A.サラエボ事件100年
100年前(大正4年)に連載されていた夏目漱石『心』がいま、朝日新聞に再度連載中だが、そこに1914年の回顧というコラムが付いている。そこで「サラエボ事件」に触れていた。事件の日は、セルビアにとっては1389年の「コソボの戦い」の日として記憶されていたという。オスマン・トルコ軍に敗退したセルビア軍は、2万人以上の兵士が命を落としたという言い伝えもある。屈辱と苦難を呼び起こす日付だったのだ。
「サラエボ事件」からちょうど100年。サラエボ事件も、そこから始まった第1次世界大戦も、歴史の教科書の片隅に出てくる大昔の出来事で、日本ではとくに遠いヨーロッパの戦争で何か被害を受けたわけでもないし、むしろちょっとだけ参戦して太平洋のドイツ領の島を手に入れた漁夫の利の事件に過ぎない。しかし、20世紀の世界、とくにヨーロッパの人々にとって、近代国家が総力で行う戦争というものが、いかに悲惨なものであるかを思い知ったのが、第1次世界大戦だった。
1914年6月28日オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻が、当時領有していたボスニアの都サラエボを軍事演習視察のため訪れ、市庁舎での演説後、オープンカーでの帰途、銃撃されて死亡した。実行犯はセルビア人青年、ガブリロ・プリンツィプ。オーストリアの支配からセルビアを解放するという理念から犯行に及んだという。オーストリアは事件後、セルヴィアにたいして最後通告を突きつけ、1か月後に宣戦布告。
オーストリアは同盟国ドイツを巻き込み、さらにトルコ帝国が参戦。これを受けるセルビアはロシアに援助を求めて、戦いは露仏同盟を結んでいたロシアとフランスがドイツを東西から攻め、ドイツは対仏作戦としてベルギーに攻め込み、目の前のベルギーが襲われるとイギリスもドイツに宣戦布告、イタリアやアメリカ、そして日英同盟の日本も対独戦にという具合にどんどん拡大し、第1次世界大戦へと発展した。
第1次世界大戦は、戦争技術の上でも毒ガスという史上初の大量破壊兵器や、飛行機や戦車など近代技術を用いた新兵器が次々投入された。その結果、欧州中心に死者一千万人に及ぶともされる犠牲を招いた。結局、戦争前にあったオーストリア・ハンガリー帝国、ドイツ帝国は崩壊し、オスマン・トルコ帝国と帝政ロシアにも革命が起って消えてしまった。多くの犠牲を出した戦争は、ヨーロッパ文明全体の没落をもたらし、しかもその教訓は結局生かされずに30年もしないうちに第2次世界大戦をくり返した。
Wikipediaにあった「第1次世界大戦の原因」、という箇所に8項目があがっていた。これを見ていたら、なんだか恐ろしくなった。まるでこの100年が、もう一度繰り返すのではないかという悪夢。
*普仏戦争以来数十年間大規模な戦争はおきていなかったことによる戦争記憶の風化
*ナショナリズム
*未解決の領土問題
*複雑な同盟関係(三国同盟、三国協商、日英同盟など)
*Convoluted and fragmented governance
*外交における通信の遅延、意図の誤解
*軍拡競争
*軍事計画の硬直性
どれも今の日本では、ヤバい方向で事が進んでいる。複雑な同盟関係で諸国家がブロック化しているとは言えないけれど、軍事同盟や経済関係が複雑化して、世界に安定した秩序が保たれなくなっていることもきわめて当時に似て不安である。
さらに「外交官たちの起こした戦争」という記述がある。
「ナポレオン戦争の最終的な勝利者は、将軍でもなければ皇帝でもない宰相メッテルニヒであった。この悪しき前例が、列強の宮廷人に野心を起こさせた。この時代の外交官には、地図上の領土拡張ゲームを競うような軽薄さが見てとれる。オーストリア外相レオポルト・ベルヒトルト伯爵は、セルビア運動の弾圧を含む強硬なオーストリア最後通牒を作成した。ロシア外相セルゲイ・サゾーノフ(英語版)は、開戦に備えての軍の動員を、御前会議で取りつけた。本当に平和の為に尽力したのは、英外相エドワード・グレイのみ。
また、この時代の外交文書は捏造が多い事も後に指摘されている。曰く、諸外国は軍備を増強している、某国は我が国を侮辱した、等々。また、英外相の和平に向けての努力は一切黙殺されている。具体例を上げると、フランスの外交文書(黄書)は、ロシアの総動員を自国民に伝えず、ただドイツの脅威のみを強調した。また、「フランス人のごとき堕落せる国民を打ち砕くべし」という内容のドイツ皇帝の手紙を捏造した。オーストリアの外交文書(青書)では、ドイツ陸軍武官の「平和への欲望、仲裁の希望」といった句が削除されている。ロシアによる和平提案、グレイによる和平案も削除されている。ドイツの外交文書(白書)では、イギリスの威嚇が捏造されている。また、駐露大使による、当地の動員に侵略的意図はないという報告は削除されている。ロシアの外交文書(オレンジ書)は、特に捏造が多いので有名である。当時の国民は、これら「捏造された外国の脅威」を信じるほかなかった。
なんとも恐ろしいことである。外交文書を捏造し、国民に正しい情報を伝えず、ひたすら戦争に魅せられたように対立を煽る外交官たち。サラエボ事件が起きなかったとしても、状況が変わらなければちっぽけなテロ事件が世界戦争になってしまう。
サラエボのセルビア人青年は、いまもセルビア側では「民族の英雄」、ドイツなど多くの国では「テロリスト」とされる。このへんの事情は、サラエボ事件より前の1909年のハルビン伊藤博文暗殺事件の実行犯朝鮮人青年安重根が、「民族の英雄」か「テロリスト」かという180度の評価の違いになっていることとも共通する。
隣国への憎悪と罵倒、軍事力への過信、領土への執着。これらは21世紀にも克服されていないとしたら、ぼくたちはこの先の世界をどう生きていったらいいのだろう?
B.ジャズ論補足
昨夜NHKのFMを偶然聴いたら、日本のジャズという特集をやっていて、サックス奏者松本英彦の演奏がいくつか流れた。ジャズについてアメリカのことばかり書いたが、そういえば日本は早くからジャズにとり憑かれた人が出て、戦後は特にアメリカのモダン・ジャズの流れにほぼ同時代的に沿って、優秀な奏者が現れたということを忘れていた。そこで、補足として松本英彦さんのことを振り返る。
ぼくが子どもの頃、つまり1960年代から70年代初めにかけてだが、日本で音楽を聴く機会はレコードかラジオだった。とくにクラシックはレコード。しかし、急速に普及するテレビでは、歌謡曲のほかに民謡や浪曲もやっていたし、ロカビリー歌手やJ-ポップの草創期のアメリカ輸入のポピュラーソングの和風版もあった。しかし、それ以上にジャズ、あるいはジャズ出身のミュージシャンが活躍していたし、のちのクレージーキャッツのように、TVタレントから俳優までこなす人たちも現れた。だから、意外にジャズのスタンダード名曲というものを耳から聴いていたのだな、と今になって思う。それらの演奏は、本場のジャズはなかなか聴く機会もなかったので、日本人のジャズメンの演奏だったが、みな腕は良かった。
松本 英彦(まつもと ひでひこ、1926年10月12日 - 2000年2月29日)は、日本の世界的テナーサックス奏者。ニックネームは「スリーピー松本」。享年73。これもWikiedia引用で恐縮だが、松本英彦氏の経歴は以下のようになっている。
*1926年 10月12日岡山県で生まれる。幼少期に広島県府中町(現・府中市)に転居。
