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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

「戦争と平和」を冷静に考えるのは「平和」の中でしか可能でない?

2013-11-29 23:16:05 | 日記
A.年の暮れが近づいているのだが・・・。
 そろそろ今年も年末になってきて、毎度気になるのは学生が卒論をちゃんと書けるか、という懸念である。今年はぼくのゼミの4年生が15名くらい卒論をとっていて、就活内定が決まっていなかった学生もいた夏場を過ぎて、秋も深まればようやく追いつめられて書いているはずだ、が?ちゃんと下書きを持ってきて相談する学生は半分もいない。ぼくはびしばし学生の尻を叩いて、おい!どうなってるんだ、やることをやらない奴は見捨てて落とすぞ!と脅かすことをしない。叱られたり脅かされないと何もやらないというのは、依存的な子どもである。大学生も4年になれば立派な大人なのだから、そんな愚かな指導をしてもしょうがない、という気がするのと、そもそもぼくは上から目線で人を脅迫するのが嫌いなのだ。でも、学校の教室という場ではぼくは教師で相手は学生という役割で向き合っていて、彼らは卒論を書いて提出することを求められ、ぼくはその卒論に一方的に評価を下す権限を持っている。なんだか、ぼくはこういう構図が嫌なんである。
  明日の予定が決まっていて、明後日も来月も来年もだいたい予定が決まっていたら、安心して日々を送れるからいい、と思う人と、そんなの面白くないじゃん、と思う人がいる、として・・・。未来を自分の思った通りに計画管理できるという事は原理的にありえないのだから、問題はその人の態度姿勢の問題と、もうひとつはその予定執行の場を保証する環境、つまり平和な秩序が維持されている時代か、変動激しく何が起こるかわからない乱世か、ということだろう。

  スケジュールを綿密に決めて順番に着々と進めたい人は予定が未定だと不安だろう。教師が細かく指示して〆切を口を酸っぱくして追い立てられるのは好む所である。でも、スケジュールなど守る気がなくぎりぎりまで遊んでいて、ドタンバで一気に徹夜して駆け込むタイプは、教師が何を言ってもムダだろう。ぼく自身は明らかに後者に属するので、いちおうスケジュールのようなものは示してみるのだが、人にも自分にもど~せ守らんだろうな、と思っている。卒論は厳格に締め切りを1分でも過ぎたら落第なので、出せない人は残念というしかないが、出てきた卒論の出来は、きっちりスケジュール的に書いたものが必ず優れているかというとそうでもないから、困っちゃうのである。
 未来まで計画し予定通りいきたい人は、不測の事態など起きない平和な時代をなんとしても守るべきであるし、スケジュールなんて無視して楽しくいこうという人は、どうも想定外の乱世を期待しているところがある。でも、安倍晋三内閣が考えやっていることを見ていると、着々とスケジュール通り計画的にすすめているように一見みえながら、内実はどうなのだろう?
 がっちり計画主義者のアキレス腱は、途中で思わぬ不測の事態が起きてしまうとスケジュールなどガタガタになってメロメロになってしまうことだ。一方、ずるずるドタンバ無計画主義者の病理は、想定外の事態に思わず喜んでしまってやるべきことをやらずにハイになって騒ぐだけ、ということだろう。卒論程度のことなら自己責任でもいいが、国家の選択においてはどっちも間違った時にはあまりに国民や他国民への犠牲が多すぎるから、よ~く考えなくてはいけない。「特定秘密保護法案」は、国家安全保障に関する重大な機密に関してのみ取り締まるのだと与党は説明するが、これが実現しようとしているのは外交・防衛の必要性ではなく、政府に都合の悪い勢力や一般市民に対する治安維持、公安警察の権限を好き放題に拡大することではないのか。




B.平和とはどういう状態か
 岩波文庫版の『蘭学事始』に付された解説によれば、杉田玄白の祖父玄伯は、武州稲毛に生まれ、少年時芝天徳寺に寄食していたところ、松平山城守という殿様が彼を気に入って引き取られ外科を学ばせられ、玄伯と名付けられて家臣となった。ところが藩の人減らし政策で、新規採用の彼は「暇出(いとまいだされ)」つまり解雇されてしまった。そこで浪人となったが、のち推挙されて新発田の溝口侯(越後新発田藩)に仕官する。ところが登城して並んで平伏していたら殿様の刀の尻が彼の頭にぶつかり、それでも殿様は一言も発せず無視して行ってしまったので、頭に来て病気だと言って一切ひきこもってしまい、結局ここも辞めて、若州侯(若狭小浜藩酒井家)に仕えたという。譜代大名にお抱えになれば、生活費は保証され住宅も藩邸内などにただでもらえる。硬骨の医師は、殿様を蹴って浪人しても自分の実力によってちゃんと生き延びたのである。
 その地位を継承した息子である杉田玄白の父は、息子に医者になれと強制はしなかった。杉田玄白が生まれた時、母は難産で彼を生んで死んでしまった。そのときそこにいた人は、母体の方を気にかけていたので、生まれた赤ん坊はもう死んでいると思って脇に置き、彼女を救うことに気を取られていたが亡くなってしまった。ふと見ると、赤ん坊は生きていた。このような形で生まれた人間は、自分が生まれた事態が不測の事態なのだから、計画的な人間であるはずがない。
  そこで若き玄白は自分の将来を計画的に歩むようなタイプではなく、15歳くらいまではお気楽にぶらぶら遊んでいたのだが、やっぱり医者になりたいと言って、勉強を始める。父はこれを嬉しいと思う。江戸時代も人間の親子の心情は微笑ましく、250年経ったわれわれもよく理解できる。でも、杉田家の孫が後世の歴史に名を残すことができたのは、世俗のあれこれ、目先の利益や栄達やお金などは考えず、ピュアな知への情熱だけで猛然とオランダ語に魅了され、医者としての使命に目覚めたためである。考えてみれば、奇跡的と言ってもいい。

『蘭学事始』下の巻「一、一滴の油これを広き池水の内に点ずれば散って満池に及ぶとや。さあるが如く、その初め、前野良沢、中川淳庵、翁と三人申し合はせ、かりそめに思ひつきしこと、五十年に近き年月を経て、この学海内に及び、そこかしこと四方に流布し、年毎に訳説の書も出づるやうに聞けり。これは一犬実を吠ゆれば万犬虚を吠ゆるの類にて、その中にはよきもあしきもあるべけれども、それはしばらく申すに及ばず。かくも長命すれば、今の如くに開くることを聞くなりと、一たびは喜び、一たびは驚きぬ。今この業を主張する人、これまでのことを種々の聞き伝へ語り伝へを誤り唱ふるも多しと見ゆれば、あとさきながら覚え居たりし昔語をかくは書き捨てぬ。
 かへすがへすも翁は殊に喜ぶ。この道開けなば千百年の後々の医家真術を得て、生民救済の洪益あるべしと、手足舞踏雀躍に堪えざるところなり。翁、幸ひに天寿を長うしてこの学の開けかかりし初めより自ら知りて今の如くかく隆盛に至りしを見るは、これわが身に備はりし幸なりとのみいふべからず。伏して考ふるに、その実は忝(かたじけな)く太平の余化より出でしところなり。世に篤好厚志の人ありとも、いづくんぞ戦乱干戈の間にしてこれを創建し、この盛挙に及ぶの暇あらんや。恐れ多くも、ことし文化十二年乙亥(きのとい)は、二荒の山の大御神、二百(ふたもも)とせの御神忌にあたらせ給ふ。この大御神の天下泰平に一統し給ひし御恩沢数ならぬ翁が輩(ともがら)まで加はり被むり奉り、くまぐますみずみまで神徳の日の光照りそへ給ひしおん徳なりと、おそれみかしこみ仰ぎても猶あまりある御事なり。
〔その卯月これを手録して玄沢大槻氏へ贈りぬ。翁次第に老い疲れぬれば、この後かかる長事記すべしとも覚えず。未だ世に在るの絶筆なりと知りて書きつづけしなり。あとさきなることはよきに訂正し、繕写しなば、わが孫子らにも見せよかし。〕 八十三齢、九幸翁、漫書す。
         (杉田玄白『蘭学事始』緒方富雄校註、岩波文庫、1959、pp.68-70.

