A.海防の急務にどう答えるか?
高野長英が小伝馬町の牢にあって牢名主だった天保11(1840)年、中国沿岸では清国とイギリス艦隊の間で戦争が始まっていた。いわゆる阿片戦争は、清とイギリスの間で1840年から2年間にわたり行われた戦争。インドで製造した麻薬アヘンを清にもちこんで大儲けをしていたイギリスに、アヘンの蔓延に危機感をつのらせた清がアヘンの全面禁輸を断行し、イギリス商人の保有するアヘンを没収・焼却した。これに反発したイギリスは、艦隊と兵士を清国沿岸に送り、各地で戦争となった。艦船と火力に勝るイギリスの勝利に終わり、1842年に南京条約が締結され、イギリスへの香港の割譲ほか、清にとって不平等な条約となった。獄中とはいえ、手紙や書物も読めた長英には、中華帝国を誇った清国の屈辱は他人事ではなかっただろう。
長英が罪に問われた『夢物語』自体、米国船モリソン号が日本人漂流民を送り届けに来たのを、幕府が打ち払ったのを批判したこと、「蛮社の獄」の口実も小笠原諸島への渡航計画に結びつけるなど、日本沿海に外国船がしきりに出没する状況への見当ちがいな蘭学者弾圧だった。海外諸国、とくに西洋列強のアジア進出の正確な情報は、鎖国日本では蘭学者以外からは得られない。アヘン戦争の結果は、空想に過ぎなかった日本への侵略という可能性が、さすがの幕閣にもリアルと感じさせた。
水野忠邦失脚後の幕府で、老中になった阿部正弘ら開明派も危機感を募らせ、海岸防備を急ぐよう諸藩に呼びかけ、江戸湾をはじめ主要な港湾の周囲に砲台を築き、離島にも城塞や砲台を築こうと動きだした。ただ、西洋式大砲や砲台がそう簡単に作れるわけではなく、軍事に関する蘭学者の知識は不可欠になる。そうこうするうち、嘉永六(1853)年浦賀にマシュー・ペリーのアメリカ海軍東インド艦隊がやってきて通商を迫る事態になる。いよいよ黒船が日本に大砲を撃ちこむ事態が現実になった。その時すでに高野長英はこの世になかったのだが、生きていれば「だから言ったじゃないか、今頃じたばたしても遅い」と思っただろう。
結局、各地の湾岸砲台が完成したのは、和親条約・通商条約で「開国」してしまったもっと後で、東京湾に残る「お台場」や函館の五稜郭(元治元年(1864)竣工)、五島列島の福江城(文久3年(1863)6月に完成)などは、もう幕末動乱のさなかで別の目的に使われてしまった。ただ、ペリー来航以前の弘化・嘉永期にも、すでに海外情報に敏感で砲台大砲築造に積極的に動き出していた人たちがいた。蛮社の獄で狙い撃ちされたサークル「尚歯会」のメンバーだった韮山代官江川英竜、旗本羽倉外記、川路聖謨などは活躍の場を回復するが、もっと有力な国防策を実行したのは「蘭癖大名」薩摩の島津斉彬、佐賀の鍋島閑叟、そして宇和島の伊達宗城だった。彼らは実力のある藩主であったから、蘭書を買い集め翻訳させ、技術者を召し抱え、西洋式の蒸気船や大砲砲台を実際に作った。全国指名手配のおたずね者、高野長英をこっそり宇和島に呼んで仕事をさせたのも、殿様だから可能になった。
「長英宅での授業は、はじめにオランダ語文法、次に『三兵タクチーキ』のオランダ語原文一字一字について講じてもらい、これをおぼえこんで、それぞれが帰宅して、宿題としてこれを日本文に訳して、翌朝持参して長英になおしてもらうこととした。はじめは朝早くから正午まで毎日通学することにした。あとになると授業時間が延長され、往々にして夕方まで稽古をした。長英は英語はできなかったが、そのころ伊達宗城が幕府からかりてきていた英語字書が藩の文庫にあったので、これを使ってオランダ語の本にひかれている英語をも読みくだしていた。
長英はオランダの兵学者スチルチイスの著書を訳して『砲家必読』11冊をあらわした。これは人目をはばかって、「谷簡、土与、野輔」の三人の著としてあるが、谷、土居、大野三者はただ清書しただけで、まったく長英の執筆にかかるものと、土居は証言している。清書も三人にて手わけし、できあがるとすぐ藩公に差し出したものだから、土居たちはその一部さえもっていなかった。後年になって大野昌三郎が、東京の本屋でその古写本を見たそうだと土居は書いている。宇和島藩では大いにこの本を使ったらしく、全11冊中の一冊しか今日では残っていない。
作家貴司山治は、昭和のはじめに小説の材料をさがすうちに、神田の古本市で一山三円の雑書の間から、『砲家必読』11冊の完全なひとそろいを買って、この本を四〇年間も座右においていたという(貴司山治「高野長英の烏有本」「毎日新聞」1968年6月11日)。
長英は、宇和島から南に11里ほどはなれた、土佐に近い深浦湾に、砲台をつくる計画をして、嘉永一年(1848)一一月二二日から一二月一日にかけて一〇日程の調査旅行を試み、測量に従事した。御荘村のテンギ(天岐とも天儀とも書く)というところである。この砲台は嘉永三年四、五月ごろに完成した(菅菊太郎「御庄久良台場と高野長英」『伊予国南宇和郷土史雑稿』1938年刊)。
御庄砲台の下見旅行にさいして長英に同行したのは、砲術家板倉志摩之介、松田源五左衛門であり、他に長英門人土居直三郎もいた。この中の松田源五左衛門が、宇都宮九太夫とともに奉行となって安政二年(1855)三月から一二月にかけて宇和島湾に樺崎砲台をつくった。この時には村田蔵六(大村益次郎)がまねかれてここに来ており、長英の『砲家必読』を大いに活用して、この砲台をきずいた。長英の書物はいつも空論ではなく、それを読んで実地におこなえば、現実に何事かが成就するという、いわば地図の如き性格をもつ論文であった。そのためにかえって珍蔵されることなく、つねに流用され藩の文庫からも失われたのだろう。
樺崎砲台には大砲が五門すえつけられたというが、これらは実戦に使われる機会はなく、ただ一度活用されたのは、慶応二年(1866)、宇和島をイギリスの軍艦がおとずれた時であり、この砲台が礼砲をうったということが、アーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』に見える。
もう一つ、長英が宇和島でしたのは、司書としての仕事である。伊達宗城は長崎からかなりの数のオランダ語の本を買ってもっていた。それらを自由に読みこなす人は、まだ宇和島の蘭学社中からは出ていなかったようである。長英は、蘭書の文庫に目をとおして、どの本に何が書いてあるかの摘要をつくり、どれだけの本が藩の見地から言って翻訳を必要とするかの見つもりをつくることを頼まれた。
『高野長英全集』には、長英が伊達宗城あてに出した「訳業必要の書籍目録」全一冊というのが入っている。これは、長安が必要と考えた書物の表であって、オランダ語、ドイツ語、フランス語、英語の辞書ならびに文法解読書からはじめて、代表的と思われる陸軍兵書、騎兵教練法、築城術、水戦兵書などの名をあげてある。辞書類一四部、兵書類は四部にわかれ、この時の長英に課せられた仕事が兵書の翻訳にかぎられていたことを示している。辞書類は、ヨーロッパの兵書の翻訳に欠かせないので、必要とされたのである。長英自身の関心が、これほどに兵書だけにこの時期に限られていたとは信じがたい。
すでに買ってある本の分類をまかせられる彼の百科全書的な関心は自在に動きはじめた。
宇和島の伊達記念館所蔵の高野長英関係資料として見せていただいたもののうちに、三つの書物目録があった。その中でもとくに「蘭書目録」とある巻紙には、原書名を記した上に摘要を記した付箋がはりつけてあり、「一 チュツケイス著述 千八百十九年 アールドレイクスキュンデ 五冊」からはじまり、「プロヒショナール レグレメント 三冊」で終る原書題目をかかげて、その下に紙片を貼りつけて、「和蘭と暎咭唎(イギリス)之語典 イギリス書を読む緊要之書」、「黄銅筒鋳造法之書」、「ボイス氏ノ語典翻訳ニ極緊要之書」、「諸国兵制数之書 即チ兵制全書之原本」などと書いてある。これらはおそらく長英の筆であろう。
蔵書は、兵書が大多数を占めるとはいえ、その種類は、天文学、数学、言語学、化学、歴史の諸分野にわたり、これほど多数のオランダ語の書物を前にしてその性格を即座に見きわめ、宇和島藩の目的にとっての必要性を決めるには、相当の学識が前提とされたであろう。」鶴見俊輔『評伝 高野長英1804-50』藤原書店、pp.311-315.
弘化元(1844)年の脱獄から嘉永三(1850)年江戸での逮捕時の死まで、高野長英の逃亡の晩年六年間に、彼はまとまった著作としては、『星学略記』(天文学の大要)、『遜謨児四星編』(同天文学についての訳述)、『知彼一助』(イギリス、フランスを中心にオランダ、アメリカもあわせ、各国情勢を書いた国際政治学論文)、『三兵答古知幾』全27冊(兵書の全訳。歩兵・騎兵・砲兵の訓練と実践技術を解き明かしたもの)、『砲家必読』全11冊(砲術書の翻訳)を残している。入獄前の医学や植物学、農学などへの関心は潜めて、最後はもっぱら砲学兵学といった軍事技術の翻訳解説に力を注いでいる。宇和島での仕事として要求されたこともあるだろうが、この人の才能は語学を基礎にあらゆる知識学問の本質を一気に把握するところにある。
「すでに長英は、入獄直前の年にあたる天保九年(1838)に、『聞見漫録 第一』と題する文集をあらわしており、そのはじめに、わずか11葉のうちに西洋哲学史を集約している。日本人の書いた西洋哲学史としておそらくは最初のものではないだろうか。
この論文は、長英が、ヨーロッパの学問の諸学科を底のほうで結びつけている考え方に注目し、それを理解したことを示すもので、こうした理解がある故に、数百冊の蘭書を前にして、即座に鑑別する仕事をなし得たのであろう。
哲学者は、長英の言葉でいえば、学師である。小関三英をいたむ文章の中で、彼は「学匠」という言葉を使っているが、彼自身はみずからを擬して「学匠」あるいは「学師」としていたのではないだろうか。
西洋に学師の創(はじま)リシハ、又甚(はなはだ)ダ尚(ひさ)シ。其(その)嚆矢(こうし)ヲタレス及ビ「ヒタゴラス」トス。
このように書きはじめてから、タレスの門下に星学家アナクサゴラスがあらわれ、「汝ヂ故国ノ事ヲ以テ念トセザルハ、何ゾヤ」と非難されると、天を指さして「我故国ノ事ヲ以テ廃棄スレドモ、之ヲ以テ過チトセズ」と答えたことをのべる。このはじまりは、長英がヨーロッパの哲学精神が民族文化をこえるところから出発したことを、これは長英自身の立場とちがうにもかかわらず、理解していたことを示している。
