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 日本の前衛美術運動について 4 戦争への時代の前衛  代議士かくあるべし

2024-08-11 16:09:09 | 日記
A.独立美術協会と自由美術協会
 第1次世界大戦から第2次世界大戦までのいわゆる「戦間期」は、ロシア革命の翌年、休戦協定で戦争終結した1918(大正7)年11月からナチ・ドイツ軍のポーランド侵攻開始の1939(昭和14)年9月までの約21年間。詩人トリスタン・ツァラが新しい芸術に「ダダ」と命名したのは、まだ第1次大戦中の1916年チューリヒだった。これもフランスの詩人アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表したのが1924年だった。すでに第1次大戦以前に、ピカソらのキュビスムとマティスらのフォーヴィスムは、写実主義を否定して20世紀絵画に革新をもたらしていたけれども、大戦による破壊とロシア革命の嵐のあとで、ヨーロッパ各地で大戦前の世紀末的芸術を時代遅れの過去の遺物と否定して、新時代の前衛アヴァンギャルド運動を展開した若い世代が登場した。ダダイスム、フォルマリスム、未来派、表現主義、シュールレアリスム、アブストラクト・アートなど多様な試みが花開き、ファシズムの政治が戦争に向かっていく時代を彩った。
 日本から美術の世界を目指してヨーロッパに渡った若者も、大正時代には数多くなっていた。美大出身者だけでなく、文学や哲学、法律家や医師として西洋に留学するなかで、先端的美術や音楽に触れてアーティストに転身するものも出てくる。ただ、彼らは前衛アートが何をやろうとしているか、ただタブローに絵具で対象を写実するのが絵だ、という常識を覆すのが、いかなる挑戦的冒険なのか、よくわかっていないうえに、キュビスムもフォーヴィスムも、ダダイスムも、シュルレアリスムも、同時期に一緒くたに見てしまうものだから、20世紀現代アートとして一括してみても、自分がどこにいて何を試みるのか、さ迷ってしまう。それは、彼らが日本に戻って前衛美術運動を始めたときに、たちまち相互非難や対立を生んで、離合集散することになる。不幸なことに、日本は気がつけば国家の滅亡にいたる大戦争に向かってひた走っていたのだ。

「昭和戦前より戦中へ 独立美術協会――フォーヴィズムより超現実主義へ
 大正15年にフランス留学中に知りあった傾向を同じくする木下孝則、小島善太郎、前田寛治、佐伯祐三、里見勝蔵ら五人の作家が集まって、1930年協会を結成した。帝展に出品した前田をのぞいたほかはみな、二科会に出品して、いずれも樗牛賞や二科賞を受けた力量ある作家ばかりで、第一回展には滞欧作品を180点も陳列するという充実した出発をみせた。1930年協会の名はコロー、ミレー、ドーミエらを1830年派として、それらの芸術に対する純真な気持に共感するという意味からつけられたものだが、またきたるべき1930年の未来での新しい発展を期待する意味も含まれている。その主張は外光派風の自然描写に対して、生命感のこもったフォーヴィズムを基調とするところにあった。
 さてこのころは在野団体として最大規模を持つ二科会も設立後十数年を経て、その活動も大きくふくれあがり、やや飽和状態に達してきた感があった。1930年協会が未来を期したその1930年の昭和五年に、この気鋭のメンバーが中心になって二科会を退き、新しく独立美術協会を創立した。参加メンバーは二科会から会員の里見勝蔵、小島善三郎、会友の川口軌外、小島善太郎ら9名、それに春陽会の三岸好太郎とそれに福沢一郎らが参加した。その目標とするところは「既成の団体より絶縁し、新時代の美術の確立を期す」ことにあった。「新時代の美術」とは、1930年協会からそのまま独立のカラーとなったいきのいいフォーヴィズムのことを意味するが、すでに川口や三岸の中には前述のように、抒情的な超現実的幻想がみられた。しかしさらに独立がその前衛性を云々するためには、福沢一郎の参加に注目しなくてはならない。
