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オペラ的なるもの14 終わってる藝術 平成最後の日。

2019-04-30 12:14:01 | 日記
A.オペラは終わった?
 ヨーロッパを中心に見るかぎり、政治史的のみならず文化史・社会史的にも19世紀的なものが完全に過去の記憶だけになり、新しい世界が出現したと誰もが感じたのは第一次世界大戦だったことは確かだろう。シュペングラー『西洋の没落』をはじめ、「世紀末」に予感された未来への不安とロシア革命がもたらした旧秩序の崩壊は、ブルジョア的奢侈と頽廃の文化を攻撃する風潮のなかでファシズムをうみ、再びの大戦争に流れていく。と、こういうふうに20世紀前半のヨーロッパの状況は語られるとすると、オペラなどというものは第一次世界大戦とともに息の根を止められてもおかしくない。
 岡田暁生氏の『オペラの運命』(中央新書)を読んできたのだが、この本でも最後の章で著者は、第一次大戦でオペラというものが人々の生活に生々しい意味をもつ「同時代アート」である時代が完全に終り、それ以後は大衆娯楽としての映画にその地位を奪われ、時代錯誤の懐古的な「伝統芸能」「文化財」になったとみている。ぼくもそう思うし、日本でオペラについて書かれた多くの本、とくに一般向けに出ているオペラガイド、解説本があまりにもオペラを今なおハイ・ブラウの芸術として、疑うこともなく礼賛しているのに違和感を感じていた。イタリア人やフランス人にとっては、彼らが過去に作りだした重みのある「伝統文化」として、今もそれを日常の娯楽として楽しむことは不自然ではない。ドイツ人やイギリス人にとっても、オペラ劇場は大きな町にいけば気軽に目にするエンターテインメントのひとつだろう。だから、三大テノールやマリア・カラスなどの大スターは名を残していまも語られる。しかし、音楽としても文化装置としてもオペラは過去のものでしかない。確かにオペラは19世紀の遺産、観光資源のひとつとして生き残っている。でも、日本ではどうもちょっと違うのだ。

 「オペラ劇場は「民主化された時代におけるバロックの輝きの時代錯誤的な飛び地」であった。こうした意味でのオペラの歴史にほぼ完全に終止符が打たれるのが、第一次世界大戦の終わった1920年代である。もちろん音楽劇の歴史はそれなりにまだまだ続いていく。だが「オペラ」という言葉が醸し出す豪華と魔術と奢侈とスノブとが混じりあった独特の世界は、一九二〇年代を境に実質的にその歴史的使命を終えることになる。
 原因はいくつもあった。一つには音楽におけるロマン派が第一次世界大戦を境に完全に消滅したということがある。二十世紀に入っても第一次世界大戦が勃発するまでは、まだまだロマン派的な音楽は健在だった。マーラー、シュトラウス、ラフマニノフ、プッチーニらはロマン派の最後の末裔だし、普通「フランス印象派」と呼ばれるドビュッシーやラヴェルの中にも、ロマン派的な音楽の残響が聴こえる。だが第一次世界大戦はあらゆる「ロマンチックな感情」を吹き飛ばしてしまった。この戦争では戦車や潜水艦や爆撃機といった近代兵器が人類史上で初めて使われたのだ。孤独な詩人の魂の憧れなどを悠長に詠っている場合ではなくなったのである。大戦後の芸術家たちは総じて「ロマンチックなもの」に猛烈な拒否反応を示すようになる。意図された情緒欠乏症が一九二〇年代の諸芸術の特徴であって、この時代の芸術家は乾いたブラック・ユーモアによって、大都会の薄汚れた日常や戦争や工場の機械などを主題にするようになった。新古典主義に転じて以後のストラヴィンスキー、ミヨー、ヒンデミット、騒音音楽で名高いヴァーレーズ、プロコフィエフ、ショスタコーヴィッチらは、一九二〇年代のこうしたアンチ・ロマン派の芸術潮流の音楽における代表である。こうした「ロマンチックな音楽」に対する逆風が、オペラ創作にとって大打撃だったことは言うまでもないだろう。センチメンタルに「星は光り……」などとやったら若い者になってしまう。そんな時代が到来したのだ。ロマンチックな感情カタルシスを糧に出来ないとしたら、十九世紀的な意味でのオペラがもはや存立不可能であることは明らかだった。
 大戦を境にして十九世紀の上流ブルジョアがほぼ完全に消滅し、代わって大衆の時代が始まったことも、オペラには不利に働いた。プルーストが『失われた時を求めて』で描いたような十九世紀の上流ブルジョア生活のモデルは、かつての貴族社会のそれであった。彼らは家具も趣味も食事も生活様式も(成金じみたところがあったとはいえ)貴族生活を模範とした。そんな彼らにとってオペラ通いは生活の必需品であり、つまりは十九世紀においてオペラ劇場のパトロン役をかつての貴族から継いだのは彼ら上流ブルジョアだった。だが一九ニ〇年代に入って登場した大衆(大半は工場労働者ないしサラリーマンだった)は、かつての貴族生活にも、それを模倣した十九世紀の上流ブルジョアのそれにも、当然オペラに対しても、さしたる憧れはもっていなかった。彼らが夢中になったのはアメリカから流入した大衆娯楽である。一九二〇年代にはヨーロッパ中でジャズやアメリカン・ダンスやボクシングやカーレースや映画が大流行した。第一次世界大戦がアメリカの参戦によって終結したことで、戦後ヨーロッパにおけるアメリカの影響力が急速に高まったのである。
 とりわけオペラに決定的な打撃を与えたのは映画である。アドルノの表現を借りれば「その核心まで幻覚的である性格を失うことのないオペラ形式と、魔法を解かれた世界との対立」(『音楽社会学序説』前掲書、132ページ)は、どんどん深まるばかりであった。人々は今や「それが当然のように歌う人間に、それどころか100年前の人がやったような仕草で演技する人間にさえ我慢が出来なくなってきた」。何事もオーバーに、ロマンチックに歌で表現したがるオペラの世界は、同時代人の感覚とずれてしまっていた。アドルノいわく「人間の悟性は映画の中に現われる一つ一つの電話機や制服が本物かどうか注意を払うように訓練されているというのに、オペラが次々と並べて見せる絵空事の連続が馬鹿げたことに思われなかったらどうかしている」映画が見せてくれる現実世界の精巧な再現を経験した人々にとって、オペラが単に前世紀の性能の悪い視覚娯楽の旧式モデルくらいにしか思えなくなったとしても不思議ではない。実際オペラの本場イタリアですら一九二四年に既に、オペラ劇場の全収入5000万リラに対して、映画は1億5000万リラを稼ぎ出していた。一九三三年にはオペラの収入はさらに激減して2300万リラに落ち込み、それに対して映画収入は3億2900万リラに倍増した。娯楽産業としてのオペラは、映画に対してもはや勝ち目がなかった。
 興味深いのは無声映画時代にすでに大量のオペラ映画が作られていたという事実である。特に人気があったのは『カルメン』で、無声映画の巨匠セシル・B・デミルの『カルメン』(1915年、ジェラルディン・ファーラー主演)など、10近い映画版カルメンが作られた。他にも『リゴレット』(1909年に既に三つの映画が作られた)、『ファウスト』『アイーダ』『蝶々夫人』『トロヴァトーレ』『フィガロの結婚』など、たいていの有名オペラは一九二〇年までに映画化されている。またリヒャルト・シュトラウスの『バラの騎士』も一九二六年に映画化され、シュトラウスは映画用に特別な編曲を作った。これらはオペラという旧式メディアに見切りをつけ、映画という新式メディアに「乗り換える」試みと考えることが出来るだろう。
 だが一九二〇年代になるとオペラ界からも「時流に乗り遅れまい」とする試みがあらわれるようになる。時事オペラと呼ばれるジャンルである。これはごく普通の市民の日常生活を描くオペラで、いわばホームドラマのオペラ版である。ここでは大げさなアリアなどはほとんど現われず、もっぱら日常的な会話口調でもって劇は展開していく。幕単位の大きな劇構成を避けて、映画と同様に短い場面をつなげていくのも特徴である。また時事オペラでは必ずジャズなどのアメリカ音楽が挿入されて、「同時代感覚」を強調する。こうした時事オペラの代表がヒンデミットの『今日のニュース』(1929年)である。これは夫婦の離婚騒動を扱ったもので、主人公の妻がお風呂に入って歌う最新温水器を讃えるアリアで有名になった。時事オペラでは他にエルンスト・クルシュネクの『影を超えて飛ぶ』(1924年、浮気調査をする私立探偵が主人公)および『ジョニーは演奏する』(1927年、黒人ミュージシャンが劇の狂言回しを演じる)などが有名である。時流に敏感なリヒャルト・シュトラウスも時事オペラを一つ作った。『インテルメッツォ』(1924年)である。これは自分の私生活をオペラ化したもので、他愛のない夫婦喧嘩が主題である。このように一九二〇年代に大量に作られた時事オペラだが、これらを今聴くと、アイディアの面白さにもかかわらず、「いかにも無理をしている」という印象を拭い去ることが出来ない。いわば落ち目の一時代前のスターが、あまり似合わない当世風のファッションでめかし込んで、ことさらに若々しく振舞って見せる時の、あの痛々しくも白けた感覚である。具体的に言えば、映画的な主題を扱っておきながら、映画と比べていかにも劇の進行が鈍く、機動性を欠き、大仰なのである。時流に乗り遅れまいとする努力にもかかわらず時事オペラは、逆にオペラが同時代娯楽としては時代遅れになっていることを露呈する結果になった。
 「娯楽」としてのオペラの行き詰まり状況を端的に象徴する作家がいる。記念再評価の著しいウィーン生まれのエーリッヒ・コルンゴルト(1897-1957)である。彼はモーツアルトの再来と言われるほどの異様な早熟の才能を見せ、わずか11歳でバレエ『雪だるま』によって舞台作曲家としてのデビュ-を果たした。その彼の前代未聞のヒット作品が『死の都』(1920年)である。これは世紀末ベルギーの作家ローデンバッハの小説『死の都ブルージュ』に基づくオペラで、リヒャルト・シュトラウスのオーケストレーションとプッチーニの情緒を兼ね備えた名作である。世が世ならコルンゴルトは必ずや、リヒャルト・シュトラウスとプッチーニに次ぐ世代の最大のオペラ作曲家になったに違いない。しかし彼はあまりに遅くやってきた天才であった。ナチスの擡頭で亡命を余儀なくされたコルンゴルトは、結局ハリウッドで映画音楽作曲家に転身することになる。なかでも『ロビンフッドの冒険』の音楽は一九三八年にアカデミー賞を受賞した。『カサブランカ』や「風と共に去りぬ」の音楽で知られるマックス・スタイナー(1888-1972)も同様の経歴を辿った人物である。ウィーンの名門音楽一家に生まれた彼の名付け親は何とリヒャルト・シュトラウスで、彼もまたわずか15歳でオペレッタを書くという早熟の才能を示した。スタイナーはトーキー映画の誕生と同時に一九二九年にハリウッドに招かれ、コルンゴルトと並ぶハリウッド映画音楽の基本パターンの確立者となった。登場人物の心理に応じたライトモチーフの自在な変化、戦争や決闘の場面での勇ましいファンファーレ、不気味な箇所での無調、大団円での甘いカンタービレといった映画音楽術は、すべてコルンゴルトとスタイナー賀オペラの世界から持ち込んだものなのである。
 コルンゴルト以降、従来なら当然オペラ作曲家になっていたであろう多くの人々が、映画音楽に従事するようになった。時代はかなり後になるが、『ひまわり』や『ゴッドファーザー』や『山猫』や『道』の映画音楽で知られるニーノ・ロータ(1911-79)はその代表であろう。彼の音楽語法はまさに十九世紀のグランド・オペラのそれそのものである。無調をはじめとする二十世紀に起きた「芸術革命」には、彼は一切頓着しない。しかし場面に応じた楽想を当意即妙にひねり出す名人芸や、一度聴いたら絶対忘れられないメロディーを作る才能の点で、ロータは(ヴェルディとは言わずとも)少なくともプッチーニとは優に肩を並べることのできる天才である(実際ロータはいくつかオペラも書いており、『突然の訪問』〔1970〕はかなりの成功を収めた)。同様に『インディ・ジョーンズ』や『スター・ウォーズ』で名高いジョン・ウィリアムズ(1932-)も、100年前なら高名なオペラ作曲家になっていたことだろう。彼らは「前衛芸術家」ぶることに価値も見出さず、従来はオペラのものだったところの、ロマンチックな感情カタルシスの娯楽を日々観客に提供することで満足する。こうした職人気質の作曲家たちは、二十世紀においてはオペラから離れて、映画の世界に移住していったのである。
 映画という勝ち目のないライバルが現われた以上、オペラは映画と競合せずともすむ領域に自らの存在理由を見いださざるを得なくなってきた。映画の写実性に対する非写実性、そして映画の娯楽性に対する非娯楽性、そして「前衛性」である。一九二〇年代は創作と演出の両面で雨後の筍よろしく前衛オペラが生まれてきた時代である。一九二〇年代に生れてきた前衛オペラの潮流をいくつか列挙してみよう。ベルクの『ヴォツェック』(1924年)に代表される無調オペラ、ミヨーが試みた短編オペラ(上演時間わずか10分程の作品)、「台詞が歌われる」という不自然さを逆手にとってシュールレアリスム的な効果を追求する異化オペラ(ブゾーニの『アルレッキーノ』〔1917年〕、ワイルとブレヒトの『三文オペラ』〔1928年〕、ストラヴィンスキーの『エディプス王』〔1928年〕など)等々……。またクレンペラーが音楽監督をしていたベルリンのクロール・オペラでは、古典的オペラの極めて大胆な前衛演出の試みが行われた。
 だが脱魔術化され実験芸術になったこれらのオペラを、果たしてまだ「オペラ」と呼ぶことができるのだろうか?無論これらの前衛オペラの傑作の芸術的な質については異論の余地がない。ベルクの『ヴォツェック』やショスタコーヴィッチの『鼻』(1930年)をすぐれた上演で聴くことは戦慄するような体験である。だがここには、まさにそれこそを我々が本書で辿ってきたところの、バロック時代の王宮文化の残照はもはやまったく残っていない。いみじくもドイツでは第二次大戦後、前衛オペラや前衛演出によるオペラ上演を、「オペラ」とは言わずに、「音楽劇(ムジ-ク・テアータ―)」と呼ぶようになった。オペラは音楽劇へと変貌し、その歴史はまだまだ続いていくのか?それともオペラの歴史は終わって、音楽劇の時代が始まったのか?あるいはオペラは今や世界中からスノブの観光客を寄せ集めるための、鼻もちならない高級文化産業になってしまったのか?そして新たな音楽劇の歴史を始めるためには、それこそピエール・ブーレーズがかつて言ったように、オペラ劇場など爆破してしまった方がいいのだろうか?はたまたオペラはもはや十九世紀のようなグローバルかつアクチュアルな娯楽ではなくなり、その創作の歴史も終ってしまったものの、それでもなおミュンヘンやヴェネチアやナポリの劇場ではいまだに、人びとの生活に根を張った生きた「郷土芸能」として輝いていると考えるべきなのか?この答えが出るのはもう少し先のことであろう。」岡田暁生『オペラの運命 十九世紀を魅了した「一夜の夢」』中公新書、2001、pp.192-202.

