“子 川上(せんじょう)に在り。曰く、逝(ゆ)く者は斯(か)くの如きか。昼夜を舎 (お)かず、と。”(「論語」 子罕 第9-17)▼ <現代語訳>ー孔子先生は、川のほとりに立って、こうおっしゃいました。「流れゆく水流はこのように激しいものか。昼夜をわかたずに流れてやまない」 と。*注①「孔子が、時の流れを詠嘆的につぶやいた。」 ②「孔子は、水の滔滔と流れるエネルギーに物の本質を感じとり、やむことのない水流のように絶えず切磋琢磨せよ。」の解釈がある。([論語」-全訳注 加地伸行著 参照)▼① 嘆き節は、孔子らしくない。弟子もシラケルだろう。②について、押し付けがましくて、疲れる。(← 夢蔡 感想ー) 3000年の時を超えて影響力を持つ「論語」=孔子だから、このくらいのこと言っておかないと,後世 納得しないかー
日を乗せて 流れ逝きたり 冬の川 ー夢蔡ー
失われし時 求め止まずや ー符瑠~素戸ー
▲ “ 行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人と栖(すみか) と、またかくの如し。”(鴨 長明「方丈記」) *当世では、この「無常のかたまり」はあまり流行りませんが、「警句」的に受け止めてみれば、良いかも知れません。(←「うたかた」=泡は、洗剤・廃液を含み、空き缶・ペットボトル・発泡スチロールも多数流れ行きます。いろいろ期待されて「河川」も大変です。--)
ーーー<>----
冬の日は はや傾きて 年の果て *まほらの国は 明け初(そ)めにしか ー夢蔡ー
ー「ま-ほ-ら」 「ま」は、接頭語。「ほ」は、非常にすぐれている物・所の意。「ら」は、場所を表わす接尾語。(「全訳古語辞典」)
“目に見えぬ 無数の脚が 空中に もつれつつ旅客機が離陸せり” <塚本邦雄> ▼ 人々は全員が乗り合わせている。乗り物を、「横領」しても、墜落でもすれば、全員が同じ運命をたどるしかない。
この国の 衆愚ひとりぞ 晦日蕎麦 ー夢蔡ー
2012年ーー<了>-----
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます