去年、『社会言語学』第5号の紹介文をかいたように、かんたんに各論考を紹介したい。もくじは、「社会言語学」刊行会のサイトにある6号のページをご覧いただきたい。
◆巻頭をかざった古賀文子(こが・あやこ)の「「ことばのユニバーサルデザイン」序説」は、言語至上主義を批判する論考になっている。『社会言語学』誌は言語権をテーマにかかげ、言語差別を問題化する専門誌である。その本誌において、障害学だけでなく言語権論/言語差別論の観点からも言語至上主義を検討する古賀論文は、まさに「言語にとらわれた」研究者たる言語研究者、社会言語学研究者にとって、痛烈な批判としてひびくであろう。知的障害者とのかかわりをもつひと、言語問題に関心をもつひと、表現をするひと、表現を享受するひとなど、ほとんどすべてのひとに熟読をすすめたい。古賀の今後の研究にも注目したいところだ。
◆英語批判の論考である仲潔(なか・きよし)の「「生きた英語」と分裂的言語観」は、学校教育における英語教育の問題点を、学習指導要領の詳細な検討によって論証している。社会言語学の論考として、ひじょうに堅実な内容となっており、とくに入門者にとって社会言語学の問題意識(論点)にふれるのによく適した論文にしあがっている。力作である。
◆糸魚川美樹(いといがわ・みき)「公共圏における多言語化」は、愛知県という多言語空間の「公共圏」において、どの言語が、どのような立場から、どのようなかたちで日本語とあわせて併記してあるのかを検討している。「多言語化の内実」を批判的に検討する糸魚川論文は、『「共生」の内実』(三元社)とあわせて参照されたい。「なんのための多言語化なのか」という問題意識を土台にしたものでなければ、「われわれの自己満足」におわってしまうのである。
◆東弘子(あずま・ひろこ)「批判的言説分析としての敬語分析」は、皇族にたいする敬語/敬称の使用を分析している。東は、「客観的な言語研究」という幻想によりかかることなく、イデオロギーの問題にとりくんでいる。東論文のすぐれた点は、イデオロギー性の批判にとどまって満足してしまうのではなく、きちんと敬語の言語学的分析にしあげていることにある。
◆ましこ・ひでのり「辞書の政治社会学序説」は、安田敏朗(やすだ・としあき)の力作『辞書の政治学』を中心に、辞書に託された規範と権威の問題を論じている。ベストセラーとなった『問題な日本語』、『続弾! 問題な日本語』の検討をくわえたことで、「近年の俗流言語論点描(その4)」としての役目をはたしている。
◆角知行(すみ・ともゆき)「漢字イデオロギーの構造」は、識字研究のたちばから漢字表記の問題を論じるものである。これは、識字研究者による漢字批判として、貴重な論考であるといえる。識字研究を、日本の文脈にそった批判的学問としてたちあげるために必要な論点とはなんであり、「漢字批判のいま」はどのようになっているのか。それを概観するうえでも重要な論文である。
◆鈴木理恵(すずき・りえ)論文「近世後期における読み書き能力の効用」は、教育史の研究者による「識字の神話」を再検討する論考である。「江戸時代の識字率は世界一」などという言説がはびこる現状において、鈴木がなにをどのように論証し、また提示しているのかに注目されたい。重厚な『社会言語学』第6号において、うもれてしまってはならない論文であると、ここで強調しておきたい。
◆あべ・やすし(筆者)の論文「均質な文字社会という神話」は、網野善彦(あみの・よしひこ)『日本論の視座』において展開された文字社会論=「日本の文字社会の特質」を批判的に検討した論文である。識字研究だけでなく、障害学の観点をとりいれたあべ論文は、識字能力と識字率のイデオロギー性を批判する。そして、よみかきをめぐる問題は、能力の問題ではなく、権利の問題であると発想の転換を主張する。文字がよめなくても情報をえる権利はある。また、情報をえることは可能でもある。それではなにが支障になっているのかといえば、社会環境の不整備なのである。
◆しばざき・あきのりによる『本のアクセシビリティを考える』(読書工房)の書評は、ひじょうに情報量もおおく、また、ふかい問題意識にうらうちされた内容にしあがっている。言語権論では、読書権という視点がとりあげられてこなかったし、さらには、「本のアクセシビリティ」、「バリアフリー出版」などが、なおざりにされてきた。ほとんどの読者にとって、はじめてふれる世界がそこにひろがっているといえるだろう。これも熟読されたい。
◆つぎは、はじめてのこころみである論文評である。ろう文化研究、おもに、きこえない親をもつきこえるこどもの研究にたずさわる澁谷智子(しぶや・ともこ)の論文「声の規範」『社会学評論』第222号を、ゴフマンの研究に立脚して吃音の社会学をたちあげている渡辺克典(わたなべ・かつのり)が論評している。社会にこだわる渡辺と、差異/文化にこだわる澁谷の、両人の問題意識がよくあらわれた評文と応答になっている。
◆2003年に出版された重厚な研究書である上農正剛(うえのう・せいごう)『たったひとりのクレオール』(ポット出版)を、手話学会長である森壮也が書評をかいている。森は、専門家として、また、当事者としての不満を率直になげかけ、上農は、大著の著者として、森の評文を「かかなかったこと」に対する非難として応答している。『たったひとりのクレオール』を通読したうえで、このやりとりに注目してみてほしい。
◆木村護郎クリストフ(きむら・ごろう くりすとふ)による大著『言語にとって「人為性」とはなにか』(三元社)を台湾在住の富田哲(とみた・あきら)が好意的にとりあげている。富田の紹介と木村の応答をよむと、木村の大著をあらためて手にとってよみかえす気にさせられる。
◆まとめ:本誌は、『社会言語学』と名のつく学術誌である。社会言語学や言語に関心をもつ読者にとってあまりに魅力ある1冊にしあがっていることはいうまでもなく、社会科学や社会問題に興味のあるひとにとっても、必読の1冊であると断言できる。
すべての論考において、「だれが、どのようなたちばから、なにを、どのように主張(行動)しているのか」がきちんと検証されている。そして、規範主義と固定観念の問題が丹念に批判検討されている。言語観をかえるということにとどまらない。『社会言語学』第6号は、よむものの世界観をかえる1冊なのである。
◆巻頭をかざった古賀文子(こが・あやこ)の「「ことばのユニバーサルデザイン」序説」は、言語至上主義を批判する論考になっている。『社会言語学』誌は言語権をテーマにかかげ、言語差別を問題化する専門誌である。その本誌において、障害学だけでなく言語権論/言語差別論の観点からも言語至上主義を検討する古賀論文は、まさに「言語にとらわれた」研究者たる言語研究者、社会言語学研究者にとって、痛烈な批判としてひびくであろう。知的障害者とのかかわりをもつひと、言語問題に関心をもつひと、表現をするひと、表現を享受するひとなど、ほとんどすべてのひとに熟読をすすめたい。古賀の今後の研究にも注目したいところだ。
◆英語批判の論考である仲潔(なか・きよし)の「「生きた英語」と分裂的言語観」は、学校教育における英語教育の問題点を、学習指導要領の詳細な検討によって論証している。社会言語学の論考として、ひじょうに堅実な内容となっており、とくに入門者にとって社会言語学の問題意識(論点)にふれるのによく適した論文にしあがっている。力作である。
◆糸魚川美樹(いといがわ・みき)「公共圏における多言語化」は、愛知県という多言語空間の「公共圏」において、どの言語が、どのような立場から、どのようなかたちで日本語とあわせて併記してあるのかを検討している。「多言語化の内実」を批判的に検討する糸魚川論文は、『「共生」の内実』(三元社)とあわせて参照されたい。「なんのための多言語化なのか」という問題意識を土台にしたものでなければ、「われわれの自己満足」におわってしまうのである。
◆東弘子(あずま・ひろこ)「批判的言説分析としての敬語分析」は、皇族にたいする敬語/敬称の使用を分析している。東は、「客観的な言語研究」という幻想によりかかることなく、イデオロギーの問題にとりくんでいる。東論文のすぐれた点は、イデオロギー性の批判にとどまって満足してしまうのではなく、きちんと敬語の言語学的分析にしあげていることにある。
◆ましこ・ひでのり「辞書の政治社会学序説」は、安田敏朗(やすだ・としあき)の力作『辞書の政治学』を中心に、辞書に託された規範と権威の問題を論じている。ベストセラーとなった『問題な日本語』、『続弾! 問題な日本語』の検討をくわえたことで、「近年の俗流言語論点描(その4)」としての役目をはたしている。
◆角知行(すみ・ともゆき)「漢字イデオロギーの構造」は、識字研究のたちばから漢字表記の問題を論じるものである。これは、識字研究者による漢字批判として、貴重な論考であるといえる。識字研究を、日本の文脈にそった批判的学問としてたちあげるために必要な論点とはなんであり、「漢字批判のいま」はどのようになっているのか。それを概観するうえでも重要な論文である。
◆鈴木理恵(すずき・りえ)論文「近世後期における読み書き能力の効用」は、教育史の研究者による「識字の神話」を再検討する論考である。「江戸時代の識字率は世界一」などという言説がはびこる現状において、鈴木がなにをどのように論証し、また提示しているのかに注目されたい。重厚な『社会言語学』第6号において、うもれてしまってはならない論文であると、ここで強調しておきたい。
◆あべ・やすし(筆者)の論文「均質な文字社会という神話」は、網野善彦(あみの・よしひこ)『日本論の視座』において展開された文字社会論=「日本の文字社会の特質」を批判的に検討した論文である。識字研究だけでなく、障害学の観点をとりいれたあべ論文は、識字能力と識字率のイデオロギー性を批判する。そして、よみかきをめぐる問題は、能力の問題ではなく、権利の問題であると発想の転換を主張する。文字がよめなくても情報をえる権利はある。また、情報をえることは可能でもある。それではなにが支障になっているのかといえば、社会環境の不整備なのである。
◆しばざき・あきのりによる『本のアクセシビリティを考える』(読書工房)の書評は、ひじょうに情報量もおおく、また、ふかい問題意識にうらうちされた内容にしあがっている。言語権論では、読書権という視点がとりあげられてこなかったし、さらには、「本のアクセシビリティ」、「バリアフリー出版」などが、なおざりにされてきた。ほとんどの読者にとって、はじめてふれる世界がそこにひろがっているといえるだろう。これも熟読されたい。
◆つぎは、はじめてのこころみである論文評である。ろう文化研究、おもに、きこえない親をもつきこえるこどもの研究にたずさわる澁谷智子(しぶや・ともこ)の論文「声の規範」『社会学評論』第222号を、ゴフマンの研究に立脚して吃音の社会学をたちあげている渡辺克典(わたなべ・かつのり)が論評している。社会にこだわる渡辺と、差異/文化にこだわる澁谷の、両人の問題意識がよくあらわれた評文と応答になっている。
◆2003年に出版された重厚な研究書である上農正剛(うえのう・せいごう)『たったひとりのクレオール』(ポット出版)を、手話学会長である森壮也が書評をかいている。森は、専門家として、また、当事者としての不満を率直になげかけ、上農は、大著の著者として、森の評文を「かかなかったこと」に対する非難として応答している。『たったひとりのクレオール』を通読したうえで、このやりとりに注目してみてほしい。
◆木村護郎クリストフ(きむら・ごろう くりすとふ)による大著『言語にとって「人為性」とはなにか』(三元社)を台湾在住の富田哲(とみた・あきら)が好意的にとりあげている。富田の紹介と木村の応答をよむと、木村の大著をあらためて手にとってよみかえす気にさせられる。
◆まとめ:本誌は、『社会言語学』と名のつく学術誌である。社会言語学や言語に関心をもつ読者にとってあまりに魅力ある1冊にしあがっていることはいうまでもなく、社会科学や社会問題に興味のあるひとにとっても、必読の1冊であると断言できる。
すべての論考において、「だれが、どのようなたちばから、なにを、どのように主張(行動)しているのか」がきちんと検証されている。そして、規範主義と固定観念の問題が丹念に批判検討されている。言語観をかえるということにとどまらない。『社会言語学』第6号は、よむものの世界観をかえる1冊なのである。
盲人の芸術家が いらっしゃいますね。光島貴之(みつしま・たかゆき)さん。
http://homepage3.nifty.com/mitsushima/top.html
たぶん、もっと いてますけれど、なまえをしらないもので。ともかく「鑑賞する」だけではないということで。ここ、いちおミソです。
てゆーか、検索したら「イタリアにおける視覚障害児者のための絵画鑑賞の取組」というPDF文書が ありました。ずばりですね。
数度通読してなんとか理解したつもりなのですが
要するに識字だけでは学習への障害になる人が出来てしまうのでなんとかしたい
どんな人にも学び知る権利がある→識字に頼る方法だけでは限界がある
理想としてはバリアフリー的発想ではなくユニバーサルデザイン的発想で解決したい
という要約でいいのかな?
さまざまな理由や都合による社会的制約上、大多数のスタンダードを押し付けてしまう現行社会制度の批判への切り口として
そういう方面からのアプローチは前々から伺っていましたが改めて真面目に考えるととても難しい問題ですね
私からしたら全てが万事、結局のところお互いの都合の押し付け合いにすぎないんじゃないかと、ついつい冷めた目線で距離を置いてしまっちゃうわけなんですが、、
というか、つりーさんが非常に鋭いコメントをされていますね
一番問題点がわかりやすくこれ以外に考えられないような例え話でステキすぎです
「絵画の鑑賞方法に関する一考察~ユニバーサルデザイン的鑑賞方法とはなにか?~」で論文が書けそうな(笑)
※不愉快な投稿でしたら削除してください
相変わらずの文脈混乱気味の意味不明な内容になってしまいました
ひじょうに すばらしい つっこみ、ありがとうございます。「現行の識字制度を、情報へのアクセシビリティを保障する経路の一つと見なそうとする」ですか。なるほど。わたしの表現のしかたとはことなりますが、そうですね。まー、識字制度を相対化するとか、なんだかわかりにくいので、ひとことにまとめます(笑)。権利の保障をするためには、識字という制度のありかたを、いくらでもかえてやるべし、ということです。それは、日本語表記の改善ということにもなりますし、代読とか代筆をみとめるとか、テストは口でやるか(口答試験)、文字でやるか(筆記試験)を選択できるようにし、あるいは、いっそのことテストなんかなくすか(笑)ということです。
「ささえあい」というのは『ささえあいの人間学』という本が念頭にあって、たまには「ささえあい」と表現するのもいいかな、と。教育のもつ根源的な暴力性というのは、よくかんがえる点です。理想的な教育というものを想定して、「現状のものとはちがう教育もありうるんだ」というのは、あんまりすきではありません。まさに、教育という日本語にも、あらわれていますしね。教育ということばはやめて、教学か学習でいい。ことばの問題にとどまるはなしじゃありませんけどね。教学というのは、ペキン語ではよくつかうことばです。チャオシュエ(jiaoxue)。
学習障害、読書権については、今後、まさに大々的にとりあげるつもりでいます。「均質な文字社会という神話」は、これまでかいたものの総集編、「識字と人権」の補足論文くらいにおもってください。6号のほかの論文との関連もあります。というわけで、よかったら6号その他をかってください。わたしの論文は、サンプルということで(笑)。
つりーさん:
そうですね。「芸術の鑑賞法」の発想をひっくりかえすのも大事ですね。いろんなふうに、わたしたちは発想を限定しています。固定観念というものにしばられて、そしてそれを社会全体に適用させてしまう。まさに、そのようにして「均質性」を「おしつけ」、おしつけられているわけですよね。
日本語表記についての問題提起は、もうしばらくしばらくさきになります。もうすこし、わきみちをあゆみます(笑)。最低限の提案は、「漢字という障害」をごらんください。
そこには昔の遺跡を利用して作った美術館があり、不思議なものを見た。半透明のプラスチックでできたやや立体的なレリーフが絵画の斜め手前にところどころ置かれていた。電源もコンセントを差し込めばつくようになっている。おそらく、眼が不自由な人の為に直接に触れて、どんな絵がそこに描かれているのか理解させる試みかと気が付いたのは半分ほど美術館を見て回ってからだった。
もちろん、その美術館には説明が聞ける機械の貸し出しもあり、耳からも手からも鑑賞できるというわけだ。しかし、なんという思いやりだろうと感心する前にそういう絵画鑑賞ってどういう意味があるんだろうと思ったのは事実なのだ。絵が眼で見えないのなら、手でさわってでも何か感じたいというのが当事者たちの切実な願望であるならば、それを保証してあげるのはいいことなんだろう。とは頭で理解できたものの違和感はやはり拭いさらなかった。
そして今こう思う。
しかしながら絵画鑑賞の方法が健常者たちの思いこみで限定されていることも事実なのかもしれないと。作品は生まれた時点で作者の手から離れる。ならば、こういう見方があってもおかしくない。願わくば、利用した人がその感想を美術館なり作者にフィードバックしてくれて、それを他の利用者が閲覧できるような状態になればかなり楽しいことになるかもしれないと夢想してみる。
そんな自らの体験をこの論文を読んで改めて考えて直してみた。それから日本語表記の有り様を改善することに関してはもっと具体的な踏み込んだ意見を読ませてもらいたかった。引用文献から拝見するに他で書かれているから、ここでは書かないということであろうかとも思うが、だとすれば、少なくともこの論文における大切な筆者のオリジナルの意見というものがやや乏しいのではないかという印象を持った。次回作をまた読ませてもらいたいものだ。
以前、乙武君が誰かと対談しているのを読んだとき、健常者でも誕生時や高齢時には重度の障碍者と同様のサポートを必要とする、という観点から、健常者と障碍者の関係を相対化する議論が提示されていました。あれは、今にして思えば、時間軸上で考えられた障碍学的観点だったのかもしれません。
そうしたことを踏まえてもう一度hitujiさんの論文を読み直しますと、「ここで強調したいのは、近現代社会が、「識字という制度」をうたがおうともしない社会であるということだ」という発言で、hituziさんは、識字制度を相対化しておられるわけですが、その相対化の仕方が実は繊細なものであると気づきました。
hituziさんの主張は、識字制度をイデオロギー的なものとして否定すること(つまり識字制度の存在の相対化)でもなく、また識字制度を内部から解体すること(識字制度の整合性の相対化)でもなく、識字制度の位置を相対化することなんでしょうね。つまり、近現代社会が疑おうとしない前提というのは、例えば、識字制度が唯一の尺度であったり、識字能力に関する偏った信仰であったりするわけですが、hituziさんは、そうした無根拠で不遜な前提や信仰を相対化して、現行の識字制度を、情報へのアクセシビリティを保障する経路の一つと見なそうとする、そこから、LD体制を識字制度の単なる補填とは見なさないような、能力から権利への転換が可能になる、ということなのでしょう。
ただし、少し気になったことがあります。識字制度の全体化(唯一の尺度にすること)や識字制度の序列化(尺度に優劣をつけること)は確かに問題ですが、識字制度の内部で、ある程度の競い合いや押し付けが生じるのは不可避ですし、ときには必要でさえあるのではないでしょうか。逆に言えば、教育というもの自体が、どれほど民主的で公正なものであるにしても、やはりある種の暴力たらざるをえないわけで、アクセスを多様化したところでその根源的な暴力性は払拭できないでしょう。そういう意味では、「ささえあい」を肯定的に語り、「競争」や「努力」を否定的に語るレトリックが正直、少し気になりました。もちろんこれは、文体上の趣味の問題も多分にあるので、批判というわけではありませんが。
それから、アクセスの多様化によって、本当に「学習障害が「可視化され」ないようにする」ことが可能なのかどうか、これも気にかかりました。たしかに、識字制度の相対化は学習障害の相対化と表裏一体でしょう。しかし、識字制度の相対化が当該制度の無化ではない以上、やはり識字能力による序列化は完全にはなくならない一方で、アクセスの多様化は、アクセスの住み分けをもたらすということも考えられます。ということは、アクセスの多様化によってもたらされる最終的な帰結は、「障碍の不可視化」ではなくて、「障碍者の不可視化」になってしまわないか、という気もしました。もちろんこれが一概に問題だとも思わないのですけどね。ただ、障碍学の行き着く先に思いを馳せると、倉本智明氏が考えているほどフェミニズムのの将来とは似ていないかもな、という印象を受けたわけです。
最後にもう一つ。「能力の問題ではなく、権利の問題であると発想の転換を主張する」この興味深い論文で、「読書権」の話題が、「おわりに」でしか言及されていなかったことは少し残念といいますか、もどかしいといいますか。読書権の保障の多様な可能性に関して、次回の論文でじっくり論じていただけることを楽しみにしております。
うえのおへんじにかいたように、文字の使用をやめようという主張ではないのですから、もちろん、識字という制度を肯定しているではないか?とおっしゃるなら、否定はしません。けれども、識字という制度を肯定する/否定するという単純な二元論ではないということはご理解いただけるかとおもいます。
識字という制度が学習障害をうみだしている事実を指摘し、それではどうしようかというのがわたしの論点なのです。
いま現に「識字能力を基準にした差異化」がなされているという事実から出発することなしに、発想の転換をすることはできませんし、転換しようという主張をすることもないでしょう。
ラベルはわきにおいておくとして、学校教育のなかで、教育方針をかえることなしには、たえず「学習できなくさせられる」こどもがでてきます。「学習できなくさせられる」というのは、ほかの学習方法であれば「まなぶことができる」のにもかかわらず、学習観の貧困によって、「均質な学習」がおしつけられているという意味です。
本文のなかで、説明がいきとどいてなかったのかもしれません。検討してみます。
さて、コメントへのおへんじですが。
まず、区別したいのはラベルをはることの是非と、支援をする必要性のふたつです。障害のラベリングに関する議論としては、ニキ・リンコ「所属変更あるいは汚名返上としての中途診断―人が自らラベルを求めるとき」『障害学の主張』(明石書店)をごらんください。「てがき文字へのまなざし」『社会言語学』3号においてもニキさんの議論を紹介しています。
また、「すべての少数派は障害者である」という記事もごらんください。
http://blog.goo.ne.jp/hituzinosanpo/e/483482cfae46a2b78c96d71ffaa62a80
わたしは、ラベルをはることの是非よりも、ラベルをはる/はらないにかかわらずすでになんらかのかたちで抑圧されていることを問題視します。だから、「もちろん、ディスレクシアなどの「個人的な困難」をもっているから、そのひとを支援するというのでは、まえもって社会がかたちづくっている障害(=社会的障壁)の実態がみすごされてしまう」としているのです(136ページ)。がんだーらさんが引用されたように、学習障害をうみだすのは現代社会の構造(識字という制度)です。それでは、どうしようかというときに、識字という制度をなくす、つまり、文字をつかうのをやめるという選択にはなかなかいきつきません。それは不可能なことかもしれません。だから、文字を使用する社会は、必然的に学習障害をうみだしてしまうということを認知することがまず必要になります。そして、学習障害者の権利を保障するために、あるいは、教育の場において疎外されないように支援体制を整備する必要があります。いちばんの理想をいえば、学習障害が「可視化され」ないようにする、ということになります。それは、文字弱者をうみだしてしまうような社会的障壁をなくしていく必要があるという主張です。
