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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

続「宮本武蔵」は現れるのか?

2014-05-30 21:49:28 | 日記
A.確率論について
 ものごとには白か黒か、正解か不正解か、YesかNoか、という二者択一的な考え方では対処できないことが多い。試験問題などでは正解はただ一つが望ましく、別解や、いろんな答えがあるのでは採点ができない。合格か不合格かははっきり示せなくてはいけない。しかし、たとえば明日の天気は必ず雨と予報できる場合は少なく、予報は降雨確率30%などという形で発表されている。それを聞いて人は「ちょっと雨も降るかもしれないが、たいしたことはなく、降らないかもしれない」と思う。これが確率論的な表現である。それはどうやって導かれるかといえば、天候に関する過去の経験値を総合して、起こると予想される可能性の程度、蓋然性を数値化しているわけだ。
 ちなみに『広辞苑』で「確率」という項目を引いてみた。
「確率」[probability]いくつかの事象の生ずる可能性がある時、特定のひとつの事象が起こる可能性の程度を事前に予想して、これをその事象の起こる確率という。公算。蓋然律。蓋然量。蓋然性。確からしさ。-確率誤差[probable error]ある変量(たとえば測定値)が平均値からずれる誤差を著わす量。この誤差の範囲内に入る確率は二分の一である。-[確率抽出]無作為抽出に同じ。[確率予測]天気予報の一種。将来の天気の状態を断定せず、その状態が実現する確率を予報する。1980年より東京地方、82年7月より各府県の降水予報に試験的に実施。-確率論:事象生起の確立の理論および応用を研究する数学の一部門。
ついでに次の項目は「楽律」楽音の音律。また、楽音を音律の高低に従い整頓した体系。十二律、平均律の類。
 確率のことを思い出したのは、ぼくのやっている調査の授業で毎度初歩的な統計の説明をしているからでもあるが、先日来漫画「美味しんぼ」での「鼻血」騒ぎをめぐって、福島原発の放射能への不安が話題になったからだ。放射性物質の飛散がいまの福島で、どうなっているのかは、皆が気になる所だが、放射能がどのくらい「危ないか」という問題は、白か黒か、ここまではよくてここから危ないという線が今すぐはっきり引けるものではない。つまり天気予報のような確率的な話だと考えてもよいかと思う。もう大丈夫安全です、というのもきわめて疑わしいが、むやみに危険だと怯えるのも根拠はさほど明確ではない。責任ある科学者なら確率的に言うしかない。セシウムの半減期だけでも長い時間が必要なうえに、原発事故で拡散された放射性物質にはセシウム以外にも人体に影響を与える物質がいろいろ含まれている。天気のように長い観測データが蓄積されていても、予報ははずれるのだから、原発事故の放射能汚染については、まだ分かっていないことが多い以上、今後数十年ていねいに見ていかないと予測はできないと思う。人間のもつ心理的効果や、対処行動の集積にも結果を左右する要素が含まれている。だから、ぼくは今のところ、福島浜通りについて安全とも危険ともいえない、判断保留にしようと考えている。

 片隅の社会学者としての関心から言えば、放射能の危険性ではなく、別の問題がむしろ気になる。
 2011年3月11日大震災の直後、福島第一原発の原子炉のいくつかが制御不可能になったとき、そこに勤務していた東電職員の9割が会社上司の構内待機命令に従わずに、南方の福島第二原発方面に逃げたという事実が、最近当時の所長、亡くなった吉田昌郎氏の聴き取り調書報告の中にあることが明るみに出た。深刻な危機的状況の中にあって、自分の命も省みず原子炉の爆発に対処した人々、「FUKUSIMA50」が世界から称賛を浴びた裏に、そこからさっさと逃げ出した人々がいた。でもそれを、非難できる人がいるだろうか?東京電力の社員として、職務命令に従うのは当然とはいえ、それはたんに私企業内の問題に過ぎない。今ここで、自分の命を危険にさらしてまで会社の命令に従って放射能を浴びるか、自分の命と家族のために現場を離れて逃げるのか、の選択を彼らは迫られた。それをぼくたちは「おまえらはヒドい」と非難できるだろうか。
 仕事のうえの義務など、しょせんは雇用契約上の問題である以上、それに反したからといって罰則はせいぜい懲戒減給などの処罰、最悪でもクビ解雇であって、命と天秤にかける価値はない。そんなことのために、愛する妻子の未来を損なう決断はできない。ぼくがその場にいたとしても、逃げる方を選ぶかもしれないと思う。ほんとうに信頼できる上司が残ってくれと言われたら残るだろうとは思うが・・。東電の社員であれば、原子炉から強濃度の放射能が飛び散ればどういうことが起るかは一般人よりは知っている。自分の身を守り人権を守ることが許されている社会を前提とすれば、事故を起こした原発から一目散に逃げるのは正当な権利ですらある。
 そこで、問題は「想定外」のパニック的事態に遭遇してしまった時、人はふだん冷静な合理的判断をしている人でも、とりあえず「逃げる」道を選択し、その結果さらに「不測の事態」を惹起してしまう、ということだ。福島第一原発事故の場合、幸いにもと言うべきだろうが、最悪の事態を予測して現場できわどい判断をし、職員の多くが逃げ去った後も原子炉の冷却などに必死で対処した(吉田所長をはじめ)人がいたことは忘れてはならないだろう。この人たちも最善の行動ができたとはいえず、混乱の中でかろうじて踏みこたえた。地震にしても津波にしても、そこで人々がどのような行動を取ったかは、これからの記録と分析の課題である。だが、人間の能力には限界があり、間違いを100%避けることができるなどと思う人間は、確率論を認めていないわけで、そういう人が政治家や経営者にいるのは、それこそきわめて危ない。原発放射能に関する専門家という人にも、確率という考え方に立たない人がいて、その楽観的な見解は、ものごとを最悪の事態から考えるのではなく、いちばん予想通りうまくいった場合から考えている。「日本人は優秀だから」などという無根拠なファンタジー、これは救いがたい愚かさと紙一重だと思う。



B.「宮本武蔵」の世界
 恐縮ながらまた「宮本武蔵」について、だが、内田吐夢版の「宮本武蔵」でひときわユニークな個性を発揮しているのが、武蔵の故郷作州宮本村の郷士の名家、本位田家の女性主「刀自」、浪花千恵子演じる「本位田のオババ」である。彼女は、武蔵(たけぞう)が後継ぎの一人息子又八をそそのかして関ヶ原の合戦に誘い、息子が行方不明になってしまったことで武蔵を深く恨み、仇をとると執念に燃えてこの長い物語の最後まで武蔵につきまとい、老女でありながら物凄いパワーで刀を振り回したり、吹き針を駆使して活躍する。社会学的にみたとき、この「本位田のオババ」は、日本的「イエ社会」の権化のような人物に描かれている。ぼくは昔この映画をはじめて見た時から、名女優浪花千恵子さんのオババに強い印象を受けていた。


刀自についても『広辞苑』にはこうある。  
  とじ「刀自」(トヌシ(戸主)の約。「刀自」は万葉仮名)①家事をつかさどる婦人。主婦。とうじ。万二〇「いませ母-面変りせず」②年老いた女。老女。宇治拾遺「女は耄いて雀かはるる」③貴婦人の尊敬語。欽明紀「青海婦人(おおとじ)」④禁中の御厨子所(みずしどころ)・台盤所・内侍所(ないしどころ)に奉仕した女房。下臈(げろう)の女官。⑤他人に仕えて家事をつかさどる婦人。いえとうじ。栄華「宮々の-専女(おさめ)にても」

 日本の中世を貫く「イエ社会」は、家産の長子相続と家長がイエの主宰者として大きな権力を振るう家父長制の社会システムと考えられるが、もとは土地に結びついた開発(かいほつ)領主から形成された武士階級のイデオロギーである。自分の土地を維持する地縁的秩序と、それを誰が継承し子孫に伝えるかという血縁的倫理が基本になっている。血縁的といっても、中国や朝鮮半島のような血縁者の厳格な系譜原理とは少し違って、イエの存続のためなら養子縁組や廃嫡を頻繁に行うような、実利的な要素をもっていた。それが強固な制度になるのは、江戸幕府が成立してからで、「イエ社会」は武家から上層農家や商家などに拡大していった。たとえば家産のある上層階級の結婚は、イエとイエが結びつく契機であり、親族制度から地域社会に及んで日本的共同体の基礎となっていった。他家から嫁いできた「嫁」は、そのイエの家長の嫡子と結婚した以上、後継ぎを生むことを要請され、「3年子なきは去れ」という言葉があったように、男の子を産んで初めて嫁としての存在を認められ、やがては家長の妻として「主婦」の地位を約束された。
 「ヨメ」という言葉が、最近ではお笑い芸人などから自分の妻の呼称として、若い男が使うようになっているが、「嫁」をめぐるこのような歴史的経緯を知っていれば、現代にはふさわしくないアナクロ用語だとぼくは思う。おそらく、これまでの自分の妻への呼称、「家内」「細君」「奥さん」「カミさん」「かあちゃん」などが、古臭くなったと感じて、「ヨメ」という言い方がなにか新しそうに思えたのだろうが、それは却ってもっと古い「イエ制度」を呼びおこすものだと彼らは無知だから気がついていない。

