gooブログはじめました!

写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

横浜大洋と世界史の展望

2015-03-30 03:55:02 | 日記
A.野球のこと
 だいぶ前、ぼくはプロ野球を熱心に見ていた時期がある。子どもの頃は、野球は嫌いだった。男の子の友だちはみんな野球が好きで、しばしば空き地の原っぱで野球ごっこをした。ぼくはボールを握ったり投げたりするたびにこんなこと、何が面白いんだろうと気分が沈んだ。スポーツといっても、あの頃は野球か相撲くらいしか知らなかった。王長嶋の読売ジャイアンツが王者の時代だったから、みんなYGの帽子を被っていた。「巨人軍」に拍手を送る世の大勢にぼくは嫌悪を感じた。そこで、高校生の頃、大洋ホエールズに平松という投手がいて、普段はいい加減に投げているのに、巨人戦になると見違えるように張り切って健闘するので、ほう!と思った。やがてぼくの高校の部活の後輩が、なぜか横浜大洋のトレーナーになったこともあって、川崎球場から横浜に拠点を移したホエールズのファンになり、横浜球場にも何度か行くようになった。
 その頃、田代というバッターがいて、めちゃくちゃ空振りするのだが、当たると小気味のよいホームランを飛ばす。巨人の川上・広岡流管理野球に対して、大洋は大らかな野性を野放しにしている気がして好きになった。大洋漁業はプロ野球を手放して、横浜大洋ベイスターズになったがぼくは、すっかり弱小球団横浜のファンになったのだ。そして、昔の伝説奇跡的な三原大洋の一回だけの優勝以後は絶対に優勝などするはずがないと思われた横浜が、1998年再び権藤監督の指揮と奇跡の大魔神の佐々木の活躍でリーグ優勝、さらに日本シリーズを制するという信じられないドラマが実現した。
 投手の野村弘樹、斎藤隆をはじめ石井琢朗、波留敏夫、鈴木尚典、R・ローズ、駒田徳広、佐伯貴弘、進藤達哉、谷繁元信のマシンガン打線に、この年両親を連れて四国八十八カ所を巡礼していたぼくは、秋の四国で横浜の優勝の夜、一人で万歳!を叫んだ記憶がある。あれはもう、17年も昔の出来事なのか。それ以後、横浜ベイスターズは再び低迷し、DeNAベイスターズになって落ち目の巨人にせっせと星を献上する球団に逆戻りしている。でも、昨日は一矢を報いた、らしい。東京ドームでの対巨人戦、10対2で巨人に圧勝!嬉しい。

「開幕戦では土壇場で飛び出した関根のプロ初アーチで1点差まで追い上げるも、僅差での悔しい敗戦。今日からの巻き返しを図りたい横浜DeNAは、初回に2本の適時打と相手失策で一挙3点を先制!!さらに6回には梶谷・筒香の連続適時打にロペスの1号2ランHRが飛び出し一挙5得点と打線が爆発!!打線の援護に先発・山口も8回2失点と応えると、9回に筒香がダメ押し2号ソロHRを放ち、最後はプロ初登板のルーキー・山康が締めてゲームセット!!投打がガッチリ噛み合い、今季初勝利を飾った!!
昨日は相手を上回る9安打を放ちながらも2得点に終わった打線が、今日は初回から奮起!!先頭・石川の四球と盗塁に桑原の犠打でいきなり1死3塁の好機を作り出すと、梶谷が左線を破る適時2塁打を放って幸先良く先制に成功!!さらに梶谷の三盗に相手悪送球が重なり2点目、2死後からバルディリスにも左中間適時2塁打が飛び出すなど、一挙3点を先制!!昨日とは打って変わって横浜DeNAがペースを握る!!
一方、打線の援護を受けた先発・山口は、序盤から走者は出しながらも落ち着いて要所を締めるピッチング!!川村コーチも「テンポ良く、ストライクゾーンへ低く行ってくれれば、大きな心配はないだろう」と評価する投球でスコアボードに0を並べていく!!
すると6回、山口の好投に喚起された打線が爆発!!先頭・黒羽根、桑原の中前打などで2死1.3塁の好機を作り出すと、梶谷が「Goodです」と右中間を破る適時2塁打を放てば、続く筒香も「得点圏で打てたことが嬉しいです」と右前適時打を放ち巨人を突き放す!!そしてとどめはロペスが古巣へ恩返しの一発!!レフトスタンドへ移籍後初となる1号2ランHRを叩き込んで9点差とし、試合を決定付ける!!!
その裏、山口は2点を失ったものの大きく崩れることはなく、丁寧に低めをつく投球で巨人打線から凡打の山を築き上げ、8回を投げきって2失点。先発の役目を十二分に果たし、上々の今季初登板となった!!そして7点差で迎えた9回には、先頭・筒香が巨人5番手・西村のストレートを完璧に捉え、ライトスタンドの看板に直撃する2試合連続2号ソロHRを放ってダメ押し!!その裏は2番手・山康がプロ初登板のマウンドに上がり巨人打線を三者凡退に封じてゲームセット!!終始巨人を圧倒し、今季初勝利を快勝で飾った!!
昨日の鬱憤をすべて吐き出すような快勝で今季初勝利を挙げた横浜DeNAは、梶谷・筒香の3・4番コンビが合わせて8安打5打点と大暴れ!!明日は1勝1敗で迎える今カード最終戦。先発のマウンドにはオープン戦で好投を続けた三嶋が上がり、そこへ今日大爆発の3・4番コンビが加わる万全の体制で明日の一戦に臨む!! 結果はすでに知れているのだが、まいっか。



B.交換様式D!
 世界史がある法則の下に一定の方向に向かってすすんでおり、そこには気まぐれな無秩序や行き当たりばったりな偶然などではなく、厳然たる唯物論的な必然性があるのだ、という理論はとびきり頭脳優秀なエリートにとって、とても魅力的な状況だろうと思う。問題はそれが、実証主義的な面倒臭い、ドン臭い社会科学の論理ではなく、天才的な頭脳が生み出すエレガントな理性の産物に帰するかどうか、ということだろう。柄谷行人の明晰さというものは、どこまでもアタマの勝負であり、まるでバベルの塔のように堅固に構築された言葉の体系的構成体である。それが読んでみると意外に簡潔で、寄り道をしない思考の構築物だと思う。
 彼は交換様式を重視して、それを世界史上の発展段階(という言い方は避けるが)に適用した先に、第4番目の交換様式のヴィジョンとして「交換様式D」を提出する。これは未だ現実には存在していない、かくあるべき未来、可能かもしれないがさまざまな困難を必死で克服しなければならない理論上の到達点ということになる。

「それらに加えて、ここで、交換様式Dについて述べておかねばならない。それは、交換様式Bがもたらす国家を否定するだけでなく、交換様式Cの中で生じる階級分裂を越え、いわば、交換様式Aを高次元で回復するものである。これは、自由で同時に相互的であるような交換様式である。しかしこれは、前の三つのように実在するものではない。それは、交換様式BとCによって抑圧された互酬性の契機を想像的に回復しようとするものである。したがって、それは最初、宗教的な運動としてあらわれる。
 交換様式の区別に関して、もう一つ付け加えておこう。カール・シュミットは「政治的なもの」に関して、他から相対的に独立したそれに固有の領域を見出そうとして、つぎのように述べている。《道徳的なものの領域においては、究極的区別とは、善と悪とであり、美的なものにおいては美と醜、経済的なものにおいては利と害、たとえば採算がとれる、とれない、であるとしよう》。それと同様に、政治的なものに固有の究極的な区別は、友と敵という区別である、とシュミットはいう。だが、それは私の考えでは、交換様式Bに固有のものである。したがって、「政治的なもの」に固有の領域は、広い意味で経済的な下部構造に由来するといわねばならない。
 ついでにいうと、道徳的なものに固有の領域も、交換様式と別にあるわけではない。一般に、道徳的な領域は、経済的な領域とは別に考えられている。しかし、それは交換様式と無縁ではない。たとえば、ニーチェは、罪の意識は債務感情に由来すると述べた。ただし、彼は罪感情が交換様式Aから生じる負い目であることを見なかった。交換様式Cが浸透した近代では、罪感情は希薄になる。負い目を金で返せるからだ。このように、道徳的・宗教的なものは、一定の交換様式と深くつながっている。したがって、経済的下部構造を生産様式ではなく交換様式として見るならば、道徳性を経済的下部構造から説明することができる。
 交換様式A(互酬)を例にとろう。部族的な社会では、これが支配的な交換様式である。ここでは、富や権力を独占することができない。国家社会、すなわち、階級社会が始まると、交換様式Aは従属的な地位におかれる。そこでは交換様式Bが支配的となる。その下で、交換様式Cも発展するが、従属的である。交換様式Cが支配的となるのは、資本制社会においてである。この過程で、交換様式Aは抑圧されるが、消滅することはない。むしろ、それは、フロイトの言葉でいえば、「抑圧されたものの回帰」として回復される。それが交換様式Dである。
 交換様式Dは、交換様式Aへの回帰ではなく、それを否定しつつ、高次元において回復するものである。それは先ず、交換様式BとCが支配的となった古代帝国の段階で、普遍宗教として開示された。交換様式Dを端的に示すのは、キリスト教であれ仏教であれ、普遍宗教の創始期に存在した、共産主義的集団である。それ以後も、社会主義的な運動は宗教的な形態をとってきた。
 一九世紀後半以後、社会主義は宗教的な色彩をもたなくなる。が、大事なのは、社会主義が根本的に、交換様式Aを高次元において回復することにあるという点である。たとえば、ハンナ・アーレントは、評議会コミュニズム(ソヴィエトあるいはレーテ)に関して、それが革命の伝統や理論の結果としてではなく、いつどこででも、「まったく自発的に、そのたびごとにそれまでまったくなかったものであるかのようにして出現する」ことを指摘している。これは、自然発生的な評議会コミュニズムが、交換様式Aの高次元での回復であることを示すものである。
 交換様式Dおよびそれに由来する社会構成体を、たとえば、社会主義、共産主義、アナーキズム、評議会コミュニズム、アソシエーショニズム……といった名で呼んでもよい。が、それらの概念には歴史的にさまざまな意味が付着しているため、どう呼んでも誤解や混乱をもたらすことになる。ゆえに、私はそれを、たんにXと呼んでおく。大切なのは、言葉ではなく、それがいかなる位相にあるかを知ることであるから。」柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015. pp.12-15.
 
