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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

サラエボ事件100年と、松本英彦さんのこと

2014-06-29 23:06:23 | 日記
A.サラエボ事件100年
 100年前(大正4年)に連載されていた夏目漱石『心』がいま、朝日新聞に再度連載中だが、そこに1914年の回顧というコラムが付いている。そこで「サラエボ事件」に触れていた。事件の日は、セルビアにとっては1389年の「コソボの戦い」の日として記憶されていたという。オスマン・トルコ軍に敗退したセルビア軍は、2万人以上の兵士が命を落としたという言い伝えもある。屈辱と苦難を呼び起こす日付だったのだ。
 「サラエボ事件」からちょうど100年。サラエボ事件も、そこから始まった第1次世界大戦も、歴史の教科書の片隅に出てくる大昔の出来事で、日本ではとくに遠いヨーロッパの戦争で何か被害を受けたわけでもないし、むしろちょっとだけ参戦して太平洋のドイツ領の島を手に入れた漁夫の利の事件に過ぎない。しかし、20世紀の世界、とくにヨーロッパの人々にとって、近代国家が総力で行う戦争というものが、いかに悲惨なものであるかを思い知ったのが、第1次世界大戦だった。
 1914年6月28日オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻が、当時領有していたボスニアの都サラエボを軍事演習視察のため訪れ、市庁舎での演説後、オープンカーでの帰途、銃撃されて死亡した。実行犯はセルビア人青年、ガブリロ・プリンツィプ。オーストリアの支配からセルビアを解放するという理念から犯行に及んだという。オーストリアは事件後、セルヴィアにたいして最後通告を突きつけ、1か月後に宣戦布告。
 オーストリアは同盟国ドイツを巻き込み、さらにトルコ帝国が参戦。これを受けるセルビアはロシアに援助を求めて、戦いは露仏同盟を結んでいたロシアとフランスがドイツを東西から攻め、ドイツは対仏作戦としてベルギーに攻め込み、目の前のベルギーが襲われるとイギリスもドイツに宣戦布告、イタリアやアメリカ、そして日英同盟の日本も対独戦にという具合にどんどん拡大し、第1次世界大戦へと発展した。

  第1次世界大戦は、戦争技術の上でも毒ガスという史上初の大量破壊兵器や、飛行機や戦車など近代技術を用いた新兵器が次々投入された。その結果、欧州中心に死者一千万人に及ぶともされる犠牲を招いた。結局、戦争前にあったオーストリア・ハンガリー帝国、ドイツ帝国は崩壊し、オスマン・トルコ帝国と帝政ロシアにも革命が起って消えてしまった。多くの犠牲を出した戦争は、ヨーロッパ文明全体の没落をもたらし、しかもその教訓は結局生かされずに30年もしないうちに第2次世界大戦をくり返した。

Wikipediaにあった「第1次世界大戦の原因」、という箇所に8項目があがっていた。これを見ていたら、なんだか恐ろしくなった。まるでこの100年が、もう一度繰り返すのではないかという悪夢。

*普仏戦争以来数十年間大規模な戦争はおきていなかったことによる戦争記憶の風化
ナショナリズム
未解決の領土問題
*複雑な同盟関係(三国同盟、三国協商、日英同盟など)
Convoluted and fragmented governance
*外交における通信の遅延、意図の誤解
軍拡競争
軍事計画の硬直性

 どれも今の日本では、ヤバい方向で事が進んでいる。複雑な同盟関係で諸国家がブロック化しているとは言えないけれど、軍事同盟や経済関係が複雑化して、世界に安定した秩序が保たれなくなっていることもきわめて当時に似て不安である。
さらに「外交官たちの起こした戦争」という記述がある。

「ナポレオン戦争の最終的な勝利者は、将軍でもなければ皇帝でもない宰相メッテルニヒであった。この悪しき前例が、列強の宮廷人に野心を起こさせた。この時代の外交官には、地図上の領土拡張ゲームを競うような軽薄さが見てとれる。オーストリア外相レオポルト・ベルヒトルト伯爵は、セルビア運動の弾圧を含む強硬なオーストリア最後通牒を作成した。ロシア外相セルゲイ・サゾーノフ(英語版)は、開戦に備えての軍の動員を、御前会議で取りつけた。本当に平和の為に尽力したのは、英外相エドワード・グレイのみ。
  また、この時代の外交文書は捏造が多い事も後に指摘されている。曰く、諸外国は軍備を増強している、某国は我が国を侮辱した、等々。また、英外相の和平に向けての努力は一切黙殺されている。具体例を上げると、フランスの外交文書(黄書)は、ロシアの総動員を自国民に伝えず、ただドイツの脅威のみを強調した。また、「フランス人のごとき堕落せる国民を打ち砕くべし」という内容のドイツ皇帝の手紙を捏造した。オーストリアの外交文書(青書)では、ドイツ陸軍武官の「平和への欲望、仲裁の希望」といった句が削除されている。ロシアによる和平提案、グレイによる和平案も削除されている。ドイツの外交文書(白書)では、イギリスの威嚇が捏造されている。また、駐露大使による、当地の動員に侵略的意図はないという報告は削除されている。ロシアの外交文書(オレンジ書)は、特に捏造が多いので有名である。当時の国民は、これら「捏造された外国の脅威」を信じるほかなかった。

 なんとも恐ろしいことである。外交文書を捏造し、国民に正しい情報を伝えず、ひたすら戦争に魅せられたように対立を煽る外交官たち。サラエボ事件が起きなかったとしても、状況が変わらなければちっぽけなテロ事件が世界戦争になってしまう。
 サラエボのセルビア人青年は、いまもセルビア側では「民族の英雄」、ドイツなど多くの国では「テロリスト」とされる。このへんの事情は、サラエボ事件より前の1909年のハルビン伊藤博文暗殺事件の実行犯朝鮮人青年安重根が、「民族の英雄」か「テロリスト」かという180度の評価の違いになっていることとも共通する。

 隣国への憎悪と罵倒、軍事力への過信、領土への執着。これらは21世紀にも克服されていないとしたら、ぼくたちはこの先の世界をどう生きていったらいいのだろう?



B.ジャズ論補足
 昨夜NHKのFMを偶然聴いたら、日本のジャズという特集をやっていて、サックス奏者松本英彦の演奏がいくつか流れた。ジャズについてアメリカのことばかり書いたが、そういえば日本は早くからジャズにとり憑かれた人が出て、戦後は特にアメリカのモダン・ジャズの流れにほぼ同時代的に沿って、優秀な奏者が現れたということを忘れていた。そこで、補足として松本英彦さんのことを振り返る。

 ぼくが子どもの頃、つまり1960年代から70年代初めにかけてだが、日本で音楽を聴く機会はレコードかラジオだった。とくにクラシックはレコード。しかし、急速に普及するテレビでは、歌謡曲のほかに民謡や浪曲もやっていたし、ロカビリー歌手やJ-ポップの草創期のアメリカ輸入のポピュラーソングの和風版もあった。しかし、それ以上にジャズ、あるいはジャズ出身のミュージシャンが活躍していたし、のちのクレージーキャッツのように、TVタレントから俳優までこなす人たちも現れた。だから、意外にジャズのスタンダード名曲というものを耳から聴いていたのだな、と今になって思う。それらの演奏は、本場のジャズはなかなか聴く機会もなかったので、日本人のジャズメンの演奏だったが、みな腕は良かった。

