A.第二の文人派――若冲・応挙・文晁
江戸時代も前半の18世紀はじめ、元禄時代までは文化の中心は京大阪の上方にあった。なんといっても、上方は長い都の歴史があり、朝廷に加えて商都の経済力に支えられた文化の厚みがあった。しかし、18世紀も終わりに近づくと、江戸の人口もそこで暮らす全国の大名や武士の生活を支える力を蓄え、上方を上回る都市文化を成立させる。また上方で修行し絵師となった人も、新たな機会を求めて江戸にやってくるようになり、逆に関東の絵師も上方や各地を回って、その腕を鍛えるような人も出てくる。経済の発展は人とモノの流通を盛んにし、文化も豊かにする。そのような時代に第二の文人派と、ここで田中英道氏が呼ぶ一連の絵師が登場する。ここでは、若冲、応挙、文晁について注目してみたい。
「江戸中期から後期にかけて、これまで述べた流派の枠におさまりきれない画家たちが多くあらわれた。ひとつは「奇想の画家」と言われる伊藤若冲、曾我蕭白ら、「写生」画派といわれる円山応挙、長沢蘆雪、呉春ら、そして「洋風画」派といわれる司馬江漢、亜欧堂田善らなど、それ以外でも岡田米山人、谷文晁、渡辺崋山らの次の世代の「南画」派がいる。無論さらに「浮世絵」派がいるが、これだけは版画ということもあって別個に論じられる。これほど多様になって来ると、一方の派が強調されると他方が無視されるといった具合で、なかなか包括的に論じられて来なかった。
しかしこれらの画家の作品を見ていくと、大きくふたつに分けられるということに気付いた。というのも、十八世紀中頃からオランダからの西洋画が日本に導入され、それから影響を与えられたものと、それを無視する者とに分かれるからである。この遠近法、陰影法を含む立体的に描く画法は空間把握の方法として、これまでの日本の伝統を大きく変えるものであった。その画法をひとたび取り入れると、たとえ伝統画法に帰っても、別の空間表現にならざるをえない。一方それを無視して伝統的な世界の中で中国からの山水画に飽き足らない知性的な画家たちがあらわれる。見たことのない山水よりも花鳥表現に新たな境地を開くもの、また人物画を別の観点から描きだすもの、シュール・レアリスム的な幻想世界をつくり出すものがあらわれる。前者には円山応挙、司馬江漢、亜欧堂田善、谷文晁、渡辺崋山がおり、後者には伊藤若冲、曾我蕭白、岡田米山人、呉春らがいる。これら二つの流れは「浮世絵」の世界と関連しながら「ジャポニスム」の豊かな世界が世界の一端を担うことになるのである。それぞれの画家がなぜ両派のいずれかに属するか説明しながら述べてみよう。
「文人」とは、まず職業画家ではない知識人であり、その描くものが「南画」と限定すれば山水画をもっぱらとする画家ということになろうが、「第二の文人」派はさらに範囲を拡げ、狩野派以外の自由な立場におり、かつ中国画に精通し、南画に限らぬ孤高の画家たちということになる。
伊藤若冲(1716-18001)は京都錦小路の青物問屋の長男として生まれた。名は汝鈞、字は景和といい、若冲という名は彼が帰依した相国寺の大典禅師から与えられた居士号である。若い頃から絵画のほかに何の興味も持たなかったという。また、家が裕福であったため絵を売る必要もなかった。若冲の画風を考える上で常に引かれるのは、墓碑銘として書かれた大典禅師の言葉である。若冲は最初狩野派を学んだ。しかしある日自問し、これは狩野の画法であり、それを越えることは出来ない。次に宋元画を学び模写をしたが、彼らと競ったところで優劣は明らかである。それで自ら物に即して描くことにした。しかし雲の上を飛ぶ麒麟や、中国の故事人物などは見られるわけではないし、山水にしたところで名山が身近にあるわけではない。それで動植物を相手にせざるをえなかった。ただ孔雀や鸚鵡はいつでも見るわけにはいかないが、鶏は馴染み深いものであるからこれからはじめ、その後対象を植物や昆虫、魚にまで広げた、というものである。
この言葉は日本人である画家の立場を自覚したものであろう。彼が日本の事物を対象に描くという態度は頷けるものの、実際にそうした写実的態度に徹することが出来たのであろうか。鶏や植物、昆虫、魚まで広げたというが、実際は若冲画には鳳凰や孔雀、鶴に至るまで非日常的な動物が多いのである。同じ鶏の描写でも、円山応挙のそれと異なり、ある幻想的な色合いが強いのは、彼自身、そのような写生でも飽き足らなかったということなのだ。つまりそれは中国の花鳥画の伝統を意識した、別の意味での中国派であり、家の職業を捨てて絵画の世界に惑溺する態度そのものは、大きな意味で文人派なのである。
彼の画歴は三十五歳頃から始まったと考えられているが、『雪中雄鶏図』(京都国立博物館寄託)は樹木の上の雪が白く抽象化され、動物の写実性と植物の幻想性の世界である、という印象を与えるのである。制作年の明らかな『松樹番鶏図』(1752年〈宝暦二年〉)も松の葉が上だけでなく、下にも描かれ、二匹の白い鶏が高いところにいる感覚を与える。影響を与えたと言われる沈南蘋も鶏を描いており、構図も明の陳伯冲による『松上双鶴図』(大雲院)から取られたことが指摘されている。鶏が松の上にいる奇抜さが自ずから異なる雰囲気をつくり上げている。『旭日鳳凰図』(宮内庁三の丸尚蔵館)もまた李一和の『五鳳図』などに基づいているといわれるものの、鳳凰の下の岩場と波が幻想的な効果を与えており、異なった絵画世界をつくり上げている。
( 中 略 )
彼は生涯妻帯せず、世間的な遊びにさえ背を向け、その屋敷の一隅に「独楽窩」という画部屋を設けて創作に専念した。それは十六世紀の「マニエリスム」の画家ポントルモが、部屋の椅子を上げて誰も入らせず、自分の部屋に閉じこもって絵画に専念したことを思い起こさせる。その世界がやはり幻想、奇想の世界であったこともその共通性を感じさせるのである。また一方で、二十世紀ではダリ的な「シュール・レアリスム」の世界を思い起こさせる。それは夢の世界にあらわれた鳳凰や虫たちであり、幻想の世界の存在なのである。若冲はまさにその中に生きた文人的芸術家ということが出来る。」田中英道『日本美術全史 世界から見た名作の系譜』講談社学術文庫、2012年。pp.438―444.
伊藤若冲が「奇想の画家」と呼ばれて注目を集めるようになったのは最近のことである。いわゆる職業的な絵師ではなく、ただ家にこもって絵だけ描いていたという人で、その絵もあまりに特殊で、売ろうともしなかったから、ほとんど知られることもなかった。それ故に今から見れば、モダンな作品と見られるのだろう。
「円山応挙(1733―95)は現在の京都郊外の穴太(あのう)村で農家の次男として生まれた。十一、二歳のときに京都に移り、呉服屋や玩具屋につとめ、絵画に強く惹かれて狩野派の石田幽汀の門に入っている。応挙がその頃すでにオランダ銅版画による「眼鏡絵」に興味を抱き、その遠近法を学んでいたことは注目に値する。『埠頭図』などは忠実な模写であるが『宇治橋図』や『三十三間堂通し矢図』などの「眼鏡図」は西洋の遠近法を見事に活用してこれまでにはなかった空間を作り出している。とくに前者の宇治川と山の風景が初めて遠近法で描かれ、木米などの同じ所の光景と一線を画している。それだけではない。建物や山、樹木などに陰影法を使いその立体感を醸しだしているのである。おそらく応挙が初めてこの遠近法をものにした画家であろう。ふつうこの洋風画はその後、応挙には影響をあまり残さなかったと言われるが、たしかに主題の上で洋風は取らなかったにせよ、その遠近法と陰影法はひそかに応挙の絵画に活用されている。それであるからこそ、明治以降の西洋画の影響のもとにある日本画を見慣れた目にも応挙の空間はその先駆に見えるのである。
元代の銭舜挙の作風を慕って付けられた応挙という名は1766年(明和三年)、三十四歳の時のものであるが、その頃の作品として円満院門主祐常の依頼で制作された『七難七福図巻』三巻がある。その祐常の序文で、ありのままの現実の姿を描くことが出来るのは今日自分が見るところ応挙をおいてほかにない、と述べられている。これは従来の狩野派や中国画ではない写生を重要視する応挙の画風を支持するものであった。確かに、この図鑑の写実性は十分窺えるが、それが従来の絵巻物と異なるのは、遠近法を心得た上での大和絵である点である。裕福な町家の平和な生活を描いているところなどは、俯瞰法を取っているが、その人間のヴォリュームの取り方、丸い櫃や四角い重箱などの立体性にそのことがよく理解される。これは応挙の各種の写生帖でも明らかで、すでに明暗法を意識した写実となっているのである。
1765年(明和二年)の『雪松図』(東京国立博物館)に示された「付立」という墨の濃淡による方法はまさに明暗法で、雪の部分に光があたり左右が暗くなっている。『雲竜図』(個人像)もその明暗法が雲や岩の描き方に示されているし、『雨竹風竹図』(円光寺)にはすでに竹林に遠近法の感覚をつかんで描いており、ある立体感を作り出している。
天命期(1781-89)は多産の時代で、彼の代表作のひとつ「郭子儀図襖絵」(大乗寺)は、金箔地に人物と芭蕉のみという単純化された場面であるが、これが琳派と異なるのは、金地にさえ遠近の感覚が存在するということである。それは量塊性が意識された人物像から生じ、特に岩の明暗法によって三次元性を感じさせる。これは風景画の『瀑布図』(金刀比羅宮)の岩や松の描き方にも意識され、文人画派の風景と異なる三次元性を表現している。彼の平明な写実性は一世を風靡し円山派を形成したが、その根底には「眼鏡絵」の修練があったことは強調されなくてはならない。
ふつう洋風画家はより狭義な意味で使われている。この派の形成のきっかけを作ったのは、画家ではなく高松藩の薬園掛であった平賀源内(1728-79)であった。二十五歳のとき長崎に学び、江戸に帰って本草学を学ぶと、オランダからの植物図鑑を研究しその挿絵の形態描写に心を打たれ、その方面から西洋画法に興味を抱いた。彼が秋田藩から鉱山調査と技術改良を依頼され、1773年(安永二年)に角館に立ち寄った際、狩野派の画家であった小野田直武(1749-80)に出会い、彼に西洋の明暗法を教えたという。直武は江戸にやって来て、源内の持っている西洋銅版画を模写し、杉田玄白、前野良沢の『解体新書』(1774年)の挿絵を描いた。
また秋田藩主佐竹曙山(1748-85)もその刺激を受け、動物、植物の観察にもとづく克明な描写や西洋銅版画の模写などを『写生帖』にまとめた。また『画法綱領』や『画面理解』などの理論書を著し、遠近法、陰影法、比例法などを学んだ知識を示したのである。」田中英道『日本美術全史 世界から見た名作の系譜』講談社学術文庫、2012年。pp.449―453.