 独立美術協会は創立の翌年1月東京府美術館で第一回展を開いたが、ちょうど福沢一郎がパリ留学から帰ってきて超現実的な滞欧作多数を出品した。超現実主義は直接には第一次大戦後に、ダダイズムの反動としておこった芸術運動であるが、1924年に行なったブルトンの超現実主義宣言の中で、これは理性による一切の統制や美学的または倫理的ないっさいの先入観なしに行なわれる思想の真実の書き取りであると定義している。つまりこれまでの合理的なあるいは自然主義的な美術のゆき方に対して、人間の現実意識の彼岸にある無意識や潜在意識の中の非合理な世界に、モチーフを見いだそうとするものである。宣言の翌年の1925年には、はじめてこのイズムの総合的な展覧会がパリで開かれ、1929年にブルトンの第二宣言も発せられて、運動も拡大化されてきた。この間にマン・レイ、ピカソ、アルプ、クレー、ミロ、エルンスト、キリコ、マッソン、ピエール・ロアらの幾多の俊英が活躍した。震災後の東京を離れて、こういう情勢のパリにやってきた福沢一郎は、しかしいきなりこの超現実主義に関心をもったわけではない。かつて朝倉塾で彫刻をならっただけに、はじめは色彩より造型性にひかれてキリコの冷たい形に共感し、ついでその幻想的なものから、エルンストの不思議な世界へと足をふみいれたのである。エルンストは第一次大戦後のケルンでダダの運動をおこしたが、コラージュをはじめて、ダダの否定の極限から、そこに造形の可能性のあることを見いだした。この発見から1922年にパリに出てきたエルンストは、超現実的な創造をめざして実験を重ねていたが、福沢一郎はこの充実した超現実の一つのタイプを学んだのである。それは知性的な造形力をもって、エルンストの無機的な乾いたコラージュを引き延ばしたような幻想表現を作りあげることにあった。独立展に特陳されたこれらの滞欧作は、従来の鑑賞絵画とはまったく違った雰囲気のもので、古賀春江や三岸好太郎たちの抒情的な幻想にもみられなかったドライな吸引力をもって、若い作家たちをひきつけた。
 さて独立美術展も回を重ねるにしたがい、当初のフォーヴ・スタイルの勢いはやや下火になり、それをつきぬけるように新日本主義的な表現が次第に効果をあげてきた。この傾向と対照的に福沢らの西欧からの新興美術の影響も顕著となり、前衛派の出品が急に増えてきたのである。福沢一郎、川口軌外を中心に寺田政明、飯田操朗、阿部芳文、土屋幸夫、米倉寿仁、靉光らの新鋭が集まって、独立の中に次第に一つの陣営が形成されてきた。そして、ジャーナリズムもよくこの動きに反応を示したが、内容は必ずしもそれに伴わなかった。盲目的な模倣が多くみられ「低調な怪奇趣味若しくは空疎な抽象に陥って、健全な芸術の軌道を失っている」(昭和12年、『美術年鑑』)というたぐいが、独立幹部の神経に敏感にふれるところがあった。第七回展(昭和12年)終了後、里見勝蔵をはじめとする創立会員ら6名がこの風潮に反対して、まともに筋のとおった写実の復活をめざして退会した。画壇の新傾向を標榜する独立美術協会にとって、前衛派の台頭は自然のなりゆきで、幹部の脱退さわぎはかえって青年層の前衛支持層をふやした感がある。それでも独立内の動揺はなかなかやみそうもなく、前衛派を代表する福沢一郎への風当たりはますます強くなり、昭和14年第九回独立展終了後、福沢は真に在野性を主張する展覧会を行なうためにしりぞき、適切な組織を作って明日の絵画を目指して進みたいという声明を出して脱会した。これに対して教会側は、絵画のあらゆる生き方は会全体のこととして扱ってゆくべきなのに、前衛に対して福沢は個人の領分と思い誤り、独断行動に出たことは遺憾だという声明を出して、脱会ではなく除名処分にした。一般には来るべきものが来たという印象で、独立美術協会はこれによって安定したが、新興団体としての先鋭さは薄れてしまう。
 自由美術協会――抽象主義への終結
