gooブログはじめました!

写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

戦争ができるようになった・・次は戦死者か

2016-03-30 04:02:21 | 日記
A.「反共」というスローガンはまだ有効か?
 安保法制施行に合わせて各地の反対行動も今日の新聞は伝えているが、国会での政府の答弁はみな日米同盟は強化され情報共有もすすんで、これでよかったんだと強調している。それに菅官房長官は記者会見で、国民の安保法への理解について「昨今の世論調査では、(賛否が)逆転するところもあり、ほとんど接近してきているのではないか。法成立当時に比べて国民の理解は大幅に進んできていると思う」と自信を示したという。北朝鮮がもっと変なことをやってくれると、国民の理解が進むと言いかねない。敵をみつけて人々の不安を煽るという、やくざっぽいやり口である。一方で、国民が余計なことを考えずに、去年9月のほとぼりがさめるのを期待している感じもする。1933年のドイツで実際に起ったことは、思い出す価値がある。

東京新聞2016年3月29日夕刊1面:紙つぶて  中野晃一(上智大学教授)
「ナチスの手口:自民党が、野党共闘を指して「民共合作」とおとしめようとしたのにはあきれました。抗日戦争などのために中国の国民党と共産党が結んだ協力関係を指す「国共合作」をもじったものですが、そうすることで自民党は図らずも、中国に侵略した大日本帝国に自らを重ねる、復古的な右翼勢力であることを暴露してしまったわけです。しかも、その筋書きで行くと「民共合作」に敗れることになりますからバカらしくて失笑してしまいました。
 笑ってばかりもいられません。「ナチスの手口」に学んだらどうかと言った麻生太郎副総理はいまだ健在、安倍政権は立憲主義を踏みにじる安保法制を整備。今度はナチスの「全権委任法」ばりの国家緊急権を設ける改憲を目指すなかで出てきたのが、共産党が暴力革命の方針を変更していないという荒唐無稽な政府答弁書の閣議決定です。
 廃止すべきムダな官庁として悪名高い公安調査庁が、アリバイ作りに共産党などを調査対象として今まで存続してきたこと自体が問題です。ましてや、クーデターまがいの違憲立法を強行した安倍政権が国家権力を乱用して、「憲法を守れ」と訴えてきた共産党のことを、暴力革命を企てていると攻撃するとは。国会議事堂放火事件の罪を共産党になすりつけ弾圧、人心不安をあおって独裁を確立したのが「ナチスの手口」だったことを思い出さずにいられません。」

 日本共産党が武力革命路線を唱えていたのは、半世紀以上昔だが、昭和の初めから「反共」というスローガンは、一般の日本国民の間で心理的恐怖を喚起する言葉だったと思う。当時はソ連という共産主義を奉じる大国があって、世界中で革命を企てている、という構図が信じられていたし、日本ではそれに加えて共産党が天皇制打倒という方針をもっていたから、帝国憲法からいっても国体紊乱、日本という国家を根底からひっくり返す政党といえばその通りだった。すくなくとも天皇陛下と臣民からなる日本というものを当然のことと思っていた人たちは、共産主義を伝染病以上に恐れた。それから日本は大戦争をやって敗北し、このときも指導者たちが何より恐れたのは敗戦のどさくさにソ連が攻めてきて、日本の半分を共産主義にしてしまうことだった。実際にドイツや朝鮮半島ではそうなった。現実政治のリアリズムという点で見れば、それを回避する道は昨日まで敵だったアメリカに全部明け渡すしかない、沖縄は好きなだけ基地にしてほしいと昭和天皇と保守政治家は考えた。それが「反共」である。
 それから70年。いま安倍政権にいる人たちの半分くらいはたぶん「反共」という言葉が、まだ政治的に意味があると思っているのかもしれない。しかし共産主義も社会主義も20世紀に思想的にも政治的にも終ってしまって、北朝鮮のような個人独裁国は共産主義とはとてもいえない。当の共産党が武力革命も天皇制廃止も捨てて、ただの護憲派リベラル野党になっているのは明らかだろう。それでも、まだ「反共」が野党攻撃に利用できるのなら使ってやろうというなら、政治の技術としてはわかる。でも、本気で「反共」思想を信じているならそれは現代に生きている政治家とは言えない。21世紀の世界を見通すにはそんな時代劇みたいな観念は、いずれにせよ捨てなければ何も見えなくなる。



B.芸術と社会・芸術家のあり方とそれを成り立たせる条件
 芸術の社会学、というものを今ぼくは構想して高階秀爾先生の本も読んでいるのだが、芸術家という存在がこの世に存在できるためには、それを可能にする社会的条件が必要だということはいうまでもない。そしてその存在条件は、時代によって国によって異なる。社会学はそれをつねに考えているから、とりあえず15世紀以降のヨーロッパの造形美術というものに焦点を置いたとき、「近代」というものの性格を確認しておく必要がある。そして、極東の島国日本は西洋社会と若干の接触はあったとはいえ、19世紀半ばまではほぼ無関係に生きていた。それが明治の開国とともに、一気に西洋近代の文明を取り込もうとして、必死の摂取をはじめ、その中でアートについても、涙ぐましい学習をすることになった。それは滑稽なほど、短期間で西洋美術史を追いかける余裕はないので、とりあえずパリに行って、そこで最新流行の美術を見てそれを模倣することで近代化を達成しようとした。
 しかし19世紀から20世紀はじめの西洋美術は、「個性の美学」へとなだれ込んでいたから、主張すべき自己そのものをアジアの画家は見つけなければならなった。それが可能になるには、芸術を社会のなかで経済的に成り立たせるだけの条件が必要だった。