円山応挙は「円山派」と呼ばれるまでに一世を風靡したといわれるが、伝統的な文人風景画の流れに寄っているようで、実は技法的に西洋画の影響を受けていた、という点で注目される。そして、さらに西洋画の遠近法、陰影法、写生などを西洋銅版画から学んだ小野田直武、佐竹曙山などの「秋田蘭画」がある。長崎から伝わったオランダの銅版画などは、一部で確かに大きな影響を与えた。
「谷文晁(1763-1840)の父は白河藩の田安家の家臣で詩人であり、すでに子供のときから江戸の文人派的な環境に育った。ただこの文人派は隠遁をする関西派と異なり仕官したままのものであったから事情を異にする。始めは狩野派の絵を描いていた旗本の加藤文麗について学び、ついで南蘋派の渡辺玄対に師事し、さらに鈴木芙蓉につき、同時に宋、元、明の絵画をよく学んだという。彼は遅れてきた文人派だけあって、それぞれの良さを身につけようとしたのであった。しかし同じ田安家の出身で、筆頭老中であった松平定信が1793年(寛政五年)伊豆・相模の海岸防備の状態の観察に赴いたとき、文晁も従い、『公余探勝図鑑』を描いたが、それは明らかに西洋画の遠近法、陰影法が取り入れられ、実景を写実的に描写しているのだ。1797年(同九年)やはり松平の命により関西地方の旅行を行ない、それに基づき『集古十種』の挿図を描き、各地の風景を描いており、それも透視図法をものにした実景描写なのである。これは彼が基本的にはすでに洋風画派であることを示している。
彼のその後のさまざまな作品、例えば大和絵の『石山寺縁起絵巻』(石山寺)でも、一見伝統的な大和絵画法に見えて、陰影法が使われ、より三次元性を画面にもたらそうと苦心している。無論彼の本領は山水画で、巧みに中国画を版本からあるいは模写などから写し取っており、その厖大な量の作品は注文の多かったことを示している。その多くの山水の量感は、伝統的な図式に西洋画的な陰影法、あるいは透視図法を加味させており、それが文晁の特色となっている。彼の山水画はその意味では雪中と考えられる。彼がオランダの画家ファン・ロイエンの花鳥図をほかの誰よりも上手に模写したのも、その陰影法をよく理解していたからである。
渡辺崋山(1793-1841)は貧しい三河田原藩士の息子で彼はその貧窮に苦しんだ。絵画をはじめたのも家計を助けるための内職であったと言われる。彼は十七歳のとき谷文晁の門に入った。1818年(文政元年)の『一掃百態図』は江戸の武士から庶民に至る風俗を風刺を交えて描いている。北斎漫画の崋山版といったところであるが1821年(同四年)の『佐藤一斎像』の写実的な表現にすでに西洋画の影響が認められる。1825年(同四年)の『四州真景図鑑』(個人蔵)となると遠近法を取り入れたスケッチとなっており、彼が洋画派の作品をよく研究していたことを思わせる。1832年(天保三年)江戸詰めの家老になったが俸禄は少なかった。彼は蘭学に興味を抱き、高野長英や小関三英らとともに海外の事情を研究する。しかしその興味も彼の画家としての蘭画、西洋画への関心からであったと言われる。絵画の魅力に抗しがたく、家老の職を辞したが受け入れられなかった。
1837年(同七年)の『鷹見泉石像』(東京国立博物館)では顔にも衣服にもうっすらではあるが陰影法が施され、西洋画風が見出される。『市河米庵像』は肖像画として傑作でその真摯な人柄が伝わってくるようだ。彼の花鳥画の『蝠鹿渓潤図』(静嘉堂文庫)でも陰影法が、写実性を強めている。1839年民間の蘭学者を弾圧した「蛮社の獄」により高野長英らとともに逮捕され、三英は自殺した。崋山は死罪を免れ藩地田原に蟄居を命じられたが、絵を描き続けた。その意味でも彼は真の洋風画家なのである。弟子が生活のために催してくれた作品頒布会が罪人としてけしからぬという噂が立ち、責任が藩主に及ぶのをおそれた彼はついに自刃するに至った。椿椿山は彼の忠実な弟子でその『高久靄厓像』(個人蔵)は対象の画家蔵の質朴な表情をよくとらえている。」田中英道『日本美術全史 世界から見た名作の系譜』講談社学術文庫、2012年。pp.457―460.
ぼくは昔、近くのデパートで開かれていた古美術品販売会を覗いたとき、墨筆の滝の図があって、凄い迫力に感動した。それはさほど大きな絵ではなかったが、谷文晁作だった。「文晁」がいかなる人か、良く知らなかったが値段は数万円だったが、学生のぼくはそんな金は持っていないので手が出せなかったが、欲しいと思った。今思えば、谷文晁の絵が手に入るなんて夢のようだ。それ以来、文晁という名はいまも心に残っている。その文晁の弟子、渡辺崋山は「蛮社の獄」で有名だが、絵師としても優れた作品を残し、文化文政期の江戸に自由な文化人サロンがあったことが偲ばれる。
B.歴史修正主義の「修正」って?
Revisionは「見直す」という意味で、日本で80年代に歴史教科書問題で顕在化した、歴史の見直しを主張するリビジョニストを、「歴史修正主義者」と呼び始めたのがすっかり定着した。でも、明治以来の日本史を「見直す」ことと「修正」するのとでは意味が変わってしまう。過去の歴史は常に見直され検証されるのはむしろ必要なことだが、「修正」と呼べば、これまでの歴史解釈が間違っていて、それを正すという意味になって来る。いまや「修正主義者」たちの主張はネットにあふれ、保守系の政治家や論客の多くが唱える「正論」のように普及している。しかし、それは「修正」ではなく、「捏造」であり「暴論」であり、堅実な歴史研究を踏まえた定説を、否定し覆すことに快感を抱くような「荒唐無稽」だということは、はっきりしている。
「悲惨な被害体験 弱い加害意識 歴史学者 宇田川 幸大 さん (中央大学准教授)
――戦後日本の平和主義の特徴は何でしょうか。
「もう戦争は、こりごりだという意識が、平和主義を強く支えてきました。戦場での経験や空襲、原爆、大陸からの引き揚げ、シベリア抑留など悲惨な戦争体験がもとになりました」
「一方で、自らの加害責任を問う意識は弱かった。ともすれば、日本が再び戦争に巻き込まれなければいい、という自己中心的な側面もありました」
――戦争を体験した世代はもはや極めて少数です。
「戦後は、戦争の体験者が語り部となることで、反戦平和の声が高まりました。体験者がいなくなれば、戦後の平和主義は、力を失いかねません。最近、荒唐無稽な歴史修正主義が幅を利かしていることと関係があるでしょう」
――近代日本は明治以来、日清、日露など対外戦争を繰り返しました。
「日清、日露戦争は、朝鮮半島の支配をめぐる帝国主義戦争であり、日本は大韓帝国を併合し植民地にしました。第1次世界大戦でも対華21カ条要求のように露骨な侵略政策を中国に押し付けました」
「しかし、第2次大戦に敗れると、日本の政治、社会の戦争への関心は満州事変以降に集中しました。これらの戦争を批判的に見る一方、それ以前の日清、日露戦争などを問題視しない傾向が強かったと思います」
――小説「坂の上の雲」で知られる司馬遼太郎も、明治を栄光とロマンの時代として描きました。
「司馬は、日露戦争を小国・日本がロシアの脅威に立ち向かったものだと捉えましたが、戦場となり、植民地支配された側の視点はありません。小説は人々に大きな影響を与えます。明治以来のアジアに対する日本人の優越意識は清算されず、侵略や植民地支配の責任を自ら問うことにもなりません」――敗戦後、連合国は極東国際軍事裁判(東京裁判)で戦争指導者らを裁き、東条英機元首相ら7人が死刑に処せられました。
「東京裁判で問われなかったものは何か、見極めるべきです。天皇の戦争責任は、米国の意向もあり追求されず、天皇制国家が無謀な戦争に突き進んだ構造は解明されませんでした」
「東京裁判では、中国や東南アジアよりも欧米の戦争被害が中心に扱われました。日本の対米開戦に至る過程が重視され、ここでも日清、日露戦争や植民地支配は問われませんでした」
「裁判が終わると報道も減り、一気に関心が薄れました。何が問われ、どんな国際法上の考えにそって裁かれたのか。そうした基礎的な知識が共有されず、今では、戦勝国による一方的な裁きだと裁判をまるごと否定する言説を信じる人も少なくありません」
――日本の加害責任を軽視する姿勢は、2015年に当時の安倍晋三首相が出した戦後70年談話にもつながっているようです。
「安倍談話では、日露戦争が植民地支配下の多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけた、とする一方、朝鮮の植民地化については具体的に述べていません。日本の近代化を自画自賛する、きわめて甘い認識です」
「また、子や孫、その先の世代に謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない、という部分も問題です。謝罪の要否を決めるのは被害者です。また、戦争を再び起こさないようにする『戦後責任』は直接、戦争に関わっていない世代にもあります」
「ただ、安倍談話は、今の国民の意識の縮図だとも言えます。当時の世論調査では、次世代に謝罪を続ける宿命を背負わせないという主張を支持する意見が多数を占めました」
――戦争に関するメディア報道の評価は。
「戦争の悲惨な実態を伝える上で大きな役割を果たしてきました。『慰安婦』問題や戦争犯罪など、日本の加害責任を追及する意欲的な記事や番組もつくられました。ただ最近、特に安倍政権以降、加害責任を問うものは少なくなったと感じます。政権の顔色を気にしているのでしょうか」
――大学の教養科目の歴史学を担当されています。若い人たちの歴史観は。
「『時間切れの現代史』と言われるように、高校で戦争や植民地支配のことをあまり教えられていないので知識不足が目立ちます。何も知識がないまま、インターネットやSNSに広がる歴史修正主義にさらされるのは、あまりに危険です。その意味で、歴史教育はますます重要になっています」 (聞き手・桜井泉)」朝日新聞2024年7月27日朝刊13面オピニオン欄「交論」
江戸時代も前半の18世紀はじめ、元禄時代までは文化の中心は京大阪の上方にあった。なんといっても、上方は長い都の歴史があり、朝廷に加えて商都の経済力に支えられた文化の厚みがあった。しかし、18世紀も終わりに近づくと、江戸の人口もそこで暮らす全国の大名や武士の生活を支える力を蓄え、上方を上回る都市文化を成立させる。また上方で修行し絵師となった人も、新たな機会を求めて江戸にやってくるようになり、逆に関東の絵師も上方や各地を回って、その腕を鍛えるような人も出てくる。経済の発展は人とモノの流通を盛んにし、文化も豊かにする。そのような時代に第二の文人派と、ここで田中英道氏が呼ぶ一連の絵師が登場する。ここでは、若冲、応挙、文晁について注目してみたい。
「江戸中期から後期にかけて、これまで述べた流派の枠におさまりきれない画家たちが多くあらわれた。ひとつは「奇想の画家」と言われる伊藤若冲、曾我蕭白ら、「写生」画派といわれる円山応挙、長沢蘆雪、呉春ら、そして「洋風画」派といわれる司馬江漢、亜欧堂田善らなど、それ以外でも岡田米山人、谷文晁、渡辺崋山らの次の世代の「南画」派がいる。無論さらに「浮世絵」派がいるが、これだけは版画ということもあって別個に論じられる。これほど多様になって来ると、一方の派が強調されると他方が無視されるといった具合で、なかなか包括的に論じられて来なかった。
しかしこれらの画家の作品を見ていくと、大きくふたつに分けられるということに気付いた。というのも、十八世紀中頃からオランダからの西洋画が日本に導入され、それから影響を与えられたものと、それを無視する者とに分かれるからである。この遠近法、陰影法を含む立体的に描く画法は空間把握の方法として、これまでの日本の伝統を大きく変えるものであった。その画法をひとたび取り入れると、たとえ伝統画法に帰っても、別の空間表現にならざるをえない。一方それを無視して伝統的な世界の中で中国からの山水画に飽き足らない知性的な画家たちがあらわれる。見たことのない山水よりも花鳥表現に新たな境地を開くもの、また人物画を別の観点から描きだすもの、シュール・レアリスム的な幻想世界をつくり出すものがあらわれる。前者には円山応挙、司馬江漢、亜欧堂田善、谷文晁、渡辺崋山がおり、後者には伊藤若冲、曾我蕭白、岡田米山人、呉春らがいる。これら二つの流れは「浮世絵」の世界と関連しながら「ジャポニスム」の豊かな世界が世界の一端を担うことになるのである。それぞれの画家がなぜ両派のいずれかに属するか説明しながら述べてみよう。
「文人」とは、まず職業画家ではない知識人であり、その描くものが「南画」と限定すれば山水画をもっぱらとする画家ということになろうが、「第二の文人」派はさらに範囲を拡げ、狩野派以外の自由な立場におり、かつ中国画に精通し、南画に限らぬ孤高の画家たちということになる。
伊藤若冲(1716-18001)は京都錦小路の青物問屋の長男として生まれた。名は汝鈞、字は景和といい、若冲という名は彼が帰依した相国寺の大典禅師から与えられた居士号である。若い頃から絵画のほかに何の興味も持たなかったという。また、家が裕福であったため絵を売る必要もなかった。若冲の画風を考える上で常に引かれるのは、墓碑銘として書かれた大典禅師の言葉である。若冲は最初狩野派を学んだ。しかしある日自問し、これは狩野の画法であり、それを越えることは出来ない。次に宋元画を学び模写をしたが、彼らと競ったところで優劣は明らかである。それで自ら物に即して描くことにした。しかし雲の上を飛ぶ麒麟や、中国の故事人物などは見られるわけではないし、山水にしたところで名山が身近にあるわけではない。それで動植物を相手にせざるをえなかった。ただ孔雀や鸚鵡はいつでも見るわけにはいかないが、鶏は馴染み深いものであるからこれからはじめ、その後対象を植物や昆虫、魚にまで広げた、というものである。
この言葉は日本人である画家の立場を自覚したものであろう。彼が日本の事物を対象に描くという態度は頷けるものの、実際にそうした写実的態度に徹することが出来たのであろうか。鶏や植物、昆虫、魚まで広げたというが、実際は若冲画には鳳凰や孔雀、鶴に至るまで非日常的な動物が多いのである。同じ鶏の描写でも、円山応挙のそれと異なり、ある幻想的な色合いが強いのは、彼自身、そのような写生でも飽き足らなかったということなのだ。つまりそれは中国の花鳥画の伝統を意識した、別の意味での中国派であり、家の職業を捨てて絵画の世界に惑溺する態度そのものは、大きな意味で文人派なのである。
彼の画歴は三十五歳頃から始まったと考えられているが、『雪中雄鶏図』(京都国立博物館寄託)は樹木の上の雪が白く抽象化され、動物の写実性と植物の幻想性の世界である、という印象を与えるのである。制作年の明らかな『松樹番鶏図』(1752年〈宝暦二年〉)も松の葉が上だけでなく、下にも描かれ、二匹の白い鶏が高いところにいる感覚を与える。影響を与えたと言われる沈南蘋も鶏を描いており、構図も明の陳伯冲による『松上双鶴図』(大雲院)から取られたことが指摘されている。鶏が松の上にいる奇抜さが自ずから異なる雰囲気をつくり上げている。『旭日鳳凰図』(宮内庁三の丸尚蔵館)もまた李一和の『五鳳図』などに基づいているといわれるものの、鳳凰の下の岩場と波が幻想的な効果を与えており、異なった絵画世界をつくり上げている。
( 中 略 )
彼は生涯妻帯せず、世間的な遊びにさえ背を向け、その屋敷の一隅に「独楽窩」という画部屋を設けて創作に専念した。それは十六世紀の「マニエリスム」の画家ポントルモが、部屋の椅子を上げて誰も入らせず、自分の部屋に閉じこもって絵画に専念したことを思い起こさせる。その世界がやはり幻想、奇想の世界であったこともその共通性を感じさせるのである。また一方で、二十世紀ではダリ的な「シュール・レアリスム」の世界を思い起こさせる。それは夢の世界にあらわれた鳳凰や虫たちであり、幻想の世界の存在なのである。若冲はまさにその中に生きた文人的芸術家ということが出来る。」田中英道『日本美術全史 世界から見た名作の系譜』講談社学術文庫、2012年。pp.438―444.