 日本における前衛美術団体は、二科会からアクションや独立美術協会が生まれ、その独立からもっと後になるが、美術文化協会が生まれるといったぐあいに、既成の美術団体の中から派生するように出てきたケースが多い。しかし帝展改組を転機とするように、街の小画廊における小グループの展覧会や個展がめだってふえてきた。これらはパリのモンマルトルからモンパルナスへと移った画壇の動きになぞらえて、上野の山から銀座の街へなどともいわれたが、まさに都会のど真中にあらわれてきた都会芸術ともいうべきものであった。昭和初期の自由への解放感が根になっていて、封建的な大展覧会の会場芸術に対する期待が失われて、量より質を希求する方向が芽生えてきたのである。ちょうど文学における同人雑誌のように、比較的純粋で自由な芸術上の探求を行なうところに特色があり、小画廊であるだけに大展覧会や若い無名の作家で組織された、いわばアンデパンダン流のものが多く、それにつれて個人の自由な領域へと超現実的な幻想へと専念する新しい発表形式を定着させてきた。そのスタイルもだいたいキュービズムから抽象にわたるものと、超現実的な幻想との前衛の二つの方向に向かって次第に明確になっていったといえる。そして、これまでの前衛諸傾向がそうであったように、ここでも詩やデザインや写真、映画などのほかの世界とも活発に交流した。
 このようなフレッシュな動きに対して、美術ジャーナリズムも積極的にとり上げるようになった。ブルトン著、瀧口修造訳の『超現実主義と絵画』が昭和五年に出版されたのをかわきりに、特に美術雑誌の『ミノトール』や『カイエダール』や『みづゑ』などによって、幾多の前衛資料が紹介されたのも見のがせない。
 これらの小グループは昭和九年ごろから十年代にかけてあらわれてくるが、そのおもなものを次にあげてみよう。これらの銀座に植えつけたものとしては、まず黒色美術展と新時代洋画展をあげなくてはならない。いずれもめまぐるしいほど頻繁に展覧会を開いている。
 「黒色美術展」は二科会系の小野里利信、野原隆平、清野恒、山本敬輔、山本直武らで組織し、具象から抽象にわたるスタイルで芸術至上主義的な絵画の純粋性を強調した。
 「新時代洋画展」は独立や国展からの脱退組が中心になり、抽象的傾向を強くあらわして、長谷川三郎、村井正誠、矢橋六郎、山口薫、津田正周、津田正豊らが活躍している。」本間正義「日本の前衛美術」(『私の美術論集Ⅱ・現代美術・展覧会 美術館』所収)美術出版社、1988年。pp.63-67.

 大正時代の後半から昭和の初めにかけて、つまり1920年代から30年ごろに日本になだれ込んだ西欧前衛美術は、三科展、独立美術協会、自由美術協会と転変しながら美術文化協会のシュルレアリスムへと展開していった。今から見ると、「額縁絵画」の制約を捨てて、オブジェ、インスタレーション、パフォーマンス、動きや光の取り込み、物体の構成など、21世紀の現在も先端前衛アートとして盛んにつくられている作品が、すでに百年前の日本で出現していたことに驚く。それは多分に、面白半分でむちゃくちゃな遊びに過ぎなかったにしても…。

「美術文化協会――超現実主義への集結
 日本における超現実主義は、大正末あたりから少しずつ紹介され、昭和初年に西脇順三郎ら一群の詩人たちによってはっきりとした運動になってきた。これが美術界のほうで本格的になったのは、前述のように独立美術協会における福沢一郎らの活躍が契機となっている。そして昭和12年に呑鳥会主催の海外超現実主義展覧会が開かれたころ、超現実的な傾向が多くの前衛グループによって追及されはじめた。日本の前衛は抽象と超現実がヨーロッパのようにはっきりと分かれたものでなく、互いに入りまじった折衷スタイルのものが多かったが、昭和12年にこれら前衛グループを結集して出発した自由美術協会は、主として折衷主義的な傾向を帯びたのに対して、超現実的な傾向のものは、翌昭和13年に独立の中堅前衛作家たちによって結成された創紀美術会の中にあらわれてくる。
 創立の会員は独立美術系の米倉寿仁ら18名で、浅原清隆、糸園和三郎、斎藤長三、塚原精一、土屋幸夫、寺田政明、古沢岩美、吉井忠らと関西のほうから北脇昇、小牧源太郎、梨本紀美夫らそれに前衛写真家としても知られていた阿部芳文(後に展也)らが参加した。展覧会は七月初めにまず前哨戦ということで、京都の朝日会館で開いたが、本格的に第一回が行われたのは、10月下旬に銀座の青樹社画廊においてであった。
