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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

1930年の日本の若者の流行 7 東北農村の窮乏が語られた  左翼への恨み

2021-06-30 16:20:27 | 日記
A.昭和一ケタ、過ぎてみれば特別な世代
 日本に共産党が最初にできたのが1922(大正11)年。この年に生まれた人、というのを調べたら、橋川文三、山田風太郎、瀬戸内寂聴、鶴見俊輔、丹波哲郎、中内功、石井好子、月岡夢路、小野田寛郎、中井英夫、藤原彰、平田清明、那珂太郎などとなっていた。ぼくが大学で教わった社会病理学の大橋薫先生も、この大正11年生まれだった。戦争が終わって大日本帝国が亡びた1945(昭和20)年には、満で23歳の若者だったことになる。大橋先生は琉球の石垣島で陸軍の将校をやっていて、終戦を迎えたという。非合法の共産党や無産政党が活動していた1930(昭和5)年には、まだ8歳で、まもなく左翼は徹底的に弾圧され、共産主義は危険なものとだけ記憶される。そしてこの世代は、戦争の激化の中で兵士となり命を落とす運命が待っていた。
 日本の当時の内務省が共産党をこんなに恐れたのは、関東大震災に続く経済恐慌で、日本経済の弱体化と社会不安が急速に広がり、これを背景にロシア革命で誕生したソ連とコミンテルンの世界革命戦略が、日本にも波及し国家の転覆を企む秘密結社などというものが現実味を帯びて広がっている、ということにその実態がわからないぶん、恐怖は大きかったのだ。そして、そこに加わっていたのが、アウトロー的アナーキストや明治以来の活動家だけではなく、国家のエリート、帝国大学に学ぶ優秀な若者たちだったことが、さらに当局者を驚愕させた。これはたいへんなことだ、根絶やしにしておかないと天皇制国家が危うくなる、と共産党員は全員逮捕し獄につなぐ。それが昭和のはじめ、治安維持法によって共産党が壊滅したあとも、左翼的な本を持っていただけで逮捕され、「アカ」は蛇蝎の如く嫌われ恐れられた。

 「時代は昭和恐慌のさなかであった。1929年10月、アメリカのウォール街「暗黒の木曜日」にはじまった世界恐慌の波は、第1次世界大戦後、慢性的不況にあった日本経済を呑みこんだ。
 世界経済は縮小再生産過程をたどった。工業生産指数は1929年を100とすると、33年には61.7に低下している。全世界で5、6千万人の失業者が発生した。
 日本にそれが波及したのは、1930年はじめ。金解禁による不況とのダブルパンチで、みるみる不況が深化した。商品市場、株式市場は大暴落。中小企業の連続倒産。労働者は首切り、賃金切り下げにあい、都会は失業者であふれた。
 農村においては、農業恐慌としてそれがあらわれ、キャベツ五十個の売上げで敷島(一つ15銭のタバコ)一つしか買えないという状態だった。恐慌の進行する中で、1931年34年と大凶作が東北、北海道を襲い、農村の窮乏状態は目もあてられぬほどだった。山形県のある村の調査では、15歳から24歳までの娘の四人に一人は売られ、四人に一人は女中や酌婦になり、村に残っていたのは半分以下だった。
 こうした経済情勢を背景に、労働争議、小作争議が激発した。それはしばしば、自然発生的に暴力事件をひきおこした。社会が全般的な危機の様相を呈していることは誰の目にも明らかだった。先に述べた、知識人の左傾には、こういう背景があったのである。資本主義の危機の深化—―革命情勢の成熟という判断が党外でもポピュラーなものになっていったことは、前に引用した杉森久英の『昭和史見たまま』がよく伝えている。
 恐慌の波が世界をおおっていた1930年代前半は、戦前の共産主義運動が迎えた最大のチャンスだった。すでに世界恐慌の一年前に、「資本主義第3期論」をとなえて資本主義の崩壊を予測していたスターリンは、1929年には、
「私は、アメリカに革命的危機が発展するのは、そう遠いことではないと考える。そして、アメリカに革命的危機が発展するときは、世界資本主義全体の終わりとなるだろう」とまでいっていた。こうした情勢分析をもとに、コミンテルンの各国支部は29年から30年にかけて、攻勢に出るよう指示された。ドイツでは、29年のメーデーにベルリンで二日間にわたってバリケードをきずき、警官隊と武力衝突を起こした。アメリカですら、30年3月に共産党が組織した失業反対デモは、六万人をニューヨークのユニオン広場に集め、警官隊と乱闘した。このとき、アメリカ共産党員たちは、堂々と”アメリカ政府打倒、革命的労働者政府樹立”のスローガンをかかげていた。アメリカ共産党によれば、来るべきアメリカ・ソビエト政府は、世界ソビエト連邦に加盟することになっていた、第一次大戦直後の時期のように、世界革命の夢が再び国際的に広まっていたのである。
 マルクスの分析どおり、社会の下部構造の矛盾から生まれた危機は、上部構造の変革を要求していた。それはまさに「このままではやっていけない」という空気が社会全体にみなぎりはじめたという意味で、革命的情勢の到来を意味していた。下部構造の矛盾は、まず上部構造のイデオロギーの部分に反映する。社会の安定期のイデオロギーは、「基本的にはこのままやっていけばよい」の一語に要約できる保守のイデオロギーである。危機の時代には、保守のイデオロギーはその存立基盤を失い、「このままではやっていけない」とする変革のイデオロギーは優勢を占める。
 このままではやっていけないとするなら、どうすればよいかについて、右から左まで、あるいは過激な、あるいは穏和な、さまざまの変革のイデオロギーが提出され、それぞれに政治的ヘゲモニーを握ろうと政治運動を展開する。政治的ヘゲモニーを握る手段として、左右の過激イデオロギー集団は物理的暴力をもって主たる手段と考え、穏和派はもっぱら支持者の頭数の多寡に従う政治力に頼ろうとする。そして、物理的にか政治的にか政治的ヘゲモニーを握った集団が、そのヘゲモニーの握り方の強さに応じて独占的にか政治的にか、社会の新しい方向づけをしていく。
 その時、過激な集団が政治的ヘゲモニーを握り、上部構造の根源的な変革をしてしまえば、それは革命と呼ばれる。左翼の用語法に従えば、左の過激集団の変革だけが革命で、右の過激集団によるものは反革命(カウンター・レボリューション)という名の革命になる。
 以上が、マルクスの分析した歴史展開の法則から、彼のズサンな階級分析の部分と、冷静な分析ではなく単なる希望的観測あるいは煽動の部分を洗い落としたものである。
 両大戦間の歴史はマルクスが分析したように展開したが、マルクスの希望的観測は裏切られた。つまり、世界恐慌がもたらした上部構造の危機状態において、勝利をおさめたのは右側の過激イデオロギーであって、左側のそれではなかった。各国で、ソビエトこそわが祖国と信ずる世界革命派は次々に政治的に敗退し、民族主義的右翼革新派が政治的ヘゲモニーを握っていく。1930年代の後半にいたって、敗北を認めたコミンテルンは、攻勢的世界革命運動を中止し、一転して、防衛的な反・反革命運動を展開する。これが人民戦線戦術で、右の民族主義的イデオロギーに対抗するため、自分たちも民族主義的要素を取り入れる。
 そうなると、そもそも国際プロレタリア主義—―反民族主義をその基礎に置いていたコミンテルンはその存在理由を失うだけでなく、各国の人民戦線運動を阻害するものとなるということで、自ら解散してしまう。かくして、コミンテルンの世界革命イデオロギーは、右側のイデオロギーに全面的に敗北したのである。
 日本における共産党の敗北はこの一典型をなしている。先に述べたような、恐慌のもたらした社会危機を背景として、この時期、右側からの変革イデオロギーが登場し、急速に社会的影響力を獲得していく。右翼革新イデオロギーは、とりわけ青年将校たちの心をとらえ、「農村の窮乏見るにたえず、支配層の腐敗聞くにたえず」と感じた彼らの運動が、曲折をへて軍部に政治のヘゲモニーをとらせるにいたったことはご承知のとおりである。
 もしこの時期に、青年将校たちの間に共産主義イデオロギーが浸透していたとしたらどうだろう。青年将校を抜きにして、兵士たちの間だけだったとしてもよい。
 ロシア革命の例をみるまでもなく、暴力革命は国家の暴力機構である軍隊を軍事的に制圧するか、内部から崩壊させるかしなければ成功しない。ロシア革命においては、兵士のソビエトが軍隊を政府の軍隊から革命の軍隊にかえ、武装した労働者と結合して革命の軍事力となったのである。社会が構造的危機に見舞われたときには、必ず軍部の内部にも動揺が起きる。その動揺を、レボリューションの側がつかむかカウンター・レボリューションの側がつかむかによって、革命の帰趨が決する。この時代に、すでに軍の内部にそうした動揺が存在していた。
「このころは全国いたるところで、頻々と小作争議がおこっていた。木曽川流域でも小作争議がおこり、この騒動は軍隊の出動で抑えたが、このとき、出動部隊の分隊長だった一人の下士官が日記をつけていた。それには『若し小隊長が農民に射撃を命じたら果たして自分は部下に射撃号令をかけることができたであろうか。自分もそうだが、、部下もその多くは小作農民の子弟である』といった意味のことが書かれてあったという。大岸中尉はこの話をしながら、社会の根本的政策をしなければ兵の教育はできない。軍隊は存立しえない――といったような趣旨を数々述べだてた」(末松太平『私の昭和史』)
 ここに記されたような軍人の動揺を吸収したのは、左のイデオロギーではなく、右のイデオロギーだった。この著者も、ここに登場する大岸中尉もニ・二六事件に関係した青年将校の一人である。一般には両極端と思われる右と左の過激イデオロギーは、ある点ではきわめて近かった。」立花隆『日本共産党の研究』上巻、講談社、1978.pp.392-396. 

