gooブログはじめました!

写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

マルクス・リニューアル 11 グローバル・サウスへの犠牲の転嫁  権力へのすり寄り?

2021-09-28 23:18:06 | 日記
A.食料主権
 ぼくたちが毎日食べている食料は、誰かがどこかで作って食卓まで運ばれてきたものだとは知っている。でも、誰がどこで作ったのか、有機栽培野菜の産直品には生産者の名前が入っていて、農家の場所と名前がわかるけれど、普通の食品には簡単な表示があるだけで、食堂やレストランで出される料理には、産地の情報などない。食料というのは人間の生命維持にいちばん基本の〈コモン〉であるから、自分で作っていない以上、それが止まれば危機的状況に陥る。でも、実際にそんなことはあるまいと思っているし、多少値段は上下するだろうが、スーパーへ行ってお金さえ出せばたいていの食べ物は手に入る。しかし、それは輸入食品が豊富に入ってくる先進国の都市に住んでいるから実現していることで、世界のあちこちで、とくに飢饉や戦争に見舞われている国では、満足な食事が好きなだけ得られる人間は限られている。それは、自分で食糧を作っている農民すら、満足に食べられなかったりするというおかしなことが起きている。それは資本主義市場経済によって、食料の供給・流通を握られているからだ。

 「まずは食料主権について、掘り下げておきたい。
 当然のこととして、人間は生きるために食物が必要であり、それゆえ食料は〈コモン〉であるべきである。ところが、グローバル・サウスで展開される資本主義アグリビジネスは、収穫物を先進国に輸出してしまう。だから、農業が盛んで、農産品の純輸出国であるにもかかわらず、国内では、飢餓に苦しむ貧困層が大勢いる。
 これは、先進国の食卓を彩るための高価な輸出品が優先して生産され、実際の作業を行っている農民が生きていくのに必要な、廉価な食料は生産されていないせいだ。くわえて、多国籍企業の特許によって、種子や肥料、農薬をめぐる権利や情報が独占されていることも農家の経済的負担を過酷なものにしている。
 商品としての「価値」のための生産が行われ、「使用価値」が蔑ろにされるという資本主義の矛盾が、グローバル・サウスにおいては、過酷な形で表れている。
 例えば、南アフリカでは、イギリスの植民地支配に由来するアパルトヘイトという歪んだ制度の負の遺産によって、白人を中心とした20%の大規模農家が、南アフリカの農業生産額の80%を生み出すようになっている。そしてアフリカ最大の農産物輸出国のひとつであるにもかかわらず、飢餓率が26%にのぼるという。アパルトヘイトのもとで、地力が乏しく、水へのアクセスも悪い土地を割り当てられた。非白人の小規模農家は自給自足することさえも容易ではないのだ。新興国BRICSの一角を占めるといわれ、サッカー・ワールドカップまで開催したこの国にして、これほどの状況なのである。
 こうした状況に抗して、市民は2015年に「南アフリカ食料主権運動」South Sfrican Food Sovereigty Campaign、以下(南ア食料主権運動)という運動を開始した。参加者は、諸規模農業経営者や農業労働者たちと、NGOや社会運動の担い手たちだ。彼らは草の根の協同組合型農業を促進するためのプラットフォームを作り出したのだ。これは、国家主導のトップダウン型アグリビジネスが人々に豊かな生活をもたらすことに失敗したことに対する叛逆といえる。
 彼らが解決しようとしたのは、多くの貧しい農民が、持続可能な農業のために必要な知識も資金ももっていない状況であった。灌漑施設も整っていない土地で、知識がないままに農業に挑んで、すぐに失敗してしまう。そのまま借金をして、化学肥料や農薬を購入せざるを得ず、アグリビジネスの食い物にされてしまう。
 だから、「南ア食料主権運動」のモデルでは、農民たちは、自分たちの手で協同組合を設立する。そして、地域のNGOが必要な農具などを貸し出し、有機栽培についての教育を行う。資本によって独占された技能を取り戻すために、マルクスも重視した職業訓練を丁寧にやっているのだ。
 そうすることで、遺伝子組み換え作物や化学肥料に依存することなく、農民が種子を自家採取して管理する持続可能な有機栽培を根付かせることを目指しているのである。まさに〈コモン〉を取り戻す試みにほかならない。
▼グローバル・サウスから世界へ
 もちろん、食料主権の運動だけでは不十分だということは、「ヴィア・カンペシーナ」も「南ア食料主権運動」も認識している。より大きな問題が迫っているからである。それが、本書のテーマ、気候変動だ。
 実際、南アフリカの農業は気候変動によって脅かされている。ケープタウンでは、深刻な水不足が繰り返し起きるようになっている。今後、干ばつのリスクは飛躍的に高まっていくと予想されている。干ばつによる食糧価格の高騰は人々の暮らしを直撃するだろう。
だから、農業を持続可能で、安定した仕事にしていくことだけを目標にしていてば、足りない。そもそも農業ができない地球環境になってしまえば、元も子もないのだ。こうして、食料主権の運動は気候正義の運動と結びつく。そして、まさにそのことによって、ローカルな運動は、世界中の運動とリンクするのである。
この流れがよくわかる例として、同国のサソール社への抗議活動を紹介しよう。
▼帝国的生産様式に挑む
 ヨハネスブルグに本社を置くサソール社は石炭、石油、天然ガスを扱う資源企業である。サソール社の二酸化炭素排出量は毎年およそ6700万tにものぼり、この一企業だ毛でポルトガルの排出量を上回る。当然、サソール社の引き起こす大気汚染も深刻である。
 なぜそんなに二酸化炭素排出量が多いのか、理由のひとつは、石油代替品である人造石油を石炭から精製しているためだ。もともと、アパルトヘイト時代の南アフリカは石油の禁輸措置を受けていた。そこで、当時国営企業だったサソール社は、ナチス・ドイツ時代に推進された、フィッシャー・トロプシュ法という技術を使って、人造石油を精製していたのだった。
 ところが、原油の輸入が可能になった今でも、この手法を用いた事業は継続し、再び注目を浴びている。石油資源が枯渇し始めても、石炭はまだ世界に豊富にある。だから、石油の代替品の精製法として、サソール社の技術が注目されているのだ。だが、石炭から精製した合成燃料の使用による温室効果ガスの排出量は、石油を用いた場合の二倍近くになるといわれている。気候危機にとっては、致命的な転嫁の技術である。
 だから当然のこととして、南アフリカの環境活動家たちは、あまりに負荷の高いサソール社の操業停止を求めている。興味深いのは、その運動方法である。南ア食料主権運動の中心メンバーのひとりでもあるヴィッシュ・サトガーは、南アフリカ一国の問題とせず、国際的な運動との連帯を求めたのだ。スローガンは、「息ができない!」(We Can’t Breathe!)であった。
 サトガーらが着目したのは、米国ルイジアナ州レイクチャールズの石油化学工業にサソール社が投資している事実だった。もちろん、このプロジェクトによって、アメリカでも多くの二酸化炭素が排出されることになる。
 だから、サソール社への操業停止の要求は、気候変動を憂慮するアメリカの人々にとっても共通の課題であることを指摘したのである。そして、アメリカの「サンライズ・ムーブメント」や「未来のための金曜日」、「ブラック・ライブズ・マター」といった社会運動に、連帯を訴えかけたのだ。
 いや、正確にいえば、これは、単なる二酸化炭素排出量の削減に向けた国際的連帯の呼びかけにとどまらない。ドイツのナチス、イギリスによる南アフリカでのアパルトヘイト、そしてアメリカの石油産業といった帝国主義の歴史を反省し、資本主義の負の遺産から決別することを求めた、グローバル・サウスからの先進国への呼びかけなのである。つまり、帝国的生産様式に挑むグローバルな連帯を求めているのだ。
 このことは、「息ができない!」(We Can’t Breathe!)という環境運動の標語が、「ブラックウ・ライブズ・マター」のスローガン(I Can’t Breathe!)を踏襲しているものであることからもわかる。「息ができない!」は、2014年にニューヨーク在住の黒人エリック・ガーナーが警官によって首を絞められ殺された際に、最後に発せられた言葉だったのだ。
 南アフリカの環境運動は、同様の暴力がかの地でも日々繰り返されていることを告発する。さらには、奴隷貿易に端を発する帝国主義と人種差別の問題を気候変動問題につなげ、気候正義の文脈へと拡張するのである。
 人権、気候、ジェンダー、そして資本主義。すべての問題はつながっているのだ。このような呼びかけは、南アフリカからだけではない。世界中のさまざまな運動が、このような呼びかけを行っている。私たちは気づいていない、あるいは気づいても無視しているだけだ。だが、この呼びかけに応えなくては、気候正義を実現することはけっしてできない。
 晩年のマルクスは、イングランドによるアイルランドの植民地支配を批判しながら、イングランドの労働者たちは、アイルランドの抑圧された人々と連帯しなくてはならないと述べた。そして、後者が解放されなければ、前者もけっして解放されないという意味で、革命の「梃子」はアイルランドにあると言い切ったのだ。
 まったく同じように、現代においては、グローバル・サウスにこそ、革命の「梃子」がある。果たして連帯は可能だろうか。
 実は、本省の冒頭で見たバルセロナの気候非常事態宣言は、まさにそのようなグローバル・サウスからの呼びかけに対する応答の試みのひとつなのである。ここで興味深いのは、呼びかけへの応答という行為が、実質的な「脱成長」経済への転換を迫るということである。
  【 中 略 】
▼従来の左派の問題点
 バルセロナの目指す気候正義と比べると、結局、従来のマルクス主義が成長の論理にとらわれ続けてきたことがよくわかる。社会主義は、搾取をなくそうとした。だが、資本主義で実現された物質的な潤沢さを自国の労働者階級のために使うような社会を志してきたのだ。
 そうやって実現される将来社会というのは、資本家がいないというだけで、あとはそれほど今の社会と変わらない。実際、ソ連の場合は、官僚が国営企業を管理しようとして、結果的には、「国家資本主義」と呼ぶべき代物になってしまった。
 これでは、「人新世」の危機を前にして、マルクス主義は真にラディカルな対案を出すことはできない。資本主義の矛盾がこれほどまでに深まっているにもかかわらず、マルクス主義の衰退が止まらないのはそのせいだ。
 たしかに、左派が現在、抵抗しようとしている新自由主義は、より激しい労働者からの搾取を意味している。その新自由主義のなかでも、とりわけ緊縮政策は、社会保障費の削減、非正規雇用の増大による賃金低下、民営化による公共サービスの解体などを推進し、私たちの生活の質を低下させてきた。
 だからといって、労働者たちに富を廻そうと、反緊縮を掲げ、より多くの公共投資や再分配を行うよう、国家に要求すればいいのだろうか。もちろん、長期停滞を乗り越えることができて、景気が良くなれば、現状よりはマシになる。
 だが、反緊縮を訴えるだけでは、自然からの収奪は止まらない。経済を廻すだけでは「人新世」の危機は乗り越えられないのだ。
 そして、既存の左派の思考にもうひとつ問題がある。反緊縮派の人々は、新自由主義の緊縮政策こそが希少性の原因だとみなしているのである。もしその思考が正しければ、財政出動によってより多くを生産し、さらなる蓄積を求め、経済成長することで、潤沢さをもたらすことが可能だということになる。だが、これは資本主義に親和的な思考法である。つまり、一見すると革新的な左派の対案の内実は、「今までどおり」の仕組みを維持しようとする保守的な思想なのである。
 しかしその程度の改革では、足りない。新自由主義ではなく、資本主義こそが希少性の原因だからだ。それゆえ気候危機の時代には、政策の転換よりもさらにもう一歩進んで、社会システムの転換を志す必要がある。資本主義から抜け出し、脱成長を実現することで得られる「ラディカルな潤沢さ」こそ、晩期マルクスからの真の対案なのである。」斎藤幸平『「人新世」の資本論』集英社新書、2020、pp.341-353. 

 まもなく日本も総選挙が予定されているが、自民党の次の総裁に選ばれる人が、まず磁器総理大臣になることは間違いないと、すべてのジャーナリズムは常識のように言っている。今出ている4人の総裁候補は、多少政策の力点には濃淡はあるが、経済成長を目標に原発は動かし、アメリカの言うことは聞いて、憲法を改正し自衛隊を強くする、要するに今までの自民党と何も変わらず、なんとかなると言っているだけだ。これをはっきりそんな政策はダメだ、今基本路線を変えなければ日本はひどい国になる、と主張するべき野党は、いったいどんな立場にいるのか?ここで、従来の左派として批判される勢力なんて今の野党のことなんだろうか?立憲民主党も、国民民主党も、共産党さえも、格差是正や原発廃止は言っても経済成長支持、資本主義のなかの改革みたいな中途半端なことしか言っていない。これでは対案にもならないから、選挙は勝てそうもない。考えてみれば、昔のマルクス主義者は誤った理論を信じていたけれど、自民党的保守派にはっきり別の価値観で対峙する気概はあったなと思う。


B.権力の座を這い登るためなら…
 一国の政治指導者が女性であるかどうかなど、政治の中身にとってはどうでもいい。もちろん、これまで圧倒的に男性ばかりの世界だったから、女性であるというだけでかなり不利な扱いを受けてきたと想像されるし、そこを乗り越えてくるにはかなり努力しただろうと思う。しかし、政治は高い理想と結果に対する責任が問われる仕事であるから、権力の座にたどり着くために、自身の思想信念まで権力者の好みに合わせてしまうとしたら、情けないんじゃないか。「あなた好みの女になります」というのは、演歌の世界だ。

 「論題時評:高市早苗氏の「変節」 「わきまえる女」育む自民体質 中島岳志
 自民党総裁選が続く中、高市早苗衆議院議員への注目が集まっている。つい数か月前まで、「総理大臣にしたい人」調査ではランク外の下位だったのが、最近の各種調査で急上昇し、インターネット上では、主に安倍晋三前首相の支持者から熱狂的な声援を受けている。
高市が今月出版した著書『美しく、強く、成長する国へ。私の「日本経済強靭化計画」』(WAC)では、安倍路線の継承を強く打ち出している。「サナエノミクス」は「ニュー・アベノミクス」であると明言し、「優れた祖先のDNAを受け継ぐ日本人の素晴らしさ」を誇示する。憲法改正には賛成。選択的夫婦別姓には反対。経済政策から価値観の問題に至るまで、われこそが安倍の後継者であると言わんばかりの主張が並んでいる。
北原みのりは「高市早苗氏の意外な過去にフェミニストも震えた 総理の座を狙う過程で何があったのか」(AERAdot 9月9日配信)の中で、若き日の高市が書いた文章に注目する。高市は、第一希望の東京の私立大学に合格したにもかかわらず、親の意向で国立大学に入学した。しかも、「女の子だから一人暮らしはさせられない」と往復六時間の自宅通学を余儀なくされた。
しかし、高市は持ち前の突破力で、道を切り拓いていく。大学卒業後は海外で経験を積み、国際政治評論家としてテレビで活躍。政治家への道を歩み出していく。
そんな高市だったが、政治家になると一転して、パターナル(父権的)な価値観へと傾斜していく。北原はここに「わきまえなければ権力に近づくこともできなかった女性たち」の隘路を見る。
北原は、高市が1992年に出版した『30歳のバースディ その朝、おんなの何かが変わる』(大和出版)の中で、「日本流のバカバカしい会議」のスタイルに異議を述べていることを紹介する。会議が開かれたときにはすでに根回しが完了しており、議案は決定済みである。会議は儀礼的な意味しか持たない。そんなスタイルに対して「女性は正義感が強いので」「相性が悪い」と反撥しているという。
北原は問いかける。「こういうまっとうないら立ちを文章にしてきた女性が、最も『わきまえる女』になっていく過程に、いったい何があったというの?」
ジャーナリストの鮫島浩は「『稲田朋美の転向でチャンス到来』高市早苗が安部支持層からベタ褒めされる本当の理由」(PRESIDENT Online 9月10日配信)の中で、高市の政治家としてのプロセスに注目する。彼女の初当選は93年で、その時は無所属だった。細川内閣の発足により、非自民連立政権に加わり、その後、小沢一郎が主導する新進党に参加。そして96年に自民党に入党し、今日に至る。
鮫島は、ここに高市の過剰適応の要因を見出す。自民党内における新進党出身者に対する風当たりは強かった。タカ派議員の多い清和会に所属した高市は、早く自民党内で地位を確立したいと考え、「復古主義的な政治信条を強めてい」った。「森喜朗内閣では『勝手補佐官』を名乗って不人気の森首相を応援し続けた」
 新進党出身者で女性。世襲議員が多く、かつ男性優位の自民党の中で頭角を現すためには、「わきまえる女」にならなければならない。そんな苦しいリアリズムが、父権的主張への傾斜の背景に見え隠れする。
 六月の論題時評で取り上げた稲田衆議院議員は、過去に右派的な主張を繰り返しながら、近年、「私は『わきまえない女』でありたい」と発言し、LGBT法案に熱心に取り組んだ。その結果、右派論壇からは「変節した」といわれ、安倍からも遠ざけられる結果となった。自ら首相を目指す姿勢を示しながら、今回の総裁選では、蚊帳の外に置かれている。
 安倍による高市支持と稲田外しは、何をもたらすのか。安倍にとっては、自らの主張にすり寄る者をことさら引き立てることで、求心力の強化を狙っているのだろう。一方、リーダーとしての地位をうかがう女性政治家たちは、有力者への忖度によって、父権的な価値観へと傾斜し、女性の権利主張をトーンダウンさせていく。
 このような構造的な隘路を断ち切らない限り、いくら女性議員が活躍しても、自民党の父権主義は解消されないだろう。総裁選の行方とその後を注視したい。(なかじま・たけし=東京工業大教授)」東京新聞2021年9月28日夕刊5面。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マルクス・リニューアル 10 分業の廃止と民主化  政治家の真価

2021-09-25 11:22:50 | 日記
A.どこをどう変えるのか?
 『「人新世」の資本論』はちょうど1年前の2020年9月に出版され、19世紀のマルクスと21世紀の地球環境危機とを結びつけて、資本主義経済システムそのものを変革することなしに、人類の未来はないと主張したことで、日本のメディアにもじわっと注目を集めた。「いまさらマルクス?」と思った人は、20世紀的な「マルクス主義」イデオロギーに囚われている「旧人類」で、グレタ・トゥーンベリに象徴される10代の若者たちには、未来を指し示す明確なヴィジョンとして脱資本主義・脱成長の方向性が見えてきた、ということだろう。おそらく、欧州やアメリカでは、これがひとつの大きな潮流となりつつあるようだ。ただ、長い間、企業と投資家が肥え太る経済成長こそ自分たちの幸福を約束する唯一の道だと信じてきた日本の圧倒的大衆には、この晩期マルクスの思想が意味するところは理解不能で、ただの空想的戯言のように聞こえるかもしれない。
 斎藤幸平が提示する脱成長コミュニズム構想の5つの柱、「使用価値経済への転換」、「労働時間の短縮」に続く、「画一的な分業の廃止」、「生産過程の民主化」、「エッセンシャル・ワークの重視」にかんする説明はこうなっている。