ピタゴラスはエジプト人より数学をうけ、それによって世界万物の間の数量上の比例の存在を説いた比較符合の説を設け、万物全備完成の理を解き、地をもって一大人体となし精神不滅・彼此転移(按ズルニ、仏家ノ三世ノ説ヲ以テ、人ヲ教導スルノ義ト同ジ)の論をたてた。これは簡潔ではあるがピタゴラスがその後の二〇〇〇年余の西洋思想史にあたえた持続的な影響をよくとらえている。
ピタゴラスの系統からソコーラテス、その門からプラト、その門からアリストテレスが出て、さらにエヒキュルス、セノの二大家があらわれ、アリストテレスの説が流行するに至った。一四七三年にいたってニコラース・コーペルニキュスがあらわれて、地動の真理を発明し、一五六四年にガリラウス・デ・ガリレヲがうまれて新たに実測にもとづいてコーペルニキュスの道をひろめた。彼は、旧説を尊信主張する教師たちにとらわれて五、六年の間、獄中にあり(この点は、次の年からはじまる長英受難とおなじであり、獄中で長英は自分をひそかにガリレオに擬していたであろう)。「然レドモ、実理ノ在ル所、却(しりぞく)ルコトヲ得ズ。却(かえっ)テ是(これ)ニ因(より)テ、其説(そのせつ)ノ公ケニ世ニ行ハルゝ泛觴(はんしょう)(始まり)トナレリ」
その後一七〇〇年代に入って、フランスにガッセンジ、またレネ・テル・カルテスがあらわれ、コーペルニキュスの説をとうとび、その説を補益した。「其論、真偽相半(あいなかば)スト雖(いえど)モ、世人千古ノ学風ヲ棄テゝ、実学ノ真理ニ入ルハ、此人(このひと)ノ力ナリ」。こうしてプラトンやアリストテレスなどの「陰陽四行の旧説」はおとろえて新たな実証的方法をもって世界の法則をさぐる学風がおこった。
この学風をおこすにさらに力のあったのはハツコ(フランシスコ・ベーコン)であり、その流れにネウトン、レイブニッツ、ロッケの三大家があらわれた。ネウトンは、天学に通じ、諸星の運動は引力・吸心力に関わるものなりとし、その根拠は数学にもとづき義理明亮で一も疑をいれるところなし。レイブニッツは、テヲシカ(弁神論)をあらわし、万有の原素、不変の理義を論じた。彼は数学に長じ、「千古ノ難数ヲ簡法ニ解スルノ法(微分法)」をたてた。ロッケは、理義と経験とにもとづき、人智の極度を定めた。「今ノ学ハ、此三人ノ立ツル所ナリ」
さらに長英はその後の哲学の展開を一八世紀前半までたどったあと、西洋の学問の分類法を論じて、①レイデンキュンデ(地理義学)、②セーデンキュンデ(法教)、③ナチウルキュンデ(格物窮理学)、➃ホーヘンナチウルキュンデ(「耳目口鼻耳ニ感ゼザル諸物性質ヲ知ルノ学」で、存在論もここに入るという)、⑤ウェーセンキュンデ(「諸仏ノ形状、度分、距離ヲ測ルノ学」であり、数学である)の五科目にわけた。
他のさまざまの学問はァすべて、以上の五科目に入るという。ただし、もう一つ別にたてるとすれば、歴史学であり、「ヒーストリア学ハ事物ノ外表ヲ記スノ学ナリ。其内面ノ事ヲ併(あわ)セ記ストキハ、其原自ラ(もとおのずから)明(あきらか)ニナルナリ。之ヲ記スヲゲシキイテニスト云フ。按(あん)ズルニ、是モ亦一学ナリ。蓋シ歴史ノ学ナリ」と書いた。
こうして長英はわずか11葉の半紙の上にこの論文を書いて、「是レ西洋開闢已来、五千八百四十最ノ間、学師ノ興廃得失ヲ論ズルノ梗概ナリ」とした。
全体の流れを、長英自身の言葉で要約するならば、
開闢已来、彼(かの)国暦数、今ニ到(いたる)マデ、凡(およ)ソ五千八百四十年、上古ハ稽(かんが)ふ可カラズト雖モ、羅甸(らてん)ノ盛(さかん)ナリシ頃、聖賢併(なら)ビ起リ、学科各々備ハレリ。然レドモ、元来陰陽四行ノ旧説ヲ以テ、形似上ノ学ヲ原(もと)トシ、形以下ノ学モ此ヨリ岐分(きぶん)スル故ニヤ、蒙然トシテ分明ナラザルナリ。此間ニ有力名哲出デゝ、実験ノ実路ニ則(のっと)リ、法ヲ立テ、教ヲ設ルモノ、亦少シトセズ。然(しかれ)ドモ、旧染ノ古学、歴然存シテ世ニ行(おこな)ハレシヲ以テ、世人此ニ泥(でい)着(ちゃく)スルモノト見エタリ。然ドモ、後世人物ノ出(いず)ル二到テ、其説、実測ニ沈合セザルヲ以テ、疑ヲ生ズルノ間ニ、実測ノ学、次第ニ行ハレ来ルニ由(よっ)テ、遂ニ旧説ヲ廃シ、新説ニ従(したがっ)テ、右形以下学ヲ以テ、人ノ所務トシ、此ヨリシテ、形以上ニ至ルノ学風トナリタリナリ。(佐藤昌介校注「西洋学師ノ説」〈もとは『聞見漫録』の冒頭におかれた無題の一文〉日本思想体系55)
この西洋哲学史の学風の中で、長英がいかなる学風に自分が属するものと考えていたかはおのずからあきらかであろう。」鶴見俊輔『評伝 高野長英1804-50』藤原書店、pp.315-319.
ピタゴラスからソクラテス、プラトン、アリストテレスの古代ギリシャ哲学、近代を導くコペルニクス、ガリレオ、デカルト、ベーコン、ニュートン、ライプニッツ、ロックと辿って、18世紀啓蒙と実証主義までの西洋哲学史を、長英がどんな文献から学んだかはわからないが、簡潔に肝を掴んで要点を記す能力は抜群というしかない。後世のぼくたちが学校で教科書的に教わった知識は、天保期の日本ではオランダ語を読みこなすごく少数の人以外は、その存在すら知ることはなかったのだから、その知識自体どれほど貴重な情報であったことか、今では想像もつかない。
B.人生のピーク?
