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世界から見た日本と東洋の美 3 アルカイズム・クラシシスム云々  都知事選の焦点

2024-06-30 07:10:14 | 日記
A.飛鳥時代、白鳳・天平・奈良時代、貞観・藤原・平安時代の美術
 美術といっても、古代の作品で今に残っているのは、壊れにくい彫刻と建築がほとんどで、絵画はかろうじて残った壁画などを除けば、消失している。日本でも絵巻物などが残るのは、平安時代以降だろう。田中英道『日本美術全史』の方法論は、西洋美術史の「様式」論で日本美術史を分析するということと、歴史資料として諸作品を広く見渡すのではなく、そのなかで最も優れた作品とその作者に注意を集中することにある。それは確かに存在し今に残っている、と見ればそこに様式の変遷も見ることができる、ということになる。
 まずは、アルカイスム様式に始まり、日本では飛鳥時代の作品に現れるという。説明を聞こう。

「アルカイスム時代――七世紀、飛鳥時代の美術
 まずいわゆる「アルカイスム」様式はその特徴として、単純性、正面性、アルカイック・スマイル、生硬さ、触覚値、などが、新しい表現意志の中に示される。ギリシャの「アルカイスム」彫刻に似た正面性が強く、形自身は単純であるが、そこに清新な表現意欲が込められている作品群として示される。
 飛鳥時代の彫刻、とくに法隆寺の『百済観音』や法隆寺金堂の『四天王像』が代表作である。中国や挑戦から入ってきた「渡来人」の作が多いとされるが、すでに独自な表現が備わっており、芸術作品として生硬さを払拭されているので、自立した流れを作り出していると考えるべきであろう。『百済観音』は微笑を湛えた顔、ほっそりとした七頭身の身体、肩にかかる垂髪の洗練された波、ここには「アルカイスム」でありながらその最高の生きた表現がある。「百済」の名は明治以後つけられたもので、クスノキで造られている点でも日本での制作である。
『救世観音』も、その正面性、単純性、アルカイック・スマイルとともに、生硬さや「触覚値」といってもよい形象が見られる。朝鮮とまったく同じ様式といわれる半跏思惟像の場合もあるが、優れた者も多いことから、日本の文化土壌の中でそれが生まれたことを重視すべきであろう。
 法隆寺金堂の『釈迦三尊』の光背の銘文に作者として「司馬鞍作首止利(しばのくらつくりのおびととり)」の名が堂々と残されていることは、作家そのものも無名ではなく、高く評価されていたことを示していると思われる。この時代の絵画が残っていないので、この面では述べられないが、『玉虫厨子』(法隆寺)の台座絵は当時の絵画表現の高さをよく示しており、この表現の本格的な絵画作品が残っているならば、ジョットの絵画に匹敵するものとさえ想定できる。
 
「クラシシスム」時代――七世紀末-八世紀、白鳳、天平または奈良時代の美術
 美術史を「様式史」として最初にとらえたヴィンケルマンは、ギリシャの「クラシシスム」に《高貴なる単純と静かなる偉大》という言葉を与えたが、まさにそれにふさわしいのがこの時代の美術である。それは平面的であるが絶対的明瞭性をもち、かつ彫塑的である。この典型として東大寺法華堂(三月堂)の諸仏、とくに『日光・月光菩薩』があげられるであろう(東大寺ミュージアム)。また戒壇堂の『四天王像』も、興福寺の『阿修羅像』などの『八武将』や『十大弟子像』もその中に入る。また「絶対的明瞭性」をもち、その彫塑性により、周囲にわずかな空間を作り出している。
 ただギリシャ彫刻は人間の裸体像を中心としたプロポーションの「美」を重要視するし、日本美術では十五、六世紀のイタリア彫刻はそこにより複雑な人間の諸表情を表現するが、日本美術では人間の我執を取り去った超越性を表現している。背後には聖武天皇を中心とする仏教国家としての自覚と正当性が生き渡っていたと見るべきであろう。
 また動きや感情表現も充分見られる。たとえば戒壇堂の『増長天』は槍を持って立ち、右足で邪鬼の顔を踏みつけているが、抑制された動きとなっている。その怒りもオリンピアのゼウス神殿破風彫刻の、ケンタウロスとラピタイ族の激しい戦いに、抑制して横を向いているだけのアポロの立ち姿を思い起こさせる。『阿修羅像』も銭湯の像として三面六臂も姿が不可思議だが、そこには「高貴なる単純」が見出される。怒りといってもそこには「静かなる偉大さ」が感じられるのである。
 この「クラシシスム」に属する作品は白鳳時代から見られる。当麻寺の『四天王像』の雄直な像にも、喜怒哀楽を率直に表した「法隆寺五重塔塑像群」にも、その要素が充分見られる。東大寺の大仏が残っていたら、大きさにおいても「偉大さ」を示していたであろう。その荘厳さは公麻呂が造った『不空羂索観音』によく表されている。また戒壇堂の『四天王像』との形態的関連では新薬師寺の『十二神将』も、さらに動きを示しているものの、基本的な形態では同じものをもっている。また肖像では『鑑真像』や『行信像』もその品格のある表現は同じ厳しい人間表現を保持している。そこには節度のある理想主義がある。
 絵画では残されているものが少ないので残念であるが、『法隆寺金堂壁画』がある。戦後焼失したが、残されていたら世界的に貴重なものとなったであろう。その釈迦浄土・阿弥陀浄土と三尊の輪郭線は同じであるが、それぞれ異なる筆致で描かれている。線的、平面的であるが、決して三次元を失っているわけではない。とくに釈迦像の十大弟子の顔はそれぞれ理知的で誠実な人柄が表現されている。これらが唐から来た技術といえども、ここにはそれと異なったあらたな生命観が賦与されており、日本美術の表現となっていることを認めるべきであろう(本文第3.4章参照)。
「マニエリスム」時代――九・十一世紀、貞観、藤原または平安時代の美術
 これまで東大寺司を中心に活発な造像の時代が八席半ばまで続いたが、760年代に東大寺の造営は終わり、すでに仏教と造仏の精神的な共同作業は失われていた。八世紀の後半には確かに天災、疫病、飢饉ばかりでなく、律令体制の乱れが顕著になってきた。権力をめぐる争闘と迷信のはびこる宗教的な危機は、ちょうど「宗教改革」にいたる「カトリック」教会の乱れと免罪符の乱発による十六世紀初めの西洋の危機と類似している、と考えることも可能である。奢侈と浪費は国家の財政を疲弊させ、次第に国家としての造仏の動きが減り、自営の工房による小規模な動きにならざるをえなかった。仏教そのものの退廃は、その表現におおらかさを失わせ、造形に小手先の技術が多く用いられることになる。
 平安遷都の後、九世紀に入ると、最澄や空海がもたらした天台、真言の新仏教は新たに密教美術を生み出したものの、その新しい図像学は美術を煩瑣な表現に追いやり、冷たさやときには妖艶さを与えこそすれ、自然な生命感を失わせていった。この過程は1527年の「ローマ略奪」の後のイタリア美術の状況と遠いものではないと思わせる。美術を包む精神的環境が変わり、共通な人文主義が失われるとともに、美術家たちがばらばらになっていったのでる。「トレント宗教会議」による、教義の美術への介入は、その表現に自然さを失わせていった。
 東寺(教王護国寺)の諸仏像を見よう。空海の指導で造仏がなされ、そこに知的な理論が存在している。講堂の中央仏壇には五仏、東方には五菩薩、西方には五大明王、檀の四隅には四天王と梵天と帝釈天を配し、真言密教の中心的な教義を表したものといわれる。修復が多いが『梵天』の姿は、これまでになかったふくよかさを持っており、またある種の冷たさがあることを否定できない。これは表現過剰と反自然主義を示しており、「マニエリスム」の特徴といわなければならない。
 『不動明王』を取り囲む『四大明王』はそれぞれ違いはあれ両手がいずれも前に組まれ、中腰で姿がやや前かがみになり、その怒りがまるで内向してしまうように造られている。これは天平期「クラシシスム」の時期にはなかった姿勢であり、八本の手にある数々の武器の動きとともに、異様にグロテスクな雰囲気を醸し出している。単に彼らがヒンズー教のシバ神などの異教の神だからという説明以上に、これらの中に発散しない非合理的な衝動といったものが感じられるのである。
 空海帰朝の後盛んになったと言われる「如意輪観音」信仰が、観心寺の「如意輪観音」のような妖艶な女性の姿を生み出したが、六臂の右の手が如意宝珠を胸に抱き、もうひとつの手を頬にあて、三つ目の手で念珠を持ち、左手の方は台座に触れ、蓮華をとり、金輪を持ち、体をくねらせているように見える。これは「マニエリスム」の形態的特徴である「セルペンティナーダ」(蛇上人体)の感覚に近く、これまでの「クラシシスム」の真直ぐ立つ姿と異なっている。
 一方絵画でも「仏画」においては平安後期には『仏涅槃図』(金剛峯寺)や『釈迦金棺出現図』(京都国立博物館)のような秀作があるが、いずれも人物像の豊かさ、くうかんの構成など秀逸である。とくに後者の釈迦が出現し光を放ち、それに狂喜する菩薩や羅漢など、『法隆寺金堂壁画』と異なった様式を示している。一人ひとりの彫塑的な表現ではなく、半自然主義的な「マニエリスム」の特徴を示しているのである。また藤原氏全盛時代は、その雅やかな宮廷を背景に、洗練された定朝様の様式による仏像が風靡した。一方で『源氏物語』に象徴されるように、貴族の愛の物語の極度に限られた世界の表現は、その美術的表現として「引目鉤鼻」や「吹抜屋台」といった形式主義を生み出し、写実よりも様式を重んじたものとなったということが出来る。
 定朝様式が洗練された様式として風靡したのも、これがひとつの「マニエラ」として親しみ易かったのであろう。宇治平等院の『阿弥陀如来像』がその典型であるが、同じ鳳凰堂に飾られた『雲中供養菩薩像』の五十二体は自由な姿態で音楽を奏でており、「マニエリスム」の傑作のひとつとなっている。洗練された表現は同時に「形式性」の危険を常に持っており、それは宮廷の文化の通弊である。院政の豪奢ぶりが、多くの造寺造仏により装飾性を呼びこんだ(本文第五章参照)。
「バロック」時代――十二-十四世紀、平安末-鎌倉時代の美術
 次に十二世紀以後の「様式」として「バロック」について考えたい。「バロック」とはポルトガル語の「不整形な真珠」から来たといわれるが、その言葉によって象徴される美術とは、動勢、曲線、装飾性、強烈なコントラスト、律動感、感動表現などを一般的な特徴とさせる空間美術である。触覚的、彫塑的な形態に対し、空間的、絵画的なのである。ヴェルフリンがいう五つの項目、「絵画的」「奥行的」「開かれた形式」「一元的統一」「相対的明瞭性」にあてはめられる表現と考えられるであろう。十七世紀の西洋美術でいえば、カラヴァッジオやレンブラントの明暗法の強いリアリズムの世界や、動勢の強いルーベンス、ベルニーニなどの形象表現が典型である。
 こうした「バロック」美術が生まれた背景としては、洗練された「マニエリスム」への批判、「反宗教改革」の精神と要求、地動説の主張や現世的な思想などがあげられる。このような「バロック」的な常数は、やはり「クラシシスム」「マニエリスム」の時代を経てきた日本の平安末から鎌倉時代にかけての絵画、彫刻に見出されるように見える。それは『信貴山縁起』や『伴大納言絵巻』などの動勢の激しい「絵画的」表現、1180年(治承四年)の東大寺や興福寺の消失により、翌年からはじまった再建による運慶一派の彫刻のリアリズムと空間的表現にその典型が見られる。彼らは天平の「クラシシスム」の彫刻に親しみ、その技量を摂取するとともに、あらたな「様式」を生み出した。
 この新しい芽生えは何といっても、武士の勃興が背景にあるであろう。貴族の争いに源氏、兵士の武士たちが参加し、代わって権力を握ることになる。そこには同時に庶民の勃興がある。文学でいえば『源氏物語』の宮廷の雅やかな世界から、庶民の粗野な生活ぶりを正直にとらえた『今昔物語』の世界への移り変わりがある。十二世紀に絵巻物が出現し、その世界が見事にとらえられる。
 とくに十二世紀中ごろからその変化は一層明確になり、「バロック」的な動勢のある写実主義的な表現が多くなる。『信貴山縁起』の「飛倉の巻」では、長者の倉が持ち上げられ飛んで行く情景を俯瞰法で描いている。そこには動きと絵画的な奥行きが示され、この時代の絵画の特徴がよく示されている。『伴大納言絵巻』の応天門の火事にも、物見高い群衆がやって来ている。それぞれの社会階層の人間が描き分けられ、絵画的である。この赤い炎を噴き上げる火事の場面は、『平治物語絵詞』にも見られ、その絵画性が画家たちを魅了したのであろう。この『平治物語絵詞』は、絵巻物の傑作であるばかりでなく、その構図の秀抜さ、長刀に結わい付けられた信西の首を描く、ピトレス口な表現は、世界の絵画の中でも白眉の出来である。のっけから「三条殿夜討巻」のように突っ走る公家や殿上人の馬や牛車が描かれるのも「バロック」的特徴をよく示している。」田中英道『日本美術全史 世界から見た名作の系譜』講談社学術文庫、2012年、pp.38-46. 

 こうして具体例をあげて見比べてみると、なるほど、アルカイスム、クラシシスム、マニエルスム、バロックとそれぞれに該当しそうな作品が、確かにありそうで、とくに仏像は形態が明確で様式論が適合しそうだと思える。でも、十二世紀に絵巻物が出現し、絵画作品についても、非常に優れた表現が注目される。これをバロック様式と見ることによって、新たな時代、つまり武士の世を牽引した人々の美的精神のありようが、そこに示されたと見ることも可能だ。では、その次はどうなるのか…。


B.選挙の頽落
 今回の都知事選で、今までにはなかったような選挙活動が起こっている。泡沫候補が出て、自分のわけのわからない主張を政見放送でしゃべるようなことは、これまでも多々あったけれども、たぶんそれとは違う、もちろん当選など予期していなくても、選挙という活動自体をビジネスや自己利益の手段として活用してやろうという連中が出てきたと見られる。これは、おそらくさらに派手にやるだろうし、規制を強める公選法の見直しにまで行くだろうと思う。現在の選挙制度への批判としての「棄権」ではなく、ゲリラ的「攻撃」なのかもしれないが、その結果、さらなる選挙への拒否が拡がるのは、憂慮すべき事態だと思う。
 とりあえず都知事選についての毎日新聞の評から。

「都知事選で論争を「出生率低下対策」 小堀 聡 京都大准教授(日本経済史)。1980年生まれ。
 先月の本欄で森健も論じたように、今年4月、民間の有識者グループ「人口戦略会議」が744の消滅可能性自治体リストを公表した。今回注目したいのは、あわせて選定されたブラックホール型自治体だ。
 これは、出生率が低く、かつ人口流入が多い自治体のこと。全国25のうち16を東京都特別区が占め、ほかの京都市・大阪市などが並ぶ。地方から人々を吸い取るブラックホールに、大都市を見立てたのだ。
 全国的な人口減少の主要因を大都市の側に求める議論には、異論もある。とはいえ、東京に象徴される今の大都市が、結婚・出産・育児をちゅうちょしがちな空間なのは確かだろう。東京都の合計特殊出生率が昨年、0.99を記録したのは衝撃的であった。
 出生率の低下は、子育て支援だけでは解決できまい。たとえば、いくら現金給付を増やしたところで、不安定雇用や残業、満員電車など、育児を阻害する今の働き方は、そのまま残される。
 事態を動かすには、もっと幅広い施策を行うこと、その上で国や経済界にもっともの申すことが必要だろう。1967~79年の美濃部亮吉都政は、非自民勢力に支えられつつ、さまざまな環境行政を実施した。これが自民党政権や大企業も動かし、公害を改善させたのは、確かな事実である。
 出生率の急速な低下は、アジア各国に広がる問題だ。東京がその対策に奏功すれば、国際貢献にもなろう。まずは都知事選で、世界有数のメガシティーにふさわしい政策論争が行われることを期待したい。」毎日新聞2024年6月27日朝刊11面オピニオン欄、持論フォーラム。

「ネット戦略による変化 「都知事選」 森健 ジャーナリスト。1968年生まれ。
 東京都知事選(7月7日投開票)の選挙ポスターが大量に張られた。風俗営業ふうの男性、アイドルふうの女性、動物のイラスト……。主導した政党の党首は「問題提起できた」と語っているが、そういう話ではないだろう。
 警視庁は党首に警告したが、公職選挙法に詳しい片木淳弁護士も「公選法が想定した選挙のあり方ではない」と指摘している。
 根深い問題も垣間見える。今回の候補者には、先述の党も含め、他党への妨害行為や奇抜なパフォーマンスなどネットで耳目を引く活動をしてきた人が少なくない。ネットの表現ないしは収益活動の一環として選挙を利用しているように映る。
 一方、主力候補たちもネットを都合よく使っている。3選を狙う現職都知事は公約発表にオンラインを使った。かねて真実性に疑いのあるカイロ大学卒業について刑事告発もされた。その直後だけに厳しい質疑を避けたかったのではと見られている。また、地方の元首長から転身を図る候補は地方議会とやりあう様子を動画サイトに投稿し人気を得たうえで今回の出馬に至った。
かつてマックス・ウェーバーは政治を職業とするには、政治「のために」生きるか、政治「によって」生きるか、のどちらか、あるいは両方だと述べた。今の候補者の中には、政治「を利用して」生きる向きがあるように映る。もとより人気と権力を得るのが政治家だが、その地盤がネットになりつつある。この変化を前に有権者は誰を選ぶのだろうか。」毎日新聞2024年6月27日朝刊11面オピニオン欄、持論フォーラム。
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世界から見た日本と東洋の美 2 美術史における「様式」  うそはいけない。

2024-06-27 09:39:27 | 日記
A.様式とは何か 
 西洋美術史で「様式」を指す独自の用語が用いられているのは知られている。「バロック」、「ロココ」、「ネオ‐クラシシスム」「印象派」など、あるいは「ルネサンス」という言葉も、美術史上の様式をあらわすと考えることもできる。これらは、ある時代、ある地域に現れた一群の作家・芸術家とその作品に共通する特徴をまとめて呼んだものである。しかし、これは西洋とくにヨーロッパに焦点を置いたもので、古代にまで遡ればギリシャ・ローマ時代からそういうものがあった、という見方による。この「様式」を、東洋とくに日本の美術史にあてはめられるか、そんなことを考える日本美術の研究家はまずいなかった。なぜなら、少なくとも江戸時代までの日本美術は、中国からの影響は多大なものがあったけれど、西洋とは全く違った文化であり接点もなかった、と見れば、西洋美術の「様式」を日本にもってきても背景が違い過ぎて無理である、と考えたからだろう。しかし、西洋美術史学者である田中英道氏にとっては、これはおかしなことであり、美術作品そのものに、あるいはそれを制作した作家の造形意志に、西洋も東洋もないではないか、ということになる。そこで、この『日本美術全史』という果敢な試みになったわけだ。
 ある意味で、すごい挑戦だと思うが、一般の常識にはかなり反しているので、まあ読んでみる。

「目次を見られてもわかるように、本書ではこれまでの「日本美術史」の書には聞きなれない「アルカイスム」とか「クラシシスム」「マニエリスム」「バロック」などという言葉がつかわれていて、驚かれた向きもあるであろう。
 私は決して「西洋美術史」の用語を、奇をてらって割りふったわけではない。内在的な形象の問題があるからそうしたのである。従ってまず最初に、この書の骨格をなす「様式史」について説明しておこう。
 日本美術の歴史を記述する場合、これまでは政治的な時代区分をそのまま使ってきた。それは、美術が政治からは自立して発展してきたことが気づかれなかったからである。しかし、美術には「様式」というものがある。
 芸術的表現において「様式」が常に問題にされなければならないのは、まず人間の精神的創造活動が、対象の形象化において感覚的に把握されているからである。この意味で「様式」は単なる外面形式とは異なり、精神的表現の形象化を本質に持っている。リーグルの有名な「芸術意志」の言葉を待つまでもなく、そこに自律的に発展する内在的な個々の表現力が存在する。それはまず「個人様式」となってあらわれ次に「工房様式」や「地方様式」「民族様式」そして「時代様式」となって現出する。しかしその上にそれが時代によって変化して初めて、自立した発展が見出されるのである。
 この「様式」概念はヴィンケルマンにより西洋美術史に取り入れられて以来、リーグル、ヴェルフリン、ドヴォルシャ-クに及ぶ考察により、様式史の常数として「アルカイスム」「クラシシスム」「マニエリスム」「バロック」様式などが明らかにされてきた。この様式発展はギリシャ時代の紀元前六世紀から三世紀にかけてと、西洋のイタリア美術の十三世紀から十七世紀にかけて適用されているが、西洋美術史が一つの学問として確立されたのも、政治権力史とは自立した展開をもつ「様式史」の発展が大きな要因となっている。
 ドイツの著名な美術史家ヴェルフリンはその『美術史の基礎概念』において十六世紀「クラシック」から十七世紀「バロック」への有名な五つの対概念を述べている。

 一 線的(彫刻的)なもの――絵画的なもの
 ニ 平面的――奥行的
 三 閉じられた形式(構築的)――開かれた形式(非構築的)
 四 多元的統一――一元的統一
 五 絶対的明瞭性――相対的明瞭性

 この対概念については何を撰的といい、何を絵画的なものというか、具体的な作品の中で検討せざるをえないが、ヴェルフリンはそれをいちいち挙げて説明しているわけではない。輪郭線において、それぞれの描かれた対象が独立性をもって描かれる「クラシック」に対して、線より陰影法により、動きの多い対象が互いに連関をもって描かれるのが「バロック」だということになるが、このような定義は、具体的な作品となると、曖昧なものになる。このときヴェルフリンの概念は個々の史的な場合ではなく、理論を問題にしているのだ、と説明される。しかし対象が芸術作品なのであり、理論だけでは意味がない。とはいえ大づかみにいえば、この対概念は妥当するところが多いことは事実であろう。
 フランスの美術史家フォションも『形の生命』で、芸術作品が一つの形象であり、形象は自律する内的論理に従い、時間的契機の中で展開すると述べている。歴史は単線でもなく、純粋連続的でもない。《広範囲にばらまかれた様々な現在の重なり合い》、過去、現在、未来が重なり合い、進行するものである。芸術の歴史の諸段階が、社会生活のそれ、政治や経済の歴史的な流れと溶け合いながら、それと齟齬したり先行したりする。歴史的時間の中では、生命体である形は、「実験」―「古典」―「洗練」―「バロック」という流れがある。
 しかし彼はヴェルフリンのように五対の「基礎概念」のような説明の仕方をとらない。それはもっと多様なものである。「実験」期や「バロック」期の旺盛な活力、古典期の普遍的価値を有する「様式」の完成をligne des hauteurs (美術表現の稜線)で捉え、成長、発展、衰退という生命観に近い発展史で捉えている。いずれにせよこのような「様式」問題は、二十世紀の前半に西洋美術史においては「マニエルスム」がひとつの「様式」として加えられたあと、美術史を成立させるものとして認められている。
 ところで最初に述べたように日本美術史において、時代区分といえば、飛鳥、白鳳、天平、貞観、藤原、室町とほぼ政治権力の変遷史とともに美術史は論じられており、そこに自立した「様式」の概念が見出されない。政治史区分のその時代名が、芸術の「様式」の概念を含んでいるかに見える。
 たとえば天平時代の様式といえば東大寺や興福寺の彫刻を思い出し、潑剌として生命感あふれるとか、鎌倉時代の様式といえば、慶派の彫刻を考え、強い写実主義的傾向などを想定する。しかしそれは単に時代の作風の印象を断片的に述べるにとどまっているように見える。この範囲では日本の美術史が政治の随伴史としてしか考えられないし、ジャポノロジー(日本学)の一部分としてしか評価されえない、といわれても仕方があるまい。ヴェルフリンのいう「素朴な美術史」といってよいかもしれない。
 果たして日本の美術には、政治史から自立した様式的発展がないのであろうか。優れた芸術作品が生み出されるとき、意識するしないにかかわらず、そこには前後関係があって、創作者たちはそれ以前の作品を学び、それの模倣あるいは否定を通じて新たな作品を構想する。「精神史としての美術史」を標榜したドヴォルシャークは《すべての歴史的形成作用は、ある歴史的発展のひとつの鎖の輪であって、先行する形成作用によって条件づけられる》と述べている。同じ仏像を造る天平の作者たちは、周辺の寺院の仏像、飛鳥、白鳳のものを見知っていたし、それを参考にしたことは当然考えられる。
 無論「クラシシスム」(古典主義)という言葉そのものは、すでに日本の美術史家も奈良時代(天平時代)に対して適用している。この芸術史的用語は、クラスという言葉から来たように、階級を意味する言葉から生まれたもので、最高の階級のものということである。従ってまず卓越した価値、普遍的な価値があるものであり、普通考えられているように、「古代ギリシャ」の美術に似ている必要はない。それが西洋で十七、八世紀以降「古代」が理想化され、調和や均衡、崇高さ、静謐さなどがその性格となったのである。その意味でも確かに奈良時代の美術は、東大寺法華堂(三月堂)や興福寺の諸仏によく見られるように「古代ギリシャ」の彫刻の「崇高さ」「静謐さ」を感じさせる。
 しかし問題はその後の時代の様式である。ヴェルフリンが「クラシシスム」の後に「バロック」様式を対照させたから、奈良時代が「クラシシスム」とすると、それが変化する平安時代は「バロック」ということになってしまう。この「バロック」は西洋では様式としてはっきりしていて、調和や均衡、理想主義、線的表現に対して動勢や誇張が目立っており。写実主義や明暗法がより明瞭になっている。果たして貞観の彫刻が天平のそれに比べて、そのような特徴を示しているかといえば、それほどとも思えず、その結果この「クラシシスム」以外の様式史の適用は日本では不可能になってしまっているのである。町田甲一氏は「バロック」的表現を既に八世紀半ばから見ておられるが、戒壇堂の『増長天』や新薬師寺の『十二天神将像』まで「バロック」的であるといわれると、「クラシシスム」の中での怒りの表現と区別ができなくなってしまうようである。これらが「すさまじい怒り」の表現であるとはいえ、表現は決して動勢や「誇張」があるわけではない。
 ところで「マニエリスム」という「様式」用語は、レオナルドやミケランジェロ、ラファエロなどの巨匠たちの「マニエラ」(様式) を模倣した「様式」として考えられたが、今では「メランコリー」の風潮を表現するあらたな世界観を持って登場した美術の「様式」として総称されるようになっている。つまり大芸術家の「様式」を模倣した群小の美術家の衰退期の美術や、また「ルネッサンス」から「バロック」への移り変わりの移行期の芸術様式でなく、「古典様式」の完成された表現に対する反発としての動き、もしくは十六世紀西洋全体の精神的危機を反映している「様式」であるという考え方、さらにはその継続発展としての高次の美的段階なのであるという、積極的な見方がされている。
 拙著『イタリア美術史』(1990年、岩崎美術社)でも十六世紀の宗教上の喪失感と「メランコリー」の創造性を自覚的に捉えた美術を「メランコリスム」と捉え、巨匠の模倣としての美術を「マニエリスム」と区別している。日本でもこの区別ができると考えられ、たとえば「メランコリスム」と関連する表現として、平安時代後期の芸術、『源氏物語』やその絵巻が存在しているように思われる。宮廷芸術の洗練度の高さとともに、それ自身「もののあはれ」に象徴される憂愁と苦悩の雰囲気があるのである。これを定朝の平安様式の洗練された「様式」化の芸術と区別出来るであろう。しかし当面混乱を避ける意味で、この両方を含んだものとして、九世紀から十一世紀いっぱいにかけての日本美術を「マニエリスム」美術として捉えたいと思う。この「様式」の認知によって、これまでの奈良時代と鎌倉時代の奇妙な断絶を埋め、七世紀から十三世紀にかけて連続して「アルカイスム」「クラシシスム」「マニエリスム」「バロック」という「様式」展開を、日本美術でも一貫して捉えることが出来るのである。
 たとえばリーグルは「アルカイスム」と「クラシシスム」には「触覚値」があると述べ、物質的個体性において閉じられたもので、孤立したものであり、「バロック」では「視覚的」と述べ、物体をその周囲との関係で捉えるのであるが、これは飛鳥、天平時代の彫刻と鎌倉時代の変化をよく捉えているようである。
 リーグルはエジプト彫刻からローマ末期への「様式」発展を「触覚的」把握から「視覚的」把握へと向かう発展として捉えている。だが西洋美術が展開する「様式」が、すべて日本の美術にあてはまるわけではない。たとえば線的、奥行的といっても、「遠近法」の無かった日本では、俯瞰的な視点からの奥行きなのであり、また明暗法が余り発達しなかった日本では、線的描写が続くので、対象の静的描写か動的描写かによって区別されるのである。しかし表現形態の変化は驚くほど似ており、これを以後順を追って述べてみよう。」田中英道『日本美術全史 世界から見た名作の系譜』講談社学術文庫、2012年、pp.32-38.

 西洋で開発された概念や分析道具を、そのまま日本にもってきて日本の現象を説明するということは、自然科学ならともかく社会科学や歴史学では、そんなにうまくいかない、ということはやってみればわかる。対象となる社会や歴史がとくに近代以前では、大きく異なるからだ。しかし、この本で田中氏がやっていることは、なかなか興味深く、ある意味では成功しているのではないか、と思う。でも、もう少し具体例で説明を聞いてみよう。


B.うそをつく人は政治家であるべきではない
 いま選挙運動が始まった東京都知事選挙。これまで現職が立候補した場合、負けたことがないという。小池百合子氏は、現職で立候補しているので、当然有力視されている。だが、前回までの選挙で勝利したのは、自民党に距離を置き都民ファーストという立場で有権者の支持を集めたことがある。ところが今回は、自民党あるいは自公政権の全面支持、推薦ではなく表向きは無所属だとしても、実質的に自民党と手を組んだ選挙をしている。そして、以前も問題になった学歴詐称が再び噴出して、必ずしも当選確実とは言えない。「カイロ大学主席卒業」はどうも嘘だったということは明白だが、それだけならば若気の過ちでたいしたことではない、と見る人はいるだろう。しかし、これまでの小池氏の言動、その政治姿勢を考えると、うその背後に政治家としての問題点が浮かび上がるのではないか。

「時代を読む  拝啓・小池百合子様  法政大学名誉教授・前総長 田中 優子
 あなたは12日に出馬表明をなさいました。その時、私の脳裏に真っ先に浮かんだのは、新井白石の『折たく芝の記』にある蛇のエピソードでした。ある人が小さい蛇にかみつかれそうになり、小刀でその蛇を切りました。小さな傷でした。しかしその蛇はたちまり大きくなり、その傷も巨大化して蛇は死んでしまったのです。白石はその話をして、大富豪からの出資を断りました。今その金をもらったら、大成した時に大きな傷になる、と。
 若い時の傷が今、大きな傷になって衆目にさらされています。あなたの小さな傷は、すでに1976年10月の複数の新聞に、輝かしい事実として報道されています。政治家になれば、記者の背後には多くの有権者がいます。
◇ ◆ ◇ 
 「政治家のうそ」を、有権者はどう考えるべきなのでしょうか?英国にいた時、ある議員の、妻以外の女性との付き合いが問題になりました。私は友人に聞きました。「政治家として有能なのになぜこのことで政界から追い払うの?」。英国人の友人は言いました。「うそをついたからよ」と事の正否ではなく、うそをつく人は政治家としてふさわしくないのです。民主主義は、情報の開示と真摯な議論があってこそ、機能するからです。あなたを支援している自民党議員たちも同様に、虚偽記載や数々の隠蔽が発覚した後、いまだにそれを自浄することができていません。そのことに、多くの人が失望し怒りを感じています。
 7日の記者会見で関東大震災への追悼文のことを問われ、あなたは東京大空襲の話に入れ替えて答えました。私はそこに、ごまかしを見てしまいました。数はともあれ、朝鮮人虐殺があったことは周知の事実です。追悼文の発信は「二度と同じことを繰り返さないようにしましょう」という、東京都民への真摯な呼びかけです。都知事としての、多様性を受け入れる姿勢の表明です。それを中止するのならば、当然あらゆる資料を精査し、ご自身のお考えをもったはずです。問われたらそのお考えを堂々と述べるべきです。なぜそうなさらないのですか?
◇ ◆ ◇
 明治神宮外苑の民間事業者による再開発事業で、日本イコモスはこの2年半で15回以上の意見書、提言、要請、調査資料、代替案、警告を東京都に出しました。都が認可した神宮外苑のまちづくり計画が、樹木伐採をともなう超高層ビル建設計画であることが明らかになったからでした。全てお読みになっているなら坂本龍一さんに、「神宮にも手紙をお出しになったら?」とは言えないはずです。イコモスの提言や勧告は神宮や国にもなされています。その全てを承知の上で、坂本さんはあなた宛てに手紙を書いたのです。鍵を握るのは、都市全体の未来像に照らして認否を決めることのできる都知事だからです。東京はロンドン、パリ、ニューヨーク等と比較して、その1人当たりの緑地保有率がきわめて低く、公園面積が狭いことはご存知ですね。Sらに狭くして高層ビルを建て続けることに、いったいどのような未来があるのでしょうか。
 あなたは記者会見で東京都が「もっと良くなる」とおっしゃいましたが、それはプロジェクションマッピングやさまざまな開発を続けることですか?今こそ有権者に向けて、ぜひ十分に説明してください。」東京新聞2024年6月23日朝刊、5面社説・意見欄。
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世界から見た日本と東洋の美 1 東大の学費値上げ?

2024-06-24 00:52:07 | 日記
A.日本美術史という視点
 中学・高校時代、授業には週1回か2回、「美術」の時間があって、教科書あるいは副読本があったことをなんとなく覚えている。高校の「美術」は選択科目で、1年で美術をとると、2年では音楽か書道という具合だったと思う。その「美術」の半分はスケッチブックに鉛筆や水彩で絵を描く実技で、あと半分は教科書か副読本を素材に、美術史の話だった、ような気がする。その美術史も、おもに西洋のギリシャ・ローマから始まって、ルネサンス、バロック、ロマン派ときて、19世紀印象派からぐっと詳しくなって、20世紀のピカソ、マチス、モジリアニからシャガールあたりまで、作品が並んでいた。要するに西洋の美術史が中心で、日本人が出てくるのは西洋の油絵を学んだ明治以後の青木繁、黒田清輝それに藤田嗣治くらいだった。
 もちろん鎌倉時代の運慶・快慶や、江戸時代の浮世絵師、北斎、歌麿、広重という名前くらいは出たかもしれない。でも、ぼくが自分で画集を探して見るまでは、日本の美術にどんなものがあるのか、「美術」の時間では教わらなかった。むしろそれが出てくるのは、日本史の授業の中で、各時代の歴史記述の最後に、おまけのように文化史が出てきて、平安時代なら『源氏物語』や『枕草子』、鎌倉時代なら運慶・快慶の彫刻や源頼朝の肖像画あたりは画像が載っていた。
 その後、西洋近代アートについては、興味をもって有名画家の展覧会などに足を運び、本も読んで、ぼくはそれなりに美術史に関する知識は得てきたのだが、考えてみると日本の江戸期以前の絵画や彫刻、そしてさらに中国・朝鮮半島の美術作品について、ほとんど知らない。それで、以前買って積んであった田中英道『日本美術全史』(講談社学術文庫)を引っ張り出して、頭のところを読んだら、結構刺戟的なことが書いてある。つまりこの田中英道という人は、イタリアやフランスの西洋美術史を専門とする人で、ダ・ヴィンチやミケランジェロの研究で本を書いている人なのだ。その西洋美術史が、日本の美術史を古代から現代まで見渡して本を書くにあたり、通常の日本美術史ではやらないような方法をとっている。田中氏に言わせれば、日本の美術史は歴史記述の資料やローカルな地域史に付随するだけで、独自の「様式」という概念に欠けている、という。どういうことか。まず「文庫版はしがき」から読んでみる。

「興味深いことに世界では、美術作品が豊かな国と、そうでない国がはっきりしている。西洋ではイタリア、フランス、フランドル(現ベルギー、オランダ等)などが大変豊かで、観光の目玉となっている。これらの国々は主としてカトリックの国で、人間性に富んだ美術作品が多い。つまり個々の内面を重視する「個人宗教」として、キリスト教を理解しているのである。一方、イスラム教や東方教会の諸国では美術作品は豊かとは言えない。「偶像崇拝禁止」であったり、イコンとして形式が先立っているからである。そしていずれも宗教が、「共同宗教」の形をとっており、個々人の内面表現にまで至っていないのである。
 日本の宗教といえば、神道と仏教が併存しており、神仏習合と言われるが、実をいえば、神道の方には像名不明の神像を除くと美術作品はほとんどないと言ってよい。日本字名はあまり意識していないが、神道は「偶像崇拝禁止」の「共同宗教」だからである。ところが仏教の方は、仏像を中心に、美術作品は非常に豊富である。とくにアジアの仏教国と違うのは、釈迦像だけでなく、菩薩像、明王像、天部像など、仏になっていない修行の段階の像が多く作られていることである。釈迦像のようなすでに人間を超越した像だけでなく、喜怒哀楽をもった人間の姿で表現されている。これは「個人宗教」であるからで、「近代」個人主義とも重なりあっている。しかしそれが神道的な在自然観や御霊信仰によって裏打ちされ、インドや中国と異なる、「神・仏」の、「共同宗教」と「個人宗教」とが重なった表現となっている。ここが日本の仏教美術のみならず美術全体の人間表現の深さとなっていると思われる。
 この『日本美術全史』の初版が講談社から発刊されたのは、1995年のことで、すでに十七年以上経っている。そのときの書評類を見ると、美術史学会の方からは、冷淡な反応を受け、それ以外の美術愛好者からは、好意的な反応を受けた、と言ってよいようである。ある新聞社の一般の文化賞の選考で最後まで残り、電話の前で通知を待っているようにと言われたが、それは来なかった。その最終選考の際に、日本美術史家がいて反対した、という話を確かな情報として、後で聞いた。それほど、この本に書かれていることは、日本美術史家の普通の見方と違うらしいのである。
 私は優れた創造には、必ず優れた個人作家がいる、という当然のことを追求し、この本で、それを「古代」「中世」にまで徹底させようとした。優品には必ず「個人様式」が顕著であるからだ。興福寺の『阿修羅像』には、将軍万福が、東大寺の『日光、月光菩薩』には国中連公麻呂がいるということを指摘したのもそれ故である。これまでの日本美術史は、「古代」「中世」は、ほとんど共同制作で個人の作家などいない、としていたのである。
 また作品の造形には、かならず「時代様式」があり、その展開がある。こうして「様式」に注目することになって、いい作品が個人、時代によってみな違い、それを区別していかなければならない、と主張した。それが「アルカイスム」「クラシシスム」「マニエリスム」「バロック」時代などと分けた理由である。これまでの日本美術史は、ただ政権交代による時代別に書かれて来た。それは美術を解しない書き方である。
 こうしてこの新しい日本美術史からは、個人主義は「近代」にしかない、とする「近代史観」は疑われるし、また各時代それぞれ確固とした様式がある、という認識は、過去は遅れた時代であり、人々は劣っていたとする「進歩史観」も疑うことになる。また「階級闘争」の歴史では落ち着いた文化は生まれないことも自明である。「古代」「中世」「近世」といった「近代史観」の時代区分はとれないのだ。つまり歴史は進歩するという歴史観では、かつての文化の方がより高度だった、という認識は生まれない。最高の和歌は『万葉集』にある、という評価が出来ないのである。さらに、日本の美術史が、中国や西洋と独立して様式展開をしている、ということは、決して他の国の模倣でも、追従でもなかったことが、明らかとなる。
 この本が、こうして文庫版になり、またすでに英訳がなされ、イタリア語版、フランス語版も出ることになっているのも、日本美術史が、世界の美術史に肩を並べる内容を持っているからと思われる。私はイタリアやフランス、そして中国のすぐれた美術作品は、文化を愛する人間として、必ず見ておかねばならない、と考えているが、そこに日本美術が加わるべきだと確信している。しかしこれまで、本書のような「様式史」を中心とした美術史が書かれなかったために、日本美術が宗教や習俗に従属しており、「美」の普遍性を持っていないと思われたのである。それらの国々のような美術目的で、観光客が来ない理由の一端はそれである。しかし実際は、世界の中でも、日本美術の水準は大変、高いのだ。とくにこの本でも、そうした作品には◎をつけている。」田中英道『日本美術全史 世界から見た名作の系譜』講談社学術文庫、2012年、pp.3-6.

 続いて、「はじめに」では、よりはっきりと日本の美術史に「様式」をもちこむ意義について、逆に西洋の美術史家たちが、日本や東洋の美術に、ほとんど無知または無関心だということを、日本側の問題でもあると指摘する。

日本美術無視の世界美術史
 「西洋の美術史家たちが書く「世界の美術史」の書物の類を見ていつも気づくのは、日本や東洋の美術の部分の記述の弱さである。これは西洋美術の専門家が書くからであろうが、西洋ではそれだけの日本や東洋美術史についての知識や、価値に対する認識が欠如しているからであろう。
 例えば『美術の歴史—原始時代から現在まで』(1961年、邦訳1964年)と題された名著の誉れの高いH・W・ジャンソン教授の書物があるが、ここでは日本美術は最後の「あとがき」の「東洋と西洋の出合い」でわずかに扱われているに過ぎない。范寛の『渓山行旅図』とか、『鑑真和上像』などには触れているが、極東の美術が「進歩の遅れた」ものであったのではなく「洗練されすぎている」と言っているのみである。《それらの様式は幾世紀にも及ぶ絶えざる発展の結果であり、特殊な感情とは適合しても、西洋の伝統とは相容れぬ性質のものだったのだ。このことは極東の芸術に関しては殊に真実である》と語り、避けているようなのだ。
 この「特殊な感情とは適合しても」という言葉は問題である。それは普遍的でない、ということを西洋の伝統に照らして述べているからである。もし東洋美術が、西洋的でない、という理由で記述されないとすれば、この書物は「西洋美術の歴史」と題されるべきで、「美術の歴史」と言われるべきではないはずである。
 こうした例はこの書物だけではない。F・ハートの『美術――絵画・彫刻・建築の歴史』(1976年、邦訳1982年)は一切東洋、日本美術はあつかっていないし、現存する最高の美術史家と言われるE・H・ゴンブリッチの『美術史』(1967年、邦訳『美術の歩み』1972年)にはわずかに「二世紀から十三世紀まで」の「東方の国々」の中で中国美術が述べられているにすぎない。そしてその瞑想的な態度を評価しながらも《私たちヨーロッパ人にとってその心情を把握することは容易ではない》と語る。
 さらにこれらの本よりも前に書かれたフランス人学者ジェルマン・バザンの『美術史』(1953年、邦訳「世界美術史」1958年)では第11章に「東アジアの文明」という項目があり、そこでインド文化圏と中国文化圏があつかわれ、中国美術の伝播という項で日本も述べられているに過ぎない。メアリー・ホリングスワース『世界美術史』(1989年、邦訳1994年)でも、中国美術はあつかわれていても日本美術は、きれいさっぱり無視されている。
 わたしはこうした記述に日本字であるから不満を述べているのではない。これまで私のささやかではあるが西洋美術研究の結果として、この無視に近い態度が決して正当ではない、と考えるからこそ指摘するのである。これら西洋美術史家たちがこの無視について何らかの弁解めいたことを述べているのでもわかるように、東洋美術、日本美術について語りたいが、どのように述べてよいかわからず、その結果特殊な感情に適合するとか、理解がむずかしい、と避けてしまっているのである。わたしはこうした態度を彼らの不勉強のなせるわざだとか、西洋中心主義的態度といってせめるつもりは毛頭ない。この分野ではないが、西洋学者の東洋研究についてパレスチナ人のサイード氏が『オリエンタリズム』(1978年、邦訳1986年)で言うように、これが植民地主義による結果だという気はない。それはことを政治的不毛に陥らせるだけだかあらである。
 逆に私はその原因が、東洋の学者自身が「普遍性」を東洋の美術作品に明確に見出ださなかったことにあるのではないか、と思うようになった。矢代幸雄氏は『日本美術の再検討』の中で、次のような西洋美術史家ケネス・クラークの言葉を引いている。

 自分は東洋美術が好きであって、とくにそれを勉強したことはないが、子供のときから親しんでいる。ところがこの展覧会(1935∸36年ロンドンで開かれた中国美術の展覧会)で催される講演を聞いたり、あるいは東洋美術のオーソリティの学者が新聞雑誌に書いているものを見ると、むずかしいことを説明してくれているけれども、物そのものに対する批評はどうも私の感覚にぴったり来ない場合が多い。彼等がいかにこれが名品であると解説してくれても、私にはぴったり来ない場合が多い。

 私は昨今欧州で開かれる日本・東洋美術の展覧会も必ずしもこうした言葉と異なった状況にある、とは思わない。矢代氏は《即ち東洋美術というものは世界的に考えて、未だ芸術批評の対象となっていないで、主として単に東洋学の資料という見地から見られているに過ぎないのである》と述べているが、彼が書いた1958年と現在とはさほど異なってはいないように考えられる。なるほど1970年代に「ジャポニスム」が再評価され、フランス「印象派」たちに対する日本の浮世絵の影響はある意味で決定的な事実となっていたし、「日本ブーム」はその経済的、工業的伸長にともなって各地に起こっている。しかし1986年パリで開かれた「前衛芸術の日本」展で、日本国内の「前衛」画家への評価とは全く違った批判と失望が表明された。どうやらまだ日本文化、とくに日本美術に対しその「普遍的価値」が見出せないでおり、「特殊の感情」をより理解するにとどまっているように思われる。
むろん日本文化の紹介は活発になされている。しかしそこには「普遍性」に対する留意が足りないようなのだ。日本人が、西洋人に対して単に自らの「美意識」を押しつけ、むこうの無理解を嘆く、という態度があるといってよい。もしそこに東洋学者の単なる民俗学、宗教学的な解説を要しない、一般人にも理解できる「芸術作品」として「普遍的」なものを提出されたのなら、「芸術批評」の対象として「日本美術」が「世界美術史」の中で多くのページを、「西洋美術」と対等にさかれることになるはずである。
そのことで日本美術が「西洋人」の基準で判断される危険がある、と思わない方がよい。私たちが「西洋美術」に感嘆し、惹きつけられることがあるならば、同様なことは、やはり彼らにも存在しうることであるからだ。もしその共通性を信じられなければ、芸術に人々が惹かれるはずがない。美術研究など国際的には何の役にも立たないし、単なる郷土画家の資料研究と等しいことになってしまうのである。「西洋美術史」においてイタリア美術をイギリス人が、フランス美術をドイツ人が評価するように、お互いの政治的な民族意識を超えて、「普遍性」を育ててきた過程があるのである。それを日本美術に対しても開始させねばならない。そのためには日本美術の作品はもっと「普遍的価値」に立脚したきびしい選択によってすぐれた作品だけの歴史が書かれねばならないのである。」田中英道『日本美術全史 世界から見た名作の系譜』講談社学術文庫、2012年、pp.19-23.

 日本文化論・比較文化論を語るとき、しばしば問題化される「日本特殊論」と「西洋中心至上主義」は、つねに不毛な形で終わる。田中氏のこの本は、そこで「様式」という西洋美術史で彫琢されてきた方法を、日本に適用できるか、という実験をやっていることになる。


B.国立大学費値上げ
 国立大学の学費(授業料)はいま、58万5800円だそうである。ぼくらの大学生時代は、国立大の学費は10万円もしてなくて、私立よりぐっと安かった記憶がある。それが58万とは、物価上昇を考えてもずいぶん上がった印象だ。それでも全然足りないのであるという。それで、国際競争に勝つためにも東大が学費値上げを検討中だそうで、他の国立大学ではすでに値上げを実施している大学もあるという。これも昔の話になってしまうが、1970年前後の大学紛争は、私立大では学費の値上げを言い出した大学当局への抗議も多かったと思う。その時代とはまったく違うのだろうが、この学費値上げをめぐって学生と総長との対話集会が、オンラインで開かれたというニュースがあった。

「東大 値上げ検討巡り集会 総長「交付金増えず」 学生「蚊帳の外だ」
 東京大学が2割(約11万円)の授業料値上げを検討するなか、21日夜、東大の学生と藤井輝夫総長が意見を交わす集会「総長対話」がオンラインで開かれた。本郷キャンパス(東京都文京区)では、反対する学生らによる集会や、総長対話のパブリックビューイング(PV)が開かれた。
 藤井総長は冒頭、教育環境の整備や教職員の人件費に使われる国からの運営交付金が増えない中、断念せざるを得なかった教育活動も複数あったと説明。寄付金集めや支出削減に限界がある一方、授業料の値上げで約29億円の安定的な財源が確保できるとして「教育環境の改善は待ったなしで、一刻も早く改善したい」と強調した。
 また、値上げにあわせて経済的に困窮する学生への支援も拡充するとし、授業料免除の基準を世帯年収400万円以下」から「同600万円以下」にすると説明した。
 学生からは「多子世帯の学生や、親との関係が悪くて授業料を出してもらえない学生など、世帯年収だけでははかれない事情もある」などと反対の声が上がった。値上げの検討について、報道されるまで大学から学生への説明がなかったとして「学生は完全に蚊帳の外」との批判も。もう一度総長対話の機会を設けてほしいとの声もあったが、藤井総長は「約束はできない」と述べた。
 国立大の授業料は、文部科学省令でさだめる年53万5800円の「標準額」から20%まで値上げできる。文科省によると、2019年度以降、東京工業大、東京芸術大など6校が学部の授業料を値上げしている。
 国立大の財務状況は近年、光熱費や物価高騰の影響で危機的だと指摘されてきた。全国86の国立大でつくる国立大学協会は7日に会見を開き、「もう限界です」との声明を発表。教職員の人件費や研究費に使われる国からの運営交付金の増額を訴えた。(狩野浩平)」朝日新聞2024年6月22日夕刊8面。

 オックスフォードとか、ハーバードなど欧米のトップ大学の学費は、東大よりはるかに高い。国立ではないから高くなるのは当然ともいえるが、奨学金の充実も日本の数倍だ。逆にいえば、国が公費で大学をやっているのだから、もっと安くても国費の使い方として国民の合意が得られれば良い、ともいえる。かつての国公立大学の前提は、高等教育は公共のものだから税金で運営すればよい、という考え方があったと思う。それが、大学が法人化され独立採算を求められ、おかしな成果主義と競争主義で汚染されてしまった結果、学費値上げを当然だと言い出している。この自己責任自己負担の新自由主義政策に学生は抗議して当然だ。
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日本史における真の革命家? 10 まとめらしき文章  高齢者の自殺のこと 

2024-06-21 15:13:29 | 日記
A.やや長めのあとがき 
 大澤真幸氏の『日本史のなぞ』を、こうして読んでみると「日本では革命は不可能である」という結論になるのか、それとも「日本でも革命は可能である」ということを言いたいのか、やはり判然とはしない。それは「革命」とは何か、をしっかり決めておかないと話がおかしくなるので、大澤氏は中国の易姓革命、そして西洋のキリストを範例とする革命に遡って「革命」を論じ、さてその「革命」を日本史にもってくるとどうなるかを考察する。そこでこの本では、鎌倉の北条泰時がやったことは、唯一の「革命」だったと主張しているわけだ。でも、天皇制の継続という点では、承久の乱やその後の鎌倉幕府がやったことを見ても、さほど変化はない。朝廷や公家は京都に存続した。それを継続と見るか、大きな変革と見るかで結論は変わってくる。
 天皇制を擁護する日本史家の多くは、北条得宗体制の勝利で武家政権は確立し、朝廷の権力は減衰したものの、天皇を戴く「国のかたち」は継続したと考える。明治以降の日本帝国が、天皇親政による近代的君主国家だと考えるかどうかも問題だが、天皇が存続するかぎり「革命」などは起きていないし、起きることはない、という保守主義の無理がある。これに対して、天皇が存続すれば革命など起きていない、というのではなく、仮に天皇が存続しても革命はありうるのだと、大澤氏は主張したいのだろうか。それとも、1945年の敗戦によりGHQが行った占領改革は、やはり大きな革命に等しく、しかもそれは天皇存続と手を組んで進められたけれども、あそこで「国体」つまり天皇制を廃止する可能性もあった、と考えるのか。いずれにしても、最後の「やや長めのあとがき」を読んでみる。

 「どのような社会にも、(不)可能性の臨界のようなものがある。その先を超えていくことができない、と暗黙のうちに想定されている境界線が、である。この境界線が維持されていることを前提にして、社会内のすべての活動がなされている。
 しかし、ときに、その(不)可能性の臨界の内部では、社会が直面している基本的な困難を克服できなくなることがある。このとき、(不)可能性の臨界の向こう側に出ていき、臨界を設定するような変動を社会に引き起こすこと、これが革命である。つまり、普通の改革なのか、革命なのかを分かつ条件は、引き起こされる変化が、(不)可能性の臨界の内側にとどまるものなのか、それともその臨界を超えていくものなのか、である。
 この臨界との関係で、社会には〈つぼ〉のようなものがある。それは、一見、社会の中の局所的な一点、ごく部分的なイシューであるかのような印象を与える。つまり、それは、ただの改革にかかわる案件に見える。しかし、そこを執拗に、妥協することなく刺激することは、結局、(不)可能性の臨界を動かすことにつながる。これが、社会の〈つぼ〉である。したがって、もし革命なるものがあるとすれば、それは、この〈つぼ〉への攻撃として始まる。
 このように革命を捉えたとき、現代の日本社会に関して言えば、革命は十分に合法性の枠内で可能なはずである。つまり、現代の日本人は、「革命」という語で、非合法的な暴力活動のようなものを想像する必要はない。合法的な活動の積み重ねを通じて、ある種の〈暴力〉――ヴァルター・ベンヤミンが「神的」と形容したような暴力――に相当する効果をもたらすことができるのだ。なぜなら、(不)可能性の臨界は、法が形式的に許容している限界よりもはるかに手前にあるからである。
 (不)可能性の臨界とは何か。まず比喩によって解説しておこう。結婚式における宣誓、何かの会への加入式、裁判で証言するときの宣誓のようなものを考えるとよい。これらは、すべて、いわゆるイニシエーションである。たとえば結婚式で、花婿(花嫁)であるあなたは、死が二人を分かつまで花嫁(花婿)を愛し続けるか、といった趣旨のことを問われる。問われている以上は、あなたには選択の自由がある。「イエス」か「ノー」か。どちらの返答も形式的には可能だ。が、しかし、もしあなたが、ここで(もしかしたら正直に)「ノー」の方を選択したとしたら、どうなるか。あなたが、「それほど長く愛し続けると確約することはできない」と答えたら、どうなるだろうか。結婚式は騒然とし、台無しになるだろう。つまり、あなたには「ノー」と答えることは、事実上、不可能なのだ。もっと厳密には、次のように言うべきである。あなたには、「イエス」と「ノー」のどちらをとる自由もある。ただし、絶対に「ノー」の方をとらない限りで。
 これが、(不)可能性の臨界である。形式的には可能だが、実質的には不可能な選択を前提にして、すべてのことがなされる。結婚式では、あなたが、あの質問に「ノー」とは答えずに「イエス」と答えた、ということを起点にして、すべて進行する。繰り返し強調しておくが、このとき、(実質的に)不可能な(こととされている)ことは、(形式的には)可能だということが重要だ。もしあなたが。物理的な暴力によって脅迫されて「イエス」と言っているのだとしたら、あなたの回答はまったく無意味なものになってしまう。あなたには、「ノー」と答える自由があった、という想定が、決定的な前提である。
 これと同じようなこと、これと類比的にとらえうることが現実の社会にもある。(不)可能性の臨界は、すべての社会にある。たとえば、世界で最も自由だとされている。アメリカが州国ではどうか。そこで起きてきたことを観察してくれば、すぐにわかる。たとえば、完全な銃規制とか、完全な公的保険(ユニヴァーサル。ヘルスケア)は、アメリカにとって(不)可能性の臨界にふれる〈ツボ〉である。
 数々の悲劇的な銃乱射事件があったにもかかわらず、その度に多くの人に求められるにもかかわらず、アメリカ社会は、完全な銃規制をどうしても実現することはできない。一般の個人の銃の所持や使用を厳しく制限することは、アメリカ社会が基本的な前提として保持してきたことを著しく毀損すると、(当のアメリカ人に)感じられてきたからである。
 もちろん、形式的には、民主的な家続きを通じて法や制度を改変することで、銃規制も、公的保険も実現できるはずだ。しかし、事実上は、それができない。完全な銃規制や完全な公的保険は、(不)可能性の臨界を動かさないことには実現できないのだ。言い換えれば、それらを実現することは、アメリカ社会にとっては、すでに一種の革命である。
 では、日本社会はどうか。日本社会はとりわけ分厚い(不)可能性の臨界によって囲われている。日本人の日常語を用いるならば、それは「空気」という形態をとっている。つまり、一億人のスケールの「空気」があって、日本社会に、いくつもの(不)可能性の臨界を設定しているのだ。
 中でも最も重要で、手強い臨界は、日米関係である。1945年の敗戦によって規定された、日米関係の型は、日本人にとって、乗り越えられない前提条件と受けとられてきた。言うまでもなく、この日米関係の型を直接的に表しているのは、日米安全保障条約、つまり日米の(非対称の)軍事同盟だ。
 日米同盟は、しかし、外交や安全保障の領域に限定された主題ではない。それは、日本人の精神に深く浸透し、ときに内政に関わる決定にも影響を与える。つまり、政治的であると同時に精神的な対米従属は、現代の日本人に対して、(不)可能性の臨界を構成する。はっきり言おう。日本の首相の意志よりも、アメリカの政府高官や政治指導者の意向の方が、ときに、内政を含む日本の政治的決定を強く規定する、と。首相が望んでいても、実現できないことはたくさんある。しかし、アメリカの政府高官や国務省の、あるいはペンタゴンの――日本についての――強い意向(と日本人が想定していること)であれば、たいてい実現する。大多数の日本人の意志や願望に反していても、それは、実現するだろう。
 その端的な証拠は、2009年の鳩山民主党政権のときの、普天間基地移設問題である。圧倒的に高い支持率で首相の座に就いた鳩山由紀夫氏は、普天間基地の「最低でも県外移設」を公約としていた。この公約は、沖縄ではもちろんのこと、日本全国で広く賛同を得ていたはずだ。しかし、鳩山首相は、米軍基地を視察したたった一日で、県外移設を断念してしまったのだ。首相は、もちろん、その稚拙な外交について国民から厳しく非難され、これが彼の早期の退陣につながったわけだが、驚くべきことは、一国の首相に対する、アメリカのこれほど露骨な内政干渉に対して、日本人は大した違和感を抱かず、この点を問題にした者はほとんどいなかった、ということである。自国の首相よりも、アメリカに対してもっと怒ってもよい状況だったのに、そうはならなかった(以下を参照。白井聡『永続敗戦論』太田出版)。アメリカの意向――しかもこのケースでは大統領や国務長官が出てきたわけではないのに――に反することができない、ということは、日本人にとって、ほとんど自覚さえされない前提になっていたのだ。
 ここで留意しなくてはならないことは、日米関係という(不)可能性の臨界は、日本人にとってのみ、存在しているということである。アメリカにとっては、安保条約を核にした日米関係は、戦略的な選択肢のひとつであって、状況によって、柔軟に運用したり、改変したり、破棄したりできることである。
 しかし、日本にとっては違う。もちろん、形式的には、主権国家の間の条約なのだから、日本は、それを破棄することだってできる。しかし、事実上は、日米の(非対称的な)同盟から離脱することはできない、離脱するわけにはいかない、ということを不動の前提にして、日本の政治的な意思決定はなされている。
 もちろん、たまには、「日米安保破棄」を唱える政治家や政党もいる。しかし、このような政治家や政党も、ほんとうに安保条約を破棄できるとは思っていないのではないか。言い換えれば、絶対に破棄されないとわかっているからこそ、彼らは、安心して、破棄を主張しているのではないか。そのような疑いを持つ根拠がある。安保条約をほんとうに破棄するつもりならば、対米依存を前提にしてできている制度や法をどうするのかまでも示さなくてはならない。誰もが気づいているように、日米安保条約と日本国憲法(九条)は車の両輪のような関係にある。安保条約についての提案は、少なくとも、憲法についての提案とセットになって、はじめて、本気であるとみなされる。しかし、安保条約破棄を唱えても、そこまでの広がりをもって考え抜いている人は、ほとんどいない(念のために書いておけば、私は、九条を廃棄しても対米従属が解消されるとは思っていない。むしろ逆だと考えている。私の憲法についての考えは、以下を参照されたい。『憲法九条とわれらが日本』筑摩書房)。
 もう一度、あの結婚式の比喩にもどろう。新郎新婦が絶対に「ノー」と答えないということを条件にして、われわれは、彼らには「ノー」と答える権利もあった、と主張する。同じように、日米安保条約が破棄されることはないということを前提にして、これに反対している人がいるのだ。
 いずれにせよ、日米関係は、日本社会を取り囲む(不)可能性の臨界のひとつでしかない。ほかにも、いくつもの臨界がある。
 本書によって私が示唆したかったこと、それは、日本社会は(何であれ)この種の(不)可能性の臨界を超えていくことができる、ということである。このような意味での革命は可能なのだ。私はこのことを、日本史についての「なぞ」を解くことを通じて、例示してきたつもりだ。
 その際、私が重視したことは、歴史的な事実そのものではない。その事実を貫いている論理である。事実を見ている間は、われわれはこう思うだけである。「そういう立派な人もいたんだね(私にはできないけど)」と。しかし、論理を見出したときには違う。論理は、さまざまな状況に応じて具体化し、受肉することができる。本書で抽出した論理は、現在に適合した形で受肉することもできるはずだ。つまり、われわれの困難の源泉になっている(不)可能性の臨界を超え出ていくための方法として、これを具体化することができるはずだ(なお、現代日本社会における、「革命」の可能性の探索という主題については、以下の拙著をも参照されたい。『可能なる革命』太田出版)。
社会学的な主題としては、私は、「革命の比較社会学」という構想を抱いている。本書は、この構想へと向けた最初の一歩でもある。」大澤真幸『日本史のなぞ なぜこの国で一度だけ革命が成功したのか』朝日選書、2016年。pp.187-195.

1945年に天皇制という「国体」は史上最大の危機に瀕した。そしてそれを形式だけ存続させたのはアメリカだった。アメリカのもとで戦後の「革命」は進められたので、それ以後現在まで、アメリカが天皇の位置に座っていることを、日本人は無意識に、あるいは居心地悪いが仕方なく、認めているということになる。


B.高齢者の自殺
 ぼくも十分高齢者になっているので、自殺する高齢者の心境がわかる、とはいえない。同じ時代を生きてきたとはいえ、人の生きる条件や個人としての意識、体力、そして人間関係は一人ひとり、みな違うからだ。自殺という行為も、その中身はみんな違うはずだ。ただ、放置してよいはずはない。

「健康まっぷ 「社会的孤立」がリスク高める 「共食」推進 つながる育む
 家族やご近所、友人など他社との接触がほとんどない「社会的孤立」は、健康をむしばむ要因となる。高齢者では、他者とのつながりの乏しさが自殺のリスクを高めるという研究結果を、斉藤雅茂日本福祉大教授らのチームが発表した。
 チームは2010~11年、愛知県など6道県の12自治体に住む、要介護認定を受けていない高齢者計約4万6千人を対象に「社会とのつながり」を調査。対象者のうち55人がその後、17年までに自殺しており、社会的孤立との関連を分析した。
 すると「心配事や愚痴を聞いたり話したりする相手がいない」「病気で数日間寝込んだとき、看病や世話をしてくれる人がいない」「ボランティアなど社会的活動に参加していない」といった状況が自殺のリスクを高めるとの結果が得られた。
 特に、食事を1人で取る「孤食」の状態にある人は、そうでない人に比べ自殺のリスクが2・8倍も高かった。日本全体で見ると、孤食が1年間に約1800人の高齢者の自殺に関連している可能性があるという。
 4月に始まった政府の健康づくり計画「健康日本21(第3次)」は、誰かと食事を共にする「共食」の推進を掲げる。愛知県豊田市ではボランティアが高齢者宅に昼食を配達し一緒に食べる取り組みが進められている。
 斉藤さんは「今回の結果は、共食など他者とのつながりを育める取り組みが自殺対策にも有効であることを示唆している」と話す。」東京新聞2024年6月19日夕刊2面。

 「孤独死」は今日もどこかで起きているのだろう。ぼくは、少なくとも孤独を感じる境遇にはない。ほとんど一日、家にいて誰とも会わない日は多いけれども、やりたいことはまだたくさんあり、人とのかかわりが消えているわけではないからだ。これは、健康とともにきわめて恵まれているのかもしれない。
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日本史における真の革命家? 9 北条泰時の革命  フィクションの想像力

2024-06-18 11:56:09 | 日記
A.キリストと泰時
 大澤真幸「日本史のなぞ」を読んできたのだが、この人の文章は、やたら句点{、}が多い。「だが、他方で、泰時は、」というように、いちいち区切る。これが妙に気になる。どういう文章を書くか、そのフォームは著者の自由ではあるが、句点のみならず、この人の文章は、石ころの多い坂道をつまづきながら歩く気がして、論旨は別として、心地はよくない。北条泰時が、日本史における唯一の革命を成就させたのはなぜか、という基本テーマを論じるのは、あくまで歴史家の実証主義的視点ではなく、社会変動論の重要ファクターとしての論理構成の問題なのだ。社会学をぼくも学んだから、その意図はよくわかるし、「革命」を可能にする条件を、比較社会学的に検討して、日本史にあてはめることの意欲的挑戦は、とても興味深く読んだ。しかし、読みながら、これは山本七平から、あるいは小室直樹から、使えるところだけ抜き出して、大澤流の空中楼閣を築いているのではないか、と思わないでもなかった。結局、日本の天皇制という装置を、どう捉えるのか。それは社会システム論的にきわめて効果的な機能を果たすものとして評価し、北条泰時はそれをうまく使ったからこそ、日本で唯一の革命に成功したのだ、ということが結論なのか。ならば、晩年の清水幾太郎に近づくのではないか。

「福音書に書かれたキリストの人生が衝撃的なのは、一方では、惨めに死ぬ以上、彼は人間なのだが、他方では、まったき神でもあるからだ。キリストは、半分神で、半分人間なのではない。天皇の場合には、まさに半分だけ神であるような人間である。あるいは、天皇は、紙になりそこなった人間である。しかし、キリストは違う。彼は、百パーセント神であり、百パーセント人間だ。彼が十字架の上で絶命するとき、同時に、彼が、神で(も)あったというアスペクトが、活きていなくてはならない。
 これと類比的な二律背反(アンチノミー)が、泰時の天皇制への態度のうちにも認めることができる。もし泰時が、一般の将軍のように、形式的に天皇に恭順し、天皇から(征夷大将軍等の)地位を受け取るだけであったならば、彼は、天皇の(準)神的な超越性から派生する(二次的な)超越性を受け取り、自らの支配の正統性の根拠として活用していただけだ、ということになる。しかし、彼は、承久の乱において、天皇や皇室を徹底的に否定した。皇室の軍隊と積極的に戦い、勝利の後は、首謀者の上皇たちを厳罰に処し、天皇を退位させたのだから、これだけであれば、天皇の超越性を否定し、自分がそれに取って代わろうとしている、ということになる。中国の王朝の交替において、前王朝の皇帝を打倒し、新皇帝が天子となるときのように、である。
 だが、他方で、泰時は、朝廷を全面的に肯定してもいるのだ。天皇制や皇室を排除することはなく、御成敗式目においても、西国への「内政不干渉」を表明し、律令もそのまま保存した。さらに言えば、鎌倉幕府、つまり得宗政権は、その支配の正統性に関して、究極的には、天皇に連なる要素に依存している。そのことを端的に示しているのが、実際にはまったく政務を担当することがない将軍を、最後まで、摂関家や皇族から招き入れ、まるで宝物のように守り続けたという事実である。
 キリストにおいて、神という位格は、全面的に肯定され、かつ否定されている(別の言い方をすれば、神という位格と人間という位格がともに完全に肯定されている)。同じように、泰時の政治において、天皇は肯定され、かつ否定されている。天皇は、一神教の観点からみれば、真の神ではないので(むしろ偶像なので)、泰時の二律背反が含意する矛盾は、キリストの場合よりはずっと小さい。しかし、形式は同じである。そして、この二律背反、つまり天皇に類する超越性と一介の人間(臣民)であることの従属性とを、泰時が自らのうちに体現してみせる。それこそが、「武蔵守」という資格だ。
 北条泰時が為したことが、どうして革命になりえたのか、泰時の業績や人生をいかに細かく調べていっても、われわれは事実の集積を得るだけで、ここに働いている論理を抽出することはできない。今見出した、泰時とキリストとの、論理の平面での一瞬の邂逅を、いわば奇貨として活用し、ここで、極端に思い切った補助線を引いてみよう。補助線とは、パスカルの賭けである。と言うより、厳密には、パスカルの賭けに対するディドロによる再構成である。
 十七世紀の哲学者ブーレーズ・パスカルは、ジャンセニスムとして知られる異端的なキリスト教思想に属する神学者でもある。パスカルが、人を神への信仰へと誘うために案出した、有名な思考実験的な賭がある。この賭の意義を理解するには、西洋の哲学・神学には、「神の存在証明」の伝統があることを知っておかなくてはならない。中世から近世にかけて、多くの哲学者・神学者たちが、神が存在していることを論理的に証明しようとしてきたのだ。パスカルの立場は、神の存在を証明することは不可能だ、というものだ。それは、神が存在していないということではない。そうではなく、人間には、神が存在しているかいないかを知ることはできない、ということである。おそらく、パスカルは、神の存在の証明を試みること自体を、冒涜的なものと考えていた。しかし、知性に訴えるようなかたちで、神の存在を人に納得させることができないのだとしたら、どうやって、人を信仰に導けばよいのか。そこで、パスカルは、人生を賭に見立てることで、神を信ずべきだ、ということを説く。今日のわれわれが持っている概念の道具箱を用いれば、それは、ゲームの理論における合理的選択のようなものとして記述することができる。
 どのような賭なのか。まず、人間には二つの選択肢がある。もちろん「(神を)信仰する/信仰しない」のいずれかだ。それに対して、現実は、神は存在しているかいないかのいずれかである。しかし、神の存在/不在については不可知である。したがって、人間は、信仰か不信仰かのどちらかに賭けなくてはならない。どちらに賭けるべきなのか。このようにパスカルは問う。
 神が存在していると仮定してみよう。このとき、もちろん、「信仰」の方を取った者は、賭に勝利する。彼には、天国で高い報酬が待っているだろう。しかし、「不信仰」を取った者は、目も当てられない悲惨なことになる。彼には地獄での永遠の苦しみが待っている。重要なのは、神が存在していない場合である。このときには、「不信仰」を取った者が賭に勝利し、「信仰」を取った者が損をするように見えるかもしれない。だが、よく考えてみよ。確かに、神が存在しないとしたら、信仰を持たずに生きたとしても、死後に地獄に行くことはあるまい。では、神が存在しない場合に、それでも信仰を持って生きた者は、何かを失うだろうか。神がいないのだから、信仰していたとしても、何か報われるということはないが、しかし、だからといって、損をするわけでもあるまい。つまり、神が存在しない場合には、信仰をもつ者にももたない者にも同じ結果が――死後に何もないという結果が――待っているのである。
 以上の計算から、人間としては、信仰と不信仰のどちらを選択すべきか、明らかであろう、とパスカルは言う。人間は、神を信仰すべきである。そうすれば、神が存在していても、そして、神が存在していなくても困らない。だが、不信仰に賭けた場合には、神が存在していたとき、とてつもなく不幸なことになるだろう。したがって、人間は信仰に賭けるべきだ。これがパスカルの賭である。
 この論法には、多くの反論が提起されてきた。しかし、たいていの反論は本質的ではない。ここで注目したいのは、パスカルの一世紀後に、啓蒙思想家(百科全書派)のドゥニ・ディドロによってなされた、この賭の再構成である。ディドロは、「唯物論者の信仰」というタイトルで、この賭を再考する。結論的には、ディドロは、パスカルの選択を支持する。つまり、人は「信仰」の方に賭けるべきだ、と。だが、その理由が重要だ。ディドロのあげる理由は、パスカルとは正反対なのだ。
 パスカルが述べていることは、要するに、「信仰」の方を選択する方が得だ、ということである。だから、たとえ神が存在していないとしても、神が存在していると仮定して行動せよ、とパスカルは説く。しかし、これは、報酬を目的とした信仰である。神が存在しているとすれば、信仰に合致した行動は、正の報酬によって報いられることになるということを前提にしている。神が存在しているかもしれないのだから、信仰しておいた方が得だよ、というわけである。しかし、報酬を目的とした信仰は、ほんとうの信仰であろうか。神が与える報酬を目的としているのだとすれば、それは、神を信仰していることにはなるまい。たとえば、あなたが一億円をくれるからあなたについていく、という人は、あなたを敬愛しているわけではなく、一億円に魅力を感じているのだ。状況は、これと同じである。
 そうだとすると、純粋な信仰とは何か。死後に報いてくれる者がいないにもかかわらず(天国や一億円によって報いてくれる者がいないにもかかわらず)、信仰を維持しているのならば、それこそ、真の信仰だということになる。つまり、何の報いもない(かもしれない)ということを十分に自覚した上で、信仰していれば――信仰している場合と同じように行動することができれば――、それは、純粋な信仰である。とすれば、ここには、極端な逆説がある。死後に報いる者とは、もちろん神である。神が存在しない(かもしれない)からこそ、神を信仰する、という逆説である。ディドロが示唆しているのは、このような論理である。パスカルのオリジナルなケースでは、神の存在(の可能性)が、信仰の根拠になっている。しかし、ディドロの再構成では、逆に、神の不在(の可能性)こそが、信仰の根拠になっているのである。
 私の考えでは、イエス・キリストという事象のポテンシャルを最高度に引き出せば、まさに、ここに要約したディドロ的な信仰になる。キリストの磔刑死によって、まったき神はまったき人間に還元され、神は不在となる。まさにそのことを条件とする信仰こそが、キリスト教の論理の徹底した結論である。さらに言えば、イエス・キリストというモデルが、後に、いくつもの革命を産み出す母体となりえたのも、キリスト教にこのようなポテンシャルがあったからではないか。
 パスカルからディドロへと受け継がれた信仰の賭が、目下のわれわれの主題とどのように関係しているのか。結論を言えば、泰時が為したことは、日本人が自覚することなく、歴史の偶然によって、ディドロの信仰と同じ形式の態度を天皇に対してとることを意味していたのだ。泰時は、承久の乱を仕掛けてきた、当時の皇室の実力者たちを、つまり「治天の君」であった後鳥羽上皇をはじめとする上皇たちを厳しく罰した。この点から見れば、彼は、天皇や皇室を、当時としては破格の厳しさで否定したことにもなる。にもかかわらず、彼は、皇室や天皇への敬意を維持してもいて、皇室を廃棄もしなかった。ディドロの信仰は、不在の神への信仰である。これと同じように、泰時は(内面的な意識においてではなく)行動を通じて、言わば、不在の天皇(上皇)への忠義を表現した。
 泰時が明恵上人から引き継いだこと、つまり自生的秩序の徹底肯定は、この点に関係している。自生的秩序の生成をそのまま肯定するということは、その秩序を制御する外的な審級(超越神のようなもの)の存在を否定することである。そのような存在を否認しても、なお神が存在しているのと同じような秩序が存在しうることへの信頼が、自生的秩序をを徹底的に肯定し、その潜在的可能性を引き出そうとする態度をもたらすことになる。
 承久の乱から始まる泰時の一連の行動が、日本の歴史の中で、(今のところ)一回限りの革命でありえたのは、泰時が、ディドロの賭に類比的な態度を、天皇に対してとることができたからである。ディドロが暗示したのは、神なき信仰である。これと対応させるならば、泰時の行動は、天皇なき天皇制を体現している。この革命によって、武者の世への意向が完遂した。確かに、武家政権は、その後も、天皇へのあいまいな依存を断つことはなかった。しかし、東国の田舎を地盤とする、戦う集団がせいぜい天皇や公家に雇われる官僚や警備員になることが最高の出世であるという状況を超えて、自律的な政府をもつことができたのは、泰時によって完成された革命のおかげであろう。このおかげで、武者たちの規範が、日本の伝統の行動原理の中に加わることにもなったのである。
 ここで、革命の可能条件についてのわれわれの探求は、大きな逆説に到達していることになる。第Ⅱ章の末尾で、われわれは、革命の一般範式なるものを提起した。革命が可能であるためには、システムに外在する〈例外的な一者〉が必要だ、と。目下の文脈で対応をみれば、〈例外的な一者〉を否定的にのみ活用する革命というものがありうる、ということである。つまり、それを「抹消する」(神なき信仰、天皇なき天皇制)という方法を通じて成し遂げられる革命があるのだ。泰時が行なったことが、それである。
 〈例外的な一者〉を肯定的に活用するような革命は、日本では起きなかった。天皇は、社会システムとの関係で、真の〈超越性・例外性〉をもっていなかったからだ。しかし、それを否定的に活用するのであれば、日本でも、革命が起こりうる。このことを示したのが、北条泰時であった。」大澤真幸『日本史のなぞ なぜこの国で一度だけ革命が成功したのか』朝日選書、2016年。pp.165-174.

 ある意味で、明治維新で西欧型近代化を試みた日本が、革命を避けながらユダヤ=キリスト教を模倣した西洋絶対主義王権に似て非なる天皇、という神を据えたことが、そのまま力による帝国主義の追求とその先の破滅を呼び込む結末を迎えた、といえる。それは北条泰時型の革命とは、まったく別の悪しき実例になったというなら、かなり当たっているとは思う。


B.歴史のシミュレーション
 1945年、日本が大戦に負けて、ドイツや朝鮮半島やヴェトナムのように二つの国家に分断されていたら、という仮説を、架空物語にするという小説はいくつかあって、冷戦時代の現実はすでに、社会主義国家の消滅という形で結論が出ているので、一種のパロディでしかない。だが、日本が経済大国になって表向き繁栄を謳歌しているかに見えた時代には、それは喜劇として成立した。しかし、いまや分断国家日本の再統一という空想は、重苦しい悲劇でしかない。

「大波小波『ひとつの祖国』の陰鬱 
 貫井徳郎『ひとつの祖国』(朝日新聞出版)の舞台は、ドイツと同様、第2次世界大戦で東西に分割されたのち再統一された日本。共産主義国だった旧東日本は経済が低迷し、西日本との間で格差が生まれている。
 だが、相対的には繫栄している西日本も、内部では格差の拡大が進行。総体としての日本も、国際的には凋落が明らかで、あちこちで格差と分断が広がる。そんななか、東日本独立を叫ぶ組織が登場し、テロ事件が発生する。
 矢作俊彦の『あ・じゃ・ぱん!』(角川文庫)と似た設定だが、田中角栄がパルチザンとして活躍するなど矢作の小説がシニカルな笑いに満ちていたのに対して、貫井の小説のトーンはおおむね陰鬱だ。この違いは何によるのか。
 『あ・じゃ・ぱん!』が自動車雑誌「NAVI」に連載されたのは1990年代初めだった。
 加筆・再構成されて新潮社から出たのが97年。すでにバブルは崩壊していたが、まさかここまで日本経済が低迷するとはだれも予想していなかった。貫井が陰鬱になるのもよくわかる。
しかし、貫井の小説は、共産主義にも資本主義にも希望を抱けない時代に、ひとつの可能性を示唆するところで終わる。物語のその向こうに注目したい。(首)」東京新聞2024年6月17日夕刊、5面。

 どうしてこんなことになってしまったのか。と人々は徐々に気づき始めているのかもしれない。日本経済が凋落を始めたころ、アベノミクスが華々しく登場し、これで日本も立ち直ると期待した者も多かった。しかし、いまやそれがなんであったかは結論が出た。大失敗を重ねた結果、この国は泥沼の衰弱から抜け出せなくなっている。とりあえず、自民党という既得権にしがみつく腐敗した政治家たちを一掃しなければ未来はない。
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