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 日本の前衛美術運動について 1 avant-garde?  沖縄の日常

2024-08-02 21:05:55 | 日記
A.運動としての美術グループ
 アヴァンギャルドavant-gardeはフランス語で前衛。美術について「前衛美術」という用語が出てきたのは、20世紀はじめ。19世紀のパリを中心に成立していた官製公募展「サロン」のアカデミスムに対抗して、「印象派」を生んだ自由なグループ展、無審査の「アンデパンダン展」indépendantsも、 元来は1884年にフランスで組織された独立美術家協会から始まった。19世紀末にはさまざまな美術運動が現れ、それぞれキュビスム、フォービスム、未来派、ナビ派などと称して独自の主張と技法を打ち出す。旧来の美術観を否定し、新しい作品を提示して画壇に革新を惹き起こすのが「前衛」だということになった。
 日本の美術界は、1889(明治22)年に開校された東京美術学校(当初は絵画科、彫刻科・美術工芸科(漆工・金工)、西洋画科ができるのは1896(明治29)年)が人材を生み出し、1907(明治40)年に始まった「文展」(文部省美術展覧会)で、日本画、洋画、彫刻という3部門で官製の公募展が発足した。文展は、その後審査委員の分裂が顕著になり1918(大正7)年に幕を閉じ、翌年から文部大臣の管理下に新設された帝国美術院が主催する帝国美術院展(帝展)がスタート。帝展では審査委員は帝国美術院が推薦し、内閣が任命する中堅作家と決められていた。
 日本画では、東京美術学校の初代校長であった岡倉天心が、学校を辞めて弟子の横山大観や菱田春草などを引き連れて「日本美術院」を作り、独自に「院展」を始めたのが1898(明治31)年。そして天心が世を去った1913(大正2)年あたりから、パリなどに留学して洋画を学び、新しい前衛美術の動向に触れた若い画家たちが日本に戻ってさまざまな前衛的作品を発表しはじめる。その試みはさまざまな形で離合集散しつつ、日本の「前衛美術」運動を盛り上げる形になるのが、1922(大正11)年からの数年間で、これを第一期の戦前日本の前衛美術とし、昭和に入って戦争期にいったん衰退し、戦後に第二期の前衛美術が運動として盛り上がると見るのが、本間正義「日本の前衛美術」(『私の美術論集Ⅱ・現代美術・展覧会 美術館』所収)美術出版社、1988年である。このへんは、もう忘れられた歴史なので、しばらく本間氏の記述を追って確認してみたい。
 著者、本間正義氏の略歴は、大正五年、新潟県長岡市生まれ。昭和十五年、東京大学文芸部美学美術史学科卒。東京国立近代美術館次長、国立国際美術館館長を経て、現在(1988年時点)埼玉県立近代美術館館長。2001年10月逝去。戦前から日本の美術館の現場にあって、現代美術の動向を見てきた人である。ただ、この本の記述は1980年代までのもので、今から見ればもう歴史の話になる。

「前衛とは本体に先だって、絶えず未知の外的に接触してゆく先進部隊の意味の軍隊用語である。これから転じて芸術用語として使われるときは、古いものに対して先進的であり、革命的であるものを意味する。したがって、本来は一定の流派や主義などをさすものでなく、そういう状態にあるものをいうべきであるが、モダン・アートで前衛と言った場合は、抽象主義と超現実主義の二つをさすことが多い。
 しかし昭和四十年に京都国立近代美術館でおこなわれた「前衛美術の先駆者たち」という展覧会では、この二つのイズムの先駆的段階をきずいたものとして、野獣派と立体派の作品を含めている。そしてカタログの中で、西洋流の絵画史の扱いからすれば、これを前衛絵画の枠に入れないのが普通であるが、日本ではただ西洋近代絵画史の様式的な意職という見地からのみ取り扱われるべきではないとしている。抽象と超現実の二つのイズムは、第一大戦の破壊の中から生まれてきた新しい諸傾向の美術運動が集約されたもので、その前衛の根ともいうべきダダイズム、未来派などが日本に伝わってきた時には、ほとんど相前後して紹介された野獣派や立体派と混交したかたちでうけとられたからであある。このような摂取と消化の仕方は、いわば日本流ともいうべきものであるが、これはさらに本番の二つのイズムそのものの摂取に見られる特色である。
 抽象は合理主義に立ち、超現実主義は非合理の世界を展開させた非常に違った性質のものとして、ヨーロッパではおおむねはっきりと分かれた系列として発達した。しかし日本ではこの二つはたがいにいりまじり、微温的な中間表情を示しながら展開したのである。滝口修造は、この中間表情について、日本の画壇がヨーロッパのような合理主義やヒューマニズムの徹底した矛盾にあえいでいなかったからだとしているが、とにかく極東に遍在する日本の風土に関係して、特殊な意味をもってきたからだといえよう。
  前衛美術の展開
 このような意味と性格をもった日本における前衛美術の展開は、大きく戦前と戦後の二つの時期に分けることができる。第二期にあたる戦後の前衛美術は、現代美術の国際性や同時性を反映して、戦前にくらべれば著しく普遍的となり、複雑多岐にわたり、今日なお目まぐるしく変化し展開しつつある。したがって、これを現在の段階で把握することはなかなか困難であるので、本書では第一期の戦前の前衛の動きに焦点をしぼってその動きをとらえながら、第二期の戦後の前衛については、その根としての性格を明らかにするところにとどめたい。戦前第一期の前衛美術はさらに途中ある期間の中断をへて、ちょうど大正期と昭和期との二つの時期に分けることができる。大正期の前衛が昭和期の前衛とは少し性質が違うことから、さらにこれを第一期の前衛前期、あるいは前衛初期として分類していった方が適当であるかもしれない。
 さてはじめにこの第一期前衛の動きを概観しておこう。まずこのうちの初期前衛は、大戦中に起こった未来派やダダイズムの影響をうけて、1910年から20年代にかけて活動し、かなりの激しさをみせたが瞬発的な実験の域にとどまり、その主流派大正末には次第に社会主義的なものと結びつき、昭和に入るや急速にプロレタリア美術の中に、発散消滅してしまう。
 日本の前衛はここで一時断絶するが、ヨーロッパでは大戦後の秩序の回復とともに、急進的なこれらの諸傾向は、次第に前期の抽象主義と超現実主義の二つのイズムに集約されてくる。これが本格的に日本にはいってきたのは、大正末の断絶から約十年を経てからである。この断絶の間に古賀春江とか川口軌外らの前衛的な異色作家が散発的に存在するが、この断絶を埋めるほど強力な動きを見せていない。かくして日本の前衛美術がはっきりと打ち出されてくるのは1930年代からで、抽象主義は主として自由美術家協会、超現実主義は美術文化協会を中心に行われるようになったが、その頃はすでに全体主義が暗雲のようにひろまって、自由な発表や表現が全面的に抑圧された時期に当たっている。ちょうどのびかかった芽がつまれたようなかたちで、その動きはまた大正期の断絶とはちがったかたちで、その動きはまた大正期の断絶とはちがったかたちで、しりすぼまりに戦雲の中に没してしまうのである。
  大正期の動き 
 二科会は文展に対する進歩派として、野に下った団体であるから、新しい美術を生み出す公算を最も多くもっていたといえる。又創立の時期が前衛美術の日本への伝来のタイミングと、うまくあっていたからであるともいえる。その先駆けとなったのが、大正五年の第三回二科展に初出品して、いきなり二科賞をとった東郷青児の「パラソルさせる女」である。対象をレジェ風にいくつかの面に分解して、それをダイナミックに構成したもので、立体派と未来派とをつきまぜたようなスタイルは、従来のリアリズム的視覚から、はっきり決別してきたことを示した。パイオニア的なものはたいていそうであるように、一方ではさっそく反発を受けたが、また一方では二科会の創立者有島生馬が、会の使命が『個性に立脚して、新しい創造をすることにのみある』としていることが、二科前衛推進の大きな鍵となり、萬鉄五郎(よろずてつごろう)をはじめ神原泰(かんばらたい)・佐藤春夫らの進歩的な若い層が、東郷らと新しい試みを行ない、二科会の中に一つの陣営を形成してきた。
 こういう時にパリに留学していた中川紀元(なかがわのりもと)と、矢部友衛(やべともえ)が相前後して帰国し、二科展に出品してきてからグループ結成の機運が急に熟してきた。そして、大正11年10月に中川、矢部、神原が中心となり、古賀春江、吉邨(よしむら)次郎、横山潤之助、飯田三吾、泉治作,吉田謙吉、難波慶爾(なんばけいじ)、山本行雄、重松岩吉、浅野孟府(もうふ)の十三名で「アクション」が結成された。さらに後から岡本唐貴(とうき)と中原実(みのる)が加わってくる。アクションの名はスイスやオランダの新傾向の運動グループにすでにその名がみられ、この若々しい力をあらわす語感がみなの賛同を得たのだという。第一回・第二回展は大正十二、三年の四月、三越で開かれたが、野獣派・立体派・未来派的な作風を中心に充実した意欲をみせ、若い世代の一部の熱狂的な支持をうけた。
 大正十二年の第十回二科展は非常な厳選であったが前回行なったフランス美術展の影響からか、新傾向のものに対して甘く、入選作の過半数を占める勢いをみせた。その中心はもちろんアクションであり、二科の展覧会というよりアクションの展覧会だという声も聞かれた。そのせいかアクションにはことあるごとに自律的なポーズを示そうとするところがあり、神原泰が朝日新聞にアクションは自らの生命の流動と自らの信念によって、広く且つ大いなる芸術の荒野において、永遠の精進を続けるためには、今年も公募しないことにしたという記事を寄せているが、アクションも公募展にもってゆく意向があったことが知られ、二科会がこのような二重構造を腹中に持つことは、さすがに進歩的寛容をもつべき在野第一党としても、見すごすことはできなかったのであろう。次の年の第十一回展では、新傾向に対する二科の態度が急に硬化し、鑑査を新会員に一任することをせず、旧会員総出であたった。それでアクションから中川紀元、古賀春江、横山潤之助、浅野孟府、新人の岡本唐貴だけが入選、急進派の神原、矢部友衛、中原実、それに山本行雄、飯田三吾、泉治作等は枕を並べて落選した。しかも中川は会友から会員に、古賀は会友に推され、横山は二科賞をとった。二科の進歩性を支えていると自負する神原や矢部にとっては、落選はまったく予期しない衝撃であった。二科では反撃を予期して、入選発表と同時に先手を打って声明書を発表、元気旺盛なるべき少壮作家にして難を避け易きに就くの風あるを遺憾とすることを強調した。ここで苦しい立場に置かれたのは新会員になった中川である。「アクションの目的が、お互いが自由に、なにものにも足らわれずにやろうと申し合わせていたことでもあり、このような事情では、解散もやむを得ないのではないか」と所信をのべて脱会した。古賀、横山それに中川の弟子として泉も同調して脱会、アクションは一挙に三分の一の同人を失ったが、問題はむしろ量より質で、なんといってもずばぬけた力をもつ中心的な存在の中川と、異色の古賀と横山を失ったアクションは、すでに残党的な存在に追いこまれてきた。これは二科創立の絶妙なタイミングとなった。
 「未来派美術協会」は、進行運動の名をそのまま冠した日本で最初の前衛美術団体である。未来派はイタリアに起こった芸術運動で美術の面ではそれまでの凝固的な表現に対抗して、ダイナミックな動きをあらわそうとするところに特色があった。日本ではその意味を十分に理解しないまま、文字通り未来の美術の意味に解して、新しい傾向のものは総て未来派とする傾向が強かった。解釈そのものが甘かったように、協会の創立そのものも決して明確な理念に基づいて行なわれたものではない。普門暁(ふもんさとる)は当時、自他ともにゆるす二科進歩派の新進であったが、第六回二科展に落選してしまい、これを不満として自ら急進的な団体を作ることを考えはじめた。ちょうどこのころ、日本画の革新をとなえる尾竹竹坡が門人を集めて八火社を創立した時で、普門はかねて交友のあった社中の伊藤順三と萩原徳太郎を誘い、未来派美術協会を結成、ちょうど二科展が開かれる時をねらって、第一回展を大正九年の九月半ばに開いた。普門が一人でほとんど三分の一近くを出品しており、新興美術のなんであるかもわからぬのがほとんどであるといったぐあいで、内容はきわめて低調であった。
 しかし、翌年10月に開いた第二回展では出品も倍近くにふえ、内容もぐっと充実し、会員会友の別もはっきり決まった。会員は普門暁と第一回展に出品してきた医学生で協会の中心となって活躍する木下秀一郎、二科展にも出品して注目されていた重松岩吉、彫刻の戸田久輝、浅野孟府、それにこの年亡命してきたロシア未来派の父といわれるブルリュックである。会友では木下のすすめで絵を描きはじめた尾形亀之助、ブルリュックといっしょに来朝したパリモフやチェコ人のフェアラら、一般出品では木下と同郷で協会賞受賞の渋谷修、後に社会主義漫画に腕をふるう穴明共三(あなあききょうぞう)(穴明はアナーキズム、共三は共産主義をもじったもの)こと柳瀬正夢(やなせまさむ)、変化に富んだ新しいスタイルをみせる大浦周藏らが目だっていた。前衛団体としての協会の主張と表現にいっそう重きを加えたのは、デビット・ブルリュックの参加である。ブルリュックはロシアとドイツにわたって、表現派から未来派の開発に盛名をはせ、ロシア未来派の父といわれた人で、その作風は未来派がかった勢いのある豪快なスタイルであった。亡命のときにいっしょにもってきた数百点の作品で開いた「ロシア未来派展」は、実際の各種前衛傾向の作風を網羅して、新傾向をめざす作家たちに大きな影響を与えた。またブッリュックと共著のかたちで、そのきいたところを『未来派とは? 答える』にまとめた。立体派、表現派、未来派、幾何学派、構図派、形而上派、ダダイズム、シュプレマティズム(絶対主義)、アルフィズム、シンクロニズム(同時派)などの諸傾向が細かく正確に解説された。さて木下はブルリュックから正確な知識を得るにしたがって、日本では未来派というものがきわめて漠然とした概念でしかうけとられていなかったことを知って、未来派美術協会の名前をもっと適切なものに変えた方がよいのではないかと考えた。とにかく二科よりさらに前進した意味での三科と、具象的傾向のものならいざ知らず、抽象的なものを審査することは、基準となる根拠がないということから、無審査(アンデパンダン)であることとの二つの考えをあわせて、第三回展から三科インデペンデント展とすることにした。
 この展覧会は大正11年10月に開かれたがほぼ二回展と同じ規模で、内容も三科と改名したのに際し、空間芸術家ら時間芸術へ、さらにそれらに限定されない自由芸術を目指すことを強調したが,きわだった新しい進展がみられなかった。アンデパンダンについても実際には出品点数をしぼり鑑査を行なっており、アンデパンダン思想に刺激を与えたというところにとどまった。ちょうどこういう時に村山知義がドイツより帰朝して、意識的構成主義を唱え精力的な活動を開始した。この新鮮な活動力が地帯気味な未来派美術協会の中にも共感をよびおこし、新党結成の機運が急速に高まり、協会から尾形、大浦、柳瀬などが加わりマヴォ(MAVO)が結成され、協会は自然解消のかたちとなった。」本間正義「日本の前衛美術」(『私の美術論集Ⅱ・現代美術・展覧会 美術館』所収)美術出版社、1988年。pp.45-50 .

1922(大正11)年)がどういう年だったかを確認しておくと、ロシア革命から5年が経過し、ソ連ではスターリンが共産党書記長に選出、世界に共産主義革命の脅威が拡がっていた。日本軍はシベリア出兵。日本共産党(第1次)創設に対し、治安警察法で左翼の取り締まりが図られる。一方で軍縮の機運が高まりワシントン軍縮会議で、海軍の軍艦制限が成立。部落解放の水平社創立、そして翌年9月に関東大震災。不気味で不安が広がる時代だが、まだ戦争の足音は遠く、人々は西洋の文化に憧れ、大正デモクラシーの残り香が漂っていたのが1922年。

B.沖縄はどうなる?
 沖縄が米軍基地を抱えて苦しむ状況は、ずっと続いているだけでなく、近年さらに日本政府の自衛隊増強・米軍との一体化路線がすすみ、台湾有事という妄想が昂じて八重山諸島へのミサイル配備が進む。しかし、日本本土の多くの人々は、戦争の危険を実感できない。ぼくも10年前くらいまでは、毎年沖縄を訪れ、本島のみならず与那国島、石垣島、波照間島、宮古島を回ったのだが、大学を退職したこともあり、沖縄からは遠ざかってしまった。現地で暮らす人の声はもっと聴きたい。

「沖縄季評【抜粋】 おびえる子 歴史は暮らしの中に  山本章子(琉球大学準教授)
 ミサイルの警報 選挙カーや米軍機の大音響
 今年6月には沖縄県議会選挙があり、地元選挙区では立憲民主党と社会民主党の確執からオール沖縄候補が乱立した。保育園から帰る子供の前を、候補者の名前を拡声器で連呼する選挙カーがひっきりなしに通る。「こわい。はやくにげようよ」と子供が泣くので道を変えると、別の選挙カーが向こうから来る。
 自宅の上空は普天間飛行場に夜間着陸するヘリのルートとなっており、深夜は安全対策から高度を下げて飛行するので低温とともに建物全体が揺れる。「うるさいよ。だれがのっているの」と眠れず子供を抱きしめて、絵本の『まどからおくりもの』に出てくるサンタクロースだと説明する。「サンタさんはヘリに乗ってプレゼントを届けに来ていたでしょう。うちは何をお願いしようか」と話しながら外の静寂が戻るのを待つ。
 沖縄にはヘリに乗ったサンタクロースが実在した。米軍占領統治下で、米軍は地元との交流の一環としてクリスマスには津堅島にヘリでプレゼントを届けたそうだ。私はこのエピソードを米軍関係者から聞いたが、地元の住民から聞いた話は多少異なる。津堅島めがけて米軍機が飛ぶ音で沖縄戦の体験を思い出した女性は、当時の記憶がフラッシュバックして庭で遊ぶ小さな子供にとっさに駆け寄ったという。
 沖縄の近現代史には戦争がついて回る。琉球王国の聖地として国の名勝に指定されている越来(ごえく)グスク(沖縄市)は、2人の国王が王子時代に居住したとされるが、沖縄戦で米軍に土台の丘陵ごと切り崩され、戦後の米軍による開発で遺構も含めほぼ消失した。
越来という地名は石垣島にもあった。沖縄戦で本島に上陸した米軍は旧日本軍飛行場を占領し、本土爆撃のために米軍嘉手納基地として整備・拡張した。そのあおりで農耕地が戦前の3分の1になった越来村は、米軍相手の商売で復興を目指し基地の街コザに生まれ変わった。農業を続けたい住民が石垣島に移住し、入植した集落を越来と名づけた。
マラリア有病地が大半を占めていた石垣島では、1953~57年にかけて毎年2千人前後の移住者がマラリアにかかったという。沖縄戦の最中には、日本軍が石垣島を含めた八重山諸島の住民をマラリア地域へ強制避難させ、敗戦直後までに3647人がマラリアで亡くなっている。
 戦前の石垣島でマラリアに感染しながらも生き延び、パインの一大産地となる基礎を築いたのは台湾から移り住んだ人々だった。台湾は日清戦争後に日本の植民地とされ、土地を求めた台湾の人々が石垣島や西表島に移住した土地の返還を行政から求められ、石ころだらけの未開墾地に移った。
 名蔵ダム(石垣市)敷地内で2012年、台湾農業者入植顕彰碑が建立され、八重山諸島のパイン産業と水牛工作を発展させた台湾入植者の功績がたたえられた。これは歴史を忘れまいという戒めでもある。
 占領米軍がヘリでクリスマスプレゼントを届けた逸話や、石垣島の台湾入植者の再評価自体は美談だが、前後の歴史を無視してはならない。
 沖縄では平和学習に力を入れてきたが、義務教育では戦後の歴史を教えないため、大学の授業で沖縄戦と基地問題を同時に扱うと「沖縄線を政治利用するな」と反発する学生が必ずいる。だが、米軍が沖縄上陸と同時に人が住んでいた土地に基地を建設し、朝鮮戦争やベトナム戦争で拡張していったという歴史のつながりを知ることが重要なのだ。そう説明した上で、個人の価値判断は自由だと伝えている。
 作家の百田尚樹氏は15年、木原稔議員(現防衛相)が代表を務めた自民党勉強会で「普天間は田んぼの中にあり、周りには何もなかった」と発言した。米軍は集落の上に普天間飛行場を建てた。歴史のつながりを知らないと、歴史の歪曲を許すことになる。
 こわがりになった子供は、寝る前の読み聞かせで大好きな絵本「へいわってすてきだね」が戦争の描写にさしかかると部屋の隅に逃げる。
「せんそうは、おそろしい。『ドドーン、ドカーン。』ばくだんがおちてくるこわいおと。おなかがすいて、くるしむこども、かぞくがしんでしまってなくひとたち」。薄暗い部屋で遠くから絵を見つめる子供の中で、過去と現在はいつつながるのだろう。」朝日新聞2024年8月1日朝刊13面オピニオン欄。
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