宇宙の秩序に調和しながらの煩悩達成日記

自己実現。そうです、願望実現を通して、自己をさらに深く知ってみようという実験の日記ざます!

境界線-魔術師の極意

2007-10-31 17:28:19 | 瞑想にまつわる能書き
胡散臭いなあと思いつつ、なんだか、言い古されていた「言葉」が輝きつつ、腑に落ちるのを実感する昨今。
今朝もなんか、おおお!と自分的に思える「言葉」がハートに染み込んだ。

今朝、寝相の悪い私はベッドの上でゴロゴロ転がりながら目が覚めた。
何かしら寝ながら思索していた様子で、目が覚めた時に、結論らしきものを導き出していた。
おそらくは、ワンネスについて考えていたのではないかと思う。
結論は、『私の世界に存在する全ては、みーんな【わたし】なんだから、ちょっとフォーカスすれば、その存在のキモチを理解できるよ。』であった。
対象が鉱物でも、人でも機械でも、なんでも。魔術師が魔術師たる所以は、これに尽きる。
瞑想も一つの手法である。

自分が自分と思ってる(認識している)もの以外、例えば他の人、に意識を集中し、同調する。同調には技術は必要ない。思い浮かべれば良い。
しかし、その際に、「わたし」のエゴちゅうか、思い込みが少なければ少ないほど、相手というか対象のキモチがわかるのである。
自分の思い込み、それは「判断(ジャッジメント)」である。イイとか悪いとか、好きとか嫌いとか、なんだとかかんだとか。そういのが私を構築してると
思いがちだけど、多分、違う。 それはいわば、思考のカスではないかと思うのよ。カスにしがみ付いたりしても意味ないので、捨てるが一番ね。

良く、判断してはいけません、とか、全てを受け入れましょう、とか本に書いてあるけど、ある意味、その通りである。簡単ではないけどね。
「わたし」という思考のカスが(笑)自分と他にマボロシの境界線を作ってしまうのである。この境界線、要らないんだよね、ホントは。
他人は自分であり、自分は他人である。 一つ、なんである。結局のところ。

私は細胞分裂ファンである(爆) 誰が思いついたんだろうね?あの機能。
人間の例で言えば、受精卵がどんどん分裂していって、ヒトになっちゃうんだよね。凄いよね!最初はひとつ、ここがポイント。一つから分裂して増加していったのだから、もとは一緒よね。
しかし。
私の手の指の爪になった細胞は、分裂の段階で、「私は爪になる!」と思ってなったのだろうか?
私の白髪は、「私は髪の毛になる!でも白髪ね!」と自ら選択したのだろうか?
そこには何の意思も無いのだろうか?じゃあ、誰が何が一つの細胞から分裂して増殖しようとしたわけ?

私の足の甲。確かに足の甲はあり、その皮膚は体中でつながっている。足の甲は太ももではないのは確かだが、でも、足の甲と足首の境界線ってどこ?無いよね。
私が私と思ってるのは足の甲の部分であり、太ももは他人と思ってるんだよね。でも機能は確かに違うけど、境界線は無いのです。太ももと足首の間にはふくらはぎ、があるけど、足首とふくらはぎの間には明確な境界線は存在しない。
なので、足の甲は太ももの一部であり、ふとももも、ある意味、足の甲なんである。

何を考えてるのか、私(爆)

そそ。境界線。自分と他人は違うと思う以上、そこには境界線がある。思い込み境界線。でもホントは実在しないんだよね、これ。この境界線を構成してるのが、判断であったりするわけで。判断をやめれば、境界線、無くなるんではないかな。

何でこんな事を考えてるのか自分でもワカラナイんだけど、ホントは(笑)まあ、好きなんですね、きっと。だからって何だって事も無いのですが。こうしてウダウダ考えをめぐらすのが、楽しいのかもね(笑)
そか、そっかー!と思う事が増えるたび、私の心の空も来クリアーになっていくようで、楽しいのだ。

会社でのイジメもゲームと思えるようになった。ゲームに本気になった時点でゲームオーバー。なので、私はゲームと思ってる間は大丈夫、そんな気がしている。イジメちゅうほどのイジメでもないけど(笑)

許すこと、愛すること、受け取ることが同時に起きると・・・?

