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日本の前衛美術運動について 2 二科会から三科へ  アウシュビッツ公認ガイド

2024-08-05 20:34:25 | 日記
A.一科、二科、そして三科
 本間正義氏の「日本の前衛美術」を読んでいるのだが、この文章はもともと雑誌『近代の美術』3号(1971(昭和46)年3月1日発行)と『みづゑ』(1969(昭和44)年2月号)に載った「三科その栄光と挫折」がもとになっている。戦前の前衛美術運動のことなど、ぼくにはまったく知らないことばかりなので、いくつか勉強しながら読んでみる。まず現在も続く「二科会」がいかなる美術団体なのかを、二科会ホームページより抜粋すると…
「1889年(明治22年)に日本最初の洋風美術団体「明治美術会」が創立され、7年後の1896年(明治29年)に東京美術学校に洋画科が設置されたのが、わが国洋画壇の黎明期であり、この頃フランスに留学していた新進の芸術家が帰朝するに従って、文部省展覧会の審査に新・旧の価値観の違いが目立ってきました。そこで、新・旧を一科と二科に分離するように政府に要求しましたが、時期尚早なりと却下されました。
 そのため1914年(大正3年)文展(文部省美術展)の洋画部に対して新進作家たちが新しい美術の確立を標榜して、在野の美術団体「二科会」を結成し「流派の如何にかかわらず、新しい価値を尊重し創造者の制作上の自由を擁護し、抜擢する」という趣旨のもとに1世紀におよぶ歩みを踏み出しました。この間、二科会は常に時代の新傾向を吸収し、黎明期から多くの著名な芸術家を輩出してきました。
 現在、絵画・彫刻・デザイン・写真の4部で二科美術展覧会を開催しておりますが、絵画部、彫刻部は、1979年(昭和54年)に法人化し、社団法人二科会として発足。2007年(平成19年)からは会場を上野の東京都美術館から六本木の国立新美術館に移し歩み続けて参りました。さらに2012年(平成24年)には公益社団法人二科会としての認定を受け、展覧会活動などを通じて、広く社会へ貢献すべく活動しています。」となっている。
 「二科」という名称は、日本画と洋画という日本独特の絵画区分によるものではなくて、あくまで洋画、つまり西洋油絵を中心とする絵画と西洋流の彫刻が対象の公募展なのだが、なぜ「二科」なのか、わかりにくい。Wikipediaの「二科会」解説によれば、明治の文展が政府公認の美術展となるなかで、日本画部門は、新旧の二科に分かれており、新しい傾向の画家たちも比較的活動しやすかったのに比べて、洋画部門はそうではなかった。そして、審査側が硬直的・停滞的な体質に陥っていると考えた山下新太郎、津田青楓、有島生馬ら、新帰朝者(国費留学の経験者。当時の呼称)を中心にしたグループは、1913年の文展の審査に不満を持ち、洋画についても二科制とするよう政府側に建白書を提出したが、認められないため、新しい美術の発展を図るために文展を脱退し、“旧科”文展に対する“新科”の「二科会」を結成した。会員たるには文展に出展しないことが参加条件であったという。つまり「文展・帝展」のアカデミズムを「一科」として、自分たちは新鮮な「二科」なのだというわけだ。ここから「二科会」が生まれ、さらに西欧の動向をもちこんで前衛絵画の運動が活性化した。そこでは、キュビスム、フォービスムというフランスではもう確立した様式も、ダダイスムや未来派、あるいはシュール・レアリスムのような現在進行形の動向が、一気に流れ込み、ある意味でごちゃまぜに混在して「前衛絵画」が盛り上がった。以下は本間氏の記述から。

「マヴォ――ダダイズムと新しい技法
 大正12年2月村山知義がドイツ留学から帰朝したが、これは大正期前衛美術にはなばなしい光をまき散らした彗星の出現を意味していた。はじめは哲学研究の目的だったが、ちょうど新興芸術の波が急速に高まりつつあったころで、目的を変えて新舞踊や前衛美術に関心をもつようになった。ソシエ、当時のベルリンにおけるダダイズムの洗礼を受けたわけだが、その共鳴したのはロシアからドイツに入ってきていた構成主義的な美術であった。それは新ソビエトの近代産業の中から生まれ、過去の芸術の一切を否認して、描写のかわりに構成を、創造のかわりに建設することを主張したものである。これがダダ的な色彩を帯びたのは、マテリアルな具体的な素材を直接唯物論的に構成する点にあった。
