A.「反共」というスローガンはまだ有効か?
安保法制施行に合わせて各地の反対行動も今日の新聞は伝えているが、国会での政府の答弁はみな日米同盟は強化され情報共有もすすんで、これでよかったんだと強調している。それに菅官房長官は記者会見で、国民の安保法への理解について「昨今の世論調査では、(賛否が)逆転するところもあり、ほとんど接近してきているのではないか。法成立当時に比べて国民の理解は大幅に進んできていると思う」と自信を示したという。北朝鮮がもっと変なことをやってくれると、国民の理解が進むと言いかねない。敵をみつけて人々の不安を煽るという、やくざっぽいやり口である。一方で、国民が余計なことを考えずに、去年9月のほとぼりがさめるのを期待している感じもする。1933年のドイツで実際に起ったことは、思い出す価値がある。
東京新聞2016年3月29日夕刊1面:紙つぶて 中野晃一(上智大学教授)
「ナチスの手口:自民党が、野党共闘を指して「民共合作」とおとしめようとしたのにはあきれました。抗日戦争などのために中国の国民党と共産党が結んだ協力関係を指す「国共合作」をもじったものですが、そうすることで自民党は図らずも、中国に侵略した大日本帝国に自らを重ねる、復古的な右翼勢力であることを暴露してしまったわけです。しかも、その筋書きで行くと「民共合作」に敗れることになりますからバカらしくて失笑してしまいました。
笑ってばかりもいられません。「ナチスの手口」に学んだらどうかと言った麻生太郎副総理はいまだ健在、安倍政権は立憲主義を踏みにじる安保法制を整備。今度はナチスの「全権委任法」ばりの国家緊急権を設ける改憲を目指すなかで出てきたのが、共産党が暴力革命の方針を変更していないという荒唐無稽な政府答弁書の閣議決定です。
廃止すべきムダな官庁として悪名高い公安調査庁が、アリバイ作りに共産党などを調査対象として今まで存続してきたこと自体が問題です。ましてや、クーデターまがいの違憲立法を強行した安倍政権が国家権力を乱用して、「憲法を守れ」と訴えてきた共産党のことを、暴力革命を企てていると攻撃するとは。国会議事堂放火事件の罪を共産党になすりつけ弾圧、人心不安をあおって独裁を確立したのが「ナチスの手口」だったことを思い出さずにいられません。」
日本共産党が武力革命路線を唱えていたのは、半世紀以上昔だが、昭和の初めから「反共」というスローガンは、一般の日本国民の間で心理的恐怖を喚起する言葉だったと思う。当時はソ連という共産主義を奉じる大国があって、世界中で革命を企てている、という構図が信じられていたし、日本ではそれに加えて共産党が天皇制打倒という方針をもっていたから、帝国憲法からいっても国体紊乱、日本という国家を根底からひっくり返す政党といえばその通りだった。すくなくとも天皇陛下と臣民からなる日本というものを当然のことと思っていた人たちは、共産主義を伝染病以上に恐れた。それから日本は大戦争をやって敗北し、このときも指導者たちが何より恐れたのは敗戦のどさくさにソ連が攻めてきて、日本の半分を共産主義にしてしまうことだった。実際にドイツや朝鮮半島ではそうなった。現実政治のリアリズムという点で見れば、それを回避する道は昨日まで敵だったアメリカに全部明け渡すしかない、沖縄は好きなだけ基地にしてほしいと昭和天皇と保守政治家は考えた。それが「反共」である。
それから70年。いま安倍政権にいる人たちの半分くらいはたぶん「反共」という言葉が、まだ政治的に意味があると思っているのかもしれない。しかし共産主義も社会主義も20世紀に思想的にも政治的にも終ってしまって、北朝鮮のような個人独裁国は共産主義とはとてもいえない。当の共産党が武力革命も天皇制廃止も捨てて、ただの護憲派リベラル野党になっているのは明らかだろう。それでも、まだ「反共」が野党攻撃に利用できるのなら使ってやろうというなら、政治の技術としてはわかる。でも、本気で「反共」思想を信じているならそれは現代に生きている政治家とは言えない。21世紀の世界を見通すにはそんな時代劇みたいな観念は、いずれにせよ捨てなければ何も見えなくなる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/dc/2009661c04d9bfee5fa185050f005542.jpg)
B.芸術と社会・芸術家のあり方とそれを成り立たせる条件