2007-10-25 22:04:07 | 瞑想にまつわる能書き
いやはや、不思議な体験をしたので、せっかくだから記録しておこう。

愛する事と許し、は同時に起きるのかも知れない。
最近のヒット、サージ・キングシリーズ(笑)が結構気に入っていて、I Love You,I am Sorryかあ!
なーんて思っていたのが少し前。
最近は雑事に紛れて、精神性を高めるとか瞑想とか覚醒とか(笑)、そういうかつて私の暇つぶしの対象で、そこそこエネルギーを費やしてた対象からは、遠ざかり、読書もせず、瞑想もせず、世事に没していたのであった。

ま、それはそれでね、そういう時期なのかと。悟っても悟らなくても、とりあえず、人生の時間は流れる。案外、雑事に紛れて漠然と生きるのも悪くなく、覚醒とかの暇つぶしが、特に恋しくもなかったのである。

そんな中で、中東に住む私はラマダンという断食月を追え、相変わらずの日々を過ごしていた。
私は日本企業で働いているので、必然的に周りは日本人。ボスも日本人という環境。
この会社、あまり好きではないが、結局のところ現在に至っている。転職先が見つかれば、いつ変わってもいいや、って思って数年(笑)

この5月。一目で、「あ、こいつとは合わないな。ってか、相性最悪ではないか?」(爆)というオヤジが日本からやってきた。
私は根暗で、イジイジして回転が遅いヤツが苦手。細かい人もだめ。イジワルな人も大嫌い(笑)ETCだが、ぬあんとこのオヤジ、その「大嫌い!」を全て網羅してやってきた!んである。

ついに来たか!(笑)

って思ったよね。最初から。でも私もあまり波風立てたくないので、テキトーにあしらってきた。が、オヤジは権限上、私の上なので、権限を振りかざすようになってきたのである。
そして、オヤジはオヤジが気に入らない事に対しては、感情的な言葉を口走るのであった。私はそういう感情的な男が大嫌いなんである。

日本企業であり、駐在員と現地採用の身分の差(爆)、日本人男性のエゴ(できる女性に対して)、エリートが多い会社でのオヤジのコンプレックス(オヤジは2流卒)、先が見えてきた50代サラリーマン男性の鬱憤等、いろんな状況が入り混じっていた。
そして、人数少ないのに、日本人オヤジ間でポリティクスが渦巻いていた、のである。

詳細は省くが、私はかつてないほど、このオヤジの対私への言動に感情を乱し、最終的には、オヤジの言動に対して、殺意さえ覚えた、ほどである(笑)
私にとって、それは、イジメを通り越していたが、私の立場とオヤジの立場@仕事場のみ、で私は打つ手が全く無かったのである。こういう状況がさらに私のフラストレーションを高めていったのである。
私にできる事は、悲しい事に、オヤジが乗った飛行機が落ちますように、とかオヤジが交通事故に遭います様に、とか祈る程度であったのだ(爆)
イジメの達人は、逃げ道を絶ってからイジメる。私の場合もまさにその通り。オヤジは私の性格を見抜いて、私が思い切った反抗ができない性格であり、また、私は会社の政治地図を熟知しているがゆえ、誰にも訴えることが出来ない事、そして解決できる人物が存在しない事、を知っていたのである。

そんな状況に私がいつまでも安住できるわけがない(爆)私は粛々とオヤジへの報復手段を探していた。そして、ついに尻尾を捕まえた、のである(爆)
人を呪わば、穴ふたつ。私は穴に落っこちても、オヤジを苦しめたかった、のである。
私が捕まえた尻尾は、なかなかである。周到に計画を練り、復讐大作戦は実行間近?と思われた。
オヤジはそんな私の心情を知ることもなく、相変わらず陰湿に取り付いてくるのであった。私のハートは最低、であった。