人生いろいろ、山あり谷ありといっても、振り返って自分の一番輝いたピークの時期がどこかにあったのかは、死ぬ直前までわからない。だいたい人生の価値を測る基準はこれもいろいろあるので、世間の評価も自分の満足も、金銭も愛情も単純なモノサシなどない。
「ネット点描:人生のピークって高3? あふれるネガティブ情報
今まで私が受けた質問のなかで、最も驚いたのは、高3の男子生徒からの、この問いかけだった。「高校3年生が人生のピークって、本当ですか?」
彼の口調は軽かったが、顔はどこか不安そうに見えた。私は質問の真意を尋ねた。
彼いわく。大学では最近、入学後さらに終活の準備が始まる。社会に出たら、しんどいことが多い。会社はブラック、結婚は、妥協で墓場。年金はたぶんもらえない。
18歳は親や社会に守られる「子ども」の最後。高校生になれば行動範囲も広がり、気の合う友だちも増える。先輩がいない3年生となれば、最強だ。ということは、高3は人生のピークなのだろうか。そう結論に達した末の、冒頭の問いだった。
「今どきの子は頭でっかちだなあ」と思われただろうか。問題は「誰が頭でっかちにしたのか」である。
先日、大学の女子学生に「あなたのしんどいこと」を聞いていたら、「やりたいことの全てに『明確な目標』と『将来の展望』を求められる」と答えた学生がいた。夢や目標を持てと言われる一方で、「好きだからやりたい」「なんとなくやってみたい」「なんとなくやってみたい」で行動することは許されない。「そんな動機では支援できない」「そんなものは将来につながらない」とダメ出しされるという。
ネットを通じて、彼らは多くのネガティブ情報を浴びている。「耳年増」状態だ。身近な大人からは、「そんなことじゃ、将来困るよ」と何度も何度も釘を刺される。その結果「社会はつらく厳しい」というイメージが、刷り込まれる。真面目な子は「自分はきっと社会で通用しない」と思い込んですらいる。社会を知る前に。
若者の「頭でっかち」は、私たち大人が良かれと思って発した言葉でできている。
冒頭の問い、私はこう答えた。「君がそう信じていたら、そうなるかもしれない。でも私は18歳の時よりも、今が楽しいよ」。男子生徒は、驚いた顔をしていた。(原田朱美)」朝日新聞2019年2月26日朝刊15面オピニオン欄。
自分のことを考えてみると、ぼくの18歳から20歳すぎはどうみても最低だった。大学入試はみんな落ちて浪人だったし、何度も失恋して、山から転落骨折して死に損なって入院、大学も落第して就職など考えもしなかった。30歳くらいまでピークどころか、ロクなことはなかった。果たして自分の未来に少しはいいことがあるのだろうか?絶望しても仕方ないので、先のことは考えないようにしていた。でも、定年退職する年になって振り返ると、どうやら幸運にもこの国が元気のいい時代だったおかげで、人生のピークはもっと後で来たように思う。いや、もしかしたらこれからピークが来るかもしれない。これも、先を読んだり、親の言うことを信じたり、しっかり計画を立てて生きたからではなく、ぼくが行き当たりばったりに、出会うものを拒まずに遊んで暮らそうと思ったからかもしれない、と思うのだ。
おなじページの記事に、映画「ボヘミアン・ラプソディ」の大ヒットを論評した宮台真司の文章。
「損得抜きの微熱を求めて:宮台真司
クイーンは、日本の女たちからブームに火がついたので、当時は「女の子受けするバンド」というイメージでした。だから僕は隠れてライブに行きました。1970年代3回は行ったかな。フレディの歌唱力、動き回り力強く歌う身体性、といった「微熱感」にひかれたんです。
さて、僕の周囲にいる20代の女たちはほとんどがこの映画を見ています。彼女たちは口をそろえて「あの時代に生れたかった」と言います。なぜなのか。たぶん彼女たちは失われた微熱感を取り戻したいんじゃないでしょうか。
クイーンが全盛だった頃、社会は至る所に微熱感がありました。男たちは取っ組み合いのけんかをし、こいつは逃げないヤツだと信頼して仲良くなりました。街では男女の視線がよく交わりました。
今は、視線の交わりを誰もが全力で避けます。デートしても自分でうまくやれるかばかり考え、視線の交わりで相手をモニターできない。まず男たちが、コスパなどの損得勘定から出られない「クズ」になり、続いて女たちが、男たちを相手にしても実りがないので退却しました。女たちが相手にしてくれないのもあって、男たちはアニメやゲームなどの仮想現実やアイドルに向かいました。
クズ化した男と、失望した女が、街から微熱感を奪いました。でも女たちは失望していても諦めていない。微熱感が失われた街や社会に不全感を覚える女たちが、今も大勢います。そんな女たちの間で、微熱感を疑似体験できるこの映画が口コミで広がった。それがこの映画がヒットした理由でしょう。
同性愛のモチーフがあったのも大きい。ゲイだと性自認したフレディは、恋人だったメアリーと生涯のよき友になります。ここは女たちが「これだよね」と感じる重要な要素です。異性愛から「良きもの」を体験できなくなった女たちにとって、粘着質に束縛されたり暴力を振るわれたりして、支配・被支配の関係になりがちな異性愛の現実よりも、同じ前提を共有する同性愛の幻想の方が魅力的です。
フレディは、エイズウイルス感染で死をはっきり自覚した後、限られた生を行けることころまで行こうと損得勘定の枠から解き放たれます。この魅力的な設定も大きい。従来の枠組みが役立たない非常時にこそ、システムの外側での人の本当の力が試されます。今はどこもシステムに覆われて、相手や自分にどんな力があるのか分かりません。