芸術の社会学、というものを今ぼくは構想して高階秀爾先生の本も読んでいるのだが、芸術家という存在がこの世に存在できるためには、それを可能にする社会的条件が必要だということはいうまでもない。そしてその存在条件は、時代によって国によって異なる。社会学はそれをつねに考えているから、とりあえず15世紀以降のヨーロッパの造形美術というものに焦点を置いたとき、「近代」というものの性格を確認しておく必要がある。そして、極東の島国日本は西洋社会と若干の接触はあったとはいえ、19世紀半ばまではほぼ無関係に生きていた。それが明治の開国とともに、一気に西洋近代の文明を取り込もうとして、必死の摂取をはじめ、その中でアートについても、涙ぐましい学習をすることになった。それは滑稽なほど、短期間で西洋美術史を追いかける余裕はないので、とりあえずパリに行って、そこで最新流行の美術を見てそれを模倣することで近代化を達成しようとした。
しかし19世紀から20世紀はじめの西洋美術は、「個性の美学」へとなだれ込んでいたから、主張すべき自己そのものをアジアの画家は見つけなければならなった。それが可能になるには、芸術を社会のなかで経済的に成り立たせるだけの条件が必要だった。
「このような「個性の美学」の登場は、芸術家の側から見るなら、ルネッサンス期に始まった芸術家の自己主張、ないしは自我の確立の動きのひとつの到達点として捉えることができるであろう。事実、他人とは違ったかけがえのない自己という意味での「芸術家」という概念は、ルネッサンス時代に生まれて来たように思われる。しかしそれが、十九世紀にいたって今日見るような極めて先鋭化されたかたちの個性の主張にまで発展してきた背後には、芸術家の側からの自覚と並んで、社会一般の芸術ないしは芸術家に対する考え方の変化も、大いにあずかって力あったことは否定できない。というよりも、芸術家の「自己主張」は、ある意味で、社会のなかにおける芸術家の役割の変化と密接にからみ合って歴史に登場して来たのである。
そのことを何よりもよく示すのは、十九世紀から二十世紀初頭にかけての新しい近代絵画のさまざまな動きが、一般の社会からどのように受けとめられたかというその歴史であろう。印象派から後期印象派を経て、フォーヴィスム、キュビスムと続く絵画の「前衛運動」が、歴史上どれほど大きな役割を果たしたかは、今さらあらためて指摘するまでもなく明らかである。しかしそれと同時に、これらの多くの優れた試みが、当時の人びとからいかに手酷しい批判と嘲笑を受けたかも、またあまりに有名である。もともと、「印象派」にしても、「フォーヴィスム」、「キュビスム」にしても、その名称自体が彼らに対して与えられた悪口に基づいていることは、しばしば指摘されている通りである。そして、何回受験しても遂に美術学校に入学することのできなかったセザンヌや、そのセザンヌとともに生涯ほとんど作品を売ることのできなかったシスレーやゴッホから、珠玉のような美しい作品を数多く残しながら、貧窮のどん底で世を去った放浪画家モディリアニにいたるまで、世間の無理解に苦しめられた芸術家の悲劇は、例を挙げだせばほとんどかぎりがない。事実、近代絵画の歴史をひもといてみれば、例えばセザンヌの「首吊りの家」やルノワールの「桟敷席」やモネの「印象、日の出」のような名作の並んでいた展覧会が批評家たちからいっせいに激しい非難を受けたとか、マティス、ルオー、ヴラマンク、ドランなどが顔を揃えていた展覧会が野獣の集まりに譬えられたといったようなエビソードを容易に見つけ出せるはすである。
だが、それらの興味深い多くのエピソードは、単に歴史に多少の彩を添えるいわばこぼれ話であったのではない。世に容れられない芸術家というのは、おそらくどの時代にもいたに違いないが、歴史の流れを大きく変えるような重要なはたらきを演じた主要な芸術家たちが揃って世に容れられなかったというような事態は、この時代までかつてなかったことだからである。たしかに、ミケランジェロは、保護者であった教皇としばしば意見が合わず、時には激しく衝突したりもしているが、しかし、ミケランジェロが当時における最も優れた芸術家の一人であったことは、当の教皇をはじめとして、ほとんどの人から認められていた。対社会との関係において眺めた場合、ミケランジェロの悲劇は、セザンヌやゴッホの悲劇と、本質的に違っていたのである。
芸術家と社会とのその対立が、はっきりしたかたちで現れるようになったのは、印象派の先輩にあたるクールベ、マネあたりからだといってよいであろう。一八五五年のパリ万国博覧会の際、自分の作品が拒否されたのを不満として、博覧会のすぐ向かいの場所で自己主張を試みたクールベの有名な「レアリスム」展は、その点で極めて重要な歴史的意味をもっている。それは、展覧会としては失敗であったとしても、クールベの存在を世に知らしめるのには大きな役割を果たした。そして、それから八年後、マネが有名な「落選展」において、「草上の昼餐」により前例を見ないような激しいスキャンダルを惹き起したことは、芸術家と社会のあいだの溝をさらにいっそう拡げるものであった。事実、一八五〇年代がクールベの時代であったとすれば、一八六〇年代はマネの時代だといってもよいのだが、そのマネが世に知られるようになったのは、「草上の昼餐」と、それに続く一八六五年のサロンの「オランピア」のスキャンダルによってであった。つまり、世の人びとの非難を受けるというかたちで有名になったのだが、このようないわば反社会的な登場の仕方は、マネ以後近代芸術家たちのほとんどにとってはそれほど異常なことではないとしても、十九世紀前半までの時代においては、まず考えられないところであった。ロマン派の時代にドラクロワが新古典派の画家や批評家たちから酷しい非難攻撃を受けたことは事実だとしても、それはサロンに入選した作品についてであって、当時においてサロンに作品が展示されるということは、すでにそれだけである程度まで社会に認められたことであった。「草上の昼餐」が「落選展」という明らかに社会から拒否された場所で人びとの憤激を買い、「オランピア」が「見せしめ」としてサロンに展示されたということ自体が、芸術家と社会のあいだの関係が歴史の上で大きく変わってきたことを物語るものであろう。
このような事態を確認することは、改めて社会における芸術家の役割を考え直させるようにわれわれをうながすものである。おそらく、長い芸術の歴史において、十九世紀にいたるまでは、芸術家はほとんどつねに社会のなかである明確な場所と役割を与えられているように思われる。もちろん、例えば三万年も四万年も昔の先史時代の洞窟壁画、—-われわれにとって知られているかぎり最も早い時期に属する芸術――が当時の社会においてどのような役割を演じていたが、正確に知ることは難しい。しかし、例えば、フロベニスが語っている現代のアフリカのブッシュマンたちの風習やその他のデータから推測して、ラスコーやアルタミラの洞窟壁画が、狩猟の成功を祈念する何か呪術的な役割をもっていたことは、ほぼたしかであるように思われる。そしてそれは、先史時代においては、おそらく神に仕える祭祀にも似たきわめて重要な役割をもっていたはずである。
その先史時代以後、古代農業帝国から古典古代を経て、中世、ルネッサンスと続く西欧の芸術の歴史を、社会との関係において辿ることは、ここでは重要ではないであろう。それはおそらく、この小論とは別のテーマである。ただ、十九世紀における「個性の美学」と直接関係する問題として、展覧会というものの発生とその変遷については、多少触れておくべきであろう。
今日われわれは、美術の鑑賞といえば、町の画廊における個展にせよ、美術館における団体展にせよ、ともかく展覧会という形式を思い浮かべるのがまず普通である。それだけに、芸術家が自己の作品を世に示す場としての展覧会というものを、きわめて一般的な存在と考えがちである。しかし、事実は、歴史の上で展覧会が登場して来るのは、形式的には十七世紀の後半のことであり、実質的には、それからさらに百年もしてからである。もともとフラクロワやアングルなど、十九世紀の画家たちの活躍した「サロン」と呼ばれる官設展が設立されたのは、十七世紀のルイ十四世紀の時代であった。それは、著名な芸術家たちを集めたアカデミーの行なう仕事のひとつとして定められたのである。しかしながら、その設立の当初においては、サロンは、事実上機能しなかった。いうまでもなく、展覧会が成立するためには、一方において多くの人びとに作品を示したいという芸術家が、他方において芸術家たちの作品を見たいという一般の公衆が存在しなければならない。十七世紀においては、そのような社会的条件は、まったくなかったといわないまでも、ほとんどないに等しかったからである。
ルネッサンスは、たしかに「個性」に目覚めた芸術家というものを生み出したが、その芸術家を受け入れる社会の方は、一般の公衆というよりも、教会、王侯貴族、富裕な商人など、ごく少数の特別の人びとによって代表されていた。そのことは、ルネッサンスの著名な巨匠たちが誰のために仕事をしたかを思い浮かべてみれば明らかである。ミケランジェロやラファエルロに仕事を命じたのは、ユリウス二世やレオ十世などの教皇たち、あるいは有力な枢機卿、さらにはメディチ家などの銀行家であり、レオナルドの保護者は、ミラノ公やフランス国王であった。そして、このような事情は、十七世紀まで、大きく変わることはなかったのである。
