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逃げる人 高野長英16 知識で戦う。 人生のピーク?

2019-02-27 21:24:27 | 日記
A.海防の急務にどう答えるか?
 高野長英が小伝馬町の牢にあって牢名主だった天保11(1840)年、中国沿岸では清国とイギリス艦隊の間で戦争が始まっていた。いわゆる阿片戦争は、清とイギリスの間で1840年から2年間にわたり行われた戦争。インドで製造した麻薬アヘンを清にもちこんで大儲けをしていたイギリスに、アヘンの蔓延に危機感をつのらせた清がアヘンの全面禁輸を断行し、イギリス商人の保有するアヘンを没収・焼却した。これに反発したイギリスは、艦隊と兵士を清国沿岸に送り、各地で戦争となった。艦船と火力に勝るイギリスの勝利に終わり、1842年に南京条約が締結され、イギリスへの香港の割譲ほか、清にとって不平等な条約となった。獄中とはいえ、手紙や書物も読めた長英には、中華帝国を誇った清国の屈辱は他人事ではなかっただろう。
 長英が罪に問われた『夢物語』自体、米国船モリソン号が日本人漂流民を送り届けに来たのを、幕府が打ち払ったのを批判したこと、「蛮社の獄」の口実も小笠原諸島への渡航計画に結びつけるなど、日本沿海に外国船がしきりに出没する状況への見当ちがいな蘭学者弾圧だった。海外諸国、とくに西洋列強のアジア進出の正確な情報は、鎖国日本では蘭学者以外からは得られない。アヘン戦争の結果は、空想に過ぎなかった日本への侵略という可能性が、さすがの幕閣にもリアルと感じさせた。
 水野忠邦失脚後の幕府で、老中になった阿部正弘ら開明派も危機感を募らせ、海岸防備を急ぐよう諸藩に呼びかけ、江戸湾をはじめ主要な港湾の周囲に砲台を築き、離島にも城塞や砲台を築こうと動きだした。ただ、西洋式大砲や砲台がそう簡単に作れるわけではなく、軍事に関する蘭学者の知識は不可欠になる。そうこうするうち、嘉永六(1853)年浦賀にマシュー・ペリーのアメリカ海軍東インド艦隊がやってきて通商を迫る事態になる。いよいよ黒船が日本に大砲を撃ちこむ事態が現実になった。その時すでに高野長英はこの世になかったのだが、生きていれば「だから言ったじゃないか、今頃じたばたしても遅い」と思っただろう。
結局、各地の湾岸砲台が完成したのは、和親条約・通商条約で「開国」してしまったもっと後で、東京湾に残る「お台場」や函館の五稜郭(元治元年(1864)竣工)、五島列島の福江城(文久3年(1863)6月に完成)などは、もう幕末動乱のさなかで別の目的に使われてしまった。ただ、ペリー来航以前の弘化・嘉永期にも、すでに海外情報に敏感で砲台大砲築造に積極的に動き出していた人たちがいた。蛮社の獄で狙い撃ちされたサークル「尚歯会」のメンバーだった韮山代官江川英竜、旗本羽倉外記、川路聖謨などは活躍の場を回復するが、もっと有力な国防策を実行したのは「蘭癖大名」薩摩の島津斉彬、佐賀の鍋島閑叟、そして宇和島の伊達宗城だった。彼らは実力のある藩主であったから、蘭書を買い集め翻訳させ、技術者を召し抱え、西洋式の蒸気船や大砲砲台を実際に作った。全国指名手配のおたずね者、高野長英をこっそり宇和島に呼んで仕事をさせたのも、殿様だから可能になった。

 「長英宅での授業は、はじめにオランダ語文法、次に『三兵タクチーキ』のオランダ語原文一字一字について講じてもらい、これをおぼえこんで、それぞれが帰宅して、宿題としてこれを日本文に訳して、翌朝持参して長英になおしてもらうこととした。はじめは朝早くから正午まで毎日通学することにした。あとになると授業時間が延長され、往々にして夕方まで稽古をした。長英は英語はできなかったが、そのころ伊達宗城が幕府からかりてきていた英語字書が藩の文庫にあったので、これを使ってオランダ語の本にひかれている英語をも読みくだしていた。
 長英はオランダの兵学者スチルチイスの著書を訳して『砲家必読』11冊をあらわした。これは人目をはばかって、「谷簡、土与、野輔」の三人の著としてあるが、谷、土居、大野三者はただ清書しただけで、まったく長英の執筆にかかるものと、土居は証言している。清書も三人にて手わけし、できあがるとすぐ藩公に差し出したものだから、土居たちはその一部さえもっていなかった。後年になって大野昌三郎が、東京の本屋でその古写本を見たそうだと土居は書いている。宇和島藩では大いにこの本を使ったらしく、全11冊中の一冊しか今日では残っていない。
 作家貴司山治は、昭和のはじめに小説の材料をさがすうちに、神田の古本市で一山三円の雑書の間から、『砲家必読』11冊の完全なひとそろいを買って、この本を四〇年間も座右においていたという(貴司山治「高野長英の烏有本」「毎日新聞」1968年6月11日)。
 長英は、宇和島から南に11里ほどはなれた、土佐に近い深浦湾に、砲台をつくる計画をして、嘉永一年(1848)一一月二二日から一二月一日にかけて一〇日程の調査旅行を試み、測量に従事した。御荘村のテンギ(天岐とも天儀とも書く)というところである。この砲台は嘉永三年四、五月ごろに完成した(菅菊太郎「御庄久良台場と高野長英」『伊予国南宇和郷土史雑稿』1938年刊)。
 御庄砲台の下見旅行にさいして長英に同行したのは、砲術家板倉志摩之介、松田源五左衛門であり、他に長英門人土居直三郎もいた。この中の松田源五左衛門が、宇都宮九太夫とともに奉行となって安政二年(1855)三月から一二月にかけて宇和島湾に樺崎砲台をつくった。この時には村田蔵六(大村益次郎)がまねかれてここに来ており、長英の『砲家必読』を大いに活用して、この砲台をきずいた。長英の書物はいつも空論ではなく、それを読んで実地におこなえば、現実に何事かが成就するという、いわば地図の如き性格をもつ論文であった。そのためにかえって珍蔵されることなく、つねに流用され藩の文庫からも失われたのだろう。
 樺崎砲台には大砲が五門すえつけられたというが、これらは実戦に使われる機会はなく、ただ一度活用されたのは、慶応二年(1866)、宇和島をイギリスの軍艦がおとずれた時であり、この砲台が礼砲をうったということが、アーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』に見える。

 もう一つ、長英が宇和島でしたのは、司書としての仕事である。伊達宗城は長崎からかなりの数のオランダ語の本を買ってもっていた。それらを自由に読みこなす人は、まだ宇和島の蘭学社中からは出ていなかったようである。長英は、蘭書の文庫に目をとおして、どの本に何が書いてあるかの摘要をつくり、どれだけの本が藩の見地から言って翻訳を必要とするかの見つもりをつくることを頼まれた。
 『高野長英全集』には、長英が伊達宗城あてに出した「訳業必要の書籍目録」全一冊というのが入っている。これは、長安が必要と考えた書物の表であって、オランダ語、ドイツ語、フランス語、英語の辞書ならびに文法解読書からはじめて、代表的と思われる陸軍兵書、騎兵教練法、築城術、水戦兵書などの名をあげてある。辞書類一四部、兵書類は四部にわかれ、この時の長英に課せられた仕事が兵書の翻訳にかぎられていたことを示している。辞書類は、ヨーロッパの兵書の翻訳に欠かせないので、必要とされたのである。長英自身の関心が、これほどに兵書だけにこの時期に限られていたとは信じがたい。
 すでに買ってある本の分類をまかせられる彼の百科全書的な関心は自在に動きはじめた。
 宇和島の伊達記念館所蔵の高野長英関係資料として見せていただいたもののうちに、三つの書物目録があった。その中でもとくに「蘭書目録」とある巻紙には、原書名を記した上に摘要を記した付箋がはりつけてあり、「一 チュツケイス著述 千八百十九年 アールドレイクスキュンデ 五冊」からはじまり、「プロヒショナール レグレメント 三冊」で終る原書題目をかかげて、その下に紙片を貼りつけて、「和蘭と暎咭唎(イギリス)之語典 イギリス書を読む緊要之書」、「黄銅筒鋳造法之書」、「ボイス氏ノ語典翻訳ニ極緊要之書」、「諸国兵制数之書 即チ兵制全書之原本」などと書いてある。これらはおそらく長英の筆であろう。
 蔵書は、兵書が大多数を占めるとはいえ、その種類は、天文学、数学、言語学、化学、歴史の諸分野にわたり、これほど多数のオランダ語の書物を前にしてその性格を即座に見きわめ、宇和島藩の目的にとっての必要性を決めるには、相当の学識が前提とされたであろう。」鶴見俊輔『評伝 高野長英1804-50』藤原書店、pp.311-315.

 弘化元(1844)年の脱獄から嘉永三(1850)年江戸での逮捕時の死まで、高野長英の逃亡の晩年六年間に、彼はまとまった著作としては、『星学略記』(天文学の大要)、『遜謨児四星編』(同天文学についての訳述)、『知彼一助』(イギリス、フランスを中心にオランダ、アメリカもあわせ、各国情勢を書いた国際政治学論文)、『三兵答古知幾』全27冊(兵書の全訳。歩兵・騎兵・砲兵の訓練と実践技術を解き明かしたもの)、『砲家必読』全11冊(砲術書の翻訳)を残している。入獄前の医学や植物学、農学などへの関心は潜めて、最後はもっぱら砲学兵学といった軍事技術の翻訳解説に力を注いでいる。宇和島での仕事として要求されたこともあるだろうが、この人の才能は語学を基礎にあらゆる知識学問の本質を一気に把握するところにある。