 帰朝後の村山知義は精力的に活発な美術運動を開始し、連続的に個展を開き、それらに意識的構成主義的展覧会と名づけた。意識的というまくらをつけたのは、観念哲学をやった村山らしいところで、ドイツでは表現派の運動がすでに頂点に達して、マンネリズムと無意識の境におちこんでおり、新しい芸術は無意識を意識として、描写美術から形成美術に変ってゆかねばならぬというところにあった。さらに美の基準は時代や国家や民族によって千差万別で、普遍妥当な基準がない以上、主観的なものに準拠するほかはなく、しかもそこになかなか定存できないからには、その上に意識的に矛盾を掻き立て、弁証法的にもっと高い統一へと止揚しなくてはならぬという論点にあった。この造語はその後の村山や関係グループの個展に、合い言葉のように使われたのである。
 このようないきのいい動きは、前衛美術界に鋭い刺激を与えずにはおかなかった。前述のように未来派美術協会の尾形亀之助、大浦周藏、柳瀬正夢、門脇晋郎に、村山に共鳴する若い岡田竜夫、高見沢路直(漫画家の田川水泡)、矢橋公麿らが集まって「マヴォ」(MAVO)を結成し、七月末に、第一回展を浅草伝法院で開いた。マヴォというのは関係者の頭文字を紙切れに書いて吹き散らし、落ちたむこうから幾つかをひろってMAVOとつけたといわれるように、別に意味のあるものではないが、新興運動をあらわすのにいかにも新鮮なひびきがあった。
 マヴォ展出品の作品はほとんど残っていないが、村山の作品はキャンヴァスに代わる木板などの上に、印刷した紙や写真、鉄板、布、毛布、コンクリート、ガラスなどをコラージュ(貼付絵)的に、あるいはオブジェ的にとりつけ、触覚的な感覚を強調して、さらにその具体的な用途の連想を混交させることがねらいで、これまでまったくみられないステイルであった。岡田や高見沢は村山よりさらにダダ的な面を推し進め、これに比べれば未来派美術協会系はまだ平面的でおとなしくみえた。
 マヴォは結局公募展を開くことができなかったが、意想外の展覧会作戦を展開した。この年の第十回二科展にはねられることを予想して、マヴォ同人たちがこぞって出品、落選作品を車につんで上野から新橋までねり歩く二科落選歓迎移動展覧会を開いて、反二科の気勢をあげる計画であった。しかし結局これも上野署の規制をうけてうまくゆかなかったが、もう一つのイワノフ事件では一矢をむくいた。住谷盤根(いわね)が名前をもじってイワノフ・スミヤヴィッチという名で二科展に入選したのを、鳴ヴォにひきいれ、ロシア人名だから入選させたのだろうと主張して撤回した事件である。
 この直後に関東大震災がおそい、その荒廃と不安の中で、マヴォは狂騒にみちたダダイスティックな動きの拠点となった。マヴォは分散展と称して、都内各所の喫茶店やレストランで、まるで大空に星をばらまいたように小展覧会を開いた。しかしこの激しさや傍若無人ぶりに、未来派美術協会は次第に背をむけてきたため、マヴォは村山、岡田、高見沢、住谷、戸田達雄らの新ラインにしぼられ、ますます尖鋭化し孤立化していったのである。また震災を機に社会主義的なものも加わって、体質的にも変化しはじめていた。
  三科会――その成立と分解 
 医師として福井に赴任していた三科インデペンデントの木下秀一郎は、大正13年春帰京して、かねてから何回か構想を重ねてきた二科会に対するもっと進歩的で、総合的な三科運動をさらに発展させたいと思った。ちょうど九月にアクションの分裂さわぎがおこったことが、この構想に対して願ってもないタイミングとなった。分裂後残ったうちの主力の矢部友衛、神原泰、浅野孟府、吉田謙吉、岡本唐貴が参加することになり、またアクション系だが、首都無選展を計画して、別行動をとっていた中原実も加わることになった。アクション落選組でも中原の場合は少し違っていた。中原には別に自ら画廊を経営して、自由な美術グループを作る構想があった。アクションに加わったのもいわば偶然で、友人の中川に話すためにたまたまアクションの会に出席したことがきっかけである。だから特別に反二科の感情をもっていたわけでなく、アクション挽回にも加わらず、我が道を行く画廊作りを急ぎはじめた。中原はこの画廊を主宰する無選首都展の創設とともに、新興美術の自由な発表の場としての理想を掲げた。これが三科の実際問題を推進するまことに頼りになる場所となった。完成後の画廊九段は三科の会合連絡、作品搬入場所として大いに活用され、はては三科系作家で根城として住み込み、制作する輩が出るに及んだ。これが画廊閉鎖の直接原因にもなってゆくのだが、ともかく画廊九段の誕生も創立三科にとっては願ってもないタイミングであった。
 さて二科会の会友で特異な画風をもち、中堅としての実力のある横井弘三は、第十一回二科展出品作で、彼にとっては特別な意味をもっていた「復興児童に送るの絵」がはずされてしまい、この処遇を不満として会友を辞退したところであった。思わざることからこの異色作家も加わることになったが、もう一人の変わり種は日本画の玉村善之助(方久斗)であった。彼は日本美術院に「雨月物語絵巻」などを出品して注目されたが、横山大観とあわずに脱退し、日本画の急進団体である第一作家同盟に属していた異色中の異能作家であった。三科インデペンデントからは木下をはじめ、マヴォに加わっていた柳瀬正夢、大浦周藏、渋谷修、ブブノワが参加したが、問題はマヴォで、この激しい独善的な急進ぶりに反対が多く、結局村山知義一人が創立会員となることになり、10月16日前衛諸派が集まって、汎三科としても三科造形美術家協会が設立された。会員アクション系-神原泰、矢部友衛、吉田謙吉、岡本唐貴、浅野孟府。無選首都系-中原実。三科インデペンデント系-木下秀一郎、大浦周藏、柳瀬正夢、渋谷修、ブブノワ。マヴォ系-村山知義。第一作家同盟系-玉村善之助(かつて院展で活躍、大観に抗して飛び出し同盟に身をよせていた)。二科系-横井弘三(会友権限問題で二科を脱退)、松岡正雄の各派十五名の顔ぶれであった。大浦等をマヴォ系に入れないのは、次第に村山の専横と激しさに、三科インデペンデント系とそりが合わなくなってきていたからである。
 その目標とするおもなところは、あらゆる画壇の流派を網羅して、無名の作家を発掘すること、アンデパンダンに近づけるため、鑑査の内容を公開、会員一名でも賛成があれば入選させ、推薦会員の名前をつける。それに対して会員は二点までしか出品出来ない。毎年、帝展・二科展の時期をねらって展覧会を開くなどというところで、やはりこれまでの前衛の所信をまとめたという感じである。ただ流派を網羅するということがこれまでなかったことで、木下は某紙によせて、「現代の画壇を縦断した意味で、三科は今日の画壇では求めることの出来ない存在である。二科が生まれて帝展が明瞭になった如く、三科が生まれて二科が明瞭になったことになる。しかしじきに四科の若い人たちが私たちをふみにじって進む時代がくることを楽しみにしている」といっている。
 翌14年5月に第一回展としての会員展が銀座松屋で開かれた。会員展であるので一人平均五点を出品して十分腕をふるうことになった。その結果六十数点という規模になり、各派がそれぞれの持ち味を発揮して、充実したものとなった。木下の動く人体像「R・G」、吉田のオブジェ的実用芸術、建築家ならざる建築家村山の構成的作品が従来のタブロー的世界をぶち破っていた。新帰朝の仲田定之介は『中央美術』に、三科をみてルネッサンス以来の金ぶちの眼鏡をすてなければならないとのべて、その非芸術的な形成的傾向に好意的な批評をよせている。反既成の非芸術的な芸術へと、汎三科の性格が急速にまとまってきたことが知られる。
 こういう傾向は単なる美術の枠内にとどまらないで、文学や演劇の分野との自由な交流をうながした。当時のアナーキズム、ニヒリズム、ダダイズムなどの思潮を背景として、第二回未来派美術協会展では未来派詩人、平戸廉吉が描かざる会員として名をつらねていたし、神原は詩や評論に、村山は舞踊に演出に鋭い論説に、幅広い活躍を見せた。震災後の退廃と恐慌はアナーキズム、ニヒリズム、ダダイズムに作家をかり、単なるキャンバスにむかって絵具をなすりつけるだけでは満たされぬ心理にかりたてた。美術のジャンルを超えたもっと全身全霊の実験を求め、有名な村山知義の「朝から夜中まで」の舞台装置をはじめとして、会員展後引続いて5月30日午後6時半から築地小劇場において「劇場の三科」を開幕した。ほとんどぶっつけ本番のアングラ劇で、怪奇なるオーケストラ、貧しさに富める開幕劇+ダダ映画、破損したる高-速-度の演劇、消極的効果による喜劇「人生」、漫漫漫漫漫画劇画劇、電気人形応用陰鬱なる滑稽劇等々の外題である。矢部はこれを回想して「ほとんど総ての演出は抽象化されきった謎のようなものであったり、醜悪な罵言と、冷笑とイヤガラセと皮肉であった。その一つは、ステージの突先に観衆に尻を向けて、重量運搬用のオートバイを持ち出し、強烈な爆音と、そして強烈なギャソリンの油煙と、それに硫黄の臭いと、サーチライトの光りと、その上、セリフに曰く『今日という今日は完全にやっつけてしまった』(『日本プロレタリア美術運動史』)と言っているが、正にカッコイイ前衛ぶりで、一晩限りの公演で会費一円五十銭、超満員で築地はじまって以来の盛況といわれた。当時のいわばインテリ層が、そのようなハプニングに感応する心理層を持ちあわせていたことをうかがわせて、興味深い。まさにハプニング連続のアングラ劇に読売新聞の評も「とにかく驚いた、大入満員だ。発作よ。眩暈よ。瞳孔散大よ。食欲欠乏よ」といったぐあいの支離滅裂ぶりを見せた。」本間正義「日本の前衛美術」(『私の美術論集Ⅱ・現代美術・展覧会 美術館』所収)美術出版社、1988年。pp.51-55 .

 ダダイスムは、第1次世界大戦(1914~1918)の前後に、チューリヒ、ベルリン、ケルン、パリ、ハノーバーなど都市、そしてニューヨークなどで、同時多発的かつ相互影響を受けながら発生した芸術運動の名称。「ダダ」という名称はフランスの詩人トリスタン・ツァラが、辞典から気まぐれに見つけた単語から命名したという。思想的背景はニヒリズムの色が濃い。1925(大正14)年の日本で「三科展」に参加したダダイスト的な若い連中は、とにかく無茶がやりたかっただけで、この時期の前衛運動はひどく無邪気だったみたいだ。


B.アウシュビッツを考えることのできる年齢
 絶滅収容所として有名なアウシュビッツ=ビルケナウ収容所は、ポーランドの南部、スロヴァキアとの国境に近い都市クラクフの近郊にある。最近公開されたジョナサン・グレイザー脚本・監督の映画「関心領域」The Zone of Interestは、ここの所長だったルドルフ・ヘスとその家族の平和な日常を描いて、恐怖のホロコーストの現場で起きていた奇妙な現実を描いていた。そのアウシュビッツで公認ガイドをしている日本人がいるという。とくに日本人観光客向けということではないだろうが、14歳未満の入場はすすめないという。その理由は?

「本質をつかむには 背景が理解できる年齢で アウシュビッツ公認ガイド 中谷剛さん
 ユダヤ人ら約110万人が虐殺されたナチス・ドイツの「アウシュビッツ強制収容所」。世界中の人々が訪れますが、14歳未満の入場は推奨されていません。子どもが戦争の歴史を知ることについて、どう考えたらいいのか。強制収容所内にある博物館で20年以上ガイドを務める中谷剛さんに話を聞きました。
 14歳を区切りとしているのは、子どもたちにショックを与えてはいけないという配慮に加えて、ここで起きたことをまだ理解しがたい年齢ということも理由にあるのではないでしょうか。
 ポーランドでは、歴史として第2次世界大戦について学ぶのは高校2年生です。学んでいないうちに訪れるのは早い、ということなのだろうと思います。
 これは私の個人的な意見ですが、幼いころは肌の色、宗教、政治、文化の違いなどで相手や友達を選んだりはしません。相手を好きになって仲良くなるのも早いですし、心の壁が低い。アウシュビッツで起きたことを本質的には理解できないと思います。
 「この場所で、どのようにして、何人亡くなった」と伝えることはできますが、博物館は「二度と繰り返してはいけない」ということを教訓にしている。人種・民族差別や、障害者、性的少数者への差別などの延長線上にアウシュビッツがあったわけです。
 他者との競争が始まり、自我が芽生えて自分と他人を分け始めるくらいの年齢になってからでないと、そんな背景まで理解するのは難しいのではないでしょうか。
 何をするにしても、通常、子どもに選択の余地はないことが多いですから、大人はより一層考えなくてはいけないと思います。
 ガイドは、歴史を伝えるのが役割です。それは、「こうすれば起きない」と教えることではなく、どうしたらいいのかを考えてもらうための歴史の伝達であり、材料の提供なのだと思っています。
 私たち一人一人が考えて行動しなければいけません。誰を相手にしても心を開いてもらえるような内容にしなければいけない。毎回少しずつ伝え方を変え、工夫しています。」朝日新聞2024年8月4日朝刊、11面オピニオン欄。
 記事解説によれば、なたかに・たけしさんは、1966年生まれ。栃木県足利市で育ち、91年からポーランドに居住。97年、アウシュビッツ・ビルケナウ博物館の公認ガイドの資格を取得。著書に「ホロコーストを次世代に伝える」(岩波書店)など。
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