「このような「個性の美学」の登場は、芸術家の側から見るなら、ルネッサンス期に始まった芸術家の自己主張、ないしは自我の確立の動きのひとつの到達点として捉えることができるであろう。事実、他人とは違ったかけがえのない自己という意味での「芸術家」という概念は、ルネッサンス時代に生まれて来たように思われる。しかしそれが、十九世紀にいたって今日見るような極めて先鋭化されたかたちの個性の主張にまで発展してきた背後には、芸術家の側からの自覚と並んで、社会一般の芸術ないしは芸術家に対する考え方の変化も、大いにあずかって力あったことは否定できない。というよりも、芸術家の「自己主張」は、ある意味で、社会のなかにおける芸術家の役割の変化と密接にからみ合って歴史に登場して来たのである。
 そのことを何よりもよく示すのは、十九世紀から二十世紀初頭にかけての新しい近代絵画のさまざまな動きが、一般の社会からどのように受けとめられたかというその歴史であろう。印象派から後期印象派を経て、フォーヴィスム、キュビスムと続く絵画の「前衛運動」が、歴史上どれほど大きな役割を果たしたかは、今さらあらためて指摘するまでもなく明らかである。しかしそれと同時に、これらの多くの優れた試みが、当時の人びとからいかに手酷しい批判と嘲笑を受けたかも、またあまりに有名である。もともと、「印象派」にしても、「フォーヴィスム」、「キュビスム」にしても、その名称自体が彼らに対して与えられた悪口に基づいていることは、しばしば指摘されている通りである。そして、何回受験しても遂に美術学校に入学することのできなかったセザンヌや、そのセザンヌとともに生涯ほとんど作品を売ることのできなかったシスレーやゴッホから、珠玉のような美しい作品を数多く残しながら、貧窮のどん底で世を去った放浪画家モディリアニにいたるまで、世間の無理解に苦しめられた芸術家の悲劇は、例を挙げだせばほとんどかぎりがない。事実、近代絵画の歴史をひもといてみれば、例えばセザンヌの「首吊りの家」やルノワールの「桟敷席」やモネの「印象、日の出」のような名作の並んでいた展覧会が批評家たちからいっせいに激しい非難を受けたとか、マティス、ルオー、ヴラマンク、ドランなどが顔を揃えていた展覧会が野獣の集まりに譬えられたといったようなエビソードを容易に見つけ出せるはすである。
 だが、それらの興味深い多くのエピソードは、単に歴史に多少の彩を添えるいわばこぼれ話であったのではない。世に容れられない芸術家というのは、おそらくどの時代にもいたに違いないが、歴史の流れを大きく変えるような重要なはたらきを演じた主要な芸術家たちが揃って世に容れられなかったというような事態は、この時代までかつてなかったことだからである。たしかに、ミケランジェロは、保護者であった教皇としばしば意見が合わず、時には激しく衝突したりもしているが、しかし、ミケランジェロが当時における最も優れた芸術家の一人であったことは、当の教皇をはじめとして、ほとんどの人から認められていた。対社会との関係において眺めた場合、ミケランジェロの悲劇は、セザンヌやゴッホの悲劇と、本質的に違っていたのである。
 芸術家と社会とのその対立が、はっきりしたかたちで現れるようになったのは、印象派の先輩にあたるクールベ、マネあたりからだといってよいであろう。一八五五年のパリ万国博覧会の際、自分の作品が拒否されたのを不満として、博覧会のすぐ向かいの場所で自己主張を試みたクールベの有名な「レアリスム」展は、その点で極めて重要な歴史的意味をもっている。それは、展覧会としては失敗であったとしても、クールベの存在を世に知らしめるのには大きな役割を果たした。そして、それから八年後、マネが有名な「落選展」において、「草上の昼餐」により前例を見ないような激しいスキャンダルを惹き起したことは、芸術家と社会のあいだの溝をさらにいっそう拡げるものであった。事実、一八五〇年代がクールベの時代であったとすれば、一八六〇年代はマネの時代だといってもよいのだが、そのマネが世に知られるようになったのは、「草上の昼餐」と、それに続く一八六五年のサロンの「オランピア」のスキャンダルによってであった。つまり、世の人びとの非難を受けるというかたちで有名になったのだが、このようないわば反社会的な登場の仕方は、マネ以後近代芸術家たちのほとんどにとってはそれほど異常なことではないとしても、十九世紀前半までの時代においては、まず考えられないところであった。ロマン派の時代にドラクロワが新古典派の画家や批評家たちから酷しい非難攻撃を受けたことは事実だとしても、それはサロンに入選した作品についてであって、当時においてサロンに作品が展示されるということは、すでにそれだけである程度まで社会に認められたことであった。「草上の昼餐」が「落選展」という明らかに社会から拒否された場所で人びとの憤激を買い、「オランピア」が「見せしめ」としてサロンに展示されたということ自体が、芸術家と社会のあいだの関係が歴史の上で大きく変わってきたことを物語るものであろう。
 このような事態を確認することは、改めて社会における芸術家の役割を考え直させるようにわれわれをうながすものである。おそらく、長い芸術の歴史において、十九世紀にいたるまでは、芸術家はほとんどつねに社会のなかである明確な場所と役割を与えられているように思われる。もちろん、例えば三万年も四万年も昔の先史時代の洞窟壁画、—-われわれにとって知られているかぎり最も早い時期に属する芸術――が当時の社会においてどのような役割を演じていたが、正確に知ることは難しい。しかし、例えば、フロベニスが語っている現代のアフリカのブッシュマンたちの風習やその他のデータから推測して、ラスコーやアルタミラの洞窟壁画が、狩猟の成功を祈念する何か呪術的な役割をもっていたことは、ほぼたしかであるように思われる。そしてそれは、先史時代においては、おそらく神に仕える祭祀にも似たきわめて重要な役割をもっていたはずである。
 その先史時代以後、古代農業帝国から古典古代を経て、中世、ルネッサンスと続く西欧の芸術の歴史を、社会との関係において辿ることは、ここでは重要ではないであろう。それはおそらく、この小論とは別のテーマである。ただ、十九世紀における「個性の美学」と直接関係する問題として、展覧会というものの発生とその変遷については、多少触れておくべきであろう。
 今日われわれは、美術の鑑賞といえば、町の画廊における個展にせよ、美術館における団体展にせよ、ともかく展覧会という形式を思い浮かべるのがまず普通である。それだけに、芸術家が自己の作品を世に示す場としての展覧会というものを、きわめて一般的な存在と考えがちである。しかし、事実は、歴史の上で展覧会が登場して来るのは、形式的には十七世紀の後半のことであり、実質的には、それからさらに百年もしてからである。もともとフラクロワやアングルなど、十九世紀の画家たちの活躍した「サロン」と呼ばれる官設展が設立されたのは、十七世紀のルイ十四世紀の時代であった。それは、著名な芸術家たちを集めたアカデミーの行なう仕事のひとつとして定められたのである。しかしながら、その設立の当初においては、サロンは、事実上機能しなかった。いうまでもなく、展覧会が成立するためには、一方において多くの人びとに作品を示したいという芸術家が、他方において芸術家たちの作品を見たいという一般の公衆が存在しなければならない。十七世紀においては、そのような社会的条件は、まったくなかったといわないまでも、ほとんどないに等しかったからである。
 ルネッサンスは、たしかに「個性」に目覚めた芸術家というものを生み出したが、その芸術家を受け入れる社会の方は、一般の公衆というよりも、教会、王侯貴族、富裕な商人など、ごく少数の特別の人びとによって代表されていた。そのことは、ルネッサンスの著名な巨匠たちが誰のために仕事をしたかを思い浮かべてみれば明らかである。ミケランジェロやラファエルロに仕事を命じたのは、ユリウス二世やレオ十世などの教皇たち、あるいは有力な枢機卿、さらにはメディチ家などの銀行家であり、レオナルドの保護者は、ミラノ公やフランス国王であった。そして、このような事情は、十七世紀まで、大きく変わることはなかったのである。
 ユリウス二世がシスティナ礼拝堂の装飾を思い立った時、あるいはルイ十四世が自分の肖像画を宮殿の中に飾りたいと望んだ時、誰にその仕事を依頼するかを決めるために、展覧会に出かけて多くの芸術家たちの作品を眺める必要はなかった。彼らは、自分たちのよく知っているお抱えの芸術家に一言命令すればそれでよかったのである。すなわち、芸術家の生活を支える――したがって芸術そのものの存在を支える――社会的、経済的基盤は、少数の「芸術に理解のある」保護者たちであり、その保護者と芸術家との関係は、個人的、直接的なものであって、展覧会のような仲介機構を必要としなかったのである。
 このような関係が大きく変わってくるのは、教会、王侯貴族、大商人などの少数の保護者に代わって、一般の市民たちが芸術の経済的担い手となってからである。もちろんそれは、芸術に関してのみならず、一般に社会のあらゆる活動の中心が少数の権力者から一般の市民たちに移って行く過程と見合っている。十八世紀のフランスは、八〇年代の末まで形の上では王政が続いていたにもかかわらず、社会の活動の担い手が国王を中心とする宮廷の貴族から一般の市民たちへと次第に移行して行った時代である。宮廷は依然として芸術の重要な保護者であり続けたには違いないが、それと同時に、主として上流の市民たちが、芸術活動を支える重要な層としてクローズアップされるようになって来る。しかしながら、これらの市民たちは、一般的に国王や大貴族のような資力も権力ももち合わせていないから、お抱えの芸術家を雇うことはできないし、またそうしようという気もない。彼らは、芸術家を雇うよりも、作品を買うのである。また芸術家の方も、少数の保護者をあてにしているだけではすまず、多数の人びとに作品を売らなければならない。したがって、芸術家の方としては、自分の作品を大勢の人に知って貰う必要があるし、顧客である市民たちには、気に入った作品を見つけ出す場所が必要となる。このような双方の要請に応じて登場して来た――というよりもあらためてその役割が認められた――のが、展覧会、フランスの場合でいえば、サロンにほかならなかったのである。
 事実、十七世紀にかたちだけはととのえられたサロンが事実上機能しだすのは、十八世紀の三〇年代のことであり、まがりなりにも定期的に開催される体制が出来上がるのは、十八世紀の後半のことである。つまり端的にいって、芸術作品の売手と買手、あるいは生産者と消費者の関係が変わって、商品である作品展示のための場所が必要になって来た時はじめて、展覧会は社会的にその存在理由を認められるようになったのである。
 公の展覧会の持つこのような社会的性格は、今日においても本質的には変わっていない。例えば、そのことをよく示す代表的な例のひとつとして、イギリスのロイヤル・アカデミーの展覧会を挙げることができるだろう。毎年五月から夏にかけてロンドンで開催されるこの展覧会は、もちろん芸術的意味をもった年中行事であるには違いないが、基本的には、商品の展示場である。会場であるバーリントン・ハウスの正面の階段を上って展覧会場にはいると、最初の部屋に、全出品作品の価格表が張り出されており、各展示室の入口には、またそれぞれの部屋に並んでいる作品の価格が掲示されていて、各作品には、非売品、売約済などのしるしがつけられている。そして、作品の購入申し込みを受け付けるセールス・ビューローは、カタログ売り場のすぐ前にあって、少なくともカタログ売り場と同じくらいの場所を占めている。見物客の方も、大半の人びとが、値段と作品を見比べながらあれがいいとかこれにしようといっているのは、まるでデパートの家具売場を思わせる。事実、それらの作品は、まぎれもなく家具と同じような商品であり、展覧会場は、それらの商品の展示場である。ロイヤル・アカデミー展のように、芸術運動の中心としての力を大半失ってしまった展覧会では、なおのことその商品展示場としての性格が強調されるのかもしれない。
 イギリスのロイヤル・アカデミーが創設されたのは、フランスのアカデミーよりほぼ一世紀後の一七七六年のことであった。この頃、すなわち十八世紀の後半には、ヨーロッパの主要都市において、つぎつぎと類似の組織が生まれて来ている。ある研究によると、一七二〇年にヨーロッパでその名にふさわしい活動をしていたアカデミーの数はわずか四つであり、二十年後の一七四〇年においても、ロシアを含めて十を数えるのみであった。ところが、それから半世紀後、十八世紀の末には、いっきょに十倍の百以上のアカデミーが登場して来ているという。そしてアカデミーの主要な機能は、美術教育と公の展覧会の開催であったから、この頃になってようやく、展覧会という形式が社会のなかに定着してきたということができるのである。」高階秀爾「近代にける芸術と人間」(『西洋芸術の精神』青土社、1979. )pp.388-395.

日本でアカデミーというか文部省が主催する展覧会(文展)が始まるのは、19世紀末である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目の付け所がシャープじゃなかった?モナリザの微笑み

2016-03-28 15:16:23 | 日記
A.企業と国家
 液晶の技術を誇っていたときのシャープのCM、亀山工場と吉永小百合、「目のつけどころがシャープでしょ」のコピーは今でも覚えている。日本のものづくり技術への自信は、高度経済成長を牽引した自動車、家電に象徴されてきた。そのシャープが台湾の鴻海(ホンハイ)に買収される、というニュースは、日本の経済力の凋落を示しているような印象を持った人も多いのではないか。しかし、この間まで好調だった一企業の経営の失敗と買収という出来事が、そのまま「日本経済」全体の衰弱になるわけではない。とはいえ、「国力」という掴みどころのないものを、戦前は軍隊軍備の拡大発展、戦後日本は大手メーカーの拡大発展に重ねてきたわけだから、その家電大手が外国資本に買収されるのは、ナショナリストには不愉快なものと感じられるんだろうな。
 シャープが「シャープペンシル」から始まったというのは知らなかった。迂闊。

「液晶テレビ「アクオス」などで知られるシャープ(大阪市)が、台湾の鴻海精密工業に買収されることになりました。鴻海は米アップルのiPhoneなど有名企業の製品づくりにかかわる巨大企業です。日本の大手電機メーカーが海外企業に買収されるのは初めてとなります。
 シャープと鴻海精密工業の比較