 「当時の日本の社会は、基本的には農民社会だった。人口六千万人のうち半分の三千万人が農村人口。就労人口二千七百万人のうち、半分強の千四百万人が農民だった。これに対して、共産党がプロレタリアートとみなす近代的産業労働者は四百七十万人。農民の三分の一である。うち工場労働者は百八十万人。また労働組合に組織されていた労働者は三十五万人。うち、共産党系の全協に組織されていた労働者は最盛期で三万人。プロレタリアートの一パーセントにも満たなかった。就労者全体からみれば、0.1パーセントぐらいで、大海の一滴である。
 労働者の意識という面からみると、じつはこの数字以上に農民社会的なのである。それは日本の産業労働者が生まれたてで、その人自身の前身か、あるいは一代さかのぼれば、ほとんど全部が農民だったからである。明治中期の工場鉱山労働者は四十万人しかいなかった。それが百万を越えるのは明治四十二年である。労働者の大半は、いわば出稼ぎの農民とでもいうべき存在だったのである。不況で首を切られると、たいていの労働者は帰郷して農民に戻る。これが労働市場のバッファーとして働いたことが、日本資本主義の不況切り抜けに大いに役立ったということは史家がよく指摘するところである。
 こういう社会では、労働者になったからといって、すぐにプロレタリアートの階級意識にめざめるわけではない。当時の共産党の文献によく出てくるコミンテルンの受け売りの日本の社会構造の分析、革命戦略、戦術から抜け落ちているのは、日本社会独特の農民社会的体質である。
 こういう社会では、農民の心をとらえられるイデオロギーでなければ、強い社会的影響力を確保できない。そして、この点において、天皇制イデオロギー、前に述べた「民族の母斑のような歴史的国民意識における天皇制」の重みが意味を持ってくる。なぜなら、この意味における天皇とは、農耕社会における農耕神への土着宗教の祭司としての天皇であり、まさにそれゆえにこそ、最近世まで百パーセントの農耕社会でしかなかった日本人の意識に民族の母斑のように貼りつきえたのである。農民が絶対少数派になり、帰るべき「田舎」を持たない純粋都市住民がふえつつあるこれからの日本においては、「民族の母斑」が消えてしまう可能性があるとしても、本質的には農民社会でしかなかったこの時代の日本にあっては、その否定を第一の前提条件とする共産党イデオロギーは大衆の受け入れるところとならなかった。この点、右翼革新イデオロギーは、一方では天皇崇拝の立場に立ち、一方では農本主義の立場に立っていたのだから、日本的農耕社会の土着イデオロギーにコミットした社会変革思想としてよく農民(的国民)の心をとらえ、急速に影響力を確保していったと考えられるのではないだろうか。
  ( 中 略 )
 党の大衆化もできず、指導部は圧倒的にインテリ中心で、コミンテルンに頭が上がらないイデオロギー先行・現実無視主義者が多数を占めていた日本共産党では、たとえ、毛沢東のような考えの持ち主が現われても、日和見主義、民族主義的偏向、農民運動偏向といったレッテルを貼りつけられて、たちまち追い出されていたろう。
 戦前の共産党の活動は、だいたいにおいて現実から遊離していたのだが、なかんずくそれがひどかったのが、農民運動における党活動である。時代は二年ばかりずれるが、東北地方に党のオルグとして農民運動の指導に出かけた宮内勇は、当時の党と現実とのギャップをこう書き残している。
「作戦会議は、組合長と星野との間でもっぱら討論され、私はほとんど傍観していた。というより、この緊迫した農村の大衆行動を目の前にしながら私は全く無力であった。それは私の過去の知識とあまりにもかけはなれ、何もかもが判らないことだらけであったといった方がよい。二人のやりとりする言葉や方言さえ半分も吞み込めない。これでは『党のえらい人』も一介のピエロにすぎないと思ったとき私は今一度恥じ、もう一度深い反省に駆られるのであった。
 農民闘争社にいたころ、私はいくつかアジテーションの記事を書いた。『大衆行動をもって断固暴圧と戦え』と書いた。しかし、現地の闘争本部でまのあたり見る大衆行動は、それほど生易しいものではなかった。いつ警官隊に襲われるかもわからないという緊迫と不安の中で、ともかく苗を植え、それを育て、その収穫によって生活しなければならない農民大衆にとっては、なるべく被害を少なくすることこそ長期作戦の基本であった。暴圧をはね返すことより、暴圧を恐れる法が農民の本当の気持ちであった。
 また、私は党のオルグとして東京を出発するとき、東北地方に一人でも多くの党員を作ることを最大の念願とした。しかし、いあまかりに、この場で星野や組合長に入党を勧誘してみたところで、それが目の前の差し迫った闘争と一体何の関係があるだろうと考えたとき、私は、そんな話をこの場で持ち出す勇気を失ってしまった。
 東京では、党に入ること自体に意義があったし、党員のリストがふえることはすなわち党の拡大を意味した。しかしそれは労働者、農民の大衆闘争と必ずしも結びついたものではなかった。党のリストは、おおむね都市の革命的インテリゲンチャによって構成され、彼らは共産党という革命的秘密結社に加入することによって、労働者・農民の味方であるという自負をもち、自らの殉教性に対する生甲斐にみたされてはいたけれども、現実の労働者農民大衆の生活とはおよそ縁遠い存在であった。インテリの観念遊戯と評されても仕方のないものであった」(『ある時代の手記』)
 こうした現実からの遊離が、共産党の活動現場として最もたいせつな労働運動の現場でもあらわれていた。」立花隆『日本共産党の研究』上巻、講談社、1978.pp.398-403. 

 立花隆の本に掲げられている1928(昭和3)年から1934(昭和9)年までの7年間の治安維持法違反の検挙者数と検事処分者数をみると、ピークの昭和6~8年の3年間は、検挙者が毎年1万人を超えていたが、すでに昭和3年の3.15大検挙で、共産党中央は実質的に壊滅していて、そのあとは共産党員などとして起訴されたのは昭和8年の1285人だけが突出している。起訴猶予や留保処分など、いわゆる転向者も含め、検挙者の9割以上は、ただ左翼の本を持っていたとか、運動へのカンパや面識があった程度でもみんな特高に引っ張られ、起訴猶予になったのだが、それも数カ月警察に拘留されるという、いわば一般への脅しという効果を狙ったものだった。こうした特高の人権侵害で家族も含め大きな精神的傷を負った人も多い。


B.反体制を気取る新聞
 産経新聞が、日本の大手メディアのなかでは他紙とはかなり違ったスタンスに立っていることは、紙面を読んでみれば明瞭だ。全体主義的独裁国家では政府批判の新聞やジャーナリズムは弾圧されるが、言論の自由を認められた民主主義国家では、時の政権や与党政治家への批判や攻撃も、右から左までいろいろな立場に立つメディアがあってよいし、国民が政治に関心をもち議論をするうえで、多様な意見があることこそ重要だと思う。ただ、日本の大手メディアは左翼が圧倒的で、自民党などの保守派の肩をもつ言論報道は、「バカ者呼ばわり」されるという産経新聞に載った以下の文章は、被害者意識がどうしてこんなに強いのだろうと興味を感じた。日本のマスコミは「革新幻想」に満ちているとこの抄子は書いているが、朝日や毎日や東京新聞の論調は、いちおうそう読めるだろうが、読売や日経はそうはいえないし、産経は「革新左翼」が「大勢・体制」になっている新聞メディア界で、ひとり果敢に保守派を堅持して戦っている「反体制」の英雄だといいたいようだ。でも、それって40年前くらいに流行った被害妄想じゃないかなあ。

 「中国共産党の専横を真っ向から批判してきた唯一の香港紙、蘋果日報(アップルデイリー)が、とうとう休刊に追い込まれた。一党独裁の専制主義国家にあって、ぶれない言論活動を続けることがいかに困難なことか。体制に屈しない覚悟のありようを、まざまざと見た思いがする ▼翻って日本社会はどうか。「60年安保」(昭和35年)の翌年に京大に入学した社会学者の竹内洋さんは著書『革新幻想の戦後史』で、当時のキャンパスの様子を振り返る。(革新文化に)いくらかでも異論を唱えればバカ者扱い」「大学においては、左翼が体制で保守派こそが反体制ではないか」 ▼抄子の大学時代はその二十数年後だが、まだそんな空気の名残りはあった。そして記者となりマスコミの片隅で暮らすようになると、同業者たちの大半が革新文化を引きずっていた。新人の頃、靖国神社に肯定的な記事を書くと、他紙の先輩から「バカ」と面罵された ▼まさにマスコミでは、左派が大勢・体制であり、保守派が反体制だといえる。竹内さんの言葉を拝借すると「にもかかわらず、自分たちは反体制だと思い込んでいる」。首相や与党幹部をいくら批判しようと、何のリスクもない言論の自由が保障された国で、権力と対決している気分に酔うのである ▼森友学園への国有地売却も加計学園の獣医学部新設も、権力の監視という美名の下でマスコミが大騒ぎした結果は、大山鳴動ネズミ一匹にすぎない。国政を停滞・混乱させ、必要な法制定や政策実行を遅らせただけではないか ▼時の政権の問題点を追及するのは当然である。だが、大切なことは反体制を気取ることではなく、事実を提示していくことだろう。そうでないと蘋果日報に恥ずかしい。」産経新聞2021年6月26日朝刊1面、産経抄。

 産経に限らず、いわゆる保守派の言論人が左翼を感情的に嫌うのは、自分が大学生時代に周りの友人も教師も戦後左翼的言説を当然の常識としていて、それに異論を唱えると、議論以前にまともなインテリとはみなされず、おまえ何バカなこといってるんだ、誰も相手にしてくれなくなるぞ、と卑下され自尊心を傷つけられたトラウマがあるのではないかと思う。冷静な論理的思想的なレベルの議論以前に、こういう門前払いを食ったら確かに怨恨が残るだろう。でもそれを左翼一般の人間性や権力指向の欠陥としたり、保守派の戦いを英雄視したりするのは、そうした卑しい左翼の強圧的言論と方向は逆だが同じ構造なのではないかな。
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1930年の日本の若者の流行 6 正義の暴力? ユルい日本の対策

2021-06-27 17:40:39 | 日記
A.権力を握った者の思考
 立花隆『日本共産党の研究』が書いていることは、戦前の共産党の主張と実態について、先入見や偏見を抑制して、客観的に記述していると思う。ただ、1970年代半ばにこれを読んだ日本国民の多くは、合法的に存在する共産党という政党が、いかに恐ろしい暴力革命を目的とし、その内部に対しても異端者に過酷な制裁を与える恐怖の組織であったかを、ひしひしと感じたと思う。それは戦後の合法化した宮本共産党の側からすれば、自分たちの思想と運動を全面的に否定し、国民大衆に偏見と拒否感を広める反動的言論だとみて敵視するのは、当然だと思う。ただ、21世紀の現在、コミンテルンも日本革命の秘密結社としての共産党も、もはや存在しないし、昭和のはじめのインテリが夢想した輝く革命戦士、人民のために命を投げうつ英雄など、空虚な幻としても消えた。だとすれば、あれはいったいなんだったのか?日本という国の歴史と現実を無視して、教条マルクス主義と前衛党による権力奪取と、スターリンの独裁がどれほど多くの有為な青年を、みじめな絶望と死に追いやったか。それは、いまも昭和の歴史の暗黒としてぼくは眼をそらしてはいけないと思う。

 「もし、共産党の考える社会主義社会が、真に民主的であろうとするなら、それは右翼、あるいは極左による暴力革命思考集団にも、それが一般刑法にふれないかぎり、政治的自由を、他の政治集団に対すると同様に与えなければならない。
 共産党の政治的自由の“例外規定”は、一見いかにももっともに見えるかもしれない。政府が暴力革命集団を(革命政府なら革命暴力集団を)特別に取締まり、政治的自由を制限することは当然だろうと考える人が多いかもしれない。
 しかし、こうした例外規定から何が生まれうるかは、戦前の日本や革命後のロシアを見れば明らかである。共産主義者だけは特別に取り締まるべきだと考えて作られた治安維持法が、次々に拡大されて戦前の暗黒時代を作ったことはご存じのとおりである。革命後のソ連にあって、治安維持法の役割を果たしたのが、“ニ六刑法”五十八条と五十九条によって定められた「国家犯罪」の章である。五十八条は「反革命犯罪」を十四項にわたって規定し、その第一項で、反革命とは何であるかを次のように規定している。
「労働者農民ソビエト権力、およびソビエト社会主義共和国連邦憲法ならびに連邦共和国憲法に基づいて組織された、ソビエト社会主義共和国連邦、連邦共和国、および自治共和国の労働者農民政府を転覆、崩壊、または弱体化し、もしくはソビエト社会主義共和国連邦の対外的安全、およびプロレタリア革命の基本的な、経済的、政治的、ならびに民族的成果を崩壊または弱体化するすべての行為は、これを反革命とみなす」(傍点筆者)
 この傍点部分によって、いかなる反体制的、反政府的活動をしても反革命になってしまうことがわかるだろう。いまの日本で日常茶飯のごとく見られる、デモ、スト、あるいは反体制的言論活動など、もしやったらたちまち反革命である。
 五十八条よりさらに恐ろしいのが五十九条に定められた、「ソビエト社会主義共和国連邦にとってとくに危険な行政秩序違反の罪」である。この罪の内容は、第一項で次のように定められている。
「行政秩序に反する罪とは、直接にソビエト権力および労働者農民の転覆にむけられてはいないが、行政機関または国民経済の秩序ある活動を妨害し、かつ権力機関への反抗およびその活動の阻害、法規への不服従またはその他権力の実力および権威の弱体化をきたす行為と結び付いたすべての行為をいう」
 読めば読むほど恐ろしい法律である。これは全国民に権力への絶対的服従を強要し、権力のオールマイティを定めた法律である。ここには民主主義のかけらもない。民主主義のミニマムの要件である権力への抵抗権、不服従権がここでは完全に否定されているからだ。この法律があるかぎり、市民はいかなる意味でもお上にたてつけないのである。
 プロレタリア独裁を法律的に表現すれば、こんなものになるわけである。
 なぜこんな恐ろしい法律ができたのだろうか。
 それは、革命政権が、自分たちこそ真の労働者階級を代表する政権、真の人民を代表する政権だから、労働者の利益、人民の利益は自分たちの政権と一体のはずであり、すべての人民は権力を盛りたてこそすれ従わないはずはなく、反抗するものはすべて反革命の徒党だと考えたからである。
 しかし、その結果として現実には何が起きただろうか。
 同じ革命を戦った同志たちが、次々に反革命、反人民の徒党として排除されてゆき、完全なスターリン独裁の国家になっていったのである。はじめは、ボルシェビキ以外の他党派が、次には、初期指導部のトロツキー、ジノヴィエフなどが追い出され、つづいては、スターリンの意にそわない人間が片端から抹殺される大粛清の時代を迎える。この過程で何十万人もの人が、人民の敵、反革命者の烙印を押されて、あるいは銃殺され、あるいは流刑地で強制労働に従事させられた。その法的根拠になったのは、すべて、刑法五十八条の反革命の罪か、五十九条の行政秩序違反の罪だった。
 フルシチョフは、第二十回党大会でこんな報告をしている。
「第十七回党大会で選ばれた党中央委員と、候補の総数百三十九名のうち九十八名、つまり七〇パーセントは逮捕銃殺された(場内に憤激のどよめき)。
中央委員会のメンバーばかりでなく、第十七回党大会の代表たちの大多数もおなじ運命に遭遇した。票決権または諮問権を持つ代表千九百六十六名のうち千百八名、すなわち決定的に過半数をこえる人々が反革命の罪で逮捕された。この事実そのものが、第十七回党大会の参加者の過半数に対して反革命の罪を科せられたことが、いかにでたらめで、無茶で、非常識であるかを示している(場内に憤激の声)。
 大量弾圧は一九三六年以降、恐るべき規模になった。反革命罪という名による逮捕者が一九三六年と一九三七年との間に十倍にふえた」
こうした大量弾圧は、刑法五十八、五十九条にあわせるため“スパイ”、“破壊活動”、“政府転覆陰謀”などが摘発されたとしておこなわれたのだが、それはほとんど全部がデッチ上げだったと報告されている。
*その後、ソルジェニツィンが明らかにしたところによれば、こうした国内流刑者は優に一千万人を越えたのである。
権力の手によるこうした凶行がいかにして可能であったか。フルシチョフはこう説明している。
「スターリンは『人民の敵』という観念を思いついた。このことばは、論争に加わった人のイデオロギー上の誤りを証明することを自動的に不必要にした。このことばはまた少しでもスターリンと意見を異にするもの、敵対的意図をもつと疑われただけのもの、あるいは評判の悪いものにたいして、もっとも残酷な弾圧を加えることを可能にした。『人民の敵』というこの観念は、いかなる種類のイデオロギー上の論争の可能性をも事実上抹殺し、この事あの問題について人が自己の意見を明らかにすることを不可能にした」(第二十回党大会における秘密報告)
 この報告の中の「スターリン」を「軍部」に、「人民の敵」を「国賊」におきかえれば、そのまま、軍部独裁時代の日本の状態にあてはまるだろう。
「人民の敵」とか「国賊」といった概念は、民主主義の最大の敵なのである。ある集団から、集団の敵さえ追い出してしまえば、集団全体が打って一丸となれる社会ができるという発想が全体主義を生む。民主主義はこれに反して、人間の集団はいかなる意味でも政治的に一体化できないし、またすべきではないというところから出発する。ここから、あらゆる政治集団に政治的自由を保障すべきだという発想が生まれる。
 しかし、いつの時代でも「社会の敵」ということばを口にしたがる人が絶えないし、さまざまの「社会の敵」論は俗耳に通りやすい。しばしば最初にヤリ玉にあげられるのは、暴力革命をめざす集団である。
 いまの日本では暴力革命路線をハッキリかかげているのは、共産党が平和革命路線に移って以後、極左の過激派だけである。彼らが危険な集団であることはまちがいないが、それと同時に、彼らの取締まりをもっと強化しろと当局の尻を叩くこともまた、別の意味で極めて危険であることは前に述べた。
 この当局の尻叩きに自民党タカ派とならんでいちばん熱心なのが、共産党であることは興味深い。過激派の取材を長くやってきた経験でいうと、当局の取締まりは不足しているどころか、過剰な場合がしばしばある。ところが共産党にいわせると、過激派は政府・自民党に泳がされており、警察ともなれあっているのであって、その本質は反共暴力集団、挑発者集団であるというのだ。
 現行法規の中で、治安維持法的性格を持っているものは破防法だが、一九六九年に過激派の指導者たちに破防法が適用されたとき、共産党は一言もこれに抗議しなかった。破防法が生まれるとき、これに最も熱心に反対したのは共産党である。破防法の存在そのものに反対しているなら、それが誰に適用されようと、その適用に反対するのでなければ筋が通らない。 
 もし共産党が、真に民主主義の使徒であり、政治的自由に例外規定をもうけることが民主主義の原則に反するという理由で破防法に反対したのであれば、破防法の適用を受ける者が自分たちと政治的意見を異にするものであれ、民主主義の原則の名において、これに反対しなければならないはずである。ところがそうしなかったということは、破防法が自分たちに適用されるのは反対だが、自分たちの敵に適用されるのは反対ではないということだろう。
 これを先に述べた、共産党の政権下の未来社会における政治的自由への例外規定と考えあわせてみれば、共産党が本質的には治安維持法を作る側と同じ体質の持ち主であることがわかるだろう。これは別に不思議なことではない。権力者はいつでもどこでも、治安維持法的なもの(反体制集団への政治的自由の制限)を作りたがる。それがあれば権力の維持が容易になるからである。
 共産党の党内政治のあり方をながめてみると、これはもう治安維持法的世界そのものである。これまでくり返し説明してきた、共産党の組織原則である民主集中制は、党内反対派には政治的自由をみとめず、分派を作ったりしたらたちまち査問されて除名である。“反党分子”は国賊扱いして党外に追いだし、指導部の権力は絶対的なものとして維持されていく。
 私の民主集中制批判に対して、共産党は、
「日本共産党のこうしたあり方は、むしろ他党からうらやましがられている。自民党の橋本登美三郎前幹事長についても、“下級(機関)は上級(機関)に従わねばならない”という共産党の規約をよみあげうらやましがることしきり」
 という報道があったくらいであると述べて、それが反論になったつもりでいるようだが、これは、権力者は党派を問わず、より強い権力、より全体主義的組織構造を望むものだということの証明にこそなれ、民主集中制がよきものであることの証明にはなんらならないことはいうまでもない。
 権力者も権力をめざす者も、権力欲においては、同質の人間たちである。権力は、権力欲がより希薄な人間によって行使されればされるほど、権力を行使される側にとってはありがたいが、どんな政治システムでも、権力欲が強い人間・集団でなければ権力の座につけない仕掛けになっている。そして、権力欲が強いものほど権力の効用にめざめており、潜在的にか顕在的にか全体主義(権力の絶対的行使)への傾きを持っている。この権力者の絶えざる全体主義への傾きのカウンター・バランスとなっているのが、民主主義制度である。」立花隆『日本共産党の研究』上 1978 講談社、pp.228-235.

 右だろうが左だろうが、権力の座にある人間はあらゆる理屈と理由を動員して、反対者批判者のみならず気にいらない仲間を告発し異端の犯罪者にして放り出す。自分は正義で、自分だけがなにが正義かわかっている、という独善独裁者になる。国家と中央組織が危機にある時期なら、権力者は周囲の実力者がクーデターを起こすのではないかと疑心暗鬼になって、ますます粛清を繰り返す。たしかに歴史上、シーザーの暗殺からロベスピエールの処刑、ムソリーニやサダム・フセインまで、権力者の悲惨な末路は数多い。そういえば、スターリンや毛沢東や宮本顕治は権力の座に座り続けて生涯をまっとうしたが、その死によって権力体制を後継者は多少修正したけれど、全体主義が崩壊したりはしなかった。ここで共産党的権力にたいする民主主義制度の優位性を立花隆は力説する。
 たしかに昭和の初め、悲惨で恐怖に満ちた治安維持法体制が猛威を振るった時代があったと思う。それから軍による戦時体制が終わるまで、この国は全体主義国家だった。そして、今ぼくたちの住む国は、もう民主主義が定着し独裁的な権力者はいないし、国民の期待を裏切れば選挙で落とす事もできる、反政府運動だって武装闘争などやらない限り、逮捕弾圧されたりはしないと思っていた。だが、正義を貫徹するには暴力も使うことを選択肢にする、という政治の方がわかりやすくていい、という雰囲気が漂い始めているとしたら、恐ろしいことだ。
 

B.ユルい国でもいいか
 佐伯啓思氏が朝日新聞に時折載せる「異論のススメ」は、コロナ以来「随時」掲載ということになったらしいが、朝日新聞のスタンスに同調せずに、それなりに納得のいく議論をぼくは楽しみに読んだ。そして、今回はコロナ対策について、西欧諸国の「戦争」のごとき強力な対策と日本の緊急事態宣言と「自粛要請」というユルい対策を比べながら、西洋近代の基礎にある国家観と危機に際する市民的「委任と合意」が、日本にはもともとない、という。

 「対コロナ戦争 強力措置講じる欧米 国家の安全確保第一 市民も共同防衛関与 佐伯啓思
 たとえば、西洋近代社会の思想的基礎を与えたとされ、日本でも一時期は戦後民主主義のバイブルのようにもみなされたルソーの社会契約論をみてみよう。彼はいう。自然状態では、人々は様々な意味で生命の危機にさらされる。そこで、ある契約を行って自らの生命を共同で防衛すべく社会を作った。それは、個人の自由がより高度の次元で実現できるような契約社会である。ということは、この社会が何らかの脅威に晒された場合は、人々は、自らの生命・財産をこの社会に全て委ねて社会の共同防衛にあたらなければならない。ここに政治共同体としての国家が作られるが、国家とは、まずは生命や財産を共同で防衛する共同体なのである。
 ルソーの社会契約論は西洋思想の中でも特異なものであり、歴史的にこのような契約などどこにもなかったが、それでもこの思想は、西洋における「国家」と「市民」の関係を典型的に示す論理となっている。市民は私的な権利を持つ。そのことは法的にも保障される。しかしその法を確保するために人々は共同で国家を創りだした。つまり政治的共同体を創出し、自らをそこに投げ入れた。したがって市民と国家の関係は二重になっている。一方で、市民の私的権利は国家の干渉から守られなければならない。しかし他方で、この国家(共同社会)の秩序が危機にさらされた時には、市民は最大限の公共精神を発揮して国家のために役立たなければならない。だからルソーは、「統治者が市民に向かって、『お前の死ぬことが国家にとって役立つのだ』というとき、市民は死なねばならない」という恐ろしいことを平然と述べている。
 そしてここから次のことが出てくるだろう。国家社会が安定している平時には、当然、個人の権利は保護される。しかしひとたび国家社会に危機が押し寄せてきた時には個人の権利は制限されうる。国家が崩壊しては、個人の権利も自由もないからである。だから危機を回避し、共同体がもとの秩序を回復するために、強力な権力が国家指導者に付与される。その限りで、指導者は一種の独裁者となるが、その独裁は、危機状況における一時的なものであり、かつ主権者である人民の意思と利益を代表するものでなければならない。
 実際、ワイマール期からナチス成立へ至る時期に、ドイツの法哲学者カール・シュミットが唱えた「政治的なるもの」こそがそれであった。通常状態では、憲法も議会政治も維持される。彼のいう「政治」は必要ない。「政治」とは危機における決断なのである。しかし、戦争のような国家の危機という「例外状態」にあっては、部分的には憲法の条項を停止した独裁(委任独裁)が必要となる、というのである。
 これが、西洋の国家観を形作っている、少なくともひとつの根源的な意識と言って良いだろう。そこでそれを少し一般化して次ののように言うことも可能であろう。
 人間は、もともと常に生命の危機にさらされてきた。自然災害、感染症、飢え、それに生存をめぐる人間どうしの争い。これらはすべて「自然」に属する。したがって、「自然がもたらす脅威を克服し、生命の安全を確保するために人間は社会を作り、それを政治的組織である国家にまで仕立て上げた。古代ギリシャで、人々が共同して暮らすポリス(都市)とはまた政治共同体としての国家である。
 ということは、国家とは、何よりもまず、自然や他者からの脅威に対する共同防衛の企てなのであり、社会の秩序を維持するための装置なのである。したがって、都市民は、また国家を支える徳をもった市民として、公共の事柄に関与しなければならない。こういう意識が西洋の政治思想の底を流れている。しばしば「共和主義の精神」と呼ばれるものである。
 先に、私は、日本の「自粛要請」と欧米の「国家の強権」を対比したが、この「対比」の背後にある違いを見据えることは大事なことだと思う。善かれ悪しかれ、日本には、西洋の歴史伝統が生み出した国家意識はない。それはまた市民意識の欠落をも意味している。人間に脅威を与える「自然」との対決において「国家」という政治共同体を理解するような考えは日本にはまずない。国家という政治共同体は、日本ではほとんど自生的に生まれ、いつもそこにあるもので、それが「自然」との対決で作り出されたという意識はほとんどない。「自然」との対決とは西洋流にいえば「戦争」である。自然災害も、感染症も、他国の侵略も共同社会への脅威であり、それは「戦争」なのである。
 今回、アメリカではワクチン開発はきわめて速かったが、その理由の一端は、2001年の同時多発テロ以来、細菌やウイルス攻撃に対する防御を課題としていたからであり、実際、今回のワクチン政策も、保健福祉省と並んで国防総省が関与しているのである。
 欧米では「戦争」は常にそこにあるからこそ、シュミットのような、例外状態での独裁という議論も出てくる。幸か不幸か、日本ではこのような共同社会を守る「戦い」という意識は低い。特に感染症や自然災害においてはそうである。しかし、現代の世界では、国家の危機という「例外状態」は徐々に常態化しつつある。
 こうなると、われわれは、「自粛要請」型で行くのか、それとも、西洋型の強力な国家観を採るのか、重要な岐路に立たされることになるだろう。「自粛型」とは市民の良識に頼るということであるが、果たしてそれだけの良識がわれわれにあるのだろうか。どうせ国が何とかしてくれると高をくくりつつ、ただ政府の煮え切らなさを批判するという姿勢に良識があるとは思えないのである。」朝日新聞2021年6月26日朝刊15面オピニオン欄。

 もっと時間が経ってから、このコロナ危機への各国の対応をいずれ視野をひろげて考える時が来ると思うが、今のところぼくは、日本の揺れ動く「ユルい対処」に危惧は感じているが、まあこんなかたちで徐々に収まってしまうなら、仏教国でもあっていかにも日本らしいとは思う。ただ、東京オリパラをやるんだろうから、それがどう出るか?ワクチンも打っていないぼくには気にはなる。
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1930年の日本の若者の流行 5 恐怖の時代  男だけの国

2021-06-24 00:19:20 | 日記
A.立花隆追悼
 今日の夕刊に立花隆氏が、4月30日に亡くなっていたというニュースが載っていた。80歳で近年は持病で療養していたという。ちょうどぼくはこの『日本共産党の研究』と『中核VS革マル』(講談社文庫)を読んだところだったので、この膨大な著作を書いたジャーナリストの仕事を改めて、振り返る必要があると思う。「田中金脈問題」や「宇宙論」などもぼくはちゃんと読んだことはないが、取り組むと決めた問題をまず徹底的に文献を読み、かつ当事者に直接会ってインタビューをするという方法は、なかなか簡単にできる作業ではない。『中核VS革マル』でも、立花氏は両派のトップに秘密アジトで直接会って長時間インタビューしている。その直後にその中核派幹部が、革マルのゲバに襲われて死亡するという事件も起きる。ただ本を読んで考える評論家とは、基本的な方法が全然違う。いわゆるアカデミックな研究とも色合いが違うが、そのぶん読者の興味を掻き立てる文章で、対象への批判的な姿勢も明確だ。だが、時代の大衆的な関心はどんどん移り変わってしまうので、この人の本はつまみ食いされて忘れられる怖れもある。『日本共産党の研究』も、幅広く目が行き届いた本だけれど、時事的な読み飛ばされ方をして、今はもう昔の話のように忘れられてしまうとしたら惜しい。問題は今も消えたわけではない。

 「三・一五事件は、時の政府に大きな衝撃を与えた。田中義一首相は、さっそく、次のような声明を発した。
「共産党事件の発生に対し、私は国体の精神と、君臣の分義とに鑑み、実に恐懼措く所を知らない。
 国体に関し、国民の口にするだに、憚るべき暴虐なる主張を印刷して、各所に宣伝頒布したるに至っては、不逞狼藉、言語道断の次第で天人倶に許さざる悪虐の所業である。
 由来、わが国体は、万邦に卓越し、義は、君臣にして、情は、父子の如き国柄において偶々、今回此大不祥事を出した事は痛恨骨に徹して、熱涙の滂沱たるを、禁じ得ぬのである。
 私は内閣の首班として、事件の顛末を、奏上し奉るに臨み、宸襟を悩ませ給ふことの、畏れ多きに、身も心も打ち戦(おのの)きて、九腸寸前の思ひに堪へなかった。
 世態の複雑に伴ひ、諸種の思想が現はれるのは、止むを得ないが、私はその点に就て、能ふだけ理解ある態度を以て、臨みたいと思ってゐる、然し事苟も、皇室国体に関しては、断乎として、仮借するを許さない」
 かなりオーバーな表現だが、こんなところが為政者の受け取り方だったようだ。共産党は、堂々たる“朝敵”となることによって、いかに天皇制社会を震撼せしめたかがこの声明に読みとれるだろう。とりわけ当局を驚かせたのは、検挙者の中に多数の学生が入っていたことだった。学生の中でも、社会の超エリートともいうべき帝大生が多かったことはすでに述べた。
 文部省は、連座した学生の処分、左翼学生の終結している社会科学研究会の解散、左傾教授の処分などを大学当局に強硬に申し入れた。大学側は、大学の自治をたてに、これを容易に受け入れようとはせず、ことは社会問題化した。しかし、数週間のうちに、大学側は次々と敗退。東京帝大新人会をはじめとする各大学の社会科学研究会は相次いで解散となり、河上肇(京大)、大森義太郎(東大)、向坂逸郎(九大)、佐々弘雄(九大)などの有名左翼教授たちの首が切られていった。これらの教授たちは、共産党に関係していることが立証されたがための処分というわけではなく、思想的に左傾しているというだけの理由で処分されてしまったのだから、いくら治安維持法下の社会とはいえ、無茶苦茶なできごとだった。
 また、時の検事総長小山松吉は、三・一五事件について、次のような談話を発表していた。
「今回の事件について感ずることは検挙された者の中には単なる思想かぶれしたものでなく真に無産者のためを思ふ熱情から加盟してゐるものもある。こんな所から見てもこれは社会制度に乗ぜられるべき欠陥があることに違ひない。このことについては官民共に真面目に研究しなければならぬ問題である、このことなしにはいくら検挙を行つても何にもならない、飯の上のはへを追ふと等しい。治安維持法の運用だけならいくらうまくやつてもそれだけではいけぬ」
 当局者の中にも、かくのごときクールな反応があったのである。いつの時代でも過激派には、意外なほどマジメ人間が多い。ナップの機関紙『戦旗』に「日本共産党事件の身上調書」なる一文を寄せた今東光(当時共産党シンパ)は、こう断じている。
 「知識階級出身者と労働者階級出身者たるとを問はず、およそその学術品行ともに優秀な有為分子のみが日本共産党の構成員であることを立証できるのだ」
 明らかに、これだけ短時日間に革命をめざす共産党がこれだけの組織を築きあげられたことは、「社会制度に乗ぜられるべき欠陥」があったからである。しかし、その欠陥について「官民共に真面目に研究」をしようなどとは誰もしなかった。
 官の側では、小山検事総長のような受け止め方をした人は稀で、大多数は先の田中義一首相の言にあったように、ひたすら驚愕し、「身も心も打ち戦」いている人が多かったのである。以後、官の側では、終戦まで一貫して共産革命への過剰な恐怖心が支配していく。昭和二十年二月、日本の敗戦は必至とみた近衛文麿が天皇に和平を上奏するが、その上奏文に次のようにある。
「敗戦はわが国体の瑕瑾たるべきも、英米の世論は今日までのところ国体の変革とまで進みをらず、随って敗戦だけならば、国体上さまで憂ふる要なしと存候。国体の維持の建前よりより最も憂ふべきは、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に御座候」(傍点筆者)
 近衛文麿だけがこう考えていたとあらば、わかる気もする。彼はゾルゲ事件で自分の腹心にしていた尾崎秀実に裏切られた経験を持つからだ。しかし、この上奏文は吉田茂と共に相談してまとめあげたもので、吉田もこのくだりにはまったく賛成であったと述べているから、やはり当時の支配者の共通認識だったと思われる。
 共産党は、昭和十年に最後の中央委員袴田里見が逮捕されて以後、何度か党再建の動きがあったとはいえ、組織としては壊滅状態にあったことを思えば、おかしいほどの怖がりようである。
 だいたい事情にいちばん通じているはずの取締り当局の現場にしてからが、三・一五事件の時点から、異常なほどの緊張をしていた。現場の指揮にあたった松阪広政(東京地検次席)はこう書いている。
「おそらく私の一生の中であれ位緊張して過ごしたことはなからうと思ふ。其の時ふと考へたのは由井正雪や丸橋忠弥が乱を起して、それを幕府が捕へに行ったが、ちょっと斯う云ふものだらうかと云ふことを考へたのですが、兎に角非常な緊張をしたものであります」(「三・一五、四・一六事件回顧」)
 法と取締りの限界
 三・一五事件について、第一次共産党には参加していたが、この時点では労農派に与していた猪俣津南雄はこう書いていた。
「法律をもって禁圧すべからざることを、禁圧する『国法』は、いくらでも『過激』な市民を作り出す。共産党が秘密結社として存在した。その党員の目星がついた。そこで一千人余の人間を全国一斉に検挙した。それが重大事件である。だが、待った、いつたい共産党といふものは、それがただ存在したといふだけで、さうした『重大事件』を構成すべき性質のものだらうか?
 一の政党が、暴力をもって現実に社会の変革行為を開始してもなほ鎮圧するなと支配階級に要求することは、それ自体が矛盾である。だが、たとひ社会の変革を綱領とする政党でも、現実に変革行為を開始しない限り、その存在と運動との自由を認めることは、すべての近代国家に確立された原則である」(『文藝春秋』1928年6月号「共産党受難の政治的意義」)
 この猪俣のことばは、暴力革命を指向する集団と国家権力の関係について、いまでも通用する正論であると私は思う。
 国家は法によって支配し、法によって支配されるというのが、近代市民社会の原理である。一つの体制は、一つの法体系に照応する。
 その体制=法体系に反対し、権力を奪って、別の体制、別の法体系を作ろうとすることが、法的側面から見た革命である。ここで、権力の奪取と旧法体系の破壊=新法体系の創出を、旧法体系に定められた手続きに従ってすべて合法的にやるかどうかが、平和革命か暴力革命かの境い目である。
 裏返していえば、暴力革命は違法行為を前提とする。当然これは取締まりの対象となる。いかなる政府といえども、暴力で体制をひっくり返そうとする集団の動きを黙認するわけにはいかない。問題は、そうした集団に対して、当局がどの時点から取締まるべきかにある。むろん、国家が法によって支配されている以上、違法行為があった時点からであり、それ以前であってはならない。
 法は思想を罰してはならず、行為を罰するのみ。いかなる法も、市民の政治的活動の自由(集会、結社の自由など)を含む基本的人権を侵してはならないという、法が従うべき法原理がある。
 この法原理に従って法体系が作られている限り(現在の日本の法体系は、破防法等については若干の疑義があるが、ほぼそうなっている)、暴力革命を主張する政治集団は、その存在と政治活動を、適法の範囲内で堂々とできる。当局が取締まれるのは、一般刑法にひっかかるような違法行為が開始された後である。この点では、暴力革命集団のほうが、当局に対して先手をにぎっている。また、近代市民社会の原理からいって、そうでなければ困るのである。
 なぜなら、当局のほうが、暴力革命集団に対して先手を握れるような法律を作れば、必ず、先に述べた、法が従うべき法原理を侵し、思想を罰したり、基本的人権を奪うような法律にならざるをえないからである。
戦前の日本に、そうした法律としてあったのが、次のようなものである。集会、結社の自由などを制限した治安警察法、“公安を害するおそれのある者”を検束できる行政執行法、そして、国体変革と私有財産否認の思想を罰する治安維持法である。これらの法律によって、市民から政治的自由を奪うことから、全体主義がスタートしていった。
 全体主義のアンチテーゼである民主主義は、極左から極右まで、あらゆる政治的党派に政治的自由を与えることから出発する。反民主主義的主張まで含めて、ありとあらゆる政治的主張のぶつかりあいの中でこそ、社会の健全な政治的選択がおこなわれうるのだということが、民主主義の原理だからである。ここでたいせつなことは、“あらゆる政治党派に”という点である。“あらゆる”に特定の除外例をもうけることが、全体主義への道をひらくことになるというのが歴史の教訓である。民主主義は民主主義の敵まで保護してはじめて真の民主主義たりうる。
 どうも世の自称民主主義者たちのいうところを聞いていると、ここのところがよくわかっていないようである。右よりの人は、極左をもっとビシビシ取締まれというし、左よりの人は極右をもっとビシビシ取締まれという。彼らがこういうとき、民主主義の敵を社会から葬ることによって、より民主主義的社会になると思ってのことだろうが、実際には、そうした主張は全体主義者の主張にほかならない。社会の敵を葬るという発想を延長していけば、社会を一色に染めあげることに結果していくからである。
 極左や極右の主張に対して、おまえたちの主張に反対だというのはいい。いけないのは、それに対する特別の取締まりを当局に要求することである。政治的行動は、それが一般刑法にふれたときにはじめて取締まればよいのであって、それ以前に、あるいはそのときでも一般刑法による以上に、それが特定の危険思想の人物・集団から発するものであるが故に取締まれということは、全体主義の発想である。
 民主主義社会の牢獄には、一般刑法にふれた政治犯がいることはあっても、政治犯プロパーの人間がいてはならない。これが、民主主義社会における政治犯罪に関する大原則である。だからこそ、戦後GHQが政治犯の釈放だけを命じたのである。宮本顕治は前者のカテゴリーに入っていたにもかかわらず、後者のカテゴリーとまちがわれて釈放されたために、今日にいたるまで復権問題が尾をひいているわけである。」立花隆『日本共産党の研究』上 1978 講談社、pp.217-223.  

 日本の左翼政党といえば、戦前の農民運動と労働組合運動の流れを汲む労農派と呼ばれた社会民主主義者の諸派が戦後は社会党になり、非合法だった共産党は戦後は表に出てきて社会主義革命を目指すが、武力革命路線を捨てて大衆路線をとった頃から分裂して、新左翼諸派を生む。その後の紆余曲折を含め、今はもう多くの人は基礎知識も歴史も知らないから、ただ左翼って政府を批判して理屈ばっか言ってる不平家の集まりぐらいにしか思っていない。1970年代はまだ、海の向こうの東側に社会主義国家群が存在していたから、左翼をどう考えるか、共産党が何を考えているかは、それなりにみんな気にしていた。しかし、ソ連が崩壊し、“東側”が地球から消えたことで、もうそんな思想も政治問題も消えたのだ、というわけではない。まず立花隆を読んでほしい。


B.男しかいない中国共産党
 東京新聞の特集「中国共産党100年」は、なかなか面白い。日本と違って、中国の共産党は国家権力そのものを握っている。政府も裁判所も軍も警察も、共産党中央の指令に逆らうことはできない強力な全体主義国家の中心である。文化大革命時代に毛沢東の妻、紅青という人が四人組と呼ばれる権力にあった記憶があるが、中国共産党の中央幹部に女性がいたことはなく、今の政治局委員に女性は一人だけだという。すごい男社会ではないか。

 「中国共産党100年 党と女性:リスクあっても権利訴え 拘束や中傷乗り越え 活動続く
 北京の会社員、李麦子さん(32)はカカカッと軽やかに笑い、2015年3月の拘束を振り返った。李さんら女性五人は、痴漢防止のステッカーを地下鉄やバスで配ろうと計画し、公共秩序騒乱の疑いで当局に拘束された。
 「小さな活動に過ぎないのに政府は膨大な金と人手を使って私たちの自由や尊厳を奪った。誰も得しない」。当時、米大統領を目指していたヒラリー・クリントン氏らが中国を非難するなど、国際的な注目を集める。五人は一カ月余りで釈放されたが、しばらく当局の監視が続いた。
女性トイレの数が足りないとして男性トイレを占拠、家庭内暴力の被害を訴えるため血染めのドレスで繁華街を歩く…。李さんはかつて奇抜ともいえる方法で女性の権利を訴えていた。現在はひとり親家庭や同性愛者への支援に携わるが、人目を引く活動は控える。「また街頭で活動をすれば、警察に捕まる」と笑う。
 五人の拘束が女性運動に与えた打撃は大きい。17年には国外からの資金提供を禁じる海外NGO活動管理法が施行され、ブレーキはさらに強まった。女性の権利を語ることは「西側の価値観」とみなされ、性暴力撲滅を訴える#MeToo運動なども「外国勢力と結託して国家分裂をたくらんでいる」とネット上で中傷にさらされる。
 李さんは「女性の地位は年々下がっている。政府の判断に男しか関わっていないことも原因だ」と話す。女性の就業率などは日本より高い中国だが、共産党百年の歴史で最高指導部に入った女性はゼロ。その下の政治局委員は現在、二十五人のうち女性は一人だ。
 一方で高学歴化して社会に進出した女性が、セクハラや男女格差の問題に関心を持つのは必然ともいえる。中国中央テレビの著名アナウンサーから性的暴行を受けたと訴え、#MeTooの象徴的存在となった周暁璇さん(28)は「体制の中でも外でも、女性をめぐる問題に関心を持つ人は増えている」と話す。
 一定の進歩もある。今年一月施行の民法典ではセクハラに関する独立した条文が設けられた。昨年末の刑法改正では、教師や医師、養父らが十四~十六歳の女性と性的関係を持った場合への罰則が盛り込まれた。ネット上では六万五千人の署名が集まり、改正を後押ししたとみられる。
 周さんは「数少ない成功事例だが、今なら同じ署名活動は難しい。一カ月前にできた活動が(当局の圧力で)できなくなることもある」と変化の速さを語る。
 問題への関心が高くても、実際の行動にリスクが伴う現状で、地道な活動を続ける李さんや周さんのような存在は多くない。その意義について周さんは「あなたの街にも女性問題に関心を持つ人がいると、知ってもらうこと」と話す。それが次の行動を支えるからだ。 (北京・中沢穣)」東京新聞2021年6月23日朝刊、4面国際欄。
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1930年の日本の若者の流行 4 天皇制への視点  中国共産党100年

2021-06-21 16:48:04 | 日記
A.絶対主義か立憲王政か
 明治維新後、ヨーロッパを実際に見分した日本のエリートは、当時の先進国の文明に東洋の小国が、技術力・経済力でそう簡単には追いつけないという現実と、西洋文明の底流に流れる社会制度の歴史とそれをつくった社会思想を学ぶ必要があると考えた。帝国憲法ができる前の1887(明治20)年に発表された中江兆民の『三粋人経綸問答』で、すでに「洋学先生」は絶対君主制は過去のもので立憲制から民主制、つまりイギリスの立憲王政からフランスの共和制への流れを指摘し、「豪傑君」は国家を発展させるには列強の軍事力のせめぎあいのなかで、強力な君主のもとに周辺の弱小国への軍事的侵略膨張を主張していた。それには、天皇というものをどう位置づけるか、憲法を構想していた伊藤博文は、共和制ではなく形式上は立憲君主制だが、ドイツの皇帝のような天皇を主権者とした。

 「天皇制の三つの側面:天皇制に就いて語るとき、三つの天皇制を区別しなければならない。一つは、明治憲法下の政治制度としての天皇制である。政治権力が天皇と天皇に直属した軍部と官僚に集中するという特殊な政治機構がそれである。
 第二は、ここに述べられている、民族の母斑のような歴史的国民意識における天皇制である。これは、最近、共産党が“天皇宗”と名づけ、「天皇宗には反対しない」と寛容な態度を示している対象である。
 第三は、日本人の精神構造における天皇制である。これは、丸山眞男が「超国家主義の論理と心理」において犀利に分析してみせたもので、“内なる天皇制”といいかえてもよい。要するに、上の者にはあくまで従い、下の者はあくまで従わせたがる、今なお日本社会に普遍的な心情である。上の者に従うことによって自由で主体的な判断を回避し、それを回避することによって、同時に責任を取ることも回避することができる(自由な主体がなければ責任はない)から、社会全体をつらぬく無責任体制が出来上がる。下の者をとことん従わせることによって、上の者から受けた抑圧感を発散させ、下へ下へと抑圧行為が拡大再生産されていく。つまり、上の者へのマゾヒズムが下の者へのサディズムに転化され、この両者のバランスによって日本人の精神構造はある種の安定が保たれているということだ。
 共産党が向こうにまわして果敢に闘いを挑んだのは、第一の天皇制(政治機構)だった。この闘いは、組織(権力)と組織(党)のつぶしあいという物理的局面において展開され、この局面では共産党は敗北した。
 単に敗北したのみならず、共産党は解体してしまった。この解体は、党員の99パーセントの転向という形でもたらされた。転向は準転向(思想は放棄しないが運動は放棄することを権力当局に誓約する)の場合は、権力への物理的敗北としてとらえられるが、純転向の場合は、むしろ、精神的敗北としてとらえられる。この場合、共産党が敵にまわしていたのは、第二の天皇制(民族意識)だった。
 ところが共産党は、第一の天皇制を敵に回すことは、同時にそれを支えている第二の天皇制も敵に回すことだという認識に欠けていた。認識がないから、それに対する戦略もない。その結果、第二の天皇制の壁に突きあたって、運動が伸びず、組織も伸びず、第一の天皇制に敗北することになったのである。
 転向者はこの敗因を認識していた。転向の雪崩現象をもたらした佐野学・鍋山貞親の「共同被告同志に告ぐる書」にこうある。
「我々は日本共産党がコミンターンの指示に従ひ、外観だけ革命的にして実質上有害な君主制廃止のスローガンをかゝげたのは根本的な誤謬であつたことをみとめる。それは君主を防身の楯とするブルジョワ及び地主を喜ばせた代りに、大衆をどしどし党から引き離した。皇室を民族的統一の中心と感ず社会的感情が勤労者大衆の胸底にある。我々はこの事実を有りの儘に把握する必要がある」
 戦前の党活動を敗北として総括しない(あるいは、できない)共産党には、当然のことながら、この面での敗因分析も欠けている。
 これは、最近、共産党が第二の天皇制は容認するとの方向を打ち出してきたことと無縁ではあるまい。第二の天皇制に勝てなかったからこそ、第一の天皇制に敗北したのだという認識があれば、いくら大衆を獲得したいからといって、こうはいうまいからである。
 あるいはその逆なのだろうか。内部では敗因分析をしっかりやって、その結果、日本で第二の天皇制に逆らっても勝てっこないから、これだけは認めてしまおうという結論でも出したのだろうか。しかしだとするなら、それは戦前の転向者の論理が正しかったと認めることにほかならない。共産党は、四十年遅れで、党をあげて転向しはじめたのだろうか。
 むろん、そうではあるまい。単に、選挙で票をたくさん集めるためには、大衆の心理にはなるべく逆らうまい、ということであろうと、私は善意に解釈している。
 さて問題は第三の天皇制、日本人の精神構造としての天皇制である。実は第一の天皇制を支えていたものは、第二の天皇制だけではなかった。第三の天皇制が、それに負けず劣らず重要な柱となっていた。それは、第一の天皇制の背骨となっていた軍隊が、この精神構造を最も純粋な形で具象化していたものであったということでもわかるだろう。第一の天皇制があったからああいう軍隊ができたのだというだけでは分析が足りない。丸山眞男は、この精神構造と日本軍のつながりについてこういっている。
「ここでも人は軍隊生活を直ちに連想するにちがいない。しかしそれは実は日本の国家秩序に隅々まで内在している運動法則が軍隊に於て集中的に表現されたまでのことである」「超国家主義の論理と心理」
 この第三の天皇制と共産党はどういう関係にあったのだろうか。民主集中制の説明のところですに述べたように、この精神構造は共産党の組織の中でそっくりそのまま生かされていたし、いまも生きている。共産党があれだけ果敢に第一の天皇制と闘えた理由の一つは、ここに見出すことができるかもしれない。共産党がもう一つの天皇制組織だったということにである。 
 天皇制組織を考える上で面白いのは、組織の最上層と最下層である。上から下まで無責任といっても、組織のトップだけは自由で主体的な判断をしなければならず、したがって責任もとらなければならないはずである、と考えやすい。しかし、天皇制組織では、実に見事にトップの責任も消し去ってしまう。まず、第一の天皇制においては、
「天皇は万世一系の皇統を承け、皇祖皇宗の遺訓によって統治する。かくて天皇も亦、無限の古にさかのぼる伝統の権威を背後に背負っているのである」(丸山眞男・前掲書)
 天皇は皇祖皇宗の遺訓によって縛られているから、主体性がなく、したがって責任もない。
 共産党にあってはどうか。皇祖皇宗の遺訓にあたるのが、マルクス・レーニン主義であり、コミンテルンの指令であった。いずれにしても、人間ではないものにさかのぼってしまうのだから、それ以上責任の追及はできなくなる。
責任消去のもう一つのメカニズムがある。それは、みんなでやれば誰がやったかわからないという原則に従うことである。共産党では集団指導制がそれにあたる。日本共産党では、先に述べた「集団指導と個人責任の結合」制により、決定者集団の責任は免除され、実践者が責任を問われることになっている。フランス共産党では、こういうごまかしがきかないように、「集団指導は、各指導者個人の責任を免除するものではなく、これを含むものである」と規約に明記されている。
 ほんとの天皇制では、このメカニズムがどうなっていたかというと、政府や軍部は「草莽の臣」「陛下の赤子」という立場を押し通し、天皇のほうは、天皇機関説の立場をとって、互いに責任を消しあったのである。先だってのニューズ・ウィーク記者との会見で、天皇が開戦責任を問われて、「日本国憲法の規定に従って、内閣の開戦決定を覆すことはできなかった」ということで、責任なしの主張をしたことでも、これがわかろう。
 さて、天皇制組織の最下部では、上からのサディズムを一身に受け、どこにも発散のしようがなくなるはずである。実際、旧軍隊の初年兵とか、現在でも大学の運動部の一年生とかは、それでキリキリ舞いさせられている。この抑圧は通常組織の外に向かって発散させられる。これが日本の天皇制組織が往々にして過度の戦闘性を発揮する由縁だろう。日本軍が海外で現地人に暴虐だったのも、日本企業のエコノミック・アニマルぶりも、共産党の反党分子に対するサディスティクな攻撃も、民青が内ゲバになると一番強いのも、ここらあたりに原因が求められそうである。
 この点に関して、もう一つ忘れてならないことは、被差別民と在日朝鮮人のことである。両者は、日本の社会にあって、はじめから天皇制の外に置かれていた。だから、両者に対するすさまじいまでの差別がつづいてきたのである。そしてだからこそ、日本の社会の中に、天皇制と本格的に対立するもう一つの社会組織ができたときに、彼らはここに滔々と流れ込んできたのである。被差別民と在日朝鮮人は、長いこと共産党の主要な支柱となってきた。おそらく、共産党が解放同盟と敵対関係にたちはじめたことと、共産党が天皇制に寛容になりだしたこととは無関係ではあるまい。
 天皇制と先鋭に対立しているかぎりにおいて、共産党は日本社会の中で被差別者となり、「アカ」という差別用語もたてまつられていた。そのことを共産党はむしろ誇りとしていたはずである。社会のアウトサイダーの代表たることをである。革命とは、社会のアウトサイダーが権力を奪うことによってインサイダーになることにほかならないのだから。ところが、最近の共産党の戦術を見ていると、このベクトルを逆にして、先ず社会のインサイダーになって、それから権力を獲得するという方向を指向しているように見える。」立花隆『日本共産党の研究』上 1978 講談社、pp.182-188. 

 この『日本共産党の研究』は、40年以上前に書かれているから、共産党をめぐる状況もかなり変わっているし、とくに当時日本共産党のトップに君臨していた宮本顕治批判として、大きな反響を呼び、共産党も激しく反発したことも、いまはおおかた忘れられている。宮本顕治は亡くなり、後を継いだ不破哲三も引退し、いまの共産党指導部は、戦前の記憶も戦後の路線分裂の歴史も直接には知らない世代に替わっている。ある意味、ここに書かれていることも、大衆化した共産党シンパには興味を惹かないことかもしれない。でも、今回これを読んで、ぼくは戦前の共産党についてもっと知っておく必要があると思った。それは教条化していたマルクス・レーニズムが、20世紀の歴史にどういう意味を持っていたかを、負の側面としてのみならず改めて考えることになる。 


B.毛の時代、鄧の時代、習の時代
 ぼくは中国に行ったことはない。なにしろ広い国だから、行くといってもどこに行くかでずいぶん印象は違うと思う。台湾にも行ったことはない。韓国も近くまでしか行ったことがない。日本軍が侵略戦争を繰り返した場所であることで、なにかそこを観光旅行するのをためらわせる心理があった。天安門事件のときは、ドイツにいて中国人留学生がデモをするのを見ていた。中国への見方も、20年ぐらいですっかり変わった。

 「中国共産党100年 「強国」現在地:中国復権へ 挫折と自負と
 中国共産党が7月に結党100年を迎える。米欧の覇権に挑む巨大な党を支えるのは、旧日本軍や国民党との戦争をくぐり抜けて政権をとり、挫折を経ながらも中国を再び世界の舞台の中心に引き上げたという自負だ。光と影が交錯する1世紀の歩みをたどる。
 「国恥」そそぐ大義
 中国共産党が生まれた1921年、世界は帝国主義のただ中にあった。清末の停滞から「東亜の病夫」と言われた中国は、日本や欧米列強に多くの権益を奪われる反植民地状態に置かれていた。上海の租界でひそかに開かれた結党大会に集まったのは、わずか13人だった。
 アヘン戦争からの約1世紀を共産党は「百年の国恥」と呼ぶ。歴史の屈辱をそそぐという「大義」が習近平国家主席と共産党を駆り立てていることは、急速に国防力を高め、外国の批判を「内政干渉だ」とはね返す今日の政権の姿にも表れている。
 か細い産声を上げた共産党の敵は列強だけではなかった。蒋介石率いる国民党に追い込まれ、34年には江西省などの根拠地を捨て内陸へ逃れた。1万2千㌔に及ぶ「長征」の始まりだ。1年余りかけて延安にたどり着いた共産党は、国民党と抗日統一戦線を組み、日本の降伏後は国民党を台湾に追いやった。都市で生まれた共産党は、長征や抗日戦争を通じて広大な農村に根を下ろしたことで政権をつかむ力を得た。
 天安門 若者が犠牲 
 49年、天安門から毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言した。しかし、その後のソ連との対立などを背景に共産党は長い迷走期に入る。
 欧米やソ連を追い抜こうと毛が進めた無謀な増産計画「大躍進」は、経済を破綻させ、数千万人とも言われる餓死者を出した。毛は路線修正を図ろうとする幹部を排し、66年に文化大革命を発動。全土を巻き込んだ政治闘争は生徒が教師を、子が親を告発するような社会を生んだ。文革は人々の心に深い傷を刻み、中国を世界の潮流から遠ざけた。
 文革が終わり鄧小平が復活すると、共産党は傷んだ経済の再建を優先する改革開放にかじを切る。海外の資本や技術が必要と考えた鄧は78年に日本を訪問。新幹線に乗り、側近に「これが我々に求められているスピードだ」と漏らしたという。
 中国共産党の現実路線の特徴は、現状は共産主義の途上の「社会主義の初級段階」にあるとして、目の前の矛盾の解決手段は柔軟に選べばよいという点にある。共産党が進めた「社会主義市場経済」という壮大な実験を庶民も歓迎した。
 しかし、89年、世界を震撼させる天安門事件が起きる。民主化を求め天安門広場に集まった学生らに軍が発砲。当局発表で319人、実際にははるかに多くの犠牲が出たとみられる。共産党は若者の命を犠牲にしても政権を守ることを選んだ。
 「この国の主人公は誰なのか」。深刻な問いを突きつけられた共産党は、鄧の南巡講話で再び経済発展の道を突き進み、果実を示し続けることに政権の命運をかけた。2008年のリーマン・ショックを乗り切り、米国に次ぐ経済大国になったことは、中国が歩んだ道と独自の政治体制への自信を深めさせた。
 覇権主義のにおい 
 「立ち上がり、豊かになり、強くなる」。習氏はよく共産党の歴史をこう語る。中国は毛の時代に立ち上がり、鄧の時代から豊かさを目ざし、いよいよ大国に見合った力と地位を取り戻すのだという宣言だ。
 しかし、政権のエンジンだった経済成長は、少子高齢化などを背景に鈍化が避けられない。底上げが進んでいるとはいえ、農村住民と都市部の富裕層との間には気の遠くなるような格差が生じている。
 そのなかで、習氏は大国中国の復権という結党以来の目標に挑むことで、共産党への支持をつなぎとめようとしているように見える。しかし、新疆ウイグル自治区での人権問題や香港民主派への締め付けなどで強まる他国の懸念や抗議を寄せ付けず、国際秩序の変更を迫る姿に、世界はかつて中国が最も苦しんだはずの覇権主義のにおいを感じ取っている。中国共産党が100年の歴史から何をくみ取り、中国をどこに導くのか。その選択は、世界の将来にも大きな影響を及ぼす。 (中国総局長・林望)」朝日新聞2021年6月20日朝刊、4面総合欄。

 日中友好がお互いに歓迎されていた80年代、日本企業は「遅れた後進国」を助けて中国で大きな利益をあげ経済発展に力を貸している、などとうぬぼれていた。いまそんなことを言う人はどっちにもいない。日本はアメリカに次ぐ経済大国だといわれた時代は遠ざかり、いまや中国の前に日本の存在感は薄っぺらくなってしまった。時間の流れとはまことに驚くべきことだ。
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1930年の日本の若者の流行 3 普選と検挙  半世紀前の中国

2021-06-18 17:24:54 | 日記
A.1928(昭和3)年の普選と3.15の大弾圧
 ぼくが中学生のころだから、1960年代半ばごろ、上級生のひとりから民主少年団というものに誘われて、映画会とかちょっとしたイベントに参加したことがあった。小学生も含め子どもたちが集まって活動するボーイスカウトみたいなものかと思ったのだが、それが共産党系の民青(民主青年同盟)の人が指導していると聞いて、親や大人たちは、そんなものに行ってはいけない、共産党は危ない組織なんだとひどく神経質に叱られた。それでも、共産党とか共産主義ってなにがそんなに怖いものなのか、知りたくなった。それでそういう話ができる大人っぽく頭のよさそうな友達と3人で、少し本を読んだり語り合ったりするようになり、原水爆禁止とか自衛隊とか問題といったことが政治的な議論になっていることを知り、そんな世界があるんだと興味をもった。
 でも、共産党とかマルクス主義がどういうものか何も知らなかったし、周りの大人たちはそういう話題をすること自体、忌み嫌って避けていたから、ぼくたちは社会科の担任教師になにかよくわかる本を教えてほしいと言った。先生は、いきなりマルクスとか共産主義の本など読んでも中学生には理解できないはずだから、まず20世紀初めの第1次世界大戦とロシア革命の歴史をちゃんと知ることが必要だといって、当時中央公論が出していた『世界の歴史』シリーズの第13巻『帝国主義の時代』と14巻『第一次大戦後の世界』をすすめられた。これなら図書館にあるし、写真なんかも入っていて君たちも理解できるだろうと。読んでみると確かに、19世紀にマルクスが書いた『共産党宣言』や『資本論』などからマルクス主義が出てきて、ヨーロッパの労働運動や政治革命に影響を与え、20世紀に入ると帝国主義諸国の争いが第1次世界大戦になるなかで、ロシア革命が起こってソ連ができる。これを指導したのがレーニンの共産党だということはわかった。しかし、共産主義が目指す社会がどういうもので、ぼくたちがいる日本は共産主義が革命によって倒そうとする資本主義社会だというが、何がどう問題なのか、よくわからない。日本にも共産党があるが、それもロシア革命のようなことをやろうというのか?中学生のアタマでは、ますます簡単にはわからないことばかりだった。
 でも、どうやら日本の共産党は、戦前はロシア革命と同じことをやろうとしたらしいが弾圧や拷問で潰されてしまい、今の共産党はどうもそんなことは考えていないらしい…ということがわかるのは、高校生になってからだった。でも、まず歴史から学べといった先生は、正しかったな。

「ともあれ、まず、共産党の華々しい登場ぶりを見ていこう。1927年の暮から、コミンテルンの指示にもとづいて、大衆の前に、共産党はその姿を公然とあらわし、党勢拡大を図ろうとした、その舞台となったのが、28年2月の第一回普選だった。
 1925年に、普通選挙法と治安維持法が抱き合わせの形で通って以来、この年1月に初の帝国議会解散が行われたのである。普選法案によって、それまで納税額(直接国税三円以上)で制限を受けていた選挙権が、二十五歳以上の一般成年男子に拡大され、有権者はそれまでの334万人から、一挙に1254万人になった。
 前章で述べた無産政党運動は、この普選法案によって塗りかえられるべき新しい政治地図をめざしての運動だった。そして、無産政党のうちの最左派である労働農民党(以下、労農党と略す)は、
「現在ニ於ケル労働農民党ノ幹部又ハ中堅分子ハ其ノ中央ト地方トヲ問ハズ共産党員トシテ活動セル者多キヲ占メ又共産党ノ中央幹部ハ何レモ表面的地位ヲ有セザルモ裏面ニ在リテ労働農民党ヲ操縦シツツアリ労働農民党首ノ如キハ寧ロ一個ノ傀儡ニ過ギザルノ状況ナリ」(『秘密結社日本共産党事件ノ概要』伊東巳代治文書)
 という状態だった。だから、労農党がたてた40人の候補者のうち、11人が、実は共産党員だったのも不思議としない。共産党員候補者の中には、徳田球一、杉浦啓一、南喜一、山本懸蔵らがいた。
 選挙の結果から先に述べてしまうと、
  有効投票計    9,866,000
   うち無産党計   462,200
うち共産党計     40,100   という具合になる。といって、この数字をもって、当時の共産党の得票能力と考えることはできない。共産党候補者たちは、表向きはあくまで労農党候補であり、ほとんどが労働組合をバックに立候補していたのである。無産党、特に最左派の労農党への干渉はひどく、演説会は解散を命ぜられ、弁士や運動員が片っ端から検束拘留されたりしたのである。
 共産党の候補者は、最高が清原一隆(奈良)で九千票に迫り、最低は兵庫二区の近内金光で千票前後。残りはだいたい二、三千票台で全員落選した。最も共産党は、この選挙を当選者を出すためというより、宣伝煽動の場として闘ったのであるから、落ちて悔いなしというところだっただろう。
 当時の共産党の議会観と比べてみると面白い。「総選挙方針案」で、「共産党の議会参加の原則」を述べているところを要約してみる(ちなみに、これはコミンテルンの「共産党と議会制度にかんする指導原則」によったもので、当時の共産主義者の共通認識だった)。
 「あらゆる階級闘争は政治闘争であり、結局権力の闘争である。プロレタリアートはブルジョア議会を顚覆し自己の権力を確立するためには、ブルジョア国家機構をそのまま継承することはできない、それを破壊して新しいプロレタリア的国家機構(すなわちソビエト)を作らなければならない。
 共産党は改良的法律を獲得するために議会に参加するのではなく、ブルジョア国家機関の中心たる議会を内部から破壊するために参加する。
 階級闘争の重点は議会にあるのではない。ブルジョアに対するプロレタリアートの最も根本的闘争形態は内乱である。議会内における闘争は階級闘争の根本問題を解決することが出来ない。
 共産党は大衆闘争によってブルジョア政権を奪取することを目的とする。大衆闘争は内乱へ発展させねばならぬ。この大衆闘争の発展に対して、一つの補助的支点たり得るものは議会である、共産党の議会参加の一つの意義はこの補助的支点を占領することにもある。
 社会民主主義者は議会をもって国民の意思の表現と考へてゐる。だがプロレタリアートは大衆闘争を通じての、革命によってのみ政治権力を把握することが出来る。社会民主主義者は結局ブルジョア国家の擁護者に他ならぬ。共産党は徹底的に彼らと対立する」
 古典的なマルクス・レーニン主義は、議会と選挙をこうしたものとしてとらえる。
 つまり、議会制度とは破壊の対象であって、参加の対象ではない。共産主義者は議会には参加するが、それは議会制度を破壊するためなのである。
 この考えの前提には、議会制度はブルジョア階級が政治支配をつらぬくための機構であるという認識がある。したがって、議会を通じてプロレタリアートが政権を握ることは不可能で、暴力革命が唯一の道と判断する。そして、政権を握った後では、議会制度を存続させてはいけないとする。国家の機構は、支配階級が変ったら、別のものに変えられるべきだからだ。そしてそれは、ソビエト制度によるプロレタリア独裁だというのだ。
 以上の二点を否定し、議会を通じて社会制度を改良改革していくという主張をするものは、社会民主主義者と呼ばれ、
 「口と紙の上でだけ革命的なことをいひ、実際には労働者農民を裏切る、資本家階級の手先」とののしられた。後には、社会民主主義者は“社会ファシスト”とまでいわれ、共産党の激烈な攻撃の対象となる。いまにいたるも社共の抜きがたい対立があるのは、この時代にまでさかのぼる両者の相克があるからだ。」立花隆『日本共産党の研究』上 1978 講談社、pp.155-159. 

 戦前の共産党が、戦争に反対し弾圧され投獄されても、筋を貫いた「獄中15年」の闘士がいて、戦後のある時期まで、とくにインテリの間で強い影響力をもったということは知っていたが、ぼくは戦前の共産党の歴史についてよくは知らず、ただ小林多喜二の特高による虐殺などから悲惨なイメージだけもっていた。立花隆『日本共産党の研究』は、1976~7年に『文藝春秋』に連載されたころ、もっぱら当時の宮本顕治委員長の非合法時代のリンチ査問事件をめぐって、ジャーナリズムで騒ぎになったことは知っていたが、この本を読んだことはなかった。今回読んで、たしかに共産党についてはどんな立場に立つにせよ、これを読んでおくことは必要だなと思う。

 「もともと福本イズムに禍されて、組織拡大を怠ってきた党だから、もとが小さい。
 当時、『無産者新聞』(『赤旗』発行以前には、党から機関誌とみとめられていた)が週二万部発行していたことでもわかるように、共産党のシンパは万単位でいたと思われる。それだけシンパが多かったから、共産党が組織拡大戦術をとりはじめると、たしかに組織は拡大した。成長率はよかったが、もとが小さいだけに、絶対値では大したことがなかった。
 再建共産党が積極的に党活動をはじめたのは、27年暮からである。その時点で150名に満たなかった党員が、三・一五検挙で押収された党員名簿によると、409名にのぼっていた。検挙時点でも、党は急速に伸びつつあるところだった。党員であることを自白したが、党員名簿にのっていなかった人間が百名あまりいたのである。つまり、組織にはすでに加入していたが、党中央での事務処理がなされていなかったものが、それだけいたということだろう。また、『赤旗』は党員と党員候補にしか渡さなかったものだが、それが六百部から八百部出ていたということは、かなりの党員候補者がいたということでもある。それでも、万をもって数えるシンパ層の厚みとくらべると、いかにも少ない。
 シンパ層の厚みと党組織の弱さとのギャップ、これを戦前の共産党はついに克服しきれなかった。そしてそのために壊滅したのである。言葉を変えていえば、影響力はやたらに大きかったが、組織的政治力はまるでなかったということだ。思想運動としては成功したが、政治運動としては失敗したといってもよい。共産党は思想団体ではなく、政治運動体、革命運動体なのだから、これは党としてはあまり自慢になる話ではない。そもそも思想的成功の栄誉は、必ずしも共産党に与えられるべき筋合いのものではないからだ。丸山眞男の分析を借りるとこうなる。
 「ここでいいたい点は、戦前の日本での社会科学としてのマルクス主義の影響と、マルクス主義の文化及び政治運動、さらに日本共産党の運動、あるいはソ連を中心としたコミンテルンの運動と、それぞれを区別して論じないと、影響の範囲がよかれあしかれまるでちがうんですから、歴史がわからなくなると思うんです。
 それも30年代のごくはじめまでは、共産党を中心としたいくつもの同心円としてつかまえられないこともないが、それ以後になると、前にいいましたように私たちの実感では党組織のイメージがほとんど眼中になくて、しかもマルクス主義の思想と学問には相変わらず甚大な影響を受けている。日本共産党やコミンテルンを神聖化したという実感は、私なんかには戦前でも、一度もありませんね。にもかかわらず、マルクス主義世界観へのコンプレックスということだったらたしかにあった。あるいは私などより三、四年以上前のインテリだったら、たとえ運動に関係なくても、『党』には後光がさしていたのかもしれません。その点、『戦前では』というように一括されると、『違うなあ』という感じがします」(『昭和思想史への証言』)
 戦後久しい間、共産党が左翼人士の間で、「後光がさした」イメージで受けとられてきたのは、この点の混同があったからであろう。共産党内の人にはいまだにこの混同があるようだ。
 組織としての共産党、革命運動体としての共産党は、天皇制権力と天皇制イデオロギーに、完敗したのである。たしかにこの二つのものに屈服しなかった、ほんのひとにぎりの党員が獄中にはいた。獄外にも志をまげずにチャンスをうかがっている人々はいた。しかしそれは、もはや組織でも運動体でもなかった。幾人かの不屈の闘士は残ったが、党は壊滅していたのである。このことによって評価さるべきなのは、闘士たち個人であって、党ではない。
 天皇制権力と天皇制イデオロギーへの敗北は、第二次共産党のスタート時点からはじまっていた。前者(権力)については、弾圧に対する準備のなさ、当局の力量の過小評価にそれがあらわれていたことはすでに述べた。後者(イデオロギー)については、渡部義通の次のような分析がある。これは前に紹介した、下部党員のビラ貼りにあたって示された同様の別の角度からの分析である。
「問題は検挙の懸念だけではなかったのです。党員自身のうちにある天皇制の重圧が、ここには働いていたにちがいなかった。
 当時の党員たちは、だいたい数年以上の大衆運動の経験をもち、その能力と勇敢さと思想性とを党指導部が認めて選抜した、先進的な人びとだったはずである。その人びとにしてなお、天皇制にいどむ最初のビラ巻きでそのような揺らぎをみせたんだ。日本人の日常意識のなかに長年にわたって注ぎ込まれてきた天皇制イデオロギーが、民族の母斑のように、以下に深く頑強な根をはっていたかを、改めて考えさせられることであったと思う。
 共産党は、創立以来、天皇制打倒を戦略目標にしてきたにもかかわらず、国民意識における天皇制イデオロギーの歴史的重みを軽視してきたし、それが多かれ少なかれコミュニストのあいだにさえ潜在していることについて、十分の認識を欠いていたのです。だから、党も個々の党員も、その実態をえぐりだして、内なるものを克服する戦いをなおざりにして、天皇制に対する闘いを、中間項なしのナマのままで国民に訴えつづけることになる。コミンテルンの日本問題テーゼ(27年テーゼ、32年テーゼ)の作成スタッフにも、もちろんコミンテルンの指導者たちにも、天皇制問題の扱いについて細かい配慮がはらわれていたとは考えられない。かれらには、日本民族の各時代をつうじて占めてきた天皇制イデオロギーの意味と重みなどについては、わかりっこありませんよ。党が人民のまえに公然と姿をあらわした第一歩で、このビラ問題がおこったのは、決して不思議でなかったと思うんです」『思想と学問の自伝』」立花隆『日本共産党の研究』上 1978 講談社、pp.155-159.

 普選に立候補して大衆のまえに活動を開始した共産党は、その直後の3・15で根こそぎ逮捕され壊滅してしまう。その後も再建は繰り返されるが、この1927(昭和2)年以後、特高に検挙された共産党員たちが次々運動を捨てる「転向」をしてゆく。その大きな要因が、この天皇をめぐる問題だったが、これについては『日本共産党の研究』を改めてもう少し読んでみる。


B.米中対立の構図はもはや動かないのか?
 前年に沖縄返還を実現させた佐藤栄作内閣が終わり、1972(昭和47)年7月に、田中角栄が首相になると懸案だった日中国交回復が実現した。この年は冬季オリンピックが札幌で開かれ、夏のオリンピックはミュンヘンで開かれた(当時は春夏同年開催だった)。連合赤軍「あさま山荘事件」もこの年だった。考えてみれば、今とはずいぶん違う世界の構図だった。あれから20年くらいは日中友好は誰もが歓迎していた時代で、日本企業は中国に行って稼ぎまくっていた。中国も経済発展のために欧米日と良好な国際関係を維持しようと謙虚に振る舞うように見えた。だが、いまは中国もアメリカも、思想面でも行動面で対立を深め、緊張関係にある。これはきわめて危惧される状況だ。

 「対中警戒打ち出したG7  協調が招く 世界の分断  藤原 帰一 
 バイデン政権の下で世界の先進諸国は対中強硬策を共有しようとしている。中国台頭を前にしたこの選択は合理的で、必要でさえあるが、もたらす結果は米中対立を軸とした長期的な世界の分断である。矛盾に満ちた国際政治の構図を読み解いてみよう。
 G7サミット(主要7カ国首脳会議)の議題が対中関係だけだったわけではない。トランプ政権下ではアメリカとヨーロッパとの隔たりがあからさまな会議が続いただけに、今回のサミットはアメリカが多国間協調路線に復帰し、主要先進国との連携を示すことが課題だった。
 70項目に上る長文の首脳宣言にはパンデミックへの世界的対応、世界経済再生への選択、地球環境温暖化に立ち向かう一連の施策からジェンダーの平等に至る数多くの訴えが並んでいる。ここに示されるのはリベラルな政治体制を共有する諸国の協調、マルチラテラリズムの復活である。
  •    *    * 
 だがリベラルな国際協調の裏側には、リベラリズムとは相容れない諸国との明確な対抗があった。先に行われたG7外相会議を踏まえ、サミットの首脳宣言は、新疆ウイグル自治区での基本的自由や人権、香港の高度な自治の尊重を求め、台湾海峡の平和と安定の重要性を強調し、強制労働についても新疆ウイグルとの明言は避けつつサプライチェーンからの排除を求めている。
 香港、台湾、強制労働、どれをとっても中国政府が世界各国の関与を拒んできた課題である。サミットにおける人権と経済を始めとしたグローバルな諸課題における国際的連帯は、中国への警戒と対抗の共有でもあった。その後のNATO(北大西洋条約機構)首脳会議でも中国とロシアへの対抗が鮮明に打ち出されている。
 主要先進国が対中警戒で一致するのは新しい展開である。日本を始めとする東アジア地域における中国脅威論は今に始まったことではないが、東アジアから地理的に離れたヨーロッパ諸国では中国よりもロシアへの警戒が強く、経済成長の与える機会への期待のために対中政策は微温的であった。またトランプ政権の下のアメリカは中国への圧力を強めたが、中国における人権問題への関心は限られ、国防費や米軍駐留経費負担などを巡って同盟諸国の結束が弱まっていた。
 バイデン大統領はアメリカの単独行動ではなく同盟国・友好国の結束を求め、国際体制の見直しではなくその強化を模索している。今回のG7サミット、NATOの首脳会議、さらにEU(欧州連合)首脳会議への参加はアメリカの主導する国際協調を再建する試みだ。そして、この国際体制の担い手はリベラルな政治制度と経済体制を共有する諸国に限られている。多国間協調と国際連帯を確保した上でリベラルな体制を脅かす中国とロシアに立ち向かおうというのである。
  •    *    * 
 国際連帯には限界もある。今回のG7やNATO首脳会議では、アメリカやイギリスとドイツやフランスとの間には、どこまで中国に対抗するのか、政策の距離感が認められた。とはいえアメリカも、軍事介入によって香港や新疆ウイグルを解放すると言っているわけではない。政策の基本はあくまで中国における人権侵害や軍事的覇権への懸念の共有であり、軍事的には抑止力の強化が目的だ。そして逆説的になるが、介入ではなく抑止が重点だからこそ各国の賛同を得やすく、長期の国際連携を支えることも可能となる。
 私は、リベラルな価値と制度を共有する諸国における国際協調は適切な政策であると考える。同時に、このような政策が中国政府の政策転換は引き起こす可能性がごく少ないとも考える。
 トランプ政権の関税引き上げについては妥協を模索した中国も、一帯一路戦略は精力的に展開し、南沙・西沙諸島などにおける勢力圏の確保と拡大が続いた。サミット参加国やアメリカの同盟諸国が連携を強化したところで個の展開が変わるとは考えにくい。まして香港や新疆ウイグルにおける人権抑圧や強制労働は中国からみれば国内問題であり、国際問題とされること自体への反発が続く結果に終わるだろう。
 ここにあるのは、アメリカを中心とする「西側」諸国と中国・ロシアを中心とする「東側」諸国が不寛容に対峙するという国際政治の構図である。双方が軍事介入ではなく抑止、そして勢力圏の維持を図るとき、仮に戦争は起らなくとも、世界の分断は恒常化してしまう。地球環境の保全などのグローバルな課題については「西側」と「東側」が協力する場面もあるだろうが、それが世界の分断を克服する機会となる可能性は低い。
 国際協調の再建が世界の分断を招いてしまう。そんな世界に私たちは生きている。 (国際政治学者)」朝日新聞2021年6月16日夕刊2面、時事小言。
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