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NHK「朝ドラ」のなかの戦争 5 カーネーション  ワクチンはどこに?

2021-04-25 18:31:54 | 日記
A.朝ドラのタブー? 
 去年のコロナ感染対策で最初の緊急事態宣言が出されてから、もう1年経って、また緊急事態宣言下というわけだが、昨年の朝ドラ「エール」は、コロナ禍で一時撮影も放映も中断された。そういえば、第85作「カーネーション」は、2011年3月の東日本大震災・福島原発事故にともなう非常報道体制の影響で、前々作『てっぱん』、前作『おひさま』の放送が1週繰り下げられたことに伴いこの作品も9月開始予定が、1週繰り下げの10月3日に始まった。著名ファッションデザイナーとして活躍するコシノヒロコ・ジュンコ・ミチコの「コシノ3姉妹」を育て上げ、自らもファッション界で活躍し、2006年に死去した小篠綾子の生涯を実話に基づくフィクションストーリーとして描く。
『カーネーション』の時代設定としては、1924(大正13)年9月の岸和田だんじり祭の初日の早朝、祭に参加する主人公の父親を見送るところから始まる。祭のシーンでは、岸和田市五軒屋町の協力のもと、本物のだんじりを東映太秦映画村のセットに運び込んで撮影された。 講談社現代新書『みんなの朝ドラ』の著者、木俣冬氏によると、これが“朝ドラ史上最高傑作”と言われたのは、いろいろな側面でそれまでの朝ドラの常識を破った表現があって、それはまず脚本の渡辺あやの功績だという。

 「2011年10月から始まった『カーネーション』のヒロイン・小原糸子(尾野真千子)が生まれたのは、1913(大正2)年。まさに、女子の家事裁縫教育が盛んなころだ。女子が裁縫をするのが当たり前だったこの時代、ミシンに出会って技術を習得すると、女性の必須科目・裁縫の世界の先頭を走り出す。ミシンの力を借りて和服から洋服へと人々のファッションを鮮やかに塗り替えた糸子は、小原洋裁店(のちオハラ洋装店)を開業。第二次世界大戦中に父と夫を亡くすと、いよいよその技術を生かして活躍していく。
 その間、ずっと裁縫=女子というイメージが強かったところ、糸子のモデルである小篠綾子が74歳にして“コシノアヤコ”ブランドを立ち上げた。中学生男女の「技術・家庭」の共修が始まる、数年前のことだった。
 ファッションデザイナー・コシノヒロコ、ジュンコ、ミチコのコシノ三姉妹を生み育てた小篠綾子は、呉服商を営む父母の長女として兵庫県河西郡に生まれ、岸和田に転居後、「コシノ洋装店」を開店。”岸和田の肝っ玉母ちゃん”と呼ばれるほど豪快な人物で、92歳で天寿を全うするまで、現役を貫いた。とてもエネルギッシュ、パワフルな性分で、娘が言うには「いちびり(お調子者)が可愛い」人。脚本家・渡辺あやも、朝ドラ『カーネーション』がはじまるとき、合わせて発売される『連続テレビ小説 カーネーション』(NHK出版)で次のように紹介していた。
 〈主人公の糸子は、朝ドラ史上最高にガラの悪い……、もとい、男らしいヒロインだと思います(笑)。「ボケ!」「アホか!」などと悪態もポンポンつきます〉
 幼いころから糸子は男の世界に憧れていた。
 ドラマのはじまりで、岸和田のだんじり祭りの様子が力強く描かれる。だんじり祭りは、スピードに乗ったまま方向転換する「やりまわし」が最大の見どころで、だんじりの屋根の上で指示を出す「大工方」は祭りの花形である。その圧倒的なダイナミズムに糸子(子役=二宮星)は夢中になる。だが、岸和田のだんじりは「女人禁制の世界」だ。この厳然とした事実に、糸子はまず向きあうことになる。
 女性が立ち入ることのできない世界を描いた朝ドラといえば、1992年の第48作『ひらり』(脚本内館牧子)がある。女性が上がることのできない相撲の土俵。相撲に憧れていた主人公のひらり(石田ひかり)は、せめて相撲に関わりのある仕事に就こうとする。ひらりが、相撲をやりたいというふうにならないのは、内館が好角家でもあるからだろう。それについては第6章で詳述した。