 「▼脱成長コミュニズムの柱③ —―画一的な分業の廃止
 画一的な労働をもたらす分業を廃止して、労働の創造性を回復させる
 ソ連のイメージが強いせいで、これに驚かれることもあるのだが、マルクス自身は、労働を「魅力的」にすることを求めていた。労働時間が短縮されても、労働の中身が退屈で辛いものであったら、人々はストレス解消に消費主義的活動に走るだろう。労働という活動の中身を変えて、ストレスを減らすことは、人間らしい生活を取り戻すために不可欠なのだ。
 ところが、現代の生産現場を見れば、オートメーション化による資本の「包摂」が、労働の単調化に拍車をかけている。徹底したマニュアル化が作業効率を飛躍的に増大させる一方、労働者一人ひとりの自律性を剥奪していく。退屈で、無意味な労働が蔓延している。
 にもかかわらず、労働問題を忌避する旧世代の脱成長派は、この問題を十分に論じていない。既存の脱成長派の議論の枠組みにおいては、あくまでも、労働以外の時間において、創造的で、社会的な活動を実現することが目指されるのである。だから、労働時間は、オートメーション化でできるだけ短くして、あとは、辛くても耐え忍ぼうというわけだ。
 それに対してマルクスは、労働を忌避すべきものとはまったく考えていなかった。むしろ、「労働が魅力的な労働、言い換えれば個人の自己実現であるための主体的および客体的な諸条件」を獲得し、創造性や自己実現の契機になることを、目指していたのである。
 労働以外の余暇としての自由時間を増やすだけでなく、労働時間のうちにおいても、その苦痛、無意味さをなくす。労働をより創造的な、自己表現の活動に変えていくのだ。
 マルクスによれば、労働の創造性と自律性を取り戻すために必要な第一歩が、「分業の廃止」である。資本主義の分業体制のもとでは、労働は画一的で、単調な作業のうちへと閉じ込められている。それに対抗して、労働を魅力的なものにするためには、人々が多種多様な労働に従事できる生産現場の設計が好ましい。
 だから、マルクスは繰り返し、「精神労働と肉体労働の対立」や「都市と農村の対立」の克服を将来社会の課題として提唱したのだった。
 晩年の『ゴータ綱領批判』でも、この点が強調されている。将来社会においては、労働者たちが「分業に奴隷的に従属することが亡くなり」、「労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、労働そのものが第一の生命欲求」になる。そして、その暁には、労働者たちの能力の「全面的な発展」が実現できるはずだ、というのである。
 この目的のためにも、生涯にわたる平等な職業教育をマルクスは重視していた。労働者が資本による「包摂」を克服し、真の意味で、産業の支配者となるために、である。この視点から現代における実践を評価するならば、ワーカーズ・コープやその他の協同組合が職業訓練に力を入れていることには、大きな意義がある。
 ここでも晩期マルクスの脱成長の立場から、さらに踏み込んでいえることがある。人間らしい労働を取り戻すべく画一的な分業をやめれば、経済成長のための効率化は最優先事項ではなくなる。利益よりも、やりがいや助け合いが優先されるからだ。そして、労働者の活動の幅が多様化し、作業員負担の平等なローテーションや地域貢献などが重視されれば、当然、これも、経済活動の原則をもたらす。それは望ましいことなのである。
 その際、科学やテクノロジーを拒否する必要はどこにもない。実際、技術の助けを借りることで、人々はより一層多様な活動に従事できるようになるだろう。これが「開放的技術」(226頁参照)の使い方である。
 ただ、そのような技術を発展させるためには、労働者や消費者を支配しやすい「閉鎖的技術」中心の経済、すなわち利益優先の経済から脱却して、「使用価値」の生産に重点を置いた経済に転換しなくてはならないのだ。
▼脱成長コミュニズムの柱➃――生産過程の民主化
 生産のプロセスの民主化を求めて、経済を減速させる
 「使用価値」に重きを置きつつ、労働時間を短縮するために、開放的技術を導入していこう。だが、そのような「働き方改革」を実行するためには、労働者たちが生産における意思決定権を握る必要がある。それが、ピケティも要求している「社会的所有」(289頁参照)である。
 「社会的所有」によって、生産手段を〈コモン〉として民主的に管理するのだ。つまり、生産をする際にどのような技術を開発し、どういった使い方をするのかについて、より開かれた形での民主的な話し合いによって、決めようとするのである。
 技術だけではない。エネルギーや原料についても民主的に決定されれば、さまざまな変化が生まれる。例えば、原子力で発電する電力会社とは契約を切って、地産地消の再生可能エネルギーを選択することになるかもしれない。
 ここで晩期マルクスの視点から大事なのは、生産過程の民主化も、経済の減速を伴うということだ。生産過程の民主化とは、「アソシエーション」による生産手段の共同管理である。つまり、なにを、どれだけ、どうやって生産するかについて、民主的に意思決定を行うことを目指す。当然、意見が違うこともあるだろう。強制的な力のない状態での意見調整には時間がかかる。「社会的所有」がもたらす決定的な変化は、意思決定の減速なのである。
 これは、一部の大株主の意向が、優先的に反映される現在の企業の意思決定プロセスとは大きく異なる。大企業が刻一刻と変わる状況に合わせて、素早い意思決定を行うことができるのは、経営陣の意向に基づいて、非民主的な決定が行われているからである。マルクスはそれを[資本の専制]と呼んでいた。
 それに対して、マルクスのアソシエーションは生産過程における民主主義を重視するがゆえに、経済活動を減速させる。だが、ソ連はこれを受け入れられず、官僚主義の独裁国家になってしまった。
 脱成長コミュニズムが目指す生産過程の民主化は、社会全体の生産も変えていく。例えば新技術が特許によって守られて、製薬会社やGAFAのような一部の企業にだけ莫大な利潤をもたらす知的財産権やプラットフォームの独占は禁止される。むしろ、知識や情報は社会全体の〈コモン〉であるべきなのだ。知識がもつ「ラディカルな潤沢さ」は回復されなくてはならない。
 その際、利潤獲得や市場シェアという動機が失われるなら、私企業によるイノベーションの速度は遅くなる可能性が高い。
 だが、それは悪いことばかりではない。「人工的希少性」を生み出すための資本主義の「閉鎖的技術」の開発は、むしろ科学や技術の発展を妨げていることすらあるからだ。『ゴータ綱領批判』でも述べられているように、市場の強制から解放されることで、各人の能力が十分に発揮されるようになり、新しいイノベーションによって、効率化や生産力の上昇が起きる可能性も十分にある。
 コミュニズムは、労働者や地球に優しい新たな「開放的技術」を〈コモン〉として発展させることを目指すのだ。
▼脱成長のコミュニズムの柱⑤ —―エッセンシャル・ワークの重視
 使用価値経済に転換し、労働集約型のエッセンシャル・ワークの重視を
 第四章でも確認したように、晩年のマルクスは、生産力至上首位と決別し、自然的制約を受け入れるようになっていった。この点に関連して、最後に、近年もてはやされているオートメーション化やAI化には、明確な限界が存在することを強調しておこう。
 一般に、機械化が困難で、人間が労働しないといけない部門を、「労働集約型産業」と呼ぶ。ケア労働などは、その典型である。脱成長コミュニズムは、この労働集約型産業を重視する社会に転換する。その転換によっても、経済は減速していくのだ。
 労働集約型産業の重視が、経済を減速させるということを理解するために、ここで、ケア労働について、少し掘り下げておきたい。
 まず、自明なこととして、ケア労働の部門において、オートメーション化を進めるのはかなり困難である。ケアやコミュニケーションが重視される社会的再生産の領域では、画一化やマニュアル化を徹底しようとしても、求められている作業は複雑で多岐にわたるため、イレギュラーな要素が常に発生してしまう。このイレギュラーな要素はどうしても排除できないため、ロボットやAIでは対応しきれないのである。
 これこそ、ケア労働が「使用価値」を重視した生産であることの証である。例えば、介護福祉士は単にマニュアルに即して、食事や着替えや入浴の介助を行うだけではない。日々の悩みの相談に乗り、信頼関係を構築するとともに、わずかな変化から体調や心の状態を見て取り、柔軟に、相手の性格やバックグラウンドに合わせてケースバイケースで対処する必要がある。保育士や教師も同じだ。
 こうした特性から、ケア労働は「感情労働」と呼ばれる。ベルトコンベアでの作業とは違って、感情労働は相手の感情を無視したら、台無しになってしまう。だから、感情労働は、ひとりの労働者が扱う対象人数を二倍、三倍にしていくという形で生産性を上昇させることができない。ケアやコミュニケーションは、時間をかける必要がある。そして何より、サービスの受給者が、スピードアップを望んでいない。
 もちろん、介護や看護の過程を徹底的にパターン化し、効率を上げることはある程度可能だ。だが、儲け(=「価値」)のために労働生産性を過度に追及するなら、最終的にはサービスの質(=「使用価値」)そのものが低下してしまう。
 ところが、まさに機械化の困難のせいで、労働集約的なケア労働部門は生産性が「低く」、高コストだとみなされている。そのため、官僚から現場に近いところまで含めたマネジメント層からは無理な効率化が求められたり、理不尽な改革やコストカットが断行されるようになったりしているのである。
▼ブルシット・ジョブvs.エッセンシャル・ワーク
 資本主義社会でのエッセンシャル・ワークに対する圧迫には、「価値」と「使用価値」の極端な乖離という問題が潜んでいる。
 現在高給をとっている職業として、マーケティングや広告、コンサルティング、そして金融業や保険業などがあるが、こうした仕事は重要そうに見えるものの、実は社会の再生産そのものには、ほとんど役に立っていない。
 デヴィッド・グレーバーが指摘するように、これらの仕事に従事している本人さえも、自分の仕事がなくなっても社会になんの問題もないと感じているという。世の中には、無意味な「ブルシット・ジョブ(クソくだらない仕事)」が溢れているのである。
 たしかに、私たちは無駄な会議をたくさん開き、プレゼンの資料を無駄に作り込み、誰も読まないようなFacebookの企業広報記事をまとめたり、フォトショップで写真を加工したりしている。
 ここでの矛盾は、「使用価値」をほとんど生み出さないような労働が高給のため、そちらに人が集まってしまっている現状だ。一方、社会の再生産にとって必須な「エッセンシャル・ワーク(「使用価値」が高いものを生み出す労働)」が低賃金で、恒常的な人手不足になっている。
 だからこそ、「使用価値」を重視する社会への意向が必要となる。それは、エッセンシャル・ワークが、きちんと評価される社会である。
 これは地球環境にとっても望ましい。ケア労働は社会的に有用なだけでなく、低炭素で、低資源使用なのだ。経済成長を至上目的にしないなら、男性中心型の製造業重視から脱却し、労働集約型のケア労働を重視する道が開ける。そして、これは、エネルギー収支比が低下していく時代にもふさわしい、労働のあり方である。
繰り返せば、ここにも減速の契機がある。ケア労働の生産性を上げるのは、質の低下を伴わずしては困難だからである。
▼ケア階級の叛逆
 脱成長コミュニズムがケア労働に注目するのは、環境に優しいからだけではない。今、世界のあちこちで資本主義の論理に対抗して立ち上がっているのが、ケア労働の従事者だからだ。これが、グレーバーの言う「ケア階級の叛逆」(revolt of the caring classes)である。
 現在、ケア労働者に対評されるエッセンシャル・ワーカーは、役に立つ、やりがいのある労働をしているという理由で、低賃金・長時間労働を強いられている。まさに、やりがいの搾取だ。そのうえ、よけいな管理や規則の手間ばかりを増やすだけで、実際には役立たずの管理者たちに虐げられている。
 だが、ついに、エッセンシャル・ワーカーたちは、抵抗のために立ち上がりつつある。」斎藤幸平『「人新世」の資本論』集英社新書、2020、pp.307-317. 

 エッセンシャル・ワーカーたちがすでに立ち上がっている、かどうかはぼくはよく知らない。19世紀半ばのマルクスは、当時勃興してきた労働者階級のパワーを信じて、共産党宣言を書いた。21世紀の今、パワーをもった社会的勢力、腐敗する権力に対する有効な叛逆を担える階級があるといいたい気持ちはわかる。しかし、いまの日本ではそうした人たちの心に響く主張を政治的なパワーにする政治家はいるだろうか、と考えると非常に侘しい。


B.調整型政治家でいいのか
 まもなくドイツで総選挙が行われ、メルケル後の指導者が選出される。誰が出てくるかわからないが、2002年以降中途半端で低迷していたSPD(ドイツ社会民主党)が第一党になり、ハンブルク市長を務めたショルツ(63)が次のカンツラー(首相)として有力だという。メルケルは保守政党CDU・CSU(キリスト教民主・社会同盟)から出たけれど、ドイツの伝統的保守派ではなく旧東独で物理学者だったことはよく知られている。日本と違って、ドイツは1,2年の短期で首相が交代することはなく、与党のトップは同時に国の顔として長期政権となってきた。さて、ドイツの顔が変わって、次はどうなるだろうか。

 「メルケル引退へ 強調築く外交、継承を
 前世紀の戦争責任を背負う国の指導者が。21世紀に世界が守るべき理念の旗手を務めた。顧みれば、そんな構図だった。
 ドイツのアンゲラ・メルケル首相(67)である。26日の総選挙に立候補せず、引退する。4期16年間、ドイツ政治のみならず、自由主義世界を牽引する顔だった。
 歴史の教訓を体幹に据えた政治家である。冷戦期を旧東独の独裁下で過ごし、自由と民主主義の重みを知っている。在任中の世界は、その価値観が揺らいだだけに、彼女のぶれない姿勢が存在感を増した。
 米国の対テロ戦争の拡大と、米欧の金融や通貨危機。先進国が自信を失い、内向き姿勢を強めていったなかで、メルケル氏が一貫して重んじたのは多国間協調である。
 米国第一主義のトランプ政権や、欧州連合から離脱した英国に対し、メルケル氏は毅然とした交渉姿勢を続けた。米国の保護主義を戒め、欧州では地域統合の流れを守った。
 ウクライナ紛争など危機対応の国際会議では、各国指導者が互いに譲らないなか、辛抱強く落着点を探る姿が報道陣にも際立って見えた。
 議論を重ねて溝を埋め、妥協を探る。いまの国連安保理などで見失われた外交交渉こそが、メルケル氏の真骨頂だった。
 だが、現実と理念の均衡点を探る政治の判断は、いつであれ難しい。中東アフリカの難民が欧州へ押し寄せた2015年の荒波は、メルケル氏にとって大きな試練となった。
 国境を解放して100万人以上を受け入れた人道主義は、国際的に賞賛された一方、ドイツ国内ではその反発から極右政党の躍進を招いた。この夏のドイツなどでの大水害では、地球温暖化対策への危機感が乏しすぎたとの批判も広がった。
 だがそれでも、物理学者としての論理的思考と、政策を実直に説明する姿は、コロナ禍のような危機管理の局面で効果を発した。
 国民に行動制限を求めた際の会見が有名だ。「移動の自由が苦難の末に勝ち取られた権利だと経験してきた私の王な人間には、絶対的な必要性がなければ正当化し得ない」。そう語りつつ、科学的根拠を実直に説明する姿が強い印象を残した。
 冷戦終結から30年、世界は新たな分断の時代を迎えている。米中対立は深まり、貿易や宗教などで何層もの亀裂が走る今、理性的な解決を探る調整機能が過去にも増して必要だ。
 国際社会は「メルケル後」も多国間主義の理念を守っていけるか。とりわけ日本を含む先進国の責任が問われている。」朝日新聞2021年9月25日朝刊12面社説。

 メルケル氏が国内外で高い評価を保っていたのは、中道左派のSPDや緑の党から右翼ネオナチまで、さまざまな立場や意見を頭から拒否するのではなく、調整し妥協点を探る地道なプロセスを踏む姿勢ゆえだと思う。ただ、自分の理念や思想がなく柔軟にボス交渉で調整して乗り切っていく手腕が評価される政治家、というのはどこにでもいるが、それでトップを10年続けるのは無理だろう。パーソナリティで国民に愛される演出をしても、そんなものはいずれ化けの皮が剥がれる。性別のことなど、もはや誰も問題にしない。そういう意味でも、メルケルは優秀な人だったのだなと思う。同じ紙面にパラリンピックの話題で、スポーツ記者稲垣氏の文章も載っていた。

 「多事奏論 アフガン戦争とパラ 帰還兵の多く「強さ」と無縁 :編集委員 稲垣康介
 (前略)2人の金メダリストはスポーツに生きがいを見出せた。パラリンピックで金メダルをめざすことは人生の推進力になったはずだ。周りに支援者、そして競い合うライバルがいることで孤独感とは無縁でいられる。目が見えないスナイダーには水泳、自転車、ランで付き添う相棒がいた。二人で3年後のパリ大会もめざすという。
 スポーツ記者の私は、こうした「超人」を取材するチャンスに恵まれる。一方、元兵士の誰もが、そうした強さを兼ね備えているわけではないことに思い至る。
 なので、調べてみた。
 米国はアフガン戦争に2兆㌦(約220兆円)を投じ、約2400人の米兵が命を落とした。帰還兵の心的外傷ストレス(PTSD)は深刻だ。米ブラウン大の調査では米国がアフガニスタンやイラクで始めた対テロ戦争を経て自殺した米兵は3万人を超すと推計される。7千人とされる戦死者の4倍以上になる。アルコールや薬物に溺れた人も大勢いる。
 戦場となったアフガン人の犠牲はさらに大きい。民間人だけで4万人以上が亡くなったとされる。米軍の誤爆による犠牲者も多く、憎悪の連鎖を生む。国民の大多数はスポーツに人生の張り合いを見出すどころか、日々の食事にも困る状況のようだ。
 ツインタワーに航空機が突っ込む衝撃映像と大に刻まれる9.11のテロから20年。米国がテロの温床として怒りの矛先を向けたアフガニスタンへの報復がもたらした惨禍が、やりきれない数字で迫ってくる。」朝日新聞2021年9月25日朝刊13面オピニオン欄。
 引用者註:文中のブラッド・スナイダーという選手は、米国人で10年前、爆弾処理班として任務中に負傷し失明した人で、今回のパラリンピック、トライアスロンで金メダルを獲得した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マルクス・リニューアル 9 ではどうするの? 東京都平和祈念館の凍結?

2021-09-22 21:34:12 | 日記
A.脱成長コミュニズムの処方箋とは?
 地球環境の危機は待ったなしの深刻な状況に来ているのだ、ということを前提に、ではどうすればよいのか?SGDsが国際的なスローガンとして日本でも、叫ばれているが、資本主義という経済システムを続ける限り、根本的な転換は起きないというのが、後期マルクスの、いや「人新世」の資本論の主張だということは判った。では、具体的になにをすれば問題はクリアにぼくたちの前に提示され、それを解決するシナリオはどんなものなのか。この本は当然、そこを明示するために書かれているわけだが、マルクスの構想した処方箋は5つだという。つまり、「使用価値経済への転換」、「労働時間の短縮」、「画一的な分業の廃止」「生産過程の民主化」、そして「エッセンシャル・ワークの重視」。その部分を読んでみた。

 「生産という場はコミュニティを生み出すのだ。しかも、第八章でもみるように、このコミュニティは、より大きな輪へと広がっていくことで、社会全体にも、大きなインパクトを与える力をもっている。労働から生まれる運動は、最終的に政治さえも動かす可能性も秘めているのである。
 だから、本書が問題にするのは、ライフスタイルの次元での「帝国的生活様式」ではなく、そのような消費を可能にしている生産の力だ。つまり、重要なのは「帝国的生産様式」の超克である。前者を是正するためには、後者こそ克服しなくてはならない。
 ただしここで繰り返しておきたいのは、いきなりトップダウンの解決策に頼ろうとする「政治主義」モデルは、機能しないということである。
 もちろん、政治は必要だし、気候変動対策のタイムリミットを前にトップダウン型の対策も求められている。だが、気候変動に対峙する政治は、資本に挑まなくてはならない。そのような政治を実現するためには、社会運動家らの強力な支援が不可欠になる。
 社会運動の重要性について、社会学者マニュエル・カステルは、正しく次のように述べている。「社会運動なしには、いかなる挑戦といえども国家の制度(中略)を揺るがすほどのものを市民社会から生みだすことはありえない」
 ただ待っているだけでは、「人新世」の危機に対処できる政治はけっしてやってこない・だが、そもそも、待っている必要などない。私たちが、先に動き出そう。
▼人新世の「資本論」
 では、どうすればいいのか。いよいよ、その問いに答えていきたい。
 繰り返しになるが、『資本論』によれば、自然と人間の物質代謝に走った亀裂を修復する唯一の方法は、自然の循環に合わせた生産が可能になるよう、労働を抜本的に変革していくことであった。人間と自然は労働を媒介としてつながっている。だからこそ、労働の形を変えることが、環境危機を乗り越えるためには、決定的に重要なのである。
 ただ、これだけでは、生産と労働の変化が、気候危機をどのように解決するのかについての十分な説明にはなっていない。なぜコミュニズムでの労働が、物質代謝の「修復不可能な亀裂」を修復できると、マルクスは考えたのだろうか。実は、この答えは『資本論』から直接読み取ることができない。それゆえ、「亀裂」についてのマルクスの議論は悲観的すぎると、批判する研究者もいるほどである。
 ここでも鍵になるのは、晩期マルクスの視点である。『資本論』刊行後に、この亀裂を修復する方法を求めて、マルクスは自然科学研究を進めていった。晩期マルクスの視点から『資本論』を再読することではじめて、なぜ脱成長コミュニズムが「物質代謝の亀裂」を修復できるかを説明できるのである。
 それに対して、晩期マルクスの到達点に目を向けなかった20世紀のマルクス主義は、社会主義になれば、労働者たちが技術や科学を自由に操るようになって、自然的制約も乗り越えられると楽観視していた。技術によって「物質代謝の亀裂」も修復できると考えていたのだ。
 だが、そのような生産力至上主義は間違っているし、晩年のマルクスの考えとも相容れない。従来のマルクス主義は、バスターニのような、シリコンバレー資本主義とのキメラまで生んでしまったが、それはマルクスの望んだコミュニズムではない。
 だから、これまで進歩史観の呪縛から逃れられなかったマルクスの『資本論』を、「脱成長コミュニズム」という立場から読み直すことが必要なのである。そのための準備が第四章だった。つまり、晩年のエコロジー・共同体研究の意義をしっかりと押さえることではじめて、浮かび上がってくる『資本論』に秘められた真の構想があるのだ。そして、その真の構想こそが現代で役立つ武器になるのである。
 この構想は、大きく五点にまとめられる。「使用価値経済への転換」、「労働時間の短縮」、「画一的な分業の廃止」「生産過程の民主化」、そして「エッセンシャル・ワークの重視」である。
 一見すると、同じような要求は、旧来のマルクス主義者たちによっても掲げられてきたように思われるかもしれない。しかし、その最終目的地点は全然違ったものになることが、すぐに判明するはずだ。
 マルクスの脱成長の思想は150年近く見逃されてきた。そのため、同じように見える要求も、経済成長をスローダウンさせるという文脈では、けっして定式化されてこなかったのである。今はじめて、「人新世」の時代へと『資本論』がアップデートされるのだ。
 ポイントは経済成長が減速する分だけ、脱成長コミュニストは、持続可能な経済への移行を促進するということだ。しかも、減速は、加速しかできない資本主義にとっての天敵である。無限に利潤を追求し続ける資本主義では、自然の循環の速度に合わせた生産は不可能なのだ。だから、「加速主義」(accelerationism)ではなく、「減速主義」(deaccelerationism)こそが革命的なのである。
 さあ、脱成長コミュニズムへの跳躍に向けて、私たちがなすべきことを確認していこう。
▼脱成長コミュニズムの柱①――使用価値経済への転換
「使用価値」に重きを置いた経済に転換して、大量生産・大量消費から脱却する
 「使用価値」を重視するべきだとは、旧来のマルクス主義でもいわれてきた。『資本論』に文字どおり、そのように書いてある。そこからまずは説明しよう。
 マルクスは、「価値」と「使用価値」という商品の属性を区別した。第六章でも見たように、資本蓄積と経済成長を目的とする資本主義においては、商品としての「価値」の方が重要である。資本主義の第一目的は価値増殖なのだ。だから究極的には、売れればなんだってかまわない。つまり、「使用価値」(有用性)や商品の質、環境負荷はどうでもいい。また、一度売れてしまえば、その商品がすぐに捨てられてもいい。
 だが、価値増殖だけを目的とした生産力の増大は、より大きな視点で見れば、さまざまな矛盾を生み出す。例えば機械化によるコストダウンは需要を刺激し、大量の商品を売り捌くことを可能にするが、その過程で環境は酷く破壊されてしまう。
 また、生産力の増大は、当然ながら多くのものを生み出すことにつながるが、商品としての「価値」だけを重視する資本主義システムのもとでは、社会の再生産にとって有益であろうが、なかろうが、売れ行きのよいものを中心に生産が行われる。その一方で、社会の再生産にとって、本当に必要なものは軽視される。
 先にも見たように、パンデミック発生時に社会を守るために不可欠な人工呼吸器やマスク、消毒液は、充分な生産体制が存在しなかった。コストカット目当てに海外に工場を移転したせいで、先進国であるはずの日本が、マスクさえも十分に作ることができなかったのである。これらはすべて、資本の価値増殖を優先して、「使用価値」を犠牲にした結果である。その結果が、危機を前にしたレジリエンスの喪失であった。
 こうした「使用価値」を無視した生産は、気候危機の時代には致命的となる。食料、水、電力、住居、交通機関への普遍的アクセスの保障、洪水や高潮への対策、生態系の保護などやるべきことはたくさんある。だからこそ、「価値」ではなく、危機への適応に必要なものこそが、優先されなくてはならないのだ。
 そのために、コミュニズムは生産の目的を大転換する。生産の目的を商品としての「価値」の増大ではなく、「使用価値」にして、生産を社会的な計画のもとに置くのだ。別の表現を用いれば、GDPの増大を目指すのではなく、人びとの基本的ニーズを満たすことを重視するのである。これこそ、「脱成長」の基本的立場にほかならない。
 その際、生産力を限りなく上げて、人びとが欲するならいくらでも生産しようとする消費主義の過ちを、晩年のマルクスならはっきりと批判しただろう。現在のような消費主義とは手を切って、人びとの繁栄にとって、より必要なものの生産へと切り替え、同時に、自己抑制していく。これが「人新世」において必要なコミュニズムなのだ。
▼脱成長コミュニズムの柱②――労働時間の短縮
労働時間を削減して、生活の質を向上させる
 使用価値経済への転換によって、生産のダイナミクスは大きく変わる。金儲けのためだけの、意味のない仕事を大幅に減らすからである。そして、社会の再生産にとって本当に必要な生産に労働力を意識的に配分するようになっていく。
 例えば、マーケティング、広告、パッケージングなどによって人々の欲望を不必要に喚起することは禁止される。コンサルタントや投資銀行も不要である。深夜のコンビニやファミレスをすべて開けておく必要はどこにもない。年中無休もやめればいい。
 必要のないものを作るのをやめれば、社会全体の総労働時間は大幅に削減できる。労働時間を短縮しても、意味のない仕事が減るだけなので、社会の実質的繁栄は維持される。それどころか、労働時間を減らすことは、人々の生活にとっても、また自然環境にとっても好ましい影響をもたらす。マルクスも『資本論』のなかで、「使用価値」の経済に向けた転換のためには、労働時間の短縮が「根本条件である」と述べていた。
 現代社会の生産力は既に十分高いはずなのだ。とりわけオートメーション化によって、かつてないほどに生産力が高まっている。本来なら人間が賃金奴隷の状態から解放される可能性があるはずである。
 ところが資本主義の下では、オートメーション化は、「労働からの解放」ではなく、「ロボットの脅威」や「失業の脅威」になっている。そして、失業を恐れる私たちは、いまだに過労死するほど必死に働いている。ここに資本主義の不合理さが表れている。そんな不合理な資本主義は早く捨て去った方が良い。
 それに対して、コミュニズムは、ワークシェアによって、GDPには表れないQOL(生活の質)の上昇を目指す。労働時間の短縮は、ストレスを減らすし、子育てや介護をする家庭にとっても、役割分担を容易にするはずだ。
 ただし、労働時間の短縮のためとはいえ闇雲に生産力を上げればいいわけではない。たしかに「労働からの解放」、「週15時間労働」というキャッチフレーズが、バスターニのような加速主義のみならず、脱成長派のなかでも喧伝されている。そして、「純粋機械化経済」は魅力的に響く。だが、晩年のマルクスならこう付け加えるだろう。完全オートメーション化によって労働時間をどんどん短縮していって、労働をなくしてしまおうという極端な発想は問題含みである、と。労働からの解放を目指して、これ以上生産力を上げていくことは、地球環境に壊滅的な影響を及ぼすことになるからだ。
 さらも、オートメーション化による労働時間の削減には、別の側面からも考える必要がある。エネルギーの問題だ。
 ある工場で新技術が導入され、これまで10人で行っていた作業がひとりでできるようになったとしよう。そのとき、生産力は10倍に上がっているが、労働者個人の能力が10倍になったわけではない。労働者九人分の仕事を化石燃料のエネルギーによって置き換えているだけである。労働者という賃金奴隷の代わりに、化石燃料という「エネルギー奴隷」が働いているのだ。
 ここで重要なのは、化石燃料の「エネルギー収支比」(EROEI)の高さである。エネルギー投資比率とも呼ばれるエネルギー収支比は、一単位のエネルギーを使って何単位のエネルギーが得られるかという詩評である。
 1930年代の原油について見てみると、一単位のエネルギーを使って、100単位のエネルギーを得ることができた。つまり、残りの99単位を自由に使えたのだ。ところが、その後、原油のエネルギー収支比は低下を続け、一単位のエネルギーを使って得られるエネルギーは、わずか10単位程度の値になっていることが、昨今、問題視されている。採掘しやすい場所の原油を掘り尽した結果がこれだ。
 ところが、それでも原油のエネルギー収支比は、再生可能エネルギーと比較すれば格段に高い。太陽光は、一単位の投資で2.5~4.3単位ほどしか得られない。トウモロコシノエタノールはなんと一対一に近いという。一単位のエネルギーを使って、一単位のエネルギーしか得られないなら、まったく意味がない。こうしたエネルギーは、いわば濃度が非常に「薄い」ため、より多くの資本や労働を投資しなくてはいけなくなる。
 脱炭素社会に移行して行く場合、エネルギー収支比の高い化石燃料は手放し、再生可能エネルギーに切り替えていくしかない。そうなれば、エネルギー収支比の低下によって、経済成長は困難になる。二酸化炭素排出量削減によって起こる生産力の低下は、「排出の罠」(emissions trap)と呼ばれている。
 そして、エネルギーという「奴隷」が減少すれば、今度は代りに、人間が長時間、働く必要性が出てくる。当然、労働時間の短縮にもブレーキがかかり、生産の減速にもつながる。
 二酸化炭素排出量を削減するための生産の減速を、私たちは受け入れるしかない。そして、「排出の罠」で生産力が落ちるからこそ、「使用価値」を生まない意味のない仕事を削減し、ほかの必要な部門に労働力を割り当てることがますます重要になる。生産力の向上で「労働の廃棄」や「労働からの解放」を実現するのは、脱酸素社会においては無理なのだ。
 だからこそ、労働の中身を、充実した、魅力的なものに変えていくことが重要だというマルクスの主張こそが、再評価されないといけない。この認識から、次の構想が出てくる。」斎藤幸平『「人新世」の資本論』集英社新書、2020年、pp.296-306. 

 労働のあり方を変える、という処方箋は昔のマルクス主義でも謳われていたが、低成長になると労働能力の高くない人々は、労働市場をそのままにすると失業者になる可能性が高まる。人工知能やロボット労働がすすみ、エネルギー消費が減ると、結果的に資本主義は衰弱し、少なく働いて豊かな生活を楽しめるようになるとは限らず、実際に起きたことは、一部の富裕層が肥え太り、多くの労働者とその家族は貧困化するという二極化だった。ソ連型社会主義は、それを生産手段の国有化と中央集権管理による計画経済で解決しようとした。しかし、それはうまくいかなかったとすると、今度は「使用価値経済への転換」、「労働時間の短縮」で克服できるのだろうか。


B.空襲の犠牲者は国家に貢献していないのか?
 大戦末期の日本本土への空襲、とくに人口密集地帯の大都市への無差別攻撃で多くの人が亡くなった。広島、長崎の原爆も各地の空襲も、一般民衆の非戦闘員が犠牲になった。しかし、戦後の軍人・軍属への手厚い補償に比べ、空襲の死者への政府による補償はほとんど行われなかった。戦争による犠牲者であることは変わらないのに、その扱いは明らかに差別的だと思われる。戦後しばらくは、国や政府にそこまでの財政的余裕がなかったことはわかる。一家が全滅したり、幼い子だけが残されたりした場合、空襲の死者を確認することすら大変だったと思う。しかし、空襲の死者を軽く扱う態度はどこから出てくるのだろう。都市空襲の多くは、1945(昭和20)年のはじめから夏までに起きていて、もし3月の東京大空襲以前に、戦争をやめるという決断をしていれば避けられたのだとすると、日本が勝つ可能性が消えていたのに国体護持にこだわって、終戦を遅らせた軍と政府に一番大きな責任があると考えるのもありうると思う。

 「封印されたビデオ――東京大空襲 体験者の証言:記念館凍結 証言320人公開されず
 平和継承の思い 応えて 風録へ尽力 作家・早乙女勝元さん
 収録から二十年以上が過ぎた今も公開されず、都内の倉庫眠る東京大空襲などの戦争体験者三百人の証言ビデオ。終戦から半世紀後の1990年代後半、都は貴重な戦争体験を広く後世に伝えようとしていたが、なぜ封印されたのか。 (井上靖史)
 証言を収録するよう都に求めたのは、作家の早乙女勝元さん(89)だ。自らも空襲体験者で、その証言の記録に半生をかけて取り組んできた。95年には「いま空襲体験者の声を集めなければ時間切れになる」と、当時の青島幸男都知事に訴えた。
 早乙女さんは「大空襲を伝える施設を設ける方向は固まっていたが、建物ができるまでは相当な時間がかかり、その間に亡くなってしまう人もいる。映像だけは元気なうちに確保しては、と提案した。都民参加でやることに大きな意味があるとお伝えした」と話す。
 収録を担当したのは都の外郭団体「東京都映画協会」。女性映画監督の渋谷昶子(のぶこ)さん(故人)らが96~99年度に制作したビデオには、空襲体験や疎開先での生活など幅広い都民の戦争体験が集まった。防空ずきんや焼け焦げた万年筆といった物品も集まった。
 だが、展示施設となる予定だった「東京都平和祈念館(仮称)」を巡り、加害についての内容や「軍事都市東京」の表現などに対し大学教授や一部の都議から反対の声があり、期ねん館の整備計画は9年に凍結された。それから20年以上が過ぎた。
 都は毎年三月に開いている空襲資料展で、九人の証言ビデオを公開している。その他の約三百二十人については「平和祈念館以外で使用する同意を得られていないため、公開の対象としていない」(生活文化局の担当者)という態度だ。
 だが、そもそも公開に向け、2000年に意向を確認したのは九人のみ。「なぜ九人しか確認していないのか」と問い合わせると、都の回答は「当時の資料がなくわからない」だった。
 本紙が証言者の名前や住所の情報公開を求めても都は開示しなかった。本誌はこれまでの取材で約二百人の名前は確認したものの、亡くなった人や連絡先のわからない人が多い。
 都は収録に際し、証言者に「貴重な証言を後世に伝えていく」とする生活文化局長名の文書を渡したものの、その後の経緯は文書の趣旨とは正反対だ。ある都の関係者は「私たちもこのままでいいとは思っていないが、(祈念館の建設計画を凍結した)と議会の付帯決議は重い」と語る。ビデオテープはDVD化を済ませているという。
 早乙女さんは訴える。
 「つらい体験で本当は話したくない人もいたはず。二度と繰り返さないようにと口を開いた人たちの思いに応えてほしい」」東京新聞2021年9月21日朝刊25面社会欄。

1999年石原都政下で凍結された東京都平和祈念館の建設案は、東京大空襲を総合的に記録し資料展示をする施設として計画されたが、その内容が「自虐史観」に立つものという反対運動があったという。
日本で最大の保守主義・ナショナリスト団体である「日本会議」の報告によれば、1998年3月「〈平和祈念館をただす都民の会〉が発足し、運動の結果、東京都平和祈念館建設計画が凍結された」とされている。この運動は「国民運動」と総称され、この時期、長崎原爆資料館、ピースおおさかなど、戦争の惨禍を語り継ぐミュージアムに対する組織的な批判を全国規模で展開していた。「国民運動」は東京都平和祈念館(仮称)に対しても、東京都議(自民・公明・民主・無所属クラブ)を発起人とする〈東京の平和を考える会〉などの政治勢力を吸収しながら、批判のための陳情、街頭宣伝、署名活動を展開した。これが奏功して凍結に至ったとすれば、政治的偏向のゆえに未だにビデオも非公開のままだ。これでよいとは思えない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マルクス・リニューアル 8 可能な選択肢? ドイツと日本の首相交代

2021-09-19 15:52:10 | 日記
A.資本主義に対抗するオルタナティブとは?
 20世紀後半、経済成長をひたすら追求する資本主義に対して、高い税をとる代わりに国民の健康・福祉・教育などっを幅広く提供する福祉国家という理念のもと、政府の公共性を強く打ち出す政策が、北欧や英国の社民政党が権力に就いて実現したといわれた。それが可能になったのも、それらの国で国民経済が成長し豊かな国だったからできたことも確かで、グローバル経済が行き詰って世界全体が低成長になると、福祉国家を維持するのも難しくなり、欧州の社民政党は権力の座から滑り落ちるようなことにもなる。ただ、国家による福祉だけではなく、もっと多様な選択肢があるということも言えなくはない。ここで挙げられているのは、ワーカーズ・コープなど協同組合的な試みで、現にあちこちで進められているという。

