A.就活のいま
先日、就職活動中の4年生が集まるゼミで、学生に話を聞いた。昨年までは、この時期、就活が山場を過ぎぼちぼち内定をもらって就活を終わる学生がいる一方で、年初めから続けた就活にもかかわらず、軒並み断られて疲れ切った学生が暗い顔をしていた。しかし、今年は就活の開始が3年生最後の3月からになり、短期決戦であるうえに大手企業が新卒採用を拡大する動きに出て、これまでとは違う学生の売り手市場だといわれ始めた。経団連と大学の口約束としては、8月初日まで公式内定は出さないということで、さらに暑い夏まで就活で走る学生が多くなるが、実態はすでにとりたい学生確保の動きはすすんでいる。確かにぼくのゼミでも、公務員や教員志望は別として、何人かはもう内定を決めて就活終了もいるし、友人と比べてうまくいかないと焦りを感じている学生もいる。
今日の朝日新聞に主要100社の2016年春の採用計画調査の結果が載っていた。
「積極採用 動く企業:主要100社 16年春の新卒採用計画 「説明会増やす」58社リクルーターを活用
企業の採用意欲や人手不足感は、様々な場面で強まっている。JR東海は、27年開業をめざすリニア中央新幹線の建設要員の確保などのため、今春の595人から来春は約630人に増やす。三井不動産は、オフィスや商業施設の管理力を一段と高めるため、来春から若干名、初めて技術系社員を新卒採用する。
「企業の求人意欲の高まりで、特に大卒以上の女性が売り手市場になっていると感じる」(日産自動車)との見方も。資生堂は、総合職の採用を約1.5倍に増やす。店頭で接客にあたるビューティコンサルタントも、来春からは販売子会社が契約社員ではなく、11年ぶりに正社員で採用。採用規模も100人程度から約500人に増やす。
各社が一斉に採用増に動くなか、学生にいかに目を向けてもらうかの取り組みも強まる。会社説明会を前年より「増やす」のは、58社に上った。「売り手市場の中で優秀な学生を確保するため」(鹿島)、「一人でも多くの学生との接点を増やすため」(日本ガイシ)だ。「地方都市での実施を増やした」(富士通)という動きもある。
リクルーター制度を活用する動きも広がっており、7社が「13年度以降に導入(復活)」と答えた。ヤマト運輸は「学生の入社動機を高めるため」と狙いを説明。すかいらーくは以前から制度があるが、今年からエリアマネジャーを各店のアルバイト学生向けリクルーターに任命。「就職先としての当社の魅力を語り、選考に誘導する取り組みを始めた」という。大成建設は全国の支店にリクルーターを置き、各地の学生をフォローしている。
「採用とは無関係」との位置づけで実施されるインターンシップ(就業体験)の参加学生が入社する例も少なくない。15年春入社の新人のうち、結果的に自社のインターン経験者が占めた割合を尋ねたところ、16社が10%以上とした。うち8社は20%以上、50%以上も1社あった。
ただ、「売り手市場になったと感じるが、すべての学生にとってそうとは言えない」(NTT西日本)との指摘も。リクルートキャリア就職みらい研究所の岡崎仁美所長は「企業の採用活動は活発化している。すでに内々定を得た学生もいるが、求める基準を緩めてまで採用しない企業も多く、チャンスをものにできるかどうかは学生次第」とみる。(細見るい、吉川啓一郎)」『朝日新聞』2015年5月31日朝刊6面
「すべての学生にとってそうとはいえない」ではなく、「多くの学生にとってそうとはいえない」のが現実だと思う。なにしろ「主要100社」が何人の新卒学生を採用するつもりか、というお話である。データを見ると、100社のうち4大卒採用数の最大は銀行「みずほFG」(グループも含む採用数)の1920名(ただし短大校卒を含む)、小売大手「イオン」の1500人(前年実績800・技術系を含む)、「ファーストリテイリング」は約1200人、これには短大・高卒も含むが、前年は900うち女子数は無回答。少ない方をみると、昨年10名近く採用した「ヤフー」「ベネッセコーポレーション」などは採用未定。「日本マクドナルド」なども業績が悪いのか昨年96名(うち女子50)だったのが今年は採用未定?不振の「シャープ」や「任天堂」、「大日本印刷」「伊藤忠商事」なども昨年は採用していたのに「未定」。調子のよい企業と悪い企業の差が大きいが、「採用拡大・売り手市場」などといっても100社全部合わせても、2万人ほど。毎年の大学新卒者は約70万人とすると、就活に参入する学生がざっと80%としても56万人。このうち「大手有名企業100社」の正社員に採用されるのは3.6%でしかない。2万人くらいの採用は世間の考える一流大学、東大・京大・早慶だけですぐ埋まってしまう計算である。中堅私立大学の就活生がそこに、もぐりこめる余地など初めからないことになる。
しかし、ぼくは学生に言うのだが、世の中はそんな単純ではない。まず企業の採用担当者の考えていることは、受験業界的偏差値とは別の基準である。さらに大学での成績や学力とはほとんど関係がない。実際、ぼくもゼミの学生を長い間見てきたが、知的な関心と思考力や意欲で積極性がある学生は、就活もうまくいきそうだが、むしろ厳しい企業社会を嫌って普通の就職をしない傾向がある。逆にどうみても勉強が嫌いで、ものを考えていると頭が痛くなりそうな体育会系素朴青年は、面接で元気があって評価されるのでたいてい早々に内定をもらう。一番決まらないのが、まじめで自分に自信がもてなくて、嘘でも自己主張する勇気のないタイプである。能力も意欲もないわけではないのに、周りに気を使って誰かが助けてくれるのを密かに待っている。これでは面接で落とされる。要するに企業が大学新卒学生に求める欲しい人材とは、知識よりは意欲、冷静な判断力よりは人当たりの良いコミュニケーション力、独創的な自己主張よりは空気を読む親和力、といった従順な賢さなのだ。
そんなものに振り回されて若い時代を深夜まで働き、精神をすり減らす価値はない。企業は従業員の幸福のためにやっているのではなく、株主の利益のためにやっているにすぎない。とはいっても、それで疲れ切った就活生が蘇るわけではないから、ま、頑張ってねというしかない。
B.宇野弘蔵
いまはもう大学の経済学部に「マルクス経済学」を謳う科目を置いているところはほとんどないと思うが、ぼくの学生の頃は、経済学の科目には題名で「マル経」か「近経」かの区別があって、学問上の立場はそのまま政治的イデオロギー的にも別々だと思われていた。しかし、少し勉強してみるとそんな単純でもなく、いちおう『資本論』になにが書いてあるかぐらいは、「近経」の学生でも知っているし、新古典派の理論がなにをやっているかは「マル経」でも知っているんだろうと、経済学専攻ではないぼくは思っていた(どうもそうでもなかったみたいだが)。とにかく宇野弘蔵という名前と三段階論はぼくでも知っていた。
「このような『資本論』と現実の政治経済とのズレは、マルクス主義者を悩ませた。その結果、『資本論』を歴史的な仕事として“発展”させる者、つまり事実上それを放棄する者が出てきた。その中で、私が注目するのは、『資本論』を保持しつつ、このズレを解決しようとした宇野弘蔵である。宇野は、マルクスが『資本論』で「純粋資本主義」を想定したのだと考えた。むろん純粋資本主義がイギリスに実在したわけではなく、また、将来において実現されるものでもない。ただ、マルクスがいた時代のイギリスの資本主義は、自由主義的であり、相対的に国家を捨象して、そのメカニズムを考えることができたという意味で、純粋資本主義に近いものであったといえる。とはいえ、宇野がいう「純粋資本主義」は理論的なものである。彼は『資本論』が、他の要素をすべてカッコに入れ、商品交換が貫徹された場合に資本制経済がどのように働くかを理論的に考察したものだと考えたのである。したがって、『資本論』は、資本制経済が存在するかぎり、特に変更する必要のない理論である。
そのように『資本論』を見る一方で、宇野は、さまざまな要素を含んだ現実の社会構成体では、国家が経済に関与するのであり、それが「経済政策」としてあらわれる。そして、それが資本主義の歴史的な段階を形成すると考えた。彼のいう段階は、重商主義、自由主義、帝国主義である。さらに、宇野は、第一次大戦とロシア革命以後の段階を帝国主義とは異質な段階だと考えた。それは、国家が、社会主義的あるいはケインズ主義的な政策をとるにいたった段階である。一般的に、それは後期資本主義(late capitalism)と呼ばれているが、フォーディズムといっても、福祉国家資本主義といってもかまわない。ちなみに、宇野理論を受け継いだロバート・アルブリトンは、この段階をコンシューマリズムと名づけている。
私の考えでは、こうした諸段階は、それぞれ「世界商品」と呼ぶべき機軸商品の変化によっても特徴づけられる。重商主義段階は羊毛工業、自由主義段階は綿工業、帝国主義段階は重工業、後期資本主義段階は、耐久消費財(車と電気製品)である。後期資本主義段階は、一九八〇年代から進行してきた新段階――ここではいわば「情報」が世界商品だといってよい――にとってかわられる。この段階をどう名づけるべきかについては、この後に論じる
もちろん、このような発展段階の考察は、マルクス主義者の間ではありふれている。彼らは、経済的下部構造あるいは生産諸力の発展が、政治的・文化的な上部構造をどう変えてきたかを見てきた。その観点から見れば、商人資本は国家の保護を必要とするがゆえに、重商主義政策を必要とし、産業資本はそれを必要としないがゆえに、自由主義政策をとる。さらに、帝国主義の段階では、海外への資本の輸出が生じるために、国家の軍事的な介入を必要とする。政治的なレベルはそのように経済的レベルによって規定されている。とすれば、そのような変化は、資本主義経済そのものの変容から生じるということになる。そして、それを見るためには、『資本論』を理論的に“発展”させなければならないということになる。
しかし、宇野弘蔵の「段階論」的把握は、それらとは違っている。彼は資本主義の発展段階を国家の経済政策のレベルで見ようとした。そのとき、彼は『資本論』ではカッコに入れられていた国家を再導入したのである。しかも、『資本論』がとらえた「純粋資本主義」の原理を変更することなしに。経済政策から資本主義の発展段階を見るという見方は、国家を資本とは別の能動的な主体として導入することである。国家はたんに資本主義経済の変化によって規定されてきたのではない。
たとえば、「重商主義」段階で、国家は商人たちの背後に隠れていたのではない。国家が交易を主導していたのだ。この点では、古代帝国の時代からそうであった。遠隔地交易は、国家の手でなされたからである。いわゆる「自由主義」段階ではどうか。そこでは、国家は何もしないどころではない。イギリスの自由主義を保証していたのは、「七つの海」を支配する海軍力であった。そもそも、「自由主義」とは経済的且つ軍事的に他を圧倒している国家がとる政策である。他の国は、保護主義(重商主義)的な政策をとり、産業資本を育成し強化しようとする。さもなければ、植民地状態におかれたのである。帝国主義の段階では、国家はもっとあからさまに前面に立っている。さらに、ファシズム、福祉国家資本主義でも同様だ。現実の資本主義経済の歴史は、国家という次元を捨象して見ることはできないのである。しかし、宇野は自分を経済学者としての立場に限定し、国家に関してはごく控えめにしか語らなかった。そのため、結局、彼の段階論は旧来の議論の中に組み込まれてしまった。」
柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015. pp.430-433
Wikipediaによると宇野 弘蔵(1897年11月12日 - 1977年2月22日)の経歴概略はこういうものである。
岡山県倉敷市に生まれる。旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)、第六高等学校(現・岡山大学)を経て、1921年東京帝国大学経済学部卒業。1954年経済学博士(東京大学)。1921年大原社会問題研究所入所。ドイツ留学を経て、1924年東北帝国大学法文学部経済学第三講座(経済政策論)助教授、同大学在職中の1938年に人民戦線事件に連座し逮捕されるも、後に無罪となる。1941年東北帝国大を辞職し、財団法人日本貿易振興協会(現・独立行政法人日本貿易振興機構)日本貿易研究所入所。1944年三菱経済研究所入所。この間1946年に東北帝国大学講師を務める。1947年東京帝国大学社会科学研究所教授、1949年同所長、1958年東京大学を定年退官し、法政大学社会学部教授に就任、1968年まで務めた。1954年12月 東京大学 経済学博士 論文の題は「恐慌論 」。1977年、肺炎により神奈川県藤沢市鵠沼の自宅で死去。
『資本論』に基づく経済研究を原理論、段階論、現状分析の3つに分けるという構成がとりわけよく知られ、唯物史観や社会主義イデオロギーから切り離した経済研究を確立した。ちなみに宇野自身は自著で「自分をマルクス主義者とはもちろんのこと、広い意味での社会主義者とも考えたことはありません」(『資本論の世界』)と語っている。妻は、統計学者で東京帝国大学教授、日本放送協会会長、大原社会問題研究所所長等を歴任した高野岩三郎の娘。
宇野弘蔵がもう少し生まれるのが遅くて、帝大アカデミズムの経済学徒として、先端の理論研究をドイツではなくアメリカで磨いたとしたら、都留重人や宇沢弘文の先達になったはずだと思う。彼は研究者として非常に優秀であったれればこそ、19世紀に書かれた『資本論』を読み込んで、それが現実の20世紀の歴史過程とどういう齟齬を来すかを考えた。いわゆる「マルクス主義者」でも「社会主義者」でもない宇野弘蔵こそが、運動家や政治家には見えないものを見ていた。でも、経済学理論に自分の仕事を限定したがゆえに、国家という厄介なものを捨象することになった。
先日、就職活動中の4年生が集まるゼミで、学生に話を聞いた。昨年までは、この時期、就活が山場を過ぎぼちぼち内定をもらって就活を終わる学生がいる一方で、年初めから続けた就活にもかかわらず、軒並み断られて疲れ切った学生が暗い顔をしていた。しかし、今年は就活の開始が3年生最後の3月からになり、短期決戦であるうえに大手企業が新卒採用を拡大する動きに出て、これまでとは違う学生の売り手市場だといわれ始めた。経団連と大学の口約束としては、8月初日まで公式内定は出さないということで、さらに暑い夏まで就活で走る学生が多くなるが、実態はすでにとりたい学生確保の動きはすすんでいる。確かにぼくのゼミでも、公務員や教員志望は別として、何人かはもう内定を決めて就活終了もいるし、友人と比べてうまくいかないと焦りを感じている学生もいる。
今日の朝日新聞に主要100社の2016年春の採用計画調査の結果が載っていた。
「積極採用 動く企業:主要100社 16年春の新卒採用計画 「説明会増やす」58社リクルーターを活用
企業の採用意欲や人手不足感は、様々な場面で強まっている。JR東海は、27年開業をめざすリニア中央新幹線の建設要員の確保などのため、今春の595人から来春は約630人に増やす。三井不動産は、オフィスや商業施設の管理力を一段と高めるため、来春から若干名、初めて技術系社員を新卒採用する。
「企業の求人意欲の高まりで、特に大卒以上の女性が売り手市場になっていると感じる」(日産自動車)との見方も。資生堂は、総合職の採用を約1.5倍に増やす。店頭で接客にあたるビューティコンサルタントも、来春からは販売子会社が契約社員ではなく、11年ぶりに正社員で採用。採用規模も100人程度から約500人に増やす。
各社が一斉に採用増に動くなか、学生にいかに目を向けてもらうかの取り組みも強まる。会社説明会を前年より「増やす」のは、58社に上った。「売り手市場の中で優秀な学生を確保するため」(鹿島)、「一人でも多くの学生との接点を増やすため」(日本ガイシ)だ。「地方都市での実施を増やした」(富士通)という動きもある。
リクルーター制度を活用する動きも広がっており、7社が「13年度以降に導入(復活)」と答えた。ヤマト運輸は「学生の入社動機を高めるため」と狙いを説明。すかいらーくは以前から制度があるが、今年からエリアマネジャーを各店のアルバイト学生向けリクルーターに任命。「就職先としての当社の魅力を語り、選考に誘導する取り組みを始めた」という。大成建設は全国の支店にリクルーターを置き、各地の学生をフォローしている。
「採用とは無関係」との位置づけで実施されるインターンシップ(就業体験)の参加学生が入社する例も少なくない。15年春入社の新人のうち、結果的に自社のインターン経験者が占めた割合を尋ねたところ、16社が10%以上とした。うち8社は20%以上、50%以上も1社あった。
ただ、「売り手市場になったと感じるが、すべての学生にとってそうとは言えない」(NTT西日本)との指摘も。リクルートキャリア就職みらい研究所の岡崎仁美所長は「企業の採用活動は活発化している。すでに内々定を得た学生もいるが、求める基準を緩めてまで採用しない企業も多く、チャンスをものにできるかどうかは学生次第」とみる。(細見るい、吉川啓一郎)」『朝日新聞』2015年5月31日朝刊6面
「すべての学生にとってそうとはいえない」ではなく、「多くの学生にとってそうとはいえない」のが現実だと思う。なにしろ「主要100社」が何人の新卒学生を採用するつもりか、というお話である。データを見ると、100社のうち4大卒採用数の最大は銀行「みずほFG」(グループも含む採用数)の1920名(ただし短大校卒を含む)、小売大手「イオン」の1500人(前年実績800・技術系を含む)、「ファーストリテイリング」は約1200人、これには短大・高卒も含むが、前年は900うち女子数は無回答。少ない方をみると、昨年10名近く採用した「ヤフー」「ベネッセコーポレーション」などは採用未定。「日本マクドナルド」なども業績が悪いのか昨年96名(うち女子50)だったのが今年は採用未定?不振の「シャープ」や「任天堂」、「大日本印刷」「伊藤忠商事」なども昨年は採用していたのに「未定」。調子のよい企業と悪い企業の差が大きいが、「採用拡大・売り手市場」などといっても100社全部合わせても、2万人ほど。毎年の大学新卒者は約70万人とすると、就活に参入する学生がざっと80%としても56万人。このうち「大手有名企業100社」の正社員に採用されるのは3.6%でしかない。2万人くらいの採用は世間の考える一流大学、東大・京大・早慶だけですぐ埋まってしまう計算である。中堅私立大学の就活生がそこに、もぐりこめる余地など初めからないことになる。
しかし、ぼくは学生に言うのだが、世の中はそんな単純ではない。まず企業の採用担当者の考えていることは、受験業界的偏差値とは別の基準である。さらに大学での成績や学力とはほとんど関係がない。実際、ぼくもゼミの学生を長い間見てきたが、知的な関心と思考力や意欲で積極性がある学生は、就活もうまくいきそうだが、むしろ厳しい企業社会を嫌って普通の就職をしない傾向がある。逆にどうみても勉強が嫌いで、ものを考えていると頭が痛くなりそうな体育会系素朴青年は、面接で元気があって評価されるのでたいてい早々に内定をもらう。一番決まらないのが、まじめで自分に自信がもてなくて、嘘でも自己主張する勇気のないタイプである。能力も意欲もないわけではないのに、周りに気を使って誰かが助けてくれるのを密かに待っている。これでは面接で落とされる。要するに企業が大学新卒学生に求める欲しい人材とは、知識よりは意欲、冷静な判断力よりは人当たりの良いコミュニケーション力、独創的な自己主張よりは空気を読む親和力、といった従順な賢さなのだ。
そんなものに振り回されて若い時代を深夜まで働き、精神をすり減らす価値はない。企業は従業員の幸福のためにやっているのではなく、株主の利益のためにやっているにすぎない。とはいっても、それで疲れ切った就活生が蘇るわけではないから、ま、頑張ってねというしかない。
B.宇野弘蔵
いまはもう大学の経済学部に「マルクス経済学」を謳う科目を置いているところはほとんどないと思うが、ぼくの学生の頃は、経済学の科目には題名で「マル経」か「近経」かの区別があって、学問上の立場はそのまま政治的イデオロギー的にも別々だと思われていた。しかし、少し勉強してみるとそんな単純でもなく、いちおう『資本論』になにが書いてあるかぐらいは、「近経」の学生でも知っているし、新古典派の理論がなにをやっているかは「マル経」でも知っているんだろうと、経済学専攻ではないぼくは思っていた(どうもそうでもなかったみたいだが)。とにかく宇野弘蔵という名前と三段階論はぼくでも知っていた。
「このような『資本論』と現実の政治経済とのズレは、マルクス主義者を悩ませた。その結果、『資本論』を歴史的な仕事として“発展”させる者、つまり事実上それを放棄する者が出てきた。その中で、私が注目するのは、『資本論』を保持しつつ、このズレを解決しようとした宇野弘蔵である。宇野は、マルクスが『資本論』で「純粋資本主義」を想定したのだと考えた。むろん純粋資本主義がイギリスに実在したわけではなく、また、将来において実現されるものでもない。ただ、マルクスがいた時代のイギリスの資本主義は、自由主義的であり、相対的に国家を捨象して、そのメカニズムを考えることができたという意味で、純粋資本主義に近いものであったといえる。とはいえ、宇野がいう「純粋資本主義」は理論的なものである。彼は『資本論』が、他の要素をすべてカッコに入れ、商品交換が貫徹された場合に資本制経済がどのように働くかを理論的に考察したものだと考えたのである。したがって、『資本論』は、資本制経済が存在するかぎり、特に変更する必要のない理論である。
そのように『資本論』を見る一方で、宇野は、さまざまな要素を含んだ現実の社会構成体では、国家が経済に関与するのであり、それが「経済政策」としてあらわれる。そして、それが資本主義の歴史的な段階を形成すると考えた。彼のいう段階は、重商主義、自由主義、帝国主義である。さらに、宇野は、第一次大戦とロシア革命以後の段階を帝国主義とは異質な段階だと考えた。それは、国家が、社会主義的あるいはケインズ主義的な政策をとるにいたった段階である。一般的に、それは後期資本主義(late capitalism)と呼ばれているが、フォーディズムといっても、福祉国家資本主義といってもかまわない。ちなみに、宇野理論を受け継いだロバート・アルブリトンは、この段階をコンシューマリズムと名づけている。
私の考えでは、こうした諸段階は、それぞれ「世界商品」と呼ぶべき機軸商品の変化によっても特徴づけられる。重商主義段階は羊毛工業、自由主義段階は綿工業、帝国主義段階は重工業、後期資本主義段階は、耐久消費財(車と電気製品)である。後期資本主義段階は、一九八〇年代から進行してきた新段階――ここではいわば「情報」が世界商品だといってよい――にとってかわられる。この段階をどう名づけるべきかについては、この後に論じる
もちろん、このような発展段階の考察は、マルクス主義者の間ではありふれている。彼らは、経済的下部構造あるいは生産諸力の発展が、政治的・文化的な上部構造をどう変えてきたかを見てきた。その観点から見れば、商人資本は国家の保護を必要とするがゆえに、重商主義政策を必要とし、産業資本はそれを必要としないがゆえに、自由主義政策をとる。さらに、帝国主義の段階では、海外への資本の輸出が生じるために、国家の軍事的な介入を必要とする。政治的なレベルはそのように経済的レベルによって規定されている。とすれば、そのような変化は、資本主義経済そのものの変容から生じるということになる。そして、それを見るためには、『資本論』を理論的に“発展”させなければならないということになる。
しかし、宇野弘蔵の「段階論」的把握は、それらとは違っている。彼は資本主義の発展段階を国家の経済政策のレベルで見ようとした。そのとき、彼は『資本論』ではカッコに入れられていた国家を再導入したのである。しかも、『資本論』がとらえた「純粋資本主義」の原理を変更することなしに。経済政策から資本主義の発展段階を見るという見方は、国家を資本とは別の能動的な主体として導入することである。国家はたんに資本主義経済の変化によって規定されてきたのではない。
たとえば、「重商主義」段階で、国家は商人たちの背後に隠れていたのではない。国家が交易を主導していたのだ。この点では、古代帝国の時代からそうであった。遠隔地交易は、国家の手でなされたからである。いわゆる「自由主義」段階ではどうか。そこでは、国家は何もしないどころではない。イギリスの自由主義を保証していたのは、「七つの海」を支配する海軍力であった。そもそも、「自由主義」とは経済的且つ軍事的に他を圧倒している国家がとる政策である。他の国は、保護主義(重商主義)的な政策をとり、産業資本を育成し強化しようとする。さもなければ、植民地状態におかれたのである。帝国主義の段階では、国家はもっとあからさまに前面に立っている。さらに、ファシズム、福祉国家資本主義でも同様だ。現実の資本主義経済の歴史は、国家という次元を捨象して見ることはできないのである。しかし、宇野は自分を経済学者としての立場に限定し、国家に関してはごく控えめにしか語らなかった。そのため、結局、彼の段階論は旧来の議論の中に組み込まれてしまった。」
柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015. pp.430-433
Wikipediaによると宇野 弘蔵(1897年11月12日 - 1977年2月22日)の経歴概略はこういうものである。
岡山県倉敷市に生まれる。旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)、第六高等学校(現・岡山大学)を経て、1921年東京帝国大学経済学部卒業。1954年経済学博士(東京大学)。1921年大原社会問題研究所入所。ドイツ留学を経て、1924年東北帝国大学法文学部経済学第三講座(経済政策論)助教授、同大学在職中の1938年に人民戦線事件に連座し逮捕されるも、後に無罪となる。1941年東北帝国大を辞職し、財団法人日本貿易振興協会(現・独立行政法人日本貿易振興機構)日本貿易研究所入所。1944年三菱経済研究所入所。この間1946年に東北帝国大学講師を務める。1947年東京帝国大学社会科学研究所教授、1949年同所長、1958年東京大学を定年退官し、法政大学社会学部教授に就任、1968年まで務めた。1954年12月 東京大学 経済学博士 論文の題は「恐慌論 」。1977年、肺炎により神奈川県藤沢市鵠沼の自宅で死去。
『資本論』に基づく経済研究を原理論、段階論、現状分析の3つに分けるという構成がとりわけよく知られ、唯物史観や社会主義イデオロギーから切り離した経済研究を確立した。ちなみに宇野自身は自著で「自分をマルクス主義者とはもちろんのこと、広い意味での社会主義者とも考えたことはありません」(『資本論の世界』)と語っている。妻は、統計学者で東京帝国大学教授、日本放送協会会長、大原社会問題研究所所長等を歴任した高野岩三郎の娘。
宇野弘蔵がもう少し生まれるのが遅くて、帝大アカデミズムの経済学徒として、先端の理論研究をドイツではなくアメリカで磨いたとしたら、都留重人や宇沢弘文の先達になったはずだと思う。彼は研究者として非常に優秀であったれればこそ、19世紀に書かれた『資本論』を読み込んで、それが現実の20世紀の歴史過程とどういう齟齬を来すかを考えた。いわゆる「マルクス主義者」でも「社会主義者」でもない宇野弘蔵こそが、運動家や政治家には見えないものを見ていた。でも、経済学理論に自分の仕事を限定したがゆえに、国家という厄介なものを捨象することになった。