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 日本の前衛美術運動について 6  ダダとシュルレアリスム 英国の暴動?

2024-08-17 22:22:54 | 日記
A.シュールレアリスムと戦前の日本
 今年3月にぼくは板橋区美術館で開催されていた「シュールリアリスムと日本」という展示を見た。かなりたくさんの作品が、原則一人一点で並んでいた。どれも初めて見る作品ばかりだった。大正末期から昭和の戦争中まで、かろうじて残った作品の多くは、当時の前衛絵画を試みた若い作家のもので、それを「シュールレアリスム」と一括できるかといえば、本間正義氏が細かく挙げているように、実際はさまざまな動きがあったわけだが、改めて1930年代の日本でこういう運動が存在していったことを忘れてはならない、と思った。
 芸術運動としてのシュルリアリスムは、1924年の詩人アンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言』刊行に始まり、第2次大戦勃発まで続く。これを日本に紹介したのは欧州にいて帰ってきた慶大教授・西脇順三郎で、その学生だった瀧口修造がブルトン等を翻訳した。1930年代には若い画家たちがシュルレアリスムに影響された作品を続々発表した。だが、1941年治安維持法改正で、芸術団体やグループの弾圧が始まり、リーダーの福沢一郎と瀧口修造が検挙され、シュルレアリスムは左翼色が濃厚だと取り締まりの対象になって沈滞する。日本のシュルレアリスム運動は、最盛期を迎えようとする矢先に国家によって弾圧され、戦争で作品もあまり残っていない。東郷青児、古賀春江、靉光など注目作が残った画家を除けば、多くはほぼ忘れられた。それでも少数の研究者や関係者によって保存され、80年代以降シュルレアリスム作品を描いた画家の業績が発掘され、今回のような展示により全体像が明らかになってきているという。確かにこうして作品を見ると、戦争に向かう時代に、いろんな画家たちが自分なりにシュルリアリスムに挑戦していたんだと思う。

「1923年秋、突然関東大震災が襲った。それは明治から大正へ、文明から文化へと、近代日本の精神革命が、最も進化してくる時の震動でもあった。この震災を境にして、三人の若い作家が、すれ違うように外国から帰り、また出かけていった。震災前に帰ってきたのが村山知義と中原実で、震災後に出かけていったのが福沢一郎である。この時期はヨーロッパでの前衛美術が、丁度ダダイズムの激しい燃焼から、シュルレアリスムの定着へと移る頃に当っていた。三人の作家は、この動きを身をもって体験してきた当の人達として、本テーマに登場させてこなくてはならない。
 東大の印度哲学科にいた村山知義が、中退して1921年の暮れにドイツにわたったのは、ベルリン大学に入って、原始キリスト教を究める目的からである。しかしラテン語の試験が彼の進学を断念させた。当時ドイツでは、ザハロフ等のノイエ・タンツが盛んで、たまたま見た少女ダンサー、ニイッディ・インペコーヘンの独創的な舞踊が、彼の進路を哲学から芸術へと転換させた。そして後に芸術の帝王といわれた村山の多感多才は、アルキペンコと知りあうに及んで、美術の世界にも激しく彼をかりたてていったのである。当時のベルリンでは、ベルリン・ダダがまさに絶頂を示して、集結しようとしていた。当然のことながら、敗戦国ドイツでは戦争の惨禍が最もひどく、ダダは強度の社会的な傾向を帯び、ゲオルゲ・グロッスはブルジョアの退廃を残忍な諷刺をもって描いた。また反芸術的な破壊性は、政治的な宣伝闘争に利用され、はては政治運動の中に合流し、埋没してしまうのである。
 しかしベルリン・ダダにはもう一つの流れが入ってきていた。それはソヴィエト革命に伴っておこった構成主義に、つらなるものである。構成主義は過去の芸術の一切を否認して、新ソヴィエトの近代産業の中から生まれてきたもので、描写の代りに構成することを唱え、創造の代りに建設することを主張するものである。タトリンが先鞭をつけ、ロドチェンコがこれを継いだが、国際的にこれを拡めたのは、ペヴスナー、ガボ兄弟とリシツキーである。これがダダ的な性格を帯びるのは、丁度キュビスムのコラージュを発展させたような、マテリアルな具体素材を唯物的に構成する点にあった。村山が共鳴したのは、この構成的なベルリン・ダダである。なぜ村山が特にこれにひかれたかはよくわからないが、ソヴィエト革命に伴う革命的な所産である点が、左翼的な村山の共感をよんだのかもしれない。
 1923年の1月に帰朝した村山は、新興美術に創作舞踊に舞台装置に美術評論に、正に八面六臂の活躍を開始するが、とくに美術の面では猛然たる勢いで、何回かの個展を立て続けに開く。その第一回展に意識的構成主義的作品展ととなえ、カタログには「押しつけがましき優美さ」に捧げると書いた。意識的というまくらをつけたのは、いかにも観念哲学をやってきた村山らしいところで、表現派がすでにドイツにおいて頂点を過ぎ、マンネリズムと無意識の境に沈没しつつあることと対照的に、構成主義がこの無意識を意識として、表現派の限界から生ずるあらゆる困難と迷妄とに、解決を与える新しい形成芸術であることを強調したのである。その作品は布切れやブリキ、針金、髪の毛、靴などのオブジェを組み合わせて、画面は「意識的」に構成された。意識的構成主義は、それ以後の彼の展覧会の全て、及びそのシンパ達の作品のあたまにつけられるレッテルとなった。「おしつけがましき優美さ」という揶揄的なタイトルも、当時の日本美術がフランス一辺倒の渋好みに、チンと落着いているのにあてつけたもので、ひとりよがりの死んだような頽廃に、やりきれぬ否定的なダダ意識を、優美にあらわしたものであろう。
 生きのいい村山の活動ぶりは、若い前衛作家達にマークされたのは当然で、未来派美術協会からの一部と合して、尖鋭的な「マヴィ」が結成された。七月より八月にかけて行われた第一回展を見た浅枝次郎は、読売新聞に「靴や靴下や頭髪などを用いて、連想心理を起させんとしたものに対して、僕は同意出来ない。これは物学の中に芸術があるという古時代の迷信と、美術を他の目的の傀儡とした卑俗芸術の慣習の延長だとと思う。村山君の絵には文学的な純要素を混入している。これは芸術の価値を減殺しこそすれ、決して積極的な効果はない。美術の進化は美術の要素を棄てて、他に走ることではなく、美術に混入している他のものを棄てて、美術の純要素を強調することにありはすまいか」と批評した。形成芸術の意味をかなりよくとらえていると思われるが、特にオブジェを物学の中の芸術とよんでアニミズム的な意味にとり、卑俗芸術の慣習の延長であるというところは、1960年代のポップ・アートの考え方に符合していて面白い。これに対して村山はすぐ朝日新聞に反論を書いた。その要旨は「私が作ろうと求めているものは、美術なんて狭いカテゴリーに入れることの出来るようなものではない。大体純芸術なんというものを断然認めないものだから、美術の純要素も混入物もあったものではない。世の大方の植物的な『美術』と、それを求める蒼白いかたわものと、よだれみたいな美学と、昼寝みたいな芸術批評と朽ちて去れ! 三十年も前の初期表現派や絶対派の理論なんぞと今もってかついで、ダダイスムやコンストラクショニスムにさへ到達し得ないようなみじめな植物共に、なんでマヴォイスムが、意識的構成主義がわかろう。私の作品は鑑賞を求めずに理解を求める」といった全く平行線の激しい反駁を示した。このやりとりの間に、マヴォ・ダダの様相が察せられる。
 1924年10月前衛諸団体が集まり、汎三科としての三科会が出発し、翌年の五月に会員展、九月に公募展が開催されたが、マヴォのダダ的攻勢が強力で、タブローの外にオブジェ、メカニック、キネティックなものが増大した。その破壊的な先鋭ぶりを最も強烈にあらわしたのは、マヴォの会員達より、新人マヴォイストの岡田竜夫、高見沢路直、戸田達雄等である。さて村山等のダダは構成的なものとの結合で、正確にはダダといえないという論がある。しかし五月の会員展の直後、築地小劇場で開かれた「劇場の三科」は、正に大正期ダダといい得るものであった。絵具をキャンバスになするだけでは満たされぬ心理を、全身全霊の表現に打ち出そうとした前衛劇で、シナリアなどのほとんどない素人のぶっつけ本番の正にハプニングである。しかし公演は、築地小劇場はじまって以来の盛況で、食欲欠乏、発作、眩暈、瞳孔拡大、大入満員、驚愕といった批評も支離滅裂ぶりをみせた。
 三科会は第一回公募展中に会員処遇問題でマヴォが暴走して、アッという間に分解した。ダダは否定のための否定として、理論的に自らの否定の中に、消滅すべき運命をもっていたといえる。当時の前衛美術は規制に対抗する意味から、資本主義に対する社会主義的なものと次第に結びついてきたが、三科解散を機に母屋をとられたようにその比重がいれ代る。村山はプロ芸に去り、日本のダダはやけ糞な火花を散らして消滅した。
 さてコマを再び前にもどして、中原実の足跡を追ってみよう。中原は村山より少し遅れた五月に帰朝している。1918年ハーバード大学を卒業した中原は、中立国スイスの郵便戦に便乗、Uボートを避けながら南大西洋を迂回してフランスに渡った。フランス陸軍歯科医を志願して、軍務につくという変わった経歴を経て終戦をむかえ、それからは好きな画業をはじめることになる。中原はパリに最も長くとどまって、モジリアニから、表現主義、ダダイスム、シュルレアリスムまでの幅広い影響をうけた。パリのダダイスムは、前述のベルリン・ダダとは行き方が違っていた。1919年のダダの創始者のトリスタン・ツァラがパリにやってきてから、その運動は活発となるが、パリ・ダダは、そのためにむしろ文学的な面に中心があった。湧きおこってくる私的なインスピレーションは、自ら袋小路に陥らざるを得ないダダの破壊と否定から次第に離れて、建設的な方向をうたおうとする考えをおこさせてきた。それはこのダダに参加してきた詩人アンドレ・ブルトンによって、シュルレアリスムへと、ダダからの修正のかたちで推し進められた。しかしそれはダダだけから脱皮してきたわけではない。もっとそれ以前のロマン主義や象徴主義絵画の中にある幻想、夢、狂気、ユーモア等の無意識な潜在意識の中からも、表現のモチーフを見出そうとしたのである。
 1921年5月にダダが行ったパレス裁判劇ハ、ダダの創始者ツァラに対して、シュルの創始者ブルトンが、その反対意見をあらわに示した大芝居であった。この頃からシュルレアリスムは次第に輪郭を明らかにしてきたわけで、中原はダダよりこの影響を体質的にうけいれていた。この間に一年近くベルリンに滞在して、グロッスに影響された。帰朝後第二回アクション展に出品した「ヴィーナスの誕生」は、グロッスばりの社会諷刺的な作品である。しかし中原はこれは直接グロッスからではなく、グロッスも影響をうけた未来派のジーノ・セヴェリーニからの発展であるといっている。中原はむしろドイツではノイエ・ザッハリッヒカイトの魔術的レアリスムに興味を持ったと思われる。というのは帰朝後の作例は、超現実と新実在の二つのスタイルによって占められていて、ダダ的な雰囲気は見当たらないからである。中原は村山より長期にわたり滞在し、行動半径も広く、パリ・ダダからシュルレアリスムへの肯定的な線を示したのである。しかしシュルそのものがまだ定着していなかったし、中原自身咀嚼が十分であったとはいえない。帰朝後アクションに加わり、父の好意で画廊九段をつくり、それによってアンデパンダン形式の「無選首都展」を開いたが、本業の歯科医としてのアマチュア的な甘さがあって、三科会結成で顔を合わせたマヴォ村山の行動性とは、自ずから違いがあった。震災後におこった朝鮮人虐殺事件、大杉栄暗殺事件等の暗黒の恐怖は、天災におとらぬ人間不信の念を植えつけ、不安と絶望と虚無への鬱血は、狂躁的なダダをたぎらせる背景となったが、シュルにとってはまだ疎隔した違和世界であった。しかしそのダダもしょせんはパッと開いただけの根なしかずらにすぎない。震災復興の鐘は三科解散後、急転直下マヴォを駆逐した。旧アクション系が「造形」を作るが、プロレタリア美術に左傾し、中原、玉村善之助等が三科の延長という意味で「単位三科」を作るが、もはや芸術至上主義的な前衛時代は去っていた。かくて日本のシュル的な芽は、美術ソースの違いから、ダダ線上につながらず、平行したかたちのまま、大正期の終末に進み、ダダもろとも赤い旗のカーテンの前に屈折し、断絶した。
 1924年5月「劇場の三科」が、きなくさい叫喚をあげている時、福沢一郎はフランス行の船の上にあった。東大に学びながら、朝倉塾に通って彫刻をならっていた福沢は、作家への夢をすてることが出来なかった。震災を機にに彼は学校を中退、生涯の転換を試みたのである。この年は丁度ブルトンが「超現実主義宣言」を行った年である。そしてぽつぽつこの頃から、サン・ジェルマン・デ・プレあたりの画廊にシュルの作品があらわれはじめ、専門店も出来てきた。しかし福沢が本格的なシュルの仕事をはじめたのは1929年頃からである。彫刻をやってきただけに、色彩より造形的な形に関心が強く、あせらずに古典世界を跋渉してきた福沢は、まずキリコの冷たい形にひかれ、次いでエルンストの不思議な世界を知った。
 マックス・エルンストは大戦後ケルンでダダ運動をおこしたが、コラージュをはじめて、ダダの否定の極限から、そこに造形の可能性のあることを見出した。1922年にパリに出たエルンストは、シュルレアリスムの創造に進むが、その無機的な乾燥感をもったコラージュの幻想が、新しい知性感をもって福沢を引きつけた。福沢はエルンストには実際にあわなかったが、このシュルの一つのタイプを、充実した時期の完成したかたちで受けたのである。これが中原の場合と違っている。福沢はエルンストのコラージュを引き伸ばしたような構成で、西洋物語ともいうべき文学的なモチーフの連作をやつぎばやに作りあげた。この作品群は、1931年に帰国して、創立されたばかりの独立美術協会に特陳された。これが本格的シュルレアリスムの日本での第一歩であるといわれている。パラドックスな寓意がまるでドライに盛られている驚きは若い層をひきつけ、急速に独立の中に一つの陣営を形成した。しかし独立の中心スタイルはフォーヴィスムであり、シュルの擡頭は次第に大きな動揺をひきおこして独立をゆさぶり、ついに福沢の除名から、新しく超現実のグループ「美術文化協会」の創立へと展開させた。独立は有力株の新団体であり、シュルがこれを振動させたことは、美術史的な価値力をもちはじめたことを示すもので、ダダイスムが精神の状態として、有形的な足跡を残し難かったことと対照的である。それは福沢がその後第一線の作家として、現在にいたっていることにも示されている。
 かくして一年違いでゆきちがったダダイストとシュルレアリストの間には、時代の背景をはさんで断絶的な距離を生じたのである。
 しかしこの間には前衛の老舗、二科の先輩、古賀春江は、キリコからクレーから独特にアセンブリッジした近代的な幻想を作り上げていたし、川口軌外もかなり強度の幻想表現を独自の個性から展開させていた。これらがこの断絶と思われる展開の期間に、どのような役割りを果していたのかは、これからの課題として残されるであろう。」本間正義「日本のダダとシュルレアリスム」(『私の美術論集Ⅱ・現代美術・展覧会 美術館』所収)美術出版社、1988年。pp.75-81.(初出は、1968年6月1日『季刊藝術』第2巻・3月号)

 関東大震災直前に欧州から帰って、前衛芸術運動を始めた村山知義のことは、ぼくには戦後の演劇や文学での活躍から知る名前だった。「忍びの者」という忍者ブームを引き起こした映画の原作が村山知義だと聞いて、彼が画家、アーティストだったとは知らなかった。でも、ダダからシュルレアリスムを日本に持ちこんで暴れた若い村山が、かなり颯爽と登場したらしいことは想像できる。


B.イギリスの暴動のこと
 英国でいまかなり大きな暴動が起きているという。でも日本のテレビを見ている限り、オリンピック、甲子園、そして自民党の総裁選などばかり大きく流して、英国の暴動、なんて聞こえてこない。

「入り組んだ「物語」解きほぐす努力を 藤田直哉の ネット方面 見聞録
 英国全土でこの10年で最悪の規模と呼ばれる暴動が起こっており、主導は極右だと報道されている。7月29日に英北西部サウスポートで3人の女の子が刺殺されたことをきっかけに、犯人が亡命希望者だとかイスラム教徒だというデマが拡散し、反移民感情に火を付け、暴動へと発展した。
 背景には、インフルエンサーたちの誤情報の拡散があると分析されている。イ―ロン・マスクすら、自らが所有するX(旧ツイッター)で、暴動の参加者のための強制収容所が建設されているという偽情報を拡散した。警察は、発端となった偽情報を投稿したとして容疑者の逮捕に踏み切っている。
 とはいえ、偽情報のみに原因を帰すると問題を見誤る。それは引き金でしかなく、重要なのは世論に元々反移民感情があったということである。反移民的なネット世論は、英国でも日本でもある。多くの場合、事実と異なる「物語」が利用されがちである。日本では在日特権デマや、在日クルド人などを巡って、同型の展開が起きている。繰り返される陰謀論やデマが危うい感情を爆発寸前まで加熱するのだ。
 今回の英国の件で、被告の少年は亡命希望者やイスラムではなかったが、ルワンダ生まれの両親から生まれた移民2世ではあった。反移民感情をあおる言説で厄介なのは、完全に事実と遊離しているわけではないことだ。
 ロシアの情報工作研究によれば、介入として有効なのは、実際に存在している問題を利用し、事実も織り交ぜた物語を使うことだ。確かに移民には、母国との生活習慣の違いや経済・教育面での格差から、摩擦を起こしたり犯罪に手を染めたりする者もいる。その事実を誇張し、不安や恐怖と結びつける言説が機能しやすい。まずは、このような介入や扇動の手法を理解しておく必要がある。
 その上で重要なのは「解きほぐす」ことである。単純に党派性の図式で考えてはいけない。実態をあるがままに受け止める姿勢と、入り組んだ事態を解きほぐし共有していく努力が必要である。具体的に何が起きているのかを調査するルポルタージュや、ドキュメンタリー映画などの役割も重要になってくるだろう。
 さらに、相手の感情に対する共感的な理解を示すことも必要だろう。不安や嫌悪の感情を無視し、デマ信者だと片付けたり、極右の差別主義者だと批判したりしても、危機意識は解消されず、抑圧され否定された不満が蓄積し、マスメディアやリベラルに対する敵意や陰謀論も生まれてしまう。こうして感情的なすれ違いが生まれ、分断と対立が激化する。であるならば、相手に対する共感的理解と需要に基づく対話こそが、社会的に必要なのではないか。それこそが、暴動や、内乱、内戦、クーデターのリスクを減らすはずだ。 (文芸評論家)」朝日新聞2024年8月17日夕刊2面。
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