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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

就活・・マルクス・・宇野弘蔵?もう夏か

2015-05-31 23:38:59 | 日記
A.就活のいま
 先日、就職活動中の4年生が集まるゼミで、学生に話を聞いた。昨年までは、この時期、就活が山場を過ぎぼちぼち内定をもらって就活を終わる学生がいる一方で、年初めから続けた就活にもかかわらず、軒並み断られて疲れ切った学生が暗い顔をしていた。しかし、今年は就活の開始が3年生最後の3月からになり、短期決戦であるうえに大手企業が新卒採用を拡大する動きに出て、これまでとは違う学生の売り手市場だといわれ始めた。経団連と大学の口約束としては、8月初日まで公式内定は出さないということで、さらに暑い夏まで就活で走る学生が多くなるが、実態はすでにとりたい学生確保の動きはすすんでいる。確かにぼくのゼミでも、公務員や教員志望は別として、何人かはもう内定を決めて就活終了もいるし、友人と比べてうまくいかないと焦りを感じている学生もいる。
今日の朝日新聞に主要100社の2016年春の採用計画調査の結果が載っていた。

「積極採用 動く企業:主要100社 16年春の新卒採用計画 「説明会増やす」58社リクルーターを活用
 企業の採用意欲や人手不足感は、様々な場面で強まっている。JR東海は、27年開業をめざすリニア中央新幹線の建設要員の確保などのため、今春の595人から来春は約630人に増やす。三井不動産は、オフィスや商業施設の管理力を一段と高めるため、来春から若干名、初めて技術系社員を新卒採用する。
 「企業の求人意欲の高まりで、特に大卒以上の女性が売り手市場になっていると感じる」(日産自動車)との見方も。資生堂は、総合職の採用を約1.5倍に増やす。店頭で接客にあたるビューティコンサルタントも、来春からは販売子会社が契約社員ではなく、11年ぶりに正社員で採用。採用規模も100人程度から約500人に増やす。
 各社が一斉に採用増に動くなか、学生にいかに目を向けてもらうかの取り組みも強まる。会社説明会を前年より「増やす」のは、58社に上った。「売り手市場の中で優秀な学生を確保するため」(鹿島)、「一人でも多くの学生との接点を増やすため」(日本ガイシ)だ。「地方都市での実施を増やした」(富士通)という動きもある。
リクルーター制度を活用する動きも広がっており、7社が「13年度以降に導入(復活)」と答えた。ヤマト運輸は「学生の入社動機を高めるため」と狙いを説明。すかいらーくは以前から制度があるが、今年からエリアマネジャーを各店のアルバイト学生向けリクルーターに任命。「就職先としての当社の魅力を語り、選考に誘導する取り組みを始めた」という。大成建設は全国の支店にリクルーターを置き、各地の学生をフォローしている。
 「採用とは無関係」との位置づけで実施されるインターンシップ(就業体験)の参加学生が入社する例も少なくない。15年春入社の新人のうち、結果的に自社のインターン経験者が占めた割合を尋ねたところ、16社が10%以上とした。うち8社は20%以上、50%以上も1社あった。
 ただ、「売り手市場になったと感じるが、すべての学生にとってそうとは言えない」(NTT西日本)との指摘も。リクルートキャリア就職みらい研究所の岡崎仁美所長は「企業の採用活動は活発化している。すでに内々定を得た学生もいるが、求める基準を緩めてまで採用しない企業も多く、チャンスをものにできるかどうかは学生次第」とみる。(細見るい、吉川啓一郎)」『朝日新聞』2015年5月31日朝刊6面

 「すべての学生にとってそうとはいえない」ではなく、「多くの学生にとってそうとはいえない」のが現実だと思う。なにしろ「主要100社」が何人の新卒学生を採用するつもりか、というお話である。データを見ると、100社のうち4大卒採用数の最大は銀行「みずほFG」(グループも含む採用数)の1920名(ただし短大校卒を含む)、小売大手「イオン」の1500人(前年実績800・技術系を含む)、「ファーストリテイリング」は約1200人、これには短大・高卒も含むが、前年は900うち女子数は無回答。少ない方をみると、昨年10名近く採用した「ヤフー」「ベネッセコーポレーション」などは採用未定。「日本マクドナルド」なども業績が悪いのか昨年96名(うち女子50)だったのが今年は採用未定?不振の「シャープ」や「任天堂」、「大日本印刷」「伊藤忠商事」なども昨年は採用していたのに「未定」。調子のよい企業と悪い企業の差が大きいが、「採用拡大・売り手市場」などといっても100社全部合わせても、2万人ほど。毎年の大学新卒者は約70万人とすると、就活に参入する学生がざっと80%としても56万人。このうち「大手有名企業100社」の正社員に採用されるのは3.6%でしかない。2万人くらいの採用は世間の考える一流大学、東大・京大・早慶だけですぐ埋まってしまう計算である。中堅私立大学の就活生がそこに、もぐりこめる余地など初めからないことになる。
 しかし、ぼくは学生に言うのだが、世の中はそんな単純ではない。まず企業の採用担当者の考えていることは、受験業界的偏差値とは別の基準である。さらに大学での成績や学力とはほとんど関係がない。実際、ぼくもゼミの学生を長い間見てきたが、知的な関心と思考力や意欲で積極性がある学生は、就活もうまくいきそうだが、むしろ厳しい企業社会を嫌って普通の就職をしない傾向がある。逆にどうみても勉強が嫌いで、ものを考えていると頭が痛くなりそうな体育会系素朴青年は、面接で元気があって評価されるのでたいてい早々に内定をもらう。一番決まらないのが、まじめで自分に自信がもてなくて、嘘でも自己主張する勇気のないタイプである。能力も意欲もないわけではないのに、周りに気を使って誰かが助けてくれるのを密かに待っている。これでは面接で落とされる。要するに企業が大学新卒学生に求める欲しい人材とは、知識よりは意欲、冷静な判断力よりは人当たりの良いコミュニケーション力、独創的な自己主張よりは空気を読む親和力、といった従順な賢さなのだ。
 そんなものに振り回されて若い時代を深夜まで働き、精神をすり減らす価値はない。企業は従業員の幸福のためにやっているのではなく、株主の利益のためにやっているにすぎない。とはいっても、それで疲れ切った就活生が蘇るわけではないから、ま、頑張ってねというしかない。



B.宇野弘蔵
  いまはもう大学の経済学部に「マルクス経済学」を謳う科目を置いているところはほとんどないと思うが、ぼくの学生の頃は、経済学の科目には題名で「マル経」か「近経」かの区別があって、学問上の立場はそのまま政治的イデオロギー的にも別々だと思われていた。しかし、少し勉強してみるとそんな単純でもなく、いちおう『資本論』になにが書いてあるかぐらいは、「近経」の学生でも知っているし、新古典派の理論がなにをやっているかは「マル経」でも知っているんだろうと、経済学専攻ではないぼくは思っていた(どうもそうでもなかったみたいだが)。とにかく宇野弘蔵という名前と三段階論はぼくでも知っていた。

「このような『資本論』と現実の政治経済とのズレは、マルクス主義者を悩ませた。その結果、『資本論』を歴史的な仕事として“発展”させる者、つまり事実上それを放棄する者が出てきた。その中で、私が注目するのは、『資本論』を保持しつつ、このズレを解決しようとした宇野弘蔵である。宇野は、マルクスが『資本論』で「純粋資本主義」を想定したのだと考えた。むろん純粋資本主義がイギリスに実在したわけではなく、また、将来において実現されるものでもない。ただ、マルクスがいた時代のイギリスの資本主義は、自由主義的であり、相対的に国家を捨象して、そのメカニズムを考えることができたという意味で、純粋資本主義に近いものであったといえる。とはいえ、宇野がいう「純粋資本主義」は理論的なものである。彼は『資本論』が、他の要素をすべてカッコに入れ、商品交換が貫徹された場合に資本制経済がどのように働くかを理論的に考察したものだと考えたのである。したがって、『資本論』は、資本制経済が存在するかぎり、特に変更する必要のない理論である。
  そのように『資本論』を見る一方で、宇野は、さまざまな要素を含んだ現実の社会構成体では、国家が経済に関与するのであり、それが「経済政策」としてあらわれる。そして、それが資本主義の歴史的な段階を形成すると考えた。彼のいう段階は、重商主義、自由主義、帝国主義である。さらに、宇野は、第一次大戦とロシア革命以後の段階を帝国主義とは異質な段階だと考えた。それは、国家が、社会主義的あるいはケインズ主義的な政策をとるにいたった段階である。一般的に、それは後期資本主義(late capitalism)と呼ばれているが、フォーディズムといっても、福祉国家資本主義といってもかまわない。ちなみに、宇野理論を受け継いだロバート・アルブリトンは、この段階をコンシューマリズムと名づけている。
  私の考えでは、こうした諸段階は、それぞれ「世界商品」と呼ぶべき機軸商品の変化によっても特徴づけられる。重商主義段階は羊毛工業、自由主義段階は綿工業、帝国主義段階は重工業、後期資本主義段階は、耐久消費財(車と電気製品)である。後期資本主義段階は、一九八〇年代から進行してきた新段階――ここではいわば「情報」が世界商品だといってよい――にとってかわられる。この段階をどう名づけるべきかについては、この後に論じる
  もちろん、このような発展段階の考察は、マルクス主義者の間ではありふれている。彼らは、経済的下部構造あるいは生産諸力の発展が、政治的・文化的な上部構造をどう変えてきたかを見てきた。その観点から見れば、商人資本は国家の保護を必要とするがゆえに、重商主義政策を必要とし、産業資本はそれを必要としないがゆえに、自由主義政策をとる。さらに、帝国主義の段階では、海外への資本の輸出が生じるために、国家の軍事的な介入を必要とする。政治的なレベルはそのように経済的レベルによって規定されている。とすれば、そのような変化は、資本主義経済そのものの変容から生じるということになる。そして、それを見るためには、『資本論』を理論的に“発展”させなければならないということになる。
  しかし、宇野弘蔵の「段階論」的把握は、それらとは違っている。彼は資本主義の発展段階を国家の経済政策のレベルで見ようとした。そのとき、彼は『資本論』ではカッコに入れられていた国家を再導入したのである。しかも、『資本論』がとらえた「純粋資本主義」の原理を変更することなしに。経済政策から資本主義の発展段階を見るという見方は、国家を資本とは別の能動的な主体として導入することである。国家はたんに資本主義経済の変化によって規定されてきたのではない。
  たとえば、「重商主義」段階で、国家は商人たちの背後に隠れていたのではない。国家が交易を主導していたのだ。この点では、古代帝国の時代からそうであった。遠隔地交易は、国家の手でなされたからである。いわゆる「自由主義」段階ではどうか。そこでは、国家は何もしないどころではない。イギリスの自由主義を保証していたのは、「七つの海」を支配する海軍力であった。そもそも、「自由主義」とは経済的且つ軍事的に他を圧倒している国家がとる政策である。他の国は、保護主義(重商主義)的な政策をとり、産業資本を育成し強化しようとする。さもなければ、植民地状態におかれたのである。帝国主義の段階では、国家はもっとあからさまに前面に立っている。さらに、ファシズム、福祉国家資本主義でも同様だ。現実の資本主義経済の歴史は、国家という次元を捨象して見ることはできないのである。しかし、宇野は自分を経済学者としての立場に限定し、国家に関してはごく控えめにしか語らなかった。そのため、結局、彼の段階論は旧来の議論の中に組み込まれてしまった。」
柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015. pp.430-433

  Wikipediaによると宇野 弘蔵(1897年11月12日 - 1977年2月22日)の経歴概略はこういうものである。
  岡山県倉敷市に生まれる。旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)、第六高等学校(現・岡山大学)を経て、1921年東京帝国大学経済学部卒業。1954年経済学博士(東京大学)。1921年大原社会問題研究所入所。ドイツ留学を経て、1924年東北帝国大学法文学部経済学第三講座(経済政策論)助教授、同大学在職中の1938年に人民戦線事件に連座し逮捕されるも、後に無罪となる。1941年東北帝国大を辞職し、財団法人日本貿易振興協会(現・独立行政法人日本貿易振興機構)日本貿易研究所入所。1944年三菱経済研究所入所。この間1946年に東北帝国大学講師を務める。1947年東京帝国大学社会科学研究所教授、1949年同所長、1958年東京大学を定年退官し、法政大学社会学部教授に就任、1968年まで務めた。1954年12月 東京大学 経済学博士 論文の題は「恐慌論 」。1977年、肺炎により神奈川県藤沢市鵠沼の自宅で死去。
  『資本論』に基づく経済研究を原理論、段階論、現状分析の3つに分けるという構成がとりわけよく知られ、唯物史観や社会主義イデオロギーから切り離した経済研究を確立した。ちなみに宇野自身は自著で「自分をマルクス主義者とはもちろんのこと、広い意味での社会主義者とも考えたことはありません」(『資本論の世界』)と語っている。妻は、統計学者で東京帝国大学教授、日本放送協会会長、大原社会問題研究所所長等を歴任した高野岩三郎の娘。

  宇野弘蔵がもう少し生まれるのが遅くて、帝大アカデミズムの経済学徒として、先端の理論研究をドイツではなくアメリカで磨いたとしたら、都留重人や宇沢弘文の先達になったはずだと思う。彼は研究者として非常に優秀であったれればこそ、19世紀に書かれた『資本論』を読み込んで、それが現実の20世紀の歴史過程とどういう齟齬を来すかを考えた。いわゆる「マルクス主義者」でも「社会主義者」でもない宇野弘蔵こそが、運動家や政治家には見えないものを見ていた。でも、経済学理論に自分の仕事を限定したがゆえに、国家という厄介なものを捨象することになった。
 
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海民・嘉兵衛の独立精神

2015-05-29 17:57:08 | 日記
A.「菜の花の沖」のこと
司馬遼太郎に「菜の花の沖」という長編小説があることは知っていた。しかし、これが世間によく知られた信長、秀吉から西郷、竜馬まで、戦国時代や幕末動乱期の武将や志士を主人公にした多くの司馬作品の中では、江戸時代後期の18世紀後半に北前船で活躍した船乗りであり商人であった高田屋嘉兵衛という人物を主人公にした、ちょっと異質のものであった。いわゆる歴史マニアでもまず興味は持たない題材であった。それで、ぼくもこれまで司馬遼太郎の小説はほとんど読んでいたつもりだったが、これは読んでいなかった。
 通勤途中の電車で読む本をなにか、と駅の本屋で適当に物色したときに「菜の花の沖が」目に入って、第一巻を買って読んだ。とても面白い。この物語には武士がほとんど出てこない。淡路の小さな漁村に生まれた嘉兵衛の少年期からはじまり、農村共同体の濃密ないじめの世界を脱出して、彼は摂津兵庫で船乗りになって成長してゆく。物語は嘉兵衛の行動を追っていくのだが、例によって詳細な背景説明が書きこまれ、ときに脱線して江戸時代という社会の構造と変動をダイナミックに批評していく。武将や志士の物語では、これが政治論だったり国家論だったり、あるいは比較文明論だったりするのだが、この小説では海洋と船舶という理系的な技術論が展開される。そこが実に面白い。さらに海から見た地理的視点というものが加わる。

「遠い古代から、嘉兵衛のうまれるすこし前まで、日本国の表はむしろ山陰、北陸であったことは、すでにふれた。その最大の玄関が、敦賀の浦であり、海の老舗といっていい。
 嘉兵衛の知らぬことだが、古代、高句麗から来る船は朝鮮半島東岸を南流する海流に乗ってこの敦賀に入ったし、平安初期、しばしば日本に使節団を送ってきた渤海国(紀元八~十世紀に満州東部から沿海州にまたがって存在した国)の船も、現在のソ連・ポシェット湾からまっすぐに南下してこの敦賀にきた。
 もっとも古代でも風は気まぐれであった。敦賀に入るはずのものが、日本近海にきてから西風に飛ばされて能登半島にぶつかったり、東風のために出雲海岸に到着したりもした。
 平安期の大消費地は、京都しかない。
 京都の人口を養うための海港が、敦賀であったといっていい。北陸沿岸の米その他が、海路敦賀にあつめられる。
 敦賀の背後は、わずかに山塊ひとつをへだてて琵琶湖の水がひろがっている。荷は馬の背にのせて山塊をこえ、琵琶湖で船積みされて湖上を大津まで送られる。大津からはふたたび荷駄で逢坂山を越えて京都に入るのである。
 この経路が、上代以来、はるかにくだる江戸初期にいたるまで変わることがなかった。
 自然、敦賀は、栄にさかえた。
 が、車ひきから身をおこした河村瑞賢が一六七〇年に太平洋航路(東廻り)をひらいたことによって日本海が航路を独占していた時代はおわり、敦賀の繁昌にかげりがでてきた。」司馬遼太郎『菜の花の沖(二)』文春文庫、pp.294-295. 

 山岳がそびえる日本列島では、16世紀まで人と物資の移動は、徒歩か牛か馬かであり、道路の整備も満足なものではなかったから、大量の輸送は海に頼っていた。それも大型の船も海岸伝いに日和を見ながら航行するしかなかった。それが、江戸時代も後期になって遠距離を輸送する回船(海上輸送)が活発化した。大消費地は京阪と江戸だから、全国の物資が船で商品経済の循環の中に取り込まれた。江戸幕府は、身分制度と自給的な農村共同体を社会の基本と考えたので、商品経済や物資輸送が活発化するのは体制を脅かすものとして、強く規制した。とくに船という手段を外洋航海できないように、帆は一本だけ、甲板のない箱型構造、いわゆる和船しか認めなかった。これが嘉兵衛ら海に夢をかける船乗りに幕藩体制への挑戦的な姿勢を作った、と司馬は言いたいのだろう。

「木綿という繊維が日本に登場するのは非常にあたらしい。
 豊臣時代には輸入品として貴重なものであり、まれに大名が用いる程度で、稀少なものであった。繊維と言えば上代以来、格別な上流の階級は絹で、それ以下は麻であったり、コウゾやシナノキのような植物の繊維が使われていた。麻などは保温性がひくく、「木綿以後」にくらべ、風邪をひいて死ぬ者がおおかったかと思われる。
 国産木綿は江戸初期からひろまる。
 これを畑物としてつくるのには大量の動物性の肥料が要った。最初は鰯のほしかであったが、江戸中期以後、蝦夷地の鰊が登場してこれを肥料にするようになって、わたの採れる量が増えた。これによって全国の士庶が、いままでの繊維とはまったくちがった保温性と耐用力をもった衣料を身につけることができるようになり、強い言い方をすれば「木綿以前」とくらべて日本文化が大きく変わったといっていい。
 植物としての木綿が鰊によってつくられるということから考えると、蝦夷地の鰊が本土に飛んできて日本人にようやく満足な衣料を着せるようになったとみてよい。それを運ぶのが北前船である以上、船はいくらあっても足るということはなく、荷はどれほど多くても売れぬということがない。
――男なら北前船を動かすべきだ。」司馬遼太郎『菜の花の沖(二)』文春文庫、pp.114-115.

 日本人は長い間、満足な着物ももたず、裸同然の衣服と筵や藁や掘立小屋で雨露・寒さをしのいで生きていた、ということをもうぼくらは実感できない。麻の着物は夏には快適だが、冬には防寒の役目は果たさない。「木綿以後」は日本人の生活が変わったのかもしれない。
 それにしても、「いじめ」「いびり」という言葉は西洋にも中国にもなく、日本の封建制江戸にだけ生まれたもの、という司馬遼太郎の言葉は、農村共同体の奴隷根性の救いのない負の側面を指摘している。



B.アジア的専制国家
 
「マルクスはもともと、未来の共同社会において原始共産制が高次のレベルで回復されるというヴィジョンをもっていた。しかし、これはマルクスだけでなく、一般に社会主義者がもっていたものだ。テンニースが定式化したように、ゲゼルシャフトの上にゲマインシャフトを回復するという見方は、むしろロマン主義的なものである。壮年期のマルクスはこうしたロマン主義的傾向を拒んでいた。彼が晩年において、社会主義を「共同体」の高次元での回復とみなすようになったのは、ロマン主義的な観点からではない。そのきっかけは、おそらくモーガンの『古代社会』を読んだからだと思われる。モーガンは、氏族社会に、たんに平等であるだけでなく、独立的である人々を見出した。それは戦士=農民共同体である。彼の考えでは、古代ギリシアの民主主義はそれを受け継ぐものであった。したがって、マルクスが回復すべき「模範」として見出した氏族的共同体は、その上位集団に決して従属しないような共同体である。つまり、マルクスは氏族社会に関して、そこに保存された遊動民以来のあり方を範としたのである。
 しかるに、ロシアのミールはそのような共同体ではなく、専制国家に従属する共同体である。それは氏族社会から連続的に生じたのではない。一二三六年にモンゴル軍が侵入してきて以来、キプチャク・ハーン国による間接支配が続いた。二五〇年間にわたる「タタールの軛」の下で、いいかえれば、アジア的専制国家の下で形成されたのである。マルクスもそのことを指摘している。このような農業共同体はもはや戦士=農民共同体にあったような独立的精神をもたない。その成員は上位の権力に対して従順であり依存的である。実際、彼らはツァーリ(皇帝=教皇)を仰いでいた。ゆえに、このような農業共同体から未来の共同社会(アソシエーション)が出てくることはありえない。むしろこれに依拠するかぎり、社会主義はアジア的専制国家と類似したものに帰結するだろう。
 したがって、ロシアの共同体がそのままで未来のアソシエーションに転化できるかといえば、「否」である。とはいえ、これはたんに共同体の解体・私有化を通過しなければならない、ということを意味するのではない。資本主義的経済が浸透して農業共同体が解体されても、人々の国家に対する従順な態度は変わらないだろう。そこから生まれるアトム化された大衆はアソシエーションを生み出すどころか、新たな“ツァーリ”を求めるだけである。ゆえに、こうした農業共同体からの、資本主義化によるのとは別のかたちの、アソシエーション的な自立化が必要なのである。したがって、マルクスはザスーリチの問いに対して「否」と答える。だが、同時に、それがまったく不可能ではない、と考えた。《この共同体はロシアにおける社会的再生の拠点であるが、それがそのようなものとして機能しうるためには、まずはじめに、あらゆる側面からこの共同体におそいかかっている有害な諸影響を除去すること、ついで自然発生的発展の正常な諸条件をこの共同体に確保することが必要であろう、と》。これは、もっと具体的にいえば、次のようなものである。

 ロシアの農民共同体(オプシチナ)は、ひどくくずれてはいても、太古の土地共有制の一形態であるが、これから直接に、共産主義的な共同所有という、より高度の形態に移行できるであろうか?それとも反対に、農民共同体は、そのまえに、西欧の歴史的発展で行われたと同じ解体過程をたどらなければならないのであろうか?
 この問題にたいして今日あたえることのできるただ一つの答は、次のとおりである。もし、ロシア革命が西欧のプロレタリア革命にたいする合図となって、両者がたがいに補いあうなら、現在のロシアの土地共有制は共産主義的発展の出発点となることができる。(『共産党宣言』ロシア語第二版序文)

 マルクスがここで語っているのは、「世界同時革命」のヴィジョンである。つまり、これは一国だけの革命ではありえない。このような例は、現在でも、グローバルな資本主義の破壊的浸透に対する、世界各地の先住民の闘争を見る場合に示唆的である。そこでは、資本と国家に対抗する力は、社会主義的理念というよりも、互酬交換、共同の環境、共同体の伝統から来るのである。だが、そのような闘争が発展して、そのまま社会主義的な形態(交換様式D)になるかといえば、その解答は、結局、マルクスが与えたものと同じものになるだろう。つまり、先進国における社会主義的変革とそれによる支持や援助があるかぎりにおいてのみ、それは可能である、と。」柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015. pp.419-422.

 ロシアのミール農業共同体は「もはや戦士=農民共同体にあったような独立的精神をもたない。その成員は上位の権力に対して従順であり依存的」であるから、アソシエーションは出てこないという点は、極東日本の場合はどうだろうか?ロシア革命の社会主義は、大きな実験ではあったが、結局マルクスの予想したようにアジア的専制国家と類似したものに帰結したのだとして、日本は江戸=幕藩体制以前までは、戦士=農民共同体につながる独立的精神が残っていた、という論も成り立つ。しかし、逆にいえば、その反動のようにアジア的専制国家の従順で依存的な心性を培い、今にいたるまで権力への反抗をいみ嫌うだらだら保守が根を張ってしまったのかもしれない。

「一九九〇年以後、先進国の左翼は、旧来のような革命を完全に放棄した。市場経済を認め、それがもたらす諸矛盾を、民主的手続きによる公共的合意、さらに、再分配によって解決していこうという考えに達した。つまり、福祉国家主義あるいは社会民主主義に落ち着いたのだ。しかし、これは、資本=ネーション=ステートの枠組みを肯定することであり、その外に出るという考えを放棄することである。序文で述べたように、それはこの時期、フランシス・フクヤマが「歴史の終焉」と呼んだ事態なのである。実際のところ、これは百年前のベルンシュタインと違わない。それはベルンシュタインの先駆性を意味するものではなく、たんに彼に対する本質的な批判が以来すこしもなされてこなかったということを意味するに過ぎない。
福祉国家主義は、先進資本主義国で、ソ連型社会主義に対抗するために“消極的”に採用されてきた。その中で、それを積極的に根拠づけようとした理論家として注目に値するのは、ジョン・ロールズである。それは、彼が、経済的な「格差」に反対して富の再分配を、アプリオリに道徳的な「正義」という観点から基礎づけようとしたからである。

 正義は、社会制度の第一の目標であって、これは真理が思想体系の第一の徳目であるのと同様である。たとえば、理論が優美で無駄がなくとも、真理でなければ、その理論は斥けられるか改められるかしなければならない。同様に、法・制度は、正義にもとるならば、どんなに効率的で整然としていても、改正されるか廃止されるかしなければならない。各人には皆正義に根ざす不可侵性があり、社会全体の福祉でさえこれを侵すことはできない。このために、ある人々の自由の喪失が、他の人々に今まで以上の善(good)を分け与えることを理由に、正しいとされることを、正義は認めない。」(ジョン・ロールズ『正義論』矢島鈞次監訳、紀伊國屋書店、三頁)

 ロールズは、このように先験的な「正義」の原理から始める方法をカント的であると考えた。ある意味では、その通りである。しかし、実際にはまるで違っている。カントにとって、正義は「他者をたんに手段としてのみならず同時に目的として扱う」という道徳法則にある。ゆえに、そのことを不可能にする資本制経済はカントにとって正義ではありえない。一方、ロールズがいう正義はせいぜい「分配的正義」である。それは資本主義的市場経済がもたらす格差を、国家による再配分によって解消するというものである。それは不平等を生み出すメカニズムには手を出さないで、その結果を国家によって是正しようというものだ。一方、カントのいう正義は、格差を生み出すような資本主義経済を廃棄せよ、という考えに行きつくことになる。
 カントはイギリスの経験論的な道徳理論を批判した。それは、善は幸福にあり、且つまた、幸福は経済的な富に還元される、と考える功利主義と、道徳を同情のような「道徳感情」から考えたアダム・スミスのような考えの二つである。カントはその両方を批判し、道徳性を「自由」に見いだそうとした。自由とは、自己原因的(自発的・自律的)であることである。利益、幸福、道徳感情のようなものは感性的であるから自然原因に規定されており、それにもとづくことでは「自由」はありえない。
 さらに重要なのは、この自由は他人の自由を犠牲にするものではありえないということである。そこで、先験的な道徳法則(至上命令)として見出される。いわば、それは「自由の相互性(互酬性)」である。カントの倫理学はたんに主観的なものだと考えられてきた。しかし、自由の相互性(互酬性)は、現実に他者との経済的な関係と切り離せない。そのことを、カント自身が明瞭に意識していた。カント的道徳性から必然的に生まれるのは、互酬的交換にもとづく社会であり、それを最初に明確に示したのがプルードンであった。
 一方、英米では、カントは主観的倫理学として斥けられ、彼が批判した功利主義が優勢になった。その場合、善は、経済的な効用=利益とほぼ同じことになる。いいかえれば、倫理学は経済学と同じことになる。ロールズはそのような文化的土壌に、カント的倫理学を導入したようにみえる。しかし、そうではない。ロールズは功利主義の基盤である資本主義経済を不問に付した上で、「善」を考え、分配による「平等」を考えた。そこでは、「自由の相互性」が考えられていない。ゆえに、それをカント的と呼ぶのは的外れである。
 カントがいう道徳性が資本主義批判と密接につながっていることは、一般に無視されている。同様に、マルクスにおける社会主義が何よりも道徳的問題であることが、一般に無視されている。マルクスは若い時期に、つぎのように書いた。《宗教批判は、人間は人間にとって最高の存在である、という教説で終わる。したがって、人間を卑しめられ、隷属させられ、見捨てられ、蔑まれる存在にしておくようないっさいの諸関係を……くつがえせという、無条件の命令をもって終わるのである》(「ヘーゲル法哲学批判序説」)。
 これは宗教の批判というより、自由の相互性が実現されるまでは、宗教は消えない、ということを意味する。したがって、宗教批判は現実社会の(経済的)批判にとってかわられなければならない。マルクスはこの考えを終生捨てなかった。いうまでもないが、自由の相互性を実現せよ、という「無条件の命令」(至上命令)は、明らかにカント的なものである。」柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015. pp.422-426.

 道徳・倫理という側面から、いかなる社会を構想できるか?功利主義の現代版としての、市場原理主義、競争的グローバリズムは、人を私的利益のための手段としかみなさないという点だけでも、公正な倫理に背く思想だろう。
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花燃え 真央萌え 革命燃え

2015-05-27 21:12:47 | 日記
A.大河ドラマの不振
 大河ドラマの視聴率が振るわないというのがニュースになる。作っているNHKとしては気になるらしく、あれこれ応援番組を繰り出して、盛り返そうとしている。しかし、ぼくはど~でもいいと思っている。テレビドラマというものが、時代の雰囲気を反映していた時代はとうに去っていて、視聴率が10%を割ったからといって、気にすることはない。民放のように打ち切るわけにもいかないのは、むしろ唯一の本格時代劇としての大河ドラマが文化の継続性を確保しているので、国民放送NHKの存在意義が失われるわけではない。それよりも、歴史を伝える作品としてどう描かれているかを、しっかり自覚して制作して欲しいと思う。

「くすぶる「花燃ゆ」 浮上できる!? 脚本家、女性3人体制で巻き返し」東京新聞2015年5月2日 朝刊
「NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の視聴率が低迷している。4月12日の放送はついに一桁(9.8%)に落ち込んだ。5月から物語は激動の幕末動乱期へ。坂本龍馬や沖田総司など新たな登場人物も登場し、巻き返しを図りたいNHK。果たして、浮上の妙手はあるのか。(鈴木学、五十住和樹) 「いろんな原因がきっとあると思いますが、主演である以上、私の力不足」吉田松陰の妹、文(ふみ)を演じる井上真央は四月二十日、東京・渋谷のNHKであった会見で残念そうな表情を見せた。だが「ともあれ、現場は進んでいく。やり切るしかない。至誠を尽くす、という兄(松陰)の言葉を思い出しながら、笑顔で乗り切りたい」と前向きだ。
 文の夫、久坂玄瑞を演じる東出昌大は、視聴率が一桁に落ち込んだ放送で、「大河を見ようとテレビをつけたら『おおっ、やってねぇ』。そんな不運も あった」と、統一地方選報道で放送時間がずれたことを要因に挙げた。「ワースト更新という記事で番組を見ない人が増えるのは残念。覚悟と至誠を尽くしてつくっている。記事に左右されず見てほしい」大河ドラマの視聴率が一桁だったのは、2012年の「平清盛」以来だ。当時の兵庫県知事が「画面が汚い」などと批判して話題になった。八月五日放送の視聴率7・8%は、裏番組がロンドン五輪の女子マラソンだったという不運もあった。
「あまりいじめないでください」と話す井上には、多くの励ましのメールが来ているとか。演技では定評がある井上を主演に据え、伊勢谷友介などイケ メン俳優をそろえて臨んだ「花燃ゆ」。だが、テレビドラマに詳しいライター平野和子さんは「大河ドラマとしての重厚感、格調がなく軽すぎる」と指摘する。 「イケメンを出していればいいという発想がおかしい。視聴者を甘く見ているのでは」NHKは「幕末のホームドラマ、学園ドラマ」とアピールしている。平野さんは「戦いの時代である幕末はそんなに明るくないし、ホームドラマには合わない。無理やり明るい青春ドラマにしてしまった」と、大河ファンが背を向けた理由を語る。力演する井上については「“妹キャラ”という設定に一生懸命応えようとやっている」と見る。「大河は格調がある特別なドラマ。原点に返れと言いたい」
「花燃ゆ」は、脚本家の大島里美さんと宮村優子さんが「複数作家制」で執筆してきた。さらに三日放送分から金子ありささんが加わり、「今後は女性 三人の視点で知恵を出しながらやっていく」という。だが、これについても「話が途切れ、ストーリー性が弱くなりドラマとしてのスケール感を損なう」という 指摘もある。だが、今後の展開に期待する声は大きい。平野さんは言う。「文は夫である久坂を失い、兄・松陰の親友だった小田村伊之助(大沢たかお)と再婚。悲しさを乗り越えて生きる女性の強さ、優しさをどう描くか。井上真央ならそれを演じられる。主人公の人生を浮き彫りにしてほしい」(視聴率はビデオリサーチ 調べ、関東地区)

 大河ドラマで幕末の長州は何度も描かれてきたが、司馬遼太郎などの史実に即した創作を、チャンバラ時代劇中心に長丁場のドラマにするのはむずかしい。とくに吉田松陰は、思想家として短い活躍ののち処刑されてしまうので、松陰の尊皇攘夷の中身をただファナティックな過激思想としたり、逆に開明的な英雄先駆者としてのみ描くのも問題がある。ぼくには、「世に棲む日々」を下敷きにした篠田三郎が演じた松陰が、肖像画からのイメージに近く強く印象に残っている。今度の伊勢谷友介も、かなりイイ線にいっていた。井上真央は頑張っていて、責任など感じなくてイイと思う。
 ただ、これは結局脚本家の歴史への理解が浅いということになるが、水戸に発する幕末の尊皇攘夷運動が、長州の松下村塾で復古的なナショナリズムから封建制を破壊する革命思想に脱皮する。それがどういう契機と過程を経ていったのかを見ずに、ただ優れた教師と生徒の学園ドラマにして視聴率を稼ごうというのは、大衆にも受けないのは仕方ないと思う。



B.ロシア革命とファシズムの意味
 以前、ゼミの学生からこんな質問を受けたことがある。マルクスの唱えた資本主義を克服する社会主義革命が、歴史の必然として実際にロシア革命で実現したというのだったら、なぜそれは他の国に広がらずに結局失敗してしまったのか?確かにロシア革命の後、東欧、そして中国と革命は波及していったものの、結局ソ連・東欧は崩壊し、中国は共産党が支配しているがもはや社会主義やマルクス主義は名ばかりのものとなってしまった。これは失敗でしょ?
 ぼくはこう答えた。簡単にいってしまうと、マルクスは人類の文明が発展して資本主義に達し、生産力が高まった先進国になった段階で、労働者の革命が起こって社会主義そしてその先に共産主義というシナリオを考えていた。それなら一九世紀ではヨーロッパの先進国、イギリスやフランスで革命が起こるはずだった。しかし、実際に革命が成功したのは、はるかに後進的な帝政ロシアだった。つまりシナリオとは違うことが起こった。先進国はそれを見て、いろいろ資本主義の改良を試み、またロシア革命を脅威と見て全力で潰しにかかった。つまり、順序が間違っていたのだ、と。学生は、なるほどと納得したようだった。

「ロシア革命は一九一七年二月、第一次世界大戦でロシアの敗色が濃いときに起こった。その結果、帝政が倒され議会が成立するとともに、労働者・農民の評議会(ソヴィエト)が自然発生的に成立した。議会と評議会の二重権力の状態が続いたのである。ただ、そのいずれにおいても、社会民主労働党のメンシェビキ、そして、社会革命党が主流であり、社会民主労働党のボリシェビィキは少数派であった。ところが、一〇月に、トロツキーとレーニンは他のボリシェヴィキ幹部(スターリンを除く)の猛反対を押し切って、クーデターを起こしたのである。それは「全権力をソヴィエトへ」という名目でなされた。だが、実際には、議会を閉鎖しただけでなく、ソヴィエトからも他の党派を追放した。以後、評議会は名目的なものとなり、ボリシェヴィキによる独裁が始まったのである。この時点で、彼らはヨーロッパの「世界革命」がロシアの後に起こることを期待していたが、当然ながら、それは起こらなかった。それどころか、たちまち、海外からの干渉や侵略が始まった。それ以後、他国の干渉から革命を防衛するためには、強力な国家機構を再建しなければならなかった。こうして、党=国家官僚の専制的支配体制がまもなく形成されたのである。
 このようなクーデターの強行を正当化する理論が、歴史的段階を「飛び越え」て一挙に社会主義に向かうという、「永続革命」の理論であった。その結果がどうなったかは周知の通りである。トロツキーはスターリン以後の体制を「裏切られた革命」と呼ぶが、それはむしろ十月革命がもたらしたものである。その意味で、十月革命において、すでに革命が裏切られている。
 マルクスが「永続革命」を否定し、また、歴史的段階の「飛び越え」を否定したことに対する、そうした挑戦(毛沢東もふくむ)は、全般的に、失敗に終わった。つまり、結局、「飛び越え」はできなかったのである。実際、二〇世紀に起こった革命――すべて後進国で起こった――において、権力を握った社会主義者はさまざまな点で、本来ブルジョアジーがなすべきこと、というよりむしろ、絶対王権がなすべきことを代行するはめに陥ったのである。
 ヨーロッパでは、絶対王権は多くの封建貴族を制圧し、人々をすべて王の「臣下」とすることで、ネーションとしての同一性を創り出した。また、それは、旧来の農業共同体を解体し収奪することを通して資本主義経済の基盤を確立した。これはマルクスが「原始的蓄積」と呼んだ過程である。絶対王制を暴力革命によって倒したブルジョアジーは、前者が築いた基盤の上に、資本主義経済を築いたのである。
 一方、産業資本主義的に後進的な地域は、ほとんどが植民地体制下にあった。つまり、主権がなかった。また、その中で部族的な対立があり、ネーションとしての同一性をもちえなかった。西洋列強は、そのような分裂を巧妙に利用して植民地化を果たしたのである。また、そのような地域には、自給自足的な農業共同体が存在した。このような状態で、旧来の封建的体制を打破して、ネーションを確立し、さらに工業化を果たそうとするのは、誰であろうか。地主階級や買弁資本家は現状に満足している。民族の独立や前近代的な社会の改革を目指すものは、社会主義者しかいないのである。社会主義者は、したがって、絶対王権ないしブルジョア革命が果たしたことを果たさなければならない。
 マルクスがいったように、これらは本来、社会主義者がやるべき仕事ではない。しかし、周辺部諸国では、社会主義国以外にそれを実行することができない。そして、社会主義者がそうするのは当然であり、むしろ称賛されるべきことである。ただ批判されるべきなのは、彼らが実行したことを「社会主義」と呼んだことである。そのことによって、社会主義という理念が回復不可能なまでに傷つけられた。そして、その原因は、「永続革命」と「段階の飛び越え」という観念にある。」柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015. pp.412-415.

 ロシア革命ははじめから、マルクス主義の教科書に沿って「世界同時革命」を狙っていたわけではなく(トロツキーやレーニンはそれを考えてはいたにせよ)、暴力によって国家権力を奪取したあとは、革命防衛戦争を戦うために一国社会主義、つまり国家によって一国だけの社会主義を実現しようとして、結局スターリンの専制国家、帝国主義と変わりのない国家体制にすすんでしまった。しかも、それはネーションというもうひとつの要素を軽視したために足をすくわれてしまった、というのがここのお話になる。

「マルクス主義者は資本主義を国家によって制御しようとして、国家の罠にはまってしまった。それについてはすでに十分に述べてきたので、ここで付け加えておきたいのは、もう一つの躓きである。ネーションの問題である。マルクスとエンゲルスは、一八四八年革命の勃発の直前に出版した『共産党宣言』で、プロレタリアートは祖国をもたないゆえに、諸国家を越えたブルジョアジーとプロレタリアートという二大階級の決戦が世界革命として生じるだろう、と期待した。しかし、実際は逆で、この時期から階級問題と並んで、民族問題が重大となったのである。
 マルクス主義者は、ネーションは上部構造であるから、階級的構造が解消されれば解消されると考えた。しかし、そうはならなかった。ネーションは国家とは別の自立的な存在として機能したし、機能し続けている。すでに述べたように、ネーションは共同体あるいは互酬的交換様式Aの想像的回復である。それは平等主義的である。したがって、ナショナリズムと社会主義(アソシエ-ショニズム)の運動には、紛らわしい近似性がある。
 たとえば、植民地状態から民族解放を目指す運動において、社会主義はナショナリズムと融合する。それは、植民地化された国の資本が買弁的・従属的であり、社会主義者でなければ、ナショナリズムを実現できないからである。ゆえに、そのようなところで、社会主義とナショナリズムが同一視されたとしても、やむをえない。問題は、むしろ発達した産業資本主義国家では、ナショナリズムが社会主義的な外見をもってあらわれることである。それがファシズムである。ファシズムとは、ナチスの党名(ナショナル社会主義ドイツ労働者党)が示すようにナショナルな社会主義である。つまり、ネーションによって、資本と国家を越えようとする企てである。それは、資本主義にもマルクス主義にも敵対する。もちろん、ネーションによって資本主義と国家を越えることはできない。それが創り出すのは、資本主義と国家を越える「想像の共同体」にすぎない。しかし、多くの国で、ファシズムが強い魅力をもったのは、それがあらゆる矛盾を“今ここ”で乗り越える夢――のような世界のヴィジョンを与えたからである。
 多くの地域でマルクス主義の運動がファシズムに屈したのは、ネーションをたんなる上部構造だとみなしたことに原因がある。マルクス主義者がナチズムの前に無力であった事実に直面して、エルンスト・ブロッホは、その理由は、ナチズムがマルクス主義と違って、資本主義的な合理性の中で抑圧された古い要素をさまざまに喚起し動員することができたからだ、と述べている。(ブロッホ『この時代の遺産』一九三四年、池田浩訳、水声社)だが、これはナチズムが、交換様式Aの想像的回復としてのネーションを活用しえたということを意味する。それは一見すると、社会主義、すなわち、交換様式Dを約束するようにみえるのである。
 このことはまた、アナーキストの多くがファシズムに取り込まれた秘密を明かすものである。たとえば、イアタリアのファシストは、アナーキストの理論家、ソレルの影響を受けていた。ムッソリーニはもともと社会党のリーダーであり、第一次大戦に際して当初戦争に反対した社会党から出た。しかし、彼は資本と国家への反逆という信念を放棄したわけではない。彼が考えたのは、資本と国家をネーションによって越えることであった。イタリアのファシズムは、この意味で、アナーキズムの頽落した形態であると考えられる。
 ドイツのナチスの場合、さまざまな要素があるが、なかでも「突撃隊」は、資本と官僚国家に敵対するアナーキストであった。彼らは、ナチズム(ナショナル社会主義)を、資本と国家をネーションによって越えるものとみなしたのである。それがたとえばハイデガーをナチスに惹きつけた理由である。「突撃隊」が粛正されたのちに、彼はナチスから手を引いた。しかし、それは、彼がナチスをやめたというより、ナチスがナショナル社会主義を捨てたことを意味する。
 日本のファシズムの場合、一九三〇年代に最も影響力のあった思想家の一人、権藤成卿は、反国家主義・反資本主義を唱え、社稷(農業共同体)の回復を唱えた。そのとき、彼はそれを象徴するものとして天皇をもってきたのである。天皇はこの場合、明治以後の絶対王制とは逆に、日本の古代国家以前の社会の首長として解釈されている。興味深いことに、アナーキストの多くが権藤を支持した。天皇の下でのみ、国家無き社会が可能である、と彼らは考えたのである。それもまた、ファイシズムとアナーキズムの親和性を示している。
 それはナショナリズムと社会主義(アソシエ-ショニズム)の近似性から来る。このことは交換様式から見ると理解しやすい。いずれも、資本主義的な経済の中で生じる階級分解や疎外という現実に対して、交換様式Aを想像的に回復するものである。違いは、その回復がいかにしてなされるかにある。私は先に、普遍宗教に関して、それが意識的でノスタルジックな過去の「回復」と違って、無意識的で強迫的な「抑圧されたものの回復」だということを指摘した。同じことが、ナショナリズムと社会主義に関していえる。ナショナリズムは、過去のあり方をノスタルジックに能動的に回復するものである。他方、アソシエ-ショニズムは、過去の交換様式Aを回復するとしても、意識的にそうするのではない。意識的には未来志向的である。したがって、後者の場合、現状を変革するものとなるが、前者は結局、現状の肯定にしかならないのである。
 晩年のマルクスは、ロシアのナロードニキであった女性活動家、ザスーリチからの質問を受けた。ロシアのナロードニキは、バクーニンにならって、ロシアの農業共同体にコミュニズムが生きているという事実を高く評価した。しかし、これはそのまま、未来の共産主義に転化できるのか、それとも、資本主義的な私有化によって解体される過程をいったん経なければならないのか。それがザスーリチの問いであった。マルクスはその返事を書くのに長い時間をかけた。それはこの時期、モーガンの『古代社会』を読み、ある考え直しを強いられていたからである。」柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015. pp.415-419.

 日本は、かつてイタリア、ドイツと手を組んで世界戦争を戦って、みじめな敗北を喫した。このことについて、今もなお、いや今こそ、ファシズムについてのスタンスが問われるというのに、日本は西洋の植民地主義からのアジアの解放を理念とする純粋無垢な動機によって、戦争を戦ったのだ、イタリアやドイツのファシズムとは根本的に違う、などという説得力のない夜郎自大な言説を総理大臣が信じている。ネーションは今もなお、この国にとって大きな呪縛でありつづけている。
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United Nationは世界共和国になれるか

2015-05-25 14:40:42 | 日記
A.核のダブル・スタンダード
 5年に一度開かれる核軍縮を話し合うNPT再検討会議で、最終文書がまとまらず決裂で閉幕した、というニュースが報じられた。これはどういう出来事なのか?まずは「朝日新聞」から。

「見出しは「遠のく「核なき世界」NPT会議が決裂」:ニューヨークの国連本部で開かれていた核不拡散条約(NPT)再検討会議は22日、約一ヶ月にわたる議論の成果をまとめた最終文書を採択できないまま閉幕した。核軍縮分野の合意も成果として残らず、非保有国からは強い不満が出た。NPT加盟国間の亀裂は深まり、核軍縮の流れは停滞しそうだ。」
「核保有国に時間を区切った核軍縮を求めてきたオーストリアのクメント軍縮大使は、会議が決裂したことに「とても残念だ」と述べた。米国はNPT非加盟国で核を持つイスラエルへの配慮から、反対に回ったとみられており、核保有国と同盟を結ばない非同盟運動の代表は「NPT非加盟国のために、米国がNPT会議の全会一致を妨害する姿勢に驚いた」と批判した。
 世界の核兵器の約9割を持つ米国とロシアがウクライナ情勢などで対立し、中国も核戦力を強化するなど、核軍縮の機運は低下している。一方、会議では多くの国が、核の非人道性や核兵器禁止を訴えた。最終文書案にもそうした動きを反映する文言が残ったが、会議の決裂で、これらの「成果」は国際合意にはならなかった」(ニューヨーク=金成隆一、松尾一郎)「朝日新聞」2015年5月24日朝刊、1面。

 これだけを読むと、日本もその一角を占める非核保有国は、核の非人道性や核軍縮を訴えて合意を求めたにもかかわらず、アメリカをはじめとする核保有国が利己的に反対して、まとまらなかった、残念だ、というお話になる。日本は今回いかに行動したのか?はよく見えない。
 そこで、同日の「東京新聞」では、こうなっていた。

「見出し:日本の非核外交 限界 「核兵器禁止 誓約文書も賛同せず」被爆国で「核の傘」二重基準露呈:【ニューヨーク=北島忠輔】「核なき世界」に向け国連本部で開かれた核拡散防止条約(NPT)再検討会議は二十二日、四週間の議論をまとめた最終文書を採択できず決裂、閉幕した。被爆七十年を迎える日本は、唯一の被爆国として核兵器の非人道性を訴えたが、核の被害を訴えながら、米国の「核の傘」のもと、核を否定できない非核外交の二面性も浮かんだ。」
「会議では、核兵器の非人道性が中心議題の一つとなった。早急な核廃絶を訴える一部の非核保有国の原動力となり、オーストリアが提唱した核兵器禁止への誓約文書には、会議前には約七十カ国だった賛同国が閉幕時には百七カ国まで増えた。オーストリアのクメント大使は閉幕後、「驚くほど力強いグループになった」と手応えを語った。
 日本は誓約文書に賛同しておらず、被爆国として、非人道性の認識を広める必要性を主張するにとどまっている。採択されなかった最終文書案には日本が求めた軍縮教育の強化が盛り込まれた。核削減交渉の基礎となる核戦力透明化を核保有国に求める文言も入った。日本は「核保有国と非保有国に共同行動を求める」(岸田文雄外相)との姿勢で臨んだが、両者が対立する問題では橋渡し役を果たせなかった。また、早急な核廃絶に抵抗する保有国と足並みをそろえて誓約文書に反対する立場をとった。最終文書案の作成過程では、日本が提案した各国首脳らに広島や長崎への訪問を促す記述が中国の要求で削除。代わりに「核兵器の影響を受けた人々や地域との交流を通して経験を直接的に共有するよう促す」との修正文が入った。」

  これによれば、日本は核保有国と足並みそろえて誓約文書に反対したという。アメリカはNPTに参加していない保有国イスラエルの肩をもって軍縮合意に反対し、日本はそれに同調して反対した。この件について日本が提案した広島、長崎への各国首脳訪問に中国がいちゃもんをつけた話ばかりが、日本のメディアでは採りあげられたが、日本外務省が核保有国と同じ立場をとったことは朝日ですら報道しない。安倍政権は昨年の8月6日・9日の慰霊祭の態度からみても、核廃絶に本気で取り組む熱意に欠ける。
  被爆地広島・長崎の悲劇を訴えることが、日本がやった戦争の加害者意識を一方的に消去する、という中国の批判は、戦後の反原爆・反核運動の歴史を見れば当たっていないことは明らかだと思う。日本の反核運動は、原爆を落としたアメリカへの反感や報復を超越し抑制して、普遍的な核兵器の非人道性を訴えてきたし、反戦平和を民衆の視点で確認してきたと思う。確かに、広島・長崎の死者・被爆者をたんに無辜の被害者として、日本帝国がやった戦争の意味を考えないとしたら問題だろう。しかし、戦後の日本人は多くの犠牲を払って、偏狭なナショナリズムからではなく、誰もが被害者となる「人類への脅威」としての核兵器を憎んできた。これは誇っていいと思う。そういう深い反省を積み重ねてきたのに、安倍政権はなぜ核兵器廃絶の側に立たないのか?
  もしかしたら、安倍氏は国民の安全保障・世界平和を口実に、強力な軍事力を背景にした大国のフリーハンドが欲しくてたまらないのではないか。その究極の軍事力とは核兵器であるとすれば、危険な原発をあえて動かしてまで、プルトニウムを秘匿し、日本はいつでも核ミサイルを飛ばせるぞ!という威嚇こそが、「隠れ必殺仕事人」の技術維持を企んでいるのではないか。もはや、日本の世界最初の被爆国としての核廃絶への願い、なんて言い訳に過ぎず、必要とあれば三日で核保有国になれるぞ、という誘惑に駆られている政権だと世界に思われることが、日本国の安全保障、国民の生命財産を守るという国家の使命にとって、最大のリスクになりつつある。為政者の妄想的ファンタジーによって、前途有為な若者が死んでいくことを賛美する思想。
  こんなことをやっていたら、2度目の東京オリンピックなど夢と消え、ふたたび世界戦争の破壊の中で自衛隊の若者たちが次々命を落としつつ、放射能の猛威の中で「神に祈るしかない」状況が近未来に予想されるのだが、後世の歴史家は2010年代の日本をどのような社会として記述するだろうか?国民の5割は何が起きているのかわからずに、無関心で安楽な日常を生きていて、あとの2割は追いつめられた自分の心理的不安を妄想に等しいファシズム国家幻想に託して、比較的恵まれた既得権に揺蕩う中産階級市民を罵倒する。でも彼らの反抗は観念的で、警察に捕まると萎えてしまう程度のものだ。かつて「日本人」という仮象で、大いなる人民の連帯と、市民的自由を調和させる可能性を信じられた時代は終わったのかもしれない。

  NHKでも、国会での「集団的自衛権関連法案」審議について、今夜のTV特集で中谷防衛相、元防衛相森本敏、元内閣官房副長官補柳沢協二、首都大学東京准教授木村草太四氏の討論生放送番組を見た。中谷防衛相は、国民の生命財産・安全を守るためこれが必要であるとオウム返しに繰り返すだけでまともな説明になっていなかったが、それよりも、画面下に流れる視聴者からのコメントが気になった。最後に千を越えるコメントがあったと報じたが、そのなかから実際にテロップで流されたのは、100くらいだろうか。生だから寄せられた意見からその場で賛否のバランスを考えて選んで流したのだろうが、集団的自衛権も周辺以外への自衛隊派遣も「当然だ」「それをしないと信頼されない」「何もしないで平和が維持できると考えるのはおかしい」といった賛成意見が多く女性のものとして紹介されていた。意図的かどうかわからないが、国民世論が政権寄りにじわじわ形成されている気がしないでもない。国家のために自衛隊員に死んでもらうことを期待するような潮流には、知的な堕落を感じる。



B.インマニュエル・カントの命題
 西洋が発明した「国家」は人民がみずからの安全と秩序を確保するために、君主や権力者に統治の原則を契約文書として守らせることで成立した。それが憲法で、人民主権の民主主義体制においても原則は変わらない。それでも恣意的な権力者は、つねに「国家」の名のもとに、人民の権利や自由を制限し、「国家の隆盛」という利己的な利害を追求しようとするので、道徳原則から最終的な理想形態を考えていくと、「国家の揚棄・廃絶」つまり「世界共和国」にたどりつく。

 「ここで、つぎのことを付け加えておこう。「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」という道徳法則において、「他者」は、生きている者だけではなく、死者およびまだ生まれていない未来の他者を含む。たとえば、私たちが環境を破壊したうえで経済的繁栄を得る場合、それは未来の他者を犠牲にすること、つまり、彼らをたんに「手段」として扱うことである。自由の相互性をこのように理解するならば、それを実現しようとすることが、資本主義経済に対する批判にいたるのは当然である。
 また、重要なのは、カントのいう道徳性は、国家の揚棄を必然的に含むということである。彼は世界史が「世界市民的な道徳的共同体」、つまり「世界共和国」に向かって進んでいると考えた。それは諸国家が揚棄されるということである。「いかなる戦争もあってはならない」とカントはいう。これは、「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」という道徳法則から来るのである。《一緒に生活する人間の間の平和状態は、なんら自然状態(status naturalis)ではない。自然状態は、むしろ戦争状態である。言いかえれば、それはたとえ敵対行為がつねに生じている状態ではないにしても、敵対行為によってたえず脅かされている状態である。それゆえ、平和状態は、創設されなければならない》(カント『永遠平和のために』宇都宮芳明訳、岩波文庫、26頁)

 このようにいうとき、カントはホッブズと同じ前提に立って考えている。ホッブズは、主権国家(リヴァイアサン)によって平和が実現されると考えたが、その平和は国家の内部だけであって、国家間においてではない。一方、カントは国家観に平和状態を創設しようとしたのである。そして、それが実現された状態が世界共和国である。
 カントがいう「永遠平和」とは、たんに戦争がないという状態ではなく、「すべての敵意が終わる」状態を意味する。国家が何よりも先ず他の国家に対して存在するということから見れば、それは国家が終わるということだ。「世界共和国」とは、諸国家が揚棄された社会を意味するのである。そして、このことは、たんに政治的次元だけですむはずがない。国家と国家の間に経済的な「不平等」があるかぎり、平和はありえない。永遠平和は、一国内だけでなく多数の国において「交換的正義」が実現されることによってのみ実現される。したがって、「世界共和国」は国家と資本が揚棄された社会を意味するのである。国家と資本、そのどちらかを無視して立てられる論は空疎であるほかない。
 つぎに重要なのは、カントが、世界史が「目的の国」ないし「世界共和国」にいたるということを「理念」として見たことだ。カントの言語体系では、理念は次のことを意味する。第一に、理念は仮象である。ただ、仮象にも二つの種類があり、一つは感性によるもので、ゆえに理性によって訂正できる。もう一つは、理性が生み出すような仮象であり、これは理性によって正せない。理性こそこのような仮象を必要とするからだ。彼はそれを超越論的仮象と呼んだ。たとえば、同一の自己があるというのは仮象である。しかし、それがないと、人は統合失調症になるだろう。同様に、歴史に目的があるというのは仮象である。が、これがないと、やはり統合失調症になる。結局、人は何らかの目的を見つけずにはいないのである。」柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015. pp.370-372.

  パラノイアという言葉がふさわしいかどうかはともかく、理性のはたらきのひとつは、個人にも国家にも歴史にも、ある整合的な物語が必要だという要請に、言葉で答えるということだろう。次に理性の使い方にふたつあるとカントはいう。構成的使用と統整的使用。数学的な比例と哲学的な類推。

 「それに関連して重要なのは、構成的理念と統整的理念の区別、または理性の構成的使用と統整的使用の区別である。カントはこの区別を説明するために、数学における比例と哲学における類推(アナロジー)の違いを例にあげている。数学では、三つの項が与えられれば、第四項は確定される。これが構成的である。一方、類推においては、第四項をアプリオリに導き出すことができない。しかし、類推によって、その第四項に当たるものを経験中に探索するための指標(index)が与えられる。たとえば、これまで歴史的にこうであったからといって、今後もそうだとはいえない。しかし、そうであろうと仮定して対処することが、統整的(regulative)な理性の使用である。これはあくまで仮定であるが、このような指標をもって進むのと、ただやみくもに進むのとは異なる。
 わかりやすくいうと、理性を構成的に使用するとは、ジャコバン主義者(ロベスピエール)が典型的であるように、理性にもとづいて社会を暴力的に作り変えるような場合を意味する。それに対して、理性を統整的に使用するとは、無限に遠いものであろうと、人が指標に近づこうと努めるような場合を意味する。たとえば、カントがいう世界共和国は、それに向かって人々が漸進すべき指標としての、統整的概念なのである。もちろん、それは仮象であるが、しかし、それなくしてはやっていけないという意味で、超越論的な仮象である。統整的理念の声は小さい。しかし、その声は、現実に実現されるまでは、けっしてやまないのである。
 「世界共和国」とは交換様式Dが実現されるような社会である。それが完全に実現されることはない。しかし、それは、われわれが徐々に近づくべき指標としてあり続ける。その意味で、世界共和国は統整的理念なのである。その一方で、カントは、漸進的な実現可能な具体案を考えていた。彼は世界政府のようなものを最初から作ることに反対であった。なぜなら、それは巨大な世界政府(帝国)を作ることになってしまうからだ。カントが構想したのは諸国家連邦である。それは、国家の揚棄を多数の国家のアソシエーションの形成に求めることである。それがはらむ問題については、第四部の最終章で検討する。
 ここで一言いっておく。今日、歴史の理念を嘲笑するポストモダニストの多くは、かつて「構成的理念」を信じたマルクス=レーニン主義者であり、そのような理念に傷ついて、理念一般を否定し、シニシズムやニヒリズムに逃げ込んだ者たちである。しかし、彼らが社会主義は幻想だ、大きな物語にすぎないといったところで、世界資本主義がもたらす悲惨な現実に生きている人たちにとっては、それではすまない。現実に一九八〇年代以後、世界資本主義の中心部でポストモダンな知識人が理念を嘲笑しているあいだに、周辺部や底辺部では、宗教的原理主義が広がった。少なくとも、そこには、資本主義と国家を越えようとする志向と実践が存在するからだ。もちろん、それは「神の国」を実現するどころか、聖職者=教会国家の支配に帰着するほかない。だが、先進資本主義国の知識人にそれを嗤う資格はない。」柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015. pp.372-374.

  資本のもたらす矛盾を克服するものとして国家が構想され、社会主義国家も含む実験が失敗し、その国家を超えるものとして宗教的原理主義のようなものが夢想され、これを押さえつけるように、一気にグローバル資本主義の市場原理になだれ込む。21世紀のはじめに起きていることがそういう方向だとしたら、日本政府がいまやっている「国家への回帰」路線は完全に時代錯誤だろう。

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経済学者は何をしているのか?無責任な人はアメリカにもいる。

2015-05-23 19:35:52 | 日記
A.経済学者の判断は科学的といえるか?
 経済学は20世紀に「社会科学」としての飛躍的な発展を遂げた、ということになっている。一昔前までは、大学で教えられる経済学には新古典派と呼ばれる流れを受けた近代経済学と、マルクスの「資本論」をベースにしたマルクス経済学がそれぞれ「科学」を称して並び立っていた。しかし、20世紀の末期に東側の社会主義体制が崩壊して、なぜかマルクス経済学の権威も衰微し、少なくとも通常経済学者を名のる人々の多くは、マルクス経済学を過去のものとして、もっぱら現実の経済現象を近代経済学の土台の上で分析し、経済政策への提言および、エコノミストの養成に力を注いできた。しかし、その説くところは一つではなく、なかでも戦後アメリカで主流となった新古典派自由主義から出たネオリベ派・リフレ派などに対抗して、イギリスのケインズ理論は今でも大きな影響を与えている。ジョーン・ロビンソンという女性経済学者は、その有力な理論家として知られる。

「英国の経済学者ジョーン・ロビンソン(1903~83)は「経済学を学ぶ目的は、経済問題について出来合いの答えを得ることではなく、経済学者・エコノミストにだまされないための方法を学ぶことだ」と述べたことがある。
 格好の事例が目の前にある。2015年1~3月期の国内総生産(GDP)統計が20日に発表された。実質GDP成長率は年率換算2.4%に上がったものの、14年度の成長率はマイナス1%にとどまった。
 これに対して、消費税増税を強力に推進してきたある民間エコノミストは、「消費税率引き上げ前の14年1月時点において、政府、日本銀行、民間エコノミストのいずれもプラス成長を見込んでいた」という。これは事実に反する。少数ながら、消費税引き上げの影響を憂慮していた経済学者、エコノミストも存在したからだ。
 基礎的な経済学によれば、増税は景気を落ち込ませる。現在は金融緩和を同時に行っているから、景気はそれほど落ち込まないことはありうる。もっとも、今回の消費税増税時には増税しても景気は落ち込まず、むしろ社会保障が充実して回復するという意見すらあった。なぜ、基本が無視されたのか。
 経済学者、エコノミストたちにだまされないため、市民には自己防衛の手段が必要だ。こういう発言をすると、すべての経済学が間違いだという極論に陥りがちだ。しかし増税の例のように、基礎的な経済学は役に立つ。経済学を知れば、それとは違うことをいう人を見分けられる。
 実をいうとロビンソンが唱えた経済学にはかなり怪しいところもある。しかし、本人の意図を越えてロビンソンの言葉は不朽の名言である。(AS)」朝日新聞2015年5月23日朝刊12面「経済気象台」より。

  参考までに、ジョーン・ロビンソン(Joan Violet Robinson, 1903年10月 - 1983年8月)の経歴は、ピエロ・スラッファの影響を受けて、不完全競争の理論を確立した。また、1931年に結成されたケインズ・サーカスではその中心メンバーとして活躍。その後、マルクス経済学も研究の対象とし、剰余価値のアプローチから1933年にJ・M・ケインズに先立って有効需要の原理を発見したミハウ・カレツキの影響を強く受けている。ケインズの一般理論発表後はケインズ理論の動学化を研究し、アメリカのP・サミュエルソン、R・ソローらと論争を繰り広げた。また、カレツキをはじめとするマルクス経済学者のケインズ理論解釈に評価を与えた一方で、アメリカで主流となったIS-LM分析や新古典派理論には懐疑的であった。アメリカで発展したサミュエルソン等いわゆる「ケインジアン」たちの理論が、政策上の利便性を求めて本来のケインズやサーカスの理論的前提条件を安易に曲げてしまったことで、かえって現実世界における理論的妥当性を失ってしまったことを激しく非難、彼らを「バスタード・ケインジアンズ」(偽ケインジ アンども)と吐き捨てている。晩年はマオイストとなり中国の毛沢東による共産革命を賛美した。(Wikipedia等参照)
 それはともかく、日本のGDPの数字をどう読むか、「科学」は事実判断をデータによって確認しなければならないが、同時に価値判断という厄介なものを無視できない。経済現象は自然現象のように規則性をもっているのだが、それをどのように解釈するか、という点で価値判断がまぎれこむ。いわば、数字はひとつの結論を導かない。経済学者はそのときどきの経済現象を、専門家として読み解く責任があるのだが、そこに政治的な思惑や自己の利害が結論をゆがめる可能性が常にある。
 もうひとつ、同じ新聞の前日の「クルーグマンコラム」は「ブッシュ・ワールド 過ちを認めないのか」と題して、NYタイムスに載った文章の抄訳があった。クルーグマンも高名なノーベル賞経済学者である。

「(米大統領選の共和党有力候補とされる)ジェブ・ブッシュ氏が、過去の論争について語るのをやめたがっている。理由はおわかりだろう。語るのをやめたい話を幾つも抱えているのだ。でも、その望みを尊重するのはやめておこう。最近の歴史を学べば多くのことがわかるし、政治家たちが歴史にどう対応するのかを見ると、もっと多くを知ることができるのだから。
 (中略)
 ところで今年に入ってブッシュ氏は、外交政策の上級顧問のリストを発表した。イラクでの惨事をはじめとする大失敗で、極めて重要な役割を果たした人たちの紳士録だった。
 まじめにリストを見てみると、有名人が並んでいる。米国は解放者として歓迎されるだろう、戦争のコストはほとんどないだろう、と主張したポール・ウォルフォウイッツ氏。ハリケーン「カトリーナ」の発生時に国土安全保障省長官をつとめながら、米ニューオーリンズのコンベンションセンターに何千もの人々が食べ物も水もなく取り残されたことを知らなかったマイケル・チャートフ氏。そんな人たちだ。
 要するに「ブッシュ・ワールド」では、壊滅的に失敗した政策で中心的な役割を果たしても、未来の影響力が奪われるわけではないのだ。(中略)イラクはブッシュ家にとって特別な問題だ。彼らには、過ちを決して認めない、ひどい働きをしたとしても忠実な家臣は守る、という歴史がある。」2015年5月22日「朝日新聞」朝刊15面オピニオン欄。

 迂闊にも次の米大統領候補として、ブッシュ家のジョージの次男ジェブがあがっていることを初めて知った。ぼくらは強力な「アメリカ」の意向と、それに従属する日本の安倍政権を批判したくなるのだが、こうしてみると「アメリカ」といっても、市場原理と新自由主義を錦の御旗とする共和党的保守思想(ブッシュ家につながる人々はこれを政治の正義と見ているのだろうが)と、これとは異なった民主党的リベラリズムでは相当に色合いが異なることを知るべきだろう。



B.交換様式Dとは?
 ぼくらが学校で習う世界史は、さまざまな歴史的事実をただその時その場でこういうことが起こったと教えられて、ピューリタン革命は何年、フランス革命は何年と記憶して、ふ~んそうだったのかあ、と一応理解はするものの、それらがなぜどういう文脈で説明されるのかについて、考える暇もなく受験勉強しているに過ぎない。

「私は先に、交換様式Dが普遍宗教としてあらわれたこと、それゆえ、社会運動もまた宗教の形態をとってあらわれたということを述べた。これは古代や中世だけではなく、近代においても同じである。たとえば、最初のブルジョア革命というべきものは、イギリスにおいて、ピューリタン革命(一六四八年)として起こった。つまり、それはブルジョアではない階層による社会運動として、しかも、宗教的な運動として開始されたのである。なかでも重要なのは、水平派(Levellers)と呼ばれる党派である。彼らは資本主義的経済の拡大の中で、没落しつつあった独立小商品生産者の階級を代表していた。その点で、19世紀のアナーキストと似たところがある。さらに、開拓派(Diggers)となると、農村のプロレタリアを代表して、明瞭に共産主義的であった。しかし、彼らの主張は「至福千年」という宗教理念として語られたのである。
 このような急進的な党派は絶対王政を倒す過程までは大きな役割を果たしたが、まもなくクロムウェルの政権によって排除されてしまった。だが、後者も一六六〇年の王政復古によって崩壊し、さらに、いわゆる名誉革命(一六八八年)において、立憲君主制が確立された。この時点で、イギリスのブルジョア革命は完結したといってよい。だが、ピューリタン革命にあった社会主義的な要素はその後にもあらわれた。たとえば、名誉革命のあと、ジョン・ベラーズは貧困問題を解決するために、労働紙幣や交換銀行、職能組合運動を提唱した。彼はオーウェンやプルードンの先駆者であったといえる。だが、ベラーズはクエーカー教徒であり、彼の社会主義は宗教と切り離せなかった。
 フランス革命(一七八九年)においては、ピューリタン革命のような宗教的な色調はない。しかし、一九世紀以後も、社会主義的運動はいつも宗教的な文脈と結びつけられていたのである。たとえば、サン=シモンの社会主義は濃厚にキリスト教的な色彩を帯びていた。のみならず、一般に、社会主義者の間では、イエスは社会主義者であり、原始キリスト教団はコミュニズムであると考えられていた。
 一八四八年の革命においても、宗教的な社会主義はまだ有力であった。しかし、それ以後、社会主義とキリスト教の結びつきが無くなった。一つの原因は、一八四八年以後、国家に主導された産業資本主義の発展が労働力の商品化とともに、社会を根底から変えていったことにある。それは、それ以前の社会で機能していた宗教的社会主義を無効化したのである。もう一つの原因は、プルードンやマルクスが登場したことである。
 宗教的な社会主義が優勢であった一八四〇年代に、プルードンは社会主義をまったく新たな観点から考えた。彼は「科学的社会主義」を唱えた最初の人物である。それは社会主義を、宗教的な愛や倫理ではなく、「経済学」にもとづかせるものであった。彼は、労働力商品にもとづく資本主義経済を、国家による再分配を通した平等化によってではなく、労働者の互酬的な交換関係を作ることによって揚棄しようとした。普遍宗教はまだ存在しない交換様式Dを開示した、と私は述べた。しかし、プルードンは、交換様式Dを産業資本主義の中に実現する可能性を、もはや宗教にではなく、文字通り交換様式の実現、すなわち「経済学」に見出したのである。
 プルードン以後、社会主義者は宗教を否定するようになった。そのため、一九世紀末には、社会主義と宗教のつながりは消滅してしまった。「科学的社会主義」を唱えたエンゲルスとその弟子カウツキーが、あらためて、社会主義と宗教的運動のつながりを回復しようとしたほどに。しかし、社会主義と普遍宗教の関係は複雑である。交換様式Dは最初に、普遍宗教というかたちであらわれる。それゆえ、社会主義にとって普遍宗教は欠くべからざる基盤である。だが、宗教というかたちをとるかぎり、それは教会=国家的なシステムに回収されてしまわざるをえない。過去においても、現在においても、宗教はそのようになっている。したがって、宗教を否定しなければ、社会主義は実現されない。けれども、宗教を否定することによって、そもそも宗教としてしか開示されなかった「倫理」を失うことになってはならない。」柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015. pp.364-367. 

 西欧の社会主義という運動が、普遍宗教を基盤としてある時期まで、人々の情熱を掻き立ててきたということは、知らないわけではない。しかし、それがある段階からキリスト教的文脈を捨てて、世俗化するなかで、倫理・道徳法則として変容する理由をまじめに理解したとはいえない。いや、あえていえば、19世紀に起こったさまざまな社会現象を、「近代化」としてひとくくりにする際に、自分たちに都合の良い「文明の進歩」という物語に、安易に乗せてしまったのではないか。とくに、日本の場合、普遍宗教としてのキリスト教を精神的に拒否していたために、この傾向は著しく技術的なものになったのではないか?

 「私の考えでは、プルードンに先立って、宗教を批判しつつ、なお且つ宗教の倫理的核心すなわち交換様式Dを救出する課題を追求した思想家がいる。カントである。彼は、「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」という格率を普遍的な道徳法則であると考えた。それが実現された状態が「目的の国」である。カントは次のようにいう。《目的の国では、いっさいのものは価格をもつか、さもなければ尊厳をもつか、二つのうちいずれかである。価格をもつものは、何かほかの等価物で置き換えられ得るが、これに反しあらゆる価格を超えているもの、すなわち値のないもの、従ってまた等価物を絶対に許さないものは尊厳を具有する》。
 他者を「目的として扱う」とは、他者を自由な存在として扱うということであり、それは他者の尊厳、すなわち、代替しえない単独性を認めることである。自分が自由な存在であることが、他者を手段にしてしまうことであってはならない。すなわち、カントが普遍的な道徳法則として見出したのは、まさに自由の相互性(互酬性)なのである。それこそ交換様式Dである。これが普遍宗教によって開示されたことは確かである。しかし、現実には、教会は交換様式Bのためのシステムと化している。そこで、カントがとったのは、一方で、宗教を徹底的に否定するとともに、他方で、そこにある道徳性を救出することであった。
 一方で、カントは、教会あるいは国家・共同体の支配装置と化した宗教を否定した。《ツングース族のシャーマンから、教会や国家を同時に治めるヨーロッパの高位聖職者にいたるまで、……その原理に隔たりがあるわけではない》。他方で、カントは、宗教を、それが普遍的な道徳法則を開示する限りにおいて肯定した。彼の考えでは、道徳法則は宗教によって開示されたとはいえ、本来“内なる”ものである。つまり、道徳法則は理性の中にある。しかし、それはもともと“内なる”ものではない。われわれの考えでは、それは“外なる”交換様式Dなのである。交換様式Dは、普遍宗教を通して開示されたがゆえに宗教に由来するようにみえるが、実際には、交換様式BとCによって抑圧された交換様式Aの高次元での回復にほかならない。そうである限りで、宗教も普遍宗教たりえたのである。
 では、なぜ自由の相互性が「内なる義務」としてあらわれるのか。たとえば、フロイトは、カントがいう義務は「父」に由来する超自我にすぎないと述べた。そして、超自我は内面化された社会の規範である、と。しかし、自由の相互性という義務は、そのようなものではありえない。といっても、フロイトの理論を斥ける必要はない。自由の相互性がなぜ内なる「義務」として執拗に迫ってくるのかを合理的に説明するためには、フロイトが「抑圧されたものの回帰」と呼んだ見方が必要なのである。要するに、カントがいう「内なる義務」は、抑圧された交換様式Aが意識において脅迫的に回帰してくることから生じるのである。
 カントがいう道徳法則は、通常、たんに主観的な道徳の問題として見られている。しかし、これが社会的関係にかかわることは明白である。たとえば、資本主義経済における資本―賃労働の関係は、資本家が労働者をたんなる手段(労働力商品)として扱うことによって成り立っている。そうであるかぎり、人間の「尊厳」は失われざるをえない。ゆえに、カントがいう道徳法則は、賃労働そのもの、資本制的生産関係そのものの揚棄を含意するのである。
カントがそのようなことを考えた背景には、当時のドイツ、特にカントがいた都市ケーニヒスベルクにおいて、それまで職人的な労働者あるいは単純商品生産者が中心であったところに、商資本による資本主義的生産が始まりかけていたという状況がある。そこで、カントは、商人資本の支配を斥けた小生産者たちの協同組合(アソシエーション)を考えた。それゆえ、新カント派哲学者ヘルマン・コーヘンは、カントを「ドイツ初の真正社会主義者」と呼んだのである。
もちろん、このような社会主義には歴史的な限界がある。資本制生産が始まると、こうした独立小生産の連合は破れるほかなく、資本―賃労働という両極に分解していったからだ。とはいえ、カントは、それ以後に出現する社会主義(アソシエーショニズム)の核心をつかんでいたということができる。社会主義とは互酬的交換を高次元で回復することにある。それは、分配的正義、つまり、再分配によって富の格差を解消することではなく、そもそも富の格差が生じないような交換的正義を実現することである。カントがそれを「義務」とみなしたとき、互酬的交換の回復が、人々の恣意的な願望ではなく、「抑圧されたものの回帰」として、一種の強迫的な理念として到来することを把握していたのである。」柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015. pp.367-370.

アソシエ-ショニズムを社会主義と同一視できるかは、ぼくにはまだすっきりと理解はできない。だが、ケーニヒスベルクでカントが考えていたことは、資本=国家、あるいは資本=ネーション=ステートの根柢にある人間のあり方に疑問をもち、これに互酬的交換を回復するというアイディアが意味をもつ、ということは示唆に富む、と思う。
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