*1938年 広島県立府中中学校(現・広島県立府中高等学校)に入学。ブラスバンド部に籍を置き、これが音楽一筋の長い歴史の始まりとなる。
*1943年 無線電信講習所(現・電気通信大学)に入学。
*1944年 よこすかEMクラブ近くの横浜サクラポート(オルフェアンズと交替)で音楽家としての人生をスタート。その後、学校に通いながら、米軍キャンプで演奏のアルバイトを続ける。このとき米軍軍人から"スリーピー"の愛称をもらう。
*1949年 CBナインへ参加し、ジャズ人生のスタートを切る。
*1951年 渡辺晋(のちに渡辺プロダクションを創設)率いる渡辺晋とシックス・ジョーズに加入。
*1953年 ジョージ川口、中村八大、小野満と日本のジャズ史に偉大な足跡を残したビッグ・フォーを結成、第一次ジャズブームを巻き起こす。
*1959年 白木秀雄のクインテットに参加。
*1963年 日本人として初めて世界的なジャズの祭典、モントレー・ジャズ・フェスティバルに招かれ単独出演し、これを機に活躍の場を世界へ広げる。
*1964年 2月、チャーリー・マリアーノ『Jazz Inter - Session』(キングレコード)の録音に参加した。7月14日、東京で行われた世界ジャズ・フェスティバルに参加。なお、同日のメイン・アクトはマイルス・デイヴィスだった。
*1968年、ハンプトン・ホーズ『Jam Session』(コロンビア)の録音に参加した。
*1977年 文化庁芸術祭大賞受賞。
*1978年 南里文雄賞受賞。
*1978年 インナー・ギャラクシー・オーケストラに参加。
*1982年 日ソ文化交流としてソ連招待公演。
*1987年 国内4会場で、音楽生活40周年記念リサイタルを開き大成功、これにより芸術選奨文部大臣賞を受賞。
*1988年 芸術選奨文部大臣賞受賞。
*1991年 日本のジャズ界への多大な貢献が評価され、紫綬褒章を受章。
*1998年 勲四等旭日小綬章を受章。
*2000年 2月29日死去。73歳没
この中に出てくる渡辺晋、ジョージ川口、中村八大、小野満、白木秀雄、南里文雄などの名も、日本のジャズ史に残る。とくに、昨日聴いた演奏で松本英彦と共演しているジョージ川口のドラムスは凄い。それに松本英彦はサックスだけじゃなくて、フルートも演奏し、余興かもしれないがスキャットで歌っていた。
敗戦直後の貧困と荒廃の中で、楽器一つをもった若者が米軍キャンプでジャズを鍛える。そして、これが圧倒的な占領軍の音楽だから仕方なく演奏したのではなく、音楽そのものの魅力に取りつかれて彼らが優れたミュージシャンになっていった、ということは、本家本元のニューヨークのジャズが、この1950年代にビ・バップからモダン・ジャズへの急速な進化を遂げていたことに対応している、と考えられる。つまり、日本の文化によくあるパターン、遠い外国の方に素晴らしいものがあって、それを日本人は一所懸命勉強して、本場に行って勝負しなければ本物にはなれない、という思い込み。パリの美術学校や画壇、ウィーンやミラノのオペラ、国際バレエ・コンクール、アメリカ・メジャーリーグの野球、そしてサッカーなら欧州の名門チーム、という具合に。やっぱり日本人じゃダメなのか、という劣等感が逆に「ニッポン」絶叫のナショナリズムになる。オリンピックもそういう本場成功物語になる。
でも、日本人のジャズは、それとは少し違うような気がする。つまり彼らは、本場アメリカには太刀打ちできない二軍として活躍したのではなく、アメリカで黒人ジャズメンがやっていたのと同じことを、ある意味共感と共同で楽しみながら、あるいは苦しみながら演奏していた。そして日本では、松本英彦に勲章を与えたけれども、ジャズはほんらい国家の勲章などとは無縁なものだったし、お金とも無縁な音楽だったと思う。
