諸葛菜草叢記

 "窓前の草を除かず“ 草深き(草叢)中で過ごす日々の記

冬しらず 陽だまり 風無く 椋鳥の群れ

2009-01-08 14:39:58 | 日記・エッセイ・コラム

Ca390251_2  豈に他の好きものの無からんや、

  是の幽居を楽しむ。

 朝には園に潅ぐことを為し、

 夕には蓬廬ほうろに偃す。  陶 淵明

  「帰去来」 帰りなんいざ、田園まさに蕪れなんとす。

 漢文教科書では、隠棲した、田園詩人と言うことであった。昨年末から、人は、生きて諸々の営みのなかで、【 時間の流れ 】 を、どう捉えるか、と言ったテーマで、コラムを一つモノにして見たいと思い、何冊かの本を読んだ。【 歳月は人を待たず 】 これまで、 頭の隅にも、ひっかってもいなかった、陶 淵明 との再会である。

 これからは、陶 淵明全集 ( 岩波文庫 )を手元に置くことにした。暇にまかせて、ページをめくったりしていると、興味を惹く成句に出会ったりする。引用した句の表現するところが、今の心境、生活に似ている。

  今、小林 秀雄を読み始めてた。その入り口付近で、ウロウロしている。

  「 歴史とは、決して在りもしないのに、目方は増えていく不可能な品物であろう・・・・ 」(昭・25 『蘇我馬子の墓』)

  如何なる 【 悔恨 】から、この様な結論を得たのだどうか?「 時に及び勉励に当る 」である。小林 秀雄を読み解けるか、これからの チャレンジ項目 の一つである。

  「伝統主義も反伝統主義も、歴史と言う観念学が作り上げる、根もない空想に過ぎまい。山が美しいと思った時、私は其処に健全な古代人を見つけただけだ。それだけである。記憶を持った一人の男が生きて行く音調を聞いただけである。」 

 歴史という、営々たる【 時間の流れ 】のなかで、人の確実に【 生きた証 】が、埋没してしまう。▼ 蘇我馬子は、「 叔父穴穂部皇子を殺し、物部守屋を滅した・・。」  ついで 、『 崇峻天皇弑逆 事件 』を起こす。聖徳太子にまで、類を及ぼす、大義名分の無い事件の首謀者・権勢欲の塊である。【 歴史 】は、馬子を、このように名付けることによって、馬子の【 時 】を完了させてしまう。歴史、或いは、時代の状況が、必要に応じて、その様な意味付けをする。

  「 歴史は、元来、告白を欠いている。 」  「 告白を悉く抹殺 」することによって、「 記憶を持った一人の男が生きて行く音調 」 が消え去る。

  小林 秀雄は、異議申し立てをする。小林の方法は、「 人間の消え去った精神 」を、見いだすことだ。もしくは、歴史、或いは、時代に状況によって、意味付けられること、完了させられてしまうことに対して、拒否の姿勢を貫くことである。

  小林 秀雄の主張は、示唆にとんでいる。

  人は、歴史の外に立つことは、できない。如何なる時、場合でも、人の生の営みは、歴史の内部に組み込まれ、条件付けられている。このことは、歴史とは、人間の活動の内部を通して発現するものだ、と言うことを意味する。一人の人間の生き様には、生き抜いた多くの時間や生活空間の広がりがあり、それ自身の独自性があるものだ。従って、その時の人間的現実を、細部を切り捨て、死んだ歴史的事象として、溶解してはならないものだ。そして、尚、人間の活動こそが、歴史を創る。

   歴史は、人の手の届かない処で働く、不毛な時間ではない。しかし、多くの人の手元から抜け落ちて行ってしまう。だとすれば、それは、他人もまた、歴史を創ることに、由来するのだ。とサルトルは言っている。

  陽だまりに、フユシラズの一叢が花をつける。 ヒヨドリの数羽が、葉のない欅に飛来する。そして、飛び去る。椋鳥の十数羽の群れ、ショウビタキが一羽。時間をおいて、欅の梢を利用する。窓前に、春がもどるのは、まださきである。

 

  

  

  


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