gooブログはじめました!

写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

星の王子さま・・原文は小さな王子! 立憲的改憲論。

2018-02-28 01:59:57 | 日記
A.サン=テグジュペリの戦争
 「星の王子さま」Le Petit Princeは、フランスの飛行家にして作家サン=テグジュペリ(Antoine Marie Jean-Baptiste Roger, comte de Saint-Exupéry、1900年6月 - 1944年7月)の書いた小説。第二次世界大戦中の1943年にフランス語で書かれ、アメリカで出版された。挿絵も作者が描いている。2015年現在、初版以来、200以上の国と地域の言葉に翻訳され、世界中で総販売部数1億5千万冊を超えたロングベストセラーである。砂漠、星、宇宙、そして飛行機。
 宮崎駿の「紅の豚」というアニメ作品があるが、飛行機という乗り物が現われてしばらく、空を飛び回る飛行機乗りは、いつ死んでもおかしくないほど危なっかしい、それ故に大いなる冒険とロマンに満ちた仕事だったことがよく解る。その英雄のような男が、夢のような小説を書いたのだから、これに魅了される読者は世界中にいるだろうし、日本でも何度か「星の王子さま」のブームが起き、亡くなった三遊亭円楽師匠は自ら「星の王子さま」を自称した。
 物語の中の少年王子は、いろんな星を経めぐり、愚かな人々を眺めて最後に地球に来て砂漠に墜落した飛行士と出会う。大人でありながら少年の無垢で理想的な心を強く印象づけられ、気がつくと王子はまたどこかの星に向かって消えている。この寓意に満ちた世界は、日本の東北にいた宮沢賢治(1896年8月 - 1933年9月)とも通底するファンタジー・ロマンではないか。サン=テグジュペリより少し年上の宮沢賢治は、飛行機には乗らなかったが、銀河鉄道というアイディアでやはり星に向かう。

「アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは、しばしば遍歴の騎士と呼ばれた。だが、かれが騎士道的理想を生きたその道は、あくまでも二十世紀そのものであった。サン=テグジュペリとともに、われわれは新しい経験世界を見出す。これまでにわれわれが考察してきた人びとはみな、第一次世界大戦が勃発したときもう成熟した人であった。かれらが作品を発表し名声をえた時代は戦後であったが、彼らの精神は、それに先立つ長い平和の間に形成された。そして、かれらは、かれらが投げ込まれた激動の時代をあくまで異常なものと考えた。サン=テグジュペリとかれよりさらに若いものたちの場合は、その激動は、与えられた人間の条件と思われた。過去への郷愁など問題ではなかった。いまや問題は、破滅から救いうる人間的価値があれば何であれ、救い上げ、定義しなおすことであった。
 サン=テグジュペリは、ベルナノスよりもわずか十二歳年下であったが――かれは一九〇〇年に生れた――、ちがった精神的世代に属していた。つまり、従軍経験をもつには若すぎたものたちの世代である。もう一歳か二歳年をとっていたら、サン=テグジュペリは、おそらく欣然と兵役に志願していたであろう。彼の祖先は貴族であった。かれは、カトリックの優秀校で、男らしさと自己鍛錬の高潔な考え方をもつように教育された。そして、信仰は失ったものの、その宗教教育から明らかにキリスト教に発する英雄主義の理想をもちつづけた。かれのはじめの志望はフランス海軍兵学校に入ることだった。それから、その入学試験に失敗して、建築の勉強をはじめた――それは一時的な興味ではあったが、かれの思想に消えぬ痕跡を残したものであった。一九二〇年代のはじめに、かれは飛行機操縦をはじめた。これにかれは自分に一番適した職業を見出した。そして、二十年後の死に至るまで、途中短い間他の職についたが、ずっと飛行士であった。
 サン=テグジュペリが商業飛行士になったとき、飛行機はまだ日常茶飯のものではなかった。実際、かれや仲間たちがパイロットになることを選ぶことは、ブルジョワ社会の安穏と退屈から脱出することであった。かれらは必然的にパイオニア、冒険家であり、後の世代が当たり前のことと考えている航空路を、はじめて設定したひとびとであった。はじめ西部アフリカで、のちには南アメリカで、サン=テグジュペリは、日々の仕事として生命を賭けた。彼は二度墜落し、友人のメルモスは別の墜落事故で死んだ。このような危険と、それを乗り越える高揚した気分は、かれの書物の主題となった。そのうち、一九三一年に刊行されてかれの名声を確立した『夜間飛行』を含む二冊だけが、小説と呼ばれうるものであった。その他のものは僚友愛と孤独の、砂漠と山岳とエキゾティクな情景の、さらには、今までの世代の作家が誰も見たことのなかった雲の上の地上にはない風景の回想であった。
 第二次世界大戦は、サン=テグジュペリに、祖国のために飛ぶ機会を与えた。一九四〇年の敗北のあと、かれはニューヨークに赴き、そこで二年以上を執筆と焦燥を癒すのに費した。連合軍が北アフリカに上陸するとともに、かれは戦闘に戻る機会を摑んだ。年をとりすぎ、また以前の負傷のために身体が固くなって、かれは助けなしには操縦席につけなかったが、それでも上官が渋々許した割当て以上の任務につくことを主張した。かれは、かれの飛行中隊で誰も押えのきかぬものになった。死に挑戦することだけを考えている人間だけがかれと同じくらい頑固になりえたであろう。かれの最期となった飛行は一九四四年六月も末のことであった。それはマルク・ブロックの処刑の六週間後のことであり、またフランスの解放が確定的となったちょうどそのときであった。
 サン=テグジュペリの飛行機がコルシカ北方に消えたとき――その機体も彼の遺体も発見されずじまいであった――、かれの死に方は、かれが送った生にふさわしいものに思えた。だが、実際には、かれは、マルタン・デュ・ガールを氷のような恐怖でとらえ、ベルナノスの宗教的信仰を養い、マルローのような人間に自分の勇気を確かめるためにあえて危険に身をさらすことをさせたあの死への耽溺を決して育んでいたのではなかった。サン=テグジュペリにあっては、生命を賭けることは、単に仕事の一部なのであった。かれは、死を美化もしなければ、行動の事歴をそれだけで讃美もしなかった。危険は、充分に遂行される任務に避け難く伴うものにすぎなかった。
 自分の職業に対するこの事務的な二十世紀的技術家の態度は、少なくともサン=テグジュペリが自分のものとしていたものだった。だが、それだけのことだとしても、なぜかれはこんなにも危険な職業を選んだのだろうか。飛行機の操縦で彼の心を惹いたものは、それがひき出す特別な精神心的努力、人間の規範をのりこえる諸々の可能性であった。ベルナノスにとってと同様かれにとっても、人類の凡庸さなどはほとんど存在しなかった「人間は、こねまわして形をつくるべき蠟の塊りにすぎなかった」。たとえ残酷な犠牲を払っても、「この死んだ素材に魂を与え、意志力を注入すべき」なのであった。そこで、サン=テグジュペリは、かれの上官のドーラについて書いた。それは『夜間飛行』の実際の主人公であり、新しい飛行勤務の必要を人間性に優先させ、パイロットに悪天候下の飛行を命ずることで死に送りこむのを義務と心得る人物であった。同じ尊敬の心をもって、サン=テグジュペリは、アンデス山脈の高地に不時着した友人のギョーメが、ついに救助されて救助隊員に「誓っていうが、ぼくがやってきたことはどんな動物だってやれやしないよ」と語るまで、五日四晩雪と氷とどのように闘ったかを物語った――かれは、この言葉を今まで聞いた「もっとも気高い文章」と考えたのである。」スチュアート・ヒューズ『ふさがれた道 失意の時代のフランス社会思想 1930-1960』荒川幾男・生松敬三訳、1970.みすず書房 pp.88-90.

 二十世紀の新しいヒーローは、書斎に籠った蒼白い読書家ではなく、誰よりも行動的な冒険家であり、同時に時代に対して明確な思想的スタンスを貫き、美しい言葉を紡ぎ出す無垢な精神をもった文筆家でもあるような人間だった。だとすれば、二一世紀のヒーローは、どのような人間なのか?



B.立憲的改憲論のひとつの視点
 安倍政権がここぞと実現を賭ける憲法の改悪に、日本国民はどう対処するのか?彼らが最終的に目指していることは分かっている。現行憲法は敗戦日本を占領したアメリカに押しつけられた不本意な憲法で、独立国としての主権の根拠のひとつである軍事力を9条の規定によって否定されている。それを朝鮮戦争で米軍が動きやすいように、日本も自衛権はあるという論理で「軍隊ではない自衛隊」を作った。これは再軍備だという声を抑えるために、憲法解釈を「日本の領土防衛」に限定するという理屈で凌いできた。幸い戦後70年、日本は戦争の当事国にならなかったし、自衛隊が戦争をすることもなかった。しかしそれは日本に武力攻撃をかける可能性のある国、たとえばソ連や北朝鮮が冒険を犯さない国際的な条件がなんとか機能しただけで、なによりも米軍の駐留と「核の傘」があったからだ、という見方を80%否定はできない。しかし、それで今の憲法を変えるやむをえぬ必要があるかといえば、ぼくはどう考えてもないと思う。
  専守防衛と日米同盟は定着した環境で、自衛隊をなくせという意見はごく少数にとどまる。9条の規定との論理的な整合性は、かなり怪しいと分かった上で、日本が米軍と一体化して世界の紛争に軍事的介入を行なうことなど、それこそ初めから想定外だった。それをやったら、自衛隊が存立する前提条件が崩壊してしまう。しかし、それを集団的自衛権を認める安保法制の解釈改憲で、安倍政権は踏み破ってしまった。このことの意味を多くの日本国民は、理解していない。すでに世界有数の軍事力を有する自衛隊を、こんどこそ改憲によって安倍政権は交戦権を発揮する日本軍に変えようと願っている。その理念は「美しい国、輝かしい国ニッポン!」を回復するのだと意気込み、君主国家大日本帝国をもう一度出現させたいのだろう。それはあまりに歴史と時間を逆戻しする無茶な妄想である。

「解釈の歪曲 止めるために:立憲的改憲論   中島 岳志
 安倍内閣の最大の問題は、先人たちが共有してきた慣習や常識を平気で破ることである。安倍内閣は、内閣法制局長官について政権の意向に沿った人事を行い、集団的自衛権を認める解釈改憲を行なった。憲法五三条の要件を満たしているにもかかわらず、強引な解釈によって臨時国会召集要求を無視した。これらは明文化されずとも「やってはいけないこと」と認識されてきた。政治家たちは慣習への信頼を共有してきた。
 日本国憲法はかなり短く、解釈の余地が大きい。だから、成文化されない部分は、年月をかけて確認されてきた解釈の蓄積を重視してきた。憲法の短さを不文律の合意や慣習によって保管してきたのである。
 現政権は、歴史の風雪に耐えてきた解釈の体系を強引に変えてしまう。共有されてきたルールを守らない。慣習を重んじるはずの保守派が、平気で慣習をないがしろにする。過去の蓄積に対する畏敬の念を欠如させている。
 このような政治の劣化に対応するためには、何をなすべきか。どうすれば慣習破壊の暴走を食い止められるのか。
 真剣に検討しなければならないのが、「長い憲法」への漸進的移行である。これまで不文律の合意として共有してきたものを、しっかりと成文化し、明確な歯止めをかける。日本はもうその段階にきているのではないか。
 この点で、山尾志桜里・衆議院議員が提起する「立憲的改憲」論は重要な意味を持っている。「立憲的憲法改正のスタートラインとは」(WEB RONZA 2017年12月26日)で山尾が問題視するのは、日本国憲法の「規律密度」の低さである。日本国憲法は分量が短いため、歯止め機能が不十分である。そのため「その行間を埋めてきた憲法解釈を逆手にとって解釈を恣意的に歪曲するタイプの政権に対して、その統制力が弱い」。だから規律密度を高める改正が必要である。
 山尾が提起するのは、個別的自衛権を明文化し、その範囲を限定する憲法改正だ。集団的自衛権は認めない。「国会・内閣・司法、さらには財政面からなどのコントロール」を検討し、憲法による自衛権の制限を明確にする。さらに、憲法裁判所を設置し、恣意的憲法解釈を是正する手段を確保する。
 このような改正は、安倍内閣が進めようとしている「自衛隊明記」とは根本的に異なる。安倍改憲は「歯止めなき自衛権の根拠規定を憲法に新設すること」であり、断じて認められない。「憲法による自衛権統制規範力をゼロにするものであって、グロテスクな『最悪の憲法改悪』として拒絶する。
 この議論に賛意を示すのが、伊勢崎賢治である。彼は安倍改憲を批判するとともに、護憲派のごまかしについてもメスを入れる。「憲法9条を先進的だと思ってる日本人が、根本的に誤解していること」(WEB現代ビジネス2月6日)では、護憲のための解釈改憲を厳しく批判する。
 現状において、個別的自衛権は憲法上、認められている。日本は他国からの攻撃に対して応戦する権利を有している。この自衛権の行使は、戦争にほかならない。
 戦争では、国際人道法違反としての「戦争犯罪」が生じることを想定しなければならない。しかし、日本には戦争犯罪を扱う法体系が整備されていない。「自らが侵す戦争犯罪への対処を、想定すらしない」
 なぜか、それは、自衛隊を軍隊と見なしてこなかったからだ。軍隊でない以上、軍司法制度は必要ない。そう見なされてきた。
 この重大な瑕疵こそ非人道的であると、伊勢崎は主張する。日本はジブチに自衛隊を駐留させ、地位協定を結んでいる。自衛隊が公務内外で起こす事故について、その裁判権をジブチ政府に放棄させている。にもかからわず、過失を扱う法整備がなされていない。「これは詐欺である。極めて、非人道的な詐欺である」
 なぜこんなことが放置されてきたのか。それは「戦後ずっと、アメリカの軍事的管理下にあったこと」と深くかかわっている。日本は地位協定を一度も改定せず、「世界で唯一、平和時において軍事的主権をアメリカに委ねたままの親米保護国」である。だから、自分たちで軍事的責任を負うことを想定してこなかった。この対米従属こそ、非人道的な「詐欺」に無頓着な状況を産み出している。
 対米追随を強化すると同時に、立憲主義や不文律のルールをないがしろにする安倍内閣は、どう考えても危険である。国民による歯止めをかけるためには、立憲的改憲と地位協定改定をしっかりと議論の俎上にのせるべきではないか。「護憲」対「改憲」というイデオロギー化した二分法を超えた議論が求められている。(なかじま・たけし=東京工業大教授)」東京新聞2018年2月26日夕刊、4面論壇時評。

 まあ、日本国憲法の保証する言論の自由、思想信仰の自由を享受する有り難さを身に染みて感じながら、精強な日本軍を持って他国に宣戦布告をできる権利をもちたいと願望する政治家は、とにかくここで一度憲法を変えてしまえば、後は一気呵成に天皇制国家を復活させることができると、着々と国民投票の準備をしている。しかし、安倍的ナショナリズムは基本的な矛盾を抱えていて、日本の独立した国家主権を追求するといいながら、政治的・軍事的な意思決定はすべて米軍の意のままで、日本のどこかで米軍の事故が起きても、自前の調査も捜査もできないお粗末な状況にある。かれらの考える「国家の独立」の中身は、昭和戦前のゾンビのような皇国思想と、最後の頼みの綱アメリカへの忠誠従属のセット以外は考えていない。そんなの独立でも自立でも何でもない。
 しかし、とにかく後生大事に「平和憲法を守れ!」という護憲派の旧来の主張だけではもう、改憲の動きは押しとどめるのは難しい。むしろ憲法を真剣に議論し、あるべき日本国の姿を描くのなら、積極的な対案を出して国民投票を安倍政権の意図を逆手にとって、二度と大日本帝国を理想とするような奴隷的改憲を二度と立ち上がれないほどに国民投票で否定し、同時に現行憲法の不備、新たな理想を国家指導者に要求するような改憲案を出すことも必要かもしれない、と思った。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

過ぎ去った若い私・・「チボー家の人々」の世界

2018-02-26 04:39:59 | 日記

 最近話題の鮎川哲也賞受賞作、本格推理小説『屍人荘の殺人』(東京創元社)を昨夜から今朝までで読んでしまい、まあこういう新人のデビュー作も娯楽小説の王道をいけば、高く評価されるんだな、と思った。ミステリー・ベスト作だと騒がれて15万部突破などと宣伝してくれる。推理小説を日常的に読む人口がどれくらいあるのか知らないが、世間の話題になり映画化やTV化されれば見る人もかなりいるのだろう。ミステリーの謎解きとは別に、ぼくには興味深く思ったことがある。この中で殺される人物の一人が愛好する音楽を鳴らすのがトリックのひとつにもなるのだが、それがブルース・スプリングスティーンの「ハングリー・ハート」なのだ。そしてこの作者、今村昌弘という作家は1985年生まれ、岡山大学卒のフリーターだそうで、30歳ちょっとという世代のようだ。この人たちには、ブルース・スプリングスティーンという名前は視野の外、聞いたこともない過去の遺跡のような音楽なのだ。ふ~ンと思った。
 ある時代を現に生きている人は子どもから年寄りまでいろいろいる、とはいっても、その時代の雰囲気を体現するのは15歳から30歳くらいまでの若者たちだろう。若者世代は、まだ社会の中心で実権を握る立場にはいない。だからこそ、親や上の世代が作った常識や秩序を打破したい。かつてロックが音楽シーンで野蛮で爆発的なイノヴェーションを達成したのは、偶然ではなく必然、先行世代の膠着したお上品な趣味をぶち壊すパワーに賭けたのである。しかし21世紀、もはやスプリングスティーンをまったく知らない若者が大多数になっている。彼ら彼女らには、ロックの表現は過去のぼんやりした知識にすぎないし、それを嘆くつもりは、ぼくにはない。いつの時代にも、どこの国でもそうやって文化は変形されつつ伝承されてきたのだから。
 ただ、『チボー家の人々』には、ぼくも若者だったときの鮮明な記憶がある。

「この時期の偉大な小説の代表が他にあるとすれば、それはもちろんマルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』であった。しかし――のちに簡単にみるように――この作品は、それが書かれた環境と妥協する努力をしたために、作者自身がとり返しのつかない傷だと認めた欠陥をもっていた。というのは、一九三〇年代には何か作家の把握をこぼれるなにものかがあった。誰もマルセル・プルーストの達成に匹敵するものはいなかった。みんな、いろいろな形で、出口のない袋小路に迷いこんだのである。かれらの歴史的環境はあまりに急速に変化した。かれらの作品とかれらをとりまく出来事との関係は、かれらの指の間からすべり落ちた。これから考察しようとしているものたち――マルタン・デュ・ガール、ベルナノス、サン=テグジュペリ、マルロー――はみな、結局小説を書くことをやめた。かれらのすべてに、沈黙する――あるいはかれら自身の想像的創作を生きる――しかないときが来た。それに代るもっとも魅力ある道は行動であった――それは、かれらのみなが尊敬し、あるいはその下に馳せ参じた指導者、ド・ゴール将軍によって指し示された道であった。ド・ゴール自身は、静かに隠棲して、英雄的な年月の見事な回想録の作者となることになった。
 ロジェ・マルタン・デュ・ガールと達成しえぬ叙事詩
 私のこれまでの人生には、三つの暗澹たる瞬間があった。…第一のものは、わたしの青春の全コースを変えた。第二のものは、わたしの壮年期にわたしをうちのめした。第三のものは……わたしの老年をうち砕くだろう……。
 第一のものは、そのころ敬虔で素朴な心をもった少年だったわたしが、ある夜、四福音書を続けざまに読み通したあとで、それらが矛盾だらけであることを発見したときであった。第二のは、エステラジーとかいういやな奴がドレフュスの『明細書』として知られる汚らわしい作品をつくり、フランス政府当局が、この悪い奴を罰するかわりに、その罪がユダヤ人に生まれたということだけのひとりの不運な男を責め苦しめていることを知ったときであった……。
第三のものは……、先週新聞が最後通牒の原文を報道し、何百万という人命を犠牲にすべく……準備されていた玉突きの最後の一突きをそこにみたとき、起ったのだ……。

 このように、ロジェ・マルタン・デュ・ガールの代表的な主人公の一人は、第一次世界大戦の勃発の痛恨を述べている。この打続く「暗澹たる瞬間」を列挙したところは、作者自身の持続的にもっていた関心を鋭く描き出している――カトリック教会におけるモデルニスムの危機に要約されるかれの信仰の喪失、ドレフュス事件がかれの同胞たちの間に目覚めさせた正義への渇望、それに、今となっては無意味な空白と思える四年以上もの前線勤務の残したものである戦争への憎悪である。マルタン・デュ・ガールの場合は、宗教的疑問がまずはじめに心の奥に生じた。歴史に対する感覚は、さらに十年を経た後の惑乱の十年にかれのうちに生じた。特定のイデオロギーへの加担は、かれの場合つねに躊いがちで控え目なものであった。われわれは、この三つの型の問題点において――結局それはすべて道徳的な性質のものであったが――失意の時代におけるフランスの公共的諸価値の批判者及び代表者としてのかれの位置をもっともよく評価できるのである。
 ロジェ・マルタン・デュ・ガールは、いろいろな意味で過渡的な人物であった。第一次世界大戦直前に『新フランス評論』Nouvelle revue française のまわりに集まった逸材たちの若い新メンバーであり、アンドレ・ジィドの長年の友であり相談役だったかれは、最後の古典主義時代の一員であるとともに、気たるべき参加の文学の先触れであるともいえた。かれの主題の数々が未来を告知していたとすれば、かれの小説家の役割の観念は、かれの同時代者たちの間でさえ古風なものであった。トルストイが――より「二十世紀的」なドストエフスキーよりも――かれの師であり、かれは二度も『戦争と平和』ほどのスケールの叙事詩を書こうとした。ヨーロッパの想像力豊かなものたちが十九世紀も末のころの遺産から離脱しつつあったそのときに、かれが科学的実証主義を堅く信奉していた姿には、なにか後ろ向きの姿勢があった。マルタン・デュ・ガールは、抑制のない想像力を信頼せず、かれ自身の想像力にきびしい規律を課した。かれの文学的カノンは、ジョルジ・ルカーチのいわゆる「批判的リアリズム」であり、かれは、前世紀の偉大なリアリストたちを尊敬しこれに倣いつつ、現存の社会をそのまま受入れることを肯ぜず、これを「社会主義的見地」から書いたのである。
 一八八一年――マリタンの一年前、マルク・ブロックの五年前――に生まれたロジェ・マルタン・デュ・ガールは、かれら二人が宗教哲学と歴史研究に対してみせたと同じような文学的職人芸に全霊を捧げた。かれの家系には文学的な系譜はなにもなかった。一家は数世代前から法律家――フランス・ブルジョワジーのなかでもっとも尊敬され且つ保守的な層――であった。若きロジェが小説家になりたいという知らせを両親にもたらしたのは、エコール・デ・シャルトで中世史の研究者の訓練に励んでからのことであった。史料を扱った経験は、マルタン・デュ・ガールが自らの職業を科学的に考える見方を強めた。それはまた、小説を書く前に調査に長年月をかける点でかれを良心的すぎるほどにした。そして、おそらく、それが、かれがついにふっきることができなかったある重々しさの原因であったろう。
 一九一三年に、マルタン・デュ・ガールは『ジャン・バロア』の一篇をもって名声を確立した。読者をひきつける中心的なエピソードがドレフュ事件であるこの『ジャン・バロワ』は、実際には、科学と宗教の葛藤の方をもっと強く主題にしていた。それは、アルベール・カミュの指摘するように、「“科学主義”の時代の唯一の偉大な小説」であった。その作者は前途を望むとともにもう過去を回想していた。終末を告げつつあった科学的確信の時代へのノスタルジーの気分のなかで、かれは二十世紀の主要なイデオロギー的小説の最初の作品を生み出したのである。」スチュアート・ヒューズ『ふさがれた道 失意の時代のフランス社会思想1930-1960』みすず書房、pp.71-73.
Roger Martin du Gard, 1881年3月23日 - 1958年8月22日)は、フランスの小説家1937年、『チボー家の人々 第7部 1914年夏』によりノーベル文学賞を受賞した。

