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江戸の商人の名前・・長崎の異人さんの名前

2016-09-18 02:08:29 | 日記
A.江戸商人の名前
 以前このブログで、日本人の名前のことを書いたことがある。名前のつけ方にはそれなりに歴史的ないきさつがあって、今のように親が生まれた子どもに好き勝手に文字と読みを自由に決めて届ければ、それがその子の一生の名前になるようになったのは、比較的新しい、少なくとも明治維新以後にそうなってきたものと思われる。それ以前は家名を名乗る武士や公卿の場合は、伝統的なルールがあって、古代の姓、官位に伴う職名、荘園など根拠地の地名からの転用や、公式の名乗りと通称を使い分けたり、幼少の名を元服で偏諱(主君などから一字をもらう慣行)改名するなど、制約があった。また法的な単一戸籍登録があったわけではないから、自分で号やペンネームを作る人もいた。
 ただ農民・町人階級は、正式な苗字はないので、住んでいる地名や商店なら屋号で代替したようだ。それに「なに助」「なにべえ」と呼び名を決める。命名は親や親族の自由だが、商人は子どもの時の名を、髪を剃って一人前になり、一家を構えるときに改名するのは珍しくなかった。江戸の商人の名前をデータベース化したものがあるらしく、山室恭子さんが紹介していてなかなか面白い。もとのデータソースはいつごろのどんなものか分からないが、江戸後期は相撲の番付と同じ形で「東都美人番付」みたいないろんな番付が出回った時代だから、江戸商人番付業種篇みたいなものがあったのかもしれない。

「山室恭子の商魂の歴史学:一番人気は「吉兵衛」さん
 あ、いらっしゃい、幸町のお嬢さん。今日のお花は竜胆に桔梗、秋ですなあ。いつもありがとうね。
 お父様、新しい商売のご準備のほうは?ほう、心機一転、新しい名前で勝負なさりたいと。ええ、このお江戸ではよくあることで。
 はいはい、ございますよ、資料。お嬢様のための大江戸データバンクですもん。7076人の江戸商人の名前をデータベース化してみたら、一番多かったのは114人の「吉兵衛」さん、つぎは91人の「清兵衛」さん、さらに「喜兵衛」「伊兵衛」「長兵衛」と、じつに上位32位まで「兵衛」の付く名前が独占しとりやす。お武家様が多い街だから「兵衛」名が好まれるのでしょうかね。
 で、分類してみると、お江戸の商人名には、八つほどのパターンがあることが分かりやした。こちらのグラフです。いちばん多いのが「なんとか兵衛」さん、ついで「なんとか郎」さん、「あんとか衛門」さん。ここもおもしろくてね。「衛門」のうち「右衛門」が10%、「左衛門」が3%と、左右で極端に異なりやす。「キチウエモン」と「キチザエモン」、やわらかな語感のほうが人気なんですな。
 語感と申せば、末尾を「弥七」「喜八」みたいに数字で止める2パターンも計9%と健闘。別にご本人が七男、八男とは限らず、きりっと締まる感じが良かったんでしょう。江戸っ子は、シチの発音が不得意?からかわないでくださいな。
 長男か次男かを知りたくて集計してみると、「太郎」が付く名が全体の2%、「次郎」が筑名が8%、「三郎」4%、「四郎」1%、「五郎」3%、「六郎」以下はほとんどおりやせん。「四郎」が少ないのは縁起を担いだんでしょうなあ。「太郎」の少なさと「次郎」「三郎」「五郎」の多さは、農村出のたくましい次男坊三男坊五男坊たちが江戸の商業を支えた証しでしょう。たしか、お父様も三男でしたよね。
 名前末尾のパターンや数字の分布のようすは分かった。じゃあ、冒頭にどんな漢字を付けるの?そう、ここが個性の見せどころですな。
 ベスト20を表にしてみました。一等賞は「清」。清兵衛、清次郎、清右衛門さんたちでさ。ついで「喜」「平」「吉」「長」とおめでた気分の漢字が並びます。「利」やら「金」やら「徳」やら、いかにも商人、みたいな漢字は上位に来なくて、「清」廉で「喜」びや「吉」を「平」かに末「長」くもたらしましょう、といった、ゆかしいネーミングです。
 どうです?お江戸の商人、なかなかに粋な名付けセンスでございましょう。ぜひぜひ、お父様に佳き名を残してあげてくださいね。(東京工業大教授)」朝日新聞2016年9月17日 be on Saturday 4面。