 松本 英彦(まつもと ひでひこ、1926年10月12日 - 2000年2月29日)は、日本の世界的テナーサックス奏者。ニックネームは「スリーピー松本」。享年73。これもWikiedia引用で恐縮だが、松本英彦氏の経歴は以下のようになっている。
*1926年 10月12日岡山県で生まれる。幼少期に広島県府中町(現・府中市)に転居。
*1938年 広島県立府中中学校(現・広島県立府中高等学校)に入学。ブラスバンド部に籍を置き、これが音楽一筋の長い歴史の始まりとなる。
*1943年 無線電信講習所(現・電気通信大学)に入学。
*1944年 よこすかEMクラブ近くの横浜サクラポート(オルフェアンズと交替)で音楽家としての人生をスタート。その後、学校に通いながら、米軍キャンプで演奏のアルバイトを続ける。このとき米軍軍人から"スリーピー"の愛称をもらう。
*1949年 CBナインへ参加し、ジャズ人生のスタートを切る。
*1951年 渡辺晋(のちに渡辺プロダクションを創設)率いる渡辺晋とシックス・ジョーズに加入。
*1953年 ジョージ川口、中村八大、小野満と日本のジャズ史に偉大な足跡を残したビッグ・フォーを結成、第一次ジャズブームを巻き起こす。
*1959年 白木秀雄のクインテットに参加。
*1963年 日本人として初めて世界的なジャズの祭典、モントレー・ジャズ・フェスティバルに招かれ単独出演し、これを機に活躍の場を世界へ広げる。
*1964年 2月、チャーリー・マリアーノ『Jazz Inter - Session』(キングレコード)の録音に参加した。7月14日、東京で行われた世界ジャズ・フェスティバルに参加。なお、同日のメイン・アクトはマイルス・デイヴィスだった。
*1968年、ハンプトン・ホーズ『Jam Session』(コロンビア)の録音に参加した。
*1977年 文化庁芸術祭大賞受賞。
*1978年 南里文雄賞受賞。
*1978年 インナー・ギャラクシー・オーケストラに参加。
*1982年 日ソ文化交流としてソ連招待公演。
*1987年 国内4会場で、音楽生活40周年記念リサイタルを開き大成功、これにより芸術選奨文部大臣賞を受賞。
*1988年 芸術選奨文部大臣賞受賞。
*1991年 日本のジャズ界への多大な貢献が評価され、紫綬褒章を受章。
*1998年 勲四等旭日小綬章を受章。
*2000年 2月29日死去。73歳没

 この中に出てくる渡辺晋、ジョージ川口、中村八大、小野満、白木秀雄、南里文雄などの名も、日本のジャズ史に残る。とくに、昨日聴いた演奏で松本英彦と共演しているジョージ川口のドラムスは凄い。それに松本英彦はサックスだけじゃなくて、フルートも演奏し、余興かもしれないがスキャットで歌っていた。
 敗戦直後の貧困と荒廃の中で、楽器一つをもった若者が米軍キャンプでジャズを鍛える。そして、これが圧倒的な占領軍の音楽だから仕方なく演奏したのではなく、音楽そのものの魅力に取りつかれて彼らが優れたミュージシャンになっていった、ということは、本家本元のニューヨークのジャズが、この1950年代にビ・バップからモダン・ジャズへの急速な進化を遂げていたことに対応している、と考えられる。つまり、日本の文化によくあるパターン、遠い外国の方に素晴らしいものがあって、それを日本人は一所懸命勉強して、本場に行って勝負しなければ本物にはなれない、という思い込み。パリの美術学校や画壇、ウィーンやミラノのオペラ、国際バレエ・コンクール、アメリカ・メジャーリーグの野球、そしてサッカーなら欧州の名門チーム、という具合に。やっぱり日本人じゃダメなのか、という劣等感が逆に「ニッポン」絶叫のナショナリズムになる。オリンピックもそういう本場成功物語になる。
  でも、日本人のジャズは、それとは少し違うような気がする。つまり彼らは、本場アメリカには太刀打ちできない二軍として活躍したのではなく、アメリカで黒人ジャズメンがやっていたのと同じことを、ある意味共感と共同で楽しみながら、あるいは苦しみながら演奏していた。そして日本では、松本英彦に勲章を与えたけれども、ジャズはほんらい国家の勲章などとは無縁なものだったし、お金とも無縁な音楽だったと思う。
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第一の鎖国の平安、そして今は第三の鎖国か?

2014-06-27 21:18:51 | 日記
A.2014年6月の情況
 昨年の今頃は、大手メディアの注目は何よりアベノミクスは成功するか、三本の矢の効果が雇用や賃金にまで波及するにはまだ時間がかかるだろう、などといった話題だった。首相も自民党幹部も、尖閣や竹島でこじれた中韓との外交問題にはとりあえず口を濁して、参議院選挙までは経済復活ばかりアピールしていた。それから一年、アベノミクスという単語自体、最近はとんと人の口の端に乗らない。秋以降、安倍政権は待ち構えていたように経済はもう大丈夫だからと、唐突ともいえる矢継ぎ早の「国防」「安全保障」の大転換を、「秘密保護法」の強行採決、「集団的自衛権」の閣議決定、そして今日の新聞によれば、「ODA(政府開発援助)の軍事的分野への拡大」を打ち出して、これまで踏み込まなかった武器輸出三原則や海外派兵などを見直し、これが外交・軍事政策の三本の矢だそうである。
  なにかたった一年でまるで別の国になったような気がする。だが、おそらくこれは突然出てきたのではなく、2012年末の安倍政権誕生をにらんで、誰かが以前からこっそりシナリオを書いていたに違いないと今にして思う。そこらへんの裏事情は、メディア報道しか手がかりのないぼくなどの知るよしもないことなのだが、たぶんかつて「外務省」にいた一部の人々が、関与していたのではないかと推測する。「集団的自衛権」をめぐる「有識者会議」のメンバーに確信犯的な外務省OBがいることからも、まんざら根拠のない推測でもないと思う。
  ぼくは外務官僚などという人々と、直接会ったことも話したこともないが、彼らの一部に今安倍政権が強引に進めている政策の実務的かつ思想的な黒幕がいるような気がする。それは、なぜいまかくも性急に、長いこと日本の外交政策の基本であった武力・軍事力に頼らない安全保障という前提を、大転換したいのか、を読み解く鍵があるような気がするからだ。それは憲法9条が彼らのやりたい「国家の意志の実現」を常に阻んできたことへの、怨念ともいえる心情にもとづいているだろうからだ。そして国会の圧倒的多数を握った安倍政権ですら、ただちに憲法9条改悪を実現するのは難しいと見て、もっと手っとり早い手段、国民が何が問題なのか気づく前に彼らの野望を達成してしまいたい、という執念が現在の状況を招いていると思う。
  戦前の大日本帝国を破滅に導いた元凶は、軍部、とくに陸軍だったといわれる。昭和戦前の歴史を見れば、軍人官僚の暴走が、国民や天皇をほとんど無視して、国家総動員の戦争に突っ込んでいったことは明らかで、敗戦の悲惨を身をもって体験した大多数の国民は、これを痛い教訓として日本軍の解体と占領統治を受け容れ、戦争放棄の憲法を日本再建の希望として認知した。その後の国際情勢は、朝鮮戦争を契機に日本の再軍備、日米同盟と安保条約という選択によって西側反共陣営に組み込まれたものの、日本という国はもっぱら経済成長、国民生活の向上に力を注ぎ、戦争という汚れ仕事には手を出さずに、海外で一人の戦死者も出さず(朝鮮戦争時にわずかな犠牲者は出したものの)、他国の戦争に関わって武力で人を殺すこともなく、先進経済大国になれた。それも奇跡的な幸運であったともいえるが、そのことを国民は誇りにこそ思っても、情けないとは思わなかった。
  しかし、外務省の一部の人々は、どうもそう思っていなかったらしい。かつての軍部は、自分たちの内輪の論理から、国際的世論を無視して中国大陸の利権を確保するため、無謀としか思えぬ泥沼の戦争に突き進んですべてを台無しにしてしまった。当時の日本国民は、そのプロセスを知ることもなく、国民の半分をなす女性には選挙権もなく、気がつけば家族を兵士に取られ、家は焼かれ、悔やんでも悔やみきれない苦難を経験した。しかし、その記憶が薄れ、豊かな先進国になったとうぬぼれた時代に、「国家の威信」を威張りたくなった外務官僚は、アメリカが世界のあちこちで始める戦争に、自分たちが武力で協力できないことを「情けない屈辱」だと感じるようになった。「日米同盟の片務性」を克服し「国家の威信を取り戻す」には、自衛隊という軍隊を、米軍と一体となってイラクでもどこでも戦地に送れるようにすることこそが、強力な日本外交の実力にならなければいけない、と信じるようになった。
  
  すべてはそこから発想されている。外務省は、他の省庁と比べて、特定の業界や利害団体の利権をもつことが少ない。彼らがもつ利権は、せいぜい入国管理の海外日系社会との関係や、開発援助を名目とするODAの金である。外務省の存在価値をアピールするには、国際紛争に介入してアメリカの尻馬に乗った外国政府との結託である。その現場の利害に関与すればするほど、日本外務省の存在価値を高めるには、最後の切り札としての武器と軍事力という甘い誘惑に傾斜する。これは官僚という人々の悲しい性、役人の限界だろう。
  かつての軍国主義の敗北の悪役は軍部だった。しかし、今のめちゃくちゃともいえる暴走の主役は外務官僚なのかもしれない。実行部隊である防衛省・自衛隊の幹部からすれば、日本の国土を防衛するために日々訓練を重ね、たとえ不十分な立場とはいえ、日本国民と国土を守るためになら命を懸けると誓ったはずが、いつのまにか「国際貢献」を名目に遠い海外に派遣され、それでもその国の可哀相な民衆・子どもたちのために役に立とうと努力したのに、今度は首相の一存で敵を殺す作業に駆り出されるのは、約束違反ではないかと考えるのは、人間として当然だと思う。自分の仕事が国民大衆,自分の子どもたちに感謝される価値があると思えばこそ、武器を取って闘う意欲も鼓舞される。今の日本に問われているのは、自衛隊・軍部の責任ではなく、日本外務省に煽動された愚かな政治家の重い責任ではないだろうか。2014年6月の、日本政府の選択は亡国の道への雪崩込みだと思う。人間の安全で平和な人生を、政治の論理として追求した倫理的宗教的な価値を大事にした「法華経」の理念を謳った日蓮の教えを政治理念としてきた公明党・創価学会は、すべてをかなぐり捨てて、たかが権力の誘惑の前に、屈していいのか! あなたたちは、この日本という国の未来を致命的に過つ決定に賛成したという事実を、今後二百年の歴史教科書に書かれることになるのです。山口代表はじめ公明党幹部は雷の仏罰を受けて下さい。

 

B.「平安時代」は確かに平安だった。
加藤周一の名著『日本文学史序説』は、平安時代の勅撰和歌集「古今集」について、このような記述になっている。

「『万葉集』と『古今集』とのもう一つの大きなちがいは、時間の概念に係る。『万葉集』は想出をうたわず、現在の感情をうたう。過去に現在を重ね、昨日を透して今日を見る屈折した心理の表現は、はじめて(少なくとも典型的には)『古今集』にあらわれたものである。すでに貫之の春の歌(前出)には、三つの時間が重なっていた。「春立つ今日」は、「袖ひじて」水を汲んだ昨年の春(または夏)と、その水の凍った冬と、過去の二つの時期の想出と重ねて、語られている。
 月やあらぬ、春やむかしの春ならぬ 我身ひとつはもとの身にして (巻一五、七四七、在原なりひら)
 ここでは環境の変化と我身の同定(持続)とが対照され、――禅家ならば「奪境不奪人」ということだろう――、一首の志は時の経過そのものを主題とするかの如くである。
 花の色はうつりにけりな いたづらに我身世にふるながめせしまに (巻二、 一一三、小野小町)
 ここで長雨降る間に花の色のあせた時の経過と、みずから世に経るのを眺めて移りきた年月とが、巧妙な修辞によって重ねあわされている。このような時間の経過に対する極度に鋭敏な感覚は、おそらく奈良時代には到底想像もできないものであった。
 もはや都の外へ出ることも少なくなった貴族知識人たちの関心の対象は、いよいよ狭くなり、その限られた対象の微妙な性質に対して、彼らの感覚はいよいよ鋭くなった。貫之は久しぶりに訪れた故郷の香りが昔と変わらぬことに注意し(巻一、四二)、ふじばかまの匂に「やどりせし人」の昔を想出していた(巻四、二四〇)。また失名の歌人は、五月の花たちばなと「昔の人」の袖の香をくらべている(巻三、一三九)。彼らは音に対しても敏感で、風の音に秋の訪れをよみとった(巻四、一六九、藤原敏行)ばかりでなく、去年と今年のほととぎすの声さえも比較していた(巻三、一五九、よみ人しらず)。このような感覚の洗練、時の流れに対する敏感さ、その上に築かれた繊細な美学は、貴族社会の内側で、真言・天台の二宗の浸透しなかった意識の層において、まさに現世的な土着世界観の枠組のなかで、またそのなかでのみ、成立したのであり、一度成立するや、やがて来るべき三〇〇年の摂関時代の文化の主軸となったのである。
 『古今集』の伝統は、かくして平安時代の貴族文化の伝統そのものである。一三世紀の初に政治的権力の中心が貴族支配層の手から武士の手に移ったとき、貴族たちが自己同定の根拠としたのは、まさにその文化であった。彼らは『新古今集』(一二〇五)をつくり、「古今伝授」に熱中した。前者は後述するように『古今集』の分類編成に従う。後者は『古今集』の極端に瑣末な若干の点について(いくつかの鳥の名まえ、いくつかの木の名まえなど)、師が一般には公開しない説明(秘事)を特定の弟子に伝えるという習慣である(この習慣は、藤原基俊から藤原俊成が古今伝授をうけた一一三八年にはじまったとされる。相伝の系図は、俊成以後、定家、為家とつづき、その後二条・京極・冷泉の三家に分れた)。そのおどろくべき瑣末主義にもかかわらず、「古今伝授」が歌人にとって重大事であったのは、それが勅撰集の撰者の資格に係り(文化的権威)、また経済的利益(荘園の領有)ともむすびついていたからであろう。秘事相伝のことは、平安時代末から多くの芸事については広く行われるようになったが、「古今伝授」はその先蹤である。一八世紀の前半に富永仲基が印度・中国・日本の文化を比較して、日本文化の特徴はものをかくすことだといったときにも(『翁の文』)、彼はそれ以外のことを指摘しようとしていたのではなかった。「秘伝」という日本文化に特徴的な現象も、おそらくその源を『古今集』に発する。
 実に九世紀が決定した美的感受性の型は、平安時代を貫いたばかりでなく、貴族支配層の政治的没落の後にも長く生きのび、能と連歌を通って、歌舞伎や俳諧にまでその影響を及ぼしながら、今日に到った。 八世紀以前の美学的な類型の影響が今日にまで及ぶものは、ほとんど全くない。」加藤周一『日本文学史序説』上、ちくま学芸文庫、1999(原著刊行は1975 )、pp.180-182.

 「日本的」「和風文化」の精髄は、今日でも師匠と弟子、という関係で「秘儀的」に「免許皆伝」する習慣が続いている。それは平安時代の「古今集」の、かくされた瑣末なルールを、限られた弟子にだけこっそり伝えられる、という形で「文化的権威」として生き延びている。それは、美学的・芸術的価値の装いを仮装しながら、実質的には経済的利害として存続している。華道、茶道、書道、剣道、柔道、合気道などの伝統芸能だけでなく、そのパターンは近代西洋文化にも伝染して、師匠と弟子の秘儀相伝、ピアノ、バイオリン、ダンス、バレー、スポーツの世界にも生き残っている。これを日本の麗しい伝統というのならば、平安時代の閉鎖的な貴族社会の名残だということもできる。でも、加藤周一の論考が示すところによれば、普遍的な宗教という超越的な理念の世界と、それはどういう関係になっているのか?

 「僧侶の、つまるところ天台僧の浄土教とはどういうものであったか。天台宗の観法の一つに「常行三昧」ということがあり、唐から帰ってそれを強調したのは、慈覚大師円仁である(日本浄土教の歴史的な発展については、次の書に詳しい。井上光貞『日本浄土教成立史の研究』山川出版社、一九五六)。「常行三昧」の内容は、九十日間、阿弥陀の名を唱えつづけ(称名)、阿弥陀を念じつづけて(観念)、休まぬというものである。しかし円仁は、阿弥陀の観念・称名、つまり「常行三昧」が他の修行(殊に観法の四種三昧のうち「法華三昧」より重要だといったのではないし、「観念」と「称名」のいずれか一方がより大切だといったのでもない。しかし阿弥陀を念じ、その名を唱える「念仏」行は、円仁以後の天台教団の中に次第に流行し、遂に恵心僧都源信(九四二~一〇一七)に到って頂点に達した。源信の編んだ『往生要集』(九八五)は、天台宗浄土教の代表的な作品である。全三巻一〇章、シナ語で書かれ、多数の経典を引用し、叙述説明と共に、問答を掲げる。
 内容は、第一、「厭離穢土」の部分で、地獄の種類を分け、それぞれ細かく描写した後、「人道」、つまりこの世の叙述に及ぶ。「人道」については、「不浄」と「苦」と「無常」の三つの相を述べる。「不浄」は人間の身体に係り、解剖学的な内臓の叙述(それはおどろくほど正確なものである)から、寄生虫や死後の身体の腐敗に到る。「苦」は、人生における苦しみ、「四百四病」(内苦)や牢獄・寒熱・飢渇・風雨などの苦しみ(外苦)である。「無常」は、人の命に限りあることをいい、「盛んなれば衰ふることあり、合い会へば別離あ」ることをいう。しかし人道に生まれることさえ困難であり、人として生まれても救われる条件を備えていることは稀で、たとえその条件を具えていても仏教に出会うとはかぎらない。したがって、人として生まれ、必要な条件(諸根)を具え、仏説に出会ったならば、その機会に浄土に往生しなければならない。
 第二、「欣求浄土」の部分は、人が死ぬとき「聖衆来迎」のあることからはじめて、浄土へ往生することの功徳一〇種類を挙げる。そのなかに浄土の光景の詳しい叙述がある。またその功徳のなかには、みずから極楽に住することができるばかりでなく、他人衆生を導く力の具わることも、算えられている。またこの部分の終りに問答があり、「十方浄土」があるというのに、何故西方浄土のみを念ずるのか、という問に、経を引いて、仏が一方の浄土を念ずることに専心せよ、といったからだと答えている。しかし十方浄土の中でその一つに専心すべきだとして、その一つが西方浄土(極楽)でなければならないのは、何故か、という第二の問には、他の浄土を勧めても同じ疑問が湧くはずで、仏意は図り難い、ただ信じるより他ない、という答がある。「問、為専其心、何故於中、唯勧極楽、答、設勧余浄土、亦不避此難、仏意難測、唯可仰信」は、おそらく他人から追及された上での言い逃れではなく、経をしらべて自問自答しながら考え尽くした源信その人の最後の結論だろう。問題は何故阿弥陀信仰か、何故西方浄土か、要するに、浄土教成立の根拠は何か、ということである。『往生要集』の経典の引用によって支えられた議論は、そこで行きづまる。その代わりに、源信の「非合理ゆえに我信ず」があらわれている、と読むこともできる。
 第三、極楽往生の方法の問題。『往生要集』の大部分は、そのための議論に費やされている。ここでは詳細にたち入らないが、次の二点には注意しておきたい。その一つは、天台宗の理論がいう「四種三昧」のなかで「常行三昧」、つまり専心念仏を強調し、その他の修行を「助念の方法」、つまり平行して行うことが望ましい補助的手段としたことである。このようにあきらかな「念仏」中心主義をうち出したという点で、源信流は、円仁から良源に到る先行の天台宗理論家とちがう。その二つは、「念」じながら「観」ることである)、その名を称えることであるとして、「観念」と「称名」と何れに重点があるのか、はっきりさせていないということである。相手次第で、あるときには「観念」中心主義をとり、あるときには「称名」中心主義をとっているようにも読める。その点では、あきらかに「称名」を推した法然(一一三三~一二一二)の立場とちがう。『往生要集』の後に書かれたとされる『横川法語』では、源信も「称名」を説いた、「唱ればさだめて来迎にあづかる功徳莫大なり」。そのまえには、「信心あさくとも本願ふかきがゆゑに、頼まばかならず往生す」という句がある。本願はむろんすべての衆生を救おうという阿弥陀の本願である。そこまでは実にはっきりしている。しかしこのかな書きでわずかな数行の法語の最後は、こうなっている。「妄念をいとはずして信心のあさきをなげて、こころざしを深くして常に名号を唱ふべし」。法然の同じかな書きの「一枚起請文」の文章は、次のようである。「たゞ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申て疑なく往生するぞと思ひとりて申外には別の子細候はず」。読みくらべてみると、意味は同じ、しかし一方は「こゝろざしを深くして」称名せよといい、他方は称名の他に「別の子細候はず」と宣言する、そこに文章としての調子のちがいがある。このちがいは、つまるところ源信と法然の宗教のちがい、平安仏教と鎌倉仏教徒のちがいであって、それが同じ浄土思想の中にさえも、反映していたということになろう。
 『往生要集』(九八五)は、空海の『十住心論』(八三〇)の後一五〇年にして、成った。理論家としての源信には、空海に及ばない点がある。博引傍証、無数のシナ語経典を駆使したという点では似ているが、理路整然たることでは、またその体系の包括性という点では『往生要集』と『十住心論』はくらべものにならない(分類の非整合、叙述の重複、同語の多義性などは、『往生要集』において著しい)。しかし叙述の絵画的な生彩という点では『往生要集』が優る。殊に「厭離穢土」の地獄、「欣求浄土」の極楽の光景。平安貴族がその階層身分に応じて、地獄描写から印象づけられた者もあり、極楽描写を愛読した者もあったろうことは、まえに述べたとおりである。おそらく『十住心論』の読者は、俗界にはほとんど一人もなかったろうが、平安仏教が生んだ第二の名著『往生要集』は、貴族の一部にとって、枕頭の書となったのである。
 しかし「念仏称名」の遊行僧は、天台教団の外にもあらわれていた。すでに一〇世紀の初に、空也上人は乞食のみなりをし、杖をつき、市井に混じって、念仏を唱え、断食・焼身して観音を念じたり、念仏により盗人を退けたり、錫杖で蛇を折伏していたりした、という(『往生極楽記』『空也誄』。井上光貞、前掲書の引用による)。これは『日本霊異記』以来『今昔物語』に到るまで、民間説話にしばしばあらわれる呪術的な奇蹟譚である。天台の浄土教との共通点は、「念仏」以外にない。これは「念仏宗」であるかもしれないが、「浄土宗」ではなかろう。大衆の関心は死後浄土へ行くかどうかではなく、今此処で何がおこるか、ということに集中していた。あるいは井上光貞氏も指摘したように(前掲書)、一度は死んでも蘇生できるかどうかということに係っていた。空也の後、上人、聖、沙弥、行者などの名でよばれる民間布教者は実に多くあらわれ、平安時代を一貫して、教団の外で活動した。その活動は、しばしば呪術的であり、しばしばシャーマン的であった。平安時代の大衆は、根本的にその世界観を変えたのではなく、念仏称名や地蔵信仰を介して仏教と接触しながら、仏教を彼ら流に変えていったのである。」加藤周一『日本文学史序説』上、ちくま学芸文庫、1999(原著刊行は1975 )、pp.192-196.

  仏教がもたらした「厭離穢土」「欣求浄土」を求める思想としての「浄土教」は、平安末期に名もなき大衆に浸透していったとともに、支配層である貴族社会にも支持を広げていった。しかしその方向は、正反対の意味を孕んでいて、どちらも結局、超越的な思想の戦闘性を競うのではなく、土着の呪術的な世界に外来宗教を取り込み、変形させることで深く静かに定着することになった。そう考えてみると、21世紀の現代でこの国の大衆・民衆は、相も変わらず目の前の世俗的・現世的利害にしかリアルな関心を持っていない、としたら、暗澹たる未来しかぼくたちの前には期待できないことになってしまう。安倍晋三のもたらす世界は、取り返しのつかない反日そのものだといわざるを得ない。

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今日はBはなしです。

2014-06-25 22:03:35 | 日記
A.美しい国の赤恥
 都議会での出産・不妊治療などへの援助に関する質問中の「セクハラやじ」の主が、太田区選出の鈴木章浩都議だと認めて、彼は都議会自民党の会派離脱、ヤジを投げかけた塩村文夏都議に都庁で頭を下げて謝罪する姿が報道された。当初、ヤジの主は特定できず、自民党席から聞こえたといっても誰だか分からないと、とぼけて済まそうとしていたが、自民党本部は、騒ぎが炎上して安倍政権にとばっちりが及ぶのを恐れて、石破幹事長が「いるなら名乗り出て謝るべきだ」と言い火消しに回ったので、鈴木都議がひっかぶった形なのはみえみえの展開。それはちょっとTVを見ていても誰にも分かる。


 塩村都議の所属するみんなの党が、自民党批判をするまでもなく、大方の都民は議会での「野次」の中身がヒドいレベルで、怒りまたは不愉快なものを感じたはずだ。しかし、桝添知事はじめ議場にいた少なからぬ議員(おそらく男多数)は、思わず声を上げて笑った、という事実、そして事後、みな自分は関係ないそぶりをしたことはさすがに醜いと思ったはずだ。さらに、同様の野次は鈴木都議のみではなかったことも、この都議会議員の人としての質に大きな疑問を抱いただろう。
 あとで塩村都議は、かつてグラビアモデルやTVの娯楽番組でそれなりに活躍していた女性タレントであったことや、鈴木都議は尖閣諸島が問題化したときに、尖閣に勝手に上陸した地方議員の一人であったことなどが、追加情報として流れた。そういうトピックにぼくはほとんど関心はないが、鈴木都議がいかなる人物か気になったので、ネットで鈴木氏のブログなどいくつか見てみた。本人のブログには、今回の件には何一つ触れていないが、こんな記述がある。
 「大学4年の時父が他界し、家業である㈲光伸舎(クリーニング業)に入社、家業を兄と共に継ぐ。生前の父の思いに触れ、零細企業の経営の厳しさと楽しさを学ぶ。また多くの方々の協力、支援の有り難さを実感する。」「平成11年、私が生まれた新井宿地域から選出されていた故岩井久年前区議会議員の意志を継がせて頂き、自由民主党公認として出馬し、新人議員トップで大田区議会議員初当選。」「家 族:妻・一男二女の五人家族。趣味:ジョギング・読書・映画鑑賞etc、座右の銘:孟子「至誠にして動かざる者、未だ之れ有らざるなり」そして、政治理念として、学生時代にアフリカのスーダンでボランティア活動をしていた時、毎日多くの子どもたちが命を落としていくのを目の当たりにしました。その時、人々の暮らしにおいて正しい政治がいかに大切なものなのかを心の底から実感しました。
 それゆえに、自らが人として他を思いやる心、かけがえの無い命を尊ぶ心で、すべての物事に取り組む姿勢を持つことが最も大切であると思っております。」とある。
 続けて「“民信なくば立たず” 今の日本の一番の不幸は政治不信にあると思っております。信頼される政治を取り戻すためにも、政治家は政治を語る前にまず、皆様に信頼されるような自分作りを目指すべきであり、合わせて身を切る努力こそ、都民の理解を得る道であると考えております。初心を忘れず、常に己と向き合い、皆様の声を聞かせていただきながら、信念を持って真心の政治を実行していきます。」
 万人受けをねらった内容空疎な言葉という点では、地方議員によくある月並みさは措いておくとしても、今回の野次とその後のバックレには、改めて何かを言う気も起きない。ただ、親の営むクリーニング店の息子として、大田区の六郷や羽田地区を地盤に、町内会や商店会の顔役に支えられて区議、都議と登ってきた経歴と、u-tubeで本人が語る尖閣上陸の説明の映像を見ていて、なるほどこういう人物かと納得はした。
 23区の保守系区議会議員が、どういう経歴と人格の人々かは、ぼくもこれまで具体的に見てきたので、知らないわけではない。とくに、安倍第1次内閣の頃から、若手議員として出てきた人々が、伝統的な保守政治地盤の年功的秩序に乗っかりながら、戦後社会の共通了解を一方で継承しつつ、自営業者の互助組織と狭い地域利害の代弁者としての則を超えて、あるときから極右的信条を公然と語りはじめ、デモクラティックな市民社会の公共性ではなく、幻想的な「国家」を理念として口にするようになったのは、地元の若旦那の妄言と笑って済ませられない領域に入ったと思う。それが国政における安倍的なものを、今のような暴走に道を開いた地下の水流になっている。
 鈴木氏の語る言葉は、たんに女性への無意識のセクハラ発言で顰蹙を買った、という以上に、日本の歴史に対する無知を端的に示している。彼は尖閣に行ったことを「やむにやまれぬ日本人としての心情」からの行動だと自負している。その心情の根拠は、幕末明治維新の志士の志と同じ、外国の侵略への愛国の情、「尊皇攘夷」に重ねている。石原慎太郎がある意味巧妙に扇動した、固有の領土への外国の侵略という水戸学的ロジックのトリックに、天狗党的に突っ走ったテロリストなのだが、もちろん大田区の自営業者の息子で、ぬくぬくと育って青山学院大学法学部に行った鈴木氏に、そんな国士的覚悟があるはずはない。彼はただ、愚かにも志士を気取って無人島に行って格好をつけていたに過ぎない。しかし、美しい日本は情けなくも、この手の人間をあちこちの議会に当選させるほど堕落してしまった。
幕末の志士は少なくとも、己の信じる「尊皇攘夷」という主張を貫くために、事が破れたら潔く腹を切ったはずであり、たかが女性議員をからかった程度の発言を、「ぼくは知らないよ」などという頬被りは恥ずかしい、くらいの矜持は持っていた。都議会の議場で笑った男たちは、幕末の志士たちの垢を煎じて飲むべきだし、21世紀の政治家として、潔く腹を切る覚悟を示してほしいが、残念ながら「女は結婚して一人前」「子どもを産まない女など娼婦でもやってろ」「ねえちゃん、そんな偉そうなこと言ってないで、まだ美人で可愛いんだから、俺に一杯酒を注いでくれれば抱いてやるのに・・」という、「低い暗部の本音」で繋がっている。この国は、グローバル世界にまともに伍す覚悟も思想も欠けている。しかも、この愚劣な事件に激怒すべき国民の半分を占める女性のなかにも、まだ安倍晋三の野望を見抜けずに、ナショナリスト・ウィメンズがいるということも、世界の顰蹙を買うのが悲しい。
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思想に恋する、なんてことができるか?