「しかし、戦争がかれから奪ったものが作品にあらわれるには十二年を要した。マルタン・デュ・ガールの場合も、大ていの同胞たちの場合と同様、あの大殺戮の情念的効果がはっきりあらわれるのは十年以上も遅れたのであった。かれらと同じように、かれもはじめは悲劇的な記憶から逃れようとした。田舎への隠棲を充分愉しんでから、かれは新しい作品にとりかかった――それは前の作品よりもずっと大きく、もっと心理的なものが重視され、社会的な事柄は付随的に扱われているものだった。この新しい何巻にもなる小説『チボー家の人々』は、きわめて異なった気質をもつ二人の兄弟、「違えるだけ違っているが、しかしきわめて強力な遺伝によって……生じた漠たる相似性を深く刻んだ」兄弟の物語であるはずだった。このような主題は、作者をして自分自身のなかにある「二つの矛盾した傾向を同時に表現すること」を可能にした。「独立自往、脱出、反逆への本能、つまりあらゆる型の体制順応の拒否」と、家系からくる「秩序と調和への本能、つまり極端の拒否」とでる。その結果生まれたものは、実質的にはsucces d’estime(批評家には評価されても大衆には受けない作品)であった。一九二九年までにははじめの六部が発表されたが、その文学的手腕と心理的把握の高い質は否定しえぬものであった。叙述は第一次世界大戦前夜まできていた。予告されていた各巻は、家族をめぐる物語を、マルタン・デュ・ガールが一時手控えていただけのより広い現代史の描写に拡げるはずであった。かれの理想は今手の届くところに来ているようにみえた。トルストイ的叙事詩は実現の真際にきていた。
 一九三一年の明けた第一日に、マルタン・デュ・ガールと妻は、自動車事故で重傷を負った。それに続く入院中の二カ月は、かれに進行中の作品を再考する機会を与えた。この良心の再検討は、『チボー家の外にいた』の計画をドラスティックに変えた。その上、それはかれのライフ・ワークを二分する精神的方向転換を作者に齎した。
 表面的には、マルタン・デュ・ガールがしようとしたことは、自分の小説――それが迫力を失いつつあるのではないかと彼は懸念していた――の規模を縮小して、その結果を変えることであった。技法的には、それは難しい仕事だった。それはすでに印刷されている各巻に「できるだけ目立たぬように接木しながら」新しい結末をつける微妙な手続きを含んでいた。だが、そこには、それをこえて――作者自身よく気がついてはいなかったが――この小説の性格と色調をかえることになる作者自身の関心の転換がおこっていた。歴史がかれの上に押寄せつつあった。永久危機の時代がはじまっていたのである。諸々の出来事は、かれを戦前のイデオロギーへの関心に連れ戻しつつあった。そして、この同じ過程のなかで、マルタン・デュ・ガール――一九二〇年代の十年をほとんど全く表立った論争から身を引いて過した内気なこの文学的職人――は、数年先んじたマリタンと同じように、政治的論争の闘技場に押し出されていった。二十年代の終るころ、かれはアンドレ・マルローと知己になった。またジィドの例はやはりかれを左翼に引寄せた。その結果は、『チボー家の人々』の最終巻は、それまでの巻と同じ主人公でありながら、実際には新しい小説、イデオロギー的讃歌の小説となったのである。」スチュアート・ヒューズ『ふさがれた道 失意の時代のフランス社会思想1930-1960』みすず書房、pp.73-74.



B.人権という理念
 沖縄が「日本国」に復帰したのが1972年。「日本国」の一部分になることで、沖縄の人々の生活は経済的に向上し、人々の生きることのチャンスと喜びが大きく拡大したのなら、悪いことではない。だが、精神障害者と呼ばれた人びとの歴史をたどると、精神の異常を発症したときから、隔離と差別の暴力によって基本的な人権をなんとか守ろうという試みを潰されてきたことである。

「リレーコラム 沖縄という窓:今に残る私宅監置跡と沖縄の精神医療 山城紀子
 「わが邦十何万人の精神病者は実にこの病を受けたるの不幸の他に、この邦に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし」。精神医療に関心を持つ人の間ではよく知られている呉秀三の言葉である。大正七(一九一八)年、国内の三六〇ヵ所以上の私宅監置室の状況をまとめた「精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察」を刊行、私宅監置の悲惨さをはじめ患者や地域社会との関わりなど、近代日本の精神医療の多様な側面を浮き彫りにしたことで知られている。先の言葉はその中に登場する一節である。「二重の不幸」に集約される私宅監置の実態調査の結果の慣行からちょうど一〇〇年に当たる今年は、呉秀三の業績に、あるいはこの100年の日本の精神医療の歴史に、改めて関心が向けられる年になると思う。
 沖縄でも昨年以来、精神医療に関心を持つ人の間で私宅監置に大きな関心が集まっている。私宅監置跡が県内に二カ所確認されていることを踏まえ、どうにかこの私宅監置跡を残せないだろうかと現地を訪ね、関係者との話し合い、また私宅監置に関わった人たちからの聞き取りなどが始まっている。なぜ、残すのか。それは私宅監置跡が沖縄戦、米軍統治下にあった沖縄の精神医療の歴史を示すものだと捉えられているからだ。
 戦前、沖縄には精神医療専門医はおらず、医療施設も全くなかった。戦後も米軍統治下に置かれたことで精神医療を必要とする人々が放置されたままの状況が長く続く。一九五〇年に精神衛生法で私宅監置を禁止にした「日本」の中に沖縄は含まれず、沖縄では復帰(一九七二)の年まで私宅監置が容認されてしまったという歴史を持つ。そのため沖縄では私宅監置を記憶している人が少なくない。
 与那原町の住民、上原正巳さん(69)は小学校低学年の時、「牢屋グヮー」と呼ばれていた建物に閉じ込められていた叔父(父の弟)のことを記憶している。県内に残る私宅監置跡を写した写真を見てもらうと「似ている。広さは畳三畳ぐらいだったような気がする。中にトイレはあった」と話した。コンクリートで鉄の扉。住宅のすぐ後ろにあったという。叔父はノイローゼのような状況になり、大声で騒ぐようになったことで閉じ込められたのだった。
 食事を運び、窓から入れた記憶がある。「最初はおやじも持っていったりしていたが、ケンカになるので、お袋が持っていくようになった。お袋が行くと、『姉さん、ンジャチキミソーレー(出してください)』と泣いて訴えていましたよ。それで母も行きたがらなくなって子どもの私だけが持っていくようになった。僕の名前を呼んでいた。マサミ、マサミと」。
 名前を呼ばれても、「出してほしい」と言われたらどう対応すればいいかわからなかった上原さんは、食事を置くと逃げるようにその場を離れたと当時を振り返る。
 叔父はだんだんおとなしくなった。叔父が閉じ込められていたのは数年間と記憶する。ある日亡くなっていたが、その日がいつか今ではわからない。叔父の死後、家族の間で話題になったことは全くない。あれから六〇年以上経った現在、時折あの状況を思い浮かべる。「僕の名前を読んだ時、叔父はどんな気持ちで呼んだのかなあ、と思ったりするし、おやじもお袋も(語らなかったのは)苦しかったんじゃないかなあ、と思う」。
 一方で「牢屋グヮー」と呼ばれていた私宅監置の存在が当時の沖縄ではそれほど特別なことではなかったのではないかとの考えも示した。「(監置室は)住宅のすぐ後ろにあったのだけれど、僕も含めて近所の子どもたちが普通に遊んでいたし、閉じ込めているということが地域で噂になることもなかった」という記憶があるからだ。
 「復帰後は沖縄でも(私宅監置の禁止が)適用になる、といって大騒ぎだった」と元県職員で復帰当時名護保健所に勤務していた安富祖朝正さん(75)は復帰前年の一九七一年、厚生局の実態調査にかかわった当時を振り返る。「酷かった。豚小屋やヤギ小屋のようなところに閉じ込めて五寸釘を打ってあったりした。足が曲がって、膝が硬直し、立てない人もいた。動物以下の扱いだった」と話した。沖縄タイムス(1971年9月7日)は「動物以下の扱い」「十数年も監禁生活」の主見出しで調査の結果を伝えている。
 今に残る県内の私宅監置跡。こんな恥ずかしいものは壊した方がいいなど保存に否定的な見方やプライヴァシーの問題もある。残すことは容易ではないだろう。しかし、監置されていた一人ひとりに固有の人生があったことを考える時、沖縄戦や米軍統治の中で尊厳を奪われた精神障害者の人生や、障害者と戦争を改めて捉えなおす機会になることも確かだと思う。私宅監置の議論がここ沖縄で静かに始まっている。」岩波書店『世界』2018年2月号pp.156-157.
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アルセーヌ・ルパンのパリ おフランスざます

2018-02-24 14:57:05 | 日記
A.フランスの戦間期 アルセーヌ・ルパンの時代
 昔の赤塚不二夫のマンガ「おそ松くん」に出てくるキャラクタに、イヤミという人物があって、「シェー!」というポーズと、「おフランスでは・・」という台詞でなぜかフランスかぶれという設定だった。昭和の終わるころまで、フランスに憧れる「妙な人」があちこちにいたような気がする。戦後の日本では、映画も小説も音楽も圧倒的にアメリカの文化に染まり、戦前から細々続いた古きヨーロッパの香りを愛する人はごく特殊な世界、たとえばシャンソンの「銀巴里」とか池袋モンパルナスとかで固まっていたとみられる。でも、「おフランス」を語る人には、こっちのほうが格調高い文化だという誇りがあって、フランス語なんかを勉強したわけだ。
 でもフランスの近現代史をちゃんと知っている人はどのくらいいたのだろう?フランス大革命以後の世界は、ある意味フランス、それもパリを中心に回っていたといってもいい。ぼくがその世界に最初に興味をもったのは、中学に入った頃、少年少女世界文学全集のなかの「怪盗ルパン」の挿絵だった。シャーロック・ホームズもの「緋色の研究」を先に読んで、例の二重廻しのコートと帽子は印象的だったが、ホームズが頭脳の推理だけで謎を解くのに対して、ルパンは謎解きよりタキシードに身を包んだスマートなファッションと、必ず美女を誘惑するおしゃれなフランス人のエスプリに溢れていた。ルパンの世界は、19世紀末のアール・ヌーボー的パリの爛熟の世界を匂わせた。こういう世界があるのかあ、とひとしきり夢中になったが、それはちょっと大人っぽく色っぽい世界にみえて、やっぱりホームズの頭の体操にしておこうとも思ったものだ。 

 「怪盗アルセーヌ・ルパン」が登場したのは、1905年。作者モーリス・ルブラン(1864~1941)はノルマンディの都市ルーアンで生まれ、パリに出て純文学作家になるが、その作品は多少の評価を得たものの40歳を過ぎるまで、うだつの上がらない貧乏作家生活だった。しかし友人の編集者ラフィットに、大衆小説(冒険推理小説)の執筆を依頼され、当時大人気を博した名探偵シャーロック・ホームズものにヒントを得て、名探偵の逆を行く大怪盗ルパンを誕生させた。第一作「アルセーヌ・ルパンの逮捕」が評判になり好売上だったため、ルブランは以後の作家人生のほとんどをルパンに注ぎ込んだという。ちなみにエディンバラ生まれの医師、アーサー・コナン・ドイル(1859~1930年71歳没)がホームズものの傑作『バスカヴィㇽ家の犬』を書いたのが1901年。20世紀のはじまったばかりの年だった。猥雑なロンドンではなく、瀟洒なパリの町に立つシルクハット、マントの下はフロックコートでステッキをもつ紳士、足にはスパッツ、懐中時計に片目パッド、という定番イメージ。

「アメリカ人と中央ヨーロッパからの亡命者(エミグレ)たちにとって、二十世紀社会思想の巨匠はジークムント・フロイトとマックス・ヴェーバーであった。この両者のいずれも、フランスでは、1933年以前のドイツおよびその後にアメリカでえたようには尊崇を受けていなかった。フランス人は、フロイトとヴェ-バーの教えたことを知らなかったわけでは決してない。だが、かれらのフロイト理論の適用は、ほとんど文学かあるいは半ば知的な会話に限られており――精神分析の治療活動は、フランスでは中央ヨーロッパやアメリカよりもはるかに普及していなかった――そしてまた社会科学の方法論に関するヴェーバーの基準をじゅうぶんに咀嚼していたのは、若きレーモン・アロンのようなきわめて少数の学者でしかなかった。
 フロイトに対するフランス人の抵抗の理由を求めるのは難しくない。精神分析は、つねにカトリックの支配的な環境でよりもプロテスタントやユダヤ人の間で栄えた。この点でいえば、戦間期のイタリアではフランスよりも一層強い抵抗があった。しかし、フランス人の間には、フロイト主義をとりあげるのをきらい、また内観の科学をつくったと称する理論の出現にひっかかる特別の理由があった。フランスはなんといっても意識の精査考察の本家であった。モンテーニュ以来三世紀半の間、相次ぐ一連のフランス・モラリストたちは、人間の動機づけに、正確で迷蒙を正す綿密な検索を試みてきたのであった。この伝統的な国民的保護地域にあえて入りこもうとする外国人は、まずもってわが身の危険を覚悟していなければなるまい。フロイトでさえ、フランス人のシャルコの病院でその洞察の最初の閃きを経験したというわけである。スタンダールを生んだ国民が、人間の心の言いのがれやごまかしについて、それ以上なにをまなばねぬというのか。フランス文学の古典がアフォリズムや直観的洞察のレヴェルに残しておいたものを体系にまでもたらしえたなどという、ヴィーンでの一介の医師の主張は、僭越きわまるものなのであった。
 戦間期には、フランスのフロイト理論研究は直ちに役立ちうるものとなっていた。すでに1923年のころには、レーモン・ド・ソシュールが精神分析的方法の解説をつくっており、それはフロイトの側近の研究者たちを満足させた(それとともに一方フランスの官憲とは衝突した)。しかし、フランスでは、専門的な精神分析理解ですら、なにか別のものに変わってしまう傾向をもっていた。フランス人は、フロイトの図式に不信の念を抱いていた。かれらは自分たちの心理学にもっと詩を求め、創始者が腹を立てたであろうような主意主義的注釈をいつも密輸入していたのだった。かくして、1930年代後期になると、代表的な科学哲学者ガストン・バシュラールは、「精神分析」という言葉を、火や水のような自然的諸要素の省察を含む新しい意味で用い、古典的精神分析理論を、変転常ないシンボルやイメージを厳密な概念に換位するものと批判していた。バシュラールは、自然や「もの」との直接的接触に立戻らせる治療、物質世界のなかでの作業を通じて情緒を回復させる治療をもくろんだのである。
 以上のこととは別に、フランス人は、一人のフロイトと同時代人、1914年以前にはフロイトよりもはるかによく知られ、もっと優雅で快い形で多く同様のことを語っていた同時代人を産み出していた。無意識の探検家としては、アンリ・ベルグソンは決してフロイトと同等の人ではなかった。たしかに、精神分析理論の精通者たちは、かれを先駆者とは認めなかった。しかし、人間行動の研究を合理主義的な既成の説明から解放するという点では、かれはまったく同じような機能を果たしたのであった。
 このようにして、フランス人は、自分のホームグラウンドに、フロイト主義のまぎらわしい模造である世界(ヴェルト)観(アンシャウウンク)をもっていた。だが、それとてもじゅうぶんというにはほど遠かった。ベルグソンの最後のしゅちょうが最終的に刊行された1932年には、その影響力は、この出版がのびのびになったことと、この著者がそれまでの十年間実質的に沈黙していたことのために、弱められてしまった。フランスの外では、『道徳と宗教の二源泉』はほとんど反響を呼ばなかった。ベルグソンの思考法は時代おくれとなっていたのである。フランス内部では、この本の限られた受容は、哲学と社会思想における「ベルグソン革命」がもうとっくに力を使い果たしていたことを明らかにした。
 1930年代には、ベルグソンはなおフランスの桂冠哲学者としての栄誉を保ってはいたが、もうこの国の知的エリートのなかに完全なベルグソン哲学の信奉者を多数見出すことは困難になっていた。むしろ、趨勢は選択的ベルグソニスムに向かっていた。つまり、それぞれの著作家は、その理論のうち自分の必要と性向にあった特定の側面を選択したのである。またベルグソン自身、選択的折衷的な取扱いを勧めているようにみえた、かれは、「魂のなかに永遠に種子を播くがゆえにつねに子孫はあるだろうが、直接の弟子はほとんどなく、自分の体系がそのまま伝えられることのないような哲学者のひとり」なのであった。こういうのが文筆世界の状況であった。リセや大学では、公式の講義は、ほとんどたいていありきたりの新カント派的なものに後退していた。
 ベルグソン革命の挫折は、複雑な問題である。これを完全に解明するには、無数の個々人の伝記の探索を必要とするだろう。ただ最小限いえることは、1914年から1918年の大量虐殺がエラン・ヴィタールの哲学の花盛りを摘み去ったということである。戦争直前の時期にベルグソンの頭をしびれさせる文章に酔っていた何万というフランスの教育ある青年たちは、苦難に堪え抜かせる精神的情熱を信じて、戦場へと出征していったのであった。凄じい現実は、かれらが想像していたことと似たところはほとんどまったくなかった。もちろん、ベルグソンは、かれの躍動という概念を、もっぱらあるいは主として軍事的な意味にとられるようにいったのではなかった。だが、それが、かれの若い信奉者たちの大部分がその言葉を解釈した仕方であった。この点からいえば、ベルグソン的理想は、まさに第一次世界大戦の他面の原因であった。
 さらに、この理想をもっとも深く共感をもって理解したものたちは、ほとんどすべてずっとカトリック信者であったものかカトリックへの改宗者であった。かれらの手によって、ベルグソンの告知が遺したもの――またそれがげんだいにおけるもっともめいはくなあらわれであったところのパスカルに発する暗々の底流――は、戦間期の特色をなす、とくにカトリック的な思考の復活へとつなげられたのである。早くも1913年には、もう若いマリタンはベルグソン哲学の批判を公刊していたが、それはかれ自身の聖トマス・アクィナスへの忠誠への転換を示していた。二十年後には、カトリックの知的サークルにおいて、トミスムの形成は頂点に達した。ネオ・スコラ哲学の精密さは、ベルグソンの反主知主義哲学の威信を影薄いものにしてしまった。そして――ベルグソン哲学自体の一面であったが――アメリカのプラグマティズムの伝統から養分を摂取したものたちにとっては、導き手として若いカトリックの教師ガブリエル・マルセルがあった。
 しかしながら、ベルグソン流の思考様式の多くは、フランスの社会研究者、とくに歴史家の間にかなり尾を引いており、依然としてかれらに現実の流動のなかに身を浸すことを熱望させた。この社会的・歴史的経験と密着したという欲求は、爾余のほとんどすべてが棄て去られたときにも、ベルグソン哲学の遺産の核心としてそのまま残されたものである。それは、社会のいかなる図式的理解をも拒否することを含んでいた。社会思想の概念に関する限り、それはヴェーバーの理念型の方法とは両立しえないものであった。
 これが、ヴェーバーが方法論的指標として、ドイツや、のちにはアメリカ合衆国でのようにはフランスに受け入れられなかった一つの理由であった。さらにもっと重要な理由は、この分野ではフランス人もすでに自国の巨匠――ベルグソンよりはるかに長く影響力を保った彼の同時代人――をもっていたことにある。
 エミール・デュルケームは1917年に没し、そのもっともすぐれた若い後継者たちの多くも戦場に消えていた。しかし、たとえかれが1930年代まで生きていたとしても、すでにかれの学生や知的継承者が得ていた以上の大きな威信をもつことはほとんどできなかったであろう。戦間期には、フランスにおける体系的な社会研究――とくに社会学と人類学の関連諸学科――は、デュルケームの教えに支配されていた。その方法論的諸原理は必ずしも相互に整合的ではなかった。クロード・レヴィ=ストロースは、それらが「鈍重な経験主義と先見主義的熱狂との間」で揺れ動いているのに不満をもったし、他の幾人かのものは、デュルケームの生涯の間にそれらの諸原理が単純な実証主義的出発点からいかに遠く離れてきてしまったかを指摘していた。デュルケームの関心の広がりが、この強調点の多様化にいくらか責任があるといえよう。ほとんど走り書きのようなところから出発して、自分の思想の最終的な――そしてより観念論的な――段階まで書き上げる以前に死んだということも、それの説明の一助となろう。しかし、デュルケームの仕事のまことに厄介な側面――それはかれの後継者にとっての最大の難問となっているが――は、二つのはっきり異なった十九世紀の伝統から引き出されたかれの哲学的立場と道徳的な人間社会観とであった。」スチュアート・ヒューズ『ふさがれた道 失意の時代のフランス社会思想 1930-1960』生松敬三・荒川幾男訳、みすず書房、1970.pp.6-9.

フランス第三共和政Troisième Républiqueは、普仏戦争さなかの1870年に樹立され、1940年にナチス・ドイツのフランス侵攻によるヴィシー政権成立まで70年間存続した。初期は君主制の復権を掲げる勢力が多数だったが、ボナパルティスト・王党派など内部対立があり、最終的に90年代には共和政容認が大勢となり、国会でも共和派が多数を占め、「第三共和制」のフランスが確立した。1875年憲法はその基礎となる二院制(上院(元老院)と下院(代議院))の議院内閣制を規定し、任期7年の共和国大統領が名目的元首となり両院による多数決で選出されることが定められた。
第三共和制の時代は新たな仏領植民地、インドシナ、マダガスカル、ポリネシア、大規模な領土西アフリカを含む海外植民地を20世紀までに獲得した。議会はおもに中道右派の民主共和同盟 (ADF) によって進められた。当初は民主共和同盟は中道左派勢力だったが、共和制が定着するにつれて保守勢力となった。第一次世界大戦以降、特に30年代後半に急進党を中心にした左派との政治的対立が激化し、混沌とするうちにナチスドイツによる占領、フィリップ・ペタンを主席とする対独協力のヴィシー政権が誕生したことでフランス第三共和政は終焉を迎えた。
 いろんな意味でフランスが栄光の大国であったベル・エポックといえば、この第三共和政時代となるが、大きな区分けとしては、パリ・コミューンのあった初期(1870~1879)、ドレフュス事件などのあった全盛期(1879~1914)、第1次世界大戦とその後の戦間期(1914~1939)、第2次世界大戦からドイツの占領・ヴィシー政権からパリ解放、第四共和政成立まで(1939~1946)の4つくらいに分けられる。ルパンの活躍する時代は、まさに第三共和政全盛期になる。植民地帝国として世界の冨を集めた裕福なブルジョアから、高級品を頂戴するルパンのパリである。

「デュルケームはコントとともに、道徳哲学が「実証科学」から生じうると信じた。かれ自身、およびかれが基礎をおいた知的伝統は、このような確信の生きた表現であった。そこにみられる諸価値は世俗的な、「啓蒙された」ものであり、十八世紀の信仰の現代版であった。デュルケームとその一統は、フランス第三共和政に深い忠誠心を抱いていた。そして第三共和政は、かれらの心のなかでは、自由、デモクラシー、寛容および人間行動の偉大な理念を体現しているものであった。
 ここからして、デュルケーム学派は、公的価値と私的モラルとの間に安心できる一致点を見出した。かれらが奉仕している教育組織をもつ国家は、かれらが倫理的支持を与えうるものでもあった。このような第三共和政の諸価値との密接な結合は、第一次世界大戦前の興隆する国民的自覚の年々には、なんの特別な問題も生じさせなかった――もっともソレルやペギーのような批判者たちを無力な憤激に駆りたてはしたが。けれども、大戦の余波のなかで、第三共和政の美徳は薄れ、ここでもまた花の盛りは消え去ってしまった。そして、1930年代ともなると――つまり、左右を問わずほとんどすべての直覚力のある著作家が第三共和政になんらか重大な欠陥を見出すにいたったとき――この共和制にかくも密着していた社会思想の学派は、同じく脅威にさらされざるをえなかった。最小限にいっても、デュルケームとその継承者たちの価値体系は、今では道徳的に浅薄なものにみえた、たしかに、それは時としてはふつうの俗物どもの「ブルジョワ道徳」と区別がつかぬように思われたのである。ソルボンヌの大家たちが外部のものの眼にどんなに気取りやの愚物にみえたかが分らなければ、第二次世界単線の前夜にフランスの知的既成勢力に対してジャン=ポール=サルトルのような若い哲学者たちの抱いた憤怒――嘔吐――を理解することはあるまい。」スチュアート・ヒューズ『ふさがれた道 失意の時代のフランス社会思想 1930-1960』生松敬三・荒川幾男訳、みすず書房、1970.pp.9-10.

 ベルグソンの哲学、デュルケームの社会学は、飽食のパリの俗物を批判していたかもしれないが、大きな歴史の流れのなかでは、20世紀の第1次世界大戦の段階ですでにカビの生えた保守的思潮になっていた。それはナチスに占領された屈辱のなかで、もう一度リニューアルされなければならなかったが、それを担ったのは、フランス人としては誰だったのか。が次のお話・・。



B.「国力」の根拠は、経済か軍事か
 世界史を広い視野で眺める、というのは昔たしか学校で教わったことはあるが、そのときはまだ若過ぎて、ただの知識としてさらっと記憶にとどめたに過ぎない。自分の国なら、教科書以外にもいろいろ話としては聞いているし、古い建物や地名が残っていたりするからある程度想像はできる。しかし、海の向こうの遠い国のことなど見たことも聞いたこともないから、よほど興味関心をもたないかぎり何も知らない。それは世界中似たようなものだろう。だが、かつて世界帝国になった国、イギリス、オランダ、フランスなどは世界のあちこちに植民地をもって統治したから、世界の情報について蓄積が圧倒的に多い。アメリカは大きな国なので、アメリカ人がみな広汎な知識や情報に通じているとは思えないし、世界中アメリカと同じだと勘違いしている人も多い。でも、日本はかつて世界に出ていくために海外情報にとても敏感だった。パリやロンドンやニューヨークに行って余計な情報も含めどん欲に知ろうとしていたと思う。しかし、最近はどうも世界に出ていく気が失せているのかもしれない。そして今は世界のあちこちに出て行っているのは中国らしい。

「経済気象台:最近、欧州と米国を回ってきた。中国の存在感が更に増していた。高級百貨店ハロッズのVAT(付加価値税)還付の人だかりでも、米国の投資ファンドやIT企業でも、目立つのは中華系の若者の姿だった。世界の上場企業の時価総額ベスト10には、アップルやアマゾンなどに並び、テンセント、アリババ、中国工商銀行の中国3社が名を連ねている。
 日本の存在感は稀薄だ。日本トップのトヨタ自動車すら時価総額ベスト30に入らない。日銀が異次元の金融緩和で経済を支えているが、持続可能な政策ではない。国内総生産(GDP)比で日銀の国債保有は第2次世界大戦時よりも多い。
 日本人はどんな未来を描けるのだろう?
 今回、米国の日系人コミュニティーを訪ね、民族や国家の枠組みを超えて社会に貢献している姿にヒントを見つけた。
 日系人センター内には、収容所のバラックが復元されているが、それは怒りや悲しみを伝えるためではない。当時の「ジャップ(日系人の蔑称)お断り」のポスターの隣に最近の反イスラム記事が展示され、“異質なもの”を排除する人間の心を問うている。友人家族に同道して収容所で生活した白人青年が「良心に従って行動した」と語った展示もある。社会科学習で訪れた米国の小学生たちがそれらを見つめていた。
 戦後、日系人はゼロから再出発し、多民族の中で地歩を築いた。毎年夏に開かれるOBON(お盆)フェスティバルは収容中に地域に移り住んできたアフリカ系移民と混然一体となったお祭りで、盆踊りとアフリカンリズムのダンスが混在する。
 勤勉でフェアで異文化に寛容――世界からそう敬愛される民族でありたい。 (慶)」朝日新聞2018年2月23日朝刊14面金融情報欄。

 「国力」を強くすることが必要だという人がいるが、「国力」ってなんなのか、よくわからない。たぶんそれは国家としての経済力、軍事力によって大きく左右されるのだろう。でも、「国力」が高まるとぼくたち個々人の生活も高まるのだろうか?必ずしもそうともいえない気がするし、「国力」を強くするために今まで国が何をやってきたかを考えれば、人の幸福と「国力」はときに相矛盾し、せめぎ合うことがある。

「文芸時評 純文学:小説家 磯﨑憲一郎 現実を超える小節的現実
 プロの小説家のなかにも勘違いしている人は少なからずいるのだが、現実の一部を切り取って、人々が共感できるように描いてみせるのが小節ではない。語りの力によって読む者を圧倒しつつ魅了する、現実とは異なる、いわば小説的現実を立ち上げてみせるのが、小説という芸術的表現なのだ。
 おそらくその最良の証明となるであろう、金井美恵子『『スタア誕生』』は、一九五〇年代の地方都市の商店街を舞台に、地元の映画館で開催されるニューフェース審査会に臨む、映画女優に憧れる若い美容師と、彼女を応援する商店街で働く女性たちを、当時十歳の少女だった語り手の目を通して描いている。とはいえ、特段ストーリーらしいストーリーがある訳ではない。脈絡なく繰り出される、ときには数ページにもわたり、映画館の内装の司祭な描写や、そこで見たはずの洋画や邦画の一場面、親しかった人たちの服装や髪形の説明、もはや発話者が誰だったのかも判然としないほど延々と続く会話に身をゆだねていると、唐突に「……を思い出す」「……を覚えている」という結語に出会い、その度毎に我に返り、この作品全体が語り手の階層であることに思い至る、そんな宛転たる語り口によって読者にもたらされるのは、単なる現実の過去への憧憬、ノスタルジーである筈がない。紛れもなくそれは、自転車を漕ぐ「短いスカートからむき出しになった太もも」に感じる風や、「ぼうっとしたオレンジ色がかった桃色」に光る「スズラン灯」、「水色の半袖のセーター」の胸の谷間から漂う「キャラとかビャクダンとはまるで違う甘い匂い」によって作り出される、至福の小説的現実なのだ。
 奥泉光の長編『雪の階』は対照的に、精緻に構築されたストーリーの随所に、二重三重の仕掛けが凝らされた作品だ。二・二六事件勃発前年の昭和十年、富士青木ヶ原の樹海で情死した親友の謎を解くため、主人公の華族令嬢は、子供時代の遊び相手だった女性写真家に調査を依頼するのだが、その矢先、来日中のドイツ人ピアニストが不審な死を遂げる。天皇機関説を巡る構想まで絡めた、秀逸なミステリーとして読まれるのであろうこの作品だが、しかし実際にこの作品を夢中になって読み進めている最中の読者が体感するはやはり、「松林の幽暗に溶け込む弧樹の佇まい」「仄白い若女の能面が月夜の桜花のごとく影に沈んでいる」といった、熟語を多用した三人称多元の語りによって立ち現れる、史実を上回って濃密な小説的現実に他ならない。そしてそのような作品に相応しくラストでは、積み上げていた一切の論理を超越する、鮮やかな小説的反転が待ち受けている。」朝日新聞2018年2月23日朝刊34面文化・文芸欄。

 磯﨑憲一郎という小説家の作品をぼくは読んだことはないが、この切れ目のない長い長い文章と、その粘着する文体の突出をみて、なるほど小説とか純文学とかいった作品が、なにを価値としているかがよくわかった気がした。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デュルケームの世紀末 fin de siècle 三面記事

2018-02-22 18:10:56 | 日記
A.エミール・デュルケームの世紀末fin de siècle
19世紀にはいろいろな学問の領域が分かれ、それぞれだけに眼をやれば歴史に名を残したビッグ・ネームが並ぶ。しかし、学問別の歴史や研究史は他の領域のことはとりあえず見ていない。学問だけでなく、音楽なら音楽史、美術なら美術史はそれぞれできあがっているが、同時代に生きていた人々に共通した特有の「時代の気分」のようなものは、時間が経ってしまうとそれを知る人がみなこの世を去り、わからなくなる。
 エミール・デュルケーム(1858~1917)は、社会学のビッグ・ネームでボルドー大学で世界初の社会学講座を開いた人である。生まれはロレーヌ地方のエピナルという町で、ユダヤ人の家系で父と祖父はラビだった。しかし彼はパリのグランゼコール(高等師範学校)エコール・ノルマル・シュペリュールに学び、リセの哲学教師になり、1886年にはドイツに1年間留学。社会科学の実証的方法を習得してフランスに戻って、ボルドー大学で社会学を講じるようになる。ボルドーで『社会分業論』『自殺論』などを執筆、彼の名声は高まり弟子たちも育ってくる。1902年にパリのソルボンヌ大学教育科学講座に転じ、諸分野を網羅する弟子たちと共に「デュルケーム学派」を形成する。しかし、1914年の第一次大戦勃発でエコール・ノルマル時代の友人ジャン・ジョレスが右翼テロの犠牲になり、息子アンドレは戦死した。
 世紀末のパリは、ヨーロッパ文化の爛熟と没落の輝きを見せたといわれるが、デュルケームは20世紀の始まった頃、まだ世紀末の残り香漂う中で新しい学問、社会学を彫琢していたわけだな。

「一八九四年から九五年にかけての学年度に、デュルケームははじめて宗教についての講義を大学で行なった。この新しい問題についての研究はかれにひとつの「啓示」としておとずれてきたものであった。かれは書いている――「一八九五年の講義は、わたくしの思想の展開上にきわめて重大な一境界線を劃するものである。だからわたくしは、この新しい見解と調和させるためにこれまでのすべての研究を改めてとり上げて再検討を加えねばならぬこととなった。」
 すでにベルグソン、ソレル、パレートらについて見てきたように――またこれからすぐにヴェーバーの場合にも見るであろうように、宗教現象との対決は二十世紀社会思想の展開にしばしば決定的に重要な意義をもつ経験であった。デュルケームの場合、それはかれの主題に対する新しい、より深い理解へと漸次移行してゆくその端緒になっている。しかしながら、この移行はあまりに遅きに失したため、かれはそれ以前の研究の徹底的な改訂という計画をついにやりとげることができなかった。この晩年期の頂点をなす労作――『宗教生活の原初形態』Les elementaires de la relogieuse――が公刊されたのは、第一次大戦勃発のわずか二年前のことであった。そしてこの大戦の争乱はデュルケームをめまぐるしい活動と苦悩の渦のなかにまきこみ、とうとうかれの生命をも奪うことになってしまったのである。
 宗教の領域にアプローチするにあたって、デュルケーム――信仰を失ったラビの息子――のとった態度はウィリアム・ジェームズのそれとよく似ていた。このジェームズの父親もやはり牧師であった。そしてその態度においては、ジェームズもデュルケームもともに革新的存在であった。十九世紀の末までは、宗教についての学者の議論は学者それぞれの個人的な信仰ないし不信仰を反映したものであるのがふつうであった。自身宗教的である学者たちは宗教現象を感情的な敬意をもって記述したし、無宗教的な自由思想家たちは宗教史や民族学を「宗教に対する武器」として利用したのである。デュルケームは問題全体を信仰・不信仰を厳格に議論のそとにおいたのである。ある教義が「真」であるか「偽」であるかなどと問うことはまったく重要なことではない、とかれはいう。どのように考察をしてゆくかという態度のいかんによって、あらゆる宗教は真でも偽でもあることになる。それぞれの宗教に独自の「信仰と儀式」とは「たしかに……ひとを迷わせまごつかせるものである。」けれども、「いかに野蛮で荒唐無稽な祭儀でも、またいかに珍奇な神話でも」、ある深い「社会的……必要」に呼応したものなのである。
 「だから、実際には偽りの宗教などというものは存在しない。あらゆる宗教はそれぞれの在り方において真実のものなのだ……信者たちがその宗教を正当化する諸理由は誤っているかもしれないし、また一般的には誤っている。しかし、真実の理由はたしかに存在しているのであって、これを発見することこそが科学の務めなのである。」(Elementary Forms,pp.2~3)
 これら「真実の」諸理由をデュルケームは、これまで信者も不信者もそこにあると考えていたところ――つまり組織的な宗教の教義のなか――にではなく、宗教的実践、つまりフランス人が礼拝・祭祀culteと呼んでいるもののうちにあるとしたのである。すでにジェームズが発見していたごとく、宗教的経験の科学的真実性は宗教の実践〔儀式〕のうちにある。そしてこれがまた社会的な現実性でもある。宗教の実践〔儀式〕は、連帯感(ソリダリテイ)、集団による個人の被抑制感――つまり社会そのものの感覚――を呼びおこすものである。かくしてデュルケームは、社会はその起源において宗教的なものであるという定義へと導かれていく。宗教が社会をつくり出した。これが実証科学の立場からとらえられた宗教の真の機能であるというのである。
 その上なお、デュルケームは実際に、社会は「個々人の心のなかにのみ…‥」存在するという見解を吐くところまで行っている。「実証主義の苦役をのがれんとして」かれは「あまりに進みすぎ」、「すっかり観念論のなかへ」入りこんでしまったのである。宗教が結局において社会的な現象であることが明らかになったとすれば、社会もまた宗教的な現象であることも判明した。はじめ社会をものとして定義づけようとしたこのデュルケームにとっては、これはまことにアイロニカルな帰結であったわけである。

 第一次大戦の勃発によって、デュルケームは激しい公的活動のなかに引きこまれた。ユダヤ人またアルザス人として、かれはふつうの水準以上に愛国的なフランス国民であった。しかもかれは、科学者としての役割と戦時下の国民としての義務と考えられるものとも間に、相容れぬものがあるなどとは思わなかった。かれの戦時中の著作は大部分、知的にも国家的にも敵であると規定されたドイツに対する宣伝文書的小論である。加うるにデュルケームは、フランスの戦力増強のための数々のアカデミー委員会において働いて、倦むことを知らなかった。
 こうしたさまざまな活動が、しだいにかれの体力を弱めていった。そしてかれの息子――このひとは同時にかれのもっとも有望な弟子の一人でもあった――の死を伝えるニュースによって蒙った打撃から、デュルケームはもはや立ちなおることができなかった。一九一七年の秋に、かれは死んだ。まだ六十に手もとどかず、それにかれの新しい社会観はまだほんの輪郭だけしか描かれてはいなかったのに。
 かれが死後にのこした学者としての範例および一連の方法論上の規則が、たしかに当代の社会学の展開にとって基礎的な意義をもつものであることは明らかであった。けれども、より哲学的な意味においては、かれの教説はなんら明確な指針を与えるものではなかった。それにはどこまでも、ある中心的な矛盾がつきまとうていたからである。つまり、一方では、批評家たちがそこにコント形而上学の最期の痕跡をみとめたところの実証主義的な語彙、「命令的な規則」の体系追求の努力があった。これによってまた、単純かつ一方的な説明がしきりに要望されたわけである。ところがその反面、同時に社会的現実についてのきわめて精神的な定義があって、それの意味するところは明らかに観念論的、許容的、多元論的であった。デュルケームは、自分の学説のこの二つの側面をついに最終的な綜合にまでもたらすことなくして終わったのである。
 なお最後に、われわれはデュルケームの思想の非歴史的な性格を指摘しておかなければならない。かれのつくった定式は、動態的(ダイナミック)であるよりはむしろ静態的(スタテイック)であり、過程(プロセス)を示す用語よりはむしろ構造(ストラクチュア)を示す用語によって表現されている。かれは準実証主義的quasi-positivistな立場の援用によって、社会学と人類学との結びつけに成功した。同様に、ドイツの新理想主義者たちは、社会科学の世界と歴史的経験の世界とを現実に融合しつつあった。このドイツとフランスの二つの融合的体系のめぐり合いは、まだ起こっていなかった。まさしくこの両者を合流せしめることが、マックス・ヴェーバーの偉大な業績となるべきことがらであった。歴史および哲学に対するドイツ的センスと科学的厳格さに対するイギリス・フランス的な実証主義的観念とを結合すること、これこそヴェーバーがみずからに課した課題であり、またその気質、訓練によって、他のいかなる同時代人よりもヴェーバーが取組むにふさわしかった問題なのである。」スチュアート・ヒューズ『意識と社会 ヨーロッパ社会思想1890-1930』生松敬三・荒川幾男訳、みすず書房。1965. pp.192-195.

 デュルケームの生まれた1858年は、インドのムガール帝国が滅びてイギリスに併合された年で、日本は安政の大獄が吹き荒れた時だ。あまり考えたことがなかったが、デュルケームと同時代のフランスに生きていた人は誰だろうと探してみた。「シラノ・ド・ベルジュラック」(1897年12月初演)を書いた劇作家エドモン・ロスタンが1868年マルセイユ生まれ(1918没)。死んだのもほぼ同じだから完全にかぶる。天才詩人アルチュール・ランボーは1854年生まれで1891年37歳で没だから、ちょっと年上で早く死んだが同世代といえるかもしれない。フランスを震撼させたドレフュス事件が1894年。ボルドーで『自殺論』が書かれた頃か。そう考えると日本で西洋近代に追いつこうと必死だった明治時代に、デュルケームはすでに社会学の骨格を彫琢していたわけだな。古いような新しいような・・。



B.三面記事を並べ読み
 新聞は速報性という点で、すでにネットから立ち遅れ、もはや多くの人々はウェブでニュースを即座に知るために新聞などは読まなくなっているといわれる。ただ紙媒体での報道は、速報性よりも事件や出来事のもつ意味や関連する問題を解説するという機能はもっているわけで、それも訓練された記者が、責任をもって書いていれば情報の質が信頼を得るはずだ。ただ、新聞記事もどこまでその役割を果たしているか。今日の朝刊の社会面を読んでみた。

「いじめで不登校 認定:茅ヶ崎 男児担任「見ぬふり」
 神奈川県茅ケ崎市立小学校の4年生の男子児童(10)について、市教育委員会の第三者委員会が「日常的にいじめを受けていた」と認定する報告書をまとめたことがわかった。担任だった女性教諭は「いじめを見て見ぬふりをした」と説明したという。男児は2年近く不登校が続いている。
 第三者委の調査によると、男児は2年生だった15年5月~16年3月ごろ、複数の同級生から殴られたりズボンを脱がされたりするいじめを繰り返し受けた。3年生になった16年4月から学校に通えなくなり、心的外傷ストレス障害(PTSD)と診断された。
 いじめで不登校になったと両親が訴え、担任は学校の聞き取りに、いじめに気づかなかったと説明。ただ第三者委の調査が進み、「注意するのが面倒になった」などと説明を変えたという。第三者委は、担任が適切な対応をせず、学校も対応が不十分だったとする報告書を今月13日、市教委に答申した。(遠藤雄二)」朝日新聞2018年2月22日朝刊、28面社会欄。

 これは小学生のいじめによる不登校という事件を、市教育委員会の第三者委員会が認定する報告書をまとめた、という事実だけを書いている。担任教諭の発言がとりあげられているが、いったいどこが問題なのか、教師なのか学校なのか、「対応が不十分だった」というが、この子の不登校にどう対処するのか、いじめた子どもたちはどうするのか、記事だけではよくわからない。ストレスが残る記事になってしまう。

「女性の遺体 玄関付近で発見 千葉・放火殺人 屋外に逃げられず?:
千葉県印西市の住宅が放火されて女性が殺害された事件で、女性の遺体が玄関付近で見つかっていたことが21日、捜査関係者への取材でわかった。現住建造物等放火と殺人の疑いで逮捕された男女4人のうち一部の容疑者が「暴行した上で油をかけて火をつけた」と供述しているといい、県警は女性が暴行や火災の影響で屋外に逃れられなかった可能性があるとみている。
 印西署捜査本部によると、逮捕されたのは職業不詳で自称住居不定の菅野弥久容疑者(20)ら4人。17日、印西市竜腹寺の平屋建て住宅を全焼させ、住人の海老原よし子さん(55)を焼死させた疑いがある。
 近所の住民の証言などによると、海老原さんは数年前に自転車で転倒して足が不自由だったという。海老原さんの遺体は自宅の玄関付近で見つかったが、捜査本部は、海老原さんが避難が難しいことを認識したうえで、4人が放火した疑いがあるとみている。」朝日新聞2018年2月22日朝刊、28面社会欄。

 これはもっとわからない事件で、この被害者の女性と逮捕された容疑者の4人は、どうして関わりをもち暴行や放火に至ったのか、警察の発表だけからこれ以上のことは言えないのだろうが、読んでも何が起きたのかさっぱりわからない。続報はいずれ出るんだろうか?

 同じ28面には20日に亡くなった金子兜太さんへの追悼(ドナルド・キーン氏、黒田杏子さんなど)記事、テレビドラマ収録後に66歳で急死した俳優大杉漣氏の記事。こちらの方は、丁寧に取材してわかりやすい。そして日本郵便が扶養手当を契約社員に支払っていないことへの大阪地裁判決に関する記事。これはさすがにきちんと説明がついていて、わかりやすい。

「扶養手当不払い「違法」 契約社員の待遇 地裁、踏み込んだ判断
 日本郵便の正社員と契約社員の待遇差の一部が労働契約法20条に違反するとした21日の大阪地裁判決は、「画期的な判決」と専門家に評価された昨年9月の東京地裁判決と比べ、二つの点で踏み込んだ判断をした。
 一つは、契約社員に扶養手当が支払われていないことを違法と判断した点だ。被告の日本郵便側は、扶養手当は「正社員に長期雇用へのインセンティブ(動機付け)を与えるもの」と主張したが、大阪地裁は「労働者と扶養親族の生活を保障するため、基本給を補充する生活保障給」にあたるなどと指摘。非正社員にも支給されるべきだとした。
 東京地裁の訴訟では、扶養手当の待遇差は争点になっていなかった。政府が2016年12月に公表した、正社員と非正社員のどんな待遇差が不合理となるかを示す同一労働同一賃金のガイドライン(指針)案も、扶養手当には触れていない。政府の指針案に含まれない待遇差について、司法が格差是正を促す判断をした意味は大きい。
 もう一つは、住居手当と年末年始勤務手当について、より多くの損害を認めた点だ。東京地裁判決は、非正社員に支払わないのは違法と判断した一方、長期雇用への動機付けの意味もあるとして、損害にあたるのは正社員への支給額の6~8割としていた。今回の判決は、全額を損害と認めた。
 東京地裁の訴訟で代理人を務めた棗一郎弁護士は「扶養手当と住宅手当の全額を損害と認めた意義は大きい。非正規でも家計を主に支えている人が増えており、非正規労働者には朗報となる判決だ」と話す。(編集委員・沢路毅彦)」朝日新聞2018年2月22日朝刊、28面社会欄。

 ベテラン編集委員が書いているから、ということもあるが、裁判の過程をよく見れば、問題点がどこにあり判決がどういう判断をしていて画期的なのか、読者にわかるように書かれている。やはり新聞を読むというのは、ただ出来事だけを短く伝えればよいのではなく、それがわれわれにとってどんな意味をもっているのか、読者と共に考えるような記事こそ価値があると思うし、それは新聞の重要な役割だろう。オリンピックでメダルを取った!感動の嵐!ばかりをひたすら繰り返すテレビを見ていると、これでいいのだろうかと心配になる。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無意識の発見 知の価値 ・・戦史の隠蔽

2018-02-20 14:05:29 | 日記
A.無意識の発見
 19世紀の終わるころ、ヨーロッパの学問・思想の世界は実証主義、客観主義的科学の前提を疑うことなく、人間と社会の探求においても厳然たる真理は機械論的な法則の支配のもとにあるという思想が浸透していた、とヒューズは述べる。しかし、それに対して20世紀の新しい潮流がいろんな場所で個別に始まっていて、やがて「実証主義への反逆」が具体的な形で現れてくるのだが、理性的・合理的な人間の知というものだけでは、じつは何も説明できないと考える「無意識の世界」の発見は、1880年代のニーチェに源流があるという。

 「無意識的な動機づけの問題を自分の関心の中心においている社会思想家――つまり、ベルグソン、フロイト、ユング等――にとっては、論理的に考えれば、ニーチェがいちばんすぐれた先例であるように思われる。たしかに、すでに示唆しておいたように、それらの思想家たちの言葉には、ニーチェが詩人的洞察によって発見したものの反響がはっきりと準科学的なかたちであらわれている。一八八〇年代の末に書かれた比較的体系的な著作――『善悪の彼岸』jenseits von Gut und Böseと『道徳の系譜学』Zur Genealogie der Moral――には、自然的「衝動」、合理化、性的マゾヒズム、昇華、文化の妨害による所産としての罪、などに関する理論が含まれている。この理論は容易にフロイトの術語に翻訳されるものである。またニーチェの「権力への意志」は、フロイトがのちに「リビドー」と名づけ、ベルグソンが「エラン・ヴィタール〔生の躍動〕」と規定したものに、きわめて近いものではないかと思われる。ところが、まことに逆説的な事実であるが、これら後代の思想家たちに対するニーチェの直接的な影響はほとんどなかったのである。ベルグソンがニーチェの先例から一度でも利益を得たという証拠はない。それにまたフロイトも、ニーチェを尊敬して、ときおり引用し、「かつて生きた、あるいは生きていたと思われるいかなるひとよりも、かれは透徹した自己認識をもっていた」と言ってはいるけれども、ニーチェから思想的影響を受けたことは決してない、とはっきりと主張しているのである。抽象的な哲学はかれの好みにあわなかった。「かれは」ニーチェを「読もうとしたことがあった。しかし、かれの思想がひじょうに豊かであったので、その企てを放棄した。」ユングまでくると、はじめて明確なニーチェからの継承の跡がみとめられることになる。
 ショーペンハウアーについても、事情は同様であった。実際、ベルグソンにしてもフロイトにしても、かれらがその先行者や同時代のひとたちのかなり明瞭な影響になんら言及することなく仕事をしていることには、驚かされる。多くの独創的な思想家たちと同じく、かれらは、群小思想家に安心感を与える立派な哲学的系統図といったものを探し出すことに興味を示さなかった。その仕事におけるある時点を過ぎると、かれらはますます系統的な研究には我慢できなくなっていった。それゆえ、かれらの諸観念は、共通するところの多い当代の哲学的・科学的潮流――エルンスト・マハ、アンリ・ポアンカレ、ハンス・ファイヒンガーといったひとの名前と結びつく、仮説および便利な虚構(フィクション)による思考――を直接に反映しているというよりは、むしろそれと並行しているのである。ベルグソンやフロイトに、そういう方法論的な影響の痕跡はほとんどない。その影響がはじめて明白になるのは、むしろパレートやソレルからである。
 とくに、マッハやファイヒンガーの理論は、実証主義と反実証主義との対立からぬけ出るひとつの道を提供したものであったのだが、ベルグソンもフロイトも――両社それぞれ理由はまったくちがう――この種の救援手段にはまるで関心をもたなかった。両者とも、この「虚構」による思考によって提起された哲学的中心問題に正面から立ち向かったというよりは、その縁をかすめて通ったのだ。ベルグソンは早くから実証主義と「科学主義」に反対の立場をとった。この徹底的な反対は、彼の主要な知的常用標語となる。かれがこの反対をもっと融和的な態度で緩和することを許すなどということは決してないであろう。その上、マッハやファイヒンガーの学説の基礎はカントにあった。ベルグソンはその最初の本で、カントの認識論は根本的に誤りだ、と言明していたのである。フロイトの場合には、これからじきに見るように、形而上学や認識論上の根本問題に真に対決したことはなかった。フロイトは、心に関するかれの理論が明確な哲学的支柱を必要とするなどとは思っていなかったのである。
  けれども、いずれはこの究極的な諸問題は前面に押し出されてくるであろう。ベルグソンやフロイトが避けて通った問題は、深くソレルを悩ませ、反形而上学的なパレートにさえ慎重なプログラム的宣言をさせることとなった。しかしながら、ソレルもパレートも、のちの研究者を満足させるような仕方で、うまくこの虚構によるアプローチを社会の研究に適用することはできなかった。科学的アカデミーに対する伝統的な顧慮が、いぜんあまりに多くなされていたからである。ただマックス・ヴェーバーによってはじめて、虚構の理論はじゅうぶんな内面的首尾一貫を獲得し、社会思想への恒久的な一寄与として存立しうることになったのである。
  この形而上学的・認識論的文脈においては、カント主義によって、きわめて多様な諸矛盾を調停する橋渡しがおこなわれた。実証主義者もその反対者も、この同じ大哲学者カントに敬意を払っていたのだ。事実、十九世紀を通じて、教育あるドイツ人はすべてカント哲学をかじっていた。一八七〇年の戦争後は、リセの哲学課程でもドイツの影響が支配的となったから、それはフランスでも同じことであった。マッハは、十五歳のときにはじめてカントを知ったことがどんなに「強い、消し難い印象をとどめたか」を回想している。「それ以後、どんな哲学書を読んでも、あのような経験は二度となかった」いうのである。
  マッハは、カントからショーペンハウアー、バークリーへと進み、かれらから、本質ないし「物自体の存在」を要請することなしにも哲学することは可能であることを教えられた。この「感覚主義的」基盤の上で、かれは自分の知識理論を定式化するにいたる。物理学および科学哲学の教授としての長い経歴において――まずプラーハ(1868-95年)、ついでヴィーン(1895-1902年)――、マッハははじめの素朴な実証主義的視点を、もとのおもかげはほとんどないくらいに洗練していった。科学理論に対する「厳密に実証的」な態度は固守しながらも、その当時広く行われていた機械論的・準唯物論的な説明は斥けてしまった。実体という概念はすべて不必要であることをかれは示唆する。人間の経験は、感覚によってより簡単かつ効果的に説明されるというのだ。その教授歴の終わりごろには、かれはさらに哲学的主観主義へと近づいていった。かれが哲学的法則というときに、それがなにを意味していたかは、必ずしも明らかではない。あるときには、科学的法則は「事実」の「包括的記述」によって成り立つもののようにも見られるし、またあるときには、それはたんに「われわれの精神活動のための手引き」にすぎぬものでもあった。ところが、主としてこの後者の考え方によって、マッハはのちの科学研究者たちに大きな印象を与えることになるのである。
  ジェームズに先立って、マッハは、われわれの知識――科学的知識でさえ――の真理は、それが事実の実際的な説明を効果的に与えるということ……つまりは、生活に対するそれの有効性に存する、と主張した。
ポアンカレに先立って、かれは、われわれの数学や自然科学の基礎にある諸原理は、たんに便宜的な仮説にすぎず、その仮説が立てられるのは、その方が便利だからである、ということを明らかにした。
  ……ベルグソンに先立って、マッハは、もしも現実がたえず動いている「生成」の過程であるとするならば、われわれの知性の機能は、現象の流れのなかで普遍・同一なるもののみをとらえるところの言葉や概念によって、その現実を不動のものと化してしまうことである、と指摘した。(R.Bouvier: La Pensée d’Ernst Mach.1923)
 フロイトがほとんどマッハの著作を参照していないことは、まことに信じがたいことに思われる。マッハの『感覚の分析』Die Analyse der Empfindungen がはじめて出されたのは一八八六年、このころフロイトは、ブロイアーの影響をうけて、神経学から臨床的心理学へと転じつつあった。90年代中葉から一九一六年にマッハが死ぬときまで、フロイトとマッハとは同じヴィーンの町に住んでいたのだし、ついには大学の同僚ともなった。けれども、マッハがヴィーンにくるころまでに、フロイトの進路はすでに定められていた。かれはもはやその科学的要請を問題にしていなかったし、哲学からの示唆も求めようとはしていなかったのである。
  原義的な仮説としての科学という観念がより思弁的な社会思想家たちの注意を引くようになったのは、マッハによってというよりは、むしろポアンカレによってであった。十九世紀の半ばを少し過ぎて〔一八五四年〕生まれたアンリ・ポアンカレ――フロイトよりも二年早く、ベルグソンよりも五年前――は、三十の声を聞かぬうちに、すでにパリ大学の椅子を占めていた。一八八〇年代の初頭から一九一二年の死にいたる三十年間、かれはフランスの最も大きな影響力をもった自然科学者であった。数学者、天文学者、物理学者を一身に兼ね、加うるに優雅な文体の文章をよくした。物理学および天文学における自己批判というたいへんな仕事――それまでのニュートン的宇宙の確実性に代えて、二者択一的な、さらには矛盾を含んだ説明という観念をもたらした――の結果を、広汎な一般読者層に伝達するには、ポアンカレはまことに見事な装備を身につけていたわけである。 
 ところで、この広汎な一般読者はみな、かれが提出したものに熱心すぎるくらいの勢いで飛びついた。倫理学者や文学者は、ポアンカレの理論を極端にまで推し進め、パラドクスにおちいるほどとなった。おそらくこうしたことが理由で、ベルグソンはこの偉大な同時代人ポアンカレにほとんど言及しなかったのであろう。ソレルは、「科学の真実性に疑問を表明」したとしてポアンカレを非難した。二十世紀初頭の大社会思想家のうち、ポアンカレの科学的教訓から明瞭な利益を引き出したのは、ただひとりパレートだけであった。
 同様に、ハンス・ファイヒンガーの有名な「かのように」als obという知識の定義を、含蓄的にもせよ、反映しているのは、ただパレートとフロイトのみであった。われあれがこれまで見てきたすべての哲学的定式のうち、ファイヒンガーのそれは、社会思想の必要とする研究のためのきわめて柔軟な基準をもっともよく与えてくれるものであった。かれのいう科学における虚構という観念は、のちにヴェーバーが「理想型」Idealtypus と呼ぶところのものとほぼ同じものであった。しかし、ファイヒンガーの仕事は、かれのアカデミー生活の大部分を通じてほとんど知られずにいた。このように無視されていたのは、かれの主著である『かのように哲学』Die Philosophie des Als Obが、その最初の叙述はすでに早く一八七七年に完成されていたにもかかわらず、一九一一年まで刊行されなかったという事実によるものである。そのときかれははや六〇に手の届こうという年齢であった。マッハと同じく、ファイヒンガーはカント、ショーペンハウアー、イギリス経験論という道を通って自分の哲学に到達した。」スチュアート・ヒューズ『意識と社会 ヨーロッパ社会思想1890-1930』生松敬三・荒川幾男訳、みすず書房、1965.pp.72-75.

  同時代に生きていたからといって、学者や思想家が互いに交遊関係があったとか、著作物を読んでいたとは限らない。たとえ読んでいたとしても、ぱらぱらと読み飛ばしただけかもしれないし、自分の仕事に日々忙しくて手が回らなかったかもしれない。そういうことはしばしばあるだろう。ヒューズが書いているように、同時進行のいろいろな試みを互いに深く影響されながら自己の栄養にするということはあまりなくて、むしろ多くはその時代の表層の流行やトピックに触れるだけで終り、もう少し本格的な影響は自分より少し上の世代の(そろそろ引退か、すでに亡くなった人の)ほんものの思索からじわっと受けているものかもしれない。
 いつの時代も、凡庸な学者、思索家はいっぱいいて、古今の大思想や名作を一般大衆に解説し、これはオリジナルな素晴らしいものであると宣伝して飯を喰っている。しかし、そういう通俗的な仕事とは別に、どこかにやがて世界に大きな影響を与えることになる独創的な仕事をしている人間がいて、それはまだはっきりとした姿が見えていないか、誰も注目していないという段階がある。今の日本で考えると、何か新しい傾向はないかと探し回る『現代思想』的なジャーナリズムへの一般の関心が衰えて、もはや話題になるのは脳科学とか、AIとか、ロボット兵器とか、もっぱら先端科学とテクノロジーの応用話ばかりである。死語となって久しい「知識人」が消えて、専門家と称する部分知をあやしげな思い込みで拡大する人間だけに見える。どこかに新しいアイディアを育んでいる人はいるのだろうが、いまはまだ見えていない。



B.歴史の事実と物語
 戦史というのは、戦争というものが実際いつどのように行なわれ、そこで敵と味方の両軍がいかに戦ったかを正確に記録することが前提である。とりあえず軍事的な観点から、戦史ほど後世の役に立つものはない。全滅してしまった作戦は、勝った側の記録だけになるかもしれないが、参加した当事者が残っているかぎり、戦後にできるだけ事実を確認し記録する作業は軍によって行なわれるはずだ。それがその戦闘に参加していない軍や次の世代の軍人に正しく受け継がれなければ、失敗は美化されてしまう怖れがある。しかし、日露戦争の後の日本軍は、きちんとした戦史を書きながらそれを公開せず、しかも日本軍が崩壊した敗戦時に焼却してしまったという。歴史に対するこの利己的で病的な態度は、許しがたい。

「日露戦争 正しい戦史を伝えなかった軍部:対談「薩長史観」を超えて
 今年は明治百五十年。安倍晋三首相が今国会の施政方針演説を維新の話題から切り出すなど、明治時代を検証する動きが盛んだ。維新を主導した薩摩(現鹿児島県)、長州(現山口県)側の視点で「明るい時代」と明治期をたたえる「薩長史観」は根強い。来年四月末に平成が終わり、改憲の動きが活発化する時代の節目に、近現代史に詳しい作家の半藤一利さん(87)とノンフィクション作家の保阪正康さん(78)が語り合った。
 米国の仲介で薄氷を踏む形で講和に至った日露戦争について、半藤さんは大正、昭和の軍人に正しい戦史が伝えられなかったと指摘。司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」では「正しい戦史は資料として使われなかった」と語り、人気小説がノンフィクションと思われていることに懸念を示した。「太平洋戦争は維新時代の官軍(の地域出身者)が始めて賊軍(の地域出身者)が止めた。これは明治百五十年の裏側にある一つの事実」と強調した。
 保阪さんは「日露戦争の本当の部分が隠蔽された。昭和史を追うとそこに行き着く」と指摘。日清戦争で国家予算の1.5倍の賠償を取り、軍人は味を占めたと述べ、「日中戦争初期の停戦工作が不調に終わったのも政府が賠償金のつり上げやったから」と分析。「軍部に強圧的に脅され、昭和天皇は皇統を守る手段として戦争を選んだ。太平洋戦争の三年八カ月を一言でいうと『悔恨』。今の陛下はその苦しみを深く理解しているはずだ」と語った。
――「明るい明治、暗い昭和」という歴史観を持つ人が多い気がします。日露戦争を描いた司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」の影響もあるようです。生前の司馬さんと交流があった反動さんはどう捉えていますか?
 半藤 日露戦争後、陸軍も海軍も正しい戦史をつくりました。しかし、公表したのは、日本人がいかに一生懸命戦ったか、世界の強国である帝政ロシアをいかに倒したか、という「物語」「神話」としての戦史でした。海軍大学校、陸軍大学校の生徒にすら、本当のことを教えていなかったんです。
 海軍の正しい戦史は全百冊。三部つくられ、二部は海軍に残し、一部が皇室に献上されました。海軍はその二部を太平洋戦争の敗戦時に焼却しちゃったんですね。司馬さんが「坂の上の雲」を書いた当時は、物語の海戦史しかなく、司馬さんはそれを資料として使うしかなかった。
 小説と全然違う
 ところが、昭和天皇が亡くなる直前、皇室に献上されていた正しい戦史は国民に見てもらった方がいいと、宮内庁から防衛庁(現防衛省)に下賜されたんです。私はすぐ飛んでいって見せてもらいました。全然違うことが書いてある。日本海海戦で東郷平八郎がロシアのバルチック艦隊を迎え撃つ時に右手を挙げたとか、微動だにしなかったとか、秋山真之の作戦通りにバルチック艦隊が来たというのは大うそでした。あやうく大失敗するところだった。
 陸軍も同じです。二百三高地の作戦がいかにひどかったかを隠し、乃木希典と参謀長を持ち上げるために白兵戦と突撃戦法でついに落とした、という美化した記録を残しました。日露戦争は国民を徴兵し、重税を課し、これ以上戦えないという厳しい状況下で、米国のルーズベルト大統領の仲介で、なんとか講和に結びつけたのが実情でした。
 それなのに「大勝利」「大勝利」と大宣伝してしまった。日露戦争後、軍人や官僚は論功行賞で勲章や爵位をもらいました。陸軍六十二人、海軍三十八人、官僚三十数人です。こんな論功行賞をやっておきながら国民には真実を伝えず、リアリズムに欠ける国家にしてしまったんですね。
 爵位を得るため
 保阪 昭和五十年代に日米開戦時の首相だった東条英機のことを調べました。昭和天皇の側近だった木戸幸一がまだ生きていて、取材を申し込みました。なぜ、東条や陸海軍の軍事指導者はあんなに戦争を一生懸命やったのか、と書面で質問しました。その答えの中に「彼らは華族になりたかった」とありました。満州事変の際の関東軍司令官の本庄繁は男爵になっています。東条たちは、あの戦争に勝つことで爵位が欲しかった。それが木戸の見方でした。
 当たっているなあと思いますね。何万、何十万人が死のうが、天皇の名でやるので自分は逃げられる。明治のうその戦史から始まったいいかげんな軍事システムは、昭和の時代に拡大解釈され肥大化したのです。」東京新聞2018年2月20日朝刊、1・7面。

 今の中高の学校教育で、日本の近現代史を具体的にどのように教えているか、ぼくはよく知らないのだが、大学生と話したりレポートを読んだりすると、歴史上の事実についてあまり正確な知識をもっていない。それはある意味本人の学力の問題だろうが、歴史の事実とその評価が一致しない場合、物語的に「日本を悪く言ってはいけない」と思いこむ傾向があるように思った。つまり、日本がやった戦争について、事実はどうであったかの理解の中にネガティヴな部分は触れず、ポジティヴな部分は自慢するという態度が正しい、という傾向である。逆にいえば、明るい歴史は喜んで語るけれど、暗い部分は語ってはいけない、あるいはそれを語る人間は一種のタブーに触れていると考える傾向がある、ということだ。しかし、歴史とはそのように見てはいけないものである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする