A.チャンバラ時代劇の作為性
むかし、ぼくが小学生の子どもの頃、つまり1960年前後は、日本映画の全盛期で日本中どこの町にも映画館があって、毎週のようにいろんな新作映画が上映されていた。テレビ放送は始まっていたが、まだどこの家にもテレビがある時代ではなかったし、テレビの白黒のドラマは映画に比べて質量ともにお粗末だった。子どもの好きな映画は、なんといってもチャンバラで、単純明快の勧善懲悪。中村錦之助、大川橋蔵、東千代之介、大友柳太郎、それに御大片岡千恵蔵と市川右太衛門といったスターが活躍する痛快時代劇だった。最後は必ず進藤英太郎や山形勲の悪役が斬られて、青空のもと平和な世界が戻る。それらの多くは、侍が支配する江戸時代が舞台だった。
子どもの頃から時代劇を見ていたぼくたち世代までは、江戸時代がどんな社会だったか、もちろん見たこともないのだが、具体的な映像イメージで思い描くことができた。侍は刀を二本腰に差し、「拙者は・・・でござる」と名乗り、町人とは髷の形や言葉遣いも違う。農民は粗末な着物で殿様の前にひれ伏す。悪代官や悪家老は賄賂を差し出す悪徳商人と結託して、弱い庶民をいじめる。そこに主人公が懲らしめの正義の剣を振るってばったばった敵を斬る。そういうのが江戸時代だった、というのはもちろん娯楽時代劇の嘘だ、ということを知らないわけではないが、繰り返し見せられていると幕藩制の身分社会とは具体的にどういうものか、知っているような気になってくる。
「渡辺京二著『逝きし世の面影』(葦書房、1998年)という本がある。幕末から明治初期に日本に来た外国人たちの膨大な日本見聞記を主な史料として、当時の日本の民衆の人情風俗を再現しようと試みた大著である。ここに描き出された江戸時代末期の日本の風俗習慣のなかには、これまで私たちが主に時代劇映画をつうじて知ったつもりでいたこととはいろいろ違っていることが多い。
たとえば参勤交代の大名行列である。時代劇映画ではよく、先頭に先導の下郎たちが立って、「下におろう!」「下におろう!」といいながら、威儀を正した長い行列が街道を行く。道筋に居合わせた百姓町人などの一般民衆はその道の両端に座って平伏して送る。ところがこの本の第七章「自由と身分」には次のような一説がある。
「……オイレンブルク使節団のベルクは悪名高い大名行列への平伏について、たしかに先触れは『下にいろ』と叫ぶが、実際の平伏シーンは一度も見なかったといっている。というのは民衆が行列を避けるからで、彼の見るところでは彼らは『この権力者をさほど気にしていないのが常』であり、『大部分のものは平然と仕事をしていた』。またスミス主教のいうところでは、尾張侯の行列が神奈川宿を通過するのに二時間かかったが、民衆が跪いたのは尾張侯本人とそれ続く四、五台の乗物に対してだけで、それが通り過ぎたあとでは『跪く必要から解除されたものとみなして、立ちあがって残りの行列を見ていた』とのことである」
まあ参勤交代といっても長い時代にわたって行われてきたものだから、いつもこうだったかどうかは分からないし、証言も二人だけでは少なすぎて、大名行列なんて実際はその程度にしか応対されていなかったとはいいきれない。しかしもし本当に映画の通りのようなことをやっていたら、街道筋の人々はめんどくさくてたまらなかったであろうし、適当にそんな風にやっていたものだと考える方が現実味がわいてくる。
大名行列というのは外国人にとっては非常に珍しいものだったし、もし本当に通行人が平伏するものなら、それこそ噂に聞いていた東洋的専制、大名の絶対的な権力と民衆のそれに対する隷属状態の証拠と思われるので彼らはこれに注目した。しかし実際にはそれほどのことではなかったと知り、わざわざ記録を残したわけだが、当時の一般民衆はいちいちそんなことについて記録は残していない。だから映画などでは想像で再現するより仕方がないし、どう想像するのが正しいとも厳密にはいえない。ただ想像には必ずゆがみが生じるはずであるし、その歪みがどういう方向を向きがちであるかということには、こうした資料が視野に入った場合には意識的になるほうがいいであろう。
一般にわれわれは、封建時代の身分関係は非常に厳格なものだったと考えやすい。制度的に見ればたしかにそうである。上位者の命令は絶対で、下位者はそれに服従しなければならないのが封建社会であったはずである。しかし現実には社会はそれでは機能しない。封建社会はそれを、適当に融通を利かせるというかたちで処理していたはずであるが、その融通の利かせ方というのは公式の記録には残らないし、百姓町人などはそこらの機微を日記や随筆に書き残すこともなかったであろう。
以前、歴史の教科書などではよく、百姓は収穫の半分以上も年貢にとられたと書いてあったものであるが、人口の80%ぐらいが農民だったとして、外国に輸出をしていたわけでもないのに、残りの20%の武士や町人がどうして収穫の半分以上もの米を消費できたのか不思議でならなかったものである。実際には名目上の収穫と実際のそれとが違っていたりして融通を利かしていたのだろう。支配者と被支配者の間には名目上のことと実質とは半ば公然の違いがあったのだと思われる。大名行列をめぐる武士と百姓町人の関係もそうで、形式上は平伏することになっていても、実際は適当にやっていたにすぎないと考えるとわかりやすい。
ただ、時代劇映画がだいたいそうであるように、適当になっていたというふうには想像力は働きにくく、厳格に行われていたというふうに演出されやすい。それは文書による記録はそういうものしか残っていない、という理由もさることながら、封建社会がそんなに気楽なものだったはずはないという思い込みがわれわれにあるからではないか。
前時代の否定
明治維新は封建社会を否定するために行われた。身分の固定化を否定して個人の能力をずっと自由に伸ばせるテンションの高い競争社会にするという意味ではそれは成功したが、民主主義には程遠いものであったのでをれは半封建性などと呼ばれ、第二次大戦の敗戦後にはその半封建性の否定ということが新たな目標になった。いずれの場合も原則として封建性は否定すべきものであった。戦後民主主義の政治思想にとってだけでなく、明治の体制にとってさえも封建性を妥当し得たということが勲章であり、誇りであり、己れの正しさの証拠なのであった。そして自分が正しいと信じるためには自分が否定した過去は間違っていたという証明が必要だった。封建社会にはこんな悪い制度や習慣があった、といえばそれは事実と感じられ、しかし実際には融通を利かせて大した弊害はなく、人々はのんびり楽しく適当にやっていたのだ、などといわれても疑わしく思う。そんな心性が明治以後の日本人には積み重ねられてきていたと思われる。
どんな社会にも否定面はあったから、封建社会にも否定面があったに違いないが、日本の江戸時代の封建性は、薩摩藩の琉球侵略と松前藩のアイヌ侵略を別として、対外戦争をせず、稀に見る平和で穏やかで非競争的な社会を作りあげていたという面は忘れられがちであった。
『逝きし世の面影』には幕末から明治初期にかけて日本にやってきた外国人の日本見聞記の要所要所がびっしり詰め込まれるようにして引用されているが、こうして集大成された外国人の印象を集約するといくつかの共通点が浮かびあがる。
まず、当時の日本の民衆が一般に非常に幸福そうに見えた、ということである。生活は簡素であるが食うにこと欠くことはなく、趣味もよく、仕事には誇りを持って楽しそうに働いており、礼儀正しく、ものおじせず、女が地方を旅したりしても危険も少なく、身分社会ではあるが下層のものが上層の人に対して卑屈であることもない。そもそも身分差による生活程度の差があまり大きくない。
これらの指摘はしばしば、本当かいな?という疑いを起こさせる。しかし非常に多くの外国人が異口同音に同じことを書き残しているのである。彼らは自分たちの良く知っている西洋の母国に比べてそう書いている。またわざわざ日本までやってきた彼らのなかにはアジアの他の国々での生活を経験している者も少なからずいて、アジアの他の国々に比較しても当時の日本にはそういうことがとくにはっきりいえると書いている。もし日本が他のアジアの国々に較べてもそういえるとしたら、たぶんそれは国民性というようなあいまいな理由にもとづくものではなく、外国の侵略や支配をまぬがれ、久しく内戦もないという稀な状態のなかで、支配者と被支配者の間に互いに融通をつけあってうまくやるという慣習が成熟したせいではないかと私は思う。
融通のつけ方の核心は、支配者が被支配者の自治をどこまで認めるかということであろう。どの藩でも支配者は大名であり武士であるが、実際には武士は農村にまでは入らず、村の自治にまかせている。一定の年貢を村の長老たちが取りまとめて藩に提出してくれさえすれば、実際には収穫量をごまかしていてもあえて問題にはしない。前に述べた「郡上一揆」は、こうして成り立っていた藩と総百姓=村々の合意を藩側が一方的に廃棄しようとしたことに対する幕府への訴訟として起こったのである。こういう合意は異民族支配の場合は支配階級と被支配階級の間の相互の不信感が強く、思いやりというクッション作用が機能せず、また互いに容易に残酷になりやすいために成り立ち難い関係であるが、徳川三百年の平和はそれを可能にしたのかもしれない。
さて、その自治に関して、やはりこの本には興味深い記述が引用されている。
幕末に二年余り長崎に滞在して1859年に帰国したオランダ人の長崎海軍伝習所教育隊長カッテンディーケの『長崎海軍伝習所の日々』(平凡社東洋文庫、1964年)という本に書かれていることである。
長崎は天領だったから幕府の役人が支配していたわけだが、この武士たちは外国人が乱暴をしてもあまり厳しくは取り締まらず、ことを穏便にすまそうとする様子なので、カッテンディーケのほうから、そういう場合は容赦なく処分してほしいと頼んだほどだという。これはべつに外国人を怖れてのことではなかったようで、一般の領民に対してもそうだったらしい。彼らは「例えば甲と乙との町の住民の間に争いが起こった場合には、往々町中の恐ろしい闘争となり、闘争の後には幾人かの死人が転がっているというような騒動が起きても、決してそれを阻止することがない」のであるという。
その具体的な例として、凧揚げの遊びが原因で始まって何時間も続いた青年たちの大喧嘩が、町の顔役が仲に入って彼らをなだめてやっとおさまったことや、居留地にいた中国人たちが二、三百人も街に流れこんで上を下への大騒動になったのに、警吏たちはなにもせず、彼らがあきて元の居留地にもどるまでほうっておいた、ということが書かれている。このオランダ人にいわせると、いったい日本のサムライはなんのために両刀をたばさんでいるのか、ということになる。
1963年にスイスの遣日使節団長として来日したアンペールという人物も横浜で次のような暴動に近い出来事を目撃して書き残している。遊郭のある妓楼で遊女が別当(おそらくは馬丁)の頭を客にとることを拒否したので、その別当の子分たちが集って三十六時間にわたって妓楼を包囲し、ついにその遊女とその情夫とを心中に追い込んだというのである。このとき警吏たちは、暴徒と化しかけたこの別当たちが妓楼のなかに突入できないように一本しかない橋の板を剝がし、ひとつしかない門を閉ざしたが、それ以上、彼らを解散させるようなことはしなかったそうである。別当たちは竹槍で警吏たちと対峙したが、さすがに戦いにはならず、そのうち警吏が遊女とその情夫に心中をうながしたらしく、二人が井戸に身を投じて死んだと知らされたあと、別当たちは快哉を叫んで解散したという。
これが本当だとすると、武士であるはずの警吏たちは、妓楼を取り囲んで暴力的な威嚇を行っている別当の集団が、本当に暴徒となって妓楼に雪崩れ込んだりしないように手をつくしてはいるが、それ以上、これを違法として強圧したり解散させようとはしていない。それどころか、あわれな遊女とその恋人を自殺に追い込むことで別当たちの顔を立ててやってさえもいたらしい。警吏たちとしてはこれで別当たちの不穏な動きを暴動になる前に穏便に解散させることができたから成功だったのであろう。あわれなのはそれで心中に追い込まれたらしい恋人たちである。彼女たちの生命を守ってやることができなかった警吏たちなど、およそ武士らしい権威も威厳もなく、それでも武士か、といいたくなるが、たぶんそれは時代劇映画の見すぎで武士を理想化してしまっているせいなのであろう。
当時の武士たちにとっては、一機その他の藩や幕府の体制に対する反抗でないかぎり、百姓町人の間の争いごとなどは、それこそ民事不介入で本当は知ったことではなかったのであろう。もちろん幕府や藩の法はあり、役人は人民にそれを守らせなければならなかったはずであるが、実際には百姓町人に大幅な自治を認め、紛争は極力当事者同士の集団抗争を含む喧嘩などによる解決にまかせ、役人にはそれが一般市民を巻き込む暴動のようなものにならないかぎり、遠まきにして見守るにすぎなかったらしいことがこれらのエピソードからうかがわれる。
『逝きし世の面影』ではこれらのエピソードは、封建時代といえども必ずしも武士が絶対的な権力を行使していたわけではなく、人民はしばしば傍若無人なまでに自由に振る舞っていたらしいということの証拠として引用されている。その自由さによって少なくとも幕末頃の日本の民衆は決して卑屈ではなく、のびのびと幸福そうにふるまっていたらしいのであるが、その人民の自治は、同時に、別当の親分のいうことを聞かなかった遊女とその恋人が別当の子分たちの集団的な威嚇で心中に追い込まれるという残酷さも含むものだったようだ。
当時の別当、おそらくは馬丁たちは、それ自体は正業であるが、やはりこの本に引用されているたくさんの外国人の証言によると、仕事以外の生活態度ではほとんどやくざに近い存在でもあったようである。だからこそ集団で遊郭を威嚇するというような乱暴狼藉もやったのであろう。
彼らは勇敢で誇り高く、仕事には有能だが、勤め先の主人との主従関係より同業者集団のなかでの親分子分関係のほうをもっと大事にしていた。また給料を貰うと有り金を使い果たすまで平気で帰ってこなかったりしたという。まさにやくざである。この本では別当だけがそういう存在として強調されているが、じつは当時、日本の職人社会にはかなりの範囲でそういうやくざのようなグループがあったはずである。ただ西洋人が雇い人として直接つきあってもて余したのは別当ぐらいのものだったから多くの証言を残す結果になったのであろう。
1960年代の東映仁侠映画のなかで、マキノ雅弘監督による「日本侠客伝」シリーズと呼ばれる一連の作品がある。主に明治、大正期を扱ったもので、いずれも敵役として登場するのは正真正銘のやくざである博徒や、博徒あがりの実業家たちであるが、これと対抗して斬ったはったの大立ち回りをやる正義派の集団は、あるいは材木運送業(「日本侠客伝」1964年)であり、あるいは港湾荷受業(「日本侠客伝・浪花編」1965年)であり、あるいは火消し(「日本侠客伝・血斗神田祭」1966年)である。火野葦平の小説から何度も映画化されている「日本侠客伝・花と龍」では沖中士である。これらの職業はもちろん正業であるが、かつては組という組織による親分子分の関係の絆が強く、ときに集団で博徒とだって喧嘩をするので、やくざと似た存在とさえも見られた。
マキノ雅弘は自伝の『映画渡世』で母方の祖父が荒虎親分と呼ばれる京都の有力な侠客であったことを誇りをもって書いている。侠客とはいってもこの組は材木輸送というれっきとした正業をやっていたのである。
のちに、私は、東映の『日本侠客伝』シリーズでこの頃(註・マキノ雅弘の青年時代)に自分の眼で見た荒虎親分一家のいなせな生きざまを私なりに描いてみたのだが……、荒虎のおじいさんや多田家の祖父が私に教えてくれたのは、やくざというものはこうやってみんなを食わしていかなきゃいかんのだ、若いもんをこうやって育てていかなきゃいかんのだ、そして、やくざであってもやくざな生活はするな、ということであった」(マキノ雅弘自伝『映画渡世・天の巻』平凡社、1977年)
れっきとした正業を持ち、やくざな生活を親分からいましめられてさえもいる集団が、しかしやっぱりやくざであるというのは奇妙だが、このことは封建時代以来、一般民衆がかなりの程度まで自治を認められていたということと無関係ではないであろう。自治とは村の寄り合いや同業者社会の長老たちの協議によって平和的に行われるものであり得たと同時に、企業間の利害の衝突などは実力で解決するということでもあり、それはしばしばその企業の抱える若いもんの集団の暴力でもあったということであろう。封建社会とは武士階級が武力を独占していて、その実力で民衆を支配し指導していたものということに表面上はなっているが、じつは武士階級はその武力をあまり使いたがらなかったらしいのだ。それは彼らが民主的だったりしたからではなく、たぶん本当に衝突などしたら量的にかなわなかったからであろう。こうして民間には大幅に自治を認め、村のなかのことや職人社会の業界のことなどはそれぞれの自治にまかせた結果、村は村同士で水争いなどになると喧嘩し、職人社会のなかの比較的荒っぽい作業にたずさわる集団は組ごとに喧嘩の実力で対抗する傾向を持つようになったと思われる。なにしろ武士たちは職人の企業間の利害の確執などいちいち調停などしてはくれないし、喧嘩になっても、無関係な一般市民などに被害なおよばないかぎり、おそらくはかなりの程度まで勝手にやらせておいたと思われるのだから。」佐藤忠男『映画の真実 スクリーンは何を映してきたか』中公新書、2001年、pp.39-51.
江戸時代に広く普及していた共同体の秩序、ここで出てくる親分子分の擬制的親子関係や、血縁地縁による家同士の上下関係、同業者集団や組ネットワークなどの社会システムは、明治以降も表の法律とは別に生きのびていたことを、社会学の村落研究や社会構造分析(cf.中野卓『商家同族団の研究』、岩井弘融『病理集団の構造』など)は明らかにしていた。身分の固定した封建社会という先入観は、時代劇を通じて実際の江戸時代とは異なるイメージを作りだし、実際の江戸から明治を生きていた人たちの伝承や記憶を薄れさせた。それがいまや荒唐無稽なファンタジーにまで変形したのが、アニメやマンガのなかの「サムライ」ヒーローになっているのは、もう歴史とも伝統とも無縁な架空の願望だ。

B.ひめゆり学徒隊の幻像
沖縄の日本復帰50年ということで、いくつか沖縄特集がメディアにとりあげられた。そこには祝賀ムードはない。沖縄戦と戦後の米軍統治の深い傷は、いま辺野古をはじめ基地問題の未解決と日米関係に影を落とす。なかで、戦後の日本映画で沖縄戦を最初にとりあげた「ひめゆりの塔」に主演した、香川京子さんのインタビューが新聞に載っていた。
「映画で学徒役 香川京子さん: 1953年公開の映画「ひめゆりの塔」で学徒役を演じ、長年にわたって沖縄戦と向き合い続けてきた俳優の香川京子さん(90)に、元学徒との交流を通じて育んできた平和への思いを聞いた。
映画「ひめゆりの塔」は戦後、多くの人が沖縄戦を知るきっかけになった作品だと思います。私自身、台本を読んでショックを受けました。
私は、疎開先の茨城県で終戦を迎えました。当時、13歳。学校から家まで、車も通らない道を、お友達と歌を歌いながらのんびり歩いて帰っていました。同じ頃、沖縄では自分と都市の違わない女学生たちが、こんな目にあっていたのだと、そのとき初めて知った。この映画は絶対に撮らなくちゃいけない、という使命感が生まれました。
当時、沖縄は米軍統治下で、ロケはできなかった。だから、春から夏の沖縄で起きたことを、冬の東京や千葉で撮影したんです。深夜までかかることもしょっちゅうで、霜の降りた地面に伏せたり、吐く息が白くならないように口に水を含んだり、本当に大変な撮影でした。
でも、どんなに寒くてつらくても、生きるか死ぬかの思いをしていた女学生たちに比べたら……。こんなことで文句を言っていては申し訳ない、という気持ちでした。
映画は大ヒットしました。戦時中、沖縄で起きたことを、本土は知らされていなかったんです。戦後、「平和になってよかった」とみんなが思っていたところに、同じ日本の沖縄で、女学生が何百人と亡くなっていたことを初めて知るわけですから、びっくりしますよね。
初めて沖縄へ行ったのは、26年後の1979年。戦時中、卒業証書を受け取れなかったひめゆり学徒のために、34年ぶりの卒業式が開かれるということで、テレビのリポーターとして参加しました。
「卒業式」では、呼ばれても返事のないお名前、遺影を持って参加される遺族の姿もありました。「こんな卒業式は二度とあってはいけない」と思いました。生き残った方々は「助かってよかった」ではなく「自分だけ助かって申し訳ない」と。そういう気持ちで何十年もいらしたということが、とてもショックでした。
その後も、東京の同窓会の集まりに読んでいただくなど、交流は続きました。
92年にはエッセー本「ひめゆりたちの祈り」(朝日新聞社)を出しました。映画は戦争中、学徒たちが亡くなるところで話が終わっています。でも、それから数十年が経ち、彼女たちがどのように生きてきたのか。それも、みんなに知らせなくては、と思いました。東京や沖縄にいる元学徒の方々に話を聞き、まとめました。
戦後しばらくは「思い出すのも嫌だ」と自分の体験を話さなかった方々も、子や孫が生まれて、「同じ目にあったら困る」と、次第に話をするようになったと聞きました。私も子を持つ親として、その気持ちがわかる気がしました。
最近、日本の政治家から「敵」という言葉を聞きます。敵って、どこでしょう。この本を出したころには、「もうずっと戦争はないだろう」という気持ちでいましたが、思ったよりも早く、そういう言葉が出てくる時代になってしまった。怖いです。
以前、若い方から「なぜ戦争を止められなかったのか」と聞かれたことがあります。でも、戦争って突然始まるんです。そして、なかなか終わらない。ロシアのウクライナ侵攻が、まさにそうですよね。今は昔と違って、日々その様子を知ることができる。戦争がいかに恐ろしいか、平和の大切さを、今こそ考えてほしいと思います。
(聞き手・福井万穂)」朝日新聞2022年6月23日夕刊、11面社会欄。
ぼくの友人、沖縄出身で東京でともに学び、那覇に戻って大学教員をしていた数年前に亡くなった彼が、一番好きな女優はだれか、というぼくの問いに即座に「香川京子!」と答えたことを思い出した。それはもちろん、米国統治時代に見た「ひめゆりの塔」のなかで、光り輝いていた女学生の姿が焼き付いていたからだと思う。