 それはともかく、「宮本武蔵」に戻れば、「本位田のオババ」というキャラクターは、既に家長である夫を失っていて、唯一「イエ」を継承するはずの一人息子に、すべての夢・未来・希望を託していたのに、農村共同体を飛び出して武士としての成功を夢見た武蔵にそそのかされて、息子が失踪したことにイエの権威そのものを否定されたと怒っている。しかも、息子の許嫁、つまり嫁予定者のお通が、自分の後継者であるはずなのに、武蔵に惚れて逐電してしまったことにも怒る。まだ結婚したわけでもないお通にも、「ヨメ」役割を強要する。武蔵を仇と狙うのも、又八は生きていて他の女と同棲していたりするので、名義上も仇打ちは成立しないのだが、「イエ社会」の論理からすれば、すべてを破壊した武蔵の責任だという「イエ的秩序」を頑なに信じている。
 さて、今の日本ではもうこのような「イエ社会的秩序」は、ほとんど崩壊している。今の若い世代にこの「本位田のオババ」の考えている理路は、理解を超えているだろうと思う。でも、この映画で「本位田のオババ」が、異彩を放つのは、「イエ社会」の権化がオヤジ的な上から目線の威圧的男性、パトリオティズムの中年男ではなく、カリカチュアのような老女であることだろう。オババは武蔵から憐みと親しみをもって敬遠される。
 「宮本武蔵」がなぜ戦後の日本人、あの激動の戦争時代を生き伸びた人々に、いろんな意味で愛好されたかの謎を解くカギがここにあるように思う。戦争に負けて、米軍の進駐軍に占領され、日本国憲法を始めとする戦後改革を受け容れた日本で、マッカーサーの一連の政治的・経済的・法律的な激変は一般大衆にとって、アメリカという異文化に制圧された悔しさをかみしめた半面、実はずいぶんと有難いものでもあった。そのひとつが農村共同体を核とする「イエ社会」の秩序の負の側面を、あっけらかんと否定したことだったと思う。

 戦前の日本では、女が結婚という制度の外で生きていくことは難しく、親のすすめる見合い結婚で「嫁」役割を引き受けてイエのために子を生み、姑に仕えて家事育児を担う人生が当たり前とされていた。これに対して疑問を抱く女性は日本中にいたはずだが、他の選択肢は限られていた。それが、戦後の家族制度でまず法的な解除を行い、やがてロマンチック・ラブをモデルとする社会意識が徐々に浸透していき、自分が愛する男を「選べる」と思うことで、旧来の「イエ社会」がじわじわと壊れていった。その過程で「宮本武蔵」の世界は、二重の変容を遂げたのではないか、というのがぼくの仮説である。
 つまり、二重の変容というのは、男にとっての武蔵の意味と、女にとってのお通の意味である。「本位田のオババ」が体現する「イエ社会」の論理に対抗する価値が、具体的にどのようなものであるかを示している物語として「宮本武蔵」を読み込む、ということになる。武蔵は、いったん「イエ社会」から飛び出して、剣の実力で成功を目指したが結果はみじめに敗北してしまう。しかし、お通のお蔭でこの失敗はリセットされ、彼は剣術修行に生きることで個人のメリトクラシーを求道者として追及する道にまい進する。これは、自分の生まれた共同体の重圧から解き放たれて、自分の実力一つで世間に認められるという戦後的個人主義を、戦前の文化的エリートの教養主義の衣をまとって塗り替え肯定することを意味する。俺もこれからは頑張って武蔵になれるかもしれず、勉強して大学に行けば新しい未来が開けるという希望が沸く。宮本武蔵が次々と敵を倒して栄光を獲得する物語として、これを読んだのは男のモデルである。しかも、剣の道に生きる武蔵は、すがりよるお通を愛しながら、恋は修行の邪魔だと拒否しながら、こうやって頑張っていれば美女が追いかけてくるはずだという、虫のよい期待が潜んでいた。成功した男には、綺麗な女がいくらでもすり寄ってくる、という妄想は、それ自体これから世の中に出てゆく若い男の子たち精神的に満足させる。

 一方、女にとって自己同一の対象はお通である。孤児であったお通は、「本位田のオババ」が期待している「イエ社会」の秩序を運命として受け容れていたが、それが婚約者のだらしのない背信によって裏切られてしまったゆえに、女としての生き方を捉え直す。彼女の希望は、西洋流のロマンチック・ラブとはいえないが、自分を解放してくれそうな武蔵という変な男への恋愛に賭けてみるという決断にある。これはつねに拒否されるのだが、お通は武蔵を追いかけることをやめないことによって、自分の女としてのアイデンティティを一貫させる。これも、戦後日本社会を生きた多くの女性にとって、自分の結婚を「イエ的秩序」ではなく、唯一排他的な愛の成就を追求することで今までの女の生き方ではない新しさを示唆していると考えた、かもしれない。自分の好きになった男によって、自分は特権的に愛され解放されるという夢の追及。
 しかし、それは結局報われたのだろうか?戦後日本の経済的成功は、多くの武蔵を成功に駆りたて、企業戦士たちは愛する妻を獲得して満足し、いつのまにか「イエ社会」の郷愁の中に沈んでいった。でも、その武蔵と結婚した女たちは、やがて自分はお通ではなく、ただの「ヨメ」としてイエと共同体に奉仕して家事育児で一生を終るだけでは満足できなくなった。そのとき、「宮本武蔵」の使命は終わって、男たちは武蔵の禁欲倫理を棄てて、無邪気に女と遊ぶ「坂本龍馬」に目を移していった。だが、女たちはもう男にすがりつき依存的なお通にも、龍馬の楽しい遊び相手のお龍にも魅力を感じなくなっていた。21世紀、男のロールモデルはどのような男なのか?今のところロクなモデルは出ていない。そして、女のロールモデルもいまのところ、?
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男のモデルとしての「宮本武蔵」について

2014-05-28 22:29:05 | 日記
A.「男の生き方」のロールモデルとしての宮本武蔵 
 人がこの世に生れて、子どもとして成長する中で、おそらく誰もがこのように生きてみたい、というモデルをどこかの時点で獲得しているだろうと思う。自分があるとき「男」か「女」かを意識するという経験は重要だと思うが、そこでアイデンティティ形成におけるジェンダー役割を獲得する際にも、モデルが大きな作用を及ぼす。「性同一性障害」とされる人の場合は、自分のもつ身体が、そうありたい性に馴染んでいないことを、どうするかが課題となるのだろうが、その場合でも、「男である」「女である」ということの意味は、なんらかのモデルを介して意識されるのではないか。
 ぼくがいま、なにを考えているかと言うと、「宮本武蔵」のことである。先日、1954年に東宝で作られた、三船敏郎主演、稲垣浩監督の「宮本武蔵」3部作をDVDで見た。昔、少年の頃、ぼくはこれを見たことがあるかもしれないのだが、ぼくの中では、この映画ではなく、1961年から東映で、中村錦之助(のちの萬屋錦之助)主演、内田吐夢監督で作られた全5部作の「宮本武蔵」が極めつけの強い印象を残している。映画を見るのと前後して、小学生のぼくは祖父の書棚にあった原作、吉川英治の「宮本武蔵」を熟読していたからだ。

 『宮本武蔵』は、吉川英治の新聞小説。朝日新聞に連載されたこの作品は、1935年の8月から、4年後の1939年7月まで続いた。この小説は二天一流の開祖でもある剣豪・宮本武蔵を主人公として、彼が自己を確立するに至るまでの成長を描くヴィルドゥングス・ロマンである。武蔵は、戦国時代の末期、作州つまり岡山県北部の郷士の息子に生まれ、一国一城の出世を夢見て友人の又八を誘って関ヶ原の戦に西軍の一兵として参加するが、惨めに敗残兵になって伊吹山中に潜伏するところから物語が始まり、彼を取り巻くさまざまな人々、とくに彼が武者修行の相手として戦う武芸者たちを倒していく長い小説である。剣禅一如を目指す求道者・宮本武蔵を描いたこの作品は、太平洋戦争下の人心に呼応し、新聞小説史上かつてないほどの人気を得た。国民文学とも言われた大衆小説の代表作である。
  この作品は、菊池寛と直木三十五との間に生じた宮本武蔵の強弱を論じた論争に端を発する。1932年に直木が「武蔵=非名人説」を発表し、それに対して菊池が「武蔵=名人説」を唱えて反論した。論争の最中、直木が吉川英治に対してどちらの説を採るかを尋ねたところ、吉川は菊池説を支持すると表明した。直木は「吉川が武蔵を名人とする理由を発表せよ」と迫ったが、この要求に対して吉川は沈黙を守った。1935年になり吉川は本作を発表。戦前1936年、新興キネマの嵐寛寿郎主演、滝沢英輔監督の映画化以来、繰り返し日本国民の間で流布し、戦後は、徳川夢声によるラジオ朗読が大人気となり、何度も映画化された。
  そのこと自体、文化史的な現象として興味がある所だが、映画的には1961年東映、中村錦之助(のちの萬屋錦之助)主演、内田吐夢監督の全5部作が極めつけだというのは、ほぼ定着した評価だろう。それはとりあえず置いておいて、日本の戦前から戦後にかけての激動期、この作品が「男の生き方」についてモデルを提供していた、という点にこだわってみたい。おそらく、「宮本武蔵」をそのように読んだ世代は、ぼくよりも少し上の戦中派、あるいは戦後の疎開児童の記憶がある世代までで、その後の戦後派には「宮本武蔵」よりは、司馬遼太郎の「龍馬がゆく」の方が影響は大きいと思われる。そして、今の40代以下の世代には「宮本武蔵」に「男のモデル」を感知する人はぐっと少ないだろうと思う。宮本武蔵から坂本龍馬へのモデルの移行というのも面白そうなテーマだが、これもここでは置いておいて、かつて「宮本武蔵」がそれほど日本の男に影響を与えたとすれば、その焦点の一つは、「男女の恋愛のかたち」にあるというのが、ぼくの仮説である。
  そこで、今回「宮本武蔵」映画の稲垣浩版と内田吐夢版を比べて見て、さまざまな相違点が興味深かった。原作でも映画でも武蔵は、自分を罪人の境遇から救い出してくれたお通という友人の許嫁だった女性に、強い愛情を抱きながら、剣の修業という自らに課した目的のために追いすがる彼女を、つねに拒否する。拒否していながら彼女への恋慕は消えるどころか、つねに燃え盛る。このアンヴィバレントな状況が、「男の生きざま」にたんなるマッチョのヒーローとは違った彩りを与える。家父長的イエ制度のなかで男女の恋愛が、なかばタブー視されていた昭和戦前の日本社会で、この物語が次々と強敵を撃破していく剣豪、というモデルだけであったなら、これほどまでの大衆の人気は得られなかったはずだ。
  男同士の熾烈な戦いを戦闘的に生きながら、同時に彼を慕い続ける美女がどこまでも彼を追いかけてくる、その美女を心の底で愛しながら、あくまでも剣の道には命をかけても恋の道は拒否するという非常に無理な設定。自分を人格的に高めようと努める教養主義的な武蔵は、お通への愛をも、ストイックな精神性だけで対する。これが「男のモデル」であったという、ある意味奇妙な構造がある。子どもだったぼく自身、中村錦之助の宮本武蔵に同一化して、男は自分の一生のテーマとする戦いの道(それは、いってみればこの社会で高く評価される成功という道)を歩んでいれば、いやでも美女は追いかけてくるはずだという、なんの根拠もないテーゼを信じてしまったという、愚かさを反省したからだ。しかし、それは内田吐夢版の宮本武蔵を過剰に読み込んだのかもしれないと、稲垣浩版の宮本武蔵を見て思った。
  稲垣浩版の武蔵・三船敏郎とお通・八千草薫の恋は、どうもそういう昇華されたものではない。ここでは武蔵は、お通を拒否しながら目の前にお通がいれば、つい欲情に負けて抱きついては逆に拒否されて悩んでしまうようなありふれた男である。あるいはもう一人の奔放な色女、岡田茉莉子演じる朱実にもゆらゆら迷ってしまう。女性たちも、武蔵が追求している剣の道などには世俗的な成功以上の意味は見出さず、ただ私を愛して!私をとるの?暴力闘争に生きたいの?と迫る。これは、人間世界のリアルにとってはまことに正当なものである。性愛と幸福に意味を見出す女にとっては、人殺し競争の技術を競って意気がっている男など、馬鹿でしかない。だからリアリティというならば、そもそも宮本武蔵のような男は、見た目のイケメンか、世俗の成功を得て自分を安定した生活に導いてくれない限り、なんの価値もないはずなのである。しかし、内田吐夢版の武蔵は、そんなことを考えることすら卑しいと拒否して、ただひたすら高貴な求道僧のごとく、宿敵佐々木小次郎を倒すことに情熱を燃やす。
  最大のライヴァルである佐々木小次郎も、稲垣版・鶴田浩二と内田版・高倉健では対照的である。ぼくは高倉健の佐々木小次郎を、最高のキャラクターとして愛しているのだが、人工的に造形された武蔵に対して、小次郎は剣客として同じ価値観に立ちながら武蔵のように欲望を否定して禁欲倫理に自分を縛るのではなく、自分を高く売ろうと就活にも励むし気に入った女はすぐ抱いてしまう。それが軽薄な悪役にならずに、魅力的な好敵手になっているのは高倉健という俳優の功績である。司馬遼太郎が切り開いた新たなヒーロー・坂本龍馬のイメージは、宮本武蔵ではなく、この佐々木小次郎の系譜になると思う。
なんだか、気まぐれに宮本武蔵論を書いてしまったが、この考察はもう少し続けてみたい。