 「すでに長英は、入獄直前の年にあたる天保九年(1838)に、『聞見漫録 第一』と題する文集をあらわしており、そのはじめに、わずか11葉のうちに西洋哲学史を集約している。日本人の書いた西洋哲学史としておそらくは最初のものではないだろうか。
 この論文は、長英が、ヨーロッパの学問の諸学科を底のほうで結びつけている考え方に注目し、それを理解したことを示すもので、こうした理解がある故に、数百冊の蘭書を前にして、即座に鑑別する仕事をなし得たのであろう。
 哲学者は、長英の言葉でいえば、学師である。小関三英をいたむ文章の中で、彼は「学匠」という言葉を使っているが、彼自身はみずからを擬して「学匠」あるいは「学師」としていたのではないだろうか。
  西洋に学師の創(はじま)リシハ、又甚(はなはだ)ダ尚(ひさ)シ。其(その)嚆矢(こうし)ヲタレス及ビ「ヒタゴラス」トス。
 このように書きはじめてから、タレスの門下に星学家アナクサゴラスがあらわれ、「汝ヂ故国ノ事ヲ以テ念トセザルハ、何ゾヤ」と非難されると、天を指さして「我故国ノ事ヲ以テ廃棄スレドモ、之ヲ以テ過チトセズ」と答えたことをのべる。このはじまりは、長英がヨーロッパの哲学精神が民族文化をこえるところから出発したことを、これは長英自身の立場とちがうにもかかわらず、理解していたことを示している。
 ピタゴラスはエジプト人より数学をうけ、それによって世界万物の間の数量上の比例の存在を説いた比較符合の説を設け、万物全備完成の理を解き、地をもって一大人体となし精神不滅・彼此転移(按ズルニ、仏家ノ三世ノ説ヲ以テ、人ヲ教導スルノ義ト同ジ)の論をたてた。これは簡潔ではあるがピタゴラスがその後の二〇〇〇年余の西洋思想史にあたえた持続的な影響をよくとらえている。
 ピタゴラスの系統からソコーラテス、その門からプラト、その門からアリストテレスが出て、さらにエヒキュルス、セノの二大家があらわれ、アリストテレスの説が流行するに至った。一四七三年にいたってニコラース・コーペルニキュスがあらわれて、地動の真理を発明し、一五六四年にガリラウス・デ・ガリレヲがうまれて新たに実測にもとづいてコーペルニキュスの道をひろめた。彼は、旧説を尊信主張する教師たちにとらわれて五、六年の間、獄中にあり(この点は、次の年からはじまる長英受難とおなじであり、獄中で長英は自分をひそかにガリレオに擬していたであろう)。「然レドモ、実理ノ在ル所、却(しりぞく)ルコトヲ得ズ。却(かえっ)テ是(これ)ニ因(より)テ、其説(そのせつ)ノ公ケニ世ニ行ハルゝ泛觴(はんしょう)(始まり)トナレリ」
 その後一七〇〇年代に入って、フランスにガッセンジ、またレネ・テル・カルテスがあらわれ、コーペルニキュスの説をとうとび、その説を補益した。「其論、真偽相半(あいなかば)スト雖(いえど)モ、世人千古ノ学風ヲ棄テゝ、実学ノ真理ニ入ルハ、此人(このひと)ノ力ナリ」。こうしてプラトンやアリストテレスなどの「陰陽四行の旧説」はおとろえて新たな実証的方法をもって世界の法則をさぐる学風がおこった。
 この学風をおこすにさらに力のあったのはハツコ(フランシスコ・ベーコン)であり、その流れにネウトン、レイブニッツ、ロッケの三大家があらわれた。ネウトンは、天学に通じ、諸星の運動は引力・吸心力に関わるものなりとし、その根拠は数学にもとづき義理明亮で一も疑をいれるところなし。レイブニッツは、テヲシカ(弁神論)をあらわし、万有の原素、不変の理義を論じた。彼は数学に長じ、「千古ノ難数ヲ簡法ニ解スルノ法(微分法)」をたてた。ロッケは、理義と経験とにもとづき、人智の極度を定めた。「今ノ学ハ、此三人ノ立ツル所ナリ」
 さらに長英はその後の哲学の展開を一八世紀前半までたどったあと、西洋の学問の分類法を論じて、①レイデンキュンデ(地理義学)、②セーデンキュンデ(法教)、③ナチウルキュンデ(格物窮理学)、➃ホーヘンナチウルキュンデ(「耳目口鼻耳ニ感ゼザル諸物性質ヲ知ルノ学」で、存在論もここに入るという)、⑤ウェーセンキュンデ(「諸仏ノ形状、度分、距離ヲ測ルノ学」であり、数学である)の五科目にわけた。
 他のさまざまの学問はァすべて、以上の五科目に入るという。ただし、もう一つ別にたてるとすれば、歴史学であり、「ヒーストリア学ハ事物ノ外表ヲ記スノ学ナリ。其内面ノ事ヲ併(あわ)セ記ストキハ、其原自ラ(もとおのずから)明(あきらか)ニナルナリ。之ヲ記スヲゲシキイテニスト云フ。按(あん)ズルニ、是モ亦一学ナリ。蓋シ歴史ノ学ナリ」と書いた。
 こうして長英はわずか11葉の半紙の上にこの論文を書いて、「是レ西洋開闢已来、五千八百四十最ノ間、学師ノ興廃得失ヲ論ズルノ梗概ナリ」とした。
 全体の流れを、長英自身の言葉で要約するならば、
  開闢已来、彼(かの)国暦数、今ニ到(いたる)マデ、凡(およ)ソ五千八百四十年、上古ハ稽(かんが)ふ可カラズト雖モ、羅甸(らてん)ノ盛(さかん)ナリシ頃、聖賢併(なら)ビ起リ、学科各々備ハレリ。然レドモ、元来陰陽四行ノ旧説ヲ以テ、形似上ノ学ヲ原(もと)トシ、形以下ノ学モ此ヨリ岐分(きぶん)スル故ニヤ、蒙然トシテ分明ナラザルナリ。此間ニ有力名哲出デゝ、実験ノ実路ニ則(のっと)リ、法ヲ立テ、教ヲ設ルモノ、亦少シトセズ。然(しかれ)ドモ、旧染ノ古学、歴然存シテ世ニ行(おこな)ハレシヲ以テ、世人此ニ泥(でい)着(ちゃく)スルモノト見エタリ。然ドモ、後世人物ノ出(いず)ル二到テ、其説、実測ニ沈合セザルヲ以テ、疑ヲ生ズルノ間ニ、実測ノ学、次第ニ行ハレ来ルニ由(よっ)テ、遂ニ旧説ヲ廃シ、新説ニ従(したがっ)テ、右形以下学ヲ以テ、人ノ所務トシ、此ヨリシテ、形以上ニ至ルノ学風トナリタリナリ。(佐藤昌介校注「西洋学師ノ説」〈もとは『聞見漫録』の冒頭におかれた無題の一文〉日本思想体系55)
 この西洋哲学史の学風の中で、長英がいかなる学風に自分が属するものと考えていたかはおのずからあきらかであろう。」鶴見俊輔『評伝 高野長英1804-50』藤原書店、pp.315-319.

 ピタゴラスからソクラテス、プラトン、アリストテレスの古代ギリシャ哲学、近代を導くコペルニクス、ガリレオ、デカルト、ベーコン、ニュートン、ライプニッツ、ロックと辿って、18世紀啓蒙と実証主義までの西洋哲学史を、長英がどんな文献から学んだかはわからないが、簡潔に肝を掴んで要点を記す能力は抜群というしかない。後世のぼくたちが学校で教科書的に教わった知識は、天保期の日本ではオランダ語を読みこなすごく少数の人以外は、その存在すら知ることはなかったのだから、その知識自体どれほど貴重な情報であったことか、今では想像もつかない。



B.人生のピーク?
 人生いろいろ、山あり谷ありといっても、振り返って自分の一番輝いたピークの時期がどこかにあったのかは、死ぬ直前までわからない。だいたい人生の価値を測る基準はこれもいろいろあるので、世間の評価も自分の満足も、金銭も愛情も単純なモノサシなどない。
 
 「ネット点描:人生のピークって高3? あふれるネガティブ情報
 今まで私が受けた質問のなかで、最も驚いたのは、高3の男子生徒からの、この問いかけだった。「高校3年生が人生のピークって、本当ですか?」
 彼の口調は軽かったが、顔はどこか不安そうに見えた。私は質問の真意を尋ねた。
 彼いわく。大学では最近、入学後さらに終活の準備が始まる。社会に出たら、しんどいことが多い。会社はブラック、結婚は、妥協で墓場。年金はたぶんもらえない。
 18歳は親や社会に守られる「子ども」の最後。高校生になれば行動範囲も広がり、気の合う友だちも増える。先輩がいない3年生となれば、最強だ。ということは、高3は人生のピークなのだろうか。そう結論に達した末の、冒頭の問いだった。
 「今どきの子は頭でっかちだなあ」と思われただろうか。問題は「誰が頭でっかちにしたのか」である。
 先日、大学の女子学生に「あなたのしんどいこと」を聞いていたら、「やりたいことの全てに『明確な目標』と『将来の展望』を求められる」と答えた学生がいた。夢や目標を持てと言われる一方で、「好きだからやりたい」「なんとなくやってみたい」「なんとなくやってみたい」で行動することは許されない。「そんな動機では支援できない」「そんなものは将来につながらない」とダメ出しされるという。
 ネットを通じて、彼らは多くのネガティブ情報を浴びている。「耳年増」状態だ。身近な大人からは、「そんなことじゃ、将来困るよ」と何度も何度も釘を刺される。その結果「社会はつらく厳しい」というイメージが、刷り込まれる。真面目な子は「自分はきっと社会で通用しない」と思い込んですらいる。社会を知る前に。
 若者の「頭でっかち」は、私たち大人が良かれと思って発した言葉でできている。
 冒頭の問い、私はこう答えた。「君がそう信じていたら、そうなるかもしれない。でも私は18歳の時よりも、今が楽しいよ」。男子生徒は、驚いた顔をしていた。(原田朱美)」朝日新聞2019年2月26日朝刊15面オピニオン欄。

 自分のことを考えてみると、ぼくの18歳から20歳すぎはどうみても最低だった。大学入試はみんな落ちて浪人だったし、何度も失恋して、山から転落骨折して死に損なって入院、大学も落第して就職など考えもしなかった。30歳くらいまでピークどころか、ロクなことはなかった。果たして自分の未来に少しはいいことがあるのだろうか?絶望しても仕方ないので、先のことは考えないようにしていた。でも、定年退職する年になって振り返ると、どうやら幸運にもこの国が元気のいい時代だったおかげで、人生のピークはもっと後で来たように思う。いや、もしかしたらこれからピークが来るかもしれない。これも、先を読んだり、親の言うことを信じたり、しっかり計画を立てて生きたからではなく、ぼくが行き当たりばったりに、出会うものを拒まずに遊んで暮らそうと思ったからかもしれない、と思うのだ。
おなじページの記事に、映画「ボヘミアン・ラプソディ」の大ヒットを論評した宮台真司の文章。

 「損得抜きの微熱を求めて:宮台真司
 クイーンは、日本の女たちからブームに火がついたので、当時は「女の子受けするバンド」というイメージでした。だから僕は隠れてライブに行きました。1970年代3回は行ったかな。フレディの歌唱力、動き回り力強く歌う身体性、といった「微熱感」にひかれたんです。
 さて、僕の周囲にいる20代の女たちはほとんどがこの映画を見ています。彼女たちは口をそろえて「あの時代に生れたかった」と言います。なぜなのか。たぶん彼女たちは失われた微熱感を取り戻したいんじゃないでしょうか。
 クイーンが全盛だった頃、社会は至る所に微熱感がありました。男たちは取っ組み合いのけんかをし、こいつは逃げないヤツだと信頼して仲良くなりました。街では男女の視線がよく交わりました。
 今は、視線の交わりを誰もが全力で避けます。デートしても自分でうまくやれるかばかり考え、視線の交わりで相手をモニターできない。まず男たちが、コスパなどの損得勘定から出られない「クズ」になり、続いて女たちが、男たちを相手にしても実りがないので退却しました。女たちが相手にしてくれないのもあって、男たちはアニメやゲームなどの仮想現実やアイドルに向かいました。
 クズ化した男と、失望した女が、街から微熱感を奪いました。でも女たちは失望していても諦めていない。微熱感が失われた街や社会に不全感を覚える女たちが、今も大勢います。そんな女たちの間で、微熱感を疑似体験できるこの映画が口コミで広がった。それがこの映画がヒットした理由でしょう。
 同性愛のモチーフがあったのも大きい。ゲイだと性自認したフレディは、恋人だったメアリーと生涯のよき友になります。ここは女たちが「これだよね」と感じる重要な要素です。異性愛から「良きもの」を体験できなくなった女たちにとって、粘着質に束縛されたり暴力を振るわれたりして、支配・被支配の関係になりがちな異性愛の現実よりも、同じ前提を共有する同性愛の幻想の方が魅力的です。
 フレディは、エイズウイルス感染で死をはっきり自覚した後、限られた生を行けることころまで行こうと損得勘定の枠から解き放たれます。この魅力的な設定も大きい。従来の枠組みが役立たない非常時にこそ、システムの外側での人の本当の力が試されます。今はどこもシステムに覆われて、相手や自分にどんな力があるのか分かりません。
 元々人は「未規定なもの」に誘惑される存在です。今は未規定なものを全力で回避したがる人ばかり。規定された枠の外に出て、いつもとは違う計算しない視座を取りたい。自分は取れるだろうか。この映画はそれを問いかけています。 (聞き手・後藤太輔)」朝日新聞2019年2月26日朝刊15面オピニオン欄。

 宮台氏の上から目線的いい方は少々ハナにつくが、ぼくも大学生と話していると、彼ら彼女らがぎしぎしと制約の多い面倒な人間関係に早くから予防線を張って生きてきたために、まじめな子ほど友情も恋情もうまく成立できずに、ひどく疲れているような感じがする。「微熱感」という言葉で、クイーンのなかにいまは失われた高揚を見ようとする女子、という図式は内向する男子よりはましだと挑発しているのかもしれない。でも、そんな若者ばかりでもないだろう。
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逃げる人 高野長英15 情報の価値 .うわじま

2019-02-25 12:59:01 | 日記
A.どうして長期逃亡できたのか?
 180年ほど昔の江戸時代には、人々の生活はごく狭い範囲で営まれていて、一生故郷以外を見たこともない人も多かった。日本全国の交通通信も今とは違って筆と墨で書かれた文書手紙でやりとりされていた。情報が伝わるには何日もかかり、人が移動するにも徒歩が基本だった。にもかかわらず、江戸時代はきわめて強力な監視社会で、幕府の行政機構は村々家々の支配を各藩、庄屋、肝煎に徹底させていた。全国指名手配のお尋ね者の人相書きはしっかり配布され、見つけ次第司直の手が回るようになっていた。その犯罪者をかくまったり、援助した者もきびしく罰せられることは誰でも知っていた。この江戸時代以来の「お上の威光」を無条件に恐れる根深い心性は、21世紀の今に至るまでこの国の多数で普通の生活者に根づいている。それはたんに、「寄れば大樹の影」とか「触らぬ神に祟りなし」といった消極的な「空気を読む」知恵ばかりでなく、自分にはできない思想犯の反逆的意志への嫉視を含む憎悪があり、逃亡者にはこれが耐え難い重圧になる。
 しかし、脱獄した高野長英は、このような監視社会をすりぬけるだけの知識人ネットワークと最新医学薬学、オランダ語の特殊技能があった。上州、越後、そして母のいる陸奥への密かな旅も、多くの人たちの同情と援護によって可能となった。それは、彼が理不尽な権力の不幸な犠牲者だと認識されていたことを証し立てるが、同時にお尋ね者長英が自分の前に現われたときの困惑と保身を、どうやりすごすか、昭和の「転向」研究をした鶴見俊輔には、他人事とは思えなかっただろう。国家への反逆者の烙印を押された人間に、名もなき庶民大衆がどれほど冷たい蔑視の態度を示すかは、逃亡者には痛いほど身に染みる。自分はこの人たちのために発言しあえて牢獄にまで追いやられたのに、今は泥棒人殺し同然に嫌われ蔑まれる。しかし、長英にはまだなすべき仕事はあり、それを達成するまではなんとしても生き延びようとする意志は揺るぎない。

 「弘化二年(1845)一〇月に長英は老母に会ったと言われる。しかし、このことを美也ははっきりと人に語ることはせず、長英の帰ってきた夢を見たとだけ言っていたそうである。どこで会ったかもはっきりしない。おそらくは、当時、脱獄直前の手紙を送った前沢の茂木恭一郎の家ではなかったか。たとえ一夜であるとはいえ、町内のおおかたが顔見知りであるような水沢にたち寄ったとは思われない。
 生きて実母に会うという、脱獄後の一つの目的を果たして、長英は反転して仙台に行く。ここで名取郡玉浦村早股に隠居している旧知の仙台藩士斎藤徳蔵をたずね、昼食のふるまいをうけた。徳蔵は、着物じんそろえと金一両を長英におくったという。徳蔵の孫にあたる斎藤永儀は明治三〇年代に仙台市大町で運送業をいとなんでいたと高野長運の『長英伝』にあるから、長運は、この人から上記の逸話をきいたのだろう。
 先代から福島にむかう。ここに「あぶとう」と呼ばれる油屋藤兵衛の薬屋があり、鈴木藤兵衛から四代目にあたる芳太郎が今も福島市本町一丁目四六番地に「油屋薬房」をひらいている。ただし、もとの店のあったところから少し移ったということで、家も幕末のおもかげをとどめない。
 一九七四年一一月五日、油屋薬房をたずねて鈴木芳太郎夫人からうかがったところでは、高野長英におそわったという薬数種があり、今でも時々注文があるそうである。神授散(胃薬)、甘硝石精(風邪薬)、しまりん(性病薬)、鎮驚丹(頭痛薬、万病薬)。なかでも鎮驚丹は、「和蘭大医故正四位高野長英先生遺法」とすりこんだ印をおして売っている。
 長英は福島から米沢にむかい、米沢侯侍医堀内忠寛(素堂、花仙、花遷、香雨。1801~54)を訪ねた。
 忠寛の孫、堀内亮一の書いた『堀内素堂』(杏林舎、1932年刊)は、長英の世話にあたった忠寛のすぐの妹運(のちに御側医筆頭有壁道穏に嫁す)のつたえたことを、その曾孫有壁一雄からきいたものとして記している。忠寛には弟一人、妹三人があり、早く父を失った弟妹に長男としてよくつくした。一八歳の時に彼が妹たちに書きあたえた『思のまま』という長文の一冊は、父親がわりになって母への孝養その他の心得を説いたもので、妹たちへの配慮がよくわかる。だからこそ、妹たちは兄の言うことを、自分の生涯を左右することであっても、よくきいたのであろう。
  弘化二年冬の或る日、一人の男が、忠寛の門を訪れた。書生の取次ぎで忠寛が会って見ると、それが長英であった。併し書生等の手前一旦素(す)気(げ)なく断ったので、長英は悄然として立去った。それから忠寛は家人に気付かれぬ様、裏より出でて之を追ひ、自ら引いて自宅裏で土蔵に導き入れた。そして密かに妹運女を招き、何事によらず兄の申す事承引(しょういん)するや否やを尋ねた所、運女は何事にまれ違背(いはい)すまじき旨を答へたので、改めて兄一生の頼みとて、長英が食事、身の廻り等の世話を何人にも知らす事なく為す様、申し付けたのであった。当時家には門下生等人の出入り繁く、同じ家に起居する書生もかなり多く、賄(まかない)も家族書生皆一様であったと云ふから、運女の苦心は一通りではなかった。長英又之を察して、毎日流涕して之を謝したといふ。
 長英がこの家を離れてから、忠寛は彼の書いたものすべてを焼きすてたので、堀内家には長英の手紙も著作も何一つ残っていないという。忠寛がこのように慎重にしたのは、彼が父死亡の文化八年(1811)わずか一〇歳で家をついで五人扶持100石をあたえられ、それ以来一家を背負う責任を担ってきたからであろう。
 忠寛は、江戸に遊学して杉田元郷、青地林宗などの蘭学者、古賀穀堂などの漢学者に師事したのち、文政五年(1822)二一歳の若さで藩侯の侍医に任命された。すでに隠居した上杉鷹山はわざわざ忠寛を呼んで、若くして抜擢されたが慢心しないようにと注意したという(堀内淳一「米沢藩々医、堀内家とその周辺」「日本医学雑誌」1972年3月号)。
 こうした藩侯からの特別の計らいと一家への責任は、長英をかくまう際に細心の注意をはらわせた。この故に、すぐの妹運の他には長英の世話をさせなかった。にもかかわらず、日ならずしてこのことは藩にもれ、忠寛は罰をうけ、始末書をとられた。堀内家としては、長英の名は一家の危険とむすびついて記憶された。」鶴見俊輔『評伝 高野長英1804-50』藤原書店、pp.296-299.

 明治も20年代になって、幕府への反逆者、脱獄囚犯罪者として記憶された高野長英という名前は、明治政府にそれなりの地位を得る関係者によって名誉回復され、ついに正四位、明治天皇の承認を得て「栄光の維新を導いた先覚者」の一人として公認された。しかし、それは彼の生きた現実とは無縁な装飾であって、いまのぼくたちが高野長英を正当に評価するには、長英が逃亡生活を生きていたときに、彼の価値を見抜き、その能力を生かそうとした殿様、宇和島藩主伊達宗城という人の見識は見逃せないものがある。

 「弘化三年(1846)晩春のころに、長英は江戸にもどってきた。高野長運によれば、麻布藪下に裏店をかりて、そこに妻子とともに住んだという。長女のもとはすでに七歳であり、やがて長男融がうまれる。
 長英にとって、獄外にあって生きるということが、脱獄の目的であっただろうということは前に書いたが、彼が生きるということの重要な部分として、危険をおかして老母に会いにゆくということをともかく果たし、今は妻子とともに暮らすということをかろうじてなし得たのである。
 もともと長英には家産があるわけではなく、入獄前にしても渡辺崋山をとおして田原藩から翻訳援助のわずかの扶持を得ていたにすぎず、入獄後には牢名主として得たかせぎの一部をさいて、故郷の老母に送るとともに麻布の妻子にも送っていただろうが、その収入の道も脱獄後には絶えた。江戸で妻子とともに人目をさけて暮らすようになってからも、親身に世話してくれる内田弥太郎のような門人に生活上の負担をかけつづけるわけには行かない。
 そこで長英のできることとしては、わずかに翻訳があった。その翻訳にしても、かつての『医原枢要』のような原理的学術書をえらんで紹介するというのでは、急場の衣食の役にたつものではない。米国船、英国船、仏国船、デンマーク船の来航がさかんで、幕府ならびに諸藩に国防の必要がひろく感じられている時勢に応じて、この時から、長英の翻訳は主として兵学に限られるようになった。のちに長英の訳した『三兵答古知幾(たくちく)』などは写本一部が50両の高値を呼ぶに至ったもので、当時におけるその需要がどれほどのものであったかがわかる。
 江戸にもどってきた当座は、長英はまだ兵学の翻訳に専心するつもりはなく、足柄上郡にかくれて内田弥太郎から頼まれた天文学についての翻訳を仕上げた。『遜謨児(ソンムル)四星編』『星学略記』である。その中の『四星編』の翻訳を完成して内田に送るにさいして次のような手紙をそえた。
  愛情は勇士も覆没(ふくぼつ)の難を受くるの暗礁なり。嗚呼(ああ)々々可想可想(おもうべしおもうべし)。愛に因(よ)って大義を失し、病に沈んで心事違(たが)ひ、百端の庶務一時に萌出し、多冗(たじょう)紛乱(ふんらん)、訳業に暇(いとま)なく、怱々唯諾(そうそういだく)を違(たが)へず、言を食(は)まざるの証(あかし)までに拙訳致(いたし)候。御憐察可被下(ごれんさつくださるべく)候。
 天文学の翻訳にこのような情緒を記すとは、これが、妻子を世話してくれた門人内田弥太郎の依頼にこたえる訳業であったことを思いあわせる時、はじめて理解できよう。長英は今日残っている獄中の著作においても老母にたいする哀惜の念のみを語って、妻子については書かなかったが、彼の中にはつねに妻子への配慮があり、この天文学の訳業を仕上げるにあたって、表にあらわれたのである。
 弘化四年(1847)の晩春、長英はふたたび江戸にもどり、妻子とともに暮らしたり、内田弥太郎の家にかくれていたりして、『知彼一助』という国防上の論文を書いた。
 この論文は、阿片戦争以後のさまざまの危険にそなえて、日本を守るために西洋の防衛法について知っておけば助けになるという趣旨で書かれた。もし西洋の兵が琉球を占領するとすれば、ここからわざわいがおこるであろう。琉球の人びとが西洋の風にまだなじまない今日、ここに西洋の兵力が及ばないように考えるべきだ、としている。
 書かれているのは主にイギリス、フランス二国の地理、経済、兵制であり、きわめて具体的で要領を得た情報をあたえる。今日から見て、長英独自の見識を示していると思われるのは、そのアメリカ論であって、ヨーロッパ人が外地を占領してうばいとるようになったのは、クリストファ・コロムブスのアメリカ発見にはじまるとし、アメリカは当時は日本にとっての北海道のようなところであり、そこに住む人びとは弓矢をもつだけであったので、それを鉄砲でおどし、わずかのめぐみをあたえてあざむき、服従をしいた。それまで西洋人は独立自治の道を歩いてきたのに、この時以来、国外との通商をとおしてたやすく利益を求めようとする気風が生じたとなげいている西洋人がある、と紹介している。
 とくにその頽廃はスペインにおいていちじるしく、たやすく海外に利益を得ようとする気風はついにスペインをおとろえさせて弱小の国にしたとある。ただしオランダ、イギリスは、勤勉の気風を失うことなく、通商によって国を富まして来たとし、海外貿易の仕方にさまざまの流儀があることを述べる。
 これらの情報を整理して述べた上で、どのような政策を為政者がとるべきだという点については述べることをしない。これは、『夢物語』ですでにこりたのであろう。政策をたてるのは当路の人がなすべきで、筆者自身としては、そういう政策をたてるさいに参考となるような情報をあたえるだけだという含みである。
 この小冊子には、「弘化竜集丁未四月下旬 環海識す」と署名してある。西暦一八四七年五月下旬、長英がまだ宇和島にむかって出発する前に書いたものだということがわかる。「環海」とは、そのころ彼が名のっていた号である。
 この論文で重要なことは、彼が欧米諸国の外地侵略をきわめて現実的に見ていることである。彼らの流儀をよく知るならば、彼らに効果的に対抗し、彼らに対して、日本を守ることができると、長英は考えていた。
 嘉永一年(1848)、長英は、四国の宇和島藩領に入った。伊達家家記編集所の村松恒一郎が「高野長英宇和島潜伏中の事実」(一九一二年一二月一八日、温知会での公演速記録)で伊達家の記録をもとにして述べたところによると、宇和島藩主伊達宗城(1818~92)は、早くから外国事情に関心をもち、『夢物語』の著者に会おうとし、伊達家に出入する医者伊東玄朴のなかだちで三宅土佐守の邸で二度ほど会った。
 その後、長英の入獄、脱獄があって彼の行方がしばらくわからなくなっていたところ、家臣松根図書が幕府与力内田弥太郎宅で長英に会い、そのことを主君につたえた。宗城は、長英を宇和島におくることを考えて、工夫をこらし、自分が国許に帰ってから、信頼のできる家臣とうちあわせをした上で、嘉永一年(1848)三月、宇和島を出発して江戸にむかった。
 いっぽう長英は、おなじ年の二月三〇日に藩医富沢礼中、護衛の足軽二人とともに江戸を出発して宇和島にむかった。両者は宇和島藩の大坂屋敷で会ったものと推定される。というのは、藩の記録に、「三月二十一日大坂屋敷にて富沢礼中に蘭書を賜ふ」とあり、さらにまた「富沢に羽織を賜ふ」とあるからで、おたずねものの長英を引き連れての道中を藩公みずからねぎらったものと解される。
 嘉永一年四月二日、長英は宇和島につき、はじめは町会所にいて、のちに家老の桜田数馬の別荘に移り住んだ。あくまでも、蘭学者伊東玄朴の門人伊東瑞渓ということにして、この変名の下で四人分の扶持をあたえられ、別に、「時々申し出し候節」に翻訳料をわたすというとりきめになった。
 藩命によって谷依中、土居直三郎、大野昌三郎の三名が長英についてまなぶことになった。この三人の他に、自発的にならいたいと申し出たもので、二宮敬作の子、二宮逸ニがくわわった。谷依中はあまり勉強しないので、のちに藩からしかられているが、他の三名はまじめに習ったらしい。なかでも逸ニは、自分から言いだしただけあって、「逸ニ鋭敏ニシテ進歩著シク我等ノ及ブ処ニアラザリシ」と土居直三郎は書きのこしている。」鶴見俊輔『評伝 高野長英1804-50』藤原書店、pp.305-310.

