2006年に かいた論文に、「均質な文字社会という神話-識字率から読書権へ」というのがある。ここで識字率から読書権へというのは、どのような意味か。
たとえば日本の識字率が97パーセントだとしよう。そして、のこり3パーセントが未達成であるから、「すべての人に文字を」というスローガンをとなえて、文字を普及することが理想的な社会をつくっていくうえで、重要なことだろうか。
わたしは、そうは おもえない。
なぜなら、どれだけ教育をひろめようと、文字をよめないひと、よめなくなるひとは存在しつづけるからである。
一方、読書権の普及率という視点にたってみると、そのパーセントは、かなり ひくいものになる。
拡大図書でなければ本が よめない弱視者や高齢者、あるいは脳性まひのひとに、どれほど拡大図書が提供されているのか。
パソコンが つかえず点字しか よめないひとに、どれほど点字で本が提供されているのか。
なんらかの理由で活字にはアクセスできず、パソコンで本をよんでいるひとに、どれほど本がテキストデータで提供されているか。
あるいは、どれほど よみきかせが提供されているか。
そういった観点にたってみると、日本の読書権の普及率は、かなり ひくい数字がでる。
文字がよめなくても、よみきかせをすれば、本をよむことができる。それなら、もはや、よみかきの「能力」の問題ではなく、サービス、提供のありかたの問題である。それゆえ、識字率をあげることを目標にするのではなく、読書権を保障することを社会の課題としなければならない。
それをのべたのが、「均質な文字社会という神話」という文章だ。
こうした視点は、読書工房という出版社から でている『出版のユニバーサルデザインを考える-だれでも読める・楽しめる読書環境をめざして』 や『本のアクセシビリティを考える―著作権・出版権・読書権の調和をめざして』、『本と人をつなぐ図書館員-障害のある人、赤ちゃんから高齢者まで』という本にくわしい。出版UD(ユニバーサルデザイン)研究会のブログも ごらんいただきたい。
最近でた注目すべき本に藤田康文(ふじた・やすふみ)『もっと伝えたい-コミュニケーションの種をまく(ドキュメント・ユニバーサルデザイン)』企画・編集:読書工房/発行:大日本図書がある。
はなしは かわる。
uumin3の日記をよんでいたら、「先住民の話」という記事があった。チベット弾圧に ふれながら、日本のアイヌについて ふれた一文だ。原文は、リンクさきに とんでください。こちらには、わたしがコメント欄にかいたことをはりつけておきます。
アイヌの権利をみとめようとしない多数派日本人の現実が、つまり、この日本社会の現実が、アイヌがアイヌでいることをやめさせたり、あるいは アイヌでいないことをあきらめさせ、あるいは、アイヌであることをたえず意識させつづける、あるいは、意識させつづけながらも それをかくさせようとするのだ。
アイデンティティは、本来自由であるべきなのに、多数派日本人が、アイヌにアイデンティティのジレンマに おいこむのだ。
「日本人とは、だれのことか」については、「かくも「正しい」動物愛護」のコメント欄に かいたので、そちらをよんでほしい。
もう一度かく。
先住民についての問題とは、「アイヌを自認する人々というのがどれだけいて、さらには権利闘争まで行なおうという人の規模がどれほどのものか」の問題ではない。
「失地回復まで闘おうとする「アイヌ」を自認する人がどれだけいるのか、ほとんどいないんじゃないのかということも思ってしま」うような多数派日本人が、どれほどいるのかという問題である。権力の問題を、少数派の意識の問題などに、おしこめてはならない。
狂気の左サイドバック――「中国・チベット:日本・アイヌ」問題(umeten氏こころ世代のテンノーゲーム)にもトラックバックします。
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たとえば日本の識字率が97パーセントだとしよう。そして、のこり3パーセントが未達成であるから、「すべての人に文字を」というスローガンをとなえて、文字を普及することが理想的な社会をつくっていくうえで、重要なことだろうか。
わたしは、そうは おもえない。
なぜなら、どれだけ教育をひろめようと、文字をよめないひと、よめなくなるひとは存在しつづけるからである。
一方、読書権の普及率という視点にたってみると、そのパーセントは、かなり ひくいものになる。
拡大図書でなければ本が よめない弱視者や高齢者、あるいは脳性まひのひとに、どれほど拡大図書が提供されているのか。
パソコンが つかえず点字しか よめないひとに、どれほど点字で本が提供されているのか。
なんらかの理由で活字にはアクセスできず、パソコンで本をよんでいるひとに、どれほど本がテキストデータで提供されているか。
あるいは、どれほど よみきかせが提供されているか。
そういった観点にたってみると、日本の読書権の普及率は、かなり ひくい数字がでる。
文字がよめなくても、よみきかせをすれば、本をよむことができる。それなら、もはや、よみかきの「能力」の問題ではなく、サービス、提供のありかたの問題である。それゆえ、識字率をあげることを目標にするのではなく、読書権を保障することを社会の課題としなければならない。
それをのべたのが、「均質な文字社会という神話」という文章だ。
こうした視点は、読書工房という出版社から でている『出版のユニバーサルデザインを考える-だれでも読める・楽しめる読書環境をめざして』 や『本のアクセシビリティを考える―著作権・出版権・読書権の調和をめざして』、『本と人をつなぐ図書館員-障害のある人、赤ちゃんから高齢者まで』という本にくわしい。出版UD(ユニバーサルデザイン)研究会のブログも ごらんいただきたい。
最近でた注目すべき本に藤田康文(ふじた・やすふみ)『もっと伝えたい-コミュニケーションの種をまく(ドキュメント・ユニバーサルデザイン)』企画・編集:読書工房/発行:大日本図書がある。
はなしは かわる。
uumin3の日記をよんでいたら、「先住民の話」という記事があった。チベット弾圧に ふれながら、日本のアイヌについて ふれた一文だ。原文は、リンクさきに とんでください。こちらには、わたしがコメント欄にかいたことをはりつけておきます。
先住民の問題は、「アイヌを自認する人々というのがどれだけいて、さらには権利闘争まで行なおうという人の規模がどれほどのものか」の問題でしょうか?「失地回復」をどのように とらえるかは、アイヌが かんがえることであって、「失地回復まで闘おうとする」というふうに、いかにも いきすぎた主張であるかのような いいかたは、あまりに ふみこみすぎた発言ではないかと おもう。
そうではなく、「失地回復まで闘おうとする「アイヌ」を自認する人がどれだけいるのか、ほとんどいないんじゃないのかということも思ってしま」うような多数派日本人が、どれほどいるのかの問題ではないでしょうか。
「失地回復まで闘おうとする」という表現をされますが、そうして、なにが いけないのでしょうか。
そういうひとが、いるかどうかの問題ではないはずです。アイヌモシリを植民地支配してしまった帝国日本の問題だと、わたしは おもいます。
民族概念の問題については、スチュアート・ヘンリ『民族幻想論-あいまいな民族 つくられた人種』解放出版社と小坂井敏晶(こざかい・としあき)『民族という虚構』東京大学出版会をおすすめします。
アイヌの権利をみとめようとしない多数派日本人の現実が、つまり、この日本社会の現実が、アイヌがアイヌでいることをやめさせたり、あるいは アイヌでいないことをあきらめさせ、あるいは、アイヌであることをたえず意識させつづける、あるいは、意識させつづけながらも それをかくさせようとするのだ。
アイデンティティは、本来自由であるべきなのに、多数派日本人が、アイヌにアイデンティティのジレンマに おいこむのだ。
「日本人とは、だれのことか」については、「かくも「正しい」動物愛護」のコメント欄に かいたので、そちらをよんでほしい。
もう一度かく。
先住民についての問題とは、「アイヌを自認する人々というのがどれだけいて、さらには権利闘争まで行なおうという人の規模がどれほどのものか」の問題ではない。
「失地回復まで闘おうとする「アイヌ」を自認する人がどれだけいるのか、ほとんどいないんじゃないのかということも思ってしま」うような多数派日本人が、どれほどいるのかという問題である。権力の問題を、少数派の意識の問題などに、おしこめてはならない。
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