B.「最終局面が近づいている」といっても、今日明日の話ではないから困るのだ。
 非正規雇用、派遣労働の拡大、低賃金と長時間労働のさらなる進展。これはもう数年前から誰もがこのままいったらとんでもないことになる、と予感している。かつての多数の人々が安定した生活と未来への希望を抱いた「豊かな社会」はすでに崩壊してしまった。しかし、日本をはじめとしてこの事態に有効な対処をする方策は見つかっていない。それを仕方がないことだとして、とりあえずグローバル資本主義の波に沈まないように、経済を支える企業を強くして、競争を勝ち抜きさらなる成長を追求すれば良くなっていく、という楽観論を信じる人はまだ多い。アベノミクスが一時的なカンフル剤で気分は景気回復を謳っても、実質的には何も問題を解決するわけではない、と考えるのは、ぼくのような現代経済学の素人でも容易に理解できる話に思える。
 最近の朝日新聞に派遣労働に従事するある女性をとりあげた記事があり、それに水野和夫氏がコメントを述べていた。以下その引用。

「16世紀以来、世界を規定してきた資本主義は成長を最も効率的に行うシステムだった。私はその資本主義が最終局面に近づいているとみる。派遣を含む非正規労働のあり方を、この観点から考える必要がある。
 資本主義は利潤を得る主体の「中心」と、利潤を獲得する場である「周辺」(フロンティア)で構成される。かつては先進国にとって多数の途上国が「周辺」だった。だが地球上での地理的フロンティアは、アフリカにしか残されていない。
 日本で続く異常な低金利からもわかるように、資本が得る利潤はほぼゼロに等しくなってしまった。状況が大きく変わったのに、先進国の資本はこれまで通りに利潤を追求しようとして、1990年代後半以降、自分たちの国内、地域内に、新たな「周辺」をつくることになった。
 米国では従来の住宅ローンの審査には通らなかったサブプライム層。欧州連合(EU)では自国の体力以上に国際市場からお金を借りたギリシャ、キプロス。そして日本では非正規社員がそんな「周辺」だった。
 資本がもっと前進するために、雇用が犠牲にされたともいえる。グローバル化の進展も資本には有利に作用した。瞬時に移動できるカネ(資本)は、新興国への工場移転を「脅し」に使う形で、簡単には動けないヒト(労働者)に、賃下げなど労働条件低下を受け入れさせた。日本では、90年代後半からの労働市場の規制緩和は、総人件費抑制の有力な手段となった。実質賃金は、97年1~3月期をピークに下がり続けた。
 同じ国の中で顕在化した貧富の二極化は、最終局面にある資本主義が生みだした矛盾なのだ。どう格差を是正するかは世界的な課題。日本ではとりわけ雇用問題に取り組む必要がある。派遣などの労働規制の緩和ではなく、逆に規制を強化して原則的に正社員としての雇用を企業に義務づけるべきだろう。「働く人の多様なニーズに応える」が非正規労働拡大のうたい文句だったが、労働規制緩和は資本家の利益のためにすぎないことはいまや明白だ。
 フルタイムで働く日本の一般労働者の年間総実労働時間は先進国でも上位の長さだ。長時間労働をなくす規制を実施すれば、新たな雇用が生まれるワークシェアリングも可能になる。数百年単位の歴史の大きな転換点に立っているという観点から、資本主義の次を見通すような働き方を、官民ともに探っていくべきだ。」水野和夫「資本主義がつくった国内の「周辺」」朝日新聞5月23日朝刊7面(聞き手・林美子)。インタビュー「ある派遣社員の体験」へのコメント。

 ものごとを半年、1年のスパンで考えるか、10年、20年のスパンで考えるかで、まったくちがって見えてくる。ぼくはもう60歳を過ぎてしまっているので、あと10年先がどうなるかを考えると、そのときこの世に生きているか、死んでいるかもしれないし生きているとしても今までのようにものを考えていられるか、生物としての身体に依存している以上、なんともいえない。でも、若い子どもだってその生存の条件は同じなのだから、それは考えてもしょうがない。ぼくが死んでも、世界はさらに続いていき、生きている人のリアルな状況は今から繋がっているだろうから、資本主義の未来がどうなるかということを考えるのは、むしろ個体の生命を超えて、楽しいかもしれない。1年先の日本が、安倍晋三とその取り巻きのような権力者の恣意的な横暴に屈するとしても、こんな妄想的な政治が10年先まで続いているはずはない、と思えば、また希望も湧いてくる。

 安倍政権は、いま開催中の国会に労働者派遣法の改正案を提出している。
「労働者派遣法:1986年に施行。「派遣労働は例外的な働き方」という原則のもと、現行法では「専門性が高い」とされる26業務以外では最長3年しか派遣を受け入れられない。改正案では、労働組合の意見を聞いたうえで3年で人を入れ替えれば、ほとんどの業務で無期限に派遣を使い続けられるようになる。派遣労働者数は127万人(2013年)。

 朝、TVの国会中継を見ていたら、中谷元という元防衛族の議員の質問で、集団的自衛権が必要だという理由について、改めて彼らが何を根拠にそのような主張をしているのかがよくわかった。日本国憲法ができた時点では、駐留米軍は圧倒的な戦力で、日本軍などなくても日本は敵に攻められなかった。その後、アメリカの支配力が低下して日本の軍備が少し必要になった。少なくとも日本領土は自分でやってね、になった。そしていま、中国の軍事的脅威に対して、アメリカはもう手が足りないから、日本に助けて欲しいといっているので、日本軍を強化していつでも戦争できるよ、とする緊急の必要がある、という構図である。なにか、ハリウッド娯楽映画を見せられているような気がした。
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「守ってやる」という思想について

2014-05-26 21:11:07 | 日記
A.武力で守れるもの、ってなんだろう?
 若い女の子が、こう言われたらグっとクル言葉に、「守ってやる」というのがあるそうだ。昨日岩手県で開かれたAKBの握手会で、のこぎりでアイドルを殺傷するという事件が起きた。AKBの人気創出にこの握手会というイヴェントが大きく作用していたという。だが、アイドルに対面して手を握るという行為には、親密さを演出するという効果が期待されている。そして、握手の代わりにのこぎりを出すというのは、逆説的に、疑似公共空間にさらなる親密さ、つまり血をみる行為で犯人は何かを実現したかったのだと見ることもできる。愛情は一線を超えたがる欲動を秘めてしまうから。そして、主催者側が予期せぬ暴力からアイドルという商品を「守ることができなかった」ことを反省する、という報道が流れていた。
木村敏氏の「リアル」と「アクチュアル」についての考察を読んだ後だったので、ぼくはどうもこの「守ってやる」という言い方が気になった。握手会という空間を共有して、その場に「イル」ことの「リアル」を「アクチュアル」に転化したい、という欲動。
 若い男の子たちが、彼女に「俺がお前を守ってやる」「大事な人を守ってあげる」といった状況に憧れる心理、あるいは若い女の子たちが、自分がほかの女の子たちと違う、特権的に「守られる」存在であると言われることが嬉しい、という心情は、わからないでもない。でも、それを暴力との関係で考えてみると、「守る」とは暴力で対抗することを意味する。でも、人間が振るえる暴力などたかが知れている。だいいちそれは、彼女が理不尽な暴力に晒されているような状況が目の前にあるときに限られる。その前に立ちはだかって、自分がその暴力を引き受けて、敵に立ち向かい打倒した場合に「守る」ことになるのだが、敵の暴力がこちらを上回れば「守る」ことにならない。「守ってやる」はたんに「気力」や「根性」のいきおい、みたいな話になっている。
 韓国の沈没船騒ぎはもっと深刻で、これも高校生たちを「守ってやれなかった」責任はだれにあるのか、と反省することが政府も揺るがしている。集団的自衛権発動にかんする安倍首相の妙な説明をもちだすのも、いいかげん飽きるが、この場合も、「俺が守ってやる」というヤンキーじみた思想があるように思う。ただし、軍事力を使う紛争では、理不尽な暴力に晒された無力な国民を、武器をもった軍隊が出張って「守ってやる」ということだから、ことは「守られる」側も「守る」側も、命をかけなければならず、たいていの場合は悲惨な殺し合いになる。多くの戦争の始まりをみれば、「守ってやる」と言って武力を発動し、結果的には「守るためには先制攻撃が必要だ」になり、「守れなかった」ばあいは次は「攻め込まないと守れない」になって、「やっつけてしまえ」という声が沸き上がる。暴力は連鎖しエスカレートする。



B.ウチとソト、そしてワイセツの公理
 サルの動物行動学という分野で、いわゆる京大サル学は世界に知られている。サルの研究はなかば必然的に、人間の動物としての行動と比較するかたちで、多くの示唆を与えている。ヒトの精神病理学の権威、木村敏氏の考察をもう少し読んでみる。
「人間は家を建てることによってウチを設立し、自分がイルための居場所を設定する。ウチとは要するに居場所のことである。これはなにも人間に限ったことではない。動物も植物も居場所を必要とする。行動可能な動物は彼らのナワバリを画定して居場所を獲得し、ウチとソトでの行動様式を区別する。ウチを設立するということは、「居る」という仕方で存在の必然性を可能にすることである。存在の必然性の条件となることによって、ウチそれ自体も交換不可能な自己同一性という性格をおびてくる。これに対してソトは偶然性と交換可能の領域である。生物がウチとソトを区別するのは、「それ自身」としての自らの同一性と存続の必然性を保持するため以外のなにものでもない。もちろんこのことは、個体が自らの存続(イルこと)に必然性を与えるために所有している、もっとも「身近」な「ナワバリ=居場所」と見ることができる。
 しかしまさにこの点において、身体というかたちをもった物体はひとつの悲劇的な矛盾をひき起こす。身体をもち、身体を所有するということは、物体として対象的にアルということである。日本語は「モツ」にも「アル」にも同一の「有」という漢字を当てている。生物は身体を「有する」ことによって、「有」の偶然性の領域に身を曝すことになる。アクチュアルで交換不可能な個別として、普遍を生きるための居場所であるはずの身体が、かえってリアルな特殊として、対象一般の中に包摂されるということを可能にしてしまう。生物は身体を所有することによって、必然と偶然、イルとアル、個別と特殊、リアリティとアクチュアリティの二重構造を生きなくてはならなくなる。この構造が人間の意識にイルの必然としての「自」とアルの偶然としての「他」の観念を生み出し、これが人間関係における自他の根源となったものと考えてよい。
 フロイトは『快感原則の彼岸』で、《あらゆる生きものは内的な理由から死んで無機物に還る》と書いた。この「内的な理由」が「死の欲動」(Todestrieb)を指していることは言うまでもない。それは《生命ある有機体に内在する衝迫(Drang)で、この生命あるものが外的な妨害力の影響で放棄せざるをえなかった以前の或る状態を復元しようとする》一つの欲動である。前章にも書いたようにフロイトはこの論文で、個体の生命の取り消しを目指すこの「死の欲動」(=タナトス)を、新たな生命を生み出すことによって個体の死以後も生命を存続させる性欲動(=エロス)と対置し、欲動の二元論を構築することになる。
 その後の精神分析理論の中で大きな混乱を巻き起こしたこの欲動二元論は、前にも書いたように、もとはといえばフロイト自身における「生命」概念の混乱に由来している。ヨーロッパ各国語の「生命」(life, Leben, vie)も日本語の「生命」も、すべて「個体が生存していること」を意味すると同時に、個体を超えた「生命一般」をも意味している。たとえば、ハイデッガーがLebenを「誕生と死のあいだ」に見たのに対して、エルヴィン・シュトラウスはこれを「生殖と死のあいだ」に見ようとした。日本語で言えば前者は「人生」ないし「生涯」ということだし、後者は個体の「生命」ということになる。しかし両者がともに始まりと終わりをもつ有限の「生存」を問題にしていることに変わりはない。
 これに対して、個体の死を超えて連綿と存続する生命、フロイトが性欲動=生命欲動の概念で言おうとしている生命は、原理上、始まりも終わりももたない無限定の連続である。個体の有限な生命は、この無限定の連続が、RNAから多細胞の身体に至る生命物質のかたちを取ることによって、それ自身を限定したものと考えられる。だから「死の欲動」は、このいわば「外敵」な限定を取り消してそれ以前の無限定の状態を復元しようとする欲動なのであって、本来「生命欲動」と二元論的に対置されるべきものではない。「無限定の連続性」としての「生命」は、個体の生命の観点から見れば「死」と区別のつかないものなのである。」
「悲劇の源泉としての身体――力への意志と必然性」木村敏『偶然性の精神病理』岩波現代文庫、2000、pp.87-90.

 人間は身体をもつ動物という点で、サルと変わらないが、サルと違う点は「言語」を操る能力を獲得したことだろう。しかし、人間が「言語」を獲得したことで、サルなら悩まない多くの問題を深刻に悩む存在になってしまった。それはとりわけ動物なら当然もっている種の存続を確保する「性」について、ややこしい難問を抱えることになった。これについては、まず原理的に考えてみることが必要だし、ぼくたちは誰もが、「言語」ではなく「性」について多くの問題を抱えているはずだし、とくに現代の日本では、「性」を考えることは社会そのもののあり方を考えることなしには、何も解けてこない。その意味で、次の橋爪大三郎の明快な説明は、なるほど、ではある。だが、生殖技術の進歩というある意味で画期的な事態は、「性行為」によって生命が生まれる、動物一般に共通する有性生殖によるヒトの再生産という動物の不変なはずのメカニズムが、危機に晒されているという新たな問題は、まだ社会学でじゅうぶん俎上に上がっていない。試験管で子が生まれることが現実になったときから、公共空間の公序良俗で保たれた秩序にたいして、「性」のリアルは変質し、身体の親密なつながりをもたなくても、生命がこの世に生れ、さらに望ましい遺伝子を造り出したいという、社会的な「アクチュアル」が技術化されたとき、社会は根底から変わってしまう可能性が予感される。

「愛と性は切っても切れない関係にあるので、身体や性の話をします。
 性も社会の根本的な問題なので、私は昔から考えてきました。
 私の考えでは、人間と人間はお互いに身体としてあり、身体を通してつながることで社会を作ります。そのつながり方には何通りかあります。言語派社会学では物事をなるべく単純に考え、人間同士が、身体で無媒介につながる場合と、そこに何か媒介が入る場合を区別します。そして無媒介な場合を「性」と名づけ、何かの形式を間に挟んでいる場合を「言語」と名づけたのです。
 性のなかで根源的なのは、人間が人間から生まれるという関係です。これは言葉と関係がありません。誰もがそうやって生まれてきます。どうやって生まれてきたかといえば、その前にいろいろなプロセスがあり、ふつうは結婚というかたちをとります。セックスも身体と身体の直接的な関係です。
 それに対して、世の中にはセックスのように親密にはならない、たいへん大勢の人たちがいます。親しい人、ちょっぴり親しい人、ほとんどどうでもいい人を含めてこの人びとを組織するのは、性とは別の社会的関係です。そのときに何が役に立つのか。言葉や、言葉が形を変えたものと言ってもいい貨幣など、いろいろなものがあります。そのことで、さまざまな集団や組織、都市が成り立っています。
 ここまでは多くの人が考えることですが、私はその先に、次のような公理を考えました。それは「ワイセツの分離公理」というものです。
 ワイセツという現象はお分かりだと思いますが、よく考えていくと、いくつか不思議なことに気がつきます。そのことを『性愛論』(岩波書店、一九九五年)という本に書いたのですが、ワイセツとは何だろうと考えると、なかなか難しい。とにかくそれはいけないことになっていて、取り締まられたりするわけですが、ワイセツな現象によって誰が被害を受けているのかよく分からない。
 たとえば公然猥褻という罪があります。大人が裸になったり、大人同士が公然の場所でいちゃいちゃしたりして、度が過ぎると刑法に引っかかります。本人は喜んでやっているので、加害―被害の関係にはないわけです。通りすがりの人が被害者なのでしょうか。でもかえって喜んでいる人がいるかもしれない。いったい誰が被害を受けたのかを言うことは難しい。権力に言わせると、「公序良俗に反する」わけですが、公序良俗の実態は何かと考えると、よく分からない。
 動物行動学にサルやチンパンジーの研究があり、何かヒントにならないかと調べてみました。研究をしている人は、たとえば、ボスがどれだけ多くのメスを従えているか、どれだけ権力を持っているかということを調べています。私は、サルがどういう状況でセックスをするのかに興味をもち、いろいろなサルについてデータをみました。それでわかったのは、みんなが見ているところでセックスをするということです。子供がいようが他のオスがいようがメスがいようが、関係ない。ということは、ワイセツという感覚はサルにはないのではないか。それは、なぜなのだろう。
 むしろ、人間がワイセツという感覚をもっているのはなぜなんだろう。そう考えたほうが問題の本質だと思うのですが、驚いたことに、どうもこういう問題を正面から取りあげて考えた人はこれまでいないらしい。そして、説明しようとすると、とても説明しづらい。しいて言えば、それは社会の出発点であるために、それ以上説明できないのではないか。人間の場合、家族をつくる、ペアになるという親密な関係と、いわゆる公然の関係、社会のなかで必ずしも親しくないみんなが何かをするという関係が二重になっていて、前者を小さな領域に閉じこめ、それを取り巻くように社会があるわけです。
 サルやチンパンジーにも安定したペアはあるようですが、それは群れなんです。家族と社会の区別がなく、家族兼社会です。群れの状態では、ペアになるという性の場所と、公共の場とは区別されておらず、ワイセツという現象もない。人間の場合、個体と個体の親密な場と、それを離れた大きな場、公共の場とが分かれていて、そのどちらであるかによって人間関係のパターンが違うのです。親密な場のあり方で公共の場に飛び出してしまうと、公共の場から見てワイセツということになるので、場合によっては刑法で禁止されていたりするわけです。これはどんな社会にもある。それは、家族と社会が分かれているからなんですね。
 社会がこういうようになっているとすると、それは社会の出発点ですから、公理と考えればよいので、「ワイセツの分離公理」とよんでみました。
 言語が「意味を共有する“公然”の空間」を、性が「それと区別され“秘匿”される空間」を作り出す。このように二通りの空間を作り出しますが、それはなぜか。
 言葉は誰にでも共有されますが、性は誰とでも共有されるわけではありません。ある人とはペアになり、別の人とはペアにならないんです。
 まずどんな社会にも、近親相姦の禁忌というものがあり、ある範囲の異性は、ペアの対象にはならない。これは、家族が社会から独立しないように、家族のメンバーがいつでも社会に還流され、もう一度社会のなかで小さな家族を作るようになっているからで、そのことで社会全体が安定するように、ということだと思います。
 近親相姦の禁忌は社会にとって大事である、と構造主義の人類学者(レヴィ=ストロース)が述べていて、これは通説です。それに加えて、私は、ワイセツという現象が車の両輪のように、近親相姦の禁忌と対になっていて、この二つで社会の基本的な性の構造が出来上がっていると考えています。そうすると子供は、家族のなかで性愛の表現を禁じられているわけですから、どうしても家族の外に、自分の対象を見つけなくてはならなくなる。
 外側には見ず知らずの人がたくさんいますが、このなかの誰と仲良くなればいいのか。これは選択の問題です。話しかけてみたり、一緒に何かをしたり。じゃあ手をつなぎましょうと、だんだん仲良くなっていく。それが愛情表現と呼ばれるものであり、性愛と呼ばれるものです。人はそうするように運命づけられているのですね。そうでないと家族が再生産できない。
 こういう背景を考えてみますと、愛情とは単なる「心」の状態ではなく、一連の行動、文化の一種であり、そういう行動を人間は習得するわけです。その反作用として、自分の「心」の中に愛情というものができてくると感じられる。そういう順序になっているのではないかと考えたわけです。」橋爪大三郎『「心」はあるのか』ちくま新書、2003、pp.140-145.

 「少子化社会」という問題は、たんに女にもっと子供産んでもらわないと、経済的に苦しいという、国家の都合や目先の工学技術の問題にすり替えられてしまうとしたら、ぼくたちは人類の未来になにか大きな過ちを犯してしまうかもしれない。
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人間であること、いや動物であること、ロボットでなく・・

2014-05-24 23:41:03 | 日記
A.無人で戦争ができたら・・・
 69年前、原子爆弾が発明され、さっそくそれが広島に投下され、それがこれまでの兵器の概念を変えてしまうほどの威力をもつことが各国の指導者に知られ、やがて、アメリカとソ連という当時の二大国が核兵器を持って対峙した。そのときから、ロケットに核ミサイルを積んで相手の中枢を攻撃することも可能だが、同時に相手も同じように核ミサイルを飛ばせるから、いわば致命的な相打ちになる可能性も確実になった。しかも、核兵器の威力は広島の何倍もの威力になったから、周辺国を含む広範囲に放射能が拡散し、地球の多くの地域が人の住めない土地になってしまう。つまり、核兵器はその恐ろしい結果の故に、もっていても使えない武器になった。しかし、その時はまだ、爆弾を積んで飛ぶ爆撃機には飛行士が乗っていたし、戦闘機にも戦車にも兵士が乗って操縦しなければならなかった。
 日本軍がやった特攻や人間魚雷みたいな若い生命を平気で兵器にしたのはとんでもないとしても、今までの戦争は兵士が兵器を扱ってやるものだった。でも、核兵器が登場したときから人が乗らないミサイルの精度を上げる技術とともに、宇宙開発も始まった。宇宙へのロケット飛行は、日本では戦争とは無縁なロマンのように語られたが、地球の外側から地上を観察できるようになれば最上の軍事情報である。いまやそれは、ぼくらも便利なGPSとして使っているまでになった。地球上のどこにある建物でも歩いている人までが識別できる技術は進歩した。ロケットだけでなく、ロボットの技術も高度化していて、鉄腕アトムは人間を危機から救うために働いてくれるが、その鉄腕はせいぜい悪人ニ、三人を殴り倒す程度の暴力を控えめに使うだけだ。米軍が開発する技術は、もっとハイテクである。

本日の夕刊から。
「米軍の無人機 日本に初配備 三沢基地到着」
 米軍の無人偵察機グローバルホーク(GH)が24日午前6時5分、在日米空軍三沢基地(青森県三沢市)に飛来した。日本で初めての米軍無人機の展開となる。グアムのアンダーセン基地に配備されている2機が10月まで、三沢基地を拠点に日本周辺の情報収集活動にあたる。
 全長14.5メートル、両翼39.9メートルで約30時間の飛行が可能。最高高度1万8千メートルまで上昇して画像情報や電子情報を集める。パキスタンで過激派殺害の作戦に使われた「リーパー」などのように、ミサイルでの攻撃能力はない。
 日本の防衛省によると、米軍は週2回程度の飛行を予定。離着陸時は、三沢基地内の地上設備でパイロットが操縦し、一定高度以上になると、米カリフォルニア州のビール空軍基地から衛星通信を通じて遠隔操作する。
 GHの在日米軍基地への一時配備は、昨年10月の外務・防衛担当閣僚会合(2プラス2)で合意していた。グアムは5~10月ごろに台風に見舞われることが多く、GH運用に支障が出やすい。このため、日本を拠点にして稼働率を高める狙いがある。2機目は28日に到着する予定で、6月上旬から運用を始める。1面記者署名記事」

 戦争というものが、結局人を殺し殺されるものであることは、古代から変わらなかった。誰も死にたくはないが、戦場では自分が死なないために人を殺さなければならない。でももし、自分が人を殺すのではなく、機械が人を殺しているだけで自分はただその機械を操縦しているだけだとしたら、あるいは、自分は殺されることがない遠く安全な場所にいて、敵だけを殺すことができるなら、戦争というものは画面上のゲームとなにも変わらないものになる。それで敵の生命がたくさん亡くなろうが、戦争の目的も国家の必要も達成されるのだから、こんな結構なことはない。かつて核兵器を手にした米ソの最高責任者が、人類の未来を左右するボタンを押すことに厳しい緊張感と倫理観を痛感したようには、おそらく自覚することはない。



B.精神医学者の哲学・現象学「的」
 精神医学というものに、ぼくは以前から関心をもっていた。それはフロイトやユングを読んでみて何かを感じたからではなく、ぼくの小学校の同級生、それもとくに仲が良かったわけでもない友だちが、大人になってから突然やってきて何度か食事をした後で、精神病院から突然電話があり、いま病院に措置入院している患者があなたを指名して会いたいといっているから来てくださいと言われて、郊外の精神病院に会いに行ったことが初めである。行ってみると、彼はオリの中にいた。家族から見放されていた。精神医学が治療としてやっていることは、医学的な医療だと思っていたが、これは普通の病気を治すのとは違うのではないかと思った。
 しかし、医学とは近代科学の最先端の技術ではないか。ぼくのやっている社会学は、近代科学を目指して始まった学問でありながら、つねに近代科学という方法と視点に疑問を抱くものだと思った。本物の精神医学者、豊富な臨床経験もある木村敏の本は示唆的である。

「精神医学はいま、というよりもここ二、三年来、決定的な曲がり角にさしかかっている。人間の「こころの病」を「こころ」の病として、それに相応しい方法で、しかも学問的に扱えるかどうかが、あらためて根底から問われていると言ってよいだろう。
 一方では向精神薬の発見に端を発した中枢神経系の自然科学的研究が、ニューロサイエンスの爆発的な進歩とコンピューターによる人工知能の急速な開発とに歩調を合わせて、幻覚や妄想などの病的精神現象だけでなく、記憶や認知といったそれ自体は中立的な精神機能にいたるまで、あらゆる精神活動を脳の物質的過程に還元しようとしている。中枢神経系の決定論的な法則性と個々の精神活動とのあいだの因果論的な対応関係が、さまざまな中間仮説をはさみながらも最終的には化学的「真理」の名のもとに要請され、独特の不確定性と反論理性につきまとわれている「こころ」などというものへの言及は、もはやノスタルジックなセンチメンタリズムとしかみなされなくなっている。
 他方では、精神症状そのものを数量化して測定の対象にすることをめざす「計量精神医学」が出現し、そこでえられた数値のコンピューターによる厳密な統計処理を強力な武器として、「科学的」精神医学の一角を占めつつある。抑鬱や不安といったもともと強弱や大小の指標を与えやすい症状だけならばともかく、妄想や「自我機能」の障害にまで人為的な段階をつけてこれを数字に置き換えるという、いわばきわめて強引でプリミティヴな操作が精神現象の複雑さには到底対応しきれないこと、これをいかに厳密な統計によって粉飾してみても所詮精密科学とのあいだの距離が縮まるものでもないことは、計量精神医学を推進する人たち自身が充分に自覚していることである。それにもかかわらずこの研究方向が台頭してきている理由を考えてみると、結局はこれもやはり、「こころ」独特の曖昧さと多義性、特にこれまで患者自身や観察者の気分に任されていた評価の主観性、個々の「こころ」の「各自性」といったものに対するイディオシンクラティックな嫌悪感、あるいはこういった主観的な多義性を学問の営みから消去したいというこれまた特異体質的な「客観性願望」以外のなにものでもないように思われる。
 個人の自由な「こころ」につき物の「主観性」や「主体性」、とりわけ経験ゆたかな特定の個人の「名人芸」的な直感を、科学的真理の客観性に反する――いわば迷信と同格の――誤謬とみなし、なんとしても打破すべき偏見とみなそうとするこの科学的客観主義は、特定の個人の特権を忌避して多数決の原理を偏重する近代の――とくに英国や米国の――民主主義と一脈相通じるところがあるのかもしれない。このことは、計量的で操作主義的な精神医学が英語圏を舞台にして展開されていることと無関係ではあるまい。民主主義と個人主義は、ともに個人の自由を圧殺する全体主義に対置されることによって連帯しているように見えるけれど、その本質はまったく違う。内面的な個人主義と外面的な決定にあたっての民主主義とのあいだでなら、両立の可能性もあるだろう。しかし「こころ」というような内面の事象に関してまで「民主的」な客観主義が拡大されるとなると、これが個人の自由を無視する全体主義と区別しにくくなることは避けがたいことである。

 この前門の虎と後門の狼にはさまれて、「こころ」の医学としての精神医学はどこへ行こうとするのか。こころとは何といっても、私のこころ、彼のこころ、彼女のこころなのであって、私や彼、彼女の「各自的」な主観性、そしてそれらの交換不能性をこそ存在の要件としているものであるはずなのだから。

 この間主観性ということについていえば、これは決して彼と私、彼女と私というような二人関係に限ったことではない。フロイトは集団心理についての論文を書いた。集団精神療法などでは「グループマインド」という言葉を使う。精神医学から政治や社会の現象に視線を移すと、もっと巨大な人間集団があまりにもみごとに統制のとれた単一方向の価値観を作り出していて、個々人の外面的・内面的な行動パターンを一色に染め上げているのが目につく。この場合にはむしろ個別的多様性を保っているのは各個人の脳細胞の方で、その「分泌物」であるはずの行動パターンは一律だというような妙なことになっている。この場合、「こころ」という言葉はどのレヴェルで言えることなのだろう。私のこころが集団心理にすっぽりはまり込んで個性を放棄してしまうということもあるだろうし、それに多かれ少なかれ違和感をいだいて、ひそかに個の独自性を抱きしめているということもあるだろう。そしてこの違いは、一般社会の「常識」や「理性」と精神病者の「非常識」や「非理性」との齟齬というかたちで、患者のリハビリテーションや法的責任能力などに関する精神医学的な問題ともからんでくる。

 最近の科学的・科学主義的精神医学は「こころ」に関するこれらの諸問題を全部まとめて視界の外へ放り出し、観察可能で客観化可能な個々の精神機能――それは実は精神機能そのものではなくてそれが物質界に映った影にすぎないのだが――だけを取り出して、これを「科学的」に研究しようとする。それによって精神医学は、科学の王国での市民権と引き換えに、社会の中で生活している人間の学であることはもちろん、生きている人間の学であることをも放棄してしまう。これは患者という人間を相手にする精神医学にとって、悪魔にこころを売ることを意味しはしないだろうか。科学という名の悪魔、真理という名の悪魔に・・・・・・。

 しかし人間のこころのなかには、科学的真理のもっている「反生命的」とも言える本性に対する抜きがたい疑惑がひそんでいるのではないか。真理と生命、それは互いに相容れないものを含んでいるらしい。それはなぜだろう。たとえば数学の世界。数学の世界ではすべてが静止している。動く数、揺れる幾何学図形などというものが、はたしてありうるだろうか。物理や化学の世界には確かに運動があり変化がある。しかしその運動や変化から不変不動の法則を抽出することこそ科学の本領だろう。そして、この静止した普遍性以上に生きている生命の不断の躍動からほど遠いものはない。その極めつきは「生命科学」である。生命科学は当然のこととして「生命の法則」を発見しようとする。しかしそれは、言ってみれば丸い三角を描こうとするにもひとしい矛盾ではないのか。
 それにもかかわらず、人間は真理を求めたがる。科学だけではない。哲学でも宗教でもそうだ。人間が生きるという営みと真理とのあいだには、宿命的な密約が成立しているらしい。人類が地球上に生存をはじめたそのときから、真理への探索が開始され、科学と技術へのあくなき追求がはじまっていたに違いない。科学技術は生活を向上させ、人生を生きやすくしてくれるという確信が、真理への執着を絶えず培ってきたのだろう。哲学や宗教の真理についても同じことが言える。ここでもやはり真理は、人生の大きな安心感と内面的な生きるかてを保障してくれるものだったのである。
 万古不易の真理への憧憬、それは不老長寿への願望とどこか通じているのではないか。人生が儚く移ろい易いものであればあるほど、人はすばやく逃れ去ろうとする瞬間を停止させようとする。予見しがたい偶然の背後に決定論的な法則的必然を発見しようとする。生成を存在に変えようとする。生命がひとたび存在の世界におのれの安住の地を見出すやいなや、生成としての生命は生命自身にとっておのれの存在を脅かす「死」の様相を呈してくる。死の相のもとに見られた生生流転は、同一物永遠回帰や反復強迫の姿で存在の世界への安住を絶えず疑問に付さざるをえない。死を脚下に見据えた人だけが、不動の真理への愛着を断ち切れるのだろう。
 数年前、ひとりの女性精神科医が若くして世を去った。彼女は人生の安定感をみずから拒み続けて生きていた人だった。自分の死を待っているある日のこと、彼女はふとわたしに向ってこう言った――先生はやはり真理があると思っているんでしょう・・・・・・。「真理・ニヒリズム・主体」の章は彼女の問いに対するわたしの返答として、そして彼女へのレクイエムとして書いたつもりである。
 それがなくては人類が生きて行けない誤謬としての真理は、生きる躍動を法則という凍結標本に変えてしまう。みずからを凝固させることなしには安心して生き延びることのできない人間の生。そこにすべてのニヒリズムの根源がある。みずからの安心を放棄した人だけが、真理の虚構性を告発する権利をもちうるのだろう。その意味で、発狂直前のニーチェが書き遺した内面の証言はあまりにも重い。こころの安定を失った精神病者と日々接し続けている精神科医として、真理の王国に安住することはみずからの責務を裏切る行為ではないのか。」木村敏『偶然性の精神病理』岩波現代文庫、2000、pp2-8.

 統計数字や実験結果だけで、真理がどんどん積みあがっていると思い込む単純で楽観的な自然科学者、あるいはそれ以上に単細胞の社会科学者に比べれば、木村敏はずいぶんと複雑で悲観的な「哲学」を指向する精神医学者だった。この本の解説に、哲学者・鷲田清一がこんなことを書いていた。

「たとえば日本語に、存在を表すふたつのことばがある。「ある」と「いる」である。本書のⅢでもアルとイルの差異に注目する議論があるが、これはやまと言葉の特異性によっかかった哲学遊戯とはまるで異なる。わたしなどもかつてやったように、同じ存在でもいのちあるものにはたとえゲジゲジにでもイルという敬意ある言葉を使い、大きな価値のあるものでもいのちのないものにはたとえお金でもアルという言葉を用いる文化に、生命哲学の可能性をさぐるというのとまるでちがうのだ。そういう、みずからの思考の緩みに頬が赤らむような体験を、わたしは木村氏の文章を読むなかでなんどもくりかえしてきた。
 アルとイル、この対比も偶然性についての議論を核にしている。イルという実感、(木村氏の言い方では)アクチュアルな自己を生きているという実感は、じぶんがたまたまこのじぶんであって他人でないだけのことだという「偶然」の事実ではなく、その「偶然」が「この」わたしにとっては取り消しも変更も不可能な「必然」だという事実にかかわる感覚である。とりかえのきかない「この」単独の実存として世界のうちにきちんとした居場所をもっているという実感、と言ってもよい。このイルをアルとして、じぶんをアクチュアリティにおいてではなくリアルという(対象的な)様態で意識する強い傾向をもっているひととして、木村氏は分裂症という病を患っているひとをとらえる。「自分がこの世に「いる」こと、つまり「生きていること」すら、彼にとっては排尿や排便とほとんど等価な、あるいは自殺とも交換可能な〈選択肢〉の一つにすぎない」ひとたち。「自己を生きていることの必然性が偶然性にまで相対化され、「イル」から「アル」へと《意味が裏返ってしまっている》ひとたち。
 こういうとらえ方の背後にあるのは、アルが、非実存的存在者の存在規定として、人間がこの世界に持ち込んだ虚構であるという、ニーチェの「真理」論と共鳴する考え方である。生成が存在へのみずからを限定していく運動をニーチェの「力への意志」の思想から読みとる木村氏は、生命一般は、そこに生きた肉体の個別性が置き入れられることで、固体の生存へと限定されるという自身の生命論を重ねあわせる。そして、分裂病者あるいはその素質をもったタイプのひとたちは、そういう「力への意志」が「いくぶん弱く」、そのぶんこの虚構(ほかのひとたちが「真理」と呼んでいるもの)が形成されにくいひとたちなのではないのかという。生成のさなかに脚を深く下ろしている彼らにおいては元来、アルとイルの区別はさほど明確ではないらしいというのである。そして、ということはそのぶんだけニヒリズムから遠い場処にいるとも言えるわけだ。イルとアルのこのあいだのこの差異、このからみあいに翻弄されているものとして人間を見ること、それに治療という場で触れることが重要なのであって、この個別と普遍の生命的な「根拠関係」をそっくり特殊と一般の論理的な関係に変質させたとき、科学主義の誤りにはまることになる。」鷲田清一「解説〈偶然性〉の思考」(木村敏『偶然性の精神病理』岩波現代文庫、2000、pp.237-238.

 やくざな学問・社会学でも、方法について考えたときは、人間の行為に対する「リアリティ」などという言い方をしてしまう。でも、確かにこのポイントは、リアリティではなくてアクチュアリティだとすれば、人間の無駄のない科学技術が作り出したロボットは、リアルに「アル」のだとしても、アクチュアルにそこに「イル」ことを感じることはできない。機械が人を殺しているとき、そこに「アル」のは計算され動員された道具としての武器でしかないが、そこで殺されている生身の人間はまさにその場所に「イル」。
 単純素朴なイデアリスト、安部晋三氏は機械の戦争で日本自衛隊は強いに決まっているのだから、自衛隊員が誰も死なないなら迷うことなくミサイルのボタンを押すことは疑いようもない。21世紀は極東の島国にとって、破滅の局面にある。
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初心・初診・所信・書信・初審・しょしん回顧

2014-05-22 20:03:24 | 日記
A.人生50年?
 人は誰でも時間の中に生きていて、いつのまにか歳を取っている。
溌剌として可憐な少女を演じていたアイドル女優が、いつのまにか演技派のヴェテラン女優になっていて、やがて母親役を演じるようになり、渋い中年の美女になっていたかと思うと、これもやがて老いていく。死ぬまで女優で活躍する人もいれば、途中で世間から姿を消してしまう人もいる。夭折した人は、若い姿のまま人々に記憶されるが、いずれにしてもこの世に生きて何をしたか、人々に記憶されているのは幸福とも言える。
 気まぐれで、ぼくと同じ歳、同じ月に生まれた女優を探したら、アメリカではシガニー・ウィーバーだった。スウィゴニー・ウィーバーは芸名であるが、映画女優として多くの作品で知られた美人女優である。Wikipediaでは、以下のような記述があった。

 Sigourney Weaver, 本名: Susan Alexandra Weaver
「ニューヨーク州マンハッタン出身。父親はテレビ局の重役、母親はイギリス人の女優エリザベス・イングリス。『グレート・ギャツビー』から取って14歳の時から「シガニー・ウィーバー」と名乗っている。スタンフォード大学で英語を、イェール大学のスクール・オブ・ドラマで演技を学び、1975年にはジョン・ギールグッド演出、イングリッド・バーグマン主演の舞台『The Constance Wife』に演出助手として付くと共にアンダースタディも得るが、限定公演のため出番はなく、ブロードウェイ・デビューとはならなかった。その後は、オフ・ブロードウェイの舞台等に出演するようになり、クリストファー・デュラング作品などで活躍。映画に進出すると舞台から離れるが、1984年にはマイク・ニコルズ演出でデイヴィッド・レイヴ作『ハリーバリー』のダーリーン役でブロードウェイ・デビューを飾り、トニー賞助演女優賞にノミネート(共演のジュディス・アイヴィーはトニー賞を受賞)。
 1977年にウディ・アレンの『アニー・ホール』の小さな役で映画デビュー。1979年公開の『エイリアン』で、エレン・リプリー役を勝ち取り、1997年の第4作までシリーズ化している。『エイリアンVSプレデター』にも出演のオファーがあったが、断っている。1988年『ワーキング・ガール』でゴールデングローブ賞 助演女優賞、ダイアン・フォッシーを演じた『愛は霧のかなたに』でゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門) を受賞し、アカデミー賞にも両作でノミネートとなった。2012年、ドラマ『政界の動物たち』でドラマ初主演。私生活では、1984年10月に演出家ジム・シンプソンと結婚(彼の舞台に出演したこともある)。1990年に1女が誕生している。」

 ぼくには職場にスニーカーを履いていく「ワーキング・ガール」、「1492 コロンブス」のイザベル1世、「スノーホワイト」の恐い魔女、「アバター」の植物学者など、印象に残るシガニーである。
 どのような人生を生きるか、若い時だけでなく、この世にある限り、自分が未来に何をし、何が出来るかは予測できない。明日死んでしまうかもしれないし、来年も元気で何かをやっているかもしれない。病気や事故は恐いが、それを考えて怯えてみても、運命は変わるわけではない。健康だ蓄財だ保険だとじたばたするほど、人としては見苦しくなる。改めて考えてみれば、やっぱり自分の人生の比較的早いときに、これを自分のテーマにしよう、できるかどうかわからないけども、これだけはやってみよう、と考えたかどうかが重要ではないかと思う。途中で死んでしまうかもしれないし、病に倒れて無念にも終わってしまうとしても、人が生きることの意味があるとすれば、そういう「志」を抱いたかどうか、それを形はどうあれ、追及していたかどうか、ということかと思う。
 人にそれが解ってもらえたか、とか、世間に認められたとか、そういうことは結局空しい。まったく誰にも認められることなく、自分の努力が埋もれてしまったとしても、自分の愚かさや過ちや、許しがたい悪事で記憶されるよりは、はるかに価値がある、と思う。女優という仕事は、人に見られてなんぼ、であるから、名を残すほどの仕事ができる女優は限られている。学者という職業も、自分の考えたことを書いて、人に読まれてなんぼ、であるから、結果はともかくこれを研究してみよう!と思うことが出発点である。ぼくはいちおう学者の片隅で、多少は研究をしてきた人生ではあるのだが、書いたものは乏しく、読まれることも少ない。そのこと自体は仕方がないと思う。シガニーさんのような、世界に知られる仕事をしたわけではなく、いまや晩年に達してしまった。でも、20歳前後のとき、確かに自分はこれをテーマとして研究してみようと思ったことはあるのだ。そのきっかけのひとつに、清水幾太郎のこのような文章があった、と改めて思う。



B.フランス語ができないのにコントを読むなんて!
 社会学は、19世紀にフランスのコントという人物が始めたことになっている。でも、コントはかなり変な人だったので、今はほとんど彼の著書を読む人はいない。それでも、日本で本格的にコントを読んで研究してみようという人がいた。東京下町に生まれた清水幾太郎である。

「コントは、一八五七年九月五日、パリのリュクサンブール公園に近いアパート(10,rue Monsieur-le-Prince)で死に、私は、それから五十年後に生れた。大学を卒業して以来、私は、この見たこともないフランス人と或る関係を持ち続けているが、考えれば考えるほど、これは、奇妙な関係のように思われる。本来存在する筈のなかった関係であるし、また、必ずしも愉快な関係ではなかったから。
 中学へ進む時、私は医者になる心算であった。当時、日本の医学は、ドイツの医学の影響を強く受けていたので、医者になるのなら、早くからドイツ語を勉強しなければいけない、という常識に従って、私は、日本でただ一つの、英語の代わりにドイツ語を教える中学(独逸学協会学校中学)に入学した。それは、全国の医者の子弟が集まる学校であった。ところが、三年生の時、大正十二年の関東大震災に遭い、家が潰れて焼けて、私たち一家は完全な無一物になってしまった。自分でもよく判らないが、地震のショックが、それまで手当たり次第に読んで来たアナーキズムの文献から得た断片的知識の枯草に点火したとでも考えるべきか、俄かに医者志望を捨てて、その頃はまだ全く世間に知られていなかった社会学という学問の研究者になろうと決心した。この辺の事情は、他の著書で稍々詳しくのべておいたが、それ以来、社会学の研究者を志して、高等学校に入り、大学へ進んだ。
 その頃の日本の社会学界は、イギリス社会学とドイツ社会学との影響を大きく受けていた。というより、当時に限った話ではないが、日本の研究者が試みていたのは、ほとんど両国の社会学説の解説に尽きていた。
 第一――イギリス社会学の主流は、多元的社会論と呼ばれていたもので、乱暴な言い方をすれば、アナーキズムにアカデミックな体裁を与えたようなものである。アナーキズムは、国家という絶対的権力をもつ集団を否定し、自由な人間からなる自由な諸集団の自由な連合を理想の社会と考える社会思想で、関東大震災後のドサクサの中で、大杉栄という指導者が殺されるまでは、日本でも相当の勢力を持っていた。それで、少年の私も、この方面の書物をあれこれと読んでいたのである。多元的社会論の方は、ヘーゲル流の国家一元論を拒否し、国家を高い位置から引き下して、家族、村落、都市、組合などという諸集団と同列に扱おう、言い換えれば、これらの諸集団を国家の一元的支配から解放しようとするものであった。ナーキズムは野性的な社会思想、多元的社会論は上品な社会学説という相違はあったけれども、根本の精神は似たようなものであった。多くの人々が、ボッブハウス、ロール、マッキヴァーなどの学説について論じていた。アナーキズムに興味を持っていたのだから、私も、この方向に勉強を進めるのが自然であったのであろう。しかし、残念なことに、私は、それに必要な英語力が殆どゼロであった。未練はあったけれども、深入りするのを諦めた。
 第二――高等学校へ進む頃、私のドイツ語の力は、これも大したことはなかったが、ゼロというわけではなかった。また、日本では、イギリス社会学の影響より、ドイツ社会学の影響の方が強かったように思う。無我夢中で、私はドイツの文献を読んで行った。ドイツは、「形式社会学」(formale Soziologie)という流派の全盛時代で、その業績が次々に日本へ輸入されていた。この流派は、十九世紀末に始まり、第一次世界大戦後の、謂わゆるヴァイマル時代のドイツで大いに有力になっていた。一口に形式社会学と言っても、(a)学説内容について見ると、ゲオルク・ジンメルのように、文学的色彩のものもあり、フォン・ヴィーゼのように、力学的色彩のものもあるが、概して、諸個人の関係や、諸個人から成る集団、そういうものの構造や変化の心理学的分析であった。第二次世界大戦後の日本を支配しているアメリカ社会学を見なれた人々にとっては、そう珍しく感じられないであろう。当時、それが新鮮に感じられていたのは、もう一つ、それに(b)ある方法論的な意味が結びついていたためである。形式社会学者たちは、旧来の社会学説を一括して「綜合社会学」(synthetishes Soziologie)と名づけ、軽蔑の意味をこめて、「百科全書的」、「歴史哲学的」と呼んでいた。そして、百科全書的で歴史哲学的な綜合社会学の最大の代表者が、オーギュスト・コントであった。コントを一ページも読んだことのない人々も、また、ドイツ社会学の文献に全く通じない人々も、声を揃えて、コントを嘲笑していた。」清水幾太郎『オーギュスト・コントー社会学とは何かー』岩波新書1978.pp.4-7.

 この小さい本のエピグラフには、レイモン・アロンの言葉が掲げられている。
「事実、社会学者が革命的であっても構わないが、革命的な社会学というものは存在しない。」
「革命revolusion」という言葉が、21世紀にはすっかり色褪せているが、20世紀の半ばでは、世界中で「革命」は具体的な課題として、若者の精神を揺さぶっていた。何よりも人々の生きていた現実には、目に見える貧困や圧政や暴力がはびこっている事は自明だったからだ。問題はそれを、なぜ?そうなっているかを説明することができるか?だった。いま、21世紀の日本でそれがほとんど現実味をもって感じられないのは、貧しさのために路頭で人が死んでいたり、理不尽な暴力で女子どもがたくさん殺されたり、権力者を批判しただけで牢獄に入れられたり死刑になったりすることなど、想像することができないからだ。でも、昭和の初年代は、社会について考えるということはそういう危険な場所に身を置くことを意味した。

「コントが嘲笑の的になっていたのは、それはそれで理由のあることで、そこには、次のような事情が働いていた。
第一――コントを初めとする古い社会学者は、経済、政治、文化、宗教など、社会現象の全体的関連の包括的研究を企て、また、現実の社会的問題の解決を企てていた。そのため、学説の内容は自ずから百科全書的になり、その意図は実践的になっていた。ところが、十九世紀を通じて、そういう社会学者の意図とは関係なく、経済や政治などの諸領域に独立の研究が進み、経済学や政治学が発達を遂げるようになった。中でも、一八七一年の「限界革命」に始まる経済学の新古典派の発展が大きな意味を持っていたであろう。何れにしろ、思い思いの方向日発展していく社会諸科学を、今更、社会学者が包括しようとしても、包括しきれるものではない。包括し切れないとなれば、社会学は、従来の研究対象を他の社会諸科学に奪われる結果になる。もし社会学が独立の学問として存立して行こうとするのなら、別に固有の対象を探し出さなければならない。
、 こうして、ドイツの学者たちが探し出してきたのが、協力、支配、従属、競争、競争、闘争というような根本的な社会関係であり、その心理学的分析が、新しい社会学の仕事になった。これらの社会関係は、経済、政治、文化、宗教など、人間活動によって成り立つ諸領域に広く見出されるものであり、これらの社会関係が含まれているために、経済現象、政治現象などは、同時に、社会現象になる、と人々は考えた。根本的な社会関係は、右の諸現象を社会現象たらしめるものという意味で。「社会的なるもの」と呼ばれた。また、新カント主義の影響もあって、「形式」と呼ばれた。更に、或る学者は、協力、支配、従属などの社会関係を幾何学的図形(円、三角形、正方形など)に見立て、経済、政治などを右の図形を示している物質(紙、板、鉄など)に見立て、社会学は、物質とは関係なく、もっぱら社会生活の図形を研究する幾何学である、と説いた。
第ニ――古い綜合社会学は、人類が何処から来て、何処へ行くか、現在は、この時間的過程の中の如何なる地点にあるか、それを明らかにしようとした。それは、確かに歴史哲学的であった。時間の流れてゆく方向が決定されることによって、現代の問題の解決の方法が明らかになる。ところが、十九世紀から二十世紀にかけて、こういう単純な考え方が許されなくなって来た。」清水幾太郎『オーギュスト・コントー社会学とは何かー』岩波新書1978.pp.7-8.

 人類の歴史が一直線の方向で進歩していて、あらゆる出来事がその流れから説明され、流れに沿った動きは「革新」、逆らう動きは「反動」とレッテルを貼られて、新しいものが「革新」、古臭いものは「反動」と考えるのが、19世紀ではヨーロッパだけでなく、アメリカでも日本でも支配的な思想だった。それは20世紀にも引き継がれていた。一方で、学問上の流行もこの進歩史観に捉われていて、さらに「近代科学」の進歩という観念がこれに油を注いだ。若く優秀な学生、清水幾太郎は高校在学中にドイツの形式社会学の主要文献をみな読んでしまったという。もちろんドイツ語で。

「私は高等学校在学中、ドイツの形式社会学の主要文献の大部分を読んでしまった。また、入学と同時に、ドイツのケルンで発行されていた、フォン・ヴィーゼ編輯の、形式社会学専門のクウォータリの購読を始め、創刊(1921)以来のバックナンバーも取寄せた。三年間、私は飢えたように勉強して行った。しかし、何時からか、その途中で、ドイツの学説の非現実性というか、如何にも浮世離れしているのを不満に感じるようになった。浮世離れは当然のことで、あの根本的な社会関係(「社会的なるもの」)は、経済や政治などという内容を捨象して得られた抽象的な形式であり、普遍の人間性に即していると言えば言えるが、歴史のダイナミックスを超越したものである。ジンメルの作品に対する半ば文学的な興味は、これは当時も現在も変わらないけれども、高等学校を卒業する頃、私は、形式社会学も半ば卒業したような気分になっていた。
 時代が悪かったのであろう。私が大学へ進んだのは一九二八年、現在では想像もつかぬような貧困、不況、失業、飢餓、不安が日本の社会を蔽っていた。東京の貧しい街に貧しく暮らしながら、私は時代の波に揉まれていた。その時代は、また、マルクス主義によって支配されていた。大杉栄という指導者を失ってから、社会思想の主流は、組織より自由を重んじるアナーキズムから、自由より組織を重んじるマルクス主義へ急速に移って行った。マルクス主義には、その名を掲げて人々が指導に当ったロシア革命の後光が射していたし、世界革命の総司令部としてモスクワに設けられたコミンテルンの日本支部である日本共産党の活動があった。この方面の文献は日本中に溢れ、その或るものは、マルクス主義の包括的な学説を私たちに教え、他のものは、ソヴィエト・ロシアの生活を地上の天国-実は、地獄だったのだがーのように描いていた。
私たちは、一九二九年のアメリカの大恐慌を待つ必要はなかった。それが世界の諸国に波及して、マルクスの予言通り、資本主義が最後の日を迎えたように見え、一九三〇年代が「赤い十年間」(the red decade)と呼ばれるようになったのであるが、それ以前から、日本では、貧寒、不況、失業などが慢性的になっていたので、私たちは、自分がマルクス主義者であると思わなくても、その用語を使わなければ、現実を説明すらすることが出来ない、そういう立場に追い込まれていた。現実が学説を分泌したというか、現実と学説とが一体に見えたというか、マルクス主義には、今日とは全く違う説得力があった。
 少なからぬ友人は、忽ちマルクス主義者になった。それが自然でもあり、幸福でもあったのであろう。しかし、私の場合は、半分ばかり、マルクス主義に呑み込まれたものの、完全に呑み込まれるところまで行かなかった。行けなかった。
 昔も今も、泰西の学説が日本へ入って来ると、それは必ず「最新の学説」になる。勿論、あの頃、マルクス主義は、日本にとって、「最新の学説」であった。しかし、「資本論」第一巻がマルクス自身の手で出版されたのが一八六七年であるから、彼の学説が私たちの間に力を得て来たのは、それから半世紀以上も後のことである。日本では「最新の学説」であっても、彼地では事情が違っている。彼地では、この半世紀を超える期間、マルクス主義に対する各種の批判行われて来て、私は、ドイツ社会学の文献を読むことを通じて、これらの批判の或るものを知っていた。そして、多くの場合、批判が正しいように思われていた。例えば、ジンメルは、芸術上のリアリズム批判や抽象芸術の成立と同じ「世紀末」の空気の中で、歴史上のリアリズムに批判を加え、マルクス主義の史的唯物論について、「経済的状態の単性生殖」という表現を用いた。物質的なるものと観念的なるものとは相互に原因となり結果となって無限の過程を形作って行くもので、何処かで切断するとしても、それは必ず便宜的で相対的である、と彼は言う。ジンメルに限らないが、私は、マルクス主義に強く心を惹かれながら、しかし、そういう予備知識が邪魔になって、これを素直に受け容れることが出来なかった。」清水幾太郎『オーギュスト・コントー社会学とは何かー』岩波新書1978.pp.10-13.
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 「マルクス主義」が、若い学生に「お前はどう生きるのか?」という、切迫した倫理道徳の踏絵として突きつけられた時代は、まことに不幸な時代だが、その構図は戦後の60年代にも続いていて、ぼくが大学生になっていた1970年でもまだ生き残っていた。「お前は人民の側に、革命の側に立つのか?それとも、人民の敵、国家独占資本の側に立つのか?」「大学で学問をするのなら、国家に奉仕する従順な奴隷教師になるのか、それとも革命の先頭に立つのか?」というような切羽詰まった問いかけの前に立たされた。それはもうコミンテルンでも共産党でもなく、もっと過激な党派の脅迫だった。
 
「現在の読者には容易に理解されないであろうが、モスクワの決定が絶対的な意味を持っていた時代であるから、新しい「正統」に疑問を持つものは、仲間からスパイのように見られた。しかし、新しい「正統」を承認することは、少年の日に自分の一生をささげようと決心した社会学を捨てることであった。自分自身を捨てることであった。結局、この問題は、後まで尾を引くことになったが、大学生になって、卒業論文のテーマを考え始めると同時に、私は、この問題でまったく途方に暮れてしまった。形式社会学には多少の年季を入れたけれども、資本主義最後の日に生きながら、あの非現実性に満足しているわけには行かない。しかし、学説の現実性に魅力はあるけれども、マルクス主義へ深く入って行けば、元も子もなくしてしまう。
  泣き出したいような気持の日が続いているうち、待てよ、マルクス主義そのものが、元を糺せば、あの評判の悪い「綜合社会学」の一種ではないのか、と考え始めた。経済や政治などを含む社会生活の全体を研究対象とし、それを広大な歴史的文脈の中に据えているではないか。それは、「百科全書的」で、「歴史哲学的」ではないか。そうであるから、現実的で、実践的なのではないか。勿論、コントとマルクスでは、色々の点で違うであろう。マルクスは、コントより二十年遅れで生まれ、二十六年遅れて死んでいる。しかし、四十年間、二人は、同じヨーロッパに生き、同じ問題や事件に遭遇しているのではないか。確かに、現在、コントは、社会学界で、誰からも読まれずに、ただ笑いものになっている。しかし、流行の形式社会学に不満を感じる立場から振返ってみたら、案外、そこに古典的社会学の偉大な過去が眠っているのではないか。よし、コントをやってみよう。
 こういう事情で、私は、フランス語の力がゼロに近く、指導してくれる先生や先輩がいないのも覚悟の上で、大学の二年生になった頃、オーギュスト・コントの勉強を本気始め、やがて、それを卒業論文のテーマにした」清水幾太郎『オーギュスト・コントー社会学とは何かー』岩波新書1978.pp.14-15.

 ぼくは清水ほど大胆でも自信家でもなかったが、自分がこの世に生きて何が出来るか、何をやっていくか秘かに考えた。アテネ・フランセに通ってフランス語を勉強しようなどと思ったのも、多少は清水の影響があったかもしれない。社会学の学生になっていたが、コントもデュルケームもちゃんと研究しようなどと思ったわけではない。ただ、自分があと30年生きられるなら、こういう世界に生きてみたいと思ったのは確かだ。それからもう、40年が過ぎてしまった。ー
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