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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

ニッポン現代アートの旗手 9 奈良 美智さん ノーベル賞なんて?

2019-10-29 04:35:02 | 日記

A.少女と犬の形象

 数年前、ぼくは駅で新幹線に乗るために待合室にいたとき、少しダイヤが乱れて30分ほど待つことになった。乗客が増える中、5,6歳くらいの少女が母親とやってきた。見るともなく見ていると、彼女はじっと座っていることができず、待合室の中を走り飛び、みんなの顔を眺めながら激しく表情を変えていた。大きく笑ったかと思うと口を尖がらせて上を向き、すぐにばさっと下を向いて髪を翻す。動作も少しも静止せずに足を広げ閉じ、上下に跳ねる。ぼくはこれを見ていて、子どもがこうしているのは誰もとくにおかしなこととは思わないけれど、つまりこれは健康な子どもの動きとしてはよくあることなのだが、もし同じことを大人がしたら、気が狂ったと思われて病院に連れていかれるかもしれないと思った。そして、もし優れたダンサーが、この少女の動きを真似てダンスにしたら、すばらしいアートとして評価されるかもしれないと思って、とても不思議に思った。

 幼い子どもの表情は、クルクルと変わる。大人は表情というものを慣習的にいくつかの類型で理解してしまうので、哀しみには悲しい表情、嬉しさには嬉しい表情、そして感情の起伏がない状態を無表情にして平板化してしまう。でも、子どもが一瞬一瞬になにを感じているのか、わかっているわけではない。それは大人が「子どもとは無垢で単純で、ものごとを表面的にしか見ない」存在として見たがっているからだ。しかし、「無邪気な子ども」という通俗イメージは、ある時代に作られたもので、アートの歴史の中でも作為的に構築されてきた形象のひとつだ。

 奈良美智さんの少女は、そういう子どもの姿をとりながら、「愛すべきカワイイ」女の子というステレオタイプを、その表情において踏み破っている。そのことの意味と、それが当の女子にとって少なくとも面白がられていることがなぜなのか、を考えさせる。

 「[White Riot] 全身真っ白で等身大を超える巨大な女の子の半身像である。上体は腰まで、左右の腕も途中で切断されているので、われわれはいきなり、鋭い眼差しで睨みつける少女の大きな顔と対峙させられることになる。左右が異様なほど離れた吊り上がった眼、丸っこい団子鼻、大きくふくれた頬などは、たしかに子供っぽい特色をよく示しているが、睨みつける眼は見る者をたじろがせるほど強い。横に長くのばされた口の両端に白い牙が見えるのは、内心の小さな悪意を表わしているのだろうか。それでいてこのあどけない小悪魔は、見る者を惹きつけずにはおかない愛らしさを失ってはいない。

 この作品は、2009年奈良美智が信楽の滋賀県陶芸の森にアーティスト・イン・レジデンスとして滞在した時に制作した陶芸作品だが、そのモティーフとなっているのは、これまで長いこと、主に絵画作品においてさまざまなかたちで表現して来たちょっと小生意気な女の子である。無垢で無邪気なあどけなさのなかに、強情で意地っ張りな一面を秘めたその特異な少女像は、ほとんど奈良のトレード・マークのようになって広く知られ、国際的にも高い人気を集めて来た。それは、誰しも身に覚えのある子どもの本質を、きわめて独特な、説得力のある表現で世に示したからである。

 もちろん、歴史をふり返ってみれば、愛らしい子どもの姿というのは、これまでにも数多く描かれて来た。特に西欧世界では、十八世紀から十九世紀にかけてのロマン派の時代に、世俗の塵にまみれた大人よりも、「汚れのない」純粋な子供の方が優れた存在だという「無垢の礼賛」の思想が強く主張され、フィリップ・オットー・ルンゲの作品や、詩と絵画を融合したブレイクの『無垢の歌』に見られるような清純な子供像を生み出した。詩人ワーズワースもまた、天空の虹を歌った名吟のなかで、「子供は大人の父」という忘れ難い一句を残している。

 しかしながら同時に、子供にはいささかの毒を含んだ、我儘でやんちゃな一面があることも否定できない。奈良美智の手柄は、複雑微妙な子供の心理を的確に捉え、たしかな存在感を持った一人の愛すべき女の子の姿を造形して、奔放に活躍させた点にある。彼がこの少女像を生み出したのは、ドイツのデュッセルドルフで学生生活を送っていた時のことだという。一見勝手に振る舞っているように見える少女に、どこか孤独な影がまつわりついているのは、そのためであるかもしれない。」高階秀爾『ニッポン現代アート』講談社、2013、p.032. 

 子どもは一見大人に依存して生きるほかない存在だと思われながら、日常世界では常に周囲の大人たちに対立し反抗し自己主張している。それを「無垢」とか「純粋」とかといった言葉で無害化するのは、教育の論理とも文化の深化とも逆行する大人の傲慢な秩序ではないか。

 「もう一つ、日本的なものとして、「かわいい」という話をしようと思います。

 村上隆と並んで海外で評価の高いアーティストに、奈良美智がいます。

 図8の〈サヨン〉は、一見すると、コマの中に単純化されたキャラクターがいる、とてもシンプルな絵に見えます。そのためか、このイメージはカリカチュア(戯画)や漫画のキャラクターからの流用だといわれることが多い。でも私は、奈良さんは突然、漫画家ら現れてきたのではなく、そのもっと前の文脈とつながっていると考えています。

 〈サヨン〉は、奈良さんがつくりだしたキャラクターの一つ、「怒れる(アンファン)子ども(テリブル)」です。彼の作品には子どもと動物しか登場しません。それは未成熟なもの、無垢なるものの象徴です。無垢なものだけがもつセンサーは、不安な状況に疑いをもって反応し、鋭く吊り上がった目でこちらを睨みつけているのです。

 絵の中の子どもたちは、現代日本の大人の世界、不安と混乱を招いている世界への拒絶という、時代の感性を抽象的に表しています。奈良は、日本の漫画の表現にならって、愛らしくデフォルメした人物たちの、無関心のそぶりの背後に批判と抵抗を含ませています。その感情は生で外に放り出されるのではなく、宙吊りのままで、ピュアで毒のある詩的な絵画空間にとどまり続けています。

 その姿が私たちの心を惹きつけてやまないのはなぜでしょうか?

 それは、日本人が、人形や箱庭、細工された菓子など、小さくて技を凝らしてつくられたものを愛ずる気持ち、「かはゆし」の精神ではないかと私は考えます。

 「かわいい」は、古くは「かはゆし」といって、あまりにもかわいそうで、見ていられなくて、思わず顔を背けてしまうような感じを表す言葉でした。あるいは、あまりに珍しくて、輝かしいので、顔を背けてしまう、というニュアンスもあったようです。

 奈良さんの絵を見ていると、この言葉の意味が納得できてきます。その「かはゆし」力が、国を越え、民族を超えて、ヒットする理由ではないかと思うわけです。こんなに小さいのに、こんなに輝いている。そこに、おもしろし、おかしとさまざまな興を感じ、惹きつけられていく。

 アメリカの美術館に行くと、インターンの女の子たちが奈良さんの絵を護符のようにブースに貼っているのをよく見かけます。決して、映画スターやミュージシャンの写真なんかでなく、〈サヨン〉みたいな絵が貼ってある。

 それを見て私は「やはり」と思います。力なきものが、睨みつけることによって生み出す、アンバランスな強さ、それは、子どもの姿をした守護神の力です。身につけるお守りは、ただかわいければよいというわけにはいきません。無垢であるがゆえに発せられる、呪術的な力があるのです。

 音楽やファッション、漫画といったサブカルチャーや、ローカルで人気のあるキャラクターなど、ヴァナキュラー(土着的、土地固有的)なものもすべて吸収して、アートに変容させてしまうのがポップアートの一つの特徴です。その吸収の過程で、予期せぬ混合や変異が起こる。こう考えると、ポップアートそのものが呪術的であるということができるかもしれません。」長谷川祐子『「なぜ?から始める現代アート』NHK出版新書、2011、pp.44-47. 

