アーシュラマ。
ヒンドウ教では、人生を4つの時期に分類し、それぞれの目的
などを教える。 日本語では四住期、というのかな。
こんな感じ。
第一は学生期(がくしょうき)訓練と教育の期間、教育と激しい労働に積極的に参加する期間。
知識とヨーガ(身体と精神の鍛錬法)は常に重視され、その訓練を伴う教育は青年にとっては
最も大切な宗教的努めとみなされる。
第二は家住期(かじゅうき)
一家の主人として社会で積極的に活動する期間。
社会構造の全体に統一と結束をもたらし、社会生活の理想を懸命に実現しようとするこの段階において
ヒンドゥー教徒は結婚し活動的な生活をおくることになっている。
他の三つの段階はすべてこの期間に依存していることからも、ある意味では人生の四時期の中心であるとみなされる。
定められた行為を行え。行為は無にまさり、あなたの身体は無為によって維持することはできない。
人間は活動し、その義務を果たさなければならない。
しかもそれは無私のものでなければならず、ましてや報酬のためや天国へ入るためであってはならない。
しかしながら、この世俗的な家住期における成功だけでは十分であるとはみなされていない。
第三は林住期(りんじゅうき)
物質的世界での成功は確かに立派ではあるが、それだけで十分であるとはみなされず、
そこに解脱という思想が登場してくる。
解脱とは単なる否定の状態ではない。それは行為(業、カルマ)の絆すなわち再生から解放されて自由となり、
存在に満ちあふれた、完成の境地である。個人的自由を求めての世捨て(出家)であり、仏教の涅槃の観念と同様に、
輪廻再生の輪からの脱出である。
第四は遊行期(ゆぎょうき)
林住期において世俗的な結びつきをゆるめて、その後の遊行期において隠者としての生活を送るように定められている。
このように普通の生き方に比べ、理想的人間は、徐々に世俗の生活から隠退して、俗世における成功ではなく、
解脱に思いをいたすべきものとされている。
こうして出家遊行の生活は、理想的人間の生活の重要な一部分となる。
まあ、人によっては最初から遊行期の人もいるかもだし、第二期のまま人生を終える人だっているかもだ。
私は、第四期、といいたいところだが、日常生活を振り返ると、この4つの時期が生活の中に混在してるような気が
しないでもない。
私は人間関係を拡大しようとは、全く思っておらず、逆に縮小の方向に向かっている。
仕事柄、毎日人に会うし、常連さんとはそれなりに個人的な話をしたりもする。
が、私の中では、常連さんもあくまでお客さん。滅多なことでは、店の外で会わないし、店を閉めた後に
どっかへ繰り出すとかはほぼ無いに等しい。
家と食堂の往復のみが日常で、そこに市場への買出しが加わる程度。
人目を避けてるわけでもなく、人間関係を構築するのがメンドウなのと、無くても困らないのと、最早、そういう
要求も無い、必要性を感じないのである。
そんな私が、ある日、珍しく電気屋にいた。
たまたま電気屋のそばに用事があって出向き、冷凍庫の値段でも見ようと中に入ったのである。
冷凍庫売り場は奥まった場所にある。冷凍庫、つうても3台程度しか売ってないが。
私が冷凍庫のフタを開け閉めしていたら、遠くの電子レンジ売り場から、フィリピン人英語で大声で話す声が
聞こえてきた。
「日本製品がいい、って言って!」大声の主は、フィリピン人のおじさんみたいなおばさんwwwだった。
おばさんは、現地語を話せないので通訳付き。通訳に大声で要求を述べていたのである。
私はおそらくどっかの国の大使館職員の奥さんかと思った。 外資系の企業、及びその支店が存在しないので
外国人は、ほぼ、外交官か国連とかの国際公務員、なんである。
私は、その大声の持ち主の声をかけた。
「あのー!日本製品をご愛用いただき、ありがあとうございます!」
こんなことは、私にとっては、大変に珍しい行為である。なぜか、その日は声を掛けたくなったのだ。
聞けば、米国の外交官の奥さんだった。
私がインド食堂を経営してると話したら、早速、その夜、ご主人を連れて来店したのである。
その後、ちょくちょく来店してくれた。
ある日、奥さんが例の大声で、「ダンス教室を発見したわよー!あなたも来なさいっ!!ラテンダンスよ、
ラテン!」
その大声に圧倒されて、私は、行きます、明日、行きます、と同意したのである。
数年ぶりに鏡を見て音楽に合わせて、カラダを動かした。
予想はしていたが、その退化ぶりに唖然wwwww
そして、すっかり良くなったと思っていた左手の骨折。 両肩をグルグル回す準備体操で、肩が回せない