ユリウス二世がシスティナ礼拝堂の装飾を思い立った時、あるいはルイ十四世が自分の肖像画を宮殿の中に飾りたいと望んだ時、誰にその仕事を依頼するかを決めるために、展覧会に出かけて多くの芸術家たちの作品を眺める必要はなかった。彼らは、自分たちのよく知っているお抱えの芸術家に一言命令すればそれでよかったのである。すなわち、芸術家の生活を支える――したがって芸術そのものの存在を支える――社会的、経済的基盤は、少数の「芸術に理解のある」保護者たちであり、その保護者と芸術家との関係は、個人的、直接的なものであって、展覧会のような仲介機構を必要としなかったのである。
このような関係が大きく変わってくるのは、教会、王侯貴族、大商人などの少数の保護者に代わって、一般の市民たちが芸術の経済的担い手となってからである。もちろんそれは、芸術に関してのみならず、一般に社会のあらゆる活動の中心が少数の権力者から一般の市民たちに移って行く過程と見合っている。十八世紀のフランスは、八〇年代の末まで形の上では王政が続いていたにもかかわらず、社会の活動の担い手が国王を中心とする宮廷の貴族から一般の市民たちへと次第に移行して行った時代である。宮廷は依然として芸術の重要な保護者であり続けたには違いないが、それと同時に、主として上流の市民たちが、芸術活動を支える重要な層としてクローズアップされるようになって来る。しかしながら、これらの市民たちは、一般的に国王や大貴族のような資力も権力ももち合わせていないから、お抱えの芸術家を雇うことはできないし、またそうしようという気もない。彼らは、芸術家を雇うよりも、作品を買うのである。また芸術家の方も、少数の保護者をあてにしているだけではすまず、多数の人びとに作品を売らなければならない。したがって、芸術家の方としては、自分の作品を大勢の人に知って貰う必要があるし、顧客である市民たちには、気に入った作品を見つけ出す場所が必要となる。このような双方の要請に応じて登場して来た――というよりもあらためてその役割が認められた――のが、展覧会、フランスの場合でいえば、サロンにほかならなかったのである。
事実、十七世紀にかたちだけはととのえられたサロンが事実上機能しだすのは、十八世紀の三〇年代のことであり、まがりなりにも定期的に開催される体制が出来上がるのは、十八世紀の後半のことである。つまり端的にいって、芸術作品の売手と買手、あるいは生産者と消費者の関係が変わって、商品である作品展示のための場所が必要になって来た時はじめて、展覧会は社会的にその存在理由を認められるようになったのである。
公の展覧会の持つこのような社会的性格は、今日においても本質的には変わっていない。例えば、そのことをよく示す代表的な例のひとつとして、イギリスのロイヤル・アカデミーの展覧会を挙げることができるだろう。毎年五月から夏にかけてロンドンで開催されるこの展覧会は、もちろん芸術的意味をもった年中行事であるには違いないが、基本的には、商品の展示場である。会場であるバーリントン・ハウスの正面の階段を上って展覧会場にはいると、最初の部屋に、全出品作品の価格表が張り出されており、各展示室の入口には、またそれぞれの部屋に並んでいる作品の価格が掲示されていて、各作品には、非売品、売約済などのしるしがつけられている。そして、作品の購入申し込みを受け付けるセールス・ビューローは、カタログ売り場のすぐ前にあって、少なくともカタログ売り場と同じくらいの場所を占めている。見物客の方も、大半の人びとが、値段と作品を見比べながらあれがいいとかこれにしようといっているのは、まるでデパートの家具売場を思わせる。事実、それらの作品は、まぎれもなく家具と同じような商品であり、展覧会場は、それらの商品の展示場である。ロイヤル・アカデミー展のように、芸術運動の中心としての力を大半失ってしまった展覧会では、なおのことその商品展示場としての性格が強調されるのかもしれない。
イギリスのロイヤル・アカデミーが創設されたのは、フランスのアカデミーよりほぼ一世紀後の一七七六年のことであった。この頃、すなわち十八世紀の後半には、ヨーロッパの主要都市において、つぎつぎと類似の組織が生まれて来ている。ある研究によると、一七二〇年にヨーロッパでその名にふさわしい活動をしていたアカデミーの数はわずか四つであり、二十年後の一七四〇年においても、ロシアを含めて十を数えるのみであった。ところが、それから半世紀後、十八世紀の末には、いっきょに十倍の百以上のアカデミーが登場して来ているという。そしてアカデミーの主要な機能は、美術教育と公の展覧会の開催であったから、この頃になってようやく、展覧会という形式が社会のなかに定着してきたということができるのである。」高階秀爾「近代にける芸術と人間」(『西洋芸術の精神』青土社、1979. )pp.388-395.