 これも余計なトリビアだが、今の日本人の名付けは完全に自由気ままで、しかも漢字と読みは対応しにくいものがあり、キリスト教文化圏や中華文化圏など世界の名前のつけ方と比べて、ほとんどめちゃくちゃともいえる。漢字以外にひらがなもカタカナも使えるから、必然的にときどきの流行が反映される。すると子どもが小学校に行くと似たような名前ばかりになっている。
 日本人の名前は、時代を反映するのだが、最近はとくに欧米系のファーストネームに漢字を当てる傾向が強まっている。キリスト教の聖人に由来する名前にはそれぞれ「ヨハネス→ジョン」、「ソフィア→ソフィ」などの変形はあるが、あまり多様性はない。日本語は同じ音でも文字はたくさんあり組み合わせも多数あるから、文字の人名はほとんど無限だ。ただ、耳で聞くだけでは同音識別が難しい。「いとうまさお」みたいな名を聞いただけでは、「伊東」「伊藤」「井藤」などいろいろあるし、まさおに至っては「昌男」「雅夫」・・・きりがない。もし識別の機能性を優先するならば、「いとうガババ」みたいな特殊な名にしておくと間違いはない。でも、日本人は識別の機能性などはど~でもよくて、子どもが自信をもってよい人生を生きるために希望を込めて命名する。でもあまりに選択肢が広いので、大概はあまりいいアイディアが浮かばず、結局自分の好きなタレントや有名人の名を借りてつける。それでクラスには「大輔」や「沙也加」がたくさんいることになる。



B.蘭学の開花・江戸と長崎
 今年の6月、初めてぼくは長崎を訪れた。長崎はさほど広い街ではないので、市電に乗れば市内どこにでも行かれて便利である。原爆資料館や教会などを回ってとても興味深かったが、最後に「出島」にも行った。長崎の港に浮かんでいた出島は、鎖国の江戸時代を通じてヨーロッパとの情報窓口になった小さな埋立島だが、明治以後の開発で姿を消した。しかし、ほぼ同じ場所に復元が行われて、今はオランダ商館の一部が復元されて見学できる。今は市街地の中の観光スポットだが、かつては海中に浮かんだ島だった。
 オランダ商館は貿易商人が取引するだけではなく、オランダ政府から派遣されてくる商館員が常駐して、幕府の長崎奉行と通詞を交えて交流し、本国からの新商館長などが来れば、江戸まで出かけてヨーロッパの事情を幕府に伝えた。海外から閉ざされた江戸時代にあって、長崎から入る物と情報は貴重だった。そして、出島にはオランダ人だけでなく、ドイツ人も何人もいたのである。そこから医学書が持ち込まれ、江戸後期の「蘭学」が芽生える。

「バイエルンのウュルツブルクは、ドイツの医学史上、ベルリンと並んでもっとも重要な町である。フンボルトに学んだ解剖・生理学者デーリンガー(1770~1841)もそこにいた。かれの門から、発生学者フォン・ベール(1792~1876)、すぐれた臨床家シェーンラインが出た。そして青年時代をデーリンガーの許で修業したシーボルト(1796~1866)が、一八二〇年ウュルツブルク大学を卒業し、オランダの軍医という身分をもってアジアへ赴いたのである。
 シーボルトがオランダ商館の医官として出島に着任したのは一八二三年夏であった。
 まず試みたのはジェンナーの牛痘法であったが、新鮮な痘苗がなく、方法の指示に終わった。ついで診療や医学・自然科学の教育を、始めは通詞の家で、一八二四年、鳴滝に塾ができるとそこで行った。かれの名声は遠近に拡がった。
 一八二六年、かれは商館長に伴って江戸参府旅行に出発した。道中かれは好奇心に満ちた眼を日本の風物・習慣に注ぎ、また各層の日本人はかれに容赦なく質問を浴びせた。後日のことであるが、かれの蒐集品に国禁のものが含まれていることが分かり、かれは国外退去を命ぜられ、日本人も多数が取り調べを受けた。いわゆるシーボルト事件である。
 かれは日本人を愛し、多くの弟子を育て、あるいは励まし、楠本タキという、もと遊女を妻とし、娘イネをもうけた。一八二九年十二月二十九日(文政十二年十二月五日)、思いを残しながら長崎を去った。
 一八五八年(これはウィルヒョウの『細胞病理学』刊行の年)、日本はアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダと通商条約を結んだ(その一年前、オランダのポンペが長崎に着任している)。翌五九年、シーボルトは三年間滞在し、一八六二年、帰国した。七十歳のときミュンヘンで死んだ。晩年のシーボルトの姿を、フランスの作家ドーデーは『月曜物語』(1873)中の「盲目の皇帝」で描いている。