事に気が付いた。骨折の後遺症を発見したのである。
まあ、すっかり退化したというか何か。
でも。
数年ぶりに運動で汗を流す快感を味わったのである。
大声おばさんは、ダンス教室のあとに食堂でお茶して世間話をして帰るのだが。
大声で元気良く快活に話すおばさん。
1、2回の会合で、すでにおばさんの半生を知るまでになった私である。
とにかく元気。
なので、「お父さんは漁師でね、すっごくビンボーだったのー。兄弟が13人もいたのよー。」と
苦労話をしてくれるのだが、明るく元気良く語る彼女の苦労話は、なんか楽しい昔話みたいなのだwwwww
おばさんは、ご主人の転勤で世界を転々としていたので、米国に長く住んだことがないそうだ。
ので、米国に住むことに、あまり拘ってないし、執着も無いんだと。
老後はフィリピン半年、米国半年、という感じで暮らそうかと思っている、と語っていた。
おばさんは、結婚する前にフィリピンで事業をしていて、そこそこ成功したので自力で土地を
購入したという。
「あんた!フィリピンに来なさい! ビーチ沿いに土地があるから、そこにホテルでも建てるのよ!」
笑いながら話を聞いていたが、私自身、東南アジアでヤシの木の下で風に吹かれる自分が想像できないのだ。
観光で行くならいいけど、私はトロピカルな季候にそれほど惹かれないし、熱帯の粘っこい空気も
苦手だよ。
フィリピン。 ドバイに住むと、フィリピン人と接する機会が非常に多い。なんか、ニコニコしていて
お気楽な人々という印象。 実際、マネージャーとかダイレクターの地位にいるフィリピン人に会った
事がない。
私が働いていた事務所にも若い娘がいたが、なんかあると、良く泣いていたし、みえみえの嘘をよく
ついていたwwwww それでも、なぜか憎めない娘であった。
おばさんは、言う。
フィリピンのGDPの多くを、出稼ぎのフィリピン人が稼ぎ出しているの。だから出稼ぎの彼らは
私にとってはヒーローなの。彼らの海外からの送金で、国が在るのよ。
この国に35人のフィリピン人がいるわ。
正月にね、みんな休みになるから、私はこのわが国のヒーローを集めて宴会をしたいのよー。
食堂は正月3日まで休み。私は知人もいないし、何もしない。する事もない。
去年は風邪をひいて熱を出して寝ていた。
もちろん、おばさんに私はオファーした。
私の食堂を使っておくんなさいな。どの道、3日まで休みだし。
おばさんいわく、フィリピン人の多くは、日本食レストランや中華料理屋の料理人なので
食べ物は持ち寄りにするんだと。
場所だけ貸してくれれば良い、と。
私は喜んで協力を申し出たのである。
なんか知らないが、そんな流れになっていた。
私はけしてフィリピン好きでもない。むしろ避けたいかなwwwwwと思うほうなんである。
おばさんは相変わらず元気で、週に数回、一緒にダンス教室に通っているのである。
おばさんが、新しくこの国にやってきたという、某国大使夫人を連れてきた。
彼女もフィリピン人。大使夫人を長年やってるので、大声おばさんよか、洗練されている
感じである(笑)
大声おばさんが一番年上、そして大使夫人、少し離れて(笑)わたし。
なんか、おばさんが3人集まって、あーでもない、こーでもない、という四方山話は
大笑いが続いて、なかなか楽しかったのである。
で、何の因果か、話が宗教に向かい、二人のフィリピン人の話に引き込まれ、私は
アルメニアに来て、はじめて、こういう話をするんだけど、と前置きして、二人のおばさんに
語った。
人生の終盤に来て、もうお金も名誉もいい男も要らないのよ~。
人と比べることも、もういいのよ~。
何か人生で忘れたこと、し忘れた事はないか、と考えたのよ~。
で。
いつも自分の事ばかり考えてきたから、ヒトサマに与える事とか考えたことなかったのよ~。
ああ、与える事を実践してみよー、と思ってこの国を選んだのよ~。
で、考えたくないけど、「あれ?ちょっと来る場所を間違えた?」って思うことも多いのよ~。
まあ、この私の言葉の間に、二人のおばさんが、ああだ、こうだと言い、会話というか
雑談になっていたんだけど。
私はなぜか、こみあげるものがあって、二人のおばさんの手を握って涙を静かに流していたのである。
悲しいわけでもなく、
嬉しいわけでもなく、
良く分からないが、なんか涙が出てきたのである。
大使夫人が語る。
過去8ヶ月の間に、最愛の兄二人を続けて亡くしたそうだ。 仲が良い兄弟だったので、とてもショック
だったそうだ。
相当落ち込んだが、気がついた、という。 この苦悩こそが、Joyなんである、と。
あえて解説はしない。が、あなた、あなたは分かってるわね!
米国の国力低下の話や、新興国の発展の話をしていた際に、夫人が言った。
人生は、360℃なのよ。
ぐるりと回っているのよ。
何も持たずに生まれて、何も持たずに死んでいくのよ。
栄華を誇った国でも、必ず低下していくものよ。360度だからね。
自分を中心に、360度の風景が広がっているわね。
自分の正面のものしか眼中にないから、人は幸福だ、不幸だとバタバタするのよ。
でもね、360度なのよ。
ホントは立ち位置なんて変わってないのよ。見えるものが変わっただけなのよ。
最近になって祈る事をするようになったと私が告白した。
祈りたいわけではなく、祈りしか出来ないような窮地に追い込まれたから、だと。
で、本気で祈ったら、そんなシチュエーションになったら、自分の無力さ以外の何も
感じなかったが、それはそれで心地いいものである、と。
降参、である。
初めて降参、したら、その後、苦悩しなくなったと。 状況は何一つ変わっていないが、
たぶん、テキトーにどうにかなる、という自信が沸いたと。
それは私が作った「自信」ではなく、それは確かにそこにある「確信」なんである、と。
大使夫人は、大声おばさんが、何不自由ない暮らしに見えても、実は娘の事で心を痛めている
話に耳を傾けていた。
大声おばさんは、旦那はバカにするけど、私はね、悪霊がついてしまった、と思ってるの。
2年前、ブエノスアイレスに交換留学生で行って、意識を失って救急車で運ばれる事件があったの。
医療費に大金を使ったわよ?
でね、その後、娘は別人のように変ってしまったのよ。
大使夫人は、大声おばさんに静かに語った。
あなた、もっと静かになりなさいって。
静かにならないと、天使が来ないんだわよ。
そしてね、娘と、娘についた悪霊に祈るのよ。心から祈るの。憎んじゃだめよ。
聖水があるといいけど、ココにはないわね。
私は、まさかこの顔ぶれで、こんな話になるとは全く考えもしなかったけど。
夫人の言う「360度」に、深く納得したのである。
ヒンドウ教では、人生を4つの時期に分類し、それぞれの目的
などを教える。 日本語では四住期、というのかな。
こんな感じ。
第一は学生期(がくしょうき)訓練と教育の期間、教育と激しい労働に積極的に参加する期間。
知識とヨーガ(身体と精神の鍛錬法)は常に重視され、その訓練を伴う教育は青年にとっては
最も大切な宗教的努めとみなされる。
第二は家住期(かじゅうき)
一家の主人として社会で積極的に活動する期間。
社会構造の全体に統一と結束をもたらし、社会生活の理想を懸命に実現しようとするこの段階において
ヒンドゥー教徒は結婚し活動的な生活をおくることになっている。
他の三つの段階はすべてこの期間に依存していることからも、ある意味では人生の四時期の中心であるとみなされる。
定められた行為を行え。行為は無にまさり、あなたの身体は無為によって維持することはできない。
人間は活動し、その義務を果たさなければならない。
しかもそれは無私のものでなければならず、ましてや報酬のためや天国へ入るためであってはならない。
しかしながら、この世俗的な家住期における成功だけでは十分であるとはみなされていない。
第三は林住期(りんじゅうき)
物質的世界での成功は確かに立派ではあるが、それだけで十分であるとはみなされず、
そこに解脱という思想が登場してくる。
解脱とは単なる否定の状態ではない。それは行為(業、カルマ)の絆すなわち再生から解放されて自由となり、
存在に満ちあふれた、完成の境地である。個人的自由を求めての世捨て(出家)であり、仏教の涅槃の観念と同様に、
輪廻再生の輪からの脱出である。
第四は遊行期(ゆぎょうき)
林住期において世俗的な結びつきをゆるめて、その後の遊行期において隠者としての生活を送るように定められている。
このように普通の生き方に比べ、理想的人間は、徐々に世俗の生活から隠退して、俗世における成功ではなく、
解脱に思いをいたすべきものとされている。
こうして出家遊行の生活は、理想的人間の生活の重要な一部分となる。
まあ、人によっては最初から遊行期の人もいるかもだし、第二期のまま人生を終える人だっているかもだ。
私は、第四期、といいたいところだが、日常生活を振り返ると、この4つの時期が生活の中に混在してるような気が
しないでもない。
私は人間関係を拡大しようとは、全く思っておらず、逆に縮小の方向に向かっている。
仕事柄、毎日人に会うし、常連さんとはそれなりに個人的な話をしたりもする。
が、私の中では、常連さんもあくまでお客さん。滅多なことでは、店の外で会わないし、店を閉めた後に
どっかへ繰り出すとかはほぼ無いに等しい。
家と食堂の往復のみが日常で、そこに市場への買出しが加わる程度。
人目を避けてるわけでもなく、人間関係を構築するのがメンドウなのと、無くても困らないのと、最早、そういう
要求も無い、必要性を感じないのである。
そんな私が、ある日、珍しく電気屋にいた。
たまたま電気屋のそばに用事があって出向き、冷凍庫の値段でも見ようと中に入ったのである。
冷凍庫売り場は奥まった場所にある。冷凍庫、つうても3台程度しか売ってないが。
私が冷凍庫のフタを開け閉めしていたら、遠くの電子レンジ売り場から、フィリピン人英語で大声で話す声が
聞こえてきた。
「日本製品がいい、って言って!」大声の主は、フィリピン人のおじさんみたいなおばさんwwwだった。
おばさんは、現地語を話せないので通訳付き。通訳に大声で要求を述べていたのである。
私はおそらくどっかの国の大使館職員の奥さんかと思った。 外資系の企業、及びその支店が存在しないので
外国人は、ほぼ、外交官か国連とかの国際公務員、なんである。
私は、その大声の持ち主の声をかけた。
「あのー!日本製品をご愛用いただき、ありがあとうございます!」
こんなことは、私にとっては、大変に珍しい行為である。なぜか、その日は声を掛けたくなったのだ。
聞けば、米国の外交官の奥さんだった。
私がインド食堂を経営してると話したら、早速、その夜、ご主人を連れて来店したのである。
その後、ちょくちょく来店してくれた。
ある日、奥さんが例の大声で、「ダンス教室を発見したわよー!あなたも来なさいっ!!ラテンダンスよ、
ラテン!」
その大声に圧倒されて、私は、行きます、明日、行きます、と同意したのである。
数年ぶりに鏡を見て音楽に合わせて、カラダを動かした。
予想はしていたが、その退化ぶりに唖然wwwww
そして、すっかり良くなったと思っていた左手の骨折。 両肩をグルグル回す準備体操で、肩が回せない
事に気が付いた。骨折の後遺症を発見したのである。
まあ、すっかり退化したというか何か。
でも。
数年ぶりに運動で汗を流す快感を味わったのである。
大声おばさんは、ダンス教室のあとに食堂でお茶して世間話をして帰るのだが。
大声で元気良く快活に話すおばさん。
1、2回の会合で、すでにおばさんの半生を知るまでになった私である。
とにかく元気。
なので、「お父さんは漁師でね、すっごくビンボーだったのー。兄弟が13人もいたのよー。」と
苦労話をしてくれるのだが、明るく元気良く語る彼女の苦労話は、なんか楽しい昔話みたいなのだwwwww
おばさんは、ご主人の転勤で世界を転々としていたので、米国に長く住んだことがないそうだ。
ので、米国に住むことに、あまり拘ってないし、執着も無いんだと。
老後はフィリピン半年、米国半年、という感じで暮らそうかと思っている、と語っていた。
おばさんは、結婚する前にフィリピンで事業をしていて、そこそこ成功したので自力で土地を
購入したという。
「あんた!フィリピンに来なさい! ビーチ沿いに土地があるから、そこにホテルでも建てるのよ!」
笑いながら話を聞いていたが、私自身、東南アジアでヤシの木の下で風に吹かれる自分が想像できないのだ。
観光で行くならいいけど、私はトロピカルな季候にそれほど惹かれないし、熱帯の粘っこい空気も
苦手だよ。
フィリピン。 ドバイに住むと、フィリピン人と接する機会が非常に多い。なんか、ニコニコしていて
お気楽な人々という印象。 実際、マネージャーとかダイレクターの地位にいるフィリピン人に会った
事がない。
私が働いていた事務所にも若い娘がいたが、なんかあると、良く泣いていたし、みえみえの嘘をよく
ついていたwwwww それでも、なぜか憎めない娘であった。
おばさんは、言う。
フィリピンのGDPの多くを、出稼ぎのフィリピン人が稼ぎ出しているの。だから出稼ぎの彼らは
私にとってはヒーローなの。彼らの海外からの送金で、国が在るのよ。
この国に35人のフィリピン人がいるわ。
正月にね、みんな休みになるから、私はこのわが国のヒーローを集めて宴会をしたいのよー。
食堂は正月3日まで休み。私は知人もいないし、何もしない。する事もない。
去年は風邪をひいて熱を出して寝ていた。
もちろん、おばさんに私はオファーした。
私の食堂を使っておくんなさいな。どの道、3日まで休みだし。
おばさんいわく、フィリピン人の多くは、日本食レストランや中華料理屋の料理人なので
食べ物は持ち寄りにするんだと。
場所だけ貸してくれれば良い、と。
私は喜んで協力を申し出たのである。
なんか知らないが、そんな流れになっていた。
私はけしてフィリピン好きでもない。むしろ避けたいかなwwwwwと思うほうなんである。
おばさんは相変わらず元気で、週に数回、一緒にダンス教室に通っているのである。
おばさんが、新しくこの国にやってきたという、某国大使夫人を連れてきた。
彼女もフィリピン人。大使夫人を長年やってるので、大声おばさんよか、洗練されている
感じである(笑)
大声おばさんが一番年上、そして大使夫人、少し離れて(笑)わたし。
なんか、おばさんが3人集まって、あーでもない、こーでもない、という四方山話は
大笑いが続いて、なかなか楽しかったのである。
で、何の因果か、話が宗教に向かい、二人のフィリピン人の話に引き込まれ、私は
アルメニアに来て、はじめて、こういう話をするんだけど、と前置きして、二人のおばさんに
語った。
人生の終盤に来て、もうお金も名誉もいい男も要らないのよ~。
人と比べることも、もういいのよ~。
何か人生で忘れたこと、し忘れた事はないか、と考えたのよ~。
で。
いつも自分の事ばかり考えてきたから、ヒトサマに与える事とか考えたことなかったのよ~。
ああ、与える事を実践してみよー、と思ってこの国を選んだのよ~。
で、考えたくないけど、「あれ?ちょっと来る場所を間違えた?」って思うことも多いのよ~。
まあ、この私の言葉の間に、二人のおばさんが、ああだ、こうだと言い、会話というか
雑談になっていたんだけど。
私はなぜか、こみあげるものがあって、二人のおばさんの手を握って涙を静かに流していたのである。
悲しいわけでもなく、
嬉しいわけでもなく、
良く分からないが、なんか涙が出てきたのである。
大使夫人が語る。
過去8ヶ月の間に、最愛の兄二人を続けて亡くしたそうだ。 仲が良い兄弟だったので、とてもショック
だったそうだ。
相当落ち込んだが、気がついた、という。 この苦悩こそが、Joyなんである、と。
あえて解説はしない。が、あなた、あなたは分かってるわね!
米国の国力低下の話や、新興国の発展の話をしていた際に、夫人が言った。
人生は、360℃なのよ。
ぐるりと回っているのよ。
何も持たずに生まれて、何も持たずに死んでいくのよ。
栄華を誇った国でも、必ず低下していくものよ。360度だからね。
自分を中心に、360度の風景が広がっているわね。
自分の正面のものしか眼中にないから、人は幸福だ、不幸だとバタバタするのよ。
でもね、360度なのよ。
ホントは立ち位置なんて変わってないのよ。見えるものが変わっただけなのよ。
最近になって祈る事をするようになったと私が告白した。
祈りたいわけではなく、祈りしか出来ないような窮地に追い込まれたから、だと。
で、本気で祈ったら、そんなシチュエーションになったら、自分の無力さ以外の何も
感じなかったが、それはそれで心地いいものである、と。
降参、である。
初めて降参、したら、その後、苦悩しなくなったと。 状況は何一つ変わっていないが、
たぶん、テキトーにどうにかなる、という自信が沸いたと。
それは私が作った「自信」ではなく、それは確かにそこにある「確信」なんである、と。
大使夫人は、大声おばさんが、何不自由ない暮らしに見えても、実は娘の事で心を痛めている
話に耳を傾けていた。
大声おばさんは、旦那はバカにするけど、私はね、悪霊がついてしまった、と思ってるの。
2年前、ブエノスアイレスに交換留学生で行って、意識を失って救急車で運ばれる事件があったの。
医療費に大金を使ったわよ?
でね、その後、娘は別人のように変ってしまったのよ。
大使夫人は、大声おばさんに静かに語った。
あなた、もっと静かになりなさいって。
静かにならないと、天使が来ないんだわよ。
そしてね、娘と、娘についた悪霊に祈るのよ。心から祈るの。憎んじゃだめよ。
聖水があるといいけど、ココにはないわね。
私は、まさかこの顔ぶれで、こんな話になるとは全く考えもしなかったけど。
夫人の言う「360度」に、深く納得したのである。