 糸子はというと、男と同じ世界に居並ぼうとする。ドラマ最初の重要な局面は、糸子が男友達と喧嘩するシーンだ。父・善作(小林薫)にとがめられ、「女やからって、女やからってなめられたなかった」と反論すると、父に力いっぱい平手打ちされ、「コレが男の力じゃ。お前に出せるのか、出せへんやろが、おまえはどうあがいたって女なんじゃ。女が男とはりおうてどないすんじゃい」とカラダに言い聞かされる。
 腕力に訴えられ、どうしようもなくなった糸子は、女である自身に絶望する。
 だが、その後糸子はミシンと出会うと、カタカタと走る機械仕掛けのその物体をだんじりに置き換え、裁縫に目覚める。裁縫というと女性らしさの象徴のように捉えられがちだが、糸子は男勝りな性格のまま、裁縫を得意技として生きていく。男のすることに負けたくなかった女が、女らしさの象徴を誰よりもうまく使いこなすことで、女らしさや男らしさを乗り越えていく。このとても痛快な物語は、和服が洋服に変わるように、これまでの朝ドラのイメージを塗り替えていく。
 男になめられたくなくて、男だけに許されただんじりに代わるものを得たい――。そう願いながら生きていく糸子は、やがて、男だけでなく、さまざまな障壁を乗り越えていく。そこがこの『カーネーション』の面白さであり、深みとなっている。
 男を超えることは並大抵でない。肉体的な差異や世間の偏見があるし、男のプライドも傷つけかねない。それらを冷静に描いたのが『カーネーション』だ。
 糸子に絶望を植え付け、その後も、あっぱっぱ(夏に切る女性用の服)を縫ってはいけないと禁じるなど、何かにつけ糸子の前に壁となって立ちはだかる父・善作が、まず、糸子が乗り越えなければならない最初の存在である。
 明治生まれで、「男が絶対」という考えの持ち主だから、女性に対しては非常に高圧的に描かれていた。今の時代だったらDVと指弾されかねないような言動を当たり前のようにする。ところが、糸子の仕事がうまくいきはじめると、絶対的な存在として君臨でいていた善作の立場が危うくなっていく。善作が酒を飲んで酔っ払っている時、娘の糸子が「家を支えているのは私」と主張するのだから、父の立場はなくなってしまう。本人も気づかないうちに、娘は父のプライドを損なっていたのだ。
 「父殺し」の儀式は物語の定型のひとつだが、たいていは息子が父を乗り越える話である。原点であるギリシャ悲劇「オイディプス王」でを現代にみごとに置き換えたものが『スター・ウォーズ』だが、『カーネーション』ではヒロインがある種の「父殺し」をして前進していく。
 一家の大黒柱であるべき父に代わって、小原洋裁店を立ち上げた糸子のもとに、のちの夫・勝(駿河太郎)が現れ、彼との間に3人の子どもをもうける。これが、コシノ三姉妹をモデルとした優子(新山千春)、直子(川崎亜沙美)、聡子(安田美沙子)である。 
 だが、勝は愛娘たちを残して戦死したように、復興に励むはずの男たちの多くが、『カーネーション』の舞台上から消えていく。とりわけ、第1話の冒頭でだんじりに颯爽と乗っていた男たちが残らずいなくなったのは印象的だ。さらに、父・善作も不慮の事故で大やけどを負い、湯治先で帰らぬ人となる。遺言のつもりだったのか、大福帳に“オハラ洋装店 店主 小原糸子”と書き残して。
 果たして、男とは女よりもほんとうに強いものなのだろうか――。ドラマはそう問いかけているようだ。
 『カーネーション』では、戦時中の女たちが意外としたたかにおしゃれを楽しんだり、夫のミシンを供出せよと言われても歯向かったりする様子が描かれる。もちろん、男たちが亡くなっていくことの深い悲しみは表現されているが、なぜか、なかなか泣けなかった糸子が最終的に号泣する場面は、赤い花びらが地面に散ったところと重なって、鮮烈だった。台詞に頼らず、隠喩のような手法で観た者の想像に委ねる演出が、朝ドラらしからぬと言われた『カーネーション』の中でも、代表的なシーンとして語り継がれている。