元々人は「未規定なもの」に誘惑される存在です。今は未規定なものを全力で回避したがる人ばかり。規定された枠の外に出て、いつもとは違う計算しない視座を取りたい。自分は取れるだろうか。この映画はそれを問いかけています。 (聞き手・後藤太輔)」朝日新聞2019年2月26日朝刊15面オピニオン欄。
宮台氏の上から目線的いい方は少々ハナにつくが、ぼくも大学生と話していると、彼ら彼女らがぎしぎしと制約の多い面倒な人間関係に早くから予防線を張って生きてきたために、まじめな子ほど友情も恋情もうまく成立できずに、ひどく疲れているような感じがする。「微熱感」という言葉で、クイーンのなかにいまは失われた高揚を見ようとする女子、という図式は内向する男子よりはましだと挑発しているのかもしれない。でも、そんな若者ばかりでもないだろう。
高野長英が小伝馬町の牢にあって牢名主だった天保11(1840)年、中国沿岸では清国とイギリス艦隊の間で戦争が始まっていた。いわゆる阿片戦争は、清とイギリスの間で1840年から2年間にわたり行われた戦争。インドで製造した麻薬アヘンを清にもちこんで大儲けをしていたイギリスに、アヘンの蔓延に危機感をつのらせた清がアヘンの全面禁輸を断行し、イギリス商人の保有するアヘンを没収・焼却した。これに反発したイギリスは、艦隊と兵士を清国沿岸に送り、各地で戦争となった。艦船と火力に勝るイギリスの勝利に終わり、1842年に南京条約が締結され、イギリスへの香港の割譲ほか、清にとって不平等な条約となった。獄中とはいえ、手紙や書物も読めた長英には、中華帝国を誇った清国の屈辱は他人事ではなかっただろう。
長英が罪に問われた『夢物語』自体、米国船モリソン号が日本人漂流民を送り届けに来たのを、幕府が打ち払ったのを批判したこと、「蛮社の獄」の口実も小笠原諸島への渡航計画に結びつけるなど、日本沿海に外国船がしきりに出没する状況への見当ちがいな蘭学者弾圧だった。海外諸国、とくに西洋列強のアジア進出の正確な情報は、鎖国日本では蘭学者以外からは得られない。アヘン戦争の結果は、空想に過ぎなかった日本への侵略という可能性が、さすがの幕閣にもリアルと感じさせた。
水野忠邦失脚後の幕府で、老中になった阿部正弘ら開明派も危機感を募らせ、海岸防備を急ぐよう諸藩に呼びかけ、江戸湾をはじめ主要な港湾の周囲に砲台を築き、離島にも城塞や砲台を築こうと動きだした。ただ、西洋式大砲や砲台がそう簡単に作れるわけではなく、軍事に関する蘭学者の知識は不可欠になる。そうこうするうち、嘉永六(1853)年浦賀にマシュー・ペリーのアメリカ海軍東インド艦隊がやってきて通商を迫る事態になる。いよいよ黒船が日本に大砲を撃ちこむ事態が現実になった。その時すでに高野長英はこの世になかったのだが、生きていれば「だから言ったじゃないか、今頃じたばたしても遅い」と思っただろう。
結局、各地の湾岸砲台が完成したのは、和親条約・通商条約で「開国」してしまったもっと後で、東京湾に残る「お台場」や函館の五稜郭(元治元年(1864)竣工)、五島列島の福江城(文久3年(1863)6月に完成)などは、もう幕末動乱のさなかで別の目的に使われてしまった。ただ、ペリー来航以前の弘化・嘉永期にも、すでに海外情報に敏感で砲台大砲築造に積極的に動き出していた人たちがいた。蛮社の獄で狙い撃ちされたサークル「尚歯会」のメンバーだった韮山代官江川英竜、旗本羽倉外記、川路聖謨などは活躍の場を回復するが、もっと有力な国防策を実行したのは「蘭癖大名」薩摩の島津斉彬、佐賀の鍋島閑叟、そして宇和島の伊達宗城だった。彼らは実力のある藩主であったから、蘭書を買い集め翻訳させ、技術者を召し抱え、西洋式の蒸気船や大砲砲台を実際に作った。全国指名手配のおたずね者、高野長英をこっそり宇和島に呼んで仕事をさせたのも、殿様だから可能になった。
「長英宅での授業は、はじめにオランダ語文法、次に『三兵タクチーキ』のオランダ語原文一字一字について講じてもらい、これをおぼえこんで、それぞれが帰宅して、宿題としてこれを日本文に訳して、翌朝持参して長英になおしてもらうこととした。はじめは朝早くから正午まで毎日通学することにした。あとになると授業時間が延長され、往々にして夕方まで稽古をした。長英は英語はできなかったが、そのころ伊達宗城が幕府からかりてきていた英語字書が藩の文庫にあったので、これを使ってオランダ語の本にひかれている英語をも読みくだしていた。
長英はオランダの兵学者スチルチイスの著書を訳して『砲家必読』11冊をあらわした。これは人目をはばかって、「谷簡、土与、野輔」の三人の著としてあるが、谷、土居、大野三者はただ清書しただけで、まったく長英の執筆にかかるものと、土居は証言している。清書も三人にて手わけし、できあがるとすぐ藩公に差し出したものだから、土居たちはその一部さえもっていなかった。後年になって大野昌三郎が、東京の本屋でその古写本を見たそうだと土居は書いている。宇和島藩では大いにこの本を使ったらしく、全11冊中の一冊しか今日では残っていない。
作家貴司山治は、昭和のはじめに小説の材料をさがすうちに、神田の古本市で一山三円の雑書の間から、『砲家必読』11冊の完全なひとそろいを買って、この本を四〇年間も座右においていたという(貴司山治「高野長英の烏有本」「毎日新聞」1968年6月11日)。
長英は、宇和島から南に11里ほどはなれた、土佐に近い深浦湾に、砲台をつくる計画をして、嘉永一年(1848)一一月二二日から一二月一日にかけて一〇日程の調査旅行を試み、測量に従事した。御荘村のテンギ(天岐とも天儀とも書く)というところである。この砲台は嘉永三年四、五月ごろに完成した(菅菊太郎「御庄久良台場と高野長英」『伊予国南宇和郷土史雑稿』1938年刊)。
御庄砲台の下見旅行にさいして長英に同行したのは、砲術家板倉志摩之介、松田源五左衛門であり、他に長英門人土居直三郎もいた。この中の松田源五左衛門が、宇都宮九太夫とともに奉行となって安政二年(1855)三月から一二月にかけて宇和島湾に樺崎砲台をつくった。この時には村田蔵六(大村益次郎)がまねかれてここに来ており、長英の『砲家必読』を大いに活用して、この砲台をきずいた。長英の書物はいつも空論ではなく、それを読んで実地におこなえば、現実に何事かが成就するという、いわば地図の如き性格をもつ論文であった。そのためにかえって珍蔵されることなく、つねに流用され藩の文庫からも失われたのだろう。
樺崎砲台には大砲が五門すえつけられたというが、これらは実戦に使われる機会はなく、ただ一度活用されたのは、慶応二年(1866)、宇和島をイギリスの軍艦がおとずれた時であり、この砲台が礼砲をうったということが、アーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』に見える。
もう一つ、長英が宇和島でしたのは、司書としての仕事である。伊達宗城は長崎からかなりの数のオランダ語の本を買ってもっていた。それらを自由に読みこなす人は、まだ宇和島の蘭学社中からは出ていなかったようである。長英は、蘭書の文庫に目をとおして、どの本に何が書いてあるかの摘要をつくり、どれだけの本が藩の見地から言って翻訳を必要とするかの見つもりをつくることを頼まれた。
『高野長英全集』には、長英が伊達宗城あてに出した「訳業必要の書籍目録」全一冊というのが入っている。これは、長安が必要と考えた書物の表であって、オランダ語、ドイツ語、フランス語、英語の辞書ならびに文法解読書からはじめて、代表的と思われる陸軍兵書、騎兵教練法、築城術、水戦兵書などの名をあげてある。辞書類一四部、兵書類は四部にわかれ、この時の長英に課せられた仕事が兵書の翻訳にかぎられていたことを示している。辞書類は、ヨーロッパの兵書の翻訳に欠かせないので、必要とされたのである。長英自身の関心が、これほどに兵書だけにこの時期に限られていたとは信じがたい。
すでに買ってある本の分類をまかせられる彼の百科全書的な関心は自在に動きはじめた。
宇和島の伊達記念館所蔵の高野長英関係資料として見せていただいたもののうちに、三つの書物目録があった。その中でもとくに「蘭書目録」とある巻紙には、原書名を記した上に摘要を記した付箋がはりつけてあり、「一 チュツケイス著述 千八百十九年 アールドレイクスキュンデ 五冊」からはじまり、「プロヒショナール レグレメント 三冊」で終る原書題目をかかげて、その下に紙片を貼りつけて、「和蘭と暎咭唎(イギリス)之語典 イギリス書を読む緊要之書」、「黄銅筒鋳造法之書」、「ボイス氏ノ語典翻訳ニ極緊要之書」、「諸国兵制数之書 即チ兵制全書之原本」などと書いてある。これらはおそらく長英の筆であろう。
蔵書は、兵書が大多数を占めるとはいえ、その種類は、天文学、数学、言語学、化学、歴史の諸分野にわたり、これほど多数のオランダ語の書物を前にしてその性格を即座に見きわめ、宇和島藩の目的にとっての必要性を決めるには、相当の学識が前提とされたであろう。」鶴見俊輔『評伝 高野長英1804-50』藤原書店、pp.311-315.
弘化元(1844)年の脱獄から嘉永三(1850)年江戸での逮捕時の死まで、高野長英の逃亡の晩年六年間に、彼はまとまった著作としては、『星学略記』(天文学の大要)、『遜謨児四星編』(同天文学についての訳述)、『知彼一助』(イギリス、フランスを中心にオランダ、アメリカもあわせ、各国情勢を書いた国際政治学論文)、『三兵答古知幾』全27冊(兵書の全訳。歩兵・騎兵・砲兵の訓練と実践技術を解き明かしたもの)、『砲家必読』全11冊(砲術書の翻訳)を残している。入獄前の医学や植物学、農学などへの関心は潜めて、最後はもっぱら砲学兵学といった軍事技術の翻訳解説に力を注いでいる。宇和島での仕事として要求されたこともあるだろうが、この人の才能は語学を基礎にあらゆる知識学問の本質を一気に把握するところにある。
「すでに長英は、入獄直前の年にあたる天保九年(1838)に、『聞見漫録 第一』と題する文集をあらわしており、そのはじめに、わずか11葉のうちに西洋哲学史を集約している。日本人の書いた西洋哲学史としておそらくは最初のものではないだろうか。
この論文は、長英が、ヨーロッパの学問の諸学科を底のほうで結びつけている考え方に注目し、それを理解したことを示すもので、こうした理解がある故に、数百冊の蘭書を前にして、即座に鑑別する仕事をなし得たのであろう。
哲学者は、長英の言葉でいえば、学師である。小関三英をいたむ文章の中で、彼は「学匠」という言葉を使っているが、彼自身はみずからを擬して「学匠」あるいは「学師」としていたのではないだろうか。
西洋に学師の創(はじま)リシハ、又甚(はなはだ)ダ尚(ひさ)シ。其(その)嚆矢(こうし)ヲタレス及ビ「ヒタゴラス」トス。
