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 日本の前衛美術運動について 3 1924年の前衛アート  朝ドラの風

2024-08-08 14:23:28 | 日記
A.100年前の前衛絵画展 
 いま上野の都美術館で開催中の「デ・キリコ展」を、昨日見に行った。ジョルジョ・デ・キリコ(1888~1978)はイタリア人だが、父の仕事のためギリシャのヴォロスで生まれ、ミュンヘンで美術学校に学びながらニーチェの哲学や、ベックリンの作品から影響を受けた。第1次大戦時に兵役にありつつ「形而上絵画」と名づけた作品を描き、1910年代後半に詩人のアポリネールやシュルレアリストに衝撃を与えた。広場、形而上的室内、マヌカンなどのテーマは、初期から90歳の晩年まで繰り返し追及された。1869年生まれのアンリ・マティス、1876年生まれのモーリス・ド・ブラマンク、1982年生まれのジョルジュ・ブラック、1981年生まれのパブロ・ピカソ、といった20世紀初頭にフォーヴィスムやキュビスムで美術界を揺るがせた世代より少し歳若いキリコは、大戦後の荒廃したヨーロッパで新しい表現の一翼を担った。
 第1次世界大戦(1914・7~1918・11)は日本では大正3年から7年にあたるが、極東の新興国家には帝国主義的膨張への足掛かりを生かして利を得たチャンスで、戦後は画家や彫刻家を目指した若者がフランスやイタリアに渡って夢を見ることができた時代だった。そうした欧米を見てきた帰朝者が、これぞ欧州最新の美術だと張り切って活動を始めたのが1924(大正14)年の「三科公募展」だった。もはやタブローに絵の具を塗る絵画や、人体のブロンズ彫刻など古くさいから、もっと過激な前衛美術をやるのだ、と意気盛んだったのは、ドイツから帰って来た若者、1901年生まれの村山知義だった。

 「さて公約通り三科公募展は9月12日より23日まで、上野の東京自治会館で開かれ、入選91点、それに会員の出品を加えて122点という、前衛美術展としては、これまでの最大規模のものとなった。タブローから離れた構成的な作品が圧倒的に多くなって全体の四割に及び、ダダ的な雰囲気が濃厚にあらわれてきた。話題は入口に作られた「三科展門搭」で、マヴォとNNK(都市建設者同盟)の村山、岡田竜夫、高見沢路直、戸田達雄等の集団制作であった。個人主義芸術の範疇をこえた生産的構成が生んだ傑作である。また「門搭兼移動切符売場」も同類で、マヴォの精鋭岡田が画廊九段の中庭で、ふんどし一つでハンマーをふるって制作中の写真が新聞にのった。実用新案と皮肉られた村山の「折畳式新聞売場のデザイン」も同功異曲。鉄砲と棒切れを組立てた木下の「決行せるアナルヒストの心理的像」、彩色の棒を天井まで積み上げた玉村の「タトリンまではエヘラエヘラと昇りつめたり」、ガラス器の中に機械部品を入れて断髪女をあらわした仲田定之助の「ブーベンコップのヴィナス」等の構成的オブジェ作品が続々登場した。岡本にいたってはいきなり会場にやってき、その場で組み立てるインスタント芸術であった。拾ってきた荒縄二条を天井からつるし、中間に枯葉を入れた空箱をぶら下げ、一本は栄えゆくもの高等淫売、男妾、八等女優、一本は滅びゆくもの警視総監、二科帝展、文部大臣をあらわすとした。その滅びゆく警視総監の配下、警視庁保安部は悪名高いこの催しをマークして、部長以下続々検閲にやってきて、「決行せるアナルヒスト」等数点の撤回を命じた。
 村山は三科展の作品を要領よく分類して、
 一、純芸術的なるもの (64点)
ニ、実用性あるもの 
  社会運動的色彩を帯びたもの (5点)
  帯びざるもの (33点)
三、芸術否定の作品 (20点)
(三科展の弁、「中央美術」10月号)としたが、これでみるとタブロー的なものと、構成的なものとほぼ半々であることが知られる。大体だがアクション系は一、マヴォ系は三よりニにかけて、未来派美術協会系はその中間あたりを指向していたと思われる。以上三科の前衛頂上の三つのギザギザを簡単に解説し、分類したに止めたが、その性格をむしろ崩壊の過程で触れてみたい。
 村山は先の分類に続けて、三科の将来は決して予断を許されない。三科は揉める。三科は急転すると述べたが、その予言は見事に的中する。会期中に行われた新会員推挙で、新帰朝の仲田が推されただけであった。三科展で最も実質的な活躍を見せたのはマヴォで、特に岡田、高見沢、戸田の三人は創立会員でもしかるべきであったが、反マヴォの感情は会員間に意外に強く、今度もほされる次第となった。マヴォの憤まんは雷電の如く、某日、入場料分配問題を名目として、マヴォを主として、NNK、文芸連をまじえた集団の、村山、木下、玉村等に対する団交つるし上げ事件が起った。事態は紛糾し、最も白紙的な存在であった横井がまずマヴォの横暴許せぬとして19日脱退を表明、反マヴォイストの紳士大浦が同調、さらに矢部、中原等アクション系にも波及して、急転直下解散に決定した。展覧会はこのため19日を以て閉鎖したが、会期中解散とは美術界未曽有のこととして、衆議院と三科で記録を作ったといわれた。なんとも呆気ない幕切れだったが、なぜこんなにせっかちでなければならなかったか。
木下が三科の組閣を急いでいた時、大浦の反マヴォの眼にすでに三科の崩壊を予感したという。たまたま時の氏神がつなぎ合わせたとはいえ、しょせんは寄合い世帯の三科、三種目こなしただけでも上出来だったという外はない。その弱体の因はもっとさかのぼって考えねばなるまい。大正前衛の摂取がほとんど体験的集積をもたぬ大正型ともいえる頭脳的偏向からはじまっている。未来派の三色版(うつし)という悪評は日常のことだったし、最初のヌーベル・ヴァーグ体験のアクションの中川はフォーヴ、矢部はキューブと、それは前衛の最右翼であった。またヨーロッパでは戦争の大破壊の中から、前衛は死灰をふり払って生まれてきたが、日本ではいわば濡れ手で粟の勝利の繁栄ムードの中でうけとった。えらい違いである。いかに彼等が熱狂的に血道をあげても、そのディレッタント的甘さが、地についた仕事に定着させなかった。
 これに対しダダの洗礼をジカに受けた村山が帰った時に、運命の関東大震災が日本を襲った。頽廃と叫喚が急速にその過激な破壊力と否定の行動力を助長させ、それまでのディレッタンティズムのスローテンポを追いぬく驀進をみせ、これにせっかちな激しい愛憎をもって接近、対立させた。最後の体験者中原は、むしろダダよりシュールに近く肯定的な側にあった。しかし真にこわい伏兵は別にあった。岡本は「村山はアナとニヒの対立で、三科はつぶれたといっているが、或いはそうだったかもしれない。結果からみればアナヤニヒをボルが強く否定したということである」(『日本プロレタリア美術史』)といっている。
 前衛の終結:三科会が解散してから、すぐマヴォ一派をのぞいてこれを復活しようとする動きがあった。大正14年10月のはじめに、有志が集まって再興声明を出した。その中で三科があまりにも寄合い世帯にすぎたところに欠点があったといわれるのに対して、団体が個人の集合であることを忘れていたと反省し、会員たるものは三科以外に各個人として三科に存在すべきだということを強調した。しかし結局は従来のような総合的なかたちで、再建できず、それは二つの方向に分かれていった。その一つは三科インデペンデント系を中核としてやはり芸術中心主義に結成された「単位三科」である。大正15年5月に玉村善之助、中原実、大浦周藏、仲田定之介、村田実、田村蚊象、山崎清の七人が集まって、新三科として誕生したのである。ここでは前の再興声明にあったように、集団の中の個人の位置を神経質なほどに考えようとしている。