 鴻海は世界中の企業の依頼を受けて、様々な製品をつくっている。ソフトバンクの人型ロボット「ペッパー」や、ソニーの家庭用ゲーム機「プレイステーション4」などが有名だ。自分の会社では独自のブランドを持たず、他社のためにつくる「裏方」のような存在だ。売上高は15兆円もあって、ソニーやパナソニックよりずっと多いのに、あまり知られていないのはそのためだ。
 テレビや冷蔵庫など幅広い製品をつくるシャープのブランドを手に入れれば、ビジネスを広げることができる。スマートフォンの画面で将来主流になるとされる「有機ELパネル」の開発でも、シャープの技術を生かせるなどの利点がある。
 一方、日本の大手電機メーカーは、独立性を重んじて、これまで、海外企業の傘下に入ることはなかった。
 シャープは、主力商品の液晶パネルで、中国の景気減速もあって、売れ行きが伸び悩む。ここ5年間で計1兆円を超える赤字を出し、銀行からお金も借りにくくなっていた。
 シャープは、自力での立て直しが難しくなっていて、お金を出して助けてくれるところを探していたが、手を挙げたのが鴻海と、国が中心になってつくったファンドの産業革新機構。どちらも自分の支援案の方が優れていると主張していた。シャープが2月25日の取締役会で選んだのは、6千億円超のお金を出すとした鴻海だった。シャープは鴻海からのお金をもとに経営を再建し、従業員約4万4千人の雇用を守りたい考えだ。
 はじめは2月中に正式契約する予定だったが、先送りされていた。シャープには将来大きな損をするかもしれない問題が隠れているという指摘があり、鴻海が、詳しく調べることになったためだ。
 家電業界 世界で競争
 シャープは1912年に故早川徳次氏が立ち上げた会社だ。社名の由来になったのは、早川氏が発明した筆記用具のシャープペンシル。他社にはない独特な商品を開発して成長してきた。電子レンジが温め終わると「チン!」と鳴るのも、携帯電話にカメラをつけたのもシャープが最初だとされている。
 2000年代には液晶テレビ「アクオス」が大ヒット、04年に生産を始めた亀山工場(三重県)でつくったものは「世界の亀山モデル」として注目された。08年には売上高と純利益が過去最高になり、大手電機メーカーでも勝ち組のはずだった。
 ところが、工場をつくるのに銀行から巨額のお金を借りたことが響いてくる。ソニーやパナソニックなどほかの大手は、テレビが売れなくなって赤字が出ても、それまでの蓄えを切り崩すことでなんとか耐えられた。シャープは過剰な投資をしたことでお金に余裕がなくなり、身動きが取れなくなった。
 海外のライバルも強くなっていた。テレビもスマートフォンの分野では、韓国のサムスン電子やLG電子が急成長。シャープは安売り競争に巻き込まれていった。冷蔵庫や洗濯機といった白物家電では、中国のハイアールが旧三洋電機の事業を買うなどして大きくなり、いまや世界シェアトップ。「家電王国」といわれた日本のメーカーの存在感は全体的に低下している。
 有名なブランドや技術力を持っている日本のメーカーは、買収先をいつも探している海外企業からは「お買い得」のように見えるかもしれない。今後は海外企業の傘下に入るところが増えそうだ。シャープが海外企業のもとでうまく復活できるかどうか、ほかの日本企業からも注目されている。(西山明宏)」朝日新聞2016年3月19日夕刊、6面。

 「企業」は業を企むという字の通り、企んだ事業によって利益を得、消費者と従業員の生活に貢献する。それは比較的短期的な事業であるから、10年同じことをやっていたら競争に負ける。経営者は次々に新しい業を企んで、会社を大きくしようとする。しかし、百年続いたシャープも赤字を出して買収されたように、企業はどんどん変化して消えてしまうことも珍しくない。国家が潰れるのは犠牲が大きすぎるが、企業はうまく潰れれば人が死ぬわけではないし、悪いことでもない。



B.「モナリザ」の表現しているもの・純粋化と造形性
 誰でも知っている名画「モナリザ」は、ひとりの女性が坐っていてこっちを見ているというだけの絵だが、これがどうして世紀の名画なのか。いろんな解説は、絵の部分に近寄って構図とか技法とか背景の風景とか、あるいはレオナルドがモデルにしたのは誰か、とか説明してくれるが、それでほお!そんなに凄いのか・・たいしたもんだ、でこの微笑がどんな意味をもっているかは「謎」にして終わり、である。レオナルドはたくさんの絵を描いたが、この絵だけは王様などに頼まれて王宮や教会などに飾るために描いたのではなく、自分だけのために描いて自分が見るだけの絵として持っていた。彼は何が描きたかったのか?高階先生は、それを絵という手段で人の心、魂を表現できるか、への「暗示」の試みだった、と考えることができるという。

 「この「個性の美学」は、ドラクロワが早くから見抜いていたように、人間の魂の表現を目指すものであった。たとえそれが、現実の対象を借りて来てそれを画面に映し出す場合であっても、描き出されたものは、あくまでも、芸術家個人の内部の世界なのである。
 しかしながら、魂の世界は、本来色も形ももたない。少なくとも絵画や彫刻のような造形芸術は、直接に魂の世界を表現する術を知らない。したがって、芸術は、間接的な手段を利用することになる。近代芸術のもうひとつの大きな特徴である純粋化の傾向、ないしは造形性の主張は、実はこのことと無縁ではない。
 すでにルネッサンス時代において、レオナルドは「絵画作品というものは、人物の姿態によってその人の魂が考えていることを見る者に伝え得るようなものでなければならない」とそのノートに書きつけて、「魂の表現」が芸術の重要な目的のひとつであるという思想をはっきり表明している。彼が、人間のさまざまなポーズや表情を詳しく研究し、正確にそれを記録しようとしたのは、そのためである。しかし、表情やポーズによって魂の動きを捉えることができる場合はまだよい。だがレオナルドは、また、「何ら身体の動きをともなわない魂の動きというものもある」という一句も書き残している。そのような「魂の動き」は、いったい何によって表現したらよいのだろうか。
 ルネ・ユイグが正統に指摘している通り、あの「モナ・リザ」は、恐らくこの問題に対するレオナルド自身の解答であった。あの現実にははっきりと「微笑」と呼ぶこともできない神秘的な「微笑」はもちろんのこと、明確な輪郭線を否定したその精妙な「ぼかし」にしても、昼とも夜ともつかぬ夢のような薄明かりにしても、靄に包まれたかとも見える背後の幻想的な風景にしても、すべて不分明な曖昧さのなかに沈み込んでいて、それによってかえって、捉え難い内面の世界を見る者に感じさせるという力をもっている。すなわち、レオナルドが「モナ・リザ」で用いた方法は、描写や再現という以上に、「暗示」であった。明確な色も形ももっていない魂の内部の世界を見る者に伝えるためには、このような間接的な方法に頼る以外に道がないということを、レオナルドはよく心得ていたのである。
 自然を一つの辞書と見たドラクロアも、芸術の本質を「魂と魂との結びつき」と見て、色彩と形態という感覚的な手段によって、いかにしてその「魂の交流」を実現させるかということを自己の芸術の課題としていた。

 「関心の主要な源泉は、魂に発する。そしてそれは、さからい難い力をもって、見る者の魂の中にはいりこんで行く……」

 すなわち、逆のいい方をするなら、本来一人一人異なっていて、それぞれ「越え難い障壁」をもっている各個人の「魂」のあいだに橋をかけるものこそが芸術だといってよいであろう。そして、レオナルドの場合と同じように、ドラクロワにおいても、明確には捉え難い魂を表現する手段は、「暗示」であった。ドラクロワ、およびドラクロワを中心とするロマン主義の絵画が、何よりも色彩の輝きを重要視したのは、そのためにほかならなかった。色彩こそ、単なる描写や記録という役割を越えて、直接人間の魂を揺り動かす不思議な力をもっているからである。

 「通俗的な意見とは逆に、私は、色彩こそはるかに神秘的で、そしておそらくはいっそう力強い力をもっていると主張したい。色彩は、いわばわれわれの気がつかないうちに、われわれに働きかけるのだ」

 と彼は書いている。色彩のもつこのような喚起力が、印象派による色彩の解放に続いて、例えばゴッホやゴーギャンなどのいわゆる後期印象派の画家たちによって、意識的に追及されるようになるのは、広く知られている通りである。事実ゴッホは、「赤と緑によって人間の恐ろしい情念を表現する」ことを目指していたし、ゴーギャンも、「色彩は、線ほどの多様性はもっていないとしても、眼に対するその力によって、いっそう多くのことを伝えることができる」と宣言している。つまり、ここでは、色彩は再現的機能や約束事の世界を離れて、それ自体の表現力のために用いられるようになっている。ゴッホは、ひまわりを描くために黄色を使うのではなく、黄色のもつ表現力を思い切って発揮させるために、ひまわりという主題を選ぶのである。とすれば、やがてその色彩が、対象から完全に独立して、純粋に「造形的」あるいは「象徴的」に利用されるようになるのも、必然的な成行きだといってよいであろう。
 第一次世界大戦直前、すなわち、ちょうど二十世紀の抽象絵画が登場して来ようという時期に、詩人批評家のギヨーム・アポリネールは、絵画の「純粋化」を予見して、「これまでの伝統的な絵画に対して、新しい絵画は、ちょうど文学に対する音楽のようなものになるだろう」と語ったが、それこそ、いわば「魂の言語」としての絵画のひとつの到達点を示すものであったといい得るものである。
 アポリネールが、上に引いた一節のなかで絵画を音楽になぞらえているのは、はなはだ興味深いことといってよい。なぜなら、音楽は、何よりも感覚を通して働きかける「暗示」の芸術であり、ロマン主義以来、「個性の美学」の主張は、多かれ少なかれ音楽とのつながりを強調しているからである。事実ドラクロワは、例えばその最晩年のパリのサン・シュルピス聖堂の壁画を制作していた時には、絶えずモツアルトの音楽に勇気づけられたと自ら語っているほど音楽に惹かれており、日記のなかに、次のような興味深い一節を書き記している。

 「色彩や、光や、影の組み合わせから生まれて来るある種の印象がある……。それは、絵画の音楽と呼んでもよいようなものだ。大聖堂の中に足を踏み入れて、向こうにある絵が一体何を描き出しているのかよくわからないほど遠く離れている場合でも、人はしばしば、その色彩の魔術的な和音に捉えられてしまうものだ。」

 ドラクロワのこのような考え方が、決して彼一人のものではなく、むしろ十九世紀の特に中頃から後半にかけて、多くの詩人や芸術家たちに共通するいわば時代の雰囲気であったことは、直接にドラクロワの考えを受けついだボードレールをはじめ、象徴派の詩人や画家、さらには、あらゆる芸術の理想のかたちとして音楽を考えたイギリスのウォルター・ペイターやドイツのショーペンハウエルのことを思い出してみただけでも明らかであろう。事実、ボードレールは、ほかならぬドラクロワについて語った文章のなかで、まるで符節を合わせたように、主題や写実的形態を越えた色彩そのものの「和音」の魅力を、次ぎのように語っている。

 「……ドラクロワの絵画作品は、その主題を分析したり、あるいは理解すらできないほど遠くから眺めた時でも、すでに魂に対し、豊かな、幸福な、あるいは憂鬱な印象を惹き起こす……。その色彩の見事な和音は、しばしばハーモニーと旋律に浸されており、彼の作品から受ける印象は、しばしばほとんど音楽的である。」

 ボードレールは、さらに、「詩は、神秘的で未知の作詞法によって、音楽に近づく」ともいっている。「何よりもまず音楽を……」と歌ったヴェルレーヌは、このような時代の精神的動向を、意味深い一句のなかに結晶させたといってもよい。
 ヴェルレーヌと同時代の画家たちも、ドラクロワに続いて、しばしば「色彩の音楽」について語っている。特にゴーギャンは、「色彩の音楽的意味」とか、「近代絵画において色彩が持つ音楽的役割」といったようないい回しによって、絵画が見る人に与える深い内面的影響を好んで論じた。ゴーギャンは、マラルメやモアレスなどの象徴派詩人たちと親しかったが、ヨーロッパの文明世界を逃れてテヒティ島に渡ってからも、フランスの友人に宛てた手紙のなかで、次ぎのようにその考えを述べている。

 「色彩は、音楽と同じように振動であって、自然のなかにあって最も一般的でしかも最も捉え難いもの、すなわちその内部の力にまで達することが出来る。」

 そのゴーギャンと並んで、フォーヴィスムの色彩革命の重要な先駆者となったゴッホも、アルルからの手紙のなかで、

 「絵画は今や、いっそう微妙なものとなるべく約束されている。―-つまり、いっそう音楽に近く、彫刻から遠いものとなる――つまり、一口で言えば、色彩を約束されているのだ……」

 と語っている。ここでも、色彩はそのまま「音楽」と結びついているのである。
 いうまでもなく、音楽は、「魔術的な和音」と旋律によって、直接魂に訴えかける強い暗示力をもっている。十九世紀末の詩人や画家たちが、芸術の理想として音楽に憧れたのは、何よりもその直接的な喚起力のためであった。もちろん、その背後には、美術の分野ではアカデミーから印象派の画家たちにいたるまで、また文学の分野ではゾラやモーパッサンに代表されるような当時支配的であった写実的、自然主義的傾向に対する強い反撥があった。そして、絵画は、色彩のもつ「暗示的」な力を強調することによって、再現的役割を拒否した純粋に「造形的」な方向に向かうようになった。「暗示」を接点として、個性の美学と造形性の主張が結びついたのである。」高階秀爾「近代における芸術と人間」(『西欧芸術の精神』青土社、1979)pp.382-388.

 色彩は音楽に通じるというアイディアが、19世紀末から20世紀初めに語られた。でもその時の音楽といえば、後期ロマン派から印象派の音楽だよな。ただ、作曲家と画家って必ずしも同じことを考えていたとはいえないんじゃないかな。ロマン派、とか印象派って名前はついてるけど、そこのところはどうなんだろう。20世紀に繋がるところで、要素の分解と再構成という意味で、色彩と音楽を結びつけるのは理屈としてよくわかるけれど。もうちょと考えてみよう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「模倣」から「個性」へはアートの話で、医者が「個性的」なのはちょっと・・

2016-03-26 16:49:17 | 日記
A.医師をどのくらい用意するか?
 医師という職業は、弁護士などの法曹と並んで、難関の国家試験を通った者だけが就ける資格独占の仕事で、医学部で義務づけられる臨床研修を含め8年、さらに特定の診療科で専門医となるには3,4年かかるという。医学部に入るだけでもかなり勉強が必要でお金もかかるといわれる。その医学部は全国で80しかなく、37年間新設されていなかった。それは、医学部を増やすと医師の能力レベルが低下するので、人の生命を扱う医師の質を保つためだという。しかし、今回2つの医学部が新設認可された。東北薬科大と国際医療福祉大で、この決定はきわめて異例の政治的決定だという。東北薬科大は震災復興、千葉県成田市の国際医療福祉大はアベノミクスの国家戦略特区の特例措置という名目であるという。医師不足というけれども、どこでどういう医師が不足しているのか?

「医師不足対策 学部新設より偏在解消を: 東京慈恵会医科大学名誉教授 森山 寛    
 長く凍結されてきた医学部の新設が昨年、医師不足解消のためとして決まった。東北地方では震災からの復興を旗印に、被災自治体などの要望に呼応する形で東北薬科大での新設が37年ぶりに認可された。一方、千葉県成田市では国家戦略特区での特例措置により、「国際的な医療人の育成」をめ ざすとして国際医療福祉大学に認められた。
 ともに政治色の強い決定で、とくに後者は、アベノミクスの目玉の一つとして「岩盤規制に穴をあけた」規制改革の象徴とされているようだ。推進側の自治体、事業主、内閣府の3者を中心とする成田市分科会の5回、4時間程度の非公開の審議で決まった。医学部の内容についても東北のような構想審査会は開かれず、異例の経過だった。
 日本の医学・医療界を代表する全国医学部病院長会議、日本医師会、日本医学会は再三、医学部新設に反対の声明を出してきた。医師不足の解決にはつながらないからだ。
 地域での医師不足が社会問題化したのは、2004年の新臨床研修制度を機に、研修医の大学離れが加速し、大学病院の地域への医師派遣が困難となったためだ。このため08年から既存の80医学部・医科大学の入学定員を地域枠を中心に全国で1500人以上増やし、今では9200人を超えるまでになっている。
 地域枠の学生はこれから卒業し、地域医療への貢献が期待される。しかし、18歳人口が減少する中での急激な定員増加で、1、2年生の留年数が約1・6倍、休学者が約1・4倍となるなど学力低下もいわれる。
 入学定員がこのままだと、25年には医師数は現在の1・3倍以上となり、以後増加し続ける。少子化と団塊世代の高齢化などにより医療ニーズのピークは30年前後とされ、その後は明らかに医師過剰となる。
 医学教育は2年間の臨床研修を加えると最短でも8年、専門医取得にはさらに3,4年を要し、今医学部を新設しても、実際に働けるのは10年以上先だ。医師の養成数は時間軸を考えて調整すべきであり、医師の質の確保のためにも入学定員をむしろ削減する時期に来ている。
 現在言われる医師不足の主因は、地域や診療科、あるいは勤務医と開業医の割合などの偏在にある。偏在の解消と、卒業生の3分の1を占める女性医師の力を生かす方策こそが真の解決策となる。
 また、医師の事務負担を軽減して本来業務に専念できる体制作りもきわめて重要だ。
 限りある財源の中、医療機関の機能分化や医療と介護のすみわけなど、少子・高齢社会の現実を踏まえた議論こそが必要なときだ。」朝日新聞2016年3月26日朝刊、17面オピニオン欄。

 数が多い団塊世代が高齢者になって、今後15年ほどは医療ニーズが高まるとして、その後は医師が余るという予測はたしかに他の要因(年金・医療保険制度が崩壊するとか、長い戦争が起こるとか、大災害が起こるとか)が変らなければそうだろうと思える。今から医者を増やそうとしても医学部に入った学生が一人前の医師になるのに10年以上かかるから、間に合ったとしてもすぐ余るとしたら、増やすより医師の質を高める方がいい、というのもわかる。医者の利益団体の医師会としては、医学部新設より研修医への医学部の統制力を取り戻したいという動機もあるかな。
新自由主義のアベノミクス的には、医学部を作りたければどうぞ作って、変な医者が出たり食えない医者が出ても、免許をはく奪して転職させればいいだけだ、というのだろうが、さすがに無責任だよな。成田の医療福祉大はどうも利権や政治の異臭が漂いそう。戦後の国立大学は各県1校の医学部か医科大を置いて、そこから地域医療に医師を供給する体制だったが、実際は卒業生は大都市圏の条件の良い病院に行ってしまう。医師不足ってそこが問題なんだけどな。



B.絶対の美の「模倣」から作者の「個性」に変ったのが近代
 東京ではいつもいろいろな美術展が開かれているが、多くの人が料金を払って見に行くのはだいだい有名な芸術家の作品を並べたものだ。「古代オリエント美術」とか「中国兵馬俑」なんてのは、それを作った人の名もわからない時代だが、西洋近代の絵画や彫刻は、作者が誰かがはっきりしていて、1人の芸術家の初期から晩年まで解説付きで並んでいる。先日も上野の近代美術館で「カラヴァッジオ展」を見たけれども、現物はかなりの迫力で、なるほどこの画家がルネサンスからバロックに移る美術史でかなり大きな影響を後進の画家に与えたことが理解できた。
 しかし、17世紀から18世紀ぐらいまでは、作品を注文する王様貴族やそれを見る人々は作家の「個性」を見ることになど関心を置かなかった。古代のギリシアで完璧な美は完成されており、あとはいかにその美の規範を忠実に「模倣」できているかが問題だった。「模倣」が完全ならそれは文句なく美しく、それを作った作家は優れた職人として尊敬された。だが、作家の「個性」の違いなどはむしろ美の規範からの逸脱として考えられたと、高階先生は書く。そこが19世紀ではっきり転換し、「模倣」ではなく「個性」こそが美術作品を見るということの中心的な関心に変わった。これが要するに「近代」なのだと。

「今日では、芸術作品に、ほかならぬ芸術家その人の「個性的」なヴィジョンを求めることは、ほとんど自明の公理のように思われている。ガストン・シェサックの機智に富んだアフォリズムにもかかわらず、彼の作品がピカソそっくりだと思われていたあいだは、人びとは彼の作品に見向きもしなかった。近年、シェサックに対する評価が急速に高まり、パリの国立近代美術館で大がかりな回顧展が開催されるまでになったが、それは、皮肉にも、シェサックはピカソとは違うということに人々が気づきはじめたためであった。つまりシェサックの「個性」が認められた時、彼の芸術もまた評価されることになったのである。
 われわれはこのような「個性の美学」によって養われて来ているので、いつの時代においても、それが絶対的な芸術の基準であったと思いこみがちである。それだけに、長い芸術の歴史の上では、決して個性の主張だけが芸術の目的ではなかったこと、それどころか、「個性の美学」が支配的となったのは、何万年という単位で数えることのできる歴史において、せいぜい最近百年か百五十年ほどの短い期間に過ぎないという事実を思い出しておくのは、無意味ではないであろう。そして、いささか性急につけ加えれば、それこそが実は近代と呼ぶべきものなのである。
 もちろん、ということは、近代以前の芸術家たちに、個性がなかったということではない。デューラーにしてもレンブラントにしても、さらにはラファエルロのような代表的古典主義の画家でさえ、見紛うことのない明確な個性をもっていた。おそらくわれわれは、ルネッサンス以降の天才的な巨匠たちのなかに、多かれ少なかれこの「個性の美学」の萌芽を見ることが許されるであろう。しかしそれは、彼らの創造活動のむしろ結果であって、主要な動機でも目的でもなかった。少なくとも、ひとつの思想として体系づけられた美学、ないし芸術理論に関するかぎり、ルネッサンスの時代も、バロックの時代も、個々の芸術家の個性を越えた普遍的なものに至高の価値を置いていた。そして、芸術制作とは、その普遍的な価値の実現にほかならなかった。そのことは、例えば、十八世紀のちょうど中頃に刊行されて、ただちにヨーロッパ中で広く読まれるようになったドイツの美学者ヴィンケルマンの著書、『ギリシア芸術模倣論』の名を挙げるだけで、充分納得されるところであろう。その題名そのものがすでにはっきりと物語っているように、ヴィンケルマンにとっては、古代の優れた芸術を「模倣」することが、何よりも重要であり、芸術創造の最も正統な道であった。なぜなら、ヴィンケルマンによれば、ギリシア人たちこそ、かつてこの地上において最も完成された美の世界を実現した人々であり、したがって、その優れた成果は、後世の人々にとって、範例となるべきものだったからである。つまりここでは「個性」どころか、「模倣」こそが大切だったのである。
 そのことは、当然、単なる方法論だけの問題ではなく、芸術、ないしは美についての考え方と、深くかかわりあっている。「模倣」によって美の表現に到達することができるという考え方が成り立つためには、その前提として、少なくともギリシア以来、美が一定不変のものであり、あらゆる人にとってたしかに美と認められるものであったということが必要である。異なった時代のさまざまの人々によって等しく美と認められればこそ、それを手本として芸術作品を作ろうという考えが生まれて来るからである。
 したがって、『ギリシア芸術模倣論』を書いた時、ヴィンケルマンは、万人に共通な美の普遍性を信じていたはずである。事実、彼は絶対的な、「理想の美」の存在を説き、それこそがすべての芸術家の目指すべき目標であると主張した。この思想が、ジャック・ルイ・ダヴィッドを通してフランス十九世紀の新古典主義に受け継がれて行ったことは広く知られている通りである。
 もちろん、ヴィンケルマンは、何も特に変わったことをいったわけではない。個々の芸術家の活動を越えたところにある普遍的な「理想の美」という思想は、ルネッサンスの芸術家たちのものでもあったし、さらにさかのぼれば古代ギリシア以来のものであった。「美しいものは万人にとって美しい」というこの思想は、十八世紀の末までは、きわめて一般的なものであった。いやことによると、今日でもなお、それは多くの人々の心の中に生き続けているといってもよいかもしれない。それにもかかわらず、近代の芸術観において「個性の美学」が支配的であるとすれば、それは少なくとも芸術家たちのあいだにおいて、芸術についての考え方が、そしてさらにはその背後にある人間についての考え方が、大きく変化したためにほかならない。そのことはまた、今日さまざまな分野で見られる芸術と社会との隔たりをも説明してくれるものであろう。
 われわれはここで、もう一度あの冒頭にひいたリヒテルのエピソードに立ち戻ってみる必要があるだろう。四人の画家が、皆できるだけ忠実に目の前の同じ自然を再現しようとして、しかもお互いにまったく違った結果を生み出したとしたら、その理由は、当然一人一人の芸術家のものの見方、ないしは自然の把握の仕方の違いによるものといわなければならない。美の普遍性に対する信頼が支配的であった時代なら、その違いは、万人共通の「理想の美」に至るステップとして、いわば程度の差に過ぎないと考えられたであろう。しかし、その違いにこそ芸術の本質があると考えるなら、それはもはやどのようにしても解消することのできない絶対的な違いとなる。とすれば、その当然の結果として、「理想の美」は成立し得ないことになる。「個性の美学」は、「理想の美」を否定することによってはじめて確立されるものなのである。
 それは別のいい方をすれば、「理想の美」を支えていた人間の普遍性への信頼が失われたということでもあるだろう。人間はさまざまの違いにもかかわらずやはり同じ人間だという考え方に代わって、今や人間は同じ人間でありながら一人一人皆違うのだという考えがクローズアップされて来たといってもよい。そして、おそらくそれこそが、新古典主義の美学に対するロマン主義の美学の最も大きな対立点となるものなのである。
 事実、ロマン主義の芸術家たちは、その鋭敏な感受性によって、自分自身と他人とのあいだに、越えることのできない深い深淵があることを、本能的に感じ取っていた。人は誰しも自己の内部に、沈黙のうちに生まれ、沈黙のうちに死んで行くひとつの世界を持っている、とミュッセは語っているし、ドラクロワは、その日記に、「私の魂と私に最も親しい友人のあいだにも、越え難い障壁がある」と書き記した。ジャン・ジャック・ルソー以来の「孤独な」魂が、芸術家たちのものになったのである。」高階秀爾「近代における芸術と人間」(『西欧芸術の精神』青土社、1979.所収)pp.376-379.

 20世紀には、芸術家たちは自分だけの「個性の表現」、ほかの誰とも違うユニークな作品を作ることに命を懸け、この差異の鋭さの勝負こそアート市場の決め手だと信じるようになり、それを見るぼくたちも「個性」の鑑賞こそアートの楽しみだと疑わなくなった。それはもはや絵画とか彫刻とか、建築とかデザインとかの枠組みを越えて同じグラウンドで競争するようになった。オリンピックはアートではなく身体能力の競争だから、人の真似をしてもメダルは取れない。だが美術は、競技場のデザインやポスターで問題になったように、「模倣」は盗作として批難されてしまう。「個性」は出したいけれども、たいていのことはすでに誰かがやっていて、よほど変わったことをやらないと「個性的」と評価されない。20世紀の美術はこの「個性」を奇抜なアイディアでどう人を驚かせるかの勝負だった。そしてそれは21世紀も基本的には続いている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

部分と全体。テロは5人でもできるが、独仏で暮らすムスリムは1000万人。

2016-03-24 18:46:09 | 日記
A.大きく全体を見る、ことの必要性について
  ベルギー・ブリュッセルでまた爆弾テロが起きてしまった。
物事を見て、それがどのような状態にあるのか、捉えようとするとき二つのやり方があるとしよう。ひとつは、自分が素朴に感覚的に「がつん」と感じた衝撃、映像や音楽や身体的な刺激から誰でもいろんなものを受け取る。でも見たまま、触れたまま、といっても人によって同じものを見ても、衝撃を受けて目をそむける人もいれば、いつまでも見つめている人もいる。やたら感動して涙を流す人もいれば、どうってことねえじゃんとすぐ忘れて他に目をやる人もいる。何に注意を向けるかは、その人の感覚それ自体ではなく注意を向ける態度にある。
 もうひとつは、自分の感覚に頼らずに大きく全体を見ようとするやり方である。これは素手ではできない。日々のニュースや映像を次々一瞬見ていって、いろんな感じをSNSに書くことは出来ても、全体がどうなっていて、ある事件や情報の原因や背景を知ろうとすると、かなり面倒くさい探求をしなければならない。そこで、ひとつの有力な方法は、統計や調査という数字である。例によって、経済学者ピケティは統計数字によって欧州のイスラムへのヒステリックな感情的視線を批判する。
 
