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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

靉光(あいみつ)という画家がいた。壇蜜じゃないよ

2014-10-15 03:56:26 | 日記
A.「日本」を否定して「大日本帝国」に戻したい人たち
 いまさら改めて言うまでもないこと、と思いながらも日本の政権にある政治家たちが、繰り返し無自覚な言動をしている情況をみるにつけ、ぼくは心穏やかになれない。一部の時代錯誤な過激右翼が言っているのなら別に戯言として、無視すればいいだけだが、政府や大政党の責任ある立場にいる人物が、まるで得意満面に自己の信念だと胸を張って国益を損なうような言葉を吐くのは、日本人全体の恥だと思う。まともなことを言う人が「反日」のレッテルのもと、バッシングに遭う異常な時代になってしまった。そう思っていたら、小熊英二氏がこういう文章を寄せていたので、引用する。

「この問題(註:従軍慰安婦報道)で、国際社会の一部に、誤解や単純化があるのは事実である。軍需工場などに動員された「女子挺身隊」が、ときに「慰安婦」と混同されているのはその一例だ。古森氏をはじめ、そうした「誤解」を解こうとする人びとは多いが、効果は上がっていない。
 それはなぜか。冷泉彰彦「朝日『誤報』で日本が『誤解』されたという誤解」(NEWSWEEK日本版ウェブサイト)は、そのヒントを示している。
 冷泉氏によると、国際社会は、「日本国」と「枢軸国日本」は「全く別」だという前提に立っている。ここでいう「日本国」は、「サンフランシスコ講和を受け入れ、やがて国連に加盟した」国である。「枢軸国日本」は、「第二次世界大戦を起こした」国だ。
 そうした国際社会の視点からは、「慰安婦問題」での「誤解」の解消にこだわる日本側の姿勢は奇妙に映る。それによって「枢軸国日本の名誉回復」に努めても、「日本国」の国際的立場の向上とは無縁だからだ。かえってそうした努力は、「『現在の日本政府や日本人は枢軸国日本の名誉にこだわる存在』つまり『枢軸国の延長』だというプロパガンダ」を行う国を利する逆効果になる、と冷泉氏はいう。
「慰安婦問題」での「誤解」を解こうとしている論者は、「東京裁判」や「戦後憲法」への批判も並行して行うことが多い。しかし、史実認識を訂正しようとする努力が、「枢軸国日本の名誉回復」や戦後国際秩序の否定を伴っていたら、国際社会で認められる余地はない。かえって逆効果である。
 これは「靖国問題」でも同様だ。刑死したA級戦犯を合祀した靖国神社宮司の松平永芳氏は「現行憲法の否定はわれわれの願うところだが、その前には極東軍事裁判がある。この根源をたたいてしまおうという意図のもとに、“A級戦犯”一四柱を新たに祭神とした」と述べている(西法太郎「『A級戦犯靖国合祀』松平永芳の孤独」新潮45 8月号)。この意図を認めるなら、東京裁判もサンフランシスコ講和条約も否定することになり、ひいては日米安保条約を含む戦後の諸条約や国際秩序の前提を否定することになる。こうした施設を参拝しながら、「日米は価値観を同じくする同盟国」などと唱えてみても、相手方の信頼は得られまい。
 靖国神社については、戦死者を追悼した施設はどこの国にもあるという意見がある。前述のように、諸外国の「従軍慰安婦」認識には誤解があるという意見は多い。だが、そうした意見が部分的には正当だったとしても、それが「枢軸国日本の名誉回復」の願望と結びついていたら、受け入れられる可能性は皆無であることを知るべきだ。
 これは他の問題にも言える。集団的自衛権の行使容認が、国内外で反発を買うのはなぜか。背景に、占領軍が押しつけた憲法の縛りを脱するという「枢軸国日本の名誉回復」の願望があると懸念されるからだ。いくら安全保障のためと説明しても、それを提案する政治家が並行して靖国神社に参拝するのでは、懸念を招くのは無理もない。
 こうした問題での「誤解」を解きたいなら、方法は一つである。現在の「日本国」は、「枢軸国日本」を否定している、という姿勢を明確にすることだ。それなしには、国際社会の理解も、安全保障の議論も進まない。」小熊英二「思想の地層」(朝日新聞10月14日夕刊3面)

 しごくまともな議論である。というより、10年ほど前なら改めて言うまでもない常識的な意見だったと思う。「東京裁判」にはいろいろ戦勝国側の論理で日本を悪の帝国として裁こう、という視線があったし、広島長崎の原爆投下を無視するなど問題があるとぼくも思う。しかし、敗戦と占領から国際社会に復帰するに際して日本国と日本人は、「枢軸国日本」の国家としての行為、とくにアジアの各地で行った戦争を深く反省して、侵略戦争と人権の否定を二度としないことを世界に誓って再出発した。その意思を信じて、国際社会は新しい日本を受け容れたという事実を、少なくともそのときの大多数の日本人は理屈を超えて解っていたはずだ。
 しかし、今の日本では、この基本的な出発点を公然と否定する人々が政治の中枢にまで席を得ている。選挙で多数を得た、ということを口実に、「枢軸国日本の名誉回復」を図るだけでなく、周辺の外国に対して、さらに同盟国アメリカをはじめ国際社会に対して、自分たちは正義だ、誇り高い民族だ、の先に「あの戦争は正しい目的だった」「何も悪いことなどしていない」という無自覚で奇妙な主張を展開している。戦後70年、世界に誠実に理解を求めて努力してきた過去を、いい気に否定してすべてをひっくり返そうとしている。それは何よりも「枢軸国日本」を破り占領したアメリカにとって、日本は再び敵対国家になろうとしているのか、という疑いを抱かせるだろう。安倍首相がしたくてたまらない靖国参拝、否定したくてたまらない従軍慰安婦、そしてあの戦争の名誉回復を表明すれば、国際社会で信用を失い、国益は大きく損なわれる。そのくらいのことが解らないなら、日本国総理大臣は務まらない。
 憲法9条は変えなくてもいいとぼくは思うが、自衛隊という存在が憲法に規定されていない現状は、法の論理としては確かに矛盾しているし、自衛隊が日本国民と「日本国憲法」の誓いのもとに必要とされ信頼される条件が整うのなら、9条改正の可能性には耳を傾けたいと思う。しかし、いま憲法を変えたいと主張している人たちは、戦後「日本国」を忌まわしい「反日」として否定し、「大日本帝国」に帰り帝国陸海軍を持ちたいと願っている人たちである以上、9条改正は再び世界相手の無謀な戦争への道を開くことは、どう考えても明らかだと思う。どうしてそんな時代錯誤に同調できようか。 



B.靉光という広島人
 ぼくは絵を描くのが子どもの頃から好きだったから、紙と鉛筆があれば絵を描いていた。だが、絵描きになろうと思わなかった。それは、あまりにも身近に画家という人がいたからだったと思う。叔父の一人は、テレピン油の匂いがするアトリエで、わけのわからない作品を作っていたし、もうひとりの義理の伯父は、膠で溶く高価な絵の具を広い画室で大画面に筆を走らせる日本画家だった。片脚に障害のある叔父は東京日本橋の商家の息子で、美術文化協会に所属して売れそうもない絵を描いていた貧乏画家だった。義理の伯父の方は、広島出身で日本画の大家に弟子入りして苦労して日展の審査員になり、理事になり、最後は文化勲章までもらうような栄誉の成功を収めた。
 しかし、その叔父と伯父の家にぼくは子どもの頃よく遊びに行って、絵を描くことを職業にするのはやめた方がいい、と思ったのだ。それをもし「芸術」という価値の追求に生きることだとすると、よほどの覚悟がなければ精神的にも経済的にもぼろぼろになる。

「靉光(1907-46)というこの風変わりな名前をもつ画家は、日本の敗戦を辛亥革命勃発の地である揚子江右岸の武昌(新中国成立後は武漢市)でむかえ、その後わずか半年にして、右湿性胸膜炎、アメーバ赤痢、マラリアなどを併発、上海の華中方面第175兵站病院で亡くなっている。1968(昭和21)年1月29日のことである。享年38であった。
 靉光とはもとより画号である。本名は石村日郎(いしむらはるお)といった。はじめ靉川光郎と名乗っているが、19歳のときに第13回二科展(1926年)に入選した作品は「靉光 静物 出生地広島市」となっているので、そうとう早くからこの画号を使っていたことがわかる。晦渋で夢幻的な作風のうちに、どこか象徴的なニュアンスをあたえる作品の傾向を考えあわせると、この風変わりな画号の意味もまた画家の創意の一部とかたく結びつく何かであったろうことを連想させる。しかし、この奇妙な名前の由来については不明である。二科入選を機に、その名前は一部具眼の士の眼にとまっているが、古賀春江などは中国人と間違えて「支那人の絵でいい作品があった」と語っている。この靉光の《静物》はゴッホ風の筆致でランプを描き、カンヴァスは同郷の画友野村守夫の十五号を使用したといわれているものであるが、作品は現存しない。ただ、この二科展の入選が、画家靉光の公募展における初めての入選であったと同時に、貧乏生活のなかにあって苦闘していた靉光を大いに刺戟したことだけはたしかである。
 初入選の翌年2月の第23回大平洋画会展にも《静物》を出している。3月の第八回中央美術展にも《静物》を出し、6月の一九三〇年協会第2回展に《景色》《景》、そして9月の第14回二科展に《風景Ⅰ・Ⅱ》を出品している。靉光の画壇へのスタートは、まさに大正から昭和と元号を変える時期にあたっている。この時期の作品は第二次世界大戦のために消失していて、具体的な作品をみる機会を得ないわけであるが、いずれにしろ、《静物》や《風景》の、この時期の靉光は、ことさら当時の画壇にあって異質な仕事をしていたわけではない。
 いうならばまだ画家の卵である。加熱した頭脳に自己の絵画形式をあたえるというよりは、ビッシェールだのマティスだのとスタイルの変化に熱中している時期にあたっている。1927年10月号の『中央美術』に「色質に特色あるものでした――」という二行の木村壮八の短評がのせられた。靉光という名前が活字となった最初である。画友の井上長三郎氏(1906-95)によれば、靉光はスゴンザックの影響をうけたことを自ら語っていたという。エコール・ド・パリを中心としたヨーロッパの近代絵画が若い画家たちを刺戟し、それぞれが洪水のごとく輸入されてくる外国からの情報に敏感な反応を繰り返していたなかに、靉光もまた存在していたのである。偶然の出会いが、それぞれの画家の作風をほんのしばらくではあっても支配することになるが、比較的根づよい影響を靉光にあたえた画家としてファン・ゴッホの名をあげていい。それは『白樺』の画家たちが、以前にうけた何か宗教的な感情の炎のなかに立つゴッホというより、靉光にとっては絵画の理論において、まず、ゴッホから出発してみるというような自己の制作手段に密着した側面をつよくもっていた。第五回白日会に出品した《冬》あるいは第三回の一九三〇年協会展で受賞した《曠野社》《曠社》などの風景画(いずれも現存しない)は、あまりにもゴッホすぎるとして里見勝蔵から酷評を受けている。」酒井忠康『早世の天才画家 日本近代洋画の十二人』中公新書、2009、pp.276-278.

 靉光は、広島から大阪、そして東京と、絵を描く夢を追求してやっと手にした画家の入口で、洋画という手段をとる限り、西洋に学習しなければならないが、西洋もいろいろある。とりあえずゴッホという場所に辿り着いたが、あまりにもゴッホすぎるという的確な酷評で、メゲたはずだ。