 「▼ワーカーズ・コープによる経済の民主化
 興味深いことに、近年、英国労働党などによって、ワーカーズ・コープや社会的所有の再評価が進んでいる。もちろん、それは、衰退する福祉国家に対するオルタナティブとして、である。
 20世紀の福祉国家は、富の再分配を目指したモデルであり、生産関係そのものには手をつけなかった。つまり、企業が上げた利潤を所得税や法人税という形で、社会全体に還元したのである。
 その裏では、労働組合は、生産力上昇のために資本による「包摂」を受け入れていった。資本に協力することで、再分配のためのパイを増やそうとしたのだ。その代償として、労働者たちの自律性は弱まっていった。
 資本による包摂を受け入れた労働組合とは対照的に、ワーカーズ・コープは生産関係そのものを変更することを目指す。労働者たちが、労働の現場に民主主義を持ち込むことで、競争を抑制し、開発、教育や配置換えについての意思決定を自分たちで行なう。事業を継続するための利益獲得を目指しはするものの、市場での短期的な利潤最大化や投機活動に投資が左右されることはない。
 力点は、「自分らしく働くこと」だ。ワーカーズ・コープでは、職業訓練と事業運営を通じて、地域社会へ還元していく「社会連帯経済」の促進を目指す。労働を通じて、地域の長期的な繁栄に重きを置いた投資を計画するのである。これは、生産領域そのものを〈コモン〉にすることで、経済を民主化する試みにほかならない。
 これは夢物語のように聞こえるだろうか。いや、必ずしも夢ではない。ワーカーズ・コープは、世界中に広がっている。スペインのモンドラゴン協同組合は歴史も古く、有名で、七万人以上の労働者が組合員として参加している。日本でも、介護、保育、林業、農業、清掃などの分野でワーカーズ・コープの活動は40年近く続いている。その規模は15000人以上だ。
 資本主義の牙城であるアメリカにおいてすらも、ワーカーズ・コープの発展が目覚ましい。オハイオ州クリーブランドのエバーグリーン協同組合、ニューヨーク州のバッファロー協同組合、ミシシッピ州のコーポレートジャクソンなど、住宅、エネルギー、食料、清掃などの問題に取り組む市民の活動がコミュニティを再生しようとしている。
 利潤優先の経済システムでは、清掃や調理や給仕などのエッセンシャル・ワークは、低賃金だ。そのせいで、こうした仕事はしばしば有色人種の女性に押しつけられ、コミュニティの分断を生み、最終的には、サービスの質の低下にもつながっている。悪循環である。
 だからこそ、協同組合は、エッセンシャル・ワークを自律的で、魅力的な仕事に変えることを目指す。さらに、賃金と雇用を改善し、人種・階級・ジェンダーによる分断を乗り越えてコミュニティ再生につなげていこうとするのである。
 もちろん、マルクスが指摘していたように、ワーカーズ・コープも一歩外に出れば、資本主義市場での競争に晒されてしまう。そのせいで、コストカットや効率化が優先されたり、儲け重視になってしまうこともある。それゆえ、最終的にはシステム全体を変えなくてはならない。けれども、貧困、差別、不平等を作り出す資本主義に抗して「誰も取り残されない」という観点から、協同組合が社会全体を変えていくひとつの基盤になることができるのは間違いない。
▼GDPとは異なる「ラディカルな潤沢さ」
 「(市民)営化」による電力ネットワークや協同組合は、ほんの一例にすぎない。教育や医療、インターネット、シェアリング・エコノミーなど「ラディカルな潤沢さ」を取り戻す可能背はいたるところに存在している。例えば、ウーバーを公有化して、プラットフォームを〈コモン〉にすればいい。新型コロナウイルスのワクチンや治療薬も、世界全体で〈コモン〉にすべきだろう。
 〈コモン〉を通じて人々は、市場にも、国家にも依存しない形で、社会における生産活動の水平的共同管理を広げていくことができる。その結果、これまで貨幣によって利用機会が制限されていた希少な財やサービスを、潤沢なものに転化していく。要するに、〈コモン〉が目指すのは、人工的希少性の領域を減らし、消費主義・物質主義から決別した「ラディカルな潤沢さ」を増やすことなのである。
 〈コモン〉の管理においては、必ずしも国家に依存しなくていいというのがポイントだ。水は地方自治体が管理できるし、電力や農地は、市民が管理できる。シェアリング・エコノミーはアプリの利用者たちが共同管理する。IT技術を駆使した「協同」プラットフォームを作るのだ。
「ラディカルな潤沢さ」が回復されるほど、商品化された領域が減っていく。そのため、GDPは減少していくだろう。脱成長だ。
 だが、そのことは、人々の生活が貧しくなることを意味しない。むしろ、現物給付の領域が増え、貨幣に依存しない領域が拡大することで、人々は労働への恒常的プレッシャーから徐々に解放されていく。その分だけ、人々は、より大きな自由時間を手に入れることができる。
 安定した生活を獲得することで、相互扶助への余裕が生まれ、消費主義的ではない活動への余地が生まれるはずだ。スポーツをしたり、ハイキングや園芸などで自然に触れたりする機会を増やすことができる。ギターを弾いたり、絵を描いたり、読書する余裕も生まれる。自ら厨房に立ち、家族や友人と食事をしながら、会話を楽しむこともできるようになるだろう。ボランティア活動や政治活動をする余裕も生まれる。消費する化石燃料エネルギーは減るが、こミュニティの社会的・文化的エネルギーは増大していく。
毎朝満員電車に詰め込まれ、コンビニの弁当やカップ麺をパソコンの前で食べながら、連日長時間働く生活に比べれば、はるかに豊かな人生だ。そのストレスを、オンライン・ショッピングや高濃度のアルコール飲料で解消しなくてもいい。自炊や運動の時間が取れるようになれば、健康状態も大幅に改善するに違いない。
私たちは経済成長からの恩恵を求めて、一生懸命に働きすぎた。一生懸命に働くのは、資本にとって非常に都合がいい。だが、希少性を本質にする資本主義の枠内で、豊かになることを目指しても、全員が豊かになることは不可能である。
だから、そんなシステムはやめてしまおう。そして脱成長で置き換えよう。その方法が「ラディカルな潤沢さ」を実現する脱成長コミュニズムである。そうすれば、人々の生活は経済成長に依存しなくても、より安定して豊かになる。1%の超富裕層と99%の私たちとの富の偏在を是正し、人工的希少性をなくしていくことで、社会は、これまでよりもずっと少ない労働時間で成立する。しかも、大多数の人々の生活の質は上昇する。さらに、無駄な労働が減ることで、最終的には、地球環境をも救うのだ。
▼脱成長コミュニズムが作る豊潤な経済
ここには、パラダイム・チェンジがある。第三章でも見たように、これまで脱成長は、清貧の思想にすぎないとして繰り返し批判されてきた。環境を守るために、皆が貧相な生活を耐え忍ばなければいけないのか、と。
だが、このような発言は、「経済成長の呪い」という資本主義のイデオロギーにとらわれすぎている。このイデオロギーは強固なので、もう一度重要な点を繰り返そう。
貧相な生活を耐え忍ぶことを強いる緊縮のシステムは、人工的希少性に依拠した資本主義の方である。私たちは、十分に生産していないから貧しいのではなく、資本主義が希少性を本質とするから、貧しいのだ。これが「価値と使用価値の対立」である。
この間の新自由主義の緊縮政策というのは、人工的希少性を増強するという意味で、資本主義にぴったりの政策であった。それに対して、潤沢さは、経済成長のパラダイムからの決別を求めていく。
「ラディカルな潤沢さ」を掲げる経済人類学者ジェイソン・ヒッケルも次のように述べている。「緊縮は成長を生み出すために希少性を求める一方で、脱成長は成長を不要にするために潤沢さを求める」
もう新自由主義には、終止符を打つべきだ。必要なのは、「反緊縮」である。だが、単に貨幣をばら撒くだけでは、新自由主義には対抗できても、資本主義に終止符を打つことはできない。
資本主義の人工的希少性に対する対抗策が、〈コモン〉の復権による「ラディカルな潤沢さ」の再建である。これこそ、脱成長コミュニズムが目指す「反緊縮」なのだ。
▼良い自由と悪い自由
 資本主義に終止符を打って、「ラディカルな潤沢さ」を復活させよう。そうすれば、その先に待っているのが、「自由」である。コミュニズムは、「平等」を優先して、「自由」を犠牲にするとしばしば誤解されるので、本省の最後に、自由について論じておきたい。
 もちろん、ここまで論じてきた「ラディカルな潤沢さ」は、「自由」の概念を再定義することを求める。非常に環境負荷の高いライフスタイルを「自由」の実現とみなす米国型資本主義の価値観とは、決別しなくてはならないのだ。
 たしかに、人間は本質的に自由であり、自分たちの住む社会の土台さえも破壊し、自滅の道を選ぶことができるのも、自由の現れである。だが、そのような自滅は「良い」自由ではない。「悪い」自由だ。
 この点について考えるために、少し長くなるが、『資本論』の自由についての、有名な一節を引用したい。

  自由の国は、事実、窮迫と外的な目的への適合性とによって規定される労働が存在しなくなるところで、はじめて始まる。したがってそれは、当然に、本来の物質的生産の領域の彼岸にある。(中略)この領域における自由は、ただ、社会化された人間、アソシエートした生産者たちが、自分たちと自然との物質代謝によって――盲目的な支配力としてのそれによって――支配されるのではなく、この自然との物質代謝を合理的に規制し、自分たちの共同の管理のもとにおくこと(中略)、この点にだけありうる。しかしそれでも、これはまだ依然として必然の国である。この国の彼岸において、それ自体が目的であるとされる人間の力の発達が、真の自由の国が――といっても、それはただ、自己の基礎としての右の必然の国の上にのみ開花しうるのであるが――始まる。労働日の短縮が根本条件である。

 この議論をベースに考えていこう。マルクスは「必然の国」と「自由の国」を分けている。「必然の国」とは、要するに、生きていくのに必要とされるさまざまな生産・消費活動の領域である。それに対して、「自由の国」とは、生存のために絶対的に必要ではなくとも、人間らしい活動を行うために求められる領域である。例えば、芸術、文化、友情や愛情、そしてスポーツなどである。
 マルクスは、この「自由の国」を拡大することを求めていた。いわば、この領域に広がっているのが、「良い」自由である。
 だが、そのことは、「必然の国」をなくしてしまうことを意味しない。人間にとって衣食住は欠かせないし、そのための生産活動も決してなくならない。「自由の国」は「必然の国の上にのみ開花」するのだ。
 ここで注意しなくてはならないが、そこで開花する「良い」自由とは、即物的で、個人主義的な消費主義に走ることではない。資本主義のおかげで、生活は豊かになっているように見える。だが、そこで追求されているのは、際限のない物質的欲求を満たすことである。食べ放題、シーズンことに捨てられる服、意味のないブランド化、すべては、「必然の国」における動物的欲求に縛られている。
 それに対して、マルクスの掲げる「自由の国」は、まさに、そのような物質的欲求から自由になるところで始まるのである。集団的で、文化的な活動の領域にこそ、人間的自由の本質があると、マルクスは考えていたのだ。
 だから、「自由の国」を拡張するためには、無限の成長だけを追い求め、人々を長時間労働と際限のない消費に駆り立てるシステムを解体しなくてはならない。たとえ、総量としては、これまでよりも少なくしか生産されなくても、全体としては幸福で、公正で、持続可能な社会に向けての「自己規制」を、自発的に行うべきなのである。闇雲に生産力を上げるのではなく、自制によって「必然の国」を縮小していくことが、「自由の国」の拡大につながるのだ。」斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社新書、2020,pp.262-273. 