「ピケティコラム:欧州社会の差別・偏見「イスラム嫌い」の衝動 抑えよ
 欧州社会におけるイスラムおよびイスラム教徒のあり方について、世の議論の展開が、いよいよヒステリックになっている。情報も的確な研究もないため、議論の材料となるのは、いくつかの事件だ。パリのテロやケルンの暴行事件のような出来事は、確かに劇的だったが、一方で関係する人口のうちごくわずかな部分がかかわっただけである。なのに、統合と共生への意思や能力が数千万の人にあるかどうかについて、これらの出来事を通じてひとくくりに結論を出そうとしている。
 実際、欧州連合(EU)の人口5億1千万人のうち、およそ5%にあたる2500万人が(実践しているかどうかは別にして)イスラム文化に属す、あるいはイスラム教徒であるという。最も多いのはドイツとフランスで、6~7%である(両国の人口計約1億5千万人のうちの約一千万人)。存在感のある少数派だ。この数字はアラブ・イスラム教世界の反対側にあるインドに比べ確かに少ない(インドでは人口の15%近い)。それでも米国よりは多い。そこは、人口の1%以下にすぎない。
 幸い、信頼するに足る調査がわずかながら存在するので、議論の方向性を見直すことは出来るはずだ。例えば、仏国立人口統計学研究所(INED)と国立統計経済研究所(Insee)が実施した「生い立ちと出自」調査である。研究者は移民8300人の生活を、彼らの子孫8200人の生活、さらには外国にルーツを持たないフランス人の生活と比較した。その結果、「不均衡な統合」が明らかになったのである。
 すなわち、移民の子どもたちは教育を受けたり、移民の出自を持たない配偶者や友人を得たりすることで、両親の話す言語をしばしば重視しなくなる。その一方で、移民の子どもたちは長年失業に悩まされ、同レベルの学歴の他の若者たちと同じような職につけるわけではない。不均衡がとりわけ際立つのは、マグレブ諸国とブラックアフリカからの移民家族の出身者である。
  ***
 経済学者マリアンヌ・バルフォール氏の研究はこの分析を裏付け、イスラム教の家庭出身の若者が職業上の差別をどれほど受けているのかを示している。手法は簡単で、6231の求人に、研究者が偽の履歴書を送る。応募者の氏名や略歴は無作為にし、採用面接の通知が来る割合を調べた。
 結果は気のめいるものだった。応募者がイスラム教徒風の名前で、特に男性である場合、返信の割合はがくんと下がる。こうした応募者で面接の通知を得たのは5%以下だった。それ以外の場合は20%である。さらにひどいのは、最高の学歴をもち、考えられる中で最良のインターンを経験した場合でも、イスラム系の男であるという事実の前だと、返信率がほとんど上がらなかったということだ。別の言い方をすれば、成功のための表向きの条件をいかに満たそうとも、自分では変えられないものに関する差別がつきまとうのである。
 この研究が新しいのは、会計係の採用といった典型的な中小企業の何千もの求人を対象にした点だ。だから、過去に進んで研究に応じた少数の大企業から得られた結果に比べ、差別の度合いも、残念ながら説得力も、ずっと大きい。
 バルフォール氏はまた、イスラム教に対する反感も問題だと明らかにした。たとえば、同じレバノン系でも、「モハメド」という名前だと書類選考を通過しないが、「ミシェル」という名前ならうまくいく。履歴書に「イスラム教のボーイスカウトに参加した」と書くと通過率が下がるのに対し、カトリックやプロテスタントのボーイスカウトの経験なら通過率は上がる。
  ***
 「イスラム嫌い」という言葉を使うことが許されるだろうか。もちろん、雇用者側は、彼ら何百万もの若者たちが潜在的に暴力をふるうとか、イスラム過激派予備軍であるとかと、見なしているわけではない。しかしながら、偏見は確かに存在し、最近の事件でいっそう強まった。その影響が不満と恨みをさらに生んでいる。
 このまぎれもない不公平を目のあたりにして、バルフォール氏は明確なアファーマティブ・アクション(少数派優遇策)を提唱する。突拍子もない発想ではなく、他国では実施されている。  (中略)
 もうひとつ指摘しておかなければならない。現在のヒステリー状態は、難民危機と、2008年の金融危機に対する欧州の無様な対応とが結びついて生まれたものなのだ。2000~10年、欧州は人口流出分を除いて年間100万人の移民を受け入れ、失業は減り、右翼は後退していた。10~15年は、必要性がむしろ高まっているのに、流入の数は突然3分の1になった。
 そろそろ、欧州とその統合モデルの再起動を、フランスとドイツが打ち出す時だ。そのためには債務の一時支払い猶予が必要だし、インフラと教育の分野に大規模な投資をするべきだ。さもなければ、外国人嫌いの衝動に足をすくわれるかもしれない。(©Le Monde,2016)
(仏ルモンド紙、2016年3月13-14日付、抄訳)」朝日新聞2016年3月24日朝刊、17面オピニオン欄。

 文中の「パリのテロやケルンの暴行事件のような出来事は、確かに劇的だったが、一方で関係する人口のうちごくわずかな部分がかかわっただけである。なのに、統合と共生への意思や能力が数千万の人にあるかどうかについて、これらの出来事を通じてひとくくりに結論を出そうとしている」というのは、もちろんごく一部だから無視してよいという意味ではない。むしろ反対だろう。
 これと関連してベルギーテロの衝撃というテーマで同欄に、ヨーロッパの現状に詳しい3人の識者(ルーベンカトリック大学名誉教授ユアン・レマンヌ氏、米ランド研究所政策アナリスト・レベッカ・ジマーマン氏、北海道大学教授吉田徹氏)のインタビューが載っている。そのうちの吉田氏の発言。
 「ある調査によると、過激派組織「イスラム国」(IS)に加わった先進国出身者のうち、敬虔なイスラム教徒は少ない。もともと生活が安定せず、軽犯罪に走るような若者が多いといいます。欧州では軽犯罪でも投獄され、社会復帰は難しい。一方、過激派組織は受け入れ態勢が整い、ネットがあればISのメンバーになれる。若者はそこに居場所を求めるのです。こう考えると、移民や難民を排斥しても、問題は決して解決しないことがわかります。」
 「興味深いのは、こうしたセキュリティを強化する施策を、多くの国民が支持していることです。空爆でISを駆逐できないとわかった今、欧州の人々はより強力な治安維持を求め始めています。この流れは加速し、さらに規制の強い欧州社会が生まれるのではないでしょうか。実はこの議論は、われわれ日本人にも深く関わります。安倍晋三首相は、憲法に緊急事態条項を盛り込む必要性を強調しています。」朝日新聞2016年3月24日朝刊、17面オピニオン欄。

こうなってくると、欧州市民の世論は、とりあえずセキュリティを厳重にせよということに誰も異を唱えなくなる。そしてじわじわと移民たちに「イスラム嫌い」の視線が向けられる。移民というよりも移民2世や3世の自国民にである。今のところ日本ではこれは欧州の問題と思っているが、もし今年の伊勢サミット、あるいは東京オリンピックなどで爆弾テロが起きて、それにムスリムの日本人かアジア系を含む外国人が関わっていたら、どうなるかは考えると恐ろしい。世論は一気に「イスラム嫌い」など飛び越して「排外主義」とテロへの脅威への感情的沸騰がたぶん起こる。それが改憲勢力を喜ばせることも間違いないだろう。改憲右翼と金正恩とイスラム過激派が考えていることは全然別なのに結果的に連帯してしまうなど、悪夢でしかない。そういう意味で、テロは避けなければ。



B.同じものを見て同じものが再現されるなら、絵画など要らない?
 ガラス板などに静止画像をネガにした写真というものが発明されたのは、19世紀の中頃だとすると、それまではわれわれが見ている世界の画像を記録する手段は絵画だけだった、ということを今のわれわれは忘れている。今でも写真撮影が禁じられた裁判の法廷では画家がスケッチして報道しているが、19世紀のうちはいろんな映像記録の多くは絵で描かれたものだった。それまでは目に見えているものをそのまま映すのが迫真の絵画だという考えはかなり一般に普及していたが、さらに前は、古代の風景とか聖書の物語とか、誰も見たことのないものを書くのが画家の仕事だった。それが近代になって、世界をありのままに、正確にしかも美しく作品にするのが造形美術の役割だとする一方で、人間の感覚や意識を突き詰めていくと、ただ写真のような誰が見ても同じものを同じように記録するのではなく、そこに芸術家の独自の視線や感覚が対象の再現ではない独自の表現を追求するように変わってくる。
 もっとも今では、写真も技術が高度化しているから、同じ山を撮影しても全く違った画像がいくらでも作れる。そうなったときに、写真もまた芸術になり、写真家は芸術家になる可能性も開けた。

「ロマン派時代のドイツの画家ルードヴィッヒ・リヒテルの『生涯の回想』のなかに若い頃の思い出を語った次のようなエピソードがある。彼がイタリアに学んでいた頃、ある日、三人の仲間と一緒にティヴォリに写生に出かけた。その時、四人の画家たちは目の前の自然の姿を、いずれもそっくりそのまま描き出すよう申し合わせ、事実皆、できるだけ忠実に自然を再現するよう努めた。ところが、それにもかかわらず、出来上がった作品は同じ自然を描きながら四枚ともまるで違ったものになっていたという。このことから、リヒテルは、色とか形の把握は人によってそれぞれに異なるものであり、客観的な視覚像というものは存在しないと結論を下している。
 このエピソードを出発点として、ハインリッヒ・ヴェルフリンは、造形芸術作品の持つ表現上の特性は、時代や風土や民族によってさまざまに変わり得るものであることを詳細に分析し、時代様式としての「クラシック」と「バロック」の概念を『美術史の基礎概念』のなかで確立した。つまり同じような対象を描いても、デューラーとレンブラントはまったく違った表現を見せているし、ラファエルロとベラスケスの世界は、まるで別のものだというわけである。
 だがヴェルフリンは、個々の芸術家の視覚像の差異ということをその考察の出発点に置きながら、やがて、その個々の芸術家を貫いて認められる時代様式というものを想定し、それによって歴史の大きなうねりを明確にしようとした。一人一人の画家の表現はなるほど違うかもしれないが、しかしそれでもなお、デューラーとラファエルロには共通するものがあり、同様にレンブラントとベラスケスもひとつの時代様式のなかで捉えることができる。別の言葉でいえば、この四人の画家は皆それぞれに違っているといっても、デューラーとラファエルロ、レンブラントとベラスケスを隔てる距離は、そう指摘している通り、先に引いたリヒテルとその三人の仲間たちの視覚世界は、それぞれに異なっているとはいっても、他の時代の画家たちに比べてみればある種のまとまりを見せているということになったに違いない。美術の流れをある歴史の枠組みのなかで捉えようとするには、ヴェルフリンのこの「基礎概念」がきわめて有効であることは、今さら改めて指摘するまでもない。
 しかしながら、同じリヒテルの思い出から始めて、個々の芸術家に共通する時代様式にまで辿り着く代わりに、逆に、個性の違いを一層徹底させるような方向に向かうことも可能であったはずである。少なくとも、十九世紀の後半から二十世紀にかけての西欧の絵画の歴史は、芸術家の心の中で、そのような個性の観念の高揚と賛美が次第に大きな部分を占めるようになって行ったことをはっきりと示している。同じ対象を、同じように忠実に再現しようという意識に導かれてy津志田しながらなお、そこに異なった結果が生まれて来るとすれば、とりもなおさず、それこそが芸術の本質なのではないか。逆にいえば、われわれがひとつの芸術作品を前にして心動かされるのは、他の誰のものでもないその芸術家の見た世界が表現されているからではないか。セザンヌの「サント・ヴィクトワール山」の風景がわれわれを感動させるのは、それがサント・ヴィクトワール山であるからではなく、セザンヌだからではないか、という考え方である。
 事実、われわれが美術館に足を運ぶのは、南フランスの山がどのような色と形をしているかを確認するためではなく、セザンヌがそれをどう見たかを確認するためである。かつてセザンヌの友人であったゾラの言葉を借りるなら、芸術は「ある気質を通してみた自然」にほかならないのであり、われわれは、何よりもその「気質」に、芸術というものの根を見ようとするのである。
 そのことは、例えば、靴直しの職人でありながら同時にまた画家でもある現代フランスの異色芸術家であるガストン・シェサックの次のような言葉にも、明瞭にうかがわれる。