 「進歩的知識人」インテリゲンチャという人たちが、なにか世の中を先頭にたって導いているというファンタジーが、日本の戦後のある時期だけ多くの大学生に信じられていたのは、今から見れば嘘のようなホントだった。そのインテリゲンチャは、大戦争の時期に馬鹿げた皇国史観と肥大した軍国主義のもとで、国賊視されて息を潜めていた「良心的文化人」だった。敗戦と占領の数年間、彼らは一転して知的世界で英雄になった。しかしそれは短い春で、やがて朝鮮が戦場になり宗主国アメリカの方針転換で、日本列島は反共の砦に変えられる。そういう場所から、どこかで血のつながる先覚者高野長英を振り返る鶴見俊輔には、全国指名手配のおたずね者が、四国のはずれでちゃんと生きていて、蘭書の翻訳や若者の教育までやっていたことは、この国も捨てたものではないとエンカレッジされたことは間違いない!



B.沖縄県民投票の結果
 辺野古をめぐる沖縄県民投票の結果は、三択にしてごまかしや言い逃れを図った安倍政権の姑息を許さないほどの鮮明な数字(反対72%)になった。それでも日本政府は既定方針を変えないだろうが、そこまでして辺野古埋め立てを強行する理由は、要するにトランプというお殿様が「おめぇ、俺のためにやる気だせんだろうな?え?」という圧力を忖度して、勝手に日本の安全保障には米海兵隊はぜひ沖縄にいてもらわないとまずい、という卑屈な心理にある。そんなに足元にすがりつく敗戦国のトラウマなんかシカトして、アメリカの冷静な頭脳は、世界戦略の軍事バランスを計測する。その結果、沖縄の海兵隊がアジアに果たす役割は自民党が期待するほど大きくはないという。

 「耕論:辺野古 米国から見た  自然災害にも攻撃にも脆弱 元米国務長官首席補佐官 ローレンス・ウィルカーソンさん
 東西冷戦の終結を受け、米海兵隊本部は1990年代前半、国内外すべての海兵隊基地や構成をどうするか見直し作業をしたことがあります。私は当時、海兵隊大学のディレクターを務めており、この検証作業に関わりました。
 海兵隊の見直し作業では、在沖縄海兵隊も検証対象となりました。舞台の実弾射撃訓練や飛行訓練、爆弾投下訓練をする地域として沖縄の適合性を調べたところ、運用は「極めて難しい」と判断されました。また、朝鮮半島有事の作戦計画「5027」などを始め、対中国、対東南アジアへの展開を含めて在沖海兵隊の戦略的な役割を調べました。在沖海兵隊は戦力規模が小さすぎて、「太平洋地域に前方展開させる戦略的価値はない」との結論に至りました。
 ただし、コスト面から調べたところ、海兵隊を当時の移転候補だった米本土のカリフォルニアに移転させるよりも、沖縄に駐留継続させる方がコストが50~60%安くなることがわかりました。日本側が駐留経費負担をしているためです。在沖海兵隊移転による海兵隊への政治的な影響についても分析され、「海兵隊を米本土に移転すれば、米政府がそれを理由に海兵隊全体の規模を縮小させる可能性が高い」という予測が出ました。この結果、海兵隊本部は当面、海兵隊の沖縄駐留を続けることを決めたのです。
 つまり、海兵隊が現在も沖縄駐留を継続している元々の判断をたどれば、何ら日米の安全保障とは関係ありません。沖縄駐留を継続した方が必与経費を節約できるし、何よりも海兵隊という組織の政治的な立ち位置を守ることができるという分析だったのです。 
  私はこれまで何度もアジア太平洋地域における米軍の机上演習をしてきましたが、在沖海兵隊は台湾有事であれ、南シナ海有事であれ、米軍の戦闘力にはなりません。米中戦争がもしあるとすれば、空と海における戦闘。米国は海兵隊員を中国本土に上陸させるような愚かな作戦はしません。
 中国に対する抑止力として戦略的に有効なのは、米国が日本防衛に確実に「コミットメント(関与)」しているというシグナルを明確に送ることです。海兵隊員を沖縄に置くよりも、米本土から核搭載可能のB2戦略爆撃機を日本周辺で飛行させる方が効果があります。いざとなれば米国は日本のために、中国に大きなダメージを与える――。その意思をはっきりと示すことができるからです。
 日本政府は辺野古沿岸部を埋め立てて建設していますが、軍事基地を沿岸部に建設する時代でもありません。気候変動による海面上昇で自然災害を蒙るリスクは高まっています。60~70年後には巨額の建設費が無駄になってしまうおそれがあります。
 例えば、米軍基地でも現実に気候変動の問題は起きています。マーシャル諸島のクエゼリン環礁にはロナルド・レーガン弾道ミサイル防衛試験場がありますが、最新の研究では近い将来、水没のリスクが報告されています。また、米東海岸のバージニア州ノーフォークの海軍造船所は、原子力空母が寄港する重要な港ですが、近年は急激な海面上昇による高潮などの大きな被害を受けています。30年後は使えなくなるという懸念が出ているのです。
 辺野古の基地は、国など外部からの攻撃に脆弱すぎるという問題があります。2,3発の精密誘導弾の攻撃を受ければ、滑走路は跡形もなく消え去るでしょう。戦略的な観点でいえば、辺野古の基地建設は愚かな計画です。もし私が安倍晋三首相の立場にあれば、現計画に固執して沖縄の人びとと敵対する手法はとらないでしょう。
 日本政府にとって必要なのは、こうした変化に適応することです。米政府もまた、変化に適応する必要があるでしょう。」朝日新聞2019年2月22日朝刊、13面オピニオン欄。

 戦争抑止のための軍拡、という思考はどこまでも机上のシミュレーションにすぎないと思う。そうしたいなら国家予算が破綻しない限りで専守防衛、最低限の軍備をするのは構わない。でも、今この国がやっていることは、自国の安全防衛のためではなく、宗主国アメリカ合衆国の偏狭な権力におもねて、とっくに捨てられた恋人にストーカーのように札束を捧げてすがりつく醜態にしかみえない。自国民である沖縄の人たちを見捨てて、大国アメリカのトップ1%を代表する意志に盲従するなら、近い将来ぼくたちは痛い目をみるような気がする。
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逃げる人 高野長英14 逃避行探訪  やせ細る日本

2019-02-23 15:58:49 | 日記
A.逃亡の奇跡
 昨年4月、愛媛県今治市の松山刑務所大井造船作業場から逃走し瀬戸内各地に潜伏した事件があった。27歳の男性受刑者は、すぐ捕まって連れ戻されると思われていたが、約2週間以上逃亡を続けた。「脱獄」というと映画や小説の世界の話かと思いきや、現代でも珍しいことではない。法務省矯正局によれば、「全国の矯正施設(刑務所、少年院など)からの逃走は、平成に入って29件36人です」とのことで、1年に1件以上のペースで発生しているそうだ。
 ほとんどのケースで数日以内に身柄が確保されているが、1年2か月にわたって逃げ続けた脱獄者もいる。1989年に熊本刑務所から脱獄した懲役18年の連続強盗・婦女暴行犯の男だ。実刑確定から4年目の脱走で、最終的には680km離れた神戸市内で逮捕された。これは、作業場からくすねた材料で外部に通じるドアの合鍵を密造する用意周到な犯行。刑務所では“模範囚”として通っていたが、模範囚であるがゆえに刑務所内で陰湿なイジメにあったのが脱獄の理由だという。
 あと数年で出所できるはずの模範囚の脱獄が起こるのは、「塀のない刑務所」という構造もさることながら、獄中の人間関係も影響しているのかもしれない。(週刊ポスト2018年5月の記事から)
 牢獄内の人間関係や悪環境が脱獄を誘発するのがいまだとすると、高野長英の脱獄は、牢名主という囚人の自治的秩序のトップにいて、いじめどころか囚人からの信頼尊敬を集めていたらしい彼の、個人的動機による計画的なものだった。脱獄後の行動もじゅうぶんに考え計画されていた。

「小伝馬町の牢獄が焼け落ちてから三日間が、長英にとって、つかまる心配なく町を歩きまわれる時間だった。
 彼はまだ、小伝馬町から近い下谷練塀小路まで、数人の囚人仲間と一緒に歩いて大槻俊斎をたずねた。ただちに一人にならぬところに、長英の人がらがあらわれている。牢名主として、行き場のないひとたちをつれて歩いてきたものだろうか。
 大槻俊斎(1804~62)は仙台藩白石城主片倉氏の家臣で桃生郡赤井村に生れた。長英と同年同郷の蘭学者である。一八歳の時に江戸に出て高橋尚斎、手塚良仙、湊長安、足立長雋についてまなんだ。湊長安は、吉田長叔の門人であり、またシーボルト門下でもあったので、この縁で同郷の長英とも会ったであろう。
 のちに長崎に遊学し、水戸の別家永沼侯の医官となった。天保一二年(1841)には、高島秋帆に頼んでたねをもらって種痘を神崎屋源造の娘の子にして成功した。江戸における種痘のはじまりであるという。相当の冒険心をもつ医者だったのだろう。
 弘化一年(1844)六月三〇日のあけがた、俊斎は、訪問客があることをねどこできいた。長髪の人と他にニ、三人が門前に立っていて、門弟が、どなたかときくと、伊東玄朴のところから病人のことできた、門をあけてくれと言ったそうだ。俊斎は高野長英であることをさとって屋内にいれ、これからどうするつもりかときくと、友人の伊東玄朴その他をたずねるつもりであるが、こんなふうていでは具合がわるいから、何か着物を貸してほしい、それからひげをそりたいからカミソリを貸してほしいと言った。
 俊斎が、家には床屋がかよってくるので、カミソリは置いてないとこたえると、長英はそうかと納得した。三日以内に獄にかえったほうがいいと忠告すると、長英は、わかっている。心配するなとこたえた。帰りがけに、おもちゃ箱の中に木刀を見つけて、それをくれと言った。俊斎は、せがれのおもちゃで何の役にもたちませんと言ってことわろうとしたが、長英がこれでもよいと言って、有無を言わせず、もっていってしまった。ただし、俊斎の孫弐雄の話では、これは実はほんものの刀をわたしたのだが、世をはばかっておもちゃの刀と言いなしたのだと、母からきいたそうである(青木大輔編著『大槻俊斎』1964年刊)。
 俊斎は、長英にやった刀のことが気がかりで、町方の同心大関庄三郎に相談したところ、おもちゃならば、別のおとがめもないだろうが、自分から役所にとどけ出ておこうと言った。その後、長英と一緒に俊斎をおとずれた仲間が本郷のあたりでつかまり、この男が、長英が大槻俊斎をたずねて刀をもらったと話したので、このために俊斎は何度も奉行所によびだされ、三年の猶予を与えるから長英をさがし出せと申しわたされた。
  (中略)
 獄をはなれた第一日目、長英は、まず下谷の大槻俊斎を訪問したあとに、牛込の赤城明神境内にある漢方医加藤宗俊をたずねた。この人は長英釈放のために努力してきた人だから、ここで休ませてもらい、しばらくねむったのち、夜に入ってここを出て、四谷の相之馬場にある尚歯会の世話役をしていた遠藤勝助をたずねた。ここで長英は身支度をととのえることができて、その夜のうちに去っていった。
 そのあとに伊東玄朴をたずねたという説があるのだが、はっきりしたことはわからない。安心して人をたずねて歩くことができるあと二日の間に、長英はおそらく、麻布六本木近くに住む妻子のもとにたちよったであろうし、そのために気をくばってくれている鈴木春山、内田弥太郎たちをたずねて今後の相談をし、おたがいの連絡方法について打ち合わせをしたであろう。
 その後、長英の消息はない。おなじ水沢出身の佐々木高之助、いまは津山藩医箕作阮甫の養子となり蘭学をおさめて当時、銅板着色の世界全図とその解説書『坤輿図識』全七巻を準備しつつあった箕作省吾(1821~46)は、仙台藩の医官桜井元順あての手紙に、
  去月二十二、三日夜、小伝馬町百姓牢焼失、乗(きょに)虚(じょうじて)長英出奔。俊斎方へ町同心共参(どもまい)同人中相尋(あいたずね)候(そうろう)由(よし)。何方(いずかた)へ奔(はし)り候や。定てユリス〔ロシア〕抔(など)と案候。御考(おかんがえ)如何(はいかが)。
 ひと月ほどたったある夜、今日の東京都板橋に住む水村玄銅という医者の家に、長英は突然あらわれた。玄銅は長英の門人で、長英在獄中、釈放運動をしている。水村家には、天保一四年(1843)正月の日付のある東叡山あての嘆願書の写しが残っていた。おそらく、これは江戸の漢方医加藤宗俊が中心となってすすめた赦免運動の文書だろう。」鶴見俊輔『評伝 高野長英1804-50』藤原書店、2007.pp.252-260.

 このあと水村玄銅の家、そしてその兄の医者、高野隆仙の埼玉県北足立郡尾間木村の家、それから大宮を通って上州、いまの群馬県の各地を門人や医者のつてを頼って長英の逃亡生活は続いて行った。

 「幕末から明治はじめにかけて、上州は無宿者の本場であった。江戸に流れて来て上州無宿を名のるものが多かっただけでなく、上州にもどっても各地をわたりあるいて無宿者として生きる人間が多くいた。旅に出ている間は自衛上、刀をもっていることが、武士以外のものにも許されるという法律のぬけ穴を利用して彼らは法律を公然とやぶり、上州長脇差をさしてわたりあるいた。
 萩原進『群馬県人』(新人物往来社、1975年刊)によると、博奕場をかしてその席料をとって暮らすやくざにとって、堅気の旦那衆がバクチに使う金がなくては、暮らしてゆくことはできない。その点で上州は中仙道、三国街道など主要な道路がとおっていたので現金の流通が盛んだった。
 それにくわえて、中世の戦国時代以来、村の力で村を防衛しなければ、いくらでも戦国領主たちの使役にかりたてられるという困難に応じて、地侍集団ができており、その伝統をやくざがひきついで村を守るという役割を果たしたという。そのもっとも名高いものが国定忠治(1810~50)と大前田英五郎(1793~1874)であり、忠治の子分は上州各地で700人と言われ、英五郎の子分は上州の範囲をこえて3000人と言われた。
 代官羽倉外記は、忠治の処刑後、忠治が村民の立場にたつ側面をもっていたことへの洞察をふくむ小伝『赤城録』を書いた。忠治が岡っ引きを殺してからも数年上州各地でかくまわれていたこと、英五郎のばくち場の駒札が上州では幕府発行の貨幣とおなじく通用したことなどを考えあわせると、中央政府、地方政府の支配のおよばぬ政治の場がここにあったことがうかがわれる。国定忠治も、大前田英五郎も、ともに高野長英の同時代人であり、忠治、英五郎の活動を許した上州人の気風が、長英の潜行をも許したものと考えられる。
 群馬県吾妻郡の中之条という町は、明治中期までは上州で名だたる町の一つだったらしい。この町の鍋屋旅館は、今の投手田村喜代治が一三代目にあたるという。十返舎一九が書いた『諸国道中金の草鞋』(1820年刊)という戯作にも出てくる。
  (中略)
 この旅館の当時の主人田村八十七は、中之条と原町とのあいだに市(いち)をたてることをめぐっての争いがあった時、町田明七という人と村を代表する二人として江戸におくられ、小伝馬町の獄につながれた。ここは天領であるので、江戸におくられたのである。そこで、牢名主となっている高野長英に会った。長英とは、かねてからの知り合いで、田村八十七の名は長英入獄前の天保九年(1838)の福田宗禎あての手紙にすでに見える。
 小伝馬町では、長英は、
「この人には、しゃばで世話になったので、今夜ここにとまるについては、客にしてほしい」
と牢内のみなに計ると、
「はあ」
と言ったそうである。
 鍋屋旅館にある田村八十七(号は渓山)筆の「韓信股くぐり」のびょうぶを前にしていると、この大きな図柄から見て、村の利害を一身にひきうける太っぱらな性格を感じる。胆力のある自分を屈して暴漢の股をくぐる韓信に、筆者は自分をなぞらえていたのだろう。
 伝馬町の牢内の話が、この鍋屋の家中で代々語りつたえられて今日に至っているところから言って、沢渡、赤岩、伊勢町、横尾の各地に潜伏した長英が、牢内から長英より早く出てこの旅館にもどっていた田村八十七からさまざまの便宜を得ていたものと推定できる。
 先代の当主田村辰雄によると、長英はこの旅館の土蔵にかくまわれていたことがあるという。八十七の娘リウ(里宇)は長英の顔形をおぼえていたそうである。リウは、明治に入ってから、長英の薬用のさじや長英筆の竹の絵、オランダ語で書いた字訓をはった扁額などをゆずりうけ、長英を尊重することを子どもに教えた。その子喜八は、一〇〇歳まで生き、一九六四年に亡くなり、その子辰雄は、私がたずねた一九七四年四月三〇日には八五歳で、話をしに見えた。
 当主の案内で、この宿屋を見てまわったが、ここに長英ゆかりのものが大切に保存されているだけでなく「瑞(ずい)皐(こう)の間」という部屋があることを知った。いうまでもなく瑞皐は長英の号である。明治以来何年にもわたってこの旅館では長英が記念されていたのである。旅館の庭には、長英の詩の一節、「双眸呑五洲」(大槻如電のつたえた作では呑(のむ)が、略(おさむ)になっている)を彫った石がたててある。
 隠れた活動を語りつたえるところには、詩と真実がまざりあってくる。その二つを分けることはむずかしい。
 私が高野長英の伝記を書こうなどとは夢にも思わなかった一九五一年の夏、私は中之条からあてもなく歩いて、沢渡温泉に達した。それまで沢渡という名前などきいたこともなかった。何日か滞在するうちに、宿の前に大きな碑があり、それは昔、高野長英をかくまった土地の医者の記念碑だときいた。風呂に入って宿屋の主人の話をきいていると、近くに長英がかくれていた「穴小屋」という大きな洞穴があるという。
 親切な主人の案内でいってみると、それは近くどころか往きかえりにまる一日はかかるところで、沢渡から草津に通ずる道からはなれて山の中を相当歩いたところにあった。洞穴そのものは大きくて、何人も一緒に住める岩屋のようなものだった。しかし、ここに長英がひとりで住み、沢渡の温泉から食物をはこんでもらうということは、私にはとても考えられなかった。長英は、夜になると、山から下りてきて蛇野川で釣りをしたというので、そこの橋は晩釣橋と名づけられているが、実際に歩いて見ると、これもありそうなこととは思えない。
 明治から大正にかけて冒険ずきの少年たちが群れをなして「穴小屋」まで遠足にでかけて来て、彼らの空想に土地の古老の言いつたえがまざり、だんだんに尾ひれがついて、ここに長英がかくれたということになったのではなかろうか。うわさ話は、ともかく、おもしろくなる方向にむかって一方的に進むものだから、一日の山歩きでくたくたにつかれて風呂につかりながら、私は、そんなふうに考えた。しかし、ともかく、ここには、少年の夢の中に高野長英は生きている。」鶴見俊輔『評伝 高野長英1804-50』藤原書店、2007.pp.271-275.

 鶴見俊輔は、1970年代前半、この長英の評伝を書きながら、脱獄後の長英の逃亡生活を追って潜伏したとされる各地を歩いてそこにのこる伝承や遺跡を訪ねて歩いた。とくに脱走後の上州各地と、嘉永元(1848)年に比較的安全に過ごした四国宇和島での、長英の足跡を探訪して、120年以上経っていながら彼の逃亡をかくまい見守り伝承している人がいることに深い感慨を見出している。



B.いま・どうなっているか?
 あの1980年代の浮かれたバブル時代を記憶しているのは、もうアラ還、50代以上の人間で、それからの長いトンネル、あるいはだらだらの下り坂時代にも、多くの日本人はまだ本気で未来に何が起こるか考えていなかった。そのうちまた経済は回復し、再びバブルが来るのは無理としても、日本はアジアの先進国として優秀な人材と技術で「発展途上国」のために貢献し、国民は豊かな生活を維持していくだろうとあまり根拠もなく惰性で期待していた。しかし、それから25年ほど経って、明らかにどこから見ても日本という国からかつての栄光は色あせ、国民の生活は一部の富裕層以外は衰弱し、かつて見下していた中国とは経済でも政治でも、もう太刀打ちできない場所にいる。どうしてこうなってしまったのか?そして、この現実を直視し今とるべき進路と政策を誰かが示す必要がある。それはバブル気分、いやそれ以前に「ニッポンすごい」「サムライ魂」などという愚かな妄想や偏見を持たない若い世代の中からでてくるはずだと思う。それも儚い老いた人間の期待かもしれないが、行き詰った(息詰まった)現政権の時代錯誤な悪あがきを見るにつけ、危機感はつのる。
 
 「戦後七三年が経ち、復興・成長という過程を経て、バブルの崩壊から四半世紀、二一世紀日本の社会状況を再考しておきたい。日本の勤労者世帯可処分所得、つまり働く中間層が収入から税金、社会保険、年金拠出などを差し引かれた実際に使える所得は、一九九七年がピークで、二〇〇〇年の568万円で二一世紀を迎え、二〇一七年は521万円と、年間47万円も減った。また、全国全世帯の消費支出も、二〇〇〇年の380万円から二〇一七年の340万円へと年間40万円も減少しており、二一世紀に入って日本人の貧困化が進んだことが確認できる。
 また、二一世紀に入って、外国人来訪者は二〇〇〇年の527万人から二〇一七年の2869万人と五倍以上に増えた。だが、日本人出国者は二〇〇〇年の1782万人から二〇一七年の1789万人へと横ばいのままである。「グローバル化」の掛け声とは裏腹に、日本人はグローバル化疲れとでもいうべき局面に入った。「内向の日本」なのである。
 こうした現実を背景に、21世紀に入り一七年間の日本人の意識の変化を各種調査の動きで確認するならば、博報堂の生活総合研究所が四半世紀にわたる「生活定点調査」の結果として示している「常温社会化」という表現が適切と思われる。[日本の行方は、現状のまま特に変化はない」と考える人が、二〇〇八年の32%から壱八年の56%へと24ポイントも上昇しているごとく、全般に「公よりも私」「先よりも今」「期待よりも現実」(イアマ、ココ、ワタシ)という価値観が浸透している。内閣府の「国民生活に関する世論調査」(2018年)においても、「現在の生活に対する満足度」は75%と一〇年前に比べ17ポイントも上がっている。「不満はないが不安はある」というのが現在の日本人の心理なのだろう。
 現代日本の社会心理は「不安を内在させた小さな幸福への沈潜」といえる。多くの人がうつむきがちにスマホを見つめ、休日には全国に3500を越したショッピング・モールに行って思惟さな幸福を享受するライフスタイル、常温社会へと引き寄せられている。
 こうした状況は、ある意味では幸福な日本の断章かもしれない。だが、これこそがケジメと筋道を見失う日本の温床になっているともいえる。例えば、森友・加計問題をめぐる当事者と忖度官僚の国益を忘れたかのごとき無責任、政治主導の「異次元金融緩和」という呪縛から逃れきれず、健全な経済を見失いつつある経済政策、安保法制から防衛装備品導入、沖縄問題まで、米国に過剰同調して日本の主体性を失いつつある外交安保政策の現状など、国民的議論がなされるべき課題にまで、不思議なまでの諦念と無関心が蔓延している。だが、迫りくる世界経済の変調とリスクの高まりは「常温社会への埋没」を許さないであろう。それが鮮明になるのが二〇一九年と思われる。
 静かに一九三〇年代を思い起こさなければならない。一九二九年に世界経済が大恐慌に陥り、経済基盤が不安を高めるにつれて台頭したのがファシズムであった。自国利害と民族主義は経済不安によって増幅され、力への誘惑、統合への意志が高まったのである。
 論じてきたごとく、世界経済はここ数年続いた「同時好況」から「変調」という局面を迎えている。とくに、株価への根拠なき熱狂が、様々なリスク要素の顕在化に対して敏感に反応し始めている。二〇一九年。もし株価下落が触発する金融不安が起こるならば、日本も試練に晒されるであろう。常温社会に埋没する日本にとって、この試練に冷静に対応することは容易ではない。何よりも懸念されるのは、この国の指導者に時代を見据える構想力がないことである。
 長期的・構造的視野に立って世界を認識し、課題を制御する新しい秩序形成をリードする構想、しかもその中で日本が果たす役割を強く自覚した構想が求められる。中国脅威論に怯えて「日米連携で中国の脅威を封じ込めよう」という次元での構想では、再び国権主義と偏狭なナショナリズムの誘惑に吸い込まれていくであろう。常温社会がどんなに快適であっても、結局は国民を不幸にする時代を招来することになりかねない。予想される激流の中で、民主主義を守る連帯が必要なことに、日本人が自覚を高めうるのか、それが試される局面を迎えている。
 二一世紀が「アジアの世紀」になることは間違いない。現在、世界GDPに占めるアジアの比重は約三分の一だが、二〇五〇年までには五割を超し、今世紀末には三分の二を超すと予想される。この潮流に、技術をもった先進国として協力・支援すること、とりわけ、アジアの相互メリットになる連携を実現することこそ日本への役割期待であろう。また、核抑止力という固定観念に国の運命を託するのではなく、国連の核兵器禁止条約の先頭に立ち、アジア非核化構想をすみやかに実現すべきであろう。それこそが、二一世紀の世界史における日本の役割である。」寺島実郎「荒れる世界と常温社会日本の断層――二〇一九年への覚悟:脳力のレッスン 特別編、岩波書店『世界』2019年2月号、pp.63-65.

 先走った予測は半分以上間違うだろうが、歴史をふり返れば世界史の大きな動きは、グローバルなどといまさら言わなくても25年くらいで構図が変わってしまう事は、これまでも繰り返されている。1930年代は、軍縮と協調で平和を追求する流れが強まるはずと思われていた世界の状況が、いつしか偶然的な出来事への対処を誤り、世界恐慌を契機にブロック経済の利己的追及が表にあらわれ、どんどん緊張と対立の方向になだれ込んでしまった。それが結局世界戦争の悲劇に終わることはいうまでもない。自然災害とちがって、そういう選択を行った指導者の責任を、歴史家はちゃんと追求しているはずだ。2019年は、すでに世界は大国同士の利害のぶつかり合いと、軍事的緊張の方向にすすんでいることが誰の眼にもはっきりする転換点かもしれない。オリンピックに浮かれている国民は、歴史に翻弄されるだけの悲しい愚かな人民だとは思いたくないが…。
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逃げる人 高野長英13 脱獄! 「統計」問題

2019-02-21 09:18:49 | 日記
A.医者で蘭学者で牢名主で脱獄者
 今は犯罪事件が起こると、まず警察が捜査をして容疑者を割り出し、逮捕して拘置して取り調べ、調書を書いて検察に送り、検事が犯罪容疑を認めると起訴して裁判にかける、裁判では被告に弁護士がつくということはみんなが知っている。つまり、警察官と検察官と裁判官と弁護士は、それぞれ仕事と役割が違う。なにが犯罪かを決めるのは法律で、その法律や条例を決めたり変えたりするのは立法府、つまり議会の仕事で、その法律や条例にもとづいて実際に執行するのは行政府の仕事で、これが犯罪であれば警察が行い、裁判で有罪か無罪か、量刑をどうするかを決めるのは司法の仕事だというのも、三権分立という言葉で学校で習う。
 しかし、江戸時代はそれがちゃんと区別されていなかった。御法度という法律のようなものはあったけど、それは将軍様とかお殿様の名前で上から「御触れ」がいきなり降ってきて、事件の探索捜査も逮捕も吟味も刑の決定も、全部町奉行と目付と最終的には幕府の意志決定の要、老中筆頭(ときには大老)の考え一つで決まっていた。江戸の町奉行というのはつねに南町奉行と北町奉行の二人いて、べつに管轄区域が南北に別れていたわけではなく、交代で勤務することになっていたからだ。幕府の重職というのは二人制が基本で、京都所司代とか佐渡奉行とか長崎奉行とか、みんな二人いる。それが月ごととか十日ごとに、受け持ちを交代して人事は適当に入れ替わる。奉行は二千石とか三千石とかの大身の旗本で、出世コースだから能力のありそうな人物が町奉行に選任された。南北町奉行を両方務めたのは、前にも出てきた遠山景元、金さんだけ。
 天保十(1839)年に起きた「蛮社の獄」を取り仕切ったのは、目付の職にあった鳥居耀蔵で、鳥居は後に町奉行にもなった。永牢という判決を受けた高野長英は、小伝馬町の牢に入って弘化一(1844)年まで5年を囚人として過ごすことになった。

 「長英の入った牢は、小伝馬町にあり、表五間二尺、奥行五〇間、総坪数二六七七坪余あったという。そのまわりには高さ七尺八寸の練塀がめぐらされており、塀の上には忍びがえしがほどこされていた。門は西南に面し、その反対に裏門があり、裏門の外には堀があった。正門右側の塀にそうて役人の長屋があり、そのつきあたり南端に牢屋奉行石出帯刀の屋敷があった。牢屋は、奉行の屋敷と反対の西北部にあり、東西大牢二房、東西二間牢二房、百姓牢、揚り屋各一房、揚り座敷四房があった。牢屋敷の中央に、同心のつめ所、まかない所、薬煎所があり、東南部に首切り場があった。
 囚人は牢外の社会でしめていた身分に応じてそれぞれちがう牢屋にいれられた。揚り座敷は、お目見え以上の大身の旗本、御家人、大名の家臣、士分のあつかいをうける僧侶、医師をいれるところであり、ここに崋山はいれられた。無量寿寺順宣もここにいれられた。長英は、医師といっても藩医ではなく、町医者であるから、揚り屋ではなく、百姓町人の入る大牢、百姓牢などにいれられた。さらに無宿のものだけをいれる無宿牢がある。なぜ大牢、二間牢を東西二つに分けたかというと、喧嘩の仲間がたがいに殺傷して牢にいれられた場合、囚人を別々に収容する必要があったからだという(滝川政次郎『日本行刑史』青蛙房、1972年刊)。
 小伝馬町の牢屋は、未決の囚人、あるいは既決の囚人で、まだ遠島、斬首などの刑の執行のないものをおく場所であって、現代のように懲役とか禁錮の執行の場所ではない。だから多くの囚人はここに定着することがない。長英のように永牢を申しわたされると、自然に牢内で重きをなすことになる。幕府は各監房に一二人の役つきを任命して牢内の自治を計った。
 名主    一人
 添役    一人(病人の手当)
 角役    一人(囚人の出入りに気をつける。隠居)
 二番役   一人(右におなじ)
 三番役   一人(病人の手あて)
 四番役   一人(衣類の世話)
 五番役   一人(食物のあらため役)
 本番    一人(食物をはこぶ)
 本助番   一人(食物の容器をあらう)
 五器口番  一人(食事の世話)
 詰之(本)番 一人(便所の番をする)
 詰之助番  一人(便所の番と病人の世話)
 牢内の役人数は『牢獄秘録』によると、大牢は九〇人、二間牢は八、九〇人、揚り屋は三、四〇人から二四、五人、女牢は多い時で三〇人という(石井良助『江戸の刑罰』中央公論社、1964年刊)。
 牢内はせまいところに人が多くいれられているので大へんな苦しさで、崋山は獄中からの手紙で同囚の無量寿寺順宣の病気のときの苦しみようと、これに対する獄医のなげやりな投薬を怒って書いている。崋山のいたところはともかくも上級のもののおかれる牢屋だから、これにくらべて長英のおかれた大牢はもっと苦しいところだった。
(中略)
 蛮社の獄でこの牢屋につながれた八人のうち四人までが、わずか半年のうちにここで死んだのだから、大牢の暮らしがどんなによくないものだったかがわかる。死者はすべて大牢から出た。しかし、おなじ場所にあって長英は生きながらえた。満五ヵ年以上を大牢で過ごしたのである。このことは長英が医師としての活動、手紙その他の代筆、役人との交渉、裁判での弁明の仕方についての助言など、牢内の大衆の必要とする知識人の役割をよく果たしたことに由来する。それだけではなく、武士社会ではあまり評判のよくない長英は、しいたげられたものと無法者の社会においては、魅力のある存在であって、好かれ、信頼されていたようである。牢屋奉行石出帯刀は長英に心を配ったというが、牢内の無法者から嫌われているならば、それはかえっていじめられる原因となったであろう。長英には何の背景もなしにとおるだけの力がそなわっていたと考えられる。何よりも彼には、少年時代から、何度裏切られても、しょうこりもなく無法者を信じる力があった。
 獄中五年の生活は、すでに中年に達した長英にとって、自己教育の仕上げの場となった。ここで彼は、法外の人々の間にあって自分が生きることができるという自信を得たし、ここで生きることができるならば、日本のどこに行っても生きられるという一種の自在感をもったであろう。獄中の体験は、長英にとって拘束の場でもあったが、自由獲得の場でもあった。
 長英ははじめは添役、のちに牢名主となって畳二〇枚もらってその上にらくに寝起きするようになり、新入りの囚人のもってくる金をもらうなどしてかせいで、老母におくっている。かせぐだけではなく、遠島を命ぜられたものたちに餞別の金を送ったりなどもしている。さらに牢外の政治情勢に思いをめぐらして、それにあわせて自分を救いだすための策をめぐらし、天保一四年(1843)には幕府の政治に役だてるために獄中で万国地理学書百巻を翻訳することをねがいでたり、懲役囚のおかれた石川島の人足寄場に治療におもむくことを申しでたりした。
 しかし、天保一三年(1842)、長英入獄第四年目には鳥居耀蔵が町奉行となり弘化一年(1844)には、蛮社の獄当時の老中水野忠邦が一時しりぞいていたのにふたたび老中となり、長英の眼には前途が暗いものに見えた。」鶴見俊輔『評伝 高野長英』藤原書店、2007年、pp.235-241.

 江戸は火事が多く、牢獄もしばしば火事に遭い、そのときは囚人は一時解放されるが数日後町奉行所か指定場所に戻ることを言い渡された。逃げずにもどれば殊勝だと罪一等を減じられた。弘化一(1844)年六月、小伝馬町の牢が火事になり、長英は解き放しになる。決められた通り戻れば、罪は軽くなって牢を出られる可能性は高かった、はずだが、実はそうではなかった。

 「弘化一年(1844)一月から六月の間に、長英の心中に変化があった。それは突然の変化というよりも、少年時代に故郷を出てからゆっくりと熟してきた傾向の到達点だった。長英は、武士社会の法をまっこうから見すえて、これと対立して生きる道をえらぶ。長英の脱獄の目的は、獄内でいつか病死するよりも、獄外で生きのびるという道をえらんだものであろう。
 おなじ年の六月三〇日未明、伝馬町の獄舎が火事になり、慣例にしたがって囚人の切放になった。この時、牢屋奉行石出帯刀は次のように申しわたすしきたりがあった。
 途中神妙ニ分散致さず 私指図の場所へ立退き申すべし、もっとも申渡し相守り、立退候へば、元格これ有り、銘々御仕置筋の御寛恕もこれ有るべし、なほ、私よりも其の段急度相願遣す可き間、心得違仕らず、指図の場所へ参着すべし。
 指図の場所とは、両町奉行所のいずれか、または本所回向院であった。切放後三日間に定めの場所に来れば、『御定書百箇条』にきめてあるように、囚人の刑を一等減じることになっていた(石井良助『江戸の刑罰』)。
 『日本近世行刑史稿・上』(日本刑務協会、一九四三年刊)によると、切放は、一五回おこなわれている。長英の時とそれ以後の四回をのぞき一一回の先例があったわけだから、牢名主として牢獄の慣例に通じている長英が、指定の場所に帰ってからの寛容な処置について知らなかったわけではないだろう。
 現に長英の同時代人でありおなじく蘭学者であり、おなじように鳥居耀蔵におとしいれられた砲術家高島秋帆は、入獄中に三度の失火(天保一五年六月三〇日、弘化二年三月二七日、弘化三年一月一九日)に際してたちのき、ふたたび帰ったために罪一等を減ぜられ、中追放となっている(有馬成甫『高島秋帆』吉川弘文館、1958年刊)。
 中追放とは、武蔵、山城、摂津、和泉、大和、肥前、東海道筋、木曽路筋、下野、日光道中、甲斐、駿河にたちいれないということである。この判決をうけるまでに、秋帆は四ヵ年辛抱したのである。秋帆に例をとらずとも、『御仕置例類集』(名著刊行会、1973年刊)を見ると、文政一二年(1829)に無宿者権八が死罪申しつけられるところ類焼に際してたち帰った故に重追放、湯屋で盗みをはたらき入墨の上百日過怠牢を申しつけられた遊女若松は釈放、おなじ年に無宿者清吉は先に入墨されたのち盗品を身につけていたから死罪にあたいするが重敲にかえられるというふうに、罰を軽くされている。
 刑が永牢から一等減ぜられて、重追放あるいは中追放ですむであろうというのに、なぜ長英は、かえらなかったか。それは、『嘉永雑録』所収の記録の示すように、彼自身が計画して、牢内雑役夫・栄蔵に金一一両をわたして牢屋に火をつけさせたからであろう。
  (中略)
 二つの牢から仮に出された囚人は六三人、この中、全体をひきいる牢名主の長英は、たちかえらざる七人の中の一人となって消えたのである。
 「高野長英御裁許写」には、とらえられた時の栄蔵の自白にもとづいて、次のような役所の判定がある。
 同年(弘化一年)六月中、牢屋敷へ立入候栄蔵と申者え金拾壱両差遣し、品々獲能同人を申透し置、長英儀は逃去行衛相知不申、怪火一条に付栄蔵召捕に相成、高野長英より被頼附火候趣申立候
 これらの史料をほりおこした上で南和男は次のようにつけくわえる。
 「また長英はいかにして栄蔵と『馴合』ったかに疑問を感じるむきもあるかも知れない。しかし長英は入牢三年目の天保一二年(1841)以来牢名主である。牢名主の地位と権限からすれば牢屋下男はもとより雑役のとの接触はきわめて容易であり、牢外との連絡はもっぱら彼らの手をへていたのであるから少しも不自然ではないのである」
 牢を出た長英のむかうところは、敬愛する小関三英、渡辺崋山を欠く武士社会の蘭学社中ではなく、かつて彼に救荒ニ品種を示した村医柳田鼎蔵、福田宗禎、『避疫要法』を編集した村医高橋景作、獄中で知りあった宿屋主人田村八十七の住む上州であった。
 後世から見ると、長英の行動の前提となった歴史的判断はまちがっていた。彼の脱獄からわずかに一年後の弘化二年(1845)に老中水野忠邦はやめさせられ、町奉行鳥居耀蔵は終身禁錮されてこれより三十余年、世に出ることがない。長英はあと一年辛抱すればよかった。この後の六年間に、長英には兵書の翻訳のほかにほとんど見るべき業績はないのである。しかし、後世から見て彼の判断が現実にあっていたかどうかを言うのではなく、彼が生きていたその時の状況を彼がどのように生きたかを見る時、法にしたがわないで生きる道をえらんだという彼の判断が一つの思想として私たちの前におかれる。そこには知識によって尽くせない思想の機微がある。」鶴見俊輔『評伝 高野長英』藤原書店、2007年、pp.245-251.

 長英は脱獄した。当局の手を逃れて潜伏生活に入った。



B.統計を軽視した日本政府
 人口統計の歴史は古い。為政者が人民から税を取り兵役・労役に刈り出すには、まずどこにどのくらい人間が住んでいて、そこでどのくらい収益があり子どもが生まれ若者がいるかを把握する必要があるからだ。古代ローマ帝国は広い支配地域でセンサスという人口統計を行った。日本でも、律令制の基盤は村単位で戸籍を作って租庸調をはじき出す必要があった。帝国が崩壊して統一した人口統計は難しくなったが、ヨーロッパ中世はそのかわりに教会が生まれた子どもを台帳に記録し、死ねば葬儀と一緒に記録した。日本でも、江戸時代は寺が記録する宗門人別帳と、村や町単位で住民を把握した。統計とは、政治行政の基本となるデータで、19世紀の終わりごろには、人口のみならず先進各国で政府が定期的に各種の統計をとるようになった。統計が整備されるようになると、社会の正確な実態は統計によって科学的に明らかになると信じる近代統計学が一種のブームになった。しかし、官庁がとる統計は、行政機関や企業などに調査票を配って記入を依頼するものが多く、最大の人口統計「国勢調査」でも、かつてのように町内会などから調査員を出して住民全員を漏れなく調査することは、個人情報保護の面からもなかなか難しくなっている。
 今回問題になった「毎月勤労統計」は、事業所単位で給与等の額を調査するもので、法律上はすべての事業所で調査することになっているが、東京などの大都市は全数調査するには手間と費用がかかりすぎるという事情で、小規模事業所を中心に一部を抽出する標本調査でデータが取られ、対象事業所もときどき入れ替えていたという話である。現実的に調査不可能だからやむをえず、という理由は、法を改正し公表してやるべきで、厚生労働省内部で勝手にやっていて上層部は知らなかった、みたいなお粗末な事態がだいぶ前から行われていたことが明らかになったようだ。

 「雨降って地固まるために 
 正確な統計を作り、これを活用していくことは、経済政策を立案・評価する上で最も重要な基盤である。今回、毎月勤労統計を巡る問題によって、その基盤に多くの問題があることがわかってきた。統計についての関心が高まっているこの機を生かし、統計を整備・充実させていってほしいものだ。
 しかし、国会の議論を聞いていると、統計の論議は一過性のものに終わり、建設的な統計整備にはつながりそうにない予感がする。
 野党は、連続性を保つために行われている「継続事業所ベースの実質賃金のデータを公表せよ」と迫っているのだが、厚生労働省はかたくなに拒んでいる。公式統計では2018年の実質賃金の伸びがプラスだが、継続事業所ベースではこれがマイナスになる。野党は、マイナスという結果を出したくないので厚労省が公表を拒んでいるのではないかと疑っている。
 この議論で不可解なのは、隠す意味が全くないことだ。名目賃金の伸びは誰でも簡単に計算できる。これほど分かりきったことを公表しないのはなぜなのか、全く理解に苦しむ。
 これは野党の主張が正しいと思うが、逆に言うと、分かりきったことを政府が公表したからといって、事態がそれ以上前進するわけではない。
 野党は「平均賃金がマイナスだったのだからアベノミクスは成果をあげていない」と攻めたてている。しかし、この平均賃金は、必ずしも平均的な労働者の賃金の動きを表しているわけではない。
 人手不足が深刻化する中で、企業は女性や高齢者、外国人などの非正規雇用を増やしている。非正規雇用は賃金水準が低いから、その比率が高まると平均賃金は下がってしまう。日本の平均賃金の伸びが低かったりマイナスになったりするのはこのためだ。
 こうした議論を繰り返していては、議論はたちまち行き詰り、一過性に終わる。「雨降って地固まる」は期待できそうにない。
 国会の論議は「責任追求型」「資料要求型」「アベノミクス批判型」に偏りすぎている。「正確で公正な経済統計を整備するにはどうしたらいいのか」という視点を重視してほしい。 (隅田川)」日本経済新聞2019年2月19日朝刊19面。

 いったいこれで、統計の信頼性は大丈夫なのか?と国民は思うし、雇用保険や年金、最低賃金などそれで不利益を受けた人が出てしまったと聞けば、政治問題にもなるだろう。なにか政権がアベノミクスに都合がいい数字を操作したのではないかと、野党は追及しているが、政治家や省庁幹部が指示したとは思いたくない。それはやってはいけないことは当たり前だから。統計の根本が信用できなくなるのだから。

 「独立組織に集約も一案 富士通総研エグゼクティブフェロー 早川 英男氏
 日本の統計部署の劣化が浮き彫りになった。厚生労働省の毎月勤労統計で賃金の伸び率が実態より高めに出ていた点について「安部政権への忖度(そんたく)だ」との指摘もあるが、厚労省の統計部署は忖度できるレベルでもなかったと思う。抽出調査を適切な処理で復元すらしかなかったのは、統計担当者が統計の初歩や基本を分かっていなかった証左で、ここまで劣化していたのかと衝撃だった。
 ただ、問題は今に始まったことではない。統計部署は人も予算も削られる一方で、各府省がそれぞれ統計を実施する「分散型」のため、集約して効率化すべきだとの議論は以前からあった。司令塔として総務省統計委員会の権限強化が進んだが、十分役割を果たしているかどうか。総務省自体も多くの統計を作っており、精度などに課題がある統計も少なくない。その総務省に、司令塔機能を含めて統計機能を集約するのが最も良いやり方か検証が必要だ。
 抜本改革をするなら人も予算も充分に手当てした「中央統計局」のような独立組織をつくるのが一案だ。統計の専門機関として、統計の作成や改善、新たな手法の開発に専念する機関だ。ただし日本は統計の専門家が少なく、現状では人材の手当てが非常に難しい。長期計画、例えば20年計画で人材育成を含めた体制整備を進めるべきではないか。数年単位の付け焼刃の改革では同じ問題が起きる。
 改革は時間がかかる。日銀は20年ほど前に統計に対する考え方を変えた。かつて統計部署は上層部への結果報告を優先する風潮があった。幹部への報告のために大量の資料も用意されたが、その労力は統計改善に使うべきだと叱ったこともある。一般公表する前に幹部に報告する仕組みはやめ、統計部門はあくまで統計作成や改善が主務と明確化した。女性を中心に統計専門の職員も育成し、育ってきていると思う。こうした改革は時間がかかるものだ。
 かつて日本は優れた統計を持つ国として世界に知られていた。だが改善を怠る間に、昔の社会に合わせて古い仕組みで設計された統計は実態に合わなくなった。イノベーションや新たな価値の創造が苦手という日本の弱点は、企業に限ったことではなく統計現場にも当てはまる。
 例えば消費実態と乖離しているとの指摘が多い総務省の家計調査も、専業主婦が家計簿をつけていることを想定して継続している点が問題だ。今は夫婦で所得や支出を把握していない家庭もあるのに、世帯ごとの家計簿形式で調査する「前近代」のやり方は適切なのか。時代の変化に合わせて統計の手法は変わるものだ。
 財務省の法人企業統計も、国内事業が中心だった時代に設計された。今や海外に事業所がある企業も多いが十分に統計に反映されているのか。50年前にはふさわしいやり方だったとしても、時代に対応しなければどんどん実態とずれてしまう。前例踏襲は劣化につながる。
 世界の統計手法も学び改善を続ける仕組みを考えなければならない。 (聞き手は中村結)」日本経済新聞2019年2月19日朝刊6面オピニオン欄。

 日経の記事には早川氏は、1977年東大経卒、日銀入行。2001年には調査統計局長を務め、09年に理事。13年4月から富士通総研に移り、経済・金融政策を分析している。64歳とある。ご指摘はごもっともだが、ビッグデータとITの時代、社会の変化を正確に捉える統計の手法そのものが、これまでとは変える必要があるのかもしれない。
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逃げる人 高野長英12 庄内人小関三英  同性婚と法

2019-02-19 13:14:56 | 日記
A.長英と三英
 高野長英の著作は多岐にわたるが、天保四年(1833)の大飢饉に触発された蘭学サークル「尚歯会」での議論から、天保七年(1836)に書かれた『二物考』は注目される。これは気候不順でもよく実る早そば、ジャガイモの二種をつくって米麦にたよらずに代用食をとって飢饉をきりぬける方法を書いたもので、その植物の性質、栽培法、調理法についてはオランダの書物をひいて細かく説明している。このなかの挿絵は渡辺崋山が描いていて、実用パンフレットの図解を当代一流の画家が描くなどと今ではありえないことだという。
 文化文政(1804~1830)・天保(1831~1845)という時代は、将軍は第11代徳川家斉、そして12代徳川家慶の治世。長く将軍の座にあり、家慶に将軍を譲った後も実権を握っていたといわれる家斉は、16人の妻妾を持ち、男子26人・女子27人を儲けたが、成年まで生きたのは半分(28名)だったと言われる。この時期に、蘭学や国学が発展し、とくに蘭学はオランダ語を介して西洋事情が医学だけでなく、さまざまな実用的知識も輸入され普及する。高野長英は、そのトップランナーであった。だからこそ、旧来の朱子学を堅持しようとする幕府内の保守派にとっては、潰しておきたい勢力とみられた。

 「高野長英の散文は、少年のころの手紙においてさえ、事実のぎっしりつまったもので、それを今日の会話体にもどせば、誰がこう言って自分はこう言ったという脚本のように読めるような性格をそなえていた。序文などは、漠然とした情緒を表現することがむしろ普通であるのに、事実と論理でひたおしにおしており、今彼をとりまく日本の必要にこたえるために彼のもっている全知識を駆使するというふうである。
 本文(『二物考』:引用者註)に入ると情緒漠然たる漢字成句はすっかり影をひそめ、やさしい言葉で、必要な事実のみをつたえる。
   早熟蕎麦 和名 ハヤソバ サンドソバ ソウテイソバ 
 ○此ノ蕎麦(ソバ)ノ種子(タネ)ハ其始メ何レノ地ニ産出スルト云コトヲ詳ニセズ。近歳民間(コノゴロセケン)之ヲ伝エテ処々ニ之ヲ播種(ウユル)ス。茎葉倶ニ蕎麦ニ異ナルコトナシ。唯其実大ヒニシテ且ツ早ク熟スルノ性アリ。故に一歳ノ中ニ三次(ミタビ)成熟(ミノル)スルナリ。漢名未ダ詳カナラズ。仮リニ之ヲ名ケテ早熟(ハヤ)蕎麦(ソバ)又三度(サンド)蕎麦(ソバ)ト謂フ 
 このように、漢字のとなりに日常語をかなでふって、誰が手にとっても、肝心のことはわかるようになっている。形の美しさにこだわらず、達意を目的とする実務家の文章である。とにかく急場の用にたてばよいとした。その故にかえって古典としての味わいを保っている。
 このあと、培養(ヤシナイ)貯蔵(カタ)、食用(クイカタ)、醸(サケニ)酒(ツクリカタ)、性質(セウライ)、異種(カワリタネ)をねんごろに説明し、さらに馬鈴薯をとりあげて、おなじく各項目にわけて説明する。
 こういう文章は、普通には日本文学史にとりあげられることはないが、虚心に人間の文章史として日本人の書いいてきたものをふりかえるとすれば、『二物考』は日本人の書いた大文章の一つと言えるのではなかろうか。
 おなじ年に書かれた『避疫要法』は、あとがきに飢饉にさいして疫死者が餓死者に10倍するほど出るのを高野翁がうれえてこの小著を書いたとあり、「内田恭(弥太郎)書、門人 上毛 高橋景作 校」とある。この小冊子の編集にあたった高橋景作は、『二物考』の早蕎麦を見せた福田宗禎とおなじく上州の医師であり、飢饉と伝染病に苦しむ農民の間をまわって治療して歩く「はだしの医者」である。この高橋景作もまた、脱獄後に長英を長くかくまうことになる。天保の飢饉にさいして長英の書いた二つの小冊子が、ともに幕臣でも藩臣でもない上州の村医との協力によって書かれたことは注目にあたいする。
 長英は、岩手の飢饉の知識からおして疫病の対策を早くから考え、『瘟疫考』全二冊を、天保七年(1838)にあらわしたが、医者でなくとも誰でもがすぐに応用できる手引き本とし、さらに『避疫要法』全一冊を天保七年に書いた。
 但し此は凶饑(ききん)の年悪食(あくじき)の後流行する疫熱を治する方中にて尤(もっと)も簡単なるを選み平人の手に用ひて害なき薬のみを記したれば概して此薬を以て諸疫を治し難し。然(しか)れども此方法は諸疫熱倶(とも)に其初に用ひて良効あれば、何疫なりとも恐るゝことなく速やかに用ふべし。軽症は此にて忽(たち)まち全治することを得べし。今其他の疫熱の治法は急務に非ずして又此小箋にて詳示し難ければ、別本に記して此に略するなり。観ん人、其(その)足(たら)ざるを咎(とが)むること勿(なか)れ。
 内容は、まず病人の気力のおとろえぬうちに腹中の汚物をのぞくべきであり、吐き薬を使うか、それがない時はなまぬる塩湯を数盃のんで鳥の羽さきをのどにいれて吐けという。軽い病はこれだけでなおるし、重い場合にも、はじめにこうしておけば、死は避けられるとした。他に、疫病の人を訪問するにはどうしたらよいか、病人の部屋は窓をときどき開けて空気をよくすべきだとか、死んだときにすぐ埋葬してそのあとは掃除し窓からよい空気をいれることなどの指示がある。誰でもできることばかりで、とくに専門医にたのむ必要はない。
 これらの小冊子を書くことは、長英にとって、幼年期以来心にかかっていた心配に答えることであり、自分が努力してたくわえてきた知識をいかすことであって、自分本来の仕事と考えられたであろう。もう一つの系列に属する小冊子『夢物語』が原因となって獄につながれた時、自分の本来の道からはずれたことをくやむ気持が長英になかったとは言えない。獄中手記『わすれがたみ』に「然れ共、我夢物語に死する、遺憾なきに非ず」と書いたのは、もとより蘭学社中への弾圧を不当としたのであろうけれども、同時に、自分がもっとも効果的に社会につかえることのできた道すじをはなれて、直接に政治を論じる文章を草したことへの後悔もくわわっていたであろう。長英の政治的著作を全体として見る時、『夢物語』は、当時ももっとも長英の名をたかくした作ではあるけれども、『二物考』『避疫要法』の二つの小冊子のほうが、重要なものではないだろうか。
 長英にとって吉田長叔塾の先輩にあたる人に小関三英(1787~1839)がいた。彼は山形県鶴岡の生れであり、長英より一七歳年長だった。吉田塾入門は文化一年(1804)であり、その後、故郷鶴岡にかえり、また仙台藩医学館蘭方科で教えたりしていたので、文政四年(1821)に吉田塾に入門した長英との交際はまだなかったと見られる。二人が会ったのは、三英が江戸に出て来た天保二年(1831)以後のことであろう。一度会ってからは、当時の蘭学者はたがいに助けあうことを必要としたから親しくなっただろうし、同じ東北出身ということ、おなじ吉田長叔塾出身ということもその親交を深めたであろう。
 三英は、長英の後援者でもあった薬種商神崎屋の助けをうけ、幕府の蘭方医桂川甫賢の家においてもらって、直接に患者をみることなく、ただ蘭学の研究にうちこんでいた。天保三年に岸和田藩の藩医となって七人扶持金五両をもらい、天保六年には幕府天文台の蘭書翻訳方を命じられて一ヵ年銀一〇枚をうけた。杉本つとむによれば、三英はモリソンの『中英辞典』を使っており、のちに天文方渋川六蔵の発表した『英文鑑』のもととなった蘭訳英文典および文法用語を翻訳した。日本で英語を研究した最初の人の一人であるという(杉本つとむ「補訂論考」『小関三英伝』敬文堂、1970年刊)。
 この三英は幼い時におおやけどをしてびっこになり、また顔かたちがオランダ人に似ていて「カピタン」とあだ名されるほどの異相だったので、あまり人中に出ることを好まず、語学の研究とともに西洋史の研究をしてリンデンというオランダ人の書いたナポレオンの伝記を翻訳したりした。不眠症をやみ、神経質だった。彼は天保二年四月一六日、渡辺崋山を訪問し、その学究肌であるところを気にいられて、オランダ語の不得意な崋山に文献の翻訳をたのまれた。イエスの伝記について翻訳していたことが、蛮社の獄にさいして、追及されるであろうと察して、天保一〇年(1839)五月一七日自殺した。
 長英は獄中手記に、この友人の小伝を書いている。それは、小関三英の肖像としてすぐれているだけでなく、長英が三英をいたみつつ、三英と自分がどう違うかを示唆している文章として読むことができる。
  篤斎(俗名小関三英)は、出羽庄内の産へにて、壮年より蘭学に入り、自ら刻苦して蘭書を攻め、遂に蘭社の一名家となれり。好んで西洋の歴史を修む。又蘭文に妙を得たり。従来足疾有て、其上不寝歎息の病有れば、東奔西走して刀圭の業(医術)をなし難く、専ら翻訳・教授を業とし、和蘭の学医を立て、先の年岡部公に使ひて侍医となり、近頃司天台に召れて、兼て、官の和解方を勤めける。元来篤実堅固の生れなれば、法を犯す事なかりしに、蘭書中、あれこれ翻訳して花山翁に与し事もありなん。我等と交り殊に深かりしかば、讒者の訴へにて逃れ難く、又御不審を蒙りけり。去共中々獄内に入る程の事とは思はれざりしに、無二の交深き我儕、はや獄内に引れ、世間の取沙汰喧びすしく、蘭学者は不残召れん、篤斎も今にも囚れんなど、取々罵りけるにぞ、常さへ不寐の病に悩み、夜毎に阿片酒など用ひ、漸々に安眠する身なれば、獄内に在ては、迚も存活し難しと察しけん、元来余りに実直小胆なる生れ成し故、偏へに世評を信用し、はやまりて遂に自殺しぬ。嗚呼天下の一名匠、此に至て亡び我骨肉と盟し親友、卒然と逝ぬ。可惜とも可悲とも詞は絶てなかりけり。常々酒席の談話に、死生は齢を以て論じ難し、吾汝誰か早く死し、誰か後に残らんや、予じめ期し難し、斯断金の交りなれば、相互ひに死に残らん者は、死せし者の碑文を勒す約せしが、今碑銘を勒すべき者は我身と成て、斯風前の燈、網中の魚に似て、今にも知れぬ身の有様社、定め難き世中也。(佐藤昌介校注、高野長英 『わすれがたみ』日本思想体系55より)
 三英を評して「余りに実直小胆なる生れなりし故」と書き「偏へに世評を信用し、はやまりて遂に自殺しぬ」と書く長英は、自分を実直小胆と見ていないようであるし、自分ならば人がどううわさをしようと、そういう他人を無視して自分の信条をとおして生きるであろうと考え、早まって自殺などすまいと心に誓っていたであろう。三英は、長英を、渡辺崋山に紹介したもようである。以後、三英と長英とは、オランダ語の文献についての崋山の主要な情報提供者となる。」鶴見俊輔『評伝 高野長英1804-50』藤原書店、pp.221-226.

 渡辺崋山は蘭学社中弾圧の「蛮社の獄」の標的になったが、オランダ語は読めなかった。長英や三英は武士の生まれとはいえ、蘭方医塾から出て語学を駆使する民間研究者という立場であったのに対して、崋山は小藩とはいえ三河田原藩の家老であり、画家でもあり江戸の知識人サークルの後援者だった。江戸という都市は、全国各藩の屋敷が集まり、大名旗本から下級武士まで、経済力のある町人や遊芸職人、多様な知識を求める文化サークル「社中」の中心でもあった。



B.家族と婚姻の無理
 一対の男女が婚姻して子を産み、血縁を基本とする家を継承するという「常識」が、民法に書かれたのは、1898(明治31)年の明治民法制定とされる。一家を代表する家長は、基本的に男性で、その継承も男系男子が想定されていた。跡継ぎに嫁をもらって、正妻が生んだ長男が次の代の家長になることも当然視された。婚姻には親の許可が必要とされた。ただ、正妻に男子がない場合も少なくなかったから、正妻以外に内縁の妻がいたり、養子をとることも珍しくなかった。
 戦後の日本国憲法では、婚姻を望む両性の合意によってのみ結婚が届け出で成立すると変わったのは大きな変化で、民法の婚姻規定も大きく変わったはずだった。家族のありようは、これで家を基本とした戦前とは異なる形になるはずだったが、人々の意識や慣習はそう簡単には変わらなかったともいえる。そして21世紀の現在、婚姻も家族も民法が想定していなかった事態が、すでに現実になっている。

 「同性婚と婚姻制度  宮子あずさ
先週、十三組の同性カップルが同性婚を認めない民法などの規定は憲法違反だとして、四か所の地裁に一斉提訴した。報じられる原告の声には、互いへの愛情が感じられ、心が温かくなった。
 自治体レベルのパートナーシップ制度の広がりは喜ばしいが、これですべてが足りるわけではない。国レベルの公的な制度では、婚姻関係が前提のものも多い。特に病気に関連する不安については、私の体験からも、もっともだと思う。
 まず、病気で働けなくなっても、税制上の扶養家族になれず、相手の健康保険にも入れない。また、治療方針の決定や病状説明など、シビアな状態になった時、どこまで正式な伴侶として扱われるかは、医療機関ごとの判断に委ねられてしまうのが現実である。
 今、ドメステイックバイオレンス(DV)や子どもの虐待など、家庭内の暴力が大きな問題になっている。そのほとんどが異性婚の中で起きている。同性婚に偏見を持ち反対する人は、この事実をどう考えるのだろう。
 一方で、血縁や婚姻にこだわらず、血縁以上に近しい他人と助け合う人も増えている。こうした関係をどのように取り扱うかも要検討だ。
 こうした見方に立てば、血縁と婚姻関係の絶対視にも違和感がある。多様な婚姻が認められた先には、血縁・婚姻以外の関係にも、寛容な扱いを求めたい。 (看護師)」東京新聞2019年2月18日朝刊、21面本音のコラム。

婚姻関係のことが気になったので、日本の明治民法下での結婚がどのようなものであったかを、ちょっと調べてみた。婚姻の成立要件は、
〇 男は満17年、女は満15年に達したこと、
〇 現に配偶者をもっていないこと、
〇 女は前婚の解消または取消の日から6か月を経過したこと、
〇 姦通によって離婚または刑の宣告を受けたものは相姦者と婚姻ができないこと、
〇 直系血族間、三親等内の傍系血族相互間の婚姻でないこと、
〇 男が満30年、女が満25年に達しない間は家に在る父母の同意を得ること、
〇 家族は戸主の同意を得ること、
〇 市町村長に届出をおこなうこと、などである。
市町村長に届出をおこなうことという要件を欠くときは婚姻は無効であるが、その他の要件を欠くときは取り消し得べきものとなって、法律所定の者が裁判所に取消の訴を提起することができる(改正前民法780条)。
婚姻の取消はただ将来にむかって婚姻を消滅させるのみで、その効力は過去に遡らないから、婚姻が取り消されてもすでに夫婦の間に生まれた子があれば、依然として嫡出子である。
婚姻の効力は、
• 夫婦間に配偶者としての親族関係を生じること、
• 夫婦は互いに同居の義務および扶養の義務をもつこと、
• 夫(入夫婚姻であれば女戸主)は婚姻中の費用および子女の養育費を負担する義務をもつこと、
• 配偶者の財産を使用収益する権利をもつこと、
• 夫は妻の財産を管理すること、
• 妻が重要な法律行為をするには夫の許可を得なければならないこと、
• 日常の家事については妻は夫の代理人とみなされること、などである。
一夫一婦の共諾婚が定められ、かつ婚姻は市町村長に届出ることによって効力を生じるとして、厳格な法律婚主義が採用された。なお、夫婦同氏の原則が定められたのは1898年(明治31年)の明治民法制定以降である。それ以前は、「婦女は結婚してもなお所生の氏(婚姻前の氏)を用いること」、すなわち夫婦別姓が原則であった。

なるほど、家族の成り立ちや親子、夫婦、親族のあり方も、不変であったかのように思っている人が多いが、20年、30年という時間のうちで実はかなり変動してきたし、これからも変わっていくと考えた方がいい。ただ、法律というのは簡単に変えられない。
戦後の婚姻には、まず実質的要件として婚姻意思の合致が必要である。日本国憲法第24条1項は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」と規定する。「婚姻意思」とは何かという点については、婚姻という身分行為に必要な届出をなす意思であるとする形式的意思説もあるが、通説は婚姻届出を出す意思を有するとともに社会通念に従って夫婦と認められる生活共同体を創設しようとする意思をいうとしている(実質的意思説、実体的意思説)。婚姻意思が存在しない場合(婚姻意思の欠缺)の婚姻は無効である(742条1号)。
日本では婚姻適齢につき男女間で2歳の差があり、これは女性のほうが成熟が早く統計的に平均初婚年齢が女性のほうが若い点などを考慮したものとされるが、これが現代においても合理的と評価できるかは疑問とされる。婚姻適齢につき「民法の一部を改正する法律案要綱」(平成8年2月26日法制審議会総会決定)では男女ともに満18歳とすべきとしており、2009年7月の法制審議会の部会は男女ともに18歳に統一すべきとの最終答申が報告された。

 同性婚という形態も、諸外国の動きとしてはしだいに認められる方向にあるといわれる。日本もLGBTの当事者が声を上げるところまではきた。でも、戦前の家制度や家父長制的価値のような規範が、望ましいものと考える人もいて、ことあるごとに同性婚は行き過ぎた個人主義からくると否定的な反応をする。国民の間に広く議論がなされ、法律を変えるところまでくるには、まだ時間がかかりそうだ。
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