A.後ろ向きの時代・前向きの時代の非対称
今日の片隅ニュースから
「最高裁判決で注目されたマタニティー・ハラスメント(マタハラ)だが、問題解決のために全国の労働局で行われている「紛争解決援助」や「是正指導」の実績は低迷している。マタハラに対して罰則規定がなく、行政が企業を強く指導しづらい背景もある。被害者らは「妊娠や出産でハンデを負う女性の立場を理解してほしい」と訴えている。
◆「伝書バト」
「働く女性の味方になってくれるはずの労働局が力になってくれなかった」 東京都内の会社で働いていた30歳代の女性は振り返る。昨年、長男を出産。産休と育休を計6か月取得したところ、職場復帰1か月前に上司から呼び出された。「保育園の迎えや子どもの病気で仕事に穴が開くと困る」。退職の勧めだった。驚いた女性は、労働局が間に立って解決を図る紛争解決援助を申し立てた。だが、会社の話を聞いた労働局からは、「お互い譲り合ったらどうか」と、解雇を受け入れて金銭で解決するよう打診された。
女性は援助手続きを打ち切り、裁判官らが事実関係を調べる労働審判を申請。すると、「解雇は無効」と判断された。結局、会社を辞めた女性は、「労働局は伝書バトのように私と会社の主張をそれぞれに伝えるだけで、解決に導いてくれなかった。諦めて会社の提案をのむ女性も多いのでは」と話す。」(読売新聞デジタル.2014.10.31)
この事件に直接関わる発言ではないが、マタハラ判決に関連して小説家・保守派文化人・曾野綾子氏の批判的発言(「週間現代」の「私の違和感」)をネットで目にした。「マタハラ、セクハラ、パワハラという言葉と、それを主張する人の品性の貧しさ、心性のいやしさ」を曽野氏は例によって嫌悪をこめて批判する。ある意味で昔からこの人は、一貫して「女性の権利」や「男女の平等」を主張する人々、とくにフェミニスト的言論を心から憎んでいる。それがどこから来るのか?敬虔なカソリックという立場を表明しつつ、笹川財団、日本財団、日本再生会議などの要職を務め、チリのピノチェト政権批判や訴追されたペルーのフジモリ元大統領の保護などに活躍するなど、いろんな場面で右翼的言論を繰り返してきた人である。安倍政権の現在では、櫻井よしこと並んで、というか先輩の刀自的権威として頼りになる女性言論人として知られる。
「なんでも会社のせいにする甘ったれた女」は、黙って家事育児という家庭の役割を引き受けるのを嫌がり、自分勝手な権利を主張するわがままで卑しい女である、という言葉を男が口にすれば激しく叩かれる状況を嘆く男たちには、まことに頼りになる元美女である。ぼくは昔、連合赤軍事件の惨めな仲間の殺し合いが明らかになったとき、曽野綾子氏がコメントした言葉を今も忘れない。「この人たちは、自分の私的欲求不満を全部社会のせいにして、革命などと叫んで破滅した」ざまあみろ、と言っていた。そのときぼくは強い「私の違和感」を感じた。
ではこの社会にはなにも責任はないのか?この社会で最初から恵まれた場所にいるあなたは、そうやって上から目線で、愚かな大衆は自分の置かれた立場を素直に受け入れて、不平不満を言わずに伝統的な価値と秩序と権力に従っていればよし、無知な弱者の分際をわきまえず、反抗や権利主張をするのは品性に欠ける、と言うのか?日本の女たちが、何に苦しみ何と戦ってきたのか、まったく理解する気がないエリートだ、と思った。
もう一つのニュース。
「東京都西東京市の中学2年の男子生徒(14)が継父の虐待で自殺に追 い込まれたとされる事件で、生徒が女性用下着を着せられた画像が見つかっていたことが警視庁への取材でわかった。同庁は継父の村山彰容疑者(41)=自殺 教唆容疑で再逮捕=が着せたとみており、自殺との関連を調べる。 捜査1課によると、画像は今年に入って携帯電話で撮影されたもので、記録媒体に残っていた。虐待は昨年4月ごろから始まったとみられ、村山容疑者は今年6 月ごろ、「息がくさいから、自分と話す時はマスクをしろ」と命令。7月29日には「24時間以内に首でもつって死んでくれ」と言い、生徒は翌日、自宅で首をつって自殺したという。」(朝日新聞デジタル)2014.10.31.
たとえ継父といえ、親は子をかわいがり子は親を慕うはずだという麗しい伝統的な親子関係モデルを信じる人たちからは、このニュースはまたとんでもない虐待、そしてそれに耐える力のない弱い子どもの悲劇、としか見えないだろう。どうしてこんなひどい事件が起こるのか?結局、この継父も息子も、自己責任をとる能力に欠ける「甘ったれた教育」が生んだ失敗例なのだと言うのだろう。こういう暴力的な気分が、今の日本にはあちこちに漂っている。でも、これはダメな人格のせいだろうか?個人や教育の失敗だとはぼくには思えない。人権や幸福追求を蔑ろにするこの社会がまともでないから、こういう事件がなくならないので、それにたいして「自分の弱さを社会のせいにする甘え」として批判するのは、理不尽な権力を肯定する思想だと思う。
B.鈴木忠士と早稲田小劇場の出発点
早稲田小劇場と鈴木忠士のことは、七〇年代初めの学生であったぼくには、いろいろな場所で、とくに六〇年代末期のあの新宿をうろついていた記憶からも、鮮明だった。でも、いわゆるアングラ、小劇場演劇の世界はちょっと近づきがたい怖さがあった。それで、同時代の演劇という世界自体、少し敬遠してしまっていたことを今になって残念だと思う。
「状況劇場と並んで一九六〇年代の演劇を代表するユニークな舞台を作りだしたのは、鈴木忠士(一九三九年~)を中心とする劇団早稲田小劇場である(一九八四年からは早稲田小劇場は劇団SCOTと改称した。これはSUZUKI COMPANY OF TOGAの略。富山県利賀村を本拠等する鈴木劇団という意味である)。
早稲田小劇場は一九六六年三月、演出家の鈴木忠士、劇作家の別役実(一九三七年~)、俳優の小野碩(ひろし)を中心に、蔦森晧祐、高橋辰夫、鈴木両全、深尾誼、土井道肇、青山勝彦、関口瑛、斎藤郁子、三浦清枝らを創立メンバーとして結成された。やがて演技面でこの劇団をになう女優・白石加代子は創立から少し遅れて、同年末に入団する。
早稲田小劇場の中核となったのは、早大の学生劇団「自由舞台」の出身者である。当時の自由舞台は劇団員が百五十人から百八十人もいる大きな学生劇団で、スタニスラフスキー・システムと社会主義リアリズムを基調とし、左翼的イデオロギーの影響が強い集団だった。先輩には劇作家の秋浜悟史、演出家の渡辺浩子らがいた。
鈴木、別役、小野は一九五八年、自由舞台の同期生として出会った。ここで鈴木は別役の戯曲第一作『貸間あり』(六〇年)や『AとBと一人の女』(六一年)を演出している。また小野碩は鈴木演出でアーサー・ミラー作『セールスマンの死』の主役ウィリー・ローマンを演じて注目され、その端正で孤独感の漂う演技で別役劇には欠かせない俳優になっていく。
一九六一年、鈴木、別役、小野ら十三人は、早稲田小劇場の前身である「新劇団自由舞台」を結成した。同じ名前を使っているのでまぎらわしいが、これは学生劇団「自由舞台」の出演者を中心とする別の劇団である。その旗揚げ公演として鈴木演出で初演されたのが、別役実初期の代表作『象』だった。六〇年代全体を通しての秀作でもある。
『象』は「ヒロシマ」の病院を舞台として原爆症患者の姿を描いた作品だが、素材の扱い方のユニークさと透明感のある詩的な文体で静かな衝撃を与えた。
この劇には対照的な二人の人物が出てくる。一人は、原爆で受けた背中のケロイドを街頭で見世物のように人目にさらしてかっさいを浴びた輝かしい過去を再現しようと、いじましい努力をする末期患者の「病人」。もう一人は疲労感をにじませたその甥で、ただ「静かに死んでしまいたい」と願う、やはり原爆症の若い「男」。
小説でもノン・フィクションでも、日本で被爆者問題を扱う際には、「原爆体験を風化させてはならない」という暗黙の前提のようなものがあり、そのレールからはずれた描き方をするのはむずかしい。だが、別役が『象』の「病人」を通して暗い孤立感と一種のおかしみをこめて描いたのは、オリジナルの原爆体験がいつのまにか、否応もなくケロイドのむごたらしさを強調する一種の残酷ショー的な演技の情熱へとズれてしまっている事態だった。この作品にベケットの不条理劇、カフカの小説『断食芸人』、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』の影響が見られるが、被爆者問題という重い素材に定型にとらわれない光を当てた姿勢は新鮮だった。とくに過剰な演劇的情熱に燃える「病人」の人間像は、一九七〇年代にはつかこうへいに引き継がれ、もっとにぎやかな笑いと趣向に彩られることになる。
そして六六年三月、別役、小野らは「新劇団自由舞台」を発展改称して、メンバー十五人で劇団早稲田小劇場を結成した。当時、劇団員たちのたまり場だった早稲田の喫茶店「モンシェリ」の主人の好意で、工事費の実費を出せば店の二階にけいこ場を兼ねた小劇場を造ってもらえることになり、それを機に新しい集団として再出発することになったのである。ちょうどそのころ、竹内敏晴、和泉二郎らの演劇集団「変身」が代々木小劇場を開場(六五年)していたのも刺激になった。
早稲田小劇場の旗揚げ公演、別役実作、鈴木演出『門』は、六六年五月、「アートシアター新宿文化」でおこなわれた。
葛井欣士郎が支配人だった客席数四百のアートシアター新宿文化は本来は芸術的な映画を上映する映画館だが、六三年からは映画上映が終わった夜九時半からの時間帯を使って、深夜型の演劇公演を始め、注目を集めていた。劇団「雲」の『動物園物語』(エドワード・オルビー作)、民芸の『ゴドーを待ちながら』(ベケット作)など、演目の大半は新劇の劇団による欧米の実験劇だった。
そこに初めて小劇場系の無名に近い若手劇団の新作が登場したのである。「今、熱狂的な支持を受けている別役、鈴木両氏とも知る人は少なく、さびしい状況での公演であった」と葛井欣士郎は回想記『消えた劇場 アートシアター新宿文化』に書いている。
「きびしい状況」を示すエピソードがある。ジャーナリズムへの話題作りのために、葛井支配人の提案で早稲田小劇場のメンバーが公演中、毎日、劇場の前で「靴みがき」をしたのである。す鈴木はくやしさをこめて振り返る。
「芝居(『門』)で靴みがきが出てくるでしょ、靴みがきのサービスを会期中に劇団員がやれば、記事になりますよ、なんて(支配人が)言うんだよね。我々は知らないから、そういうものかなと。ともかくまあやろうというんで、劇団員が毎日公演前に靴みがきをしたわけだ。新宿の街でさ、そういう時代よ」(インタビューによる鈴木忠士独演30600秒))
五月に『門』で旗揚げ公演をしたあと、劇団員たちは一斉に散って、小劇場の建設費を稼ぎ出すためのアルバイトに精を出した。工事費は二百十四万円で、各自の負担金の枠は三万円から三十万円までだったが、これは「ピシャッと見事に集まった」(鈴木)。
こうして六六年十一月、念願の早稲田小劇場アトリエが完成した。喫茶店の裏側から鉄の階段をのぼって入るこのアトリエは、軽量鉄骨による木造で、普通なら八十人も入ればいっぱいになるこぢんまりしたスペースだった。舞台も小さく、舞台の袖もわずかしかない。客席はいす席ではなく、入れ込み式の平土間だった。常識的には狭く、貧しい空間である。意図して小劇場の空間を選びとったと言うよりも、若く貧しい彼らの自己資金ではこの程度の小空間を東京で確保するのがやっとだったという経済的要因の方が優先していた。
だが、この小さな空間は異様なまでに熱く燃えていた。劇団員たちは学生劇団と安保闘争の体験を共有していたし、全員のアルバイトで小劇場を造るほどの一体感があった。鈴木の言葉を使えば、「就職はしない、新劇へも行かない、何か世の中違うんじゃないかと思ってる連中」の「絶好の感性的な連帯感」があったのである。そこに自由に使える空間ができて、彼らの情熱に本格的な火がついた。彼らは一見貧しい小空間を演劇的には大きな意味をもつ実験の場に変えていく。
アトリエのこけら落としに小野碩、三浦清枝、宗形智子、鈴木両全の出演で上演されたのは別役実の『マッチ売りの少女』だった。『象』とともに初期の別役実を代表する傑作である。」扇田昭彦『日本の現代演劇』岩波新書、1995、pp.40-45.
日本の不条理演劇の金字塔、別役実『マッチ売りの少女』をぼくが舞台で見たのは、21世紀になってから、新国立劇場の立派な舞台でだった。それは、富司純子と寺島しのぶという名門女優の主演だった。時代は変わった。名もなき学生演劇出身の得体の知れない劇団が、喫茶店の二階で、熱をこめて演じていた芝居が、いまは日本を代表する歴史的作品として国立劇場で演じられる。伊勢丹の向かいにあった新宿文化にも、あの頃よく行った。夜遅く芝居をやっていることも知っていたが、ぼくは大島渚などの映画を見に行ったが、芝居は見なかった。行けばよかったな、と思う。
でも、早稲田大学で演劇にかぶれて、就職もせず世間にも背を向けて、アルバイトで稼いだ金をつぎこみ、狭苦しい舞台で芝居をやっていた若者がいたことは奇跡的で、これが日本の演劇の地平線を切り開くことができたのは、才能以上に、高度経済成長に邁進した日本社会の豊かさの効果でもあったことも、社会学的には確かなことだと思う。
今日の片隅ニュースから
「最高裁判決で注目されたマタニティー・ハラスメント(マタハラ)だが、問題解決のために全国の労働局で行われている「紛争解決援助」や「是正指導」の実績は低迷している。マタハラに対して罰則規定がなく、行政が企業を強く指導しづらい背景もある。被害者らは「妊娠や出産でハンデを負う女性の立場を理解してほしい」と訴えている。
◆「伝書バト」
「働く女性の味方になってくれるはずの労働局が力になってくれなかった」 東京都内の会社で働いていた30歳代の女性は振り返る。昨年、長男を出産。産休と育休を計6か月取得したところ、職場復帰1か月前に上司から呼び出された。「保育園の迎えや子どもの病気で仕事に穴が開くと困る」。退職の勧めだった。驚いた女性は、労働局が間に立って解決を図る紛争解決援助を申し立てた。だが、会社の話を聞いた労働局からは、「お互い譲り合ったらどうか」と、解雇を受け入れて金銭で解決するよう打診された。
女性は援助手続きを打ち切り、裁判官らが事実関係を調べる労働審判を申請。すると、「解雇は無効」と判断された。結局、会社を辞めた女性は、「労働局は伝書バトのように私と会社の主張をそれぞれに伝えるだけで、解決に導いてくれなかった。諦めて会社の提案をのむ女性も多いのでは」と話す。」(読売新聞デジタル.2014.10.31)
この事件に直接関わる発言ではないが、マタハラ判決に関連して小説家・保守派文化人・曾野綾子氏の批判的発言(「週間現代」の「私の違和感」)をネットで目にした。「マタハラ、セクハラ、パワハラという言葉と、それを主張する人の品性の貧しさ、心性のいやしさ」を曽野氏は例によって嫌悪をこめて批判する。ある意味で昔からこの人は、一貫して「女性の権利」や「男女の平等」を主張する人々、とくにフェミニスト的言論を心から憎んでいる。それがどこから来るのか?敬虔なカソリックという立場を表明しつつ、笹川財団、日本財団、日本再生会議などの要職を務め、チリのピノチェト政権批判や訴追されたペルーのフジモリ元大統領の保護などに活躍するなど、いろんな場面で右翼的言論を繰り返してきた人である。安倍政権の現在では、櫻井よしこと並んで、というか先輩の刀自的権威として頼りになる女性言論人として知られる。
「なんでも会社のせいにする甘ったれた女」は、黙って家事育児という家庭の役割を引き受けるのを嫌がり、自分勝手な権利を主張するわがままで卑しい女である、という言葉を男が口にすれば激しく叩かれる状況を嘆く男たちには、まことに頼りになる元美女である。ぼくは昔、連合赤軍事件の惨めな仲間の殺し合いが明らかになったとき、曽野綾子氏がコメントした言葉を今も忘れない。「この人たちは、自分の私的欲求不満を全部社会のせいにして、革命などと叫んで破滅した」ざまあみろ、と言っていた。そのときぼくは強い「私の違和感」を感じた。
ではこの社会にはなにも責任はないのか?この社会で最初から恵まれた場所にいるあなたは、そうやって上から目線で、愚かな大衆は自分の置かれた立場を素直に受け入れて、不平不満を言わずに伝統的な価値と秩序と権力に従っていればよし、無知な弱者の分際をわきまえず、反抗や権利主張をするのは品性に欠ける、と言うのか?日本の女たちが、何に苦しみ何と戦ってきたのか、まったく理解する気がないエリートだ、と思った。
もう一つのニュース。
「東京都西東京市の中学2年の男子生徒(14)が継父の虐待で自殺に追 い込まれたとされる事件で、生徒が女性用下着を着せられた画像が見つかっていたことが警視庁への取材でわかった。同庁は継父の村山彰容疑者(41)=自殺 教唆容疑で再逮捕=が着せたとみており、自殺との関連を調べる。 捜査1課によると、画像は今年に入って携帯電話で撮影されたもので、記録媒体に残っていた。虐待は昨年4月ごろから始まったとみられ、村山容疑者は今年6 月ごろ、「息がくさいから、自分と話す時はマスクをしろ」と命令。7月29日には「24時間以内に首でもつって死んでくれ」と言い、生徒は翌日、自宅で首をつって自殺したという。」(朝日新聞デジタル)2014.10.31.
たとえ継父といえ、親は子をかわいがり子は親を慕うはずだという麗しい伝統的な親子関係モデルを信じる人たちからは、このニュースはまたとんでもない虐待、そしてそれに耐える力のない弱い子どもの悲劇、としか見えないだろう。どうしてこんなひどい事件が起こるのか?結局、この継父も息子も、自己責任をとる能力に欠ける「甘ったれた教育」が生んだ失敗例なのだと言うのだろう。こういう暴力的な気分が、今の日本にはあちこちに漂っている。でも、これはダメな人格のせいだろうか?個人や教育の失敗だとはぼくには思えない。人権や幸福追求を蔑ろにするこの社会がまともでないから、こういう事件がなくならないので、それにたいして「自分の弱さを社会のせいにする甘え」として批判するのは、理不尽な権力を肯定する思想だと思う。
B.鈴木忠士と早稲田小劇場の出発点
早稲田小劇場と鈴木忠士のことは、七〇年代初めの学生であったぼくには、いろいろな場所で、とくに六〇年代末期のあの新宿をうろついていた記憶からも、鮮明だった。でも、いわゆるアングラ、小劇場演劇の世界はちょっと近づきがたい怖さがあった。それで、同時代の演劇という世界自体、少し敬遠してしまっていたことを今になって残念だと思う。
「状況劇場と並んで一九六〇年代の演劇を代表するユニークな舞台を作りだしたのは、鈴木忠士(一九三九年~)を中心とする劇団早稲田小劇場である(一九八四年からは早稲田小劇場は劇団SCOTと改称した。これはSUZUKI COMPANY OF TOGAの略。富山県利賀村を本拠等する鈴木劇団という意味である)。
早稲田小劇場は一九六六年三月、演出家の鈴木忠士、劇作家の別役実(一九三七年~)、俳優の小野碩(ひろし)を中心に、蔦森晧祐、高橋辰夫、鈴木両全、深尾誼、土井道肇、青山勝彦、関口瑛、斎藤郁子、三浦清枝らを創立メンバーとして結成された。やがて演技面でこの劇団をになう女優・白石加代子は創立から少し遅れて、同年末に入団する。
早稲田小劇場の中核となったのは、早大の学生劇団「自由舞台」の出身者である。当時の自由舞台は劇団員が百五十人から百八十人もいる大きな学生劇団で、スタニスラフスキー・システムと社会主義リアリズムを基調とし、左翼的イデオロギーの影響が強い集団だった。先輩には劇作家の秋浜悟史、演出家の渡辺浩子らがいた。
鈴木、別役、小野は一九五八年、自由舞台の同期生として出会った。ここで鈴木は別役の戯曲第一作『貸間あり』(六〇年)や『AとBと一人の女』(六一年)を演出している。また小野碩は鈴木演出でアーサー・ミラー作『セールスマンの死』の主役ウィリー・ローマンを演じて注目され、その端正で孤独感の漂う演技で別役劇には欠かせない俳優になっていく。
一九六一年、鈴木、別役、小野ら十三人は、早稲田小劇場の前身である「新劇団自由舞台」を結成した。同じ名前を使っているのでまぎらわしいが、これは学生劇団「自由舞台」の出演者を中心とする別の劇団である。その旗揚げ公演として鈴木演出で初演されたのが、別役実初期の代表作『象』だった。六〇年代全体を通しての秀作でもある。
『象』は「ヒロシマ」の病院を舞台として原爆症患者の姿を描いた作品だが、素材の扱い方のユニークさと透明感のある詩的な文体で静かな衝撃を与えた。
この劇には対照的な二人の人物が出てくる。一人は、原爆で受けた背中のケロイドを街頭で見世物のように人目にさらしてかっさいを浴びた輝かしい過去を再現しようと、いじましい努力をする末期患者の「病人」。もう一人は疲労感をにじませたその甥で、ただ「静かに死んでしまいたい」と願う、やはり原爆症の若い「男」。
小説でもノン・フィクションでも、日本で被爆者問題を扱う際には、「原爆体験を風化させてはならない」という暗黙の前提のようなものがあり、そのレールからはずれた描き方をするのはむずかしい。だが、別役が『象』の「病人」を通して暗い孤立感と一種のおかしみをこめて描いたのは、オリジナルの原爆体験がいつのまにか、否応もなくケロイドのむごたらしさを強調する一種の残酷ショー的な演技の情熱へとズれてしまっている事態だった。この作品にベケットの不条理劇、カフカの小説『断食芸人』、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』の影響が見られるが、被爆者問題という重い素材に定型にとらわれない光を当てた姿勢は新鮮だった。とくに過剰な演劇的情熱に燃える「病人」の人間像は、一九七〇年代にはつかこうへいに引き継がれ、もっとにぎやかな笑いと趣向に彩られることになる。
そして六六年三月、別役、小野らは「新劇団自由舞台」を発展改称して、メンバー十五人で劇団早稲田小劇場を結成した。当時、劇団員たちのたまり場だった早稲田の喫茶店「モンシェリ」の主人の好意で、工事費の実費を出せば店の二階にけいこ場を兼ねた小劇場を造ってもらえることになり、それを機に新しい集団として再出発することになったのである。ちょうどそのころ、竹内敏晴、和泉二郎らの演劇集団「変身」が代々木小劇場を開場(六五年)していたのも刺激になった。
早稲田小劇場の旗揚げ公演、別役実作、鈴木演出『門』は、六六年五月、「アートシアター新宿文化」でおこなわれた。
葛井欣士郎が支配人だった客席数四百のアートシアター新宿文化は本来は芸術的な映画を上映する映画館だが、六三年からは映画上映が終わった夜九時半からの時間帯を使って、深夜型の演劇公演を始め、注目を集めていた。劇団「雲」の『動物園物語』(エドワード・オルビー作)、民芸の『ゴドーを待ちながら』(ベケット作)など、演目の大半は新劇の劇団による欧米の実験劇だった。
そこに初めて小劇場系の無名に近い若手劇団の新作が登場したのである。「今、熱狂的な支持を受けている別役、鈴木両氏とも知る人は少なく、さびしい状況での公演であった」と葛井欣士郎は回想記『消えた劇場 アートシアター新宿文化』に書いている。
「きびしい状況」を示すエピソードがある。ジャーナリズムへの話題作りのために、葛井支配人の提案で早稲田小劇場のメンバーが公演中、毎日、劇場の前で「靴みがき」をしたのである。す鈴木はくやしさをこめて振り返る。
「芝居(『門』)で靴みがきが出てくるでしょ、靴みがきのサービスを会期中に劇団員がやれば、記事になりますよ、なんて(支配人が)言うんだよね。我々は知らないから、そういうものかなと。ともかくまあやろうというんで、劇団員が毎日公演前に靴みがきをしたわけだ。新宿の街でさ、そういう時代よ」(インタビューによる鈴木忠士独演30600秒))
五月に『門』で旗揚げ公演をしたあと、劇団員たちは一斉に散って、小劇場の建設費を稼ぎ出すためのアルバイトに精を出した。工事費は二百十四万円で、各自の負担金の枠は三万円から三十万円までだったが、これは「ピシャッと見事に集まった」(鈴木)。
こうして六六年十一月、念願の早稲田小劇場アトリエが完成した。喫茶店の裏側から鉄の階段をのぼって入るこのアトリエは、軽量鉄骨による木造で、普通なら八十人も入ればいっぱいになるこぢんまりしたスペースだった。舞台も小さく、舞台の袖もわずかしかない。客席はいす席ではなく、入れ込み式の平土間だった。常識的には狭く、貧しい空間である。意図して小劇場の空間を選びとったと言うよりも、若く貧しい彼らの自己資金ではこの程度の小空間を東京で確保するのがやっとだったという経済的要因の方が優先していた。
だが、この小さな空間は異様なまでに熱く燃えていた。劇団員たちは学生劇団と安保闘争の体験を共有していたし、全員のアルバイトで小劇場を造るほどの一体感があった。鈴木の言葉を使えば、「就職はしない、新劇へも行かない、何か世の中違うんじゃないかと思ってる連中」の「絶好の感性的な連帯感」があったのである。そこに自由に使える空間ができて、彼らの情熱に本格的な火がついた。彼らは一見貧しい小空間を演劇的には大きな意味をもつ実験の場に変えていく。
アトリエのこけら落としに小野碩、三浦清枝、宗形智子、鈴木両全の出演で上演されたのは別役実の『マッチ売りの少女』だった。『象』とともに初期の別役実を代表する傑作である。」扇田昭彦『日本の現代演劇』岩波新書、1995、pp.40-45.
日本の不条理演劇の金字塔、別役実『マッチ売りの少女』をぼくが舞台で見たのは、21世紀になってから、新国立劇場の立派な舞台でだった。それは、富司純子と寺島しのぶという名門女優の主演だった。時代は変わった。名もなき学生演劇出身の得体の知れない劇団が、喫茶店の二階で、熱をこめて演じていた芝居が、いまは日本を代表する歴史的作品として国立劇場で演じられる。伊勢丹の向かいにあった新宿文化にも、あの頃よく行った。夜遅く芝居をやっていることも知っていたが、ぼくは大島渚などの映画を見に行ったが、芝居は見なかった。行けばよかったな、と思う。
でも、早稲田大学で演劇にかぶれて、就職もせず世間にも背を向けて、アルバイトで稼いだ金をつぎこみ、狭苦しい舞台で芝居をやっていた若者がいたことは奇跡的で、これが日本の演劇の地平線を切り開くことができたのは、才能以上に、高度経済成長に邁進した日本社会の豊かさの効果でもあったことも、社会学的には確かなことだと思う。