2014-06-23 22:04:10 | 日記
A.人のつながり、について
 ぼくの両親は、しばらく前に亡くなってしまい、ひとりだけいる弟はいまも同じ建物の中に住んでいるのだが、たまにしか会わないし、親しく話すこともないことはないのだが、思想的感性的にさほど似ていると思ったことはあまりない。それでも、子どもの頃からさまざまな共有体験があるから、ほかの人よりは理解の基盤はあるはずだが、違う面の方が多いように思う。ぼくの配偶者も、もうずいぶん長く一緒に暮らしてきたし、息子たちは生まれたときからずっと生活を共にしてきたわけだけれども、これも大人になってからは、基本的に別の人間だと思う。夫婦だからとか、血が繋がっているとかだけで、無条件に親しく共感できるとも思えない。とくに仲が悪いとか、気が合わないなんてことはないと思うし、ほとんどケンカなどしたこともないが、似ているとも思わない。これって、何かおかしいだろうか?
 自分ととても似たようにこの世界を見、同じようなものに共感し、ああこの人は自分と同じやり方でものを考えているな、と思える人間に出会うことはごく少ない。たとえそう思えたとしても、少し交流していくと、むしろ自分とはちがう部分もまた見えてきて、やっぱり違うなと思うことの方が多い。面と向かって言葉を交わせる関係は、同じ場所と時間を共有していないと難しいから、そこまで一致することはまずありえない、と言ってもいいかもしれない。
 長い時間を一緒に生きる親兄弟は、当然習慣的な嗜好や態度がとても似ているはずだが、親子兄弟は選べる関係ではないから、自分が大事に考えてきたことを、よく理解しているかどうかはむしろ疑わしい。友だちという関係は、はじめは偶然の出会いでも、ある段階を超えると共感とともに齟齬も起こって当たり前だろう。恋人や夫婦については、性的な関係が介在するので思想的親近性に限ってみれば、むしろ次元の異なる別の要素で結びついているともいえる。そう考えてみると、時間空間を共有して目の前にいる人間よりも、書物の世界に親しむ人間にとっては、千年前に書かれた書物や、遠い外国の会ったこともない人が書いた文章が、ああ、これこそ自分がずっと考えていたことだ、こんなことを考えていた人がいたのだ、これはすごい!と思える書物に出会うのは、画期的な体験だと思う。
 それが幸福なことか、不幸なことかはなんともいえないけれども、彼岸的な世界、超越的な思考、体系的な観念の構築物を愛するということも、人間にはあるのだ。



B.空海は画期的、いうまでもないがむろん・・。
 またまた加藤周一『日本文学史序説』から、京都に都が移ったときから始まる新たな転換期の文学について。
「思想家としての空海の鋭鋒は、早くも二四歳の作、『三教指帰』(七九七)にあらわれている。架空の人物、五人を設け、主人が遊蕩児の甥を諭すために招いた三人の客が、それぞれ需・道・仏の立場から弁論するという趣向である。それぞれの人物の風貌が描かれ、『文選』を模したといわれる四六文は、仏典漢籍の引用にみちて、華麗を極める。儒者は忠孝と立身を説いて、遊蕩児を説得し、道教の隠士が、不老長寿を唱えて、儒者を含めての一同を感心させた後、仏教の代弁者が最後に出て、三世因果を克服する道を明かし、他の四人を改宗させて終わるのである。
 『三教指帰』の表題が示すように、これは一種の護教論であり、極度に装飾的な文体は、少なくとも今日の読者からみて、その内容に必ずしも適しくなかった。別の言葉でいえば、華麗の美文の形式と、文章の思想的内容との間には、あきらかにくいちがいがある。二四歳でこの文章をつくったのは、むろん、天才である。今しばらくその点を措くとして、需・道・仏の三教の要約そのものは、甚だ常識的で、そこに独創的な解釈があるとは思われない。しかしそれにも拘わらず、『三教指帰』には、思想史的にみて画期的な意味がある。その意味は、時代の代表的な思想体系のすべてを、それぞれ検討して要約し、その相互の関係(優劣)をもとめ、異なる思想体系の全体に一箇の秩序(見通し)をあたえようとした精神が、九世紀初頭の日本にはじめてあらわれたということである。いくつかの思想体系の比較、その中の一つの立場の自覚的・批判的な選択。比較の論点が不統一で、批判が浅く、華麗な作文にひきずられて、三教の内面的な連関がはっきりしないという事情のもとでも、なお『三教指帰』は、作者の仏教が体験的に与えられた信条ではなく、知的に選択された立場であるということを充分に示している。そのことは、まさに、「国家鎮護」や「祈雨」の現世利益とは次元を異にする問題であり、つまるところ世界秩序の超越性(主観に対しての)の意識につながり、その意味で、わが土着世界観の裂目を示唆していた。日本思想は、ここではじめて、世界観の構造という水準において、仏教と出会ったのである、――あるいは少なくとも出会ったらしいということを暗示する文献が、空海若書きの『三教指帰』にほかならない。
 果たして三十余年の後、晩年の空海は、その主著『十住心論』一〇巻(八三〇)を書く。その内容は、世俗的な常識から、外道各派(インドの非仏教哲学)と仏教各派を通じて、真言密教に至るまで、それぞれの立場を、主としてその世界観の存在論的構造において要約し、仏道修行の一〇段階として秩序づけたものである。すなわち、「発趣菩提之時、心所住処相続次第幾種」と問うて、それを一〇種とした。」加藤周一『日本文学史序説』ちくま学芸文庫、1999、pp.137-139.

  加藤はここで『十住心論』での空海の一〇段階を説明して、第四以後、声聞・縁覚・菩薩道(大乗)の五段階として、真言密教の秘儀への路を示し、その全体構造を要約する。それはあまりにも壮大で抽象的で思弁的なものなので、おそらくそれを同じレベルで理解できる人はたぶんほとんどいなかっただろうし、現在のぼくたちはさらにそれを読むことすら、簡単ではない。が、加藤周一にとっては、この国のあまりにも此岸的現世的な、具体的で即物的なものだけがリアルだと考えて生きている抜きがたい伝統の中で、空海のような人間がいたということ自体が、奇跡的に共感し感動できることだったのだろう。

「秩序づけの原理は、人(我、心)と境(世界)との関係、または主観と客観との関係の定義如何ということである。すなわち各説各派の排列は、論理的であって、歴史的ではない。理路整然。ここにはもはや嘗ての『三教指帰』の四六の美文はなく、簡潔明快な文章が、極度に抽象的で煩雑な観念の体系を解きほぐす。その話題が今日の読者の嗜好に投じないとすれば、そこに千年の隔りがあるからである。観念の体系の整然たる秩序が今日なお美しいとすれば、人間の精神に時代を超えて相通じるものがあるからだろう。歴史的にみれば、仏教は渡来して三〇〇年の後、日本人の作った観念的建築の最も美しいものの一つを生みだすに到った、ということができる。あるいは日本における体系的精神が、『十住心論』の包括性と内的斉合性において、はじめて自己を実現した、ということもできる。空海とその主著が画期的なのは、そのためである。
 空海はまた啓蒙家でもあった。その著作には、『文鏡秘府論』(八一〇頃初稿)とその要点を摘記した『文筆眼心抄』(八二〇)がある。これは六朝時代の詩論の類を博く渉猟して、取捨選択し、詩文の作法を体系化したものである。資料の豊富は、今日失われてこの書の引用によってのみ知られる詩書の多いことからも察せられる。すなわちこれほど綜合的な詩論の集成は、この国はもとより唐朝にも存在しなかった。取捨選択の基準は『文鏡秘府論』の自序にあきらかである。
  「閲諸家格式等勘彼同異、巻軸雖多要枢則少、名異議同繁褥尤甚、余癖難療即時刀筆、削其重複存単号」
 要するに中国の詩書の重複を削って要点を残し、意味の同じ多くの名称を整理して、一つとしたのである。「余が癖療し難し刀筆を事とす」この一句に明晰な論理家空海の面目躍如たるものがある。『文鏡秘府論』は『十住心論』を作った精神にしてはじめて作り得るものであった。体系は、四声の説明にはじまり、調声を論じ、詩体を分析し、対句その他の技巧を詳説し、いわゆる詩の「病」(作詩における避けるべき形式や表現)に及ぶ。分類して各項を説明し、用例を掲げるのが、叙述の方法である。詩法の体系として、これほど包括的なものが、中国にもあらわれなかったことはすでにいった。ホラティウスからボワロオに到る西洋の詩論も、到底これに及ばない。日本国においては、むろん、空前絶後、平安朝にはじまった歌謡は、多く『文鏡秘府論』に倣って、しばしばその直接の模倣にすぎず(たとえば頻に行われた「歌の病」の分類。シナ語と日本語とは全くちがう言葉であり、シナ語の「病」をそのまま日本語の「病」をそのまま日本語の歌の「病」にあてはめようとした議論の不毛であったことはいうまでもない)、また時には『文鏡秘府論』を離れて日本語の歌に即し、その体系の規模においてはるかに及ばなかった。
 日本仏教は、九世紀前半に、真言僧空海の著作において、その知的水準の(しかし必ずしも宗教的独創性の、ではない)絶頂に達した。しかしそのシナ語の著作の読者は限られ、その内容に土着思想の反映をみること甚だ少ない。空海の宗教活動(鎮護国家、祈雨、総じて真言宗寺院と宮廷権力とのむすびつき)は仏教の「日本化」の一時期を画くし、空海の哲学思想は、仏教の「日本化」の拒否、その彼岸性の徹底、、土着世界観の克服という点で、画期的であった。」加藤周一『日本文学史序説』ちくま学芸文庫、1999、pp.142-144.

 文学が濃密な情緒的感情的な世界で、そこは「日本人」には言葉抜きでも理解可能な世界であり、他方で外国から持ち込まれた、さまざまな思想、学習する科学技術はそれはそれで役に立てばいい、道具のようなものとして「日本化」してしまう世界が併存している。でも、このような文学概念は偏頗なものでしかなく、言葉で世界を体系的超越的に認識できることを知ってしまった人間にとって、「文学」とは価値の対立闘争の世界であり、精密で体系的な「知」ロゴスだけが意味をもつ世界なのだ。加藤周一はそこで空海に、共感と愛着を感じている。
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万葉集から何がわかるか?

2014-06-20 22:16:27 | 日記
A.時間がない・・
 実はこれから夜行バスに乗って、宮城県気仙沼に向かう。着くのは早朝。「震災後」をテーマに調査を始めるので、学生3名といくつか回る。すでに瓦礫は片付き、市街地に空白の空き地がある以外には、震災を思わせる目につくものはあまりない。しかし、「復興」したとはまだいえないし、震災前の状態まで戻ることを「復興」というのならば、様々な指標をみる限りは、とてもそういう将来像を描けそうもない。何よりも人口減少はどの被災地でも加速している。震災がなかったとしても、多くの地域が人口の現象、少子高齢化の傾向を強めていた上に、大震災はそれを一気に加速した。
 とにかく、現地をまた回ってみる。というわけで、このブログは書きかけ。戻ったら少し追加します。

 というわけで、気仙沼に着いたのが朝6時、当然店も何も開いていない。しかたなく、港までぶらぶら歩いて震災後の瓦礫が綺麗に片付いた、何もない空き地を眺めた。風景というものは、何も変わらないかに見えて実は刻々変わるものだ。これから空き地は土を盛って、津波が来ても耐えられる土地にするべく、工事が続き、大型ダンプカーが走り回っている。しかし、いくら土地を造成しても、あの津波の記憶が鮮明なうちは、ここに戻って家を建てる気になる人がどれほどいるだろうか?レンタカーを借りて、気仙沼から陸前高田にまわり、被災地をガイドの方に案内されて見て回った。大震災から3年以上が経過して、東京にいる限りもう大震災など過去の記憶のように風化して、もう何事もなかったように思ってしまう。しかし、「復興」という言葉は、冷静に現状を考えれば、励ましのかけ声以上のものではなく、現地が抱えるさまざまな課題はとても簡単に解決できるものではない。いろいろな方にお話を伺って、頑張っている方たちに何かできることはないかとは思うが、外から来るボランティアが何かできる段階はすぎて、これからはむしろもっと大きな視野と具体的な方向付けが、地域住民から出てくるときなのかと思う。
 夜行バスで東京に戻ったのが早朝、5時20分。



B.八世紀の日本人民衆は、どういう世界に生きていたか?
 加藤周一『日本文学史序説』から、万葉集「東歌」の部分。
「『万葉集』が提供する資料は、「防人」の歌(巻二〇)にかぎらない。また別に、地方の無名の作者の歌を集めて一巻とした「東歌」(巻十四)がある。短歌二百三十余首、作者のなかには地方の支配層や奈良からの旅行者が含まれていたかもしれないが、大部分は地方農民であり、その歌の多くは八世紀に行われていたはずである。そこに、大陸文化殊に仏教の影響を示唆する言葉は、ほとんど全くみられない。したがって「東歌」全体の特徴は、おそらく八世紀の地方大衆のなかに根を下ろしていた土着文化の特徴を、少なくともある程度まで反映していたと考えてよいだろう。特殊な状況のもとでつくられた「防人」の歌からは知ることのできない多くの点を、われわれは「東歌」から知ることができる。
第一、感情生活の中心は男女関係であった。そのことは二百三十余首のほとんどすべてが恋の歌であることからもあきらかであろう。(「東歌」の分類に従えば、「相聞往来」一九六首、その他が四二首。しかしその他の歌の内容も、恋に係るものが多くあって、それを捨て去ったはずはないだろう。そう考えるよりは、地方口誦の短歌の大部分が「相聞」であったと想像する方が、より説得的である)。男女相思の事から離れて、自然の風物を詠じた歌はほとんどない。その点は、同時代の宮廷歌人、殊に職業的歌人とちがう。
すでに「古代歌謡」(五・六世紀および以前)においても注意したように、日本の土着思想(または土着の感受性)の焦点は、決して「自然」ではなく、何よりまず「恋」であった。日本文学の主題は、社会現象(男女関係)にはじまり、自然に及んだので、その逆ではない。叙情詩にあらわれたいわゆる「自然愛」は、都会人の感受性の洗練の結果あらわれたのである。「死」示唆する歌は、わずかに二首、その一つは恋のために死んでもやむをえないというものであり、もう一つは死せる恋人と共寝をしなかったのが残念だというものである。(後者が「挽歌」に分類されているのは、そうしなければ「挽歌」が一首も見当たらなかったからであろう)。この「挽歌」は死者を悼んではいない。そもそも「死」は「東歌」の歌人たちの関心が集まるところではなかった。此岸的世界、その中心に男女関係をおく感情生活は、ここでこそ徹底していたのである。
第三、民間信仰は「東歌」にあらわれたかぎりで、すべてその効果を、此岸に、しかも近い将来に期待するものであった(効果はむろん善・悪双方である)。その一つは、「占」であり、詩歌の肩の骨を焼く方法(三三七四、三四八八)、苗を抜いて吉凶を見る方法(「占苗」むらなへ)、夕暮の通りで人の話を聞く方法(「夕占」ゆふげ)などがある。もう一つは、「タブー」(「物忌み」)で、その年の最初の収穫をカミに捧げるとき(「新嘗」)、家族がその家に立ち入らない事(三三八六、三四六〇)などが、典型的である。『記』・『紀』に誌されたカミの名は、「東歌」にはあらわれない。『風土記』のカミは――少なくともその一部は――、地方の民間信仰の対象であったにちがいないが、天から降った祖先神は、現実の人間関係に介入することが少ないと考えられていたのであろう(「祟る」カミを『風土記』は誌しているが、それも例外的に少ない)。要するに人間社会は、社会以外の存在(カミ、オニ、その他考えられる超自然的な力)に影響されるところ少なく、独立した自律的な体系であって、その秩序が、「タブー」や「占」や社会的慣習への実際的な考慮によって、維持されていたのである。」加藤周一『日本文学史序説』ちくま学芸文庫、1999、pp.115-117.

  「万葉集」の歌を手がかりに八世紀の人々の生活と意識を、このように分析することができるとは。大和の貴族や官人の世界、そこから地方に出たり戻ったりする人の歌、さらに遠方の戦士として送り込まれた「防人」の歌、そして、おそらく自分の住んだ土地からほとんど動くこともなく、先行する「古代歌謡」の世界を保持したまま「万葉集」に歌を収録された人々は、抒情詩という表現でなにを考えていたのか?中国文明が本格的に輸入され、律令制と仏教や儒教が上から広められた奈良時代。しかし、加藤によれば、「万葉集」を見る限り、人々の思考や感情に仏教も儒教も、影響を与えていない。人々は、カミや仏やあの世など考えず、ひたすら此岸に生きて男女関係のあれこれを歌っていた。

「第三、人間関係を秩序づける原理は、共同体(殊に及び家族)内部の調和にあったらしい。「東歌」の全体にわたって、およそ四つの型に分けられる。その第一は、人の噂である。人に見られること、人の口がうるさいと言うことが、男女の出会いの妨げとなった事情は、浜辺の松になった少年少女の挿話『常陸国風土記』にもみられ、人麿の妻の死を悼む挽歌にもみられるが、「東歌」にも繰返し示唆されている(たとえば三四六四、三四六六、三四九〇など)。この場合の「人」は、おそらく共同体の不特定多数であろう。その背景にはあきらかでないところがあるが、「人」の噂、または意見が、当事者にとって大きな意味をもったという事実は、男女関係が共同体から独立してではなくその内的秩序の一要素として考えられていたことを、強く示唆する。共同体内部の秩序は、徳川時代の「義理」のように絶対的な強制力をもつ規範ではなかった。恋の感情は、徳川時代の「人情」のように、「心中」をも辞さない純粋に個人的な私的な価値ではなかった。「心中」の可能性に触れた歌は、「東歌」のなかには一首もなく、『万葉集』の全体の中でも極めて稀な例外(たとえば巻一六、三八〇六)にすぎない。八世紀の大衆の世界では、恋の人間関係さえも共同体内部の調和的全体と融合していたのである。恋の妨げの第二は、「母」または「親」である。父の意見を障害とした歌は、一例もない。おそらく夫が妻の元へ通う婚姻の形式があって、子供が母と住んでいたからであろう。母の意見が重きをなすのは、むろん、家族共同体への所属感が、当事者(子供)において、強かったことを意味する。そしてまたあきらかに儒教倫理の影響の不在をも意味する。なぜなら儒教的家族倫理で尊重すべきものは、父の意見であって、母の意見ではないからである。恋の障害の第三は、「人妻」すなわち他人の妻である。「人妻」を恋う歌は、「東歌」に三例ある。そのうちの二つは、他人の妻との恋の危険をいい(三五三九、三五四一)、もう一つは、隣の着物を借りるようなもので「人妻」だからいけないことはなかろう(三四七二)というものである。いずれも他人の妻との恋を「悪」とは考えていない。ここにも儒教倫理は全くその影響を及ぼしていないのであって、他人の妻との関係は、共同体内部の平和への実際的考慮から、避けるべきものとされていたにすぎない。男女関係を妨げる第四の要因は、物理的な性質のもので、当事者の一方の旅行、または災害である。たとえば女との間を隔てる川が水増しで横切れなくなることがわかっていたら、もっと長く女のところに泊っていればよかったという類の感想(三五四五)である。要するに恋の激しい感情に対してそれを抑えることのできる価値は、所属集団(共同体、家族)の秩序・調和・利益であって、その集団に超越するいかなる権威、カミでも、仏でも、儒教的道徳原理でもなかった、ということができる。別の言葉でいえば、日本の土着世界観が生みだした倫理的体系は、超越的価値を中心としてではなく、共同体を中心として、実際的な考慮から、組み立てられていたのである。
 第四、時間の概念についてみれば、地方の大衆の世界は、すぐれて「現在」の世界であった。そこには『古今集』の宮廷歌人の「過去」の想出も、いわんや『新古今集』の芸術家の「未来」の予感も、全くあらわれていない。この文化のなかでは、人が現在に生きる。「将来(おく)をな兼ねそ現在(まさか)し善かば」(三四一〇)である。である。しかも「東歌」の男女関係を定義するのは、実にしばしば繰り返されるいくつかの動詞であった。その動詞には、二種類があり、一つは直接に肉体的であり、もう一つは心理的な関係をいう。直接に肉体的な関係をいう動詞でもっとも多いのは、「さ寝らくは玉の緒ばかり」(三三五八)とか「かき抱(むだ)き寝れど飽かぬ」(三四〇四)とかいう「寝る」であり、特定の相手との共寝を意味する(三〇首ほど)。その他「紐解く」、また「小床(さどこ)」「手枕(たまくら)」「膝枕」などというごに関連した表現(たとえば「入りなましもの妹が小床に」三三五四)を加えると、およそ四五例がある。他方相手を「愛(かな)し」、「恋ふ」「思(も)ふ」といい、相手に「寄る」という心理的な動詞の例が、併せてこれも四五首ほどにみられる。ここで注意すべきことの一つは、このような動詞が用いられるとき、必ず特定の対象を「恋ひ」「思(も)う」のであって、抽象的な心理的状態としての「恋」を語ったり、後の『古今集』の場合のように「物思ふ」という自動詞的用法で対象をぼかすのではなかったということであろう。名詞として「恋」を用いた歌は「東歌」の全体のなかに三例(三四〇三,三四二二,三四九一)しかなく、「物を思ふ」という表現は二例(三四四三,三五一一)しかない。以上二種類の動詞は、「寝る」や「紐解く」の場合でも、「愛し」や「恋ふ」の場合でも、直説法現在で用いられていて、過去や間接法(または未来)で用いられた例はほとんどみられず、常に特定の相手を予想していたのである。いくらか比喩的にいえば、「東歌」を底辺(大衆的な基盤)とする『万葉集』的な世界は、その恋歌に典型的なように、直接法現在の他動詞的な世界であった(ここで「他動詞的」というのは、話者の行動ないし感情をあらわす動詞が、特定の具体的な目的語または保護に方向づけられていて、話者その人の心理的状態を叙述するものではない、という意味である)。個人の未来には「浄土」を期待せず、歴史の未来には「終末」を期待しない。個人の過去は現在に重ならず、氏族共同体の過去は二つ三つの世代をさかのぼるにすぎず、その先は漠然として年代のない神話のなかに消えていた。すでに「他界」がなく、過ぎ去った年月も、来たるべき日々も、関心の中心ではない。唯一の現実は、今・此処において、直接に感覚的に与えられ、実際の行動の対象としてあらわれるところの、他人および身近な自然から成る日常的世界であった。
 日常的世界のなかで感情を揺さぶる要因は、男女関係であり、男女関係の中心は「寝る」ことであったという点で、八世紀の地方農民の世界は、「古代歌謡」の世界を保持していた、ということができる。ただ「古代歌謡」の一部にみられた肉感的な表現、女の身体の部分の具体的な描写は、「東歌」にはみられない。インドの様式に倣った仏教彫刻の場合を除けば、その後もそれ自身の裸体像や裸体画を生まなかった日本文化の特徴が、すでにここにあらわれていた、といえるのかもしれない(その特徴は、ギリシャの古代美術やインドの中世美術、またインドやアラビアの文学の、裸体に対する強い関心と、著しい対照をなす。しかし中国の古代文学、また各時代の絵画・彫刻における傾向とはよく似ている。日本文化に固有の特徴というよりも、東アジアの文化に共通の傾向であるといった方が正確かもしれない)。」加藤周一『日本文学史序説』ちくま学芸文庫、1999、pp.117-122..

 加藤周一の視点は、一貫して日本列島の上に暮らしてきた人々の、心のあり方、精神の方向がつねに外来の文化を採り入れながら形成されたと同時に、それに洗脳され同化するのではなく、絶え間なく外来の思想や文化を拒否することなく受け容れ、いつのまにか「日本化」してしまうのはなぜか?を考えることにある。八世紀の日本人、とくに庶民は、中国伝来の仏教や儒教の洗礼を受けたように見えるが、万葉集の中身を見る限り、彼岸の超越的な思考にはほとんど影響を受けた形跡がなく、歌っていたのは目の前の此岸に生きる男女関係のあれこれ、恋の歌だったという。これはその後の日本文化にも、潜在しながら反映している。
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