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 映画の真実 3  江戸時代の描き方  ひめゆりの記憶

2022-06-27 14:34:37 | 日記
A.チャンバラ時代劇の作為性
 むかし、ぼくが小学生の子どもの頃、つまり1960年前後は、日本映画の全盛期で日本中どこの町にも映画館があって、毎週のようにいろんな新作映画が上映されていた。テレビ放送は始まっていたが、まだどこの家にもテレビがある時代ではなかったし、テレビの白黒のドラマは映画に比べて質量ともにお粗末だった。子どもの好きな映画は、なんといってもチャンバラで、単純明快の勧善懲悪。中村錦之助、大川橋蔵、東千代之介、大友柳太郎、それに御大片岡千恵蔵と市川右太衛門といったスターが活躍する痛快時代劇だった。最後は必ず進藤英太郎や山形勲の悪役が斬られて、青空のもと平和な世界が戻る。それらの多くは、侍が支配する江戸時代が舞台だった。
 子どもの頃から時代劇を見ていたぼくたち世代までは、江戸時代がどんな社会だったか、もちろん見たこともないのだが、具体的な映像イメージで思い描くことができた。侍は刀を二本腰に差し、「拙者は・・・でござる」と名乗り、町人とは髷の形や言葉遣いも違う。農民は粗末な着物で殿様の前にひれ伏す。悪代官や悪家老は賄賂を差し出す悪徳商人と結託して、弱い庶民をいじめる。そこに主人公が懲らしめの正義の剣を振るってばったばった敵を斬る。そういうのが江戸時代だった、というのはもちろん娯楽時代劇の嘘だ、ということを知らないわけではないが、繰り返し見せられていると幕藩制の身分社会とは具体的にどういうものか、知っているような気になってくる。

 「渡辺京二著『逝きし世の面影』(葦書房、1998年)という本がある。幕末から明治初期に日本に来た外国人たちの膨大な日本見聞記を主な史料として、当時の日本の民衆の人情風俗を再現しようと試みた大著である。ここに描き出された江戸時代末期の日本の風俗習慣のなかには、これまで私たちが主に時代劇映画をつうじて知ったつもりでいたこととはいろいろ違っていることが多い。
 たとえば参勤交代の大名行列である。時代劇映画ではよく、先頭に先導の下郎たちが立って、「下におろう!」「下におろう!」といいながら、威儀を正した長い行列が街道を行く。道筋に居合わせた百姓町人などの一般民衆はその道の両端に座って平伏して送る。ところがこの本の第七章「自由と身分」には次のような一説がある。
「……オイレンブルク使節団のベルクは悪名高い大名行列への平伏について、たしかに先触れは『下にいろ』と叫ぶが、実際の平伏シーンは一度も見なかったといっている。というのは民衆が行列を避けるからで、彼の見るところでは彼らは『この権力者をさほど気にしていないのが常』であり、『大部分のものは平然と仕事をしていた』。またスミス主教のいうところでは、尾張侯の行列が神奈川宿を通過するのに二時間かかったが、民衆が跪いたのは尾張侯本人とそれ続く四、五台の乗物に対してだけで、それが通り過ぎたあとでは『跪く必要から解除されたものとみなして、立ちあがって残りの行列を見ていた』とのことである」
 まあ参勤交代といっても長い時代にわたって行われてきたものだから、いつもこうだったかどうかは分からないし、証言も二人だけでは少なすぎて、大名行列なんて実際はその程度にしか応対されていなかったとはいいきれない。しかしもし本当に映画の通りのようなことをやっていたら、街道筋の人々はめんどくさくてたまらなかったであろうし、適当にそんな風にやっていたものだと考える方が現実味がわいてくる。
 大名行列というのは外国人にとっては非常に珍しいものだったし、もし本当に通行人が平伏するものなら、それこそ噂に聞いていた東洋的専制、大名の絶対的な権力と民衆のそれに対する隷属状態の証拠と思われるので彼らはこれに注目した。しかし実際にはそれほどのことではなかったと知り、わざわざ記録を残したわけだが、当時の一般民衆はいちいちそんなことについて記録は残していない。だから映画などでは想像で再現するより仕方がないし、どう想像するのが正しいとも厳密にはいえない。ただ想像には必ずゆがみが生じるはずであるし、その歪みがどういう方向を向きがちであるかということには、こうした資料が視野に入った場合には意識的になるほうがいいであろう。
 一般にわれわれは、封建時代の身分関係は非常に厳格なものだったと考えやすい。制度的に見ればたしかにそうである。上位者の命令は絶対で、下位者はそれに服従しなければならないのが封建社会であったはずである。しかし現実には社会はそれでは機能しない。封建社会はそれを、適当に融通を利かせるというかたちで処理していたはずであるが、その融通の利かせ方というのは公式の記録には残らないし、百姓町人などはそこらの機微を日記や随筆に書き残すこともなかったであろう。
 以前、歴史の教科書などではよく、百姓は収穫の半分以上も年貢にとられたと書いてあったものであるが、人口の80%ぐらいが農民だったとして、外国に輸出をしていたわけでもないのに、残りの20%の武士や町人がどうして収穫の半分以上もの米を消費できたのか不思議でならなかったものである。実際には名目上の収穫と実際のそれとが違っていたりして融通を利かしていたのだろう。支配者と被支配者の間には名目上のことと実質とは半ば公然の違いがあったのだと思われる。大名行列をめぐる武士と百姓町人の関係もそうで、形式上は平伏することになっていても、実際は適当にやっていたにすぎないと考えるとわかりやすい。
 ただ、時代劇映画がだいたいそうであるように、適当になっていたというふうには想像力は働きにくく、厳格に行われていたというふうに演出されやすい。それは文書による記録はそういうものしか残っていない、という理由もさることながら、封建社会がそんなに気楽なものだったはずはないという思い込みがわれわれにあるからではないか。
  前時代の否定
 明治維新は封建社会を否定するために行われた。身分の固定化を否定して個人の能力をずっと自由に伸ばせるテンションの高い競争社会にするという意味ではそれは成功したが、民主主義には程遠いものであったのでをれは半封建性などと呼ばれ、第二次大戦の敗戦後にはその半封建性の否定ということが新たな目標になった。いずれの場合も原則として封建性は否定すべきものであった。戦後民主主義の政治思想にとってだけでなく、明治の体制にとってさえも封建性を妥当し得たということが勲章であり、誇りであり、己れの正しさの証拠なのであった。そして自分が正しいと信じるためには自分が否定した過去は間違っていたという証明が必要だった。封建社会にはこんな悪い制度や習慣があった、といえばそれは事実と感じられ、しかし実際には融通を利かせて大した弊害はなく、人々はのんびり楽しく適当にやっていたのだ、などといわれても疑わしく思う。そんな心性が明治以後の日本人には積み重ねられてきていたと思われる。
 どんな社会にも否定面はあったから、封建社会にも否定面があったに違いないが、日本の江戸時代の封建性は、薩摩藩の琉球侵略と松前藩のアイヌ侵略を別として、対外戦争をせず、稀に見る平和で穏やかで非競争的な社会を作りあげていたという面は忘れられがちであった。
 『逝きし世の面影』には幕末から明治初期にかけて日本にやってきた外国人の日本見聞記の要所要所がびっしり詰め込まれるようにして引用されているが、こうして集大成された外国人の印象を集約するといくつかの共通点が浮かびあがる。
 まず、当時の日本の民衆が一般に非常に幸福そうに見えた、ということである。生活は簡素であるが食うにこと欠くことはなく、趣味もよく、仕事には誇りを持って楽しそうに働いており、礼儀正しく、ものおじせず、女が地方を旅したりしても危険も少なく、身分社会ではあるが下層のものが上層の人に対して卑屈であることもない。そもそも身分差による生活程度の差があまり大きくない。
 これらの指摘はしばしば、本当かいな?という疑いを起こさせる。しかし非常に多くの外国人が異口同音に同じことを書き残しているのである。彼らは自分たちの良く知っている西洋の母国に比べてそう書いている。またわざわざ日本までやってきた彼らのなかにはアジアの他の国々での生活を経験している者も少なからずいて、アジアの他の国々に比較しても当時の日本にはそういうことがとくにはっきりいえると書いている。もし日本が他のアジアの国々に較べてもそういえるとしたら、たぶんそれは国民性というようなあいまいな理由にもとづくものではなく、外国の侵略や支配をまぬがれ、久しく内戦もないという稀な状態のなかで、支配者と被支配者の間に互いに融通をつけあってうまくやるという慣習が成熟したせいではないかと私は思う。
 融通のつけ方の核心は、支配者が被支配者の自治をどこまで認めるかということであろう。どの藩でも支配者は大名であり武士であるが、実際には武士は農村にまでは入らず、村の自治にまかせている。一定の年貢を村の長老たちが取りまとめて藩に提出してくれさえすれば、実際には収穫量をごまかしていてもあえて問題にはしない。前に述べた「郡上一揆」は、こうして成り立っていた藩と総百姓=村々の合意を藩側が一方的に廃棄しようとしたことに対する幕府への訴訟として起こったのである。こういう合意は異民族支配の場合は支配階級と被支配階級の間の相互の不信感が強く、思いやりというクッション作用が機能せず、また互いに容易に残酷になりやすいために成り立ち難い関係であるが、徳川三百年の平和はそれを可能にしたのかもしれない。
さて、その自治に関して、やはりこの本には興味深い記述が引用されている。
 幕末に二年余り長崎に滞在して1859年に帰国したオランダ人の長崎海軍伝習所教育隊長カッテンディーケの『長崎海軍伝習所の日々』(平凡社東洋文庫、1964年)という本に書かれていることである。
 長崎は天領だったから幕府の役人が支配していたわけだが、この武士たちは外国人が乱暴をしてもあまり厳しくは取り締まらず、ことを穏便にすまそうとする様子なので、カッテンディーケのほうから、そういう場合は容赦なく処分してほしいと頼んだほどだという。これはべつに外国人を怖れてのことではなかったようで、一般の領民に対してもそうだったらしい。彼らは「例えば甲と乙との町の住民の間に争いが起こった場合には、往々町中の恐ろしい闘争となり、闘争の後には幾人かの死人が転がっているというような騒動が起きても、決してそれを阻止することがない」のであるという。
 その具体的な例として、凧揚げの遊びが原因で始まって何時間も続いた青年たちの大喧嘩が、町の顔役が仲に入って彼らをなだめてやっとおさまったことや、居留地にいた中国人たちが二、三百人も街に流れこんで上を下への大騒動になったのに、警吏たちはなにもせず、彼らがあきて元の居留地にもどるまでほうっておいた、ということが書かれている。このオランダ人にいわせると、いったい日本のサムライはなんのために両刀をたばさんでいるのか、ということになる。
 1963年にスイスの遣日使節団長として来日したアンペールという人物も横浜で次のような暴動に近い出来事を目撃して書き残している。遊郭のある妓楼で遊女が別当(おそらくは馬丁)の頭を客にとることを拒否したので、その別当の子分たちが集って三十六時間にわたって妓楼を包囲し、ついにその遊女とその情夫とを心中に追い込んだというのである。このとき警吏たちは、暴徒と化しかけたこの別当たちが妓楼のなかに突入できないように一本しかない橋の板を剝がし、ひとつしかない門を閉ざしたが、それ以上、彼らを解散させるようなことはしなかったそうである。別当たちは竹槍で警吏たちと対峙したが、さすがに戦いにはならず、そのうち警吏が遊女とその情夫に心中をうながしたらしく、二人が井戸に身を投じて死んだと知らされたあと、別当たちは快哉を叫んで解散したという。
 これが本当だとすると、武士であるはずの警吏たちは、妓楼を取り囲んで暴力的な威嚇を行っている別当の集団が、本当に暴徒となって妓楼に雪崩れ込んだりしないように手をつくしてはいるが、それ以上、これを違法として強圧したり解散させようとはしていない。それどころか、あわれな遊女とその恋人を自殺に追い込むことで別当たちの顔を立ててやってさえもいたらしい。警吏たちとしてはこれで別当たちの不穏な動きを暴動になる前に穏便に解散させることができたから成功だったのであろう。あわれなのはそれで心中に追い込まれたらしい恋人たちである。彼女たちの生命を守ってやることができなかった警吏たちなど、およそ武士らしい権威も威厳もなく、それでも武士か、といいたくなるが、たぶんそれは時代劇映画の見すぎで武士を理想化してしまっているせいなのであろう。
 当時の武士たちにとっては、一機その他の藩や幕府の体制に対する反抗でないかぎり、百姓町人の間の争いごとなどは、それこそ民事不介入で本当は知ったことではなかったのであろう。もちろん幕府や藩の法はあり、役人は人民にそれを守らせなければならなかったはずであるが、実際には百姓町人に大幅な自治を認め、紛争は極力当事者同士の集団抗争を含む喧嘩などによる解決にまかせ、役人にはそれが一般市民を巻き込む暴動のようなものにならないかぎり、遠まきにして見守るにすぎなかったらしいことがこれらのエピソードからうかがわれる。
 『逝きし世の面影』ではこれらのエピソードは、封建時代といえども必ずしも武士が絶対的な権力を行使していたわけではなく、人民はしばしば傍若無人なまでに自由に振る舞っていたらしいということの証拠として引用されている。その自由さによって少なくとも幕末頃の日本の民衆は決して卑屈ではなく、のびのびと幸福そうにふるまっていたらしいのであるが、その人民の自治は、同時に、別当の親分のいうことを聞かなかった遊女とその恋人が別当の子分たちの集団的な威嚇で心中に追い込まれるという残酷さも含むものだったようだ。
 当時の別当、おそらくは馬丁たちは、それ自体は正業であるが、やはりこの本に引用されているたくさんの外国人の証言によると、仕事以外の生活態度ではほとんどやくざに近い存在でもあったようである。だからこそ集団で遊郭を威嚇するというような乱暴狼藉もやったのであろう。
 彼らは勇敢で誇り高く、仕事には有能だが、勤め先の主人との主従関係より同業者集団のなかでの親分子分関係のほうをもっと大事にしていた。また給料を貰うと有り金を使い果たすまで平気で帰ってこなかったりしたという。まさにやくざである。この本では別当だけがそういう存在として強調されているが、じつは当時、日本の職人社会にはかなりの範囲でそういうやくざのようなグループがあったはずである。ただ西洋人が雇い人として直接つきあってもて余したのは別当ぐらいのものだったから多くの証言を残す結果になったのであろう。
 1960年代の東映仁侠映画のなかで、マキノ雅弘監督による「日本侠客伝」シリーズと呼ばれる一連の作品がある。主に明治、大正期を扱ったもので、いずれも敵役として登場するのは正真正銘のやくざである博徒や、博徒あがりの実業家たちであるが、これと対抗して斬ったはったの大立ち回りをやる正義派の集団は、あるいは材木運送業(「日本侠客伝」1964年)であり、あるいは港湾荷受業(「日本侠客伝・浪花編」1965年)であり、あるいは火消し(「日本侠客伝・血斗神田祭」1966年)である。火野葦平の小説から何度も映画化されている「日本侠客伝・花と龍」では沖中士である。これらの職業はもちろん正業であるが、かつては組という組織による親分子分の関係の絆が強く、ときに集団で博徒とだって喧嘩をするので、やくざと似た存在とさえも見られた。
 マキノ雅弘は自伝の『映画渡世』で母方の祖父が荒虎親分と呼ばれる京都の有力な侠客であったことを誇りをもって書いている。侠客とはいってもこの組は材木輸送というれっきとした正業をやっていたのである。
 のちに、私は、東映の『日本侠客伝』シリーズでこの頃(註・マキノ雅弘の青年時代)に自分の眼で見た荒虎親分一家のいなせな生きざまを私なりに描いてみたのだが……、荒虎のおじいさんや多田家の祖父が私に教えてくれたのは、やくざというものはこうやってみんなを食わしていかなきゃいかんのだ、若いもんをこうやって育てていかなきゃいかんのだ、そして、やくざであってもやくざな生活はするな、ということであった」(マキノ雅弘自伝『映画渡世・天の巻』平凡社、1977年)
 れっきとした正業を持ち、やくざな生活を親分からいましめられてさえもいる集団が、しかしやっぱりやくざであるというのは奇妙だが、このことは封建時代以来、一般民衆がかなりの程度まで自治を認められていたということと無関係ではないであろう。自治とは村の寄り合いや同業者社会の長老たちの協議によって平和的に行われるものであり得たと同時に、企業間の利害の衝突などは実力で解決するということでもあり、それはしばしばその企業の抱える若いもんの集団の暴力でもあったということであろう。封建社会とは武士階級が武力を独占していて、その実力で民衆を支配し指導していたものということに表面上はなっているが、じつは武士階級はその武力をあまり使いたがらなかったらしいのだ。それは彼らが民主的だったりしたからではなく、たぶん本当に衝突などしたら量的にかなわなかったからであろう。こうして民間には大幅に自治を認め、村のなかのことや職人社会の業界のことなどはそれぞれの自治にまかせた結果、村は村同士で水争いなどになると喧嘩し、職人社会のなかの比較的荒っぽい作業にたずさわる集団は組ごとに喧嘩の実力で対抗する傾向を持つようになったと思われる。なにしろ武士たちは職人の企業間の利害の確執などいちいち調停などしてはくれないし、喧嘩になっても、無関係な一般市民などに被害なおよばないかぎり、おそらくはかなりの程度まで勝手にやらせておいたと思われるのだから。」佐藤忠男『映画の真実 スクリーンは何を映してきたか』中公新書、2001年、pp.39-51. 