 この部分は『蘭学事始』の末尾である。若い時の『解体新書』完成までの苦労や、その後の蘭学者たちの消息、そして長命を得て晩年を迎え予想もしなかった蘭学隆盛の時勢を見て、おそらくしみじみ自分は幸運で幸福であったと語っている。確かに幸せな一生だったであろう。そして、そんな人生を送れたのも「二荒の山の大御神、二百(ふたもも)とせの御神忌」のお蔭であるという。二荒山の大御神とは、日光東照宮に祀られる大権現、徳川家康のことである。玄白の生きた時代より200年も昔、この国は戦乱相次ぎ、武将たちが争い殺し合った時代があった。そんな時代に生まれていたら、とても西洋の書物を翻訳して知の歓びに浸っていることなどありえなかっただろう。東照神君家康のお蔭て戦乱は収まり、秩序がもたらされ平和な日々を皆が送れるような世界になった。まことに有難い、有難い、と言っているわけであろう。幕藩体制礼賛の言葉だが、玄白は別に蘭学保護の政治的意図があってこんなことを言ったわけでもないだろう。素朴に江戸の平和を感謝している。
 しかし、そのとき既に次の時代の蘭学者たちには、少々危険な状況が迫っていたのだ。
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健康で長寿、が可能になった時代を、ぼくたちは生きているのか?

2013-11-27 20:29:20 | 日記
A.人の健康長寿ということ、について
 人間はいつまでこの世に生きられるか?誰もがいずれは死の時を迎える、ことは間違いない。日本は戦後、医療と衛生の整備が進んで、世界でもトップクラスの長寿国になった。今の日本では、80歳という年齢はさほど珍しいことでもなく、100歳を過ぎても元気に活動している人たちがしばしばメディアで紹介されている。自分も少々健康に不安があるにしても、医療や保健制度に守られて、そうすぐには不治の病や死に襲われることはないだろうと考えて生きている人が多い。しかし、誰もが健康で長生きできるわけではないことは、身近な周囲を見渡してもわかる。幼くして亡くなる人や、不幸にして事故や災害で突然の死を迎える人がいることも知っている。自分があとどのくらい生きられるかは、正直言って誰にもわからない。
 がんや心臓病、難病に襲われた人はきわめて不幸なことに、家族の必死の思いにもかかわらず、無念の死を迎えなければならない。医療は近代科学がもたらした人類の開発した技術のうちでも、もっとも成功した分野である。19世紀までの世界では、多くの人がいったん重い病気に罹れば手の施しようもなく、苦しみ悲しみながら親しい人と永遠の別れをしなければならなかった。宗教というものが、人の心をとらえてきたのも、富や権力や欲望というこの世の価値を、結局は無意味なものにする病や死の厳然とした威力に、どうしたら穏やかで澄み切った心で向き合うことができるかについて、深く考えてきたからだったと思う。
 ところが、20世紀になって医療技術は近代科学の成果をとりこんで、さまざまな治療法と薬物や医療機器を開発し、それまで直せなかった病気の多くを治療可能なものとしてきた。その結果、たいていの病気は医療が手を尽くせばかなり克服できるのだ、という思い込みが普及した。いずれは死ぬとしても、健康は誰もが手にできる可能性として信じられるようになった。医療者自身が直せない病気などないのだ、患者を救えない医者は技能が劣っており、死なせてしまった患者に十分な治療ができなかった自分を責めるような気持ちすら抱かせる。でも、親しい人が不幸にも病に倒れ、死を迎えてしまうことにぼくたちは、ある意味で鈍感になってしまっているのではないだろうか。あるいは医療というものを過信しているのではないか。
 それは同時に、健康や長寿というものにわけもなく拘っているのかもしれない。



B.知ること・解ることへの歓び
 『蘭学事始』の続きを読んでみる。これも有名な江戸小塚原刑場での腑分け見学の場面。これが行われた明和八(1771)年は、沖縄八重山に大地震と大津波があった(明和の大地震)。ヨーロッパはフランス革命前の啓蒙主義の時代。カントやルソー、ヴォルテールなどの著作が出てきた頃である。自然科学もニュートン、ライプニッツはじめ近代科学の方法が確立して、18世紀後半にはさまざまな分野の発見が相次ぐ。医学でも、イタリアのG・B・モルガーニが科学としての病理学をうち立て、スイスのA・v・ハレルによって神経と筋肉の動きが探求された。外科手術も実験の成果を取り入れて、陸海軍での実践的な技法が発達し、イギリスのJ・リンドは壊血病がビタミンCの欠乏からくることをつきとめ、18世紀の末にはジェンナーの種痘法が開発され、免疫や血液に関する知識が広がっていくことになる。 
 日本の当時の医学は、中国伝来の漢方医学を基本として、おもに薬物治療と養生という生活指導ぐらいで病気に対処していた。人体の構造や機能については正確な知識がなく、外科手術は対症療法的なものしかない。出産自体が難事で、生まれた子どもも成人することができるのは、幸運に恵まれた者であって、人生五十年に達する長命をとげる人は少なく、病や死は人為では克服できないものだった。杉田玄白は幸いにも健康で85歳まで生きたが、これはきわめて稀な人生だった。
 『蘭学事始』を読むと、オランダの医学が飛躍的に進んだ知識をもっていて、江戸の医者たちが人体に関する基本的な知識すら欠けていたことに愕然とするさまが感動的なほどに描かれている。問題はそこから猛然とターフェル・アナトミアを、ろくに語学も知らない彼らが翻訳してみたいと熱望した事実の背景である。彼らはまず自分を、病から患者を救うべき仕事を業とする者であり、その職業的使命とともに、自分は何も知っていなかったという痛覚から、とにかく知りたい、という欲望が沸き起こってくる。いったんは諦めたオランダ語の学習を、いわゆる語学学習としてではなく、人体の不思議を解明する出発点として実践的に自覚する。

「其翌朝とく仕度整ひ、彼所に至りしに、良沢参り合、其余の朋友も皆々参会し、出迎たり。時に良沢一ツの蘭書を懐中より出して披き示して曰、これは是ターヘル・アナトミアといふ和蘭解剖の書なり、先年長崎へ行きたりし時求得て帰り、家蔵せしものなりといふ。これを見れば、即翁が此手に入りし蘭書と同書同版なり。是誠に奇遇なりと、互いに手を打ちて感ぜり。扨、良沢長崎遊学の中、彼地にて習得、聞置しとて其書を開き、これはロングとて肺なり、これはハルトとて心なり、マーグといふは胃なり、ミルトといふは脾なりと指し教へたり。しかれとも漢説の図には似るへきもあらざれば、誰も直に見さル内は心中にいかにやと思ひしことにてありけり。
 これより各打連て骨ヶ原の設け置きし観臓の場へ至れり。扨、腑分けの事は、の市松といへるもの、此の事に巧者の由にて、兼ねて約し置しよし。此日も其者に刀を下さすへしと定めたるに、其日、其者俄に病気のよしにて、其祖父なりといふ老屠、齢九十歳なりといへる者、代わりとして出たり。健かなる老者なりき。彼奴は、若きより腑分けは度々手にかけ、数人を解たりと語りぬ。其日より前迄の腑分けといへるは、に任せ、彼が某所をさして肺なりと教へ、これは肝なり、腎なりと切りわけ示せりとなり。それを行き視し人々看過して帰り、我々は直に内景を見究しなといひしまての事にて有りしとなり。元より臓府〔臓腑〕に其名の書き記しあるものならねは、屠者の指示すを視て落着せしことにて、其頃まてのならひなるよしなり。其日も彼老屠が彼レの此レのと指示し、心、肝、胆、胃の外に其名の無きものを指して、名は知らねども、己れ若きより数人を手に懸解き分けしに、何れの腹内を見ても此所にかよふの物あり、かしこに此物ありと示し見せたり。図によりて考れば、後に分明を得し動血脈の二幹又小腎なとにてありたり。老屠又曰、只今まで腑分けの度二其医師かたに品々を指示したれとも、誰壱人某は何、此何々なりと疑候方もなかりしといへり。良沢と相倶に携行(せ)し和蘭図に照し合見しに、一として其図にいささか違ふことなき品々なり。古来医経に説きたる所の肺の六葉両耳、肝の左三葉右四葉なといへる分ちもなく、腸胃の位置形状も大古説と異なり。官医岡田養仙老、藤本立泉老なとは其まで七八度も腑分けし給へし由なれ共、皆千古の説と違ひし故、毎度毎度疑惑して不審開けす。其度々に異状と見へしものを写し置れ、つらつら思へば華人物ありや抔著述せられし書を見たるもありしは、これが為なるへし。扨、其日の解剖事終り、迚(と)てもの事に骨骸の形をも見るへしと、刑場に野さらしになりし骨共を拾い取りて、かずかず見しに、是亦旧説とは相違にして、ただ和蘭図に差へる所なきに、皆人驚嘆せるのミなり。
 其日の刑屍は、五十歳許りの老婦にて、大罪を犯せし者のよし。もと京都生まれにて、あだ名を青茶婆々と呼れし者とそ。 
 帰路は、良沢、淳庵と、翁と、三人同行なり。途中にて語り合しは、扨々今日の実験、一々驚入。且これまて心付ざるは恥へき事なり。苟もいの業を以て互に主君主君に仕る身にして、其術の基本とすへき吾人の形体の真形を知らず、今まて一日一日と此業を勤め来たりしは面目もなき次第なり。何とぞ、此実験に本ヅき、大凡にも身体の真理を弁えて医を為さば、此業を以て天地間に身を立るの申訳もあるへしと、共々に嘆息せり。良沢もげに尤も千万、同情の事なりと感じぬ。其時、翁申せしは、何とや此ターフル・アナトミアの一部、新に翻訳せば、身体内外の事分明を得、今日治療の上の大益あるへし。いかにもして、通詞等の手をからす読分ケたきものなりと語りしに、良沢曰、予は年来蘭書読出し度宿願あれと、これに志を同ふするの良友なし。常にこれを慨き思ふのミにて日を送れり。各かた弥(いよいよ)これを欲し給ハは、我前の年長崎へも行き、蘭語も少々は記憶し居れり。それを種として共々よみかかるへしやといひけるを聞、それは先ッ喜しき事なり、同志にて力を戮せ給らば、憤然として志を立一ト精出し見申さんと答へたり。良沢これを聞、悦喜斜ならず。しからハ善はいそけといへる俗諺も有り、直に明日私宅へ会し給へ(か)し、如何様にも工夫あるへしと、深く契約して、其日は各々宿所宿所へ分れ帰りたり。」杉田玄白『蘭学事始』片桐一男 全訳注(長崎本よりの現代語訳付き)講談社学術文庫、2000年、 pp.106-109. 
  
 知らなかったことを知り、解らなかったことがはじめて解る、ということの素朴な喜びが彼らを捉える。これは幸福なことである。腑分けという人体解剖は、それまでも行われていた。死体を切り裂くという仕事は、動物の死体を扱うことを業としたと呼ばれた被差別民が行う。今はこの言葉自体、差別用語としてタブーになっているが、それはある意味で崇高な本質に関わる行為である。しかし、多くの医師は腑分けをこの目で見ながら、古い説や観念に囚われて目の前にある臓器を指示されても、忌まわしいもの汚れたものとして直視することができなかった。杉田玄白や前野良沢が腑分けを見て、これを医学の最良の知識の検証だと思えたのは、彼らがターフェル・アナトミアを手にして、その図と同じものがそこにあったからだろう。
 これを近代科学の実証主義への第一歩だと思うのは、それを知っているわれわれの知識によるからで、彼らはまだそれを知らない。彼らが知っていたのは、中国から伝えられた書物による儒教的あるいは道教的世界観であって、そこを乗り越えたとすれば、人間の肉体・内蔵各部の実物をある特別な視点から腑分け実見した結果である。人は、自分の知っている枠の中で世界の事物、出来事を見ている。かりにそれを裏切るような事実が起き、それを自分の目で見たとしても、信じようとしない人の方が多い。これは何かの間違いなのだ、教わったこと、本に書いてあることと違う、ありえない事はまやかしであり、悪い企みをもった連中がいんちきをやっている、と自分の方が間違っていると考えない。近代自然科学が18世紀からじわじわと今までありえないと思われた世界観を変えていったのは、事実そのものによってではなく、事実の見方そのものを革命的に転換したからなのだと思う。
 そして自然科学は日本においてもそうだったように、確実な知識とはどういうものかを偏狭な人々の抵抗にもかかわらず、実践的な努力によって示すことに成功したからなのだ。では、社会科学という営みも、その後を追って明らかな知識、間違いのない事実を示すことによって人々の生活を変えることに成功したのか?残念ながら、今の日本を見ていると、200年以上後世のわれわれは杉田玄白の感動した事実ほどの明晰さをもって、己の過ちと偏見を自覚することができずに、事実をありのままに見ることを避けて、呪術的な世界を保守する道を歩んでいるのかも知れないと思う。国家を危うくする特定秘密保護(事実を隠匿する)がどうしても必要だ、と主張する心情の底に、世界には悪の帝国とその手先になるスパイが暗躍しており、その邪悪なたくらみから自分たちを守るために、国民が真実を知る機会すら奪っておこうと考える退嬰的な政権がある。
 それは万能の医療によって誰もが100歳まで生きるのが当然だという非科学的な思い込みと対になって、富と権力を手にした自分だけは長生きし、敵対するアホどもは殺しても平気だという前近代的前提を信じたがっている、のだとしたら、自分が病に倒れ死の床に伏せたとき、彼らは何を思うのであろうか?
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「解体新書」(安永三年刊)は、フランス大革命より前、アメリカ独立宣言よりも前にできている。

2013-11-25 19:16:22 | 日記
A. 役に立つ「わざ」die Technikに集中するか?それとも、役に立たない「おもひ」das Denkenを巡らすか?
 英語が自由に話せて読めて書ける能力が日本人に乏しい、という言い古された言説。そして、それは読み書き・文法偏重の日本の学校での英語教育に欠陥があるという俗説は、今も英語が得意そうでない政治家や財界人が気軽に口にするところだ。でも、それは粗雑なだけでなく誤った議論だと思う。中学高校の英語教育は、とっくに実用会話重視に切り替わっているし、英語を流暢に話し書ける能力が高い若者は確実に増えている。日本の未来にとって、外国語を学ぶということのもつ問題はそんなところにはないと思う。
 小学校から英語を教えろ、英会話を必修化し、大学入試はTOEFLにしろ、といった類の教育論はしょせん浅薄な技術論である。そのおおもとの思想は、教育とは役に立つ「わざ」を子どもたちに身につけさせればいいので、学校は無駄なく効率よく「わざ」を教え込んだかどうかで評価されるべきだと考える。試験、点数評価、教育技術の数値化が語学においても標準モデルとなる。役に立たない「おもひ」、ものを考える能力はそれにともなって養われるだろうか?外国語を学ぶということは、たんに会話で意思疎通する道具を磨く、文章を書いて交渉や契約をする、外国の情報を収集する、という程度の道具・技法の習得でしかない、と思っている人は、学校で数年間みっちり教え込めばよいと考えるだろう。
 子どもの能力はさまざまであるから、当然そこで期待通り良い成績を上げる子もいれば、うまく点数に反映しない子もいる。学校という教育機会を与えてあるのだから、そこで技術をマスターした人間にはふさわしい場とご褒美をあげるが、脱落した人間は役に立たない、使えない人間としてそれなりの処遇をする、という思想がどうも強まっている。考えてみると、そもそも何かを学ぶという行為が、役に立つ技術習得に偏っていくという傾向は、日本の場合昔から、もしかすると江戸時代からあった、かもしれない。
 われわれがふだん生きている日常生活世界は、ネットで世界中の情報や画像が見られるようになった現在でも、さほど広いものではない。日本は特に国土が海に囲まれ、はるか海の向こうに異国があって異人が住んでいる、というイメージを強く持ってきたと思う。国際化だ、グローバル化だといいながら、「ガイジン」という言葉は今も使われている。19世紀なかばの幕末から明治への大転換は、文明の中心が日本にではなく西洋にあって、その西洋が極東の島国をも併呑するかもしれない武力や政治力をもって迫っている、と意識したときから、必死で西洋を学び始め、日本人は変革を成功させたといわれる。
 でも、それが可能だったとすれば、日本人が全体として勤勉で有能だったから、というよりは、ごく少数の先駆的な人々がじゅうぶんな下馴らしの仕事を奇跡的に達成していたからだ、と考えた方がよい。異国の言葉を学ぶ、ということは動機が実用技術のためであっても、本格的に学んでいけば必ず、その言葉の生まれてきた土壌の文化そのものを理解することになる。会話というレベルでそれを深めるには、ネイティヴ外国人と日常的に接触するのが一番だが、読解と作文というレベルでは、とにかく原書をたくさん読むのが一番である。会話能力を高めればいいという話は、外国に行っても楽しく「ガイジン」とお話することができるようになるというにすぎない。それは確かに必要かもしれないが、グローバル化する世界で経済にしろ政治にしろ重要な仕事をするには学習の最優先事項ではない。かつて大学が国家の指導層予備軍養成という使命を掲げていた時代、そこで選ばれた学生たちは、翻訳のない膨大な洋書を原語で読まなければならず、その言葉の意味をいちいち考えて理解するものすごい努力をした。そこではたんなる翻訳ではなく、ひとつひとつの単語の概念に対応するわれわれ自身の生活と概念を考え新しい言葉を作り出す必要があった。
 いわばわれわれはそのおかげで、西洋近代の科学も技術も思想も文学も、日本語のリテラシーがあればかなりの程度理解できるのである。もし、日本人が優れていた、と言うのならば、こんな役に立ちそうもない「おもひ」を、気の遠くなるような努力と困難を費やしてライフワークにしようと考えた、数人の奇妙な人が優れていた、というべきだろう。



B. 「おらんだ・まなび・ひがしにおよぶ・ことはじめ」
 少し「蘭学」、つまり江戸時代中期18世紀後半の日本で、少数の若い医家たちがほそぼそ始めたオランダ医学の学習、そしてそこから幕末までに西洋文明への脅威と関心の高まりの中で急速に広がっていった「蘭学」を考えてみる。とりあえず文字通り『蘭学事始』である。
 杉田玄白(1733~1817)が82歳の文化11(1814)年に書きあげたとされる『蘭学事始』上下二巻は、玄白の弟子大槻玄沢が師の命で原稿に推敲・修正を施し完成した文書である。高齢の玄白が、自分がライフワークとして築いてきた「蘭方医術」の歩みを、子孫や弟子に語り残しておきたいと考えて書かれたものである。いわば私的な随筆に近く、江戸時代には出版はされず、杉田家と大槻家に一部づつ所持されただけの毛筆文書(世界で2部しかない!)であった。明治2年になって福沢諭吉がこれを見つけ初めて出版された。日本の江戸時代の「蘭学」や「西洋医学」の出発点の苦労を生々しく伝える文書として、一級の資料とされ、歴史教科書などでもここに出てくる翻訳のエピソードなどは、しばしばとりあげらている。
玄白や前野良沢という初期の蘭方医が、オランダ伝来の医学書を苦労して読み始めた明和年間(1764~1772)には、まだ「蘭学」という言葉もなく、日本でオランダ語を読める人間も長崎の出島で通訳をする通詞(阿蘭陀通詞は大通詞四人、小通詞四人、稽古通詞若干名が基本定員と組織だったという:片桐注49)十人ほどしかいなかった。80歳を過ぎた玄白が、『蘭学事始』では、未知のオランダ医学への情熱を燃やしていた半世紀も前の30代の若い自分と仲間たちの仕事を振り返っている。(題名自体が「蘭東事始」「和蘭事始」など完成時に確定していなかった)
遠い外国、しかも鎖国政策の内にあって外国旅行は愚か外国人に会うことも不可能に近い状況で、外国語で書かれた書物を読もうとすることがどれほど困難であるか、まずは語学が入口なのに、彼らはいきなり大通詞から「やめたほうがいい」と言われる。

「一 翁かねて良沢は和蘭の事に志ありや否は知らず、久しき事にて年月は忘れたり。明和の初年の事なりしか、ある年の春、恒例のごとく拝礼として蘭人江戸へ来りし時、良沢、翁が宅へ訪ひ来れり。これより何かたへ行給ふと問ひしに、今日は蘭人の客屋に罷り、通詞に逢ふて和蘭の事をきき、模様により蘭語なとも問い尋ねんがためなりといへり。翁、其頃未だ年若く、客気甚しく、何事もうつり易き頃なれば、願くは我も同道し給われ、共々尋試たしと申ければ、いと易き事なりとて、同道して彼客屋へ罷たり。其年大通詞は西善三郎といふ者参たり。良沢引合にてしかじかのよし申述たるに、善三郎聞て、それは必ず御無用なり。夫は何故となれば、彼辞を習ひて理会するといふは至て難き事なり。たとへは湯水又酒を呑といふかを問んとするに、最初は手真似にて問より外の仕かたはなし。酒をのむといふ事を問んとするには、先茶碗にても持添注ぐ真似をして口につけて、これハと問へハうなづきて、デリンキ、と教ゆ。これ即ち呑む事なり。扨、上戸と下戸とを問うには、手真似にて問へき仕かたはなし。これは数々のむと数少なく呑にて差別わかる事なり。されども多く呑ても酒を不好人(このまざるひと)あるべし、又少く呑ても好人(このむひと)あり。是は情の上の事なれば、為すべきやうなし。扨其好き嗜むといふ事ハ「ア〻ンテレッケン」といふなり。我身通詞の家に生れ、幼より其事に馴居りながら、其辞の意何にの訳といふ事を知らず。年五十に及んで此度の道中にて其意を始て解得たり。ア〻ンとは元と向ふという事、テレッケンとは引事なり。其向ひひくといふは、向ふの者を手前へ引寄るなり。酒好む上戸といふも、むかふの物を手前へ引度(ひきたく)思ふなり。即ち好むの意なり。又故郷を思ふも斯くいふ。これ亦故郷を手もとへ引きよせ度と思ふ意あれハなり。彼言語をさらに習得んとするには、ヶ様に面倒なるものにして、我輩常に阿蘭陀人に朝夕してすら容易に納得しがたし。中〻江戸なとに居られ学んと思ひ給ふは不叶事なり。夫故野呂・青木両君など、御用にて年々此の客舘へ相越れ、一かたならず御出精なれども、はか〻敷御合点参らぬなり。其元にも御無用のかた然へし(しかるべし)と異見したり。良沢は如何承りしか、翁は性急のむまれ故其説を尤ときき、そのことく面倒なる事を為しとぐる気根はなし、徒に日月を費すは無益なる事と思ひ、敢えて学ぶ心はなくして帰りぬ。」杉田玄白『蘭学事始』(片桐一男訳注)講談社学術文庫、2000.pp.96-98.

 デリンキはdrink、アーンテレッケンはaantrekkenというオランダ語動詞である。この話は、杉田玄白と前野良沢が江戸参府中のオランダ商館長(カピタン)一行の宿泊する長崎屋を訪ね、大通詞西善三郎に面会した折のことで、明和三年(1766)の春だったと推定されている。通詞の家に生まれ長崎で蘭人に日常接している西善三郎でさえ、まだオランダ語に習熟したとはいえないことばかりなのだから、幕府から蘭語習得を命じられたエリート学者でさえ、手こずってものになっていませんよ。江戸にいるあなたたちがオランダ語を習得するなど到底無理であることを具体的に説明された。玄白は、なるほどそうか、こりゃ諦めて他の事に時間を使うべきだな、と納得する。なかなか印象的な場面である。
 しかし、結局やがて玄白と良沢は、オランダの解剖学書を翻訳し『解体新書』を完成させることになる。この情熱のもとは何だろう?身分制社会の中で、代々の医者の息子といっても明和年間に西洋医学を学ぶ動機は、立身出世や金銭や世間の評価ではありえない。横文字を読もうとすること自体が、きわめて特殊で異常なことだった。後の蘭学者たちのように場合によっては、異国かぶれの国賊と見られて逮捕されたり殺されたりはしないが、西洋医学の医療実践はまだまだ実用の域にはとても達していない。何しろ彼らは洋書を片手に解剖をして、はじめて内蔵器の区別と機能を目にするほど、技術者としても初心だったのだから。
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ジョン・フィッツジェラルド・・もうひとりのジョン&ポール

2013-11-23 15:58:11 | 日記
A.ケネディとマッカートニー
アメリカ合衆国の新日本大使として着任したキャロライン・ケネディ氏が、先日皇居で信任状捧呈式に臨むため、馬車で2.7kmを走る姿が報道された。19世紀式の馬車隊列に乗るか自動車で行くかは選択できるそうだが、日米関係におけるアメリカ大使の威厳と皇室への敬意をこめてケネディ氏は馬車を選んだそうである。ちょうど父のJ・F・ケネディ大統領がテキサス州ダラスで銃弾に倒れてから50年記念というタイミングでもあり、日本のメディアはこれを大きくとり上げた。
 たまたまだが、その2日後に後楽園ドームでは、ポール・マッカートニーのコンサートが行われた。ビートルズというイギリス・リヴァプールで生まれた労働者階級の若者たちのバンドが、世界の音楽界を席けんしつつある時期に、ケネディ大統領は暗殺された。それから半世紀。世界の状況は大きく変わった。ビートルズが4人揃ってはじめて日本を訪れて、熱狂のコンサートをしたのは1966年6月、これも皇居の裏の日本武道館だった。武道館は、2年前の東京オリンピックにさいして柔道の競技会場として旧江戸城北の丸、田安門内に建設されたから、ビートルズ日本公演の頃はまだピッカピカの施設である。
 ぼくは高校生だったので、同級生たちの何人かはビートルズをみるために、羽田空港につめかけていたことを記憶している。ぼくもリアルタイムでビートルズを聴いてはいたが、a hard day’s nightなどのビートルズの曲はなにやら単純に騒々しく、追っかけのファンたちの狂気は尋常ではなかったので、あんなミーハー!とばかにしていた。やがて、ビートルズはどんどん進化して、それまでぼくが好んでいたモダン・ジャズやクラシックとは異質の音楽の革命を達成していくにつれ、いつのまにかぼくもビートルズのLPアルバムは全部買うようになっていた。それでも、いわゆるロックにのめりこむほどの体験はなかった。
 1970年代、ロック・ミュージックは若者(ただし先進国白人が中心の)世代の音楽として、ヴェトナム戦争や大学反乱に象徴される反体制気分を反映するものになった。ジョン・レノンがニューヨークで暗殺されて久しく、ポール・マッカートニーは70歳過ぎても元気に新曲を作っているが、21世紀の若者にはもう遠い昔の伝説、じいさん・ばあさんが愛好する世界になっている、のかもしれない。時間とは不思議なものだと思う。
 ケネディとビートルズが現れた時代は、冷戦と呼ばれる東西二大国が経済と軍事と文化を競い合っていて、第三世界と呼ばれた発展「途上国」を横目で見ながら、人類の未来はどっちが勝つのかと核兵器を蓄え、宇宙ロケットを飛ばしていた。でも、あの頃の日本は、世界がどうなるか以前に、失敗した戦争の傷を舐めながら、貧困から脱出しはじめた自分に妙な自信をもちはじめていた。やがてロック世代は大人になり、中年になり、自信は過信になり、80年代にはアメリカの次に豊かな経済大国になったと自慢するようになった。そして80年代の最後に、ソ連を中心としていた東側の社会主義国がばたばたと崩壊し、これからはグローバル世界経済で勝ち抜く以外の選択肢はない、という人類の未来への見なしが、当然のように語られる時代になった。考えてみれば、この半世紀はそんなに長い時間でもなく、ぼくだってその始まりから終わりまでを現に生きていたわけだ。
 いまさら、もっと古い1960年以前の世界を見ていた人たちが語り残したことばを、読みかえす意味はあまりないようにも思うかもしれない。時とともにどんな新しい音楽も、古びて聞こえるようになる。人のかたる言葉や表現は、時代に制約されているし、次々起こる出来事も予測不可能なのは当然だからだ。でも、言説の視野というものは、5年で消えていくものもあれば、20年くらいは生き延びるものもあり、半世紀経ってもまだ人の心に深く響くものも確かにある。学問のことばの中には、百年ぐらいは残るものがあると思うし、もしかしたら生きている人間の制約を超えて、何世紀も読まれ語られるものも確かにある。
 このブログでぼくが考えてみたかったのは、たぶんこういうことだ。日本の過去百五十年くらいの時間の中で、意味のある形で生き残ってきたもの、あるいはことばの表面は擦り切れて、歴史の闇に埋もれてしまったにしろ、もう一度それが書かれた状況を振り返って読む価値のあるもの、を探してみたい。そこからさらに、可能なら五百年、千年という時間の中で残ったものも考えられるのではないか、ということだ。お粗末な自分の能力で、どこまでできるかは自信がないが、歴史を誤解し、たかだか百年に満たない過去にこの国を戻そうという人たちが、権力を恣意的に動かそうとするのを見るにつけ、これをやめることはできない。



B.「権利」の否定、「義務」の強制
 今朝の朝日新聞に、「特定秘密保護法案」をめぐって内田樹氏の見解が載っていた。およそこういう趣旨である。権力を握る指導層が、重要な情報を独占してある決定を行い、反対派や支配下にある人々にそれを知らせずに、政策をすすめることは、民間企業であればかなり許されることである。経営者が必要な情報をすべて公開する必要はない。もちろんそれが結果的に消費者や従業員に大きな損害を与えるものならば公表した方がいいし、最後は法的に裁かれるだろうが、経営上必要な範囲で秘匿は認められる。経営判断が結果的に失敗すれば、企業は滅ぶという形で責任をとるからだ。しかし、国家・政府・官庁がこれをやると、権力の正当性自体が危うくなる。集中された権力中枢が、どのような意図でなにをやろうとしているかが国民にわからないようにしたい、漏らしたら処罰というのは、危険というしかない。国家が失敗するというのは、企業がつぶれるのと比べ致命的だからだ。この法案は、安全保障などの速やかな決定のために、日本の国家・政府・官庁にも民間企業と同じ原則をあてはめようとしているのだ、と。
 内田樹はそこまでは言っていないが、政府や官僚にそこまでの権限を与えることは憲法が禁じている。しかし、今の安倍自民党政権は、日本国憲法自体を守る気がないのだから、この法案ができた後にどのようなことが起ってくるか、われわれには予測する手がかりも与えない、ということになる。
 そこでまた、川島武宜を読んでみる。憲法と権利意識について、川島は『日本人と法意識』でこのように書いている。

「前に述べたように、憲法のもっとも重要な目的は、政府と人民との間における政治上の実力の優劣によって国民の利益が左右されることを防止するために、「基本的人権」という「権利」を国民に認めて、政府の実力の行使を抑制することにある。この問題との関連で、明治憲法と新憲法との比較は特に重要である。
 明治憲法は第二章「臣民権利義務」の中で政府に対する臣民の基本的権利を規定したが(居住移転の自由・逮捕監禁審問処罰等に対する保障・住居のプライヴァシーの保護・信書の秘密の保障・信教の自由・言論集会結社の自由等)、これらについては注意深く「法律ニ定メタル場合ヲ除ク外」とか、「法律ノ範囲内ニ於イテ」とか、「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」とかの限定が付せられていたのであり、事実においてもこれらの限定を活用することによって、政府はこれらの基本権を実際には無きにひとしい状態においていたことは、すでに知られるとおりである。だから、これらの「臣民権利義務」の規定は基本権を保障するためにあったのではなく、むしろこれを制限し否定することを根拠づけるためにあったのだ、と言っても言い過ぎではない。
 このような憲法に支えられて、明治以後の政府と国民との関係は、「権力」の関係では、ほとんどあっても「権利」の関係にはならなかった。このことは、新憲法の歴史的意義を正しく理解するためには是非知っていなければならない重要なことがらであるから、以下に少し詳しく説明しよう。
 明治憲法は、国民が、国民の他の一人に対してと同じように、政府に対し対等の資格で訴えることができる、ということを全く予定していない。明治憲法の下では、行政庁の処分が「違法」(法の定めるところにしたがっていない)であることを理由として国民が政府に対し訴えを起こすことは、ごく限られた場合にしか認められておらず(明治23年法律第06号が一定種類の事件につきこれを限定的に認めたほか、若干の法律や勅令が個別的に認められただけであった)、しかもそれらの例外的な訴訟は行政裁判所という特別裁判所においてしか起こすことができないものとされていた(旧憲法61条「行政官庁ノ違法処分ニ由リ権利ヲ傷害セラレタリトスルノ訴訟ニシテ別ニ法律ヲ以テ定メタル行政裁判所ノ裁判ニ属スヘキモノハ司法裁判所ニ於いて受理スルノ限ニ在ラズ」。すなわち、明治憲法は司法裁判所と行政裁判所とを分離し、司法裁判所のみが「法律ニ依リ」行うべきものとし、行政裁判所については、裁判を「法律ニ依リ」行うべきだという保障を与えていなかったのである。だから、行政裁判所は、三権分立の原則における言葉の本来の意味での裁判所ではなく(裁判所とは、「法律ニ依リ」紛争について判断し決定する機関なのである)、一種の行政官庁にすぎない、と言われていたし、また行政裁判所に出訴した事件の大部分は、「原告ノ請求相立タス」として行政庁(すなわち政府)の勝利に終わっていた。
 旧憲法のこのような規定が政府の権力をどんなに法の拘束の外におき、その結果、政府がいわば「切り捨て御免」の権力――「権利」ではなくで――をもち、政府と国民との関係が対等の関係でなくて上下の支配服従関係になっていたかは、とても簡単には想像することもできないくらいである。いくつかの例をあげよう。
 たとえば、消防自動車が街を走ってときに人をひいたとする。もし、ひかれた人の不注意でひいたという場合ならば政府が責任をおわなくても不思議はないが、消防自動車のほうに過失があって人をひいた場合にも、政府は責任をおう必要がなかった。なぜかというと、消防は「国家権力の発動」であるから一種の行政権の作用であり、たとい故意に人をひき殺しても国家はまったく無責任だ、――そういう理由で、裁判所は損害賠償の訴えを起こした人を敗かした。
 (大審院判決昭和十年の事例が引かれているが、ここは略す;引用者)
しかも、消防自動車にひかれた場合の損害賠償請求は、行政裁判所に訴えることが許されていなかった。だから、極端な言い方をすると、消防自動車は国民を自由にひき殺す権利をもっていたことになる。」川島武宜『日本人の法意識』岩波新書、1967.Pp.49-52.
 
 戦後しばらくは、川島が教えていた東京大学法学部をはじめ、日本の法律教育の中ではこのような帝国憲法の欠陥をしっかり教えていて、新しい日本国憲法がそれとは異なった基本思想のもとに作られており、これにもとづいて日本という社会を運営していくことの重要性を、将来の指導的立場に就く人たちに説いていた、と思う。戦争の惨禍を身をもって知っていた世代の学生は、立場の相違はあってもこれには納得していたはずだ。しかし、それから半世紀。もしかすると、これとはまったく違った考え方が政治家、官僚、学者の一部に浸透し、それが実際の政治過程の中で一種の「変革」として実行に移されているのかもしれない。たとえば、今度の「特定秘密保護法案」には、一行政機関である内務省が「安寧秩序」を害すると認め、「風俗を壊乱する」と認めると、出版物は発売禁止処分となり、裁判に訴えることも許されないような戦前の出版法のような事態が可能となる内容を含んでいる。 

「以上のような多くの例は、何を意味するであろうか。いうまでもなく、そこでは、政府と国民との関係が法律によって支配されるということの客観的な保障はどこにもない。国民はただ政府の自制心にたよるほかない。そうして、その「自制心」によって裁判上どのような結果があらわれたかは、右の裁判例の通りである。だから、政府と国民との間には、前に言ったような意味での「法的」関係はない。すなわち、国民の側には「権利」はない。政府と国民との関係を規定する多くの法律はあったが、それらの法律は政府の役人のための覚え書のようなもので、それに違反した場合に、違反した役人が上役から叱られたり罰せられたりすることはあるかもしれないが、ないかもしれない。だから、それらの法律は政府と国民との関係を「法的関係」にするものではなく、政府と国民との関係は権力関係そのものであったのである。これが旧憲法的な法意識のあらわれであり、また旧憲法はこのような法意識を支えまた強化したのである。
 ところが、新憲法は、第三章「国民の権利及び義務」において、多くの基本的権利を単純無条件に規定している。そこで、政治家の一部には、新憲法は国民の「権利」を保護することに重点をおきすぎ、政府に対する国民の「義務」を規定する点では不十分である、と非難する人々がある。たとえば――


 「この点から見ると、今の憲法では、権利と自由の主張が圧倒的で、義務の観念が極めて薄い。権利の数は一見しただけでも前記の如く沢山あるが、義務は僅かに、勤労と納税と教育を受けさせる義務の三つしかない。」(中曾根康弘『自主憲法の基本的性格――憲法擁護論の誤りを衝く』三七頁、昭和三十年、憲法調査会。)

 これは、新憲法がそれらの「権利」を規定する、ということの目的ないし趣旨に対する、無理解から生じたものである。政府は、政治権力(それは終極には、組織された物理的力に支えられる)の主体であり、政府は国民に対して優越した力を有するのが、原則である(「人民主権」というイデオロギーと現実の力関係の問題とを混同する誤りにおちいってはならない)。したがって、政府および政治権力の実質上のにない手と、国民一般とのあいだには、一般的には、事実上の力の強弱の差こそあれ、事実上の平等の関係は存在しない。これを、少なくとも法の平面では平等者の関係――として処理する努力が、右の基本権の規定なのである。
 憲法における「権利」のこのような意義を理解することは、単に憲法の歴史的意義を理解するのに役だつだけではなく、われわれ国民の重大な利益を守ることができるかどうかに関係する。政治権力に対して被支配者がどの程度にその利益を守ることができるかということは、人類の歴史において政治的支配が始まって以来、常に政治の大問題であった。そうして、新憲法は、日本の歴史において、この点で全く新たな時期を画する記念碑である。」川島武宜『日本人と法意識』pp.57-59.

 今進行している国会審議は、与党と与党が組しやすい、つまり基本思想において彼らと似たり寄ったりの野党の一部と「修正」で妥協したふりをして、この法案を一気に実現させようとしていることは明らかだ。はじめから憲法を否定している元首相中曾根康弘の思想は、いまや安倍晋三によって「法」にまで格上げされようとしている。自民党の憲法改正案は、露骨に国民の「権利」を削減し「義務」を強調し、帝国憲法を復活させようと意図している、とみてよい。
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古い本が述べていることを2013年のいま読んでみる

2013-11-21 21:36:32 | 日記
A.ゴキブリを殺して
 いえの廊下に黒いものが走った。ゴキブリである。ほとんど反射的にスリッパを掴んでこれを叩いた。素早く逃げるので、書棚の間に潜り込もうとするのを追って叩き潰した。ゴキブリはしばらく足を動かしていたが、死体になった。掴んで捨てながら、ぼくはいま一つの生命体を殺した、という想念が頭をよぎった。それを非難されることはあるまい。ゴキブリは忌まわしい小動物であり、人の生活にとって衛生を害するおそれもある。ゴキブリを集めて殺す商品もあるくらい、われわれはゴキブリというものを恐れ憎んでいる。
 しかし、これが猫であったらどうだろうか?野良猫であろうと、不細工な汚れた猫であろうと、叩いて殺したらゴキブリよりは非難されるだろうし、人の飼い猫であれば賠償を請求されるかもしれない。猫は人間にとって悪の存在ではない。仏教なら人間だけでなく動物の殺生も、倫理道徳的に悪とされる。猫だろうがゴキブリだろうが、それは前世は人間であったかもしれず、自分の親や祖先であるかもしれないし、自分が次の世ではゴキブリに生まれ変わっているかもしれないと考えるからだ。それは非科学的な説明である。しかし、そのように考えてみることで生きとし生ける生命を、卑小な自己の利益や感情のために奪って殺すことを戒めている。
 そうはいっても、人間は害虫を殺しているし、食べるために牛や豚や鳥の生命を組織的に殺害してその死体を日々食べて生きていることも事実だ。まして植物に至っては殺すために栽培していたりする。仏教はある意味で極端なことを言っているのだが、またある意味でそういう気持ちで生きようね、と言っているだけで、他の生命を殺して生きる他ない人間もまた、死んで食べられることを覚悟してみよう、それが業である、という逃げ道も用意している。
 キリスト教は、そんな生命平等主義ははじめから考えずに、すべては神の思し召しであるから、神の意向に沿っていさえすれば人間以外のものを殺すことは許される。ただ、人間は特別の存在、神に似せて作られたものだから、人間だけは殺してはいけないとなる。そこで、ゴキブリや猫には認められない「人権」というものを発想する。人には生きる権利というものがある。もし人が人を殺してよいとする場合(死刑)があるとすれば、それはこの原則を逸脱し、神にそむく行いをしたことへの罰として認められる。しかし、神と神の作った秩序という論理が、そのままでは通用しずらくなったのが「近代」である。そこで、西洋近代が採用したのは、人間が作為的に作った国家と法という装置によって、人権を確保するという工夫だったのだろう。これは神と人間の契約というアイディアを焼き直して、国家を形成する人間同士が互いの人権を認めあい、法という超越的な規範を現実に適用することで神や信仰をもちださなくても、社会を円滑に安全に運営することを可能にした。それは異なった宗教や文化的背景をもつ社会にも、適用できるはずだ。ということで、歴史的近代をグローバルに展開した20世紀には、キリスト教世界以外の社会にも採用されるようになった。
 さて、問題はそういう思考の順序がはじめからない日本という場では、この「近代」の論理が表面上はとくに大きな抵抗もなく採り入れられたかに見えながら、人は誰もが自分の生きる正当な「人権」をもち、それを他者や国家に要求することが正義であるという思想を欠いたまま、経済的・社会的「近代化」を実現している、かのように振舞ってきたことだ。このことの矛盾を、痛みをもって自覚したのは、なんといっても国民を総動員して大戦争を遂行し、主要な都市を焼き尽くすまでの戦争をやってしまった後の敗戦期である。そこで、ものごとを深く原理的に遡って考えた人は、「人権」という観念を欠いていたまま「近代」の覇権を求めたわれわれが、大きな失敗を犯したことの原因を考察した。
 それから68年が経った。日本という国家がいま実現している社会は、「近代化」の延長線上に少しでも「人権」を拡大する方向にあるのか?それとも、あいかわらず「人権」という観念を少しもまともに考慮することなく、架空の「国家のプライド」や「弱肉強食の世界」を当然と考える「前近代」に価値の基準をおく社会のままなのか?ほんとうの「ポストモダン」とは、ここを総合的に勘案しなければならない。こういうもの言いは、いかにも旧時代的で大袈裟であると思うが、「日本再生」というならばここがポイントだと思う。



B.モダニストの視線は古びているか?
 悲惨な大戦争を実体験としてくぐり抜けた人々のうちで、それをただ不幸な時代に生まれ合わせてしまったと嘆いたり、早く嫌なことは忘れて明日のことだけ考えようと思ったり、なかには今回は失敗だったが次の機会には勝ってやるんだと息巻いたりする人も多かっただろうと想像する。そういう安易な事後の納得や忘却による自己保存をするのではなく、冷静に知力を絞って未来に意味のある反省を生かそうとした人こそ、「知識人」の名に値すると思う。昨日、これまた自分の書棚の片隅に小さな本を発見して、電車の中でぱらぱらと読んでみた。川島武宣『日本人の法意識』岩波新書、1967年。かなり前に出版された本だが、やはり重要なことをちゃんと考えていた人がいたのだと思った。それと同時に、今の日本の思想の状況をみると、この本で論じられていることが継承されるどころか、踏みにじられつつあるのかもしれないと思った。
 しかも、内容は少しも色褪せていないのに、この正確な文体はいかにも国家の担い手養成を期待される東京帝国大学の法学部での講義が、かくあったかのように古いし、そこで述べられていることも、ある意味では「戦後」という時代に特有の性格をもっているし、今となっては文脈が変わってしまったことも多い。しかしそれでもなお、問題の中心は核心に迫っているし、この本が書かれている時代を超えた認識が随所に垣間見えてすごい。
 今の岩波新書にこのような迫力と格調のこもったことばがあるだろうか?とりあえず、日本人には権利という観念が欠けている、という部分を読んでみよう。

「権利の意識
 社会生活においては、いろいろな場合に、われわれは、或る行為をしなければならない、と考える。われわれがこのように考える場合は、そこにその行為の義務があるとか、その行為の規範(或いは、社会規範)がある、というふうにわれわれは表現する。そうして、我われ日本人が伝統的に、社会生活における規範とか、或いは規範によって媒介されている人間関係(個人と個人との関係)とかを、どのようなものとして認めているかということを、法との関係で問題にするときに、最も重要なのは、伝統的に日本人には「権利」の観念が欠けているということである、と考える。なぜかと言うと、後に述べるように、「法」と「権利」という二つのことばは、西ヨーロッパの用語伝統の上では、単に同一の事物(現象)を別の側面から眺めて指称するにすぎないものであり、したがって社会生活の規範に関連して「権利」の観念が欠けている(或いは、弱い)ということは、「法」の現実の機能にとってきわめて重要な問題であるからである。
 元来権利ということばは、徳川時代以来の固有日本語にはなかった。幕末に蘭学者が、今日の「権利」ということばに相当するオランダ語のことば”regt”を訳するに際して、これに対する適当な日本語がないので困った、と言われており、明治時代には「権理」と訳されたり、或いは「権利」と訳されたりした。言うまでもなく、この後者の「権利」ということばが、明治の法典の公用語となり今日までひろく用いられるようになったわけであるが、なぜわが国では「権利」という一般的名辞――或いは、それに相当する意味内容をもつ言葉――がなかったのであろうか。思うに、そのようなことばを用いる必要がなかったから、というほかはないであろう。すなわち、一般には、或る言葉は人々がある事物を他から区別して認識し、またこれを指称する――或いは、その必要を感ずる――という事実なしには成り立ちえないからである(そのような事実なしに、或ることばが他の社会から輸入され、その結果逆に右のような認識が生ずる、ということもあろうが)。
 もっとも、徳川時代にも、個人が土地や家屋を所有していたのであり、人々はこれについてある意味での「権利」の意識をもっていたに違いない。また他人に金を貸した者が、その債務者に対して貸した金の返済を請求することができるのだ、という意識があったであろうことも、もとより否定できない。それなのに、これらに共通する観念として「権利」――すなわち、西欧の伝統や現代法にいわゆる「権利」と同じ意味内容をさすことばとしての――が成立しなかったということは、きわめて興味ある事実であると言うべきである。この歴史上の問題に答えることは、歴史家ならぬ私の能力の範囲外であり、今後歴史家によって答えられることを期待するほかはない。ここでは、私はこのような事実を眺めつつ、そういしてできるならばこのような問題を解く何らかの手がかりを見出すことを期待しつつ、現代法における「権利」の観念の内容を考えてみたい、と思うのである。
しかし、このことを理論的に抽象的に説明するのに先立って、具体的な私の問題点を例示的に明らかにしておくことにしたい。戦後、とくに最近は、いちじるしく変化してきているが、わが国の伝統的な雇傭関係の特色は、次の点に最もはっきり見ることができた。すなわち、傭主は被傭者に対して「権力」をもってはいるが、その労働を「請求する権利」をもっている、というふうには考えられなかった。さらにこれに対応して、被傭者は傭主に対して、賃金を「請求する権利」をもっているとは考えず、「はたらかせて頂いて」「お給金をいただく」と考えていた。すなわち、両者のあいだには「権利」の関係についての意識は存在しなかった。このような社会関係と意識との典型は、第二次大戦前の家内奉公人と傭主との間に存在した。しかし、同様の社会関係と意識とは、資本的企業にも広範に存在した(その詳しい説明については、磯田進「労働法」(岩波新書)第二章を参照されたい)。だから、第二次大戦後の法律が労働者の賃金請求権を大幅に保護するようになっただけではなく、組合団結権やストライキ権等の「権利」を承認するようになっても(昭和24年労働組合法一条・七条・八条)、労働者が団結して賃上げその他の「要求」をすることは傭主に対する一種の「叛乱」として意識され(初期には労働者の一部にすらそういう意識があった)、労働者は「不逞のやから」呼ばわりされたことは、多くの人々の知るとおりである。否、今日でさえ、まだこのような意識にもとづく関係が広範に残っている。賃金・俸給の一部が「賞与」という名称で呼ばれ、傭主の思し召し・恩恵等によって賃金・俸給に付加して与えられ、被傭者は傭主に対してこれを「請求」する権利を持たないことが予定されている給与形態は、典型的には家内奉公人・家内労働者について存在したものであるが、今日もなお、定額の賃金・俸給のほかに賞与・ボーナスを与えることは、企業規模の大小を問わず、また官庁たると私企業であるとを問わず、わが国では原則化している(外国系資本の企業においては、賞与を与えることが賃金・俸給の原則的形態となっていないところが多いようである)。また、賃金・俸給外の給与と見るべき福利施設や福利事業(女子労働者に茶の湯・生花を教えるごとき)に多額の企業経費が使われているという事実も、単に税法上の処理という目的のみによって決定されるものではなく(税法がこれを促進していることは認められるが)、本来は「賞与」的・恩恵的給与の一型態と見るべきである。もっとも、この給与型態を支える意識は今日においては広汎に且つ深刻に変化している。しかし、それにもかかわらずこのような給与型態がつづいているのは、単に傭主の意識が「古い」とか傭主の経済的利益追求心とかだけに因るのではなくて、終身雇傭制(一度傭入れたら、企業の盛衰や被傭者の事情等にかかわりなく、原則的に被傭者の終身――定年制がある場合は定年まで――傭用関係をつづけなければならない、という慣行上の拘束)という一種の「丸抱え」型態――それは旧来の家父長制的労働関係の特質であった――が今日もなお原則として存続していること、そのことが、傭主と被傭者との関係をほかの商品交換関係にしないで、一種の家父長制的ないし家族的な関係とする意識の基礎となっていること、にも対応しているであろう。」川島武宜『日本人の法意識』岩波新書、1967年。Pp.15-19.

  著者川島武宜は1997年に亡くなっている。1960年代の終わりに大学生になったぼくには、川島武宜、丸山真男、福武直などという名前は、東大アカデミズムの中心にいて神様のように言われながら、一方で西洋近代を絶対的な価値とする「近代化論者」の権化として批判されている巨人だった。これに物理学ノーベル賞湯川秀樹や歴史学者遠山茂樹、経済学者都留重人などを含め、その発言は専門家・学者の世界をこえて、社会に大きな影響を耐える権威となっていた。1970年前後の大学紛争の時代、彼らは一方で「戦後派知識人」の代表として尊敬を集めながら、他方で西洋直輸入の「近代化論者」の悪しき見本として打倒の対象にもなっていた。それからもう40年以上が経過した。日本企業の経営と雇用問題という個別の領域についても、川島先生の書いていることはある意味で変わり、ある意味では変わっていない。法社会学者としての川島武宜を、21世紀の現代からみたときに、日本という社会がどうあるべきか、日本人が何を大事に生きてきたかを再び反省するポイントを学ぶべき視点でありつづけていると思う。

「ヨーロッパの用語の伝統では、「法」と「権利」とは同一のことばRecht, droit, diritto, derecho, право等で表現されてきた。すなわち、「法」と「権利」とは、同一の社会現象をそれぞれ別の側面から観念したものにすぎない。「法」は前述したような判断基準、或いはそれによって判断・決定(特に裁判)をして政治権力のサンクションを発動する社会過程、を意味するのが普通であり、これに反し「権利」はこのような判断基準或いは社会過程によって保障されて一種の安定を得ているAの利益、或いはAの利益がそのように保障されている状態、を意味するのが普通である。したがって、「権利」は、そのような利益の主体に焦点を置いて右の「法」を観念したものであり(だから、「権利」は主観的なRecht, Droit等と呼ばれる)、これに反し「法」は、右のような判断基準ないし社会過程に焦点をおいて右の「権利」を観念したものである(だから、「法」は、客観的なRecht, droit等と呼ばれる)、と言われるのである。かのイェーリングRudolf von JheringのKampf ums Recht(1872)という本は、いちおう「権利のための闘争」と訳されていいるが(日沖憲郎訳『権利のための闘争』(岩波文庫)、「権利」のための闘争は同時に「法」のための闘争であるとして、法と権利の同一性を強調することが、まさに、この本のねらいであった。そうして、このことに関連して重要なことは、次の点である。すなわち、現代法は、原則としてすべての個人が「法」の平面では平等であるという基本原則に立脚しており、したがって、法は「権利」を単位として構成され、また適用される。この意味において、法は「権利の体系」であると言うことができるのであり、また法が「権利本位」であることは、当然のことと言うべきである。」pp.30-31.

 「権利」と「法」が同じことばであるというここでの記述は、ぼくにはとても新鮮に感じられた。でも、それはドイツ語、フランス語、イタリア語などヨーロッパの大陸の伝統であって、英語ではRightとLowは違う。もちろん英米でも、個人の権利、契約、国家、法という観念は共通する部分が多いとは思う。少なくとも、日本でのように当然の「権利」を主張する者を「異端者」、共同体への「反逆者」という視線でみるプレモダン意識はないだろう。そのこと自体は、アカデミックなレベルの問題かもしれない。でも、今の日本の安倍晋三的な下世話な話題の次元では、せっかく明治維新以来百年かかって学び考えてきたことを粗雑で愚かな信条のレベルで流し去っているように思えてならない。
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