産経ニュースから
>海抜ゼロ地帯の住民受け入れ先確保を 愛知県、南海トラフ巨大地震による津波発生を想定し計画<
その他和歌山>「対策を尽くしても死者を防ぐのは困難で、高台への集団移転の検討が必要」(同県)とする同地域の指定は極めて異例で、今後議論を呼びそうだ。<
上の記事は名古屋地区のことを言っているのですが被害が出るのを前提にしています。国民が被害を受けてアタリ前と思っているのか?
和歌山では高台への移住をやっと言い出しました。「集団移転の検討でさえ極めて異例で、今後議論を呼びそう」などと寝ぼけたことを言っています。
行政も、モチロン政府も、その上マスゴミも今さら何を寝言を言っているのか?
それでも、和歌山では逃れられないことが今になってわかったのか?
みんな、ひっくるめてバカヤロウ! 遅すぎるのじゃ!
戦争末期(70年前)アメリカの日本本土に対する無差別大虐殺(空襲)が激しくなり始めた頃、全国の大都市が次々に焦土と化していきました。
私の住む京都では焼夷弾による類焼を少しでも防ぐために京都市内の真ん中に広い防火帯を作りました。
京都の街は碁盤目のように東西、南北にほぼ直線の道路が平安の昔から整備されていました。しかし、それらの道は幅がそんなに広くないのでそのままでは大規模な火災には防火帯として余り役には立たなかったと思われました。
そこで、東西には五条通り、御池通り、南北には堀川通りを防火帯として広げました。(今も東西南北のメイン通りとして役に立っています)
この通りは狭かったので広げるためには両側の家の立ち退きが先決でした。今なら立ち退き交渉は住民が立退料の額を釣り上げるために20年も30年もかかるのですが戦時中は有無を言わせ無かったと思います。(国民みんなの意識も高くて公共の利益のために我を押さえる気持ちがあった)
戦争中ですから男は年寄りか私のような子供しか残っていませんでした。そして、ユンボやブルトーザの様な土木機械も無かった頃ですから家を倒すのから総て人力に頼らなければなりませんでした。
その人力も女性しか残っていません。私の母も五条通りの家を倒すのによく出かけていたのを覚えています。男の年寄りの指図でロープをみんなで引っ張って倒すそうです。
帰りには倒した家の板っ切れを束ねて背負って帰って来たのを覚えています。焚き付けにするためです。当時ほとんどの家ではカマドで炊事をしていましたから。
なぜ、長々と70年前のことを書いたか?
空襲で焼かれてから逃げるより、少しでも被害を少なくする工夫を当時として精一杯の努力をしていたと言いたかっただけです。
同じことが自然の猛威である津波被害から少しでも免れることを上(上ではないのですが国や行政や学者)の頭が働かない時には我々国民が出来る範囲で対処しなければ最大の被害者は我々庶民です。
被害を受ける前に被害を受けない所に移動すると言う判り切ったことを実行することで被害から逃れることが出来るのです。
アナタだけではなく、アナタの家族も、津波から逃れるのは、津波の来ない所に住まいを移すことです。
そのためにこれまで「田園生活・少子化対策」として提案して来ました。もう一度このブログを見て下さい。
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