伊藤若冲が「奇想の画家」と呼ばれて注目を集めるようになったのは最近のことである。いわゆる職業的な絵師ではなく、ただ家にこもって絵だけ描いていたという人で、その絵もあまりに特殊で、売ろうともしなかったから、ほとんど知られることもなかった。それ故に今から見れば、モダンな作品と見られるのだろう。
「円山応挙(1733―95)は現在の京都郊外の穴太(あのう)村で農家の次男として生まれた。十一、二歳のときに京都に移り、呉服屋や玩具屋につとめ、絵画に強く惹かれて狩野派の石田幽汀の門に入っている。応挙がその頃すでにオランダ銅版画による「眼鏡絵」に興味を抱き、その遠近法を学んでいたことは注目に値する。『埠頭図』などは忠実な模写であるが『宇治橋図』や『三十三間堂通し矢図』などの「眼鏡図」は西洋の遠近法を見事に活用してこれまでにはなかった空間を作り出している。とくに前者の宇治川と山の風景が初めて遠近法で描かれ、木米などの同じ所の光景と一線を画している。それだけではない。建物や山、樹木などに陰影法を使いその立体感を醸しだしているのである。おそらく応挙が初めてこの遠近法をものにした画家であろう。ふつうこの洋風画はその後、応挙には影響をあまり残さなかったと言われるが、たしかに主題の上で洋風は取らなかったにせよ、その遠近法と陰影法はひそかに応挙の絵画に活用されている。それであるからこそ、明治以降の西洋画の影響のもとにある日本画を見慣れた目にも応挙の空間はその先駆に見えるのである。
元代の銭舜挙の作風を慕って付けられた応挙という名は1766年(明和三年)、三十四歳の時のものであるが、その頃の作品として円満院門主祐常の依頼で制作された『七難七福図巻』三巻がある。その祐常の序文で、ありのままの現実の姿を描くことが出来るのは今日自分が見るところ応挙をおいてほかにない、と述べられている。これは従来の狩野派や中国画ではない写生を重要視する応挙の画風を支持するものであった。確かに、この図鑑の写実性は十分窺えるが、それが従来の絵巻物と異なるのは、遠近法を心得た上での大和絵である点である。裕福な町家の平和な生活を描いているところなどは、俯瞰法を取っているが、その人間のヴォリュームの取り方、丸い櫃や四角い重箱などの立体性にそのことがよく理解される。これは応挙の各種の写生帖でも明らかで、すでに明暗法を意識した写実となっているのである。
1765年(明和二年)の『雪松図』(東京国立博物館)に示された「付立」という墨の濃淡による方法はまさに明暗法で、雪の部分に光があたり左右が暗くなっている。『雲竜図』(個人像)もその明暗法が雲や岩の描き方に示されているし、『雨竹風竹図』(円光寺)にはすでに竹林に遠近法の感覚をつかんで描いており、ある立体感を作り出している。
天命期(1781-89)は多産の時代で、彼の代表作のひとつ「郭子儀図襖絵」(大乗寺)は、金箔地に人物と芭蕉のみという単純化された場面であるが、これが琳派と異なるのは、金地にさえ遠近の感覚が存在するということである。それは量塊性が意識された人物像から生じ、特に岩の明暗法によって三次元性を感じさせる。これは風景画の『瀑布図』(金刀比羅宮)の岩や松の描き方にも意識され、文人画派の風景と異なる三次元性を表現している。彼の平明な写実性は一世を風靡し円山派を形成したが、その根底には「眼鏡絵」の修練があったことは強調されなくてはならない。
ふつう洋風画家はより狭義な意味で使われている。この派の形成のきっかけを作ったのは、画家ではなく高松藩の薬園掛であった平賀源内(1728-79)であった。二十五歳のとき長崎に学び、江戸に帰って本草学を学ぶと、オランダからの植物図鑑を研究しその挿絵の形態描写に心を打たれ、その方面から西洋画法に興味を抱いた。彼が秋田藩から鉱山調査と技術改良を依頼され、1773年(安永二年)に角館に立ち寄った際、狩野派の画家であった小野田直武(1749-80)に出会い、彼に西洋の明暗法を教えたという。直武は江戸にやって来て、源内の持っている西洋銅版画を模写し、杉田玄白、前野良沢の『解体新書』(1774年)の挿絵を描いた。
また秋田藩主佐竹曙山(1748-85)もその刺激を受け、動物、植物の観察にもとづく克明な描写や西洋銅版画の模写などを『写生帖』にまとめた。また『画法綱領』や『画面理解』などの理論書を著し、遠近法、陰影法、比例法などを学んだ知識を示したのである。」田中英道『日本美術全史 世界から見た名作の系譜』講談社学術文庫、2012年。pp.449―453.
円山応挙は「円山派」と呼ばれるまでに一世を風靡したといわれるが、伝統的な文人風景画の流れに寄っているようで、実は技法的に西洋画の影響を受けていた、という点で注目される。そして、さらに西洋画の遠近法、陰影法、写生などを西洋銅版画から学んだ小野田直武、佐竹曙山などの「秋田蘭画」がある。長崎から伝わったオランダの銅版画などは、一部で確かに大きな影響を与えた。
「谷文晁(1763-1840)の父は白河藩の田安家の家臣で詩人であり、すでに子供のときから江戸の文人派的な環境に育った。ただこの文人派は隠遁をする関西派と異なり仕官したままのものであったから事情を異にする。始めは狩野派の絵を描いていた旗本の加藤文麗について学び、ついで南蘋派の渡辺玄対に師事し、さらに鈴木芙蓉につき、同時に宋、元、明の絵画をよく学んだという。彼は遅れてきた文人派だけあって、それぞれの良さを身につけようとしたのであった。しかし同じ田安家の出身で、筆頭老中であった松平定信が1793年(寛政五年)伊豆・相模の海岸防備の状態の観察に赴いたとき、文晁も従い、『公余探勝図鑑』を描いたが、それは明らかに西洋画の遠近法、陰影法が取り入れられ、実景を写実的に描写しているのだ。1797年(同九年)やはり松平の命により関西地方の旅行を行ない、それに基づき『集古十種』の挿図を描き、各地の風景を描いており、それも透視図法をものにした実景描写なのである。これは彼が基本的にはすでに洋風画派であることを示している。
彼のその後のさまざまな作品、例えば大和絵の『石山寺縁起絵巻』(石山寺)でも、一見伝統的な大和絵画法に見えて、陰影法が使われ、より三次元性を画面にもたらそうと苦心している。無論彼の本領は山水画で、巧みに中国画を版本からあるいは模写などから写し取っており、その厖大な量の作品は注文の多かったことを示している。その多くの山水の量感は、伝統的な図式に西洋画的な陰影法、あるいは透視図法を加味させており、それが文晁の特色となっている。彼の山水画はその意味では雪中と考えられる。彼がオランダの画家ファン・ロイエンの花鳥図をほかの誰よりも上手に模写したのも、その陰影法をよく理解していたからである。
渡辺崋山(1793-1841)は貧しい三河田原藩士の息子で彼はその貧窮に苦しんだ。絵画をはじめたのも家計を助けるための内職であったと言われる。彼は十七歳のとき谷文晁の門に入った。1818年(文政元年)の『一掃百態図』は江戸の武士から庶民に至る風俗を風刺を交えて描いている。北斎漫画の崋山版といったところであるが1821年(同四年)の『佐藤一斎像』の写実的な表現にすでに西洋画の影響が認められる。1825年(同四年)の『四州真景図鑑』(個人蔵)となると遠近法を取り入れたスケッチとなっており、彼が洋画派の作品をよく研究していたことを思わせる。1832年(天保三年)江戸詰めの家老になったが俸禄は少なかった。彼は蘭学に興味を抱き、高野長英や小関三英らとともに海外の事情を研究する。しかしその興味も彼の画家としての蘭画、西洋画への関心からであったと言われる。絵画の魅力に抗しがたく、家老の職を辞したが受け入れられなかった。
1837年(同七年)の『鷹見泉石像』(東京国立博物館)では顔にも衣服にもうっすらではあるが陰影法が施され、西洋画風が見出される。『市河米庵像』は肖像画として傑作でその真摯な人柄が伝わってくるようだ。彼の花鳥画の『蝠鹿渓潤図』(静嘉堂文庫)でも陰影法が、写実性を強めている。1839年民間の蘭学者を弾圧した「蛮社の獄」により高野長英らとともに逮捕され、三英は自殺した。崋山は死罪を免れ藩地田原に蟄居を命じられたが、絵を描き続けた。その意味でも彼は真の洋風画家なのである。弟子が生活のために催してくれた作品頒布会が罪人としてけしからぬという噂が立ち、責任が藩主に及ぶのをおそれた彼はついに自刃するに至った。椿椿山は彼の忠実な弟子でその『高久靄厓像』(個人蔵)は対象の画家蔵の質朴な表情をよくとらえている。」田中英道『日本美術全史 世界から見た名作の系譜』講談社学術文庫、2012年。pp.457―460.
ぼくは昔、近くのデパートで開かれていた古美術品販売会を覗いたとき、墨筆の滝の図があって、凄い迫力に感動した。それはさほど大きな絵ではなかったが、谷文晁作だった。「文晁」がいかなる人か、良く知らなかったが値段は数万円だったが、学生のぼくはそんな金は持っていないので手が出せなかったが、欲しいと思った。今思えば、谷文晁の絵が手に入るなんて夢のようだ。それ以来、文晁という名はいまも心に残っている。その文晁の弟子、渡辺崋山は「蛮社の獄」で有名だが、絵師としても優れた作品を残し、文化文政期の江戸に自由な文化人サロンがあったことが偲ばれる。
B.歴史修正主義の「修正」って?