 『蘭学階梯』の著者大槻玄沢は、一七八六年、芝蘭堂という私塾を開いた。これは蘭学塾の嚆矢であった。そこから多くの蘭学者が巣立った。伊勢の安岡玄真(1769~1834)(のち宇田川と改姓)もその一人であった。この宇田川玄真は『医範提綱』(1805)、『遠西医法名物考』(1822)、『和蘭薬鏡』(1828)の著者、きわめて多産な、蘭学の雄であった。宇田川玄真に学んだ坪井信道(1795~1848)は江戸・深川で開業するかたわら、日習塾という塾をおこした。その門からは、緒方洪庵(1810~63)、箕作阮甫(1799~1863)らが出たが、こういう人たちは、次代の医学・科学を担うことになる秀才であった。シーボルトに学んだ伊東玄朴(1800~71)と戸塚静海(1799~1876)は安政五年(1858年)将軍家定の病が重いとき、そろって侍医奥医師となり、それから幕府の蘭方禁止が解除された。玄朴はまた、お玉が池種痘所の生みの親であった。
 一八三八年(天保九年)、緒方洪庵が大坂の瓦町に適塾を、佐藤泰然(1804~72)が江戸の薬研堀に和田塾を開いた。
 洪庵が備中の足守から大坂へ出てきたのは十六歳のときだった。中天游の塾に入った。ニ十一歳で江戸に出て坪井信道に入門、信道は洪庵の勉強ぶりを見込んで塾頭に任じた。また西欧医学は「人身の内景」(解剖学)が本、「原生原病の研究」(病理学)がこれに次ぎ、「薬剤治方」(治療学)はさらにその次であることを看破し、洪庵と青木周弼(1803~63)に病理学書の翻訳・著述を委託して死んだ。洪庵は師の期待によく応え、ハルトマン、フーフェランド、コンスブルフらの著書を参考にして、『病学通論』三巻を編述した。その完成は後日(1847)のことである。洪庵はさらに長崎に学び、ニ十九歳になって大坂の瓦町で「適塾」を開いた。前年の大塩平八郎の乱で北船場は焼け野原であった。
 患者も弟子も増えた頃、北浜の商家を買い取って移転、名声は天下に響いた。塾の様子は『福翁自伝』(福沢諭吉)で知ることができる。諭吉のほか、大村益次郎、橋本佐内、長与専斎、佐野常民らがこの塾を出た。福沢は慶應義塾の創設者、大村は明治軍制の樹立者、橋本は広い視野を持った福井藩士(安政の大獄に倒れた)、長与は日本の衛生行政を築いた人、佐野は日本赤十字社の創立者である。「明治」がここで育ったのである。洪庵の非凡な能力、町人の町大坂の熱気がこういう成果をもたらした、といえよう。
 洪庵は『病学通論』のほか、フーフェランドの内科書を翻訳、『扶氏経験遺訓』として刊行した。その完成は一八六一年であった。翌年には『虎狼痢治準』も執筆した。「虎狼痢」とはコレラのこと、当時大流行があり、江戸では三万人が死んだといわれる。一八二二年に次ぐ、日本では二度目の大流行であった。
 〔注〕洪庵が参考にした著作の内、ハルトマンの『病気の理論Theoria morbi』(1814)は十九世紀初めのドイツやオーストリアで教科書として使われた。ロキタンスキーもウィルヒョウもこれで講義を受けた。ドイツ語訳(Theorie der Krankheit)が1828年に出ているが、オランダ語訳(Ziekte-Leer)は一年先に刊行されている。ハルトマンはオルミュッツ(現チェコ・オロモウツ)やウィーンで教鞭を執った病理学者。自然哲学の影響を強く受けていた。洪庵もロキタンスキーもウィルヒョウも、同じ本から出発しているところが面白い。またフーフェランドはほぼ同時代のドイツ人、ヨーロッパ中に名を知られた名医でゲーテとも交わりがあった。」梶田昭『医学の歴史』講談社学術文庫、2003.pp.296-300.

 出島というこの狭い場所から、わずかな書物と知識が日本に潜り込み、やがて「蘭方医学」を学ぼうと全国から有為の青年が長崎に来て学び、さらに「医学」だけでなくヨーロッパの文明について「知りたい」という情熱を掻き立てた。そして幕末開港以後の激動と、切支丹弾圧の歴史。そのことを思ったら、この出島があった長崎という土地の特殊な意味を考えて感慨深かった。

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