 江戸時代に広く普及していた共同体の秩序、ここで出てくる親分子分の擬制的親子関係や、血縁地縁による家同士の上下関係、同業者集団や組ネットワークなどの社会システムは、明治以降も表の法律とは別に生きのびていたことを、社会学の村落研究や社会構造分析(cf.中野卓『商家同族団の研究』、岩井弘融『病理集団の構造』など)は明らかにしていた。身分の固定した封建社会という先入観は、時代劇を通じて実際の江戸時代とは異なるイメージを作りだし、実際の江戸から明治を生きていた人たちの伝承や記憶を薄れさせた。それがいまや荒唐無稽なファンタジーにまで変形したのが、アニメやマンガのなかの「サムライ」ヒーローになっているのは、もう歴史とも伝統とも無縁な架空の願望だ。


B.ひめゆり学徒隊の幻像
 沖縄の日本復帰50年ということで、いくつか沖縄特集がメディアにとりあげられた。そこには祝賀ムードはない。沖縄戦と戦後の米軍統治の深い傷は、いま辺野古をはじめ基地問題の未解決と日米関係に影を落とす。なかで、戦後の日本映画で沖縄戦を最初にとりあげた「ひめゆりの塔」に主演した、香川京子さんのインタビューが新聞に載っていた。

 「映画で学徒役 香川京子さん: 1953年公開の映画「ひめゆりの塔」で学徒役を演じ、長年にわたって沖縄戦と向き合い続けてきた俳優の香川京子さん(90)に、元学徒との交流を通じて育んできた平和への思いを聞いた。
 
 映画「ひめゆりの塔」は戦後、多くの人が沖縄戦を知るきっかけになった作品だと思います。私自身、台本を読んでショックを受けました。
 私は、疎開先の茨城県で終戦を迎えました。当時、13歳。学校から家まで、車も通らない道を、お友達と歌を歌いながらのんびり歩いて帰っていました。同じ頃、沖縄では自分と都市の違わない女学生たちが、こんな目にあっていたのだと、そのとき初めて知った。この映画は絶対に撮らなくちゃいけない、という使命感が生まれました。
 当時、沖縄は米軍統治下で、ロケはできなかった。だから、春から夏の沖縄で起きたことを、冬の東京や千葉で撮影したんです。深夜までかかることもしょっちゅうで、霜の降りた地面に伏せたり、吐く息が白くならないように口に水を含んだり、本当に大変な撮影でした。
 でも、どんなに寒くてつらくても、生きるか死ぬかの思いをしていた女学生たちに比べたら……。こんなことで文句を言っていては申し訳ない、という気持ちでした。
 映画は大ヒットしました。戦時中、沖縄で起きたことを、本土は知らされていなかったんです。戦後、「平和になってよかった」とみんなが思っていたところに、同じ日本の沖縄で、女学生が何百人と亡くなっていたことを初めて知るわけですから、びっくりしますよね。
 初めて沖縄へ行ったのは、26年後の1979年。戦時中、卒業証書を受け取れなかったひめゆり学徒のために、34年ぶりの卒業式が開かれるということで、テレビのリポーターとして参加しました。
 「卒業式」では、呼ばれても返事のないお名前、遺影を持って参加される遺族の姿もありました。「こんな卒業式は二度とあってはいけない」と思いました。生き残った方々は「助かってよかった」ではなく「自分だけ助かって申し訳ない」と。そういう気持ちで何十年もいらしたということが、とてもショックでした。
 その後も、東京の同窓会の集まりに読んでいただくなど、交流は続きました。
 92年にはエッセー本「ひめゆりたちの祈り」(朝日新聞社)を出しました。映画は戦争中、学徒たちが亡くなるところで話が終わっています。でも、それから数十年が経ち、彼女たちがどのように生きてきたのか。それも、みんなに知らせなくては、と思いました。東京や沖縄にいる元学徒の方々に話を聞き、まとめました。
 戦後しばらくは「思い出すのも嫌だ」と自分の体験を話さなかった方々も、子や孫が生まれて、「同じ目にあったら困る」と、次第に話をするようになったと聞きました。私も子を持つ親として、その気持ちがわかる気がしました。
 最近、日本の政治家から「敵」という言葉を聞きます。敵って、どこでしょう。この本を出したころには、「もうずっと戦争はないだろう」という気持ちでいましたが、思ったよりも早く、そういう言葉が出てくる時代になってしまった。怖いです。
 以前、若い方から「なぜ戦争を止められなかったのか」と聞かれたことがあります。でも、戦争って突然始まるんです。そして、なかなか終わらない。ロシアのウクライナ侵攻が、まさにそうですよね。今は昔と違って、日々その様子を知ることができる。戦争がいかに恐ろしいか、平和の大切さを、今こそ考えてほしいと思います。
 (聞き手・福井万穂)」朝日新聞2022年6月23日夕刊、11面社会欄。

 ぼくの友人、沖縄出身で東京でともに学び、那覇に戻って大学教員をしていた数年前に亡くなった彼が、一番好きな女優はだれか、というぼくの問いに即座に「香川京子!」と答えたことを思い出した。それはもちろん、米国統治時代に見た「ひめゆりの塔」のなかで、光り輝いていた女学生の姿が焼き付いていたからだと思う。
コメント
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 映画の真実 2 「羅生門」再考   最高裁判事?

