A.美文から言文一致体へ
1907(明治40)年9月、「新小説」という雑誌に載った田山花袋の『蒲団』という小説は、日本近代文学史上の記念碑的作品になった、といわれている。女弟子に去られた作家の(作者自身とみられる)中年男が、彼女の使用していた布団の夜着に顔をうずめて匂いを嗅ぎ、涙するという結末の描写は、読者、さらに文壇に衝撃を与えた。これ以後、日本の小説では「自然主義」が主流とされ、とくに自分の身辺をそのまま隠さず暴露するような私小説こそ、リアルで芸術的な作品だとされてきた。田山花袋(たやま かたい、1872(明治4)年~1930(昭和5)年)は、本名を録弥といい、群馬県館林(当時は栃木県)生まれ。尾崎紅葉のもとで修行したが、後に国木田独歩、柳田國男らと交わって、この『蒲団』で明治文壇に名を残した。今ぼくたちがこの『蒲団』を読んでみると、若い女性に夢中になって「戀愛」をしているつもりで深刻に悩む主人公に、どんなユーモア小説も叶わない「思わず笑ってしまう」愉快な作品である。もちろん明治40年当時、これを笑える読者は希少だった。
「田山花袋はまず、彼自身言うところの《美文的小説》の作家だった。だからこそ彼は『露骨なる描写』の一文を書かなければならない。ここで指弾されるのはまず、《美文的小説》の書き手だった彼自身なのだ。
「竹中古城」のペンネームを持つ『蒲団』の主人公は、《竹中古城と謂えば、美文的小説を書いて、多少世間に聞えて居ったので、地方から来る崇拝者渇仰者の手簡はこれ迄にも随分多かった。》(田山花袋『蒲団』二)である。同じ「古城」をペンネームとする『乙女病』の主人公杉田古城も《若い時分、盛に所謂少女小説を書いて、一時は随分青年を魅せしめたものだが、観察も思想もないあくがれ小説がそういつまで人に飽きられずに居ることが出来よう。》(田山花袋『少女病』三)と書かれるような存在である。いずれの主人公もある時期までの田山花袋のありようと重なるようなものだが、彼の書く《美文的小説》あるいは《少女小説》のパターンは、彼が三十一歳になった明治三十四年(1901)まで決まっている。そんな断定が出来るのは、前章で言ったように、その年に書きあげて出版される『野の花』の前に書かれた序文の中で、〈色も香も無いつまらぬ花〉と、『野の花』のありようを自身で否定してしまっているからである。『野の花』を書き了えた彼は「自然主義」の方へ行ってしまうから、彼の《少女小説》あるいは《美文的小説》も終わってしまうが、問題はその小説の内容である。
一人の若者がいる。彼は知的で、田山花袋自身のありようとは反して(おそらくは)端正な美貌の持ち主で、生活能力はあまりないが、周囲の人間達からは好意的に受け入れられている――主人公はそうした青年で、その彼が美しさに富んだ土地で、若くて美しい女に恋をする。設定上は「美しい」だらけだが、この主人公の青年は恋した相手の女にはほとんど何も言えず、その土地を去ってしまう。そして、去ったずっと後になって、彼が恋していた相手の女もまた、彼のことを愛していたことを知る。だからなんだと言うと、それだけの話である。
それだけの話がなぜ意味を持つのかというと、彼がその女をひたすらに、激しく純粋に、一方的に愛するからである。「ただひたすらに激しく一方的に愛しました」ということになると、それがたとえ「純粋」と言われるようなものであっても、結局は「空しい片思い」にしかならない。しかし、「実は相手の方も、人知れず同じような思いを寄せていました」ということになると、「ひたすらに一方的な片思い」が、「報われた純粋な愛」に変わってしまう。今時「無償の愛」だの「純粋な恋」だのと言っても、「結局は一人よがりの危ない恋愛感情でしょう」と言われかねないところもあるが、これで「やはり相手も同じように思っていました」になれば、「それは一人よがりの妄想ではない。たとえ“ひとりよがりの妄想”と言われたにしても、なんらかの実質はあったのだ」ということになる。こういう昔の人の恋愛感情を説明すると、まどろっこしくてややこしいことにしかなりかねないが、早い話、そういう小説を書く田山花袋は「恋に恋する男」で、それを小説の中で「実りはしなかったが思うだけの甲斐はあった」ということにしたかったのである。だからだからその時期を振り返って、《観察も思想もないあくがれ小説》と『少女病』で言うのである。
相変わらずのひどい書きようではあるが、今の人は「恋を得たいと思って得られない男」がその昔にはいくらでもいて、それが小説の題材になりえていたということを忘れているから、「ただの片思いに“純粋”とかなんとかいう勝手な理屈がつくのはなんなんだ?」と思ってしまって、その当人の「切実さ」にピンとこあなくなっているのである。
ぐだぐだと訳の分からない説明を続けていても仕方がないので、その具体例を挙げてみよう。テキストとなるのは、明治二十九年(1896)にニ十六歳の田山花袋が書いた短編小説『わすれ水』である。この恋愛小説の主人公は、こんな青年である――。
《何(なに)故(ゆゑ)に我は今少し財産ある家に生れては来(きた)らざりしか。何故に今までのうちに少し立派なる名誉といふものを取らざりしか。せめて名誉だにあらば、財産はなくとも、われはかの少女(をとめ)をおのが妻になすことを得べかりしものを。今はその財産も名誉も、一つとして備りたる所なきわが身をいかにかすべきと、思ひつめては俄(にはか)に悲しく、玉の如き涙はほろほろとその両頬(りょうけう)ををつたひて落ちぬ。されど恋といふものは、決してさる貴賤の区別によりて起るものにあらず。恋とはと、孤城落日の中(うち)に恰(あたか)も遠き援兵の旗幟(きし)を見たる如く、急ぎて其方へおのが思想を走らせ去れり。恋とはさるものにあらず、さる汚れたるものにあらず否々(いないな)この心だにあらば、この清き恋したる心だにあらば、我はかの少女を恋ふるに於て、何の疚(やま)しきところかあらむ。金銭とは何ぞ、資格とは何ぞ、是(これ)皆この現世を組立つるための儚(はか)なき器械たるに過ぎざるにはあらずや。それにしてもわれはいかにもして、この燃ゆるが如き心を、かの少女(をとめ)に打明けたきものなるがと、暫しためらひて、されどわれは到底(たうてい)うち明くること能(あた)はざるべし、かの憂(うれひ)の何者たるをも知らぬ無邪気なる顔を見れば、われは唯(ただ)美しき女神の像(すがた)に対したる時の如く、一種の尊さを覚ゆるものを、かく汚れたるわが心を語り出でゝ、玉の如く円満なるこの恋を打破りて仕舞(しま)ふに忍ぶべき、忍ばざるべからずと、またも心中(しんちゅう)に絶叫したり。それにしても此頃は逢ふ度毎(たびごと)、いつも礼を施さぬ事はなきやうになりたるが、そは果して他の人に対すると同じき心にて、われにも礼を施せるか、或はわが思ふ如く、かれもいたくわれを思ふて居るにはあらざるか。》(田山花袋『わすれ水』三)
いささか長すぎる引用ではあるが、一読して思われることは、「昔の男にとって、恋愛をするというのはとんでもなく大変なことなんだ。恋愛には“資格”というものが必要だった時代もあったのだ」ということである。本巻〔第二部〕に引用した明治期の作品は、読みやすさを考えてその多くを現代仮名遣いに改めてあるが、この漢文的要素の強い文語体の作品には歴史的仮名遣いの方がふさわしいと思い、あえてそのままにした。この作品が発表されたのは、二葉亭四迷が『浮雲』の第一篇を、山田美妙が『武蔵野』をそれぞれに発表した明治二十年(1887)の九年後。田山花袋の体質もあってか、この文語体は「後一歩で口語体になってしまうような文語体」であり、「本当だったら口語体になっていてもいいものが、敢えて大仰な文語体で書かれている」と言いたいような趣がある。『蒲団』の十一年前ではあっても、田山花袋の激しい情熱は健在で、見事に爆発してしまっているのだ。
この主人公は《さる田舎》の中学に赴任した作者と同年代の青年教師で、自分のことを《おのれは東京にてさへ思ふまゝなる生活を送ることも出来ず、遥々とこの田舎に落魄して来りたる一書生の身、殊にこの行末とても不幸多く薄命多き詩人となるべきわが身なれば、》(同前)と思っている。
恋の相手となる女は、土地の資産家である旧士族の十七歳になった娘で、容貌から性格から非の打ち所が一つもない(とされる)。この物静かな娘が土地の主婦の主宰する裁縫教室に通って来て、たまたまそこに立ち寄った主人公に一目惚れをされた結果、引用部のような「嵐」を巻き起こしてしまう。ちなみに、この煩悶状態にある主人公は、相手の彼女とまだ一言も言葉を交わしてはいない。
初めは、道で出会っても会釈をすることさえ出来なかった。それをしてもいいのかどうかさえも分からなかった。しかし、いつの間にか顔見知りになって、出会うと軽く頭を下げ合うことだけはするようになった。だからこそ、《かれもいたくわれを思ふて居るにはあらざるか》という大煩悶状態も生まれてしまう。昔の人は大変なのだ。
ちなみに、この引用部だけを見ると、『わすれ水』は独白体の小説のようにも思えるが、これは《なにがし学校を卒業したる木崎鐘一は、》(同前一)で始められる、れっきとした三人称語りの小説なのである。それが「彼は」で始められても、「木崎鐘一は」で始められても、書き進んで熱が入るに従って「彼は我なり」になってしまうのが、「情熱の田山花袋」である。
「彼=我」になってしまう情熱の田山花袋が訴える「この恋が実らぬ理由」は、とりあえず、「貧富の差」である。
「彼女は富裕階級の子、我は貧しい」と、その現実を理解してしまえば、「彼=我」がたやすく彼女に声を掛けられない理由も分かるし、「この恋が実るはずはない」という結論へ一足飛びに向かって、どうにもならない絶望に陥るのも、まァ、分かる。そして、主人公はその絶望の泥沼で「でもそんなことはないはずだ!」と、彼女に恋する自分自身の思いを肯定し始める――《恋とはさるものにあらず、さる汚れたるものにあらず》と。《孤城落日の中に恰も遠き援兵の旗幟を見たる如く》というのが、さすがに大仰な文語体の妙味で、落城間近の城の中にいる気になった主人公が見つける援軍の旗印が、恋そのものを肯定する《おのが思想》という展開もすごい。
「今時、誰がこんな激しい勢いで自分の一方的な恋愛感情を力説するのか?」ということになったら、「いないでしょう」ということになってしまうかもしれないが、それは間違いだと思う。恋というものに出会って内心うろたえ騒ぐしかなくなってしまう人間は、今でも当たり前にいるはずである。現代での悲劇というのは、そういう人間が自分の内面を言葉にしようとすれば、どこからともなく「笑っちゃうね」というような声が聞こえてきそうな状況があることである。だから、恋に懊悩する思いは「沈黙」へと押しやられる。「恋する自分の正当性を求めて、堂々たる論陣をわが身に張る――それをしなければ、恋をしがたい人間は恋に近寄ることさえも出来ない」ということが忘れられたために、「ストーカー」とか「つきまとい」というような「沈黙の恋」が生まれてしまったのかもしれない。
昔の人間は、恋をすると悩む。その人間はおおむね「彼」だが、彼を悩ませるような障害がいくらでもあるから、悩まざるをえない彼は、その困難を突破する《思想》を求める。「私の恋は、なんだかいけないものなのだ」という悩み方をしてしまった場合には、《恋とはさるものにあらず、さる汚れたるものにあらず》という、浪漫主義や恋愛至上主義の援軍がやって来る。「貧しい自分」を思って行き止まれば、《金銭とは何ぞ、資格とは何ぞ、是皆この現世を組立つるための儚き器械たるに過ぎざるにあらずや。》がやって来る。これはもう「社会主義への目覚め」である。私は、この主人公の恋が実らぬ――それゆえにこそ悶々とする理由を「とりあえずは貧富の差」と言ったが、「自分の恋は実らないのだ」と思い込んでしまった人間にとっては、その理由なんかなんでもいいのである。」橋本治『失われた近代を求めて』上巻、朝日選書、2019朝日新聞出版、pp.329-336.
田山花袋は大真面目で「戀愛」をしようと頑張っていたのだが、橋本治ならずとも、これはどうしても微笑し揶揄するしか対しようがない。でも、それならどうしてこれが近代日本文学史において、そののちまで多大な影響を与えることになったのか。それについても橋本治さんは、適切な説明をする。
B.どさくさまぎれの笑劇
改憲を悲願とした安倍晋三政権が終わって、その傀儡のような菅政権も短命で終って、もう暇つぶしの憲法改正なんてやっている場合じゃないと思うのだが、なんだか発足してみたものの腰の座らない岸田政権は、コロナ第6波とウクライナの戦争まで出来して慌ただしいなか、右翼に気を使って憲法審査会は開いてやってます感を出そうとした。でも、中身の議論はどさくさの火事場泥棒みたいなものだと、例によって朝日の高橋純子の筆は快刀乱麻だな。
「多事奏論:詰め放題の改憲論 2代目の情念 3代目の軽さ 編集委員 高橋 純子
激安スーパーの「詰め放題」は、ポリ袋を事前にのばしておくのがコツだ。やってみるとわかるが、ニンジンだろうがジャガイモだろうが、食材ではなく、袋をみちみちにするためのただの物体と化す。そんなにいる?使い道あるの?だなんて愚問オブ愚問。必要かどうかの問題ではないのだ。まだいける、もっと行けると詰め込むことが目的であり、喜びなのである。
今月10日に開かれた衆院憲法審査会もまさに、「詰め放題」の様相を呈していた。憲法改正を唱えてみせること自体が目的化しており、教育無償化だのデータ基本権だの、あれもこれも節操なく詰め込まれていた。「憲法改正に向けて議論することが国会議員の責務だ」みたいなことが言われていたが、違いますね。国会議員が負っているのは憲法尊重・擁護義務です。はい。
そもそも政策遂行のテコにするため憲法に何等か書き込もうという類いの主張は、「私は政治家として無能です」と宣言しているに等しいと私は考える。現代の変化に応じた構えや緊急事態への備えが必要ならば、とっとと議論して、たったか法律をつくればよい。
かねて個人的にあたためている仮説を唐突に披露すると、与野党を問わず、スポットライトが当たらなくなり、立ち位置を見失ってどん詰まった政治家は、憲法改正を声高に打ち出したり改正試案を発表したりしがちではないか。あの人この人、個人名は控えるけれども、思えばあの悪評高き自民党改憲草案、現行13条「すべて国民は、個人として尊重される」の「個人」を「人」に変えるなどしたおそろしい代物がつくられたのも2012年、野党時代だった。
憲法改正は手っ取り早く耳目を引くための道具か。はたまたファイト一発、ストレス発散に効くドラッグか。たまらん。
1日に亡くなった石原慎太郎氏を、私は政治家として評価しない。数々の差別的言辞は「石原節」などといって受容できるようなものでは到底ない。ただ、敗戦時12歳だった氏の「自主憲法制定」への思い自体は、反米というスタンスと考え合わせれば、まったく共感はしないけれども理解はできる。憲法前文「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」の「に」は日本語として間違いであり、まずはこの1字を正すべきだと熱心に説いていた。「『に』の1字を変えることがアリの一穴となって、敗戦後70年にしてようやく自主憲法の制定につながる。とにかく日本人の主体性というものを回復することができるんじゃないか」(14年10月30日、衆院予算委員会)
ところが当時の安倍晋三首相はこれに答えていわく「1字であったとしても、これを変えるには憲法改正が伴う。そこは、『に』の一字でございますが、どうか石原議員におかれましては、『忍』の一字で」。石原氏の情念をさらりと受け流し、居並ぶ閣僚らからどっと笑いが起こった。
時流も実現可能性も全く考慮に入れず、自身の血肉をもって紡いだ石原氏の改憲論は面倒くさくてどこか滑稽でもある。しかし、感染症まで憲法改正の口実に使おうとするケチなズルに比べれば、助詞1文字に心を砕き思いをかける石原氏の方が、真剣に憲法と取っ組み合っていたと思う。
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「三代目となれば、体験の基盤はなく、実感はじょうはつしてしまって行動の原動力とならない。(中略)うらみも、正義感も、二代かぎりですりきれてしまうものとして、消耗品の種目にいれられている」 (鶴見俊輔「限界芸術論」)
大人として先の戦争をくぐった世代を1代目とすると、石原氏は2代目。いま日本政治の中心にいるのはおいおかた3代目。反省もうらみもすりきれた「売り家と唐様で書く三代目」の軽佻浮薄を目の当たりにすればなおさら、私は、体験や実感が刻み込まれた日本国憲法に信頼している。」朝日新聞2022年2月23日朝刊11面オピニオン欄。
これも朝日の論壇時評での林香里せんせいの、「こども庁」設置に「子ども家庭庁」に名称変更するという無理矢理について。「自民党保守派」という政治家たちの名前もあげてほしいが、時代錯誤のイデオロギーだけで必要な政策にいちいち横やりを入れるのは、国家にとって害だと思う。
「変容する「家庭」 「理想」との隔たり 向き合う時 東京大学大学院教授 林香里
「子ども家庭庁」設置法案が月内にも閣議決定され、2023年には同庁が創設されるというニュースが入った。
表向きには「こどもまんなか社会の新たな司令塔」を謳う役所だが、土壇場で「こども庁」に「家庭」という2文字が加えられた。結果的に、子どもたちの人権重視や命優先の視点の結実というより、日本の政治/社会の右傾化、そして組織イノベーションに後ろ向きな官僚機構の象徴となった感が否めない。
教育行政研究者の末富芳は、①でこども基本法やこども家庭庁設置の検討が「大荒れ」している背景には、「いわゆる自民党保守派」の存在があると指摘する。末富は「マルクス主義」「誤った子ども中心主義」という議員たちの発言について、「実際に子ども基本法を推進しようとする団体や、その団体が関わる大変な状況の子供若者や親たちのこともぜひ知って、対話したうえで、発言していただけませんでしょうか」と対話を呼びかける。しかし、同庁設置法案の経緯だけを見ても、対話の前途は険しそうだ。
( 中 略 )
しかし、現実はどうだろう。「家庭」は「やすらぎ」どころか崩壊が叫ばれ、その上に特にここ2年はコロナ禍によって「ステイホーム:」が言われて、外部空間にあったものが内部空間に一気に侵入した。こうした状況から、川上は、社会での「家庭」自体の居場所が喪失、漂流し始めていると指摘している。また、一層厳しい状況に置かれた「家庭」は、国家に管理され介入され利用される存在にもなり得ると警告する。
「家庭」概念は変容し、伝統的理想と現実の間には大きなギャップがある。何より、このギャップを無視することによって苦しむ子どもたちが存在する。にもかかわらず、政治家も官僚もメディアも論壇も、「家庭」イデオロギーを喧伝する右派の影響力を止められない。これは昨年前半のLGBT法案の国会提出見送り、さらに選択的夫婦別姓導入の頓挫につながる動きにも共通する。子どもと家庭は、日本社会の未来に直結する政治どまんなかの問題だ。メディアは今後も大きな視点からの取材と検証が求められる。」朝日新聞2022年2月24日朝刊9面オピニオン欄、論壇時評。