 ここにいたると前衛美術もかなり消化されてきて、日本人としての前衛が強く意識されるようになった。滝口修造が第一回展に「火」の課題作を出したのも、この一つのあらわれだといえる。さらにこの展覧会に超現実主義が発見した独特なオブジェが何点か出品されたのが注目される。阿部芳文の「レディ・メイド」や糸園和三郎の「オブジェ」、それに吉井忠の「踏絵」はガラスにひびをいれたオートマティズムを加えたオブジェであった。デペーズマン(転移法)はすでに福沢一郎のスタイルにみられたし、デカルコマニー(転写法)やトロムプ=ルイユ(だまし絵)などの技法もあらわれてきた。かくしてこれまでみられなかったような美術における人間の内部をうかがう探求が深化してきたといえる。こういう情勢にあった時、独立美術協会における福沢一郎の脱退、除名さわぎがおこったのである。福沢は日本の美術界では、既存団体がはっきりしないイデオロギーのもとに組織を作っているため、自由な制作がはばまれて、むなしく主張を曲げることを余儀なくされる実情の矛盾を排除して、新人を中心とした新たな力と組織をもった団体を作ることを企図したのである。この意図に創紀美術協会のメンバーが中心となって加わり、その他の小会派からも集まって、昭和14年5月銀座のアラスカで「美術文化協会」の結成が行なわれた。福沢と前期創紀美術のメンバーのほかに、靉光、麻生三郎、井上長三郎、大塚耕二、佐田勝、斎藤義重、杉全直、鷹山宇一、森堯之、薮内正直ら41名が創立会員であった。
 八月には同会の機関誌の『美術文化』が創刊されたが、その号に本会の趣旨として「美術人の美術的行動を、明日の我々の文化の線に沿うて積極的に行動する」ことがうたわれている。ただ展覧会を開くということだけでなく、広く美術文化現象に対して、在野からの役割を果たすことを期す意味から美術文化という名前が冠せられたのである。したがって、絵画、彫刻、写真、装飾図案、文筆などにわたる総合前衛運動とすることがもくろまれ、ことさらに超現実主義を主張したわけではなかった。しかし福沢を中心として、おのずから超現実的な若い作家たちが集まってきたため、美術文化協会といえば、日本における超現実派を代表するものといわれるようになった。昭和15年4月に約百点の規模の公募展第一回展を上野の美術館で開催した。以来毎年四、五月ごろに開くこととし、秋には銀座の三越で秋季小品展を定期的に行なった。この間に丸木位里、金子英雄、井出則雄、赤松俊子、大塚睦らが会員となり、山下菊ニ、多賀谷伊徳らも活躍した。
 戦争への傾斜-―前衛の挫折
 自由美術協会が創立された昭和12年には日中事変が起こり、九室会が設立された翌13年には日独伊三国同盟が成立、さらに翌14年の美術文化協会が設立された年には第二次世界大戦が勃発している。そして昭和16年の暮れには太平洋戦争に突入して、急速に戦争へと傾斜し、全体主義は日本全体をおおうにいたったが、この年に自由美術家協会の「自由」という字が、自由主義に通じて不適当だとし、美術創作家協会と改称することになった。また同じこの年に、いわゆるシュルレアリスム事件がおこり、福沢一郎と前衛美術評論家の瀧口修造が検挙され、数カ月にわたって拘禁されて前代未聞の奇異な芸術審問が行われた。数年前にナチス・ドイツが行なった「頽廃美術展」に通ずるものがあり、今日ではナンセンスであるが、この一連のことは黒い日本の一断面を示す事件であった。戦時体制の強化は大政翼賛会の創立などの政治方面の新体制を実現させたが、美術界の分野でも各美術団体の自発的な連絡統合の機運を生じさせた。また一般物資の統制から絵の具などの画材料も次第に統制配給となって制作も制約され、戦局の進展に伴って、美術家の応召、徴用も多くなった。このような国内的な変化とともに、対外的にも外国からの影響が極めて消極的となってきたのは当然のことである。美術雑誌も用紙の不足から、統合による統合を重ねて、ついに『美術』一誌にしぼられてしまった。戦争も終局に近づいた昭和19年9月には、美術展覧会取扱要綱によって、一般公募展は開催されないということになり、この年の二科展、一水会展、新制作展などの秋の定期展は、美術報国会主催以外の展覧会はすべて中止された。したがって、これまでの美術団体は有名無実の状態となり、10月には二科会をはじめ各美術団体が解散するという事態になった。このような戦争への傾斜が最も鋭敏に影響したのは前衛美術で、その動きは急速に減退して、激しく高まってきた戦雲の中に没してゆくのである。」本間正義「日本の前衛美術」(『私の美術論集Ⅱ・現代美術・展覧会 美術館』所収)美術出版社、1988年。pp.71-73.

 日本の戦争への美術家の参加協力が、どのようなものであったかは、いまも研究課題だろうが、若くして軍に徴兵され戦場で戦い死んだ画学生などの記録は多少ある。だが問題は、すでに高名な画家や彫刻家として名を成していた人たちの戦争協力について、たとえば藤田嗣治の戦争画がとりあげられる。戦後それをファシズム戦争への加担として非難され、藤田は日本を捨ててフランスでカソリック信徒として死んだ。藤田はエコール・ド・パリの先端の一人として活躍した頃の絵ではなく、戦争画では19世紀のドラクロアやジェリコーのようなリアル描写に回帰してしまったことが、一種の現代美術からの逸脱なのか、いかなる意味で戦争協力なのか、問われるべき点はいくつかある。だが、それは藤田が別格の存在だったからで、もっと小物の画家たちは戦争をどうやって潜り抜けたのか。


B.斎藤隆夫がいた帝国議会
 戦前の大日本帝国は、天皇が主権者で軍国主義が蔓延る非民主的な専制国家だったように見えるけれども、いちおう西洋近代の国家体制に倣った制度を備え、憲法がある法治国家で、昭和の時代には普通選挙で選ばれた議員による国会が開かれていた。女性参政権はなかったし、国会議員になるには、それなりの地位や身分、人物としての学歴や適格性も必要だった。満州事変から日中戦争へとすすむ軍部拡大の時期は、国会で政治家が演説することも難しくなってはいくが、斎藤隆夫は少なくとも正論を吐いた。今の日本は、戦争の危機に向かっているものの、まだそこまではいかないが、斎藤ほどの信念と勇気ある政治家はいるのだろうか?

「日曜に想う。 記者 有田 哲文
兵庫県豊岡市出石町の山城跡に、その石碑はある。人の背丈ほどの黒い石に「斎藤先生」と大きく刻まれている。地元の人にはこれで十分わかるのだろう。明治末から大正昭和にかけ、この地で選出された衆院議員の斎藤隆夫(1870~1949)。演説の名手で知られた。
 斎藤の選挙を早くから支えたのは地元の青年たちで、「斎藤宗」と呼ばれるほどの熱心さだった。斎藤の縁者で、斎藤隆夫顕彰会の理事でもある斎藤義規さん(74)は言う。「国民は政治を監視し、監督する責任があると斎藤は説いた。そんな訴えが、当時の若い人たちに響いたのかもしれません」
 斎藤の名が日本の近代史に残るのは、帝国議会での二つの演説による。1936年の「粛軍演説」では、その年に起きた2.26事件を正面から取り上げた。陸軍の青年将校らが「昭和維新」を掲げ、首相や閣僚を襲った事件である。
 演説は問題の本質を突いていた。青年軍人たちの思想はあまりに単純で視野が狭い。そしてこれまで何度もあったクーデター計画を軍当局は厳しく罰しなかった。甘い処分の連続が大事件をもたらしたと訴えた。
 軍人の横暴に対する国民の怒りにも触れた。それが大きな声になっていないのは「言論の自由が拘束せられている今日の時代において、公然これを口にすることはできない」からだと述べた。ものが言えなくなっていく時代にあって帝国議会にはまだ自由があった。それを最大限に用いようとしたのが斎藤だった。
 演説では同僚議員たちにも警告を発している。政治家の中には軍部と結託し、自分の野心を遂げようとする者がいる。それは「政治家の恥辱であり堕落」だと。
 やがて日中戦争が始まり、戦況は泥沼と化す。そのさなかの1940年の質問演説は「反軍演説」と呼ばれるが、実際は反軍でも反戦でもない。追求したのはただ、「この戦争はいったい何のためなのか」と「戦争はいつ、どのように終わるのか」だった。しかしそんな問いすら許されない時代になっていた。「聖戦への冒瀆だ」という軍人の声に、多くの議員が従った。斎藤は帝国議会から除名された。
 当時、全国から斎藤のもとに届いた手紙が一部残っている。「質問せられたる趣旨は全国民が当に聞かんとしたる処」などの激励が多い。戦死者の母だという女性は、斎藤の「正道な問い」に、政府がもっと真面目に答弁することを祈っている、とつづっていた。
 斎藤のような代議士がいたのは戦前日本のデモクラシーが誇っていいことだ。しかし齊藤しかいなかったことは、この国の汚点であろう。除名から約2年後の選挙で返り咲くが、太平洋戦争下の議会は、政府に隷属する機関となりはてていた。演説の名手がその力を発揮できる場所ではなくなっていた。
 立候補する前に著した「比較国会論」という本で、斎藤はこう書いていた。国民の意志を解釈し、誠実に発表する気力のない政治家は、名前は代議士であっても「その実を有せざるものなり」。そして有権者については「適当なる代議士を識別する知能なき者はたとえ法律上において選挙権を有すといえども政治上の意味における選挙権を有するものにあらず」。激しすぎる表現かもしれない。それほどまでに、有権者に覚悟を求めていた。」朝日新聞2024年8月11日朝刊3面。
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