 なぜこれが記号Xと呼ぶしかないのか?社会主義、共産主義、アナーキズムをそのまま言葉で訴えることは、あまりにも手垢にまみれていて、20世紀後半から21世紀初頭における社会理念としてはふさわしくないと思われるからだろう。でも、メジャーな権力が追求しているあるべき社会とは、交換様式BあるいはCに依拠する市場原理を僕たちの社会に隅々にまで定着させることに目標設定されている。頭のいい理論家は、マルクスもヘーゲルもエンゲルスもフロイトも咀嚼したうえで、これに対抗するヴィジョンとしての交換様式Dを書きつける。でも、理論家玉野井先生や柄谷先生の議論を正面切って戦える人がどれほどいたのかな?

「以上をまとめると、交換様式は、互酬、略取と再分配、商品交換、そしてXというように、四つに大別される。これらは図1のようなマトリックスで示される。これは、横の軸では、不平等/平等、縦の軸では、拘束/自由、という区別によって構成される。さらに、図2に、それらの歴史的派生態である、資本、ネーション、国家、そして、Xが位置づけられる。
 つぎに重要なのは、実際の社会構成体は、こうした交換様式の複合として存在するということである。前もっていうならば、歴史的に社会構成体は、このような諸様式をすべてふくんでいる。ただ、どれが主要であるかによって異なるのである。しかし、それはBやCが存在しないことを意味するのではない。たとえば、戦争や交易はつねに存在する。が、BやCのような要素は互酬原理によって抑制されるため、Bがドミナントであるような社会、つまり、国家社会には転化しないのである。一方、Bがドミナントな社会においても、Aは別なかたちをとって存続した、たとえば農民共同体として、また、交換様式Cも発展した、たとえば都市として。だが、資本制以前の社会構成体では、こうした要素は国家によって上から管理・統合されている。交換様式Bがドミナントだというのは、そのような意味である。
 つぎに、交換様式Cがドミナントになるのが、いうまでもなく、資本制社会である。マルクスの考えでは、資本制社会構成体は、「資本制生産」という生産様式によって規定される社会である。だが、資本制生産を特徴づけるものは何であろうか。それは分業と協業、あるいは機械の使用などといった形態にあるのではない。というのは、そのようなものなら奴隷制でも可能だからだ。また、資本制生産は商品生産一般に解消されない。奴隷制生産も農奴制生産もむしろ商品生産として発展したのだからだ。資本制生産が奴隷制生産や農奴制生産と異なるのは、それが「労働力商品」による商品生産だということにある。奴隷制の社会では人間が商品となる。したがって、人間が商品化されるのではなく、人間の「労働力」が商品化されるような社会でなければ、資本制生産はありえないのである。また、それは、土地の商品化をふくめ、社会全体に商品交換が浸透しないと生じない。ゆえに、「資本制生産」は生産様式ではなく、交換様式から見なければ理解できないのである。
 資本制社会では、商品交換が支配的な交換様式である。だが、それによって、他の交換様式およびそこから派生するものが消滅してしまうわけではない。他の要素は変形されて存続するのだ。国家は近代国家として、共同体はネーションとして。つまり、資本制以前の社会構成体は、商品交換様式がドミナントになるにつれて、資本=ネーション=国家という結合体として変形されるのである。こう考えることによってのみ、ヘーゲルがとらえた『法の哲学』における三位一体的体系を、唯物論的にとらえなおすことができる。さらに、それらの揚棄がいかにしてありうるかを考えることができる。」柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015. pp.12-15.
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お帰りなさい!いやまだ帰れないんだ

2015-03-28 23:32:43 | 日記
A.「お帰りなさい‼川内村」
 福島県田村市に来ている。去年秋、原発事故で強制避難していた20㌔圏内の田村氏都路地区を中心に、学生とインタビュー調査をした場所である。福島県内で放射能汚染地域で昨年4月、最初に避難指示解除準備区域、つまり元の家に帰っても構わない、とされた最初の地域が都路で、これに続き昨年10月に解除準備区域になったのがお隣の川内村である。川内村には行ったことがなかったので、今日都路から川内村まで車で走ってみた。阿武隈山地山間部の村といっても、都路(平成の合併前は都路村)と川内村では微妙に風景が違う。川内村の方が平地が広く、水田が多い農村という感じである。ただし、震災から3年半人が住まなかった土地は、水田も荒れたところが多く、除染も完了していないようで、これからの復興への道はまだ遠い。しかし、今日は良いお天気でもあったせいか、あちこちに農作業を始めている人の姿があった。
昨年の帰還開始のときの新聞記事で確認してみた。

 日経2014.8.17
「政府は17日、東京電力福島第1原子力発電所事故に伴い、福島県川内村の一部に出した避難指示を10月1日に解除することを決めた。避難指示の解除は今年4月1日の田村市都路地区に続いて2カ所目。同原発20キロ圏内の旧警戒区域の復興がまた一歩進むことになる。一方で不安からすぐには帰還に踏み出せない住民も多く、地域再生への課題は山積する。
 政府は17日、同村で住民との懇談会を開いた。政府側は宅地などの除染が終わり、村道などインフラの復旧も進んでいることから、村内の避難指示解除準備区域は帰還できる状況にあると説明。帰還準備のための自宅宿泊期間が終わる翌日の今月26日か、村道復旧などの完了後の10月1日の解除を提案した。住民からは除染や生活環境の回復が十分でないとして、反対意見が相次いだ。しかし、遠藤雄幸村長は「帰還を望む人もおり、特に高齢者は時間がない。寒くなる前の10月1日の解除は避けられない」として解除を受け入れる考えを示した。これを受けて赤羽一嘉・原子力災害現地対策本部長(経済産業副大臣)が「帰還を強制することはなく、解除後も国の支援は続ける。10月1日に解除する方向で進めさせてほしい」と表明した。今後、原子力災害対策本部が正式に解除時期を決定する。
川内村は面積の35%が年間積算線量が20ミリシーベルト以下の避難指示解除準備区域、6%が同20ミリシーベルトを超すおそれがある居住制限区域。政府は10月1日に居住制限区域を避難指示解除準備区域に再編する方針で、制限区域から準備区域への変更は初となる。6月1日現在の人口は準備区域が139世帯275人、制限区域が18世帯54人。
政府は7月に同月26日の解除を住民側に提案したが、反発が強く見送った。8月に入り村が設置した有識者委員会が「避難指示の解除は妥当」との中間答申をまとめたことなどを受けて今回、改めて解除を提案した。」
 
 第一原発が立地する双葉町・大熊町をはじめ、今後も自宅に戻れない場所が多くあるなかでは、比較的放射線量の低いとされる都路や川内村は、5年目に入り原発事故を早く終息させたい政府や、補償や賠償を打ち切りたい東電の思惑は、モデル地区への住民の帰還と復興をアピールしたいところだろう。風景を眺める限り、どこまでも平和で落ち着いた農村である。しかし、住民の心は複雑である。



B.交換様式から建てる世界史
 柄谷行人『世界史の構造』は、読んでみるとやはりマルクスがベースにあり、とくに資本論の論理構成を下敷きにしながら、19世紀の資本主義論を21世紀の資本主義に適用可能なかたちに書き換えようとしているのかな、と読める。とりあえず出発点は、マルクスが立てた「生産様式」からではなく、「交換様式」から迫るという発想である。ぼくには何だか、30年も前に議論され一応読んでいたポランニーや社会人類学、などと、社会学ではわりとポピュラーなM・モースの贈与論や、全然違うのだがアメリカ製のホーマンズ交換理論を思い出した。