このように書きはじめてから、タレスの門下に星学家アナクサゴラスがあらわれ、「汝ヂ故国ノ事ヲ以テ念トセザルハ、何ゾヤ」と非難されると、天を指さして「我故国ノ事ヲ以テ廃棄スレドモ、之ヲ以テ過チトセズ」と答えたことをのべる。このはじまりは、長英がヨーロッパの哲学精神が民族文化をこえるところから出発したことを、これは長英自身の立場とちがうにもかかわらず、理解していたことを示している。
ピタゴラスはエジプト人より数学をうけ、それによって世界万物の間の数量上の比例の存在を説いた比較符合の説を設け、万物全備完成の理を解き、地をもって一大人体となし精神不滅・彼此転移(按ズルニ、仏家ノ三世ノ説ヲ以テ、人ヲ教導スルノ義ト同ジ)の論をたてた。これは簡潔ではあるがピタゴラスがその後の二〇〇〇年余の西洋思想史にあたえた持続的な影響をよくとらえている。
ピタゴラスの系統からソコーラテス、その門からプラト、その門からアリストテレスが出て、さらにエヒキュルス、セノの二大家があらわれ、アリストテレスの説が流行するに至った。一四七三年にいたってニコラース・コーペルニキュスがあらわれて、地動の真理を発明し、一五六四年にガリラウス・デ・ガリレヲがうまれて新たに実測にもとづいてコーペルニキュスの道をひろめた。彼は、旧説を尊信主張する教師たちにとらわれて五、六年の間、獄中にあり(この点は、次の年からはじまる長英受難とおなじであり、獄中で長英は自分をひそかにガリレオに擬していたであろう)。「然レドモ、実理ノ在ル所、却(しりぞく)ルコトヲ得ズ。却(かえっ)テ是(これ)ニ因(より)テ、其説(そのせつ)ノ公ケニ世ニ行ハルゝ泛觴(はんしょう)(始まり)トナレリ」
その後一七〇〇年代に入って、フランスにガッセンジ、またレネ・テル・カルテスがあらわれ、コーペルニキュスの説をとうとび、その説を補益した。「其論、真偽相半(あいなかば)スト雖(いえど)モ、世人千古ノ学風ヲ棄テゝ、実学ノ真理ニ入ルハ、此人(このひと)ノ力ナリ」。こうしてプラトンやアリストテレスなどの「陰陽四行の旧説」はおとろえて新たな実証的方法をもって世界の法則をさぐる学風がおこった。
この学風をおこすにさらに力のあったのはハツコ(フランシスコ・ベーコン)であり、その流れにネウトン、レイブニッツ、ロッケの三大家があらわれた。ネウトンは、天学に通じ、諸星の運動は引力・吸心力に関わるものなりとし、その根拠は数学にもとづき義理明亮で一も疑をいれるところなし。レイブニッツは、テヲシカ(弁神論)をあらわし、万有の原素、不変の理義を論じた。彼は数学に長じ、「千古ノ難数ヲ簡法ニ解スルノ法(微分法)」をたてた。ロッケは、理義と経験とにもとづき、人智の極度を定めた。「今ノ学ハ、此三人ノ立ツル所ナリ」
さらに長英はその後の哲学の展開を一八世紀前半までたどったあと、西洋の学問の分類法を論じて、①レイデンキュンデ(地理義学)、②セーデンキュンデ(法教)、③ナチウルキュンデ(格物窮理学)、➃ホーヘンナチウルキュンデ(「耳目口鼻耳ニ感ゼザル諸物性質ヲ知ルノ学」で、存在論もここに入るという)、⑤ウェーセンキュンデ(「諸仏ノ形状、度分、距離ヲ測ルノ学」であり、数学である)の五科目にわけた。
他のさまざまの学問はァすべて、以上の五科目に入るという。ただし、もう一つ別にたてるとすれば、歴史学であり、「ヒーストリア学ハ事物ノ外表ヲ記スノ学ナリ。其内面ノ事ヲ併(あわ)セ記ストキハ、其原自ラ(もとおのずから)明(あきらか)ニナルナリ。之ヲ記スヲゲシキイテニスト云フ。按(あん)ズルニ、是モ亦一学ナリ。蓋シ歴史ノ学ナリ」と書いた。
こうして長英はわずか11葉の半紙の上にこの論文を書いて、「是レ西洋開闢已来、五千八百四十最ノ間、学師ノ興廃得失ヲ論ズルノ梗概ナリ」とした。
全体の流れを、長英自身の言葉で要約するならば、
開闢已来、彼(かの)国暦数、今ニ到(いたる)マデ、凡(およ)ソ五千八百四十年、上古ハ稽(かんが)ふ可カラズト雖モ、羅甸(らてん)ノ盛(さかん)ナリシ頃、聖賢併(なら)ビ起リ、学科各々備ハレリ。然レドモ、元来陰陽四行ノ旧説ヲ以テ、形似上ノ学ヲ原(もと)トシ、形以下ノ学モ此ヨリ岐分(きぶん)スル故ニヤ、蒙然トシテ分明ナラザルナリ。此間ニ有力名哲出デゝ、実験ノ実路ニ則(のっと)リ、法ヲ立テ、教ヲ設ルモノ、亦少シトセズ。然(しかれ)ドモ、旧染ノ古学、歴然存シテ世ニ行(おこな)ハレシヲ以テ、世人此ニ泥(でい)着(ちゃく)スルモノト見エタリ。然ドモ、後世人物ノ出(いず)ル二到テ、其説、実測ニ沈合セザルヲ以テ、疑ヲ生ズルノ間ニ、実測ノ学、次第ニ行ハレ来ルニ由(よっ)テ、遂ニ旧説ヲ廃シ、新説ニ従(したがっ)テ、右形以下学ヲ以テ、人ノ所務トシ、此ヨリシテ、形以上ニ至ルノ学風トナリタリナリ。(佐藤昌介校注「西洋学師ノ説」〈もとは『聞見漫録』の冒頭におかれた無題の一文〉日本思想体系55)
この西洋哲学史の学風の中で、長英がいかなる学風に自分が属するものと考えていたかはおのずからあきらかであろう。」鶴見俊輔『評伝 高野長英1804-50』藤原書店、pp.315-319.
ピタゴラスからソクラテス、プラトン、アリストテレスの古代ギリシャ哲学、近代を導くコペルニクス、ガリレオ、デカルト、ベーコン、ニュートン、ライプニッツ、ロックと辿って、18世紀啓蒙と実証主義までの西洋哲学史を、長英がどんな文献から学んだかはわからないが、簡潔に肝を掴んで要点を記す能力は抜群というしかない。後世のぼくたちが学校で教科書的に教わった知識は、天保期の日本ではオランダ語を読みこなすごく少数の人以外は、その存在すら知ることはなかったのだから、その知識自体どれほど貴重な情報であったことか、今では想像もつかない。
B.人生のピーク?
人生いろいろ、山あり谷ありといっても、振り返って自分の一番輝いたピークの時期がどこかにあったのかは、死ぬ直前までわからない。だいたい人生の価値を測る基準はこれもいろいろあるので、世間の評価も自分の満足も、金銭も愛情も単純なモノサシなどない。
「ネット点描:人生のピークって高3? あふれるネガティブ情報
今まで私が受けた質問のなかで、最も驚いたのは、高3の男子生徒からの、この問いかけだった。「高校3年生が人生のピークって、本当ですか?」
彼の口調は軽かったが、顔はどこか不安そうに見えた。私は質問の真意を尋ねた。
彼いわく。大学では最近、入学後さらに終活の準備が始まる。社会に出たら、しんどいことが多い。会社はブラック、結婚は、妥協で墓場。年金はたぶんもらえない。
18歳は親や社会に守られる「子ども」の最後。高校生になれば行動範囲も広がり、気の合う友だちも増える。先輩がいない3年生となれば、最強だ。ということは、高3は人生のピークなのだろうか。そう結論に達した末の、冒頭の問いだった。
「今どきの子は頭でっかちだなあ」と思われただろうか。問題は「誰が頭でっかちにしたのか」である。
先日、大学の女子学生に「あなたのしんどいこと」を聞いていたら、「やりたいことの全てに『明確な目標』と『将来の展望』を求められる」と答えた学生がいた。夢や目標を持てと言われる一方で、「好きだからやりたい」「なんとなくやってみたい」「なんとなくやってみたい」で行動することは許されない。「そんな動機では支援できない」「そんなものは将来につながらない」とダメ出しされるという。
ネットを通じて、彼らは多くのネガティブ情報を浴びている。「耳年増」状態だ。身近な大人からは、「そんなことじゃ、将来困るよ」と何度も何度も釘を刺される。その結果「社会はつらく厳しい」というイメージが、刷り込まれる。真面目な子は「自分はきっと社会で通用しない」と思い込んですらいる。社会を知る前に。
若者の「頭でっかち」は、私たち大人が良かれと思って発した言葉でできている。
冒頭の問い、私はこう答えた。「君がそう信じていたら、そうなるかもしれない。でも私は18歳の時よりも、今が楽しいよ」。男子生徒は、驚いた顔をしていた。(原田朱美)」朝日新聞2019年2月26日朝刊15面オピニオン欄。
自分のことを考えてみると、ぼくの18歳から20歳すぎはどうみても最低だった。大学入試はみんな落ちて浪人だったし、何度も失恋して、山から転落骨折して死に損なって入院、大学も落第して就職など考えもしなかった。30歳くらいまでピークどころか、ロクなことはなかった。果たして自分の未来に少しはいいことがあるのだろうか?絶望しても仕方ないので、先のことは考えないようにしていた。でも、定年退職する年になって振り返ると、どうやら幸運にもこの国が元気のいい時代だったおかげで、人生のピークはもっと後で来たように思う。いや、もしかしたらこれからピークが来るかもしれない。これも、先を読んだり、親の言うことを信じたり、しっかり計画を立てて生きたからではなく、ぼくが行き当たりばったりに、出会うものを拒まずに遊んで暮らそうと思ったからかもしれない、と思うのだ。
おなじページの記事に、映画「ボヘミアン・ラプソディ」の大ヒットを論評した宮台真司の文章。
「損得抜きの微熱を求めて:宮台真司
クイーンは、日本の女たちからブームに火がついたので、当時は「女の子受けするバンド」というイメージでした。だから僕は隠れてライブに行きました。1970年代3回は行ったかな。フレディの歌唱力、動き回り力強く歌う身体性、といった「微熱感」にひかれたんです。
さて、僕の周囲にいる20代の女たちはほとんどがこの映画を見ています。彼女たちは口をそろえて「あの時代に生れたかった」と言います。なぜなのか。たぶん彼女たちは失われた微熱感を取り戻したいんじゃないでしょうか。
クイーンが全盛だった頃、社会は至る所に微熱感がありました。男たちは取っ組み合いのけんかをし、こいつは逃げないヤツだと信頼して仲良くなりました。街では男女の視線がよく交わりました。
今は、視線の交わりを誰もが全力で避けます。デートしても自分でうまくやれるかばかり考え、視線の交わりで相手をモニターできない。まず男たちが、コスパなどの損得勘定から出られない「クズ」になり、続いて女たちが、男たちを相手にしても実りがないので退却しました。女たちが相手にしてくれないのもあって、男たちはアニメやゲームなどの仮想現実やアイドルに向かいました。
クズ化した男と、失望した女が、街から微熱感を奪いました。でも女たちは失望していても諦めていない。微熱感が失われた街や社会に不全感を覚える女たちが、今も大勢います。そんな女たちの間で、微熱感を疑似体験できるこの映画が口コミで広がった。それがこの映画がヒットした理由でしょう。
同性愛のモチーフがあったのも大きい。ゲイだと性自認したフレディは、恋人だったメアリーと生涯のよき友になります。ここは女たちが「これだよね」と感じる重要な要素です。異性愛から「良きもの」を体験できなくなった女たちにとって、粘着質に束縛されたり暴力を振るわれたりして、支配・被支配の関係になりがちな異性愛の現実よりも、同じ前提を共有する同性愛の幻想の方が魅力的です。
フレディは、エイズウイルス感染で死をはっきり自覚した後、限られた生を行けることころまで行こうと損得勘定の枠から解き放たれます。この魅力的な設定も大きい。従来の枠組みが役立たない非常時にこそ、システムの外側での人の本当の力が試されます。今はどこもシステムに覆われて、相手や自分にどんな力があるのか分かりません。
元々人は「未規定なもの」に誘惑される存在です。今は未規定なものを全力で回避したがる人ばかり。規定された枠の外に出て、いつもとは違う計算しない視座を取りたい。自分は取れるだろうか。この映画はそれを問いかけています。 (聞き手・後藤太輔)」朝日新聞2019年2月26日朝刊15面オピニオン欄。
宮台氏の上から目線的いい方は少々ハナにつくが、ぼくも大学生と話していると、彼ら彼女らがぎしぎしと制約の多い面倒な人間関係に早くから予防線を張って生きてきたために、まじめな子ほど友情も恋情もうまく成立できずに、ひどく疲れているような感じがする。「微熱感」という言葉で、クイーンのなかにいまは失われた高揚を見ようとする女子、という図式は内向する男子よりはましだと挑発しているのかもしれない。でも、そんな若者ばかりでもないだろう。