100年前(大正4年)に連載されていた夏目漱石『心』がいま、朝日新聞に再度連載中だが、そこに1914年の回顧というコラムが付いている。そこで「サラエボ事件」に触れていた。事件の日は、セルビアにとっては1389年の「コソボの戦い」の日として記憶されていたという。オスマン・トルコ軍に敗退したセルビア軍は、2万人以上の兵士が命を落としたという言い伝えもある。屈辱と苦難を呼び起こす日付だったのだ。
「サラエボ事件」からちょうど100年。サラエボ事件も、そこから始まった第1次世界大戦も、歴史の教科書の片隅に出てくる大昔の出来事で、日本ではとくに遠いヨーロッパの戦争で何か被害を受けたわけでもないし、むしろちょっとだけ参戦して太平洋のドイツ領の島を手に入れた漁夫の利の事件に過ぎない。しかし、20世紀の世界、とくにヨーロッパの人々にとって、近代国家が総力で行う戦争というものが、いかに悲惨なものであるかを思い知ったのが、第1次世界大戦だった。
1914年6月28日オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻が、当時領有していたボスニアの都サラエボを軍事演習視察のため訪れ、市庁舎での演説後、オープンカーでの帰途、銃撃されて死亡した。実行犯はセルビア人青年、ガブリロ・プリンツィプ。オーストリアの支配からセルビアを解放するという理念から犯行に及んだという。オーストリアは事件後、セルヴィアにたいして最後通告を突きつけ、1か月後に宣戦布告。
オーストリアは同盟国ドイツを巻き込み、さらにトルコ帝国が参戦。これを受けるセルビアはロシアに援助を求めて、戦いは露仏同盟を結んでいたロシアとフランスがドイツを東西から攻め、ドイツは対仏作戦としてベルギーに攻め込み、目の前のベルギーが襲われるとイギリスもドイツに宣戦布告、イタリアやアメリカ、そして日英同盟の日本も対独戦にという具合にどんどん拡大し、第1次世界大戦へと発展した。
第1次世界大戦は、戦争技術の上でも毒ガスという史上初の大量破壊兵器や、飛行機や戦車など近代技術を用いた新兵器が次々投入された。その結果、欧州中心に死者一千万人に及ぶともされる犠牲を招いた。結局、戦争前にあったオーストリア・ハンガリー帝国、ドイツ帝国は崩壊し、オスマン・トルコ帝国と帝政ロシアにも革命が起って消えてしまった。多くの犠牲を出した戦争は、ヨーロッパ文明全体の没落をもたらし、しかもその教訓は結局生かされずに30年もしないうちに第2次世界大戦をくり返した。
Wikipediaにあった「第1次世界大戦の原因」、という箇所に8項目があがっていた。これを見ていたら、なんだか恐ろしくなった。まるでこの100年が、もう一度繰り返すのではないかという悪夢。
*普仏戦争以来数十年間大規模な戦争はおきていなかったことによる戦争記憶の風化
*ナショナリズム
*未解決の領土問題
*複雑な同盟関係(三国同盟、三国協商、日英同盟など)
*Convoluted and fragmented governance
*外交における通信の遅延、意図の誤解
*軍拡競争
*軍事計画の硬直性
どれも今の日本では、ヤバい方向で事が進んでいる。複雑な同盟関係で諸国家がブロック化しているとは言えないけれど、軍事同盟や経済関係が複雑化して、世界に安定した秩序が保たれなくなっていることもきわめて当時に似て不安である。
さらに「外交官たちの起こした戦争」という記述がある。