「交換といえば、商品交換がただちに連想される。商品交換の様式が支配的であるような資本主義社会にいるかぎり、それは当然である。人類学者マルセル・モースは、未開社会において、食物、財産、土地、奉仕、労働、儀礼等、さまざまのものが贈与され、返礼される後週的システムに、社会構成体を形成する原理を見出した。これは未開社会に限定されるものではなく、一般にさまざまなタイプの共同体に存在している。だが、厳密にいうと、この交換様式Aは共同体の内部の原理なのではない。マルクスは、商品交換(交換様式C)が始まるのは共同体と共同体の間であるということを再三強調した。《商品交換は、共同体の終るところに、すなわち、共同体型の共同体または他の共同体の成員と接触する点に始まる》(マルクス『資本論』第一巻第一編第二章)。ここで個人が交換しているようにみえても、実際には、家族・部族の代表者としての個人がそうしているのである。マルクスがこのことを強調したのは、交換の起源を、個人と個人の交換から考えたアダム・スミスの見方が、現在の市場経済を過去に投影しているに過ぎないことを批判するためであった。だが、同時に、われわれは、他のタイプの交換もまた、共同体と共同体の間で生じたということに注意しなければならない。すなわち、互酬も共同体の間に生じたのである。
 この意味で、互酬は、世帯内での共同寄託(再分配)から区別されなければならない。たとえば、数世帯からなる狩猟採集民のバンドでは、獲物はすべて共同寄託され平等に再分配される。しかし、このような共同寄託=再分配は、世帯ないし数世帯からなるバンドの内部にのみ存する原理である。それに対して、互酬は、世帯やバンドがその外の世帯やバンドとの間に恒常的に友好的な関係を形成するときにおこなわれるものだ。すなわち、互酬を通して、世帯を越えた上位の集団が形成されるのである。したがって、互酬は共同体の原理というよりもむしろ、より大きな共同体を成層的に形成する原理である。
 つぎに交換様式Bもまた共同体の間で生じる。それは一つの共同体が他の共同体を略取することから始まる。略取はそれ自体交換ではない。では、略取がいかにして交換様式となるのか?継続的に略取しようとすれば、支配的共同体はたんに略取するだけでなく、相手にも与えなければならない。つまり、支配共同体は、服従する支配共同体を他の侵略者から保護し、灌漑などの公共事業によって育成するのである。それが国家の原型である。国家の本質は暴力の独占にある、とマックス・ウェーバーは述べている。しかし、それが意味するのは、たんに国家が暴力にもとづくということではない。国家は、国家以外の暴力を禁じることで、服従する者たちを暴力から保護する。つまり、国家が成立するのは、被支配者にとって、服従することによって安全や安寧を与えられるような一種の交換を意味するときである。それが交換様式Bである。
 ここで付け加えておくが、経済人類学者カール・ポランニーは、人間の経済一般の主要な統合形態として、互酬や商品交換のほかに「再分配」をあげている(カール・ポランニー『人間の経済』Ⅰ玉野井芳郎・栗本慎一郎訳)。彼は再分配を、未開社会から現代の福祉国家にいたるまで一貫して存在するものと見ている。しかし、未開社会における再分配と、国家による再分配とは異質である。たとえば、首長制社会で、各世帯はいわば首長によって課税されているようにみえる。しかし、これはあくまで互酬的な強制による共同寄託である。主張は絶対的な権力をもっていないのである。しかるに、国家においては、略取が再分配に先行している。継続的に略取するためにこそ、再分配がなされるのだ。国家による再分配は、歴史的には、灌漑や社会福祉、治安のような公共政策という形をとってきた。その結果、国家は「公共的な」権力であるかのようにみえる。しかし、国家(王権)は部族社会の首長制の延長として生まれたのではない。それは元来、略取-再分配という交換様式Bにもとづくのである。ポランニーのように、再分配をあらゆる社会に同一的なものとして見出すのは、国家に固有の次元を見逃すことである。」柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015. pp.8-11.

 個人的なことだが、玉野井芳郎という名前には強い記憶がある。当時ぼくが教わっていた農村社会学の川本彰先生が、東大を定年間近の玉野井先生と「地域主義集談会」というのを始めていて、やがて玉野井先生は東大を辞めて「地域主義」の実践を兼ねて沖縄にできた沖縄国際大学に移られた。その時にぼくの同期の友人が、この縁で沖縄国際大学の助手になった。ちょうどその頃から、ぼくも出稼ぎ労働の調査で沖縄に通い始めていた。なんだか懐かしい気がする。

「つぎに、第三の交換様式C、すなわち、商品交換は相互の合意にもとづくものである。それは交換様式AやB、つまり、贈与によって拘束したり、暴力によって強奪したりすることがないときに、成立するのである。つまり、商品交換は、互いに他を自由な存在として承認するときにのみ成立する。ゆえに、商品交換が発達するとき、それは、各個人を贈与原理にもとづく一時的な共同体の拘束から独立させるようになる。都市は、そのような個人が自発的に作ったアソシエーションによって形成される。もちろん、都市もそれ自体二次的な共同体として、その成員を拘束するようになるが、一時的な共同体とはやはり異質である。」柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015. p.11.

 交換様式には上記のA,B,Cと3タイプがあり、それぞれ歴史上の古代氏族部族社会、古代国家から中世社会、そして近代資本主義に対応する。こまかく引用するのは繁雑だが、大枠は分かりやすい。マルクスは「生産様式」と労働価値説で経済的下部構造を描いていくのだが、柄谷は向こうを張って、「交換様式」で支配の構造を描いてみようというわけだ。意外にマックス・ヴェーバーが使われているのは、ふむふむなのである。
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生まれた赤子を愛せるか

2015-03-26 21:51:52 | 日記
A.「嫡出推定」という深い智慧
  いま、科学技術が進歩することは人間の生活を向上させ福利を高めるよいことだと考える人はとても多い。しかし、現代のさまざまな局面で先端科学のもたらす技術は、人間生活の基底的な在りようをすでに変えつつあり、それはたとえば生命や家族といったものの出発点に深刻な問題を投げかける。たとえばDNAである。
  そのDNA(Deoxyribonucleic Acid デオキシリボ核酸)は、細胞からなるすべての生物と多くのウイルスの遺伝物質。DNAはタンパク合成と複製を指令するのに必要な情報を伝達する。DNAをめぐっては現在、ヒトの遺伝物質を構成している30億対のヌクレオチドの塩基配列を全部明らかにしようとするヒトゲノム計画が進行中である。
  婚姻制度の本質は、ロマンチック・ラブとか性愛などにではなく、生まれてきた子どもを養育し保護する責任を誰にするか、公的に明示しておくということにあり、それは遺伝子的な血縁関係とは別であってもいいし、そうしておかないと不幸な赤子と産んだ母親は見捨てられるという悲劇が古代から発生していたことに由来する智慧なのだ。これはキリスト教の立場からも、生まれた子どもの生命は唯一の神の創造の産物であり、親の私物でもなく、家父長的血縁秩序に繋がらない「不義の子」という視点を最終的には否定するのだと思う。人間の子どもは未熟状態で生まれてくる存在で、他の動物のように数日で立ち上がる能力を持たない。少なくとも赤子は3年くらいは、手厚い保護のもとに暮らさなければ死んでしまう。性欲にまかせて女を孕ませて子を産むとなったら「オレは知らんよ」と逃げまくる男を、きちんと責任を取らせるところに結婚という制度の妙味がある。
 それがDNAという技術によって、言い逃れの口実に使われる可能性が出てきた。この計画は、遺伝性疾患をおこす突然変異を分析できるようにして、とくに遺伝的病を治療するために必要な情報が得られるようになり、医薬品や医療技術の開発もすすむと期待されている。法医学の分野では、DNA研究で開発された技術は、ある人物が犯人かどうかの確認に応用されている。犯行現場に残された少量の精液や皮膚や血液からとったDNAと、容疑者のDNAの比較も可能となり、結果は法廷で証拠として使われている。
  DNA操作技術は、遺伝子工学やバイオテクノロジーとして医薬品製造や、農業分野でも盛んに使われる。遺伝子操作で収穫が多く昆虫に対する抵抗力も強い作物ができ、畜産でも効率よく生産量を高め売れる肉や商品が生産されている。だが現時点では、バイオ食品が人体や環境連鎖におよぼす影響や、バイオハザードの予測は不確定で、問題も指摘されている

 遺伝子工学の話はさておき、ここではDNA鑑定が親子の生物学的血縁関係を「科学的に」証明できるとなったことで、民法が想定していなかった事態が起きている。
東北大学教授・水野紀子さん「DNA鑑定で血縁が否定されても法律上の父子関係は維持される――。最高裁は昨年夏、こんな判断を初めて示しました。妻が夫と同居中に別の男性の子供を出産したケースを巡る訴訟で、子どもと血縁上の父親との親子関係が否定されることになりました。私は妥当な判決だったと思います。
 生まれた子どもについて、分娩した女性の夫を父親と推定する。判決では民法の定めるこの「嫡出推定」の考え方が重視されました。日本の民法はヨーロッパ民法をモデルにしましたが、嫡出推定はローマ法にまでさかのぼる人類の発明品で、子どもを育てるために必要な要素だとされてきました。
 大切なことは、実子のうちに一定割合で血縁のない子が含まれることを織り込みずみという点です。法律上の親子関係が異なる事態を認め、その前提の下に、子供の地位を安定させる制度として続いてきました。
 現代でも、西欧諸国は嫡出推定を維持しているし、こうした考え方が市民社会のルールとして根づいているので、血液型などから夫の子どもでないとわかっても、そもそも非常に限られた場合しか提訴できません。技術が飛躍的に進んでDNA鑑定が簡単にできる現在でも、それをもとにした訴訟などあまりありません。親子関係をひっくり返す主張をできにくくして、子どもを守っているわけです。
 一方、日本ではDNAを巡る訴訟が起きる。その背景として戸籍制度の要因もあります。今の制度のルーツは明治初めにさかのぼり、同じ建物にいる雇い人まですべて記載することから始まり、間違いがあればどんどん直す考えに立っていました。ここでの親子関係を夫が訴訟で覆せるのは子どもの出生を知ってから1年以内とされました。両規定の間で揺れ動く不安定さが、明治以来の日本での親子関係を巡る制度の特徴だったといえます。
 そしていま、DNA鑑定が簡単にできる時代になりました。「自分の子ではないかもしれない症候群」も広がっています。気軽に鑑定を受ける人は今後もっと増えるかもしれません。
 冒頭の判決では「DNA検査の結果で子の将来を決めてしまうことにはためらいを覚える」として、DNA鑑定について、補足意見で警鐘を鳴らしました。フランスでは血縁を調べることを目的としたDNA鑑定は禁止されていますし、各国とも極めて慎重です。鑑定は、場合によっては家庭を壊し、子どもを傷つけかねない。何らかの規制が必要だと考えています。」(聞き手・辻篤子)朝日新聞2015年3月25日朝刊17面オピニオン欄・耕論「DNAと親子」