2022-06-24 13:37:28 | 日記
A.ほんとうは何があったのか?
 本格ミステリー、つまり頭の体操的な推理小説では、まずある事件が起き、その犯人が誰だかわからない、という出発点から名探偵が登場し、真犯人を突き止め、ことの真相とトリックのなぞ解きをしてすべてが明らかになる、という順序でできあがるのが、定番だ。そこでは、真実はただひとつであり、何が起きたのか、犯人や関係者が何を考え、どう行動したのかは一通りでなければならない。名探偵は隠された唯一の真実を推理し、真犯人とその動機を特定する。しかし、ぼくたちが生きている現実は、そのように唯一の真実として見えてくるものはじつは少ない。
警察の事件捜査では、まず物的証拠を集め、関係者に聴き取りをし、手掛かりとなる確実な情報に基づいて真相を突き止めようとする。しかし、それですべてが明らかになるとは言えない。真実は一つだとしても、それを知るにはかなり面倒な作業が必要で、「科学的」に仮説が検証されるためには、確実な「動かぬ証拠」がなければならない。でも、人間のやることをすべて客観的に知るなんてことは不可能に近い。いちばん厄介なのは、人間は心や頭のなかでいろんなことを考えて行動するのだが、その意識や動機を直接知ることは難しいことだ。自分の心のなかを知ることができるのは本人だけ、いや本人ですら自分の意識や動機をちゃんと知っているかどうかはあやしい。近代科学の行動主義心理学などは、それを外から観察して知ろうとしたが、当然限界がある。
フッサールの現象学は、そこを「科学的実証的観察」などではなく、人間の意識が持つ特性、つまり人が目の前のひとつの事物を見るときでさえ、それを同じものとは見ない、その人の意識がどこに焦点を当てているかで対象は異なった姿と意味を持って現れる、ということに注意を向けた。この意識の凝集性、視点の個別性という問題は、「何を見ているか」よりも「何を見たいのか」のほうに人間の視野を限定し、そこにその人の願望、欲望、自尊心、執着が方向づけをしていると考える。このことを考えさせる映画として、黒澤明の「羅生門」はじつに示唆的だった。 

 「南インドのケーララ州のマラヤーラム語映画の1987年の作品で「モノローグ」という傑作がある。脚本監督は現代インド映画界の芸術派の巨匠として尊敬されているアドゥール・ゴパラクリシュナンである。
 これはじつにユニークな語法で展開されてゆく不思議な作品で、話法に凝ることで競争の激しい現代の世界文学の先端的な諸作品と比較してみたくなるような、ある意味ではほとんど前衛的な映画であって、こういうハイ・ブラウな作品がちゃんと興行的に成り立っているというケーララ州の映画観客の水準の高さには驚かざるを得ない。
 アジャヤンと呼ばれるひとりの青年が自分の少年時代から現在までを回想するというかたちでストーリーが進行するのだが、現在と思われる時点に来たところで、主人公のナレーションで、「いや、これだけではまだ語り足らない、もう一度振り返ってみよう……」といった意味の言葉があって、あらためてまた同じ自分自身のこれまでの人生についての回想になる。そしてこれが、基本的には同じ話でありながら、細部やニュアンスはかなり違っているのである。
 アジャヤンはケーララの田舎町の病院で私生児として生まれた。父は誰か分からず、母は彼を生むとすぐ行方不明になった。おそらく不倫の恋の結果としての子だったのであろう。彼をとりあげた病院の院長が彼を養子にして可愛がって育ててくれた。院長は早く妻を失い、なくなった妻との間に息子がひとりいて、この息子もアジャヤンを弟として可愛がってくれている。
 最初の話では、アジャヤンは子どもの頃から頭脳もスポーツも抜群で、あまりに優秀すぎて周囲の凡庸な人々との間に不適応を起こしてばかりいる人間である。学校では頭の良さを示しすぎてかえって先生から嫌われる。いじめっ子にいじめられると、腕力ではかなわなくてもはるか遠くから石を投げて奴らをケガさせることができる。こうしたことで彼は孤立していって内向的になり、他人からは理解されがたい青年になってしまった。そして兄が結婚すると、その美しい兄嫁だけが自分の真の理解者であると思うようになって兄夫婦を困らせ、彼自身も心が千々に乱れてゆく。
 このはじめの話は、謎めいた要素を含みながらそれ自体、軽快でユーモアに富み、次第に悲劇味を帯びてくる。こうして、天才肌であるが脆いひとつの人格を浮き彫りにした面白い作品になっている。
 ところが二度目の話になると、同じ人生がまるで違った調子で語られることになる。アジャヤンは決して天才的な子どもではない。ただ、出生からしてあいまいなうえに周囲の人々からチヤホヤされたり巧みに噓をつかれたりして、真実と嘘とを見分けることが下手な、妄想にふけりやすい性格になっていることが鮮やかに示されている。とくに兄嫁に恋をするエピソードでは、じつは彼女は兄と結婚する前から彼を知っていて、彼に好意を示していたのだということになっている。しかしこの点に関してはじつにあいまいで謎めいていて、嘘かまことか定かでないままに映画は終わりになる。
 さいごにアジャヤンが子どもの頃、川辺に水浴びに下りてゆく階段の場面がまた出てきて、子どもが階段を下りながら、はじめは奇数で階段を数え、二度目は偶数でまた数えているという暗示的な表現がある。これが示唆するところは明白である。第一の話と第二の話は全く矛盾していて食い違っているのではなくて、第一の話が、一、三、五、七、九、というふうに彼の経験をとびとびに語っているとすれば、第二の話は、二、四、六、八、十、というふうに時間やカメラの視野を変えてとびとびに語っているので、両方を正しい順序に従って語り直せばひとつの話としてつながるのである。ただ、第二の話ではアジャヤンは、才気はあるが根気がなく、自信家で外向的であるけれども妄想癖があって、あるいは精神分裂病の兆候が出ているのかもしれない奇矯な面も現れる。第二の話にも第一の話と同様に豊かなユーモアがあるが、人格崩壊の危機感がぐっと前面に出てくるので悲劇的な味わいはいっそう濃い。そうしてこれはこれでまた面白い物語になっているのである。
 私はこの映画を、1988年にインドのケーララ州の州都のトリバンドラムで見た。セリフがよく分からないので正確には理解できず、第一の話はアジャヤン自身の主観的な回想、第二の話は同じ人生を客観的に見直したものではないかと思い、それで非常に興味深く見たものだった。のちに1998年のアジアフォーカス福岡映画祭の上映作品のひとつとしてこれを選び、字幕を入れ、さらに作者のアドゥール・ゴパラクリシュナン監督を映画祭に招待して、観客との質疑に答えてもらいながら見直して理解を深めることができた。
 作者自身の解説によれば、この物語はさらに第三の話も第四の話も可能なのである。主観と客観の対比というよりも、視点が違うだけでどちらも主観的なのである。そもそも人間は自分自身を客観的に記述できるものだろうかという疑問からこの物語は出発しているのだという。人間にはまず経験がある。これを人間は記憶するが、どの経験を記憶し、どの経験を忘れるかで認識は違ってくるし、また記憶していることのうちのどれを重要だと考えるかでも違ってくる。さらに記憶の修正ということが生じる。アジャヤンは兄嫁に恋をした。これは抱いてはならない罪深い感情なので彼はこれをそのまま認めることはできず、千々に乱れる心理状態のなかで、じつは兄が結婚する前から彼は彼女を知っており、しかも彼女のほうから彼に好意を示していたのだという妄想をつくりあげている。こうして事実とは違う物語が創り出されることになる。人間は自分自身についての物語の創作者である。自分はこういう人間だと主張する内容はじつは自分自身による創作物なのである。この映画が描いているのはそういうことなのであると作者はいう。
 そこで私は作者に質問した。ひとつの殺人事件を、加害者と二人の被害者と目撃者と、四人の当事者がそれぞれの立場で自分に都合がいいように修正して四つの違う物語として語った映画には黒澤明の有名な「羅生門」があるが、ひとりの人物の同じ人生を、その人物自身が二通りに語り分けた映画というものは見たことがない。この文字どおりユニークな発想には小説など他の分野にでも前例があるのだろうか?と。
 アドゥール・ゴパラクリシュナンは即座に答えた。
 これはもちろんクロサワの『羅生門』から影響されたものです」――と。
 黒澤明の映画「羅生門」は1950年に制作されて翌1951年にベネチア映画祭でグランプリを受賞して一躍世界に知られたわけであるが、インドではさらに翌年の1952年に同じ制作会社の大映の「雪割草」(田坂具隆監督、1951年)とともに公開されている。この二作が当時、インドの映画人や映画志望者に与えた感銘は衝撃的なものであったらしい。アドゥール・ゴパラクリシュナンと並んでケーララ州のマラヤーラム語映画の芸術派の開拓者であり確立者であったG・アラヴィンダンは、学生時代に「羅生門」を見たことで映画に志を立てるようになったのだといっているし、他にもそういう人は少なくない。ついでにいえば日本では凡庸なホームドラマとしてほとんど評判にはならなかった「雪割草」もインドの古い映画人たちの間では「ユキワリソー」と呼ばれてよく知られており、インド映画に相当な影響を残した。のちに田坂監督の死がインドに伝えられたとき、またまたインド映画祭で集まっていたこの国の映画人たちは、「ユキワリソー」の思い出のために黙禱したものだと聞いている。あるいは彼らにとってはこの二本ははじめて見るアジアの映画であり、アジアの映画も欧米の傑作に優るとも劣らないものであり得るということが感動的な経験だったのかもしれない。 
 「羅生門」とはどんな寧画だったか。
 原作は芥川龍之介が十二世紀の説話集『今昔物語集』の一エピソードからヒントを得て書いた短編小説「藪の中」であり、橋本忍と黒澤明の脚本は互いに密接に関連する三つのエピソードから構成されている原作にもう一つ第四のエピソードをつけ加え、さらに物語全体の枠組みとなる場面のために同じ原作者の短編「羅生門」から場と状況を借りて加えている。
  ( 中 略 )
 人間のエゴイズムによる嘘ばかり繰り返し語ってきたドラマの最後が、こんなヒューマニズムの宣言でしめくくられるのはいかにもとってつけたようで不自然である、というのがこの映画についてよくいわれてきた批判である。しかしいまあらためてたどり直してみて分かったように、どのエピソードの嘘も自己の正当化が動機である以上、この映画の全体を貫く主題は人間の自尊心にもとづく自己正当化の願いであると言えるし、それが人間により、場合により、さまざまな程度と様相で現れるのを、この映画は描き分けているのだともいえる。そう考えるとこのラストのヒューマニズム宣言も必ずしも不自然ではないと思えてくる。
 みんながなんらかの程度で嘘をいっているとしても、その嘘には多分に違いがある。盗賊の嘘は自分は単なる悪党ではなくて男らしい男だと己惚れているところから来ており、男が男らしさを誇示することはすべて正しいという子どこっぽさに満ちていて、ほとんどイノセントで反省というものがない。他方、女が嘘をついているとしたら、それは彼女が自尊心を守るための切羽つまったやむを得ないものだろう。そして侍が嘘をついているとしたらそれは武士の名誉という観念に根ざしているので、社会的、制度的な自尊心の産物である。興味深いことに芥川龍之介が最初にアイデアを得たという『今昔物語集』のエピソードは、バカな侍がずるい盗賊にだまされてそんな事件になったわけだから、あとで侍の妻は夫の愚かさかげんをボヤいたというだけのお話である。侍が妻の純潔義務みたいなイデオロギーを持ち出して責めるようにストーリー化したのは明らかにのちの封建時代にできた思想の影響であって、平安時代人は侍階級の男女でさえ性関係にはもっとおおらかだったようだ。では芥川龍之介は平安時代の説話のどういうところに関心を持ったのか。これに対して芥川龍之介は、『今昔物語集』にはノーブル・サヴェージがあるからだ、といっている。高貴な野蛮さである。そうだとすれば人間のエゴイズムによる嘘のつきあいなどという近代心理小説的な神経質なアプローチは違うんじゃないのかという気もしないではないが、まあ多襄丸の野蛮なイノセントさはそういえるかもしれない。
 こうして嘘のあり方の多様さを見比べていった場合、樵夫の嘘はどんな良心的な正直者でもついいってしまいそうな程度の、容易に責められないものである。そしてその嘘を指摘されて愕然とした彼が、自尊心を急いで立て直そうとするとき、捨て子を拾うという行為は必ずしもそう飛躍はしていない。映画「羅生門」を何度も見直し、その全体を自尊心による自己正当化、自己美化という主題の繰り返しやそのバリエーションと発展という観点から考え直してみるとそう思えるのである。自尊心にもこの盗賊のような無邪気で野蛮なものから、侍のそれのように階級意識や男性優越意識から来るものもあり、侍の妻のように自己防衛的なものもある。樵夫のそれは、正直者であることを自尊心のよりどころにしてきた人間としてのもっとも素朴なものだろう。そして、その自尊心のあり方に応じて自己美化のあり方も違ってくる。盗賊が男らしさを誇示するのも自己美化なら、侍の名誉心の協調も美化であり、京マチ子の演じる侍の妻が自分の告白のなかで見せた、きらめくように美しい女の意地の表現も美化であろう。じぶんの嘘を指摘されてうろたえた樵夫が捨子を拾うのは、自尊心を維持しようとして少しいい恰好しすぎたのかもしれないが、じつは人間はそんなふうにして善を始めるのであって、それが本物の善になってゆくことは期待できるし、期待した。黒澤明が描いているのはそこまでである。そしてそこまでで十分に面白く、また感動的である。自尊心も自己美化も人間には避け得ないものであって、その諸相、良い現れ方、悪い現れ方のさまざまな形を見せてもらえたわけだから。」佐藤忠男『映画の真実 スクリーンは何を映してきたか』中公新書、2001年、pp.3-16. 

 黒澤の「羅生門」が、世界で高い評価を得たのは、日本映画だからとか、時代劇だからとか、三船敏郎や京マチ子の演技だとか、野外ロケの映像美だとか、その他もろもろの映画的要素にあるのではなく、この映画が一つの事件を複数の意味を持った物語として、重ね直していくという構造にあると思う。それは真実とは何か、人間の欲望と出来事の意味づけという問題を、映像としてリアルに提示していたことにある。これは、西洋人や東洋人といった民族や文化の相違を超えて普遍的な問題として、知的なテーマを観る者に与えた。映画というものがこういう高度なテーマを表現できる、ということに世界の映画人は感動したのだ。むしろ日本人の観客は、日本映画の時代劇としてこれを見て、その肝心な問題をあまり深く考えずに通り過ぎたのかもしれない。


B.エリート裁判官とはどういう人間なのか
 最高裁判事がどうやって選ばれているか、日本ではほとんど知らないし関心は低い。最高裁が重要な判断を下すこともあるだろうが、だからといってそれで国政が大きく修正されたり、人々の生活が大きく変わったという気がしない。それは逆に、そういう重要な司法の判断が、これまでぼくたちの記憶に残るほどの結果をもたらしたように思えない程度の、中途半端な消極的なものだった、ということなのかもしれない。そういう決定をする最高裁判事を選ぶのは、時の政権である内閣であり、ときどき交代する内閣が司法を恣意的に左右してはいけないとすれば、結果的には慣例と前例にならった「無難な判断」をする人物だけを選んでおくということだったのだろう。

「最高裁判事という存在:黒人女性初の最高裁判事の誕生がメディアをにぎわす米国と比べて、日本では最高裁判事の任命に注目が集まらない。存在感の薄い「憲法の番人」のままでいいのか。課題を聞いた。
公開と多様性 信頼得る道 山浦 善樹さん 弁護士・元最高裁判事 
私が最高裁判事時代に関わった判決の一つに、2015年の選択的夫婦別姓訴訟があります。婚姻時に夫婦どちらかの姓を選ぶことを強制する民法の規定が憲法違反になるのかが、争われました。私ともう1人の男性裁判官、女性裁判官全員にあたる3人の計5人が「違憲」と考えました。しかし、ほかの裁判官(男性10人)は「合憲」という意見でした。
多数意見は、裁判官席から、結婚に伴う改姓で苦しんできた上告人に向かって、「旧姓併記ができるから差し支えないでしょう」「二人の合意で決めたことでしょう」と言い放っているようなものです。このような言葉が裁判官の生の声として、ビデオを通じて全国、全世界に中継されたと想像してみてください。人々の信頼を失うのではないでしょうか。
法廷での裁判官の様子や生の声がライブ中継されるようになれば、裁判に対する市民の関心も高まり、一人ひとりの裁判官の考えや人柄も市民に伝わります。自宅のパソコンで米国最高裁の録音放送を聞くことがありますが、裁判官が訴訟関係者に向き合って審理をしている姿勢がはっきり見えます。故ギンズバーグ判事が、弁護士時代に最高裁判所でさっそうと意見を述べていた姿をみると感動します。それから半世紀近くも経つのに、日本の最高裁は、当事者や市民との対話をせず、米国最高裁とは逆の方向を向いていると感じます。
同僚だった最高裁判事はいずれも優れた法律家でした。しかし、多くが比較的恵まれた家庭環境の中で育ち、熾烈な競争社会を勝ち抜いてきたエリートです。同質性の高い集団ですから、悩みや生きづらさを感じている市民に柔軟な姿勢で寄り添っているのだろうかと不安に感じることがありました。私は、悩んだ時に妻に意見を聞くことにしました。事件の内容や結論を聞くわけではありません。生活感のある妻なら何で言うだろうかと考え、自分に欠けたものを補うよう努めました。
 世の中の流れが刻々とその速さを増す中、政治やビジネス、科学技術の世界などにとどまらず、裁判所の扱う事件は様変わりしています。多様な人材をいかに登用するかが課題です。とりわけ、最高裁判事の男女の比率は、社会の感覚と大きな隔たりがあります。最高裁判事15人中、女性が2人というのは異常事態です。裁判所がバランス感覚を取り戻すために早急に女性判事を増やす必要があります。
 性別や年齢、他の多様性を意識した裁判官の執務姿勢が広く公開され、その顔と発言が社会に広がる。そのようにして市民とつながることで、存在感のある信頼される最高裁へと変われると思います。 (聞き手 編集委員・豊秀一)」朝日新聞2022年6月22日朝刊、11面オピニオン欄、耕論。

 最高裁判事の多くは、めぐまれた家庭環境で育って司法試験を勝ち抜いたエリートで、法律家としては優秀だとしても、裁判で裁かれる立場にある人間を、深い想像力を伴って理解する能力があるのだろうか?選択的夫婦別姓ひとつをとっても、それを自分の問題として考える気はなく、保守的政治家に文句を言われない程度に収めておくことが仕事だと考えているとすれば、国家と司法にとってマイナスの側面が強まると思う。
 
 「「司法の弱さ」補う視点を :網谷 龍介さん 政治学者
 米国の最高裁判所の裁判官は終身制で、定年がありません。建国の父たちが、憲法制定の必要性を訴えた文書に理由が書かれています。それによると、司法には、行政府のような社会を守る「剣」もないし、立法府のように「財布」も握っていない。「意志も持たず、ただ判断するに過ぎない」弱い存在だ。しかし人々の自由を守るためには司法の独立が必要で、他部門から脅かされる危険を防ぎ、司法の安定と独立に寄与するのが終身任期制である、と。
 日本の最高裁には、違憲判決を出さない司法消極主義という批判が向けられてきました。「政治に忖度するな」と叱咤激励が飛び、制度改革の議論も繰り返されてきました。しかし、そこで欠けていたのは、司法が抱える「弱さ」をどのようにして補うのか、という米国の建国の父たちが持った政治的視点です。
 例えば、ドイツの憲法裁判所の裁判官は、議会によって憲法改正と同等の特別多数で任命されます。これにより裁判官は、単純多数をこえる民主的な正当性に支えられます。憲法裁判所は違憲審査権を積極的に行使し、権威ある地位を確保していますが、背後にある幅広い政治的合意が「弱さ」を克服する一つの方法とみることができます。
 一方、日本では、最高裁判事の選考は内閣が単独で行い、助言の手続きや聴聞・審査はなく、議会が関与する余地はありません。しかも、内閣が任命を行っているように見えて、実際は、最高裁側の意向を内閣が尊重するインフォーマルなかたちの人事の慣例が続いてきました。民主的な正統性を調達する手続きはここにはありません。
 日本国憲法は条文上、内閣が裁判官の任命を一存で行えるような仕組みを作っています。政権交代がほとんどなく、自民党の長期政権が続いていますが、内閣が本気で裁判官人事に手をつけるようになると、司法の独立は簡単に崩れてしまうでしょう。安倍政権下で、最高裁側の意向を尊重する従来の人事慣行が破られ、「官邸の介入」とニュースになったのは、そんな懸念があったからです。
 最高裁が違憲審査に積極的になれば、政治の側も黙っていないでしょう。最高裁が司法消極主義に徹し、非政治的裁判所として振る舞ってきたのは、独立を守る自然な選択肢だったのかもしれません。
 司法消極主義を望むなら、究極的には憲法改正で裁判官の任命方法を変え、国会の特別多数の同意を得るようにするのが素直な手段です。それが難しければ、議会での聴聞の手続きや、任命諮問委員会の設置で人事の透明化を図るのが第一歩です。いずれにせよ、政治と司法の緊張関係を直視せずに、司法の機能強化を望むのは限界があります。 (聞き手 編集委員・豊秀一)」朝日新聞2022年6月22日朝刊、11面オピニオン欄、耕論。
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 映画の真実 1 佐藤忠男さんの真実と美化  先は読めない

2022-06-21 22:55:37 | 日記
A.映画を通じて世界を見る
 今年3月17日、91歳で亡くなった佐藤忠男さんは、映画評論家として多くの本を書き、日本映画大学名誉学長、文化功労者として、とくに日本や欧米の映画だけでなく、アジアの映画を発掘紹介することで大きな業績があった人である。ぼくは、この人の文章をはじめて読んだ時、非常に明晰でかつ言葉遣いがとてもわかりやすい、それは自分は大学に行っていなくて、国鉄の職員だったときに普通の観客として映画館で映画を見て、感想を書き送っているうちに映画評論家になったのだと書いてあった。どうして大学に行かなかったかは、後に詳しく書かれている本を読んで知ったが、大学などに行かないでこうした文章を書く優れた人がいるのだということが、とても印象的だった。『日本映画史』(全4巻・岩波書店)のような大著もあるけれど、黒澤明や小津安二郎の的確な映画論を書いた後、佐藤さんは積極的にアジアや開発途上国の映画を探求し、福岡映画祭などで日本に紹介することに力を注いだ。だいぶ前に、丸の内の東京会館の喫茶店で、ご本人をお見かけしたことがある。
 ぼくは佐藤さんの本はだいぶ読んでいたつもりだったが、中公新書に佐藤さんの『映画の真実 スクリーンは何を映してきたか』2001年、があることを最近見つけ、これは読んでいなかったので、少し丁寧に読んでみる。佐藤忠男映画論の哲学につながるエッセンスのような文章だと思う。まず冒頭。

 「映画で現実がわかるか。
 これは興味深い問いである。われわれは普通、アメリカ映画がアメリカを美化していること、日本映画が日本を美化していることはよく承知しているから、あえてアメリカ映画でアメリカの現実が分かるか、などとはいわないし、日本映画と日本の現実についてもそうである。映画に限らず芸術芸能は基本的に現実の美化の上に成り立っている。美化というと虚偽のニュアンスを帯びてしまうので理想化といい直してもいいが、同じことである。芸術とは現実の美化によってそこに理想を見ようとする行為だということもできるだろう。美化が行きすぎたりそれに馴れすぎたりして安易に感じられるようになってくると、それを壊して、本当の現実はこうだと主張するリアリズムの動きが現れるが、そうして変革された表現方法も、よく考えるとまた別な意味での美化になっていると分かったりして、現実認識と美化との関係は複雑をきわめるが、ごくごく単純にいえばそういうことになる。
 だからその意味では、芸術作品で現実を知ることは難しい。美化されているからである。早い話、たいていの劇映画は選び抜かれた美男美女を主演に起用して作られている。それだけでもうその社会の美化になっているし、映画はその社会の美化された自画像だといえる。自惚れ鏡といってもいい。しかしわれわれは、その美化をつうじて、それを表現した人や社会や民族や国の理想のあり方を見ることができる。
 私の考えでは、今世界は映像文化的に三つぐらいの区域に分割されている。ひとつは美化した自画像を世界中が喜んで買って見てくれる国である。厳密にいえばこれはいまではアメリカ一国である。しかし先進諸国をいくつかつけ加えてもいいだろう。アメリカは自由主義を国是にしているだけに自己批判の精神が旺盛で、自分たちの社会の恥部も積極的に描く気風をもっているから、美化ばかりしてはいないという反論もあると思うが、実はその自己批判的な作品でさえ、アメリカの自由さ、闊達さ、強さを強調し、その、嫌味なまでの美化となっていることが多いのは認めないわけにはゆかないだろう。
 他方、自分たちの作った映画を広く世界中の人々に見てもらう機会をほとんど持たず、自分たちの姿はただ、なにかロクでもないことが起こったときに若干の先進諸国からかけつけたカメラマンたちに撮られて世界に紹介されるだけという多くの国々がある。ロクでもないこととは、内戦、暴動、飢餓、災害、難民の発生、などであって、それをよそ者のカメラでまさに客観的に撮られるとき、そこには美化は生じない。ジロジロ見られるだけである。
 日本はどうだろうか。まあ両者の中間というところだろう。自己美化を自己評価以上に感心して見てもらえて有頂天になる場合と、ジロジロ疑わしそうに見られる場合と、両方が極端に分かれていて、自惚れと誤解への憤慨の間を右往左往させられてきたものだ。
 この世界が、美化された自画像で仰ぎ見られる地域と、ロクでもないことが起こったときだけ美化ぬきの他人の眼でジロジロ見据えられるだけの地域とに分かれているということの、見られ方の落差の大きさは大きな問題ではないだろうか。
 自己美化が危険なまでの自己欺瞞に至る場合があることを、日本は軍国主義時代に経験した。日本は神国であり、日本軍は無敵であるなどという途方もない自己美化をやって他国を苦しめ、自分も破滅に至った。自己美化が現実認識をどう歪めるかについてはつねに冷静な判断力を磨いておかなければならないであろう。
 しかし他方、美化が理想の追求であり確認であることも認めなければならない。人間が自尊心をもつ存在であるかぎり、そのモデルを求める心が美化されたイメージを生みつづける。映画はそのきわめて具体的な一例である。われわれが映画を見るとき、われわれは主として美化されたイメージを見ているのであって必ずしもありのままの現実を見ているわけではない。その点ではアメリカ映画も日本映画もアジアやアフリカの映画も変わりはない。よそ者の眼でジロジロ見たニュース映像などは比較的ありのままに近いといえるかもしれない。しかし同時にそこには、そこに撮られている人々の自尊心は容易には映らない。彼らの自尊心は彼ら自身の作った彼ら流の美化の偏りのある映画にこそ映っている。
 映画で現実が分かるか、という問いは重要であるが、少し単純にすぎるであろう。たとえば、アメリカ映画ではアメリカの現実はあまり分からない。しかしアメリカ人の美化され理想化された自己認識、つまりは自惚れは手にとるように分かる。日本映画と日本についても同じことがいえるだろう。自惚れと知りながら、われわれはそれを尊重する。他者の自尊心を尊重することが礼節のはじまりであり、礼節をつうじてはじめて他者との交流が成り立つ。また他者の理想に共感することは自己を拡大することであって、人間の成長には欠かせないことである。同じようにアジアの映画ではアジアの現実は必ずしも分からないが、彼らの自己認識に共感してみるのも悪くない。いや、積極的に良いことだといいたいが、私の好みを他人に押しつけることはここでは遠慮しておこう。
 
 さて、最近ある会合で、私が以上のような趣旨を含むスピーチをしたうえで、インドネシア映画の「枕の上の葉」(1998年)という作品を見て参加者たちと話し合いをしたことがある。この映画は1999年の東京国際映画祭で審査員特別賞、同年に台北で開催されたアジア太平洋映画祭ではグランプリと主演女優賞を得た、いわば定評ある秀作であり、日本では岩波ホールで長期興行もされている。内容はジョクジャカルタにおけるストリート・チルドレンたちの悲惨な生活を扱ったもので、三人の気のいい仲のいい少年たちがつぎつぎに事故死や殺人による死をとげてゆくというものである。監督はガリン・ヌグロホ。
 この作品を見たあとの話し合いで、ひとりの参加者がこういった。「悲惨な現実を描いているけれども、子どもたちの眼が輝いているのが印象的だった。いまの日本の子どもたちには失われがちなものがあると思って感動しました」。善意の好意的な感想である。
 しかし文化人類学の研究をしているという別のひとりはこうコメントした。「私はジョクジャカルタのストリート・チルドレンも実際に見ているのだが、現実の彼らの眼は輝いていない。だからこの映画は現実を美化していると思う」と。
 またしても、現実か美化か、である。
 私はこう述べた。「この映画に出演している子たちは実際に路上生活をしていたのです。映画のエピソードや彼ら自身の実生活からとりあげられたものが多いようで、そのことは日本のテレビ局が撮ったメイキングノドキュメンタリーにも出ていますから本当だと思います。つまり劇映画としては極力現実に近づこうと努力したリアリズム作品といえるでしょう。しかし監督が多くのストリート・チルドレンのなかからこの子たちを選んだ過程で、特別に目のきらきらした子たちに注目するということはありそうなことですし、選ばれた子たちが、選ばれた誇りと、撮影中のスタッフや見物人の注視のなかで、おのずから目の輝きが増したということも大いにあり得ると思います。そうだとすれば極力現実に近づこうとする映画のなかでも、意図的に、あるいは意図せずに現実の美化は生じるでしょう。たしかに目の輝きというのは美化だと思います。ただそれを、彼らへの共感の手がかりとするか、欺瞞の始まりと見るかは微妙なところです。さあ困りました。この場合どちらの見方が正しいと簡単にはいえません。ただ言えることは、映画というものは本来、現実とその美化の間を、大きくあるいは微妙に揺れ動いてきたもので、その矛盾があるからこそ映画には精神的な生産性や発展があるのだと思います。この場合は特に微妙ですが、この矛盾する二つの視点を丸ごと把握できるような――いうなれば現実と理想が強く拮抗しあっているような――視点でこの映画は作られていると思いますし、だからこそすぐれた感動的な作品として鑑賞に値すると思います」。
 結論のあたりはわれながらシドロモドロであり、あいまいである。もっときちんというためには、もっともっと、現実と美化を正確に計り、検証し、論証しなければならない。
 で、以上を前置きとし、問題提起として、以下、同じモチーフを土台にした映画のあり方にかかわる問題を多様な事例で考えてみたい。
 現実か美化か。
 この観点からすると、芸術か娯楽かとか、商業映画か非商業映画かとか、さらにはプロフェッショナルな映画かアマチュア、の映画化という区別もあまり意味がない。もちろんハリウッド映画とアジアの映画の別も本質的なことではない。だからそれらの間を自由に行き来しながら考察を進めたい。」佐藤忠男『映画の真実 スクリーンは何を映してきたか』中公新書、2001年、pp.i-viii。

 映画というものは20世紀に大衆娯楽として普及したものだが、人々に大きな影響を与えるアート・メデイアとして、それまでの文学とか美術とかよりははるかに多くの人々に直接訴える力を発揮した。しかし、映画はあくまで作者がいて影像を作った作品であって、映画がそのまま現実ではないし、たぶんに美化されたものであるということを、観客であるぼくたちは一応知っているにもかかわらず、そのことを忘れて観ている。佐藤さんは、ここでそれをできるだけ意識化しようと考察する。


B.ウクライナ戦争のゆくえは誰もわからない
 ウクライナの戦争は、どうやら先の見えない泥沼の長期戦になりそうだ、というのが、国際政治や軍事専門家の大方の見通しのようだ。ということは、膨大な武器と兵力が投入され、ひとの命が失われることが避けられない。いままで、世界のあちこちで紛争や戦争は起きていて、アフガンでもイラクでもボスニアでもアフリカでも、悲惨な戦闘で民衆に被害が出ていても、日本にいる普通の人たちには、どこか遠い世界の話ですんでしまったが、今回は少し違う。大量の核兵器を持つロシアが戦争をひき起こした当事者であることと、ウクライナが簡単にはロシアに制圧されない状況を欧米を中心とする西側が支援する構図になっていることだ。ただ、世界が一致してウクライナ支援に動くわけでもなく、中国など同調しない国々があって、世界は分断されるという見解もある。ロシアとウクライナを理性的な停戦にもっていかれるかどうかは、読めない。

 「からむ思惑 深まる分断 ■長い戦争が変える国際秩序  藤原 帰一 
 ウクライナの戦争は長期戦になった。大量の兵器を費消し、兵士と一般市民が声明を失う戦争の継続が見込まれる中で、国際政治の構図が変ろうとしている。
 東部地域に主力を集めたロシア軍は開戦時の劣勢をはね返し、ルハンスク州を制圧する勢いだ。短期戦による戦勝に失敗したロシアは、戦争の長期化を想定した巻き返しに転じ、成果を上げようとしている。
 だがウクライナが負けたわけではない。そもそもロシアは戦争の行方を定めるような戦果はまだ手にしていない。時間が経過すれば北大西洋条約機構(NATO)諸国の提供する高性能兵器によってウクライナがロシア軍に対して優位となることも期待できるだけに、侵略者への屈伏ではなく侵略に持ちこたえることがウクライナ側の目標になるだろう。
 将来の戦況が有利だと双方が考えるとき、戦争終結の展望はない。今後ドイツやフランスなどの諸国は欧州連合(EU)加盟交渉を誘い水として停戦交渉の再開をウクライナに提案するものと見られるが、停戦交渉に応じれば、ロシアがすでに併合したクリミアや東部地域の自称人民共和国だけでなく2月の侵攻後に制圧した地域の帰属さえ議題になりかねない。侵略と殺戮を加えた側への譲歩をウクライナ住民が受け入れる可能性は低い以上、極度の戦況の変化がない限り、外交交渉による停戦が実現する見込みは少ない。
  •    *    * 
 戦争の継続は国際政治のあり方を変えようとしている。もとより国際関係には、世界各国が参加し協力して支える国際秩序という側面と、他国よりも軍事的に優位に立つ国家が影響力を行使する覇権秩序という側面の両方が含まれている。覇権国家の存在が国際関係を不安定にするとは必ずしも限らないが、覇権を争う複数の国家によって世界が分断されたならば、秩序の安定ではなく戦乱に向かう危険がある。
 第2次世界大戦後の国際秩序としてルーズベルト米大統領が模索したのはアメリカの覇権のもとにおける国際連合を基軸とした体制であった。その希望を阻んできた米ソ冷戦が終結することによって各国の共有するルールに基づいた秩序をつくる機会が生まれたが、実現したのは冷戦時代の国際体制の延長であり、ロシアを含む安全保障の制度下ではなくNATOの加盟国東方拡大にすぎなかった。冷戦期に西側諸国が築いた国際体制は西側諸国の覇権的地位と共に堅持され、冷戦後のロシア、さらに欧米以外の地域の各国にはその体制に従うことが求められた。
 中国とロシアが欧米諸国と協力する限り、新たな国際体制をつくらなくても秩序の維持はできる。だが、中国の経済的軍事的台頭と米中関係の緊張、さらにクリミア併合後のロシアと欧州の緊張によってこの構図は壊れ、覇権の競合が復活する。バイデン政権の誕生はトランプ政権における国内重視からアメリカ外交が転換する機会でもあったが、打ち出されたのはアメリカの同盟国・友好国の連携に基づいた中国とロシアとの競合だった。
  •   *   * 
 以前から進んでいた冷戦時代のような東西への世界の分断はロシアのウクライナ侵攻によって一気に進み、固定化されようとしている。
 ロシアの侵攻に対する非難とウクライナとの連帯は世界的規模で見られたが、各国の違いは大きい。習近平政権のもとで合同軍事演習などロシアとの連携を深めてきた中国は、領土保全原則を強調することでウクライナ侵攻の支持は避けながらも、ロシアへの制裁は強く批判してきた。日米豪との軍事政治連携を強めたインドも対ロ制裁に加わっていない。侵攻後の対ロ経済制裁に加わったのはNATO・EU諸国のほかには日本、オーストラリア、韓国など、アメリカとその同盟国に集中しており、中国やインドはもちろん、ラテンアメリカ、アフリカ、中東、東南アジアの諸国もロシアへの制裁に慎重な姿勢を崩していない。
 アジア太平洋諸国の防衛担当者が集うアジア安全保障会議(シャングリラ・ダイアローグ)で基調講演を行った岸田文雄首相は、ウクライナは対岸の火事ではないと述べ、弱肉強食の世界への回帰に懸念を表明した。懸念の焦点が北朝鮮と並んで中国であることは明らかだったが、植民地支配の経験を忘れられないと述べたインドネシアのプラボウォ国防相を始めとして、中国との対抗から距離を置く指導者は少なくなかった。
 ウクライナ侵攻によって将来のロシアが弱体化することは避けられない。しかし、アメリカとその同盟国・友好国だけをメンバーとする秩序の限界も明らかになってきた。長い戦争が、国際秩序の中心と周辺の間に開いた溝をさらに深めようとしている。 (国際政治学者)」朝日新聞2022年6月15日夕刊2面、時事小言。
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戦争の終わらせ方 14 ナチス・ドイツの最期  リベラル政党?

2022-06-18 12:31:00 | 日記
A.政権の崩壊と国家の滅亡
 歴史の上で、戦争に敗北した国がそのまま国家として滅亡した例はいろいろあったけれど、20世紀に大戦争をやって敗北し、国家が滅亡した例としてドイツが代表的である。ただし、第1次世界大戦のときは19世紀のプロイセンから近代国家に発展したドイツ帝国は、敗北して皇帝がいなくなりワイマール共和国になり、ドイツは膨大な賠償金と領土を削られたけれども、あらたな国として存続した。この屈辱を反転してドイツの復活・ゲルマン民族の優秀性を訴えたヒトラーが、やがて合法的な選挙によって国民の支持を獲得し、強力な国家主義とナチスの独裁によってついに第2次世界大戦を惹き起こしたことは誰でも知っている。そして、ヨーロッパ中を戦争の惨禍に巻き込んで1945年5月に、首都ベルリンに攻め込んだソ連軍によって追い詰められたヒトラーは、最後まで敗北を認めずに自殺してドイツは再び滅亡したことも誰でも知っている。それでもまだ本土決戦を呼号していた大日本帝国も、8月に敗北を認め降伏した。19世紀までの「講和」は、あくまで戦った国家同士の対等な交渉のなかで戦後をどうするかを決めるもの、といえたが、「無条件降伏」は戦後を勝者が主導して決めるというものになる。
 これで戦争が終り、勝利した連合国側、つまりアメリカ、イギリス、ソ連、そして枢軸国側と戦ったフランス(実はドイツに協力した人たちもいたのだが…)と中国(中華民国)が、国際連合を含む戦後の国際秩序を形成して平和が訪れた、ということもいまや歴史の真実として記録されている。しかし、「勝った戦争」を賛美する歴史観を、「敗けた戦争」で戦後を生きることになったドイツや日本の国民にとっては、単純に肯定し賛美する気にはなれなかった。しかし、敗北という事実を認めない訳にはいかない。ぼくたちは、この戦争がどのように終わったかを、みておきたい。

 「東部戦線は崩壊に瀕していた。1944年8月20日に発動されたルーマニア方面へのソ連軍攻勢は大きな成功を収め九月末には、ブルガリアに進出する。ブルガリアは枢軸国の一員だったが、陣営を転じて、ソ連側に立って参戦したのである。ついで、ソ連軍はハンガリーに進撃し、12月末までに首都ブダペストを包囲、ドイツ軍とハンガリー軍の守備隊を孤立させた。ドイツ軍はブダペストを救出するため、装甲部隊を派遣して、1944年12月末から翌1945年1月にかけて反撃を行い、ひとまずソ連軍の前進を止めた。しかし、ソ連軍は攻撃を再開し、2月12日、激しい市街戦ののち、ブダペストを占領した。北方、バルト海沿岸からポーランドにかけての地域においても、ソ連軍は「バグラチオン」以来の連続攻勢により、北方軍集団の後方を遮断しつつ、ドイツ国境に迫っていた。軍事的にみれば、すでに戦争の決着はついていたのである。
 この窮境をみたリッペントロップ外相は、駐独日本大使大島浩を招き、ソ連との仲介を依頼した。日本側は、望み薄とは思いつつも、工作に着手し、その旨をリッペントロップに伝えた。ところが、結局、ヒトラーは最期まで軍事的成果に頼ると決定したというのが、リッベントロップの回答であった。
 この一挿話に象徴されているように、ヒトラーは、敗北直前にあってもなお、対ソ戦を、交渉によって解決可能な通常戦争に(それが可能であったか否かは措いて)引き戻す努力をするつもりなどなかった。「世界観戦争」を妥協なく貫徹するというその企図は、まったく動揺していなかったのである。
 しかし、ヒトラーはそうであったとしても、ドイツ国民はなぜ、絶望的な情勢になっているにもかかわらず、抗戦を続けたのだろう。第一次世界大戦では、総力戦の負担に耐えかねた国民は、キールの水兵反乱にはじまるドイツ革命を引き起こし、戦争継続を不可能としたではないか。ならば、第二次世界大戦においても、ゼネストや蜂起によって、戦争を拒否することも可能ではなかったのか。どうして、1944年7月20日のヒトラー暗殺とクーデターの試みのごとき、国民大衆を代表しているとはいえない抵抗運動しか発生しなかったのであろうか。
 これらの疑問への古典的な回答として、しばしば挙げられるのは、連合国の無条件降伏要求である。周知のごとく、1943年1月のカサブランカにおける、ローズヴェルト米大統領とチャーチル英首相の会談で打ち出された方針で、枢軸国に対しては、和平交渉を通じての条件付降伏を認めないとするものだ。ナチス・ドイツは、無条件降伏など、全面的な屈服と奴隷化を意味することだと喧伝し、それをまぬがれたければ、ひたすら戦い抜くしかないと、国民に対するプロパガンダに努めた。また、体制の統制・動員能力が、秘密警察等により、第一次世界大戦のときよりも飛躍的に高まっていたため、組織的な罷業や反抗など不可能だったとする説明もある。
 けれども、近年の研究は、より醜悪な像を描き出している。本書でも述べたごとく、ナチ体制は、人種主義などを前面に打ち出し、現実にあった社会的対立を糊塗して、ドイツ人であるだけで他民族に優越しているとのフィクションにより、、国民の統合をはかった。しかも、この仮構は、軍備拡張と並行して実行された、高い生活水準の保証と社会的勢威の上昇の可能性で裏打ちされていた。こうした政策が採られた背景には、第一次世界大戦で国民に耐乏生活を強いた結果、革命と敗戦をみちびいた「1918年のトラウマ」がヒトラー以下のナチ指導部にあったからだとする研究者もいる。
 とはいえ、ドイツ一国の限られたリソースでは、利によって国民の支持を保つ政策が行き詰まることはいうまでもない。しかし、1930年代後半から第二次世界大戦前半の拡張政策の結果、併合・占領された国々からの収奪が、ドイツ国民であるがゆえの特権意地を可能とした。換言すれば、ドイツ国民は、ナチ政権の「共犯者」だったのである。それを意識していたか否かは必ずしも明白ではないが、国民にとって、抗戦を放棄することは、単なる軍事的敗北のみならず、特権の停止、さらには、収奪への報復を意味していた。ゆえに、敗北必至の情勢となろうと、国民は、戦争以外の選択肢を採ることなく、ナチス・ドイツの崩壊まで戦いつづけたというのが、今日の一般的な解釈であろう。
 つまり、ヒトラーに加担し、収奪戦争や絶滅戦争による利益を享受したドイツ国民は、いよいよ戦争の惨禍に直撃される事態となっても、抗戦を放棄するわけにはいかなくなっていたのである。
 他方、スターリンとソ連にとっての独ソ戦はすでに、生存の懸かった闘争から、巨大な勢力圏を確保するための戦争へと変質していた。ドイツの侵攻前に獲得していた地域に加え、さらに領土を拡大することが戦争目的とされたのだ。たとえば、戦後に成立するであろうポーランドにも、1939年に奪った地域は変換せず、ドイツの領土を割譲させて、同国を西に動かすこととされた。また、それ以上に、中・東欧を制圧して、衛星国を立て、西側との緩衝地帯とすることが重要であった。そのためには、できる限りソ連軍を進撃させ、中・東欧の支配を既成事実にしなければならない。
 こうしたスターリンの政策が如実に示されたのは、1945年2月、クリミア半島のヤルタで行なわれた米英ソ首脳会談であった。スターリンは、敗戦ドイツの分割統治のほか、ポーランド、バルト三国、チェコスロヴァキア、バルカン半島諸国を勢力圏とすることを求めた。
 ドイツ本土進攻作戦は、事実上、こうしたスターリンの戦略目標を達成するための計画であった。バルカン半島方面の攻勢により、ドイツ軍の予備を南に誘引したのちに、正面攻撃と南からの突進により、東プロイセンにある敵を包囲殲滅、ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)を占領する。この東プロイセン作戦と同時に、ヴィスワ川からポーランド西部を横断し、ベルリンを指向する主攻がはじまる。
 1945年1月12日、ソ連軍のドイツ侵攻作戦が開始された。第一ウクライナ正面軍は攻勢発動から一週間でドイツ本土に進入、同月21日から22日にかけての夜に、ベルリンを守る最後の自然の障壁であるオーデル川を渡河していた。第一白ロシア正面軍も、1月31日にキュストリン北方でオーデル川を渡る。
 もはや、ソ連軍のベルリン進撃を押しとどめるものはないと思われたが、スターリンは安全策を採り、敵首都に前進する前に、両側面、ポンメルンとシュレージェン(シレジア)のドイツ軍残存部隊を掃討せよと命じた。この間、首都を守るべきドイツ軍装甲部隊の主力は、そこにいなかった。1945年1月の反撃が当初成功したことを過大評価したヒトラーは、最後に残った強力な装甲軍(第六SS)をハンガリーに派遣、犯行を実施させていたのである(三月に作戦中止)。3月16日、ソ連軍が攻勢を発動するとともに、ベルリン前面のドイツ軍の戦線は寸断された。南では、潰走するドイツ軍を追撃したソ連軍が、4月13日にウィーンに入った。
 当初は慎重な作戦指導を堅持していたスターリンであったが、四月に入ると、ベルリン攻略を急ぐ必要が出てきた。西側連合軍がライン川を渡り、急速に東進をはじめていたからだ。敵首都占領の栄誉を譲ってはならないと、スターリンは、ベルリンへの進撃を早めるように命じた。
 1945年4月16日、ジューコフ指揮の第一白ロシア正面軍は、ベルリン東方のゼーロフ高地の攻撃にかかった。ここを突破すれば、ベルリンへの道には何の障害もなくなる。ところが、圧倒的な数で攻めたはずのソ連軍は、ドイツ軍装甲部隊の巧妙な反撃を受け、大損害を被った。しばしば、ドイツ軍装甲部隊の「白鳥の歌」と称される戦術的な勝利であった。だが、今日では、ゼーロフの戦いは、いわば、ドイツ軍の勝利というよりも、ジューコフの敗北だったことがわかっている。ジューコフが狭隘な正面に兵力を過剰集中したため、ソ連軍は、作戦・戦術的に有効な動きを取ることができず、ドイツ軍の防御放火の好餌となったのである。
 その晩に、ゼーロフ高地奪取の失敗を報告したジューコフに対し、スターリンは、イヴァン・S・コーニェフ元帥率いる第一ウクライナ正面軍の進撃は順調であるから、そちらにベルリン包囲の命令を出すと告げた。典型的な分割統治である。スターリンは、将軍たちを分断し、競争させることこそが、おのれの利益にかなうことを心得ていたのだ。ジューコフとしても、ライバルが大功を上げるのを拱手傍観しているわけにはいかない。翌17日、第一白ロシア正面軍は、ゼーロフ高地を迂回、他の正面で突破に成功する。戦闘の焦点は、いよいよベルリンに移った。
 4月20日、ソ連軍先鋒部隊は、ベルリンに最初の砲撃を浴びせた。第一白ロシア正面軍が南東から、ベルリン包囲にかかる。しかし、ヒトラーは、首都を離れようとしなかった。総統がベルリンにある以上、ドイツ国民は抗戦しつづけるはずだし、また、外部からの救援軍が包囲を解くものと信じたのだ。だが、そうした部隊は、実際には、すでに消耗しきっており、ベルリン解囲など不可能であった。
 4月26日、ジューコフの第一白ロシア正面軍は、ベルリン市内に突入した。市街戦が開始され、とりわけ国会議事堂周辺では激戦となった。ソ連軍はしだいに市の中心部を制圧、ベルリンのドイツ軍守備隊は5月2日に降伏する。それに先立つ4月30日、ヒトラーは、総統地下壕で自殺していた。その遺書には、なお闘争を継続せよとの訴えが記されていたのである。
大戦最終段階のドイツは黙示録的様相を呈していた。ドイツ本土に侵攻したソ連軍は、略奪、暴行、殺戮を繰り返していたのだ。かかる蛮行を恐れて、死を選んだ例も少なくない。なかには、集団自決もあった。フォアポンメルンの小都市デミーンでは、ソ連軍の占領直後、1945年4月30日から5月4日にかけて、市民多数が自殺した。正確な死者数は今日なお確定されていないが、700ないし1000名以上が自ら命を絶ったと推定されている。世界観戦争の敗北、その帰結であったが、ナチのプロパガンダは、デミーンこそ模範であるとして称賛した。
 加えて、ドイツが占領した土地へ入植した者、ロシア、ポーランド、チェコスロヴァキア、バルカン諸国のドイツ系住民が、ソ連占領軍や戦後に成立した中・東欧諸国の新政権によって追放されたことによっても、膨大な数の犠牲者が出ていた。彼ら「被追放民(フェアトリーベネ)」は、財産を没収され、飢饉や伝染病に悩まされながら、多くは徒歩でドイツに向かったのだ。その総数は、1200万ないし1600万と推定されている。うち死者は100万とも200万ともいわれる。」大木毅『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』岩波新書、2019年、pp.209-217.

 ドイツは兵士だけでなく多くの一般国民、さらに占領地のドイツ系移民の命と財産を失ったが、ソ連はさらにそれを上回る膨大な死者と負傷者を積み上げた。国民の多くは家族友人をこの戦争で失っている。その記憶はいまもなお、人々に強く残っている。それは日本も同様なのだが、さすがに79年以上の時間は、「敗けた戦争」を忘却の彼方に追いやりつつある。それは仕方がないともいえるが、だからといって、あれはなかったこと、少なくとも「悪い戦争」なんかじゃなかった、と言い出すとすれば、それは歴史を無視した妄想にすぎない。


B.なんだかなあ?
 立憲民主党は今の日本における「リベラル」を代表する政党だろうか?かつて、日本政治における「保守対革新」の二大勢力の構図が語られた時代があった。天皇や憲法、日米関係、自衛隊といった基本的な対立軸について、伝統的価値と経済成長を謳う保守自民党に対して、反戦平和主義、モダン市民主義を謳うリベラル諸政党が対抗的政党として存在すると想定されていた。しかしそれはもう、過去の、ある意味で経済大国を誇っていた「一億総中流」幻想の時代のお話であって、今の日本はそんな楽天的な事態にはない。かつての左翼、社会党の末路をみるまでもなく、リベラル政党は衰弱し、その潮流を受け継ぐとみられた民主党が政権を取ったとたんに、保守の猛烈な巻き返しと内部崩壊によって国民の支持を失い、現在の四分五列に至ったことは、みんな知っている。最大野党の立憲民主党ははたしてリベラルなのか?そこにいる政治家の発言をみると、怪しげな世論にうろたえて、自分は左翼でもリベラルでもなく、中道保守の立場なのだ、などという人がいっぱいいる。じゃあ、自民党とどこが違うんだ、と問われて「国民生活本位」みたいなことしか言えない。これじゃ敗けるよなあ。こんどは自衛隊員の支援議連だという。べつに自衛隊はいらない、なんて昔の左翼に戻る必要はないと思うが、軍拡を続ける自衛隊をどうするか、改憲議論のなかで明確なヴィジョンを語ったうえで、自衛隊員の処遇というような具体論を展開すべきだと思うが、これじゃ姑息である。

「自衛隊員応援議連 立民有志が設立 イメージ刷新 唐突に
立憲民主党の有志が十四日、新たな議員連盟を発足させる。その名も「自衛隊応援議連」。自衛隊の処遇や訓練環境改善、退官後の就職まで応援するという。ウクライナ危機で安全保障への関心が高まったことが背景にあるようだが、唐突感は否めない。狙いは何なのか。(大杉はるか)
「立民は安保や自衛隊に後ろ向きなイメージを持たれているが変えたい。自衛隊へのスタンスをはっきり示さなければいけない」。議連幹事長の渡部周元防衛副大臣は狙いを説明する。「防衛予算のうち人件費や糧食費、訓練費が七割を占めるが、実態はどうなのか。隊員に焦点を当てる」
事務局長の重徳和彦衆院議員も「士気の高い自衛隊を維持することが国防の基礎。自衛隊員を大事にする姿勢を行動で示す」と話す。会長は枝野幸男前代表で、顧問が泉健太代表や野田佳彦元首相、安住淳元財務相ら。基地や老朽化施設の視察、隊員との意見交換などを考えているという。
自衛隊の処遇は、確かに問題がありそうだ。
昨年十一月の財政審資料によると、自衛官の中途退職者は、新規採用者の三分の一に相当する年間四千人で、十年間で四割増えた。このうち65%が任官後四年以内で、多くが二十代だ。退職理由の41.4%が転職で、家庭事情(9.7%)、性格不適合(7.5%)と続く。
自衛隊のハラスメント相談件数は2018年度は292件だったが、20年度は1077件と3.7倍に。防衛相の担当者は「いじめやハラスメントで健康を害して退職したというものがいるかもしれない」と国会で答弁している。
そんな中で設立される議連だが、違和感を抱く人たちもいる。ミサイル防衛強化が進む陸上自衛隊宮古島駐屯地の地元、沖縄県宮古島市の住民がそうだ。
「ミサイル基地いらない宮古島住民連絡会」の仲里繁代表は「自衛隊の災害支援は必要だが、武力を持つことには制限があるべきだ。戦争につながる機能はいらない。それも含めて議連が推進するなら納得いかない」と話す。
「ミサイル部隊が集落内にある。ゲートで隊員が小銃を持ち、引き金に指をかけて警備をしているがやめてほしい。立民の人たちも実態を見てほしい」
同市議会は先月、自衛隊と海上保安庁に感謝する決議案を可決した。ただ、全員が賛成したわけではなく、反対した池城健市議は「復帰して五十年間、県民、市民は子や孫のために頑張ってきた。なぜ自衛隊や海保にだけなのか。違和感を覚えた」と話す。
今回の議連については「国民の関心が安全保障に向かっているのは分かるが、戦争が起きれば宮古島はミサイルの標的になり、私たちには逃げるところがない。自衛隊応援と持ち上げるのではなく、政党として、外交の力で戦争が起こらない方向に持っていくならいいが、この時期に設立の意味がわからない」と疑問を呈した。
「自衛隊は二十万だが、隊友会や家族も含めれば、二百万~三百万。立民に結び付けたいという思いも相当あると思う」。纐纈厚・山口大名誉教授(政治学)は読み解く。「今の立民の安保政策は、米国との関係で肥大化する自衛隊を堅持し、軍拡を認めていく方向性だ」
さらに「民主党時代から、確固たる安保戦略を持っていない」点も懸念する。「脅威という前に、経済的結び付きが米国より強い中国との友好関係を目指すのが最大の安全保障。新しい安保論を打ち出さないといけない。選挙目当てに自衛隊との連帯を打ち出すのは視野が狭い。このまま自民党化するなら、立民はますます先細りだろう」」東京新聞2022年6月14日朝刊、24面。
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戦争の終わらせ方 13 収奪戦争から絶滅戦争へ  軍事費拡大は必要か

2022-06-15 21:29:48 | 日記
A.独ソ戦の最終局面
 この大木毅氏の『独ソ戦』では、戦争を大きく3つの性格の異なるタイプに分け、実際に行われた独ソ戦を、それらが複合した形で変容していったと説明している。3つとは、戦争目的を達成したのちに講和で終結する19世紀的戦争を「通常戦争」、領土や住民の社会生活の奪取を続ける戦争が「収奪戦争」、そしてナチス・ドイツが目指した人種主義にもとづく社会秩序の改変と植民地帝国の建設をめざす「世界観戦争」(敵の殲滅をめざす「絶滅戦争」)という最終形態になる。ドイツにとっての対ソ戦ははじめ、通常戦争、収奪戦争、世界観戦争の3つが並行する形で進み、通常戦争での優勢(1941年12月まで)が失われると「収奪戦争」の性格を強め(1942年8月まで)、やがて敗退局面が来ると「絶滅戦争」の様相を濃くし(1945年5月まで)、史上空前の殺戮と惨禍をもたらしたという。
 これに対し、ソ連にとっての対独戦は、スターリンが権力を握る共産主義国家の成果を防衛することが、祖国を守る防衛戦争だとの論理を立て、イデオロギーとナショナリズムを融合させることで、国民の動員を図った。そしてそれがドイツの侵略をしりぞける結果をもたらしたが、同時に敵に対する無制限の暴力の発動を誘発した。それは、中・東欧地域への社会主義国家の拡大を貪欲に追及する動機づけでもあった、と論じている。1943年8月のクルスク会戦以後のドイツ軍は、ソ連領に攻め込んで戦うだけの力を失い、ソ連軍の組織的な作戦術によって敗退を重ねることになるが、ヒトラ-は世界観戦争の勝利を叫んで軍の撤退を認めなかった。その結果どうなったかは、誰もが知っている。

 「クラウゼヴィッツは、戦争の本質が、敵に自らの意思を強要することである以上、敵戦闘能力を完全撃滅し、無力化する「絶対戦争」を追求するべきだと考えた。けれども、現実には、さまざまな障害や彼のいう「摩擦」、また、政治の必要性などによって、戦争本来の性質が緩和されるために、絶対戦争が実行されることは例外でしかないとみなすようになったとされる。だが、ヒトラーは、まさにその例外を実現しようとしていた。
 一方、スターリンの眼目は、ちょうどリッベントロップとは逆に、方針の動揺から、断固たるドイツの打倒へと進んでいた。実は、ドイツとの単独和平についても、独ソ開戦当初から、1943年のスウェーデンでの接触に至るまで、スターリンは、積極的ではないにせよ、可能性としては排除していなかったと推測されている。だが、スターリンはもはや、その選択肢を完全に捨て去っていた。そうした決断に大きく与っていたのが、西側の大国、米英との「大同盟」であったことはいうまでもない。
 1941年6月22日、ドイツ軍がソ連に侵攻したとの報を、米英は歓迎した。それによって、大国ソ連を味方に引き入れることができたと考えたのである。ナチス・ドイツの友であった共産主義国家が一転して、肩を並べてヒトラーと戦う同盟国になったとみた米英両国は、ソ連に対する支援を保証し、実行した。
 1941年8月には、ソ連への援助物資を満載した最初のイギリス護送船団が、北の補給ルートである北海を越え、北極海の港アルハンゲリスクトムルマンスクに入っている。1941年9月には、中東を通る対ソ援助ルートを確保するため、ソ連とイギリスがイランを占領、同年11月から、この補給路を使ったアメリカの物資輸送が開始された。最終的には、アメリカは総額100億8000万ドル、イギリスは50億9000万ドル相当の支援を、ソ連に与えたのである
 もちろん、米英が膨大な援助を実行したのは、対独戦の主役となっているのはソ連であり、この国が脱落したら、連合軍の敗北を招きかねないと危惧したからであった。ソ連側もまた、自らがおちいった苦境を脱しようと、「第二戦線」、米軍の反攻により、東部戦線以外にドイツ軍を拘束する戦線を築くよう繰り返し求めた。スターリンが、第二戦線の展開をチャーチルに請うたのは、1941年7月18日、独ソ開戦の約一か月後までさかのぼることができる。
 加えて、スターリンは、ドイツ軍をほぼ一手に引き受けているという、米英に対する「貸し」を利用し、ソ連の国益確保を進めだした。早くも1941年12月に、スターリンは、イギリス外相アンソニー・イーデンに対し、独ソ開戦時のソ連の国境線(すなわち、ポーランドの東半分やバルト三国などを領土に含むもの)を承認すべしと主張している。
 スターリングラードの勝利以後は、ソ連のみが不均衡なほどにドイツの圧力を引き受けている、その代償として勢力圏の拡大を認めよと述べるまでになった。その要求は、モスクワにおける連合国外相会談(1943年10月19日~30日)などで、次第に具体的になっていく。スターリン自身も、続くテヘラン会議において、チャーチル英首相とフランクリン・D・ローズベルト合衆国大統領に、連合軍側でのソ連の貢献を誇示し、さまざまな要求を出した。ソ連という重要な同盟国をつなぎとめる必要から、米英もこれを認めざるを得ない。
 こうして、スターリンとソ連の外交目標は、ドイツを徹底的に打倒することを前提として、中・東欧の支配を米英に認めさせることへと固まっていく。スターリンは、独ソ不可侵条約とその付属議定書によって定められた勢力圏を、今度は米英との同盟によって、西に拡大しようともくろんだのである。 
 こうしたスターリンの外交攻勢の陰で、ソ連軍の側でも、人道を踏みにじる蛮行が繰り返されるようになっていた。独ソ戦の最終局面を叙述する前に、それらを概観しておこう。
 東部戦線におけるドイツ軍の捕虜に対する扱いは過酷であった。とはいえ、第三章で述べたように、ソ連軍のそれも、とうてい戦時国際法を守ったものとはいえない。1943年のスターリングラード戦勝利後、また戦後の1946年から1947年にかけて、捕虜収容所の環境は二度改善されたが、それでもなお充分ではなかった。ソ連が取ったドイツ軍捕虜の総数は、260万から350万まで諸説あるけれど、およそ30%が死亡しているというのは、大方の一致するところである。
 また、ドイツ兵だけでなく、ソ連国内の「敵性住民」にも、非人道的な措置が適用された。中世以来の移民の結果、ソ連には、ヴォルガ・ドイツ人をはじめとする多数のドイツ系住民が存在していた。独ソ開戦時で、その数は140万だったとされている。スターリンは、彼らに対し、シベリア、カザフスタン、ウズベキスタンへの強制移住を命じたのだ。かくて、70万とも120万ともいわれる人々が、家畜運搬用の貨車、あるいは徒歩で大移動を行い、飢えや渇き、過剰に貨車に詰め込まれたがための酸欠で死亡した。また、移住先の環境も厳しく、最初の四年間の死亡率は、20ないし25%におよんだという。なお、かかる強制移住の対象は、ドイツ系住民だけにとどまらず、のちには、ムスリムや旧バルト三国の国民、反スターリン運動が強かった西部ウクライナ住民にまで広げられた。
 しかし、前線のソ連軍将兵の蛮行も、その残虐さにひけを取るものではなかった。先にふれたイデオロギーとナショナリズムの融合と、それによる国民の動員は、否が応でも敵に対する仮借なさを増大させていた。いまや、祖国を解放し、ドイツ本土に踏み入ることになったソ連軍将兵は、敵意と復讐心のままに、軍人ばかりか、民間人に対しても略奪や暴行を繰り広げたのである。
 ソ連軍の政治教育機関は、そうした行為を抑制するどころか、むしろ煽った。再びイリア・エレンブルグの書いた記事を引こう。「報復は正義であり、報復は神聖でさえある。兵士の親友が殺され、妹がさらわれ、道すがらの村が略奪され、焼き払われただけで、理由は充分なのだ。ドイツの台所にぴかぴかの鍋があって、食器棚に磁器がいっぱい並んでいるだけで充分なのだ。殺すドイツ人が一人もいなければ、機関銃でやつらの珍奇なグラスを粉々にすればいい」。
 よって、ソ連軍のゆく先々で地獄絵図が展開されることになった。ある青年将校の証言を聞こう。「女たち、母親やその子たちが、道路の左右に横たわっていた。それぞれの前に、ズボンを下げた兵隊の群れが騒々しく立っていた」。「血を流し、意識を失った女たちを一か所に寄せ集めた。そして、「わが兵士たちは、子を守ろうとする女たちを撃ち殺した」。
 「大祖国戦争」を標榜し、スターリン体制の維持とナショナリズムを合一させた政策は、ソ連側においても通常戦争の歯止めをはずし、犯罪行為を蔓延させていたのだ。ドイツ側もまた、ソ連側の蛮行に直面し、よりいっそう残虐な形で戦争を遂行することになる。
 かくて、独ソ戦の最終局面は、空前、そして、今のところは絶後である巨大な暴力に染め上げられていくのである。」大木毅『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』岩波新書、2019年、pp.196-202.

 「ドイツ国防軍にとって、1944年夏は大敗の季節となった。
 西側連合軍は、1943年に北アフリカの枢軸軍を壊滅させ、ついで、シチリア島、イタリア本土と攻めのぼって、ムッソリーニ政権を崩壊させていた。翌1944年6月6日、彼らは北仏ノルマンディに上陸し、橋頭堡を確保する。ついに、スターリンが熱望していた第二戦線が開かれたのだ。米英軍を主体とする連合軍の攻勢は、ドイツ軍の抵抗を受けて、一か月ほどは停滞していたが、8月に入ると、橋頭堡からの突破に成功し、たちまち西部戦線のドイツ軍を壊滅させた。同月25日にはパリが解放される。
 このノルマンディ上陸作戦に呼応して、ソ連軍の大攻勢が実施されるのは、時間の問題だった。焦点となったのは、どこで行われるかということである。
 第一に考えられるのは、ポーランド南部とバルカン半島に進撃し、ルーマニアやハンガリーなど、枢軸側の諸国を戦争から脱落させることだ。ドイツ軍も、そうした作戦が行われる可能性が最も高いとみていた。ただし、同方面で作戦を実行すれば、ソ連軍の兵力を分散し、また山岳地帯が多いバルカン半島の地形によって、前進が停滞する恐れがある。
 第二の選択肢、ウクライナから北西に進み、ポーランドを通ってバルト海沿岸に到達、ドイツ軍の背後を遮断することだった。だが、当時のソ連軍の指揮統制・兵站能力からすれば、このような大作戦は困難と目された。
 第三の可能性としては、フィンランドを屈服させ、バルト三国を奪回するために、北に戦力を集中することだった。けれども、そうした作戦では、大きな戦果は期待できない。北部ロシアで、ソ連軍と対峙していたドイツ北方軍集団は強力な陣地を構築しており、しかも、機動困難な地形であるから迂回作戦は見込めず、犠牲が多くなる正面攻撃をかけるしかない。さらに、もし順調に進撃したところで、バルト海によって北翼を支えられたドイツ軍の戦線を突破することはありそうになかった。何よりも、1944年1月13日から14日にかけて開始されたソ連軍攻勢により、レニングラードはおよそ900日におよぶ攻囲から解放されており、北部ロシアに作戦努力を傾注する必要性は薄くなっていたのだ。
 結局、ソ連軍が選んだ策は、プリピャチ湿地の北側に戦力を集中しての攻勢だった。ソ連軍のウクライナ攻勢が成功した結果、ドイツ軍の戦線は、白ロシア(ベラルーシ)に大きく張り出したかたちになっていた。この巨大な突出部を根元から切除することを企図したのである。スターリンは、ナポレオンの侵攻に抗した帝政ロシアの将軍にちなんで、この作戦に「バグラチオン」の名を冠した。
 「バグラチオン」作戦で注目すべきは、それがソ連作戦術の完成形を示していたことであろう。戦略目的を達成するために、戦役を配置するという作戦術の原則に従い、フィンランド方面の攻勢、白ロシア作戦(「バグラチオン」)、南部ポーランドへの進撃、ポーランド中部への侵攻、ルーマニア攻撃から構成される五つに連続打撃を行うこととされていた。
 これらの連続攻撃が相互に連関し、協同の実が得られるように、ヴァシレフスキーとジューコフの両将軍が、赤軍大本営代表として、自前の司令部とともに派遣された。彼らは、単にモスクワの伝声管にすぎない存在などではなく、赤軍大本営と各正面軍のあいだの中間指揮階梯を形成し、遅滞なく連続打撃を行えるよう調整する任を帯びていた。事実、ジューコフは麾下に置かれた第一・第二白ロシア正面軍、ヴァシレフスキーは第一バルト正面軍ならびに第三白ロシア正面軍の各級司令官と討議を繰り返し、遺漏なき「バグラチオン」遂行を期したのである。これもまた作戦術の一環だったといえよう。ちなみに、こうして磨き上げられた作戦術は、翌年の「満州国」侵攻でも猛威をふるうことになる。」大木毅『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』岩波新書、2019年、pp.202-206.

  戦争が広い野原で両軍が激突する短期決戦で決着がつき、あとは講和交渉で終わった「通常戦争」はもう20世紀にはありえず、ヨーロッパ各地で都市を奪い合い、殺し合いを続けた戦争は、飛躍的に大規模な破壊と殺戮の連続になった。これがどれほどの生命を奪い、国土と人々の心を荒廃させたか。敵も味方も深く反省したはずだった。でも…戦争はなくなっていない。


B.戦争に沸き立つ人々がいる
 防衛予算を大幅に増やせという議論が、ウクライナ戦争で煽られたように出てきた。「安全保障環境の激変」という言葉で、前から自民党は防衛予算の増大を毎年主張していたが、今年はひときわ盛り上がっているようだ。でも、その必要性は合理的根拠があるのか?ただ、アメリカの要求通りに武器を買うだけじゃないのか?

 「本音のコラム:「骨太」方針の中身  鎌田 慧 
 ロシア・ウクライナ戦争は停戦に至ることなく、破壊と死者を増やし続けている。その間に進んでいるのが、政府の「防衛力強化」の画策である。
 防衛費は毎年、過去最大更新を記録して、いまや五兆四千億円。さらにこれを倍増して十一兆円にするとは、今回の戦争以前の方針だった。対日貿易赤字を解消したいトランプとの首脳会談(2018年9月)で、安倍元首相が「防衛力強化」を約束していた。
 その年に策定された「防衛計画の大綱」に先駆け、「GDP(国内総生産)比2%」と自民党がすでに提言していた。そして急速にふえたのがFMS(対外有償軍事援助)に基づく契約だった。
 防衛省中央調達契約額をインターネットで引くと、20年度に米空軍省から購入したF35戦闘機一式だけでも、千百五十七億円。FMSの総額は四千億円余り。日本トップを独走してきた三菱重工を上まわっている。
前年度はおよそ七千億円にも達していて、三菱重工の倍以上。FMSは代金先払い、米側が金額を勝手に変更して、価格高騰を招いている。
日本経済は、トランプ、バイデンと続くバイ・アメリカン(米国製品を買え)政策に支配されてきた。国債残高千二十六兆円。骨太方針どころか白骨方針。戦争はすべてを破壊し、膨大な死者をつくり出す。兵器のバカ買いで平和は守れない。(ルポライター)」東京新聞2022年6月14日朝刊、25面。
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