やがて終戦。玉音放送を並んで聞くのは全員女である。そこへ木岡履物店の保男(上杉祥三)が、日本が負けたと血相を変えてやってくる。集まった女たちも散り散りになってひとり部屋に残った糸子は立ち上がる。
 従弟「さ、お昼にしよけ」
 毎日の生活の延長線上の行動として描いたこれを、朝ドラを3作手がける脚本家の岡田惠和は「素敵だった」と絶賛している。このシーンに象徴されるように、『カーネーション』の面白さは、いろいろな出来事を紋切り型に描かなかったことだ。たとえば、終戦や肉親の死を、命の営みのなかでは十分に起こりうることとして、絶望や悲しみをことさら強調することなく、それを乗り越えた先の、「次はどうアクションするか」に重きが置かれていた。それもさりげなく。渡辺あやは、インタビューで〈不幸や不条理に立ち向かうには、すごく地味なことをコツコツやっていくしかない、という感じがしませんか。あるところに大きな救いがあって、そこに自分も回収される、というのは絶対うさんくさいし、本物じゃない。小さくて地味で一見、『これかよ』みたいなこと〉と語っている(「朝日新聞」2012年4月4日)。
 戦争が終わると糸子は真っ先にモンペを脱ぐ。街も復興し、おしゃれに対する意欲が戻ってきていることを肌で感じる糸子。日本はますます洋装の時代になっていき、糸子の仕事も活気づく。
 そこで出会うのが周防龍一(綾野剛)だ。『カーネーション』の後半戦を大いに盛り上げた人物である。長崎からやってきた周防は故郷に妻を残しながら、糸子と恋に落ちたところで、健全な朝ドラの世界に背徳感をもたらした。
 “朝ドラ史上最高傑作”と言われた『カーネーション』は物語として評判になる一方で、この禁断の愛にうっとりする視聴者と、不倫はよくないと嫌悪感を抱く視聴者とがSNS上で激論を繰り広げ、大きな話題を呼んだ。
 当の糸子は、「気色の悪いモン持ち込まんといてください。あかんもんはあきませんでしょ。よそさまの旦那しゃあしゃあと囲い込むような真似、先生にはせんといてほしいんですわ。お願いします」などと身近な人間に泣いて頼まれる有様。亡き夫の写真を掲げられ、みんなから突き上げをくらうシーンまであった。」木俣冬『みんなの朝ドラ』講談社現代新書、2017、pp.198-205. 

 朝ドラは、NHKという公共放送の看板番組として、国民大衆に希望を与え共感してもらう物語、とくに幅広い女性の視聴者の反感を買うような内容は極力避けなければならない。このタブーとして重要なのは主人公のヒロインが、ドラマのなかでいろいろ苦難や不幸に出会うとしても、絶対手を出さないのは犯罪、暴力、そして不倫である。戦争はしばしば登場するのだが、それは主人公が被害者として体験する限りタブーにはならない。多くのヒロインは、誠実な恋人に出会って結婚し、なかには不倫する夫や、離婚する場合もなくはないが、ヒロイン自身が夫以外の誰かと良い仲になるというのは、タブーだった。「カーネーション」はそこを危うく踏みそうになる。ただ、彼女の夫はすでに戦死しているし、結局この恋は成就はしない。
 この問題はまた次に考えてみたい。


B.この国は大丈夫か?
 コロナ禍すでに1年以上経過した中で、結局どの国もここから脱出するには、ワクチンが普及して、国民の過半数が免疫を獲得するしかない、ということだけは見えてきた。すでにイスラエルや英国は、ワクチン接種がすすみ、コロナ以前とはいかなくても、人々の生活はかなり改善されているようだ。それに引き換えこの日本は、いまも日々感染者は増え、変異株は増殖を加えている。そして、ワクチン接種が始まったとはいえ、いまだ高齢者にすら行き渡らない。これは、もはや社会現象としての政治の失敗ではないのか?