 昨日、日本記者クラブでの自民党総裁選挙に立つ4候補の討論会というのをTV中継していたので、見てしまった。4候補の主張や構想に多少の違いはあるものの、コロナ対策、年金制度改革、核燃サイクル、改憲などの問題にさほど違いがあるはずもなく、誰になったにしろ自民党が掲げてきた政策の基本に変わりはない。そして、かつて60年代に安倍晋三前首相の祖父、岸首相の日米安保と改憲路線で緊張を高めた政権が終ったあと、所得倍増政策など経済成長路線を推進した池田勇人の派閥・宏池会を継ぐ岸田文雄氏は、アベノミクスではない形で経済成長の力強い復活を目指すと強調した。自民党には結局、すべての問題を解決するには経済成長以外にはない、という固定観念が固着している。オルタナティヴはない、という前提は、かつての破綻した社会主義のみならず、西欧社民の福祉国家路線も「大きな政府」の失敗としてしか見ていないのだろう。だが、自民党に任せている限り、この国の未来は開けてはこないと思うが、立憲民主党はじめ野党各党も、経済成長の追求以外の選択肢は出せないのは、オルタナティブにはなっていない、ということになる。何が必要か、まだ道は遠い。


B.日独の戦後
 今月末、ドイツで総選挙が予定され、メルケル首相は引退するので、新しい首相が誰になるのか、ドイツでどんな政権ができるのか、まだ見えてこない。ちょうど、日本も政権交代はないだろうが、首相の退陣と総選挙が近く予定される。一つの変わり目が、コロナ禍の収束と並行して進んでいくのだろう。第2次大戦後の世界で、敗戦国として武力に頼らない奇跡の復興を遂げたといわれたドイツと日本。冷戦時代の分断国家を統一してさらなる発展を遂げたドイツに比べ、アメリカにどこまでも寄りそって経済発展に賭けた日本は、似たところもあるけれど、だいぶ違う側面もあると、あの「ベルリンの壁」を現地で体験したぼくには思える。

 「日曜に想う 武器なき外交 ドイツの壁 :ヨーロッパ総局長  国末 憲人 
 大国の外交は、時に恫喝もいとわない世界である。強硬手段をちらつかせ、場合によっては実際に武力を行使する。こうしたこわもてと柔軟さを織り交ぜつつ、国益と影響力の確保を図る。
 しかし、第2次大戦の敗戦国はその後、他国との交渉で軍事力に頼らない道を選んだ。日本であり、ドイツである。
 「二度と戦争は起こせない。それが戦後ドイツ外交の原則です。『接近による変化』の方針はそこから生まれました」
 ベルリンで会った外交専門誌「オストオイロッパ(東欧)」のフォルカー・ワイクセル編集長(47)はこう説明した。
「接近による変化」とは、敵対する陣営と緊密な関係を結ぶことで相手の変革を促す手法である。冷戦期西ドイツの対東ドイツ、対東欧政策として始まり、1989年の「ベルリンの壁」崩壊後は旧共産圏の民主化支援に引き継がれた。経済面での結びつきを強め、ともに利益を得つつ、人権意識や法支配の概念を浸透させる――。その旗印の下、自動車産業を中心とする製造業が、ドイツから旧東欧諸国に次々と進出した。
 欧州連合(EU)内で「一人勝ち」とうらやまれる現在の繁栄ぶりからは想像しがたいが、90年の東西統一から十余年間、ドイツは「欧州の病人」と呼ばれ、経常赤字や高失業率に苦しみ続けた。なのに、2000年代に急回復した理由の一つは、安い労働力と高い教育水準を誇る旧東欧との連携が軌道に乗ったからだ。旧東欧側も順調に改革を進め、04年には一斉にEU加盟を果たした。
 「これは、成功体験としてドイツ人の胸に刻まれました」とワイクセル氏はいう。メルケル氏が首相に就任したのは、そのような発展の素地がすでに整った翌05年だった。
 ドイツは、さらに東のロシアや中国にも、類似の処方箋を試みた。経済面で協力しつつ相手の変化を誘う「貿易による変化」である。ドイツは、ロシアと共同で天然ガスパイプライン事業「ノルドストリーム2」の整備を推進した。中国とも、新疆ウイグル自治区で独自動車工場を稼働させるなどで、交流を深めた。
 「緊密にすればするほど相手の社会が影響を受け、政治も変わる。私たちはそう期待しました。ロシアでは独技術の導入で近代化が進み、中国では経済発展の結果生まれる中間層が自由化や民主化を推進するはずでした」と、ドイツ国際政治安全保障研究所のカイオロフ・ランク主任研究員(54)は振り返る。
 「しかし、そうはならなかった」
 2010年代に入って中ロの政権は急速に強権化し、民主化は大きく後退した。人権重視を掲げる米バイデン政権が中ロと対立するだけに、両国への厳しい対応をためらうドイツは「利益優先では」との批判にさらされた。
 問題は対中ロにとどまらない。一度は変革に成功したはずの旧東欧でも、ハンガリーやポーランドでは権威主義政権が今、幅を利かし、自由が大幅に制限されている。独国内でさえ、旧東独地域では右翼「ドイツのための選択肢」(AfD)への支持が広がった。「貿易による変化」のみならず、「接近による変化」も行き詰りを見せる。
 ドイツ黄金期の16年間を率いたメルケル首相は、26日の総選挙を受けて誕生する新首相に業務を委ね、引退する。その日を前に、同氏は達成感よりも挫折感を味わっているかもしれない。
 翻って、日本はどうか。アジア諸国との関係ではやはり、企業進出を含めて経済面でのつながりを強め、相手国の社会の成長を支える姿勢を採った。その多くが実を結んだ一方で、軍事的脅威と化しつつある中国、民主化が頓挫したミャンマーなど、苦い例もある。
武器を手にしない国として、この現実を前に日独はどう振る舞えばいいのか。
たぶん今は、緊密な関係に固執せず、相手の姿を冷静に見つめるときなのだろう。なぜ我らとは異なる道を歩むのか、距離を置いてこそ、背景が浮かび上がる。これからの付き合い方のヒントも、そこに潜んでいるかも知れない。」朝日新聞2021年9月19日朝刊3面総合欄。

80年代から日本でも、「世界への貢献」を積極的に推進するのが先進国の役割だ、それには途上国にお金を出すだけではなく、実力の背景に軍事力も必要だというような言説もちらほら出てきた。自衛隊の海外派遣が行われ、防衛力の整備という名目で年々防衛費が増額されるのは、安倍政権で顕著になった。しかし、そのお金は税金なのだから、どこにどのように使うことが真の意味で「世界への貢献」なのかは、ぼくたち国民がよく考えるできたし、今もどんどん国民から借金して将来世代につけを廻している政治には、歯止めをかけないといけない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マルクス・リニューアル 7 労働の意味  追悼2人

2021-09-16 13:08:08 | 日記
A.労働と希少性
 マルクスの経済理論の基礎は「労働価値説」にあるとされてきた。商品の価値を決めるのはその生産に携わった人間の労働にあるという労働価値説は、古典派経済学のリカードーやアダム・スミスから始まり、マルクスにいたって剰余価値を求める資本による労働者の搾取・収奪を理論化する。これは、「効用」をキー概念とする近代経済学の限界効用理論では、労働価値説は、市場において商品の価値を左右する複数の生産要素のなかで、労働を特に重視したものとみて、むしろ交換によって価値が決まると考えることになる。『人新世の資本論』では、これを資本主義が推進した広範な「希少性」による「使用価値」の操作的な喪失、歴史的に見ればかつて人々の生活に確保されていた〈コモン〉の解体という形で読み直す。

 「▼現代の労働者は奴隷と同じ
 さて、コモンズの解体がもたらす希少性について、もう少し見ていこう。
 コモンズを失った人々は、商品世界に投げ込まれる。そこで、直面するのは、「貨幣の希少性」である。世の中には商品が溢れている。けれども、貨幣がなければ、私たちはなにも買うことができない。貨幣があればなんでも手に入れられるが、貨幣を手に入れる方法は非常に限られており、常に欠乏状態である。だから、生きるために、私たちは貨幣を必死で追い求める。
 かつて、人間は一日のうち数時間働いて、必要なものが手に入れば、あとはのんびりしていた。昼寝をしたり、遊んだり、語り合ったりしていたのだ。ところが、いまや、貨幣を手に入れるために、他人の命令のもとで、長時間働かなくてはならない。時は金なり。時間は一分一秒であっても無駄にできない、希少なものになっていく。
 資本主義に生きる労働者のあり方を、マルクスはしばしば「奴隷制」と呼んでいた。意志にかかわりなく、暇もなく、延々と働くという点では、労働者も奴隷も同じなのである。いや、現代の労働者の方が酷い場合すらある。古代の奴隷には、生存保障があった。替えの奴隷を見つけるのも大変だったため、大事にされた。
 それに対して、資本主義のもとでの労働者たちの代わりはいくらでもいる。労働者は、首になって、仕事が見つからなければ、究極的には飢え死にしてしまう。
 マルクスはこの不安定さを「絶対的貧困」と呼んだ。「絶対的貧困」という表現には、資本主義が恒久的な欠乏と希少性を生み出すシステムであることが凝縮されている。本書の言葉を使えば、「絶対的希少性」が貧困の原因である。
▼負債という権力
 資本がその支配を完成させる、もう一つの人工的希少性がある。それが「負債」によって引き起こされる貨幣の希少性の増大である。無限に欲望をかきたてる資本主義のもとでの消費の過程で、人々は豊かになるどころか、借金を背負うのである。そして、負債を背負うことで、人々は従順な労働者として、つまり資本主義の駒として仕えることを強制される。
 その最たる例が、住宅ローンだろう。住宅ローンは、額が大きい分、規律権力としての力が強い。膨大な額の三〇年にもわたるローンを抱えた人々は、その負債を返すべく、ますます長い時間働かなくてはならない。借金を返すために、人々は資本主義の勤労倫理を内面化していく。残業代を得るために長時間働いて、出世のために家族を犠牲にするのだ。
 場合によっては、共働きでも足りずに、昼夜にまたがるダブルワークをしなくてはいけないかもしれない。あるいは、食べたいものを我慢して、もやし炒めや具なしのトマトソース・スパゲッティを食べながら、節約をする。もはや、何のための生活なのかわからなくなるような人生を送る羽目になる。快適な生活のために家を買ったはずなのに、負債が人間を賃金奴隷にし、その生活を破壊していく。
 もちろん、労働者が勤勉なのは、資本にとっては好都合だ。他方で、長時間労働は、本来必要ではないものの過剰生産につながり、その分だけ環境を破壊していく。長時間労働は家事や修理のための余裕を奪い、生活はますます商品に依存するようになっていく。
 このように、資本は「人工的希少性」を生み出しながら発展する。「価値と使用価値の対立」が続く限り、いくら経済成長をしても、その恩恵が社会の隅々にまで浸透することはない。むしろ、人々の生活の質や満足度は下がっていく。これこそまさに、私たちが日々経験している事態なのである。
▼ブランド化と広告が生む総体的希少性
 さらに、生活の質や満足度を下げる希少性は、消費の次元にもある。人々を無限の労働に駆り立てたら、大量の商品ができる。だから今度は、人々を無限の労働に駆り立てたら、大量の商品ができる。だから今度は、人々を無限の消費に駆り立てねばならない。
 無限の消費に駆り立てるひとつの方法が、ブランド化だ。広告はロゴやブランドイメージに特別な意味を付与し、人々に必要のないものに本来の価値以上の値段をつけて買わせようとするのである。
 その結果、実質的な「使用価値」(有用性)にはまったく違いのない商品に、ブランド化によって新規性が付け加えられていく。そして、ありふれた物が唯一無二の「魅力的な」商品に変貌する。これこそ、似たような商品が必要以上に溢れている時代に、希少性を人工的に生み出す方法である。
 希少性という観点から見れば、ブランド化は「相対的希少性」を作り出すといってもいい。差異化することで、他人よりも高い社会的ステータスを得ようとするのである。
 例えば、みんながフェラーリやロレックスを持っていたらスズキの軽自動車やカシオの時計と変わらなくなってしまう。フェラーリの社会的ステータスは、他人が持っていないという希少性にすぎないのだ。逆にいえば、時計としての「使用価値」は、ロレックスもカシオもまったく変わらないということである。
 ところが、相対的希少性は終わりなき競争を生む。自分より良いものを持っている人はインスタグラムを開けばいくらでもいるし、買ったものもすぐに新モデルの発売によって古びてしまう。消費者の理想はけっして実現されない。私たちの欲望や感性も資本によって包摂され、変容させられてしまうのである。
 こうして、人々は、理想の姿、夢、憧れを得ようと、モノを絶えず購入するために労働へと駆り立てられ、また消費する。その過程に終わりはない。消費主義社会は、商品が約束する理想が失敗することを織り込むことによってのみ、人々を絶えざる消費に駆り立てることができる。「満たされない」という希少性の感覚こそが、資本主義の原動力なのである。だが、それでは、人々は一向に幸せになれない。
 しかも、この無意味なブランド化や広告にかかるコストはとてつもなく大きい。マーケティング産業は、食糧とエネルギーに次いで世界第三の産業になっている。商品価格に占めるパッケージングの費用は10~40%といわれており、化粧品の場合、商品そのものを作るよりも、三倍もの費用をかけている場合もあるという。そして、魅力的なパッケージ・デザインのために、大量のプラスティックが使い捨てられる。だが、商品そのものの「使用価値」は、結局、何も変わらないのである。
 果たして、この悪循環から逃れる道はないのだろうか。この悪循環は希少性のせいである。だから、資本主義の人工的希少性に抗する、潤沢な社会を想像する必要がある。それがマルクスの脱成長コミュニズムなのだ。
▼〈コモン〉を取り戻すのがコミュニズム
 マルクスによれば、コミュニズムとは「否定の否定」であった(143頁参照)。一度目の否定は、資本によるコモンズの解体である。それをさらに否定するコミュニズムは、コモンズを再建し、「ラディカルな潤沢さ』を回復することを目指す。資本主義は、自らのために「人工的希少性」を生み出す。だからこそ、潤沢さこそが資本主義の天敵なのである。
 そして、潤沢さを回復するための方法が、〈コモン〉の再建である。そう、資本主義を乗り越えて、「ラディカルな潤沢さ』を21世紀に実現するのは、〈コモン〉なのだ。
 ここでは、〈コモン〉を潤沢さとの関係で具体的に説明した方が、イメージしやすいかもしれない。繰り返せば、〈コモン〉のポイントは、人々が生産手段を自立的・水平的に共同管理するという点である。
 例えば、電力は〈コモン〉であるべきである。なぜなら、現代人は電気なしには生きていくことができないからだ。水と同じように、電力は「人権」として保障されなくてはならないのであり、市場に任せてしまうわけにはいかない。市場は、貨幣を持たない人に、電機の利用権を与えないからである。
 ただ、だからといって、国有化すればいいわけではない。なぜ国有ではダメかといえば、電力を国有にしたところで、原子力発電のような閉鎖的技術が導入されてしまっては、安全性にも問題が残るからである。また、火力発電も、しばしば貧困層やマイノリティが住む地域へと押しつけられ、大気汚染が近隣住民の健康を脅かしてきた。
 それに対して、〈コモン〉は、電力の管理を市民が取り戻すことを目指す。市民が参加しやすく、持続可能なエネルギーの管理方法を生み出す実践が〈コモン〉なのである。その一例が市民電力やエネルギー協同組合による再生可能エネルギーの普及である。これを「民営化」をもじって、市民の手による再生可能エネルギーの普及である。これを「民営化」をもじって、市民の手による「〈市民〉営化」と呼ぼう。
▼〈コモン〉の「〈市民〉営化」
 ここでのポイントは、原子力や火力発電とは異なり、太陽光や風力は排他的所有となじまないということだ。太陽光や風力は、ラディカルな潤沢さをもつ。実際、無限で、無償なのだ。それゆえ、石油やウランとは異なり、どこでも、誰でも、比較的廉価に発電を開始・管理することができる。第五章で紹介したゴルツの分類に従えば、再生可能エネルギーは「開放的技術」なのである。
 しかし、この事実は資本にとって致命的である。太陽光のようにエネルギー源が分散化していて、独占ができない場合には、希少性を作り出せない。その結果、貨幣化することが著しく困難になる。
 こうして、資本主義にとってのジレンマが生じる。希少性を作り出すことの困難さは、儲けが出ないことを意味するからだ。そのことが、市場経済のもとでは、再生可能エネルギーへの企業参加が遅々として進まないことの原因になってしまうのである。ここには、「資本の希少性」と「コモンの潤沢さ」の対立がある。
 だからこそ、再生可能エネルギ-の普及には、「〈シモン〉営化」が不可欠なのである。分散型の特性を逆手にとって、営利目的ではない、小規模の民主的な管理に適した電力ネットワークを構築するチャンスなのである。
 実際、そのような「〈市民〉営化」の試みは、これまでもデンマークやドイツで進められてきた。そして、近年では、日本でも非営利型の市民電力が広がりを見せている。福島原発事故後に、市民が市議会に働きかけ、私募債やぐり-ン債で資金を集め、耕作放棄地に太陽光パネルを設置するなど、地産地消の発電を行う事例が増えているのである。
 エネルギーが地産地消になっていけば、電気代として支払われるお金は地元に落ちる。営利目的ではないため、収益は地域コミュニティの活性化のために使うことができる。そうすれば、市民は、自分たちの生活を改善してくれる〈コモン〉により関心をもち、より積極的に参加するようになる。
 このような循環が生まれれば、地域の環境・経済・社会は相乗効果によって活性化していく。これはまさに、〈コモン〉による持続可能な経済への移行にほかならない。」斎藤幸平『「人新世」の資本論』集英社新書、2020年、pp.252-261. 

 今のぼくたちの生活が、いかに貨幣と市場にすみずみまで支配されているかは、マルクスの生きていた時代よりも遥かに高度に希少性が浸透している。しかしそれでも、〈コモン〉の領域が消えるわけではないし、これを再建する試みがないわけではない。ただそれは、個人的な努力や心がけで変わるほど容易なことではない。だからコミュニズムが必要だというわけですな。


B..喪失の悲しみ 色川大吉とヴェルモンド
 毎日誰かがこの世を去っているのだろうし、親しい人であれば深い悲しみが襲うはずだ。だが、面識もなく、ただその人のやりとげた仕事でのみ著名であった人の死は、別の意味で自分の中にある時代の輝きを蘇らせて、なんともいえない感慨が沸く。自分もやがてあの世に行く日がくることは、誰もが知っているが、それがいつなのかは普通は予測できない。

 「追悼・色川大吉さん  鎌田 慧 
 経済評論家の内橋克人さんが亡くなり、歴史家の色川大吉さんが亡くなった。尊敬する人たちの他界は、身に堪える。
 九十六歳だっ色川さんは昨年十月、『不知火海民衆史』を上梓した。上下六百頁以上に及ぶ浩瀚な一書。「いま九十五歳の私がこだわるのは、四十年経っても、あの通いつめた日々が朽ちない価値を持っていると、信じているからである」
 この序文の言葉は、ノスタルジアではない。水俣病を広めるために調査団を組織し十年間通って調査した事実を、さらにいま死を前にして記録に残す。歴史家の矜持といえる。正史よりも民衆のこころに刻み込まれた思想を繋ぐ「民衆史」の確立が色川さんの主張であり実践だった。
 情感は一九五九年、多くの逮捕者をだした「水俣漁民暴動」を聞き書きで掘り起こした詳細な記録からはじまっている。自由民権運動、秩父困民党、足尾銅山と谷中村闘争、成田空港に反対する農民闘争をテーマにしてきた色川さんの魂がこもっている。下巻は水俣病患者の聞き書きである。
 色川さんとの出会いは早世した独文学者の鈴木武樹明大教授とわたしとの三人で成田闘争の応援にいったとき。「そのころの闘魂、車椅子生活になっても失っておりません。夢ではよく△△の蹶起大会に参加しています」と今年二月書き送ってきた。ロマンチストだった。(ルポライター)」東京新聞2021年9月14日朝刊21面、本音のコラム。 
 
 五日市憲法の発見はこの人の仕事とされるが、それが自由民権運動と民衆のデモクラティックな社会意識という文脈で読まれたことも、色川さんの主張に導かれた。でも、五日市憲法の中身には、天皇制への憧憬もあって、少し違った読み方もできるかもしれない。もうひとり、ベルモンド。

 「フランス映画界を代表する名優、ジャンポール・ベルモンドが六日、パリで逝去した。八十八歳と知ってもうそんなになっていたのかと感慨深い。国を挙げての追悼式典が行われた。
 名作は数多いが、何と言ってもヌーベルバーグの記念碑となった、ゴダール監督の「勝手にしやがれ」(1960年)にとどめを刺すだろう。
 原題とは異なるが、作品中の台詞を使った見事な邦題である。実際、映画史を知らずとも何度見ても面白い。
 アクションスターとしても活躍したように、エネルギッシュなイメージのベルモンドだが、魅力の鍵はその中に秘められた知性だろう。アラン・ドロンの美形とは違う。フランス的なエスプリのスターだった。
 そして面白いのは、一見マッチョだが、実は女性優位の状況で破滅して行く男性がはまり役だったことである。「勝手にしやがれ」のミシェルも、「気狂いピエロ」のフェルディナンも、『暗くなるまでこの恋を』のルイもそうした人物だった。それはフミニズムともまた微妙に異なる位相にあるのだが、興味深いテーマではないだろうか。
 「君は最低だ」と言ってミシェルは死んで行ったが、現実のジャンポール、あなたは最高だった。 (栗)」東京新聞2021年9月13日夕刊、5面大波小波。
 
 ゴダールの「勝手にしやがれ」の原題は、À bout de souffleで、フランス語では「息せき切って」という程度の意味。これを、「勝手にしやがれ」としたのは映画中のベルモンドのセリフにあったからとはいえ、秀逸だ。映画の中でベルモンドはほとんどいつもタバコを口に咥えている。そしてひっきりなしに喋っている。主人公は警察に負われる犯罪者なのに、疚しさも恐怖も無縁にただ愉快に遊んでいる風情で、最後にジーン・セバーグに密告されて路上で死ぬ。あらゆる意味で、それまでにない映画。追悼。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする