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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

早稲田小劇場・鈴木忠士・別役実のこと

2014-10-31 20:53:32 | 日記
A.後ろ向きの時代・前向きの時代の非対称
今日の片隅ニュースから
「最高裁判決で注目されたマタニティー・ハラスメント(マタハラ)だが、問題解決のために全国の労働局で行われている「紛争解決援助」や「是正指導」の実績は低迷している。マタハラに対して罰則規定がなく、行政が企業を強く指導しづらい背景もある。被害者らは「妊娠や出産でハンデを負う女性の立場を理解してほしい」と訴えている。
◆「伝書バト」
「働く女性の味方になってくれるはずの労働局が力になってくれなかった」 東京都内の会社で働いていた30歳代の女性は振り返る。昨年、長男を出産。産休と育休を計6か月取得したところ、職場復帰1か月前に上司から呼び出された。「保育園の迎えや子どもの病気で仕事に穴が開くと困る」。退職の勧めだった。驚いた女性は、労働局が間に立って解決を図る紛争解決援助を申し立てた。だが、会社の話を聞いた労働局からは、「お互い譲り合ったらどうか」と、解雇を受け入れて金銭で解決するよう打診された。
女性は援助手続きを打ち切り、裁判官らが事実関係を調べる労働審判を申請。すると、「解雇は無効」と判断された。結局、会社を辞めた女性は、「労働局は伝書バトのように私と会社の主張をそれぞれに伝えるだけで、解決に導いてくれなかった。諦めて会社の提案をのむ女性も多いのでは」と話す。」(読売新聞デジタル.2014.10.31)

 この事件に直接関わる発言ではないが、マタハラ判決に関連して小説家・保守派文化人・曾野綾子氏の批判的発言(「週間現代」の「私の違和感」)をネットで目にした。「マタハラ、セクハラ、パワハラという言葉と、それを主張する人の品性の貧しさ、心性のいやしさ」を曽野氏は例によって嫌悪をこめて批判する。ある意味で昔からこの人は、一貫して「女性の権利」や「男女の平等」を主張する人々、とくにフェミニスト的言論を心から憎んでいる。それがどこから来るのか?敬虔なカソリックという立場を表明しつつ、笹川財団、日本財団、日本再生会議などの要職を務め、チリのピノチェト政権批判や訴追されたペルーのフジモリ元大統領の保護などに活躍するなど、いろんな場面で右翼的言論を繰り返してきた人である。安倍政権の現在では、櫻井よしこと並んで、というか先輩の刀自的権威として頼りになる女性言論人として知られる。
「なんでも会社のせいにする甘ったれた女」は、黙って家事育児という家庭の役割を引き受けるのを嫌がり、自分勝手な権利を主張するわがままで卑しい女である、という言葉を男が口にすれば激しく叩かれる状況を嘆く男たちには、まことに頼りになる元美女である。ぼくは昔、連合赤軍事件の惨めな仲間の殺し合いが明らかになったとき、曽野綾子氏がコメントした言葉を今も忘れない。「この人たちは、自分の私的欲求不満を全部社会のせいにして、革命などと叫んで破滅した」ざまあみろ、と言っていた。そのときぼくは強い「私の違和感」を感じた。
ではこの社会にはなにも責任はないのか?この社会で最初から恵まれた場所にいるあなたは、そうやって上から目線で、愚かな大衆は自分の置かれた立場を素直に受け入れて、不平不満を言わずに伝統的な価値と秩序と権力に従っていればよし、無知な弱者の分際をわきまえず、反抗や権利主張をするのは品性に欠ける、と言うのか?日本の女たちが、何に苦しみ何と戦ってきたのか、まったく理解する気がないエリートだ、と思った。
もう一つのニュース。
「東京都西東京市の中学2年の男子生徒(14)が継父の虐待で自殺に追 い込まれたとされる事件で、生徒が女性用下着を着せられた画像が見つかっていたことが警視庁への取材でわかった。同庁は継父の村山彰容疑者(41)=自殺 教唆容疑で再逮捕=が着せたとみており、自殺との関連を調べる。 捜査1課によると、画像は今年に入って携帯電話で撮影されたもので、記録媒体に残っていた。虐待は昨年4月ごろから始まったとみられ、村山容疑者は今年6 月ごろ、「息がくさいから、自分と話す時はマスクをしろ」と命令。7月29日には「24時間以内に首でもつって死んでくれ」と言い、生徒は翌日、自宅で首をつって自殺したという。」(朝日新聞デジタル)2014.10.31.
 たとえ継父といえ、親は子をかわいがり子は親を慕うはずだという麗しい伝統的な親子関係モデルを信じる人たちからは、このニュースはまたとんでもない虐待、そしてそれに耐える力のない弱い子どもの悲劇、としか見えないだろう。どうしてこんなひどい事件が起こるのか?結局、この継父も息子も、自己責任をとる能力に欠ける「甘ったれた教育」が生んだ失敗例なのだと言うのだろう。こういう暴力的な気分が、今の日本にはあちこちに漂っている。でも、これはダメな人格のせいだろうか?個人や教育の失敗だとはぼくには思えない。人権や幸福追求を蔑ろにするこの社会がまともでないから、こういう事件がなくならないので、それにたいして「自分の弱さを社会のせいにする甘え」として批判するのは、理不尽な権力を肯定する思想だと思う。



B.鈴木忠士と早稲田小劇場の出発点
 早稲田小劇場と鈴木忠士のことは、七〇年代初めの学生であったぼくには、いろいろな場所で、とくに六〇年代末期のあの新宿をうろついていた記憶からも、鮮明だった。でも、いわゆるアングラ、小劇場演劇の世界はちょっと近づきがたい怖さがあった。それで、同時代の演劇という世界自体、少し敬遠してしまっていたことを今になって残念だと思う。

「状況劇場と並んで一九六〇年代の演劇を代表するユニークな舞台を作りだしたのは、鈴木忠士(一九三九年~)を中心とする劇団早稲田小劇場である(一九八四年からは早稲田小劇場は劇団SCOTと改称した。これはSUZUKI COMPANY OF TOGAの略。富山県利賀村を本拠等する鈴木劇団という意味である)。
 早稲田小劇場は一九六六年三月、演出家の鈴木忠士、劇作家の別役実(一九三七年~)、俳優の小野碩(ひろし)を中心に、蔦森晧祐、高橋辰夫、鈴木両全、深尾誼、土井道肇、青山勝彦、関口瑛、斎藤郁子、三浦清枝らを創立メンバーとして結成された。やがて演技面でこの劇団をになう女優・白石加代子は創立から少し遅れて、同年末に入団する。
 早稲田小劇場の中核となったのは、早大の学生劇団「自由舞台」の出身者である。当時の自由舞台は劇団員が百五十人から百八十人もいる大きな学生劇団で、スタニスラフスキー・システムと社会主義リアリズムを基調とし、左翼的イデオロギーの影響が強い集団だった。先輩には劇作家の秋浜悟史、演出家の渡辺浩子らがいた。
 鈴木、別役、小野は一九五八年、自由舞台の同期生として出会った。ここで鈴木は別役の戯曲第一作『貸間あり』(六〇年)や『AとBと一人の女』(六一年)を演出している。また小野碩は鈴木演出でアーサー・ミラー作『セールスマンの死』の主役ウィリー・ローマンを演じて注目され、その端正で孤独感の漂う演技で別役劇には欠かせない俳優になっていく。
 一九六一年、鈴木、別役、小野ら十三人は、早稲田小劇場の前身である「新劇団自由舞台」を結成した。同じ名前を使っているのでまぎらわしいが、これは学生劇団「自由舞台」の出演者を中心とする別の劇団である。その旗揚げ公演として鈴木演出で初演されたのが、別役実初期の代表作『象』だった。六〇年代全体を通しての秀作でもある。
 『象』は「ヒロシマ」の病院を舞台として原爆症患者の姿を描いた作品だが、素材の扱い方のユニークさと透明感のある詩的な文体で静かな衝撃を与えた。
 この劇には対照的な二人の人物が出てくる。一人は、原爆で受けた背中のケロイドを街頭で見世物のように人目にさらしてかっさいを浴びた輝かしい過去を再現しようと、いじましい努力をする末期患者の「病人」。もう一人は疲労感をにじませたその甥で、ただ「静かに死んでしまいたい」と願う、やはり原爆症の若い「男」。
 小説でもノン・フィクションでも、日本で被爆者問題を扱う際には、「原爆体験を風化させてはならない」という暗黙の前提のようなものがあり、そのレールからはずれた描き方をするのはむずかしい。だが、別役が『象』の「病人」を通して暗い孤立感と一種のおかしみをこめて描いたのは、オリジナルの原爆体験がいつのまにか、否応もなくケロイドのむごたらしさを強調する一種の残酷ショー的な演技の情熱へとズれてしまっている事態だった。この作品にベケットの不条理劇、カフカの小説『断食芸人』、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』の影響が見られるが、被爆者問題という重い素材に定型にとらわれない光を当てた姿勢は新鮮だった。とくに過剰な演劇的情熱に燃える「病人」の人間像は、一九七〇年代にはつかこうへいに引き継がれ、もっとにぎやかな笑いと趣向に彩られることになる。
 そして六六年三月、別役、小野らは「新劇団自由舞台」を発展改称して、メンバー十五人で劇団早稲田小劇場を結成した。当時、劇団員たちのたまり場だった早稲田の喫茶店「モンシェリ」の主人の好意で、工事費の実費を出せば店の二階にけいこ場を兼ねた小劇場を造ってもらえることになり、それを機に新しい集団として再出発することになったのである。ちょうどそのころ、竹内敏晴、和泉二郎らの演劇集団「変身」が代々木小劇場を開場(六五年)していたのも刺激になった。
 早稲田小劇場の旗揚げ公演、別役実作、鈴木演出『門』は、六六年五月、「アートシアター新宿文化」でおこなわれた。
 葛井欣士郎が支配人だった客席数四百のアートシアター新宿文化は本来は芸術的な映画を上映する映画館だが、六三年からは映画上映が終わった夜九時半からの時間帯を使って、深夜型の演劇公演を始め、注目を集めていた。劇団「雲」の『動物園物語』(エドワード・オルビー作)、民芸の『ゴドーを待ちながら』(ベケット作)など、演目の大半は新劇の劇団による欧米の実験劇だった。
 そこに初めて小劇場系の無名に近い若手劇団の新作が登場したのである。「今、熱狂的な支持を受けている別役、鈴木両氏とも知る人は少なく、さびしい状況での公演であった」と葛井欣士郎は回想記『消えた劇場 アートシアター新宿文化』に書いている。
「きびしい状況」を示すエピソードがある。ジャーナリズムへの話題作りのために、葛井支配人の提案で早稲田小劇場のメンバーが公演中、毎日、劇場の前で「靴みがき」をしたのである。す鈴木はくやしさをこめて振り返る。
 「芝居(『門』)で靴みがきが出てくるでしょ、靴みがきのサービスを会期中に劇団員がやれば、記事になりますよ、なんて(支配人が)言うんだよね。我々は知らないから、そういうものかなと。ともかくまあやろうというんで、劇団員が毎日公演前に靴みがきをしたわけだ。新宿の街でさ、そういう時代よ」(インタビューによる鈴木忠士独演30600秒))
 五月に『門』で旗揚げ公演をしたあと、劇団員たちは一斉に散って、小劇場の建設費を稼ぎ出すためのアルバイトに精を出した。工事費は二百十四万円で、各自の負担金の枠は三万円から三十万円までだったが、これは「ピシャッと見事に集まった」(鈴木)。
 こうして六六年十一月、念願の早稲田小劇場アトリエが完成した。喫茶店の裏側から鉄の階段をのぼって入るこのアトリエは、軽量鉄骨による木造で、普通なら八十人も入ればいっぱいになるこぢんまりしたスペースだった。舞台も小さく、舞台の袖もわずかしかない。客席はいす席ではなく、入れ込み式の平土間だった。常識的には狭く、貧しい空間である。意図して小劇場の空間を選びとったと言うよりも、若く貧しい彼らの自己資金ではこの程度の小空間を東京で確保するのがやっとだったという経済的要因の方が優先していた。
 だが、この小さな空間は異様なまでに熱く燃えていた。劇団員たちは学生劇団と安保闘争の体験を共有していたし、全員のアルバイトで小劇場を造るほどの一体感があった。鈴木の言葉を使えば、「就職はしない、新劇へも行かない、何か世の中違うんじゃないかと思ってる連中」の「絶好の感性的な連帯感」があったのである。そこに自由に使える空間ができて、彼らの情熱に本格的な火がついた。彼らは一見貧しい小空間を演劇的には大きな意味をもつ実験の場に変えていく。
 アトリエのこけら落としに小野碩、三浦清枝、宗形智子、鈴木両全の出演で上演されたのは別役実の『マッチ売りの少女』だった。『象』とともに初期の別役実を代表する傑作である。」扇田昭彦『日本の現代演劇』岩波新書、1995、pp.40-45.

 日本の不条理演劇の金字塔、別役実『マッチ売りの少女』をぼくが舞台で見たのは、21世紀になってから、新国立劇場の立派な舞台でだった。それは、富司純子と寺島しのぶという名門女優の主演だった。時代は変わった。名もなき学生演劇出身の得体の知れない劇団が、喫茶店の二階で、熱をこめて演じていた芝居が、いまは日本を代表する歴史的作品として国立劇場で演じられる。伊勢丹の向かいにあった新宿文化にも、あの頃よく行った。夜遅く芝居をやっていることも知っていたが、ぼくは大島渚などの映画を見に行ったが、芝居は見なかった。行けばよかったな、と思う。
 でも、早稲田大学で演劇にかぶれて、就職もせず世間にも背を向けて、アルバイトで稼いだ金をつぎこみ、狭苦しい舞台で芝居をやっていた若者がいたことは奇跡的で、これが日本の演劇の地平線を切り開くことができたのは、才能以上に、高度経済成長に邁進した日本社会の豊かさの効果でもあったことも、社会学的には確かなことだと思う。
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ある外交官、遺族会、そして次元を異にする唐十郎。

2014-10-29 20:50:43 | 日記
A.「親米」外務省・「反米」靖国神社?
 昨日のニュース、ふたつ。ひとつは訃報、ひとつは福岡でのある決議。
「元駐タイ大使で、外交評論家の岡崎久彦さんが26日、死去した。84歳だった。通夜、葬儀は近親者のみで行う。喪主は妻昭子さん。後日しのぶ会を開く予定。
 1952年に外務省入省。同省情報調査局長や駐サウジアラビア大使、駐タイ大使を歴任し、92年に辞職後は「親米保守」の論客として知られた。
 同省調査企画部長だった83年に、歴史を踏まえた国家戦略論を説いた著書「戦略的思考とは何か」がベストセラーとなり、テレビの討論番組などにも数多く出演した。2004年には当時、自民党幹事長だった安倍晋三首相と共著「この国を守る決意」を出版した。
 安倍首相の外交政策のブレーンを務め、第1次、第2次安倍政権で、首相御私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)のメンバーを務め、集団的自衛権の行使容認に道を開く報告書をまとめた。」朝日新聞10月28日朝刊、34面。

 もと外交官で、集団的自衛権行使容認のシナリオを書いた一人でもある岡崎氏のことは、ぼくには、だいぶ前だが「朝まで生テレビ」でこの人が発言したのを見たときの強い印象が残っている。テーマは日本が負けた戦争のことだったと思う。その発言は、やや昂奮して「日本はとにかくアングロサクソンを敵に回してはいけない。何があってもアングロサクソンの側についていれば安全なんです!」というものだったと思う。ぼくはこれを聞いて、ちょっと驚いた。あの戦争がなぜ負けたのか?それはドイツ・イタリアと枢軸同盟を組んで、「鬼畜米英」アメリカ・イギリスと全面戦争をしたからだ、これが間違いだったという歴史認識なのだが、外務省の幹部外交官とは、こういう風に考える人なのかと思った。
  ナチス・ドイツと手を組んだのは間違いだったというのは、結果から明らかだが、岡崎氏の認識では、日清日露戦争からはじまって、満州事変(1931年)、支那事変(1937年)に至る昭和日本の中国大陸での戦争は否定されない。そこまではアングロサクソンとの戦いではない、しかし1940年9月に日独伊三国軍事同盟を結び、1941年12月アメリカ太平洋艦隊のいる真珠湾攻撃を始めたときから間違って、あとは敗戦、占領統治、東京裁判、日本国憲法、国際社会への復帰まで、外交官の出る幕はなく亡国の時代に陥った、と考えている。
 歴史を勝手に塗り替えようとする極右的「自虐反転歴史観」とは、ちょっとだけ視点は違うかもしれないが、要するにアングロサクソンに逆らったから負けたので、米英とうまくやっていればよかったのだ、だから日米安保体制こそがこの国の唯一の生きる道であるという所で、思考がぱたっと停止している。とにかくアメリカに気に入られることが日本外交の基本的態度なのだ、と岡崎氏は力説していた。それはそのまま新自由主義グローバリズムへの盲信と並んで、今の安倍政権の底に孕むもうひとつの矛盾だと思う。

「福岡県遺族連合会(古賀誠会長)は27日、福岡市内で県戦没者遺族大会を開き、靖国神社(東京都千代田区)に合祀されているA級戦犯を分祀するよう求める決議を採択した。同連合会によると全国の遺族会で分祀を求める決議が行われたのは初めて。複数の県の遺族会でも分祀決議への同調を探る動きがあるという。
 決議では、分祀の理由について「天皇皇后両陛下、内閣総理大臣、すべての国民にわだかまりなく靖国神社を参拝していただくため」としている。同連合会の事務局は「靖国神社で追悼、慰霊をするためには分祀が必要だ。遺族が元気なうちに実現したい」と説明。近く日本遺族会(尾辻秀久会長)に決議を送付する。
 同連合会は2007年に勉強会を発足させ、09年には「A級戦犯の扱いは、合祀された1978年以前の『宮司預かり』に戻す」との見解をまとめていた。元自民党幹事長で日本遺族会の元会長でもある古賀会長は、A級戦犯の分祀を提唱してきた。」朝日新聞10月28日朝刊、34面。

 これも面白い思想的練習問題だと思う。遺族会という組織は、戦後長い間、保守政党自民党の大きな支持基盤だった。あの戦争で国家のために遠い太平洋の戦場で兵士として無残に命を落としたたくさんの人々の係累が、死者を鎮魂する靖国に祈りを捧げるのは、確かに人として自然な感情であるだろう。しかし、靖国を初め各地に作られた護国神社は、国家宗教と個人の信仰の問題を別としても、かつての大日本帝国においては国家の鎮魂施設として機能していた。敗戦後、それは枢軸国側の一国として世界戦争を戦った過去の過ちを認め、戦後新秩序に日本国が復帰する際に、軍国主義と神性皇国主義を否定し、伝統民間宗教としての神道と国家神道を区別して靖国神社を一民間宗教法人の施設としてのみ存続させた。それは世界に対して日本国の表明した約束だった。その経緯を、あえて無視し、靖国神社がA級戦犯を合祀した。国のために命を捨てた兵士の魂に、無謀な戦争を決断した人々を加えてしまった。
  さて、福岡県遺族会の決議は、A級戦犯を分祀、つまり靖国が慰霊しているのは戊辰戦争から中国大陸での戦争、そして太平洋の戦争まで国家の命令で戦って命を落とした兵士の御霊であって、東京裁判で戦争責任を問われた指導者は別にせよ、ということである。これを別にしない限り、そしてその施設に首相をはじめ日本政府の要人が参拝することは、世界諸国にたいする約束を反故にすることになり、日本はあの戦争を正しい戦争として肯定することになる。だから1978年以前の「分祀」に戻せば、天皇家をはじめ多くの国民は、町の神社に初詣に行くのと同じく一宗教施設に参拝することができる、という論理である。
 福岡県遺族会会長古賀誠氏は、かつての自民党幹事長であり、保守勢力の有力政治家だった。今の安倍政権は、もはや以前の自民党とは様変わりして、現行憲法を遵守する気はまったくなく、かつて日本がやった戦争を、アングロサクソンとの戦争も含めて動機において正しい戦争だと言い始め、英霊に誠を捧げると称してA級戦犯をも犠牲者として拝もうとしている人ばかりになっている。ただし、そういう行為はアメリカという最大の庇護者、そして世界への約束を裏切っていることに無自覚である。だから、日米同盟がこの国の安全保障の基本であるという外務省的な立場とは矛盾する。これは危険なトゲになりつつあるので、そこから政治的外交的な配慮として、靖国のA級戦犯分祀という提案が出てくる。そこをなんとかクリアすれば、遺族会的には助かると考えたのだろう。それはある意味、保守政治家として賢明な判断だと思う。
 でも、今の靖国神社は、そもそも国家施設などではない、ということを考えれば、A級戦犯を合祀していようが戦争を賛美しようが、それは一神社の勝手であって、参拝する閣僚が言うように一個人としての私的行為にすぎない。信仰の自由、思想の自由に属することがらである。問題は、それを実質的に国家の鎮魂施設とみなしておきながら、外に説明するときだけ私人の行為などと詭弁を弄するから、外国は誰も日本政府や日本人を信用してくれないのだ。主張するなら、靖国神社は国家施設でもなんでもなく、ただの民間神社であると言えばいい。しかし、そう言えないのは、国家の命令で徴兵され、戦場で空しく斃れ、「英霊」として一括して奉られて神になったという闇の中の亡霊のような観念が、復活しようとしているからだ。少なくとも同じように戦って多くの若者を死なせたアメリカやイギリスの遺族は、そんな詭弁は許さないはずだ。



B.紅テント続編
 状況劇場の主宰者唐十郎という人の経歴をWikipediaで見てみる。
 唐 十郎、本名:大 義英(おおつる よしひで)、1940年2月11日 生まれ)は、劇作家・作家・演出家・俳優。父は理研映画で監督・プロデューサーを務めた大鶴日出栄。前妻は女優の李麗仙、息子は俳優の大鶴義丹、娘は女優の大鶴美仁音。作家としても活躍、『佐川君からの手紙』で芥川賞を受賞。俳優として自作以外の映画やテレビドラマに出演することもある。他の演出家への戯曲提供も多い。明治大学文学部演劇学科卒業。2012年4月より同大学客員教授に就任。
  東邦大学付属東邦高校を経て、明治大学文学部演劇学科卒業。演劇の新テーゼ「特権的肉体論」を提唱して、1963年に笹原茂峻(笹原茂朱)らと共に劇団「シチュエーションの会」(翌年「状況劇場」に改名)を旗揚げ。旗揚げ公演はサルトル作の『恭しき娼婦』。翌1964年の処女戯曲『24時53分「塔の下」行きは竹早町の駄菓子屋の前で待っている』で、初めて唐十郎の筆名を用いる。この時期、李礼仙(李麗仙の旧芸名)と共に「金粉ショー」をしながらキャバレーを巡り、芝居の資金や紅テントの購入費用を調達した。1967年2月、新宿ピットインで、ジャズ・ピアニスト山下洋輔とジョイント公演。この時の、入場待ちの行列を見て、自分のやっていることに自信がでてきたという。
  1967年8月、新宿・花園神社境内に紅テントを建て、『腰巻お仙 -義理人情いろはにほへと篇』を上演。当初、神社側から「『腰巻』では国体に反する」とのクレームが入ったため、『月笛お仙』と改題して上演したが、1週間程度で元の『腰巻』に戻している。この紅テントが話題を呼び、後の「状況劇場」の方向性を決定づけた。花園神社の紅テントではその後も、『アリババ』、 『傀儡版壺坂霊験期』、『由比正雪-反面教師の巻』の上演を行ったが、公序良俗に反するとして地元商店連合会などから排斥運動が起こり、ついに神社総代会 より68年6月以降の神社境内の使用禁止が通告された。1968年6月29日、「さらば花園!」と題するビラをまき、状況劇場は花園神社を去った。
  1969年1 月3日、東京都の中止命令を無視し、新宿西口公園にゲリラ的に紅テントを建て、『腰巻お仙・振袖火事の巻』公演を決行。200名の機動隊に紅テントが包囲 されながらも最後まで上演を行った。これが世に知られる「新宿西口公園事件」である。上演後、唐十郎、李麗仙ら3名が「都市公園法」違反で現行犯逮捕された。この頃から、マスコミにしばしば取り上げられるようになった。「天井桟敷」の寺山修司、「早稲田小劇場」の鈴木忠志、「黒テント」の佐藤信と共に「アングラ四天王」と呼ばれ、アングラ演劇の旗手とみなされた。
  状況劇場は初期には麿赤児、不破万作、大久保鷹、四谷シモン、吉澤健ら、後に根津甚八、小林薫、佐野史郎、六平直政、菅田俊、渡辺いっけいら名優を輩出した。また、横尾忠則、金子國義、赤瀬川原平、篠原勝之らがポスターを描いた。また、韓国の抵抗詩人で、当時保釈中の金芝河との合同公演をもくろみ、戒厳令下の韓国に渡航して取材をし、『二都物語』を執筆。1972年3月に再度渡韓し、無許可のまま、ソウルにて、金芝河作の『金冠のイエス』とともに『二都物語』を韓国語で上演する。
引用ばかりですまないが、もう一度、演劇評論家扇田昭彦氏の『日本の現代演劇』岩波新書から。

「紅テント公演を始める前に、初期の状況劇場はハプニング的な街頭劇もいくつか試みている。例えば一九六五年二月、彼らは西銀座の数寄屋橋公園で「形而上的街頭劇」と銘打って、『ミシンとコウモリ傘の別離』を上演した(この題名はむろん、シュルレアリストが愛用したロートレアモンの有名なことば、「解剖台の上のミシンとコウモリ傘の出会い」によっている)。この街頭劇で俳優・大久保鷹がデビューしたが、彼は公園の冷たい水の中で一時間も泳ぎつづけたため、凍死寸前の状態に陥った。結局、警官が介入して公演は中止、責任者はひと晩拘留という「形而下的」結末を迎えた。
 劇団の公演記録にはのっていないが、この年の六月十九日にも、唐たちはやはり数寄屋橋公園で街頭劇を試みている。当時の読売新聞にはこんなからかい気味の記事がのった。
 「ケケケ‥‥」と奇声を発しながら奇怪な一団が現われた。/ナンキン袋のサックドレス、両腕を引きちぎったシャツ。それに白衣などのとてつもない姿の男たち七人。公園の池を舞台に、人体模型のガイ骨や、骨だけのカサなど小道具を手にして、座禅を組んだり、曇り空をあおいで「キャアキャ…‥」。はては、泳いだり、のたうちまわったり。/築地署数寄屋橋交番から署員三人がかけつけたが、池の中で十五分もねばった末、寒さに耐えかねてか、やっと上陸、パトカーで築地署に連行された。/この連中は、杉並区善福寺二の八、自称演出家、唐十郎さん(二五)をリーダーとする、國學院大の学生ら若い演劇グループ。びしょぬれの寒さに同署でガタガタふるえながら「屋内劇場の舞台で行われている演劇は古い。われわれの“演劇”こそ純粋の演劇のパターンである」と署員に演劇論をひとくさり。「真の芸術でも無許可で、突然やってはいかん。……」と厳重説諭のすえ、釈放された。/真の芸術とは、なんともきびしいもの」
 唐十郎がまだ「自称演出家」と書かれていた無名時代のエピソードである。
 街頭劇につづき、状況劇場は六六年、新宿区の戸山ハイツで野外公演を二回おこなった。一回目は四月十六日の『腰巻お仙の百個の恥丘』。二回目は十月末に三日間上演された『腰巻お仙・忘却篇』。灰かぐらの名で伝説化した舞台である。
 この十月の公演は三日間で観客わずか七十人。音楽は借り物の小さなテープレコーダー。照明器具はなく、劇団員が二名の自転車のペダルを思いっきりこいで、かすかな明かりで役者を照らしだすという貧しさ。しかもパトカー四台の監視つきという状態だったが、この公演はそれを見た少数の観客に強い感銘を与えた。この公演のために初めて状況劇場のポスターを描いた横尾忠則は、その驚きを後にこう書いている。
「腰巻お仙」は演劇というより、ひとつの事件であった。文字通り演劇空間はステージをはみ出し、遥か丘の上に立つ木の上に全裸の「お仙」。パトカーの警官が公演を阻止しようとするが、唐十郎を始め、一升ビンをぶら下げた観客の渋沢龍彦、土方巽など一丸となってますますエスカレート、虚構と現実が交差する中に、犯罪が芸術に転化していくプロセスを肉体で感じとった」
 その当時、唐と妻の李麗仙はアルバイトのために全国各地のキャバレーで金粉ショーのダンサーをしていた。これは唐が「師」と呼ぶ暗黒舞踏派のカリスマ的な指導者で、唐に強い影響を与えた舞踏家・土方巽(一九ニ八~八六)が斡旋してくれた仕事だった。唐の話によれば、六六年から六八年まで三年間、函館から長崎まで五百ヵ所近くのキャバレーを二人で回ったという。金粉ショーは皮膚の気孔がふさがれて心臓に負担がかかるつらい仕事だったが、収入はよく、こうやってためた金で芝居を打つ生活が、『腰巻お仙・忘却篇』から六八年の『由比正雪』のころまで続いた。」扇田昭彦『日本の現代演劇』岩波新書、pp.27-29.

 今となっては、もう歴史の領域に入りつつある出来事だが、唐十郎はまだ生きている。74歳。アングラ芝居御三家のうち、寺山修司は早く亡くなり、鈴木忠士(1939年生まれ)、佐藤信(1943年生まれ)はまだ存命だが、さすがにご高齢になってしまったな。
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状況劇場の紅テント・行けばよかった!

2014-10-27 03:20:55 | 日記
A.大震災の異常について
 加藤直樹著『九月、東京の路上で1923年関東大震災ジェノサイドの残響』という本があって、たまたまamazonでこの本のカスタマーレビューを見たら、「最も参考になったカスタマーレビュー」が「事実とは異なる創作小説」なる投稿だった。これを読んでしまったら、ひどく暗澹たる気分に襲われた。ここには、事実の確認というより、論理の顚倒がある。日本人による朝鮮人の殺害は、治安維持のための正当防衛であり、むしろ本性邪悪な朝鮮人が震災をチャンスに暴動を企んで、日本人を殺害したので自衛のために市民が立ち上がった、という被害者は日本人で、何も悪いことはしていないのに、あたかも日本人が虐殺したかに言い立てる虚偽であると主張している。今の日本では、ドミノ崩しの裏返し、歴史認識の大逆転を試みる文化大革命、いや文化反革命が進行している。胸が苦しいが引用してみる。

「関東大虐殺と呼ばれる集団リンチ殺人事件では騒動の拡大を恐れた日本政府が早期に朝鮮人を隔離した為、朝鮮人の被害者は意外に少なく言葉が不自由な日本人が朝鮮人に間違われて殺されており、事件の被害者の半数は日本人だった事が記録に残っています。
Wikiなどでは韓国側が被害者数を数十万人と主張していますが、当時日本国内に滞在していた朝鮮人は全部合わせても8万2千人で関東地方に限ると2万人程度でした。
また、自警団による殺傷事件は裁判記録から見ると火事場泥棒の証拠隠滅の為に放火したり、震災で負傷して動けなくなった婦女子をレイプしていたところを現行犯逮捕されたにも関わらず自分の家だと嘘をつき民衆の怒りからリンチされた事が記されており、容疑者も日本人を殺した一部を除いて不起訴処分や実刑は無しで保釈されています。
この本に書かれている事が事実であれば韓国外交部が日本への賠償を要求してくる筈ですが、実際に去年の年末頃に在日韓国領事館から当時の記録が見つかり、それを元に日本政府に賠償請求しようと検討していた事が韓国の新聞で報道されていました。
しかし日本人が殺した朝鮮人の数より朝鮮人の放火による死傷者や建造物の損害の方がはるかに多く、関東大震災では地震による家屋倒壊で圧死した人は3割程度なのに対して、その後に発生した火災で焼死した人が7割だった事から朝鮮人の放火により被害が拡大した為、逆に日本政府から請求される賠償金額の方が天文学的な額になりやむなく断念して現在はロビー活動により歴史歪曲でこの件を既成事実化する方向でいく事を決定したと朝鮮日報の記事で読みました。
最近、韓国の新聞やネットニュースでこの本がよく取り上げられていますが、これも第二の吉田清治を作り出そうというロビー活動の一環だと思われます。

 この本に書かれている「事実」と称されるものは自称被害者とされる証言を元に構成されており、証言の裏付け調査や行政機関の記録との照合もされていない為、歴史上の記録と時系列的な乖離が見られます。
また、実際にあった事実であっても歪曲して日本人の残虐さを強調する記述も目立ちます。
ちなみにこの事件の容疑者はすべて処罰されて刑期も終えており政府の朝鮮人保護対策も不備はなかったので、日本政府や今の日本人に損害賠償を要求するというのはかなり困難だと思われますし、従軍慰安婦問題とは異なり国内で起きた大災害・事件なだけに記録も多く、ロビー活動だけで日本側の反論を押さえる事は出来ないでしょう。
日本人の恥だというレビューもありますが発端は朝鮮人の犯罪から自衛する為の正当防衛であり、警察の対応も適切に行われていた事と政府の事件への関与は無く民間人の犯行でしかなく現代でも日常的に起きている単なる刑事・民事事件の範疇ですので今の日本人がなんら恥じる必要性はありませんので安心してください。
これが大虐殺だと言うのなら、バージニア工科大学銃乱射事件は韓国人による「バージニア大虐殺」になってしまいます。

 この本の主旨である日本人がこんなに酷いことをしたという論調は無視していいと思いますが、大きな災害に見舞われたときに今後どういう行動を日本人はとるべきかという事は震災対応の面でも災害の多い国で生きる日本人は考えておく必要はあると思います。
しかし、その教訓は東日本大震災での日本人の行動を見る限り活かされていましたので単なる杞憂でしかないのかもしれません。
どちらかというと、東日本大震災でも放射能で閉鎖されている地域に検問を突破してまで火事場泥棒に入っていた朝鮮人たちに100年経ってもまったく進歩が無かったのにはがっかりさせられましたが。」

 昔、清水幾太郎の名著といわれる『流言蜚語』という本があって、アメリカの社会心理学を日本に導入して、非常時の集団的パニック行動を論じたものだが、清水幾太郎は、関東大震災を実際に東京で経験している。大震災のような情報通信が途絶えた状況で、「不逞鮮人が井戸に毒を投入」「朝鮮人が放火した」というデマが、たちまち自警団的な暴力的な殺害行動を呼び込んでしまう心理が、他ならぬ大震災の東京で起ったことは歴史的な事実。この投稿者は、すべて公的記録や裁判で処理されたことで、異常時の行動はむしろ悪辣な朝鮮人の放火・強姦・略奪を防ごうとした市民の正当な防衛であり、間違って日本人まで殺したのは罪を問われるだろうが、それを今頃になって、根拠も定かでない人々の証言だけをもとに、日本人が悪事を行ったというのは、朝日新聞と同じ悪意の捏造だ、と主張している。
 これにいちいち反論するのも徒労だが、論理は慰安婦問題や南京虐殺などなかったと言う極右言説とみな同じ。まず、出発点が、朝鮮人・中国人は劣等民族で隙を見せれば悪事を企む連中、という民族蔑視。こういう観念を持つ人は、出来事をすべてこの枠組みで解釈する。そして非常時には「流言蜚語」をいったん生み出してしまうと、一気に過激な行動を誘発する。それは人間の社会心理学的な行動説明で、実によくあてはまる。だから、日本人のしたことは全部正しく、朝鮮人のしたことは全面的に犯罪だという無理矢理の屁理屈でなく、事実は素直に認めた方がいい。日本人だって、海外移民で暮らす人が、いかに厳しい偏見や差別のなかで頑張って生き延びたかを思えば、日本で暮らす朝鮮人を頭から軽蔑などできないでしょ、というのはナショナリストだからこそ認める真理のはず。



B.状況劇場の黎明
 1960年代の終り、新宿の花園神社で、紅テントの状況劇場という妙な劇団がへんな芝居をやっている、ということは高校生の頃、なんとなく聞いていた。浪人して新大久保の予備校に通い出した頃も、ぼくはすぐ近くの花園神社や歌舞伎町には歩いていった。しかし、この怪しい芝居を見るのはちょっと怖かった。結局、テントは外から見たが、入ることはなかった。やがて、その明治通りに沿った「新宿文化」で上映された寺山修二の「書を捨てよ街へ出よう」や大島渚の「新宿泥棒日記」で、リアルタイムのアングラ前衛演劇というものの片鱗を知って、唐十郎と状況劇場のことも興味をもった。しかし、それでもまだテントに行って芝居を見るという勇気はなかった。

「唐十郎が率いる劇団「状況劇場」(現・「唐組」)の「紅テント」の公演を、私が初めて見た夏の夜のことは忘れられない。
 一九六七年の八月と九月の毎週土曜日、状況劇場は東京・新宿の花園神社の境内に初めて紅テントを張って、唐十郎作、村尾国士演出『月笛お仙・義理人情いろはにほへと篇』を上演したのである。状況劇場の機関誌には「演劇史上初のテント劇場 新宿花園神社に出現す!」という見出しが躍っていた。それまでにもテントを使ったサーカスや見世物小屋は多くあったが、実験劇の公演にテントを使ったのは、たぶん日本では状況劇場が初めてだったろう。
 状況劇場はその五年前(一九六二年)に結成されていた。六六年には東京・新大久保の戸山ハイツで、「灰かぐら劇場」と銘打って唐十郎の『腰巻お仙・忘却篇』を野外で上演し一部から注目されていたが、この劇団を一躍有名にしたのは紅テント公演である。
 当時、私は朝日新聞横浜支局の記者だった。演劇が好きで、週末にはよく東京で芝居を見た。この夜は学生時代の友人と一緒の観劇だった。その翌年秋から、私は学芸部に移り、演劇を担当することになる。
 この公演の本来の題名は『腰巻お仙』だった。だが、『腰巻』は「下品」だと神社側からクレームがついたため、劇団では『月笛お仙』に変更して上演にこぎつけたいきさつがあった。やがて黒テントなどを使った実験劇が増えるが、これはその先駆となったテント興業である。
 その夜は開演前から思いがけないことがあった。たたきつけるような夕立が襲い、境内のテントの中とまわりにたちまち大きな泥水の池ができてしまったのだ。そのため、劇団員と観客が協力してテントを境内の別の場所に移し、予定の七時より一時間あまり遅れて開演となった。劇的な導入部つきの観劇という点でも、この夜の印象は強い。
 当時、新宿の街には開放的な雰囲気が漂い、花園神社にもフーテン族と呼ばれるヒッピー風の若者たちがたむろしていた。その中にあって八角形の紅テントは煽情的に赤く、毒花のように挑発的だった。だが、大きさは意外にこぢんまりとしていて、収容人員は百五十人程度、背も低く、地にへばりついた大きなヒトデを連想させた。
 テントの入口では、頭をつるつるに剃った海坊主のような異様な風貌の俳優・麿赤児が「ヒャラリヒャラリコ、ヒャリコヒャラレロ、誰が吹くのか、不思議な笛だ」と往年のNHKラジオドラマ『笛吹童子』の主題歌の歌詞を使って、すごみのある声で呼び込みをしていた。麿は状況劇場の初期を代表するスターだったが、やがて退団し(七一年)、舞踏集団「大駱駝艦」(七二年結成)の主宰者となった。
 テントの入口付近に張ってある状況劇場の大きなポスターも目を奪った。これはその前年(六六年)、美術家の横尾忠則が唐十郎の『腰巻お仙・忘却篇』のために作ったポスターだったが、けばけばしくキッチュな感覚にあふれたデザインだった。昇る朝日を背景にスーパーマンのように飛ぶ裸女、からみあうはげ頭の男と女装の男、巨大な桃の実、東海道新幹線(六四年に開通したばかりだった)、大きな波しぶき、さらに状況劇場に寄せた澁澤龍彦の文章……といったまるで異質なものが組み合わされているのだ。土俗的なもの、類型的なものをぬけぬけと使いながら、それを喜劇的な笑いに転化してしまう図柄は出色だった。このポスターは七〇年にニューヨーク近代美術館で開かれた世界ポスター展で、六〇年代を代表するポスターのベストワンに選ばれ、横尾の代表作になった。」扇田昭彦『日本の現代演劇』岩波新書、1995.pp.2-4.

 あの1970年前後の新宿は、確かに東京でも他のどこにもないぎらぎらした熱気が溢れていたように思う。演劇の世界は、それまでは西洋直輸入のカッコつけた「新劇」か、大劇場で有名俳優中心の「歌舞伎」「新派」「宝塚」の大袈裟なショーだった。しかし、状況劇場は確かにそういう演劇の既成概念を塗り替えた。そこには野性的なスタイルと、反抗的なメッセージがあった。

「幼い時に別れた「母さん」を探す「忠太郎」という若者が登場する。つまり、彼は長谷川伸の名作劇『瞼の母』の「番場の忠太郎」の昭和版なのだ。だが、彼の前に現れるのは母親ではなく、生まれる前に母に捨てられ、流されてしまった堕胎児たちの群だ。唐の妻の李麗仙(当時は礼仙)が男装で演じる「美少年」が登場するが、堕胎児たちの怨念を体現しているらしいこの少年は、終幕では神話的な女性「腰巻お仙」に変身する。
 ここに描かれたのは、日常的な現実の底からせり上がってくるアンダーワールドである。母親や社会から切り捨てられ、葬られたものたちが息をふきかえし、舞台で生き生きと活躍を始める。しかも興味深いのは、美少年・堕胎児たちと母親の間に複雑な愛憎関係があることだ。捨てられた子どもたちは母親を憎み、母親に反逆しながらも、母親を慕っているのだ。この母親を日本の社会や伝統と読み換えるなら、作者の唐十郎は日本の社会と伝統から切離された自分を自覚しながらも、同時に強い愛憎でそれらと結びついている両義的な自分を告白しているように思われた。この公演を紹介した当時の朝日新聞の記事には、「母はボクらを生んだ日本の土壌、その日本の土壌からはじき出されてさすらうボクら堕胎児の美的コスモスの追求です」という唐十郎の談話がのっていた。
 とくに面白かったのは、新劇の演技とはまるで違う俳優たちの破天荒な演技だった。うまいと言える演技ではなかったが、型破りで痛快だった。とくに「ドクター袋小路」を演じた麿赤児の怪演でコミカルな演技は強烈だった。床屋に扮した大久保鷹も異常で、唐十郎が演じる頭に星形のハゲがある「永遠の客」を相手に、ハゲを軽石で磨いたり、バケツ一杯の水を唐の頭からかけたり、およそ馬鹿馬鹿しいことを延々と続けるおかしさは忘れられない。少女「かおる」を演じた中嶋夏はやがて女優から舞踏家に転身する。」扇田昭彦『日本の現代演劇』岩波新書、1995.pp.5-6.