同じ欄で神里彩子さん(東大特任准教授)は、こういうことも言っている。
「いま急ぐべきなのは、第三者が関与する生殖補助医療で生まれた子どもの親は誰か法的に明確にすることです。法務省の法制審議会が、「DNAのつながりはなくても産んだ女性が母親。夫で生殖補助医療に同意した人が父親」という試案をまとめたのはもう10年以上前です。私は妥当な内容だと思いますが、異論もあるためにたなざらしにされ、政治の動きも鈍い。その結果、誕生する子どもの法的地位が不明確なまま生殖医療が続く形になっています。
 新たな法整備を考える場合に大切なのは、DNAにこだわらない、ということです。親子関係を決めるときの規準として重要なのは、DNAを受け継いでいるかではなく、だれが親としてふさわしいか、だと思います。そんな考え方が国際的にも主流となっています。当たり前ですね。DNAは子育てをしてくれませんから。」(聞き手・辻篤子)

  どうして日本ではこの「嫡出推定」の考え方に反発し抵抗する政治家や法律家がいるのだろう?たぶんそれは伝統的な家族の倫理、万世一系的長子相続イエ血縁原理を「うるわしいニッポン」の価値だと考える人たちが、自分の支配下にあるべき妻が自分以外の男の子を産むことなど許せん!という感情に捉われて社会システムということを考える能力がないことに由来する。そのような男たちに限って、実は機会さえあれば妻以外の女と寝たい、可愛い娼婦と楽しい夜を過ごすことにはお金を惜しまないという人がいるのだと思うな。要するに、伝統的な家族の倫理を言うことと、現実の社会に起っていることの矛盾を見ようとしないダブル・スタンダードなのだと思う。



B.柄谷行人『世界史の構造』を読んでみる
 2010年に刊行された柄谷行人『世界史の構造』岩波書店は、その構想とある意味でこれ以上ないほどの大風呂敷で、ひとしきり岩波的知識人世界で大きな話題になった。ぼくもつられて本は買った。なにせことはカント、ヘーゲル、マルクス、およそこの二百年来の人類の歴史を考える際に、どうしても触れずにはすまないビッグ・ネームの中心に切り込む、気宇壮大な著作である。欧米をはじめ東欧やアジアでも翻訳されて、日本の思想家として世界に鳴り響くところまで達した柄谷先生の、最新理論の決定版ともいえる本である。
 ぼくは別に書いた人が日本人だとか、書かれた言葉が日本語であることに特別の価値は感じないが、今まで読んだ日本語の本で、これは確かに只者でない、肝に銘じて読む価値のある文章だと思ったのはそう多くはない。日本の戦後思想史ということでいえば、丸山真男、鶴見俊輔、竹内好、それにちょっと抵抗はあるのだが吉本隆明、江藤淳は外せない。その後の世代で読むに値する人としては、今のところ柄谷行人は筆頭である。ぼくらは先達としての知的兄貴を必要としていたし、柄谷氏はその期待を今まで裏切らなかった。まずは「序文」から・・・。

「私は、「マルクスをカントから読み、カントをマルクスから読む」という仕事を「トランスクリティーク」と名づけた。これはむろん、この二人を比べることや合成することではない。実は、この二人の間に一人の哲学者がいる。ヘーゲルである。マルクスをカントから読み、カントをマルクスから読むとは、むしろ、ヘーゲルをその前後に立つ二人の思想家から読むということだ。つまり、それは新たにヘーゲル批判を試みることを意味するのである。
 私がその必要を痛切に感じたのは、東欧の革命に始まりソ連邦の解体に進んだ一九九〇年頃である。その時期には、アメリカの国務省の役人であるフランシス・フクヤマがいった「歴史の終焉」という言葉が流行していた。この言葉はフクヤマというより、フランスのヘーゲル主義者アレクサンドル・コジェーヴにさかのぼえることができる。コジェーヴはヘーゲルの「歴史の終り」という見方をさまざまに解釈した人であった。フクヤマはこの概念を、コミュニズム体制の崩壊とアメリカの窮極的勝利を意味づけるために用いたのである。彼は、一九八九年の東欧革命は自由・民主主義の勝利を示すものであり、これ以後にもはや根本的な革命はない、ゆえに歴史は終わったといおうとしたのである。
 フクヤマの考えを嘲笑する人たちは少なくなかったが、ある意味で彼は正しかった。むろん、一九九〇年に起ったことがアメリカの勝利であるというのなら、彼はまちがっていた。最初、アメリカの覇権が確立され、グローバリゼーションや新自由主義がいったん勝利したようにみえたとしても、二十年後の現在判明したように、それらは破綻を来したからである。その結果、各国で、多かれ少なかれ、国家資本主義的ないしは社会民主主義的政策がとられるようになった。これは大統領オバマがいう「チェンジ」のようにみえる。しかし、この変化は「歴史の終り」を覆すものではなく、むしろそれを証明するものである。
 『トランスクリティーク』で、私はつぎのように述べた。ネーション=ステートとは、異質なものである国家とネーションがハイフンで結合されてあることを意味している。しかし、近代の社会構成体を見るためには、その上に、資本主義経済を付け加えなければならない。つまり、それを資本=ネーション=ステートとして見るべきである。それは相互補完的な装置である。たとえば、資本制経済は放置すれば、必ず経済的格差と対立に帰結する。だが、ネーションは共同性と平等性を志向するものであるから、資本制がもたらす格差や諸矛盾を解決するように要求する。そして、国家は、課税と再分配や諸規制によって、それを果たす。資本もネーションも国家も異なるものであり、それぞれ異なる原理に根ざしているのだが、ここでは、それらがボロメオの環のごとく、どの一つを欠いても成り立たないように結合されている。私はそれを、資本=ネーション=国家とよぶことにしたのである。
 私の考えでは、フクヤマが「歴史の終焉」と呼んだ事態は、この資本=ネーション=国家が一度できあがると、それ以上に根本的な変革がありえないということを意味する。実際、近年の世界各地の「チェンジ」は、資本=ネーション=ステートが壊れたどころか、そのメカニズムがうまく機能していることを証明しているにすぎない。資本=ネーション=ステートという環は安泰である。その回路の中に閉じこめられているという自覚がないため、人々はその中をぐるぐるまわっているだけなのに、歴史的に前進していると錯覚しているのである。私は『トランスクリティーク』でつぎのように書いた。

 資本主義のグローバル化の下に、国民国家が消滅するだろうという見通しがしばしば語られている。海外貿易による相互依存的な関係の網目が発達したため、もはや一国内での経済政策が以前ほど有効に機能しなくなったことは確かである。しかし、ステートやネーションがそれによって消滅することはない。たとえば、資本主義のグローバリゼーション(新自由主義)によって、各国の経済が圧迫されると、国家による保護(再分配)を求め、また、ナショナルな文化的同一性や地域経済の保護といったものに向かう。資本への対抗が、同時に国家とネーション(共同体)への対抗でなければならない理由がここにある。資本制=ネーション=ステートは、三位一体であるがゆえに、強力なのである。そのどれかを否定しようとしても、結局、この環の中に回収されてしまうほかない。それは、それらがたんなる幻想ではではなくて、それぞれ異なった「交換」原理に根ざしているからである。資本制経済について考えるとき、われわれは同時にそれとは別の原理に立つものとしてのネーションやステートを考慮しなければならない。いいかえれば、資本への対抗は同時にネーション=ステートへの対抗でなければならない。その意味で、社会民主主義は、資本主義経済を超えるものではなくて、むしろ、資本制=ネーション=ステートが生き残るための最期の形態である。

 これを書いたのは一九九〇年代であったが、現在でもそれを修正する必要はまったくない。資本=ネーション=ステートは実に巧妙なシステムなのである。だが、私の関心はむろん、それを称揚することではなく、それを越えることにある。この点に関して、『トランスクリティーク』を書いていた一九九〇年代と、二〇〇一年以後では、私の考えはかなり違っている。私に「世界史の構造」の包括的な考察を強いたのは、二〇〇一年以後の事態なのである。
 一九九〇年代では、私は、各国による資本と国家への新たな対抗運動を考えていた。明確なヴィジョンがあったわけではないが、漠然と、そのような運動は自然に、トランスナショナルな連合となっていくだろうと考えていたのである。一九九九年のシアトルにおける反グローバリゼーション運動に象徴されるように、そのような雰囲気が各地に存在した。たとえば、デリダは「新しいインターナショナル」を提唱し、ネグリ&ハートは「マルチチュード」の世界同時的な反乱を唱えていた。私自身も似たような展望をもちつつ、実践的な運動を開始していた。
 しかし、このようなオプティミズムは、二〇〇一年、ちょうど私が『トランスクリティーク』を出版したころに起った、九・一一以後の事態によって破壊された。この事件は、宗教的対立と見えるが、実際には「南北」の深刻な亀裂を露出するものである。
また、そこには、諸国家の対立だけでなく、資本と国家への対抗運動そのものの亀裂があった。このとき、私は、国家やネーションがたんなる「上部構造」ではなく、能動的な主体(エージェント)として活動するということを、あらためて痛感させられた。資本と国家に対する対抗運動は一定のレベルを越えると必ず分断されてしまう。これまでもそうであったし、今後においてもそうである。私は『トランスクリティ-ク』で与えた考察を、もっと根本的にやりなおさねばならない、と考えた。」柄谷行人『世界史の構造』序文、岩波現代文庫、2015.pp.iii-viii.

 ぼくたちが、これからの世界に生きていくために(ぼくは明日にも死んでしまうという存在であるということを織り込んだうえで)、何を心の奥深くで自覚していたいかという問題を立ててみる。そこでたぶん、このような問題意識をとびきり優秀な柄谷氏が書いているのだが、それを自分自身の課題として痛いほど自覚する人がごくわずか、たった数百人しかいないから、現実の歴史過程では敗北するとしても、1945年8月の大日本帝国の敗北が示したように、資本=ネーション=国家にしがみつく人類史の闘争は、1千光年のSF的な未来像ではなく、たかだか5年先の自由民主党安倍政権の奇妙なもがきの愚劣について、少しでも若い人々に気づいてほしいと願っている。

「私の課題は、ある意味で、マルクスによるヘーゲルの批判をやりなおすことであった。というのは、資本・ネーション・国家を相互連関的体系においてとらえたのは、『法の哲学』におけるヘーゲルであったからだ。彼は資本=ネーション=国家を、どの契機をも斥けることなく、三位一体的な体系として弁証法的に把握したのである。それはまた、フランス革命で唱えられた自由・平等・友愛を統合するものでもある。マルクスはヘーゲル『法の哲学』の批判から出発した。しかし、その際、彼は、資本制経済を下部構造とし、ネーションや国家を観念的な上部構造とみなした。そのため、資本=ネーション=ステートという複合的な社会構成体をとらえられなくなったのである。資本制が廃棄されれば、国家やネーションは自然に消滅するという見方がそこから出てくる。その結果として、マルクス主義運動は国家とネーションという問題で大きな躓きを経験してきたのである。
 その原因は、マルクスが、国家やネーションが資本と同様に、たんなる啓蒙によっては解消することができないような存在根拠をもつことを見なかったこと、さらに、それらがもともと相互に連関する構造にあることを見なかったことにある。資本、国家、ネーション、宗教を真に揚棄しようとするのであれば、まずそれらが何であるかを認識しなければならない。たんにそれらを否定するだけでは何にもならない。結果的に、それらの現実性を承認するほかなくなり、そのあげく、それを越えようとする「理念」をシニカルに嘲笑するにいたるだけである。それがポストモダニズムにほかならない。
 したがって、マルクスによるヘーゲルの批判をやりなおすということは、ヘーゲルが観念論的であれ把握した近代の社会構成体およびそこにいたる「世界史」を、マルクスがそうしたように唯物論的に�莖倒しつつ、なお且つ、ヘーゲルがとらえた資本・ネーション・国家の三位一体性を見失わないようにすることである。そのためには、生産様式ではなく、「交換様式」から世界史を見るという視点が不可欠である。歴史的に、どんな社会構成体も、複数の交換様式の結合として存在する。ただ、どのような交換様式が主要であるかによって異なるのである。資本主義的な社会構成体は、商品交換様式が主要であるような社会構成体であり、それに合わせて、他の交換様式も変容される。その結果として、資本=ネーション=ステートが形成されたのである。」柄谷行人『世界史の構造』序文、岩波現代文庫、2015.pp.ix-x.

 文化人類学的な原初的な社会システムを原型とする、資本=ネーション=ステートというそれぞれ原理を異にする観念のうち、近代合理主義的な経済システムである資本主義、古代以来物理的暴力の組織化としての国家の理解はそう難しいものではない。人が日々生きていくための食糧・衣食住・娯楽を提供する資本制経済、平和な日常・安全な生活を維持する政治機構、これは誰にとっても文句はない国家の機能である。問題は、それをイデオロギーとして支えているネーションである。ネーションには、「日本人」という、同じ言葉、同じ文化、同じ歴史的記憶を共有する無意識の共同体感覚がある。「世界史」という視点は、このネーションの言説を相対化すると同時に、この21世紀の未来に対して、「世界史」の動向にぼくたちがどういう構想を提起できるのか、という、きわめて大袈裟な、ある意味ではファンタスティックな、歴史を踏みしめながら、歴史を一気に飛び越えようという志向も秘めているのである、のだな。ちょんちょん!
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リスクと誤謬 どこが間違っていたのか

2015-03-24 14:18:12 | 日記
A.リスクと負担について
 先週仙台で行われた国連の防災会議には、世界各国から集まった代表が今後起こる可能性のある大災害に何をすべきか、そのために国際協力として何ができるかを話し合ったという。たまたまぼくはその時宮城県に行っていたので、車で走りながら聴いていた地元のラジオでは、盛んに東北の経験を世界に発信、みたいなことを言っていた。それはいいけど、この会議では福島原発事故のことは「天災ではないから」と話題としてもとりあげられなかった。
 巨大災害は多くの人の命や財産を奪う理不尽な出来事だが、自然現象を人間が完全にコントロールなどできないことは、誰でもわかる。起きないように、ではなく、起きたらどうするのかに知恵を絞るしかない。しかし、ことが「天災ではない事故」だとしたら、起きてしまった以上責任というものが問われ、損害賠償を誰がどういう形で行うかが問題になる。原発の管理者は東京電力という私企業だが、被害は大きく長期にわたるので東電だけでは負担できない、ということから国が東電を「支援」して莫大な費用をとりあえず賄っている。でもこれは借金でやり繰りしているわけで、国民、とくに福島の電力の需要者であった東京首都圏に住む人に、電力料金という形で最終的なつけが回ってくる。

 東京新聞本日(2015/03/24)朝刊3面にこういう記事が載っていた。
「除染費と東電損賠費の利息:最大1200億円超国民負担に
 会計検査院は二十三日、東京電力福島第一原発事故で、国が税金で負担している除染や、東電の被害者への損害賠償費の利息が、最大で千二百億円を超えるの試算を明らかにした。
 試算では、国が肩代わりしている除染や賠償の資金援助額が上限の九兆円となった場合、偏在を終えるまでに最長三十年間かかり、その間の金利負担が最大で千二百六十億円に上る。国は金融機関から資金を調達して東電に援助しているが、利息分は返済を求めず、国民の負担となる。
 また、検査院は福島第一原発1~4号機の廃炉・汚染水対策に国が投じた費用が、これまでに総額千八百九十二億円に上ったことも明らかにした。
 検査院によると、国は廃炉・汚染水対策として、1~4号機の建屋周りの地盤を凍らせて壁をつくり、地下水の流れを止める「凍土遮水壁」の建設に三百十九億円をかけた。汚染水からほとんどの放射性物質を取り除けると期待される高性能の除染装置の開発には百五十億円を投じた。
 このほか、原子炉格納容器の水漏れ場所を特定する技術開発(十六億円)をはじめとした補助金事業や、研究委託費などに支出された。汚染水対策は問題が次々と起きているほか、原子炉から溶け落ちた核燃料の状況も不明で、今後も研究開発などの財政負担が増す恐れがある。」

*福島原発事故の賠償制度:政府は2014年1月、東京電力への新たな支援の枠組みを決めた総合特別事業計画を認定。約2兆5000億円の除染費用などを見込み、東電への資金援助として原子力損害賠償・廃炉等支援機構に交付していた国債の上限を5兆円から9兆円に拡大した。資金回収には東電を含む電力各社などが機構に支払う2種類の負担金に加え、機構が保有する1兆円分の東電株の売却益や、国が機構に交付する中間貯蔵施設関連費用約1兆1000億円を充当。各社の負担金は、国民が支払う電気料金などで賄われている。
 会計検査院の検査対象
 内閣から独立した地位で国の予算が適切に使われたかどうかチェックする会計検査院は、国の機関や、国が2分の1以上を出資する法人、国の出資法人がさらに出資した企業などを検査対象としている。国から財政援助を受け、原子力損害賠償・廃炉等支援機構からも出資を受けている東京電力は対象となる。民間企業ではほかに日本郵便やJR北海道なども含まれる。」

 この記事の下には「東電メーター7.7億円分余剰 在庫不要品の恐れ」という記事もあり、同様の会計検査院の調べとして、東電が2012年に電気料金の新たなプランを設定した際、契約者数を過大に見積もったため、購入した専用の電気メーター約八万五千台(約七億七千万円)が余り、在庫となっているという。現在東電は新しい電力計(スマートメーター)の設置を進めているので、この在庫は不用になる恐れがあるという。
 また、この記事の左には「残業代ゼロ法案近く閣議決定」の記事もある。これは成長戦略の一環として安倍内閣が進める「高度プロフェッショナル制」(残業代ゼロ法案と呼ばれる新制度)の説明が載っている。労働基準法が定める八時間労働制の適用除外を設けるもの。

 われわれが通常の社会生活を営むには、いろんな負担を担わなければならず、税金をはじめ公共のサービスを買っているとも言えるのだが、ふだんそこに大きなリスクを意識していない。だから、このような大規模災害のリスクを国が負担することはやむをえないと考え、それが結局われわれや次の世代まで及ぶのも仕方がないと頭では納得するだろう。しかし、それが責任の所在と今後の対応を含めじゅうぶんな説明と合意の上に行われているかどうか、被災地の現実、除染の効果、とくに最終処分をめぐっては疑念を抱かざるを得ない。



B.「哲学」の役割について
 廣松渉『〈近代の超克〉論』を読んできて、その焦点が京都学派の哲学的営為に絞られてくること、それのどこが問題なのかを追いかけてきた。いよいよ結論部分である。

「京都学派における哲学的人間学というとき、人は直ちに三木清を想起することであろう。三木はまさしく哲学的人間学の論客として登場し、この見地に立ったマルクス解釈で旗幟を明らかにしただけでなく、最期にいたるまで哲学的人間学の構築に腐心しつづけたのであった。三木のそれは、ハイデッガーなどのインパクトに由るものであって、『善の研究』からスタートした西田幾多郎の姿勢とは必ずしも一致するものではない。また、後に種の論理を説いた田辺元の国家哲学・人間哲学とも発想の軌跡を異にする。しかし、顧みれば西田・田辺の哲学がもともと哲学的人間学と馴染み易い体質をもっていたことが思い合わされる。仮令この件は措くべきだとしても、和辻哲郎の「人間の学としての倫理学」は如何?また、カント哲学を「人間学」的な見地から解釈してみせた高坂正顯、そして、大著『哲学的人間学』を若くして書いた高山岩男、このように挙げてみるとき、当時のドイツにおいて広義の“哲学的人間学”が哲学界の一流行であったという事情を汲むにしても、ともあれ京都学派においては哲学的人間学が論軸になっていたことが認められよう。
 高山岩男は『哲学的人間学』「再刊の序」のなかで「私がこの『哲学的人間学』を出版したのは昭和十三年で、執筆に従事したのはもう三十数年も前のことになった。私は当時世界に支配的だった近代文明、近代化、近代哲学のその『近代』なるものーーその最も精錬されたものがカント主義であるーーに疑惑をもち、カントのいわゆる理性批判をもって人間を尽くそうとする立場に対し、理性以前と理性以上の二領域の構造や本質を明らかにすることが、現代哲学に最も緊急の課題ではないかと考えた」と書き、哲学的人間学の課題意識が奈辺にあったかを自ら述べているが、この書物は慥かに当の課題に応える形のものになっている。近代の超克ということがこの一書を執筆した時点の高山によってどこまで意識されていたかは別として、人間学的立場の特質を説いた次のごとき条りが本文中に見出される。
「人間学は存在論と認識論とを否定すると共に、存在論や認識論が果さんとする職能を自ら代行しようとするものである。人間学は哲学の基礎学として出発すると共に、必然的に人間学的哲学たることを要求する。・・・・・・この場合、人間学的哲学は当然存在論的哲学や認識論的哲学とは異った根本原理に立つのでなければならぬ」。
「人間学的立場は畢竟唯心論・唯物論の対立を超えるのである。物心の対立以外の境に、あるひは物心の対立連関の中に、あるひは物心の対立の彼岸に、人間を捉えようとするのが人間学的立場の基本特色である」。
 読者は、われわれが先に祖述・紹介しておいた高坂正顯による人間疎外の告発の論脈、さらにはまた、三木清による協同主義哲学の立場設定などを茲に想起されるであろう。そして、この哲学的人間学が京都学派における西田哲学の超克論にとって立場設定の基礎になっているという事情、これが一方における西田哲学の原理と他方における時務の論理とをつなぐ媒介項たりうる所以のものについて、大凡の筋立ては容易に表象されることであろう。
 当座の論件は、しかし、媒介の論理ではなく寧ろ謂う所の哲学的人間学そのものの地平である。京都学派の哲学的人間学は、人間存在の社会性の次元、民族や国家の次元をそれなりに勘案しようという姿勢になっていた関係で、一面ではマルクス主義の社会科学的な知見を“取込み”つつも、他面では拙速にマルクス主義の“不備”“欠落”を“批判”する所以となった。けだし、彼等の眼には、マルクス主義は社会や階級を説くに急であって、国家や民族の次元について大いなる落丁を残したままであると映じていたからである。
 当時におけるマルクス主義の論陣がーー三木清の「人間学のマルクス的形態」などを却けた経緯もあり、人間論の不在を印象づけていたことは暫く措くとしてーーナショナリズムや国家共同体意識の定在と相在について説得的な理論体系を提示していなかった限り、マルクス主義の“乗り超え”を自称する“民族論”“国家論”が現出し、それに定位した“新しい”社会・国家哲学、“新しい”歴史哲学が登場するのは当然の成行きであった。京都学派の「世界史の哲学」や「協同主義の哲学」はまさしくそのような“新哲学”の具現にほかならなかった。」廣松渉『〈近代の超克〉論 昭和思想史への一視角』講談社学術文庫、1989.pp.248-251.

 廣松氏の立場は、マルクス主義の側にあるとしても、それは通俗的に語られるマルクス主義、19世紀にマルクスによって樹ち立てられた理論の世界史的現実形態としての社会主義・共産主義にあるのではない。それは20世紀の集結と共に、ある意味では過去のものとなっている。だからといって、それは死んだ哲学、滅びた思想だとは廣松氏は考えていない。むしろ、マルクスを含め西洋近代思想の達成したもの、資本主義的「近代」そのものの到達点、「近代化」の中心を批判するものとして読み直すことが可能であり、必要なことだと考えるのが廣松哲学といってもいいだろう。その場所から、「近代の超克」論を検討した結論は以下のようなものとなる。 

「京都学派の哲学的人間学は、西洋における生の哲学や実存主義のインパクトを受け留め、人間を以って単なる「理性的存在者」とみる一面的な啓蒙主義的人間観に対して、人間存在を「生の現実」に即し「情意的な面」までを含めて総体的に把えようと努力したかもしれない。そして、多分に社会有機体説の発想との親近性を示しつつ、人間存在の本源的な共同存在性を把えたかもしれない。しかし、それは、古典的な近代哲学の啓蒙主義的理性主義や個体主義、その準位に立った古典的な人間主義に対して、一種のロマン的な揺り戻し、そのかぎりでの新装版人間主義を対置したものにすぎないのではないか。そして、この知的・情意的な構えや有機体主義的な発想が、日本浪曼派流の“文士的”近代超克論の情念とも相通じたがゆえに、かの「近代超克論統一戦線」が形成され得たのではなかったのか。
 われわれは、これら一連の借門に斉しく「然り」と自答せざるを得ないだけでなく、そもそも哲学的人間学は緒戦人間主義の埒に根差すものであり、それは俗に謂う“人間中心主義の時代”たる近代の地平に照応するところの、典型的な近代哲学、典型的な近代イデオロギーの一形態であると言わざるを得ない。
 論者たちは、成程、哲学的人間学に定位することによって、マルクス主義における“欠隙(けんげき)”をも埋めようと企て、その若干の論点に措いて、戦後マルクス主義の或る風潮に先駆けたかもしれない。そして彼等が“新奇”を自負し得た背景には、往事におけるマルクス主義研究の遅滞があずかっていたことをも斟酌しなければなるまい。しかし、人間学主義を超克する地平においてマルクス主義が存立するという事情は措くとしても(この件については拙著『マルクス主義の地平』を参看されたい)、論者たちの哲学的人間学主義は嚮(さき)に指摘した通り、「近代知の地平」に包摂される代物であり、到底「近代の超克」を哲学的に基礎づけ得る態のものではあり得ない。
 われわれは、京都学派の哲学的人間学が当時におけるヨーロッパのそれよりも或る意味では水準が高いことを認めるに吝かではないし、論者たちの近代超克論が或る部面ではヨーロッパのそれよりもアクチュアリティーをもっていたことを認め得る。それは、戦後におけるいかにも俗流的な「近代化論」の度し難いモダニズムよりも思想的に真摯であったことを覆えない。この段を踏まえたうえでなおかつわれわれは先の断案を余儀なくされる次第なのである。
 我が邦における往時の「近代の超克論」のアチーヴメントに関しては、今日の時点から“哲学的に”顧みるとき、誰しもそれが近代知の地平をシステマティックに踰越する所以のものであったとは認め難いであろう。しかし、東洋的無の解釈的再措定にせよ、西洋対東洋という二元的構案を超えるべき世界史的統一の理念にせよ、はたまた、西洋中心的な一元的、単線的な世界史観に対して副軸的な動態に即して世界史を捉え返そうとした意想、降っては、個人主義対全体主義、唯心論対唯物論、模写説対構成説、等々、等々の相補的二元主義となって現われる近代思想の平準そのものを克服しようと図った志向にせよ、往時における「近代の超克」論が対自化した論件とモチーフは今日にあっても依然として生きている。
 われわれは本書の行文を通じて、これら一群のプロブレマティックに留目してきた心算である。前車の轍に落ちることなく当の課題に如何に応えていくか、これはまさしく残された案件として対自化されねばならない。のみならず、それは理論的・実践的に解決されるを要する。
 是は、しかし、もはや思想史的検覈(けんかく)の与件ではなくして将来的な負荷である。本稿においては、取敢えず往時の「近代超克論」との皮相な吻合を戒めつつ、且つ同時に、戦後モダニズムの雪崩によって埋没した遺構の一端に鋤を当てた所で暫くの間耕具を研ぐことにし度いと念う。」廣松渉『〈近代の超克〉論 昭和思想史への一視角』講談社学術文庫、1989.pp.252-254.

 どうして廣松先生は難しい漢字をこんなに使うのかはさて措き、もはや21世紀も15年を経過して、世界の情況は、「歴史の終わり」どころか、不穏な歴史が繰り返されようとしているかに見える。とくにアメリカを中心とする世界秩序と市場優先のグローバル資本主義に対する各地での武装勢力の伸張、これを潰そうとする「有志連合」の動き、などを考えると、再びきな臭い「戦前」の蘇生が予想されるのは日本に限った動きではない。いまさら悠長に「哲学的人間学」を振り返る余裕すらなくなっている、かもしれないが、だからこそ根底的な思想のありようを見定める必要はいや増すと感じる。
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「中間」貯蔵施設は、何と何の中間なのか?