 「月刊安心新聞+ :国産ワクチンない日本 「国家」を合理的に使い倒せ 神里達博
 2月の本コラムでは、新型コロナ感染症の患者数が「バンジージャンプ」のように、上がったり下がったりの「振動」を起こす可能性について指摘した。そして残念ながら今月は、実際にそうなってしまった。
 事態が少し良くなると、すぐ対応を緩め、悪化すると遅れてブレーキを踏む。これを繰り返せば振動してしまうのは、直感的にも明らかだ。
 思い返してみれば、感染者数の山は「波」が来るたびに大きくなっている。今回は、いわゆる「変異株」の影響も無視できないだろうが、やはりこの国は事態をコントロールできていないと考えた方がよかろう。
これまでも何度か言及している通り、欧米と比べるとなぜか日本のダメージはかなり小さいのだが、東アジアで比べれば、むしろ拙劣だ。
たとえば台湾は今現在も、ほぼ完全にこの病気を抑え込んでいる。人口は日本の約5分の1で、社会経済的な条件や市民の価値観、自然的・地理的条件も似通っている。しかし、死者の総数は11人である。日本では1万人に迫ろうとしている。要するに人口比で約200倍、日本は状況が悪い。しかも台湾は、経済を犠牲にして健康を守ったのではない。政府を中心とした合理的で非常に素早い対応が幅広い信頼を獲得し、総合的に奏功しているのである。
一方、被害が大きい主要国は持てる力を結集してワクチンを開発し、まさに今、その効果を見極めようという段階にある。目下、接種率の高い英国やイスラエルでは急速に新規感染者数が減ったが、同じく接種の多い米国では下げ止まり、チリではまだ効果がよく見えない。他の要因の影響も大きいのだろう。
ただ少なくとも、それぞれの国情に応じて、政府は打てる手段は全て講じるというのが、諸外国の基本的な姿勢であろうと思う。
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 ここで改めて気づかされるのが、「国」という単位が、再び前景化してきているということだ。
 20世紀の終盤に冷戦が終結すると、世界はさまざまな意味で一つに結びついていった。世界市場における大競争時代の到来、それを支える情報技術の急速な進展、存在感を増していく国家連合としてのEU、そして地球規模の環境問題の出現。それらはいずれも、国家の頭越しに物事が進んでいく傾向を加速させた。
 しかし21世紀に入ると、状況が変わってくる。まず、「9.11」というテロが起こり、欧米主導のグローバル化に対する強い憎悪の存在が白日の下にさらされた。次に「世界の工場」としての中国の急成長により、新たなタイプの国家主義が、誰もが無視できない形で立ち現れてきた。さらに世界中でポピュリズム的な政治勢力が台頭し、トランプ前大統領が典型例だが、排外的で内向きの政権が目立ってきた。また英国も混乱の末、結局、EUを離脱した。
 このような流れのなか、COVID19のパンデミックが発生した。これはさらに二つの側面で、「国家」の存在感を再び強めるだろう。
 まず、そもそもこの病気は人の移動を著しく阻害する。同じ都市のなかを動くことさえ憚られるのだから、国境を自由に越えることは、当面は困難だろう。また将来、この病気が収束したとしても、再び別の危険なウイルスが現れ、世界を混乱させる可能性も否定できない。
 だとすれば、人々が世界を頻回に移動するような社会経済のあり方は、変容を迫られるだろう。当然、情報技術ではつながりを保つだろうが、コロナ以前とは、かなり様相が異なてくるのではないか。
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 もう一つ、公衆衛生的な危機に対応することが、国家の重要な仕事であることが誰の目にも明らかになったという点がある。
 トランプ前大統領には批判も多かったが、早期に「ワープスピード作戦」を開始し、有望なワクチン候補に1兆円規模の支援を決定したことは、少なくとも評価すべきだろう。もちろん、基盤的な研究はパンデミックより前から始まっていたので、この予算だけで驚異的に早い開発を達成したわけではない。しかし政府によるワクチンの購入保証を製薬会社が得たことで、リスクを気にせずに開発に集中できたのは確かだろう。
 ちなみに同じ頃、日本政府は例の「Go To キャンペーン」に2兆7千億円という巨額の予算を組んだ。そのお金は医療やワクチンのために使うべきではなかったのか。国産ワクチンが無いということは、税金で外国企業から買うことを意味する。当然、その分の国富が海外に流出する。2億回分のワクチンの代金は、いったいいくらになるのだろうか。
 このように、彼我の差を知れば知るほど、率直に言って、この国は大丈夫なのか、という気持ちが募る。
 おそらく最大の問題は、責任ある立場の人たちが、この危機をできるだけ「自然現象」として処理したいと考えていることではないか。つまり「仕方が無かった」と言いたいのだ。だが、冒頭で触れた通り、今回の第4波は予想し得たものだ。また、十分な国力があり、諸外国と比べても感染者数が顕著に多いわけでもないのに、発生から1年以上が経った今、医療崩壊が起こるというのは、国の総合的なマネジメントに問題があるとしか言いようがない。
 むろん、ここで古い国家主義を称揚したのではない。逆である。この列島に住む人々の幸福を増やすために「国家という仕組み」を合理的に使い倒すことが、まさに死活的に重要になっているのだ。そのために何をなすべきか。根本から考えたい。」朝日新聞2021年4月23日朝刊15面オピニオン欄。

 2016年リオ五輪の閉会式に駆けつけて、スーパーマリオに扮した某首相が受けを狙ったことは、いまや悪い冗談になっているが、あのとき「原発放射能はアンダー・コントロール」と言ったことの方は、忘れてはいけない悪い冗談だ。さらに、その後を継いだ菅首相がいまもやっている東京五輪無理やり開催の、将来に残す禍根はぼくたち2021年に生きている日本国民全体が引き受けるべきコロナの教訓になるだろうな。
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