「私の展覧会の時、ある人々は作家の個性などどこにもない、これは完全にピカソだ、と言った。だがそれなら、なぜその値段の安いピカソに人々が殺到しなかったのか、私には不思議でならない。」

 シェサックは、いわゆる素朴派、ないしは現代のプリミティフ画家と呼ばれる芸術家の一人であるが、一見無邪気を装ったこの言葉の奥に秘められているものは、なかなか「素朴」どころではない。ここでは、現代芸術における個性の神話とも呼ぶべきものが、思いがけない角度からクローズアップされているからである。
 その時の展覧会に出品されたシェサックの作品が果たして本当にピカソそっくりであったかどうかということは、差し当たり問題ではない。重要なのは、シェサックの作品がピカソの模倣だとある種の人びとに判定されたという事実であり、しかも、その故に、否定的に評価されたという事実である。しかし、誰か他の人の作品であれば、ピカソの手になったように見えるというまさにそのことが、かえってマイナスの要因として働くわけである。だがそれなら、作品そのものの価値というものは、いったいどうなるのだろうか。もともと芸術というものは、そしてゼザンヌやピカソも含めて特に近代芸術は、作品そのものに内在する造形的価値を求めて来たのではなかったろうか。
 例えば、アンドレ・マルローは、近代芸術の扉口に立つっ重要な存在としてエドゥワール・マネの意味を高く評価しながら、次ぎのように述べている。

 「今や(対象を)模倣したり変形したりすることをやめてしまった絵画は、それではいったい何になろうとしているのだろうか。……それは単純に絵画となろうというのである。」

  事実絵画は、マネ以後、あるいは少なくともマネ以後、自己自身以外の目的は持たなくなってしまったように見える。マネの「キリストの遺骸を支える二人の天使」は、他の多くの彼の作品がそうであるように、全体の構想においては、マンテーニャの同主題の作品を借りている。しかしながら、エドガー・ウィントが正当に指摘する通り、マンテーニャの作品は、礼拝の対象として、すなわち宗教的な目的のために描かれたが、それに対して、マネの作品は、サロンに出品するために描かれた。つまり、「単純に絵画」として描かれたのである。
 われわれはここで、マネの後輩にあたるルノワールが、フィレンツェのピッティ美術館にあるラファエルロの「小椅子の聖母」を見て、「何と見事な絵の具の塊だろう」と叫んだというあのエピソードを思い出してもよいだろう。ラファエルロのあの作品も――制作当時の事情はわれわれにわかっていないとしても――明らかに「聖母子」像として、すなわち宗教的なものとして描かれた。当時の人びとは、ラファエルロを宗教画家として評価していたはずである。ところがルノワールは、同じその作品に、純粋に「絵画」としての価値しか見なかったのである。」高階秀爾「近代における芸術と人間」(『西欧芸術の精神』青土社、1979.所収)pp.370-374.

 マネの宗教画は、ルネッサンスの宗教画を参考にして描かれたものではあるけれど、それが掲げられたのは教会や礼拝堂ではなく、美術サロンであり展覧会の壁だった。さらに、セザンヌは同じ山をほぼ同じ場所から飽きもせずに繰り返し描いて、そのどれもが一つとして同じ絵ではない。これは近代絵画だけがやりはじめたことで、どんなに凄いことだったか、ぼくらは忘れているのかもしれない。逆にいえば、ぼくらが今、セザンヌやマネや、いろんな有名画家の絵を見に美術館でお金を払うのは、セザンヌやマネの目に写った対象を見に行って、ほう!綺麗だね、というのでは何も見ていないのに等しいということになる。近代の芸術を鑑賞するということは、もはや宗教的な動機も観光的な動機も経済的な動機も無用であるが、ただある作家がなにをやろうとしてこんなものを作ったのか、ということを読み取れよ!と突きつけられていることにほかならない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

のと鉄道の試み・・エリー・フォール『形態の精神』

2016-03-22 18:56:06 | 日記
A.ローカル鉄道の再生について
 かつて全国に張り巡らされていた鉄道網は、1987年中曽根内閣の国鉄分割民営化にともない、過疎地域の赤字路線は順次廃止され、どうしても残したいローカル線のいくつかは、地元の第3セクターが路線と経営を引き継いで継続された。しかし、乗客は減少し、交通の主力が自動車になる時代にあって鉄道の利用者は通学の高校生と高齢者に限られていった。
 先日もぼくは三陸を巡ったのだが、大震災で被害を受けた三陸鉄道は「あまちゃん効果」でかろうじて復活しているが、地元の足としての必要性だけでは存続が危うく、観光客が乗ってくれることに期待をかけてさまざまな努力をしている。たまたま昨夜のTVで、北海道新幹線の開通にともない、青函トンネルを通る在来線がなくなり寝台特急「カシオペア」の最終列車が注目を浴びたというニュースにからんで、各地の観光列車を紹介する番組を見た。その中で能登半島の七尾―穴水間を走る「のと鉄道」の観光列車が人気だという。トンネル内を電飾で飾ったり、海の見える地点の樹木を刈ってゆっくり走るなど工夫を重ねていることが紹介されていた。

「石川県の能登半島にある「のと鉄道」は、石川県や北國銀行、能登町、北陸銀行、興能信用金庫などが株主に名を連ねる第三セクター鉄道である。能登半島中央部の七尾市にある七尾駅を起点とする「のと鉄道」の線路は、東に口を開いた七尾湾に沿い、初めは西に、続いて北へと 向かう。列車の進行方向右側に見えていた七尾湾の北の端に到達する頃、終点となる穴水町の穴水駅が姿を現す。この間33.1キロメートル、45分ほどの鉄 道の旅が体験できる。
金沢市を中心に、いま石川県では北陸新幹線の開業ブームに沸く。「のと鉄道では北陸新幹線で石川県を訪れた観光客を呼び込もうと、4月29日から新たな観光列車「のと里山里海号」を走らせている。 (中略)
全国の中小民鉄や第三セクター鉄道で顕著なように、のと鉄道もまた通学定期の利用客の比率が高く、輸送人員の60.1%を占める。にもかかわらず、営業収入における通学定期の比率が38.0%と低い点もほかの中小私鉄などと共通している。
注目すべきは客単価だ。のと鉄道の輸送人員1人当たりの営業費用は833.8円であり、表中にある通勤定期、通学定期、定期外のいずれの利用客を乗せても営業損失が発生してしまう。だが、「ゆったりコース」であれば子どもであっても1000円を徴収できるので、同鉄道の経営改善に大いに寄与する。乗車拒否はあってはならないが、利用客がいないのであれば、普通列車を運休して観光列車を運転する価値はあると言えるであろう。「のと里山里海号」のうち、観光の目玉となる「ゆったりコース」はどの列車も好調だ。乗車率は平均して50%ほどで、5月の大型連休中には70%にはね上がったという。
「ゆったりコース」の列車1本当たりに設定された指定席の数は74人分。乗車率が50%とすると輸送人員は37人だ。これらのうち、大人が90%の33人、子どもが10%の4人と仮定すると、1本の列車当たりの売上高は5万3500円となる。国土交通省鉄道局監修の『鉄道統計年報』によると、2012年度にのと鉄道の列車が七尾―穴水間の片道を運転した際の営業費用(減価償却費を含む) は3万2393円だった。諸々の条件を同じと仮定すると、「のと里山里海号」を1本運転するたびに2万1107円の営業利益を生み出す計算となる。
予定では2015年度の「ゆったりコース」の運転日数は141日。全列車が正常に運転されたとすると本数は合わせて705本に達し、合わせて1488万435円の営業利益を同社にもたらす。」鉄道ジャーナリスト 梅原淳「のと鉄道はなぜ、観光列車を優先したのか 朝ドラ「まれ」の街で鉄道会社が下した決断」 東洋経済オンライン2015年6月9日。

 「のと鉄道」については、かつてJRで輪島や蛸島に伸びていた路線を廃止して、穴水までの路線で存続していることは知っていたが、沿線の魅力をアピールした観光列車のことは知らなかった。Wikipediaによれば、第3セクターの成功例として注目されたこともあったという。