「ナポレオン戦争の最終的な勝利者は、将軍でもなければ皇帝でもない宰相メッテルニヒであった。この悪しき前例が、列強の宮廷人に野心を起こさせた。この時代の外交官には、地図上の領土拡張ゲームを競うような軽薄さが見てとれる。オーストリア外相レオポルト・ベルヒトルト伯爵は、セルビア運動の弾圧を含む強硬なオーストリア最後通牒を作成した。ロシア外相セルゲイ・サゾーノフ(英語版)は、開戦に備えての軍の動員を、御前会議で取りつけた。本当に平和の為に尽力したのは、英外相エドワード・グレイのみ。
また、この時代の外交文書は捏造が多い事も後に指摘されている。曰く、諸外国は軍備を増強している、某国は我が国を侮辱した、等々。また、英外相の和平に向けての努力は一切黙殺されている。具体例を上げると、フランスの外交文書(黄書)は、ロシアの総動員を自国民に伝えず、ただドイツの脅威のみを強調した。また、「フランス人のごとき堕落せる国民を打ち砕くべし」という内容のドイツ皇帝の手紙を捏造した。オーストリアの外交文書(青書)では、ドイツ陸軍武官の「平和への欲望、仲裁の希望」といった句が削除されている。ロシアによる和平提案、グレイによる和平案も削除されている。ドイツの外交文書(白書)では、イギリスの威嚇が捏造されている。また、駐露大使による、当地の動員に侵略的意図はないという報告は削除されている。ロシアの外交文書(オレンジ書)は、特に捏造が多いので有名である。当時の国民は、これら「捏造された外国の脅威」を信じるほかなかった。
なんとも恐ろしいことである。外交文書を捏造し、国民に正しい情報を伝えず、ひたすら戦争に魅せられたように対立を煽る外交官たち。サラエボ事件が起きなかったとしても、状況が変わらなければちっぽけなテロ事件が世界戦争になってしまう。
サラエボのセルビア人青年は、いまもセルビア側では「民族の英雄」、ドイツなど多くの国では「テロリスト」とされる。このへんの事情は、サラエボ事件より前の1909年のハルビン伊藤博文暗殺事件の実行犯朝鮮人青年安重根が、「民族の英雄」か「テロリスト」かという180度の評価の違いになっていることとも共通する。
隣国への憎悪と罵倒、軍事力への過信、領土への執着。これらは21世紀にも克服されていないとしたら、ぼくたちはこの先の世界をどう生きていったらいいのだろう?
B.ジャズ論補足
昨夜NHKのFMを偶然聴いたら、日本のジャズという特集をやっていて、サックス奏者松本英彦の演奏がいくつか流れた。ジャズについてアメリカのことばかり書いたが、そういえば日本は早くからジャズにとり憑かれた人が出て、戦後は特にアメリカのモダン・ジャズの流れにほぼ同時代的に沿って、優秀な奏者が現れたということを忘れていた。そこで、補足として松本英彦さんのことを振り返る。
ぼくが子どもの頃、つまり1960年代から70年代初めにかけてだが、日本で音楽を聴く機会はレコードかラジオだった。とくにクラシックはレコード。しかし、急速に普及するテレビでは、歌謡曲のほかに民謡や浪曲もやっていたし、ロカビリー歌手やJ-ポップの草創期のアメリカ輸入のポピュラーソングの和風版もあった。しかし、それ以上にジャズ、あるいはジャズ出身のミュージシャンが活躍していたし、のちのクレージーキャッツのように、TVタレントから俳優までこなす人たちも現れた。だから、意外にジャズのスタンダード名曲というものを耳から聴いていたのだな、と今になって思う。それらの演奏は、本場のジャズはなかなか聴く機会もなかったので、日本人のジャズメンの演奏だったが、みな腕は良かった。
松本 英彦(まつもと ひでひこ、1926年10月12日 - 2000年2月29日)は、日本の世界的テナーサックス奏者。ニックネームは「スリーピー松本」。享年73。これもWikiedia引用で恐縮だが、松本英彦氏の経歴は以下のようになっている。
*1926年 10月12日岡山県で生まれる。幼少期に広島県府中町(現・府中市)に転居。
