hokutoのきまぐれ散歩

ブログも11年目、遂に3900日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

亀甲山古墳(かめのこやまこふん)を見に行く

2023-05-08 05:00:00 | 古墳
『古墳と遺跡巡り』東京編③。多摩川沿いに広がる古墳群を見るために東急東横線多摩川駅で降りて歩く。

駅前から1、2分歩くと多摩川台公園の入り口にある石でできたカタツムリ像の前に出る。なぜカタツムリなのか、このあたりはアジサイ園であり、アジサイと言えばカタツムリだからだろうと感心する。



公園の中に入ると意外に階段が多く、あんまりバリアフリーではない。アジサイ園を越すとつぎは水生植物園。大正時代に作られた調布浄水場の濾過池・沈殿池を再利用した施設であり、菖蒲や水蓮などの花が美しい。



その池の上に広がるのが『亀甲山古墳(かめのこやまこふん)』である。東京都を代表する前方後円墳であり、測量調査で長さが107m、前方部幅50m、後円部径66m、前方部高7.2m、後円部高11.8mとなっている。

昭和3年2月に都指定史跡に指定されているが、今だに発掘調査が行われていないため、正確な築造年代は不明。ただ、形状から4世紀前半と推定されている宝来山古墳より少し後の4世紀後半の首長の墓と考えられている。



植物園から階段を上がると横から古墳を見ることができる広場があるが、大きな木が多く繁り、なんとか形状がわかる程度である。



広場の裏、眼下に多摩川本流が流れていてやはり人の集落は川から近い場所に作られたのだろうことが推測される。



せめて上から見た写真があればと探してみたが、やはり樹木が繁すぎてよくわからなかった。

時代の特定にはやはり古墳の内部の発掘が待たれるところだが、今はこの小山を見ながら色々と想像を巡らすしかないようである。


武蔵府中熊野神社古墳を巡る

2023-05-02 05:00:00 | 古墳
『古墳と遺跡巡り』東京編②、府中市。今回は国史跡に指定されている武蔵府中熊野神社古墳を訪ねて見た。場所は府中市西府町、電車ではJR南武線西府駅からが最も近い。

国道20号線に面しているため車で行ったが、反対側。やむなく次の信号のところにあるファミマの駐車場でUターン。前まで行って資料館の人に駐車場を尋ねるとここにはない、有料駐車場を探してくださいと言われた。

やむなく付近を走るが駐車場は結構混んでいて600mも離れたコインパーキングに入れて歩く。



ようやく古墳のある公園に到着、写真では見たことがあるが、見事な上円下方墳である。熊野神社の社殿の裏手にある。



ぐるっとまわると裏手にも神社の鳥居がある。正面まで行くと台形の入口が分かる。その横には見事なタンポポ畑、つい先日まではサクラが綺麗に咲いていただろう。



規模は東西8m、南北13m、深さは1.5m以上あり、三層構造で1層と2層は正方形、3層は丸くなっている。上円下方墳は先日訪れた三鷹市の天文台敷地古墳など全国に5つしか確認されていない珍しいものである。残念ながら副葬品は明治時代に開口していたため、盗掘されていて銀地金象嵌鞘尻1点、刀子4点、ガラス玉6点が残されていたのみ。被葬者は2名で東国の有力者と推定されている。

元は熊野神社の裏手にあった小さな山のように見えていた部分から河原石が幾つも出てきたり、関東大震災で石室の入口が現れたりしたことから本格的に発掘が始まり、さらに熊野神社の社殿が一部かかっていることからこれを曳家で動かし、地域住民も協力した。発掘後には埋め戻し、さらに多摩川の河原石を積み上げ現在の形で保存されている。



展示館2階には詳しく発掘の模様や位置付けなどが説明されていて周囲にも古墳が多く点在していることも分かった。副葬品は少ないがその中でも銀地金象嵌鞘尻にある七つ星は富本銭にもある貴重なものでもし盗掘がなければもっと大きな発見となっただろう。

(レプリカが展示されている)


また、別棟には石室を模型で再現しており、中に入り広さを確認できる。入口は身体を屈めてようやく入れる程度だが、中に入ると意外にも天井が高く、太古の昔に作られたとは思えない精巧な造りであったことがわかる。

ただ、立派な展示館や公園はいいのだが、駐車場はなく、確かに国道20号線沿いではあるが駅から歩くと距離もあるので駐車スペースの確保があればもっと多くの人が来るのにと残念に思った。



