メリークリスマス!
今年最後の書き込みになると思います。最後を飾るに相応しいヘビーな話題をば、一つ(爆)
というか、数年経ってこの出来事がやっと「腑に」落ちました。
私には既にこの過去に対する感情ってのも存在せず、微笑みながら「そんなこともあった。そういう全てが今の私に繋がっている。ありがたい事です。」と回顧できるようになりました。時間かかったけど。(笑)
それは数年前。前パートナーと閑静な高級住宅地で不毛の生活を展開していた頃。時は2月頃だったと記憶している。夕暮れの時間が早かったのを覚えている。
私の住む場所は、宗教的制約が非常に多い事は何度も書いてますね(笑)なので、サイキック関係は全部「ハラーム!」。
しかしながら、当然、人間ですからみんなそういうのに興味があって、表面的には禁止されてる一方で、ブラックマジック大人気!らしいです。主に、ナイジェリア、エチオピアとかのアフリカ人が活躍している模様。あまりに怪しすぎて、私は近寄った試しがありませんが。
話が最初から脱線しました(笑)
さて、母が数年前に亡くなりました。脳溢血の発作で、突然の死。私は日本から母の亡くなったという連絡を受けましたが、葬儀の参加を一瞬、躊躇しました。
母は、亡くなる2年程前に、軽い脳梗塞の発作を起して、左半身に軽い麻痺が残っていました。その最初の発作の時に、私の実兄は「どうして、ひと思いに死ななかった?」と口走ったそうですが、私はその兄の心情が理解できます。兄もまた、ある意味、犠牲者だったのです。
この兄の言葉に、私達家族の過酷なレッスンが集約されています。
結局、私は葬儀に参加のために帰国する事になり、バンコク経由で帰国の途に付きました。バンコク乗り換えの飛行機は、日本人の観光客中心に満席でした。
する事もなく漫然とビールを飲んでると飛行機は成田空港に到着しました。安全ベルト装着サインが消えると、搭乗者はいっせいに立ち上がり、コンパートメントの手荷物を取り出し、われ先へと脱出路に並び始めました。
私はじっと座席に座ったまま、久しぶりに見る日本の山々や、成田近郊の田んぼ風景を見ながら、「マミー、帰って来たよ。あなたのお葬式のために。」と呟くと、あとからあとから涙が溢れて止まりませんでした。そして、そんな自分を予想していませんでした。葬儀は淡々と終了し、私はトンボ帰りで日本を後にしました。
母の死去も私の日常生活には、具体的な影響を及ぼす事もなく、いつもの生活に戻って、相変わらずの毎日を過ごしていました。
私はとある筋から「英国人霊媒師が街に来た!」という情報をゲットし、早速、予約しました。
彼女は「サイキック・サリー」と呼ばれ、ソコソコ有名だそうだ。
彼女は50代で、チャネリング能力が少女時代からあったそうだ。サリーは、「私はアンテナみたいなものです。私の周波数に合った「霊」がコンタクトしてきたり、周波数に合った世界が見えるのです。放送局みたいなもんと思って下さい。」
と説明して、アッサリとチャネリングが開始された。
私は懸案事項の、当時のパートナーとの不毛の関係を話すと、「あなたは、どうしても見つからないジグゾーパズルの最後のピースを探してるみたい。でも、それはもう見つからないわよ。パズルを箱に戻して棚に戻しましょう。」と言われた。
なるほど。上手い事言うな。と感心していました。
すると、サリーが突然、「あ、あなたのお母さんが出てきたわ!」と。お母さん、亡くなっているのね?と。
私は「は?」と何も言えずにいると、サリーは、それが本当に私の母だと証明するために、父の名前を母に聞くと言います。そして、奇妙な発音ですが、まさしく、私の父の名前をサリーは口に出しました。私は驚いて、「はあ?」なまま。
サリーはさらに、チャネリングを続けます。そして、「変ねえ。あなたのお母さん、檻のような中にいるわ。。」と。私は愕然としました。
それは私達家族の不幸の原因(と昔はみんな思っていたであろう)であった、母の精神の病を象徴するものなのです。幼い私の最初の母の記憶は、病院に入院する母を見舞って、入院先の病院を父と訪れた光景なのですが、昔の事ですから、発作を起して暴れるような患者は「檻」に収容していたのでしょう。
母は檻の中のベッドに静かに横になっていました。
今思えば、姑(私の祖母)の強烈な個性に、お嬢様育ちの母はついていけなかったのだろうと思う。が、そんな理解を示す事が可能になったのは大人になってからで、子供の頃は、ヨソのお母さんと違う母を、激しく嫌い、呪い、罵声を浴びせたものです。
おっとりとした性格の母は、いつも黙って何も言わなかった。無言の反抗なのか、母は殆ど実家に帰って、子供の世話は祖母が一手に引き受けていた。
賢くてしゃっきりした明治生まれの祖母を、私達きょうだいは溺愛し、尊敬し、母に代わって女神のように思っていた。
母が実家に戻ってしばらくすると、「世間体が悪い」と言って、父が母を実家から連れ戻していた。ずっと実家にいればいいのに、と私は思っていたものだ。
私の父は自営業だったため、金銭的には非常に豊かに育った。が、しかし、母の愛情(自分が思ったような愛情)で満たされる事がサッパリ無かった私は、愛に対する飢餓感、不信感を大きくはぐくみ、お金に対する嫌悪感も同様に甚大であった。
実家の富を象徴する大きな屋敷も、私にとっては中はカラッポで、何の意味も持たない、というより、不幸の象徴ですら、あった。
「お金なんかいくらあったって、全然幸福じゃないじゃない。同級生のXXXちゃんは貧乏だけど、いいお母さんに恵まれて幸せそうでいいな!」といつも思っていた。この頃から、お金に対する嫌悪感が生まれていたのですねえーーー。
やっと最近クレンジングできるようになりました。
自分で言うのもなんだが、子供の頃は神童でもあったが(爆)、そんなもん、当たり前過ぎて、全然嬉しくなかったものです。
私は経済的豊かさより、学習能力の高さより、「優しいお母さん」に激しく渇望していたのです。(今思えば、で当時は諦めていた。) 人は無いものねだり、の典型を見るようである。
与えられたものに、喜びなんかサッパリ感じる事ができませんでした。
そんな、他人には決して言えない私の「悲しい思い出」をサリーにイキナリ言われて、私はただただ唖然としていた。
そして、サリーは言う。「あなたのお母さんは、あなに贈りものだと言って、大きな赤い花を、一輪、手にしているわ。」 私は頭がボーっとなっていた。
「お母さんが、「私の死因に関しては深く考えなくていい」と言ってるわ。」と。サリーは無言の私を気ずかいながら、さらにチャネリングを続けていく。
「お母さんは、「あんな環境だったから、愛を分かち合う事ができずに、済まなかった。来世でまた、親子でも姉妹でも何でもいいから再会して、今度は、愛を分かち合おうね。」と言っている、」と。
その言葉を聞きながら、私は涙が止まらなかった。
「これからの人生も、どこかで見守っているわ。先の事は大丈夫よ。心配しないで。」母はそんな事も言っていた。サリーが涙でくしゃくしゃの私に気を使って、何か言ってくれた。
その後、また母と交信しようと試みたが、「ああ、あなたのお母さん、もういないわ。」
私は突然の母の出現に、聞きたい事とか、そういう事は何も考えられない状態であった。
サリーは「こんな感動的なセッションは滅多に無いわ。もうこれで十分ね。」と言ってチャネリングを終えた。
私はその場所で、しばらく呆然としながら、息を整え、家に帰る事にした。その場所は家から徒歩の場所であった。夕暮れが早い時期、だったと記憶している。家に帰ると、辺りは夕暮れで、静かに薄暗くなり始めていた。
私は呆然としながら家に戻り、門を開け、玄関に向かった。そして、「ふ」と気になって庭に出てみた。庭にはたくさんの赤いハイビスカスが咲き乱れていたから、である。
しかし、ハイビスカスは太陽が沈むと花を閉じるので、その時間は既に花が閉じていた。
それでも、まっすぐに庭を横切ってハイビスカスの植え込みの前に立ってみると、ひとつだけ、ポツンと花を閉じていないハイビスカスが、私に向かって大輪の赤い花を広げていた。私の帰りを待ってたかのように。。。
私は全身の力が抜けるのを感じた。何も考えられなかった。涙さえ出なかった。その場に、ヘナヘナと座り込んで、頭を抱えていた。その後、私は激しいエネルギーの消耗を感じ、ベッドで横になっていた。頭の中では、いろんな事が整理つかないまま、とっ散らかっていた。
その後、いろいろ学ぶ事も多く、「人は繋がっている。」事や、目に見えないけど、確実に存在する世界があることを知るようになる。母とチャネリングで出会ったのはこの一度だけ、であるが、それで十分であるなあ、と思っている。母の後を追うように、2年後父も他界した。
家族というのは、何であれ多大な影響を受けるものであるな、と感じずにはいられない。私の根深かった心の暗闇も、この幼少時代に味わった「絶望」が生み出したものであろう。一般的な幸、不幸なんて無い。幸福の指標なんてものは無い。ひょっとしたら幸福なんて無いのかも知れない。幸福が無いって事は、不幸も存在しない、という事である。
あるのは、・・・・・あなたは、何だと思いますか?
私は不良になっても、人の道を踏み外してもおかしくない環境で育ちながらも、「カワイソウな環境だったから、ああなった。」とだけは言われたくなくて、ずっと頑張ってきた。相当な努力をして来た。
諦めた事がらも沢山あった。
しかし、それがシーソーの左端の末端に寄った結果、だとすると、今、私は右側に大きく振れていくしかないのである。自然の摂理である。
絶望の反対側、私は長きに渡って絶望側を追求していたので(爆)、もう、末端まで来たら、絶望の反対側に行くしかないのである。どんな未来が待ってるか、楽しみである(笑)
このような事をこういうところに書けるようになっただけでも、大きな変化。自分自身の事を随分客観視できるようになった。
昨日も、悩める主婦の友人と遅くまで語り合っていたが、「私は私の住む環境が何であっても、私自身は環境によって変化しないことを確信したよ。ハスの花は泥水から生育して、美しい花を咲かせるけど、人はその美しさ楽しむことができるでしょう?何処から生えてきたにせよ。」そんな説教をしていた(笑)
彼女には彼女のレッスンがあり、試行錯誤、紆余屈折しながらも「生きよう」としている。私は何も出来無いし、彼女のレッスンの邪魔をする気は無いけど、彼女の話を聞きながら、私の思った事をストレートに話している。
愛の気持を基本にしていれば、一瞬はムッとしても、やがて愛の気持は伝わるように出来ている。何年、何十年かかっても。
それは私の母が差し出した、赤い一輪の花、のようでもある。
皆さま、御精読ありがとうございました&良いお年を!!
今年最後の書き込みになると思います。最後を飾るに相応しいヘビーな話題をば、一つ(爆)
というか、数年経ってこの出来事がやっと「腑に」落ちました。
私には既にこの過去に対する感情ってのも存在せず、微笑みながら「そんなこともあった。そういう全てが今の私に繋がっている。ありがたい事です。」と回顧できるようになりました。時間かかったけど。(笑)
それは数年前。前パートナーと閑静な高級住宅地で不毛の生活を展開していた頃。時は2月頃だったと記憶している。夕暮れの時間が早かったのを覚えている。
私の住む場所は、宗教的制約が非常に多い事は何度も書いてますね(笑)なので、サイキック関係は全部「ハラーム!」。
しかしながら、当然、人間ですからみんなそういうのに興味があって、表面的には禁止されてる一方で、ブラックマジック大人気!らしいです。主に、ナイジェリア、エチオピアとかのアフリカ人が活躍している模様。あまりに怪しすぎて、私は近寄った試しがありませんが。
話が最初から脱線しました(笑)
さて、母が数年前に亡くなりました。脳溢血の発作で、突然の死。私は日本から母の亡くなったという連絡を受けましたが、葬儀の参加を一瞬、躊躇しました。
母は、亡くなる2年程前に、軽い脳梗塞の発作を起して、左半身に軽い麻痺が残っていました。その最初の発作の時に、私の実兄は「どうして、ひと思いに死ななかった?」と口走ったそうですが、私はその兄の心情が理解できます。兄もまた、ある意味、犠牲者だったのです。
この兄の言葉に、私達家族の過酷なレッスンが集約されています。
結局、私は葬儀に参加のために帰国する事になり、バンコク経由で帰国の途に付きました。バンコク乗り換えの飛行機は、日本人の観光客中心に満席でした。
する事もなく漫然とビールを飲んでると飛行機は成田空港に到着しました。安全ベルト装着サインが消えると、搭乗者はいっせいに立ち上がり、コンパートメントの手荷物を取り出し、われ先へと脱出路に並び始めました。
私はじっと座席に座ったまま、久しぶりに見る日本の山々や、成田近郊の田んぼ風景を見ながら、「マミー、帰って来たよ。あなたのお葬式のために。」と呟くと、あとからあとから涙が溢れて止まりませんでした。そして、そんな自分を予想していませんでした。葬儀は淡々と終了し、私はトンボ帰りで日本を後にしました。
母の死去も私の日常生活には、具体的な影響を及ぼす事もなく、いつもの生活に戻って、相変わらずの毎日を過ごしていました。