そうするためには、たとえば、すでにとりおこなわれているLD支援体制というものを、だれでも利用できるようにしていく必要があります。わたしはLDだと、「LDの名のり」をしないといけないのでは、やはり問題がありましょうから。でなければ、ご指摘のとおり、「実践的には、現行の識字制度における、識字能力を基準にした差異化を、LDを持つ人々を可視化する措置として一定程度認めて」しまうことになります。この点は、バリアフリーとユニバーサルデザインの思想のちがいを論じたものを参照されてください。わたしの記憶にあるのは、『障害学の主張』の「あとがき」の記述です。倉本智明(くらもと・ともあき)さんによる文章です。以下のページで公開されています。
http://www.akashi.co.jp/menue/books/1635/atogaki.htm
わたしの主張は、識字という制度を改善していくことであって、すてさることではありません。だからといって、「すべてのひとに文字を」という主張でもありません。社会のありようを改善することによって文字をよみかきできなくても知る権利などが保障される体制をつくりあげることなのです。
それは、学習障害者に文字を学習「させない」ようにするという意味ではありません。逆に無理に学習「させる」ということでもありません。わたしの問題意識は、「文字をよみかきする能力を社会全体にひろめ」ようとすれば、どうしても「とりこぼし」が生じてしまうという点にあります。それは、均質幻想が支配する社会では、認知さえされないのです。
がんだーらさんのコメントは、障害学的にとても重要な論点をふくんでいると感じました。初心にかえることができたという意味でも、感謝いたします。
日ごろ、佶屈聱牙(きっくつごうが)な文体を書くことに腐心している私としては、こういう観点は新鮮です。
さて、内容の方について少々確認させてください。131頁で、「識字という制度が(・・・)「学習障害」をつくりだしている」という「当然」のことを確認した後に、hituziさんは、「ここで強調したいのは、近現代社会が、「識字という制度」をうたがおうともしない社会であるということだ」と述べておられます。
しかし、134頁では、学習障害(LD)というラベルを日本に持ち込むことに疑問を投げかける玉永に対して、玉永の危惧を認めつつも、「よみかきに困難をもつこどもたちを放置すること」の危惧を優先し、日本なりのLD体制の導入が必要であると主張なさっておられるように見えます。
ということは、LDを生み出す識字という制度を一旦肯定し、その制度が持つ能力による差別化という負の側面を自覚しつつも、その内部で、読書権の観点から、LDを持つ人たちへの権利の保障を拡充してゆくことになると考えられます。これはつまり、「よみかきをめぐる問題は、能力の問題ではなく、権利の問題であると[する]発想の転換」が完全にはなされていないということになりませんか。あるいは次のように言うべきでしょうか。原理的には識字制度を批判しつつも、実践的には、現行の識字制度における、識字能力を基準にした差異化を、LDを持つ人々を可視化する措置として一定程度認めて、そうして可視化されたLDへの保障を、今度は読書権の観点から拡充してゆく、と。そういう理解でよろしいのでしょうか。
大枠の議論としてはこういう結論以外ありえないとは思うのですが、こうしたアクセシビリティの多元化という方向性は、しばしば、格差社会を黙認するイデオロギーに逆利用されかねないので、「文字をよみかきする能力を社会全体にひろめる」という方向性の余地は、ある程度確保しておいてもよいだろうと私は思います。
というわけで、もしかしたらhituziさんの意図とは異なるかもしれませんが、私には、hituziさんの主張が最終的には、完全な発想の転換になっていない(ように見える)点をむしろバランスのとれた結論と考えております。