2015-03-22 15:43:33 | 日記
A.私有財産の侵害・損害賠償・抗議・説得→泣き寝入り?
  基本的人権というのはただの理念ではなくて、具体的な現実において確保されるものだと思っていた。確保させるのは、国家や行政が法律に基づいて実現させ、それを信じて我々は税金を払い、権力を政府に賦与している、はずだった。しかし、それはタテマエの話であって、「公共の利益」のためには「個人の権利」は制限されるのは当然だ、という論理を持ちこもうとする人たちが一定量いるみたいだ。それも抽象的な理念の話ではなく、時の政府や力のある勢力が「失敗のツケ」をどこかに負担させなくてはならない場合、その犠牲となる少数者に対して権利の制限もやむをえない、という決定をしてしまう。この国では、しばしば起ってきた事態である。
  自分の土地や家屋、先祖以来そこで暮らしてきた古里の生活を根こそぎ奪われ、そこに危険な放射性廃棄物が30年置かれる、ということを簡単に納得する人はまずいないだろう。憲法は国民の生命・財産・人権を日本国は保証すると書いてある。しかし、どうもそういうことになっていないようだ。

「福島第一原発の事故にともなう除染で出た汚染土などが、原発の地元である大熊、双葉両町に建設予定の「中間貯蔵施設」の保管場に運び込まれた。廃棄物は2千万立方㍍を越え、施設の計画総面積は16平方㌔にも及ぶ。
 実は、この用地の契約はごく一部しか済んでいない。我々はその地権者団体のひとつだが、十分な説明をせずに見切り発車をする環境省に強い不信感を持っている。
 我々は土地を売るつもりはない。同県人の苦労はわかるので、我々が犠牲になる覚悟はある。30年間使いたいということなので、その間は貸すつもりだ。最終処分場にしないという約束を守ってもらい返してもらうためだ。
 環境省は、賃借もするというが、14日の交渉で、時代をゼロと提示してきた。その代わり、土地を使う権利である「地上権」を設定して、地価の7割を払うという。土地の取引慣行を無視した一方的な内容にもかかわらず、契約書案も渡さない。これでは検討もできない。買収についても、価格は事故前の価格の半額程度で、事故前の価格との差額は福島県が穴埋めするという。しかも、なぜ、国が全額を支払わないのかも示されない。こんな不誠実な交渉があるだろうか。
 おまけに、賃貸で30年が過ぎた時、どのようにして返すかはその時に考えると、先送りしている。返し方も示さない相手が本当に返してくれると信頼できるだろうか。ましてや、「貯蔵する」というのは、放射能が半減するだけでも30年かかるセシウム137などの放射性廃棄物だ。
 実際に貯蔵施設として使いはじめたら、30年後にほかの場所に移すことは困難を極めるだろう。それは、使用済核燃料の最終処分場が決まらないことをみてもわかる。中間貯蔵といいながら、次の場所が決まらずにずるずると時間だけが過ぎていくことが、今から心配される。
 我々には何の過失もないのに、原発事故を起こされ、古里を追われた。それだけではなく、古里に帰ることがさらに困難になる中間貯蔵施設として使うという。復興のためというが、我々の復興をどのように考えているのか。
 中間貯蔵であるという言葉にうそがないことを確信できる誠意を見せてほしい。買収価格や地代についてきちんと説明したうえで①我々が納得できる用地の返還方法を示す②最終処分場を決めるための議論をすぐに始めて、その道筋を示す――。この二つが、話を進めるための最低限の前提だと考えている。」30年中間貯蔵施設地権者会事務局長 門馬好春「中間貯蔵施設用地 30年後に返す具体策示せ」(朝日新聞2015年3月22日朝刊8面オピニオン欄 声)

 この問題は深刻だと思う。ふつうに考えて、日本国内で今後も原発を受け入れる自治体はあるかもしれないが、この放射性廃棄物貯蔵施設を引き受けてもいいという自治体はないだろう。原発は事故を起こしたら大変だが、その確率より地域に金と雇用をもたらす利益が期待できる確率が高ければ検討はするだろう。でも、貯蔵施設はたとえ多少の補償金をもらったとしても、地域として何のメリットもない。しかも、30年後に元に戻ると考える人もいないだろう。おそらく「中間」といっておいて、30年経った頃には事故前の記憶のある人はほとんどいなくなって、いつのまにか永久貯蔵施設になってしまう可能性が高いのではないか、と誰が考えても予想できる。そしてそれによって、大きな利益を確保する人たちがいることも確かだろう。何しろ今政府にいて指揮決定をしている人は、30年後にはもう生きていないだろうから。
 これは不平等であり、人権私権の侵害であり、憲法の軽視だと思わざるを得ない。すでにあちこちで自分の権利を守るために声を上げる人々への冷たい視線、「世の大勢に逆らっても無駄」「反抗する少数者はわがままなエゴイストだ」という暗鬱な声が出てくる。「権利」「個人」「自由」という言葉を嫌う人たちは、「国家」「伝統」「誇り」などの言葉を好み、憲法に私権の制限を書き込もうとする。何のためにそんなことが必要なのか?国策に逆らう少数者を駆逐したいからだろう。



B.いつ なにを 考えたか?
  1970年代半ばに廣松渉が『〈近代の超克〉論』を書いた動機は、柄谷行人も解説で書いていたように、失敗から学んだはずの戦後の教訓が、高度経済成長によって風化し、かつて語られた「近代の超克」論がじわっと復活してくる予感があったからだろう。それがただの復古主義や右翼的保守主義ではなく(それだけならばある意味心配しなくてもいいが)、世界標準としての高度資本主義体制を実現した先進国としての自己認識から、世界史的な文明の担い手としての日本という観念が現れてくる(たとえば「文明としてのイエ社会」)ことを、哲学者廣松は敏感に予想した。それは二重の含みがあって、ヨーロッパの哲学者が語る「近代批判」が20世紀の世界をどう見ているか、それを日本の哲学者がどう解釈したかという文脈と、「近代の超克」という問題圏の中に固有の価値として「東洋・日本」を位置づけようとするとき、どこが欠けていたのかという検討である。
  1994年に亡くなった廣松渉の予感は、20世紀末から21世紀になって、ますます無視できない危機感としてわれわれの前に浮上する。

 「省みれば、往時の「近代超克」論は、日本が世界の一大強国に成上った情況を基盤にしたナショナルな自覚を投影しつつ、明治以来の欧化主義とその帰結に対する〝自己批判″的な心情を契機にして存立したのであった。ところで、作今日本が経済大国として復活した歴史的情況のもとに、あらためて戦後の近代化路線とその帰結に対する批判の念が昂ってきている。成程、歴史というものは或る意味では一回起的であり、二度と繰り返すものではないと言えよう。当時と今日では慥かに具体的な歴史・社会的条件が同日の談ではない。しかし、この十数年来、一部にみられる風潮は前車の轍を想わしめるものを孕んでいる。それゆえ、われわれは今日的風潮を意識の一隅に置いて回顧した次第であった。
  尚、当初の予定では、ヨーロッパにおける「近代超克論」にも関説する心意であったが、これはそれ自身多分に複雑な系譜と論脈をもっていることでもあり、本稿においては主題的な論究は割愛することにして、ここでは当座の論材に即して小括を試みることを恕されたいと思う。
 「近代の超克」座談会の実像
 「近代の超克」というテーゼは戦時下日本の知識層にとって――大衆にとっての「鬼畜米英」「撃ちてし止まん」に照応する――呪文的な統一スローガンであったと言われ得るにしても、この「マジナイ語」(竹内好)が一世を風靡した機縁は寧ろハプニングに類するものであった。が、それを単なるハプニングには終らせない論調が存在していた。われわれとしてはこの間の事情を再確認するところから始めよう。
 「近代の超克」という言葉を世上一般に大流行させるキッカケとなったのは、言うまでもなく、昭和十七年十月号の『文学界』に掲載された「文化綜合会議シンポジウム」のタイトルであった。
  このシンポジウム(というよりも、出席者十三名の大放談会)は『文学界グループ』が呼び掛けて、京都学派の哲学者西谷啓治、歴史学者鈴木成高、宗教学者吉満義彦、自然哲学者下村寅太郎、それに音楽家の諸井三郎、映画の津村秀夫、物理学者の菊池正士などの出席を得て開催されたものであるが、主宰者役を務めた河上徹太郎自身が冒頭に次のような告白を漏らしている。
 「私の出題は必ずしも利口でなかったやうです。実は『近代の超克』といふ言葉は一つの符牒みたいなもので、かういふ言葉を一つ投げ出すならば、恐らく皆さんに共通する感じが、今はピンと来るものがあるだらう、そういふ所を狙って出して見たのです」。米英との先端が突如開かれた「十二月八日以来、我々の感情は茲でピタッと一つの型の決まりみたいなものを見せて居る。この型の決まり、これはどうにも言葉では言へない、つまりそれを僕は『近代の超克』といふのです……」。「然し、それに対し、皆さんの半分以上の方が〔討論用提出〕論文を書いて下さつたものを拝見しまして、やはり此の題の出し方は杜撰で、却って問題を紛糾させたかも知れぬと思ふのです。云々」。
  御覧の通り、呼び掛けの主体である『文学会』の同人たち、その代表者格の河上徹太郎は、ほかならぬ「近代の超克」と題すべき十全な課題意識を持っていたわけではない。況んや、彼らなりに纏まった「近代」観や「超克」論を持合わせたうえでの企画ではなかった。

  右の事実経過からするかぎりは、「近代の超克」というテーマ設定は全くの偶然事であると言ってよい。河上のモチーフからいえば、〝聖戦の敢行と知識人の覚悟″とでもいった表題のほうがより相応しかったとさえ言うことができよう。
 しかしながら、河上が「近代の超克」という表題に思い付いた背景には、そしてまた、当の座談会がその内容のゆえと云うよりも恐らく表題の魅力で大評判を取った背景には、然るべき時潮が在った。この脈絡から言えば、それが「近代の超克」と銘打たれたのは蓋然的であったと認められ得る。
  此の際併せて記しておけば、『文学界』のそれと並ぶもう一つの〝近代超克論″座談会と呼ばれる『中央公論』誌上での京都学派による座談会も、表面的には何ら特に「近代の超克」を主題にしたものではなかった。この大評判を取った座談会の第一回目(『中央公論』昭和十七年正月号)は「世界史的立場と日本」と題されており、その冒頭には高坂正顯が次のように発言している。
 「こないだ或る人に日本の歴史哲学て一体どんなものかと訊かれてね、一寸返事に困ったのだが、考へてみると大体三つくらゐの段階を経て来たやうに思はれた。一番初めはリッケルト張りの歴史の認識論が盛んであった時代で、今ではもう一昔前のことになつてしまつた。その次がディルタイ流の生の哲学とか解釈学といつたものから歴史哲学を考へようとした時代で、それが大体第二の段階と言ってよい。ところが今ではそれから更に一歩先に進んで、歴史哲学といふものは具体的には世界歴史の哲学でなければならない。さういふ自覚に到達してゐる、それが第三の段階だと思ふ。では何故さうなつたか。それは日本の世界歴史に於ける現在の位置がさうさせたのだと僕は考へる。……日本はどうなるか、今できつつある新しい世界に対して、日本はどういふ意味を持たせられてゐるか、どういふ意味を実現しなければならないか、即ち世界歴史の上における日本の使命は何かといふ点になると、西洋のどのやうな思想家からも無論教へられる訳には行かない。その為には日本人が日本人の頭で考へなければならない。それが現在日本で、世界史の哲学が特に要求されてゐる所以だと思ふ」。
  見られる通り、此方は「世界史の哲学」が直接的な主題であり、第二、第三回目も、この主題からの継続的展開である。とはいえ、視点を改めて言えば、謂う所の歴史哲学の第三の段階、これがまさしく「近代の超克」論と相即的なのである。
  この間の次第を述べるためには、京都学派の出自で『文学界』の同人であり、また昭和研究会のイデオローグでもあった三木清を想起しなければならない。「世界史の哲学」という言葉に格別の含意をこめて最初に用いたのは三木清であった。彼は「支那事変に対して世界史的意味を賦与する」という時務から、日本の行動、日本の現実にとって要求されているのは「世界史の哲学」であることを説き始め、そこから「新しき思想原理は既に破綻の徴歴然たる近代主義を一層高い立場から超克」するものでなければならないことを唱道するに到っていた。先に引用した高坂発言はこのような経緯を念頭に置いて理解さるべきであろう。「世界史の哲学」と「近代の超克」とは、三木清の「協同主義」においてリンクされていた。」廣松渉『〈近代の超克〉論 昭和思想史への一視角』講談社学術文庫版、1989. pp.230-234.

 1980年以前の読書階級としての「知識人」にとって、マルクス主義の社会理論はマルクス主義者になって一体化するか、反マルクスで批判するかにかかわらず、いわば基礎的教養になっていて、「資本論」や「経哲草稿」を知らなければ発言そのものができなかった、と思う。経済にせよ政治にせよ、歴史的パースペクティブのなかで、現実の諸問題にコメントするためにはマルクス主義(あるいはマルクス理論)の視線が浸透していた。ぼくは70年代末期に思想形成した世代だから、遅まきながらそういう雰囲気は知っている。もっと上の世代、戦後まもなくの大学で左翼学生運動に関わるか、少なくともそれを近くで見ていた人たちがぼくらの先生だった。いわばそういうマルクス主義が世の中を語るときの共通語だった時代の最期が、60年代末から70年代にかけての政治の季節だった。
 それが急速に退潮していって、80年を迎えた頃は、もうだれもマルクスなんて読まなくなる(もともとそんなにまともに読んでいたわけじゃないとしても)。そのときはまだ「近代の超克」的な議論は、ただの「日本礼賛」「日本人論」的なものでしかないと思っていた。でも、そこには稚拙な日本万歳ではなく、もっと思想史的な課題があったのかもしれない。

「ところが、「近代の超克」という優れて実践的な課題、故に亦、優れて世界観的な課題において鍵鑰をなすのは、言うまでもなく資本主義社会体制の止揚という事である。歴史的段階としての「近代」、それは資本主義社会体制の時代であり、鈴木流にいえば、それは政治においてはブルジョア・デモクラシー、思想においてはブルジョア・リベラリズムのイデーを正価値とする。
 欧米における当時の近代超克論と比較するときこれは著しい特徴と認めうる事実であるが、戦前・戦時の我が邦における近代超克者たちの場合――転向左翼出身の論者の比重が高く、さなきだに一旦マルクス主義の磁力圏を潜ってきた者が多かった関係で――超克さるべき与件としての「近代」を象徴する際〝資本主義″ということがほぼ共通の含意となっていたように見受けられる。
 勿論、論者たちが「資本主義」なるものを社会科学的にどこまで精確に把握していたかは別問題である。資本主義を以てたかだか私利私益の経済原理といった次元でしか理解していなかった者もあれば、資本主義の超克と言いつつも第三者的にはせいぜい修正資本主義の程度しか考えていなかった者もある。しかしともあれ、われわれが行文中その都度執拗なまでに追認しておいた通り、建前のうえでは資本主義の超克ということが論者たちにおいて含意されていたことは更めて銘記しておかねばならない。
 そこで鼎の軽重を問われるのが論者たちの資本主義批判の内実である。――われわれは今爰で原則論を持出して一挙に斬って棄てようというのではない。〝資本主義に対する十全な批判意識を持っていた者は、当面の戦略としてはむしろ近代化を志向したのであり、「近代の超克」論議などには唱和しなかった。天皇制国体を翼賛しておきながら何を笑止にも近代の超克ぞや″という原則論で斬り棄てただけでは思想史的論考としては不十分であろう。実態を見定めるためには一旦論者たち自身の思念に即してみる必要がある。――治安維持法下の当時においては私有財産制の廃絶を唱えれば直ちに弾圧の対象になったことに鑑みれば、われわれは必ずしも字面だけで判定する心算はない。問題はあくまで実質的な含意である。
 第一審として、論者たちの謂う「近代の超克」は果たして資本主義的な生産手段の私的所有制そのものの止揚を自覚的に含意していたかを問うてみるとき、既に相当部分が脱落して了う。そして、第二審として、論者たちが資本主義的社会編制の原理の止揚を志向していたとしても、それはたかだか古典的な産業資本主義ないし古典的な近代帝国主義の原理の止揚にすぎなかったのではないか、換言すれば、それは国家独占資本主義の原理を容れ得るものではなかったのか。これを問い返してみるとき、殆んどの論者がその埒に落ちる。成程、三木清の協同主義の如きは、そのまま国家独占資本主義を志向したものではありえない。しかし、そのイデーは兎も角として、現実的には、それは国家独占資本主義的再編制、しかも、東亜ブロック経済の確立という即自的な歴史的趨向を追認しつつ、それの飾り衣裳になったと評せざるを得ない。
 われわれの見るところ、往時の近代超克論は、主観的には資本主義の超克を志向したとしても、その指向性の実態において、実質的には、たかだか金融独占資本主義の旧態から国家独占資本主義体制への再編成に見合うイデオロギーという域を出るものではなかった。
 これは固より国家独占資本主義のグローバルな確立を見届けたミネルヴァの梟ばりの立言であるにしても――そして当時にあっては、資本主義位の超克を真正面に引据える社会主義の論陣ですら国家独占資本主義という資本主義体制の新段階を対自的には把えていなかったのであるから、この言い条は聊か酷であるとしても――今日の時点における歴史的評価としてはこれを譲るわけにはいかない。
 われわれとしては、もし必要とあれば次の順位にまで議論の推移を落してもよい。それは、論者たちの「近代」史批判、欧米列強の東亜侵略の歴史的相対化、アジア・ナショナリズムの基礎分析、ひいては近代文明に対する批判的体質、等々、――「近代超克論」を「理論体系」として展開するさい重要な節々をなす筈の――これらの場面において、資本主義社会体制との構造的聯関性が論理上回路づけられていたか否かということである。
 議論の準位をここまで落としてさえ、論者たちの所説はおよそ資本主義社会体制の歴史的相対化とリンクされていない。個人主義批判にせよ全体主義批判にせよ、抽象的にイデーに対する批判としておこなわれるか、たかだか政治理念に関する批判としておこなわれるという域をいくばくも出ない。況んや、いわゆる〝西洋文化″に関する批判においておやである。――戦時下日本の「近代超克」論はマルクス主義の〝超克″を標榜しつつも、「近代」の把握に関してこの為体(ていたらく)であった。
 往時における「近代の超克」論の本領は、しかし、資本主義体制の超克という論件とは別の処に存したのではないのか?読者のうちにはこう反問されるむきもあるかもしれない。或る意味では慥にその通りである。資本主義体制ということそれ自体に限れば社会主義思想で事足りる。資本主義体制の止揚ということは近代の超克にとって基礎条件ではあっても、それは「論」としての近代超克論〝精華″ではないと言われうる。」昭和思想史への一視角』講談社学術文庫版、1989. pp.240-244.
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