宇宙の秩序に調和しながらの煩悩達成日記

自己実現。そうです、願望実現を通して、自己をさらに深く知ってみようという実験の日記ざます!

結局のところ、自分という「宇宙Map」の確認?かしら。

2007-12-09 15:44:13 | 瞑想にまつわる能書き
今年も早くも!12月になってしまった。
何もなかったような、大きな変化があったような、一言で言えば、やっぱり、「うぁ!っという間の一年」であったという事か。変化といえば、人間関係か。人間関係地図が変化すると、自ずと、日々の暮らしの風景が変わる。良くも悪くも、人間同士というのは、かくのごとく、刺激し合っているのだろう。
人の風景も変わり、私自身の人との係わり合い方も、大きく変化したような気がする。

友人が少ない分、数少ない友人には思い入れが激しいのか、「Let`s it go!」が出来なかった私。「こうした方がいいよ!」という、一見、親切心から発するように見えるアドバイスだけど、私の場合、「私の言うことは正しいのだ!黙って、私の言うことを聞け!」という、エゴが心の根底に横たわっていた事は否定できない。
おそらく、自分の周りの人間を、本当に信頼し、その関係が、愛に基づいた関係ならば、その人々が、どんなんであろうと、判断しない、ってか、判断の必要も無いし、判断しないから、そのまま、受け止める事ができるのであろう。

判断。これはこれでクセ者(笑) 判断力が優れていれば、「的確な状況判断」で難局を乗り切る事が、可能である。 うーん。ちょっと違うな。英語でいう「ジャッジ」を日本語に訳して「判断」。ちょっと違うな、この場合。
何だろう。ジャッジメントは、日本語で言う所の、「思い込み」「決め付け」に近いような気がするなあ。 まあ、適訳が何であれ、私は「ジャッジ」することに徹底していたし、そのジャッジは、ある意味、ヒジョーに的確であり(笑)、だからこそ、さらにジャッジするというスパイラムにはまり込んでいた気がする。いや、今でも、はまっているかもだ。

的確なジャッジ。それは相手の意志をも、的確に「読み取る」事を可能にし、それを踏まえて行動を起こしたりしていた。自分の中でシュミレーションをせっせと行い、「ああすればこうなって、こうなったら、ああいうふうにして・・・。」と言った感じで。 人を操作するのとは、ちょっと違う。 対象となる人を「観察」して、行動パターンを読み取る、根底に流れるコンセプトなんかを推定し、それに沿ってプランする、というか。そんな感じかな。

こういうことを、無意識に日常的に繰り返していた。そういうキャラクターが出来ていた。迷わず、そういう「習慣」を続けていた。これは、後年変わるかもしれないが、こういう性癖ってのは、後天的なものではないかと思う。
なぜなら、それを繰り返す事によって、そういう性癖を持つことによって、自分自身は、とーーーってもくたびれたから。(爆)好きでしてたんだけど、疲れの原因になるよね、こういう性癖。

今年は、そういう「性癖」がある事を認識し、観察する(笑)事が出来たような気がする。 一昔前の自分に較べたら、やっぱり、丸くなって、ジャッジしなくなったし、したとしても、厳しさが減った(笑)。。。。。要するに年取った、って事だよな。

ジャッジメントにしても、信じる事でも、許す事でも、ありのまま受け止める事、でも何でも、こういった「視点」を変える事は、まずは自分自身にしてみる。
徹底的にしてみる。これでもか、これでもか、と自分を許す。
何が起きても、絶対的に、自分を信じる。
途方もないような繰り返しの果て、やがて、カチリと「腑に落ちる」瞬間に達する。
その時点で、自分という宇宙Mapがクリアーになるのである。

自分自身の内側に、許す心、信じる心を発見できると、あら、不思議。周りを見渡し、そこに存在する人々に対し、なんか慈悲深いキモチが沸いてくる。
イヤなヤツ!って感じても、その根底になにか共鳴できるものを感じる、よーな気がするのだ。

例えば、一般的に貧乏とか不幸な人を見て、「かわいそう」と思うのも、多分、上品なジャッジメント(笑)である。
人はそれぞれの宿命を背負い、それに沿って現世を過ごしている。現世という視点で見れば、苦労の多い人生かも知れないが、宇宙的長さ(笑)で見れば、最終的に、多分、ツジツマが合うように計画されているのだ。
だから、カワイソウ、って事は無いのよね、多分。
チャリティは、カワイソウな人を助けるというより、「与える」事を学ぶレッスンではないかと思うのだ。

という事で、12月。
今年も、何もなかったような、いろいろあったような。
実際、良くわからない(笑)

私が存在する世界は私の想念から発生したのなら・・・・?

2007-12-03 20:47:31 | 瞑想にまつわる能書き
とりあえず、「私」。この私が体験している、この現実の創造主は、「私」。何となく理屈で理解してはいるけれど、実際に、自分を取り巻く世界を見つめると、「こんなもん、私が創造したってかあ?知らんわい!」ってものも多い。

私は、たった今、会社の上司(エライ人)の奥様から、奥様の運転手経由で頂いた、3時のおやつの「レバニーズ」お菓子を齧りながら、PCに向かっているが、私はこのレバニーズお菓子、好きじゃないんだよな。これも私が創造したわけえ?
納得できないなあ!

一方で、世の中、好きなものばっかでも、きっとツマンナイのだろーなーと、思ってみたり。

今日は時間切れなので、また、明日!