「眼の侵蝕「見るものは、それが何なのか、いかなるものなのか、靉光の内と外の総体のなかに入りこんで、たえず探索するように仕向けられる。この若く、短命な画家は、めまぐるしいほどに画面を転換しながら、重たく、底深く、烈しく美しい彩管を揮った」(宮川寅雄「靉光覚書」『画集靉光』講談社、1980年)と要約される画家は、広島市内から北に50キロほどの中国山脈にちかい山懐の壬生(山県郡千代田町)という盆地に生れている。1907(明治40)年のことであった。
 少年時代から画才を示し、九歳の頃にスケッチした養父の肖像画が現存するが、なかなか達者な腕前である。高等小学校を卒業して広島市内の谷口印刷所に勤めるが、これは画家志望を養父にうけいれてもらえなかったからである。
 15歳のときに入ったこの印刷所も16歳のときにはやめている。画家志望を断念することはできず、単身大阪へ出て上本町の肖像画塾に入り、それから天王寺の天彩画塾(松原三五郎主宰)に通っている。大阪での生活は実家と養父から仕送りをうけて約一年に及んでいる。上京するのは17歳のときであった。
 すでに大阪時代に靉川光郎と名乗り、服装も自作の奇妙な服を着て、いっぱしの画家を気どっていたようである。印刷所で版下や図案の見習いをし、面相筆の使用をおぼえたことが、その後の靉光のたくみな運筆の基礎をなしている。映画館へ出入りして、女優を写したフィルムのコマを陽光にかざし、鉛筆を用いて一枚の肖像画に拡大するという手さばきは、すでに周囲の人々を驚かしていたという。1930年代後半に《鷲》や《軍鶏》など一連の鳥を描いた水墨画があるけれども、その素地ははやくから養われていたのである。
 しかし、この「職人」から「芸術」への歩みは、きわめて短期養成ふうで、いわゆる美術家となるための普通の教育ではない。まったく個人的で、どこか未開発の偏頗をひきずっている。彫版修行から神秘的な絵画世界を独自に形成したウィリアム・ブレイクの例をあげるまでもなく、一種、宿命づけられたもののごとく自身の声にみちびかれている。
  (中略)
 上野にほどちかい谷中真島町にあった太平洋画会研究所(のち太平洋美術学校)へ入所するのは1924(大正13)年のことである。研究所は中村不折や満谷国四郎などの明治美術会系の画家たちによって設立されたものであるが、黒田清輝を頂点とする官学美術系に対立する在野の一勢力であった。キュビスムや表現主義に妙味をもち、1923年に《埋葬》で二科賞をうけた古賀春江、靉光が入所した年に37歳で短い生涯をとじた中村彜など多くのすぐれた洋画家たちを出していた。大阪から上京するときに、靉光の胸中にはすでにこの在野の研究所に入る心づもりがあったようだ。大平洋画会研究所は、靉光の画道への第一歩となるわけだが、研究所で知り合った井上長三郎氏は当時を回想して次のように書いている。
 彼はひとえの着物に袴をつけ、あぐらをかいてラオコンの石膏を大まかなタッチで描いていた。体が大きいせいか、この大きな石膏像を楽々と木炭紙一ぱいに写していた。彼は痩せていたが身長が五尺七八寸もあった。無口の彼と余り話すことはなかったが、何うして親しくなったかは今は覚えていない。このラオコンは難しかったので特に靉光のデッサンが強く印象づけられたものと思う。また時に鶴岡政男が現われた。靉光が毛を赤く染めたり、絣の着物でキャンバスを作ったのはこの頃の話である。
 ひとりの画学生が震災後の東京において、はじめて二科に入選した《静物》を描く背景には、急激な時代の変化のあったことをつけくわえておかなければならない。それは新しい時代のはじまりであると同時に、ひとつの時代の終りとよぶべきで、分化的にも灰色のくすんだ色合いをもつ時代の情況であった。大正期にもたらされたヨーロッパ絵画のさまざまなイズムの継承も、震災後の混乱と経済的な不況のなかで、未消化のまま行方不明となる場合が多くなっている。そして世界の美術がいよいよ同時代的になり、パリを中心とする美術の世界地図は変わりはじめていたのである。
 いわば洪水のように輸入されてくる新しいイズムは、反体制的な性格をもって青年層のつよい支持をうけている。「前衛美術」の誕生といってもいいが、それら陸続と生起したグループは分裂・結合を繰り返し、やがて満州事変を契機として台頭した軍部ファシズムの弾圧によって息の根をとめられてしまう。
 たしかに時代の背景は昏く、マルクス主義のような危機の時代の思想的影響があって、社会主義レアリスムの立場をとったプロレタリア美術の誕生などをみるが、靉光はいずれの立場にも与することはなかった。これは現状に無頓着であったということではなく、絵画の領土を素手で開墾する情熱が、靉光の内部で垂直に立っていただけのことである。」酒井忠康『早世の天才画家 日本近代洋画の十二人』中公新書、2009、pp.287-292.

