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「絵を読む」24 J.ポロックの抽象したもの ・・角栄は?

2018-11-29 20:52:58 | 日記
A.具象対抽象という誤解
 第2次大戦後、美術の中心がパリからニューヨークに移り、次々新しい潮流が現れることになるのだが、一般に「絵画」が風景や人物や静物などを題材に、その形象をキャンバスなどに描く写実的な「具象的」作品と、眼に見える形姿をそのままで描くのではなく、色や形を分解したり組み合わせたりする「抽象的」作品があるのだ、という二分法が定着する。「西欧絵画」の歴史をみてくると、この意味の「抽象的」作品が現れるのは、20世紀に入ってからだと考えられ、セザンヌやモネなどがその先駆と見られるようになるのも、キュビスムやダダイスムなどが出てきたからだろう。しかし、キュビスムやシュールレアリスムなどは、見たものをそのまま描くのをやめたが、現実にある形象を完全に離れた幾何学的な図像や無秩序な偶然によるようなものではないから「抽象的」といっても、「具象的」要素を含んでいた。そして、第2次大戦後に現れる、それ以前の「絵画」概念を塗り替えるような新しい「抽象主義」は、まずアメリカ人らしいアメリカ人、ジャクソン・ポロックからはじまる。「抽象表現主義」と呼ばれる作品は、かれがそう名付けたわけではない。

 「「抽象表現主義」という用語を正当なものとするあらゆる真の根拠は、これらの画家たちの幾人かが、キュビスムおよびフランス的なものを一般に反発するようになった時に、ドイツやロシアやユダヤの表現主義に傾き始めたという事実に在る。しかしそれでも、彼らの全てがフランス美術から出発し、フランス美術から様式に対する己の直感を得たことに変わりはない。また、彼ら全てが優れた野心ある芸術とはどのような感触のものでなければならないかについてのもっとも鮮明な概念を得たのもフランス人からである。
 これらの若いアメリカ人たちが共有したと思われる最初の問題は、三人の主要なキュビスト――ピカソ、ブラック、レジェ――が総合的キュビスムの終り以来固守してきた、比較的限定された浅い奥行きのイリュージョンを緩めることだった。彼らはまた、自分たちの言わなければならないことを言えるようにしたければ、先行する抽象芸術の殆ど全てにキュビスムが課していた、ドローイングやデザインにおける直線的または曲線的な規則正しさについての規範を緩めなければならなかった。これらの問題は、計画に従って取り組まれたのではない。「抽象表現主義」には計画的なものは皆無に等しく、またこれまでもそうであった。個々の芸術家たちは「声明」は発したかもしれないが、そこにはいかなる宣言書もなかったし、また「スポークスマン」もいない。むしろそこで起きたのは、1943年から1946年までの間にニューヨークのペギー・グッゲンハイムの「今世紀の美術」画廊において最初の個展を開いた6人、7人の画家たちが、別個に、しかし殆ど同時に、ある一群の難題に直面したということである。当時、30年代のピカソ、および1910-1918年のカンディンスキーはそれよりは劣るもののおそらくはそれよりは決定的な度合いで、抽象及び抽象に近い芸術にとっての表現の新しい可能性を暗示していた。それは、クレーが最後の10年に抱いていた、非常に創意に富んではいたが実現されることのなかった着想を超えるものであった。ゴーキーやデ・クーニングやポロックのようなアメリカ人にとって重大な刺激となったのは、実現されなかったクレーというよりはむしろ実現されなかったピカソであり、彼ら三人全ては、ピカソが狩り出したが捕らえられることのなかった野兎の幾羽かを捕えようとし、そして実際ある程度捕えたのである(少なくともポロックは捕らえた)。」クレメント・グリーンバーグ「『アメリカ型』絵画」『グリーンバーグ批評選集』藤枝晃雄(編訳)、勁草書房、2005年。

 「ポロックは、西部のワイオミング州の生まれ。しかし、生後10カ月頃からは、貧しい一家とともにカリフォルニア州、アリゾナ州などの各地を転々。15歳のとき、はじめてアルコールを口にするが、これが彼の人生にとっては決定的。予備役将校訓練部隊(ROTC)に所属するが、酒に酔った暴行事件で除名。そこからはじまって、アルコール中毒とそれに絡み合った暴力という症候群は生涯かれにつきまとうことになる。1930年にかれはニューヨークに移り住み、アート・ステューデント・リーグで、画家のトーマス・ハート・ベントン(1889-1975年)の教室に所属。このベントンの指導のもとで絵画を学びながら、苦しい生活をやりくりする苦闘に満ちた模索の過程がポロックの1030年代でしょうか。特筆すべきは、かれが、ホセ・クレメンテ・オロスコや、ダビド・アルファロ・シケイロス、ディエゴ・リベラといったメキシコの壁画家たちの仕事と出会っている事。実際、1936年にはシケイロスの「実験ワークショップ」に参加して、壁画制作のためのさまざまな技法を習得しています。だが、同時に、1930年代を通じてかれのアルコール中毒は悪化し、ついにみずから入院して治療を受けることになる。その過程でユング派の精神分析を受けるのですが、その分析のためのドローイングが今でも残っています(かれの一貫した「西部」、すなわち「余白」、「野生の限界領域」への志向を端的に示す作品を掲げておきます)。
  こうして、生活においても心理においてもはじめからある種の根源的な「破綻」を抱え込んでいるポロックが、続く1940年代の後半になると、「ニューヨーク・スクール」あるいは「抽象表現主義」と呼ばれることになる、アメリカ合衆国の新しい絵画の流れの先頭を切って走っている。このジャンプがどのように可能になったのか。
  言うまでもなく、ひとりのアーティストが世界レベルの絵画史のなかに登録されるに至るジャンプを果たすためには、さまざまな補助者との出会い、独自の世界を切り開くためのきっかけ、社会に受容される歴史的条件などたくさんの要素が複雑に絡み合っています。その絡み合いのなかから、わたしとしては、1937年の『マガジン・オブ・アート』に発表された論文「原始美術とピカソ」を読んで感動したポロックが、わざわざ著者を探して会いに行ったという美術理論家のジョン・グレアム、そしてそのグレアムが企画した「アメリカとフランスの絵画」展(1942年、マクミラン画廊)に、アメリカ側の若手のひとりとしてポロックとともに出品を要請されるが、ポロックの作品に圧倒されて、かれを世に出すことを決意し、後には結婚することになる画家のリー・クラズナー(1908-84年)、そして1943年にみずから運営する「今世紀の美術」画廊における「若き芸術家のための春のサロン」第1回展にポロックを招き、同じ年にかれの初の個展をオーガナイズし専属の契約をすることになる、世紀の大コレクターともいうべきペギー・グッゲンハイム(当時の夫は、なんとあのエルンストでした!)、そして1945年の同画廊での第2回目の個展について「私の意見では、かれの世代の中の最強の画家。そしておそらくミロ以来のもっとも偉大な画家としてみずからを確立している」と宣言したグリーンバーグなどとの一連の出会いをじっくり物語りたいところです。」小林康夫『絵画の冒険 表象文化論講義』東京大学出版会、2016.pp.290-292. 

  ポロックといえば、床に拡げたキャンヴァスの上で、顔料を入れたバケツをもって踊るように色をまき散らすパフォーマンス映像が有名だ。かれは1950年代にこれで、現代美術のヒーローになる。しかし、はじめからこうした方法で絵を描いていたわけではない。その初期の《誕生》などの作品から追いかけてみると、かれがどうやってこうした表現にたどり着いたか、想像できる。

 「こうして、とうとう準備が整ったと言いましょうか。われわれは、ポロックという野生の野兎が、数世紀に及ぶ伝統を誇る「西欧絵画」という歴史的運動体を、決定的な仕方で突破するそのモーメントにさしかかっている。すべては準備された。ただ、この「突破」が起こるために必要なことは、画家がマンハッタンを離れて、「西部」へ――いや、実際の「西部」ではなかったのだけど――大西洋に面したロングアイランド島の農業と漁業の村スプリングスへと引っ越すことだけ。その「自然」のなか、納屋を改造したアトリエの床に、かれは、下塗りをしていないカンヴァスを拡げ、その上から、エナメルやアルミニウムといった工業用の顔料を、棒や固めた筆などで、滴らせたり注いだりする、いわゆるドリッピング(dripping)、あるいはポアリング(pouring)と呼ばれる技法を使って、画面一面にさまざまな顔料のラインが乱舞するオール・オーヴァー(all over)の作品を制作するようになるのです。このポイントのひとつは、顔料の流動性でしょう。それは流れなければならない。しかし、ポロックがコントロールを失うほどに流動的ではいけない。かれの身体の動きがそのままダイレクトに反映され、かれがカンヴァスの上の「空中」で絵を描くことができるように、流動的でなければならないのです。その流動性が、その制作の「時」の統一性・全体制を保証するのです。
  たとえば、そのような制作の比較的初期の作品のひとつ《五尋の深み》(1947年)。驚くべきことに、この画面には、釘、鋲、ボタン、鍵、櫛、たばこ、マッチも同時に塗りこめられているのです。しかも、ここには、もはやいかなる形象断片も残されてはいない。「意味」を求め探ろうとする読み取りの眼差しは、縦横に走る顔料のラインの「無秩序」に途方に暮れるだけ。タイトルも――おそらく他人がつけたもの――なんの指示も与えてはくれそうにもありません。ここでは、われわれの頭脳の「表象」のモダリテイが完全に機能不全に陥ってしまう。しかも、ここには、いわゆる抽象画の核にあったようなコンポジションは少しも見えては来ない。むしろ全体は、ディコンストラクションどころか解体(ディコンポジション)の様相を強く帯びているのです。われわれ観る者はこれに耐えなければならないということになる。すなわち、この作品を対象的に見るのではなく、そう、ポロックが制作においてそうしていたように、われわれもまた、この絵画の「中に」入れなければならないのです。 ポロックは次のように言っています。

  私の絵はイーゼルから生まれてくるのではない。描く前にキャンヴァスを張ることさえ滅多にしない。わたしは張っていないキャンヴァスを固い壁や床の上にとめるほうが好きだ。硬い表面の抵抗が必要だし、床の上だとずっとのびのびできるからだ。このやり方だと、絵のまわりを歩き、四方から制作し、文字通り絵のなかにいることができるのだから、わたしは絵をより身近に、絵の一部のように感じられる。これは西部のインディアンの砂絵師たちの方法に近い。
 イーゼル、パレット、絵筆といった普通の画材を段々使わなくなってきている。棒、こて、ナイフや、流動的な顔料や砂、割れたガラスその他異質な物質を加えた重い厚塗りの絵具をドリッピングするほうが好きだ。
自分が絵のなかにいるとき、自分が何をしているのか意識しない。いわば“なじんだ”あとになってはじめて自分が何をしていたかを知る。わたしは変更することやイメージをこわすことを恐れない。なぜなら絵はそれ自体の生命をもっているのだから。わたしはそれを全うさせてやろうとする。結果が駄目になるのは、わたしが絵との接触を失ったときに限られる。他の場合には、純粋なハーモニー、楽々としたギブ・アンド・テイクが生まれます。絵はうまくゆく。

 そう、だから、われわれもまた、絵の「中に」入る。でも、そうすると、奇妙なことに、―-まったくの蛇足、個人的な「無双」のようなものですが――サイズと比率が似通っているせいもあるが、わたしには、この《五尋の深み》の「ヴェール」の下に、われわれが最初に見たあの《誕生》が透けて見えてくるようにも感じられたりする。渦巻く黒のライン、白の断片的な肉体、あの恐ろしい「眼」は隠れて消えているが、しかしこれもまた《誕生》ではないのか――わたしだったら、《誕生Ⅱ》とタイトルをつけたかもしれません。いずれにしても、そこに、単なる偶然のデタラメという意味での「カオス」を見る(それはじつは、「見ることができない」という意味ですが)のではなく、この始まりも終わりもない「無秩序」が、しかし「聖なるもの」として開かれているということを自分なりに感じることが重要になってくるのです。
  こうして、ポロックとともに、ジョットから始まった「西欧絵画」は、画家の存在そのものの「野生」という平面に激突する。いや、「激突」という強い表現を使ったのは、この作業は、あるいは人が誤解するかもしれないけれど、じつが、けっして簡単な、イージーな制作などではないということ。むしろ逆で、この「中にいる」アクションを保ち続けることは、おそらく――あらゆるシャーマニズム的儀礼がそうであるように――きわめて危険なことでもあるのです。
  そして、ポロックもその危険な道を行く。1950年、かれはまたアルコールに溺れるようになる。1951年頃からは、いわゆる「ブラック・ペインティング」と呼ばれる、まるでもう一度、具象的な形態を追い求めるかのような作品を制作するようになる。ここには、「絵画」の「復讐」とでも呼びたくなるような何か壮絶なものがあるとわたしは思うのですが、ここではもう論じることはできません。「ブラック・ペインティング」とドリッピングやポアリングを用いた絵画のあいだで揺れ動きながら、1954年以降、かれは次第に絵が描けなくなる。18カ月ものあいだ、絵が描けない。クラズナーとの関係も破綻。そして、1956年8月、新しい恋人の女性とその友人を乗せて、飲酒運転をしていて道端の木に激突。恋人の女性は助かったが、その友人も運転していた本人も即死。ポロック、享年44歳。
 「絵画」が「自然」に「激突」した「事件」で、それはあったのだ――と、いささかパセテイックに、わたしは言ってしまうのです。」小林康夫『絵画の冒険 表象文化論講義』東京大学出版会、2016.pp.297-300.

 小林氏の文章は、劇的な短い生涯を終わらせたポロックに触発されて、昂奮しているのだが、もしポロックが生きながらえていたとしても、かれのこの方法は行き着くところまで行きついて、後はなかったかもしれない。



B.消費税10%はやらざるをえない・・しかし。
 べつの話題だが、大相撲の横綱稀勢の里は休場を繰り返したあげく、やっと9月場所で10勝を挙げこれでかろうじて復活かというファンの期待を裏切って、九州場所では初日から四連敗してまた休場。大方の相撲ファンはかれは横綱を張る力はなく、もう見限るしかあるまいと思っただろう。消費税の引き上げは、やるといっては延期し、いよいよやらざるをえないとなったら、対象を選んで軽減税率を適用するという姑息な弥縫策を出している。現実を直視することを避け、引き延ばしと言い訳でだらだら続ける、というのはどうもみっともない、と誰も思う。

 「軽減税率は撤回を: 消費税率の8%から10%への引き上げが、来年10月に迫ってきた。社会保障の財源確保のためには必要だ。
 しかし、同時に導入される軽減税率制度には、この期に及んでも納得がいかない。撤回すべきだ。
 政府は「低所得者に配慮する観点から、『酒類・外食を除く飲食料品』と『定期購読契約が締結された週2回以上発行される新聞』を対象に消費税の『軽減税率制度』が実施される」と広報する。だが、同制度はかねて問題点が指摘されている。
 まず、恩恵をより多く受けるのは高所得者である。低所得者への配慮をうたうのであれば、「給付付き税額控除」が有効だ。これは税金から一定額を控除する減税で、課税額より控除額が大きい場合はその分を現金で給付する措置だ。
 また、同じ食品を購入しても店内で食べれば「外食」となり軽減税率非適用だが、持ち帰りは適用になる。現場の混乱と手間が増える。
 さらに適用品目を何にするかで、業界と政治の間に駆け引きが発生する。
 新聞通信調査会が8,9月に18歳以上の5千人を対象に行った「第11回メディアに関する全国世論調査」(回答率62.7%、3135人)によると、自宅で月ぎめ新聞を購読している人は69.4%、初回2008年の88.6%から低下傾向が続いている。
 必需品とはいえなくなった新聞が食品とともに適用対象なことに、違和感を覚える国民は多いのではないか。
 政治に対し「ペンの力」を乱用した結果だと嫌みも言いたくなる。日本新聞協会は前言を翻し、適用を返上してはどうか。さもないと、新聞への信頼は低下する。 (玄)」朝日新聞2018年11月29日朝刊14面、経済気象台。

 政治家の評価は、5年10年では定まらない。いやそこそこ公正な評価が出てくるのは、当人が世を去って時代がすっかり過去のものになる30年以上は必要だろう。だとすれば、安倍晋三という政治家がなにをやったか、その意味は、今すぐには難しいかも知れないが、田中角栄と比べてみると、この国の未来へのグランドデザインを構想する能力と、国民大衆の心情への無関心という点で、大きな資質の欠陥が現れるのではないかと危惧する。保守政治という理念でも、田中角栄のそれと安倍晋三のそれは、向いている方向とその中身が正反対ではないか。だからといって、もちろん角栄礼賛に傾くには躊躇するが、時代のめぐりあわせという偶然の要素もあるな。

 「角栄氏と保守政治 弱者包み込む情 今こそ:編集委員 駒野 剛
 神宮外苑のイチョウ並木を過ぎると2020年東京五輪・パラリンピックの主会場、新国立競技場の建設現場にぶつかる。
 五輪を先導役に建設や投資が東京周辺で盛んだ。今年上半期に首都圏で売り出された新築マンションの平均価格はバブル末期以来の高水準を記録。地価の上昇に人件費、資材費の上昇が拍車をかける。景気の長続きを祈りたいが、悪しき前例がある。
 「昭和40(1965)年不況」。前回の東京五輪があった64年から翌年にかけて、公共事業は一巡する一方、日本銀行の金融引き締めもあり放漫経営の企業が次々と息詰まる。65年3月に会社更生法を申請した山陽特殊鋼は戦後最大の倒産となった。
 客から預かった再建で資金調達していた山一證券も金繰りが悪化。取引銀行が支援にちゅうちょする中、「それでもお前は銀行の頭取か」と一喝、日銀法25条による無制限無期限の特別融資で一気に沈静化させた男がいた。蔵相、田中角栄氏である。
◇         ◇ 
今年は角栄氏の生誕100年。10月、故郷の新潟県柏崎市西山町に向かった。生家と田中家の墓が特別公開されており、私も500円を払って参加した。
 玄関前で記念撮影する女性ら、近くの「田中角栄記念館」で生前の映像や角栄氏の揮毫を求める人たち。誰の顔にも懐かしさと笑みがあふれていた。
 没後25年。いまだこれほど人々の心を捉える政治家は他にいまい。なぜだろう。
 こんな角栄氏に言葉が残っている。
 「人間は、やっぱり出来損ないだ。みんな失敗もする。その出来損ないの人間そのままを愛せるかどうかなんだ。政治家を志す人間は、人を愛さなきゃダメだ」「東大を出た頭のいいやつはみんな、あるべき姿を愛そうとするから、現実の人間を軽蔑してしまう。それが大衆蔑視につながる。それではダメなんだ。そこの八百屋のおっちゃん、叔母ちゃん、その人たちをそのままで愛さなきゃならない。そこにしか政治はないんだ。政治の原点はそこにあるんだ」
 飾り気のない優しさと大衆への愛。いまの政治家が失った「情」があふれている。
 看板政策「日本列島改造論」も、底流にあるのは弱者を包み込む情でなかったか。
 「住みよい国土で将来に不安なく、豊かに暮らし」ていくため、都市集中の資源投資を大胆に転換して、工業を全国的に再配置する一方、全国新幹線と高速道の建設、情報通信網のネットワーク形成をテコに、「都市と農村、裏日本と表日本の格差は必ずなくすことができる」と改造論は説く。
 高度成長で栄えた太平洋ベルト地帯に対し、日本海側はおいてけぼりだった。若者は東京などに奪われ寂れた反面、都会は発展の反動で公害や交通地獄が慢性化する。国土の均衡ある発展こそ都市の矛盾を減らし国富を地方に分散させる悲願になった。
 考えは正しかった。「これだけの総合戦略を考えた政治家はいません。しかしタイミングが悪かった」と角栄氏の評伝の著者、新川敏光法政大学教授は話す。米国がベトナム戦争に伴い膨大なドル資金を海外に流出させていた。日本も「過剰流動性」と呼ばれた余剰資金が蓄積された結果、列島改造を当て込んだ土地投機が激化した。
 第4次中東戦争で石油価格が急騰、狂乱物価と呼ばれるほどに。角栄氏は列島改造の旗を降ろし、構想は未完で終る。
 金権批判で下野後、ロッキード事件で法廷へ。栄光と屈辱と。今太閤から闇将軍と。激変した人生が私には悲劇に見える。
   ◇       ◇ 
 新潟県長岡駅から自動車で20分ほど進むと信濃川と交差する妙見堰に着く。全長524㍍、八つの水門が上下して流量を調整、幾度も流域を変えた川を安定させた。
 88年5月末、濃紺のベンツが停車した。角栄氏は関わった公共事業の行く末を気にかけていた。最晩年、確かめに来たのだ。
 先日、私が訪ねた堰の記念館には見学に来た小学生の感想文が残され、様々な役割を知り感心したなどとあった。保守政治とは何か、遺産が静かに問いかけてきた。
 弱肉強食を疑い、弱者の救済を掲げた彼の考えは、低成長にあえぐ一方で格差が拡大する今、改めて吟味されるべきだ。五輪と万博という高度成長の夢を後追いする時こそ、「決断と実行」が求められている。」朝日新聞2018年11月29日朝刊16面、オピニオン欄「ザ・コラム」。
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「絵を読む」23 ジャコメッテイから… 「U.S.A.」? 

2018-11-27 13:59:31 | 日記
A.フランスで活動した芸術家、
 “Final Portrait”(邦題「ジャコメッテイ 最後の肖像」スタンリー・トゥッチ監督・脚本)という映画が今年初め公開された。これは彫刻家・画家アルベルト・ジャコメッティが最後の肖像画を描くというドラマ。舞台は1964年のパリ。ジャコメッティはアメリカ人青年のジェームズ・ロードに肖像画のモデルを依頼し、ロードは喜んで引き受けるが、一日で終わると思われた肖像画の制作は、ジャコメッティの苦悩によりいつまでも終わらない。気難しい芸術家の晩年を描いた作品だが、ジャコメッティ役は「シャイン」でアカデミー賞主演男優賞を受賞し、「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズのバルボッサ役でも知られるジェフリー・ラッシュである。
 映画はあくまでフィクションだが、実際にジャコメッテイのモデルになった人がいろいろ証言をしている。その中の一人、日本人の矢内原伊作(1918-+1989年)は、東大総長の経済学者、無教会主義キリスト者矢内原忠雄の長男として愛媛県に生まれ、聖書のイサクに因んで伊作と名づけられた。東京府立一中、第一高等学校理科を経て、1941年京都帝国大学文学部哲学科卒業。1942年海軍予備学生。復員後サルトルやカミュに惹かれ、本格的に実存主義の立場で哲学を研究。また造形芸術に関心が深く、渡仏し彫刻家ジャコメッティと深い親交を持ち、多くの肖像画や胸像が製作されている。実存主義が流行だった時代、矢内原伊作の名もよく知られていた。でも、ジャコメッテイはもっぱら細長い人体を造形する彫刻家としてだけ知られていた。

 「ジャコメッティは僥倖を当てにしない。彼が制作するのは破壊するため、破壊することによって一層真実に近づくためである。仕事は一日も休まず続けられた。同じ仕事、同じ困難、試作と破壊の同じ反覆。いや同じではない。日とともに仕事は激しくなり、絶望は大きくなり、絶望に打ちかとうとする戦いもまた熾烈となった。時間は飛ぶように過ぎた。ぼくは毎日何時間も浮動のポーズを続けたが、退屈するどころではなかった。ぼくの人格はかれの激しい仕事によって押し流され、その奔流にのみこまれ、その仕事とともに呼吸していたのである。画布の上のぼくの顔は一日のうちに何度も描かれては消され、消されては描かれ、輪郭を失っていよいよ朦朧となり、同時にますます球体の密度を獲得した。大抵の日、滑り出しはうまく行く。「こんなに遠くまで進んだのは生まれてはじめてだ」と彼は意気ごんで言う。「こんなによく、つまりこんなに自由に仕事ができたことはこれまでに一度もなかった」。が、描き進むにつれて困難が加わり、「糞!(メールド)」が連発され、七転八倒の格闘になる。これは、文字どおり、眼に見えぬ何かしら巨大なものとの、渾身の力をふりしぼってする格闘だった。少しでも力を緩めたならば、その巨大なものに押し潰されてすべてが瓦解してしまうだろう。血走った目でぼくの顔を注視しながら、筆をおろす時、時おり彼は「アアーッ」という何とも言えぬ叫びをあげる。圧倒的に優勢な敵に立ち向かう獅子の咆哮。傷ついた獅子の憤怒の叫び。」矢内原伊作『ジャコメッテイとともに』筑摩書房、1969年。

 「すなわち、モデルニテの時代、いつのまにか絵画から「向かい合い」が消えてしまった。「絵画」に先立つ「見る」という行為がいつの間にか没落して、画家はあたかも「ものを見る」ことなしに、まるで「夢をみる」かのように、自分の心のなかに、あるいは世界の偶然の光景のなかに浮かびあがってくるイメージを描くことに夢中になったようにも思われるからです。つまり、画家は見たものを描くのではなく、「描いたものを見る」、さらには、ほとんど「見るために描く」という逆転が起きる。だが、西欧絵画とは、この講義の最初に強調したように――透視図法という方法の発見に集約されるのですが――何よりも「見える通りに描く」という格律をみずからに課すことによって発展・展開してきたのではなかったか。西欧絵画の原点ともいうべきあの「見る」ことはどうなったのか。画家と対象との「向かい合い」というあの根底的な関係はどうなったのか。
 それこそ、アルベルト・ジャコメッテイ(1901-66年)の絵画がレディカルな仕方で突きつけてくる問いでもあるのです。
 ジャコメッテイは、1901年、イタリア国境に近いスイスの寒村の生まれ。かれにとって決定的だったのは、父親ジョバンニ・ジャコメッテイが印象派の流れを汲む、(少なくともスイスの)絵画史に名前が登録されるようなすぐれた画家であったこと。やむを得ず乱暴な言い方をしてしまいますが、アルベルトにとっては、ジョバンニが体現しているような西欧絵画の遺産(レガシー)をどのように自分が受け継ぐのか、受け継がないのかが、全生涯を賭けての問題であったのです(蛇足ですが、人には「全生涯を賭ける問い」というものがある、ということをよく理解することが重要です)。じつは、はじめアルベルトは、この問いから逃げる。つまり絵画から彫刻へと逃げる。アルベルト・ジャコメッテイの名が知られるようになるのは、まずはシュルレアリスムの運動における彫刻家としてなのです。その時代の作品を少しだけ見ておきましょうか。
 いくらかの手がかりは指摘しておくなら、《吊るされた球》は、ある意味では、ジャコメッテイの存在理解の核にあるものをはっきりと示している標章(emblème)のようなもの。横からのイメージではわかりにくいけれど、吊るされた球には切り込みがあり、それが下のバナナ上のオブジェの稜線に沿って前後に動くようになっている。つまり、わたしがかれの「存在理解の核にあるもの」と呼んだものとは、端的にエロスなのです。
 それにくらべてもうひとつの《午後4時の宮殿》のほうは、もっと状況的です。実際、ジャコメッテイ自身がこれについては解説の文を残していて、それによれば、画面の右半分は、その頃かれが別れた女の領域であり、左半分は、長いドレスを着たかれの母親の領域、そのあいだに未完成のまま崩れた「塔」の足場があって、そこに貼りつけられた球と橇のオブジェがかれ自身を象徴するものということになっています。ちなみに、右側の「脊柱」については、かれは、「これは彼女に街で出会った最初のころのある夜、彼女が私に売ったもの」と、また、その上方の「鳥」たちについては、別れの前の晩に「彼女が見た鳥―骸骨の1羽」であると言っています。
 だが、いずれにしても、両者に共通する著しい特徴は、「檻」の構造ではないでしょうか。実際、かれには同じ時代、《檻》と題された彫刻―オブジェも制作しているのです。
 《午前4時の宮殿》の「脊柱」のように、檻のなかに、骨や臓器や、いやそれ以上に、不気味な欲望などが閉じ込められている。これは、明らかにジャコメッテイにとって、肉体をもつということの実存的な表現に通じていくものです。だが、興味深いのは、肉体の内部を透視しているようでもあるこの檻の構造が、いつの間にか「反転して」と言うべきか、今度は、外から見た人間の姿、とりわけその頭部を閉じ込めるものになるということ。すなわち、かれは30年代の半ばにシュルレアリスム的なオブジェの彫刻を捨てて、むしろ伝統的とも言うべき、外から見た人体の像をつくりはじめるのですが、それが行き着いたところのひとつが、もう戦後の1947年の作品ですが、たとえば《鼻》。
 ここでは吊り下げられた、異様に長い「鼻」が「檻」をやぶってこちらに伸びてきています。いま、私は思わず「こちらに」と言いましたが、もし彫刻であるのなら、360度どこから見てもよいはずなのに、これは――私の勝手な断定ですが――この伸びた「鼻先」の方から見るのでなければならない。すなわち、ジャコメッテイは「長い鼻」をもつ頭部の彫刻をつくりたかったのではなく、人間の頭部と向かいあったときに、その「鼻」がこちらに伸びてくる、あるいは逆に、鼻以外の頭部のすべてが限りなく後方に遠ざかっていくのが見えるように、これを作っているのだ、と思うのです。つまり、ある意味では、この「彫刻」は、「絵画」のように正面から見るためにつくられている。そして、そうであれば、「檻」はまるで「絵画」にとってのカンヴァスの「枠」のように機能しているのかもしれません。
 いや、シュルレアリスム的な、あるいはオブジェ的な彫刻を捨てて、人体の彫刻へと突き進んでいった1940年代、かれがつねに「檻」のある作品をつくっていたわけではありません。「檻」のない頭部や立像をたくさんつくっているのですが、しかしそれらの像も多くの場合は、正面から見るようにつくられている。正面から見たときに、顔がただ「そこにある」というのではなくて、顔あるいは垂直に立った人体が後方に限りなく遠ざかっていく――そのような運動そのものがそこに造形されようとしていると言ったらいいでしょうか。
 実際、かれは、そのような彫刻をつくり続けているうちに、彫刻がどんどん小さくなる、あるいはどんどん細長くなる、という経験を語っています。そこに人間の頭部があり、それが見えるままに造形しようとすると、それが――鼻先の一点だけはこちらに向かってきているのに――限りなく空間のなかに引きこもっていく。動かない顔を見ているにもかかわらず、しかしそれが引きこもっていく、あるいはこちらに伸びてくる――かれにとっては、(とりわけ人間という対象と向かい合って)「見る」ことがそのような経験を引き出すということになる。
 このジャコメッテイの「見る」―-それこそ、われわれがここで検討している西欧絵画の歴史のなかでは、セザンヌのあの「見る」ことの冒険を突き破ったもうひとつの特異な冒険であったのです。われわれはここまでかれの立体作品しか取りあげていない。にもかからわず、これは、絵画の冒険の一部であるというのが、ここでの無謀な仮説です。
 実際、かれは1940年代後半に、とうとう絵画を実践するようになる。たとえば「鼻」と同じ時期(1950年)に描かれた《芸術家の母の肖像》を見ると、キャンバスのなかに、まるで「檻」のようにもうひとつ別のフレームがあり、そこに椅子に座った母親の正面像が描かれているのですが、彫刻の場合とまったく同様に、顔だけがそこに異常な緊密さをもって出現している。ほかの部分はほとんどが未完の荒いタッチに放置されているのに、白い細い線を多用して描かれた顔は、いったい空間のどこに位置しているのか、そこだけが「存在する」。つまり、何かすでに存在しているものが、像として描かれているのではなく、画面の空間のなかで、突然、存在しはじめる「顔」がある、というように感じさせるのです。
 言い換えれば、彫刻であれ絵画であれ、ジャコメッテイの作品に対して、われわれがふつうに見ているとおりのものをかれが見て、それを像として表現しているのだ、と考えるとしたら、かれの作品をまったく「見て」いないということになる。かれの作品と向かいあうということは、自分の「見る」ことそのものが問われているということ。「見る」ことは、われわれがふだん思っているようなことではない。「見る」ことは、もっと恐ろしいこと、そしてそれゆえに、もっと美しいこと。なぜなら――無謀を継続して、あえて言い切ってしまいましょう――それは、無からの存在の出現だからです。
 もう一度言いましょう、「無からの存在の出現」!―-これがどのくらい恐ろしいことか、ほとんど誰もわからない、ということをわからなければなりません。
 実際、ジャコメッテイはポーズをするモデルを前にして制作しながら、たえず「ああ、なんと美しい!」とか、あるいは「ああ、なんとおそろしい!」といった叫び声をあげたと言われています。それはレトリックではない。実際、もしわれわれの目の前の空中に突然、人の顔が浮かびあがったとしたら、誰でもその恐ろしさに悲鳴をあげるに違いない。ほとんどそれに近いこと。ただジャコメッテイの場合は、それが、何よりもかれが作品をつくろうとし、絵画を描こうとする行為のさなかにこそ、起こる。いや、ほとんど、絵画を描こうとするからこそ、それが起こると、わたしは言ってみたくなるのです。
 そうです。絵画とは、まさに何も描かれていない「無」の空間に突然に、――すでにあるものの「形」が、ではなく――「もの」そのものが出現することではないか。ジャコメッテイは、絵画を「見る」という行為が出来事と化す根源的な次元へとわれわれを連れ出してしまうのです。
思い出しましょう、あのセザンヌの場合は、対象の存在はそれでもまだ、画家の「センセーション」(sensation)において把握されていた。ところが、ジャコメッテイの場合は、もはや対象の存在は、画家の感覚や感情と相関するのではないレベル、もはや感覚も感情もないレベル、そう、一言で言ってしまえば、「死」のレベルにおいて「出来事」と化す。モデルニテとともにはじまった絵画の冒険――それは、画家という主体にかかわる冒険だったのですが――が、「印象」、「感覚」、「センセーション」、「表現」というようないくつかのレベルを経ながら、とうとう「無」あるいは「死」の方へと突き抜けてしまったということになりますレ。セザンヌにおいてもまだかろうじて残存していた「表象」という概念はここでは全く役に立たない。ジェコメッテイ自身は、「見える通りに描こうとしているだけだ」と言い続ける。しかし、かれの「見える通りに描く」は、西欧絵画がそこから出発した「見える通りに対象の形を描く」ではなく、存在が見えるものとして現れるという真正の存在論的な次元へとわれわれを連れ出さないではいないのです。アイロニーに満ちた逆説ですが、「表象」という概念によって統括されてきた西欧絵画は、ここにおいて、とうとう「死」へと突き抜けてしまうと私は、ある深い感慨なしにではなく、言いたいのです。」小林康夫『絵画の冒険 表象文化論講義』東京大学出版会、2016.pp.278—284.

 表象presentaionを中心概念としてきた小林氏の講義は、20世紀美術とくに第2次大戦後の動向にすすむにあたって、まずはジャコメッテイの創作がもはや表象ではなく、「死」に向けて描かれていると考える。実存主義existentialismeは、本質存在(essentia)に対する現実存在(existentia)の優位を主張した思想で、「実存」という訳語を作ったのは九鬼周造だという。1960年代には日本でもサルトル、ボーヴォワール、メルロー=ポンティなどが読まれ、カミュの「異邦人」などは学生の必読小説になっていた。その後のフランス現代思想への露払いでもあったが、70年代になるともう「実存主義」について云々するのは時代遅れみたいになった。しょせん一種の気取った流行で、まともには読んでいなかったわけだ。しかし、ジャコメッテイをそういう時代の文脈で読み直してみるのは、いまも意味がありそうだ。



B.アメリカへのイメージ投影
 今年一番の大ヒット曲が「U.S.A.」だということを、J-ポップを馬鹿にしているぼくは知らなかったが、ダンスに気を取られて歌詞はよく聞いてなかった。60年代の豊かなアメリカを伝説として追いかけながら、あくまで日本から憧れの対象として眺めるアメリカのようだ。
「C'mon, baby アメリカ ドリームの見方を inspired C'mon, baby アメリカ 交差するルーツ タイムズスクエア」
「C'mon, baby アメリカ 憧れてたティーンネイジャーが C'mon, baby アメリカ 競合してく ジパングで」
「パシフィック・オーシャン 一飛び ハートはいつもファーストクラス 夢というグラス交わしLove and peace 誓うのさ C'mon, baby アメリカ サクセスの味方 organizer」
なるほど、これが今の日本の若者の感覚だ、という決めつけはしたくないが、「競合してくジパングで」「サクセスの味方organizer」たるアメリカの固定したイメージは、どうもひと昔もふた昔もまえのもので、現実の日本にもアメリカにももはや無縁な観念だろう。

 「カモンベイビーアメリカ 反復は不安紛らわす呪文か:増田聡(大阪市立大学教授)
 2018年の日本の最大のヒット曲といえば、DA PUMP「U.S.A.」をおいて他にはないだろう。1992年のイタリアの曲をカバーしたこの曲は、5月にミュージックビデオが公開され、瞬く間に話題となった。平成初期を思わせるユーロビートに、ダサかっこいい「いいねダンス」が中毒的な魅力を放ち、いまや子供から大人まであの振り付けに夢中だ。
 「アメリカ」を歌ったもう一つの曲もまた今年は反響を呼んだ。アメリカのラッパーで俳優、チャイルデッシュ・ガンビーノの「ディス・イズ・アメリカ」である。同じく5月に公開されたこの曲のミュージックビデオは、アメリカ黒人が置かれた過酷な環境を、多義的で謎めいた(かつ射殺シーンなどを含む衝撃的な)映像で描いて世界的な話題となり、多くのパロディ―映像が生みだされ議論を巻き起こした。
 「U.S.A.」の呑気でノスタルジックなアメリカと、「ディス・イズ・アメリカ」が提示する重苦しいアメリカ。それは戦後日本が憧れてきたイメージのなかのアメリカと、現実のアメリカとの違いのようにも感じられる。日本の大衆文化にとってのアメリカとは、銃社会や人種差別のアメリカではなく、ディズニーランドとハリウッドのアメリカであった。「ディス・イズ・アメリカ」の問題意識を受け止めたパロディ―映像が続々話題となる中、日本の若手ダンスチームが作った「ディス・イズ・ジャパン」が、オリジナルが訴える社会問題への認識が全く欠けているとしてネットで炎上する騒ぎになったのは象徴的だ。
 DA PUMPの「U.S.A.」の楽天的なムードもまた、政治や社会の問題から目を背け、音楽を娯楽として消費するばかりの日本を象徴しているようにも思える。しかし本当にそれだけなのだろうか。関係者も予想していなかったほどの大ヒットには、別の解釈を誘うものがあるように思えて仕方がない。
 フランスの哲学者であるドゥルーズと精神分析学者のガタリは、「リトルネロ」という概念を提起した。彼らは「リフレイン」(音楽における繰り返し)のイタリア語であるこの語に、音楽がもたらす力の奥底にあるものを見いだす。夜道を不安になって歩く子供がふと歌を口ずさむ。同じフレーズを繰り返し歌うことで子供は、何が起こるかわからない夜道の不安を打ち消し、家までの道のりを進むことができる。この不安=カオスの中で、秩序=ノモスを作り出すものを彼らリトルネロと呼び、その働きを論じていく。
 「U.S.A.」を耳にするたび、私はこのリトルネロという考えを想起しないではいられない。過剰なまでに無邪気にアメリカへの憧憬を歌うこの曲がこの時期にヒットしたのは偶然ではない。「アメリカ」を恋人に見立てて性的に誘う内容だった原曲は、元の詩とところどころで韻を踏みながら意味を事とする日本語詞を冠せられることで、昨今の日米関係の不安定化に怯える「子供」がなんとかやっていくために必要な、「秩序」をとり戻す呪文のように聞こえてくる。
 「ディス・イズ・アメリカ」と「U.S.A.」は互いに表裏をなしている。前者が混迷する現実のアメリカ社会を告発するプロテストであるとしたら、後者はかつてのアメリカを取り戻すべく呼びかけるリトルネロといえよう。「どっちかの夜は昼間」なのだ。形は違えど、いずれも日米それぞれの大衆的な想像力が形づくる、2018年の「アメリカ」への切実な問いかけなのである。」朝日新聞2018年11月26日夕刊、3面文化欄「ポップスみおつくし」。

 この筆者も、「ディス・イズ・アメリカ」を対置して、そこにドゥルーズ&ガタリ(『アンチ・オイディプス』)を持出して、知的に「評論」する。「U.S.A.」に夢中で振りを真似している若者に、それは通じるだろうか?
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「絵を読む」22 シュールにレアルにイスム… 86歳の冒険家

2018-11-25 16:45:08 | 日記
A.「シュール」「スーパー」「チョー」うんぬん・・
 「リアル」を真実と訳すか、現実と訳すか、とりあえず絵画の場合、いわゆる「絵」らしくではなく、目の前に見えているそのままを写真以上に精密に描く「スーパーリアリズム」という絵画手法がある。そのリアルさで見る者を驚かせようという絵画だが、これはリアリズムをさらに強めるという「スーパー」である。でも、フランス語の「シュールレアリスム」を、英語にして「スーパーリアリズム」と訳したのでは、間違いになってしまう。「シュールレアリスム」は固有名詞として、ある芸術運動の名称として定着しているからだ。それは作品を見ればわかるように、「スーパーリアリズム」のようなただ目に見える画像の写実を強調しているのではなく、現実であるかに見えてまったく非現実的な世界を作り出す、つまり通常の現実とか写実とかいう固定したイメージを、全く別の表現に変えてしまうのがシュールの意味なのだ。それはまず絵画ではなく文学から提示された。アンドレ・ブルトンの『宣言』である。

 「〈シュルレアリスム〉という言葉を、わたしたちがきわめて特殊な意味に解して使用する権利に、もし異議をとなえる人間がいるとすれば、それはたいへんな言いかがりである。というのはわれわれ以前にこの言葉が行きわたったためしがないのは明らかだからである。そこでそれをはっきり定義づけておこう。
 シュルレアリスム 男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それを通じて口頭、記述、その他あらゆる方法を用い、思考の真の働きを実現することを目標とする。理性による一切の統御をとりのぞき、審美的あるいは道徳的な一切の配慮の埒外でおこなわれる、思考の口述筆記。
〈百科事典的説明〉哲学用語。シュルレアリスムは、これまで閑却されてきた、ある種の連想形式の高度な現実性への信頼と、夢の全能への信頼と、思考の打算抜きの働きにたいする信頼に基礎をおく。それ以外のあらゆる精神機能を決定的に打破し、それらに代わって人生の重要な問題の解決に努める。〈絶対的シュルレアリスム〉の実践者は以下の人たちである。アラゴン、エリュアール、ジェラール、ランブール、マルキーヌ、モリーズ、ナヴィル、ノル、ペレ、ビコン、スーボー、ヴィトラック。」アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言』)生田耕作訳、人文書院、1976年。 
 「チューリッヒからはじまった、すべての意味や価値を否定する「無」の子午線、ダダイスムの運動は、やはり時代の「首都」であったパリへとのぼっていく。そしてそこで、――事後的な視点から見るならば、そうした「破壊的創造」の運動が内在的に孕むパラドックスのゆえに必然的に、ということになるのですが――現象的には、グループの内紛が表面化し、自滅する。そのプロセスには、興味深く、おもしろい芸術的な、私的なパフォーマンスが犇めいているのですが、ここでは触れません。いずれにしても、「破壊」のあとには、「総合」が来る、来なければならない。そして、その「総合」こそ、シュルレアリスムであったのです。
 運動が「宣言」からはじまるのであれば、そのはじまりは、冒頭に引用を掲げたアンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言』(1924年)ということになる。だが、われわれの現場はあくまでも「絵画の歴史」です。となれば、それよりも、少し早いが、この絵画《友人たちの集い》を呼び出すのが適切なのではないか。
 マックス・エルンスト(1891-1976年)はドイツ生まれの画家。大学で人文科学を学んでから絵画に目覚め、ダダイスムに身を投じることで絵画への道を切り開いてきた。1922年、かれは、友人の詩人ポール・エリュアールを訪ねてパリにやって来る。そこで描いたのがこの作品。ラファエロのかの有名な《アテネの学堂》を模して、この時代、まさに終わりつつあるパリのダダイスム運動が、ブルトンを理論的な中心とするシュルレアリスム運動へと移り変わっていく決定的な場面を描いています。ダダイスムというなら、まずは名前が挙がるべきであるトリスタン・ツァラ、フランシス・ピカビア、マン・レイ、マルセル・デュシャンは不在。かれらに代わって、画面の中央を占めるのは、文学者のジャン・ポーランとバンジャマン・ペレ。鮮やかな赤いマントを羽織ったブルトンが中央に右手をのばして、駆け込んでくるところ。それぞれの人物に番号がふってあって、その名前が画面両側の巻物で確かめられるという仕掛けです。エルンスト自身は4番で前列左ですが、かれが座っているのは長い顎髭のグレーの人物(6番)の膝の上。これは、なんと、フョードル・ドストエフスキー。ちなみに、同じく7番はラファエロ、11番はジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978)、という歴史的レフェランス。なお、画面左のひとりこちらに背を向けた男はルネ・クルヴェル。逆の右端の女性は、ガラ・エリュアール。彼女とエルンストは恋に落ち、ポール・エリュアールと奇妙な三角関係をつくるのだが、そのゴシップは本講の主題からは外れます。いずれにせよ、われわれとしては、いささか戯画的なこの作品に、エルンストとジャン・アルプ(1886-1966年:3番)以外は文学者が中心とはいえ、冒頭の引用で〈絶対的シュルレアリスム〉の実践者として名を挙げられた12名のうち6名(ブルトンを含む)が含まれたこのタブローを、〈絵画のシュルレアリスム〉の一種の先駆的マニフェストと見てとることができれば、それで十分なのです。
このようにシュルレアリスムは、何よりも文学、とりわけ詩を中心にしてはじまりました。一方では共産主義運動に加担する政治的な展開があり、他方では、ジグムント・フロイトの精神分析を軸とした理論の整備があり、そのあいだを、ダダイスムから続く活動としての「詩」が結んでいる。この「詩」が、現実的な生の表現ではなく、あくまでも現実を越えたもうひとつの「超現実」へと通じる通路を開くことが、シュルレアリスムの「希望」の核であったのです。この思想の全体は複雑で簡単に要約することはなかなか難しいのですが、人間の存在が、各人の意識や意志と相関する現実とは異なる、――たとえば「夢」のように――脅威に満ちた別次元の現実に対応しているという確信がそこにはある。つまり「超現実」は理性を超えている。われわれは、そして世界は、理性の上に打ち立てられているのではなく、もはや意識的でも、意志的でもない、――ということは、単に「私」のものであるわけではないような――「想像力」によって本質的に、貫かれている。
だからこそ、シュルレアリスムにおいては、夢という現象と並んで、いわゆるオートマティスム(「自動書記」)と呼ばれる、意志的なコントロールを排除した、自由連想法的な言語行為がなによりも重要な意味をもってきます。受動的な状態、いや、むしろ根源的な受動性ともいうべき状態にみずからを置いたときに、自我と理性のコントロールを超えた「驚異」(le merveilleux)が現れる。それが「自由」であり、「美」である、というわけです。『シュルレアリスム宣言』の冒頭の引用の前に、ブルトンは、「断言しておこうではないか。驚異はつねに美しい、どんな驚異も美しい、それどころか、驚異だけが美しいのだ、と」(筆者訳)と言い切っているのです。
ここでよく理解しておいてほしいのは、シュルレアリスムにとっては、何よりも「方法」が重要であるということ。それは、単なる主義主張なのではなく、実際に行為されなければならないのであり、そのためには、みずからの日常的な意識を「かわし」、「はずす」ための「方法」が必要なのです。その意味では、オートマティスムを、絵画は、どのように行為できるのか。
この問いに真っ正面から答えたのが、エルンスト。しかも、その答えは、まさにそれ自体が「驚異」として、かれに起こった出来事であった。」小林康夫『絵画の冒険 表象文化論講義』東京大学出版会、2016.pp.264-267.
 
 コラージュ、フロッタージュという技法を編み出したエルンストに続けて、フロイト理論のイメージを絵画化するダリについてひとしきり語ったあと、残りの余白に思い出したように触れられているのが、マグリットである。シュールレアリスムの画家たちのなかで、ぼくはダリとマグリットは、西欧絵画の伝統に対して、あるいは技法上の実験としても対極にある存在のように思ってきた。戦間期から第二次大戦後のヨーロッパの状況に関しても、シュルレアリスムはそれなりに敏感だったけれど、抽象絵画の台頭によって運動としてのシュルレアリスムはほぼ終息するなかで、むしろダリとエルンストは、きわめてわかりやすく親しみやすい絵画として受容されていく。かれらは繰り返し作品で「謎」をまき散らそうとしたのだが、それらはみな安易に「解説」されてしまい、大衆はそれをなるほどおもしろい、と祭り上げたのだ。

「こうして、エルンストとダリの絵画を通して、われわれは、コンポジションの絵画からイメージの絵画への転換が起こったことをマークしました。もし近代の西欧絵画が、知覚表象を、印象へ、感覚へと解体しながら、ついには、抽象的な次元での色彩と形態のほとんど音楽的なコンポジションへと至ったのだとすると、シュルレアリスムは、もう一度、具体性をもつイメージを復権したとも言うことができるでしょう。しかし、そのイメージは、もはや単なる再現的な知覚現象ではありませんでした。それは、人間存在の無意識の根底から湧き上がってくるような無意識的な、しばしば不気味な、謎めいた、同一化不可能な、オブジェとしてのイメージでした。こうして、絵画は「謎」の劇場となるのです。
 ここでは、一般的にシュルレアリスムの画家として名前のあがるジョアン・ミロや、イヴ・タンギー、アンドレ・マッソン、ポール・デルヴォーなど、それぞれ独自の絵画世界に言及することはできませんでした。しかし、最後になりますが、1929年のカダケスのダリの家でのエリュアール夫妻とダリとの出会いに触れた以上は、そこにはベルギーの画家ルネ・マグリット(1898-1967年)も滞在していたことを忘れてはならないでしょう。ダリとともに、かれもまた、シュルレアリスムがもたらしたイメージの二重性、曖昧性、いや、決定不能性をみずからの制作の中心軸に据える。しかし、ダリがそれを、ことさらにみずからの実存的精神分析の方向に推し進めたのだとすると、マグリッドは、むしろイメージなるものの存在規定にまつわる本質的な二重性、パラドックス性を、問い続ける、と言ったらいいか。かれの絵画は、イメージの形而上学という趣を強くもつようになります。人間にとって絵画とは何かと、そこでは絵画自体が考えているかのようなのです。」小林康夫『絵画の冒険 表象文化論講義』東京大学出版会、2016.pp.274-276.

 大雑把な言い方になるけれど、20世紀の前半に登場した美術上の運動、キュビスム、フォ-ヴィスムにはじまり、未来派、ダダ、シュールレアリスム、表現派、ロシアフォルマリズム、等々は、個別には、あるいは作家ごとにもちろん違いは当然あるのだが、19世紀末までの西欧絵画と較べたときに、ぼくは社会と未来への「不安」あるいは「危惧」といった共通の気分があるのではないかと考える。19世紀後半にも時代への不安を描いた画家はいるけれど、ヨーロッパ世界は拡大と繁栄を謳歌する時代であり、その中心パリでブルジョア文化の圏内に安住するにせよ、そこから逃走するにせよ、ヨーロッパ文明が総体として没落するとは思っていない。しかし、第1次世界大戦に至って、人々は西欧文明自体がもう行き詰り、その先に何が来るのか見通せなくなった。そこから20世紀の文化状況も走り出したわけで、そのことに無自覚な人間は、どれほど才能や技術があったとしても、時代に意味のある作品は作れない、ということがはっきりしたのだと思う。そして、美術の中心はパリからニューヨークに移動するのも、必然だった。 



B.冒険って、人を呆れさせる域に行っちゃわないと..
 「山登り」は多かれ少なかれ危険を伴う。山の中には電気も水道もないし、風雪と雷雨と冷気と土と岩の道。物理的に安全で平穏な生活とは全く違うリスクだらけの環境。頼るのは自分の肉体とわずかな装備と食糧だけ。どうしてそんな危ないことをあえてするのか?山になど行こうと思わない人には、バカじゃないかと思っても不思議ではない。バンジー・ジャンプやスカイ・ダイビングも危険なにおいはあるけれど、ちゃんと安全確保を用意された遊びで、気軽に体験可能なものだ。しかし、山登りはちょっと違う。なによりも自分でかなりの努力と時間をかけて体を鍛え、慎重な準備と合理的判断をする能力がないと、それこそ取り返しのつかないリスクと迷惑を招く。それを80歳過ぎてやろうなんて、常識的には無謀というしかない。

 「好きを力に 限界に挑む 「まずその頂上に立ちたいという願望がある」:プロスキーヤー 三浦雄一郎さん(86)
 プロスキーヤーの三浦雄一郎さんはスキーや登山で幾多の挑戦を続けてきました。来年1月には86歳で南米最高峰アコンカグア(標高6962㍍)をめざします。「目標を持つと夢中になれる」と語り、飽くなき冒険への意欲が心身を支えています。
 10月、山梨・富士山6合目。灰色の石が転がる登山道で、刻むように歩を進めた。年明けの遠征に向けたトレーニングだった。
 山に入った初日は立ち止まる場面が度々あった。心臓は複数回の手術をして、不整脈もある。同行する次男豪太さん(49)が心拍数や体調を確認しながら登ったが、自らも「心臓が空回りに近い状態」と不調を自覚していた。
 だが、標高2230㍍の山小屋で一晩をすごした翌日には回復。「ふぅー、ふぅ―」と深い呼吸でリズムを整え、目標にした標高2700㍍付近にたどりついた。
 長年の経験で「山に入ると元気になる」という。「そのうちなんとかなる」と考える「無責任な楽天主義」を貫き、ゆっくり歩いて追い越されても、焦らず、あわてず、あきらめず。「山は最上のホスピタル」が持論だ。この夏も、チリの標高3千㍍にあるスキー場で2週間、滑り込んだ。
 今も肩書は「プロスキーヤー」と胸を張る。リフトがない時代から山を滑るために山に登った。
 北海道大学の学生だった1953年5月。大雪山の春スキーから下山すると、山仲間たちが「日本中が騒ぎだ」と色めき立った。人類が初めて世界最高峰のエベレスト(8848㍍)に――。「いつか俺も」と遠い頂に憧れた。
 半世紀が過ぎた2003年。70歳でエベレストに登頂し、世界を騒がせる番になった。思い立ったのはその5年前だった。数々の冒険を成し遂げてきたが、当時心は燃え尽き、体重が増えて不健康に。第一線からはほど遠かった。
 転機は息子と父だった。豪太さんがスキー・モーグルで五輪に連続出場し、父敬三さんが99歳で欧州のモンブランを滑ることになった。再び火がともった。
 その後は5年ごとにエベレストに登った。85歳では8千㍍峰からのスキーを計画。年齢制限で断念したが、すぐ「では南米最高峰」と切り替えた。さらに「90歳でエベレストにもう一度行きたい」とも語り、家族を驚かせている。
 8千㍍級の登山の困難さを「70歳ぐらい加齢される」と表現する。単純に足せば150歳超。生きている年齢ではない。「人間の体がどこまで耐えられるのか」という冒険でもある。
 常に頭にあるのは「目標を持つ」生き方だ。好きなことに夢中になり、体力も気力も衰えることを防いできた。そんな姿に中高年世代からは「やる気になった」「元気をもらった」と言われる。
 でも、他人のために登っているつもりはない。では、なぜ山に行くのか。「まずその頂上に立ちたいという願望がある」と純粋だ。「一歩ずつ歩くたびに『ここまでたどり着いた』という達成感が常にある。振り返って、自分はこんなに高いところに来られた、と登りながら感じている」
 片足に2㌔の重りの入った靴で街を歩き、ステーキは600㌘以上を平らげる。家族や周りの手厚い支援による登山は「究極の老人介護登山」と笑う。来年1月で86歳と3カ月。人間の限界に挑む旅は終わらない。 (金子元希)」朝日新聞2018年11月25日朝刊23面リライフ欄。
 三浦雄一郎さんは1932年青森市生まれ。北海道大学獣医学部卒。64年、イタリアでスキーのスピードを競う大会で、当時の世界新記録を樹立。66年に富士山からの直滑降、70年にエベレストの8千㍍からの滑降を達成した。85年のアコンカグアの登頂と滑降で、世界7大大陸最高峰での滑降を実現。エベレストには70、75、80歳で登頂した。92年から各地にキャンパスをもつ通信制のクラーク記念国際高校の校長を務める。

 ぼくは、高校時代から山岳部で「山登り」をしていた人間なので、危険な冬山や高山に挑む「冒険」をなぜするのか?という疑問には、ある程度答えはもっている。三浦さんのように「頂上を極めたい」というのとは違うのだが、山登りという無意味に等しい行為を生きる目的に設定することで、世界がどう見えてくるかはわかる。それは自分だけの力でえいやっと達成する行為ではなく、実際にやってみればわかるのだが、他者の協力がなければできないし、「冒険」とは逆の非常に慎重で合理的な判断の連続で、やっと可能なことなのだ。それを80歳までやって生きている人は、やはり凄いというしかない。
 山登りとはぜんぜん別のことだが、ある言葉の成立と分布とその源を探求する、ということも一見すごく無意味なことのように思えるが、それをやる人がいて、その成果はほとんど感動的であるという片隅の記事があった。

 「「おまんこ」の語源は何か。日本語学者はそれを研究に値しないものと考えてきた。稀有な例外が歴史学者・白鳥庫吉で「メノコ(女の子)」に接頭語を付加したものと説いた。が、論拠のない思いつきだ。松本修の『全国マン・チン分布考』(集英社インターナショナル)は労作である。彼は全国に膨大なアンケートを試み、「マンジュー」「チャンベ」「ボボ」といった女性器語の分布図を作成した。その結果、方言は文化の中心から波紋状に広がるという柳田国男の「方言周圏論」が今も正しいことを立証し、「マンジュー」から「おまんこ」が生じたという結論を得た。上方の雅語で、幼女の性器を饅頭に喩えて「まん」と呼ぶ習慣があり、さらに親愛の情から接頭語と指小辞が加えられた。卑語と化したのは、たかだか徳川時代末の江戸からにすぎない。青森出身の寺山修司は少年時代、「おまんこ」の一語に優雅を感じたという。
 〈両の手で頬を包める優しさに「お」と「こ」はそっと「まん」を守れり〉
 俵万智の歌である。「男」という言葉が掛詞として隠されていて、信頼感と優しさが滲み出ている。長らく卑しめられてきたこの言葉を慈しみ、日本語の富を回復しようとする意志が感じられる。  (桜)」東京新聞2018年11月24日夕刊、7面「大波小波」

 卑語として使うことを禁じられ、それゆえに使うこと自体が卑猥、淫猥とされる言葉も、その起源をたどると、むしろ雅で美的感興を呼ぶ言葉だった、というのは発見だな。
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「絵を読む」21 デュシャンって何物? 不幸な関係の深淵

2018-11-23 23:01:41 | 日記
A.20世紀の美術の先導者
 今ちょうど、上野の国立博物館で「マルセル・デュシャン展」が開催されている(12月9日まで)。だからというわけではないが、この小林康夫氏の表象文化論講義も、20世紀に入ってキュビスムに続いてデュシャン(Marcel Duchamp、1887年7月 - 1968年10月)の作品をとりあげるのだが、ピカソやマチスといった画家たちとちがって、晩年まで多くの作品を書き続けた人ではない。80歳過ぎまで生きた生涯で、画家として作品を描いたのは30歳前半までで、あとはいわゆる絵画の制作はせず、絵を描くという行為を放棄した。フランス生まれだが、やがてニューヨークに移ってアメリカに帰化した。

 「ピエール・カバンヌ――あなたはキャサリン・ドライヤーに、こう言ったことがあります。『階段を降りる裸体』のイメージが浮かんだとき、あなたはそれが〈自然主義への隷属を永久に断ち切るであろう‥‥‥〉ことを理解していた、と。
 マルセル・デュシャン――ええ。それは1954年頃のことだったと思います。私は、人が飛行機を空に飛ばそうとするような時代には、静物を描いたりしないということを説明したのです。ある与えられた時間内でのフォルムの運動は、われわれを不可避的に幾何学と数学に誘います。それは機械をつくるときと同じことです。(‥‥‥)」 (マルセル・デュシャン/ピエール・カバンヌ『デュシャンは語る』岩佐鉄男・小林康夫訳、ちくま学芸文庫、1999年)

 「マリネッテイの「未来派宣言」は、はじめはミラノで発行されたかれ自身の詩集の序文だったものが、その一月余後のフランスの新聞『ル・フィガロ』紙に掲載されることで大きな反響を得ていたのです。未来派の絵画の展覧会がミラノで開かれたのは1911年4月。それが1912年2月にパリの画廊に回ることになるのですが、じつはその間に、ボッチョーニとその友人たちは2週間のパリ旅行に行って、当然のことながらキュビスムを知り、その影響のもとで作品を描き直したりもするのです。そしてこのパリの展覧会が、そのままロンドン、ベルリン、ブリュッセルに巡回する。そしてその多くの作品がある銀行家によって買い取られ、そのコレクションが今度は、ハンブルグ、アムステルダム、デン・ハーグ、ミュンヘン、ウィーン、ブダペスト、フランクフルト、ブレスラウ、チュ-リッヒ、ドレスデン、さらには海を渡ってシカゴでも展示されるというように、世界へと広まっていく。
ついでにここで一言付け加えておくと、われわれは多くの場合、画家のもとで作品が生まれる事態に関心を寄せます。しかし、どんな作品も、それを受け入れ、享受し、しかも現実的には相当の金額のお金を払ってそれを買い求める人たちがいなければ、作品は歴史に残らない。作品の制作と美術品のコレクションのあいだには、マーケットというものがある。われわれは「作品がいいから残ったのだ」、と考えるのだけれど、それは歴史をすでに固定したものと考える後付けの論理にすぎません。われわれはつねに、「想像の歴史」とともに「受容の歴史」も考えていなければならない。未来派の展覧会についての上記の記述は、わたしはニコス・スタンゴスの『20世紀美術』に依っているのですが、ベルリンに巡回したこの展覧会出品作の35点のうち24点を購入したというこの「ある銀行家」がどういう人なのか詳らかにはしませんが、ピカソやブラックを発見して支えたパリの画廊主のダニエル=ヘンリー・カーンワイラーのように、この銀行家がいなければ、「絵画の歴史」はまったく別のものになっていたかもしれないのです。さて、われわれは、絵画によって「運動」を描くという挑戦に潜む根本的なアポリアを示唆し、かつ未来派がその段階ではキュビスムの方法を知らないでいることを指摘しました。しかし、キュビスムの方法はそれ自体としては、「運動」を描くものではなく、むしろ動かない静物を多数の視点、あるいは多数の面によって一度、分解し、それを再構成するというものでした。とすれば、それを、「運動」を絵画化する方法へと変換することが必要になる。未来派の誕生とまったく同じ時期に、パリで、その問題に取り組んでいたのが、デュシャンです。冒頭に掲げた対話のなかでも、ピエール・カバンヌは、デュシャンの試みが未来派の影響下にあったのではないか、と尋ねるのですが、デュシャンは否定している。実際、未来派の「運動」の理念が「都市」や「群衆」を中心とした政治的な色彩を帯びたものであったのに対して、デュシャンの関心は、純粋に知的なものであったように思われます。
では、「運動」についての、デュシャン的方法の出発点となる作品とはどのようなものだったか。1911年に描かれた《ドゥルシネーアの肖像》を見てみましょう。
ドゥルシネーアとは、あのセルバンテスのドン・キホーテが、騎士ならば姫に思いをかけなければならないと恋することにきめた女性の名前です。デュシャンのことだ、このDulcinéaという綴りのなかに「ciné」、つまり映画(cinéma)にもつながる「運動」(ciné-)を読んでいたのかもしれませんが、いずれにしても画家の発言によれば、パリのヌイイの近くに住んでいて、犬を連れて散歩しているのをよく見かけただけの女性ということになっている。帽子を被った、少し気取ったその同じ女性の姿が五つ重ね合わされている画面と言いましょうか。左上から右下に降りるように動く姿が三つ、逆に左にやや昇るように動いていく姿が二つ。バッラの作品とは違って、ここでは、女性の身体と画面とが一見するとキュビスム的構成原理に似た仕方で処理されているために、見る者は視点をどう定めていいのか、よくわからない。しかし、これで「運動」が捉えられたのか、と言えば、そうだと明言はできないでしょう。
それよりもこの作品で注目するべきは、女性の五つの姿が全部異なることでしょう。つまり、奇妙なことに、帽子は同じなのに、ドゥルシネーアの衣服は同じではない。左上が出発点とすれば、彼女は、次々と上着を脱ぎ、下着姿になり、最後の左下の姿に至っては、少なくとも胸をはだけているように見えるのです。言い換えれば、彼女が運動しているというより、彼女は、画家そして見る者の「欲望」に応じて、少しずつ脱衣し、裸になっていくように描かれている。もちろん、これは、後の《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》や、さらには《遺作》と呼ばれる《(1)落下する水、(2)照明用ガスが与えられたとせよ》における、「見ること」の欲望そのものを作品の中に取り込むデュシャンの仕掛けを知っている視点からの読解なのですが、つまり、ある意味では自分とは完全に無関係なこの女性ドゥルシネーアへのほとんど窃視的な欲望、つまり「無関心」に裏打ちされた「欲望」という二重性こそが、デュシャンというアーティストの作品創造の原点であるように思われてくるということ。実際、ドゥルシネーアの連続像は、まるで《遺作》の「覗き穴」にも似た、画面前面の大きなV字型の切り込みを通して覗かれているようにも思われるのです。
同じ年にデュシャンは《階段を降りる裸体No.1》を描き、それをさらに過激に発展させて翌年に《階段を降りる裸体No.2》を描きます。伝統的には、寝ているか立っているかであった裸体に階段を降りるという運動を与えて、その運動を描こうというわけでしょうが、《ドゥルシネーアの肖像》においては、われわれの眼はそれでもそこに女性の身体や裸体を認知することができたのに、この裸体はそうではない。それが女なのか男なのかすらもはや確かではありません。だが、女か男かわからない裸体などというのは、ほとんど語義矛盾ではないのか。なにしろ、これまでの講義でも指摘してきたように、裸体は、西欧絵画にとっては、たんなる表象されるべき一対象なのではなく、「美」そのものであるような特権的な存在、ほとんど絵画そのものの存在証明でもあるのです。その裸体に「運動」を持ち込むことによって、デュシャンは、「裸体」そのものを解体してしまう。つまり、「裸体」を、何やら誰も見たことのないある種の「機械のようなもの」に解体してしまうのです。
すなわち、この作品の眼目は、「運動する裸体を描く」ことにあるのではなく、連続写真の様相を取り入れた「運動」の表象を通じて、「裸体」という西欧絵画の中心的理念を、その有機性と対極にあるような、無機的に運動する「機械状のもの」へとディコンストラクションするところにある。つまり、「裸体」に対する徹底した「無関心」です。それが、西欧絵画の第一原理であった「裸体」という理想的な「美」への執着ないしは欲望を、絵画の内部で、批判的に解体してしまうのです。これは、言うまでもなく、いわゆるアイロニー(皮肉)の戦略。デュシャンは「美」にアイロニーを持ち込む。デュシャンは言う、「あなたたちは結局、『美』という表象のもとに、「裸体」を欲望しているだけなんですよ。そして、あなたたちが見ることを欲望する『裸体』とは、表象として停止しているのでないとすれば、つまり現実に運動しているとしたら、それは、こんなものなんですよ、そう、不完全な『機械』の断片の寄せ集めですね」とかなんとかとかなんとか。言い換えれば、表象は本質的な何かを表象しているのではなく、何かを隠している「仮面」(アイロニーの原義ですね)にすぎないのではないか。デュシャンは、西欧絵画を支えてきた下部構造ともいうべき欲望の構造に、こうしてはじめて「アイロニー」のメスを入れるのです。 
だとしたら、《階段を降りる裸体No.2》を前にするとき、ひとは、みずからの絵画への態度そのものを問われていることになります。この作品を、何でもいいのだが、アングルの《泉》を前にしたときのように、見ることはできない。これは、ある意味では、ほとんど絵を見る人の「欲望」を、そして絵画そのものを、アイロニカルに揶揄しているからです。とすれば、この作品が出品されたアンデパンダン展で、他の画家たちが、「これは反キュビスム的だ」という理由をつけて批判したのも必然であったのかもしれない。批判を受けてデュシャンは、作品を撤回します。」小林康夫『絵画の冒険 表象文化論講義』東京大学出版会、2016.pp.253-258.

 デュシャンといえば、「レディ・メイド」と称する既製品(または既製品に少し手を加えたもの)による作品が有名で、1917年、「ニューヨーク・アンデパンダン展」における『噴水(泉(男子用小便器に「リチャード・マット (R. Mutt)」という署名をした作品))』が物議を醸した。その後、『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』という通称「大ガラス」と呼ばれるガラスを支持体とした作品の制作をはじめたが、未完のまま1923年に放棄し、ほとんど「芸術家」らしい仕事をせずチェスに没頭していたというユニークさが伝説化している。確かに、世界の美術の中心が、第二次大戦後ヨーロッパ、とくにパリからニューヨークに移動したとき、それまでの西欧絵画がやってきたことをそっくりひっくりかえすような、革命的なコンセプトを出していたのは、デュシャンだったろうし、その後の20世紀美術はそっちの方向に走って行ったのだから。すべては後付けになるにしても、そのデュシャンが出発点で何を考えていたかは、考えておく必要がある。



B.あっちの事情、こっちの事情
 「不幸な関係」というものは、はじめは偶然の行きがかりや思い込みの踏み外しやらといったことから、取り返しのつかない出来事が続き、それに感情的憎悪や悪意がまとわりつく。隣国同士の抜き差しならぬ関係で、「不幸な関係」が続くと、むやみな対立はやめて仲良くしようといっても、過去の痛苦の記憶がそれを許さない。日本と朝鮮半島の関係は、16世紀末の秀吉の武力侵攻があったにもかかわらず、鎖国の江戸時代は比較的良好な関係にあり、むしろ日本の知識階級は儒教文化の朝鮮に文化的思想的な敬意を抱いていた。ところが、明治維新で西洋文明を追いかけた日本はしだいに朝鮮や中国を劣等国とみなしはじめ、ついに1910年朝鮮併合を行って植民地にしてしまった。それから35年間の日本統治時代をどう見るか、歴史研究は必要だが、現実政治ではつねに支配者としての日本がやったことが問われ、敗戦で独立した後も、南北に別れて戦争状態にあったこの民族の「まことに不幸な20世紀」について、日本人は思い出したくない記憶、いやすでに個人体験として植民地朝鮮の記憶を持たない人が大部分になっている。
 戦争末期、戦争遂行で不足する労働力を補うために、朝鮮半島から強制的に各地の炭鉱や工場などに「徴用工」を集めて働かせたという事実がある。この人たちに損害賠償を日本企業に求める判決を韓国大法院が出したというニュースについて、専門家3人のインタビューがあった。日本政府は1965年の国交回復を実現した日韓条約で、この賠償問題は解決済みという見解を繰り返している。

 「元徴用工判決を考える:韓国大法院(最高裁)が日本企業に対し、元徴用工への損害賠償を命じた。日本政府は「解決済みだ」と判決を批判する。どう考えればいいのか、専門家に聞いた。 
■動員の実態まずみること:近代史研究家 竹内康人さん
 朝鮮人の労務動員について阿部首相は国会で「募集」「官斡旋」「徴用」があるが、韓国大法院判決の原告は、募集に応じたものであり、徴用工ではなく「旧朝鮮半島出身労働者」の問題、と説明しました。強制ではなく、自らの意思で働いたとしたいのでしょうが、それは事実に反します。
 日中戦争が始まると、日本政府は1939年、総力戦をめざし炭鉱や工場などへの労務動員計画を立てました。日本の植民地だった朝鮮からは、同年から政府の承認による募集で、42年からは朝鮮総督府が積極的に関与する官斡旋で、44年からは国民徴用令を発動し、動員がなされました。
 必要なのは、動員の実態をみることです。国策による動員であり、割り当て人員を確保するため、初期の段階から行政や警察が関与しました。官斡旋では「略奪的拉致」と記す報告もあり、執拗な人集めが行われたのです。
 今回の原告のように、2年間訓練を受ければ技術を習得できるなどと甘い言葉で誘われた人もいます。植民地での皇民化政策は、日本の戦時動員に積極的に応じるよう、他民族の内面を操りました。その強制性を理解すべきです。
 さらに日本政府が特定の鉱山や工場を軍需会社に指定し、そこの労働者を徴用扱いする「現員徴用」というやり方もありました。旧日本製鉄も指定されており、原告も現員徴用されました。募集や官斡旋で動員されても、職場から離脱できず、さらに任期を延長された人もいます。
 旧内務省の「労務動員関係朝鮮人移住状況調」などによれば、朝鮮からの動員は約80万人です。動員先は、炭鉱など危険な現場が多かったのです。逃亡を防ぐために賃金の多くは強制貯金されました。警察や、協和会という統制組織によって監視され、逃げれば指名手配され、見つかれば逮捕されました。募集という言葉からイメージされる自由な労働者では、決してありません。
 こうしたことを考えれば、いずれも戦争遂行のための「強制動員」と呼ぶべきです。安倍首相の説明は、これまでの歴史研究で明らかになった事実を無視し、歴史をゆがめるものです。
 韓国では日本企業を相手取った同様の裁判があります。大法院で「強制動員慰謝料請求権」が確定したことを踏まえ、日本政府と企業は、韓国側と協力して基金をつくるなど、包括的な解決に踏み出すべきです。
 不法な植民地支配によって労働を強制したことを認め、真相を明らかにし、被害者の尊厳を回復し、次世代に真実を伝えることが大切です。 (聞き手・桜井泉)

■ 人権の視点は国際的潮流:同志社大学教授 太田 修さん 
 日韓請求権協定は、植民地支配の責任を不問に付したサンフランシスコ講和条約の枠組みのもと、請求権問題を経済協力で政治的に処理した条約です。これに対し、戦時に重大な人権侵害を受けた被害者が個人として直接救済を求める動きが、1990年代以降に出てきました。
 韓国の強制動員被害者(元徴用工)らが日本で提訴した裁判は「請求権協定で解決済み」との主張に阻まれ、企業に対する賠償請求は2007年までに最高裁で退けられました。協定の交渉過程を検証しようと外交文書開示を求める訴訟が韓国で起こされ、05年以降、韓国側3万6千㌻、日本側約6万㌻が公開されました。文書を分析した結果、私は日本側の姿勢には「過去の克服」の観点から問題が三つあったと考えています。
 1910年の日本による韓国併合に始まる植民地支配は「適法かつ正当だった」との前提で臨み、被害を与えた責任を認めなかったこと。過去への償いを回避するため、請求権問題を経済協力で処理したこと。植民地支配や戦争で人権を侵害された被害者の声を受け止めず、条約によって「解決」としたことです。
 請求権協定が「完全かつ最終的な解決」をうたったのも、冷戦下で日韓ともに経済開発優先だったことが背景にあります。強制動員被害者の声は韓国の軍事独裁政権に抑え込まれ、「過去の克服」はなされなかったのです。
 ただ「解決済み」論を基本としていた韓国側は2005年、当時の廬武鉉政権が日韓会談文書の公開を受けて「日本政府や軍が関与した反人道的不法行為は、請求権協定で解決したとはみなせない」と表明。元「慰安婦」やサハリン残留韓国人、在韓被爆者を協定の対象外としたのです。強制動員被害者(元徴用工)をめぐっては12年、大法院判決が「日本の判決は強制動員を不法とみる韓国憲法と衝突する」として日本の確定判決の効力を否定。今回の判決もその延長上にあります。
 韓国政府や司法の変化は、植民地支配や侵略戦争の責任を問う考え方に加え、被害者の人権や尊厳回復を求める声の高まりを受けたものです。
 国家間の条約で個人の請求権を一方的に消滅させることはできないとして、人権、人道の観点で強制動員問題の解決を目指す取り組みは国際的潮流でもあります。ナチス統治下の強制労働被害者に補償するためドイツ政府と企業が財団を設けました。日本企業も、鹿島や西松建設などが中国人強制連行被害者と和解して基金がつくられています。
 「解決済み」と言い続けても問題は解決しません。日本政府や企業は個人の被害に向き合い、国際基準にかなった過去の克服をめざす姿勢が求められていると思います。 (聞き手 編集委員・北野隆一)

■ 日韓関係の枠組み壊すな:静岡県立大学准教授 奥薗 秀樹さん
 大法院が賠償請求を認めたこと自体は、2012年5月に高裁に差し戻した経緯からしても想定の範囲内でした。ただ、判決を詳しく読むと、韓国司法が一歩踏み出したという印象を受けます。
 差し戻し判決とその後のソウル高裁判決は非常に慎重な言い方でした。1965年の請求権協定が、植民地支配の不法性について日韓双方の見解が平行線のまま結ばれた中で、植民地支配と直結した不法行為である強制動員の損害賠償を求める権利が消滅したとは考えにくいという論理です。だが今回は、日本の植民地支配の訃報性を前提とした日本企業の反人道的不法行為に対する慰謝料請求権は、請求権協定の対象にならないと明確に述べている。この論理だとあらゆることが慰謝料請求の対象になりかねません。
 大法院が一歩踏み出した背景の一つには、文在寅政権が前大統領の弾劾と罷免という特異な過程を経て成立し、「積弊清算」、山積した過去の弊害の清算を看板に掲げていることがあります。政治の流れの中での判決となった側面があることは否定できません。
 しかし、より大きいのは、韓国の司法の特性です。朴正煕など軍出身の大統領の下では司法が統治の道具として使われ、国民からまったく信用されませんでした。87年の民主化後、司法は過去の反省から、政府にできない社会正義を実現する砦になるという強い使命感を抱くようになります。世論に左右されやすく「憲法の上に国民感情がある」と揶揄されるのも、国民の側に立つ意識が強いためです。今回の判決にも、その使命感が色濃く出ていると思います。
 日韓国交正常化による「65年体制」は、韓国併合が合法か違法かは平行線のまま、現実的対応をしました。判決はそのあいまいさを放置せず、正すことを求めているようにも映るだけに、65年体制を崩しかねないリスクを伴います。
 とはいえ、現時点までの日本政府の対応は少し行きすぎに見えます。「完全かつ最終的に解決済み」の一点ばりでは韓国世論を刺激し、韓国政府の選択肢を狭めてしまう。日本の立場は、請求権協定で個人請求権は消滅しないが、外交保護権を互いに放棄している以上、個人の請求に国として対応できないというものです。それをきちんと説明し、理解を求めるべきでしょう。
 韓国の李洛淵首相は「諸般の要素を総合的に考慮して」対処すると表明しました。対日関係を破綻させないという意思の表れだと思います。日本は騒ぎすぎず、韓国政府の出方を待つべきです。
 65年体制では、摩擦はあったにせよ、得られた成果も大きかった。その枠組みを壊すべきではありません。両国首脳の政治的決断と国内を説得する指導力が求められます。 (聞き手・編集委員・尾沢智史)」朝日新聞2018年11月23日朝刊15面、オピニオン欄「耕論」

 これは韓国内の旧政権への清算の一面、という内部的要因もありそうなので、日本は政府間の外交交渉、あるいは民間も含む現実的な解決をすすめる努力をするだろうとは思うが、慰安婦問題で顕著なように、韓国でも日本でも感情的な反発が熱を帯びてしまう惧れがある。日本への憎悪に燃える韓国のなかの感情的運動家は、日本に賠償請求をするよう圧力をかけろと韓国政府に迫るだろうし、日本では韓国大嫌いのネトウヨたちが、「また滅茶苦茶ないいがかりをつけるアホども」と騒ぐことは予想される。どっちも不毛で、何の解決にもならないどころか、火に油を注ぐだけだ。
 ただ、今思い出すのだが、ぼくは高校生の時に「日韓条約反対!」のデモに参加していた。日韓条約がどういう意味を持っていたのか、よく理解していたわけではなかった。反共防衛(共産主義の侵略を防ぐ)のために日本と韓国が手を結んでアメリカ側に協力する条約は、韓国の軍事政権と日本の保守政権の利害だけを優先したものだと気に入らなかっただけだ。植民地支配の後始末とか、朝鮮民族の歴史とかを考えたわけではなかった。ある意味でぼくたちは、そういう面倒くさいことには目をつぶって棚上げにしてきた。とりあえず日本も韓国も経済成長すれば、過去は忘れてうまくいくよねと楽観し、実際そうやって経済成長を達成してなんだか昔のことはいいじゃない、と日本人は思ったのだ。しかし、朝鮮半島の人たちは、そこからむしろ自分たちが日本人に何をされたかを考えたのだ。このギャップは埋める必要がある。
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「絵を読む」20 マティス・モンドリアン・カンディンスキーと風土..風力発電先進国 

2018-11-21 19:14:07 | 日記
A.絵画と土地風土
 ゴッホのアルル、セザンヌのエクス・アン・プロヴァンス、ゴーギャンのタヒチ、あるいは生涯一ヵ所にいて絵を描いていたフェルメールのデルフトとかユトリロのモンマルトルとかでもいいが、画家にとってある場所の土地風土とその作品との結びつきは、重要な研究テーマになる。19世紀から第2次大戦まで、コンテンポラリー美術はパリを中心に回っていた。しかし、絵画のモデルニテはつねに革新を求め、まだ誰もやっていない新しい試みを期待していたから、画家たちはパリで同時代同世代の画家やアーティストから刺激を受けながら、同時にパリにいては自分のなかにある創作への情熱が枯渇する恐れも感じた、と思われる。情報と市場の集中する大都会は、競争と淘汰と退廃への誘惑の街でもある。そこで、これではいかんとそれぞれの故郷へ戻ったり、まったく新しい土地に移ってみたりしたのだが、それがどう作品に反映したのかは、個々の作品に即してみていくしかない。『絵画の冒険』の小林康夫氏は、それを「南へ」という乱暴な方向性で読む。

 「これらの構築的な形はすべて、メロディーのそれにも似た単純な内面の響きをもっている。わたしがそれらを《旋律的》と呼ぶのはそのためである。セザンヌによって、さらにはのちにはホルダーによって新たな生命をあたえられたこれらの旋律的なコンポジションは、今日では、リズミカルなコンポジションと呼びならわされている。」(ワシリー・カンディンスキー『抽象芸術論――芸術における精神的なもの』西田秀穂訳、美術出版社、1958)

 「大雑把な言い方ではあるが、1906年前後のピカソの革命が形態にかかわるものであったとするなら、マティスの革命は何よりも色彩にかかわる。印象派、新印象派、ゴッホやゴーガンなどが行った絵画革命を受け継ぎつつ、マティスはそれを完成させると言ってもいい。色彩の勝利です。
 だが、いまわれわれが作成中の「絵画史の地図」の上では、色彩と光は、これも誇張して言えばですが、「南」と結びついていた。だから、「パリからの逃走」ではないにしても、マティスのキャリアにとっての「南」のモーメントを探してみると、それがくっきりと現れる。コリウールです。パリから南西に下ってもうスペイン国境に近い、カタルーニャ文化圏に属する地中海沿岸の漁村。1905年夏、マティスはそこに赴く。すると、マティスにとっての絵画の窓が開く(一言断っておきますが、前年1904年にかれは南仏のサン・トロペで夏をすごし、そこで新印象派の巨匠ポール・シニャック(1863-1935年)と対決することになる。その対決がマティスを独自の道へと向かわせる。その方向付けが翌年の夏に、開花というのでは足りない、爆発すると言いましょうか)。
 港に向かって大きく《開いた窓》。遠くの突堤。港に浮かぶ数層の船。おそらく蔦がからまるベランダに置かれた(赤いゼラニウムでしょうか)花の鉢植え。窓の上部が赤いのを見ると、朝焼けでしょうか、海もピンクに波立っている、となれば、これは部分的には、マティスの《印象、日の出》だと言ってもいいかもしれない。窓を通して強烈な光がまっすぐに室内に、そして画家の魂に射し込んでくる。すると、内部は、もはや暗い影のうちに取り残されているのではない。一挙に、緑、そしてそれと補色の関係にあるような藤色に染め上げられる。光が色彩となって爆発するのです(のちにマティスは「色彩はダイナマイトの筒も同然だった。色彩そのものが光を放っていた」と言っています)。
 言うまでもなく、ルネッサンス以来の古典絵画においては、窓はいつも絵画そのもののメタフォールでした。壁にかかっている1枚の平面的タブローが、視覚の効果としては、「窓」のように三次元の光景を現出させるというものです。しかし、モネの《印象、日の出》もすでにそうでしたが、モデルニテの時代、絵画は三次元の光景を錯覚的に表象するのではなく、その光景が画家という主体に侵入してくるその効果をこそ表現しようとしていた。まずは「印象」、そして「感覚」、そしていま、さらに奥深く「感情」(「情動」)、つまり魂における効果へとそれは到達しようとしているのです。つまり、マティスは、コリウールの波止場の傍にある友人の別荘の2階の部屋に、海の方から入ってくる光の風景をただ描こうとしていると言ったらいいか。現実の部屋としては影になって暗い壁であったはずのものが、エメラルドグリーンあるいはモーヴの色彩として弾ける。扉の枠も、現実にはありえない赤で描かれねばならず、するといつのまに波の色もひたすらピンク、それがこの「室内」にもひたひたと打ち寄せてくる。それを受けて、かれの「魂」は、船の帆柱のようにゆらゆらと揺れ騒ぐ。もはや色彩を形態のうちに閉じ込めておくことなど問題にならない。色彩を物体に従属させておくわけにはいかない。いま、ここで即刻、色彩が、そう、音楽のように、立ちのぼってくるのでなければならないのです。後年のマティスの発言をもう一度、引くならば、「われわれは‥‥‥自然を前にした子供のようなものだ。われわれは自分の気性が自由に語り出すようにしなければいけない‥‥‥規則にのっとったものはすべて無視し、感じたままに絵を描く。ただ、色彩だけを頼りに」と。  〔中略〕
 絵画は、《生きる歓び》の明証(エヴィデンス)である――それこそ、マティスの核心です。この確信をもって、マティスはいま、ジョルジョーネに、ティントレットに、マネに、アングルに、ゴーガンに、ゴッホに、スーラに、シニャックに、セザンヌに、つまりは絵画の全歴史に対して応答する。「魂」の奥底には「楽園」がある。1904年、サン・トロペでシニャックへのオマージュとして点描的な技法で描かれた作品のタイトルであった、シャルル・ボードレールの詩『旅への誘い』の一句が言うようなあの「楽園」。裸のままの人間の肉体が自然と調和する「楽園」。絵画はその「楽園」からこそ生まれてくるべきだ。そして、だからこそ、色彩が爆発する画家のアトリエは、すでにはじめから「楽園」なのであると、かれは宣言するのだと言いましょうか。《開いた窓》やマティス夫人を描いた《帽子の女》(まさに色彩の「爆発」です!)が出品されたサロン・ドートンヌの第7室に響く観衆の嘲笑や揶揄という、マネの《オランピア》が引き起こしたそれにも似たスキャンダルの只中で、マティスはひるむことなく自己を確立するのです。
 しかし、こうして絵画が、三次元の現実的な空間と、無次元あるいは無限次元の「魂」とを接続する二次元の表現ということになると、それは「装飾」という問題系――だが、誤解のないように、ここで言う「装飾」とは「外的な飾り物」などではなく、生命あるいは精神の、まさしく無限の「襞」であるようなもの、生命や精神の「荘厳」と呼ぶにふさわしいものだのですが――とつながってkることは避けられません。だから本来なら、ここで同時代の工芸・建築・デザインの分野で一世を風靡したアール・ヌーヴォー運動との共振現象などを掘り下げるべきところなのですが、余裕がない。その極限とも言うべきタピストリー的作品を一瞥しておくに留めます。
 《赤のハーモニー》は実際に「装飾用のパネル」として制作されたものであり、装飾性が強調されているのは当然でもあるのですが、しかし「赤」という色彩の輝く強度のなかにすべてが調和をもって統一されているほとんど究極的な絵画、これ以上進んだら、具象性が保てないと思わせる作品です。なによりも冒険的なのは、本来、テーブルクロスの模様であったはずの、スペインのアルハンブラ宮殿のそれのようなアラベスク模様と花籠模様が背後の壁にまで増殖していることでしょう。もともとは青と白の織物(トワル・ド・ジェイ)であった者が、一度完成したものをマティスが全面的に「赤」で描き直したという逸話はよく知られています。論じるべきことはたくさんありますが、ここでは、これに対応する現実がどのようなものであるかということを一瞬で見て取るために、1896-97年の《食卓》と併置しておきましょう。つまり、マティスは10年前の自分の作品を取りあげ直し、それにまったく新しい表現を与えた。これは、マティスの「魂」の部屋のなかにかかるタピストリーなのです。アラベスク模様はその「襞」。それが「音楽」のように立ち昇る。
 左上の「窓」は、その「魂」の部屋にあけられた開口部です。それは「絵画」そのものでもある。絵画こそが、「外」と「内」を遮る壁に穴をあけ、光を導き入れ、そして「外」と「内」とが、おなじ「自然」の「生命」によって連続していることを証している。となれば、左側の少し大きすぎる椅子を思い出してください――ゴッホが描いた《ゴーガンの椅子》あるいは《ゴッホの椅子》を思い出してください―-《マティスの椅子》なのだと言ってみたくなりませんか(ぜひ1911年の《赤のアトリエ》も参照してみてください、そこにも「椅子」がありますから)。
 だが、そうであればこそ、「魂」が不安と恐怖に陥るとき、絵画もまた、それを忠実に反映しないわけにはいかない。1914年、第一次世界大戦のさなか、パリ郊外の自宅は陸軍に接収され、実母はすでにドイツ軍の占領地域にいて連絡は途絶、世界全体が戦争へと雪崩れ込む時代に、光溢れるコリウールでマティスは1枚のタブローを描きました。《コリウールのフランス窓》です。
 窓は開いているのに、そこにあるのはただ一面の「黒」。この作品は、マティスの生前には一度も公開されなかったと言われています。」小林康夫『絵画の冒険 表象文化論講義』東京大学出版会、2016.pp.234-239. 

 1905年5月、マティスはアンドレ・ドランと連れ立って、南仏地中海岸の町コリウールを訪れた。その前年、これも南仏サン・トロペに住んでいた点描派のポール・シニャックと出会い、シニャックに点描法を放棄する契機となる。マティスは若いドランとコリウールで絵を描いた。これは友情の始まりと実りあるコラボレーションとなった。太陽が降り注ぐ地中海を前にスペイン・カタロニアにも近いコリウールのあらゆるもの、港、尖塔、屋根や通りの角が彼らの創作意欲を刺激したと思われる。パリはフランスでも北にあり、明るい光や色彩には乏しい。

 「だが、こうなると、コリウール、ドムブルフに並んで、もうひとつの地名を挙げたいという誘惑に抗することはできません。もう余裕もないので、詳述することはできないが、それは、ミュンヘンの南西、バイエルン・アルプスの麓の丘陵地帯にあるムルナウという町。時代もモンドリアンがドムブルフに行ったのと同じ1908年、そこに、モスクワで生まれ、ミュンヘンで画家になったワシリー・カンディンスキー(1866-1944年)がやってくる。そして、かれもそこで、今度は「海」ではなく「山」を見ながら、独自の抽象絵画への道を歩きはじめる。その道行きのキーワードもまた「精神」。なにしろかれは、みずからの絵画のマニフェストとも言うべき『抽象芸術論――芸術における精神的なもの』というテクストを書いています(その一部を冒頭に引用しました)。こうした「精神」中心主義とも言うべき思想が生まれた背景には、―-これは、モンドリアンにも共通することですが――19世紀、ブラヴァツキー夫人からはじまる神智学やそれを受けたルドルフ・シュタイナーの人智学などの神秘思想の影響もあるのですが、ここでは立ち入りません。いずれにしても、カンディンスキーにおいても、抽象絵画への歩みの背景には強固な宗教的ないし神秘主義的思想があり、それゆえにこそ「精神」という言葉が特権化されるのだということは、理解しておかなければならないでしょう。
 《山》は精神的な青に染まって聳えています。しかし、その頂上には何やら「街」あるいは「神殿」があるのでしょうか、赤と黄と白のその色彩は、画面下部の二人の抽象化された人物の色彩と同じ、いや、《山》の上の空も同じ色彩です。だからこの《山》に登ることが問題になっているようにも思われます。《タイトル不詳(最初の抽象水彩画)》は、画家本人がずっと後から1910年制作と記したことで問題になりましたが、いまでは1913年制作であることが研究者のあいだでは認められているようです。色彩とタッチが乱舞する自由な抽象絵画ですが、それでも左下に見えるのは絵筆のようでもあり、右側の線描は「手」を思わせ、それならば、全体は画家のパレットそのものだろうか、と言ってみたくなる。実際、モンドリアンが「手」を抽象し、「色彩」を抽象して、幾何学的なコンポジションへと突き進んだのに較べると、カンディンスキーは、あくまでも画家の肉体、その「手」の運動を、またそれが生みだす「色彩」の出来事性を信じている、と言いましょうか。つまり絶対的で、普遍的で、純粋な形式を求めるのではなく、若い時のかれがしばしば言っていたという「対象がさまたげになる」という言葉のとおり、絵画を対象の拘束から自由にし、そして、手=色彩の自由がそのつど、音楽のように、ひとつの精神世界を立ち上がらせることを追求した。すると、そこに立ち現れるのは、そう、やはり「楽園」なのではなかったでしょうか。絵画の抽象化の必然的な結果ですが、カンディンスキーは1910年くらいからすでに《コンポジション》というタイトルの連作を描いている。また、《インプロヴィゼーション》というシリーズもある。しかし同時に、かれのなかには、「楽園」がある。マティスにも似て、裸の肉体が戯れる《愛の庭》であるように描かずにはいられない。そこでは愛し合う男女の肉体がはっきり描かれています。そしてそこには《小さな歓び》(Kleine Freuden)もある。それは、マティスの《生きる歓び》につながるものであるかもしれない。迫り来るさまざまな苦難を超えて、しかし「山」の頂上の向こうにはつねに「太陽」があって、それが《小さな歓び》をもたらしてくれるのでしょうか。カンディンスキーにとっては、絵画そのものが、そのような精神的な「山」であったかもしれないのです。」小林康夫『絵画の冒険 表象文化論講義』東京大学出版会、2016.pp.244-247. 
 
 モンドリアンのドムブルフというのは、マティスより2歳若いアムステルダムにいた画家ピエト・モンドリアン(1872-1944)が、ベルギーのワルケヘレン島でひと夏を過ごした場所である。後に直線と色彩だけで構成するコンポジション・シリーズで高名になるモンドリアンは、それまでの具象的な絵画から脱皮する契機をここで得たという話に続き、ロシア出身のカンディンスキーというこれも20世紀抽象絵画の開拓者にいくのだが、こちらは南でも地中海ではなく、アルプスの山である。
 画家にとっての風土とは、それを直接作品化する風景画には限らず、それを描いている場所の光、風、空気、建物、人の醸し出すもの、すべてが作品に反映しているといえばいえるだろう。マティスのコリウールは、それがぴったり当てはまるけれど、モンドリアンのドムブルフやカンディンスキーのムルナウは、どうも違うような気もする。北海沿岸やアルプスの北麓という場所は、地中海のような「南」の光と輝きとば別種の風土だということは、そこに行ってみるとわかる。だから、モンドリアンやカンディンスキーは抽象絵画に行ったのだというのも、少々牽強付会のような気がする。



B.風力発電が国を救うか?
 いずれはやめなければならない石油石炭火力、原子力に代り、風力、地熱、太陽光などの再生エネルギーへの転換は、それを積極的に進める国と、あえて取り組まない不熱心な国との差が開くばかりだ。もちろん国によって考え方や事情はいろいろ違う。電力の4割を風力発電でまかなうデンマークの風力発電事情についてのインタビューが新聞にあった。

 「再生エネへ転換 国の決意あり 「風力発電大国」に学ぶことは:ペーター・ヨルゲンセン氏
 電力の約4割を風力でまかなう「風力大国」デンマーク。太陽光など再生可能エネルギーを「主役」にするために日本が学べることは。電力システムを運営する国営会社エナギネットのペーター・ヨルゲンセン副社長(64)に聞きました。
――デンマークでは風力発電が盛んですね。
「30年前から本格的に導入し、15年前に海に風車を設置する洋上風力を始めた。昨年は電力の43%を風力発電が担った(火力は41%、太陽光は2%)。2020年までに50%にし、50年には石炭などの化石燃料から脱却するのが目標だ」
 —―なぜこれほど拡大したのですか。
 「国が確固たる意志をもって決めたからだ。当時、私は石炭火力発電所に関わっていた。効率のいい石炭火力があるのに、たくさんの風力を受け入れるという国の決定はクレージーだと思った。出力が変動する風力は、最大でも3~5%程度にしかならないと当時の業界では言われていた。従来の業界の考え方を変えることも必要だった」
 —―どうして実現できたのですか。
 「送電網が盤石だったからだ。大切なのは一国単位ではなく、欧州全体を一つの地域と捉えて(気象状況で出力が変動する再生エネの)電力の過不足分を補完しあうことだ。また開放的で自由な電力市場があり、(石炭などの燃料費がかからないため)安い再生エネが優先的に取引された」
 —―九州で今秋、再生エネの受け入れを減らす「出力抑制」が続きました。
 「デンマークで風力を抑えるのはまれで、中央機関から最後に出力抑制を指示したのは09年の大みそかだ。風力はそもそも競争力のある電源なので電力市場で選ばれて先に流れるからだ。風力を抑えても、火力のように燃料費の節約はできない。
 ――日本では原子力などを「ベースロード電源として優先しています。
 「デンマークにとってはベースロード電源という考え方より、柔軟性の確保の方が大事だ。原発は柔軟な調整ができないのが欠点だ。デンマークでベースロード電源だった石炭火力発電所は今、出力を上下させる調整用に使われている」
 —―日本が今後、再生エネの導入量を増やすことはできますか。
 「もちろん可能だ。日本は技術力がある。決意があるかの問題だ。電力を広い地域で融通しあうため、国有化された会社が社会の利益を考えながら送電網を運用するのも一つの案だ」朝日新聞2018年11月21日朝刊14面、金融・経済欄「聞きたい」。

 「決意があるかが問題だ」といわれて、少なくとも日本政府はこの決意にはきわめて無関心、というか無視している。もちろん、日本のような人口と経済規模の大きな国で、風力発電や再生エネルギーで電力の大半をまかなうのは容易ではないことはわかる。デンマークは、国土面積43,000㎢、人口約550万人(2008年)、老年人口(65歳)比率16%(2008年)、一人当たり国民総所得58,800ドル。日本は、国土面積378,000㎢、人口12,770万人(2008年)、老年人口(65歳)比率21.4%(2008年)、一人当たり国民総所得38,130ドル。
 兵庫県ほどの人口と埼玉県ぐらいの面積の北欧の小国が、日本を上回る一人当たり国民所得を得ていることを考えれば、風力発電で4割の電力をまかなえるのは小さい規模と海に面した半島という自然条件が幸いしている。北欧各国は原子力ゴミの処理を含め、長期的なエネルギー政策で先進的な取り組みをしている。それに引き換え、日本のエネルギー政策は、リスクを抱えた原発を再稼働して引き延ばすほかに10年先もまじめに考えていない惰性の延長にある。だからこそ国民生活を支えるインフラの長期的安定を「技術的に」真剣に考えるエンジニアが、この国にいると思いたいのはぼくだけではないだろう。
 同じページに経済学のミニ・コラムは、行動経済学という話題。

 「行動経済学は「学」か:米シカゴ大のリチャード・セイラ―教授のノーベル経済学賞受賞で日本でも話題になり、今や経産官僚諸氏のお気に入りとなった「行動経済学」について何冊か専門書を読んでみた。
 心理学や社会学の成果を引用する前置きに続き小難しい数式も出てくるが、「これは初歩の政治学の話でしょう」というのが読後の印象だった。
 英国の経済学者、ライオネル・ロビンズ教授の名著「経済学の本質と意義」によれば、経済学とは「与えられた財(資源)をいかに効率的に配分し効用を最大化するかに関わる人間行動の学問」だそうだが、人間行動の観察は政治学の領分。私が尊敬する京極純一東大名誉教授は、「人間とは意味を求める生き物」「意味を求める人間には欲がある」。そんな人間が「人生に、社会に、自分の行動に、他者との関わりに、意味を求めて浮世を生きる。その人間の営みを研究するのが政治学である」と説いた。
 経済学の基本概念である「効用」にしても、人間が「欲のある生き物」だから出てくるものだ。人の欲望は主観的かつ刹那的、そもそも次元の違う様々な欲望の共通指標などそう簡単に作れるものではない。3個のリンゴと彼女とのデートの効用は数値では比較できない。それでも人間はその時その時の状況で選択し行動している。それが市井人の生き様というものではないか。
 「暗闇で落とした鍵を明るい街灯の下で探す」のが経済学、と言う人もいる。モデルで説明できないことを「経済は感情で動く」だの「行動変容のナッジ理論」などともっともらしく解説するようになってくると、申し訳ないが素人の生兵法、もはや「学」とはいえない。 (呉田)」朝日新聞2018年11月21日朝刊14面、金融・経済欄

 現代の日々に生きている人間の営みを冷静に合理的に、あるいは実証的に研究する学問を、「社会科学」social scenceと呼ぶようになったのは、20世紀の始まった頃だという。経済学、政治学、歴史学、心理学などが近代科学の方法論を導入して精密な実証科学を目指した。経済学は、その基本概念「効用」「需要」「供給」「価格」「市場交換」を作り出して、現実の人々の集合的な行為の結果としての経済現象を、数理的に分析する新古典派総合の体系理論を生みだした。それは、経済的行為という人間の欲望のあらわれのある側面を詳細に描き出し、予測することに成功した。しかし、その前提となった人間観、ホモ・エコノミクスはきわめて人工的な、近代的・個人単位の功利主義的理論に拠っていた。この(呉田)氏は、「行動経済学」にみる経済現象におけるこの人間的欲望の分析枠を、政治学の領域に横流しして、精密な経済学から押し出す。
 でも、「社会科学」の一分野という謙虚な位置に甘んじた社会学からいえば、経済現象こそ人間の欲望と相互行為を、単純素朴な「効用」概念に縛りつけるのではなく、たとえば「経済成長への妄想的欲望」をいかに科学的に説明するか、という応用問題に答えることができるだろう。
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