しかし、私は日常的には何事もないかの如く振舞い、週末をひたすら待ち望む、という、そういう感じであった。

そんな矢先に事件は起きた。
私は出張中のオヤジに、承認を求めるメールを出した。それに対して、意外な返事が戻ってきたのである。私はそのメールに激怒した。激怒を簡単に通り越した。
事件直後、同居人に電話したものの、電話に出ず、私は良き相談相手として軟着陸した前夫に電話した。
そして、「こんなにヒドイ目にあってるんだよう!」と説明しながら、泣けて泣けて仕方なかった。会社で、である。人前で絶対泣かない私が、である。

私はオヤジの悪意が、オヤジの意図通りに、私の心臓を突き刺すのを感じていた。
そして、このオヤジを苦しめるためなら、何でもする!と復讐を誓ったのである(爆)

同居人にも何度も説明したが、「日本人のメンタリティが理解できない。」と言われ、彼のアドバイスは、「日本人の友達に会って状況説明して、的確なアドバイス貰え。」であった。
が、私には日本人の友人は約2名しかいないのが現状であった(爆)。そして主婦なので、夜誘い出すのは、はばかれたのである。

私は感情的な問題に有効な解決策は無いと思っている。
当然、修行中の身であるので(笑)、私がこの問題から学ぶものは何ですか?教えて!神様!と心で訴えもした。
私自身の中にある「オヤジ的性質」が、鏡のように眼前に現れているのだろうか?と自分を責めながら、何度も自問自答した。何も意味の無いことは起きない、全てのことに意味がある、って言うけど、どういうこと?とか(笑)自問は果てしなく、続いていった。
私は解決策として、報復(爆)を選択しようとしていた。

そして、なぜかこのオヤジとのコンフリクトは、会社で泣き出した事件以降、私の頭から離れなかったのである。
そして、私の酒量は一気に増量!(爆)いいこと何も無し!状態なのであった。
どんどん気分は悪くなる一方で、私と同居人の会話も、オヤジの話。同居人にアドバイスを求めると、やはり、「私には理解できない。 日本人の友達に話した方がいい。」との回答であった。その通り、である。

日本人友人からメールが来たのは、当然、同居人のアドバイスがあった日、その日(笑)「夫が出張に出たので、夜出かけられます。夕食でも一緒にどう?」という内容。当然、OKし、同居人も快く送り出してくれた。

友人とラーメン屋に行き、ああでもない、こうでもないと世間話をする。それはそれで楽しい時間を過ごすことができた。
ラーメン屋のあとカフェに行き、さらにおしゃべりをして、帰宅したのは12時を回っていた。
優しい同居人は待っててくれたが、すぐにオヤスミを言って寝てしまった。私は寝つけずに、起き出して滅多に飲まないラム酒をストレートで飲んでみた。
友人は酒を飲まないので、その夜、私はアルコールを口にしていなかったのである。

数杯のラム酒で私は酔っていた。そして、なぜか!昔の写真が見たくなったのである。昔の写真と言っても、かなり処分したので薄いアルバムに2冊程度。
それを久しぶりに見た。こんな写真あったんだ、って思うくらい久しぶりに。

それは今から20年ほど前(爆)初めてイタリアを訪れた時の写真であった。
そして、私はとっても驚いた。何故なら、写真に写るワタクシは、とっても魅力的で、輝いていたのである。
ええ?私ってこんなに可愛かったっけ?(爆)と、我ながら驚いたのである。ウヌボレ、でなく(笑)

私は若い頃も一般受けする性格ではなく、多分、今以上に極端な性格だったのだと思う。なので、当時の男を立てる女がもてはやされた時代では、敬遠されていたのであった(笑)ので、恋愛には苦労が絶えなかったのである。
その苦労がトラウマになり、自分は女性として価値が低いと思い込むようになったように思う。なので、女として土俵に立つことを無意識に避け、他の分野で勝負に出る、という選択をしたように思う。とはいえ、そのために特に努力もしてないんだけど。単に土俵を降りただけ?(爆)いずれにせよ、私は女としての自分にかなり低い評価を与えていた。その基準は、恋愛の満足度が基準であったと思う。が、私はハッピーな恋愛とはおよそ無縁だったため、自己評価はゼロに等しかったのである。

おそらくは、こういうのが起因して、その後の私の人生は、自己評価ゼロから全てが始まっていたように思う。どうりで、行き先々で、散々な目に遭って来たように思う(爆)
自己評価は自分が決定するもの、という人生の黄金律に、私は気が付いていなかったのであった。

私は若い頃の自分を、贔屓目でなく、素晴らしい!と思えた。こんなに素敵だったのに、自信持つことができず、すまなかった、と自分自身に詫びたのでした(笑)
そして、とってもとっても、素敵だよ!と誉めてあげたのでした。
相当、酔っ払ってたのでしょうか?(爆)

かなりな量のラム酒をあおったため、翌朝、自分の吐息にラム酒の香りを感じつつ出社。メールBOXを開けると、オヤジからの「イヤミ付きメール」がどっさり!(爆)
いつもの朝は、ここでいきなり血圧が沸騰点に達し、きぃぃぃぃーー!と叫びたい気分を抑えて、1日が始まるのである。
が。私はその朝、「このバカたれが。相変わらずだな。」で過ぎてしまったのである。

あれ?それだけ?たったそれだけ?

自分で自分の態度にびっくり!全然、感情に波が立たないのである。以前なら、ここでメラメラと殺意を覚えたのに、である。

以前の私はオヤジからのイヤミメールに、丁寧に全部返事を出していた(爆)が、今回は、そういう事もしなかった。放置、である。
感情が振り切れるほど揺れたのに、この朝は、まったく、不動だったのである。
あれ?あれ?あれれれ?とキツネにつままれたような気分。
何か特別な事が起きたわけでもないのに、どうしたの?この変化???

私は思った。昨夜の一件、である。昔の私にお詫びすることで、私は私自身を許し、私自身に許されたような気がしたのである。そして、とんでもなく深く癒された、ように思えたのである。
オヤジに反応しない自分。私にしては信じられない出来事で、奇跡、なのである。

当然ながら、その後、オヤジからメールが来なくなった(爆)

同時に、同居人がとってもラブリーに変身したのである。前から優しい人ではあるが、あまり見せようとしなかった「思いやり」を見せるようになったのである。
私は心のどこかで、彼に対して、「でも、あなたは私に惚れてない!」って思い込んでいたのである。思い込んだ理由は、例の過去のトラウマが起因していたのかも知れない。眼前の彼は、あれ?ってくらい、スイートになったのである。一緒にいるだけでハッピー、って思えるくらいに(爆)

貴重な体験であった。日常の出来事、つまり外側は全く変化していない。昨日と同じ今日、なのに、私の内側は豹変、したのであった。
きっかけは、自分の過去を許し、癒し、愛してあげたこと、それ以外思いつかない。
私の内側が変われば、外側の世界も同時に変わる、みたいだ。今回、それが『腑に落ちた』のである。

人生に必要なのは、目的を持つことでも、達成することでも、何かを所持する事でも、何者かになることでもない。
人生が用意された意味は、『体験』これに尽きるのではないかと思う。体験から導き出す「答え」なんかどうでもいい。 結果ではなく、「体験すること」それに全てが集約されるのではないか、と思った。
結果、というか体験して「感じること」はそれこそ千差万別、である。が、感じることは体験無くしては、あり得ないのである。

私が私として「体験」すること。これは多分、私以外の誰にもできないこと、である。
そうか。
これが「今を生きる」事なのかもしれない。今を体験する。体験し続けていくこと。
その先にあるものにフォーカスすることなく、「いま」だけにフォーカスすればOKなのである、多分。

これから先の人生は、おまけかな?(爆) いつ死んでもいいかな。って気がしている。そして、なんか満足している(笑)
過去なんて過ぎてしまったからどうでもいいや、って思ってたけど、過去もやっぱり「いま」にあるみたい。
だから、過去を癒すと、同時に、自動的に今の自分を癒せるみたいだ。

癒し。それは、愛することと愛を受け取ることが同時に瞬時に起きること、です。