Revisionは「見直す」という意味で、日本で80年代に歴史教科書問題で顕在化した、歴史の見直しを主張するリビジョニストを、「歴史修正主義者」と呼び始めたのがすっかり定着した。でも、明治以来の日本史を「見直す」ことと「修正」するのとでは意味が変わってしまう。過去の歴史は常に見直され検証されるのはむしろ必要なことだが、「修正」と呼べば、これまでの歴史解釈が間違っていて、それを正すという意味になって来る。いまや「修正主義者」たちの主張はネットにあふれ、保守系の政治家や論客の多くが唱える「正論」のように普及している。しかし、それは「修正」ではなく、「捏造」であり「暴論」であり、堅実な歴史研究を踏まえた定説を、否定し覆すことに快感を抱くような「荒唐無稽」だということは、はっきりしている。
「悲惨な被害体験 弱い加害意識 歴史学者 宇田川 幸大 さん (中央大学准教授)
――戦後日本の平和主義の特徴は何でしょうか。
「もう戦争は、こりごりだという意識が、平和主義を強く支えてきました。戦場での経験や空襲、原爆、大陸からの引き揚げ、シベリア抑留など悲惨な戦争体験がもとになりました」
「一方で、自らの加害責任を問う意識は弱かった。ともすれば、日本が再び戦争に巻き込まれなければいい、という自己中心的な側面もありました」
――戦争を体験した世代はもはや極めて少数です。
「戦後は、戦争の体験者が語り部となることで、反戦平和の声が高まりました。体験者がいなくなれば、戦後の平和主義は、力を失いかねません。最近、荒唐無稽な歴史修正主義が幅を利かしていることと関係があるでしょう」
――近代日本は明治以来、日清、日露など対外戦争を繰り返しました。
「日清、日露戦争は、朝鮮半島の支配をめぐる帝国主義戦争であり、日本は大韓帝国を併合し植民地にしました。第1次世界大戦でも対華21カ条要求のように露骨な侵略政策を中国に押し付けました」
「しかし、第2次大戦に敗れると、日本の政治、社会の戦争への関心は満州事変以降に集中しました。これらの戦争を批判的に見る一方、それ以前の日清、日露戦争などを問題視しない傾向が強かったと思います」
――小説「坂の上の雲」で知られる司馬遼太郎も、明治を栄光とロマンの時代として描きました。
「司馬は、日露戦争を小国・日本がロシアの脅威に立ち向かったものだと捉えましたが、戦場となり、植民地支配された側の視点はありません。小説は人々に大きな影響を与えます。明治以来のアジアに対する日本人の優越意識は清算されず、侵略や植民地支配の責任を自ら問うことにもなりません」――敗戦後、連合国は極東国際軍事裁判(東京裁判)で戦争指導者らを裁き、東条英機元首相ら7人が死刑に処せられました。
「東京裁判で問われなかったものは何か、見極めるべきです。天皇の戦争責任は、米国の意向もあり追求されず、天皇制国家が無謀な戦争に突き進んだ構造は解明されませんでした」
「東京裁判では、中国や東南アジアよりも欧米の戦争被害が中心に扱われました。日本の対米開戦に至る過程が重視され、ここでも日清、日露戦争や植民地支配は問われませんでした」
「裁判が終わると報道も減り、一気に関心が薄れました。何が問われ、どんな国際法上の考えにそって裁かれたのか。そうした基礎的な知識が共有されず、今では、戦勝国による一方的な裁きだと裁判をまるごと否定する言説を信じる人も少なくありません」
――日本の加害責任を軽視する姿勢は、2015年に当時の安倍晋三首相が出した戦後70年談話にもつながっているようです。
「安倍談話では、日露戦争が植民地支配下の多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけた、とする一方、朝鮮の植民地化については具体的に述べていません。日本の近代化を自画自賛する、きわめて甘い認識です」
「また、子や孫、その先の世代に謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない、という部分も問題です。謝罪の要否を決めるのは被害者です。また、戦争を再び起こさないようにする『戦後責任』は直接、戦争に関わっていない世代にもあります」
「ただ、安倍談話は、今の国民の意識の縮図だとも言えます。当時の世論調査では、次世代に謝罪を続ける宿命を背負わせないという主張を支持する意見が多数を占めました」
――戦争に関するメディア報道の評価は。
「戦争の悲惨な実態を伝える上で大きな役割を果たしてきました。『慰安婦』問題や戦争犯罪など、日本の加害責任を追及する意欲的な記事や番組もつくられました。ただ最近、特に安倍政権以降、加害責任を問うものは少なくなったと感じます。政権の顔色を気にしているのでしょうか」
――大学の教養科目の歴史学を担当されています。若い人たちの歴史観は。
「『時間切れの現代史』と言われるように、高校で戦争や植民地支配のことをあまり教えられていないので知識不足が目立ちます。何も知識がないまま、インターネットやSNSに広がる歴史修正主義にさらされるのは、あまりに危険です。その意味で、歴史教育はますます重要になっています」 (聞き手・桜井泉)」朝日新聞2024年7月27日朝刊13面オピニオン欄「交論」
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