 結成に当たっての宣言文は中原実が作ったが、それは「1925年において、三科現象はまず最初の実験を経た。それは全くの予備実験であった。1926年度に引き続いて我々は実験をはじめる。形而上、下のあらゆる存在的及び非存在的を三科試験管に投じて実験する」とのべている。個人活動を万有への進行エネルギーと、それの時間との相乗積であらわし「単位」とし、単位性を強調するために、参加作家たちを無機的な記号であらわそうとした。まず作家たちを姓の順に並べてアルファベットをつけ、さらにその下にそれぞれの頭文字をつけて二重符号とした。たとえば一番初めの雨夜全はAT、次の千倉貫事はBKというぐあいで、これが「進行的エネルギーと時間の相乗積」をあらわす仕組になっており、一つの単位として自由に動くという意味を強調している。展覧会を定期的に九月に行うというのは従来のとおりで、その年の九月を原点として、次の年の九月に至るまでの一年の軌跡を、個人活動を単位三科としたように、1926年三科、1927年三科とするという構想であった。
 第一回展は結成と同じ五月にさっそく開いたが、個人活動尊重の趣旨から、実に毛色の変わった雑多な人たちが集まってきた。たとえば、人形芝居の人形座、演劇舞台装置研究の牧神の会、進歩的な建築団体の蒼宇社の人人、それに日活の新進監督村田実、詩人評論家橋本健吉、前衛誌「GE・GIMGIGAM・PRPR・GIMGEM」の編集野川隆らの名がみられた。展覧会の傾向はタブローとともに、いろいろな素材を駆使した構成的なものが半数を占めていたが、三科のダダ的なアクの強さはうすれて、精緻なものが多くなり、新実在主義的な表現や超現実的な傾向がふえてきた。しかしやはりマヴォのエネルギーとアクションの力がぬけて、すでに前衛としての魅力は失われつつあった。展覧会が終わると、引き続き三科時代の「劇場の三科」の復活をめざした総合劇活動の新版「劇場の三科」を朝日講堂で行なって気勢をあげた。しかしこれらの三科を大阪にもっていってやることにしていたが、舞台に火事騒ぎなどがあって頓挫し、はじめの意気込みにもかかわらず、急にしりすぼまりになってしまうのである。
 造形から造形美術家協会へ――プロレタリア美術への動き
 三科再興をめざすもう一つの流れは、単位三科より一足早く大正14年11月にアクション系の浅野孟府、岡本唐貴、矢部友衛、吉田謙吉、神原泰それに牧島貞一、吉原義彦、作野金之助、飛鳥哲雄、吉邨二郎の十名の同僚で「造型」に結集された。出発にあたっての彼らの宣言は次のとおりである。
 1 芸術は既に否定された。今やそれに代わらんとするのは新しい造型である。
 2 我等は快活に自由に積極的に造型する。
 3 陰惨なる破壊の時代は過ぎた。我等は最早かかる消極的活動には満足できない。今や時代は快活な飛躍をしようとしている。我等は飛ぼうではないか。
 この第三項の「陰惨なる破壊」といっているのは、ニヒリズムやアナーキズムを背景として、三科会で頂点に達したダダ的な活動であり、「快活な飛躍」というのはタブローとしての造形にたちもどって新しい突破口をみつけようとすることである。その第一回展は大正15年3月に開かれたが、「造型」の英文を「ZOUKEI SMALE」としているのも、快活に通ずる意図からであろう。カタログの中で造型は美学形式上の設定をリアリズムにおくこととし、さらにリアリズムの輪郭を生活的な社会的なものに規定する趣旨のことをのべている。これはあきらかに当時ロシアにおこりつつあった明るい健康を謳歌するリアリズムの影響をうけたものである。出品作はほとんどタブロー(絵画)で、肖像画などのリアリスティックなものが多くなったが、まだ三科時代のはげしさの残っているのもあった。神原泰の出品作「芸術的幸福から造型的幸福への踊るが如き進展」というタイトルは、この過渡的な造形の性格をよく物語っている。そしてこの中間ゾーンのようなぐあいにキュービスティックなスタイルが再び登場して、かなりのウェイトを占めたことも注目される。
 翌年1月に第二回展が、6月には第三回展が開かれたが、三回展の前に朝日新聞社主催の「新ロシア美術展」が開かれた。造型同僚の矢部友衛が依頼を受けてソ連にわたって準備したもので、アルヒポフ、ペトロフ、コンチャロスキー、マシコフら代表作家50名、400点にも及ぶもので、「快活なる飛躍」を期していた造型に大きな自信を与えた。そしてこのことはすぐあとに開かれた第三回展に一つの転機を与えることになった。三科会を通じてきたアクション色から脱皮して、単なる芸術否定の立場からでなく、はっきりとプロレタリア美術の方向をめざそうとしたのである。昭和2年11月機構を一新して、これまでアクションの芸術至上主義的前衛性を最も強く性格づけていた神原泰をのぞき、同僚の数もふやして、「造型美術家協会」として再編成を行なった。創立同僚のほかに、三科にも出品して現在デザイン界に活躍している原弘、DSDに関係していた平山鉄夫、それに野村達三、寄本司麟らが新たに同僚として加わった。再編成の案内状に、その主張するところはネオ・リアリズムにあり、プロレタリア・アートの意志と情熱の反映であるということをのべている。かくてこの造型美術家協会再編成の時期をもって、大正期前衛美術が終止のピリオドを打ったものと見ることが妥当であろう。
 大正から昭和へ――社会主義美術の台頭
 大正期の前衛美術が大正の終わりととともに、急速に終わったことと、昭和期の前衛美術がおこるまで深い断絶を作ったことについては、社会主義的な美術の動きに大きな関係があったと思われる。その意味から日本における前衛美術の展開の仕方と、ソ連における前衛美術のあり方とを比較するとおもしろい。1910年代における旧世界への激しい革命の遂行にともなって、ソ連の美術も既成に対する革命として、、未来派や立体派や構成派などの左翼的急進派の活動が盛んになったのである。ちょうど日本の大正期において、既成に対抗するという共通の姿勢から、社会主義的なものと前衛的なものとが交錯しながら、展開してきたのと似ている。
 しかし日本とソ連の前衛美術とは、正面切っての関係があったわけではない。日本の前衛諸傾向は西欧から受け入れたものであり、ソ連の前衛より一時期おくれてあらわれてきている。しかしロシア未来派の父といわれたブルリュックらの来日は、これをつなぐ微妙なパイプとなったと思われる。微妙なといったのは、その来日が白系ロシア人としての亡命で、いわばソ連からはみ出たかたちであったからである。
 ソ連では革命が達成されるや、つづいて国内戦争がおこったが、1922年に赤軍が勝利をおさめ、社会主義国家の体制が確立してくると、美術の上でも大衆労働者にもわかる社会主義リアリズムがおこり、それまでの前衛傾向は否定された。だから一時期おくれて出た日本の前衛は、否定されてはみ出たブルリュックらの前衛運動にタイミングよくつらなるかたちとなった。しかしこのことが伏線となって、ソ連美術に目をむけはじめたころに、三科会がゆきづまって解散したという関係にあり、その目はちょうど国内戦争後の社会主義リアリズムにあたることになった。ソ連の美術がこの社会主義リアリズムに変ったのは、イデオロギーの変化からであり、前衛スタイルを変えない作家たちは、カンディンスキーやペヴスナーやガボなどのように、いわば芸術亡命的なかたちをとるほどきわめてきついところがみられ、その後も前衛的なものは現代にいたるまで否定されているのである。したがって、それに目を向けていた日本でも、前衛への回帰はもはやそう簡単には果たし得ぬことであったのかもしれない。
 もっとも明確なイデオロギーに根ざしたものでなく、芸術亡命などという環境にもなかった日本の前衛作家は、大きな思潮的な流れの中というより、むしろ個人の中で屈曲し燃焼したため、根なしかずらのように前衛から社会主義リアリズムにわたって急角度に変わりながらも、一方では一度はまれば、そう簡単には回復できない断絶の溝に落ち込んだのだと思われる。」本間正義「日本の前衛美術」(『私の美術論集Ⅱ・現代美術・展覧会 美術館』所収)美術出版社、1988年。pp.55-62.

いつの時代も新しいものが出てくるのは、既成の権威を否定し上の世代を罵倒してはっちゃける若者たちの運動である。それは多分に未熟で稚拙だと見られるがゆえに過激で挑発的になる。アートという世界では、年若いということは強みになる。それが時代の風潮にのっかったとき、一気にヒーロー視されもする。ただ、そうした波は長く続かない。若さだけで突っ走ればやがて力尽きて消える。西洋の新思潮・流行に安易に乗った日本の前衛アーティストたちは、一時の祝祭を走り回ったけれど、大正から昭和に移る革命と戦争の風雨を生き延びる覚悟はあったのだろうか。


B.朝ドラの再生
 テレビを見ない若者が増えたといわれる。スマホとSNSが若者のメディアになって、あえて家でテレビを見る必要性がなくなったのは確かだろう。だが、国民的習慣ともいえる「朝ドラ」は、さすがに見る人は見ているし、それが現代のリアルなドラマとしてではなく、われわれの父母や祖父祖母が生きていた時代を背景にしたとき、歴史に対するリフレクシヴな学習になっていることも、「朝ドラ」の効果だとはいえる。
 NHK「朝ドラ」は1961年に始まって、2019年の「なつぞら」で100作を超え、今の「虎に翼」は110作目になる。これまでも、実在の女性をモデルに描いた作品はいくつもあるが、「日本で最初の女性~」という主人公の話は確かに興味深い。「虎に翼」は、女性初の弁護士・判事となった三淵嘉子さんの物語で、こういう人がいたのだということは、ほとんど知られていなかった。そして、主人公だけでなく、登場人物にこれまで注視されてこなかった人たちにも光が当たる。そこは新しい。

 NHK連続テレビ小説「虎に翼」が好評を博して終盤を迎える。男社会とぶつかりながら、日本初の女性弁護士、後に裁判官となった主人公の寅子だけではなく、そばにいる人々も魅力的だ。物語に深みを加える。
「仲良くても 思い至らない本名  大阪産業大准教授(近代朝鮮教育史) 崔誠姫さん
 崔香淑(ハ・ヨンス):朝鮮からの留学生で寅子らと法律を学ぶ。日本人と結婚して戦後に再来日。汐見香子と名乗る。
 このドラマの朝鮮文化考証に協力した。朝ドラで外地の人がしっかりと描かれることは珍しいのではないか。「まんぷく」はモデルになった安藤百福の台湾ルーツが反映されていない。「カーネーション」は大阪・岸和田が舞台で、当時の繊維産業には朝鮮人女工がたくさんいたのに触れられていない。そこにいたはずの存在が見えずにいた。
 香淑と寅子の対比が印象に残る。寅子の父は逮捕されるが、無罪で帰ってきて日常生活が戻る。でも香淑は、兄が思想犯の疑いで連行されると朝鮮に帰るしかなかった。戦争に向かう中で追い詰められていく弱い立場が描かれる。
 寅子たち日本人の女子学生は、差別することなく、香淑と仲良く遊ぶ。でも日本語読みの「さい・こうしゅく」ではない、「チェ・ヒャンスク」という本名があることに、別れの時まで思い至らない。日本社会の植民地支配に対する無自覚さが表れている。
 当時の日本人は「植民地」という言葉を使わなかったが、外地の人々を内地より下に見る意識はあった。それは現在も変わらない部分がある。先週の放送では関東大震災での朝鮮人虐殺についても語られていた。いまもなお差別があり、虐殺を否定する考えへの問いかけと言えるだろう。 (構成・安仁周)」朝日新聞2024年8月8日朝刊25面文化欄。
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