日本でアカデミーというか文部省が主催する展覧会(文展)が始まるのは、19世紀末である。
安保法制施行に合わせて各地の反対行動も今日の新聞は伝えているが、国会での政府の答弁はみな日米同盟は強化され情報共有もすすんで、これでよかったんだと強調している。それに菅官房長官は記者会見で、国民の安保法への理解について「昨今の世論調査では、(賛否が)逆転するところもあり、ほとんど接近してきているのではないか。法成立当時に比べて国民の理解は大幅に進んできていると思う」と自信を示したという。北朝鮮がもっと変なことをやってくれると、国民の理解が進むと言いかねない。敵をみつけて人々の不安を煽るという、やくざっぽいやり口である。一方で、国民が余計なことを考えずに、去年9月のほとぼりがさめるのを期待している感じもする。1933年のドイツで実際に起ったことは、思い出す価値がある。
東京新聞2016年3月29日夕刊1面:紙つぶて 中野晃一(上智大学教授)
「ナチスの手口:自民党が、野党共闘を指して「民共合作」とおとしめようとしたのにはあきれました。抗日戦争などのために中国の国民党と共産党が結んだ協力関係を指す「国共合作」をもじったものですが、そうすることで自民党は図らずも、中国に侵略した大日本帝国に自らを重ねる、復古的な右翼勢力であることを暴露してしまったわけです。しかも、その筋書きで行くと「民共合作」に敗れることになりますからバカらしくて失笑してしまいました。
笑ってばかりもいられません。「ナチスの手口」に学んだらどうかと言った麻生太郎副総理はいまだ健在、安倍政権は立憲主義を踏みにじる安保法制を整備。今度はナチスの「全権委任法」ばりの国家緊急権を設ける改憲を目指すなかで出てきたのが、共産党が暴力革命の方針を変更していないという荒唐無稽な政府答弁書の閣議決定です。
廃止すべきムダな官庁として悪名高い公安調査庁が、アリバイ作りに共産党などを調査対象として今まで存続してきたこと自体が問題です。ましてや、クーデターまがいの違憲立法を強行した安倍政権が国家権力を乱用して、「憲法を守れ」と訴えてきた共産党のことを、暴力革命を企てていると攻撃するとは。国会議事堂放火事件の罪を共産党になすりつけ弾圧、人心不安をあおって独裁を確立したのが「ナチスの手口」だったことを思い出さずにいられません。」
日本共産党が武力革命路線を唱えていたのは、半世紀以上昔だが、昭和の初めから「反共」というスローガンは、一般の日本国民の間で心理的恐怖を喚起する言葉だったと思う。当時はソ連という共産主義を奉じる大国があって、世界中で革命を企てている、という構図が信じられていたし、日本ではそれに加えて共産党が天皇制打倒という方針をもっていたから、帝国憲法からいっても国体紊乱、日本という国家を根底からひっくり返す政党といえばその通りだった。すくなくとも天皇陛下と臣民からなる日本というものを当然のことと思っていた人たちは、共産主義を伝染病以上に恐れた。それから日本は大戦争をやって敗北し、このときも指導者たちが何より恐れたのは敗戦のどさくさにソ連が攻めてきて、日本の半分を共産主義にしてしまうことだった。実際にドイツや朝鮮半島ではそうなった。現実政治のリアリズムという点で見れば、それを回避する道は昨日まで敵だったアメリカに全部明け渡すしかない、沖縄は好きなだけ基地にしてほしいと昭和天皇と保守政治家は考えた。それが「反共」である。
それから70年。いま安倍政権にいる人たちの半分くらいはたぶん「反共」という言葉が、まだ政治的に意味があると思っているのかもしれない。しかし共産主義も社会主義も20世紀に思想的にも政治的にも終ってしまって、北朝鮮のような個人独裁国は共産主義とはとてもいえない。当の共産党が武力革命も天皇制廃止も捨てて、ただの護憲派リベラル野党になっているのは明らかだろう。それでも、まだ「反共」が野党攻撃に利用できるのなら使ってやろうというなら、政治の技術としてはわかる。でも、本気で「反共」思想を信じているならそれは現代に生きている政治家とは言えない。21世紀の世界を見通すにはそんな時代劇みたいな観念は、いずれにせよ捨てなければ何も見えなくなる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/dc/2009661c04d9bfee5fa185050f005542.jpg)
B.芸術と社会・芸術家のあり方とそれを成り立たせる条件
芸術の社会学、というものを今ぼくは構想して高階秀爾先生の本も読んでいるのだが、芸術家という存在がこの世に存在できるためには、それを可能にする社会的条件が必要だということはいうまでもない。そしてその存在条件は、時代によって国によって異なる。社会学はそれをつねに考えているから、とりあえず15世紀以降のヨーロッパの造形美術というものに焦点を置いたとき、「近代」というものの性格を確認しておく必要がある。そして、極東の島国日本は西洋社会と若干の接触はあったとはいえ、19世紀半ばまではほぼ無関係に生きていた。それが明治の開国とともに、一気に西洋近代の文明を取り込もうとして、必死の摂取をはじめ、その中でアートについても、涙ぐましい学習をすることになった。それは滑稽なほど、短期間で西洋美術史を追いかける余裕はないので、とりあえずパリに行って、そこで最新流行の美術を見てそれを模倣することで近代化を達成しようとした。
しかし19世紀から20世紀はじめの西洋美術は、「個性の美学」へとなだれ込んでいたから、主張すべき自己そのものをアジアの画家は見つけなければならなった。それが可能になるには、芸術を社会のなかで経済的に成り立たせるだけの条件が必要だった。
「このような「個性の美学」の登場は、芸術家の側から見るなら、ルネッサンス期に始まった芸術家の自己主張、ないしは自我の確立の動きのひとつの到達点として捉えることができるであろう。事実、他人とは違ったかけがえのない自己という意味での「芸術家」という概念は、ルネッサンス時代に生まれて来たように思われる。しかしそれが、十九世紀にいたって今日見るような極めて先鋭化されたかたちの個性の主張にまで発展してきた背後には、芸術家の側からの自覚と並んで、社会一般の芸術ないしは芸術家に対する考え方の変化も、大いにあずかって力あったことは否定できない。というよりも、芸術家の「自己主張」は、ある意味で、社会のなかにおける芸術家の役割の変化と密接にからみ合って歴史に登場して来たのである。
そのことを何よりもよく示すのは、十九世紀から二十世紀初頭にかけての新しい近代絵画のさまざまな動きが、一般の社会からどのように受けとめられたかというその歴史であろう。印象派から後期印象派を経て、フォーヴィスム、キュビスムと続く絵画の「前衛運動」が、歴史上どれほど大きな役割を果たしたかは、今さらあらためて指摘するまでもなく明らかである。しかしそれと同時に、これらの多くの優れた試みが、当時の人びとからいかに手酷しい批判と嘲笑を受けたかも、またあまりに有名である。もともと、「印象派」にしても、「フォーヴィスム」、「キュビスム」にしても、その名称自体が彼らに対して与えられた悪口に基づいていることは、しばしば指摘されている通りである。そして、何回受験しても遂に美術学校に入学することのできなかったセザンヌや、そのセザンヌとともに生涯ほとんど作品を売ることのできなかったシスレーやゴッホから、珠玉のような美しい作品を数多く残しながら、貧窮のどん底で世を去った放浪画家モディリアニにいたるまで、世間の無理解に苦しめられた芸術家の悲劇は、例を挙げだせばほとんどかぎりがない。事実、近代絵画の歴史をひもといてみれば、例えばセザンヌの「首吊りの家」やルノワールの「桟敷席」やモネの「印象、日の出」のような名作の並んでいた展覧会が批評家たちからいっせいに激しい非難を受けたとか、マティス、ルオー、ヴラマンク、ドランなどが顔を揃えていた展覧会が野獣の集まりに譬えられたといったようなエビソードを容易に見つけ出せるはすである。
だが、それらの興味深い多くのエピソードは、単に歴史に多少の彩を添えるいわばこぼれ話であったのではない。世に容れられない芸術家というのは、おそらくどの時代にもいたに違いないが、歴史の流れを大きく変えるような重要なはたらきを演じた主要な芸術家たちが揃って世に容れられなかったというような事態は、この時代までかつてなかったことだからである。たしかに、ミケランジェロは、保護者であった教皇としばしば意見が合わず、時には激しく衝突したりもしているが、しかし、ミケランジェロが当時における最も優れた芸術家の一人であったことは、当の教皇をはじめとして、ほとんどの人から認められていた。対社会との関係において眺めた場合、ミケランジェロの悲劇は、セザンヌやゴッホの悲劇と、本質的に違っていたのである。
芸術家と社会とのその対立が、はっきりしたかたちで現れるようになったのは、印象派の先輩にあたるクールベ、マネあたりからだといってよいであろう。一八五五年のパリ万国博覧会の際、自分の作品が拒否されたのを不満として、博覧会のすぐ向かいの場所で自己主張を試みたクールベの有名な「レアリスム」展は、その点で極めて重要な歴史的意味をもっている。それは、展覧会としては失敗であったとしても、クールベの存在を世に知らしめるのには大きな役割を果たした。そして、それから八年後、マネが有名な「落選展」において、「草上の昼餐」により前例を見ないような激しいスキャンダルを惹き起したことは、芸術家と社会のあいだの溝をさらにいっそう拡げるものであった。事実、一八五〇年代がクールベの時代であったとすれば、一八六〇年代はマネの時代だといってもよいのだが、そのマネが世に知られるようになったのは、「草上の昼餐」と、それに続く一八六五年のサロンの「オランピア」のスキャンダルによってであった。つまり、世の人びとの非難を受けるというかたちで有名になったのだが、このようないわば反社会的な登場の仕方は、マネ以後近代芸術家たちのほとんどにとってはそれほど異常なことではないとしても、十九世紀前半までの時代においては、まず考えられないところであった。ロマン派の時代にドラクロワが新古典派の画家や批評家たちから酷しい非難攻撃を受けたことは事実だとしても、それはサロンに入選した作品についてであって、当時においてサロンに作品が展示されるということは、すでにそれだけである程度まで社会に認められたことであった。「草上の昼餐」が「落選展」という明らかに社会から拒否された場所で人びとの憤激を買い、「オランピア」が「見せしめ」としてサロンに展示されたということ自体が、芸術家と社会のあいだの関係が歴史の上で大きく変わってきたことを物語るものであろう。
このような事態を確認することは、改めて社会における芸術家の役割を考え直させるようにわれわれをうながすものである。おそらく、長い芸術の歴史において、十九世紀にいたるまでは、芸術家はほとんどつねに社会のなかである明確な場所と役割を与えられているように思われる。もちろん、例えば三万年も四万年も昔の先史時代の洞窟壁画、—-われわれにとって知られているかぎり最も早い時期に属する芸術――が当時の社会においてどのような役割を演じていたが、正確に知ることは難しい。しかし、例えば、フロベニスが語っている現代のアフリカのブッシュマンたちの風習やその他のデータから推測して、ラスコーやアルタミラの洞窟壁画が、狩猟の成功を祈念する何か呪術的な役割をもっていたことは、ほぼたしかであるように思われる。そしてそれは、先史時代においては、おそらく神に仕える祭祀にも似たきわめて重要な役割をもっていたはずである。
その先史時代以後、古代農業帝国から古典古代を経て、中世、ルネッサンスと続く西欧の芸術の歴史を、社会との関係において辿ることは、ここでは重要ではないであろう。それはおそらく、この小論とは別のテーマである。ただ、十九世紀における「個性の美学」と直接関係する問題として、展覧会というものの発生とその変遷については、多少触れておくべきであろう。
今日われわれは、美術の鑑賞といえば、町の画廊における個展にせよ、美術館における団体展にせよ、ともかく展覧会という形式を思い浮かべるのがまず普通である。それだけに、芸術家が自己の作品を世に示す場としての展覧会というものを、きわめて一般的な存在と考えがちである。しかし、事実は、歴史の上で展覧会が登場して来るのは、形式的には十七世紀の後半のことであり、実質的には、それからさらに百年もしてからである。もともとフラクロワやアングルなど、十九世紀の画家たちの活躍した「サロン」と呼ばれる官設展が設立されたのは、十七世紀のルイ十四世紀の時代であった。それは、著名な芸術家たちを集めたアカデミーの行なう仕事のひとつとして定められたのである。しかしながら、その設立の当初においては、サロンは、事実上機能しなかった。いうまでもなく、展覧会が成立するためには、一方において多くの人びとに作品を示したいという芸術家が、他方において芸術家たちの作品を見たいという一般の公衆が存在しなければならない。十七世紀においては、そのような社会的条件は、まったくなかったといわないまでも、ほとんどないに等しかったからである。
ルネッサンスは、たしかに「個性」に目覚めた芸術家というものを生み出したが、その芸術家を受け入れる社会の方は、一般の公衆というよりも、教会、王侯貴族、富裕な商人など、ごく少数の特別の人びとによって代表されていた。そのことは、ルネッサンスの著名な巨匠たちが誰のために仕事をしたかを思い浮かべてみれば明らかである。ミケランジェロやラファエルロに仕事を命じたのは、ユリウス二世やレオ十世などの教皇たち、あるいは有力な枢機卿、さらにはメディチ家などの銀行家であり、レオナルドの保護者は、ミラノ公やフランス国王であった。そして、このような事情は、十七世紀まで、大きく変わることはなかったのである。
ユリウス二世がシスティナ礼拝堂の装飾を思い立った時、あるいはルイ十四世が自分の肖像画を宮殿の中に飾りたいと望んだ時、誰にその仕事を依頼するかを決めるために、展覧会に出かけて多くの芸術家たちの作品を眺める必要はなかった。彼らは、自分たちのよく知っているお抱えの芸術家に一言命令すればそれでよかったのである。すなわち、芸術家の生活を支える――したがって芸術そのものの存在を支える――社会的、経済的基盤は、少数の「芸術に理解のある」保護者たちであり、その保護者と芸術家との関係は、個人的、直接的なものであって、展覧会のような仲介機構を必要としなかったのである。
このような関係が大きく変わってくるのは、教会、王侯貴族、大商人などの少数の保護者に代わって、一般の市民たちが芸術の経済的担い手となってからである。もちろんそれは、芸術に関してのみならず、一般に社会のあらゆる活動の中心が少数の権力者から一般の市民たちに移って行く過程と見合っている。十八世紀のフランスは、八〇年代の末まで形の上では王政が続いていたにもかかわらず、社会の活動の担い手が国王を中心とする宮廷の貴族から一般の市民たちへと次第に移行して行った時代である。宮廷は依然として芸術の重要な保護者であり続けたには違いないが、それと同時に、主として上流の市民たちが、芸術活動を支える重要な層としてクローズアップされるようになって来る。しかしながら、これらの市民たちは、一般的に国王や大貴族のような資力も権力ももち合わせていないから、お抱えの芸術家を雇うことはできないし、またそうしようという気もない。彼らは、芸術家を雇うよりも、作品を買うのである。また芸術家の方も、少数の保護者をあてにしているだけではすまず、多数の人びとに作品を売らなければならない。したがって、芸術家の方としては、自分の作品を大勢の人に知って貰う必要があるし、顧客である市民たちには、気に入った作品を見つけ出す場所が必要となる。このような双方の要請に応じて登場して来た――というよりもあらためてその役割が認められた――のが、展覧会、フランスの場合でいえば、サロンにほかならなかったのである。
事実、十七世紀にかたちだけはととのえられたサロンが事実上機能しだすのは、十八世紀の三〇年代のことであり、まがりなりにも定期的に開催される体制が出来上がるのは、十八世紀の後半のことである。つまり端的にいって、芸術作品の売手と買手、あるいは生産者と消費者の関係が変わって、商品である作品展示のための場所が必要になって来た時はじめて、展覧会は社会的にその存在理由を認められるようになったのである。
公の展覧会の持つこのような社会的性格は、今日においても本質的には変わっていない。例えば、そのことをよく示す代表的な例のひとつとして、イギリスのロイヤル・アカデミーの展覧会を挙げることができるだろう。毎年五月から夏にかけてロンドンで開催されるこの展覧会は、もちろん芸術的意味をもった年中行事であるには違いないが、基本的には、商品の展示場である。会場であるバーリントン・ハウスの正面の階段を上って展覧会場にはいると、最初の部屋に、全出品作品の価格表が張り出されており、各展示室の入口には、またそれぞれの部屋に並んでいる作品の価格が掲示されていて、各作品には、非売品、売約済などのしるしがつけられている。そして、作品の購入申し込みを受け付けるセールス・ビューローは、カタログ売り場のすぐ前にあって、少なくともカタログ売り場と同じくらいの場所を占めている。見物客の方も、大半の人びとが、値段と作品を見比べながらあれがいいとかこれにしようといっているのは、まるでデパートの家具売場を思わせる。事実、それらの作品は、まぎれもなく家具と同じような商品であり、展覧会場は、それらの商品の展示場である。ロイヤル・アカデミー展のように、芸術運動の中心としての力を大半失ってしまった展覧会では、なおのことその商品展示場としての性格が強調されるのかもしれない。
イギリスのロイヤル・アカデミーが創設されたのは、フランスのアカデミーよりほぼ一世紀後の一七七六年のことであった。この頃、すなわち十八世紀の後半には、ヨーロッパの主要都市において、つぎつぎと類似の組織が生まれて来ている。ある研究によると、一七二〇年にヨーロッパでその名にふさわしい活動をしていたアカデミーの数はわずか四つであり、二十年後の一七四〇年においても、ロシアを含めて十を数えるのみであった。ところが、それから半世紀後、十八世紀の末には、いっきょに十倍の百以上のアカデミーが登場して来ているという。そしてアカデミーの主要な機能は、美術教育と公の展覧会の開催であったから、この頃になってようやく、展覧会という形式が社会のなかに定着してきたということができるのである。」高階秀爾「近代にける芸術と人間」(『西洋芸術の精神』青土社、1979. )pp.388-395.
日本でアカデミーというか文部省が主催する展覧会(文展)が始まるのは、19世紀末である。