A.オペラは終わった?
ヨーロッパを中心に見るかぎり、政治史的のみならず文化史・社会史的にも19世紀的なものが完全に過去の記憶だけになり、新しい世界が出現したと誰もが感じたのは第一次世界大戦だったことは確かだろう。シュペングラー『西洋の没落』をはじめ、「世紀末」に予感された未来への不安とロシア革命がもたらした旧秩序の崩壊は、ブルジョア的奢侈と頽廃の文化を攻撃する風潮のなかでファシズムをうみ、再びの大戦争に流れていく。と、こういうふうに20世紀前半のヨーロッパの状況は語られるとすると、オペラなどというものは第一次世界大戦とともに息の根を止められてもおかしくない。
岡田暁生氏の『オペラの運命』(中央新書)を読んできたのだが、この本でも最後の章で著者は、第一次大戦でオペラというものが人々の生活に生々しい意味をもつ「同時代アート」である時代が完全に終り、それ以後は大衆娯楽としての映画にその地位を奪われ、時代錯誤の懐古的な「伝統芸能」「文化財」になったとみている。ぼくもそう思うし、日本でオペラについて書かれた多くの本、とくに一般向けに出ているオペラガイド、解説本があまりにもオペラを今なおハイ・ブラウの芸術として、疑うこともなく礼賛しているのに違和感を感じていた。イタリア人やフランス人にとっては、彼らが過去に作りだした重みのある「伝統文化」として、今もそれを日常の娯楽として楽しむことは不自然ではない。ドイツ人やイギリス人にとっても、オペラ劇場は大きな町にいけば気軽に目にするエンターテインメントのひとつだろう。だから、三大テノールやマリア・カラスなどの大スターは名を残していまも語られる。しかし、音楽としても文化装置としてもオペラは過去のものでしかない。確かにオペラは19世紀の遺産、観光資源のひとつとして生き残っている。でも、日本ではどうもちょっと違うのだ。
「オペラ劇場は「民主化された時代におけるバロックの輝きの時代錯誤的な飛び地」であった。こうした意味でのオペラの歴史にほぼ完全に終止符が打たれるのが、第一次世界大戦の終わった1920年代である。もちろん音楽劇の歴史はそれなりにまだまだ続いていく。だが「オペラ」という言葉が醸し出す豪華と魔術と奢侈とスノブとが混じりあった独特の世界は、一九二〇年代を境に実質的にその歴史的使命を終えることになる。
原因はいくつもあった。一つには音楽におけるロマン派が第一次世界大戦を境に完全に消滅したということがある。二十世紀に入っても第一次世界大戦が勃発するまでは、まだまだロマン派的な音楽は健在だった。マーラー、シュトラウス、ラフマニノフ、プッチーニらはロマン派の最後の末裔だし、普通「フランス印象派」と呼ばれるドビュッシーやラヴェルの中にも、ロマン派的な音楽の残響が聴こえる。だが第一次世界大戦はあらゆる「ロマンチックな感情」を吹き飛ばしてしまった。この戦争では戦車や潜水艦や爆撃機といった近代兵器が人類史上で初めて使われたのだ。孤独な詩人の魂の憧れなどを悠長に詠っている場合ではなくなったのである。大戦後の芸術家たちは総じて「ロマンチックなもの」に猛烈な拒否反応を示すようになる。意図された情緒欠乏症が一九二〇年代の諸芸術の特徴であって、この時代の芸術家は乾いたブラック・ユーモアによって、大都会の薄汚れた日常や戦争や工場の機械などを主題にするようになった。新古典主義に転じて以後のストラヴィンスキー、ミヨー、ヒンデミット、騒音音楽で名高いヴァーレーズ、プロコフィエフ、ショスタコーヴィッチらは、一九二〇年代のこうしたアンチ・ロマン派の芸術潮流の音楽における代表である。こうした「ロマンチックな音楽」に対する逆風が、オペラ創作にとって大打撃だったことは言うまでもないだろう。センチメンタルに「星は光り……」などとやったら若い者になってしまう。そんな時代が到来したのだ。ロマンチックな感情カタルシスを糧に出来ないとしたら、十九世紀的な意味でのオペラがもはや存立不可能であることは明らかだった。
大戦を境にして十九世紀の上流ブルジョアがほぼ完全に消滅し、代わって大衆の時代が始まったことも、オペラには不利に働いた。プルーストが『失われた時を求めて』で描いたような十九世紀の上流ブルジョア生活のモデルは、かつての貴族社会のそれであった。彼らは家具も趣味も食事も生活様式も(成金じみたところがあったとはいえ)貴族生活を模範とした。そんな彼らにとってオペラ通いは生活の必需品であり、つまりは十九世紀においてオペラ劇場のパトロン役をかつての貴族から継いだのは彼ら上流ブルジョアだった。だが一九ニ〇年代に入って登場した大衆(大半は工場労働者ないしサラリーマンだった)は、かつての貴族生活にも、それを模倣した十九世紀の上流ブルジョアのそれにも、当然オペラに対しても、さしたる憧れはもっていなかった。彼らが夢中になったのはアメリカから流入した大衆娯楽である。一九二〇年代にはヨーロッパ中でジャズやアメリカン・ダンスやボクシングやカーレースや映画が大流行した。第一次世界大戦がアメリカの参戦によって終結したことで、戦後ヨーロッパにおけるアメリカの影響力が急速に高まったのである。
とりわけオペラに決定的な打撃を与えたのは映画である。アドルノの表現を借りれば「その核心まで幻覚的である性格を失うことのないオペラ形式と、魔法を解かれた世界との対立」(『音楽社会学序説』前掲書、132ページ)は、どんどん深まるばかりであった。人々は今や「それが当然のように歌う人間に、それどころか100年前の人がやったような仕草で演技する人間にさえ我慢が出来なくなってきた」。何事もオーバーに、ロマンチックに歌で表現したがるオペラの世界は、同時代人の感覚とずれてしまっていた。アドルノいわく「人間の悟性は映画の中に現われる一つ一つの電話機や制服が本物かどうか注意を払うように訓練されているというのに、オペラが次々と並べて見せる絵空事の連続が馬鹿げたことに思われなかったらどうかしている」映画が見せてくれる現実世界の精巧な再現を経験した人々にとって、オペラが単に前世紀の性能の悪い視覚娯楽の旧式モデルくらいにしか思えなくなったとしても不思議ではない。実際オペラの本場イタリアですら一九二四年に既に、オペラ劇場の全収入5000万リラに対して、映画は1億5000万リラを稼ぎ出していた。一九三三年にはオペラの収入はさらに激減して2300万リラに落ち込み、それに対して映画収入は3億2900万リラに倍増した。娯楽産業としてのオペラは、映画に対してもはや勝ち目がなかった。
興味深いのは無声映画時代にすでに大量のオペラ映画が作られていたという事実である。特に人気があったのは『カルメン』で、無声映画の巨匠セシル・B・デミルの『カルメン』(1915年、ジェラルディン・ファーラー主演)など、10近い映画版カルメンが作られた。他にも『リゴレット』(1909年に既に三つの映画が作られた)、『ファウスト』『アイーダ』『蝶々夫人』『トロヴァトーレ』『フィガロの結婚』など、たいていの有名オペラは一九二〇年までに映画化されている。またリヒャルト・シュトラウスの『バラの騎士』も一九二六年に映画化され、シュトラウスは映画用に特別な編曲を作った。これらはオペラという旧式メディアに見切りをつけ、映画という新式メディアに「乗り換える」試みと考えることが出来るだろう。
だが一九二〇年代になるとオペラ界からも「時流に乗り遅れまい」とする試みがあらわれるようになる。時事オペラと呼ばれるジャンルである。これはごく普通の市民の日常生活を描くオペラで、いわばホームドラマのオペラ版である。ここでは大げさなアリアなどはほとんど現われず、もっぱら日常的な会話口調でもって劇は展開していく。幕単位の大きな劇構成を避けて、映画と同様に短い場面をつなげていくのも特徴である。また時事オペラでは必ずジャズなどのアメリカ音楽が挿入されて、「同時代感覚」を強調する。こうした時事オペラの代表がヒンデミットの『今日のニュース』(1929年)である。これは夫婦の離婚騒動を扱ったもので、主人公の妻がお風呂に入って歌う最新温水器を讃えるアリアで有名になった。時事オペラでは他にエルンスト・クルシュネクの『影を超えて飛ぶ』(1924年、浮気調査をする私立探偵が主人公)および『ジョニーは演奏する』(1927年、黒人ミュージシャンが劇の狂言回しを演じる)などが有名である。時流に敏感なリヒャルト・シュトラウスも時事オペラを一つ作った。『インテルメッツォ』(1924年)である。これは自分の私生活をオペラ化したもので、他愛のない夫婦喧嘩が主題である。このように一九二〇年代に大量に作られた時事オペラだが、これらを今聴くと、アイディアの面白さにもかかわらず、「いかにも無理をしている」という印象を拭い去ることが出来ない。いわば落ち目の一時代前のスターが、あまり似合わない当世風のファッションでめかし込んで、ことさらに若々しく振舞って見せる時の、あの痛々しくも白けた感覚である。具体的に言えば、映画的な主題を扱っておきながら、映画と比べていかにも劇の進行が鈍く、機動性を欠き、大仰なのである。時流に乗り遅れまいとする努力にもかかわらず時事オペラは、逆にオペラが同時代娯楽としては時代遅れになっていることを露呈する結果になった。
「娯楽」としてのオペラの行き詰まり状況を端的に象徴する作家がいる。記念再評価の著しいウィーン生まれのエーリッヒ・コルンゴルト(1897-1957)である。彼はモーツアルトの再来と言われるほどの異様な早熟の才能を見せ、わずか11歳でバレエ『雪だるま』によって舞台作曲家としてのデビュ-を果たした。その彼の前代未聞のヒット作品が『死の都』(1920年)である。これは世紀末ベルギーの作家ローデンバッハの小説『死の都ブルージュ』に基づくオペラで、リヒャルト・シュトラウスのオーケストレーションとプッチーニの情緒を兼ね備えた名作である。世が世ならコルンゴルトは必ずや、リヒャルト・シュトラウスとプッチーニに次ぐ世代の最大のオペラ作曲家になったに違いない。しかし彼はあまりに遅くやってきた天才であった。ナチスの擡頭で亡命を余儀なくされたコルンゴルトは、結局ハリウッドで映画音楽作曲家に転身することになる。なかでも『ロビンフッドの冒険』の音楽は一九三八年にアカデミー賞を受賞した。『カサブランカ』や「風と共に去りぬ」の音楽で知られるマックス・スタイナー(1888-1972)も同様の経歴を辿った人物である。ウィーンの名門音楽一家に生まれた彼の名付け親は何とリヒャルト・シュトラウスで、彼もまたわずか15歳でオペレッタを書くという早熟の才能を示した。スタイナーはトーキー映画の誕生と同時に一九二九年にハリウッドに招かれ、コルンゴルトと並ぶハリウッド映画音楽の基本パターンの確立者となった。登場人物の心理に応じたライトモチーフの自在な変化、戦争や決闘の場面での勇ましいファンファーレ、不気味な箇所での無調、大団円での甘いカンタービレといった映画音楽術は、すべてコルンゴルトとスタイナー賀オペラの世界から持ち込んだものなのである。
コルンゴルト以降、従来なら当然オペラ作曲家になっていたであろう多くの人々が、映画音楽に従事するようになった。時代はかなり後になるが、『ひまわり』や『ゴッドファーザー』や『山猫』や『道』の映画音楽で知られるニーノ・ロータ(1911-79)はその代表であろう。彼の音楽語法はまさに十九世紀のグランド・オペラのそれそのものである。無調をはじめとする二十世紀に起きた「芸術革命」には、彼は一切頓着しない。しかし場面に応じた楽想を当意即妙にひねり出す名人芸や、一度聴いたら絶対忘れられないメロディーを作る才能の点で、ロータは(ヴェルディとは言わずとも)少なくともプッチーニとは優に肩を並べることのできる天才である(実際ロータはいくつかオペラも書いており、『突然の訪問』〔1970〕はかなりの成功を収めた)。同様に『インディ・ジョーンズ』や『スター・ウォーズ』で名高いジョン・ウィリアムズ(1932-)も、100年前なら高名なオペラ作曲家になっていたことだろう。彼らは「前衛芸術家」ぶることに価値も見出さず、従来はオペラのものだったところの、ロマンチックな感情カタルシスの娯楽を日々観客に提供することで満足する。こうした職人気質の作曲家たちは、二十世紀においてはオペラから離れて、映画の世界に移住していったのである。
映画という勝ち目のないライバルが現われた以上、オペラは映画と競合せずともすむ領域に自らの存在理由を見いださざるを得なくなってきた。映画の写実性に対する非写実性、そして映画の娯楽性に対する非娯楽性、そして「前衛性」である。一九二〇年代は創作と演出の両面で雨後の筍よろしく前衛オペラが生まれてきた時代である。一九二〇年代に生れてきた前衛オペラの潮流をいくつか列挙してみよう。ベルクの『ヴォツェック』(1924年)に代表される無調オペラ、ミヨーが試みた短編オペラ(上演時間わずか10分程の作品)、「台詞が歌われる」という不自然さを逆手にとってシュールレアリスム的な効果を追求する異化オペラ(ブゾーニの『アルレッキーノ』〔1917年〕、ワイルとブレヒトの『三文オペラ』〔1928年〕、ストラヴィンスキーの『エディプス王』〔1928年〕など)等々……。またクレンペラーが音楽監督をしていたベルリンのクロール・オペラでは、古典的オペラの極めて大胆な前衛演出の試みが行われた。
だが脱魔術化され実験芸術になったこれらのオペラを、果たしてまだ「オペラ」と呼ぶことができるのだろうか?無論これらの前衛オペラの傑作の芸術的な質については異論の余地がない。ベルクの『ヴォツェック』やショスタコーヴィッチの『鼻』(1930年)をすぐれた上演で聴くことは戦慄するような体験である。だがここには、まさにそれこそを我々が本書で辿ってきたところの、バロック時代の王宮文化の残照はもはやまったく残っていない。いみじくもドイツでは第二次大戦後、前衛オペラや前衛演出によるオペラ上演を、「オペラ」とは言わずに、「音楽劇(ムジ-ク・テアータ―)」と呼ぶようになった。オペラは音楽劇へと変貌し、その歴史はまだまだ続いていくのか?それともオペラの歴史は終わって、音楽劇の時代が始まったのか?あるいはオペラは今や世界中からスノブの観光客を寄せ集めるための、鼻もちならない高級文化産業になってしまったのか?そして新たな音楽劇の歴史を始めるためには、それこそピエール・ブーレーズがかつて言ったように、オペラ劇場など爆破してしまった方がいいのだろうか?はたまたオペラはもはや十九世紀のようなグローバルかつアクチュアルな娯楽ではなくなり、その創作の歴史も終ってしまったものの、それでもなおミュンヘンやヴェネチアやナポリの劇場ではいまだに、人びとの生活に根を張った生きた「郷土芸能」として輝いていると考えるべきなのか?この答えが出るのはもう少し先のことであろう。」岡田暁生『オペラの運命 十九世紀を魅了した「一夜の夢」』中公新書、2001、pp.192-202.
こうしてヨーロッパ中心にオペラの歴史を岡田氏から説かれて、おおいに参考になったのだけれど、19世紀後半の「異国オペラ」の話や南米のオペラ劇場への情熱の話に、東洋日本のオペラ受容のことは触れられていない。全くの異文化である東洋にそもそもオペラの土壌がないことはわかるが、明治の鹿鳴館的努力の滑稽さはオペラの場合、さらに喜劇的かもしれない。それで、日本のオペラのことも見ておく必要があると思っていくつか本をみつけた。それは次回。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/18/61581994a0b8729ee8ff54679ece8a7e.jpg)
B.平成の最終日
平安の昔から、宮中内裏の奥でミカドがなにか重々しく儀式をしている、ということもほとんどの民衆には無関係な話で、具体的に何をやっているか知っている人はごく一部の公家や有職故実を司る役人くらいのものだった。明治の天皇主権を規定した帝国憲法施行の際に、その一部は皇室典範という条文になって制度に組み込まれたが、幕末の尊王思想が想定した古代神話に起因する万世一系の継承儀式などは、国家を基礎づける宗教的権威と重ねられた。敗戦によって占領下に実現した新憲法では、政教分離原則と国家神道の否定が謳われ、「社稷の神事」である宮中行事は天皇家の私的行為になった。であるとすれば、今執り行われようとしている代替わり儀式は、憲法上の天皇のなすべき国事行為になるのだが、そこに宗教的な意味を潜り込ませたいという意思が働いていないか?考えてみればこれは、かなり難しい問題かもしれない。
「代替わり儀式と政教分離 象徴天皇にふさわしい形 議論を :社会部 喜園尚史
剣と璽 国事行為に
剣璽の間。
天皇、皇后両陛下の住まいである皇居・御所に、こう呼ばれる一室がある。いわゆる「三種の神器」のうち、剣と璽が安置されている。
30日夕の退位礼正殿の儀と翌日の剣璽等承継の儀のほか、10月の即位礼正殿の儀で使われる。政府が、いずれも皇位継承に伴う重要な儀式だとして国事行為に決めた。
三種の神器は、皇位のしるしとして代々引き継がれてきた。古事記や日本書紀が伝える天孫降臨の神話に結びついており、天照大神がニニギノミコトに授けたなどとされている。剣と璽のほか、もうひとつの鏡は、皇居の宮中三殿のうち天照大神がまつられている賢所に置かれている。
ただ、皇居にある神器のうち本体は璽だけだ。剣と鏡の本体は、熱田神宮(名古屋市)と伊勢神宮(三重県伊勢市)にそれぞれ「ご神体」としてまつられている。皇居にあるのは「形代(かたしろ)」と呼ばれる分身だ。元々、剣と鏡も天皇のそばにあったが、その後本体は持ち出され、形代が作られたとされる。
両神宮とも、鏡と剣については「皇室からお借りしている」との立場だ。皇位継承に伴って、両神宮にある本体も新天皇に受け継がれるという。
神話に由来し、本体は宗教施設にまつられている。そんなベールに包まれた神器が、国事行為に使われる。
外れたGHQの予測
「天皇崩ずるときは皇嗣(こうし)即ち践祚(せんそ)し祖宗の神器を承く」
戦前の旧皇室典範には、こう規定されていた。践祚とは皇位を継ぐという意味だ。終戦翌年の1946年8月、国家と宗教の分離を求めた連合国軍総司令部(GHQ)と日本側との間で皇室典範改正を巡ってこんなやりとりがあった。
日本「神器はGod treasure(神の宝物)でなくSacred treasure(神聖な宝物)と考えれば国の制度としても差し支えないと思われるか」
GHQ「Sacred religious(宗教的)な印象を伴うのではないか」
日本「Love is sacredなどという時は如何」 (日本立法資料全集)
日本側は、言葉を換えて食い下がったが、GHQの壁は崩せなかった。この時、交渉役だった法制局幹部の井出成三氏は、手記の中でこう振り返っている。「(神器を継承する)趣旨を何らかの形で含む条項を設けられないかなどと検討したが、(略)GHQの苛烈極端な神道指令が発せられて間もない時点であり、アプルーバル(承認)を得る見通しに自信が持てない……」
神器の記載を典範から削除する方針について、国会では異論が相次いだ。「われわれ国民が、日本国の象徴たる天皇、あこがれの天皇として仰ぐ場合、神器の存在もまた一概に排すべきではない」
これに対し、憲法改正を担当した金森徳次郎・国務相(当時)はこう答弁した。「三種の神器は、一面において信仰と結びつけている場面が非常に多いので、皇室典範そのものの中に表わすことが必ずも適当でない」。ただ、その宗教性を認めつつ「信仰の面ではなく、物的な面での結びつきについて、今後議論する皇室経済法でその片鱗を示す規定を考えている」と続けた。
GHQは、この交渉の最後に言った。「今後、即位の礼の内容はだいぶ変更されることになるであろう」
この見通しは、外れた。
宗教色「否定できず」
昭和から平成への代替わりは、ほぼ戦前を踏襲し、剣と璽は、剣璽等承継の儀と即位礼正殿の儀で使われた。
政教分離の規定がある憲法下で、宗教性があるものを国事行為に使うことが、なぜできるのか。
政府の理屈はこうだ。
戦後定められた皇室経済法に「行為とともに伝わるべき由緒ある物は、皇位とともに、皇嗣が、これを受ける」となる。剣璽は、この由緒物に当たる。この意味で公的性格があり、国事行為に使うことは問題ない――。
ただ、修正したところもあった。
即位礼正殿の儀で、新天皇が上がる高御座に、通常の国事行為で使われる天皇と国の印である御璽・国璽を剣璽と並べて置いた。本番の1週間前、内閣法制局幹部は、皇居・宮殿の正殿松の間を下見に訪れ、宮内庁幹部に言った。「御璽・国璽は、剣璽と対等に見えるように置いて下さい」
戦後初めての代替わりをどう実施すべきか。昭和天皇の病状が深刻になる中で、法制局は、官邸、宮内庁と水面下で検討していた。「憲法に触れない限り、国事行為でやりたい」。それが官邸、宮内庁の一致した見解だった。
御璽・国璽を高御座に置くことで宗教色を薄める。政教分離との整合性のために思いついた窮余の策だった。当初、この案に伝統を重視する昭和天皇の元側近らから反発の声が上がった。それでも、即位礼・大嘗祭訴訟の大阪高裁判決で、正殿の儀で剣璽を使ったことに「政教分離規定に反するのではないかとの疑いを一概に否定できない」と指摘された。
10月の即位礼正殿の儀について、政府は早々に「前例踏襲」を打ち出したが、政教分離問題への疑念は残る。
国事行為にするのであれば、宗教色のある剣璽は使用しない。剣璽を使うのであれば、宗教色のある剣璽は使用しない。剣璽を使うのであれば、国事行為ではなく皇室行事として、国費を支出しない――。このどちらかを選ぶのが筋のはずだ。
天皇を現人神とする戦前の体制を支えたのが、国家と宗教が一体となる国家神道という仕組みだった。その反省に立って、憲法に政教分離規定が盛り込まれた。その苦い歴史をいま一度思い起こしつつ、象徴天皇にふさわしい代替わりの形を議論すべきだ。」朝日新聞2019年4月29日朝刊7面オピニオン欄。
「三種の神器」が天皇家の万世一系を確認する物的シンボルだということ、それが剣と勾玉(璽)と鏡だということは知っていた。南北朝争乱の時代、この神器を持ち去ったり奪いかえしたりした時期があったことも知っている。だがその本物が今は、皇居と熱田神宮と伊勢神宮に分散していること、今回の継承儀式に使われる剣はレプリカであること、鏡は使われないことなどは、ぼくは知らなかった。御璽・国璽は天皇が公文書などに押す印鑑だとすれば、国事行為には必須となるだろうが、そこに剣璽を並べるのはどんな意味があるのか?国民の意識としてはそんな形式などど~でもいいようなことだが、天皇制に国家神道的価値をもたせたい人たちには、重要なことかもしれない。
すでに昭和から平成の代替わりの時、どさくさの中で内閣法制局が憲法との整合性を考慮して折衷的な形で行ったことを、今回は「前例踏襲」という一言でなんの問題もないかのように実施される。現行憲法を変えると言っている首相は、国家神道に親近感をもって気にいらない内閣法制局長官を真っ先にすげ替えた人である。これでいいのだろうかと疑問に思う。
ヨーロッパを中心に見るかぎり、政治史的のみならず文化史・社会史的にも19世紀的なものが完全に過去の記憶だけになり、新しい世界が出現したと誰もが感じたのは第一次世界大戦だったことは確かだろう。シュペングラー『西洋の没落』をはじめ、「世紀末」に予感された未来への不安とロシア革命がもたらした旧秩序の崩壊は、ブルジョア的奢侈と頽廃の文化を攻撃する風潮のなかでファシズムをうみ、再びの大戦争に流れていく。と、こういうふうに20世紀前半のヨーロッパの状況は語られるとすると、オペラなどというものは第一次世界大戦とともに息の根を止められてもおかしくない。
岡田暁生氏の『オペラの運命』(中央新書)を読んできたのだが、この本でも最後の章で著者は、第一次大戦でオペラというものが人々の生活に生々しい意味をもつ「同時代アート」である時代が完全に終り、それ以後は大衆娯楽としての映画にその地位を奪われ、時代錯誤の懐古的な「伝統芸能」「文化財」になったとみている。ぼくもそう思うし、日本でオペラについて書かれた多くの本、とくに一般向けに出ているオペラガイド、解説本があまりにもオペラを今なおハイ・ブラウの芸術として、疑うこともなく礼賛しているのに違和感を感じていた。イタリア人やフランス人にとっては、彼らが過去に作りだした重みのある「伝統文化」として、今もそれを日常の娯楽として楽しむことは不自然ではない。ドイツ人やイギリス人にとっても、オペラ劇場は大きな町にいけば気軽に目にするエンターテインメントのひとつだろう。だから、三大テノールやマリア・カラスなどの大スターは名を残していまも語られる。しかし、音楽としても文化装置としてもオペラは過去のものでしかない。確かにオペラは19世紀の遺産、観光資源のひとつとして生き残っている。でも、日本ではどうもちょっと違うのだ。
「オペラ劇場は「民主化された時代におけるバロックの輝きの時代錯誤的な飛び地」であった。こうした意味でのオペラの歴史にほぼ完全に終止符が打たれるのが、第一次世界大戦の終わった1920年代である。もちろん音楽劇の歴史はそれなりにまだまだ続いていく。だが「オペラ」という言葉が醸し出す豪華と魔術と奢侈とスノブとが混じりあった独特の世界は、一九二〇年代を境に実質的にその歴史的使命を終えることになる。
原因はいくつもあった。一つには音楽におけるロマン派が第一次世界大戦を境に完全に消滅したということがある。二十世紀に入っても第一次世界大戦が勃発するまでは、まだまだロマン派的な音楽は健在だった。マーラー、シュトラウス、ラフマニノフ、プッチーニらはロマン派の最後の末裔だし、普通「フランス印象派」と呼ばれるドビュッシーやラヴェルの中にも、ロマン派的な音楽の残響が聴こえる。だが第一次世界大戦はあらゆる「ロマンチックな感情」を吹き飛ばしてしまった。この戦争では戦車や潜水艦や爆撃機といった近代兵器が人類史上で初めて使われたのだ。孤独な詩人の魂の憧れなどを悠長に詠っている場合ではなくなったのである。大戦後の芸術家たちは総じて「ロマンチックなもの」に猛烈な拒否反応を示すようになる。意図された情緒欠乏症が一九二〇年代の諸芸術の特徴であって、この時代の芸術家は乾いたブラック・ユーモアによって、大都会の薄汚れた日常や戦争や工場の機械などを主題にするようになった。新古典主義に転じて以後のストラヴィンスキー、ミヨー、ヒンデミット、騒音音楽で名高いヴァーレーズ、プロコフィエフ、ショスタコーヴィッチらは、一九二〇年代のこうしたアンチ・ロマン派の芸術潮流の音楽における代表である。こうした「ロマンチックな音楽」に対する逆風が、オペラ創作にとって大打撃だったことは言うまでもないだろう。センチメンタルに「星は光り……」などとやったら若い者になってしまう。そんな時代が到来したのだ。ロマンチックな感情カタルシスを糧に出来ないとしたら、十九世紀的な意味でのオペラがもはや存立不可能であることは明らかだった。
大戦を境にして十九世紀の上流ブルジョアがほぼ完全に消滅し、代わって大衆の時代が始まったことも、オペラには不利に働いた。プルーストが『失われた時を求めて』で描いたような十九世紀の上流ブルジョア生活のモデルは、かつての貴族社会のそれであった。彼らは家具も趣味も食事も生活様式も(成金じみたところがあったとはいえ)貴族生活を模範とした。そんな彼らにとってオペラ通いは生活の必需品であり、つまりは十九世紀においてオペラ劇場のパトロン役をかつての貴族から継いだのは彼ら上流ブルジョアだった。だが一九ニ〇年代に入って登場した大衆(大半は工場労働者ないしサラリーマンだった)は、かつての貴族生活にも、それを模倣した十九世紀の上流ブルジョアのそれにも、当然オペラに対しても、さしたる憧れはもっていなかった。彼らが夢中になったのはアメリカから流入した大衆娯楽である。一九二〇年代にはヨーロッパ中でジャズやアメリカン・ダンスやボクシングやカーレースや映画が大流行した。第一次世界大戦がアメリカの参戦によって終結したことで、戦後ヨーロッパにおけるアメリカの影響力が急速に高まったのである。
とりわけオペラに決定的な打撃を与えたのは映画である。アドルノの表現を借りれば「その核心まで幻覚的である性格を失うことのないオペラ形式と、魔法を解かれた世界との対立」(『音楽社会学序説』前掲書、132ページ)は、どんどん深まるばかりであった。人々は今や「それが当然のように歌う人間に、それどころか100年前の人がやったような仕草で演技する人間にさえ我慢が出来なくなってきた」。何事もオーバーに、ロマンチックに歌で表現したがるオペラの世界は、同時代人の感覚とずれてしまっていた。アドルノいわく「人間の悟性は映画の中に現われる一つ一つの電話機や制服が本物かどうか注意を払うように訓練されているというのに、オペラが次々と並べて見せる絵空事の連続が馬鹿げたことに思われなかったらどうかしている」映画が見せてくれる現実世界の精巧な再現を経験した人々にとって、オペラが単に前世紀の性能の悪い視覚娯楽の旧式モデルくらいにしか思えなくなったとしても不思議ではない。実際オペラの本場イタリアですら一九二四年に既に、オペラ劇場の全収入5000万リラに対して、映画は1億5000万リラを稼ぎ出していた。一九三三年にはオペラの収入はさらに激減して2300万リラに落ち込み、それに対して映画収入は3億2900万リラに倍増した。娯楽産業としてのオペラは、映画に対してもはや勝ち目がなかった。
興味深いのは無声映画時代にすでに大量のオペラ映画が作られていたという事実である。特に人気があったのは『カルメン』で、無声映画の巨匠セシル・B・デミルの『カルメン』(1915年、ジェラルディン・ファーラー主演)など、10近い映画版カルメンが作られた。他にも『リゴレット』(1909年に既に三つの映画が作られた)、『ファウスト』『アイーダ』『蝶々夫人』『トロヴァトーレ』『フィガロの結婚』など、たいていの有名オペラは一九二〇年までに映画化されている。またリヒャルト・シュトラウスの『バラの騎士』も一九二六年に映画化され、シュトラウスは映画用に特別な編曲を作った。これらはオペラという旧式メディアに見切りをつけ、映画という新式メディアに「乗り換える」試みと考えることが出来るだろう。
だが一九二〇年代になるとオペラ界からも「時流に乗り遅れまい」とする試みがあらわれるようになる。時事オペラと呼ばれるジャンルである。これはごく普通の市民の日常生活を描くオペラで、いわばホームドラマのオペラ版である。ここでは大げさなアリアなどはほとんど現われず、もっぱら日常的な会話口調でもって劇は展開していく。幕単位の大きな劇構成を避けて、映画と同様に短い場面をつなげていくのも特徴である。また時事オペラでは必ずジャズなどのアメリカ音楽が挿入されて、「同時代感覚」を強調する。こうした時事オペラの代表がヒンデミットの『今日のニュース』(1929年)である。これは夫婦の離婚騒動を扱ったもので、主人公の妻がお風呂に入って歌う最新温水器を讃えるアリアで有名になった。時事オペラでは他にエルンスト・クルシュネクの『影を超えて飛ぶ』(1924年、浮気調査をする私立探偵が主人公)および『ジョニーは演奏する』(1927年、黒人ミュージシャンが劇の狂言回しを演じる)などが有名である。時流に敏感なリヒャルト・シュトラウスも時事オペラを一つ作った。『インテルメッツォ』(1924年)である。これは自分の私生活をオペラ化したもので、他愛のない夫婦喧嘩が主題である。このように一九二〇年代に大量に作られた時事オペラだが、これらを今聴くと、アイディアの面白さにもかかわらず、「いかにも無理をしている」という印象を拭い去ることが出来ない。いわば落ち目の一時代前のスターが、あまり似合わない当世風のファッションでめかし込んで、ことさらに若々しく振舞って見せる時の、あの痛々しくも白けた感覚である。具体的に言えば、映画的な主題を扱っておきながら、映画と比べていかにも劇の進行が鈍く、機動性を欠き、大仰なのである。時流に乗り遅れまいとする努力にもかかわらず時事オペラは、逆にオペラが同時代娯楽としては時代遅れになっていることを露呈する結果になった。
「娯楽」としてのオペラの行き詰まり状況を端的に象徴する作家がいる。記念再評価の著しいウィーン生まれのエーリッヒ・コルンゴルト(1897-1957)である。彼はモーツアルトの再来と言われるほどの異様な早熟の才能を見せ、わずか11歳でバレエ『雪だるま』によって舞台作曲家としてのデビュ-を果たした。その彼の前代未聞のヒット作品が『死の都』(1920年)である。これは世紀末ベルギーの作家ローデンバッハの小説『死の都ブルージュ』に基づくオペラで、リヒャルト・シュトラウスのオーケストレーションとプッチーニの情緒を兼ね備えた名作である。世が世ならコルンゴルトは必ずや、リヒャルト・シュトラウスとプッチーニに次ぐ世代の最大のオペラ作曲家になったに違いない。しかし彼はあまりに遅くやってきた天才であった。ナチスの擡頭で亡命を余儀なくされたコルンゴルトは、結局ハリウッドで映画音楽作曲家に転身することになる。なかでも『ロビンフッドの冒険』の音楽は一九三八年にアカデミー賞を受賞した。『カサブランカ』や「風と共に去りぬ」の音楽で知られるマックス・スタイナー(1888-1972)も同様の経歴を辿った人物である。ウィーンの名門音楽一家に生まれた彼の名付け親は何とリヒャルト・シュトラウスで、彼もまたわずか15歳でオペレッタを書くという早熟の才能を示した。スタイナーはトーキー映画の誕生と同時に一九二九年にハリウッドに招かれ、コルンゴルトと並ぶハリウッド映画音楽の基本パターンの確立者となった。登場人物の心理に応じたライトモチーフの自在な変化、戦争や決闘の場面での勇ましいファンファーレ、不気味な箇所での無調、大団円での甘いカンタービレといった映画音楽術は、すべてコルンゴルトとスタイナー賀オペラの世界から持ち込んだものなのである。
コルンゴルト以降、従来なら当然オペラ作曲家になっていたであろう多くの人々が、映画音楽に従事するようになった。時代はかなり後になるが、『ひまわり』や『ゴッドファーザー』や『山猫』や『道』の映画音楽で知られるニーノ・ロータ(1911-79)はその代表であろう。彼の音楽語法はまさに十九世紀のグランド・オペラのそれそのものである。無調をはじめとする二十世紀に起きた「芸術革命」には、彼は一切頓着しない。しかし場面に応じた楽想を当意即妙にひねり出す名人芸や、一度聴いたら絶対忘れられないメロディーを作る才能の点で、ロータは(ヴェルディとは言わずとも)少なくともプッチーニとは優に肩を並べることのできる天才である(実際ロータはいくつかオペラも書いており、『突然の訪問』〔1970〕はかなりの成功を収めた)。同様に『インディ・ジョーンズ』や『スター・ウォーズ』で名高いジョン・ウィリアムズ(1932-)も、100年前なら高名なオペラ作曲家になっていたことだろう。彼らは「前衛芸術家」ぶることに価値も見出さず、従来はオペラのものだったところの、ロマンチックな感情カタルシスの娯楽を日々観客に提供することで満足する。こうした職人気質の作曲家たちは、二十世紀においてはオペラから離れて、映画の世界に移住していったのである。
映画という勝ち目のないライバルが現われた以上、オペラは映画と競合せずともすむ領域に自らの存在理由を見いださざるを得なくなってきた。映画の写実性に対する非写実性、そして映画の娯楽性に対する非娯楽性、そして「前衛性」である。一九二〇年代は創作と演出の両面で雨後の筍よろしく前衛オペラが生まれてきた時代である。一九二〇年代に生れてきた前衛オペラの潮流をいくつか列挙してみよう。ベルクの『ヴォツェック』(1924年)に代表される無調オペラ、ミヨーが試みた短編オペラ(上演時間わずか10分程の作品)、「台詞が歌われる」という不自然さを逆手にとってシュールレアリスム的な効果を追求する異化オペラ(ブゾーニの『アルレッキーノ』〔1917年〕、ワイルとブレヒトの『三文オペラ』〔1928年〕、ストラヴィンスキーの『エディプス王』〔1928年〕など)等々……。またクレンペラーが音楽監督をしていたベルリンのクロール・オペラでは、古典的オペラの極めて大胆な前衛演出の試みが行われた。
だが脱魔術化され実験芸術になったこれらのオペラを、果たしてまだ「オペラ」と呼ぶことができるのだろうか?無論これらの前衛オペラの傑作の芸術的な質については異論の余地がない。ベルクの『ヴォツェック』やショスタコーヴィッチの『鼻』(1930年)をすぐれた上演で聴くことは戦慄するような体験である。だがここには、まさにそれこそを我々が本書で辿ってきたところの、バロック時代の王宮文化の残照はもはやまったく残っていない。いみじくもドイツでは第二次大戦後、前衛オペラや前衛演出によるオペラ上演を、「オペラ」とは言わずに、「音楽劇(ムジ-ク・テアータ―)」と呼ぶようになった。オペラは音楽劇へと変貌し、その歴史はまだまだ続いていくのか?それともオペラの歴史は終わって、音楽劇の時代が始まったのか?あるいはオペラは今や世界中からスノブの観光客を寄せ集めるための、鼻もちならない高級文化産業になってしまったのか?そして新たな音楽劇の歴史を始めるためには、それこそピエール・ブーレーズがかつて言ったように、オペラ劇場など爆破してしまった方がいいのだろうか?はたまたオペラはもはや十九世紀のようなグローバルかつアクチュアルな娯楽ではなくなり、その創作の歴史も終ってしまったものの、それでもなおミュンヘンやヴェネチアやナポリの劇場ではいまだに、人びとの生活に根を張った生きた「郷土芸能」として輝いていると考えるべきなのか?この答えが出るのはもう少し先のことであろう。」岡田暁生『オペラの運命 十九世紀を魅了した「一夜の夢」』中公新書、2001、pp.192-202.
こうしてヨーロッパ中心にオペラの歴史を岡田氏から説かれて、おおいに参考になったのだけれど、19世紀後半の「異国オペラ」の話や南米のオペラ劇場への情熱の話に、東洋日本のオペラ受容のことは触れられていない。全くの異文化である東洋にそもそもオペラの土壌がないことはわかるが、明治の鹿鳴館的努力の滑稽さはオペラの場合、さらに喜劇的かもしれない。それで、日本のオペラのことも見ておく必要があると思っていくつか本をみつけた。それは次回。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/18/61581994a0b8729ee8ff54679ece8a7e.jpg)
B.平成の最終日
平安の昔から、宮中内裏の奥でミカドがなにか重々しく儀式をしている、ということもほとんどの民衆には無関係な話で、具体的に何をやっているか知っている人はごく一部の公家や有職故実を司る役人くらいのものだった。明治の天皇主権を規定した帝国憲法施行の際に、その一部は皇室典範という条文になって制度に組み込まれたが、幕末の尊王思想が想定した古代神話に起因する万世一系の継承儀式などは、国家を基礎づける宗教的権威と重ねられた。敗戦によって占領下に実現した新憲法では、政教分離原則と国家神道の否定が謳われ、「社稷の神事」である宮中行事は天皇家の私的行為になった。であるとすれば、今執り行われようとしている代替わり儀式は、憲法上の天皇のなすべき国事行為になるのだが、そこに宗教的な意味を潜り込ませたいという意思が働いていないか?考えてみればこれは、かなり難しい問題かもしれない。
「代替わり儀式と政教分離 象徴天皇にふさわしい形 議論を :社会部 喜園尚史
剣と璽 国事行為に
剣璽の間。
天皇、皇后両陛下の住まいである皇居・御所に、こう呼ばれる一室がある。いわゆる「三種の神器」のうち、剣と璽が安置されている。
30日夕の退位礼正殿の儀と翌日の剣璽等承継の儀のほか、10月の即位礼正殿の儀で使われる。政府が、いずれも皇位継承に伴う重要な儀式だとして国事行為に決めた。
三種の神器は、皇位のしるしとして代々引き継がれてきた。古事記や日本書紀が伝える天孫降臨の神話に結びついており、天照大神がニニギノミコトに授けたなどとされている。剣と璽のほか、もうひとつの鏡は、皇居の宮中三殿のうち天照大神がまつられている賢所に置かれている。
ただ、皇居にある神器のうち本体は璽だけだ。剣と鏡の本体は、熱田神宮(名古屋市)と伊勢神宮(三重県伊勢市)にそれぞれ「ご神体」としてまつられている。皇居にあるのは「形代(かたしろ)」と呼ばれる分身だ。元々、剣と鏡も天皇のそばにあったが、その後本体は持ち出され、形代が作られたとされる。
両神宮とも、鏡と剣については「皇室からお借りしている」との立場だ。皇位継承に伴って、両神宮にある本体も新天皇に受け継がれるという。
神話に由来し、本体は宗教施設にまつられている。そんなベールに包まれた神器が、国事行為に使われる。
外れたGHQの予測
「天皇崩ずるときは皇嗣(こうし)即ち践祚(せんそ)し祖宗の神器を承く」
戦前の旧皇室典範には、こう規定されていた。践祚とは皇位を継ぐという意味だ。終戦翌年の1946年8月、国家と宗教の分離を求めた連合国軍総司令部(GHQ)と日本側との間で皇室典範改正を巡ってこんなやりとりがあった。
日本「神器はGod treasure(神の宝物)でなくSacred treasure(神聖な宝物)と考えれば国の制度としても差し支えないと思われるか」
GHQ「Sacred religious(宗教的)な印象を伴うのではないか」
日本「Love is sacredなどという時は如何」 (日本立法資料全集)
日本側は、言葉を換えて食い下がったが、GHQの壁は崩せなかった。この時、交渉役だった法制局幹部の井出成三氏は、手記の中でこう振り返っている。「(神器を継承する)趣旨を何らかの形で含む条項を設けられないかなどと検討したが、(略)GHQの苛烈極端な神道指令が発せられて間もない時点であり、アプルーバル(承認)を得る見通しに自信が持てない……」
神器の記載を典範から削除する方針について、国会では異論が相次いだ。「われわれ国民が、日本国の象徴たる天皇、あこがれの天皇として仰ぐ場合、神器の存在もまた一概に排すべきではない」
これに対し、憲法改正を担当した金森徳次郎・国務相(当時)はこう答弁した。「三種の神器は、一面において信仰と結びつけている場面が非常に多いので、皇室典範そのものの中に表わすことが必ずも適当でない」。ただ、その宗教性を認めつつ「信仰の面ではなく、物的な面での結びつきについて、今後議論する皇室経済法でその片鱗を示す規定を考えている」と続けた。
GHQは、この交渉の最後に言った。「今後、即位の礼の内容はだいぶ変更されることになるであろう」
この見通しは、外れた。
宗教色「否定できず」
昭和から平成への代替わりは、ほぼ戦前を踏襲し、剣と璽は、剣璽等承継の儀と即位礼正殿の儀で使われた。
政教分離の規定がある憲法下で、宗教性があるものを国事行為に使うことが、なぜできるのか。
政府の理屈はこうだ。
戦後定められた皇室経済法に「行為とともに伝わるべき由緒ある物は、皇位とともに、皇嗣が、これを受ける」となる。剣璽は、この由緒物に当たる。この意味で公的性格があり、国事行為に使うことは問題ない――。
ただ、修正したところもあった。
即位礼正殿の儀で、新天皇が上がる高御座に、通常の国事行為で使われる天皇と国の印である御璽・国璽を剣璽と並べて置いた。本番の1週間前、内閣法制局幹部は、皇居・宮殿の正殿松の間を下見に訪れ、宮内庁幹部に言った。「御璽・国璽は、剣璽と対等に見えるように置いて下さい」
戦後初めての代替わりをどう実施すべきか。昭和天皇の病状が深刻になる中で、法制局は、官邸、宮内庁と水面下で検討していた。「憲法に触れない限り、国事行為でやりたい」。それが官邸、宮内庁の一致した見解だった。
御璽・国璽を高御座に置くことで宗教色を薄める。政教分離との整合性のために思いついた窮余の策だった。当初、この案に伝統を重視する昭和天皇の元側近らから反発の声が上がった。それでも、即位礼・大嘗祭訴訟の大阪高裁判決で、正殿の儀で剣璽を使ったことに「政教分離規定に反するのではないかとの疑いを一概に否定できない」と指摘された。
10月の即位礼正殿の儀について、政府は早々に「前例踏襲」を打ち出したが、政教分離問題への疑念は残る。
国事行為にするのであれば、宗教色のある剣璽は使用しない。剣璽を使うのであれば、宗教色のある剣璽は使用しない。剣璽を使うのであれば、国事行為ではなく皇室行事として、国費を支出しない――。このどちらかを選ぶのが筋のはずだ。
天皇を現人神とする戦前の体制を支えたのが、国家と宗教が一体となる国家神道という仕組みだった。その反省に立って、憲法に政教分離規定が盛り込まれた。その苦い歴史をいま一度思い起こしつつ、象徴天皇にふさわしい代替わりの形を議論すべきだ。」朝日新聞2019年4月29日朝刊7面オピニオン欄。
「三種の神器」が天皇家の万世一系を確認する物的シンボルだということ、それが剣と勾玉(璽)と鏡だということは知っていた。南北朝争乱の時代、この神器を持ち去ったり奪いかえしたりした時期があったことも知っている。だがその本物が今は、皇居と熱田神宮と伊勢神宮に分散していること、今回の継承儀式に使われる剣はレプリカであること、鏡は使われないことなどは、ぼくは知らなかった。御璽・国璽は天皇が公文書などに押す印鑑だとすれば、国事行為には必須となるだろうが、そこに剣璽を並べるのはどんな意味があるのか?国民の意識としてはそんな形式などど~でもいいようなことだが、天皇制に国家神道的価値をもたせたい人たちには、重要なことかもしれない。
すでに昭和から平成の代替わりの時、どさくさの中で内閣法制局が憲法との整合性を考慮して折衷的な形で行ったことを、今回は「前例踏襲」という一言でなんの問題もないかのように実施される。現行憲法を変えると言っている首相は、国家神道に親近感をもって気にいらない内閣法制局長官を真っ先にすげ替えた人である。これでいいのだろうかと疑問に思う。