 今考えてみると、あの神社の庭でテントを張って、ほそぼそ始めた芝居に出ていた人たちは、やがて日本の芸能の中核を担うことになる。それが切り拓いた道は広大なものだったが、あの時はそのことの意味が多くの人にわかっていなかった。ぼくも、わかっていれば、無理をしても紅テントに入っていたのに、と思う。
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「現代演劇」のこと

2014-10-25 23:46:40 | 日記
A.日韓関係がいっこうに改善しないのは、なぜか?という説明を、両国民の過熱した「愛国」の根拠を朱子学的価値という点から採り上げようという、朝日新聞の記事。儒教思想研究の小倉紀蔵教授(京大)と朝鮮近代史研究の趙景達教授(チョキョンダル:千葉大)のインタビュー。朝鮮半島が儒教の受容という歴史において、日本より原理に忠実な社会を作り上げたということはよく言われる。あまりステレオタイプに、韓国はこうで日本はこうでと決めつけるのはまずいと思うが、趙景達氏の論には今の韓国の自信と悩みが現れているように思うと同時に、もっと根の深い問題を示唆する気がした。ぼくは朝鮮半島に一度も行ったことがないし、ハングルをちゃんと勉強したこともない。だから、書物やメディアの情報だけで、隣国の人々がこうだという自信はない。双方のヘイトスピーチが叫ぶ、民族差別的な攻撃はまったく賛成できないし、歴史にも政治にも無知な言説だと思う。だが、考えるべきはそんなことではなく、日本のわれわれの拠って立つ根拠そのものである。

「儒教の教えをきちんと学べば、庶民でも聖人になりうる。これが朱子学の思想の核心です。「王の下で万民は平等」という一君万民思想と、「政治は民のためにある」という民本主義もあった。朝鮮王朝時代にこうした考え方は人々に浸透し、朱子学の教義を軸に社会の価値観が一元化しました。
 ところが、仁義礼智信という儒教の普遍的な道徳について、どんな行動がそれにあたるかという解釈は個人によって違うことがある。だから「自分はこれこそが正しい道徳と考える」という論争が、庶民の間でも、ごく当たり前になりました。論叢好きの風土や民本主義などの伝統の下に発展したのが韓国の民主主義です。NGOや市民の自発的な運動も、日本よりはるかに活発な印象です。
 一元的な価値観を共有する者同士だからこそ論争が成立し、議論し合える。世界的にみればキリスト教圏、イスラム教圏など、こうした社会の方が多数派でしょう。
 朝鮮王朝の身分制が緩やかだったことも独特の政治文化を育てました。一方、江戸時代の日本では士農工商という身分制が厳格に存在し、身分や階層ごとの価値観、倫理観の違いは当たり前でした。価値観が多元的な社会になりはしたが、そのことが逆に、人間同士分かり合えない事柄はあると、最初から議論を避ける空気を、日本に作り出したように思います。」趙景達(チョキョンダル:千葉大学教授)「見解の相違では未来開けぬ」朝日新聞10月24日朝刊17面「耕論」欄。

 李氏王朝の朝鮮半島が培った政治文化が、朱子学的論理の純化だったとすると、価値観の一元化、つまり正しい道徳、何が追求すべき目標かについて、ひとつの価値前提が朝鮮社会に共有されている、ということになる。その内容が合理的に考えて具体的にどういうものかは、とりあえず問題ではなく、というかそれはアプリオリに与えられたもので、体系的であればそれでじゅうぶん機能する。あとは解釈の問題だから、その基準に照らして自分はこれが正しいと主張して激しく論争する。これを日本と対照すると、どこが違うか?
 ユダヤ・キリスト教世界(イスラームを含めてもいいと思うが)の一神教的発想では、秩序の根幹に唯一の神があり、神はあるひとつの意思を人間に示すはずだから、状況や環境は人が適合するものではなく、神の意志に沿って改変し加工すべきものであり、それを認めぬ敵は断固殲滅するほかない。こういうコワモテの原理主義的発想は、東アジアの宗教には乏しいけれども、儒教的な道徳は人に守るべき道徳的規範を明確に言葉で示す。正しい行いとはこの規範に従うことであり、国家権力を握る権力者や富裕な実力者であろうとも、道徳的に正しい行いをしなければ人として尊敬されず、悪人と見られたら厳しく処罰されるのが朝鮮。だとすると、日本では同じ儒教を受け入れながら、それは表面的な道具や技術として利用しただけで、儒教の本質である道徳的価値の規準を守る気はなかった、ということになるだろう。日本の歴史では、原理主義的思考はつねに政治的に敗北しているし、状況次第の仲間内の融和・保身・日和見、ときには裏切りは、むしろ賢明な大人の判断として非難されない。しかし、このような無節操なオポチュニスムは、近代の国際場裏のリアルな闘争では、道徳的価値にこだわった原理主義より、要領よく立ち回って利益を得る結果となって、国家としての日本は朝鮮半島を植民地にして支配した。朝鮮半島の人々は、理屈を超えてこれは道徳的に許せないと思う。

「上からのかけ声によらず、社会に自発的なナショナリズムの動きが噴き出してきたのは、1997年のアジア通貨危機の頃からだと思います。大量倒産や失業、財閥解体が起こり、経済再生の活路を一層輸出に求めた結果、グローバル化が日本より進みました。
 他方、国内では低賃金、不安定雇用や社会保障の弱体化が進んだ。貧富は拡大し、自殺率は世界最悪水準に。敬老精神などのよき儒教道徳も薄らぎました。その中で、人々が「本来、政治は民のためのものだ」というかつての政治文化に根差した異議を、国家に申し立てている。グローバル化の加速が自分たちを守れという「閉じる力学」を社会にもたらして、本来、相対的に考えられていたはずの国に依存する空気を生みました。それが「愛国」の背景です。
 産経新聞前ソウル局長の在宅起訴という強硬措置は、こうしたナショナリズムの盛りあがりの中で、一君万民の伝統に根ざす「最高為政者の権威」を、国の対面とともに過剰に守ろうとしたものにほかならないと思います。
 「閉じる力学」は現在世界中で強まっており、日本も同様です。むしろ「愛国」は日本が先んじました。19世紀半ばから天皇中心の国体思想が形成され、それが近代日本の骨格となりました。韓国社会がいま「愛国」を唱えるのは、「韓国の日本化」です。日韓両国にいま必要なのは、「愛国」と「愛国」が衝突する状況がなぜ生まれているのか、冷静になって考えてみることです。
 そして、韓国の伝統的な政治文化や人々の考え方を踏まえたうえで日本側には韓国側との理性的な論争を期待したい。「見解の相違です」という姿勢のまま議論を深めなければ、未来は開けないでしょう。(聞き手・永持裕紀)」

 ぼくが気になるのは、韓国のことではなく、日本のことである。一つの国が国民統合の凝集力を維持するためには、詰まるところこの世に生きている人間として正しい行いとはどういうことか、何をするべきか、何をしてはいけないか、を国家が子どもたちに教え込むことが必要だということだ。しかし、今の日本はその根拠を国家の基本法としての「日本国憲法」に置くことを拒否する人物がトップにいる。「愛国」という価値は、国家にあらゆる価値の根拠を預けてしまい、ただ国家への忠誠を善とする無茶を神経症的に信じるというものだが、「愛国」を叫ぶ行為によってその人が喜ぶかどうか、は国民の生存と権利を保証する国家の存続にとってど~でもいいので、問題はそこにはない。
 「愛国心」を学校教育に盛り込みたいという安倍政権の宿願が、着々と進められているが、安倍晋三氏の考える愛国心とは、たかだか明治維新以後の西洋文明に追随するための人工的な作為、つまりヨーロッパ絶対君主制を見習った天皇制国家モデルの、上からの啓蒙への郷愁に過ぎない。それは、愚かなアナクロニズムだから、結局多数派の日本国民の心情を捉えることはないと思うが、ぼくにとって深刻なのは、今の日本に中国や韓国ほどのナショナリズムを根拠づける道徳的価値があるか?という問いである。日本の保守派は、中国や韓国に負けてしまうのではないか、という危機感に駆られて焦っているが、経済的競争で勝つか負けるか以前に、日本は江戸時代からずっと道徳理念の原理主義的な闘争を避けて、自己保存のためならいくらでも前言を翻し、仲間内の人気取りばかり優先し、周囲の雰囲気が読めないバカを軽蔑し、平気で友を裏切る文化をよしとしてきた。
 一言でいえば、日本には普遍的な原理を神の命令として死を賭して守るよりは、自分の保身のためにその時々の状況と権力に迎合する、民族の遺伝子があると言わざるをえない。自分自身のなかにその卑しい遺伝子をうすうす感知するのだが、幸いにも日本は戦後69年、戦争をしなかった。それは客観的にみて、日本と日本人に対するグローバルな世界の評価に直結する。
  でも、いつも感じるのは安倍晋三首相の「同じ価値観を共有する同盟国」という物言いの初歩的な誤解と無知。アメリカもヨーロッパ諸国も、同じ価値観・道徳観を共有しているとすれば、その価値観・道徳観とはいかなる内容のものか?日本は国際的多数派の「自由陣営」にいて、中国や韓国は「異なる価値観の敵国」だというのなら、その根拠を示してほしい。人が一人一人顔や考え方が違うように、歴史と文化と宗教を異にする国家が、もし「同じ価値観を共有」できるとすれば、それは同じものを信じるからではなく、そうした方が自国の安全や利益になるから以外にない。安全や利益に反するとなれば、同盟など破棄するのが国家・外交というものである。日本は戦争の敗北からそれを学んで、戦後は「価値観のちがう国」ともうまくやってきたと思う。それでも中国・韓国に敵意を隠さない人たちは、外交をイデオロギーで考える昔のオールド左翼と同じ。それは「共産主義の脅威」や「資本主義の走狗」という幻が生きていた冷戦時の、もう時代遅れのアバウトな世界観であり、今の世界、グローバル世界の覇者の常識は、市場の基本原理を受け入れるならばよし、受け入れないなら軍事力で殲滅するほかないというもの。「イスラム国」はどうやらそれに「原理的に」挑戦しようとしている。
  武力闘争の有効可能性をぼくは「原理的に」否定するが、政治的な主体としての国家の対応は、ひとつ間違えば不幸にも子どもたちの未来を奪ってしまう以上、「安全保障」つまり軍事と外交の判断は賢くやってほしいと思う。世界から白い目で見られたら、正義など主張しても聞いてもらえない。従軍慰安婦、靖国参拝は「価値観を共有する同盟国」から見て、「同じ価値観」から出た行為とは絶対いえない。



B.演劇という世界
 絵画から眼を転じて、少し演劇、それも現代演劇について書こうと思う。
 このテーマでぼくがまず思い浮かべたのは、井上ひさしと永井愛という名前だった。ぼくは熱心な演劇ファンというわけではないし、1年に6,7本、2ヶ月に1回くらいしか劇場で芝居を見ることはない。だから一番たくさん舞台を見ているのがこの2人の作品だというわけで、演劇について何か考えようとすれば、井上ひさしか永井愛の芝居を思い浮かべることになるのは仕方がない。
 日本の演劇といっても、歌舞伎・浄瑠璃・能狂言などの伝統演劇はそれ自体の完結した世界を作っており、観客層を広くとる大劇場の演劇、宝塚や劇団四季のミュージカルのようなものも含む商業演劇も大きなジャンルを作っている。おそらく観客動員数でみれば、こちらの方が多数を占めるだろう。しかし、通常「演劇」といえば、新聞の文化欄では小規模な劇場で上演される「新劇」の流れを汲む現代演劇という世界が想定されている。しかし、それも今は多様雑多で細分化していて、一九六〇年代からの小劇場運動を継承する劇団形式のものが、その世界のなかでは主流なのは変わらない。
 とりあえず手がかりに読んでみたいのは、コンパクトに60年代から90年代までの日本の現代演劇を見て解説した、扇田昭彦氏の『日本の現代演劇』岩波新書、1995である。しかし、ぼくはこれを見て、少々意外の感があった。そこには井上ひさしの名は一箇所だけ「道元の冒険」の作者としてわずかに出てくるだけだし、永井愛の名はどこにもない。この本は、60年代「アングラ演劇」から始めてもっぱら新しい運動としての演劇を追っているので、1990年代から演劇活動を本格化させた井上ひさしと永井愛が、旧来の伝統新劇の流れをひくとみて、なんの記述もないのは、考えてみれば当然かもしれない。でも「こまつ座」の創設は1983年だし、永井愛と「二兎社」は1981年に創設、ということは、要するに1995年までは、扇田氏にとって井上ひさしと永井愛は「現代演劇」の最前線としては視野になかったということだろう。

「一九六〇年代から九〇年代まで、三十数年にわたる日本の現代演劇は大きくその姿を変えた。当時の若い劇作家、演出家たちを中心とする「小劇場演劇」が台頭し、それまでの「新劇」を批判して、大胆な実験性に富み、日本の土壌に根ざしたオリジナリティーに富む日本の現代劇を作り出したのである。
この「ポスト新劇」の実験劇運動、通称「アングラ演劇」運動の中心になったのは、唐十郎の「状況劇場」(現「唐組」)、鈴木忠志、別役実らの「早稲田小劇場」(現「SCOT」)、佐藤信らの「68/71黒色テント」(現「黒テント」)、寺山修二が率いる演劇実験室「天井桟敷」、太田省吾主宰の「転形劇場」、清水邦夫と組んだ蜷川幸雄らの「現代人劇場」(のちの「櫻社」)などのグループだった。
一九六〇年代は社会全体に変化のエネルギーがあふれた時代だった。日本がめざましい高度経済成長を続けたこの時代は、同時に安保闘争や学園紛争で社会が激しく揺れ、既成の価値観やイデオロギーに異議申し立てがおこなわれた時期でもあった。演劇ばかりでなく、舞踊、映画、音楽、美術、文学にも「新しい波」が起きた。土方巽が創始した「暗黒舞踏」は唐十郎らの演劇と連動した。
第一世代につづいて、七〇年代にはつかこうへい、岡部耕大、山崎哲、竹内銃一郎、北村想ら、八〇年代以降は野田秀樹、如月小春、渡辺えり子、川村毅、鴻上尚史らが活躍し、演劇シーンにさらに新しい感受性と多彩な変化の風を持ち込んだ。
だが、寺山修二の早過ぎた死(八三年)あたりを境に、小劇場の「アングラ」離れが目立つようになり、「前衛」ということばはしだいに使われなくなった。「夢の優眠社」「第三舞台」のように小劇場演劇のスケールを超えた人気劇団も現れた。バブル経済の好景気に乗って大手企業が建てる劇場が相次いで開場したり、地方自治体が演劇専用の劇場を造るなど、企業・自治体と現代演劇との結びつきが強まり、演劇を囲む社会環境は大きく変化した。九〇年代にはバブル期の反作用が起こり、岩松了、平田オリザらの「静かな劇」が注目を浴びた。
一九六八年秋に新聞の演劇担当記者となった私は、現在までこうした演劇の現場を目撃し、取材して、記事、劇評、評論を書いてきた。私自身は小劇場運動の第一世代と同じ世代なので、彼らの歩みに強い共感をもって伴走してきた意識がある。部隊の流れを追うだけでなく、身近に接してきた演劇人たちの「人間のドラマ」にまで踏み込みたいという思いもあった。だから本書には冷静で客観的な記述をはみだす部分も少なくない。」扇田昭彦『日本の現代演劇』岩波新書、1995. pp.i-iii.

 2014年現在で、演劇の世界はどうなっているのだろうか、ということを考える時、一方に唐十郎、つかこうへい、寺山修二が活躍していた、もはや古典伝説化した前衛的「アングラ演劇」の流れがあり、他方で伝統演劇と外来輸入新劇の折衷としての商業演劇の流れがあり、その隙間のような場所で、21世紀の初めに現れたものは、どういつ質のものだったのか?という問いを考えてみることにする。
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ピカソ!はとっくに死んでいる。が・・

2014-10-23 21:19:35 | 日記
A.知識のための知識
 世の中には、知っていたからといってどうってこともない知識がある。それに現代は、何かについて知らなくても、必要があるときはネットでキーワードを入れると、たいていの知識は即座に出てくる。たとえば今、きまぐれにサックスと入れてみると、それはまず楽器の名前だが、次にアドルフ・サックス生誕200周年、という片隅の知識が出てきた。ハーベイ・サックス、はエスノメソドロジーの研究者として高名、だとしても、楽器の名前ほども世間に知られてはいない、だろうなあ。
(Antoine Joseph Adolphe Sax, 1814年11月6日 - 1894年2月4日)
ちょっと気になったのでwikipediaで引くと、以下の記述がある。

 アドルフ・サックスはベルギーのディナンで生まれた。父シャルル=ジョセフ(en:Charles-Joseph Sax)もまた楽器製作者であり、ホルンの設計に功績を残している。アドルフ自身も早い時期から楽器製作に取り組み、15歳の時には、コンペティションにフルートとクラリネットを出展し、入賞を果たしている。ブリュッセルで楽器製作を学んだ後、本格的に楽器の製作に取り組み始めた。20歳の時には、バスクラリネットの設計で特許を取得した。1841年には永住の地となるパリに移住し、バルブ機構付きの金管楽器の開発で名を知られるようになった。
 1844年には、後にサクソルンとして知られるようになる、キー付きのビューグルを展覧会に出展した。この楽器それ自体は彼の発明によるものではなかったが、彼のライバルたちによるものよりも優れたものだった。このサクソルンには7種類の管があり、ユーフォニアムとよく似た外見を持っており、後にはフリューゲルホルンの発明に道を開くものだった。彼はまた、1845年にサクソトロンバ(saxotromba)という金管楽器も発明したが、こちらはごく短命に終わった。この1840年代には、彼の名を最もよく知らしめているサクソフォーンの発明も行なわれている。サクソフォーンの基となる発明の特許は1838年に取得されていたが、楽器についての特許が取得されたのは1846年のことであり、その頃にはソプラノ・サクソフォーンからバス・サクソフォーンまでの、今日に連なるサクソフォーン属が開発されていた。
 サックスは、生涯を通じて楽器製作とパリ音楽院でのサクソフォーン教育に携わった。しかし、彼のライバルの楽器製作業者たちは、サックスの持つ特許の正当性に繰り返し攻撃を加え、サックスと彼の会社に対して長期にわたる訴訟を仕掛けてきたために、2度(1856年および1873年)にわたって破産の憂き目に会うことになった。長きにわたる法廷闘争はサックスの健康を損ね、1853年と1858年の2度にわたって癌のために入院を余儀なくされた。ちなみに数十年経た後、パリ音楽院教授職の後任にマルセル・ミュールが就任し、サクソフォーンの地位は飛躍的に向上する事となる。1894年、パリにて死去。モンマルトル墓地に埋葬された。

 これを読んで、ほう、「サックス」って人の名前だったんだ、というのが来て、ということはサクソフォーンという金管楽器がこの世に現れたのは、アドルフ・サックスが発明したからか、と知り、それが19世紀半ばの出来事だったと確認する。彼の発明かどうか訴訟もあったらしい。でも、それ以上は、とくに考えるほどの感想はない。
 クイズ番組の出題なら、かなり難問ができるだろうが、それが歴史や文化にもつ意味はさほど大きいものではない。それ以上の興味を持つ人は、をたくの部類になる。楽器業者なら少しはこの知識が役に立つこともあるかもしれないが、要するにトリビビアルである。でも、何が重要な知識で、何が重要でないかは、誰かが判定するものではなく、そのことに興味を持つ人にとって意味がある、ということだから、ただ知っているという衒学趣味か、体系的な学術情報に載るかどうかが問題だ。いずれにせよ、いつでもその知識がアクセスできるようにしておくのは、必要なことだろう。どこにも知識として載っていなければ、それは存在しないことと同じになってしまう。
 でも、今の日本に流通する情報の多くは、基本的にど~でもいいことが多すぎるように思う。芸能週刊誌の類が伝える情報は、3日ぐらいの価値しかなく、次々消費されて消えていく。それをいけないという気はないが、せめて5年、10年伝える価値のある情報を得たいと思う。



B.アヴィニョンの娘たち
 パブロ・ピカソはおそらく20世紀でもっとも有名な「画家」だった。ピカソの名は誰でも知っている。でも、ピカソがなぜ重要なのか、ちゃんと説明できる人は多くない。青の時代、キュビスム、アフリカ黒人彫刻、新古典主義、ゲルニカ、ピカソにかんするいろんな用語は耳に入るが、ピカソが20世紀の美術で何をやったのか、たとえば「アビニョンの娘たち」について、次のような解説がある。

「1907年、何ヵ月かの研究と、探索と、ためらいと、発見の後に、やがて《アヴィニョンの娘たち》と題されることになるあの大作に最後の筆を加え終わった時、ピカソは、一時代を画するようになる作品を創り上げた。この作品は、多くの問題点や、その寄せ集め的、過渡期的性格にもかかわらず、まだ生まれていなかったキュビスムの宣言書でもあったと同時に、今世紀の絵画の持っているさまざまな可能性のすべてを予告するものでもあった……。

 ベルギーの批評家エミール・ランギは、『クヮドルム』第十七号に寄せた『ピカソ以後の絵画における人間像』と題する評価の中で、現在ニューヨークンの近代美術館に保存されているピカソの問題の大作を、その考察の出発点としている。
 もちろん、現代絵画の出発点をこの《アヴィニョンの娘たち》に見ることは、いわば歴史における常道のひとつであって、キュビスムが二十世紀初頭の最も重要な美学革命であった以上、そのキュビスムの「宣言書」といわれるこの作品がひとつの里程標の役割を果たすようになったのも、当然のことと言えるかもしれない。
 事実、ちょうどピカソがこの記念すべき作品と格闘していた頃に彼と知り合って以来、ずっと彼の良き相談役であり、理解者であった批評家兼画商のダニエル・アンリ・カーンウェイレルの言う通り、「キュビスムはこの作品の右半分から生まれた」からである。右側の二人の「娘たち」の顔の大胆なあつかい方は、仲間のブラックをさえ驚かせたほど革新的なものであったが、それはとりもなおさず、キュビスムの持つ革新性を意味するものであった。
 しかし、この作品は、単にキュビスムを予告するものとしてだけ重要なのではない、とランギは言う。彼によれば、キュビスムはもちろん、その後の二十世紀絵画のさまざまな「仮説」のすべてが、ここには含まれているというのである。すなわち、第一の特徴として、この五人の娘たちは、セザンヌのあの「幾何学的・図式的」な法則にしたがって、個人的性格や逸話的側面をすっかり剥ぎ取られた無名の仮面の存在となっている。もともと、この作品が《アヴィニョンの娘たち》という詩的な名で呼ばれるようになるのは、第一次大戦後のことで、最初ピカソが考えていた題名は《哲学的売春宿》というはなはだ散文的なものであった。そして、その題名にふさわしく、バルセロナの一角にある「売春宿」にひとりの水夫が訪れるというきわめて「逸話的」な構想がそもそもの出発点であったことは、現在残されている多くのスケッチから明らかである。
 ところが、花束を持って訪れた水夫の姿は、いつの間にか消えてしまって、五人の女たちだけが、それも、彼女らの職業や社会的背景を思い出させるような説明的要素は何もなく、ただ純粋に造形的対象として描き出されることとなった。
 しかも、その五人の造形的なあつかい方が、それぞれ明確に異なった様式にもとづいている。中央の二人は、真直ぐ正面を向いた顔を持ちながら、鼻だけは横から見た形で描かれている。(ここで人は、ピカソの当時の作品を「エジプト式」と批評したアンリ・ルソーの言葉を思い出すだろう。)その中央の二人の左右に立っている娘たちの顔は、明らかにアフリカの黒人彫刻の痕跡をとどめている。(後にピカソが、ジャーナリストの質問に答えて、「黒人彫刻?そんなものは知らないね」と語ったというのは有名なエピソードだが、しかしこれがピカソ一流の韜晦趣味のあらわれであることは、詩人マックス・ジャコブの証言からも明らかである。)そして最後に、右手前の坐った女の顔は、ばらばらにしたさまざまの要素を自由に配置することによって成り立っている。」

 ・・・・・・すなわち、われわれはそこで、表現主義からキュビスムを経て叙情的抽象にいたるまで、いとも容易に移って行くことができる。当時としてはまだほとんど生まれてもいないこの三つの様式が、すでにこの予言的作品の中にひとつにまとめられて存在しているのであり、それによってこの作品は、最近五十年間の造形的達成のいわばいわば先駆的存在と言ってよいのである・・・・・・。

 つまり逆に言えば、最近五十年間の絵画の歴史は、1907年に二十六歳の青年が自らに課した造形的課題を、ひとつひとつ別々に解決し、発展させて行く過程であったとも見ることができる。ここでも、「分化」と「強調」という二十世紀芸術に特有の原理がつよく働いているのである。
 しかしながら、《アヴィニョンの娘たち》によって予言された「今世紀の絵画のさまざまな可能性」が、いずれももっぱら造形上の問題であったことは注意しておかなくてはならない。それはそのまま、今世紀の、少なくとも今世紀前半の美術の大きな特質であり、第二次大戦後の美術がそれに反撥するところの当面の目標でもあったからである。
 事実、戦前の美術がもっぱら「造形」を中心課題としていたのに対し、戦後の美術は、単なる造形を越えた創造行為そのものの本質の表現を求めるようになった。すでに引用したように、デュビュッフェは「絵画が絵画でなくなるぎりぎりの限界にあること。」を望んだが、同じ抽象画家といってもカンディンスキーやドローネーにとっては「絵画」の存立そのものはけっして問題にならなかった。彼らにとっては、絵画というものはあくまでもひとつの前提として存在しているもので、その前提の上に立って表現の方法を革新することが彼らの求めたことであった。それに対し、戦後美術は、まずその前提そのものを疑うことから出発したといってもよい。」高階秀爾『20世紀美術』筑摩書房、pp.180-184.

 20世紀を1945年に終結した第2次世界大戦で区切り、戦前と戦後の世界の変化を語るというやり方は定着している。とくに日本では、この戦争の枢軸国側、つまり負けた戦争をやった国として、戦前と戦後をはっきり区別することは、政治的にも社会史的にも大きな意味をもった。しかし、今その「戦後」を否定しようとする動きが出ていて、これは日本だけのことでもないのだが、次の時代の姿はまだ見えていない。
 ピカソに戻ることは、美術という分野においてだけだが、20世紀の戦前と戦後という時代区分よりは、もっと前の第一次世界大戦でヨーロッパ文明の終焉と新しい時代の文化的革新が行われた、という見方に戻ることでもある。《アビニョンの娘たち》が描かれたのは1907年で、第一次大戦よりも前だった。でも、それは現代美術にとってすでに30年は先に行っていて、画家たちがそのことの意味を感知したのは、「戦後」だった。
 芸術というものの価値は、一見世の中になんの影響も与えない、ど~でもいいことのようにそのときは思えているのだが、後になってそれが人間の生活の形を変えるということをピカソは示している。そして、「戦後」が始まって人びとがその価値を、ただ有名な名前として認知したとき、その役割はすでに終わっていて、次を用意する天才はまだどこか人びとの知らないところで、まったく別の試みを成し遂げているのかもしれない。
 少なくとも、アベノミクスはたかだか3年の長期政権を維持するために企まれた経済政策にすぎないが、ピカソはただ絵を描くだけで100年は見ていた、といえる。
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