「石川県が旧国鉄能登線廃止に際して鉄道存続に意欲を見せ、運輸省(当時)に廃止対象路線の早期指定を愛知県・高知県と共同で陳情したいきさつを持つ。能登線の廃止の決定を受けて路線の引き受け会社として「のと鉄道株式会社」が設立され、能登線の全線を継承して運営に当たった。転換当初は運賃を若干値上げしたものの、運行本数を増加して乗客・収入ともに増加させ、第三セクター鉄道の成功例と言われたこともあった。1991年にJR七尾線が和倉温泉まで直流電化されたのに伴い、同線のうち非電化の和倉温泉 - 輪島間の営業を西日本旅客鉄道(JR西日本)から引き受けたが、その後は能登半島の道路網整備が進んだことや過疎化による沿線人口の減少を受け乗客数は減少の一途をたどっていった。経営改善のため、経営コンサルタントの助言を受けながら2001年には輪島線とも呼ばれていた七尾線の穴水 - 輪島間を、2005年には能登線の穴水 - 蛸島間全線を廃止し、最盛期には100kmを超えた営業路線も現在では三分の一にまでになっている。乗客数の減少により列車本数は削減され、厳しい経営が続いている。なお、七尾線七尾 - 穴水間を存続させた理由の一つに、2014年度の北陸新幹線開業時に並行在来線の経営分離を控えており、石川県に鉄道運営の組織やノウハウを維持しておく必要があったためとされる。」
以前、鹿児島の薩摩半島で指宿から鹿児島まで偶然に乗った観光列車「たまて箱」が、発車してすぐ車窓に旗を立てて手を振る職員がいて、なかなか印象深かった。これはJR九州がやっているが、指宿周辺は観光地でもあるので切符は売り切れるほど人気があるらしい。和倉温泉も観光地だから北陸新幹線の人気でここまでは観光客が来るだろうが、その先の能登半島はなかなか難しい。地方活性化といっても、何か工夫がなければ外からの観光客は呼び込めないが、鉄道は活用次第で大きな希望になるのかもしれない。朝ドラ効果は確かに大きいが、「あまちゃん」も大震災の風化とともにそろそろ忘れられつつある。



B.エリー・フォール『形態の精神』のこと
 フランスの美術批評としてエリー・フォールの『美術史』という本は有名らしい。らしい、というのは、ぼくはこの本の存在を最近まで知らなかったし、読んだことがないからだ。第一次世界大戦前に書かれた全4巻の長大な本で、日本語でも翻訳されている。読んだ方がいいかな。

 「……一見したところ、黒人彫刻の偶像、またはポリネシアの彫像と、例えば最盛期のギリシャ彫刻、またはヴェネツィア派においてその手段と可能性とが最もよく示されるヨーロッパの偉大な絵画とのあいだには、越え難い深淵が横たわっているように見える。しかしながら、現代の奇跡のひとつは、これらおたがいにあい矛盾すると思われる作品の微妙なまたは激越な魅力を同じように深い熱狂をこめて鑑賞し、さらには一見あい反するように見えるそれらの作品の特性の中に、あらゆる偶像がそれぞれの個性的差異はありながら究極的に共通して持っている人間の情熱に彩られた調和、人間そのものの本姓に根ざす内面的調和を認めることすらできるという、まさにそのことである……。

 息の長い、大波のうねるようなこの熱っぽい一節は、古代から近代にいたるあの壮大な『美術史』全四巻(1909-14年)を書き上げた後、あらゆる時代に無数に生み出された造形芸術作品の中に一貫して流れる『形態の精神』を探ろうとしたエリー・フォールの野望を明瞭に物語っている。すなわち、彼にとっては、彼と同世代の多くの「目利き」たちのように、ある芸術家を他の芸術家から区別する確乎とした差異を見出すことよりも、それぞれに個性的な芸術家たちのあいだに――奇怪な仮面を創り上げた無名のアフリカの彫刻家と、パルテノンの栄光を生み出したギリシャ古典主義時代の彫刻家とのあいだに――共通して認められる「精神的エネルギー」を探り出すことの方が、いっそう重要だったのである。
 もちろん、そのためには、古今の無数の作品そのものに十分通暁する必要があることは言うまでもない。一九六四年に刊行された豪華な『エリー・フォール全集』全三巻(ジャン・ジャック・ポヴェール社刊)に序文を寄せたヘンリー・ミラーの言葉を借りるなら、「雄弁のラプソディー」とも呼ぶべき華麗な文体で織り上げられた彼のあの『美術史』は、この『形態の精神』の神殿を築くためのいわば基礎工事にほかならなかった。事実フォールは、その『美術史』を書き上げた後も、美術史家と見做されることを極度に嫌っていた。当時まだ少数の好事家や特殊な芸術家のあいだにやっと知られていたに過ぎない黒人彫刻や、まだ無名でモンパルナスに放浪生活を送っていたスーティンの作品や、さらに生まれたばかりの抽象芸術に対し、ギリシャ盛期の最も優れた作品群に対するのとまったく同じ目で対決することができるというその柔軟な感受性と旺盛な好奇心は、その華やかな文体とともに詩人の魂を感じさせる。フォールは、二十世紀になってそれまでに知られていなかった新しい芸術世界が啓示され、われわれの芸術体験がいっきょに拡大されたことを重要視して、「今や批評精神は万有の詩人となった」と述べたが、フォール自身が誰よりもそのような「万有の詩人」にほかならなかったのである。
 フォールのこのように柔軟な鑑賞眼は、もちろん彼自身の持って生まれた気質に由来するところが大きかったに相違ないが、同時にまた彼が、本職は臨床医であり、生物学者であって、専門の歴史家ではなかったという事実とも無関係ではなかったであろう。既成の美学や歴史による価値判断の偏見から、彼はまったく自由だったからである。
 フォールは一八七三年の四月四日、フランス南西部のどこか日本の田舎を思わせるのどかな町、サント・フォワ・ラ・グランドに生まれた。高校時代をパリの有名なアンリ四世高等学校に過ごし、若い哲学者アンリ・ベルグソンの教えを受けたことは、後の彼の思想に深い影響を及ぼすようになった。彼の芸術哲学の鍵ともいうべきラマルクの進化論は、この時に学んだものだからである。そして、高等学校卒業後みずからが選んだ生物学研究は、彼の思想を根本から規定するものとなるのである。

 歴史とは、いくつもの段階を重ねながら絶えずかぎりなく上り続ける壮大な生物学的ドラマ以外のものではかつてなかったし、今後ともそれ以外のものではあり得ぬであろう。そして、歴史を動かすただひとつの原動力は、人間の魂の悲劇であるが、その悲劇は、われわれひとりひとりの中に隔世遺伝によって伝えられている内面の矛盾抗争によってほとんど完全に条件づけられている……。

 すなわち、フォールにとっては、生物学と美術研究とは、決して本職と趣味というような単純な関係にあるものではなかった。彼の親しい友人であったポール・デザンジュは、その著書『エリー・フォール、その生涯と作品』(一九六四年)の中で、第一次大戦後においてすら、彼の同僚の医師たちは彼が当時評判を呼んでいた『美術史』の著者であることをほとんど知らなかったと伝えているが、しかしフォールの中においては、生物学と美術とは深く結びついていたのである。
 事実、彼の『形態の精神』全巻は、一見とりとめもなく多様な混沌を示す形態の世界を、生物的原理によって秩序づけ、体系づけようとした試みだと言ってもよい。」高階秀爾『美の思索家たち』青土社、1993、pp.13-16.

 高階先生の説明によれば、フォールという人は臨床医で生物学者だという。医学や生物学が本業で、それとは別に単なる趣味で美術批評の本を書いたというふうに考えるのではなく、彼の思考は美術批評において生物学や進化論のアイディアを、美術あるいは芸術に適用したことで、美術史という業界の常識とは離れた独自の視点がここに実現していると見た方がよいのだろう。

「同様にフォールは、風土的条件が形態におよぼす作用や、素材の性質が芸術形態に与える影響についても、自然淘汰や形態変異説の原理を適用しながら、同一風土のもとにおける異なった形態の関係、異なった風土的条件における同種の形態の関係、これらすべての芸術的形態と自然の形態とのアナロジーなどを、つぎつぎと解明して行く。

 インドの五重塔とアジャンターの壁画、フェルメールの絵画とオランダの住宅、フィレンツェの古いパラッツォとジョットの壁画、プッサンの絵画とヴェルサイユ宮殿とのあいだには、それぞれはっきりとそれと感じ取ることのできる不思議な様式上の統一がある。しかしそれと同時医、アジャンターとプッサン、ジョットとフェルメール、インドの五重塔とヴェルサイユ宮殿、フィレンツェのパラッツォとオランダの住宅のあいだにも、それぞれやはりはっきりとした様式上の統一がある……。

 万有の形態はただひとつのプランにしたがって作られている。どこを眺めても、いたるところでそれを見出すことができるはずだ……。

 このようにして、フェールの世界においては、あらゆる形態がさまざまの関係の網目の中に捉えられて、やがて一種汎神論的な自然観を展開するにいたる。芸術上の諸形態は、そのまま自然界の秩序を反映するものとなるのである。「造形芸術の存在そのものが、自然の中の統一性を証明するのに十分である」というしばしば引用される一句は、その意味で彼の思想を端的に要約するものといってよい。この一句の中に、生物学者フォールと、美術批評家フォールトが離れがたく結びついているのである。
 したがって、フォールを論じて単にその美術批評家としての側面しか見ないのでは、必ずしも彼を理解する道ではない。もちろん、豊饒な彼の執筆活動のなかでも、古代、中世、ルネッサンス、近代と続く『美術史』四部作と、そのまとめとして書かれた理論書であるこの『形態の精神』とが彼の最も重要な業績であることは間違いないが、しかし彼の本質は単に美術の世界だけにとどまらず、一方では鋭い文明批評に、他方では独自の生命論につながるものを持っている。事実彼自身、自分が美術批評のみの専門家と見られることを極度に嫌って、例えば息子に宛てた手紙のなかで、「ヴォークセルが私のことを《美術批評家の王者》と呼んだが、私にとってこれほど腹立たしい肩書はない」と語っている。」高階秀爾『美の思索家たち』青土社、1993、pp.19-21.

 ふつうの美術史は、古代、中世からルネッサンス、近代そして現代まで、千年以上の時間軸に沿って絵画や彫刻、あるいは建築といった領域での諸作品を並べ、その変化と差異を説明していくというものだが、それだけでは、ただ段階的発展論だったり、西洋ヨーロッパ文化内の、あるいはキリスト教文化内の分類と説明に終始してしまう惧れがある。フォールはそこを越えて、人類の生物と自然の精神史として捉えることで、ユニークなものとなっている(らしい)。やっぱ、読んだ方がいいのかな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする