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「日本近代文学」の構築5 田山花袋の「戀愛」の条件  どさくさまぎれ

2022-02-27 21:41:34 | 日記
A.美文から言文一致体へ
 1907(明治40)年9月、「新小説」という雑誌に載った田山花袋の『蒲団』という小説は、日本近代文学史上の記念碑的作品になった、といわれている。女弟子に去られた作家の(作者自身とみられる)中年男が、彼女の使用していた布団の夜着に顔をうずめて匂いを嗅ぎ、涙するという結末の描写は、読者、さらに文壇に衝撃を与えた。これ以後、日本の小説では「自然主義」が主流とされ、とくに自分の身辺をそのまま隠さず暴露するような私小説こそ、リアルで芸術的な作品だとされてきた。田山花袋(たやま かたい、1872(明治4)年~1930(昭和5)年)は、本名を録弥といい、群馬県館林(当時は栃木県)生まれ。尾崎紅葉のもとで修行したが、後に国木田独歩、柳田國男らと交わって、この『蒲団』で明治文壇に名を残した。今ぼくたちがこの『蒲団』を読んでみると、若い女性に夢中になって「戀愛」をしているつもりで深刻に悩む主人公に、どんなユーモア小説も叶わない「思わず笑ってしまう」愉快な作品である。もちろん明治40年当時、これを笑える読者は希少だった。

 「田山花袋はまず、彼自身言うところの《美文的小説》の作家だった。だからこそ彼は『露骨なる描写』の一文を書かなければならない。ここで指弾されるのはまず、《美文的小説》の書き手だった彼自身なのだ。
「竹中古城」のペンネームを持つ『蒲団』の主人公は、《竹中古城と謂えば、美文的小説を書いて、多少世間に聞えて居ったので、地方から来る崇拝者渇仰者の手簡はこれ迄にも随分多かった。》(田山花袋『蒲団』二)である。同じ「古城」をペンネームとする『乙女病』の主人公杉田古城も《若い時分、盛に所謂少女小説を書いて、一時は随分青年を魅せしめたものだが、観察も思想もないあくがれ小説がそういつまで人に飽きられずに居ることが出来よう。》(田山花袋『少女病』三)と書かれるような存在である。いずれの主人公もある時期までの田山花袋のありようと重なるようなものだが、彼の書く《美文的小説》あるいは《少女小説》のパターンは、彼が三十一歳になった明治三十四年(1901)まで決まっている。そんな断定が出来るのは、前章で言ったように、その年に書きあげて出版される『野の花』の前に書かれた序文の中で、〈色も香も無いつまらぬ花〉と、『野の花』のありようを自身で否定してしまっているからである。『野の花』を書き了えた彼は「自然主義」の方へ行ってしまうから、彼の《少女小説》あるいは《美文的小説》も終わってしまうが、問題はその小説の内容である。
 一人の若者がいる。彼は知的で、田山花袋自身のありようとは反して(おそらくは)端正な美貌の持ち主で、生活能力はあまりないが、周囲の人間達からは好意的に受け入れられている――主人公はそうした青年で、その彼が美しさに富んだ土地で、若くて美しい女に恋をする。設定上は「美しい」だらけだが、この主人公の青年は恋した相手の女にはほとんど何も言えず、その土地を去ってしまう。そして、去ったずっと後になって、彼が恋していた相手の女もまた、彼のことを愛していたことを知る。だからなんだと言うと、それだけの話である。
 それだけの話がなぜ意味を持つのかというと、彼がその女をひたすらに、激しく純粋に、一方的に愛するからである。「ただひたすらに激しく一方的に愛しました」ということになると、それがたとえ「純粋」と言われるようなものであっても、結局は「空しい片思い」にしかならない。しかし、「実は相手の方も、人知れず同じような思いを寄せていました」ということになると、「ひたすらに一方的な片思い」が、「報われた純粋な愛」に変わってしまう。今時「無償の愛」だの「純粋な恋」だのと言っても、「結局は一人よがりの危ない恋愛感情でしょう」と言われかねないところもあるが、これで「やはり相手も同じように思っていました」になれば、「それは一人よがりの妄想ではない。たとえ“ひとりよがりの妄想”と言われたにしても、なんらかの実質はあったのだ」ということになる。こういう昔の人の恋愛感情を説明すると、まどろっこしくてややこしいことにしかなりかねないが、早い話、そういう小説を書く田山花袋は「恋に恋する男」で、それを小説の中で「実りはしなかったが思うだけの甲斐はあった」ということにしたかったのである。だからだからその時期を振り返って、《観察も思想もないあくがれ小説》と『少女病』で言うのである。
 相変わらずのひどい書きようではあるが、今の人は「恋を得たいと思って得られない男」がその昔にはいくらでもいて、それが小説の題材になりえていたということを忘れているから、「ただの片思いに“純粋”とかなんとかいう勝手な理屈がつくのはなんなんだ?」と思ってしまって、その当人の「切実さ」にピンとこあなくなっているのである。
 ぐだぐだと訳の分からない説明を続けていても仕方がないので、その具体例を挙げてみよう。テキストとなるのは、明治二十九年(1896)にニ十六歳の田山花袋が書いた短編小説『わすれ水』である。この恋愛小説の主人公は、こんな青年である――。

《何(なに)故(ゆゑ)に我は今少し財産ある家に生れては来(きた)らざりしか。何故に今までのうちに少し立派なる名誉といふものを取らざりしか。せめて名誉だにあらば、財産はなくとも、われはかの少女(をとめ)をおのが妻になすことを得べかりしものを。今はその財産も名誉も、一つとして備りたる所なきわが身をいかにかすべきと、思ひつめては俄(にはか)に悲しく、玉の如き涙はほろほろとその両頬(りょうけう)ををつたひて落ちぬ。されど恋といふものは、決してさる貴賤の区別によりて起るものにあらず。恋とはと、孤城落日の中(うち)に恰(あたか)も遠き援兵の旗幟(きし)を見たる如く、急ぎて其方へおのが思想を走らせ去れり。恋とはさるものにあらず、さる汚れたるものにあらず否々(いないな)この心だにあらば、この清き恋したる心だにあらば、我はかの少女を恋ふるに於て、何の疚(やま)しきところかあらむ。金銭とは何ぞ、資格とは何ぞ、是(これ)皆この現世を組立つるための儚(はか)なき器械たるに過ぎざるにはあらずや。それにしてもわれはいかにもして、この燃ゆるが如き心を、かの少女(をとめ)に打明けたきものなるがと、暫しためらひて、されどわれは到底(たうてい)うち明くること能(あた)はざるべし、かの憂(うれひ)の何者たるをも知らぬ無邪気なる顔を見れば、われは唯(ただ)美しき女神の像(すがた)に対したる時の如く、一種の尊さを覚ゆるものを、かく汚れたるわが心を語り出でゝ、玉の如く円満なるこの恋を打破りて仕舞(しま)ふに忍ぶべき、忍ばざるべからずと、またも心中(しんちゅう)に絶叫したり。それにしても此頃は逢ふ度毎(たびごと)、いつも礼を施さぬ事はなきやうになりたるが、そは果して他の人に対すると同じき心にて、われにも礼を施せるか、或はわが思ふ如く、かれもいたくわれを思ふて居るにはあらざるか。》(田山花袋『わすれ水』三)

 いささか長すぎる引用ではあるが、一読して思われることは、「昔の男にとって、恋愛をするというのはとんでもなく大変なことなんだ。恋愛には“資格”というものが必要だった時代もあったのだ」ということである。本巻〔第二部〕に引用した明治期の作品は、読みやすさを考えてその多くを現代仮名遣いに改めてあるが、この漢文的要素の強い文語体の作品には歴史的仮名遣いの方がふさわしいと思い、あえてそのままにした。この作品が発表されたのは、二葉亭四迷が『浮雲』の第一篇を、山田美妙が『武蔵野』をそれぞれに発表した明治二十年(1887)の九年後。田山花袋の体質もあってか、この文語体は「後一歩で口語体になってしまうような文語体」であり、「本当だったら口語体になっていてもいいものが、敢えて大仰な文語体で書かれている」と言いたいような趣がある。『蒲団』の十一年前ではあっても、田山花袋の激しい情熱は健在で、見事に爆発してしまっているのだ。
 この主人公は《さる田舎》の中学に赴任した作者と同年代の青年教師で、自分のことを《おのれは東京にてさへ思ふまゝなる生活を送ることも出来ず、遥々とこの田舎に落魄して来りたる一書生の身、殊にこの行末とても不幸多く薄命多き詩人となるべきわが身なれば、》(同前)と思っている。
 恋の相手となる女は、土地の資産家である旧士族の十七歳になった娘で、容貌から性格から非の打ち所が一つもない(とされる)。この物静かな娘が土地の主婦の主宰する裁縫教室に通って来て、たまたまそこに立ち寄った主人公に一目惚れをされた結果、引用部のような「嵐」を巻き起こしてしまう。ちなみに、この煩悶状態にある主人公は、相手の彼女とまだ一言も言葉を交わしてはいない。
 初めは、道で出会っても会釈をすることさえ出来なかった。それをしてもいいのかどうかさえも分からなかった。しかし、いつの間にか顔見知りになって、出会うと軽く頭を下げ合うことだけはするようになった。だからこそ、《かれもいたくわれを思ふて居るにはあらざるか》という大煩悶状態も生まれてしまう。昔の人は大変なのだ。
 ちなみに、この引用部だけを見ると、『わすれ水』は独白体の小説のようにも思えるが、これは《なにがし学校を卒業したる木崎鐘一は、》(同前一)で始められる、れっきとした三人称語りの小説なのである。それが「彼は」で始められても、「木崎鐘一は」で始められても、書き進んで熱が入るに従って「彼は我なり」になってしまうのが、「情熱の田山花袋」である。
「彼=我」になってしまう情熱の田山花袋が訴える「この恋が実らぬ理由」は、とりあえず、「貧富の差」である。
 「彼女は富裕階級の子、我は貧しい」と、その現実を理解してしまえば、「彼=我」がたやすく彼女に声を掛けられない理由も分かるし、「この恋が実るはずはない」という結論へ一足飛びに向かって、どうにもならない絶望に陥るのも、まァ、分かる。そして、主人公はその絶望の泥沼で「でもそんなことはないはずだ!」と、彼女に恋する自分自身の思いを肯定し始める――《恋とはさるものにあらず、さる汚れたるものにあらず》と。《孤城落日の中に恰も遠き援兵の旗幟を見たる如く》というのが、さすがに大仰な文語体の妙味で、落城間近の城の中にいる気になった主人公が見つける援軍の旗印が、恋そのものを肯定する《おのが思想》という展開もすごい。
 「今時、誰がこんな激しい勢いで自分の一方的な恋愛感情を力説するのか?」ということになったら、「いないでしょう」ということになってしまうかもしれないが、それは間違いだと思う。恋というものに出会って内心うろたえ騒ぐしかなくなってしまう人間は、今でも当たり前にいるはずである。現代での悲劇というのは、そういう人間が自分の内面を言葉にしようとすれば、どこからともなく「笑っちゃうね」というような声が聞こえてきそうな状況があることである。だから、恋に懊悩する思いは「沈黙」へと押しやられる。「恋する自分の正当性を求めて、堂々たる論陣をわが身に張る――それをしなければ、恋をしがたい人間は恋に近寄ることさえも出来ない」ということが忘れられたために、「ストーカー」とか「つきまとい」というような「沈黙の恋」が生まれてしまったのかもしれない。
 昔の人間は、恋をすると悩む。その人間はおおむね「彼」だが、彼を悩ませるような障害がいくらでもあるから、悩まざるをえない彼は、その困難を突破する《思想》を求める。「私の恋は、なんだかいけないものなのだ」という悩み方をしてしまった場合には、《恋とはさるものにあらず、さる汚れたるものにあらず》という、浪漫主義や恋愛至上主義の援軍がやって来る。「貧しい自分」を思って行き止まれば、《金銭とは何ぞ、資格とは何ぞ、是皆この現世を組立つるための儚き器械たるに過ぎざるにあらずや。》がやって来る。これはもう「社会主義への目覚め」である。私は、この主人公の恋が実らぬ――それゆえにこそ悶々とする理由を「とりあえずは貧富の差」と言ったが、「自分の恋は実らないのだ」と思い込んでしまった人間にとっては、その理由なんかなんでもいいのである。」橋本治『失われた近代を求めて』上巻、朝日選書、2019朝日新聞出版、pp.329-336. 

 田山花袋は大真面目で「戀愛」をしようと頑張っていたのだが、橋本治ならずとも、これはどうしても微笑し揶揄するしか対しようがない。でも、それならどうしてこれが近代日本文学史において、そののちまで多大な影響を与えることになったのか。それについても橋本治さんは、適切な説明をする。


B.どさくさまぎれの笑劇
 改憲を悲願とした安倍晋三政権が終わって、その傀儡のような菅政権も短命で終って、もう暇つぶしの憲法改正なんてやっている場合じゃないと思うのだが、なんだか発足してみたものの腰の座らない岸田政権は、コロナ第6波とウクライナの戦争まで出来して慌ただしいなか、右翼に気を使って憲法審査会は開いてやってます感を出そうとした。でも、中身の議論はどさくさの火事場泥棒みたいなものだと、例によって朝日の高橋純子の筆は快刀乱麻だな。

 「多事奏論:詰め放題の改憲論 2代目の情念 3代目の軽さ 編集委員 高橋 純子
 激安スーパーの「詰め放題」は、ポリ袋を事前にのばしておくのがコツだ。やってみるとわかるが、ニンジンだろうがジャガイモだろうが、食材ではなく、袋をみちみちにするためのただの物体と化す。そんなにいる?使い道あるの?だなんて愚問オブ愚問。必要かどうかの問題ではないのだ。まだいける、もっと行けると詰め込むことが目的であり、喜びなのである。
 今月10日に開かれた衆院憲法審査会もまさに、「詰め放題」の様相を呈していた。憲法改正を唱えてみせること自体が目的化しており、教育無償化だのデータ基本権だの、あれもこれも節操なく詰め込まれていた。「憲法改正に向けて議論することが国会議員の責務だ」みたいなことが言われていたが、違いますね。国会議員が負っているのは憲法尊重・擁護義務です。はい。
 そもそも政策遂行のテコにするため憲法に何等か書き込もうという類いの主張は、「私は政治家として無能です」と宣言しているに等しいと私は考える。現代の変化に応じた構えや緊急事態への備えが必要ならば、とっとと議論して、たったか法律をつくればよい。
 かねて個人的にあたためている仮説を唐突に披露すると、与野党を問わず、スポットライトが当たらなくなり、立ち位置を見失ってどん詰まった政治家は、憲法改正を声高に打ち出したり改正試案を発表したりしがちではないか。あの人この人、個人名は控えるけれども、思えばあの悪評高き自民党改憲草案、現行13条「すべて国民は、個人として尊重される」の「個人」を「人」に変えるなどしたおそろしい代物がつくられたのも2012年、野党時代だった。
 憲法改正は手っ取り早く耳目を引くための道具か。はたまたファイト一発、ストレス発散に効くドラッグか。たまらん。
 1日に亡くなった石原慎太郎氏を、私は政治家として評価しない。数々の差別的言辞は「石原節」などといって受容できるようなものでは到底ない。ただ、敗戦時12歳だった氏の「自主憲法制定」への思い自体は、反米というスタンスと考え合わせれば、まったく共感はしないけれども理解はできる。憲法前文「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」の「に」は日本語として間違いであり、まずはこの1字を正すべきだと熱心に説いていた。「『に』の1字を変えることがアリの一穴となって、敗戦後70年にしてようやく自主憲法の制定につながる。とにかく日本人の主体性というものを回復することができるんじゃないか」(14年10月30日、衆院予算委員会)
 ところが当時の安倍晋三首相はこれに答えていわく「1字であったとしても、これを変えるには憲法改正が伴う。そこは、『に』の一字でございますが、どうか石原議員におかれましては、『忍』の一字で」。石原氏の情念をさらりと受け流し、居並ぶ閣僚らからどっと笑いが起こった。
 時流も実現可能性も全く考慮に入れず、自身の血肉をもって紡いだ石原氏の改憲論は面倒くさくてどこか滑稽でもある。しかし、感染症まで憲法改正の口実に使おうとするケチなズルに比べれば、助詞1文字に心を砕き思いをかける石原氏の方が、真剣に憲法と取っ組み合っていたと思う。
  •     *     * 
 「三代目となれば、体験の基盤はなく、実感はじょうはつしてしまって行動の原動力とならない。(中略)うらみも、正義感も、二代かぎりですりきれてしまうものとして、消耗品の種目にいれられている」 (鶴見俊輔「限界芸術論」)
 大人として先の戦争をくぐった世代を1代目とすると、石原氏は2代目。いま日本政治の中心にいるのはおいおかた3代目。反省もうらみもすりきれた「売り家と唐様で書く三代目」の軽佻浮薄を目の当たりにすればなおさら、私は、体験や実感が刻み込まれた日本国憲法に信頼している。」朝日新聞2022年2月23日朝刊11面オピニオン欄。

 これも朝日の論壇時評での林香里せんせいの、「こども庁」設置に「子ども家庭庁」に名称変更するという無理矢理について。「自民党保守派」という政治家たちの名前もあげてほしいが、時代錯誤のイデオロギーだけで必要な政策にいちいち横やりを入れるのは、国家にとって害だと思う。

 「変容する「家庭」 「理想」との隔たり 向き合う時  東京大学大学院教授 林香里 
 「子ども家庭庁」設置法案が月内にも閣議決定され、2023年には同庁が創設されるというニュースが入った。
 表向きには「こどもまんなか社会の新たな司令塔」を謳う役所だが、土壇場で「こども庁」に「家庭」という2文字が加えられた。結果的に、子どもたちの人権重視や命優先の視点の結実というより、日本の政治/社会の右傾化、そして組織イノベーションに後ろ向きな官僚機構の象徴となった感が否めない。
 教育行政研究者の末富芳は、①でこども基本法やこども家庭庁設置の検討が「大荒れ」している背景には、「いわゆる自民党保守派」の存在があると指摘する。末富は「マルクス主義」「誤った子ども中心主義」という議員たちの発言について、「実際に子ども基本法を推進しようとする団体や、その団体が関わる大変な状況の子供若者や親たちのこともぜひ知って、対話したうえで、発言していただけませんでしょうか」と対話を呼びかける。しかし、同庁設置法案の経緯だけを見ても、対話の前途は険しそうだ。
 ( 中 略 )
 しかし、現実はどうだろう。「家庭」は「やすらぎ」どころか崩壊が叫ばれ、その上に特にここ2年はコロナ禍によって「ステイホーム:」が言われて、外部空間にあったものが内部空間に一気に侵入した。こうした状況から、川上は、社会での「家庭」自体の居場所が喪失、漂流し始めていると指摘している。また、一層厳しい状況に置かれた「家庭」は、国家に管理され介入され利用される存在にもなり得ると警告する。
 「家庭」概念は変容し、伝統的理想と現実の間には大きなギャップがある。何より、このギャップを無視することによって苦しむ子どもたちが存在する。にもかかわらず、政治家も官僚もメディアも論壇も、「家庭」イデオロギーを喧伝する右派の影響力を止められない。これは昨年前半のLGBT法案の国会提出見送り、さらに選択的夫婦別姓導入の頓挫につながる動きにも共通する。子どもと家庭は、日本社会の未来に直結する政治どまんなかの問題だ。メディアは今後も大きな視点からの取材と検証が求められる。」朝日新聞2022年2月24日朝刊9面オピニオン欄、論壇時評。
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「日本近代文学」の構築4 国木田独歩の創造  DV被害は女性の4分の1が体験

2022-02-24 21:37:09 | 日記
A.自然主義の出発にある武蔵野
 国木田 独歩(1871(明治4)~1908(明治41)年)は、日本の小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者。千葉県銚子生まれ、広島県広島市、山口県育ち。播州龍野藩士だった父が、戊辰戦争後に銚子に滞在していた際に宿の女に生ませ東京に連れ帰った庶子で、その後父の司法省勤務に伴い、広島や山口などを転々。彼はこの出生の秘密に悩んだという。幼名を亀吉、後に哲夫と改名した。筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがある。山口から上京して東京専門学校に入り、キリスト教に接近し1891(明治22)年1月植村正久から受洗。田山花袋、柳田國男らと知り合い「独歩吟」を発表。詩や小説を書きながら、徳富蘇峰の「国民新聞」の記者となり、雑誌の編集者も務める。次第に小説に専心した。国木田独歩の『武蔵野』(1898年)は、男女人事のあれこれではなく、東京郊外の自然を歩きながら語る、という小説とも言えない不思議な文章であり、それが今までどこにもなかった格別な文章であったことを、橋本治は文例をあげて説明している。

 「自身は《抒情詩である》と断言する国木田独歩の『武蔵野』は、小説とも随筆ともつかない不思議な作品だが、私はこれを「革命的な論を含んだ小説の序曲のようなもの」と考える。文語体から言文一致体への転換は文化的な大転換であるのだが――そのような気づかれ方をあまりなされてはいないが――『武蔵野』はその転換を別の視点からいともあっさりと説明する。言い方を変えれば、私が今までバラバラに投げ出していたものを整理してつなげてくれる、ミッシングリンクのようなものである。

《「武蔵野の俤(おもかげ)は今纔(わずか)に入間郡に残れり」と自分は文政年間に出来た地図で見た事がある。》(『武蔵野』一)――こういうなにが言いたいのかよく分からない書き出しで始まる『武蔵野』は、「今の武蔵野の美しさ」を語るものである。そして国木田独歩は、《自分は武蔵野の美と言った、美といわんより寧ろ詩趣といいたい、其方が適切と思われる。》(同前)と言い直している。微妙なことだが、「それは出来上がって“美”として認知されているものではない。私個人が“美”と感じるだけのものだから“詩趣”と言うべきだろう」である。そう言っておいて、でも国木田独歩にとって武蔵野はやはり「美」なのだ。それがどういう美かというと、《昔の武蔵野は萱原(かやはら)のはてなき光景を以て絶頂の美を鳴らして居たように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林である。》(同前三)と適確に言う。どのような《林》かというと、落葉樹の林である――そう言っておいて、意外な展開を見せる。
《元来日本人はこれまで楢の類の落葉樹の美を余り知らなかった様である。林といえば重に松林のみが日本の文学美術の上に認められて居て、歌にも楢林の奥で時雨を聴くという様なことは見当たらない。自分も西国に人となって少年の時学生として初て東京に上がってから十年になるが、かゝる落葉林の美を解するに至たのは近来の事で、それも左の文章が大に自分を教えたのである。》(同前)と言って国木田独歩が引用するのは、二葉亭四迷の訳文によるツルゲーネフの「あひびき」である。
 国木田独歩は、明治二十九年の秋九月から翌年の春まで、今とはまったく様相の違う「武蔵野の地」である東京の渋谷村に住んでいた。『あひびき』を含む二葉亭四迷の翻訳集『かた恋』が出版されたのは明治二十九年の十一月だから、その時期に『あひびき』を初読か再読したのだろう。それで《かゝる落葉林の美を解するに至たのは近来の事》(傍点筆者)と言うのだろう。
 渋谷村の秋の中にいて『あひびき』を読んだ国木田独歩は、自分がそれまで知らなかった「まったく新しい秋」の中にいることを知った。その秋は、伝統的な日本の美学の中にある秋ではなくて、遠いロシアの秋なのだ。十八歳の田山花袋は『あひびき』の中にまったく知らなかった「新しい恋愛感情の形」が書かれているのを発見して興奮したが、二十六歳を過ぎた国木田独歩は、『あひびき』の中にではなく、日本の秋の中にそのまま「ロシアの秋」を見たのだ――《これ(『あひびき』)は露西亜の景で而も林は樺の機で、武蔵野の林は楢の木、植物帯からいうと甚だ異て居るが落葉林の野は同じ事である。》(国木田独歩『武蔵野』三)と。

 近代化を推進する明治の日本は、当然のことながら恣意的に西洋化を推進する。おかげでそれ以前の伝統的なものは存在基盤を危うくするが、「国粋化」という反復横跳びのおかげで変に強化もされる。伝統的なものは「旧弊」として廃棄され、そこに代わって西洋的なものが導入されるのが近代化であったりするが、稀に、「旧弊」のベールを剥がされることによって顕われる「日本に在来的な西洋」もある。国木田独歩が『あひびき』によって触発された《落葉林の野》がそれである。
 それはずっと以前から存在していた。しかしその存在を発見されず、意味付けをされることもなかったために、「存在していない」と同義にされてしまった。『武蔵野』を書く国木田独歩は、武蔵野を発見したのだ。
 たとえば、平安時代の人間は桜を愛でながら、そこに「匂い」がないことを惜しんだ。しかし、江戸時代の人間は桜の葉の芳香を愛して桜餅を作った。桜の花に匂いはないが、桜の葉にはある。桜を愛した王朝貴族は、匂いにも敏感であったにもかかわらず、「花以外の桜」を一切存在させなかったのである。だから、秋になって桜の葉が高揚したって、まったく問題にもされない。落葉樹でその存在を認められるのは紅葉する楓だけで、「紅葉する」の語だけあって、「黄葉する」は問題にもされなかった。「秋の色」と言えば「赤」で、農業国日本に「収穫の秋」を代表する稲穂の黄色があっても、これが「美」の対象にはならなかった。明治になって洋画家の浅井忠が、収穫期の農村の秋の景を描いても、「農村の労働が描かれている」と思うばかりで、そこに「秋の黄色」が登場したことを発見して喜ぶ人はあまりいない。国木田独歩の『武蔵野』は、そういう革命的な発見を展開する「論」でもあるのである。
 国木田独歩は『武蔵野』で「雑木林」の語を使わないが、普通、武蔵野と言えば「雑木林」である。この「雑」が雑草の雑と同種だと知ったらどうだろう? 武蔵野に木は生えていても、それは「木に値しない木」でしかないのだ。国木田独歩は、その武蔵野に生命の息吹と誇りを送り込んだ。そうして近代に「美」として復活しえた武蔵野は、更に新しい展開を見せる。

 林が尽きれば「野」である。国木田独歩は、男に捨てられた少女「アクーリナ」が去った野に進み出た《自分》を語る『あひびき』の後半を再び引いて、《誰だか禿山の向ふを通ると見えて、から車の音が虚空に響きわたツた‥‥》(二葉亭四迷『あひびき』)のラストに続けて、《これは露西亜の野であるが、我武蔵野の野の秋から冬へかけての光景も、凡そこんなものである。》(国木田独歩『武蔵野』四)と言う。『あひびき』の終局部は、他人の恋の破綻に立ち合ってしまった《自分》の中に生まれた恋への思いを語る心象風景でもあるのだから、それと、恋もなんにもない武蔵野を並べ《凡そこんなものである》と言ってもいいとは思えないが、それをしてしまう以上、国木田独歩には考えがあるのである。「心象風景のロシアの野」と武蔵野を並べた国木田独歩は、そこに「人間」と「その生活」を置いて行くからだ。
《凡そこんなものである》の後に《武蔵野には決して禿山はない。》(同前)と続けて、国木田独歩は高低差のある武蔵野の谷と高台――谷には水田があり、高台には村と畑があって、その間に農家が散在する様子を書いて、《こゝに生活あり、北海道のような自然そのまゝの大原野大森林とは異て居て、其趣も特異である。》(同前)と、そこから「人の営みのある景」へとつなぐ――《稲の熟する頃となると、谷々の水田が黄んで来る。稲が刈り取られて林の影が倒さに田面に映る頃ろとなると、大根畑の盛りで、大根がそろ〽抜かれて、彼方此処の水溜又は小さな流の畔で洗われる様になると、野は麦の新芽で青々となって来る。》(同前)
 水田があり林があり畑があり、《或は麦畑の一端、野原のまゝで残り、尾花野菊が風に吹かれて居る。萱原の一端が次第に高まって、其はてが天際をかぎつて居て、そこへ爪先あがりに登て見ると、林の絶え間を国境に連なる秩父の諸嶺が黒く横わッて居て、あたかも地平線上を走ては又地平線下に没して居るようにも見える。》(同前)と書いて、「その広大な武蔵野をどのように散策するか」と、国木田独歩は続ける。その答は、「自由に歩けどうにでもなる」である。
 「地図のない新天地」でもあるような広い武蔵野を歩こうとして、独歩は何度も「どう歩こうか?」と迷った。そして、《自分は困ったか否、決して困らない。自分は武蔵野を縦横に通じている路は、どれを撰で行っても自分を失望さゝないことを久しく経験して知て居るから。》(同前)と言う。ただの「武蔵野散歩ガイド」のように見えて、微妙に「違うなにか」が入り込んでいる。そうしておいて、そこから武蔵野を歩む国木田独歩の紀行文が本格的に始まる。《武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向く方へ行けば必ず其処に見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある。》(同前五)《若し君、何かの必要で道を尋ねたく思わば、畑の真中に居る農夫にきゝ玉え》(同前)で、ここにようやく口を開く人間が登場する――《農夫が四十以上の人であったら、大声をあげて尋ねて見玉え、驚て此方を向き、大声で教えて呉れるだろう。若し少女であったら近づいて小声できゝ玉え。若し若者であったら、帽を取て慇懃に問い玉え。鷹揚に教えて呉れるだろう。怒ってはならない、これが東京近在の若者の癖であるから。》(同前)
 武蔵野を歩くようにして武蔵野の美しさを語るその中には、以上のような「微妙な要素」が混入して、その後に「どこからどこまでが武蔵野かを線引きして確定せよ」と言う友からの手紙が、唐突にも登場する。意外とも思えるその論が衝撃的である。その友人の筆を借りる形で、独歩は「武蔵野から東京を排除しろ」と言う。なぜかと言えば、官の建物が立ち並ぶ東京では《昔の面影を想像することが出来ない。》(同前七)で、《徳川の江戸》を見出しても仕方がないから、《東京は必ず武蔵野から抹殺せねばならぬ。》(同前)と言う。旧幕時代以来の古いものとは一線を画した「新しい地平」である武蔵野の独立宣言にも近い。
 そうしておいて、《しかし其市の尽くる処、即ち町外れは必ず抹殺してはならぬ。僕が考には武蔵野の詩趣を描くには必ず此町外れを一の題目とせねばならぬと思う。》(同前)と続く。ロシアの林と同値であったような武蔵野は、いつの間にか「人の住む東京郊外の巷」へと変わって行くのだ。翻訳文体の日本語がそのまま「新しい日本語文体の作品」へと転換して行く様が、ここにはっきり見える。そして、そのように「武蔵野」を語って、国木田独歩は衝撃的なラストへと誘う。
《郊外の林地田圃に突入する処の、市街ともつかず宿駅ともつかず、一種の生活と一種の自然とを配合して一種の光景を呈し居る場処を描写することが、頗る自分の詩興を喚び起すも妙ではないか。》(同前)と自問して独歩は即答する――。
《即ち斯様な町外れの光景は何となく人をして社会というものゝ縮図でも見るような思をなさしむるからであろう。言葉を換えて言えば、田舎の人にも都会の人にも感興を起さしむるような物語、小さな物語、而も哀れの深い物語、或は抱腹するような物語が二つ三つ其処らの軒先に隠れて居そうに思われるからであろう。》(同前)
 これはほとんど、「自然主義」と呼ばれた国木田独歩の短編小説誕生の由来を語る文章である。そして同時に、当時の人間達が「自然主義」と読み誤ったものが一体なんであったのかを語る文章でもある。
国木田独歩の『武蔵野』は、ラベルの『ボレロ』に似ている。「武蔵野」というシンプルなメロディが何度も繰り返され、アレンジを変えて登場し、最後クライマックスに達していきなり終わる。その終局の導入部として《二つ三つ其処らの軒先に隠れて居そうに思われる》と言った独歩は、そこに短い物語の予兆を続けて行く――。
《見給え、其処に片眼の犬が蹲て居る。此犬の名の通って居る限りが即ち此町外れの領分である。
 見給え、其処に小さな料理屋がある。泣くのとも笑うのとも分らぬ声を振立てゝわめく女の影法師が障子に映て居る。外は夕闇がこめて、煙の臭とも上の臭ともわかち難き香が淀んで居る。大八車が二台三台と続て通る、其空車(からぐるま)の轍(わだち)の響が喧しく起りては絶え、絶えては起りして居る。》(同前)

《空車》という『あひびき』のテーマさえそれとなく折り込んで、「物語の予兆」はいくつも積み重ねられ突如として終わる――《それでも十二時のどんが微かに聞えて、何処となく都の空の彼方で汽笛の響がする。》(同前)
〈どん〉とは言うまでもなく、当時の東京市民に正午の時を知らせる大砲の音である。
『武蔵野』が、新しい文学の地平を開く序曲であったことは間違いがない。ここに「自然主義」という語を持ち込むのは、それ自体余分なのである。」橋本治『失われた近代を求めて』上巻、朝日選書、2019朝日新聞出版、pp.61-68. 

 独歩が描いた「武蔵野」は、郊外の林野というイメージから多摩地区と思われがち(実際三鷹市や武蔵野市では記念碑があるそう)だが、実際は独歩が1896(明治29)年から居住した東京府豊玉郡渋谷村、いまの渋谷辺りの風景だという。明治30年ごろの渋谷はまだ農村と林野が拡がる「武蔵野」だったのだ。独歩はこれを、二葉亭四迷の訳したツルゲーネフ「あひゞき」の影響のもとで書いたといわれる。


B.誰を誰が保護すればいいの?
 「日本的イエ」こそ最も守るべき価値だと考える「保守政治家」という人たちの頭の中では、夫婦と子どもがつくる「家庭」とは、夫が権威と実力をもって尊敬され、母は家事育児を誠実にこなし、夫に逆らわず、子どもたちへの愛情に満ちて国家と天皇を敬う日の丸日本人のイエというイメージなのであろう。そういう「家庭」が現実にどれほど存在するのか、その保守政治家たち自身の「家庭」が、実際そういうものであるかは知るよしもないが、たとえどのような「家庭」であっても、日本国憲法は政府の役割として人々の生きる権利を保障し、個人の尊厳を損なわない社会を作るのが政治の役割としている。ドメスティック・バイオレンスは、家庭という閉ざされた空間で、個人の尊厳が傷つけられ生きづらさの日常を生きている人が少なくない、という報告がある。とくにそれは女性の4人に1人という、広く多様な現象だとすると、どうしてそんなことになっているのか?保護すべき人、保護する人は誰なのか?

 「女性4分の1がDV被害 WHO、コロナで悪化懸念 
【ワシントン=共同】男性パートナーによる暴力や望まない性向などのドメスティックバイオレンス(DV)被害に遭った女性が四人に一人に上るとの推計を、世界保健機関(WHO)などのチームが十六日、英医学誌ランセットに発表した。外出しづらくなる新型コロナウイルス禍で状況がさらに悪化すると懸念し「政府や地域社会は早急に対策を」と訴えた。
 チームは2000~18年に実施された三百六十六の研究や統計データを基に、18年時点の割合を推計。被害の定義をそろえるなどし、世界の状況把握や国別比較を試みた。
 その結果、配偶者や恋人から殴られる、物をぶつけられるなどの暴力や性行為などの性的暴力を受けたことのある十五~四十九歳の女性は世界で27%に上るとした。十五~十九歳という早い段階でも既に24%が経験していた。
 十五~四十九歳の女性は国別では日本が20%。太平洋の島しょ国キリバス(53%)やフィジー(52%)で高く、旧ソ連のジョージア(グルジア)やアルメニア(各10%)で低かった。
 一年以内に被害に遭った女性の割合も算出すると、世界全体では13%、推定約五億人にもなる。日本は4%。割合は高所得国で低かったのと対照的に、サハラ砂漠以南のアフリカやオセアニアで高かった。
 チームは「各国とも、女性へのあらゆる暴力を排除するとした国連の持続可能な開発目標(SDGs)達成に向かっていない」と批判。地域や学校でのジェンダー平等促進や差別的な法律の改正などを通じ「予防は可能だ」と指摘した。」東京新聞2022年2月21日夕刊。

 「家庭」という閉じた空間で、もっとも親密で日常的に濃厚接触する相手にたいし、どうして物理的あるいは精神的暴力を振るうような行為が起こるのだろう?それを予防し被害者を庇護する方策を考えるのは必要だが、そもそも愛情と尊敬をもって「家庭」をつくったとされた前提に問題があったんではないか?あるいは、愛情や敬意が結びつきの根拠だ、と考えていることがバイオレンスを呼び込む可能性はないのだろうか?その愛情や敬意というものは、きわめて揺らぎやすい頼りないものだとしたら…それがバイオレンスという形になってしまった時は、地獄になってしまう。
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「日本近代文学」の構築3 北村透谷のLifeライフ  生殖の保護?

2022-02-21 22:05:42 | 日記
A.純潔の処女が大好き?
 北村透谷(きたむらとうこく1868-1894)は、明治元年に小田原の藩医の家に生まれている。1歳年上の夏目漱石、正岡子規、尾崎紅葉、幸田露伴という人たちと同世代だが、そのデビューと活躍の時期はそれぞれ違うので、文学上の立場や運動ではとても一緒にはできないし、透谷は「文学界」という雑誌を発行した中心人物として『浪漫主義』の旗を振り、後輩の島崎藤村らに影響を与えたかと思うと25歳で自殺してしまった。本名は門太郎。1881(明治14)年に両親とともに東京に移住し、翌年、銀座の泰明小学校を卒業。透谷の名は、銀座数寄屋橋の「数寄屋」を「透谷(すきや)」にかえ、読みを「とうこく」にしたと言われる。一時期自由民権運動に深く影響されたが、のち政治から遠ざかり、キリスト教の信仰の世界に入るとされている。岩本善治の『女学雑誌』などのキリスト教女子教育とも関係が深く、「戀愛」という言葉を明治新時代の流行語にしたのは透谷だといわれる。
 しかし、橋本治『失われた近代を求めて』(朝日新聞出版)では、北村透谷の「浪漫主義」や「戀愛賛美」については、かなり「へんな」ものではなかったかと論じている。

「社会変革というのは、「人は皆同じ」という前提に立つものである。一方で日本の近代文学は、「私は人とは違う、人は皆同じではない」という前提に立つものである。両者は両立しないが、「人は皆同じ」という前提になった社会改良は、「人は同じではない」という現実にぶつかって頓挫する。「私は人と違う」でスタートした文学だって、「私も人と違う」という同質の人を見つけることによって文学としての位置を獲得する。どこで一致するのかは知らないが、「人は皆同じ」と「人は皆違う」はどこかで一致するはずのものなのである。
 どこで一致するのか、いつ一致するのかは知らないが、近代の初めである明治期の日本で、このことがきちんと理解されていたとは思えない。それを言うなら、「人は皆同じで、人はそれぞれに違う」というのが、矛盾なんかへとも思わない日本の前近代の得意とする理解だ。なまじ近代になんかなってしまったものだから、真面目な頭でこれを考えても壁にぶち当たるだけになってしまう。北村透谷はここにぶつかったのだ。
 北村透谷は彼なりに「人は同じ」を考える。たとえばそれは、「霊性」と言われるようなもんどえある。キリスト教的には「霊性」だが、仏教的には「仏性」である。「そういうものが人の根本にある」と考えれば、「人は皆同じ」が成り立つ。山路愛山の言葉を借りれば「心霊が心霊に影響を及ぼす」が可能になって、人と人の間の壁が取り払われる。社会変革の一々は面倒な大事業だが、人の中核にあって埋れている「霊性」のようなものを目覚めさせれば、一挙に「みんなが平等な社会」が出来上がる――という考え方だって存在する。社会主義国家の国民に「学習」が必要だったのもこのためで、北村透谷のキリスト教への接近は、「みんなが同じ」を達成する理論の可能性を考えてのことではないかと思う。
 しかし、「皆同じ」になって、北村透谷は嬉しいか?北村透谷の中には皆と違う固有の欲望――《個人的生命》もあるのである。なにしろ北村透谷は、《戀愛は人世の秘鑰なり》と言い、《婚姻は厭世家を失望せしむる事甚だ容易なり》と言う『厭世詩家と女性』の一篇で名を高くした人物なのである。北村透谷に「妻以外の女性」がいても不思議ではないし、それがなくても、「妻以外の女性を想い、それをタブーとしない」になっても不思議はない。
 結婚した透谷に「妻以外の女性」は存在しなかったらしいが、明治二十六年の秋に国府津の寺へ入る前、キリスト教の伝道旅行で東北にいた透谷は、妻のミナから激しい叱責の手紙を受け取る。透谷夫人の手紙は残っていないが、透谷の返信だけは伝えられているので、彼女の怒りがどのような性質のものかは推測できる。北村透谷はこう言っているのだ――。
 《拝啓、貴書を得て忙然たる事久し。何の意にて書かれしや。一切解らず。われ御身に対して敬礼を欠けりと云ひ、真の愛を持たずと云ひ、いろいろの事、前代未聞の大叱言。さても夫たるは斯程に難きものとは今知れり。/われいつの間に悪魔になりすましたるや、此書にてしか見ゆめり。この手紙はわれを聖人たれよと言ひ、他の世界はわれを悪魔たらしめんとす、詩人悪魔ならば、俗人いかほどの悪魔なるべき。/われ不幸にして斯の性を以て生れたり(後略)》(北村透谷・明治二十六年八月下旬の手紙)
 この後に「アメリカ風の夫になれと言うのか」と続くから、透谷夫人の怒りは「夫の女性関係」に関するものだと知れる。この頃に透谷の教え子だった若い女性が結核で死んでいるから、それに引っ掛けて誰かがつまらないことをミナ夫人に吹き込んだのかもしれない。
 透谷はその教え子のことを《渠の如きは余が生涯に於て有数の友なりし》と日記に書いている(『透谷子漫録摘集』明治二十六年八月三十日)。彼女は非常に優秀な教え子だったらしいから、友人の少ない透谷としてはその死が非常に悲しかった――《われつらつら近時の自己を顧みるに、危機にのぞめること久しと謂ふべし》と日記に書くのはそのすぐ後だから、彼女の死が透谷にとっての大きな衝撃だったのは間違いないが、だからといって透谷が、彼女に対して夫人が激怒するような恋愛感情を抱いていたかどうかは分からない(死んだ彼女が透谷のことをどう思っていたかはまた別だが)。
 透谷が手紙で《何の意にて書かれしや、一切解らず》と言っているのは、嘘がつけるとは思わない透谷の真実だと思うが、そんな詮索よりも重要なのは、同じ手紙にある《われ不幸にして斯く生まれたり、われ不幸にして斯の性を以て生れたり》の方である。それは、妻を苛立たせる透谷の性向であるはずだが、それはなんなのか?言うまでもない、それは『厭世詩家と女性』に書かれる「厭世詩家」は、当然北村透谷自身のことでもある――。
 《怪しきかな戀愛の厭世家を眩せしむるの容易なるが如くに婚姻は厭世家を失望せしむる事甚だ容易なり。そもそも厭世家なるものは社界の規律に遵ふこと能はざる者なり。社界を以て家となさゞる者なり、「世に愛せられず世をも愛せざる者なり」(I love not the world, nor the world me.)縄墨の規矩に掣肘せらるゝこと能はざる者なり、普通の快楽は以て快楽と認められざる者なり、普通の快楽は以てて快楽と認められざる者なり(My pleasure is not that of the world,etc.)一言すれば彼らが穢土と罵るこの娑婆に於て社界といふ組織を為す可き資格を欠ける者なり。》(北村透谷『厭世詩家と女性』下・傍点を省いて適宜ルビを補った)
 これをこの通りに読むと、《厭世詩家》でもあるような北村透谷の中に異様な欲望が眠っていたかのように感じられるが、そうではない。《厭世詩家》というのは透谷にとって「文学者、文学家」と同義のようなもので、つまりは「文学者がちまちました現実に縛られていることはない」と言うだけの話で、「変態のススメ」でも「浮気のススメ」でもない。そうでなければ、当時の作家達を《歓楽者》と罵った『当世文学の潮模様』の書き手の言にはならない。
『厭世詩家と女性』は「北村透谷ここにあり」というような一大センセーションを巻き起こしたものだから、今となっては当たり前の《厭世家なるものは社界の規律に遵ふこと能はざる者なり》なんていうことを、日本人はここで初めて知るのである。これを読んで、「親がいい顔をしない文学をやったっていいんだ」と思う青年も、「結婚という形で収まらない恋愛をしたっていいんだ」と思う青年も出て来て、誇らしげに自分の内部をつき回す日本の「自然主義」を生み出す淵源ともなる。
 明治二十年代の日本に近代文学の基盤などというものはろくにないから、そこでの北村透谷の発言が強い調子のものになってしまうのは仕方がないが、《この娑婆に於て社界といふ組織を為す可き資格を欠ける者》でもあるはずの北村透谷が、一方では「社会変革の意思」を有している――「この社会の一員とはなりえないから、別の社会を作るのだ」というモチベーションンだってあるが、そもそも「社会」のなんたるかが分からない者が「社会」を作ろうとしたって無理でる――というのは余分な話だが、北村透谷の《個人的生命(ライフ)》は、「みんなが同じ」であるような社会の一員になれるようなものではないのだ。『厭世詩家と女性』ではっきりとものを言ってしまった北村透谷は、やがてそこから生まれた「矛盾」に悩まされることになるのだが、ではその社会とは相容れないような北村透谷の《個人的生命》とはなんなのか?ここで問題となるのは、北村透谷自身の恋愛観である。
『厭世詩家と女性』を書いて、「我、恋多くあってしかるべし」と言いたいような北村透谷は、意外なことに「純愛主義者」なのである。明治二十五年に彼は別の文章でこういうことも書いている――。
 《夫れ高尚なる恋愛は其源を無洗無汚の純潔に置くなり。純潔より恋愛に進む時に至道に叶へる順序あり、然れども始めより純潔なきの恋愛は飄漾として浪に浮かるゝ肉愛なり、何の価値なく何の美観なし。》(北村透谷『処女の純潔を論ず――富山洞伏姫の一例の観察』傍点を省きルビを補った)
 これは、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』の発端部分である。犬の八房の「妻」になってしまった伏姫の処女性、あるいは純潔を論ずるものである。
 曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』と言えば、『小説真髄』で坪内逍遥が「あれを小説と思ってはいけませんよ」と言って以来、近代文学の反面教師のようになってしまっているが、北村透谷はそんな風に考えていない。《軽浮飄逸なる戯作者流を圧倒して屹然思想界に聳立したる彼の偉功の如きは文学史家の大に注目すべきところなるべし。》(同前)と、馬琴を位置付けている。しかし、この『処女の純潔を論ず』で問題になるのは、馬琴よりもまず、犬の八房を夫としてしまった伏姫である。北村透谷は処女――その純潔性が好きなのである。」橋本治『失われた近代を求めて』上巻、朝日選書、2019朝日新聞出版、pp.217-223.  

 明治の20年代、文学界に一瞬の光芒を放ち、25歳で生活苦のため自殺してしまった透谷とは、何だったのか?それにしても、みんな若いんだな。ま、若さってのは愚かさと一体化してるからな。

 「いまの高校生くらいの年頃で遊郭に入り浸りになっていて、ミサ夫人と出会い結婚してからは、そういう享楽生活とは無縁になってしまう透谷は、「若い頃は遊んでいたが、早くに結婚して、それ以来は愛妻家」であるような、今時のヤンキーに似ている。以前にも言ったが、透谷が三歳年上の透谷夫人と結婚したのは、満年齢で十九歳であるような、二十一歳の年である。母親が《だから、私が言わないこっちゃないよ》というのも当然だが、愛する女性を妻にして、しかし透谷は「処女がすごい、処女が一番で、処女が最高だ」と言っているのである。妻としては一番厄介な夫だろう。処女と関係を持ったら、相手の女性は処女でなくなってしまうから、「処女がすごい」と言っても、処女を探して恋愛をしまくるわけではない。母となって、当然もう「処女」ではなくなった妻としては「あなたはなにがしたいのよ?」と言いたくなるだろうが、それも無理はない。夫に対して《前代希聞の大叱言》を書き送ってしまう遠因はここにあるはずだが、しかしそれでも透谷は《処女の純潔》が大切なのだ。それは、彼にとって重要な「文学上の大問題」でもあるからだ。」橋本治『失われた近代を求めて』上巻、朝日選書、2019朝日新聞出版、pp.223-224.  

 ぼくが中学生だった頃は、女の子は「結婚するまでSEXしちゃいけない」んで、もし結婚前にしちゃうと「汚された女」という言い方が、確かに大人たちから言われていた(ような気がする)。でも、一方で「男は結婚するまでに、ちゃんとすませておけ、童貞なんて恥ずかしいぞ」という話も、なんとなく耳に入って来た記憶がある。考えてみれば、あれはどのみち「タテマエ」だったんだな、ということはずっと後になるまでわからなかった。愚かな男の子はそういう形で文化的に再生産されていたんだな。そして、そのことに明治以来の日本近代小説が、少なからず貢献していたんだな。


B.何を保護すべきか
 東京新聞の「本音のコラム」の執筆者のひとり、師岡カリーマさんという人が、NHK「テレビアラビア語講座」でアナウンサーを務めていたことを初めて知った。東京生まれだが、父親の母国エジプトのカイロ大学経済学部卒業後、ロンドン大学にも学んだという。そのコラムは、イスラーム世界と西洋キリスト教世界と、そして日本社会を見渡した視点から書かれていて、ぼくはいつも興味深く読んでいる。この回は、同性婚訴訟をめぐる国の判断について。

 「生殖の保護?  師岡カリーマ
 同性カップルの婚姻を認めないのは違憲だとして国が訴えられている同姓婚訴訟。結婚を異性同士に限定するを合憲とする国が根拠とする「婚姻の目的は自然生殖可能性のある関係性の法的保護である」との主張について、原告側は「差別的だ」と反発した。確かに婚姻目的を生殖に特化することはカップルの精神的繋がりを矮小化・即物化し、出産を伴わない関係への差別を生む。
 でも逆の見方をすれば生殖が「婚姻」の保護を必要とすること自体、時代錯誤なのでは。婚姻関係の有無にかかわらず、現代(少子化)社会は出産育児を保障するだけでなく、祝福するべきだ。
 婚前の純潔に重きを置くイスラムやキリスト教の信者が多い中東の性と結婚を巡る文化について学ぶと「日本にこういう発想はない」と学生は口をそろえる。それが事実なら、日本社会はもっと未婚女性の出産に寛大なはずだろう。では熊本の病院で女性が匿名出産を選ばざるを得なかったのはなぜか。出産は夫婦の特権と考える世間の偏見があるからではないか。
 性、結婚、出産について、ある伝統や教義を信奉する人は、自らには存分にそれを課すがよい。他人にもその価値観を強要する権利はないというのが、日本が鼻高々に自称するリベラルな民主社会の原則である。自民党の英語名はリベラル・デモクラテック・パーティだし。 (文筆家)」東京新聞2022年2月19日朝刊、25面特報欄、本音のコラム。

 この「婚前の純潔に重きを置くイスラムやキリスト教の信者が多い中東の性と結婚を巡る文化」を、師岡さんの教える慶応大や独協大の学生たちは「日本にこういう発想はない」と口をそろえて言った、というけれど、具体的に「こういう発想」とはなんなのか?気になった。ユダヤ=キリスト教系の宗教では、神の創造に始まって原理的保守派の拠って立つ思想は、性を子を産むという生殖に限定し、避妊や堕胎を罪深い行為として否定する。日本にも生殖の保護が結婚の目的だとする主張はあると思うが、その根拠となる発想は、どうやらあまり論理的・一貫性がない、ということだろうか?
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「日本近代文学」の構築2 ヰタ・セクスアリスの意図   バレンタインって?

2022-02-18 10:54:49 | 日記
A.性的自由のこと
 ここでとりあげた橋本治さんの『失われた近代を求めて』(上下・朝日新聞出版)よりも後に書かれた『性のタブーのない日本』(集英社新書、2015年)という本がある。そこで、日本の古典文学をいろいろ引いて橋本さんが言っているのは、西洋文明を輸入して近代化してしまった明治以降の日本では、「性のタブー」つまり人前で性的な話をしたり性行為などないかのように隠蔽したりする文化が、昔からあったかのようにいわれるが、前近代社会であった江戸時代までの日本では、そんなものはなかった、性というものは他の人間の行為同様、あたりまえに存在し語られるものであった、と説明している。そのことが、明治の自然主義文学がなんであったか、というここでの問いにもろに関わってくる。
 森鷗外「ヰタ・セクスアリス」を、自然主義の代表・田山花袋の「蒲団」に対置して、前近代社会であった幕末の城下町津和野で幼児を過ごした鷗外は、そうした「性のタブーのない」世界を知っていたと同時に、フランスの本場の自然主義がどういうものか、も知っていたので、「自分の性欲で悶々とする」ようなことをあえて小説にすることに、たいした意味はない、と考えたのだという。

 「いわゆる「日本の自然主義」は、「書き手が自身の抱えた性欲で悶々とする」という前提がなければ始まらないという一面を持っている。だからこそ《その作中の人物が、行住坐臥造次顛沛、何に就けても性欲的写像を伴う》になり、《批評が、それを人生を写し得たものとして認めている》になる。田山花袋の『蒲団』はその典型で、森鷗外はそこをこのように分析しているが、しかし、森鷗外の金井湛はそのような「悶々」を持ち合わせていないのである。「自然主義」を批判するつもりで書き始められた金井湛の手記は、一向に「自然主義」にはならない。書き手の根本が「自然主義」のそれと違っているのだから、「批判」になる以前にすれ違いになってしまう。金井湛がどう思おうと、森鴎外がどう言おうと、「VITA SEXUALIS」と題されることになる金井湛の手記が中絶される理由は、その「すれ違い」以外にない。
  本家の自然主義と日本の自然主義
 それを言うならば、金井湛が書いて「VITA SEXUARIS」と名付けられた手記は、「日本の自然主義」であるより、十九世紀後半のフランスに登場した「本家の自然主義」を志向している。森鷗外は、既にそのように自然主義を学んでいたからだ。
 「自然主義」がリアリズムと同じものであるのなら、別にたいした問題はない。しかし、「自然主義」は「ナチュラリズム」の訳語なのである。十九世紀の後半になって「文学運動の用語」として定着してしまう「自然主義(ナチュラリスム)」は、そもそもが哲学用語で、これは「宗教の支配に抗する考え方」でもある。
 キリスト教の世界観では、「すべてのもの」が神の創造にかかるものだから、自然もまた「神の支配下にあるもの」になる。「自然は神の支配下にある。だから、自然は本来、世界を管轄する宗教と調和的である」ということになる。「自然が宗教と調和的であるならば、そこに属する人間もまた宗教と調和的であらねばならない」ということになるわけで、自然主義は「それはおかしくないか?」という疑問から生まれる。「自然は自然で、神の支配とは別個の、自然独自の法則性によって存在している」という「科学」の考え方が生まれてしまえば、「すべてが宗教勢力の御する“調和”の中に収まっていなければならない」という考え方は動かざるをえなくなる。哲学用語としての「自然主義(ナチュラリスム)」はこうしたところから生まれて来るもので、つまりは「教会勢力による聖なる支配からの、俗の独立」なのである。だから、「自然主義」は「無神論者の主義」というようなことにもなる。
「あんたは気に入らないかもしれないが、現実はこうなっているんだから、その現実を認めろよ」と、既成の宗教観、あるいはそれによって醸成されたモラルに対して挑戦するのが、本家の自然主義であると言ってもいいだろうと思う。それで言えば、十九世紀の文学に於ける自然主義は、十四世紀イタリアのボッカチオによる『デカメロン』や、同じ〔十四世紀〕イギリスのチョーサーによる『カンタベリー物語』以来の流れの上にあるものでもある。違うのは、理屈っぽくなった十九世紀のフランス人が、「そこに調和からはずれたものがある」ということを、「遺伝」とか「環境」という科学的なツゥールで説明したかったというところだけだ。
 十八世紀のフランス革命で「旧体制」を放擲してしまった後の十九世紀フランスに「秩序維持」の勢力と、「旧秩序打破」の勢力が混在していたことは、美術における印象派の登場を例とすれば、簡単に分かる。それ以前のフランス美術界は、官展のアカデミズムによって支配されている――「絵というものは、かく描かれねばならない」ということが決まっていて、そこに一石を投じるのが、エドゥアール・マネの『草の上の昼食』である。
 男二人が緑のなかへピクニックに行く。二人が弁当を開いているその横に、全裸の若い女がいる――これを見て、「一体何事!」と騒ぐ人間は騒ぐ。当時の絵画常識として、「神話に登場する女性なら、どこで全裸の肉体を露出してもかまわない」というものであった。『草の上の昼食』は、「ここにいるのが全裸の女神なら良くて、全裸の普通の女だとなぜいけない?」という抗議を発するものである。これで、「この当時、ピクニックに行った女性は全裸で食事をするのが当然であった」という常識でもあれば、マネの『草の上の昼食』は、その「現実」を描いた自然主義みたいなものになってしまうだろうが、あいにくそういう「現実」はなかったので、自然主義にはならず、官展アカデミズムの「決まりきった絵の描き方」に抗する印象派の尖兵となるだけの話である。
 砕けた言い方をしてしまえば、本家フランスの自然主義は「そこにそういうものがあるんだから、いやがらずに認めろよ」という、既成のモラルに対する挑戦、挑発である。だから、「ヰタ・セクスアリス」の初めの方で、金井湛に自身を託した森鷗外は、本家自然主義に対してちょっとした疑問を呈する。森鷗外=金井湛は、本家フランス自然主義の「家元」と言ってもいいエミール・ゾラのルゴン・マカール叢書――「これぞ自然主義中の自然主義」というべき大著を読んで、「炭坑労働者のストライキの話で、切羽詰まった人間たちの話なのに、どうしてそこにわざわざ“男女が逢い引きしているのを覗きに行く”などという挿話を書いているのだろう?」という疑問を抱く。「自分の性的淡白は行き過ぎているのだろうか?」と思う金井湛だから、「なんでこんな余分なことに筆を削くのだろうと思った」ではあるのだが、そういう疑問を持つ金井湛は、「ストライキ中に男女が逢い引きをしていて、それをまたわざわざ覗きに行く人間などいるはずがない」という考え方をしないのである。

《労働者の部落の人間が、困厄の極度に達した処を書いてあるとき、或る男女の逢い引きをしているのを覗きに行く段などを見て、そう思ったのであるが、その時の疑は、なんで作者がそういう処を、わざとらしく書いているだろうというのであって、それがありそうでないことと思ったのではない。そんな事もあるだろうが、それをなぜ作者が書いたのだろうと疑うに過ぎない。》(『ヰタ・セクスアリス』)

 日本の読者である森鷗外は《そんな事もあるだろうが》と、「存在しうる現実」を認めてしまうが、エミール・ゾラのいるフランスの読者は、《そんな事もあるだろう》とは思わないのである。だから作者は「そういう現実があるんだよ、それが現実なんだよ」という喚起をするために、《そんな事》を書くのである。「別に、それがあっても不思議はないな」と思う日本の森鷗外にとって《わざとらしく書いている》と思えることでも、フランスの読者たちはそう思っていないから、作者はそれを敢えて書くのである。その書き方を《わざとらしく》と森鷗外に感じさせる日本は、自然主義を生まざるをえなかったフランスより、文化的には進んでいるのである。
 前近代の日本は、ある面でフランスよりも自由で、だからこそ進んではいるのだが、進んでいる西洋の「近代文明」を取り入れてしまった日本の近代青年達は、「我が身の性的不自由」を嘆くことになる。
 前近代の日本で「性的不自由」を嘆く男は「もてない男」だけだった。だから、江戸時代に「性的飢餓を訴える男の嘆き」は、文学というステージに上がらなかった。そのステージに乗るのは「もてる」ということを達成した男だけで、「青春の悩み」でもあるような「性的飢餓を訴える声」は、どこにもなかった。だから近代になって「自然主義」という窓口が出来た時、前近代的な平穏を見失った近代青年たちはここに殺到してしまう。しかし、自分が「フランスよりも進んでいる前近代の日本」に生きていることを知っている近代人の森鷗外は、そんなにみっともなく短絡的なことが出来ないのだ。
 金井湛の手記が、日本の自然主義より本家フランスの自然主義に似てしまった理由は、金井湛は日本の前近代的土壌の上にいて、「性的なものに満ち満ちている日本の現実」を、ただ「ここにそれがあるよ、こっちにはこういうものもあるよ」と、淡々と記述しているからなのである。「主義」を言う以前に、それはただ「当たり前の現実」で「現実」で、森鷗外の自然主義が本家のそれと違って淡々としているのは、「ここにこういう現実があるよ」と言われて、日本の読者が「まさか?!」などという拒絶的な態度を見せないからである。これを読まされた当時の人間は、「あ、知ってる」と思って、笑みを浮かべる程度だろう。これを「だめ!」というのは、ようやく出来上がって来た日本近代の「官憲」という制度だけなのである。
 本家の自然主義は、外部に対して挑戦的なだけで、「性的なものを抱えて悶々とする」などということはしない。「外部にそれはある」と言っても、「私の内部にそれがある――であればこその人生である」などというムチャな展開はしない。
 真面目な森鷗外は、『ヰタ・セクスアリス』で無意識的に本家自然主義的展開をした。そしてそれが日本的現実の上で空回りすることを、おそらくは知っていた。だからこそ初めの「金井湛に関する注記」があるし、未完の手記を《文庫の中へぱたりと投げ込んでしまった。》という終わり方もある。「自然主義とは何なのか?」と考え、本家ナチュラリスム的なモノサシで「日本の自然主義的な作物」を書こうとした結果が『ヰタ・セクスアリス』だとは思うが、ここではっきりするのは、「日本の自然主義に本場のモノサシを持ち出してもなんの役にも立たない」ということだけである。」橋本治『失われた近代を求めて』上巻、朝日選書、2019朝日新聞出版、pp.256-262. 

 まったく、橋本治さんは自在に書いてじつに説得力ある文章だ。源氏物語の光源氏も、西鶴の好色一代男の世之介も、「モテル男」が好き放題遊んでいる話で、彼らは自分の性欲に悩んだりしない。そう考えると、いまの日本の男たちは、すっかり「近代化されきって」しまい、好色な言動をセクハラだと咎められては大変と、びくびくして性欲に悶々とすることすら抑制していることになる。それは誰も読まない自然主義文学のせいとはいえないが、どうしてじょうなっちゃったかの遠因の一つであるのかもしれない。


B.バレンタインの迷走
 ぼくが高校生の頃は、「バレンタイン・デー」が高校生に浸透しつつある時代で、2月になるとそわそわしている男子と女子がいた。ただ、本気のチョコレートがもらえた男子はごく少数の彼女がいるやつだけで、ぼくもそうだったけれど、誰もくれないので仲間同士「バレンタインなんて、くだらないぜ!チョコレート屋の宣伝に乗りやがって…」と毒づいていた。そのうち、職場の「義理チョコ」時代が来て、ただの儀礼でもらったことはある。いまはそれも、ばかばかしくなってだいぶ変わったようだ。

 「バレンタイン やめませんか? いまだ「女性から」根強く
 食品ロス削減に取り組む団体にとって、バレンタインは頭の痛い問題だ。「ロスゼロ」(大阪市)によると、昨年は、デパートの催事場限定で出品していたあるブランドで売れ残りが発生。ロスゼロが一部を買い取り、割引販売した。
 前川麻希事業部長は「メーカーによっては、チョコの年間売り上げの四~五割ほどがバレンタインデー前に集中する。特定の時期に需要が高まるとロスは出やすい。おせちなどの季節商品と同じ。だが、チョコの賞味期限は生鮮食品より長い。多くの人が他の時期もチョコを楽しむようになればロスは減る」と話す。
 同社では需要が落ち着いた四月十四日を「ロスゼロの日」とし、チョコを食べるようPRしている。
 こんなバレンタインデーの起源は三世紀の古代ローマの伝説とされる。
 キリスト教のバレンタイン司祭が皇帝の命令に背いて兵士たちの結婚式を内密に実施したとして、二月十四日に処刑された。それで欧米では同日を「愛の日」とし、意中の相手に手紙、菓子、鼻などを贈り合うようになったという。
 性別は関係ないし、贈るものもチョコ、というわけではない。なぜ、日本ではそうなったのか。
 「日本で初めてバレンタインデーにチョコレートを贈るスタイルを紹介した」とホームページでうたうのは、洋菓子の老舗モロゾフ(神戸市)だ。創業翌年の1932年、創業者が米国の友人からバレンタインデーの風習を聞き、チョコの詰め合わせ販売を始めた。戦後は他メーカーも力を入れ、普及したという。
 モロゾフによると七〇年代に「女性から男性へチョコを贈り、愛の告白をする」スタイルが十代を中心に広まった。広報担当者は「七〇年代は真っ赤なハート形など、女性から男性に贈るのを念頭にした商品が多かった」と説明する。
 それが変わったのは二〇〇〇年代で、男性から女性への「逆チョコ」、女性の友人同士で交換する「友チョコ」も。「現在は、性別にこだわらず手に取れるデザインや色の商品も増えている」(広報担当者)
 だが、やはり女性から男性へという習慣は根強い。日本トレンドリサーチが今月上旬に二十代以下~七十代以上の六百人に実施したアンケートでは、女性のうち53.3%が今年のバレンタインデーに贈り物をすると回答。男性(28.7%)より多かった。
 女性から贈る習慣については「このまま続いてよい」が全体の39.2%、「やめたほうがよい」が34.7%と拮抗。否定派の女性では「義理チョコがなくならないから。お金の無駄」「あげる方ももらうものも気を使わなくてはいけない」などの意見があった。
 男性側でも疑問視する人がいる。困窮者を支援しているNPO法人理事で、東京都立川市議の山本洋輔さんだ。「男性の間でもチョコの個数でランク付けされるような風潮がまだある。贈る方も「周りがやっているから」との同調圧力を受けているのではないか。私はもらった経験は、ほぼないですが」と苦笑する。
 コラムニストの辛酸なめ子さんは「恵方巻も含め、一度定着した習慣は続けるという日本人の真面目さが出ている。女性が告白しやすい機会としてバレンタインデーはあってもいい。ただ、海外では男女問わず贈りたい人に贈る文化。日本もやりたい人だけがやればいい」と語る。
 そして辛酸さんは「コロナ禍でリモートワークが普及し、義理チョコを渡さなくなった人も増えつつあるようだ。コロナ禍で義理チョコを贈る風習が改まるのはいいと思う」と話した。」東京新聞2022年2月16日朝刊23面、特報欄。

 同じ紙面に、いつもの斎藤美奈子さんのコラムが載っていた。相変わらず痛快!

「本音のコラム :チョコと恋愛  斎藤美奈子
 バレンタインデーの夕方の街。直前の駆け込み組なのかな、チョコレート売り場にはやっぱり行列ができていた。
 二月十四日はかつて女性にとって重要な日であった。「唯一女子から告白していい日」と喧伝されていたからだ。すると残る三百六十四日は「女子から告白しちゃダメな日」なのか!? たぶんそうだったのだろう。
 小笠原祐子『OLたちの〈レジスタンス〉』によると、仕掛け人は予想通りチョコレートメーカーで、「女性が好きな男性にチョコを贈る日」としてそれが定着したのは一九七〇年代だったようだ。この習慣もまもなく形骸化し、この本が出た一九九八年当時は儀礼的に職場でチョコを配る義理チョコ文化の最盛期。愛の告白的な意味はかなり薄れていた。
 さらに時間がたった現在では、非正規雇用者の急増などでOLという語もほぼ死語と化し、友チョコ、自分チョコなど、バレンタインデー文化も多様化している。
 恋愛の作法自体も変わった。恋愛も文化だから時代時代のジェンダー規範に縛られる。「告白するのは男子から」という過去の習慣は「慎み深い女性は自分から好きだなんて言えません」という馬鹿げた刷り込みによるものだったのだろう。
 チョコの数が人気のバロメーターになったのもすでに過去の話である。一喜一憂なさいませんように。 (文芸評論家)」東京新聞2022年2月16日朝刊23面、特報欄。
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「日本近代文学」の構築1 大学のハラスメント対策?

2022-02-15 23:35:15 | 日記
A.自然主義ってなに?
 亡くなった橋本治さんは、作家と言っても初めのうちは「桃尻娘」などのふざけた小説を書く人のように見られ、やがてさまざま気儘の雑文みたいな評論家だと思われ、じつは日本の古典文学の現代語訳で有名になると、あれは東大国文出身だからね、と言われ、何でも自己流に料理しちゃう器用な文筆家という位置にいた。しかし、この人の知識と視野はへたな学者なんか到底及ばない広さと深さをもっていて、晩年になるほど凄い仕事をしていたと思う。その死去はまことに惜しいというほかなく、ほぼ同世代のぼくには、こんな仕事はいくら時間があってもできないな、と思う。
 その橋本さんが、日本近代文学の成立期、つまり明治の言文一致から昭和戦前の私小説まで、きわめて手際よくかつ作家と作品について具体的に面白く論じたのが『失われた近代を求めて』上下巻、朝日選書、2019年である。その中で、橋本流に書いていることのひとつに、日本近代文学で「主義」と呼ばれたのは「浪漫主義」と「自然主義」だけで、あとはみんな白樺派とか新感覚派とか「派」だと言っている。プロレタリア文学も派であって「プロレタリア主義」とは言わず、これは戦後も「戦後派」などと続く。なりほどな、と思う。では、その浪漫主義と自然主義のもとを辿ると、ヨーロッパの19世紀に流行した大きな文化的潮流のロマンチシスムとナチュラリスム(フランス語でいえば)なのだが、これを子細にみれば、欧州のロマンチスム文学と日本の浪漫主義小説、ナチュラリスム文学と自然主義小説とは似て非なるものなのだ、ということを橋本治は当然知っている。浪漫主義はさておき、日本の近代文学の主流とされた自然主義とは、なんなのか?そこを、橋本さんの解説で少し読んでみた。

 「森鷗外という人は、人の悪口を言わない。言ったとしても、それを悪口ではない「揶揄」に変えてしまうようなテクニック、あるいは余裕を持ち合わせている。まともな知性で正面から自然主義を否定分析してしまったら大喧嘩になる――その程度に森鷗外は自然主義を低く見ているから、無駄な衝突を避けるため、悪口を言う側の人間を「へんな人間」にしてしまった。二葉亭四迷の『平凡』の主人公である《私》が叙述を飛躍させるような形で「へんなぼやき」を連発するのも同様で、『ヰタ・セクスアリス』の金井湛(しずか)は、まず作者の森鷗外から突っ込みを入れられるような「へんな人物」なのである。「へんな人間がへんなことを言っているぞ」という挨拶があって、そこからこの作品は始まっていく――。
 《小説家とか詩人とかいう人間には、性欲の上には異常があるかも知れない。此問題はLombrosoなんぞの説いている天才問題とも関係を有している。Möbius一派の人が、名のある詩人や哲学者を片端から摑まえて、精神病者として論じているのも、そこに根底を有している。併し近頃日本で起った自然派というものはそれとは違う。大勢の作者が一時に起って同じようなことを書く。批評がそれを人生だと認めている。その人生というものが、精神病学者に言わせると、一々の写像に性欲的色調を帯びているとでも云いそうな風なのだから、金井君の疑惑は前より余程深くなって来たのである。》(同書)
 
 これはいかにも森鷗外らしい、日本の自然主義文学のあり方に関する冷静な分析と批判で、最後の《金井君》の《疑惑は》以下を「困ってしまう」とか「バカげている」にしてしまえば、「自然主義」への明確な「悪口=批判」にもなる。しかし、森鷗外はこれをはぐらかして、《金井君の疑惑は前より余程深くなって来たのである。》にする。そうしてしまえば、「金井某ごとき浮わついた人間のぼやきなど、恐るるに足らん」ということにもなる。
 この印用部分だけではいささか分かりにくいところもあるのだが、《大勢の作者が一時に起って同じようなことを書く。》ということに続けて、前年――明治四十一年(1908)に東京の西大久保で起ったデバカメ事件が語られると、俄然分かりやすくなる。

《そのうちに出歯亀事件というのが現われた。出歯亀という職人が不断女湯を覗く癖があって、あるとき湯から帰る女の跡を附けて行って、暴行を加えたのである。どこの国にも沢山ある、極て普通な出来事である。西洋の新聞ならば、紙面の隅の方の二三行の記事になる位の事である。それが一時世間の大問題に膨張する。所謂自然主義と連絡を附けられる。出歯亀主義という自然主義の別名が出来る。出歯るという動詞が出来て流行する。金井君は、世間の人が皆色情狂になったのでない限は、自分丈が人間の仲間はずれをしているかと疑わざることを得ないことになった。》(同書)

 ここまで来れば、「あまりのバカらしさに口をあんぐり開けて惘(あき)れている金井君の顔」が浮かび上がって、自然主義に対する森鷗外の揶揄は歴然とする。
 前巻〔第1部〕の第四章でも言ったが、デバカメ事件の起こった明治四十一年という年は、日本で初の美人コンクールが開かれ、警視庁が猥褻文書の取り締まりを大々的にやって、女優というものを存在させるために日本で最初の女優養成所が設立される――つまりは「女の生々しさが表面化する年」なのである。森鷗外はそういう時代状況も含めて、「自然主義騒動」に惘れているのである。私は時々、日本文学に於ける「笑いの表現」――その内でも「洗練された揶揄」というものがほとんど問題にされずにいることに疑問を感ずるのだが、「ヰタ・セクスアリス」本編の前に置かれた註記はそれである。
 平安時代以来、日本に都市文化の歴史は長い。身内以外の他人がそこに平気で混在していて、人と人との間の距離が近い――そこでの生活を成り立たせる根本が「人間関係」というものになってしまえば、どうしたって「面と向かっての怒鳴り合い」は起こりにくい。だからこそ、「距離を置いての揶揄」も生まれる。なにを言っているのかすぐには分からないような形で相手を批判する――「批判」ではありながらも「攻撃」にはならないように中和する。そのテクニックが揶揄でもある。「江戸三百年」と言われる時間の中で、日本人はこのソフィスティケイションを発達させて来て、その知性は二葉亭四迷や森鷗外に歴然と宿っている。
 森鷗外は二葉亭四迷の『平凡』を《此人の所謂自然主義の牛のよだれが当って》と言っているが、『平凡』は「自然主義の涎派」と言ってもよいような作品である。なにしろ真ん中には「性欲論」ある。《何に就けても性欲的写像を伴う》という鷗外自身の規定をもってすれば、『ヰタ・セクスアリス』もまた「森鷗外の自然主義作品」ということになるが、二葉亭四迷や森鷗外を「自然主義の作家」と考える人はいないだろう(島村抱月は、『文芸上の自然主義』という論文の中で、『平凡』の前作である『其面影』を書いた二葉亭四迷を「自然主義の書き手」としてはいるが)。
 二葉亭四迷や森鷗外は、自然主義をからかっている。しかし、性急に自然主義を否定してはいない。「自然主義にはなにか意味がある」と思っているから、自然主義のあり方をなぞり、自然主義の悪口をストレートに言わないのである。
 ということになって、「では、その自然主義が抱えている“意味”とはなにか?」である。二葉亭四迷の書いたものが「性欲論」を中核におく『平凡』で、森鷗外の書いたものが明からさまにも『ヰタ・セクスアリス』であるということからすれば、この答えは簡単に出るようにも思う。人の枢要でもあるような性欲のあり方を書く」である。しかし、これが正解であるかどうかは分からない。というのは、二葉亭四迷の書いた『平凡』も、森鷗外の『ヰタ・セクスアリス』も、その最後に於いて、同じような終わり方をしてしまうからである。
 既に知る通り、二葉亭四迷の『平凡』のラストは、《二葉亭が申します。此稿本は夜店を冷かして手に入れたものでござりますが、跡は千切れてござりません。一寸お話中に電話が切れた恰好でござりますが、致方がござりません。》(『平凡』六十一)であるが、一方、森鷗外の方はこうである――。
《金井君は筆を取って、表紙に拉甸(ラテン)語で VITA  SEXUALIS と大書した。そして文庫の中へぱたりと投げ込んでしまった。》(森鷗外『ヰタ・セクスアリス』)
 こちらもまた主人公が書きかけのものを途中でやめ、ポイと放り出してしまうのである。「なにか意味はあるのかもしれない」と思って性急に否定することはやめ、「自然主義のありよう」を汲んではみたが、しかし結局は「無意味だ!」ということで投げ出してしまう――その点で、二葉亭四迷の『平凡』と森鷗外の『ヰタ・セクスアリス』が同じなのである。
 ここまではたやすく分かる。しかし、この二人がなぜ投げ出してしまったのかということになると、よく分からない。「当時の文壇状況、あるいは文学状況に絶望して投げ出してしまった」と言ってしまえば話は簡単になるが、しかし、彼らを絶望させた「状況」というのがどんなものかは分からないし、もっと大きな理由――二葉亭四迷や森鷗外を自然主義から隔てて揶揄を発させてしまい、「こんなものに意味はねェや!」と自分の書いたものを投げ捨てさせてしまいながらも、そのことによって『平凡』や『ヰタ・セクスアリス』が作品として完結している理由が、よく分からないのである。
 金井湛が「VITA SEXUARIS」と題されるものを書き始める理由は二つある。一つは、《自然派の小説を読む度に》《或は自分が人間一般の心理的状態を外れて性欲に冷澹であるのではないか》と思ってしまった、その疑問を解くためである。
 「自分のあり方はどこかおかしいのか?」と思った金井湛は、《一体性欲というものが人の生涯にどんな順序で発現して来て、人の生涯にどれ丈関係しているか》(同前)ということを考え、そうした類の著作があまりないということに気づく。そして《おれはなにか書いてみようと思っているのだが、前人の足跡を踏むというような事はしたくない。丁度好いから、一つおれの性欲の歴史を書いて見ようか知らん。》(同前)と、『平凡』に出て来て《私》をうんざりさせた《旧友》のようなことを考える。もちろん、金井湛の第一目的は「自分で自分のありようをはっきりさせたい」なのだが、森鷗外は、彼の作中人物にそんな大上段の振りかぶり方をさせない。だから、当時的には一般的でもあっただろう「一発当てて世間をあっと言わせてやる!」的な大言壮語を吐かせて、金井湛の軽薄ぶりを強調したりもする――それで金井湛は、《勿論書いて見ない内は、どんなものになるやら分からない。随って人に見せられるようなものになるやら、世に公にせられるようなものになるやら分からない。兎に角暇なときにぽつぽつ書いて見ようと、こんな風なことを思った。》(同前・傍点筆者)ということになる。手記を書き出さんとする『平凡』の《私》と似たようなものになる。
 既にして「この男はなにを問題にしようとしているのか?」とお思いの方も多くあるだろうが、私は、「自然主義にはなにか意味があるかもしれない」と思い、「しかしやっぱりそれを考えても無意味だ」というところに至る森鷗外の思考の軌跡を辿ろうとしているのである。
 森鷗外は周到な人物だから、「自分のありようをはっきりさせるために小説を書く」などということを、第一義にはしない。「自分のありようをはっきりさせるために小説を書く」というのは、近代日本文学のあり方からすれば「まっとう極まりない考え方」でもあろうし、それは私小説というものを成り立たせる根本同期でもあろうけれど、森鷗外はそのように考えない。少なくとも『ヰタ・セクスアリス』という小説は、そのように構想されていない。だからこそ、金井湛が「VITA SEXUARIS」と題される手記を書き始めるための第二の理由も登場する。それがなんと「性教育のテキストにするため」である。《一つおれの性欲の歴史を書いて見ようか知らん》と思い、《兎に角暇なときにぽつぽつ書いて見よう》と思った金井湛のところに、ドイツから郵便物が届く。そこにドイツでの《性欲的教育は必要であるか、然り、做し得らるるであろうか、然りという答に帰着している。》(同前)という研究報告があるのを発見し、そのためには《人の性欲的生活をも詳しく説かねばならぬ》という結論にまで至っていることを知って、金井湛は深くうなってしまうのである。」橋本治『失われた近代を求めて』上巻、朝日選書、2019朝日新聞出版、pp.243-250. 

 ここは森鷗外「ヰタ・セクスアリス」をとりあげた部分だが、自然主義(ナチュラリスム)の本家エミール・ゾラの小説をちゃんと知っている鷗外は、自分も自然主義でやってみようと思って書いた「ヰタ・セクスアリス」で、こんなものやってもしょうもない!という結論を得て、放り投げたという。でも、その後の日本の小説家は、その自然主義を自分の「性欲生活を洗いざらい書く」ことに特化して私小説の伝統を作ってしまった、というわけか。これもなるほど!だ。


B.大学内のハラスメントにどう対処する?
 ぼくも某大学に長年勤務していたので、大学という場所にセクハラ、パワハラ、精神的あるいは肉体的暴力が起きる可能性があること、実際にそういう事例もあったことを知っている。20世紀の終わるころから、これを放置できないことは自明だと大学内でも声があがり、相談窓口と審査委員会を作るようになった。学生に対する教員や職員、教職員内部のハラスメント、とくに被害者が女性であることが多く、その対処には専門家があたることがふさわしい、という認識も出てきた。ただそれが十分に機能しているか、また予防措置が効果をあげているかは、どうも心もとない大学はあると思う。

 「ハラスメントと大学: 閉鎖的な構造 対策は進まず :科学医療部 藤波 優
 大学でハラスメントを受けたという被害者に取材した。訴えづらい事情があり、結城を出して窓口に訴えても納得のいかない対応で、心身ともに削られた。深刻な事態だ。
 ある有期雇用の女性研究者は、教授から抱きつかれたり手を握られたりした。嫌だったが、論文の提出や、自分の雇用契約などは全て教授が関わる。もめれば研究を続けられなくなるかもしれないと、我慢した。
 関西地方の女性は学生のころ、指導教員の助教から日常的に罵倒され続けた。大学院に通えなくなり、家族が大学の相談窓口に訴えた。調査や謝罪を大学側に求めたが半年が過ぎてもあまり進まず、結局女性は中退した。「大学は教員を守るために面倒な私を追い出そうとしたとしか思えない」。10年たった今も悔しさが消えない。
 実態を記事にすると「私も被害を受けた」などのメールが相次いで届き、悲痛な思いを抱える人の多さに驚いた。「大学はハラスメントの温床」という声もあった。対策が進む企業に較べ大学は遅れていると専門家は指摘する。
 学問の自由が尊重される大学では各研究室が独立し、閉鎖的で、ハラスメントが起きていたとしても外からは見えにくい。教員同士は対等という意識もある。
 「職場のハラスメント研究所」所長の金子雅臣さんは「研究室の教授らは他人から指図されることがほとんどない。社長がリーダーシップをとる企業のような指揮命令系統が大学では作りにくく、ハラスメント対策を進めるのが難しい」
 相談体制の強化へ 外部と連携も
 大学に相談の制度はある。文部科学省の2018年度の調査によると、全国の大学の99.3%にハラスメント相談窓口が設置されている。教員らの兼任でなく専属の相談員を置くところも増えてきた。
 ただ、運用方法に基準はなく、相談者からの不満の訴えは減らない。いくつかの大学の相談窓口に取材したところ「相談内容が多様化していて相談員の負担が大きい。人手が足りない」「相談員の熟練度がバラバラ」などの課題を抱えていることがわかった。
 相談員には、被害者の心理的なケアだけでなく、学内での調整やその後のキャリアへの配慮も求められる。総合的に対応できている大学はどれほどあるだろうか。体制が不十分なままでは、相談員らが疲弊してしまう。
 金子さんは「学内の相談員は、学内事情に通じていて調整や調査はしやすいが、立場が弱いと、加害者とされる側に言うべきことをきちんと言えないこともある」と指摘。外部機関と連携したり、外部の専門家を入れたりすることが有効だという。外部の機関だからこそ被害を訴えられる。という人もいる。
 ハラスメントは被害者の人格や尊厳を傷つけ、人生を一変させる。人権侵害として何よりも優先して対策を進めるべきだ。深く傷ついた被害者が、相談対応で多くの時間を奪われたうえに人生の選択肢が狭まることは、あってはならない。」朝日新聞2022年2月7日朝刊、7面オピニオン欄。

 個人的に思うのは、優位な立場にある男性からの下位の女性へのハラスメントは、実質的に犯罪に等しい場合が多いのだが、加害の本人の意識内では、「職務の遂行」の範囲内または「純粋な恋愛」の発露と捉えられている場合が多い。だからこそ、問題は簡単な裁定では片付かない。これは、予防という意味でも、人間としての質が問われるし、大学という場所でしかるべき地位を得ている人(とくに男)がじぶんの人間に対する想像力の欠如に気づけないという問題になると思う。

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