
そういうのがゴソっと消滅する。
それに付随していた感情もあっさり消滅するしかない、そんな
感じ。

で、ガッカリするかというと、そうでもない。
「あ、こういう展開だったのね。」と納得しますが。

もう、何も「考えるな」というメッセージなんでしょうか?
ちょうど、有名な本(笑)を読み終わったばかりなのですが、
私は相当、流れに逆行していました。
お陰で、クタクタです(爆)

予想しちゃう、これも流れに逆らう事なんですかな、多分。
オールを手放そう、というか、オールが壊れた(爆)
そんな気分の12月でございます。

―――おまけ! 本日のカバラ格言____

★いつもは夕方に来るのに、今日は午前中に! 私は口が軽い友人の事を
いかに処理しようかと思ってた(爆)のですが、これを読んで「何もしない」
を選択しました。


私のキッチンで、バナナが私に食べられるのを待っています。まだ青いバナナです。
私はバナナが熟して、黄色くなり、黒い斑点ができて、おいしく食べられるようになるのを待っています。

私たちはみんな青いバナナです。熟するのを待っている果実です。
なのに、なぜ私たちは、私たちが早急に熟さない事を批判するのでしょうか?
なぜ、他の人が熟さない事を批判するのでしょうか?

きょう、あなた自身と周りの人々にがまん強くありなさい。
私たちはみな、違ったステージの同じプロセスにいるのです。
そして、いつの日か、私たち全員とも熟し、おいしく食べられるようになるのです。

今年いちばん綺麗な満月!幸福について感じたぞ。

2009-12-04 13:24:25 | 瞑想にまつわる能書き
さて、12月になってしまった。確か年頭に「とあること」を達成しようという目標を立てた。正直、半信半疑だったが(爆)とりあえず修正せずに、その目標を保持したまま、1年が終わろうとしている。

客観的に分析してみる、というオオゲサなもんでもないがw まー、どうなんだろ。あと残り少ない日々で、進歩があるかもなので、まとめは少し早いのかな?

んーと。
目標をたてたばっかりに(笑)、その目標に執着しすぎたかもだなあ。
「なんとかしないと!」という意識に支配されていたかに思う。ま、後悔は全然してないけど、今になって思えば、もうちっと賢い行動・言動をPに対してとれば、私の目標にも相当接近できたような気がしないでもない(爆)
が、そりはアフター・フェスティバル、後の祭りなんである(爆)
私はそういう言い訳が大嫌いなので、しない。

これでいいのだ!

この目標は取り下げるのが惜しい(爆)ので、このままにしておく。
が、この目標の現実化のために、もうエネルギーを注がないことにした。
どうでもいいのである。
どうでもいいものが目標に成り得るのもよくワカラナイが(笑)あったらいいな、程度とでも申しましょうか。

・お金も、もっとあったらいいかな    → 今、別に困ってはいないw
・健康も、もっと美しくなったらいいかな → 今、結構美しいので(爆)満足している
・仕事も、もっとヤリガイあってもいいかな→ 今、暇が多くていろいろ自由にできるから、ま、いいか
・恋愛も、もっといい人に出会うといいかな→ 今、別に彼がいなくてもハッピーだけど

ってな感じである。
カバラ先生も言っていた。「今あるものに感謝しなさい。」と。その通り。今の自分を肯定して愛して、許容して、そこから、愛を基調にした「いまここ」から、思考を拡大していくのである。

まあ、以前のワタクシは、「無い」という焦り、恐怖感にも似たもの、欠乏感、不満足な思い、自己否定的な気持ち、そういったものを払拭するために「願望」を打ち立てていた。

いわば、「不幸なアタクシを幸福にするための解決策」が願望であったのだ。
なので、私は「ケッコン」(爆)にこだわったのである。執拗なほど。
なぜなら、ソレが幸福の条件と決め付けたので、ソレが無い限り、永遠に幸福から隔離されたままなのだ。
それじゃー、困る(爆)

うふふ。
そんなんだったから、目標に接近したようで激しい揺さぶりに会い(爆)目標を手放さざるを得ない状況に直面したのである。

直面したつうか。暇にまかせてカバラのいろいろ読んでて気がついたのです。
自分の願望はどっから来たか、と。
私はひまわりの種をまいておきながら、「キュウリが実らない!」と大騒ぎしていたのである。おバカよねえ、我ながらw
でも、やっとこさ気がついたのはエライ!さすがもと優等生で秀才(爆)

こういうのは、人それぞれで、進み方や、進む道の状況、周りの風景が微妙に違うので、ワタクシの道が正しいとは言えない。私にとっては、いつだって道は一つだし、それは正しい、正しくないというものでもない。

それが、私なのだ。それでいいのだ。

やっとこさ、這い出したような気分(爆)自分を認めるってこんなに簡単だけど、こんなにエネルギー&時間を費やさないと、私は到達できなかったのだ。

私はこれでいい。完璧で最高であるw
なにも足さなくても、引かなくてもいいのだ。素晴らしい事ではないか。

マジメにそう思えるようになったら、不思議と自分の周りの人も自分同様に、許容できるようになるから不思議。不思議。
私は悲惨な誕生日を迎えたが、100年前の事のように感じる(爆)もう、あの日がどうだったと分析することもしないし、私に悲惨な状況を与えてくれたPにも怒りもカナシミも無い(爆)
あるのは愛だけだ(爆)とか言ってみたいが、それはどーだろ?が、彼の幸福は願ってやまないけど。それで充分だろがw

うーむ。
私は幸福だったのだ。なんてこった。気がつかなかった。あちこちに、「豊かさを受け入れるのを自分で拒否して、『望みが叶わない!』と嘆く人が多い、」ってのを目にしたが、そんな否定してないよ、私って思ってたけど、否定してたよ、やっぱ。
今あるシアワセ、これを認識して「感じる」事が出来ること。これですべてOKなのだと思う。私はね。

さて、豊かなわたくし。有り余る豊かさを何に使おうかなあ!


この美しい満月。生涯忘れないぞ。




カバラ的引き寄せの法則-どっかで聞いたことが?

2009-12-03 21:33:40 | 瞑想にまつわる能書き
カバラ。いいねえw

ワタクシの誕生日に届いた、「カバラ日めくり金言集」はこれ。
毎日配信されていますが、ロサンゼルス時間の朝配信なので、私のとこには夕方
に配信されます。
ので、「今日はXXに意識を向けましょう!」ってあるんですが、すでにその日も
暮れかかっているのが実情でございます。
ので、翌日にそれを覚えて意識的に生きればいいんですが、忘れてますねえw

カバラ的引き寄せの極意も、「似たものは引き寄せあう」という至ってシンプル
なもの。
そりゃそうだw

さて、なんであれ、どんな課題を突き付けられようが、危機感テンコ盛りだろうが、傷心だろーが、現実はちょびっとの間、ソトへ追い出して、「ああ、シアワセ」を少しでも感じる。「ああ空が青くて素敵だわ。」の数秒でいいのだ。
それを積み重ねて、日々を過ごす。
都合の悪いことは考えない(爆)ちゅうか、意識を向けないのでございます。
私は今、何を望んでいるのだろう?
んと。カバラを教える人になる(爆) マジですぜ。

そうそう。9日に先生との電話セッションがあります。質問はあるか?と聞かれるので、何か聞いてほしい質問があれば、遠慮なくどうぞ!

――本日の金言 ――

カバラ的智慧を掴む鍵は、好きは好きを引き寄せるという事である。
二つの類似したものは、お互いを引き寄せあう。
相違が距離と空間をクリエイトするのである。 これは、ソウルメイトを引き寄せる、富を構築する、新しいアイデアを見つける、健康を回復する ETCに必要な秘密である。


カバラの12月-奇跡の起こし方- 特別企画(爆) 読んでみてケロ!

2009-12-01 23:34:55 | 瞑想にまつわる能書き
しかし。まあ、私は翻訳家でも何でもないっすからw
ざっと直訳しましたが、気分は伝わりますかね。

全てのトラディションがいいたい事は同じ。だって、源は一つだから。
いろいろある。
が、私はしばらくはカバラで暇つぶし(爆)の予定である。まずは、楽しい事考えなくっちゃ!

_______________________________

いて座の話

カバリストはKislev(いて座)の月を、奇跡の月と言及する。これは明確に前月よりの出発である。前月、さそり座では、私達は自身が困難な状況やチャレンジングな環境に遭遇する事が多い事に気がつく。

この期間(いて座)は、私達の人生に奇跡を起こすため、本年の残りの時間にエネルギーを注ぐ事ができる。

Everything is a Miracle

全ては奇跡。

聖書の中に、年寄りで子供がいないアブラハムとサラに関する有名な物語がある。(Genesis 18: 1-13)
彼等の人生を通じて、彼等はずっと子供を欲しがっていた。ある日、3人の旅人が、アブラハムのテントに現れた。もちろん、彼は旅人たちをテントに招き入れ、もてなした。そして旅人はエブラヒムに告げる。「翌年の今頃、あなたは子供を持つだろう。」

聖書いわく、サラがこの話を立ち聞きした際、彼女は笑いだした。 これはまったくもって理解できる。 彼女は90代だったし、エブラヒムは100歳だったのである。彼等が子供を持つ希望を諦めたと想定してもおかしくはない。

しかし、大変に興味深い出来事がおきた。 聖書によれば、創造主はサラに対しとても落胆した。そして質問した。「サラ、なぜ、あなたは笑うのか?」そして創造主はさらに疑問を投げかけた。「神にできない何かが存在するであろうか?」

カバリストがこの物語を聞いたとき、まさに文字通りであっても、彼等はそれがわかりきった質問であっても尋ねる 「なぜ3人の見知らぬ旅人?もし、神がやってきて、サラとアブラハムに来年の今ころ子供が授かると約束したとすれば、もちろん、アブラハムは子供が授かる事を疑いも無く信じたであろう。サラの反応は、「もちろん、神にできない事など何一つございません。しかしながら、それは神の約束ではなく、見知らぬ3人の旅人の言葉です。」

聖書がここで言わんとしていること、教えたい事は何か? どんなレッスンを私達は学ぶことができるか。奇跡は起きない。これを理解するには、私達の世界を見る視点を変えなければいけない。私達の視点を変える事で、私達が奇跡と呼んでいるものを、私達の人生に招き入れる事が可能になる。

もし私達がこの世界を凝視してみると、太陽は朝昇り、夕方沈む。そして月が顔を出す。これらすべては創造主のLightの顕現であると私達は理解できます。太陽は朝に昇り、夕方沈む。それが「自然だから」ではありません。それは、創造主が朝は光で輝くように、夜はそれを隠すようにエネルギーを送ったからです。私達が「自然」を顕現、創造主のLight、として見ると、私達は奇跡は自然から発生したものではないと理解する事ができます。 母親が20代せあろうと、90代であろうと全ての誕生は奇跡です。

これは私達が特に奇跡を私達の人生に招き入れたいと考える際の基本になります。そしていて座は、これに関しての自覚のある月の一つです。私達は私達が世界の全てを見る視点を変えなければなりません。
自然と奇跡の間には、基本的概念の違いはない事に気ずいて下さい。そこにはただ、私達の人生に創造主のLightoを注入するものと、再注入されるものが存在するだけであり、それは様々な兆候となって現れる。
私達が奇跡を求めるとき、すべて私達は、Ligfhtの違ったあらわれ方(つまりはLightということ)を求めているのである。


特にここでは、奇跡は空っぽの空間で休憩はしない。(すげえ直訳・・奇跡はからっぽの空間では起きないって感じか) これが理由で、意識と確信がとても重要になってくるのである。仮に確信がなければ、オープニングも存在しない。そしてLightは入り込むエントランスが無い。 だから、私達はいつでも希望を捨ててはいけないのである。

もし、サラがこの意識を持ち合わせていたらば、3人の旅人が彼女に来年子供が授かる、と告げた際に笑い飛ばさなかったであろう。これは、神が、サラが意識を変えない限り、子供を授かる事はないであろうとさらに言っているのである。そしてこのレッスンは私達全てに当てはまる。 私達は全ての自然、全ての奇跡は創造主のLightとは少しばかり違う事に気がつくべきである。
しかしながら、その二つが違った機能を持つものだと認識すれば、私達の人生に奇跡のLightをもたらす事はできないであろう。


Go Against Your Grain

あなたの性格に逆らえ

ラバイが米国に住んでいたころ、ラビ・ブラドウィン、彼の教師はイスラエルに住んでいた。彼等は常に連絡を取り合っていた。ラビはイスラエルに飛んでラビ・ブラドウィンと共に過ごせし、電話で話し、手紙のやりとりもしていた。その中の手紙の一つに、ラビ・ブラドウィンは奇跡は、神は私達の行為を元にして、私達に行為し、それが奇跡の元であるとBaal Shemが説明したと語った。

まさに、創造主のLightは私達の行為を反映している。奇跡を私達の人生に呼び込むためには、私達の自分勝手なネイチャー(性格)に反しなければならない。 私達が自分だけ受け取りたいという欲望に反する事で、私達は世界のネイチャーを変える事ができる。より多く、私達が自分だけうけとりたいという欲求に反した行為をすればするほど、私達は政界を変える事が可能である。

紅海が二分割したという奇跡、たとえば、は聖書における最大の奇跡のひとつである。ラビ・ブラドウィンはこの奇跡を現実化するために、イスラエル人は自分一人だけが受け取りたいという欲望に反抗する必要があったといういう。彼等のエゴに反する、事である。 それは彼等が完全に彼等の自我を捨てた時にだけ、私達は偉大なる奇跡を起こす事が可能であり、イスラエル人は紅海を二分割できたのである。

私達の性格に反して行為するという事は、私達の人生に奇跡を呼び込む事を可能にする。ですから、あなたが奇跡が必要ならば、あなたの受け取りたい(欲しい?)性格に反する行為をしなさい。
例えば、あなたが同僚、家族、配偶者、に対して怒りたかったら、「それをやめなさい!」 このリアクションに反する行為をする事(ここでは怒らない事)により、あなたはあなたの人生に奇跡を呼び込む入口を作った事になる。 あなたの制限が大きければ大きいほど、あなたの抵抗は大きい、そして奇跡を呼び込むオープニングも大きくなるのである。

Run After What You Have

あなたが持ってるものを追え(爆・どうにかなんないの?)

しかしながら、奇跡を人生に呼び込むにあたって、最も大切な気ずきは「感謝のコンセプト」であろう。 私達の人生の全ては創造主のLightにより実現されたものである。しかし、私達はあって当たり前と思う傾向がとても大きい。私達はLightがもたらしたものへの感謝を失い、私達が持たないものへフォーカスしてしまう。



ゾハールいわく、もし人々が人々の持ち物でないものを求めれば、人々が現在所持しているものを失うだろうと説く。これが感謝のレッスンである。 私達が朝目覚めたとき、私達が大きな喜びを持てないのは、与えられた歓喜は既に人生にあり、あって当たり前になり、自分が所持して当然と考えるようになる。その時、私達はこの与えられた歓喜とLighを失うドアを開けるのである。もちろん、同時に新しい奇跡やLightが訪れるドアを閉じてしまうのである。


この「奇跡の月」の最初のステップは、私達が既に所持している歓喜に対して感謝する事である。これは単にするべき正しい事だからとか、スピリチュアルな事だから、ではない。それは、この意識、この気ずき、この感謝、は私達を歓喜につなぎとめるものであり、その歓喜のLightは私達が持っているものの中から生まれたものである。 私達が本当の意味で私達自身の人生に感謝できたとき、私達は創造主が私達の人生に創造したLightに真に感謝できるのである。そして私達は悲しむ事はもうない。私達は喜び以外の何者でもない事を知る。


これは簡単ではないし、勝手に起こらない。しばしば、簡単に言えば、子供たちを寝かせるとき、私も沿い寝する。そして突然、私の持つギフトを思い出す。しかし、次の日にに何が起きるか?私は前の晩に感じた事を忘れるかも知れない、それは本当に残念な事である。私達ひとりひとりは全て感謝する能力を要している。そして感謝する事は、Lightを支えるだけでなく、さらに多くの歓喜へのドアを開けるのです。

このいて座の月に、あなたがあなたの人生に奇跡を呼び込むとき、この3つのレッスンを思い出して下さい。

1.奇跡は偶然に起こらない。奇跡は簡単に言えば創造主のLightの存在そのものである。
2.奇跡を呼び込む道は、自分のエゴに支配された性格に反抗した行為をすること。
3.感謝

感謝を持つだけでなく、感謝を育てる(?)今在るものに感謝を捧げることによって、既に所持しているものをつなぎとめ、そしてさらなる歓喜を呼び込むパワーを得る事ができるのである。



以上。


私は毎朝、こんな朝焼けの中でコーヒーを飲んでいる。幸せだと思うよ、まったく!
一番高いビルが世界一のビル。これが、先日世界の株安の発信源になった都市。
王様だってお金無い!(爆)




カバラレッスン 第一回 先生カコイイ!

2009-12-01 13:00:34 | 瞑想にまつわる能書き
このたび、やっとこさ、私の第一回のカバラ・レッスンが開始された。
思えば8月、ロンドンのカバラセンターを訪問した時から、課題となり、4回もアポを取って、そのたびに、なぜか連絡が来なかった、のである。

まあ、無料だしw ロスからの電話だし、私の居住地はスカイプが禁止されておりwそんな事情が重なって、スムースにいかないのかなと思ってた。
でも、なんたってカバラだし(爆)完璧のタイミングでそれはやってくるだろう、とは思っていた。

で、来たのである!
私の誕生日の直前に先生から電話があった。最初なので、ちょっとした話、カバラの深度?
を先生が探るという感じかな。
でもま、アレです。先生は、マドンナで有名なカバラ(爆)の方なので、西洋魔術的なカバラの話には進まなかったし、他のスピリチュアルな余汰話(爆)にも進まず、あくまでカバラセンターのカバラを基準に話を進めていった。

アンチ・イスラエルポリシーで、いろんな事がメンドクサイこの国の話も無しw
例えば、この国からイスラエルに電話できないのである。
でも、そういうポリティクスの話も無し。

そういえば。
当地が巡礼休暇、私は引っ越し騒動でネットに接続できないでいたら、大変な事になっていた。
「あれま。王様もお金無いんだねえ。」w
でもな、みんな見た目フツーに暮らしてるし、パブは人々で賑わってたし、モールでも買い物する人いっぱいいたし、銀行なんか休暇明けで超満員だったぞ。
ま、こういうのはジワジワと影響が来るのかも。一般人にはね。
でも、私にはぜーんぜん関係ない(爆)

で、私が「パワーオブカバラ」にとてもインスパイアされた話をした。
実際、私が「聖なるビーチ」で読んでいたのは、パワー・オブ・カバラ、だけだったし、他にも持参したけど、なぜか手に取るのはこの本だけだったし、毎回、毎回、読むたびに、脳の違う場所を
刺激されたかのように、新鮮な感動でイッパイ、の不思議本。

それを先生に話すと
「この世界は157(だったと思うw)の階層から成っている。あの本は、その全てのレベルに呼応するように書かれています。ですから、あなたの、本を読む時点での「階層」が毎回違ったので違った印象を受けたのです。」
なーるほど!

その後、エゴの話(カバラセンターでは、エゴの取扱い(爆)を非常に重要視してる感じ)になった。
なんでエゴが存在するのか、と質問したら「ゲームにはルールがないとつまんないでしょう。」
なーりほど!