 こうしてヨーロッパ中心にオペラの歴史を岡田氏から説かれて、おおいに参考になったのだけれど、19世紀後半の「異国オペラ」の話や南米のオペラ劇場への情熱の話に、東洋日本のオペラ受容のことは触れられていない。全くの異文化である東洋にそもそもオペラの土壌がないことはわかるが、明治の鹿鳴館的努力の滑稽さはオペラの場合、さらに喜劇的かもしれない。それで、日本のオペラのことも見ておく必要があると思っていくつか本をみつけた。それは次回。



B.平成の最終日
 平安の昔から、宮中内裏の奥でミカドがなにか重々しく儀式をしている、ということもほとんどの民衆には無関係な話で、具体的に何をやっているか知っている人はごく一部の公家や有職故実を司る役人くらいのものだった。明治の天皇主権を規定した帝国憲法施行の際に、その一部は皇室典範という条文になって制度に組み込まれたが、幕末の尊王思想が想定した古代神話に起因する万世一系の継承儀式などは、国家を基礎づける宗教的権威と重ねられた。敗戦によって占領下に実現した新憲法では、政教分離原則と国家神道の否定が謳われ、「社稷の神事」である宮中行事は天皇家の私的行為になった。であるとすれば、今執り行われようとしている代替わり儀式は、憲法上の天皇のなすべき国事行為になるのだが、そこに宗教的な意味を潜り込ませたいという意思が働いていないか?考えてみればこれは、かなり難しい問題かもしれない。

 「代替わり儀式と政教分離 象徴天皇にふさわしい形 議論を :社会部 喜園尚史
 剣と璽 国事行為に
 剣璽の間。
 天皇、皇后両陛下の住まいである皇居・御所に、こう呼ばれる一室がある。いわゆる「三種の神器」のうち、剣と璽が安置されている。
 30日夕の退位礼正殿の儀と翌日の剣璽等承継の儀のほか、10月の即位礼正殿の儀で使われる。政府が、いずれも皇位継承に伴う重要な儀式だとして国事行為に決めた。
 三種の神器は、皇位のしるしとして代々引き継がれてきた。古事記や日本書紀が伝える天孫降臨の神話に結びついており、天照大神がニニギノミコトに授けたなどとされている。剣と璽のほか、もうひとつの鏡は、皇居の宮中三殿のうち天照大神がまつられている賢所に置かれている。
 ただ、皇居にある神器のうち本体は璽だけだ。剣と鏡の本体は、熱田神宮(名古屋市)と伊勢神宮(三重県伊勢市)にそれぞれ「ご神体」としてまつられている。皇居にあるのは「形代(かたしろ)」と呼ばれる分身だ。元々、剣と鏡も天皇のそばにあったが、その後本体は持ち出され、形代が作られたとされる。
 両神宮とも、鏡と剣については「皇室からお借りしている」との立場だ。皇位継承に伴って、両神宮にある本体も新天皇に受け継がれるという。
 神話に由来し、本体は宗教施設にまつられている。そんなベールに包まれた神器が、国事行為に使われる。
  外れたGHQの予測
 「天皇崩ずるときは皇嗣(こうし)即ち践祚(せんそ)し祖宗の神器を承く」
 戦前の旧皇室典範には、こう規定されていた。践祚とは皇位を継ぐという意味だ。終戦翌年の1946年8月、国家と宗教の分離を求めた連合国軍総司令部(GHQ)と日本側との間で皇室典範改正を巡ってこんなやりとりがあった。
 日本「神器はGod treasure(神の宝物)でなくSacred treasure(神聖な宝物)と考えれば国の制度としても差し支えないと思われるか」
 GHQ「Sacred religious(宗教的)な印象を伴うのではないか」
 日本「Love is sacredなどという時は如何」 (日本立法資料全集)
 日本側は、言葉を換えて食い下がったが、GHQの壁は崩せなかった。この時、交渉役だった法制局幹部の井出成三氏は、手記の中でこう振り返っている。「(神器を継承する)趣旨を何らかの形で含む条項を設けられないかなどと検討したが、(略)GHQの苛烈極端な神道指令が発せられて間もない時点であり、アプルーバル(承認)を得る見通しに自信が持てない……」
 神器の記載を典範から削除する方針について、国会では異論が相次いだ。「われわれ国民が、日本国の象徴たる天皇、あこがれの天皇として仰ぐ場合、神器の存在もまた一概に排すべきではない」
 これに対し、憲法改正を担当した金森徳次郎・国務相(当時)はこう答弁した。「三種の神器は、一面において信仰と結びつけている場面が非常に多いので、皇室典範そのものの中に表わすことが必ずも適当でない」。ただ、その宗教性を認めつつ「信仰の面ではなく、物的な面での結びつきについて、今後議論する皇室経済法でその片鱗を示す規定を考えている」と続けた。
 GHQは、この交渉の最後に言った。「今後、即位の礼の内容はだいぶ変更されることになるであろう」
 この見通しは、外れた。
 宗教色「否定できず」
 昭和から平成への代替わりは、ほぼ戦前を踏襲し、剣と璽は、剣璽等承継の儀と即位礼正殿の儀で使われた。
 政教分離の規定がある憲法下で、宗教性があるものを国事行為に使うことが、なぜできるのか。
 政府の理屈はこうだ。
 戦後定められた皇室経済法に「行為とともに伝わるべき由緒ある物は、皇位とともに、皇嗣が、これを受ける」となる。剣璽は、この由緒物に当たる。この意味で公的性格があり、国事行為に使うことは問題ない――。
 ただ、修正したところもあった。
 即位礼正殿の儀で、新天皇が上がる高御座に、通常の国事行為で使われる天皇と国の印である御璽・国璽を剣璽と並べて置いた。本番の1週間前、内閣法制局幹部は、皇居・宮殿の正殿松の間を下見に訪れ、宮内庁幹部に言った。「御璽・国璽は、剣璽と対等に見えるように置いて下さい」
 戦後初めての代替わりをどう実施すべきか。昭和天皇の病状が深刻になる中で、法制局は、官邸、宮内庁と水面下で検討していた。「憲法に触れない限り、国事行為でやりたい」。それが官邸、宮内庁の一致した見解だった。
 御璽・国璽を高御座に置くことで宗教色を薄める。政教分離との整合性のために思いついた窮余の策だった。当初、この案に伝統を重視する昭和天皇の元側近らから反発の声が上がった。それでも、即位礼・大嘗祭訴訟の大阪高裁判決で、正殿の儀で剣璽を使ったことに「政教分離規定に反するのではないかとの疑いを一概に否定できない」と指摘された。
 10月の即位礼正殿の儀について、政府は早々に「前例踏襲」を打ち出したが、政教分離問題への疑念は残る。
 国事行為にするのであれば、宗教色のある剣璽は使用しない。剣璽を使うのであれば、宗教色のある剣璽は使用しない。剣璽を使うのであれば、国事行為ではなく皇室行事として、国費を支出しない――。このどちらかを選ぶのが筋のはずだ。
 天皇を現人神とする戦前の体制を支えたのが、国家と宗教が一体となる国家神道という仕組みだった。その反省に立って、憲法に政教分離規定が盛り込まれた。その苦い歴史をいま一度思い起こしつつ、象徴天皇にふさわしい代替わりの形を議論すべきだ。」朝日新聞2019年4月29日朝刊7面オピニオン欄。

 「三種の神器」が天皇家の万世一系を確認する物的シンボルだということ、それが剣と勾玉(璽)と鏡だということは知っていた。南北朝争乱の時代、この神器を持ち去ったり奪いかえしたりした時期があったことも知っている。だがその本物が今は、皇居と熱田神宮と伊勢神宮に分散していること、今回の継承儀式に使われる剣はレプリカであること、鏡は使われないことなどは、ぼくは知らなかった。御璽・国璽は天皇が公文書などに押す印鑑だとすれば、国事行為には必須となるだろうが、そこに剣璽を並べるのはどんな意味があるのか?国民の意識としてはそんな形式などど~でもいいようなことだが、天皇制に国家神道的価値をもたせたい人たちには、重要なことかもしれない。
 すでに昭和から平成の代替わりの時、どさくさの中で内閣法制局が憲法との整合性を考慮して折衷的な形で行ったことを、今回は「前例踏襲」という一言でなんの問題もないかのように実施される。現行憲法を変えると言っている首相は、国家神道に親近感をもって気にいらない内閣法制局長官を真っ先にすげ替えた人である。これでいいのだろうかと疑問に思う。
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オペラ的なるもの13 貴族への憧れ 平成最後?

2019-04-28 11:34:53 | 日記
A.ロマン主義から出てくるものは?
 王様とか貴族とかへの憧れは、その現実的存在としての権威や権力が失われた後に、一種の雰囲気、観念として現れる。19世紀の西欧では、過ぎ去った絶対王政の宮廷の醸し出すイメージを膨らませた保守反動幻想の文化に、新興ブルジョアや上流階級の子弟から生まれる知識人が乗っかったロマン主義になって現れた。オペラもその代表である。極東で明治という時代に、西洋先進文明として受け取られたものは、ほんものの王様や貴族が没落した後の「近代」であって、もとよりその基盤にあったキリスト教ではなく、ひとつは近代科学と産業革命で出現した圧倒的な技術であり、もうひとつはこのタイミングで先進文化になったロマン主義の表層的芸術だったと考えられる。
 明治維新で過去のものとなった幕藩体制の支配者であった、伝統的な殿様や朝廷貴族を、ヨーロッパの王侯貴族になぞらえて華族制度の爵位も作ってみたが、大名公家の末裔がヨーロッパの貴族と同質のものであるはずもなく、明治の上流階級が懐古的ロマン主義への共感をもつには、二世代あとの半世紀は要した。ただ、19世紀末のオペラはワーグナーとヴェルディの時代で、これはロマン主義が国家ナショナリズムに結びつく最終段階だったから、日露戦争勝利に浮かれた日本の有閑階級の若者は、オペラに象徴される王侯貴族の贅沢な浪費の感動に憧れることにもなったと思われる。

 「そしてポスト・ワーグナー時代のオペラ史は、このワーグナー流の「個々の聴き手の主観的な内的生活に踏み込んでくる」ところの「感動させるもの」に対して、どういうスタンスをとるかをめぐって展開していくことになる。
 一方で世紀転換期のオペラ界には、ワーグナー的な「感動させるもの」を意識的に避ける試みが生まれた。ヴェリスモ・オペラ、喜劇オペラの三つの潮流がそれである。ヴェリスモ・オペラ、メルヘン・オペラ、喜劇オペラの三つの潮流がそれである。ヴェリスモ・オペラの代表はマスカーニの『化ヴァレリア・ルスチカーナ』(1890年)とレオンカヴァルロの『道化師』(1892年)である。ワーグナーに反旗を翻してからのニーチェが愛してやまなかったビゼーの『カルメン』(1875年)も、このジャンルの先駆として忘れてはならない。ヴェリスモ・オペラはたいてい地中海沿岸の荒れ果てた村を舞台にして、貧しい庶民の男女の直情径行の愛と憎しみを、単刀直入に表現しようとする。つまりワーグナーの楽劇のゲルマン神話、難解な哲学風の含蓄、複雑なオーケストレーションの対極を目指すのである。フンパーディンクの『ヘンゼルとグレーテル』(1893年)に代表されるメルヘン・オペラもこの時代に大流行したジャンルで、興味深いことにワーグナーの一人息子ジークフリート(①869-1930)もメルヘン・オペラの作曲家としてそこそこ名を成した。勇壮な名前とは逆に気弱で、あまりに偉大な父に対して生涯負い目を感じ続けていたジークフリート・ワーグナーが、よりにもよってメルヘンの世界に走ったのは象徴的である。メルヘン・オペラの流行は壮大なワーグナー楽劇から子供の世界への逃避の試みであった。喜劇オペラの流行も世紀転換期のオペラ史の特徴で、その頂点に位置するのがリヒャルト・シュトラウスの『バラの騎士』(1911年)と『ナクソス島のアリアドネ』(1912年)である。この時代に急激にモーツアルトが再評価されるようになり、「モーツアルトへ帰れ!」といった標語が楽壇を賑わすようになっていたことも、この喜劇オペラの流行に並行する現象であった。多くの人々はモーツアルト風の喜劇の明朗さと軽さこそが、ワーグナーの亡霊からオペラを「救済」してくれると考え始めたのである。
 しかしながら世紀転換期の大半のオペラ作曲家は結局のところ、ワーグナーの誘惑から完全に逃げ切ることは出来なかった。ワーグナーのように、鳴り響き振動する音の宇宙を自らの手で作り出し、この創造物を人々に崇めさせたい、そして宇宙の中心にあって秘儀を執り行う司祭のごとき全能感を味わいたい。こんな途方もない誘惑である。ほとんどカリカチュアまがいのワーグナー追随者としてよく引き合いに出されるのが、アウグスト・ブンゲルト(1845-1915)という作曲家である。彼はワーグナーの『指輪』に倣って『オヂュッセイア四部作』(1898-1903年)を書き、盆の近くにバイロイトを真似た専用の祝祭劇場を建てて上演しようとした。指揮者として高名なフェリックス・ワインガルトナー(1863-1903年)も『オレステイア三部作』を構想した。またメルヒオール・エルンスト・ザックス(生没年不詳)という作曲家は、『カインの罪とその贖罪』という七部作(!)を作曲して、それを何と船の上に作られた祝祭劇場を用いて世界中で上演しようと試みた。ここまで極端な形ではないにせよ、ドビュッシーやリヒャルト・シュトラウスやプフィッツナーらの傑作オペラも、何らかの形でワーグナーの「宇宙的音楽」の遺産を継いでいる。ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』(1902年)の秘儀的な雰囲気はワーグナーの『パルシファル』なしには考えられない。プフィッツナーの『哀れなハインリッヒ』(1895年)の中世騎士世界への憧れ、『パレストリーナ』(1917年)における芸術をめぐる瞑想は、『タンホイザー』がモデルである。そしてシュトラウスの『サロメ』(1905年)と『エレクトラ』(1909年)の強烈なエロスと陶酔は、『トリスタンとイゾルデ』が生んだ最も過激な鬼っ子であった。
 だがワーグナーの「宇宙的音楽」の影響はオペラの分野にはとどまらなかった。世紀転換期になると交響曲の分野でもまた、ワーグナー的な誇大妄想的スケールの作品が続々と作られるようになる。交響曲の形式とオペラのドラマ性とミサの宗教性を合体し、オーケストラと独唱と合唱をあわせて1000人近くの演奏者を要求する「宇宙的交響曲」とも言うべきジャンルがそれである。ドイツではこれは「形而上学的音楽」とか「世界観音楽」と呼ばれる。この代表は何と言ってもマーラーの諸作品(特に第二および第三および第八交響曲)であるが、シェーンベルクの初期作品『グレの歌』はマーラーの第八交響曲(『一千人の交響曲』)をさらに凌ぐ巨大なスケールをもっている。またロシアのスクリャービンもワーグナー的な総合芸術の妄想に取り憑かれていた作曲家の一人で、晩年の彼はインドにおいてヒマラヤを背景に、音楽と舞踊と色彩と香りによる自作の総合劇を上演することを夢想していた。スクリャービンは間もなく地球が太陽の熱によって溶けてなくなると信じており、自作劇をインドで上演することによって人類を「救済」できると本気で考えていたのである。また変わり種としてディーリアスの『人生のミサ』を挙げておこう。ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』に基づくこの作品も、マーラーの交響曲に匹敵する巨大な「宇宙的交響曲」である。しかしながらこうした誇大妄想的な音楽はしょせんロマン派音楽最後の徒花であって、第一次世界大戦を境に1920年代には消滅することになる。

 これまで何度も述べてきたように、十九世紀初頭までのオペラは「消耗品」であって、「文化財」ではなかった。それは貴族の社交パーティで一瞬のうちに消え去るシャンパンの泡のようなもので、誰もそれを後世まで残そうとは思わなかった。このことはオペラのレパートリーのありようにはっきり現われている。つまり十八世紀には同じ作品を次のシーズン(翌年)以後も繰り返し演奏するという風習はあまりなかったのである。次のシーズンも上演されるのは、よほどヒットした作品に限られており、総じて人びとは同じ作品を再演するよりも新作の上演を望んだ。もちろん評判になった作品を再演するといったことはあったが、その場合はその都市の聴衆の好みに合わせて筋を変えたり、その公演で歌う歌手に合わせて別のアリアを書き加えるなどということはざらだった(モーツアルトもウィーンで『ドン・ジョバンニ』を再演する際にこれを行った)。またそれほどヒットはしなかったが、捨てるには惜しいと作曲家が考えた場合は、そのオペラのほとんどの部分を次のオペラに転用するということもよくあった。バロック時代にはこれは「パスティッチョ」と呼ばれ、ヘンデルにも多くの例があるが、十九世紀になってもロッシーニはしばしば旧作の転用を行っている。いずれにせよ十九世紀までの観客は、今日のテレビ・ドラマの視聴者と同様に、一つの名作を繰り返し鑑賞するよりも、次々に新しいものを見たがったのである。
 こうした事情が変化し始めるのは、第三章で述べたように、1830年代のパリのグランド・オペラの時代である。マイヤベーアらグランド・オペラの作曲家は、台本作者や劇場監督や舞台美術家と何年間にもわたって相談を重ね、ゆっくり時間をかけて一つのオペラを作るようになった(ただし一気に作曲することを好んだヴェルディは、細部を推敲しながら作っていくグランド・オペラの創作システムに批判的で、ソレヲ「モザイク」と呼んでいる。少し作曲しては台本作者と相談して修正し、また少し作曲してはまた直し、といったことを繰り返すと、全体がモザイクのように細部の寄せ集めになり、作品に勢いがなくなると考えたのである)。そしてヒットした作品はその後も何十年間にもわたって繰り返し上演されるようになったのである。1830年代のパリのオペラ座は、新作より過去の名作に重心を置くようになった最初の劇場である。またイタリアでも少し遅れてⅠ840-50年代を境に、オペラのレパートリーの固定化が始まった。そもそも「レパートリー・オペラ(定番の名作)」という言葉は1845年頃からイタリアで使われ始めたものと言われ、1851年に初めて正式の契約書(ナポリのサン・カルロ劇場)で用いられた。また実際の上演演目の点でも、Ⅰ840-50年代が転換点だったことは明らかである。ナポリのサン・カルロ劇場では1830年代の終わりにはまだ一年に五つの新作(そのうち三つはこの劇場のために作曲されたもの)が発表されていたが、1840年代には一つか二つに落ち込んだ。またスカラ座では1830年代には一年に38もの新作が作られていたのに対して、1860年代の新作は一年に一つか二つだった(1840-50年のデータは定かでない)。イタリアのほぼすべての劇場で、1848年革命の動乱が落ち着いた1850年代半ばにはレパートリー・オペラが確立され、1870年代にはこれが標準になった。
 レパートリーのこうした固定化は、オペラ作曲家の創作態度に影響を及ぼさずにはいなかった。十八世紀までの作曲家の場合、二週間程度で一つのオペラを書き上げることなどざらだった。しかし今や彼らは、繰り返しの上演に耐えるよう、一作に徹底的な磨きをかけるようになるのである。エキセントリックな性格で有名だったスポンティーニは一つの作品を何年もかけて作った最初の作曲家であった。またロッシーニは歌手が勝手に即興で歌うのを阻止しようとした最初の人として記憶される。彼はスター・カストラートが歌う自作の『パルミーラのアウレリアーノ』(1813年)のアリアを聴いて、それが自分の作品だとわからなかった!歌手が楽譜にないカデンツァを即興で山のように付けて歌ったからである。これに懲りた彼は、『イギリス女王エリザベッタ』(1815年)からは、カデンツァの部分まで自分で楽譜に書き込み、歌手に勝手を許さないようになった。またロッシーニは自分の作品の所有権を強硬に主張した最初の作曲家でもあった。彼は1823年に『ゼルミーラ』の著作権をめぐって興行師バルバヤと争い、1823年4月10日の友人への手紙で「すべての私のオリジナル楽譜を所有するのは私です。なぜならオペラの上演の一年後に自筆譜を著者に編曲するのが慣例であり、法律だからです」と書いた。この頃から少しづつ、オペラはそれを作った作曲家のモンド得あり、「自分のもの」であるからには隅から隅まで徹底的に磨きをかけ、管理しようとする意識が生まれてきたものと思われる。
 作曲家の自作に対する「作品」の意識はこれ以降どんどん加速していく。ベルリーニは完璧主義者として名高く、一年に一作のペースを絶対に崩そうとしなかった。彼はまた1835年にナポリの警察署長に対して、『清教徒』の違法コピーを作った業者を取り締まるよう要請してりもしている(彼はロッシーニと並んで歌手より高いギャラを貰った最初の作曲家だった)。マイアベーアはベルリーニに輪をかけた完璧主義者で、パリで名声を確立してからは、30年以上の間にわずか三つのグランド・オペラしか発表しなかった(1831年の『悪魔ロベール』、1836年の『ユグノー教徒』、1849年の『預言者』――『アフリカの女』は未完に終わった)。ヴェルデイも作曲者の同意なしに勝手に作品を上演したり、違法コピーを作ったりすることを許さず、歌手による楽譜の勝手な変更に対しても断固たる態度で臨んだ作曲家である。「私はただ一人の創造主であることを要求します。そして演奏者が私の指示の通りに正確にやってくれれば、それで満足です。(中略)私は歌手にも指揮者にも勝手に『創造する』権利を認めません」。彼は1871年4月11日の出版社リコルディへの手紙でこう述べている。ヴェルディは自作上演に際して演出に至るまで非常に細かい注文をつけた人でもあった。
 こうした作曲家による作品の徹底的な「品質管理」の流れの頂点に立つのがワーグナーである。彼は一つの作品の完成に長い時は25年以上かけ(『ニーベルングの指輪』)、上演においてもあらゆる細部に至るまで自分の意図を貫徹しようとした。とりわけ歌手の歌唱だけでなく演技まで細かく指導した点で、ワーグナーは最初のオペラ演出家だったと言える。また観客にオペラを静かに「慶長」することを要求した最初の作曲家もワーグナーであった。ルートヴィッヒ二世の求めに応じて乳ん変で『ラインの黄金』を試演した際に、ワーグナーは500人の招待客をすべて平土間に座らせた。ボックスは空だった。これはオペラ鑑賞から社交娯楽性を完全に排除したことを意味する。舞台鑑賞の点では理想的な平土間であるが、第一章で述べたように、ここは以前はあまり身分の高くない人びとの陣取る場所だった(庶民、軍人、旅行客など)。オペラ劇場はあくまで社交の場であって、平土間でまんじりともせず、「最前列の客席で」舞台を見るなど、卑しい者のすることとされていたのである。洗練された客とは、ボックス席に座ってオペラ・グラスで舞台と客席を交互に眺め、軽食をとりながら、隣のボックスの客と優雅に雑談に興じたりする人々であった。だがワーグナーはボックスを空にすることで、劇場を純然たる作品鑑賞の場にしようとしたのである。また後に彼がバイロイトでオペラ上演中は客席を暗くするようにしたのも、観客を作品鑑賞に集中させるためであった(以前はオペラ上演中でも客席には高校とシャンデリアがともっていた)。ワーグナーが夢見たのは「選り抜きの名作を、選り抜きの上演で、静かに観客に鑑賞させる」ことであった。
 こうしたワーグナーの理念が一般の劇場で実現されるようになるのは1900年前後のこと、つまりマーラーの監督時代(1897-1907年)のウィーン宮廷歌劇場およびトスカニーニの監督時代(①898-1903年、1906-08年)のミラノ・スカラ座においてである。オペラ上演にあたって徹底的な作品中心主義の姿勢で臨んだ。「伝統とは怠惰のことだ」と言ってはばからなかったマーラーは、歌手の勝手を絶対に許さず、演技に至るまで徹底的にトレーニングした(ただし自分自身はかなりオーケストレーションに手を入れるということもしたのだが)。実質的に彼は指揮者と演出家を兼ねた存在であった。またマーラーは舞台美術家にューゲントシュティールのの有力な画家だったアルフレート・ロラー(1864-1935)を起用し、音楽・演出・舞台の完璧な調和を目指した。一方トスカニーニと言えば、1903年の『仮面舞踏会』の上演でアリアをもう一度歌うようにしつこくせがむ聴衆に立腹し、指揮棒を客席に投げつけて、オペラをほったらかしにして飛び出したエピソードが有名である。彼は楽譜に書いていないことは絶対にさせなかった。バイロイトに倣ってスカラ座でも、上演中は客席の照明を消すようにしたのも彼だった。トスカニーニもまたマーラーと同じく、歌手に対して断固たる態度で臨んだ。これについてはメトロポリタン・オペラと同じく、歌手に対して断固たる態度で臨んだ。これについてはメトロポリタン・オペラ時代の逸話が有名である。リハーサル中に勝手な歌い方をした女性歌手に対してトスカニーニが何か口汚く罵ったところ、その歌手は怒り狂い、彼に向かって「私を誰だと思ってるの!私はスターよ!」と言い返した。するとトスカニーニは「君はスターだ、しかし(自分を指差して)太陽の前では星(スター)は沈むものだ』と言い放ったのである。もちろん「太陽」とはこの場合、作曲家の絶対的な代弁者としての指揮者を指すのであって、指揮者自身が太陽だという意味ではないだろう。」岡田暁生『オペラの運命 十九世紀を魅了した「一夜の夢」』中公新書、2001、pp.179-189.

 「ヴェルサイユのばら」を描いた少女漫画家池田理代子は、のちにオペラ歌手に憧れて音楽大学に行った。マリ-・アントワネットの宮廷は革命で揺れるが、その衣裳、宮殿、貴族たちの世界は、限りなく華やかで少女漫画の世界にはうってつけだったし、戦後の日本人、とくに若い女性たちはオペラのような豪華なロマンチシズムに憧れた。それはたぶん今も残り香として、ポスト・ワーグナーの保守反動的ナショナリズムに流れ込むのか、それは時代錯誤として嗤われるだけなのか?



B.平成の最終局面
 元号が変わったからといって、何かが変わるわけでもないと思いつつ、この騒ぎはこの国の憲法が規定する象徴天皇制というものについて、もう一度考える機会にはなる。安倍政権は、予定していなかった天皇代替わりを国民が歓迎していることを、元気の出るオリンピックと、悲願の改憲にむけて利用しようとするのだろうが、そううまくいくとは限らない。統一地方選挙が終り、そこではどうでもいいような瑣末な問題を安易に語る候補者がまた当選した。多くの国民有権者は相変わらず、そんな悪いことにはなるまいと、日々の生活と大型連休にどう過ごすかを考えるだけであるようにみえる。しかし、時代は確実に不安定な方向に動いていると思う。元号に関する違和感も、大手メディアのから騒ぎとして過ぎ去ろうとしているが、メディアの内部にこれをどこまで真剣に考える人間がいるのか、やや心もとない気がする。

 「令和「フィーバー」忘れ去ってしまいたいのは? 多事争論 編集委員 高橋純子
 新元号・令和の意味を今ひとつつかみかねていたのだが、英訳が「ビューティフルハーモニー(美しい調和)」だと知った時、我が腑にストンと落ちてきた。
 「赤信号みんなで渡ればこわくない」
 コレだ。小声で孤独にひざを打つ。ポン。本邦において「和」とは往々にして同調圧力によってなるものであり……とかなんとか書きつつも、なんというか、微妙に筆が重い。気が重い。
 天皇に対するおそれとか、天皇をめぐって過去に流された血への恐れとか、そういうことからくる重さではない。むしろそのような、天皇制と向き合う際の基本の「構え」みたいなものがスコンと抜けてほぼほぼ見えなくなり、人々のあまりにも屈託のない語り口、わりと純度の高い「ありがとう平成」を目の当たりにして、有り体に言えば、びびってるのである。不協和音を奏でて怒られるのが怖いのではなく、奏でたところでもはや誰の耳にも感知されなさそうでコワイ、とでも言えば少しはわかってもらえるだろうか。
 30年前、あの人はどんな思いでいたのだろう……。新元号発表の2日後、ピアニストの崔(チェ)善(ソン)愛(エ)さん(59)に会いに行った。
 大阪市に生まれ、北九州市で育った在日韓国人3世の崔さんは、1981年、外国人登録の更新時に義務付けられていた指紋押捺を拒否した。大学2年生だった。同じく拒否した父親とともに外国人登録法違反に問われ、起訴された。
 「日本という鏡に映る私はいつも醜く、苦しかった。これほどまでに私を苦しめるものの正体を知りたいと、裁判で戦うことを決心しました」
 崔さんの父は、日本の植民地だった朝鮮半島出身。朝鮮人を日本人に同化させ、天皇に忠義を尽くさせる「皇民化政策」によって、日本語で教育を受け、日本式の名前に変えさせられた。
 裁判では「現行法を拒否した私が罪なのか、現行法が戦争という罪から出ているのか、考えてほしい」と訴えたが、一審、二審とも有罪判決を受け、最高裁へ。ところが、昭和天皇の逝去に伴い、「遺徳をしのび、人心を一新する」ための恩赦(大赦)の対象になることが決まる。崔さんらは拒否を宣言し、裁判での決着を求めたが、89年7月に免訴判決、つまり、起訴自体が「なかったこと」にされた。
 「象がネズミをかんでも、ネズミが象をかんでも、痛いのはネズミだけ。どちらにしても痛いなら、かまれて自分を失うよりも、かんで自分を取り戻したい」と、実存をかけて臨んだ裁判だったが、天皇の名のもとに「恩」をかけられ、「赦」された。
 「有罪以上の屈辱でした」
 大赦の英訳はアムネスティ。語源は「忘れ去ること」だという。30年が経ったいまも、崔さんは考え続けている。
 誰が忘れ去りたかったのだろう?
 何を、忘れ去りたかったのだろう?
 令和元年まであと1週間。「フィーバー」と称された発表時の盛り上がりは、ある種のリセット願望の表れでもあるだろう。イベント屋としての才にあふれる安倍政権はさすがにそのへん熟知しており、首相の記者会見では「希望」という言葉を7回使って、新時代の到来を演出していた。
 一から何かが始まる予感。浮き立つ感じは、私にもないわけではない。でも、リセットできないこと、してはならないことはある。みんなが忘れ去ってはならないことはある。みんなが忘れ去ってしまったとしても、この国の過ちは、なかったことにはならない。
 ならばちゃんと引き受けて、ずるずる引きずりながら、それでも前に、一歩一歩を刻んでいく。いつの日か、もしかしたら、新しい地平が開けるかもしれない。
 そんな、「いつか」の一筋の光を、希望と呼ぶのだと思う。」朝日新聞2019年4月24日朝刊13面オピニオン欄。

 都合の悪いことには目をつぶり、いやな現実は平成と一緒に忘れて、気分だけ一新して頑張ろうというのは、精神の劣化、平成がバブル崩壊以後のこの国の矛盾を、国民資産の食いつぶしと空元気でごまかしてきたことを、改めて深く考える契機になるのなら、令和のはじまりもまんざら意味のないことではないと、思いたい。
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オペラ的なるもの12 ワグネリアンの魔 「失言」の愚。

2019-04-26 11:27:50 | 日記
A.ワーグナーという魔
 作曲家という職業が、音楽界の片隅で注文のくるのを待っている職人であった時代は、どれほど人気作を書いても、劇場を支配する興行主や大歌手の下風に立って創作者としての著作権を主張する力はなかったのが19世紀の中ごろまでの事情だった。それが次第に作曲家が自立し、やがて財力を誇るブルジョアや王侯の資金力と権威を得て、国家的イヴェントとしての国民オペラの演出までてがけるようになると、「芸術家」は時代の精神を代表するような肥大した意識を本人たちも信じるようになった。そのチャンピオンがワーグナーとヴェルディであることは、ほぼ定説と言っていい。彼らの音楽は、たんに一時の楽しみやパーティの添え物としての音楽ではなく、富や権力をもつ上流階級の人々に高級な趣味や思想を教える文化的指導者となり、オペラ・ハウスは社交の場ではなく、高尚な芸術を静かに鑑賞するべき空間に作りかえられた。しかし、オペラという文化はそのときはもう、多分に時代錯誤的なワンパターンの儀式としてたそがれを迎える運命にあったともいえそうだ。
 19世紀末には、国家の威信を示す万国博覧会、20世紀に入るとオリンピックといった国際的大イヴェントのたびに大作曲家が動員されるのは、21世紀にも続いているが…。

 「リヒャルト・シュトラウスは生前、「ワーグナーは決して乗り越えることのできない巨大な峰だ、私はそれを避けて回り道することで、何とかやりくりしているのだ」というのが口癖だった。私としても出来るならこの「魔の山」には近寄りたくない。それにワーグナーの「楽劇」が、ごく一般的な意味での「オペラ」とはやや(あるいはかなり)ずれたところに位置しているのも事実であって、理屈を並べればワーグナーに触れずしてオペラ史を書くことも不可能ではなかろう。だがそれでもなお、彼にまったく言及せずにオペラ史を語ることは許されまい。まずは手始めに、われわれの文脈の中で語りうるであろうワーグナーをめぐる主題の幾つかを、見出し言葉風に挙げてみよう。
 例えば「グランド・オペラとワーグナー」について。ワーグナーがフランスのグランド・オペラから受けた影響は想像以上のものがあり(ニーチェが既にこのことを示唆している)、賑々しい舞台スペクタクル、「万歳」を連呼する群衆場面、大げさな朗唱、観客を英雄的な気分に投げ込まずにはおかない興奮などは、すべてマイヤベーアに原点があると言ってよい。実際、彼の初期の作品『リエンツィ』(1942年)は典型的なグランド・オペラであって、ハンス・フォン・ビューローは皮肉たっぷりにこれを「マイアベーアの最上のオペラ」と呼んだ。また『ローエングリン』にしても『タンホイザー』にしても『ニュルンベルクの名歌手』にしても『神々の黄昏』にしても、グランド・オペラ風の部分はいくらでも見つかる、今日の人々がこの事実にほとんど気付かないのは、単にマイヤベーアがオペラ劇場の舞台から――ワーグナーが望んだように――「消されてしまった」からにすぎない。第四章でも述べたように、ウェーバーが確立したドイツの国民オペラ様式を、フランスのグランド・オペラの華々しい門構えと結びつけたのがワーグナーであった……。
 あるいは「ワーグナーと民族の祭典」について。グランド・オペラからどれだけ影響を受けていると言っても、単なる「娯楽」に「堕落」してしまった同時代のフランスのオペラ状況は、ワグナーにとって唾棄すべきものであった。とりわけパリで自分の作品の売り込みに失敗したことで、フランス風の娯楽オペラへの彼の憎しみはどんどんつのっていった。ワーグナーが(少なくとも若い頃に)夢見たのは、ブルジョアの端なる生活の飾りではなく、かつてのギリシャ演劇のような全民衆の祭典としてのオペラであった。ワーグナーは民衆の「生」に直接の作用を及ぼす呪術的な力を演劇に取り戻そうとした……。
 または「ワーグナーとスペクタクル映画」について。映画とワーグナー楽劇の作劇術の類似は看過できない。ひるがえる旗、ファンファーレ、群衆の歓呼、騎士たちの結社、中世風の鎧、一騎討ち、指導者(フューラー)の演説、魔法の炎、大空にかかる虹、炎上や洪水のスペクタクルなどが作り出す「ワーグナー・ワールド」は、スペクタクル映画の監督たちの尽きぬインスピレーションの源である。例えばジョージ・ルーカス監督の『スターウォーズ』(この映画の神話的な長編構想が既にワーグナー的である)の映像イメージ、そしてジョン・ウィリアムズの勇壮なファンファーレ風の音楽には、至るところでワーグナー的要素を認めることが出来るだろう。またワーグナーが開発したライトモチーフ(示導動機)の技術は、今や映画音楽の常套手段である。グランド・オペラの作劇術はワーグナーを経由してハリウッド映画に継承されたのかもしれない……。
 ギリシャ演劇とドイツ国民オペラとグランド・オペラとスターウォーズ?ワーグナーはオペラ史の巨大なブラックホールである。人はそれについて何でも言うことが出来る。しかし何を言ったところで、たちどころに反証が出てくる。次から次へ噴出してくる矛盾を整理して、一本の糸に通そうなどと試みようものなら、頭は混乱するばかりだ。ワーグナー像は一つの焦点へ向けて収斂するどころか、どんどん拡散していくだろう。かくしてワーグナーについて何かを語ろうとする者は、いつのまにか次のような悪魔の円環に引きずりこまれることになる。つまり「ワーグナーの一面しか見ていない」という非難を避けようとして用心深くなりすぎると自分の主張は一向に像を結ばず、あるいは矛盾だらけになる(というのもワーグナー芸術自体が矛盾に満ちているのだから)。だが逆にワーグナーを向こうに回して己の発言の首尾一貫性を死守しようとすると、今度は彼のあの巨大な音楽がその前に立ち塞がり結局は論者の主張の「一貫性」の浅薄さを――ハンス・ザックスを前にしたベックメッサーのように――思い知らされるはめになるのである。ハンスリック、ニーチェ、トーマス・マンなど、ワーグナー芸術を言葉で捉えようとしたドン・キホーテたちは皆、この深みにはまっていった。ワーグナー受容史はこの悪魔の円環が紡ぎ出す無限旋律である。
  もちろん音楽辞典風の一般的な記述にとどめておく限りは、ワーグナーという沼に足をとられることは避けられるだろう。「浅薄なイタリアやフランスのオペラを追放し、総合芸術としてのオペラを確立した、偉大なる改革者」……。こうしたワーグナー像は相当にステレオタイプであるし、彼を過剰に美化しているものの、とりあえず間違ってはいない。だがあえて私はここで、一般にあまり議論されたことのない、しかし我々の文脈において避けて通れないワーグナーの一面について、注意を喚起したいと思う。それは「ワーグナーと王」の問題である。ワーグナーと言えば「偉大なるオペラの革命家」にして「二十世紀音楽/演劇の先駆者」というイメージがあまりにも強い。またワーグナー自身も、こうした「孤独な改革者」のイメージを生涯にわたっていやというほど自己演出してみせた。だが革命家としてのワーグナーの表の顔の背後には、遠い絶対王政時代におけるオペラのありように対する、覆い隠せないノスタルジーが見え隠れしているように思えるのである。確かに若い頃のワーグナーは革命思想に熱中していた。彼はプルードンらの社会主義思想に共鳴し、無政府主義者バクーニンとも知り合いだった。そして1849年には劇場革命を夢みてドレスデン革命に参加し、そのせいで長い間亡命生活を送るはめになった。だがそもそもこのドレスデン革命の時に彼が行った演説は、実に奇妙なものだった。革命演説でワーグナーは自分が熱烈な王政支持者であり、ドイツが「外国風の」西欧的な民主政治を駆逐し、絶対的な国王と自由な民衆の間の古代ゲルマン的関係を再建するように除く、と表明したのである。そもそもワーグナーは最初から「王侯シンパ」だったふしがあるのである。
 実際ワーグナーは、革命の失敗でスイスに亡命して以降、次々と上流階級に接近するようになっていく。彼が金の無心のために近づいた多くの富豪の一人がオットー・ヴェーゼンドンクであり、おまけにワーグナーはその妻マティルデと恋愛関係になった。この三角関係が『トリスタン』の原イメージになっている。また1861年の『タンホイザー』のパリ上演の時にも彼は多くの貴族の世話になった。そして1864年にはあの運命的な出会いがやってくる。熱烈なワーグナー崇拝者だったルートヴィッヒ二世が、この年に十八歳でバイエルン国王となるや否や、ただちにワーグナーをミュンヘンに呼び寄せ、彼が当時負っていた巨額の借金(ワーグナーはそれこそ王侯並みの浪費家だった)を肩代わりし、年金を与え、ありとあらゆる財政援助を行ったのである。ルートヴィッヒ二世を読者として想定した著作『国家と宗教について』(1864年)ではワーグナーは王権の強さを社会の根本法則とし、また『ドイツ芸術とドイツ政治』(1868年)では王権神授説的な考えを表明している。この頃から彼は自分が王政支持者であることを隠そうともしなくなった。
 だがワーグナーは接近した王侯(ハンスリックいわく、ワーグナーは「自分を助けてくれそうな人物をかぎわける嗅覚にかけては天才的」だった)は、ルートヴィッヒ二世だけではない。普仏戦争に勝利したプロイセン王ヴィルヘルム一世が、1871年1月18日にヴェルサイユ宮殿の鏡の間で戴冠式を行った際には、ワーグナーは「パリ目前のドイツ軍に寄せる」という詩を記念に献呈した。さらに彼は同年4月25日にはベルリンを訪れて、戴冠間もない皇帝夫妻のために自作の『皇帝行進曲』を指揮したりもしている。当時プロイセン王国とバイエルン王国が犬猿の仲だったことを考えると、ルートヴィッヒ二世にあれだけ世話になっておきながら、プロイセン国王にも媚を売るワーグナーの節操のなさはあきれるほかない。そして1876年のバイロイト祝祭劇場のオープニング記念公演(『ニーベルングの指輪』)には、何と世界中から59名の王侯貴族が訪れ、席の配し方でワーグナーの妻コジマは頭を悩ませた。真に芸術を理解する民衆のための劇場になるはずだったバイロイトは、結局のところ世界の上流階級のスノブたちのサロンと化してしまったのである。かつては熱狂的なワーグナー崇拝者だったニーチェは、これに嫌気がさして、徐々に彼に距離を置くようになった。またエンゲルスに宛てた手紙の中でカール・マルクスは、こんなバイロイト音楽祭のことを「国家御用達の音楽屋ワーグナーによるバイロイトのばか騒ぎ」と呼んでいる。
 もちろんワーグナーの恥も外聞もない王侯への接近には、純然たる「芸術経済上の」理由もあっただろう。第三章で述べたように、フランス革命以後どのオペラ劇場も、財政面できわめて不安定な状態に置かれていた。世間の民主化はオペラにとっては呪いだった。バロック時代のような王侯による万全の庇護はもはや期待できず、劇場運営のために浅はかなブルジョアの好みにあわせたさまざまな妥協を重ねざるをえなくなっていた。芸術上の妥協をしないためには、昔ながらの気前のいい王侯にとりいって自尊心をくすぐり、彼らから金を巻き上げるのが一番手っ取り早いやり方だったに違いない。選り抜きのスタッフを集め、念入りにリハーサルを重ね、舞台美術や演出の面でも練りに練った「完璧な上演」を追求したワーグナーにとって、自分の芸術上の理想の実現には何よりまず資金を調達する必要があったのである。
 心理的な動機も見逃すことが出来まい。「資本主義に毒された」同時代のブルジョア社会(資本主義の象徴が『ニーベルングの指輪』における黄金である)に対するワーグナーの憎しみには変質狂的なものがあり、この反動が王侯への接近だったとも考えられるのである。いわば「虎の威を借る狐」と言うべきか、王侯を後ろ盾に大衆に対して尊大な侮蔑のポーズをとってみせるわけである。またワーグナーには一種の変装趣味のようなものがあったことも付け加えておこう。彼はまるで貴族のように豪華な椅子や絨毯や家具をしつらえた宮殿に住みたがり、高価な香水や絹や毛皮やサテンの衣装を愛用し、デューラーやレンブラント風の衣装を好んで身につけた。こんな生来の華美の愛好者が王侯嫌いであったはずがなかろう。(ちなみにワーグナーと縁があったのが、北ドイツのベルリンではなく、南ドイツのバイエルン、ことにミュンヘンおよびバイロイトだったことは注目してよい。バイエルン地方はドイツにおけるカトリックの牙城であり、また華麗なドイツ・バロック芸術が最も栄えた地域であった。節約好きで官僚機構が強く合理主義体質のベルリン/プロイセンとは、ワーグナーはあまりうまくいかなかった。ただしワーグナー自身はプロテスタントの家庭に生まれたのだが。)
 だが王侯に対するワーグナーの親近感は、こうした個人の気質の問題を超えて、より大きな社会的歴史的文脈の中でとらえられるべき事柄をはらんでいるように思える。王に接近したがり、さらには王のように振る舞いたがるワーグナーの性癖には、社会の民主化がオペラにもたらしたあらゆる問題が凝縮されているのである。第一章で述べたように、バロック時代の王侯にとってオペラは、自分が世界の支配者であることを誇示する手段であった。フランス革命以後もオペラのこの社会的機能は変わらなかった。パリの成金もエジプト大公も南米の冒険家たちも、財政的慈善行為(メセナ)を通してオペラ劇場の支配者になろうとした。それはかつての王侯の正統な後継者の座をめぐる跡目争いだった。しかるにワーグナーこそ、こんな王なき時代のオペラ劇場の支配権争いの、究極の勝利者だったのかもしれないのである。何と言っても彼は、バイエルン国王から「巻き上げた」資金でもってバイロイトに自分専用の劇場を建てさせ、そこで自分が作ったオペラを催して各国の王侯貴族を呼び寄せ、天才たる自分の創造物(作品)を彼らに崇めさせたのである。これこそかつての絶対王政時代の国王たちがやったことに他ならない!いや、バロック時代の王がオペラを御用作曲家に作らせていたのに対して(ただしルイ14世は、作曲はともかく、自分でバレエを踊ったが)、彼は自分自身でオペラを作ったぶん、さらにやり方が徹底していた。かつては王侯がオペラを催した。だが十九世紀に入って、王はいなくなり、あるいは凡庸化してしまった。しかしオペラが放つ王者のアウラはまだまだ健在だった。今やオペラを作る者こそが王となるのである。
 王としてのオペラ作曲家。これは誇張ではない。十八世紀までは劇場に君臨するのは貴賓席に座る国王であり、舞台に君臨するのは歌手(カストラート)であった。作曲家はただの職人だった。だが十九世紀に入ると徐々にオペラ作曲家は名誉ある職業になり始める。スポンティーニやケルビーニはその草分けだった。ロッシーニはかつてのカストラートに匹敵する富と名誉と王侯の寵愛を手にした最初のオペラ作曲家となった。だが彼は「超売れっ子」ではあったが、まだ「劇場の王者」ではなかった。駆け出しの頃のロッシーニは随分と興行師(第三相で触れたドメニコ・バルバヤ)に酷使され、次から次へオペラを書き飛ばさなければならなかった。今で言えばマネージメント会社にギャラの大半を持っていかれる売れっ子タレントのようなものだったのである。「王になった最初の作曲家」は、ワーグナーが目の敵にしたマイヤベーアであった。七月王政時代のパリにおいて彼が享受した名声と尊敬と富は、本物の国王ルイ・フィリップをはるかに凌いでいた。また晩年のヴェルディもイタリアの王者だった。何と言っても彼の葬儀は国葬だったのだから。そして十九世紀におけるオペラ作曲家の地位のこの「大高騰」の頂点に立つのが、ワーグナーなのである。
 ミュンヘン時代のエピソードを二つ挙げよう。1869年にルートヴィッヒ二世のたっての希望で、『ラインの黄金』がミュンヘンで試演された。これに猛反対だったワーグナーは、せめてもの抵抗として、上演に招く客についてさまざまな要求を出した。1869年3月22日のルートヴィッヒ二世に宛てた手紙には次のようにある。「この作品を正しく判断してもらうには、これを選り抜きの招待客だけのために上演しなければなりません。これは徹頭徹尾『祝典』です。臣下およびドイツ国民のうちで、真に教養と心構えのある人々だけのために国王が催すところの、『舞台祝典』であるべきなのです。この舞台祝典の夕べに劇場へ足を踏み入れる者は、バイエルン国王の賓客と見なされるべきなのです」。第一章でも述べたが、バロック時代のオペラはしばしば「劇場祝典(フェスタ・テアトラーレ)」と呼ばれていた。選ばれた臣民と高貴な賓客のために国王が催す祝典としてのオペラ。ここでワーグナーが思い描いているのは、バロック時代におけるオペラの上演形態に他ならない。」岡田暁生『オペラの運命 十九世紀を魅了した「一夜の夢」』中公新書、2001、pp.162-172.

 ワーグナーが自分のためにバイロイトに作った歌劇場は、今も毎年音楽の祝祭として彼の最大の「楽劇」「ニーベルンクの指輪」(『ラインの黄金』から始まり『神々の黄昏』まで)を数日かけて連続上演している。第2次大戦後、ここでワーグナーの孫、ヴィーラント・ワーグナーの新演出が話題になった。日本人のオペラファンも大挙してバイロイトに詰めかけ、日本では年末にその録音がやはり数日かけてNHK・FMで流されていた。日本におけるオペラの歴史にとって、やはりワーグナーの影響は大きなものがあったが、それについてはまた後で。



B.失言大臣の無意識?
 東日本大震災から8年、平静が終るこの時期、相変わらず被災地の「復興」は道遠いのが実情だが、順送りで復興大臣になっただけの人物からまた「失言」が出て即更迭された。その発言を聞く限り、ほとんど目先の選挙のことしか考えておらず、オリンピックさえ盛大にやれば何の問題もないかのような軽薄な本音がみえる。

 桜田復興相の発言:10日、高橋比奈子衆院議員(比例東北)の東京都内のパーティで、桜田五輪相がしたあいさつの主な内容は以下の通り。
 みなさん、一生懸命、高橋さんを応援していただけることを心からお願いを申し上げ、そして、岩手の人が多いかも知れませんが、東京オリンピックは来年迎えます。世界中の人が日本に来ます。岩手県に行くと思いますのでね。東日本大震災ということでね。東日本ということは岩手も入っているのですからね おもてなしの心を持って復興に協力していただければありがたいと思います。そして復興以上に大事なのは高橋さんでございますので、よろしく同素お願いいたします。

 「政治家の発言 被災地から思う:桜田義孝前五輪相が今月更迭され、「(東日本大震災の)被災者の皆さんを傷つけるような発言」をしたとして謝罪しました。しかし発言の、何がどのように被災者を傷つけたかは、語られていません。被災地で暮らす2人の識者に聞くと、他人事のまま「失言」が繰り返される現実を、もどかしい思いで見ていました。
 責めて終えずに将来の議論を 大槌新聞発行人 菊池由貴子さん
 桜田さんは発言を謝罪したようですが、「復興より選挙」は本音でしょうから別に謝らなくてもいいのにと思います。口に出すか出さないかの差だけで、歴代の復興大臣が繰り返してきた言動と同様、多くの政治家の本音だと思っているので、今さら驚きはありませんでした。
 ニュースを見ていると、県民が発言に対し「不快です」「憤りを覚えます」と答えていますが、実際は、もう期待していないので落ち込みもしない、といったところではないでしょうか。
 だって、この町では今も仮設住宅住いの人がおり、ようやく、高台移転した住宅団地の造成が終わったところですよ?工期が遅れた理由は人手や資材不足だと言われ続けてきましたが、東京では五輪施設が急ピッチで建設中のようです。そもそも東京だけで自力で五輪がやれるのになぜ「復興五輪」と言われているのか今でも不思議です。
 私は一瞬にして2万人もの人が犠牲になった震災から何かを学んでほしい。同じ思いをしてほしくありません。
 そもそも復興って何だと思われますか。津波で流された家や店、道路が元に戻るのは「復旧」で、他の市町村の人にとってはそれほど大事じゃないのはわかります。でも、震災後、被災地には増税までして巨額の公金がつぎ込まれた。その投資が、いずれ自分のところにも還元されると思える「復興」なら、全国の人にとって大事なものになるのではないでしょうか。
 桜田さんの発言からはそうした意識が感じられず、他人事です。メデイアの側も、今年3月11日の新聞各紙にあったように、「まだつらい」「かわいそう」というような情緒的な写真や記事ばかり出していては、震災は陳腐化し、風化していくでしょう。今回の発言をめぐっても、政局話ばかりが報じられ、今はもう話題にものぼりません。
 復興基本法には、「復旧にとどまらない」「21世紀半ばにおける日本のあるべき姿を目指して行われるべき」とあります。「失言」と政治家個人を責めて終わらず、震災前から進んでいた水産業の衰退や高齢化が早回しで訪れている課題先進地として被災地をとらえ、我がこととして具体的な議論を始められないでしょうか。 (聞き手・田渕紫織)

 復興と五輪 もとより別のもの  東北学院大名誉教授 岩本由輝さん
 桜田さんの発言が「失言」だとされていますが、もともと政府の「復興五輪」という言い方がおかしいんです。五輪は五輪でやればいいし、復興は復興でやらないといけない。別のものですよ。
 そもそも、「復興」なんて言葉を、僕は簡単に使う気になれません。
 東日本大震災では津波を受け、私が住んでいる相馬市でも知り合いが10人以上亡くなりました。さらに福島県は、原発事故による放射性物質の飛散に伴う問題があった。
 震災後、相馬市に隣接する飯館村で、「蕨平」という地域の歴史を調査しました。
 村には、放射線量が高く帰還のめどがたたない「帰還困難区域」に指定されている集落があります。その隣の蕨平は指定はされなかったのですが、住民たちが放射線量を調べたら、そこより高い数値が出た。「ここも同じじゃないか」となり、住民たちは離れざるを得なくなり、集落がなくなってしまった。
 そこに何ができたと思いますか?汚染ごみを処理する減溶化施設という焼却炉を国がつくったんです。
 相馬市には松川浦という内海があります。ここでとれるカレイやヒラメが僕は大好きだった。今は食べてもいいということになったんだけど、やっぱり食べる勇気がなかなか出ない。農家にしても震災前と同じように農業はできていない。震災前にはセリを売り出そうと組合もできたけど、難しくなってしまった。
 震災から8年たっても、これが現実です。そんな中で、五輪で世界中の人が来るから、おもてなしをしろと言われても、地元のものをごちそうするのもためらってしまうのに、どうやってもてなせばいいか僕には分かりません。
 いつしか五輪のために復興をやっていて、五輪が終わったら、復興期間も終了となるのではないでしょうか。そうなると、悲劇というよりむしろ喜劇だな。
 東北は歴史的に労働力を東京に供給してきました。つまり、東京は東北を利用するという関係性があった。もはや東京の人たちは昔ほど東北をはじめとした田舎の存在を気にしなくなってきているのかもしれない。
 そして、実は無関心の人の大部分は自分やその一代前に東京に出てきた人で、そういう人たちが自分のふるさとに関係性を持たなくなってきているんじゃないのかな。 (聞き手・有近隆史)」朝日新聞2019年4月24日朝刊、25面生活欄。
 
 岩本氏の最後の言葉は、痛みを伴う認識だが、ただの「風化」という話ではなく、東北から出てきた過去をもつ人すら、もはや故郷に残っていた親や祖父母の記憶すらその死とともに顧みる余裕も薄れ、やがて「帰省」という行為すらなくなりつつあるのかもしれない、と思わせる。被災地だけでなく、東北各地を歩けば、高齢者がかろうじて維持していた家や地域が風前の灯であることを感じる。政府にある多くの与党政治家は自分の選挙区の有権者のために働くと言いながら、衰弱した地域になにが必要かを真剣に考えているとは思えない。それは愚かな発言をする人だけではないようだ。
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オペラ的なるもの11 異国オペラの屈辱  立党の精神 

2019-04-24 15:24:47 | 日記
A.異国オペラ
  昔、1960年代東宝映画でヒットを続けた加山雄三主演の「若大将シリーズ」というのがあった。麻布の老舗のすき焼き屋の息子で、スポーツ万能の大学生を主人公に、恋に遊びに青春を謳歌する娯楽映画だが、シリーズ化するにつれ舞台は日本から海外ロケに移って、「ハワイの若大将」(ヨット1963年)、「アルプスの若大将」(スキー1966年)、「レッツゴー若大将」(香港・マカオ、サッカー1967年)、「南太平洋の若大将」(タヒチ、水上スキー1967年)、「リオの若大将」(フェンシング1968年)、「ニュージーランドの若大将」(スキー1969年)、最後は「帰ってきた若大将」(ニューヨーク・シティ・マラソン1981年)というぐあいに、他愛ないスポーツ青春ドラマを海外の観光地でロケをしてみせた。まだ海外旅行が高価で一般大衆には憧れであった時代、裕福な親を持った大学生が夢のような楽園リゾートでスポーツの栄誉を勝ち取るという映画は、同時期に同じ東宝でシリーズ並映だったクレージー・キャッツのお気楽サラリーマンものと並んで、経済成長の昇り坂を予感させておおいに受けた。
 実はこれには先行モデルがあった。当時のアメリカの大スター歌手、エルヴィス・プレスリーの主演映画シリーズである。これも初めはアメリカ国内(「さまよう青春」1958年など)を舞台にしていたのだが、「G.I・ブルース」(ドイツ1960年)を皮切りにやがて「ブルー・ハワイ」(1962年、ハワイは一応アメリカ合衆国ではあるが)、そして「ラスベガス万歳」と並んで「アカプルコの海」(メキシコ1964年)とアメリカ人がバカンス・リゾートに行きだした観光地に舞台を移す。場所はどこでもいいので、要するにプレスリーが歌って踊って、人気若手女優相手に魅力を振りまくだけの映画である。「若大将シリーズ」は明らかにこれをなぞっている。
 そしてさらに言えば、金と時間を持て余した有閑階級のやることは、無意味な蕩尽に文化的な意味づけをかぶせようとする愚劣であるから、参照すべきモデルは、19世紀のパリのオペラ座に象徴されるブルジョアの贅沢に帰着するのであり、さらにその源流は、18世紀の絶対主義王宮貴族の気晴らしの蕩尽、つまりオペラになる。そのオペラが、19世紀の黄昏に向かう時代に、ナショナリズムを鼓舞する国民オペラと並行して「異国オペラ」の流行を作り出していた。これはある意味で、19世紀的西欧帝国主義の徒花としてのオリエンタリズムであると同時に、豊かな先進国にいる中の下の大衆にとって、優雅で高尚な上流気分が味わえる幸福なイメージに溢れる娯楽だった。野蛮で異質な遠い異国の風景の中で繰り広げられる非現実的なドラマを、優雅なオペラハウスで愉しむ自分は、かつての王侯貴族には及びもつかないが、なんと幸福な文化を味わっているのだろうと、そのこと自体に満足している。舞台に使われた現地住民にとって、それがきわめて独りよがりな屈辱的な表象であることなど、考えも及ばない。

 「ベースはイタリアないしフランス・オペラの様式、そこへところどころ疑似民族的な要素を混ぜておく。この国民オペラのやり方は、いわゆる異国オペラのそれとまったく同じである。異国オペラとは十九世紀にとりわけフランスで大流行したジャンルだ。まずはその説明をしておこう。異国オペラは文字通り異国を舞台にするもので、白人の冒険家と原住民の娘の悲哀といった筋が多い。舞台装置には大金をかけて「現地」を再現し、観客に冒険旅行の気分を満喫させようとする。舞台はアフリカ、中国、オリエントなど、遠いエキゾチックな国なら何でもありである。初期の異国オペラとしてはスペイン人のメキシコ征服を扱ったスポンティーニの『フェルナンド・コルテス』(1809年)があるが、大流行し始めるのは十九世紀中頃からである。異国オペラ・ブームが、ヨーロッパ列強による植民地拡大、そして帝国主義の副産物ともいうべき万博の流行の、音楽における並行現象であったことは言うまでもない。
 思いつくままに異国オペラを列挙しよう。マイヤベーアの遺作『アフリカの女』(1865年)は喜望峰を発見したバスコ・ダ・ガマが主人公。ビゼーの『真珠とりの女』(1862年)は古代セイロン、ドリーヴの『ラクメ』(1883年)はインド、マスネの『タイス』(1894年)は古代エジプトが舞台、古代の中近東を舞台にした「聖書もの異国オペラ」も多い。ソロモン王伝説を素材にした『シバの女王』は、グノー(1862年)およびドイツのゴルトマルク(1875年)によってオペラ化された。サン=サーンスの『サムソンとデリラ』(1877年)やサロメ伝説を素材にしたマスネの『エロディアード』(1881年)もこの系列の作品だ。だが異国オペラの代表と言えば何と言ってもヴェルディの『アイーダ』(1871年)であろう。そしてプッチーニの『蝶々夫人』(1904年)と『トゥーランドット』(1926年)は、異国オペラのジャンルの最後の輝きだった。
 異国オペラの流行の背景にあったのは十九世紀における旅行ブームである。交通機関の発達によって人々は、以前とは比べ物にならないくらい安全に旅行ができるようになった。以前は旅は何らかの使命遂行のための命がけの冒険であり、旅行者は見知らぬ土地の風景美を味わう余裕などなかった。だが船舶や汽車によって旅は安全かつ快適になり、今や人々は楽しみのために旅をするようになる。初めて目にする異国の風物詩の享受そのものが、旅の目的になるのである。まずはスイス、次いでスコットランド(ウォルター・スコットの小説の流行が拍車をかけた)、やがてスペインなどが、観光旅行の人気スポットになった。もちろんイタリアの諸都市は古くから人々の憧れの地だった。こうした旅行ブームを反映して、十九世紀においては音楽によるローカルカラー(地方色)の表現が大流行し始める。メンデルスゾーンは地方色を音で描いた最初の作曲家の一人であるし(序曲『フィンガルの洞窟』、交響曲『イタリア』および『スコットランド』、ピアノ曲『ヴェネチアの舟歌』など)、リストも『スペイン狂詩曲』や『巡礼の年(第1年スイス、第二年イタリア)』で旅の思い出を綴った。
 だが、「音によるローカルカラーの表現」と言えば、何と言ってもオペラの独擅場である。器楽曲と違ってオペラでは、目と耳の両方から、居ながらに架空の旅を体験できるのである。ロッシーニの『湖上の美人』(1819年)、ボイエルデューの『白衣の婦人』(1825年)、ドニゼッティの『ランメルムーアのルチア』(1835年)はいずれも、スコットランド出身の人気小説家ウォルター・スコット原作に基づくスコットランドを舞台としたオペラである。ヴェルディの『マクベス』(1847年)も「スコットランドもの」に分類することが出来るだろう。またロッシーニの『ウィリアム・テル』は「スイスもの」、オーベールの『ポルティチの唖娘』は「ナポリもの」である(後者では最後にヴェスヴィオ火山が噴火する)。スペインも再三オペラの舞台になったが、ここではビゼーの『カルメン』(1875年)を挙げるにとどめておこう。こうした擬似旅行オペラとも言うべきジャンルは十八世紀までは存在しなかった。そして十九世紀も半ばを過ぎる頃になり、ヨーロッパ列強の領土がますます拡張していくとともに、擬似旅行の旅先がヨーロッパ以外の世界(海外)へ広がっていったのは当然の成り行きであった。十九世紀後半になって始まった万博が、異国オペラ・ブームを加速させたことは言うまでもない。
では異国オペラの音楽的正体は何かと言えば、結局それは国民オペラと一緒なのである。基本様式はイタリア・オペラないしフランスのグランド・オペラで、ところどころそこに五音階や珍しげな打楽器を混ぜているだけなのだ。異国要素は「真正」からは程遠く、それがメキシコの音楽なのかアンデスのそれか、インドかアフリカか、それとも中国か日本か、音だけからは分からない(あるいはどうでもいい)。どことなく異国風に響けばそれでいいのであって、舞台がメキシコなら観客はそれをメキシコ音楽だと思い込むし、セイロンだと言えばそんな気がしてくるのだ。メンデルスゾーンの交響曲『スコットランド』を聴いたシューマンが、それを『イタリア』だと思い込み、メンデルスゾーンによるイタリアの風景描写の見事さを絶賛したのは有名だが、音楽によるローカルカラー表現の「真正さ」などしょせんこんなものなのである。異国オペラと国民オペラは十九世紀音楽におけるローカルカラー・ブームの生んだ双生児であった。ある地方(国)のローカルカラーを自国の作曲家が熱烈な愛国心をもって表現すれば国民オペラになるし、外国人作曲家がそれを興味本位で描写すれば異国オペラになるというだけのことなのだ。この意味で国民オペラの祖ウェーバーが、同時に異国オペラの達人でもあったという事実は興味深い。彼は『アブ・ハッサン』(1811年)と『オベロン』(1826年)ではオリエントを、遺作『三人のピント』(後にマーラーが完成)ではスペインを描いた。意地悪く言えば『魔弾の射手』は、ローカルカラー表現の達人ウェーバーが、母国ドイツの森を舞台にして作った異国オペラなのかもしれない。」岡田暁生『オペラの運命 十九世紀を魅了した「一夜の夢」』中公新書、2001、pp.141-144.

 ぼくたち日本人にとって、プッチーニの名作オペラ『蝶々夫人』ほど、アンヴィヴァレントな感情の繁茂を刺激するものはない。それはヨーロッパ人にとっては娯楽の材料、遠いオリエンタルな「異国オペラ」の悲恋物語にすぎない。鎖国日本が開かれた西洋との窓口長崎を舞台に、アメリカの海軍士官と日本の没落武士の娘とのコロニアルな悲劇。それが西洋の上流高級文化の華、オペラの演目として高い評価を得て繰り返し上演される。それを西洋の側に立って栄誉だと考えるか、アジアへの蔑視屈辱の表現として拒否するか、今となっては現代的な意味はかなり薄れている。ぼくは、ニューヨークで「マダム・バタフライ」を観たとき、ぼくたちの国が外からの眼では大きな誤解に曝されていると思うと同時に、こういう形でしか「日本人」は理解されないだろうし、それは冷静に見てマイナスよりはプラスに働くと思った。しかしオペラなど、21世紀の現代では過去のカビの生えた伝統芸能と化している。第一今日本人の95%は、オペラどころか劇場に行ってアートを鑑賞することが、たんなる娯楽エンタメ以上の価値があるなどとは思っていない。

 「このように国民オペラと異国オペラが実質的にほぼ同じものなら、「海外発注された国民オペラ」とでも呼ぶべきなのが、ヴェルディの『アイーダ』である。まずは作品の成立経緯を説明しよう。周知のように『アイーダ』はカイロのオペラ・ハウスの委嘱で作られたのだが、当時のエイジプト大公イスマイル・パシャは、フランスで教育を受けた典型的な欧化主義者だった。彼は国をヨーロッパ化して鉄道網を整備し、灯台を建設し、電信設備を整えた。こうした欧化政策の仕上げが、スエズ運河の開通記念に建設されたカイロのオペラ劇場なのである(スエズ運河の開通記念ファンファーレの作曲もヴェルディに委嘱されたが、この時は彼は作曲を断わった)。この劇場は1869年にヴェルディの『リゴレット』でオープンした。当時のヨーロッパ外の発展途上国にとって「先進国の仲間入り」とは「ヨーロッパ化」のことであり、国家のヨーロッパ化はオペラ劇場の建設をもって完成されるのであった。
 カイロにオペラ劇場が出来た十九世紀の後半(ちょうど明治維新の頃)は、ヨーロッパはもちろん世界各地で、続々と国立のオペラ劇場が建設された時代だった。チェコでは1881年、ハンガリーでは1884年に大規模な国民歌劇場が開設される。ニューヨークのメトロポリタン歌劇場のオープンは1883年である。トルコは既に1840年代からドニゼッティの兄ジュゼッペを音楽監督に招聘して活発なオペラ活動を展開していたが、1859年にはイスタンブールの宮殿内に帝立の劇場が建てられた。とりわけ中南米はオペラ上演が盛んで、1838年には当時世界最大規模と言われたキューバのタコン劇場(ハバナ)、1857年には巨大な規模で今なお有名なアルゼンチンのコロン劇場(ブエノスアイレス、1908年改築)が建てられている。オペラ・ハウスはヨーロッパ帝国の富と権力のシンボルであった。
 だがハードを作れば、次はソフトが必要になる。ハンガリーやポーランドなどは、世界に誇れる自国の「看板だしもの(国民オペラ)」の創出に必死になった。だがエジプトのようなヨーロッパ音楽の伝統がまったくない国が、いかにして国民オペラを作るか?エジプト大公がやったことは、一見まことに安直なようで、実は非常に理にかなっていた。つまり「国民オペラ」の創作を「外国人」に委嘱したのである(ちなみに日本政府もまた1940年に、紀元2600年記念祝典曲をリヒャルト・シュトラウスらに委嘱するということをした)。しょせん国民オペラも異国オペラも紙一重ならば、自前で二流のものをつくって無視されるより、財力にものを言わせて定評ある外国人の作曲家に頼んだ方が手堅かろう。かくしてエジプト大公が白羽の矢を立てたのがヴェルディであった。大公はヴェルディに断られた時にがグノーかワーグナーに頼むつもりでいた。スエズ運河開通記念ファンファーレの作曲は断ったヴェルディだが、今度は引き受けた。エジプト学者オギュスト・マリエットが書いた原作を、ヴェルディがかなり気に入ったということもあっただろう。しかし何といってもエジプト大公は彼に、15万フランという途方もないギャラを積んだのだ。しかもこれはヴェルディに支払われる金額であって、上演経費はまた別であった。国王の一存で、一年の国家予算に匹敵するような額の金をオペラにつぎこむなど、ヨーロッパではフランス革命以降もはや不可能になっていた。だが民主化されていない「後進国」では、バロック時代のヨーロッパの王侯に匹敵する王侯の「放蕩」が、十九世紀においてもまだ出来たのである。
 『アイーダ』作曲にあたってヴェルディは、彼なりに古代エジプト音楽を一生懸命勉強した。彼はフェティスの音楽史の本を読んだり、フィレンツェの古代博物館を訪ねたりして、古代エジプト音楽の研究に余念がなかった。こうしたヴェルディの最大の「研究成果」が、あの有名な凱旋行進曲で用いられるアイーダ・トランペット(弁のない長い筒状のトランペット)である。古代エジプトの墓の壁に描かれたものをモデルに、彼はこの「古代エジプトの形に従った六本のトランペット」を特注したのである。だがこのアイーダ・トランペットが、実際の古代エジプトのトランペットとは似ても似つかないものであっただろうことは言うまでもない。古代エジプトの壁画にこれと似たものが描かれているのは確かである。だが古い時代のトランペット(例えば古代ローマや中世)にはこういった形状の楽器が多くあり、アイーダ・トランペットを古代エジプトの楽器の復元であると特定できる理由は何一つない。これを「古代アッシリアのトランペットの復元」と称しても「古代ローマのトランペットの復元」と称しても、一向にさしつかえないのである。
 そもそも「弁のない長いトランペット」というアイディアをヴェルディは、『アイーダ』作曲のはるか以前に既に思いついていた。1850年代に彼はシェークスピアの『リア王』をオペラ化しようとしていたのだが、そこでアイーダ・トランペットに似た楽器を用いようとしていたのである。1854年3月31日に予定の台本作者アントニオ・ソンマに宛てて、ヴェルディは次のように書いている。「トランペットのファンファーレでいきなりオペラの幕を開ければ非常に印象深く、また個性的だと思われます(現代のトランペットではなく、古いまっすぐの長いトランペットです)」。もし『リア王』のオペラ化が実現していたら、アイーダ・トランペットは「リア王トランペット」になっていたかもしれないのである。
 アイーダ・トランペットのこうした素性の怪しいエクゾチズムが、異国オペラの常套手段であることは言うまでもない。だが当のエジプトではアイーダ・トランペットは、決して「素性の怪しげな」と受け止められはしなかった。二つのエピソードを挙げよう。『アイーダ』初演の翌年の1872年にエジプト大公がコンスタンチノープルを訪れた際には、軍楽隊奏者が彼に同伴して、この楽器でファンファーレを吹いた。そして同年に大公の秘書は国務大臣に、このトランペットを吹きながら乗れる大人しい四頭の馬を調達するように要請した。公式行事をそれを使うためである。つまりアイーダ・トランペットはエジプト国家の鳴り響く象徴として奉られたのである。国民オペラの理念の曖昧さを『アイーダ』ほど典型的な形で具現している作品はない。」岡田暁生『オペラの運命 十九世紀を魅了した「一夜の夢」』中公新書、2001、pp.145-149. 

 「異国オペラ」がいかにヨーロッパ白人の自己中心的な目線で、勝手な物語をこしらえた噴飯モノなのかは、それをもはや前世紀いや前々世紀の伝統芸能としてしまえば問題にもならないが、それを鹿鳴館的にありがたがる後進性は、たしかに情けないものがある。



B.アベノミクスの致命的誤謬
 経済学者伊東光晴のアベノミクス批判の最後の論点は、憲法である。伊東は、自民党結党の原点に遡って改憲の論拠をもう一度確認している。保守合同をしてできた自由民主党は、なぜ憲法改正を提起していたのか?その後右派の通説になったGHQの「押しつけ憲法」論は、そのなかに二つのモメントがあった。ひとつは軍事的な視点で、日本を徹底的にアメリカのいいなりの道具にすること。これは沖縄をはじめ米軍基地の従属的現状に実現している。もうひとつは、自衛隊という実質的軍隊を憲法に折衷的にしろ書き込むこと。ただ、思想的には、日本が独立国家として軍事的のみならず法的、精神的に自立するという目標を立てるなら、首根っこを押さえられている日米安保条約を改訂するという課題が焦点になる。しかし、この国ではそれを無視して、憲法の対米従属的な運用を追認するような錯誤が、首相官邸の構想として進行している。戦争に手痛く敗北した日本の伝統支配層を代表する自民党の立党宣言を読むと、占領されたGHQのもとで、愚かな軍国主義を排除した保守勢力が生き残る道は、支配者アメリカの意向を忖度してどこまでも卑屈に従う振りをしつつ、国民の経済生活を向上させる賢い選択をした。ぼくらはこのことを、経済成長の成功に幻惑され「戦後」の課題を忘れているうちに、当の自民党自身がかつて何を目指していたのかがわからなくなってしまった。 

 「安倍首相は、憲法改正は自民党結成以来の公約であると言っている。たしかに、憲法改正――自主憲法をという声はそれ以前からあった。
 その一例が1955年7月11日、日本民主党、自由党、緑風会の有志議員による「自主憲法期成議員同盟」の結成である。それは、かねてこうした主張を公言していた鳩山一郎を擁した民主党だけでなく、吉田茂をたてた自由党の中にも、また、良識の府を体現する緑風会(参議院の無党派グループ)の中にも憲法改正論者がいることを物語っていることを物語っている。
 だが、である。それは自民党「立党宣言」(資料1)の中にも、それに続く「綱領」(資料2)の中にも見られない。それはその下の「政綱」(資料3)と題する六つの項目の最後に「独立体制の整備」として、「平和主義、民主主義および基本的人権の尊重の原則を堅持しつつ、現行憲法の自主的改正をはかり」たるだけであり、「自衛軍備を整え、駐留外国軍隊の撤退」、つまりアメリカ軍の日本からの撤退を考えることとパラレルになっている。沖縄北部の「辺野古」に米軍基地を提供することになるというような、植民地以外考えられない事態を想定してはいないのである。
 日本の憲法改正問題は、人間でいえば帯状疱疹が神経内に潜伏し、体力が弱ると活性化して激しい痛みを走らせるように、政治が劣化すると激痛をもたらすのである。ただしその痛みは、米軍駐留ゆえの痛みであって、その撤退なき改正論は自民党立党時には存在しなかったのである。これが当時、若い研究者として生きた、私たちがこの一文から受けとったものである。くりかえそう。立党の精神は、アメリカ軍の撤退と憲法改正がパラレルになっている。それは東条英機の盟友、岸信介首相から安倍首相に流れる対米追随路線の理解――撤退なき改正とは異なるのである。
 (資料1)自民党立党宣言
 政治は国民のもの、即ちその使命と任務は、内に民生を安定せしめ、公共の福祉を増進し、外に自主独立の権威を回復し、平和の諸条件を調整確立するにある。われらは、この使命と任務に鑑み、ここに民主政治の本義に立脚して、自由民主党を結成し、広く国民大衆とともにその責務を全うせんことを誓う。
 大戦終熄して既に十年、世界の大勢は著しく相貌を変じ、原子科学の発達とともに、全人類の歴史は日々新しいページを書き加えつつある。今日の政治は、少なくとも十年後の世界を目標にえがいて、創造の努力を払い、過去および現在の制度機構の中から健全なるものを生かし、旧き無用なるものを除き、社会的欠陥を是正することに勇敢であらねばならない。
 われら立党の政治理念は、第一に、ひたすら議会民主政治の大道を歩むにある。従ってわれらは、暴力と破壊、革命と独裁を政治手段とするすべての勢力又は思想をあくまで排撃する。第二に、個人の自由と人格の尊厳を社会秩序の基本的条件となす。故に、権力による専制と階級主義に反対する。
 われらは、秩序の中に前進をもとめ、知性を磨き、進歩的諸政策を敢行し、文化的民主国家の諸制度を確立して、祖国再建の大業に邁進せんとするものである。
 右宣言する。
  (資料2) 自民党綱領
一、わが党は、民主主義の理念を基調とし諸般の制度、機構を刷新改善し、文化的民主国家の完成を期する。
一、わが党は、平和と自由を希求する人類普遍の正義に立脚して、国際関係を是正し、調整し、自主独立の完成を期する。
一、わが党は、公共の福祉を規範とし、個人の創意と企業の自由を基底とする経済の総合計画を策定実施し、民生の安定と福祉国家の完成を期する。
(資料3) 自民党政綱
一、国民道義の確立と教育の改革(略)
ニ、政官界の刷新(略)
三、経済自立の達成(略)
四、福祉社会の建設(略)
五、平和外交の積極的展開(略)
六、独立体制の整備
 平和主義、民主主義及び基本的人権尊重の原則を堅持しつつ、現行憲法の自主的改正をはかり、また占領諸法制を再検討し、国情に相応した自衛軍備を整え、駐留外国軍隊の撤退に備える。
           (資料1~3とも、1955年11月15日採択) 」伊東光晴「アベノミクス病理の淵源」岩波書店『世界』2019年5月号、pp.43-44.

 この政綱最後の六、占領が終わって独立国となった段階で、占領下にできた諸法制を再検討し、身の丈に合った自衛軍備をそなえ、駐留外国軍隊の撤退に備える、と書いてある。つまり、その後今日まで長期間政権を担当してきた自由民主党は、「自衛軍備を整え」るほうは着々と推進してきたが、もうひとつの課題である「駐留外国軍隊」の撤退のほうはいっこうに進めないどころか、あらゆる手を使って米軍のご機嫌を損ねないように忖度している。これではそもそも改憲の理由にはならない。立党の志はどこに行ってしまったのか。
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オペラ的なるもの10 国民オペラの叢生 ... アベノミクスの魔術?

2019-04-22 01:46:58 | 日記
A.国威発揚とオペラ:国民オペラ 
 近代の国民国家というものは、古代の大帝国や中世の領邦王国とは違った人工的な統一国家だとされる。どこが違うかといえば、前近代の「国」では、人々は小さな共同体や都市に生きていて、その上に君臨する領主や王族が支配者として領民から税や労役兵役などを課すだけの関係であり、それぞれの土地に対する郷土愛はあるけれども、それは宮殿の中の王家とも政治とも無縁なものだった。それが啓蒙思想やフランス革命で出現した近代国家では、政治権力の正当性legitimacyの根拠が国民の意志にある、つまり「国民」の存在とその権利や自由を支えるために国家を作る社会契約という思想が、たんに法秩序を守らせるだけの「夜警国家」ではなく、「国家」を国民の精神的一体感をもとにした立憲君主国、さらには国民の合意によって建国された共和国という形をとる。
 19世紀は、フランス大革命以後の混乱からナポレオンが強力な帝国を建ててヨーロッパ全土に攻め込み、それが各国で王侯貴族の支配ではなく「国民のための国家」の必要性とそれを支える「愛国心」の重要性を目覚めさせたともいえる。しかし、日々の生活に追われる人々には、広い範囲の統一国家というものをイメージするのは容易いことではなかった。そこでオペラという19世紀的な文化装置が意味を持ってくる。それはとりあえず古い領邦国家の乱立するイタリアとドイツで、統一された国民国家の必要性が叫ばれる時代に、文明の華を誇るオペラをこの両国が本場と自負することから、国民オペラが誕生する。その代表は、ヴェルディ『ナブッコ』とウェーバー『魔弾の射手』、そしてワーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』だった。

  「ここで簡単に国民オペラの定義をしておこう。まず音楽的には国民オペラは、自国語で歌われ、自国の民謡や舞曲をとり入れ、国民色を前面に出すのが特徴である。また「国民オペラ」と銘打つ以上、国民の同胞意識を高めるような高揚感をもつヒットナンバーが、少なくとも一つはなければならない。そして台本の点ではそれは、国の誰にとっても懐かしい祖国の風物と伝説をちりばめ、たいていは国家建設の伝説の英雄や、国の失われた黄金時代を主題とする。十九世紀において発展(統一)途上の「後進国」は、争って国民オペラを創出しようとした。思いつくままに各国の国民オペラを列挙しよう。ロシアではグリンカの『皇帝に捧げし命』(1836年)、ハンガリーではフェレンツ・エルケルの『ラースロー・フニャディ』(1844年)と『バーンク・バーン』(1861年)、ポーランドではスタニスラフ・モニシュコの『ハルカ』(1848年)、チェコではスメタナの『ダリボール』(1868年)と『リブシュ』(1881年)……。
 だが国民オペラは東欧諸国の専売特許ではない。ワーグナーの『ニュルンベルクの名歌手』は、『魔弾の射手』と並ぶドイツの国民オペラである。第二次大戦中にナチスはこの作品を党大会で記念上演するなど、「愛国オペラ」として徹底利用した。またヴェルディの『ナブッコ』(1842年)はイタリア版の国民オペラである。古代バビロニアで囚われの身になっているユダヤ人たちが祖国を懐かしんで歌う合唱「行け我が想い、黄金の翼にのって」はイタリア第二の国歌とも言われ、国家統一運動の象徴になった。それどころか国家(リソルジ)統一(メント)から100年近くたってもなお、この合唱はイタリアという国の象徴そのものであるようだ。例えば1949年のナポリのサン・カルロ劇場での『ナブッコ』公演のライブ録音(マリア・カラスが主演している)では、合唱に途中から観客も加わって、曲が終わるのも待ち切れずに客席のあちこちから「イタリア万歳!」の叫び声があがり、劇場中が蜂の巣をつついたような大騒ぎになって、客席からの熱烈なリクエストに答えてもう一度アンコールされる様子が記録されている。あるいは映画『ゴッドファーザーPart Ⅲ』でも、アル・パチーノ演じるマフィアのボスがシチリアの故郷コルレオーネ村を訪れた際に、地元のブラスバンドが「行け我が想い」を演奏して彼を出迎える場面がある。もちろんワーグナーやヴェルディの作品を除けば、ここに挙げたオペラは本国以外ではほとんど上演されない。しかしエルケルの作品は今日までブダペストで800回以上上演されているし、チェコの劇場で何かの記念公演をやる時はしばしば『リブシェ』が演目になる。モニシュコはポーランドではショパンに次ぐ国民的作家であり、グリンカがロシアで占めている地位はドイツのウェーバーに匹敵する。十九世紀においては国の数ほど国民オペラが作られたと言っても過言ではないのである。
 ここで注目すべきは、「国民オペラ」が生まれたのがほとんど例外なく、政治体制が不安定な国だったという点である。ドイツ、イタリア、チェコ、ハンガリー、ポーランドなど、いずれも未統一ないし非独立国家ばかりである。それに対してイギリスやフランスやオランダのような国家体制が安定した国に国民オペラは生まれなかった。経済的に隆盛を誇り、国民のアイデンティティは揺るぎなく、国の文化的威信も世界に認められていたこれらの国々は、いまさら国民オペラでもって「国おこし」をする必要などなかったんだろう。しかし非中央集権的であるが故に、国民の国歌に対する帰属意識がきわめて弱かったドイツやイタリア、そして長年大国に支配されてきたハンガリーやポーランドにとっては、国民オペラによって国家の「創世神話」を作るのである。国際的に通用するような国民オペラを作ることで、対外的には自国の文化を世界的に認知させ、国内的には国民の同胞意識を高める必要があったのである。マッシモ・ダゼリオ侯爵はイタリア統一運動の理論的指導者の一人で画家でもあった人物だが、イタリア統一後に彼は「イタリアという国は出来た、今度はイタリア人を作らねばならない」と語った。後進国において国民オペラは、この「国民を作る」という政治的機能を果たしたのである。
 ワーグナーの『ニュルンベルクの名歌手』のフィナーレの歌合戦の場面は、国民オペラの理念の究極の神聖化である。騎士ヴァルターの作ったメロディーに聴き惚れていた民衆は、やがて口々にそれを唱和し始め、歌声は波のように広がっていく。このヴァルターの懸賞歌「朝はバラ色に輝いて」は、あたかも民衆の中から自然発生的に湧き上がってきたかのように響く。自分たちの歌を見つけた民衆の「感動」を、これほど「感動的に」描いてみせた作品は他にはない。国民オペラとは民衆の歌声を民衆に代わって書きとめたもの、彼ら自身さえも忘れ果てていた、しかし誰もがいつかどこかで聴いたことのある、遠い民族の歌声の記憶を呼び覚ますもの。『ニュルンベルクの名歌手』のこの最後の場面を見ていると、誰しもこんな国民オペラ神話を思わず真に受けてしまいそうになるだろう。だが実際には国民オペラは、それがしばしば政治的含意を帯びていたことからも分かるように、決して民衆の中から自然発生的に生じたものではなかった。
 そもそも国民オペラの祖たる『魔弾の射手』の成功からして、宮廷内の権力闘争がそれに深く関わっていたことは既に述べた。グリンカの『皇帝に捧げし命』にしても、愛国的なのは台本だけで、音楽はほとんどドニゼッティのコピーである。これが民衆の中から自然発生的に湧き上がってきたものとはとても思えない。またスメタナはチェコの国民オペラの創作に力を尽くしたが、上流階級に生まれた彼はドイツ語しか出来ず、オペラを書くことになって初めてチェコ語の勉強を始めた。しかも彼は二つの国民オペラ『ダリボール』と『リブシェ』の台本はもともとドイツ語で書かれたもので(台本作者もドイツ語しか出来なかったのである)、そのチェコ語訳にスメタナは苦労しながら音楽をつけたのだった。この両作品には随分と奇妙なイントネーションのチェコ語が多々あるという。つまり国民オペラは「上からの」民族主義の産物であって、決して庶民の中から自然発生したものではないのである。そもそも十九世紀の各国において「近代国家」を主導したのは知識人であり、またオペラの主な作者・観客層もまた知識人階級の人々だった。国民オペラとはきわめて人工的な代物であって、その理念の背後にはいかがわしいイデオロギー性が見え隠れしているのである。
 イタリア統一運動の象徴として全国民の熱狂的な支持を受けていたと信じられているヴェルディですら、その「ヴェルディ神話」は政治によって作られたものという性格が強い。例えばベルナルド・ベルトリッチ監督の映画『1900(ノヴエチェント)年』(1976年)は、リゴレットの恰好をした酔っ払いの乞食が「ヴェルディが死んだ、ヴェルディが死んだ」と泣き叫びながら野原を彷徨う場面で始まる。また統一戦争最終の十九世紀中頃のヴェネチアを舞台にしたヴィスコンティ監督の映画『夏の嵐』は、『イル・トロヴァトーレ』のマンリーコのアリア「見よ!恐ろしき炎を」を聴いて昂奮したオペラ劇場の観客が、口々に「オーストリアを出ていけ!イタリア万歳!」と叫んで大騒ぎになる場面で始まる。だがこうした全国民的なヴェルディへの熱狂は、調べれば調べるほど後世の作ったフィクションに思えてくるのである。
 もちろん初期ヴェルディのオペラの台本(特に『ナブッコ』と『十字軍のロンバルディア人』〔1843年〕)が、強烈な愛国的性格をもっていることは確かである。特に『ナブッコ』はイタリアという国の創世神話であり、合唱「行け我が想い、黄金の翼にのって」がイタリア人なら誰でも知っている第二の国歌であることは、既に述べた。また国家統一の時期に人々は、口々に「ヴェルディ万歳」と叫び、また道端に落書きをし、ヴェルディは統一運動の精神的支柱になったとされる。当時のイタリアでは「イタリア万歳」と叫ぶことがオーストリア政府によって禁止されていたので、人々は「イタリア万歳、エマヌエレ二世(初代イタリア国王)万歳」の代わりに「ヴェルディ万歳」と叫んだのである。「万歳(Viva)ヴェルディ(V.E.R.D.I)」は「万歳(Viva)ヴィットリオ・エマヌエレ二世、イタリアの王(Vittorio Emanuele 〔Ⅱ〕Re d’Italia)」の略称に他ならない。人々は遅くとも1859年2月17日の『仮面舞踏会』のローマ初演から、この合言葉を口にするようになったと言われている。
 だが実際に諸資料を調べると、ヴェルディが本当にイタリアの全国民の熱烈な支持を受けていたという確たる証拠は、実はほとんどない。例えば1848年にボローニャで『十字軍のロンバルディア人』の公演が、イタリア賛歌を合唱で歌う催しのために中止になったことを、どう説明すればよいのだろう?また同年にはかの愛国オペラ『ナブッコ』がナポリでさんざんな不評だった。さらに当時のイタリアではオペラはまだまだ贅沢趣味だったことを考えれば、庶民が実際に劇場でヴェルディのオペラを耳にすることが出来たかどうか、はなはだ疑問である。たとえ彼らがそれを耳に出来たとしても、標準イタリア語(トスカーナ語)で書かれた歌詞を庶民がどの程度聞き取り、その政治的含蓄を理解できたか?そもそも「ヴェルディ万歳!」が統一運動の合言葉だったという最初の証言は、実はウィーンの高名な評論家ハンスリックによるものであり、しかも彼がこのことに触れている『近代のオペラ』が出版されたのは、当にイタリアが統一された1875年なのである(Eduard Hanslick, Tagebuch eines Rezensenten, Kassel 1989, p.245-82)。1859年の『仮面舞踏会』初演で「ヴェルディ万歳!」という叫び声があがったという同時代のイタリアのドキュメントは実は存在しない。すべては風聞なのだ。またイタリア初代首相のカヴールはオペラをどう思うかと尋ねられて、実にクールに「世界規模の大産業になる可能性があると思う」と答えただけだった。彼はヴェルディにも、そのオペラの愛国的意味についても、一言も触れなかった(なおカヴールは音楽好きではなかったが、1859年のオーストリアとの戦いの折に、ヴェルディの『トロヴァトーレ』の「見よ、恐ろしき炎を」に通期づけられたと後に語った。上に触れたヴィスコンティの『夏の嵐』の冒頭場面はこのエピソードにヒントを得たと思われる)。また十九世紀後半の新興イタリアの学校教科書には、『いいなずけ』(1827年)で有名な小説家マンゾーニの名はあっても、ヴェルディのそれは見当たらないという……。
 結局ヴェルディがガリバルディやカヴールと並ぶイタリア統一の英雄に奉られるようになるのは、ムッソリーニの時代になってからのことのようである。イタリア語によるヴェルディ文献が爆発的に増えるのは、1920年代のことである。ヒトラーがワーグナーを利用した程ではないし、また彼のお気に入りの作曲家はヴェルディではなくマスカーニだったとはいえ、ムッソリーニもまた国民的作曲家ヴェルディを政治的に利用しようとしたのである。イタリアと言えばいまだにきわめて国家意識の弱い国家である。イタリア語でPatriaと言えば、「祖国(イタリア)」というよりも、「故郷(ナポリ、パレルモ、フィレンツェ、バーリといった『地方』)の意味合いで使われることの方が多い。だいたいイタリア統一は北部による南部の合併の性格が強く、ナポリやシチリアの人間はいまだに「自分たちはミラノの人間に支配されている」という被征服意識を強くもっている。こう考えれば確かに、ナポリやバーリやパレルモやカターニャの人間が、「いけ好かない北」の作曲家ヴェルディに熱狂してイタリア統一の夢をそれに託したなど、あまりありそうにない話に思えてくる。こんな非中央集権国家イタリアが統一以来唯一、近代国家の体をなしていたのがムッソリーニの「国家社会主義」の時代であり、ヴェルディが「国民的作曲家」に奉られたのもこの時期だというのはいかにも象徴的である。国をまとめるには「国民オペラ」と「国民的作曲家」がいる。国民オペラの理念はことほどさように近代中央集権国家のそれと深く関わっているのである。」岡田暁生『オペラの運命 十九世紀を魅了した「一夜の夢」』中公新書、2001、pp.130-138.

 ナポレオン軍の脅威に促されて、意図的に上から統一された国民国家を作らなければならず、そのために無理にでも「愛国オペラ」を作り出した国々。そういう意味では、極東の新興国ニッポンも、大急ぎで‟先進国“フランスやイギリスに追いつこうっと走り出したのだったが、なにせ、オペラどころか音楽のドレミから学習しなければならず、とりあえず軍楽隊は作ったが、とても自前でまだ「愛国行進曲」は作れなかった。



B.アベノミクスの擦り切れ、いや来たるべき断末魔
 第2次安倍政権がまがりなりにも選挙に勝ち続け、森友・加計問題であれほどボロが出ても長期政権を維持できているのは、結局、日本経済をなんとか持ちこたえ景気悪化をさせないアベノミクス効果なるものを、国民大衆がなんとなく信じているからとみていいだろう。しかし、これは多分に経済の実態を正確に統計的に把握した上で言っているのではなく、一種の気分を醸成するように政府広報やメディアが煙幕を張っている要素がないとはいえない。問題は、経済の専門家がここまでの「アベノミクス政策」をどうみているか。
 伊東光晴という経済学者は、近刊の『世界』に載せた論文で、アベノミクスについて5つの特徴を指摘している。そのまず第一は、安倍内閣が円高転換と、民主党の再分配政策を否定して成長政策に変え、官邸に入りこんで財務省の力を排除したい経済産業省内閣を作ったともいえる特徴があると指摘。第二はマネタリズムを信条とする人の登用である。

 「首相主導となれば、首相に近い人、親しかった人たちの考えが、この内閣では経済産業省の考えと一致していた。本田悦朗、浜田宏一、岩田規久男、等々の諸氏がこれである。
 本田氏は、安倍首相の若い時からの知人で、大蔵省に在職し、アメリカで知りえた知識で、不況は貨幣的現象だというマネタリストの考えを信ずるようになり、大蔵省ではポストがえられず、静岡県立大学に転じていた。
 浜田氏は、東京大学経済学部の金融論の教授から、留学先でもあったイェ―ル大学の教授に転じ、内閣府の研究所長の時、安倍氏が知る。そこで、金融政策の活用を提言したことで、安倍氏の注目するところとなる。
 岩田氏は、学習院大学の教授で、速水優日銀総裁の政策を強く批判し、日銀が通貨を増発すれば不況の克服は可能と考える。本田氏と同じマネタリストであった。
 浜田氏は、本田氏や岩田氏と違って、本格的な経済学者であり、マネタリストではない。反対の立場のケインジアンであり、アメリカにおけるケインジアンの中心、トービン教授のいたイェール大学で学んだのである。氏の考えはアメリカケインジアンの定説ともいえる「マンデル・フレミング理論」である。それは不況対策として“固定為替制度のもとでは財政政策”が“変動為替制度のもとでは金融政策”が有効という考えである。変動為替下の現在、金融政策を提言したのであろう。それが安倍氏の耳には、本田氏、岩田氏と同じマネタリストと思えたに違いない。
 こうして安倍内閣成立とともに、日銀の通貨増発による不況脱却を行おうとする人たちが、日銀に入ることになっていく。
 黒田東彦日銀総裁、岩田副総裁、日銀の政策委員も同様の人たちである。安倍首相は、当初本田氏の副総裁入りを望んだらしいが、財務省の強い反対で岩田氏に変わり、以後、こうした人事が続いていく。
 この通貨政策は、経済産業省の幹部たちの思惑に沿うものでもあった。日銀による円の国内流通量の増加が円の海外流出となり、円安になるという考えである。
 為替は財務省の所管事項である。それを通貨政策で日銀にやらせる。そのため、かつて財務省でこの業務を行っていた責任者(財務官)であった黒田氏を日銀総裁にすえる人事を行なった。
 今まで日銀総裁は、内部昇進か財務次官の就任かであった。黒田総裁は異例である。それを首相主導で行なった。
 誰でもわかるように、日銀が買い続けた国債は増加を続け、円は海外に出ていかなかった。海外も低金利だったからである。円安をもたらしたのは別の要因である。このことに気づく人はほとんどいないが、別稿(「安倍経済政策を否定する」『世界』2018年5月号)で書いたので、ここではふれない。
 だがそれが国内経済に景気回復をもたらしたという、毎月の経済報告について言及した。
 「緩やかに回復している」というからにはその前は回復していなかったに違いない。毎月毎月、景気が回復しているということは、その前に回復していない月が続いていたということになる。これは矛盾ではないか。いつまでも同じことを言っているのはおかしい。「雨乞いの祈祷師は必ず当たる。雨が降るまで祈るからである」というように、事実は、景気は回復を続け好景気へ――そうなっていないのである。
 かつての経済企画庁は、政治から離れ客観的分析を公表していた。なぜそれができなくなったのだろう。大きな変化が行政の中に生じたからであり、それが安倍内閣の次の特徴をつくりあげる。」伊東光晴「アベノミクス病理の淵源」岩波書店『世界』2019年5月号、pp.40-41. 

 内閣を構成する時の政権幹部と、国家の行政を担う官僚機構とは、基本的に別の機能、別の組織であると考えるのが少なくとも、従来の日本の常識だったと思う。アメリカや韓国などでは、トップの大統領が変わると中央行政府の大臣長官はじめ官僚の人事も大きく入れ替えるといわれる。大統領が自分の考える政治を実現するにはトップダウンで、意のままに動く人材を配置したいと思うのは当然だろう。しかし、それでは恣意的で独断的な大統領が暴走する危険がある。それをチェックするのが立法府の国会というわけだが、国会も大統領の与党が圧倒的多数を占めていると、チェック機能は期待できない。国民は次の選挙まで、この体制に異を唱えても手が出せない。日本の官僚機構が非常に優れた能力をもっていて、時々の政権与党が自分勝手な政策を進めようとしても、思慮深い官僚が失敗しないように首相や大臣を慎重にコントロールしてきた、という側面はたしかにあったと思う。しかし、安倍政権の長期化は、このような機能を失わせ、官僚のほうから官邸や政治家に接近し、その意向を忖度しご機嫌を取るような事態になっているのかもしれない。

 「安倍内閣は2014年、各省の幹部約600人の人事を首相のもとで一元的に管理する「内閣人事局」を発足させた。これによって官邸の意向が官僚のトップの人事に色濃く反映されるようにした。「政権の方針に異論を唱えた官僚がとばされたという話も絶えず、官僚の中立性がぐらついている」(朝日新聞2018年8月4日)と。
 戦前の日本の官僚は、天皇の官僚であった。戦後、国民につかえるものとして、政治からの独立をはかるために人事院がおかれ、公務員試験が実施され、その合格者の中から各省が選び、人事は原則として内部昇進であり、身分が保障されている。そのトップである事務次官は、前次官と現次官が協議して決めるのが慣例となっている者が多い。
 日本が範としてきたのは、イギリスの官僚制であり、それは政権が保守党であろうと労働党であろうと、それを支える一方、意見を述べることは許されている。重視しなければならないのは、政策実現のため議員に接触することは許されていないことである。前述したように、民主党内閣崩壊近しと見ると、経済産業省の局長が、野党の自民党新総裁に会うようなことは、イギリスでは許されない。
 福田康夫元首相は2017年8月2日、共同通信の記者に対し、加計学園の獣医学部新設計画、森友学園への国有地払い下げなどに関連し、政と官との関係を批判し「各省庁の中堅以上の幹部は皆、官邸の顔色を見て仕事をしている。恥ずかしく、国家の破滅に近づいている」と述べた。また内閣府の人事局に関し「政治化が人事をやってはいけない。安倍内閣最大の失敗だ」(東京新聞2017年8月3日)と。そしてその新聞の見出しは、「官僚が官邸の顔色を見て仕事」「国家の破滅に近づいている」。そして「人事関与“最大の失敗”とある。安倍内閣の現状について、これに加える言葉はない。
 なぜこのような制度が作られたのか。私は安倍内閣の発足時からの性格である「経済産業省内閣」ゆえだったと思っている。経済産業省には各省を動かす力はない。予算編成を通じて各省の予算に介入できる財務省とは違うのである。それゆえに各省を、とくに財務省を抑える組織が必要だった。その結果は――戦後日本の特徴である官僚の躍動と対照的な――官僚の萎縮である。それがもたらしたデメリットを政権は負わねばならない。
 不平等の是正から不確実な経済成長政策へ――その四
 安倍内閣の特徴のもうひとつは成長指向内閣である。
 安部自民党新総裁のもとに2012年9月、いち早く接触した経済産業省の局長は、「民主党の分配政策ではなく成長政策を」と言ったという。そして選挙のためのスローガンとして、縮小均衡の分配政策から「成長政策による富の創出」等を提言した。「成長」を口にすることはたやすい。問題は何によって日本を成長に導くかである。
 経済産業省の官僚が考えるひとつは、原子力発電設備の輸出である。ある意味でそれは時代錯誤であり、現実的には、対英輸出、対トルコ輸出となったが、いずれも失敗し、頓挫した。
 経済成長が可能かどうか、経済理論で明確に言えることは次のことである。人口減少下の経済では、経済成長は人口減少を上回る技術進歩による生産性の向上があるかどうかにかかっている、と。もしそうした技術進歩がおこれば成長は可能である。
 たしかに言えることは、かつての製造業の技術進歩は大きかった。製鉄業において、何時間もかかって一回転する平炉から、30分で一回転するLD炉への転換は、数十倍の効率向上をもたらし、旋盤加工からプレス加工への転換は、百倍以上の生産性上昇を生んでいる。今、技術進歩の中心は、こうした分野からIT分野、医学分野などに移っている。かつての製造業の場合の技術進歩は、より多く、より安く」を実現した。しかし医学の場合には、今まで治癒不可能なものを可能にするけれども、より多くのコストをかけて可能にする場合が多い。
 いくらコストをかけても性能のよいものを求めるのは新兵器の生産と同じである。技術進歩が、生産性の向上に寄与する度合いは低下している。これが現代である。その中で生産性を上げる技術進歩に期待する――これが安倍政権の経済政策である。それは不確実の中に政策を委ねるということである。
 成長政策は成功しそうもない。しかし、景気が悪いわけではない。その中で注意すべきは、生み出された付加価値のうち、労働者に向かう分配率が、低下傾向にあることである。2016年度67.5%、17年度66.2%である。これに、1990年代の法人税の引き下げが加わり、企業の内部留保は年々増加を続けている。
 政権が意図したのは、企業利潤が増加するならば、それが従業員の給与増となり、この所得増が消費増となって、景気の好循環になるという期待であった。事実安部首相は、企業が給与を上げることを期待する発言を、いく度となく行なっている。ちょうど、コーヒーの粉末に注がれた熱湯がフィルターからしたたり落ちるように「ドリップ」効果を期待したのである。
 だが現実はドリップ効果は見られず。利益増は、企業の内部蓄積の増加となった。法人企業統計によると、2017年度の利益剰余金は、446兆円と過去最高を記録している。ここに今後の政策介入の余地があることを記しておこう。
 経済を離れれば、政治の分野で、安倍政権は他の自民党歴代政権とは異なる大きな問題を抱えていることがクローズ・アップされる。安倍政権の特徴の最後である。」伊東光晴「アベノミクス病理の淵源」岩波書店『世界』2019年5月号、pp.40-43.

 後世の歴史家は、この平成が終わる時期の日本政治をどのように評価するだろう?安倍政権は、国民の「民主党政権よりはまし」にはじまって「そのうちなんとかなる」という気分に浸り、最後は「よくわからないうちに破局」となった取り返しのつかない時代、「アベノミクスという魔術の時代」と記述するかもしれない。伊東氏の指摘する安倍政権の5つ目の特徴は、自己目的化した改憲へのこだわりであるが、これについては次回に回す。
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