私はとある筋から「英国人霊媒師が街に来た!」という情報をゲットし、早速、予約しました。
彼女は「サイキック・サリー」と呼ばれ、ソコソコ有名だそうだ。
彼女は50代で、チャネリング能力が少女時代からあったそうだ。サリーは、「私はアンテナみたいなものです。私の周波数に合った「霊」がコンタクトしてきたり、周波数に合った世界が見えるのです。放送局みたいなもんと思って下さい。」
と説明して、アッサリとチャネリングが開始された。
私は懸案事項の、当時のパートナーとの不毛の関係を話すと、「あなたは、どうしても見つからないジグゾーパズルの最後のピースを探してるみたい。でも、それはもう見つからないわよ。パズルを箱に戻して棚に戻しましょう。」と言われた。
なるほど。上手い事言うな。と感心していました。
すると、サリーが突然、「あ、あなたのお母さんが出てきたわ!」と。お母さん、亡くなっているのね?と。
私は「は?」と何も言えずにいると、サリーは、それが本当に私の母だと証明するために、父の名前を母に聞くと言います。そして、奇妙な発音ですが、まさしく、私の父の名前をサリーは口に出しました。私は驚いて、「はあ?」なまま。
サリーはさらに、チャネリングを続けます。そして、「変ねえ。あなたのお母さん、檻のような中にいるわ。。」と。私は愕然としました。
それは私達家族の不幸の原因(と昔はみんな思っていたであろう)であった、母の精神の病を象徴するものなのです。幼い私の最初の母の記憶は、病院に入院する母を見舞って、入院先の病院を父と訪れた光景なのですが、昔の事ですから、発作を起して暴れるような患者は「檻」に収容していたのでしょう。
母は檻の中のベッドに静かに横になっていました。
今思えば、姑(私の祖母)の強烈な個性に、お嬢様育ちの母はついていけなかったのだろうと思う。が、そんな理解を示す事が可能になったのは大人になってからで、子供の頃は、ヨソのお母さんと違う母を、激しく嫌い、呪い、罵声を浴びせたものです。
おっとりとした性格の母は、いつも黙って何も言わなかった。無言の反抗なのか、母は殆ど実家に帰って、子供の世話は祖母が一手に引き受けていた。
賢くてしゃっきりした明治生まれの祖母を、私達きょうだいは溺愛し、尊敬し、母に代わって女神のように思っていた。
母が実家に戻ってしばらくすると、「世間体が悪い」と言って、父が母を実家から連れ戻していた。ずっと実家にいればいいのに、と私は思っていたものだ。
私の父は自営業だったため、金銭的には非常に豊かに育った。が、しかし、母の愛情(自分が思ったような愛情)で満たされる事がサッパリ無かった私は、愛に対する飢餓感、不信感を大きくはぐくみ、お金に対する嫌悪感も同様に甚大であった。
実家の富を象徴する大きな屋敷も、私にとっては中はカラッポで、何の意味も持たない、というより、不幸の象徴ですら、あった。
「お金なんかいくらあったって、全然幸福じゃないじゃない。同級生のXXXちゃんは貧乏だけど、いいお母さんに恵まれて幸せそうでいいな!」といつも思っていた。この頃から、お金に対する嫌悪感が生まれていたのですねえーーー。
やっと最近クレンジングできるようになりました。
自分で言うのもなんだが、子供の頃は神童でもあったが(爆)、そんなもん、当たり前過ぎて、全然嬉しくなかったものです。
私は経済的豊かさより、学習能力の高さより、「優しいお母さん」に激しく渇望していたのです。(今思えば、で当時は諦めていた。) 人は無いものねだり、の典型を見るようである。
与えられたものに、喜びなんかサッパリ感じる事ができませんでした。
そんな、他人には決して言えない私の「悲しい思い出」をサリーにイキナリ言われて、私はただただ唖然としていた。
そして、サリーは言う。「あなたのお母さんは、あなに贈りものだと言って、大きな赤い花を、一輪、手にしているわ。」 私は頭がボーっとなっていた。
「お母さんが、「私の死因に関しては深く考えなくていい」と言ってるわ。」と。サリーは無言の私を気ずかいながら、さらにチャネリングを続けていく。
「お母さんは、「あんな環境だったから、愛を分かち合う事ができずに、済まなかった。来世でまた、親子でも姉妹でも何でもいいから再会して、今度は、愛を分かち合おうね。」と言っている、」と。
その言葉を聞きながら、私は涙が止まらなかった。
「これからの人生も、どこかで見守っているわ。先の事は大丈夫よ。心配しないで。」母はそんな事も言っていた。サリーが涙でくしゃくしゃの私に気を使って、何か言ってくれた。
その後、また母と交信しようと試みたが、「ああ、あなたのお母さん、もういないわ。」
私は突然の母の出現に、聞きたい事とか、そういう事は何も考えられない状態であった。
サリーは「こんな感動的なセッションは滅多に無いわ。もうこれで十分ね。」と言ってチャネリングを終えた。
私はその場所で、しばらく呆然としながら、息を整え、家に帰る事にした。その場所は家から徒歩の場所であった。夕暮れが早い時期、だったと記憶している。家に帰ると、辺りは夕暮れで、静かに薄暗くなり始めていた。
私は呆然としながら家に戻り、門を開け、玄関に向かった。そして、「ふ」と気になって庭に出てみた。庭にはたくさんの赤いハイビスカスが咲き乱れていたから、である。
しかし、ハイビスカスは太陽が沈むと花を閉じるので、その時間は既に花が閉じていた。
それでも、まっすぐに庭を横切ってハイビスカスの植え込みの前に立ってみると、ひとつだけ、ポツンと花を閉じていないハイビスカスが、私に向かって大輪の赤い花を広げていた。私の帰りを待ってたかのように。。。
私は全身の力が抜けるのを感じた。何も考えられなかった。涙さえ出なかった。その場に、ヘナヘナと座り込んで、頭を抱えていた。その後、私は激しいエネルギーの消耗を感じ、ベッドで横になっていた。頭の中では、いろんな事が整理つかないまま、とっ散らかっていた。
その後、いろいろ学ぶ事も多く、「人は繋がっている。」事や、目に見えないけど、確実に存在する世界があることを知るようになる。母とチャネリングで出会ったのはこの一度だけ、であるが、それで十分であるなあ、と思っている。母の後を追うように、2年後父も他界した。
家族というのは、何であれ多大な影響を受けるものであるな、と感じずにはいられない。私の根深かった心の暗闇も、この幼少時代に味わった「絶望」が生み出したものであろう。一般的な幸、不幸なんて無い。幸福の指標なんてものは無い。ひょっとしたら幸福なんて無いのかも知れない。幸福が無いって事は、不幸も存在しない、という事である。
あるのは、・・・・・あなたは、何だと思いますか?
私は不良になっても、人の道を踏み外してもおかしくない環境で育ちながらも、「カワイソウな環境だったから、ああなった。」とだけは言われたくなくて、ずっと頑張ってきた。相当な努力をして来た。
諦めた事がらも沢山あった。
しかし、それがシーソーの左端の末端に寄った結果、だとすると、今、私は右側に大きく振れていくしかないのである。自然の摂理である。
絶望の反対側、私は長きに渡って絶望側を追求していたので(爆)、もう、末端まで来たら、絶望の反対側に行くしかないのである。どんな未来が待ってるか、楽しみである(笑)
このような事をこういうところに書けるようになっただけでも、大きな変化。自分自身の事を随分客観視できるようになった。
昨日も、悩める主婦の友人と遅くまで語り合っていたが、「私は私の住む環境が何であっても、私自身は環境によって変化しないことを確信したよ。ハスの花は泥水から生育して、美しい花を咲かせるけど、人はその美しさ楽しむことができるでしょう?何処から生えてきたにせよ。」そんな説教をしていた(笑)
彼女には彼女のレッスンがあり、試行錯誤、紆余屈折しながらも「生きよう」としている。私は何も出来無いし、彼女のレッスンの邪魔をする気は無いけど、彼女の話を聞きながら、私の思った事をストレートに話している。
愛の気持を基本にしていれば、一瞬はムッとしても、やがて愛の気持は伝わるように出来ている。何年、何十年かかっても。
それは私の母が差し出した、赤い一輪の花、のようでもある。
皆さま、御精読ありがとうございました&良いお年を!!