質問タイムがあったので、いくつか質問してみた。もちろん先生なので「知らんがな。」という回答は無く(爆)全てによどみなく答えてくれたのである。

Q 「カバラでは、Lightの受け皿になろう(すげえ訳・・・)と良く言いますが、このLightは内在するものでしょうか?どっから来るんでしょうか?」

A 「内在するものもあれば、自分の外から来るものもある。」



Q 「カバラではマクルート(物理的なこの世界)をコントロールするのは可能である、といいますがホントですか?(アホな質問。。)」

A 「ホントです。マクルートの世界は我々には全てに見えますが、カバラ的には全ての1%にも満たないものです。」



Q 「遍在するエゴをLightにひっくり返す事は可能ですか?」

A 「可能というより、Lightを許容、受容すればエゴの存在が自ずと消えます。」


てな感じ。
先生は、ガイドはするが歩むのはあなた自身、というアタリマエの話もしてくれた。
そしてオンラインの「カバラ大学」(爆)への登録を薦めてくれた。先生も言っていたが、世界に100人程度しか先生はいない。
全員がユダヤ人でもないw 英語名の人も散見したが、日本人はまだいない。

よっしゃ!「わだば、最初の日本人ティーチャ―になる!」

↑これはですね、マジですw
まあ、カバラもいろいろあって、アレだけど、私は自分のもとにやってきた、「カバラ・センター」のカバラで行く事にしたのです。
アプローチは異なっても、こういうのってプリンシプルは同じはずだから。


その後、悲惨な誕生日を過ごしたわけだが(爆)詳細は省く。

思ったよね。アタクシの僥倖に関して。カバラとの縁に関して。

昨年の誕生日の前の日?に友人に誘われ、彼女が慕っていた「富豪のカバラ学徒」の豪邸におじゃました。
富豪は私の印象が強かったらしく、誕生日だというと、「パワー・オブ・カバラ」をくれたのである。
その後、事あるごとに私はこの本に救われる。

そして、9ヶ月後、この富豪にバッタリとロンドンのカバラ・センターで会った。
「後でまた会いましょう。」と言う事で、今回は、彼女のロンドンでの休暇後に会った。
そこで「先生について、初めて学習が始まる。」とか言われて、彼女と同じ先生を紹介してくれたのである。

富豪の彼女との出会いがなければ、私とカバラとの接点は無かったし、ロンドンでバッタリ会うなんて奇跡以外の何でもない。
すげえ。

この本を手にして1年後。誕生日は悲惨だったかも知れないが(爆) こうしてカバラに導かれた道程を振り返ると、とんでもなく嬉しいし、「全てはむこうからやってきた」に従った結果だなあと思った。
流れに乗る、というアレである。


引き寄せ業界(爆)で有名な、「引き寄せの法則 Byエブラヒム」かなんかを、ずいぶん前にゲットしたけど、例が多くて、その例が10代の子供の何とか、とかでなーんかツマんなくて読んでいなかった。
1年以上経過したと思う。
この引っ越し騒動で、家の中は未だに強盗に入られた後(爆)みたいだが、片ずけなきゃイカン!と思いつつ、やる気が全然無くてw カッタルイなあと思ってたら、なぜかその本だけが、そこにあった。
他の本は全部本棚に収納したのに、である。

で、引っ越し作業を中断して読む。
す、すげえ。。。今の私へのメッセージが満載(爆)でございました。
もっと早くに読んでおきゃよかったよ、とは思わない。
これこそまさしく、完璧なタイミング、ってやつだ。

悲惨な誕生日(爆・シツコイ)のお陰で天地異変(爆)な気がしていたが、そんな私の「ナマキズ」に、この本は「とりあえず、ホッとしてみればいいんだよ。」と優しく囁いてくれたのである(爆)今の私には、それくらいしかできる事はないような気がした(爆)

私は相当に飽きっぽいw 悲惨、悲惨って思ってたら、それにも飽きて(爆)あー、どうでもいいや、と思えるようになった。
まだ3日しか経過してないが、100年前のデキゴトのようである。こうして飽きっぽいので、心底誰かを憎むこともない。忘却の彼方になってしまう。
別れた誰かをジリジリ憎み続けるなんて、メンドクサくてできない。
わーい!楽しいなって思う事でない限り、継続できないのが人間ではないだろーかw

次の先生とのセッションは12月9日。乞うご期待!(爆)




私の新居の屋上から。毎朝朝陽を見ながらコーヒー飲んで、1日が始まります。すげえラッキー!