*1938年 広島県立府中中学校(現・広島県立府中高等学校)に入学。ブラスバンド部に籍を置き、これが音楽一筋の長い歴史の始まりとなる。
*1943年 無線電信講習所(現・電気通信大学)に入学。
*1944年 よこすかEMクラブ近くの横浜サクラポート(オルフェアンズと交替)で音楽家としての人生をスタート。その後、学校に通いながら、米軍キャンプで演奏のアルバイトを続ける。このとき米軍軍人から"スリーピー"の愛称をもらう。
*1949年 CBナインへ参加し、ジャズ人生のスタートを切る。
*1951年 渡辺晋(のちに渡辺プロダクションを創設)率いる渡辺晋とシックス・ジョーズに加入。
*1953年 ジョージ川口、中村八大、小野満と日本のジャズ史に偉大な足跡を残したビッグ・フォーを結成、第一次ジャズブームを巻き起こす。
*1959年 白木秀雄のクインテットに参加。
*1963年 日本人として初めて世界的なジャズの祭典、モントレー・ジャズ・フェスティバルに招かれ単独出演し、これを機に活躍の場を世界へ広げる。
*1964年 2月、チャーリー・マリアーノ『Jazz Inter - Session』(キングレコード)の録音に参加した。7月14日、東京で行われた世界ジャズ・フェスティバルに参加。なお、同日のメイン・アクトはマイルス・デイヴィスだった。
*1968年、ハンプトン・ホーズ『Jam Session』(コロンビア)の録音に参加した。
*1977年 文化庁芸術祭大賞受賞。
*1978年 南里文雄賞受賞。
*1978年 インナー・ギャラクシー・オーケストラに参加。
*1982年 日ソ文化交流としてソ連招待公演。
*1987年 国内4会場で、音楽生活40周年記念リサイタルを開き大成功、これにより芸術選奨文部大臣賞を受賞。
*1988年 芸術選奨文部大臣賞受賞。
*1991年 日本のジャズ界への多大な貢献が評価され、紫綬褒章を受章。
*1998年 勲四等旭日小綬章を受章。
*2000年 2月29日死去。73歳没
この中に出てくる渡辺晋、ジョージ川口、中村八大、小野満、白木秀雄、南里文雄などの名も、日本のジャズ史に残る。とくに、昨日聴いた演奏で松本英彦と共演しているジョージ川口のドラムスは凄い。それに松本英彦はサックスだけじゃなくて、フルートも演奏し、余興かもしれないがスキャットで歌っていた。
敗戦直後の貧困と荒廃の中で、楽器一つをもった若者が米軍キャンプでジャズを鍛える。そして、これが圧倒的な占領軍の音楽だから仕方なく演奏したのではなく、音楽そのものの魅力に取りつかれて彼らが優れたミュージシャンになっていった、ということは、本家本元のニューヨークのジャズが、この1950年代にビ・バップからモダン・ジャズへの急速な進化を遂げていたことに対応している、と考えられる。つまり、日本の文化によくあるパターン、遠い外国の方に素晴らしいものがあって、それを日本人は一所懸命勉強して、本場に行って勝負しなければ本物にはなれない、という思い込み。パリの美術学校や画壇、ウィーンやミラノのオペラ、国際バレエ・コンクール、アメリカ・メジャーリーグの野球、そしてサッカーなら欧州の名門チーム、という具合に。やっぱり日本人じゃダメなのか、という劣等感が逆に「ニッポン」絶叫のナショナリズムになる。オリンピックもそういう本場成功物語になる。
でも、日本人のジャズは、それとは少し違うような気がする。つまり彼らは、本場アメリカには太刀打ちできない二軍として活躍したのではなく、アメリカで黒人ジャズメンがやっていたのと同じことを、ある意味共感と共同で楽しみながら、あるいは苦しみながら演奏していた。そして日本では、松本英彦に勲章を与えたけれども、ジャズはほんらい国家の勲章などとは無縁なものだったし、お金とも無縁な音楽だったと思う。