 長谷川氏の論はどうも、これまでの通俗モダニズム芸術論を否定したいあまりに、社会科学的なテクノロジー優位論や単純フェミニズムや現代思想的なハイ・イメージ論に引っ張られて、結局へんなナショナリズムやプレモダンに傾斜しそうな危うさを感じるのだが、奈良美智のつくる形象は、それとは少し違って、世界への違和感を少女や犬という地点から射ることの戦略性にあるとぼくは思う。

 

B.国家の経済的盛衰と文化の成果

 ノーベル賞の受賞が話題になるこの季節、事前予想もあれこれ取り沙汰されたあげく、日本人が受賞するとまるで国家の名誉のように万歳するのが恒例になっている。自然科学3賞はこのところ日本の研究者が毎年出ているので、オリンピックの金メダルのように誇らしい勲章のように報道される。でも、それは日本が経済的に余裕のあった「昭和」末期までの、一種の「遊び」的研究環境の産んだもので、平成以後のこの国の科学技術や文化への考え方は、悪しき短期的な成果主義、効率主義、競争原理、反知性主義の政治的意思によって瀕死の状態に追い込まれているという記事。

 「記者解説 Commentary後退する基礎研究:0から1生む力 競争政策で弱まる

/起点は純粋な好奇心 試験管に封入されたその物質は輝いてた。「銀ピカでアルミ箔そっくり。これが本当にプラスチックなのか」。ノーベル化学賞に決まった旭化成の吉野彰名誉フェローは、電気を通すプラスチック「ポリアセチレン」と出会った時の驚きをこう振り返る。

 1981年、日本は経済成長を遂げ成熟期に入っていた。産業界では、ポリ袋のような素材用プラスチックから、付加価値の高い先端素材の開発が求められていた。そこに登場した常識外れの物質に好奇心をくすぐられた。のちに、電池の電極への利用に照準を絞り、紆余曲折を経てリチウムイオン電池の開発に結実した。

 自然の原理の発見やまったく新しい物質の創生など、「0から1を生む」研究を「基礎研究」といい、研究者の純粋な好奇心から始まる。吉野さんによると、当時、旭化成では、一定の割合の研究者を基礎研究に割り当て、事業化の目標が明確な応用研究とは切り離して研究させていたそうだ。

 「遊ばせておくんです。基礎研究はあまりお金がかからないので、勝手にやらせておけと。2年たって方向が間違っているとわかれば、次をやる」。「アンダー・ザ・テーブルの研究」と吉野さんは表現する。

 ポリアセチレンは2000年にノーベル化学賞を受賞した白川英樹・筑波大名誉教授が発見したものだ。その源流には、1981年に同賞を受賞した故福井謙一博士の業績がある。物質を支配するミクロな世界の原理から、逆に「こんな性質の物質がつくれるはずだ」と予測する理論だ。ポリアセチレンはまさに理論が予測した物質だった。

 福井市の予言と白川氏の発見を、産業界の吉野さんが引き継ぎ、モバイル社会の実現、接続可能な社会への貢献というイノベーションに結びつけた。福井氏の孫弟子にあたる吉野さんは「これが本来の産学連携」と考える。

 国立大の資金難響く

 ノーベル賞の自然科学3賞(医学生理学、物理学、化学)の日本の受賞者は24人になる。世界6位だ。2001年以降だと18人で米国に次ぐ2位。ただし、ノーベル賞は対象となる業績が出てから受賞まで平均27.8年かかる。吉野さんも場合も、1980年代の元気な研究現場が生んだ「昭和の遺産」だ。

 近年の日本の基礎研究はどうか。

 論文数では、この10年間で世界シェアは2位から4位に、注目度の高い論文数に限ると4位から9位に落ちるなど退潮が著しい。博士課程への進学者数は03年度をピークに減り続け、人口当たりの博士号取得者の数は米、英、独などの半分以下だ。先進国で日本だけ減っている。将来も危うい。

 企業はバブル崩壊とともに基礎研究への投資を大幅に縮小し、日本の論文の多くは国立大学が生み出しているのが実態だが、その屋台骨に元気がない。

 国立大学の弱体化の背景には国の「選択と集中」の政策がある。04年の国立大学の法人化以降、教員の人件費や自由に使える研究費など、大学運営の基盤に充てる補助金(運営費交付金)を削減し、代わりに国の審査を受けて勝ち取る「競争的資金」を増やしてきた。運営費交付金の一部にも競争を導入し、ぜい肉のない経営体への「体質改善」を求めている。

 その結果、何が起きたか。

 国立大学は予算難のため教員の正規ポストを減らして新規採用を抑え、高齢化が進んだ。審査で有利な東大など一部の大学に資金が集中。多くの中堅の国立大学は資金難にあえぎ、人材育成の場である研究室の維持にも事欠く状態に陥っている。研究の「層の厚み」が失われつつある。

 競争的資金の柱の一つにイノベーションを目指す研究費がある。政権の経済政策「アベノミクス」を受けたものだが、スケールの大きな研究とはいいがたい。「環境にやさしいIT機器」「放射性物質の低減」といった個別テーマが設定され、進め方や予算の使途が縛られ、頻繁に成果報告を求められる。現場の教員は予算獲得の雑用が膨らみ、研究時間が削られている。トップダウン式の限界が指摘されている。トップダウン式の限界が指摘されている。

 吉野さんは、国の政策に振り回される大学の現状を「中途半端で最悪の状態」と危惧し、「百の一つのとんでもないリターンを生み出すイノベーションには、福井謙一先生のような真理を探求する基礎研究が必要」と言う。自らの賞金を原資に日本化学会に設置した「吉野彰研究助成」では「一切好きなように使ってもらいたい」と話す。

/目先の成果急いでも

 国は競争政策の資金配分の基準として、大学側に細かい数値目標の設定を求めている。財源難の中、企業と同等の手法を大学経営に適用し、生産性の観点から国の眼鏡にかなう大学を重点支援する。生産性とは投入コストによる割り算だ。しばしば引き合いに出されるのは、その大学が生み出した論文数や特許などの成果を、投入した運営費交付金で割った値だ。

 そもそも、基礎研究の成果は生産性ではかられるべきなのか。

 数値重視の背景には、政府が進めるEBPM(証拠に基づく政策立案)がある。予算配分の合理性を高めて国民の理解を得るためとされ、科学技術分野では国の第5期科学技術基本計画(16~20年)に導入が盛り込まれている。

 しかし、研究者からは「測りやすいデータだけで評価されている」「基礎研究や学生の教育といった非定型の業務に数値目標はそぐわない」などといった批判がつきない。運営費交付金のかなりの部分は論文作成以外にも使われており、もっと精緻な議論が必要だとの指摘もある。

 博士課程の人材育成を専門に担う総合研究大学院大学の長谷川眞理子学長は、「データは政策判断を正当化するためにあるのではない。いまの政策は生産性向上が目的化している」と憤る。「学生たちは職探しにきゅうきゅうとし、すぐに成果の出る研究を目指さざるを得ない。指導する先生も余裕がなく、成果を急ぐと学生にしわ寄せがいく。これでは、飛び抜けたアイデアなど生まれようがない」。政策が生む悪循環を肌で感じている。」朝日新聞2019年10月28日、朝刊9面、オピニオン欄。

 ぼくは、自然科学に比べれば一桁少ない研究予算の社会科学分野で、わずかながらも国の科研費などをもらって細々研究活動をしてきた人間だが、それでも1980年代には自由な共同研究に国が予算を配分してくれた環境を享受できたと思う。基礎研究には、大きなお金はなくてもできる

 「現場を信じ、「苗床」作るのが国の役割  個々は「賭け」でもGDP押し上げ

 日本の国家予算は「借金」の返済と社会保障費が6割を占める。科学技術や教育、公共事業の予算額の割合は、平成の30年間横ばいのままだ。国の成長を考えれば将来への投資は必要だ。しかし、社会保障費を削ってでも「好奇心の赴くままの自由な研究」にお金を回す価値が本当にあるのか、疑問に思うかもしれない。

 個々の基礎研究は「賭け」のようなものだ。だが国全体でみると、基礎研究力と経済力には相関がある。大学経営に詳しい鈴鹿医療科学大学の豊田長康学長によると、OECD(経済協力開発機構)の人口当たりの統計では、論文数とGDP(国内総生産)は比例する。GDPとイノベーション力、GDPには、相互に押し上げ合う関係があると推定できる。

 ノーベル賞を受賞した日本の研究も昨年の本庶佑・京都大特別教授のがん免疫治療薬「オプジーボ」、2014年の赤崎勇・名城大終身教授ら3人による青色LEDなど、世界的な市場を切り開いたのもは多い、日本の経済活性化の好機となったのは間違いない。

 これらの業績は、いずれも真理を探究する大学でも基礎研究に端を発している。自然の仕組みの解明を至上の価値とするノーベル賞の伝統からみれば当然だが、一方でイノベーションに光を当てる近年の受賞の潮流にも沿ったものだ。真理探究の成果が貧困問題の解決や地球環境への負荷低減など、人類共通の課題にどう貢献したか。公共財としての科学研究の価値を近年のノーベル賞は強く意識している。

 そして、イノベーションの成果は市場を通じて普及する。日本が「百に一つのリターン」という大きなインパクトを得るには、いたずらに競争を促すのではなく、現場を信頼し、豊かな好奇心の「苗床」を作る施策が求められる。」朝日新聞2019年10月28日、朝刊9面、オピニオン欄。

 朝日新聞を含め、優れた科学研究の成果を、国という単位で考える思考が、相変わらず支配的であることをぼくは疑うべきだと思う。日本人が優れた研究成果を出すことは、どこにいて研究をしたかとか、日本人であるかどうかとは今日ほとんど関係はない。そのことは、逆にある時代にもっとも知的に生産的な場所が、経済的政治的にも世界の中心であるような場所に資金も環境も集まるということであって、「昭和」末期の日本はそのような場所のひとつだったということだ。おそらく従来も、有能な知的創造力のある若者は、世界でどこにいけば自分の可能性を最大限に発揮できるかを考えて移動するだろうし、その成果がしっかり評価されるのもどこなのかを知って考えるだろう。

 でも、ノーベル賞の背後にある人類の進歩と知的革新という思想は、日本とか日本人とかいうコンセプトとは無関係だというのは、いうまでもない。問題は、日本という国がそういう人類に貢献する研究者を生み出す条件を、経済的衰弱によってかつての栄光を失いつつあるということであろう。でも、それがどうした?という視点もあっていい。

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ニッポン現代アートの旗手 8 鴻池 朋子さん  関係ないけどノーベル文学賞

2019-10-26 02:09:00 | 日記

A.クリスタルと昆虫

 ものすごく大きな画面に精密な青い色彩がめいっぱい踊っている。それをこの夏に見たのだけれど、小さく昆虫が飛んでいたのだ。描いた画家のなかに鮮明なイメージが湧いていたのだとしても、実際に大画面上に絵の具で具象化するには、大きな構想力と腕力が必要だと思う。1960年生まれというこの鴻池朋子さんは、いま58歳なのだろうけれど、この絵の質は日本画テイストなのは確かで、ぼくはその絵に10㎝まで近寄って、ふ~ん、なるほどと思った。高階秀爾先生のコメントは以下の通り。

 「[第1章] 背景はかすかに薄明かりの残る空に梢を連ねる樅の樹林、その林に囲まれた湖に突然巨大な氷の塊が出現する。中心部からは、鋭く尖った剣先のような無数の尖端が、重なり合いながら上へ、下へ、あらゆる方向に突き出ている。その透明な表面に大小さまざまの星形のきらめきが輝いているのを見れば、それは氷塊と言うよりも、水晶にも似たなにか神秘的な結晶体であるのかもしれない。

 さらに謎めいているのは、この無機質の冷たい塊のなかから、狼の尻尾のようなものが長くのび出ていることである。それは不気味な氷塊のなかに閉じこめられたけだものが何とかして逃れ出ようともがいているようでもあるし、逆にその生物はすでに氷塊の餌食となって、最後に残された尻尾が今まさに飲みこまれつつあるようにも見える。いやそれとも、無数の突起をもったこの異様な塊地震が、どこか異次元の空間からやって来た生命体で、長い触手をのばして地球の状態を探っているところなのだろうか。

 「第1章」という題名は、ここから何か新しい物語が始まることを告げている。だがそれがどのような物語であるのか、作品はそれ以上のことは何も語っていない。もともとこの作品は、作者自身「物語シリーズ」と呼ぶ四部作の一点として描かれた。しかし通常の物語の進行とは逆に、最初に描かれ、発表されたのは、「帰還―シリウスの曳航―」と題された最後の「第4章」である。ここでも、その題名が何か宇宙的な壮大な冒険が終わったことを示してはいるものの、それ以上のことは何も語られていない。それに続いて別々に発表された第3、第2の章の場合も、事情は同様である。そして「物語」の始まりであるはずのこの「第1章」とともに連作は終りとなる。つまり「物語シリーズ」は、ある決められた物語に基づいて制作されたものではない。それぞれ独立した作品として見ても鮮烈な衝撃力を持つこれらの四部作は、生まれかかった物語への予感を孕みながら見る者をさまざまな幻想世界へと誘い込む。物語はいつしかわれわれの心のなかで紡ぎ出されて行くのである。

 鴻池朋子の作品が、見る者を捕えて離さない不思議な魅力を備えているのは、物語を生み出させるその卓越した構想力の故であろう。その構想力が、思いがけない綺想と克明な細部描写の技術に支えられていることは、改めて言うまでもない。」高階秀爾『日本の現代アートをみる』講談社、2008.pp.051-055. 

 ここで物語と言われているものは、作者のなかですでに完結しているストーリーの、順逆入れ替えた一シーンなのか、それとももっと別次元のメッセージなのか。ポリティックスというものがアートのなかで意味を持つのは、作品がなにかのイデオロギーや主張の手段なのではなくて、作品自体が自律して存在し、それを観るものに否応なくひとつの明確なポリティクスを視覚で感知させるようなものだからだろう。

 「例えば、天才肌のアーティストがいて、一九世紀の巨匠みたいな感覚で、自分の世界観にもとづいて作品をつくっていたとします。そのひとの作るものはすべて偉大なアートとして評価されていく。では、その人は常に自分が社会とかかわろうという意識をもっているのか、それとも天才として政策だけに没頭しているのか、どちらかだったのか。自分の世界だけに入り込み、つくった結果がたまたますごかったので、人々や社会を巻き込んでいったのか。もともと社会的な意識をもち合わせながら創作しているのか。本当のところは、わからないケースが多いわけです。

 私は。両方ともイエスだと思います。ある人がいま世界で起こっていることに対して、政治的、社会的関心を持ち、自分の判断や責任に意識的だとすれば。

 ピカソの〈ゲルニカ〉は、ゲルニカというスペインの町が、独裁政権フランコを応援するナチスドイツによって爆撃されたと聞いたピカソが、たった一カ月で描いた絵です。それは世界史的に見て初めての都市への無差別爆撃であり、多くの非戦闘員が殺され町が壊滅した象徴的な事件でした。

 ピカソは、〈泣く女〉で知られるデフォルメしたキュービズムの手法で、ゲルニカの人々の苦しむ姿や馬を描きました。町の光景は何も描写されていませんが、そこには強い感情が表されている。みんながそれを見て、その町を思いだす。誰もが、あの絵を〈ゲルニカ〉だと思い、暴力に対する政治的なステートメントだと受け取るわけです。

 ピカソは、「私はこれを政治表明で描きました」などと、ひと言もいいません。彼がこの絵を描いたとき、彼の中には既に、当時のフランコ政権や戦争に対する批判的意識があったわけです。それがああいう形をとった。

 つまり、アートの中にあるポリティクスというのは、ここの部分がポリティクスですよとか、こういう政治的な主張をしていますと、とりあげて明示できるものばかりではないのです。

 日頃から社会状況に対して意識的な人が、モティーフとしてはただ女性のヌードだけ書いているとしても、作品にはおのずとポリティクスが滲み出てくる。アートにおけるポリティクスとは、そのようなものだと考えます。

 いま、画家の話をしましたが、いわゆるコンセプチュアル・アートとして、ヴィデオや写真、テキストを使って作品を制作している人がいるとしましょう。その人たちは、どうしても、自前の政治的な状況に対する意見表明とか、問題を告発するタイプの作品が多くなってしまいます。絵画は、距離のある比喩として機能しますが、ヴィデオやテキストは、主題の記号的な説明に近くなってしまうからです。

 それならばもう、それをアートとか考えず、ルポルタージュを書けばいい、記録としてのドキュメンタリーにすればいいとおっしゃる人もあるでしょうが、そう単純なことでもない。一つの出来事を映像として撮る場合でも、主観が入ったり物語性を帯びることで、全く違ったものになるからです。

 先ほど、世界の状況に対する一つの反応、態度表明としてのポリティクスについて述べました。アートについては、もう一つの文脈でポリティクスというものがあります。それは、アーティストとして生きていくうえで、自分の表現者としての立場を明確にしていくためのものです。アーティスト・ステートメントとしてのポリティクス、自分自身が表現している理由、アートの世界やシステムの中で、どういう立場をとるのかという表明です。」長谷川祐子『「なぜ?から始める現代アート』NHK出版新書、2011、pp.138-140.

 「ゲルニカ」はなにゆえに世界に知られているのか。ナチスやフランコという政治権力は、もうとっくに亡びている。だから政治的構図の中で、それがその当時の政治的意味、つまり無辜の市民に対する無差別爆撃の野蛮を告発し訴えるという意味は、一時的なものだ。むしろ「ゲルニカ」がいまも強烈なアートであり続けるとすれば、ピカソが世界に向き合って何をしたか、何ができたかを考えること、それがアート以外ではできないこと、にあるだろう。

B.水害とノーベル文学賞

 この秋の台風被害は、今までのぼくたちの常識を超えていた。2011年3月の東日本大震災を経験したとき、こんな大規模な激甚災害ははじめてだったが、こんなことはめったにないし、原発事故は人間が関与していたし、地震と地球温暖化は結びつかなかった。その後の熊本地震や岡山の水害などは記憶に残るが、それは一時的局部的なものではなく、このところの河川氾濫による甚大な被害は、どうやら気象の変動がもたらした可能性が大きい。これまで毎年台風は日本に来ていたが、その風水害は局地的なもので、こんなに広範囲に平地の多くの市街地を水に漬けたことはあまり記憶にない。電気が止まり新幹線も止まり、家屋や生活の再建にはかなり時間がかかる。自分に被害が及ばなければ、ぼくたちはすぐに何事もなかったように思ってしまうが、被災地の現実は深刻だ。

 「被災家族のために  (NPOカタリバ代表) 今村 久美

 台風19号による雨は川を氾濫させた。津波のような最大4.3㍍もの水が父の故郷、長野市の千曲川近郊を襲い、そこに住む方々の生活を奪った。一週間以上たった今も、町は土砂にまみれている。被災した方々は避難所や親族宅で避難生活をしている。終わりが見えない避難生活に、家族は表現しようもないストレスにさらされる。過去の被災地の現場で、みんな頑張っているからと、我慢を重ね、だれにもぶつけられない不安を抱えて家族の関係を壊していく様子を何度も目にした。

 災害が子どもたちの未来を奪うことはあってはいけない。私たちは、県内の行政や団体、個人、全国の子ども支援の経験者たちに呼びかけ、被災家庭の支援を目指し、子どもに居場所を提供する「コラボ・スクール」を先週土曜から、現地の小学校の体育館に開設した。

 保育士や元教員、キャンプリーダーの大学生など、約五十人を超える方からボランティアの希望をいただいた。また、近隣の方々は、子どもたちにおにぎりを握って届けれくれる。SNSで拡散するたびに、おむつや遊び道具が集まり、体育館が一気に楽しく、安全な遊び場に変身する。土日には八十人の子どもたちが利用した。

 これらすべては寄付で賄っている。少しでも応援していただける方は「カタリバ」で検索を。」東京新聞2019年10月24日夕刊、2面「紙つぶて」。

 こうした大規模災害に対して、国や政府は万全の対策支援をするべきではあるが、現実にできることは限られパーフェクトは不可能だ。電気が止まり、支援が来なくても5日くらいは自力で生き延びる備えと気構えは必要だと思う。ぼくは、個人的には山登りをやっていたので、電気も冷暖房もないアウトドアのサバイバル生活を一週間はできる自信があるけれど、子どもや病いの高齢者に対して、それを要求するのは過酷だと思う。そこで、一見全く無関係なノーベル文学賞のこと。

 「言葉とイメージ 関係を追求:ノーベル文学賞 ハントケの文業  縄田雄二

 異文化からヒント 俳句通して言語実験: 今年のノーベル文学賞は、1942年オーストリア生まれ、パリ近郊に住むペーター・ハントケに与えられる。日本では、ヴィム・ヴェンダース監督の映画「ベルリン・天使の詩」の台本作者として知られてきた。ヨーロッパでは、最重要のドイツ語作家のひとりとしての地位を得て久しい。

 ハントケは多くの小説と劇とを出版してきた。代表作はひとつにしぼれない。テーマはさまざまである。しかし、ことばとは何か、視覚イメージとは何か、両者は如何なる関係を結ぶか、という問いが、彼の文業の根底にあることは確かだ。これらの問いに答えようと、彼は異郷をさまよい、異文化からヒントを得ることがあった。彼は日本も訪れ、俳句とも向きあった。

 初期のハントケは言語実験をさまざまに試みた。1969年の詩集に収めた「1968年5月25日の日本のヒットパレード」と題した作もそうだ。シングル盤のヒット・ランキングが何かをアルファベットで転載しただけ。「9 Bara no Koibito/ Wild Ones/ 10 Sakariba Blues/ Mori Shin-ichi/…」と、ほとんどのドイツ語話者にはわけのわからない文字の並びに、ワイルド、ブルース、などと英語が点ぜられ、読む者は独特の言語体験をする。

 1988年、彼は日本を訪れ、東北地方へも赴いた。その様子は、出版された日記(「きのうの旅」)に記録されている。彼は日記で、俳句や書道は、視覚イメージの氾濫と、視覚イメージの破壊との間にあって、両者を超越しているのではないか、と考察する。俳句は季語と詠嘆(切れ字のこと)を伴う、と記した上で、その向こうを張り、「Morioka!」「Aomori!」と地名を詠嘆してみせる。これは、俳句を思いつつ北国をゆき日記をしたためる、ハントケ版「奥の細道」の旅であった。

 この旅は散文作品をも生んだ。青森から松島にかけて接した降雪の様子をくわしく描写した「日本で降る雪についてのいくつかの挿話」である(『あらためてツキジデスのために』所収)。ことばで視覚イメージを写し、読者に伝え、イメージを共有する原理をつきつめてみせた。

 「Morioka!」という極小の詠嘆から、詳細描写まで、ことばとイメージにつき、広い幅で考え、試みる努力は、2002年に刊行された大作「イメージの喪失」に流れ込んだ。ひとびとがことばや心のはたらきにより共有する豊かなイメージが、危機にさらされている。この考えを、ハントケは1980年代から育てた。それが近未来小説「イメージの喪失」として結実したのである。

 旧ユーゴ戦争犯罪国際法廷で戦犯として起訴され、2006年に獄死した元ユーゴスラビア連邦大統領ミロシェビッチ側にハントケが立ち非難された事実は、さまざまな視点から検証されるべきであろう。ことばと映像を視聴者のあたまに流し込むメディアの戦争報道が、ことばとイメージの本来のありかたを破壊している、との反発が、ハントケにあったことは確かである。

 言語と視覚像をめぐる彼の思考は、現実の戦争を相手としてもなお通用するものであったか。デジタル文書、デジタル画像の世にあって、時代遅れなのか、逆に輝くのか。ハントケを読み直すべきときであろう。(なわた・ゆうじ=中央大教授・近現代ドイツ文学)」東京新聞2019年10月24日夕刊、5面文化欄。

 ドイツ語と日本語はまったく異なった言語で、ドイツ語の作家であるハントケが日本語に感じた面白さは、たぶん日本語の中でも地名や人名のような固有名詞のアイウエオしかない母音の響きとアクセントの乏しさだろう。それはぼくがドイツ語を学習した時に感じた、ドイツ語独特の音響的「シュ」「ヒャ」「ハイツ」「アハッ」「ヴェー」「ヴァール」といった響きの吐かれる息の効果だった。英語には強弱アクセントと流れるような連続があるが、ゲルマンからきたドイツ語のような檄した音はない。映画「ベルリン天使の詩」を見たとき、それが戦後ドイツの現実をみる視点が、2つになっていること、一方はモノクロでリフレクシヴな観想の世界、もう一方はカラフルでリアルな日常の世界だと思った。ハントケはおそらく、この両者を作家の仕事として往復し、日々の眼に見える現実を語ることばと、ドイツ人が20世紀にやらかした歴史の痕跡について真剣に問い続けたことを、どうやって結びつけるかを課題にしたのではないかと想像する。ドイツ語という言葉は、そういう厳密なことをいやでも考えざるを得ない言語だと感じる。

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ニッポン現代アートの旗手 7 舟越 桂さん  恩赦って?

2019-10-23 01:23:28 | 日記

A.彫刻家の子は彫刻家で・・

 彫刻sculptureというのは、その作り方に2つあって、大理石や木材などを彫り刻んで造形する彫刻(カーヴィング)と、粘土などで成形した像を石膏などで型どりし、中を抜いてその型にブロンズ(青銅)を流して作る彫塑(モデリング)である。できあがりは似ていても、作り方が全然違うわけで、仏像でも木彫物と金属製塑像では印象も違う。美術品としての彫刻作品は、古くから制作され、西洋では石造建築の一部にもなっていたが、彫り刻む彫刻は、完全な複製は不可能だが、塑像の方は型を取ってあれば同じものができる。ルネサンス期のドナッテルロは、ダヴィデ像を大理石とブロンズの両方で作ったことで有名だが、ミケランジェロの彫刻作品はおもに大理石を彫り刻んでできている。そして、近代彫刻と言えばオーギュスト・ロダンF・A・R・Rodin(1840~1917)がまずあげられるわけだが、ドナッテルロとミケランジェロに刺戟されたロダンの作品は、ブロンズの塑像が多い。ブロンズ像である「考える人」が日本をはじめあちこちにあるのは、唯一の本物とあとは複製というわけではなく、どれもロダン作の本物だということになる。日本では美術学校に彫刻科が設けられて、ロダンを手本とした教育が行なわれてきた。

舟越 桂さんは、1951年5月盛岡市生まれということだからぼくより少し若い68歳。戦後日本の彫刻家として、佐藤忠良と並んで高名な舟越保武(1912~2002)の次男。弟の舟越直木も彫刻家という二世アーティスト。父・保武さんは、岩手県二戸出身で東京美術学校(現芸大美術学部)彫刻科を卒業。父が熱心なカトリック信者だったことから、1950年(桂さんの兄になる)長男が生まれてすぐ亡くなったことから受洗。作品にはカトリック信仰に関わるものが多い。彫刻家を志したきっかけでもある「ロダンの言葉」の訳者高村光太郎賞を受けた「長崎26殉教者記念像」は、今も記念碑として輝いている。

息子の桂さんも、小学3年生のころには父と同じように彫刻家になることを漠然と意識していた。学生時代(高校時代)はラグビーの練習に明け暮れていたが、美術予備校の夏期講習に参加したことで彫刻家になる意思を固めたという。浪人し東京造形大学彫刻科に入学したが、大学3年時には高校生時代のラグビー熱が再燃し、大学でラグビー部を立ち上げている。卒業して父が教授を務める東京芸大大学院の彫刻専攻に行き修了。文化庁の在外研究員となってロンドンに滞在後、1988年のヴェネチア・ビエンナーレに出品した作品が好評で、木彫の作品で名を知られるようになる。その作品は多くの美術館に展示されているほか、国際的現代美術展への出展も多い、という人である。「遠い手のスフィンクス」は、この夏ぼくも現物を生で見た。

 「遠い手のスフィンクス: 異様なまでに謎めいた衝迫力を持つ人間像である。だがそれは、われわれが通常の日常生活の中で出会う「人間」の仲間なのだろうか。深い思索活動を感じさせる寡黙な頭部と豊かな肉付けを見せる胸部とをつなぐ頸は、普通ではありえないほど太く、長い。頭の両わきから細帯のように肩まで垂れ下がっているのは、引き伸ばされた耳なのだろうが。右手は手首の先がなく、左腕は肩のつけ根のところからすっぽりと切り取られて、代わりに白い板ががっちりとネジ止めされている。そしてその上に、切断された手首が載る。現実にはあり得ない奇妙な存在と言うべきであろう。

 誇張、断片化、思いがけない組み合わせ、異質な素材の共存、これらは、幻想的なイメージを生み出すためにしばしば用いられる手法である。古代の神話や伝説に登場する怪物は、およそそのような遣り方で生まれて来た。だがこの作品は、異様ではあっても、未知の怪物というのではない。それは飽くまでも、人間存在の本質に繋がる統一体として、われわれの眼の前にあり、見る者を魅了する。

 もともと彫刻家として舟越桂は、ほとんどつねに人体を中心主題として来た。それはごく普通の半身像から、時には肩から腕が生えていたㇼ、ひとつの胴体にふたつの頭部が載るという異形の姿をも見せるが、いずれの場合も、人間としての確かな存在感を失っていない。

 その秘密を理解するためには、舟越の作品と切り離すことの出来ない題名の重要性に注目する必要があるであろう。彼にとって題名は単なる識別符号ではなく、彼自身の言葉によれば、「言葉によるバック、背景」であり、いわば音楽の世界で主旋律に添えられた「低音部」にあたるという。それは、詩人の鋭い直観が対象の本質を見事に捉えるように、作品の本質を言いあてる。事実、「言葉の降る森」、「言葉を聞く山」「水のソナタ」などの題名は、まさしく一片の詩句である。そのキーワードは、山、森、水などの自然、そして「言葉」である。人間は言葉によって自然を理解し、自己の存在を確認するというのは、古代神話の教えるところである。

 とすれば、スフィンクスという題名は、まことにふさわしいものと言えるだろう。行き交う旅人に謎を問いかけ、答えられないものを殺すというので人々に恐れられたこの人面獣身の怪物は、正しい答えが与えられた時、姿を消したという。その答は「人間」であった。」高階秀爾『日本の現代アートをみる』講談社、2008.pp.088-091. 

 彫刻の特徴としてもうひとつ、それはどこから眺めてもいいということがある。絵画はふつう正面から眺めることが前提になっている。立体作品である彫刻は、少なくとも周囲360度から眺めることができるから、後ろから見てもちゃんとできている必要がある。ただし、インスタレーションや環境空間作品は、その中に入って感じるようになっているが、彫刻は中にはふつう入れない(鎌倉大仏にたいに中に入れるものもあるが)。では、彫刻を見るとはどういうことか。

 「私たちにとって、そもそも「見る」ということはどういうことなのでしょうか。ただ目で見るのではなく、長く記憶に留まるとは。そういったことを多角的に考えていきたいと思います。

 「見る」と一口にいっても、視覚情報がどのように処理されるかということだけでも何段階もあります。まず、網膜に像が映るという光学的なレベルがあります。次に、その像から、見た対象が何であるかを判断する、認知の段階があります。これらは知覚というレベルです。

 知覚した情報はさらに、個々人の中に記憶として残っていく。この段階で、私たちは、対象に対する自分なりの理解をもとに、選別して記憶の中に落としていきます。もちろん、視野の端っこを横切っていったものをじつは覚えていたという、無意識的な記憶もあります。

 私たちは毎日、普通の生活を送っていますが、もう一つ、非日常の世界を内に抱えている。見えないものを見ようとしたり、記憶の中で何度もある光景を呼び出したりしようとする。こちらの世界とあちらの世界を行き来するときには、ひじょうに不安定な境界線、緩衝地帯を通過していきます。アートを「見る」というのは、そのあいまいな領域に位置する営みといえるかもしれません。

 例えば災害に見舞われたり、大きな不幸におそわれたとき、人の潜在的な想像力に加えて、アートによって養われた日常と非日常を行き交う感性の領域があれば、刻印された辛い記憶を変容させ、生のための資本として保存することができるかもしれないのです。

 「見る」という行為は、必ず「見られる」対象を伴います。

 ソフィ・カルはフランスの女性アーティストで、写真や映像を用いて、自伝的なストーリーや非日常的な設定をつくることで、他者との関係を模索しています。

〈影〉という作品では、母親に、探偵を雇い自分の日常生活を調査させるように頼みました。何時何分、「彼女」はどこのカフェから出てきたという具合に、探偵が書いた詳細なレポート、街角で盗み撮りされた彼女の後姿の写真、そして彼女自身の日記によって作品は構成されています。

 彼女は意地悪で、探偵がつけてきていることを知っていて、姿を隠したりします。その間、探偵は何も報告を書けません。彼女の日記との間にズレがあるわけですね。

 カルは、「私という存在の写真による証拠を与えてもらうために」この作品をつくったといっています。ここで見る/見られるということのほかにもう一つ、大切なコンセプトがあります。つまり通常「自分」は、自身で見ることができないということです。彼女の関心は客観的なルポでなく、外部との関わりを深めていく中で明らかにされる「自分自身」にあるのです。

 その手法は、トリッキーに見えます。こうした話を聞くと、ちょっと自分もやってみたいと思われる方もいるのではないでしょうか。事実、この作品と同じことは今日もっと違うメカニズムで可能になっています。携帯端末に自分たちがした行動の痕跡がすべて記録されるというライフログの技術はすでに実用化されています。彼氏の行動を自動的に追跡してログを取る「カレログ」が話題になったように、見る/見られることと、記録して報告する、記憶とアーカイヴすることへの希求は、誰にでもあります。」長谷川祐子『「なぜ?から始める現代アート』NHK出版新書、2011、pp.102-104.

 ソフィ・カルの作品については、今年1~3月にぼくは品川の原美術館で開かれた「限局性激痛」(1999年に一度同美術館で展示されたもののフルスケールでの再現)を見た。医学用語から転用したカルは、この言葉を自身の失恋体験になぞらえ、痛みとその治癒を写真と文章で作品化した。展覧会は二部構成のかたちで、第1部では、人生最悪の日までの出来事を、最愛の人への手紙や写真でつづる。第2部では自らの不幸話を他人に語り、代わりに相手のもっともつらい体験を聞くことで自身の心の傷を少しずつ癒やしていく過程が、写真と刺繍によってつづられていた。一種の私小説的記録で始まり、同時にそれを他者に投げ返すことで心の激痛を交換し交流させる。これが美術作品だろうか?などという前に、彼女が何を問題にしているかに興味を抱き、確かに一つの表現になっていた。

 舟越桂さんの「遠い手のスフィンクス」は、必ずしもそういう形のわかりやすさはないが、現代の彫刻の可能性を木彫という手触りで示している。

 

B.即位礼の日の記事

 天皇代替りの儀式、即位礼正殿の儀のため今日を祝日にした政府は、全国の警察官を動員して厳重警備に当らせ、メディアも一日奉祝宣伝に明け暮れたが、すべて平成代替わりの前例踏襲で執り行う、といってこの儀式の意味を自由に議論することに封印をかけてしまった。それでも、台風災害の被害を理由にパレードは延期になり、恩赦も前回よりは大幅に縮小されたという。

 「恩赦55万人に思う 鎌田慧

 本日、政府が行なう「恩赦」の対象者は五十五万人。1990年の恩赦の二百五十万から減ったが、まだ大盤振る舞いだ。

 対象者は道路交通法違反、過失運転致傷などで、罰金を払った人の復権が中心という。選挙違反など、公民権停止になった人たちも含まれ、選挙に強い政権党に有利な施策といえる。

 恩赦といえば、ロシアの作家ドストエフスキーが政治運動で逮捕されて処刑場に引き立てられ、銃殺される直前、法務官が皇帝の勅書を持って駆けつけた、恩赦の劇的場面がよく知られている。

 それから六十二年後、桂太郎内閣の時、幸徳秋水、管野須賀子など二十四人に天皇暗殺計画の大逆罪で死刑判決がだされた。が、明治天皇に拝謁した桂首相が特赦を内奏して、半数が無期懲役に減刑され処刑は十二人になった。とはいっても、死刑の罪証とは、若もの特有の「煙のような座談」(管野須賀子『死出の道艸』)にすぎなかった。

 恩赦は絶対的な権力者が行う「慈悲」の善政であり、国民主権の民主国家にはなじまない。

 たしかに憲法では、「天皇の国事に関する行為」(第7条)として定められているが、時代とともに内閣が行使を抑制すべき事項であろう。

 冤罪で処刑、獄死、いまなお無実を叫び続けている人たちがいる。が、この人たちでさえ、ほとんどは恩赦を要請してはいない。(ルポライター)」東京新聞2019年10月22日朝刊、23面本音のコラム。

 君主が慶事を理由に、臣下に恩恵を与え、罪人にまで慈悲を示すことで、ありがたさに随喜せよという恩赦は、もはや21世紀に存続する理由はないはずだ。「正殿の儀」で総理大臣が、正殿松の間にあがって「天皇陛下万歳」を三唱するというのも、果たして前例踏襲だからよろしいのだろうか。「天皇陛下万歳」は戦争で兵士が玉砕する際の決まり文句とされていたことは、もう知る人が少なくなっているのかもしれないが、素直に寿ぎの言葉として口にできない戦争体験者も多かったはずだ。素直にこれを祝わない者は反日非国民だといいかねない報道は、苦笑いではすまない。

 いまの日本で取り組むべき課題は、もっと別の人間性の頽廃ではないか。子どもへの暴力を「しつけ」などといって正当化する親を、社会としてどうコントロールするか、その虐待によって深く傷ついた子どもが、大人になっていったときに何が起こるか、想像力が必要だ。

 「たたかない育児 どうすれば 豊洲でシンポジウム しつけ名目の体罰問題を考える

 しつけ名目の体罰の問題を考えるシンポジウムが、江東区の豊洲シビックセンターであった。たたかない子育てが普及するフィンランドやスウェーデンの関係者らが登壇し、両国の子育て支援策や、日本の子育てを巡る状況について意見を交わした。

 北欧の施策紹介、親支援の訴えも

 深刻な虐待をした親が「しつけだった」と言うケースが相次ぎ、しつけ名目の体罰を明確に禁じる都の児童虐待防止条例が四月に施行された。来年四月には、同様に禁じる改正児童虐待防止法が施行される。

 シンポジウムでは、スウェーデン出身で企業研修などを行う柚井ウルリカさんは「叱ることは必要だが、どういう言葉を選ぶか見直す必要がある」と説明した。例えば、「バカだ」と叱ると、子どもは「どうせバカだから」となってしまうという。

 フィンランド大使館広報部の堀内都喜子さんは、妊娠期から切れ目なく親子を支える同国の施策「ネウボウ」を紹介した。助産師や保健師など専門家との定期的な面談で、親は子育ての知識を得て、ちょっとした悩みの相談もできる。「予防的支援で虐待の小さなリスクをつぶしていくことが大事」で、最近は指導よりじっくり話を聞く「傾聴」に力を入れているという。

 国連が開発した養育者支援プログラム「ポジティブ・ディシプリン」日本事務局統括の森郁子さんは「子育ては親が家庭の中だけでやることではない」と指導し、子育てが大変そうに見えない人も支援する必要性を訴えた。

 シンポジウムには、歌手で女優の土屋アンナさんも保護者代表として登壇した。四人を子育て中の土屋さんは、子どもがウソをついても、たたくのではなく言葉で伝え、自分でやってみせることが必要だと話した。

 シンポジウムは、子育て支援団体「ママリングス」と区などが主催するイベント「こうとう子育てメッセ2019」の一部として十四日に行われた。十一月四日には、江東区男女共同参画推進センター パルシティ(扇橋三)で里親出前講座が開かれる。」東京新聞2019年10月22日朝刊18面地域情報欄。

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ニッポン現代アートの旗手 6 彦坂 敏昭さん カフカの現代日本

2019-10-20 00:48:02 | 日記

A.写真からの創造

 昔の画家というのは、野外に出て風景を写生したり、室内でモデルを置いてデッサンしたりするものだというイメージがあった。たぶん、19世紀のヨーロッパで印象派の画家たちが、そうやって絵を描いていたことに倣わねばならないと思ったのだろう。今でも美大受験予備校では、石膏像やモデルを写生することが画家を目指す上での基礎的な訓練として行われているようだ。しかし、はっきり言ってもうそんな必要はほとんどない。写真というものが発明されて目に見えている光景を、形や色で記録することは画家の仕事ではなくなり、さらに写真技術の進歩は、誰でも簡単に画像撮影ができるようになり、いまやいつでもどこでもスマホで一瞬にして精細な画像を撮影し、即座に保存したり削除したりできるだけでなく、コンピュータで画像処理することもできる。

 そういうテクノロジーを、アートとしてどう使いこなすか、すでに20世紀の後半、アメリカのポップ・アートは、絵筆や絵の具で何かを描くのではなく、雑誌やポスターなどに使われた画像を手作業で加工して、絵画の歴史を塗り替えていた。21世紀の美術は、コンピュータでその先に何を創り出すことができるのかを競う方向と、相変わらず過去の伝統にとどまりつつそれを焼き直したりパロディとして提示することで、生き延びる方向とに分かれているように思う。

 彦坂敏昭さんという人のやっているのは、どうやら写真をどこまで操作し加工して新しい表現にまでもっていくか、ということを追及しているらしい。高階秀爾先生の解説はこうなっている。

 「「像画(背景に落ちていく)」人間の内臓の一部を電子顕微鏡で映し出した写真を見たことがある。薄赤い斑ら模様が画面いっぱいにぼんやりと拡がるなかに、一ヵ所だけ、周囲の色が集まって凝固したような濃く赤い塊がある。それはまるで、赤い海に浮かぶ島と言ってもよいようなイメージである。だが「島のよう」に見えるのは、実はこちらがそう見定めたからである。実際にはそこに塊があるのかどうかはわからない。見方によっては、むしろ逆に、何もない穴のようにも見える。単なる二次元の茫漠とした拡がりのなかに、「島」や「穴」を見出すのは、人間の眼の作用である。ある部分を周囲から区別してひとつのまとまりとして捉えること、すなわち「象(かたど)る」ことによって「形象」(かたち)が生まれ、「対象」(もの)が存在を獲得する。

 ドラクロワは、「自然のなかに線は存在しない」と語った。山や川、草や木は存在しても、その姿を表わす線は、実体としてはどこにもないというのである。だが山や花の存在がそれと認められるためには、その姿を周囲から区別するいわば境界線が必要となる。画家は線描デッサンによってその存在を表現する。輪郭線を用いないドラクロワの作品においても、花をそれと識別できるのは、境界線が想定されているからにほかならない。そのようなかたちの組合せによって、絵画は成立する。

 彦坂敏昭の作品は、きわめて独創的な手法によって絵画成立の過程を解体し、新たな造形表現を目指す挑戦的な試みである。出発点は写真、この「象画」シリーズの場合は人間の顔の肖像写真である。そのイメージをコンピュータに取り込んで、まるで皮や肉を削ぎ落とすように処理し、加工して。複雑にうねる線のかたちに還元する。それを版画で紙に転写し、次いでペンや鉛筆で線をなぞり、さまざまな色彩を加えて、色分けした地形図のような世界を生み出す。しかもその画面をさらに三分割し、各部分を離して展示するという方式としたため、完成作は当初のイメージからはるかに遠く隔たったものとなった。しかしよく見れば、眼や鼻のかたちをおぼろげに残し、全体を黒地の背景に閉じ込めて顔を想起させる図柄とする配慮も失われてはいない。見る者は迷宮の中に迷い込んだような戸惑いと、未知の多彩な形象世界に出会う一種の高揚感とを覚えずにはいられない。その新鮮な衝撃力こそが、彦坂敏昭の優れた特性であろう。」高階秀爾『ニッポン現代アート』講談社、2013、p.070.

 「かたち」と「色」、そして「光」が絵画の基本要素だとすると、ルネサンス以来の西洋絵画は、近代科学の開発した光学的視線や数量的な分析手法を採り入れることで、つねにそれまでにない新しい表現を更新し改変して進んできたともいえる。科学の解明したことを応用してテクノロジーを発達させた動きをアートとの関係で考えるのは、なかば必然的な動きだとすると、現代アート作品に関する次の考察も興味を惹かれる点がある。

 「アートとはいったい何なのかを知ろうとするとき、最も遠くに見えるもの――科学と比較して見るのは効果的かもしれません。アートと科学は、同じゴールである「真理」にたどり着こうとして、まったく別の道を歩き始めた二卵性双生児のようなものです。

 そしてこの二つはしばしば交差します。情報を介して、人を介して、そして想像力の飛距離を介して。

 ジェームズ・タレルの作品は直島の地中美術館や、金沢の21世紀美術館、新潟の「光の館」など各地にあるので、実際に彼の作品をご覧になった方も多いと思います。ライフワークとしては、アリゾナの砂漠で《ローデン・クレーター》と呼ばれる、火山の噴火口を舞台にした壮大な作品の制作を継続しています。これは、クレーター内にトンネルでつないだ部屋をつくり、針(ピンホール)穴写真機(カメラ)の原理で室内に天体の像を映し出し、月の表面や宇宙の光と間近に出会える空間をつくるというもの。なんとも奇想天外で、壮大なアイデアの持主です。

 タレルは、私が知っている中でも、もっともきちんとした科学者としてのバックグラウンドをもったアーティストです。彼は最初、知覚心理学、数学、航空宇宙学などを専攻しました。軽飛行機を操縦していたときに感じた、光に包まれる体験が、彼にそれまでとは違う世界のかかわり方に向かわせます。

 「アーティストとは、答えを示すのではなく、問いを発する人である」という彼の言葉は、アートと科学の違いをわかりやすい形で示しています。

 科学とは、世界の真理や構造を追求していくものです。もちろん宗教、哲学、アートも世界がどうなっているか探求しているわけですが、科学の目的は私たちの身体の構造も含めて、世界で起こっているさまざまな事象に共通する一つの答えを探求していくことにあります。一万回、同じ実験をして、一万回、同じ結果でなくてはいけない。それが科学です。

 一方、アートの場合、同じ一つの作品を一万人の人が見たら、一万人それぞれが異なった答えを出す。複数の作家が同じモデルを見て制作した絵にも、一つとして同じものはないのです。

 多様性を前提とするというアートと、解が一つでなくてはならない科学には大きな相違があります。しかし、一つの大きな共通性があります。それは、未知なものに向い、新しいものを作り出すという創造性です。科学は新しい心理を発見し、新しい世界の構造を解明する。アートも、いままでなかったものを出現させていく。

 その為かどうか、私は科学者やアーティストとつき合っていると、似たものを感じることがあります。どちらも自分勝手、よくいえばマイペースです。数学者は時間を守りますが、アーティストは時間を守らないし、科学者はそもそも時間を忘れます。」長谷川祐子『「なぜ?から始める現代アート』NHK出版新書、2011、pp.82-84.

B.池内紀さん追悼

 池内紀さんのことは、NHKのFMで毎週日曜に放送していた番組に、しばしば登場されていたのを聴いていたくらいで、その著作はぼくはカフカの翻訳のいくつかを読んだだけでしかなかった。放送のなかでドイツ文学に触れたことはほとんどなかったが、その控えめな発言はなんだか魅力的に感じていた。

 「節を曲げず 創造続ける人に光  池内紀さんの仕事 評論家・作家 松山巖

8月末に没した池内紀さんの仕事をふり返ると、ドイツ文学者として翻訳ばかりか、特にナチス問題を繰り返して検証し、さらに人生を自身の身の丈に合わせて生きる大事さを語り続けたと、今は強く感じる。

 まずは翻訳。東大教授を辞してまで完訳したカフカ全集から選べば、『変身』を挙げたい。1912年に書かれた奇妙な物語だ。主人公ザムザが朝、目を覚ますと、自分がゴキブリのような虫に変わっているのに気づく。彼は家族のために日々働いているのだが、虫に変わると部屋から出られず、やがて腐った残飯を好んで食べ、逆に家族は生き生きと暮らし始めるのだ……。

 池内は本編を今や日本ではありふれているのでは、と解説する。例えば「ある日、息子が勤めをやめて、部屋に閉じこもる。あるいは、いつまでも仕事に就かずノラクラしている。一家の働き手が職を失い、のべつ家にいる場合はどうか。あるいは老いた父親が認知症と診断された」事態そのままではないかと。要するに『変身』は今こそ現実味を持つと指摘する。

カフカの小説は、実は彼の存命中はさほど知られなかった。読まれはじめたのは、彼の小説『審判』そのままにユダヤ人が突然、逮捕される事態が現実に起きた時期と重なる。つまりナチスが権力を握った時期だ。

 池内はナチスについても丹念に調べた。「戦う文豪とナチス・ドイツ」は副題に「トーマス・マンの亡命日記」とある通りマンの日記を読解しつつ、彼がナチスといかに闘ったかを綴っている。ノーベル文学賞を受けたマンの存在はナチスにとり、煙たかったはずで、マンが講演で出国したのを機にナチスは彼の母国への入国を禁じた。以来マンはアメリカに暮らし、ナチス批判を講演や新聞などで発表し続けた。この本に池内の独自性を感じるのは、マンとは異なる立場でナチスと戦った文学者たちの動きも描いた点だ。ツヴァイクはブラジルに亡命し妻と自殺した。劇作家のブレヒトはマンとアメリカで会っているが、、互いに無視した。つまり池内はナチスがなぜ、大衆に熱狂的に支持されたのか、その本質をナチスに反旗を翻した文学者たちの動きを通して見つめ、文学者の在り方を多角的に問いかけたのだ。ならば当然、日本はどんな状況だったか、抵抗する文学者はいたか、という新たな問いが生まれるだろう。

 日本の戦時下の姿は、池内自身が自費出版した一冊が的確に示している。現在は品切れの長尾吾一著『戦争と栄養』(西田書店)。この本の巻末に池内は、出版した経緯を説明し、著者の長尾は池内の母方の叔父で、軍医であったと紹介している。本書で長尾は戦時に亡くなった多くの兵士が戦死ではなく、食糧不足による栄養失調で没した事実を自身が調べたデータを根拠に詳述している。日本では文学者が抵抗する以前に、兵士の食糧さえ不足していたのだ。

 だからこそ池内は、戦時中も自身の節を曲げなかった『恩地孝四郎  一つの伝記』を書き上げたのではないか。恩地を知る人は今や少ないだろう。装丁家として知られているが、彼が大正から昭和初期、油絵や版画、そして詩の世界に新しい波を起こしたグループの中心人物だった事実を池内は詳細に調べた。

 実は恩地の他にも、彼は忘れられた人物をよく綴った。旅行好きの彼は旅先の古書店で見つけた本を資料に、忘れられた人物たちに光を当てた。綴った本のタイトルになぞらえれば、〈二列目の人生〉を生きた人々だ。偉くなったつもりで一列目に並ぶより二列目で自分の世界を見つけ、創造する楽しさ面白さを、池内さんは自分自身の仕事で最後まで語り続けたのだ。」朝日新聞2019年10月19日朝刊17面読書欄。

 自分より年長の尊敬すべき人が、次々と世を去って行く。そして、ぼくより若い才能ある人もあの世に行ってしまうことが目立つ。ぼくは、明日、古来まれなる七十歳を迎える。もう、いつあの世に逝っても不思議でない齢を重ねている。でも、人間の寿命は自分ではどうしようもなく、自分の肉体もコントロールしているつもりでも明日はどうなるかわからない。それはたぶん、60代でも、50代でも、わからないのだが、せめて生きている間に何をしたか、誰かの糧になるような仕事をしたのか、それも結局自分ではよくわからない。そういうものだと、言ってみるが、とりあえず健康で何かができる力があるからこそなのは、言うまでもない、のだな。

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ニッポン現代美術の旗手 5 やなぎ みわ さん ITの未来

2019-10-17 01:32:27 | 日記

A.絵画+演劇+写真を創作する

 絵画という概念はもうたいして意味のないものになっているかもしれない。絵画が人や事件や風景の記録を主とした時代は、19世紀半ばまでに終わり、写真という発明はある場面、一瞬の光景を化学と光学反応でフィルムに定着してしまう。画家が見たままを絵具で時間をかけて絵にする必要はなくなった。写真の技術はどんどん進歩し、絵画や絵画以上のアートにまで成長した。しかし、写真は再び絵画のやろうとしていたことに近づいているのかもしれない。つまり視覚的表現がどのような手段を使ってなされようとも、そこに作家の表現したいものが実現していればそれはアート作品なのだということになる。しかも、それは写真ではあるが、たんなるプリントされた写真ではなく、周到に準備されひとつのコンセプトを印象づけるように創作された画像なのだ。それはほとんど演劇的と言ってもいい。やなぎみわさんの「エレベーターガール」シリーズを見たとき、ぼくはそれが意図していることを読み取ろうとして、5分間かかった。

 「宇宙船の内部を思わせるような清潔で無機的な近代的ビルの一室、その閉ざされた空間のなかで、制服姿の案内嬢たちが集まって下の方を眺めている。休憩中のひと時ででもあるのだろうか、それぞれにくつろいだ様子ながら皆一様に下の階に注意を集中している姿は、何か意味ありげに見える。われわれはその彼女たちの姿を、別の世界からいわば覗き見しているという感じで、きっちりとした制服の明るい紫と胸許の純白のネッカチーフ、白手袋に見られる爽やかな色彩配合と巧みな人物構成は、よく計算された上質な舞台の一場面を切り取ったような印象を与える。

 事実、やなぎみわは、卓越した造形感覚の持主であると同時に、また優れた演出家でもある。デパートの案内嬢を主題としたこれら一連の「エレベーターガール」シリーズの制作に先立って、やなぎは、実際のモデルを使ったパフォーマンスを二度ほど試みている。

 最初の時は、画廊の壁に本物そっくりのエレベーターの扉口をしつらえ、その前に二人の案内嬢を配置するという構成だったという。案内嬢と言っても、実際に何かをするわけではなく、ただ黙って椅子に座っているだけだったから、パフォーマンスというよりも人間を素材としたインスタレーションと言うべきかもしれない。

 次いで、やなぎみわは、この人間インスタレーションをカメラのレンズを通して定着するという大きな飛躍を見せた。それと同時に、コンピューター・グラフィックを駆使してガラス張りの壮麗な回廊や空中歩廊、エスカレーターなどが交差する舞台も整えられた。このようにして、さまざまなヴァリエーションを見せる冷たく華麗な「エレベーターガール」のシリーズが生まれて来たのである。

 現代の高度消費社会の象徴であるかのようなこれらの案内嬢たちは、同じような制服姿で、まるで人形のように見える。しかし彼女たち一人一人がそれぞれ独自の個性をもった存在であり、その胸のうちには他人のうかがい知ることのできないさまざまな思い、希望や情念が秘められていることを、やなぎはよく知っていた。それが次の「My Grandmothers」のシリーズへとつながって行くのである。

 優れた造形感覚とともに、社会に対する冷静なまなざしと人間性への鋭い洞察を備えたこの作家の活躍からは、当分眼を離すことができない。」高階秀爾『日本の現代アートをみる』講談社、2008.pp.032-035.

 高階秀爾先生のコメントはおおいに参考になるのだが、もうひとつ現代美術の現場にいるキュレーター、長谷川祐子さんの『「なぜ?」から始める現代アート』からも引用する。これは美術館という現場がもつ特権的な空間の意味を「ホワイトキューブ」という言葉でまずおさえ、そこに作品を並べて観客が順番に見ていくという「お約束」が成立している20世紀の常識があり、それがもう硬直した構造になっているかもしれないという問題意識につながっていく。

 「みなさんは、アートと出会う場所として、どこを思い浮かべますか?

 まずは美術館でしょうか。受付でチケットを買って、白い壁に囲まれた、天井の高い展示室に入り、日常とは切り離された空間でアートを鑑賞する。それは現実社会のしがらみやタイムスケジュールから解放される、豊かで自由なひとときです。

 なぜ、多くの美術館の展示室は、そろいもそろってこんなに真っ白なのでしょう。

 アートを展示する白くてニュートラルな空間は、「ホワイトキューブ」と呼ばれています。1929年に開館したMoMA(ニューヨーク近代美術館)から始まり、その後世界中の美術館に広がっていきました。

 ただの白い空間なら、西欧のお城にも、修道院にもあるではないかと思われるかもしれません。しかし、そうした伝統的な建築ではなく、四角くて真っ白でニュートラルな空間が、「モダンアートを見せるための空間」としてつくられたということです。

 初めてホワイトキューブの空間に入った、あるイギリス人の言葉は印象的です。「月面に来たようだ」。それまでヴィクトリア朝風の、装飾的な室内空間しか知らなかった人にとっては、何もない真っ白な空間というのは、まるで別の惑星に降り立ったような、それまでの空間認識がリセットされるような体験だったということです。

 先ほど私は、「アート」ではなく、「モダンアート」を見せる場所としてホワイトキューブはつくられたといいました。

 ここで少し、モダンアートとは何かという、私なりの定義をしておきましょう。一般的にいうモダニズム(近代主義)とは、「新しさ」に価値を見出し、革新的に前に進むという概念のことです。では、モダンアート、つまり芸術におけるモダニズムとは何か。文脈によっていろいろな定義があるのですが、基本的には、アーティストが宗教や国家から離れ、個人として、自意識をもって作品をつくり始めたということです。

 そうなると、オリジナリティへのこだわりや価値づけが生まれます。ユニークであるということ、今までになかったものを自分がつくり出すという「新しさ」の生産が、モダンアートと、それ以前の宗教画や肖像画との違いであるということになります。

 教会や君主の館での展示は、その場の歴史―文脈に強く結びついていました。真っ白でニュートラルなホワイトキューブはこれらの政治的、社会的、思想的な場の関係と作品の関係を切断して、作品に自律性を与えるものでした。

 例えば、いままで部屋の壁紙や装飾にあわせてつけられていた過剰なデザインの額縁が取り払われ、壁一杯に縦横展示してあった絵が、横一線に並べられるようになったのはホワイトキューブの登場以降です。

 それは絵と自分の一対一の集中した関係をもつにはとてもよい環境でした。目に全ての感覚と思考を集中させる、有効な方法だったのです。作品は、時代順、「進化」の順に並べられました。いわゆるおなじみの美術館の展示です。白い空間は現実から切り離され、アタマの中が整理されて、とても集中できます。しかし、その集中は長い時間もたないということに、皆さん気づいていると思います。人工的で、ある種の緊張感を強いられる空間だからです。その後の美術館の歴史は、ホワイトキューブをどうカスタマイズしていくかの歴史でもありました。

 いずれにしても「個人の創造神話」、「オリジナリティ」、「誰もが価値をみとめるモダンアート」は、ホワイトキューブでせっせとつくられたのです。

 どんなことにでもよい面と悪い面があります。モダニズムは、社会思想においてもアートにおいても革新的な価値を生み出す一方で、普遍性を求めるあまりにそれ以前のものを切り捨ててしまう、という危うさも秘めています。例えば、儀礼や慣習などといった伝統的なもの、手工芸や踊りなど地元の香りの濃厚なヴァナキュラーなものの豊穣な世界観が失われていく問題を内在させていました。

 白いニュートラルな空間でモダンアートを見せられているうちに、それに対抗するように、サイト・スペシフィック(場所特有)なアートが現れてきました。1960~70年代にかけてのことです。ある一定の場所でのみ成立するアート、現場主義的なアートといってもいいでしょう。

 映画を撮るとき、いわゆるロケハンをして、撮影場所を決めますね。それと同じような感じです。普通の民家であったり、商業施設であったり、ほかのことに使われている場所で展示をするということが行われるようになります。ホワイトキューブから、もう一度、具体的な場所に戻っていく動きがあったわけです。

 特定の場所、環境は、体験や記憶と不可分です。」長谷川祐子『「なぜ?から始める現代アート』NHK出版新書、2011、pp.58-61.

 長谷川さんの問題提起は、ぼくにもわからないことはない。しかし、この本の述べる科学論と芸術論や、モダニズム批判から東洋回帰に傾く言説は、社会科学者として生きてきたぼくには正直なところ素直に受け入れる気にならない。もし現代美術アートの向かっている場所が、一方でIT先端テクノロジーへの安易な同調、他方で自然や身体を介した反知性的な精神論に行くとしたら、それは21世紀のアーティストを愚かな観念論に転落させる怖れがあると思う。だが、これについてはもう少し考えてみたい。

 

B.AI万能論の危険

 近年さかんに論じられるAIとビッグデータの可能性について、よく知りもしないでそこに何でも解決してくれるバラ色の未来を期待する言説や、逆にこの技術の浸透によって、人間が奴隷のように管理される悪夢を想像する言説も、20世紀の終わりごろに喧しかった、コンピュータが新たな権力の道具として人間を支配するという単純な世界像を焼き直しているように思える。問題は、これが民主主義という19世紀以来、人類が重要な価値としてきた社会システムのあり方を突き崩してしまうかもしれない、ということだ。

 「AIの民主化 いまこそ 「富の再配分すら不要な時代」に懸念 政治家に恩恵 米社会を管理する道具 生き抜くため リテラシー身につけて :朝日地球会議2019 

 AIと民主主義 :人工知能(AI)は、気候変動などの問題を解決できる技術革新の可能性を秘める一方、失業や教育格差、情報統制など民主主義の土台を揺るがす課題も投げかける。民主主義にとってAIを有意義なものとするには、何が必要なのか。西村陽一・朝日新聞社常務取締役をコーディネーターに日米の著名な研究者が意見を交わした。

 政治学者でジョンズ・ホプキンズ大准教授のヤシャ・モングさんは、米国のトランプ大統領やブラジルのボルソナーロ大統領、インドのモディ首相らを挙げ、「『私』だけが真の国民の代表であり、違う意見や価値観を持っていれば『悪い人』『危険な人物』と考える危険な勢力だ」とポピュリストを定義した。こうした政治の指導者が、司法など権力を制約するための民主主義的な制度、組織を攻撃することで、「個人の自由など、守るべき中核的な価値をおろそかにしている」と指摘した。

 データサイエンティストで数学者のキャシー・オニールさんは、広く活用されているAIのアルゴリズム(計算方式)について、「一般市民に関する重要な決定を下しているのに過ちがあり、アクセスもできない」と問題点を指摘した。

 オニールさんによると、米アマゾンは従業員の採用にAIを使おうとしたが、自社のテストで無意識に男性を評価するアルゴリズムになっていることが分かったという。「アルゴリズムは事実に基づくものではなく、数学に組み込まれた主観や意見。アルゴリズムを信じないでほしい」

 国立情報学研究所社会共有知研究センター長・教授の新井紀子さんは、「GAFA」に代表される少数のIT企業が、利益を独占する「デジタライゼーション」のあり方について問題提起した。「持続可能なシステムとは思えない。(貧しさに取り残された側の)怒りがポピュリズムを呼ぶ。法、経済、倫理の観点から考えていく必要がある」と話した。

 貧富の差の拡大とポピュリズムの関係も取り上げた。オニールさんは過去に、ネットで高額の買い物をする利用者だけに多様な選択肢を示すようアルゴリズムを設定する仕事をしていたと明かした。ネットの利用頻度が低い人や貧しい人には選択肢が示されないこうしたシステムが「不平等をつくっている」と批判。貧富の差の拡大がポピュリズムに結びつく社会の到来について、「回避できないとは思わない。だが、アルゴリズムは説明責任を果たすべきだ」として、今のシステムを規制する法整備の必要性を提案した。

 「エリートは何かしら見返りがあったから、民主主義を受け入れてきた。AIはその図式を覆そうとしているのか、注目しなければいけない」。モンクさんは、AIが労働者に取って代わることで、エリート層が中間層を必要としなくなり、富の再配分や市民の教育すら不要とされる社会が来る可能性を懸念した。

 デジタル技術を社会の統制や経済成長に利用する中国の動きについても話が及んだ。オニールさんは「中国の社会信用スコアなどは監視の技術も含まれ、大変な恐怖を覚える」と強調。一方で「AIが、米国でも社会を管理するツールになっている。政治家は自分たちが恩恵を受けるので、政治的に触れられない問題になっている」と指摘した。

 新井さんはAIを社会の管理に使うことについて「中国が特異なわけではなく、シリコンバレーがやろうとしていることが、そういうことだった。GAFAが傲慢にも正しく使えると思っているのが問題だ」と話した。

 会場からは「私たち市民には何ができるのか」という問いが寄せられた。新井さんは「数字を見せられたら、『そうかな』と思うことはやめる。この知識基盤社会を生き抜くために、数学におびえないリテラシーが必要だ。私が最も力を入れて取り組んでいるのは、子どもたちにそのリテラシーを身につけさせることだ」と話した。オニールさんは「数学を理解していなくても、体制に異議を申し立てることはできる。体制に疑問を持ち、われわれの権利を行使する必要がある」と強調。モンクさんは「権利を主張するだけでなく、税逃れを防ぐ課税法の改正など変化も求めていく。せっかく手にしているこの民主主義をどうしたら守れるのかについても、考える必要がある」と述べた。

 コーディネーターを務めた西村常務は「AIは使い方によっては大きなチャンスをもたらすといえる。ただ、アルゴリズムやビッグデータをめぐる課題はあまりにも多い」と総括。「今回、『AIと民主主義』というタイトルをつけたが、私たちが今考えるべきは、AIとデータの民主化なのかもしれない」と語った。」朝日新聞2019年10月16日朝刊22面。

 ものすごく頭が良くて、しかも世界を隅々まで了解し、もっとも無駄なく効率的に社会をマネジメントできると信じるエリートがいるとして、その人がITとビッグデータを自在に駆使して、世界を思うように動かしたとしたら、ぼくたち一般人民大衆は、幸福な人生を送れるのだろうか?仮にそれで経済的、軍事的、政治的な安定秩序が保たれていたとしても、ぼくたちは自分の生きている時代と社会に主体的に関わって、他人が決めたアルゴリズム、つまり誰かが決めた考え方やあるべき姿に自分が押し込められることの不自由を我慢することができるだろうか。エリートがどんなに頭が良くても、それはしょせん人間という限界のある存在に過ぎない。そこに意義申し立てすることを、社会システムは保証することが民主主義という価値だと思う。

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