武蔵府中熊野神社古墳
府中市西府町2ー9


天文台構内古墳に行ってみた

2023-01-30 05:00:00 | 古墳
『古墳と遺跡を巡る』東京編①。
『東京天文台』と『上円下方墳』の関係と言われても中々ピンと来ない。しかし、三鷹市大沢にある東京天文台の敷地の中に古墳があると聞いて行ってみた。

東京天文台は東八道路を走り、天文台通りを左に曲がり、少し行くと右手に現れる。天文台裏というバス停の手前に有料駐車場があるのでそこに車を入れた。

構内を歩いているとお隣の図書館の係員らしき人がいたので天文台の警備室をまず教えてもらい、次に『古墳の場所はご存じですか?』と聞くと不思議そうな顔をされ、『古墳なんかないよ。』とあっさり言い切られた。

やむなく警備室に行き、担当の人に話をすると『確かにあるにはあるが、もう発掘調査をして埋め戻したよ。』と言いながら、調査報告書をくれた。

それによると国立天文台三鷹キャンパスのほぼ全域から旧石器時代〜奈良時代の複合遺跡があり、特に全国で4例しかない上円下方墳があるとのこと。警備の人に場所を聞くと最も古い『第一赤道儀室』の奥にあるとのこと。

歩いてすぐのため、天文台見学の前に古墳のところに行く。確かに第一赤道儀室のクラシカルな建物の横に2mほどの小山がある。

その前には古墳を示すプレートがあったが、周りに縄が張り巡らされていて上に乗ることは叶わなかった。

報告書を読むと1970年、71年の2回にわたり発掘調査が行われたが、詳しいことがわからないままであった。そこで三鷹市は土地管理者の国立天文台と東京大学の協力を得て2004〜2009年の5年間に渡り再調査を実施、結果全国的にも珍しい上円下方墳ということがわかった。



古墳の築成年代は玄室から発掘されたフラスコ型須恵器と2点の坏形土師器から7世紀後半と推定されている。同じ型の古墳としては府中市の武蔵府中熊野神社古墳もあり、次回はこちらも見に行くつもりである。


史跡田名向原遺跡公園を歩く

2023-01-20 05:00:00 | 古墳
『古墳と遺跡巡り』相模原編。相模原に車で行く機会があったので10kmほど車を走らせて『史跡田名向原遺跡公園』に行く。

電車の最寄駅はJR原当麻駅、相模川のすぐほとりで近年は圏央道相模原愛川ICから2km程度と便利なところにある。

駐車場はないが、公園の奥は休日は殆ど車も通らず、少し停めさせて頂く。公園は三角形の形をしていて主に旧石器時代の住居遺構が発掘されている。旧石器時代(2万年〜1万8000万年前)から縄文、古墳時代までの複合遺跡である。土地区画整理事業に伴い1989年から発掘調査が行われ、直径10mの範囲を川原石で囲んだ旧石器時代の住宅遺構が発見された。

柱穴12基、囲炉裏跡2基が確認され、その内側には石器製作の際に出る剥片や母岩などが見つかった。これは旧石器人が石器加工の工房として利用していたことが推定される。



石器の実物はすぐそばにある『旧石器ハテナ館』に展示されているが、黒曜石を加工して作った鏃や尖頭器が500個、加工した際にでた剥片2000点が確認されている。不思議なことに黒曜石はこの辺りでは採掘されず、長野県や伊豆半島、箱根産のものが使われているのだが、これは当時から遠隔地との交流も推定される。また、当時の住居を推定復元したものを見たが、まるで大型テント、完成度も高い。



公園内には竪穴式住居(復元)があるほか、谷原古墳群の第12号墳の移築古墳があり、また、この地に谷原第13、14号墳の埋め戻し跡も残されている。



1号墳は道すがら通ったポンプ場にあった。この古墳群は7世紀頃に作られた円墳である。また、古墳から見つかった副葬品は旧石器ハテナに飾られていた。



遺跡のあるこの場所は川沿いで平坦な土地は住みやすかったのかと感じる。それにしてもそんな昔に石器を工房で作り、離れた土地との交流があったことなど、自らが学んだ日本の歴史とはかなり違う印象を受けた。




さきたま古墳公園②〜1泊2日の夏休み旅行③

2022-08-18 05:00:00 | 古墳
いよいよ古墳散策、まずは最も近くにある瓦塚古墳の周りを歩く。全長73mの前方後円墳だが、出土した遺物などから6世紀に作られたと推定される。ただ、未発掘のため、近づくことは出来ずに周りを歩くにとどまった。



県道を渡ると二子山古墳。全長132mの前方後円墳、武蔵国最大規模で古墳の周りに堀、さらに周囲に土手が作られ、二重構造となっている。古墳の周りの堀には現在は多くの水は張られていないが、古墳が作られた当時もなかったものと思われる。



本格的な発掘調査が行われておらず、あまり詳しいことは分からない。作られたのは6世紀はじめ。図でみると大仙陵(仁徳天皇陵)によく似ている。



二子山古墳の周りを歩き、右に曲がって将軍山古墳に向かう。全長90mの前方後円墳で明治27年(1894年)に横穴石室が発見され、多数の副葬品が出土した。また、石室には千葉県富津市で産出される房州石が使われていて関東内での交流の跡をみることができる。



古墳には展示室が設けられ、どのような形で埋葬されていたのかを復元されている。武具なども中世の鎧や鞍などかなり似た姿であり、また、副葬品の中には馬に付ける鉄製の馬冑といった珍しいものも含まれている。



続いて稲荷山古墳、ちょうど鍵穴のような形をしていてる全長120mの前方後円墳。1968年の調査で2つの埋葬施設があり、多くの副葬品が出土、先程訪れた博物館に展示されている鉄剣(国宝)もこの古墳から発見された。



前にあたる四角い部分から階段を登り、古墳の上に登れる。真ん中の継ぎ目の部分は少し低くなり、さらに丸い部分は登っていく。


丸い部分の埋葬施設があった部分を示す印があり、個人的に不思議に思っていたこの大きな古墳のどの部分に埋葬したのか、という謎が解けた。

丸い部分から階段を降り、お隣の丸墓山古墳に向かう。目の前に見えるのだが、草が茂っていてどちらに行けば到着するのかを少し迷う。ようやく取り付け道路に出て円墳に登るが、先ほどの稲荷山古墳よりかなり高く、19mもある。



直径105mある日本最大級の円墳であり、出土した埴輪から6世紀前半のものと推定されるが、今のところ埋葬施設は確認されていない。



99段登り、頂上に立つと先程訪れた古代蓮の里の展望台がよく見える。また、山頂には桜の木が植えられていて春には絶好の花見場所となるであろう。なお、丸墓山古墳には次に訪れた忍城攻めの際に石田三成が陣を置き、水攻めを掛けたことは有名。たしかに頂上からは忍城がよく見渡すことができた。



それにしても古墳は大きい。周りを回るだけでもすぐには終わらない。わずか5つの古墳を回っただけでもいい運動になる。また、まだ発掘調査が終わらない古墳も多数存在しており、これからの調査で思わぬものを発掘することができる可能性を感じた。


さきたま古墳公園①〜1泊2日の夏休み旅行②

2022-08-16 05:00:00 | 古墳
古代蓮公園で時間を食い、さきたま古墳公園に到着したのは11時40分。ここで突然ですが、埼玉県の由来となった場所がどこにあるか、知っていますか。ヒントは『さきたま古墳公園』。

行ってみると公園にあるさきたま史跡の博物館に行く途中に『埼玉県名発祥の地』がある。明治に入り廃藩置県が行われ、明治4年に今の埼玉県は入間県と埼玉県に分かれた。埼玉が県の名前に採用されたのは当時の『埼玉郡』が最も大きなエリアを占めていたためである。

では『さいたま』由来は何なのか、これは石碑を読んで欲しい。

埼玉県名発祥の地の横にはもう古墳が見える。まずは知識を得ようと博物館に入る。国宝展示館には稲荷山古墳から出土した国宝金錯銘鉄剣など沢山の国宝が展示。銘には1500年前の王様が家の由緒など細かい115もの黄金文字が刻まれている。



他にも翡翠勾玉や銀のリング(国宝)、その大きさに驚かされる馬や家、筒状の埴輪、今も輝く帯金具(国宝)など所狭しと飾られている。



入口まで戻ると勾玉を手作りできるキットを販売している。かたどった石と磨く道具、紐などが入っている。かなり磨かなければならないのでどのくらい時間がかかるか聞くと1時間も有れば完成しますよと気軽に言われ、白とピンクの2種類を購入。はたしてうまくできるのか。

博物館の入口で古墳の周り方を聞く。古墳は奥の山古墳、中の山古墳、鉄砲山古墳、瓦塚古墳、愛宕山古墳、二子山古墳、将軍山古墳、稲荷山古墳、丸墓山古墳と9つある。

おすすめコースは最も大きな『二子山古墳』の周りを行き、発掘調査跡を見ることができる『将軍山古墳』、登ることができる前方後円墳の『稲荷山古墳』、同じく円墳の『丸墓山古墳』の4つと言われてこれに従う。(以下次回)