 絵画という造形の実験に魅せられた靉光にとって、ほんとうは関わりたくもなかった日本という国の狂気は、向こうの方から彼を捕まえに来た。彼は国家の役に立つと思われるほど有名でも従順でもなかったから、自分の描いた絵で警察に拘留されることもないかわりに、30代半ばに達しようという年齢で軍隊に徴兵され、中国大陸に送り込まれた。彼はそこで自分が兵士として、異国で戦争を戦う場所に立たされたのである。しかし、そこは絵の具もキャンバスもない戦場だった。

「周知のごとく前衛美術の活動は二科会と独立美術を核として、そこから派生したグループによっておこなわれているが、美術界もまた戦時色に塗り込められてゆくからである。しかし、靉光の画業には深海魚のそれのように、時代の表層と無縁のところで、ひとり孤独な制作を通じて時代の混迷を感受していたところがある。  (中略)
 1939年に靉光は福沢一郎、北脇昇らが結成した美術文化協会に参加するところとなり、第一回展に《鳥》(1940年)、第二回展に《雉と果物》(1941年)、第三回展に《蝶》(1942年)などを出品。《雉と果物》のなかの雉は、キヱ夫人が郷里の岩手から戦時下の食糧としてもってきたものであるが、画質の天上からぶらさげたまま食卓にのぼることのなかったものであるという。死臭をはなつその雉を靉光が狭い画室で日夜ながめていた頃、福沢一郎や瀧口修造、あるいは靉光の広島の画友たちが拘留されるという事件がおこっている。「多くの作家が希薄な夢を捨て、与えられた夢魔を、まことしやかに、軍部から配給された絵の具で、なぞらえ描きはじめたとき、靉光はその体質のような物質的リアリティをのみ、転換の軸として、創造力の夜の世界を抜けだした」(「靉光と日本のシュルレアリスム」『みづゑ』1975年12月号)とヨシダ・ヨシヱ氏は書いている。氏はまた要約して「そこに、確実ななにかが失われたことは事実だが、同時にそのレアリティの強靭性によって、また確実に、戦前と断層を見せる戦後前衛につながってゆく契機となり得た」と指摘する。
 前衛絵画の発表はおろか美術雑誌まで統制され、軍国主義の愚と化した美術と無縁なところで、いわば時局にたいする抵抗的な姿勢を保持していたグループの誕生に靉光は加わっている。事務所を下落合の松本竣介の家に置いた新人画会のグループである。麻生三郎、井上長三郎、鶴岡政男、糸園和三郎、大野五郎、寺田政明ら八人であった。
 眼の残酷さと裏腹に、みるものに一種の解放感すら感じさせる自画像のシリーズが生まれるのは、この新人画会以後のことである。以後といっても召集されて中国大陸へ渡る1944年までわずか一年たらずであった。その間に三点の自画像を描いている。」酒井忠康『早世の天才画家 日本近代洋画の十二人』中公新書、2009、pp.294-298.

 日本は20世紀の前半、大きな戦争をした。戦争にも武器にも爆弾にも無縁なはずの絵描きも、戦争なんか関係ねえよ!というわけにはいかなかった。戦争に協力するために軍隊から道具を支給されて絵を描いた画家に比べれば、一兵士として中国大陸で病気で死んだ靉光は、少しは幸福だったかもしれない。その作品が残されて、半世紀後の人々に見てもらえることも僥倖といえるだろう。オレは確かにここに生きていて、この絵を描いたのだ!という動かぬ証拠を残したのだから。
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