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大長編小説のよみほどき 3 カラマーゾフ 後編  ロシア・ナショナリズム

2022-04-28 19:21:41 | 日記
A.パンとサーカス
 権力者が民衆に対して抱く猜疑心と支配欲は、どこでも似たようなもので、とりあえず日々の食物を与えて飢えさせないことと面白い見世物を用意して不満を解消させること、これさえやっておけば民衆は従順に言うことを聞く。古代ローマではこれを「パンとサーカス」と言って政治の要諦とした。民衆が為政者に不満を抱くのは、食べ物も満足に得られない貧困が蔓延したり、気晴らしの楽しみも禁じられて自由がないと感じるときである。さらに戦争や内戦のような危機的状況が起こると、人々はいやでも我慢を強いられ生活が苦しくなるので、権力者はこの「パンとサーカス」をどうやって民衆に効果的に与えるか、プロパガンダに知恵をひねる。それはそのまま宗教の問題でもあった。
 ドストエフスキーが生きた19世紀のロシアという社会は、農奴制と皇帝権力で成り立つ中世的な世界で、それをロシア正教が支えていた。『カラマーゾフの兄弟』という小説は、そのロシア的なるものを多角的に問題として批判的に提示している。その後半のハイライトになるのが大審問官の章だと、池澤夏樹さんは指摘する。それは次兄イワンが弟アリョーシャに聞かせる自作の叙事詩という形で、キリストによる救済と人間の自由との矛盾として提示される。

 「この後が有名な大審問官の章です。
 異端審問は中世のスペインで最も厳しかった。異端審問とは、正しくない信仰を広めようとしている者を見つけ出しては、「悪魔の手先」といった次から次へ火あぶりにする、という宗教裁判です。インクィジションInquisition。カトリックが最も血まみれになった時代ですね。その中世のスペインで、キリストが再び現れる。街を歩いていると、なぜか人々は彼がキリストであることに気がついてすがる。病気の者が寄ってきて「お救いください」と手を差し伸べると、奇跡が起こって救われる。足の萎えた者が立ちあがって歩く。みんなが感動して、「ホサナ!」――主を讃える言葉です――と口々に言いながらだんだん人数が増えて歩いていく。
 そこにたまたま異端審問でも一番の強硬派である大審問官が通りかかって、キリストに気がつく。そして兵隊を送って彼を捕まえさせ、一対一で対決する。大審問官はキリストに、「何のためにまた出てきたんだ」と厳しく問いかける。「もうお前は必要ない。私たちはお前なしでやってきた。制度を作ってこうやって維持してきた」。
 大審問官が一方的に喋る。それをキリストは黙って聴いている。
 最終的に大審問官が言うのは、ここは読んでいただきたいんですが、「人間は自由に耐えられない」「人間は結局は、自由よりパンを求めてしまう」ということです。
 キリストの「荒野における三つの試練」というものがあります。キリストが荒野で修業をしている時に、悪魔が現れて三つの問いかけをする。
 まず、「神の息子ならば、そこにある石をパンに変えてみろ」。キリストは、「人はパンのみにて生きるにあらず」と答えます。人はパンによってではなくて、神の言葉によって生きるんだと言って断る。
 次に悪魔はキリストを、高い高い神殿のてっぺんまで連れて行って、「神の子なら、ここから飛び降りてみろ。てんしが支えてくれるだろう」と言う。キリストはこれも「神を試みてはいけない」と言って断る。
 三番目に「もし私と契約をするんだったら、地上の全ての宝、全ての権威をお前にやろう」と言う。キリストはそれも断る。
 三番目の問いかけには別な話がありますね。ファウスト伝説。ファウストはそう言ってきた悪魔と契約をして、地上の喜びを味わって――具体的には若い女と仲良くなって――、それから名声を得て、金を得る。しかし契約の終りの時期がきたときに、いかに救われるかという話です。悪魔との契約による地上の栄光というのは古いテーマです。
 これをまた持ち出して、大審問官は言います。「人はパンではなくて、神の言葉で生きるというけれども、そのためには人は自分の自由意志を持っていなければならない。自分で選んだのでなければいけない。そうでないと信仰の意味がない。ところが普通の人間には、その自由に耐えうるだけの力がない。だからその代わり教会が権威を以て――ということは、自由を束縛して――、魂の救いを保証してやる。自由を捨てる、教会に服従をする、言うことを聞く。その代わり魂の救いを保証するという契約のシステムを組み立ててやってきたのに、いまさらおまえが出てきて、再び人間に自由を与えられてたまるか。その結果、人間がより幸せになると思うか。人間というのはしょせん弱くて駄目なものだから、自由を担うだけの力はない」と言う。そして「したがって、私はおまえを明日火あぶりにする」と言いわたします。
 キリストは立ちあがって、実に穏やかな顔で近づいて、大審問官の唇に軽く口づけをして、一種のショックを与えます。その口づけの意味というのは、「あなたの言うことは全部わかっている。人間は自由に耐えられるものではない。それでも私は今も必要とされている。だからやってきたのだ」ということです。
 大審問官はそこで、一種の心の動きを覚えて、火あぶりにせずに彼を逃がします。自ら扉を開け「出て行け、二度と戻ってくるな」と。そこでキリストは消える。
「大審問官」はこういう話です。人間は自由意志に値しない、自由意志を担うだけの力がない。パンで釣ればなんでもしてしまう。諸全その程度のものだっていうニヒリズムの無神論が、非常に説得力のある形で展開される。
 これが『カラマーゾフの兄弟』の中で、多くの読者にとって一番強烈に残る部分です。揺さぶりをかけられる。ある意味では、二十世紀になってからのキリスト教の凋落を予言するような議論です。
 この先に、例えば「実存主義」という考え方があります。サルトル(1905~80)は「人間は生まれつき自由という刑に科せられている。刑罰を受けている。生まれた時から自由であるという重みを、先天的にちょうど原罪のように背負わされている」という言い方をしています。キルケゴール(1813~55)を経てサルトルに至って形ができた実存主義というのは、一番簡単に言ってしまうとこういうことです。
 人は何かを選ばなければ一歩も先へ進めない。慣習に従って人と同じようにして選んでいれば楽でいいけれど、自由意志というものをしっかり立てて、自分の選択に自分で責任を取ろうとすると、非常な困難が生じます。
 パンの方はどうか。結局人はパンだけを求めて右往左往するようになってしまいました。今の時代に引きつけて考えれば、全てはパンの話です。商品の話であり、お金の話であり、安楽な暮らしの話であって、魂の救済の話はほとんど聞こえてきません。こういう時代だから、いきなり百三、四十年前に戻って、ドストエフスキーが書いた話に飛び込むと、改めて自分たちはどこまで来てしまったか、ということがわかってショックなんですね。
 昔ローマ時代に、「パンとサーカス」という言いかたがありました。民衆を思い通りに動かすには、パンとサーカスがあればいい、これは支配者の側からの言葉ですね。食べる物を十分に与えて、それから適当な娯楽――サーカスであったり、あるいは人と獣、あるいは人同士が殺し合うグラディエーターの試合--があれば、民衆はそれだけで満足して、文句を言わない。パンや遊びが足りないと、革命を起こす。今もって通用する真理であるところが、情けないと言いましょうか。
 ゾシマは「ロシアの民衆への信頼が、最終的にロシアを救うだろう」と言っていた。この時の民衆というのは、非常に素朴に働いて、食べて、愛情深く子供を育てて、神にすがる、ある意味で単純化された理想の民衆の姿です。
 ゾシマは修道院で、いろいろな相談事を持ちかけてくる人々一人一人の話を、実際に聞いて、導きを与えていました。そういうことを通じて、民衆は信頼できる、社会の上層部は乱れている、濁っているかもしれないけれど、民衆は信頼できるというふうに考えていた。
 これはトルストイにもあったことですが、当時のロシアのインテリたちには大衆コンプレックスがありました。あるいはその頃までは、本当に信頼に値する民衆がいたのかもしれない。
 今、ぼくは大衆を信頼しません。一つは、大衆がプチブル化して、あまりにも「パンとサーカス」ばかりに終始するようになってしまったことと、それから二十世紀も特に後半になって、おそらくドストエフスキーが考えていなかった、大衆を操作する技術が非常に発達したということがあるからです。教会もある意味では、一般信徒に安定した一種の幸福を授けるためのシステムだったかもしれない。少なくとも大審問官は、教会はそういうものと信じて、機能させていました。大衆操作と呼んでいいかどうかはわからないですけれど、「導き」であるとは言っていた。
 同じような仕事を今やっているのは広告代理店です。大衆を操作する。大衆を思い通りに動かす。そしてパンを正しく配る。正しく、すなわち最も効率よく。美味しくないパンを美味しそうに見せて配る。それだけで日所生活全てが満ち足りているような幻想、幻覚等を作りあげる。
 政治で言えば、無能政治家はどうするか。国外に敵を作ります。敵が攻めてくる。国内が団結しなければ負けてしまう。みんな頑張ろうと言うと、どんな無能な政治家でもしばらく寿命が延びます。まあ、具体例は、ここ二、三年、太平洋の両岸を見て考えて下さい。
 こういう人の心の動かし方の技術は発達しました。そして理念はなくなりました。教会には神がいて、聖書があって、人々の魂を扱っていた。今その人々を動かすためのシステムは魂のことを言いません。パンのことだけです。
 さきほどぼくは、『カラマーゾフの兄弟』は、ドストエフスキーが死ななければ続編が書かれたはずだと言いました。どんな話になるのか。アリョーシャの話です。最後、死んだイリューシャのお墓の場面、お葬式の場面で終わりと言いましたけれど、アリョーシャはそこで少年たち、若い友人たちに囲まれています。慕われています。明らかにキリストのイメージですね。
 ということは、アリョーシャ自身がこの後、平凡な市民となって幸せに一生を終えるはずがないことが示唆されている。アリョーシャはやがてリーズと彼女自身が予言したとおり結婚します。しかしその結婚生活はうまくいかなくて、彼は一人で首都に行って、さまざまな思想活動に従事した挙句、最終的にはロシアの皇帝を暗殺する。あるいは暗殺しようとして死刑になる、という話を考えていたようです。
 そういう形でなければロシアは救われない、というのが最後にドストエフスキーが考えていたことかもしれません。
 ちなみに作者ドストエフスキーが死んだ一か月後に、皇帝は本当に暗殺されました。そういう時代でした。
 今日は、ここまでが長かったので、この講義全体のテーマである、この作品と世界との関係については、言わないでおきます。しかし、『カラマーゾフの兄弟』を成立させている世界は、われわれが今生きているこの世界と非常に近い。情欲、信仰、無神論と哲学、それから自由の問題。パンとサーカスのことも含めて、今の時代と非常に重なるところが多い。その上で別の要素が加わったのが今だとすれば、これはまさに現代の小説としても読むことができます。思想的なリアリズムとして一つ一つ機能しています。
 これに比べると、例えば昨日のスタンダールの『パルムの僧院』は一種のおとぎ話でした。『アンナ・カレーニナ』は、ぼくに言わせればいささか卑俗です。話全体が俗の方に寄り過ぎています。しかし、『カラマーゾフの兄弟』は、今のわれわれの話として読める。
 おそらく今のわれわれと世界観の相当部分を共有する、そういう立場で書かれているからで、先見の明があるというか、これが人間にとっての永遠に近い重大な課題なのか、ということを思わせる小説です。」池澤夏樹『世界文学を読みほどく スタンダールからピンチョンまで』新潮選書、2017.pp.154-.161. 

 最近も、東京新聞で連載が完了したその名も『パンとサーカス』という小説を、島田雅彦が書いている。これは、「政治的関心を失った民衆には、食料(パン)と見世物(サーカス)を与えておけば支配は容易い。戦争、犯罪、天災、疫病――どれもがサーカスとなる。ヤクザの二代目、右翼のフィクサー、内部告発者、ホームレス詩人……世直しか、テロリズムか? 諦めの横溢する日本で、いざ、サーカスの幕が上がる!」というエンタメ小説を狙ったというが、基本構図はアメリカ依存を基本とする日本の限りなく従順な民衆に対して、トリックスターの逆転を仕掛ける話だというが、連載時にはほとんど読んでいない。島田雅彦は東京外大露語科出身だから、ドストエフスキーはロシア語で読んでいるだろう…と思っていいのかな。


B.過去の美化はどこでもアイデンティティを刺激する
 ウクライナの戦争の推移は、日々世界のメディアで細かく報道されているように思うけれど、欧米メディアだけを見ていると、こんなに世界中で批判されているプーチンがどうしてロシア国内では80%という高い支持率を維持しているのか、不思議な気がしてくるし、言論抑圧や批判を封じる国家の体質はソ連時代と変わっていないかのようにも思われる。しかし、それも一面的な見方かもしれない。このネットSNS時代に、メディアの規制と操作だけで国民世論を一方向に誘導するというのは、情報統制をKGB的にやれたソ連時代のようなわけにはいかないのではないか。つまり、ロシア人の過半数にとってプーチンの言うことには、心情的に共感できる部分があるとは言えるのかもしれない。それは一言でいえば、ロシアのナショナリズム、たぶんに幻想的な世界を二分した強国であったソ連時代への郷愁ではないだろうか。美化されるナショナリズムというものは、自分たちの過去の歴史に、英雄的な壮挙だけを見出し、都合の悪い事実は無視することによって装飾される。対ナチ戦勝記念日、というのはまさにそういう自己賛美のウラー‼のお祭りなのだろう。

 「プーチン政権 早期崩壊論の盲点  大衆に根付かせた愛国心:常盤 伸 
 ロシアがウクライナへの侵略戦争を開始し、二カ月が経過した。当初、プーチン政権の早期崩壊論が盛んに語られた。厳しい対ロ制裁で経済は大打撃を受け反戦デモが拡大。支配層からも離反が活発化し、政権はもたないとの見立てだ。私はそうした予測には懐疑的だったが案の定、プーチン支持率は急増、政権崩壊の兆しは見えない。
こうした希望的観測が絶えないのはなぜか。おそらく、ロシアを西側社会と同じ尺度で判断し、ロシア独特の大衆意識の動向を軽視しているからではないか。
 さて、今回の侵攻を受け従来主流だったプーチン観も見直しが必要だろう。プーチン氏は基本的に「プラグマティスト」であるとの見方だ。権力維持と政治目標の達成が最重要課題で、イデオロギーにはこだわりがないという見方だが、ウクライナへのいわば妄執から侵攻に突き進んだ現在、その見方は説得力を失った。
 「原点」に立ち戻ろうと、1999年末、当時のエリツィン大統領から大統領代行に指名される直前にプーチン氏が発表した論文「千年紀の境い目におけるロシア」を最近再読した。すると軽視されていた重要な点に気がついた。「愛国心」について「大多数のロシア国民にとり、完全にポジティブな意味をもつ。祖国とその歴史、偉業を誇りに思う感情だ」と強調。一方で国民が「愛国心を喪失し、偉業を達成する能力をもつ国民としての自己を失っている」と当時の状況を批判的に見ていたのだ。
 翌年大統領に就任するとソ連国家の曲を復活させたり、愛国心育成プロジェクトを始めたりしたものの基本的には、改革者として振る舞った。しかし、対独(ナチス)戦勝六十周年の2005年以降、愛国主義が政策の中心を占めるようになる。
 さらに「三期目」の12年以降は、第二次大戦の対独戦勝のシンボルとして、黒とオレンジのストライプ模様の「ゲオルギーのリボン」を胸につけたり、モスクワなどロシア全土で戦没者の遺影を掲げて行進したりする「不滅の連隊」運動など、当局主導で愛国主義を、主要メディアなどを通じて大々的に推進し、国民的運動とした。
 今やナチス・ドイツと戦って勝利した大祖国戦争の記憶は、愛国主語の根幹として絶対不可侵の存在だ。プーチン政権は、ゼレンスキー大統領らウクライナ政権をネオナチと決めつけ、侵略を正当化する。言語道断な口実だが、プーチン統治の二十二年間で大衆の意識のなかにこうした政権の愛国プロパガンダ(政治宣伝)を受け入れる土壌が出来上がっていたのだ。
 プーチン氏ほど国民の意識を巧みに操ってきた指導者は珍しい。プーチン体制の行方を占う意味でも、その点を軽視すべきではないだろう。」東京新聞2022年4月27日夕刊3面、デスクの目。

 プーチンを支持するロシア人をぼくらは笑えない。この日本という国でも、明治維新以来の大日本帝国を美化し民族の輝かしい歴史だとみたくてたまらない人たちがいる。そういうナショナリストにとっては、日本のやった戦争を否定し批判する言論は、「反日」つまり民族を貶める間違った歴史観を広める陰謀にみえる。自分の国に誇りを持ちたいという心情はわかるけれども、それは歴史のゆがんだ虚像を信じる偏見で、プーチンがやっているように自分勝手な戦争を始める大きな動機になるから、始末が悪いということは記憶するべきだと思う。
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 大長編小説のよみほどき 2 カラマーゾフ 前編

2022-04-25 14:38:54 | 日記
A.ドストエフスキー読んだ?   ブルシットジョブって?
 世界文学の名作といえば、必ずその名が登場する19世紀ロシアのトルストイとドストエフスキー。どちらもとびきり長い小説がいくつもあるのだが、だいたい邦訳されて文庫本で読める。でも、『アンナ・カレーニナ』や『戦争と平和』をちゃんと全部読んだ人はどのくらいいるのだろう?ぼくも『アンナ・カレーニナ』は文庫本で途中まで読んだし、『戦争と平和』は読まないで映画(アメリカ版とソ連版)で見ただけ。トルストイよりはドストエフスキーの方が、高校時代の国語の宿題だった『罪と罰』にはじまって、『白痴』、『悪霊』などは一応邦訳で読んだから、いちおう「読んだことある」といっても嘘ではない。でも『カラマーゾフの兄弟』は、何巻もあって長いのと登場人物の名前が覚えきれなくて、亀山郁夫訳は5巻買って読もうとしたのだが、途中で挫折した。面白そうだと思ったけれど、時間と心のゆとりがないと読み通すにはハードルが高い。そこで、ちゃんと読まずに、誰かが適当に要約して批評してくれちゃっているのを、つい摘まみ食いしてしまう。池澤夏樹さんのこの講義でも、『カラマーゾフの兄弟』は高い評価を与えられる。それはどんな点で格別なのか?

「一昨日すでにちょっと触れたことですけれど、アメリカで60年代から80年代にかけて人気があったカート・ヴォネガットという作家の、『スローターハウス5』という作品の中に「人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にある、……『だけどもう、それだけじゃ足りないんだ』」という台詞が出てきて、これはぼくの考えでもほとんどその通りだということを、ここでもう一度いっておきます。
 『カラマーゾフ』を読んでいなければ話にならないとまでは言わないけれども、生きるとはどういうことか、ということを考えるのには、とても役に立つと思います。十九世紀から二十世紀にかけてという時代に、「生きているということを徹底的に味わい尽くす」という貪欲な姿勢で生きる、しかもその貪欲さを何らかの倫理でコントロールしながら生きる、というのはどういうことなのかを考えるのに、ものすごく役に立つ。役に立つ、というと功利主義的に聞こえますが、面白くためになるっていう意味では、本当によくできた話です。
 さて、この話の議論の中心は、〈情欲とその制御〉〈信仰〉と言いましたが、もう一つ言えば〈ロシア〉というテーマが大きく横たわっています。
 トルストイの時にも少し触れましたけれど、ロシアはずっと、西ヨーロッパに対して強いコンプレックスを持っていました。遅れてきた国である。革命が済んでいない。まだ皇帝の支配下にある。全体としてインテリが少なく教育レベルが低い。それから、この小説が書かれた時点で言えば、農奴制がついこの間――1861年――まであったということ。西ヨーロッパに始まった啓蒙思想からすれば、農奴制というのは人道に反するとんでもない制度で、それをつい先日まで引きずっていた後進国という強いコンプレックスがあったわけです。
 このロシアをいったいどうすればいいのかという問題で、インテリたちは散々議論をする。ところが同時に、インテリたちは「どうせインテリというのは、お茶を飲んで喋っているばかりで、何をする力もない」と自嘲気味に思っている。そういう無力感がある。
 その一方でインテリたちには、ロシアにはあの民衆がいる。彼らの信仰がある、という民衆への信頼感があります。特にドストエフスキーはそれが強い。
 アリョーシャが憧れている修道院の長老ゾシマは、非常に徳の高い僧であるわけですが、最終的にはロシアを解放するのは、フランス革命のような力による革命ではなくて、民衆への信頼だと言います。これが、宗教的指導者であり、最もロシア臭い、土に近い匂いのする人物が口にするロシアの未来像であるわけです。
 ソレカラ、「カラマーゾフ」には〈笑い〉という要素が実は大きい。『アンナ・カレーニナ』にはほとんど笑いは出てきませんが、この『カラマーゾフ』には非常にたくさん出てきます。それも微笑などではなくて、爆発的な哄笑のような笑いかた。それにヒステリックな、止まらないような笑い。
 それから、どんちゃん騒ぎ、大盤振る舞い。この要素については、〈カーニバル〉という言葉を使って説明した、ロシアの文芸学者バフチン(1895~1975)のドストエフスキー論が有名です。今日は詳しくは言いませんけれども、頭に留めておくべき名前とテーマです。
 バフチンは本当はジョイスの中のカーニバル的な大騒ぎについて書きたかったのだけれど、政治的理由で出来なかったので、とりあえずドストエフスキーでやってみたらしい。いずれにしても文学の中で――あるいは日常生活の中でもそうですが――、〈カーニバル〉、つまり一時的にハメを外して徹底的に大騒ぎをし、普段の鬱屈を解放したり、季節の区切りを確定したり、という要素は、とても大事です。そういう文化人類学的なものを文学にまで取り込んだのが、この『カラマーゾフ』の中の大騒ぎであるというのです。
 議論が白熱して、理屈のための理屈の応酬に陥って、あるいは言いたい放題になって、何が何だかわからなくなってしまう。そこでともかく食い物をいっぱい用意して、田舎の村に乗り込んで、みんなに「さあ、食べろ、飲め」「ジプシー呼んできて、躍らせろ」と、大騒ぎを演じる。こういうことは単に小説を面白くするための飾りとしてではなくて、人が生きていくための重要な要素としてあるんだという、そういう意味で挿入された〈笑い〉と〈カーニバル〉。これは『カラマーゾフ』を読むときに無視できないものです。
 さらにもう一つ、『カラマーゾフ』では、〈子供たち〉が大きな役割で登場します。ついまたトルストイと比べてしまいますが、トルストイには子供たちはほとんど出てきません。『アンナ・カレーニナ』で言えば、アンナの子供がチラッと登場はしますが、ほとんど人格がない。母親に愛されるべき存在という記号的なものでしかありません。ちなみにスタンダールにも子供はほとんど出てきません。
 子供に対する姿勢を持っている作家と、持っていない作家がいます。一般的にアメリカ文学には子供の要素は大きい。明後日マーク・トウェインの話をするときに言うと思いますけれども、アメリカの場合、国全体がどこか幼児的とまではいわないまでも、少年的な要素をたっぷり持った国であって幼い。したがってアメリカ文学にとって少年、少女の像というのは、たいへん意味深いものがあります。
 が、ロシアの場合はそうではない。他を考えてもあまり子供たちは登場しないのですが、ドストエフスキー、特に『カラマーゾフ』では、子供たちの役割は大変に大きいのです。それは、人間がいかに穢れているか、堕落しているか、救いがたいか、社会を改善するのがいかに困難であるかを、ドストエフスキーはずっと考えながらやってきて、そんな中で最終的に絶望に陥らない、ペシミストにならないために次の時代に期待するしかない、という意味かもしれないと、ぼくは思っています。
 というのも、この『カラマーゾフの兄弟』は、彼の最後の作品だからです。もちろん書いている時は最後になるなどとは思っていなかっただろうけれども、最後の作品になってしまった。ですから、最晩年の作品であるわけです。これを書き終わってまもなく、彼は死にました。本当はこの話には、同じぐらいのサイズの続編が書かれるはずだったらしいのですが、書かれずじまいでした。
 彼らとは別に、〈子供たち〉、具体的には、コーリャという大変魅力のある男の子が出てきて、彼の仲間の十二歳から十四、五歳の子供たちが出てきます。それから、話の中でとても大事な役割を果たすイリューシャという男の子。もう一人、リーズという少女が出てきます。少しからだがわるいのですが、そのことを盾にとってコケテイッシュにふるまうという、あの年頃に特有のふるまいをする。彼女も大変よく書けていて、とても魅力があります。彼女はアリョーシャを慕っています。
 登場人物たちの話の中でも、「自分が子供だった頃」というのが、何度も登場します。少年期というものがとても深い意味を持っていると、ドストエフスキーはこの話の中でずいぶん強調している。
 もう一つ、現代に繋がる構成上の牽引装置として、〈推理小説〉〈ミステリ〉である、という要素があります。
 これは殺人事件の話です。ある時点で父親のフョードルが殺される。犯人がわからない。周辺の状況から見ると,長男のミーチャが犯人であるらしく思われる。いかにもそう思えるような状況が暴露される。例えば以前にミーチャは父親を「ぶっ殺してやる」と何回も公言していた。現場から血まみれで逃げだす姿が見られている。しかもその前にミーチャは金策に走り回っていたのに、父親が殺されたその夜の後、大金を持っていて、それを――さっきのカーニバル的な方法で――散財しようとしていた。つまり金目当ての殺人という動機がある。状況証拠からすると、いかにも彼が犯人らしく思えるのです。
 しかしその犯罪の瞬間、その一時間か二時間を作者は書かない。話をずっと進めていって、ミーチャが父親のところへ行き、何分か後に出てくる場面が描かれる。それから、彼がグリゴーリイというカラマーゾフ家の召使いの老人を金属の棒で殴って、血まみれで昏倒させ、逃げるという場面があります。だけど彼が家の中で父親を殺した場面、あるいはそうしなかった場面はない。ないまま、そこは空白にしたままで作者は話を先に進める。だから読者としては、本当にミーチャが犯人だろうか、それとも別に犯人がいるんだろうか、という謎を抱えたまま、先へ、先へ、答えを欲しがって読んでいく。これはもうすっかり推理小説です。
 それで結局、真犯人が別にいることが明らかになる。あっ、言っちゃった(笑)。推理小説の場合は、犯人を言ってはいけないですけれど、ここは文学の講義だからいいことにしましょう。
 ミステリの場合、あるいは結末でどんでん返しが用意してある話の場合、書評ではそこは書きません。少なくとも僕は書きません。文庫本の解説の場合――これは職業的なテクニックの問題ですが――、解説でどうしてもその尻尾を明かしたいという時は、「この先は結末が明かしてあるから、本文を読み終わらない人は読んではいけません」と、断ってから書きます。これは読者の新鮮な喜びを奪わないための配慮です。たまにさっさと名前を書いてしまう奴もいます。こっちが読者である時は、殴ってやろうかと思いますね。
 というわけで、ごめんなさいですけれど、この場合はしょうがない。弁解するわけではありませんが、ミーチャが犯人でないとわかったからといって、この長い長い小説の価値はたぶん三パーセントぐらいしか減らないと思う。そのかわりその三パーセントを補う分だけの魅力を、ここで解説しますから、我慢しください。
 この小説のミステリとしての仕掛けは、とてもうまく出来ています。つまり、その意味でもこの話は先駆的なのです。言ってみれば、二十世紀になってから書かれたミステリは、『カラマーゾフの兄弟』の長い長い議論や何かを全部省いてしまって、ストーリーの骨格だけ残したものだと言っていいかもしれない。
それで、犯人が読者にとってある程度明らかになる、あるいはそれを関係者たちが――例えば敬虔なクリスチャンである一番下のアリョーシャが――信じるようになったところで、今度は裁判の場面が始まるわけです。それも非常に詳しい。ですからこれは、《裁判小説》とも言えるのです。
 ミステリ、探偵小説、推理小説などのサブジャンルとして、裁判小説というのがあります。昔テレビのシリーズがあったのですが、「ペリー・メースン」は知らないでしょうね。《裁判小説》というのは、非常に優れた弁護士が、裁判の席上で、誰が真犯人であるかを明らかにするというパターンの話です。
 裁判では関係者一同が集まる。容疑者がいて、検事がいて、証人がいて、弁護士がいて、裁判官がいる。陪審員もいる。その中に真犯人がいる場合、容疑者を中心に証言が組み立てられていく中で、弁護士が矛盾を突いて、「実はこの時にここにいてこの行為をしたのは、彼ではなくて、あなたではないんですか」と真犯人を指さす、そういうドラマチックな場面が構成できる。これが裁判小説です。
 ただし、『カラマーゾフ』の場合、読者はアリョーシャとともにすでに真犯人を知っているので、その真相が裁判で明らかになるかならないか、という別の興味で裁判の場面を読むことになるのですけれど。
 それから、さらにもう一つ、スタイルとしての特徴を挙げておきましょう。非常にたくさんの要素が詰まっている話だと言いましたけれど、長編小説の書き方としては、ピッチがとても速いのです。語り急いでいる感じといったらいいでしょうか。つまり、言いたいことがたくさんあって、急いで言わないと間に合わないという風です。
 これはドストエフスキー自身が急いでいるからではなくて、アリョーシャという少年から青年になったばかりの人物が非常によく動き回っているから、多分そういう印象になるのだと思います。自分の兄と父が一人の女を争って、そこに別の女も絡んでくる。そこへ二番目の兄もやってきて、みんなが議論をしている。そしてアリョーシャもその時々に、選択や判断や意思表示を迫られる。そういう濃密な事態に対して、彼は必至で反応して、事態を追いかけ、推理し、思索します。話の中でアリョーシャがあっちへ行ったり、こっちへ行ったり、ほんとによく走り回る。言ってみれば、彼が必至で走るのを作者はペンと紙を持って追いかけながら書いている、というふうなスピード感です。
 実際議論は長い。みなが延々と喋っている。ロシア人はよく喋る。寡黙という美徳は知らない。喋りまくって、喋り倒す。議論が空回りに思えることすらある。ともかく言葉の量が多くて、そして速い。このスピード感、みんなの中から何かが溢れてくる感じ、これはとても強烈です。ついぼくも相当早口で喋っていますね(笑)。
」池澤夏樹『世界文学を読みほどく スタンダールからピンチョンまで』新潮選書、2017.pp.130-138. 

 念のため、この京都大学での集中講義でとりあげられた10の長編小説とは、スタンダール『パルムの僧院』、トルストイ『アンナ・カレーニナ』、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、メルヴィル『白鯨』、ジョイス『ユリシーズ』、トーマス・マン『魔の山』、フォークナー『アブサロム、アブサロム!』、トウェイン『ハックルベリ・フィンの冒険』、ガルシア=マルケス『百年の孤独』、ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』、それにおまけのように池澤さんの『静かな大地』が入っている。いずれも世界の名作として知られるといっても、恥ずかしながらぼくは『魔の山』とフォークナーの別の作品『八月の光』くらいしか読んでいないし、ピンチョンは初めて聞いた名だった。せめて『カラマーゾフの兄弟』は、持ってるんだからちゃんと全部読もうといま目の前に置いた。


B.ブルシットジョブ
 職業というものについて、ぼくもずっと社会学的に考えてきた。人はなんらかの職業として働くことで社会と有意に繋がり、自分に何ができるか、人に対しても何ができているか、その結果なんらかの報酬も得て、生きていく意欲が沸くと考えられる。でも、自分ができること、やりたいことが職業として社会の中に用意され、そこに就けるかどうかは自分だけでは決められない。幸いそんな仕事に就けている人はよいけれど、そうではない人も多い。あるいは自分が就いた仕事で自分をすり減らしたり、人を傷つけたりすることもないとはいえない。職業はその時代、その場所で必要に応じて社会的に用意され、そこに就く人も選ばれている。だが、今問題なのは、社会的に必要とされる仕事ではなく、場合によっては無意味だったり、あるいは害悪を産むような仕事があり、それによって本来必要な仕事をしている人よりも高い報酬を得ていたりする、という現実があることだ。ここではそれを、ブルシットジョブと呼んだ人類学者の本が紹介されている。

 「「どうでもいい仕事」なぜ増殖 :酒井隆史さん 大阪公立大教授 
 たくさんの人が新しい仕事を始める季節。業務に意味を見出せない、労働条件がひどい、職場の空気が悪い…と、仕事の悩みも増えるころだ。「クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか」という、ぶっ飛んだ副題の本を書いた大学教授に会ってきた。(玉置太郎)
 「ブルシットジョブ」という言葉を聞いたことがあるだろうか。日本語でいうと、「クソどうでもいい仕事」。
 定義はこうだ。
 「本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でさえある有償の雇用」
 米国の人類学者デビッド・グレーバーが著書「ブルシット・ジョブ」で論じ、世界で話題になった。一昨年、この本を翻訳したのが大阪公立大の酒井隆史教授だ。
 苦しみ 言い当てた 
 出版元の岩波書店によると、発行は10冊4万部まで伸び、人文系の学術書としては異例の売れ行きだという。
 ブルシットジョブの多くは大きな組織の中にあって、地位も報酬も高い。グレーバーはそれを五つに分類した。
 ①取り巻き――誰かを偉そうに見せるためだけの仕事
 ②脅し屋――脅したり欺いたりして他人を操ろうとする仕事
 ③尻ぬぐい――組織の欠陥をとりつくろうためだけの仕事
 ④書類穴埋め人――形式的な意味しかない書類をつくる仕事
 ⑤タスクマスターー―他人に仕事を割り振るだけの不要な上司
 こんな仕事は自分の職場には全くない、と言える人がどれくらいいるだろう。
 翻訳後、酒井さんのもとにもラジオや市民講座への出演依頼、メディアの取材など反響が相次ぎ、解説書「ブルシット・ジョブの謎」の出版にまでつながった。
 「これまで誰も論じなかった『無意味な仕事をする苦しみ』を言い当ててくれた、というカタルシスが、日本でも共鳴を起こしたのでしょう」
 それにしても、グローバル化で競争が激しくなり、効率化が求められる現代、なぜブルシットジョブはびこるのだろう。
 背景には「ネオリベラリズム」(新自由主義)がある、と酒井さんは言う。自身が30代の頃から研究を続けるテーマだ。
 「ネオリベラリズムとは『競争の構造』を社会のあちこちに持ち込むこと。お役所仕事は非効率だから、市場原理に任せて競争させれば成長するという考え方です」
 学校、病院、交通機関、公共施設…、そうした現場は容易に思い浮かぶ。
 「競争するためには、何でも数値化して、絶えず評価し、格付けしないといけない。その際、本来は競争になじまない領域まで数値化され、書類化され、評価にさらされる。その過程に生まれる膨大なペーパーワークや管理業務の中で、ブルシットジョブが増殖していくんです」
 「やりがい」の逆説
 効率化を考えるほど、実際には官僚的な仕事が増える。酒井さんの挙げた例は自身も勤める大学だ。
 かつては大学職員との簡素なやり取りとあうんの呼吸で作っていた入試問題や講義計画が、「大学改革」のかけ声の下、管理者から何重ものチェックを受けるようになった。必要書類や会議も年々増える。
 「だからこの本は、おれの心の叫びでもある」。大阪・キタにある自身行きつけのカフェバーで、酒井さんはそう語った。
 「資本主義の発展にともなって、人々の心には『苦しければ苦しいほど労働には価値があり、人間を成長させる』という倒錯が刷り込まれた。だから仕事がブルシットジョブ化しても、大きな問題にならないんです。過労死が絶えない日本の社会では、特にその倒錯が強い」
 コロナ禍では、医療や介護、教育、保育、ごみ処理など、暮らしの維持に欠かせない「エッセンシャルワーク」に人々の意識が及んだ。無意味なのに高報酬なブルシットジョブが増える一方、エッセンシャルワークは不可欠なのに賃金が低い。
 そんな、仕事における社会的価値と報酬との反比例を、酒井さんは解説書で「エッセンシャルワークの逆説」と名付けた。
 「エッセンシャルワークの多くは」人間のケアにかかわる労働で、かつては家庭に押し込められ、女性が無償で担ってきました。それが市場に取り込まれて賃労働化しても『本来は報酬に値しない仕事』と下に見られ、価値が切り下げられてきた」
 酒井さんは、近年よく聞く「やりがい搾取」という言葉に、この逆説をみる。
 「社会貢献ができてやりがいのある仕事なのに、その上高報酬をもらおうなんてぜいたくだ。自分はこんな無意味なブルシットジョブに耐えているのに、というわけです」学校教員の労働条件の過酷さなどは、まさに一例だという。
 望む世界 想像して 
 この逆説をのりこえるため、グレーバーは「ベーシックインカム」を一つの可能性として示した。収入に関わらず、すべての人に一定の所得を保障する社会制度だ。
 十分に生活できる所得が保障されれば、待遇の悪いエッセンシャルワーカーに就きたがる人は減り、賃金を上げざるを得ない。無意味で苦しいだけのブルシットジョブは消える。社会的に価値のある活動は、無償でもやる人が出てくる――。
 そんなにうまくいくのだろうか。
 「ベーシックインカムを考えることは、今とは違う世界を想像するきっかけです」と酒井さんは言う。
 「そんな想像も許されない厳しい社会で私たちは生きている。でも、これほどの技術と富を誇る現代ならば、労働からの解放へと人間が向かって言っても、おかしくないはずでしょう」
 グレーバーは一昨年、59歳で急逝した。酒井さんは十数年前、彼の小論に「衝撃」を受け、以来、著書の翻訳を手がけてきた。グレーバーは世界金融の中心で経済格差に抗議した「米ウォール街占拠運動」(2011年)にも関わり、「想像力」という概念を愛した人だったという。
 「人間が本来望んでいたのはどんな社会か、想像することできっと世界は変わってくる。コロナ禍での変化も一つのきっかけです。想像力の範囲から変えていく、そんな時代に私たちは今いるんじゃないか」」朝日新聞2022年4月22日夕刊8面、いま聞く。

 ベーシックインカムが、ブルシットジョブの解消に貢献するかどうかは、ぼくにはまだ判断しにくいのだが、街を歩いても、テレビを見ても、「クソどうでもいい仕事」がのさばっていると感じることが多い。そして、そういう仕事が成り立っているのは、人々の心を占領している思想が、お手軽に楽をしてお金が儲かるなら、それは悪くない、むしろ頭のいい人間のすることであり、社会を基礎で成り立たせているのが地味で苦労の多いエッセンシャルワークだということを、どこかで馬鹿にするような、ネオリベ競争原理に同調しているように思えて、非常に悪い世の中になってしまった気がする。これを変えないと社会が劣化する。
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 大長編小説のよみほどき 1 「物語」とは  戦争の現実的視点

2022-04-22 14:14:16 | 日記
A.世界文学全集があった昔
 ウクライナの戦争がどうなるか、気になるけれどまだ誰も予測できない段階だ。というわけで、地元の図書館に行ったら『世界文学を読みほどく』(池澤夏樹著・新潮選書2017年)というのを見つけ、借りてきて読んでいるので、話題はかなり転じてしまうが、世界文学の十大傑作を「読みほどく」という内容を、ちょっとつまみぐいしてみる。これは作家池澤夏樹氏が、2003年の9月に京都大学文学部の夏季特殊講義として行った14回の講義の記録である。副題に「スタンダールからピンチョンまで」とあるように、世界文学の傑作とされる十の長編小説と池澤氏自身の作品「静かな大地」を加えてその文学観・世界観を論じている。
 日本では敗戦と戦後の混乱が落ち着いて経済成長に歩み出した1960年代、文学全集ブームというのがあって、日本の名作、世界の名作と銘打った小説を集めてこれくらいは読んだ方がいい、と大いに売れた時代でした。全部読んだ人がどれくらいいたかは怪しいけれど、学校の図書館でも、余裕の出てきた普通の家庭でも、教養の基礎は文学全集が置いてあることだった。今から思えばずいぶん文学とか小説とかいうものが、特別な価値を持っているかに思われていた。それがあの時代の特徴ともいえるほど、日本と世界の名作小説の名前くらいみんな知っていた方がいい、と言われたわけです。いまや誰もそんなことは思っていないし、それどころか学校教育を所管する文部科学省は、日本文化の根幹ともいうべき「国語教育」で、実用的な文章が書ければビジネスや交際で困ることはなく、小説や文学なんて余計なものを教えるより英会話を小学生からやることが重要だとすら言っている。本屋はどんどん廃業して、文学全集なんて買う人はほとんどいない。読む人もごく一部のマニアしかいない。
 実際、ドストエフスキーやトーマス・マンなど読むだけでもかなりの時間と忍耐力を要する小説だから、日々忙しく過ごしている現代日本人には、長編小説を読むなんて無用な贅沢と言ってもいい。しかし、読まなければはなしにもならないわけで、大学の夏季集中講義(これは5日間くらいで一気に半期分の講義をやってしまうもので、ぼくもやったことがあるが、教える側も教わる側もかなり集中を強いられる、きついが充実感のある講義だ)という形で学生にも作品を読むことが課されるわけだが、さすがに京都大学の学生はちゃんとついてきたようだ。まずは総論1から。

 「ここまでぼくは、「物語」と「小説」という言葉をあまり区別しないで使ってきました。
「物語」の方が古い言葉です。「小説」とは、物語が近代的に整備されてもっぱら書物の形になったものである、と、ここではまずそれぐらいゆるく定義しておきましょう。
 では「物語」とは何か。他の国の言葉で「ストーリーstory」とか「イストワールhistoire」ということは一旦避けて、日本語の、「物語」といういい言葉を使って、しばらくことを進めてみたいと思います。
 「物語」、物を語る。どういう意味なのか。まず「もの」とは何かです。日本語の語彙の中で、「物=もの」と「事=こと」、この二つは非常に基本的で重要で、あきらかに区別があるのに、その区別を説明しようとすると、なかなか難しい。
 こういう基本駅な語彙を、例えば外国人、日本語を知らない人に説明しようとしてみて下さい。これは言葉のトレーニングになります。つまり、いつも無意識に使っているために、明らかに状況に応じて使い分けているにもかかわらず、その根拠がなかなか説明できない。こういった説明を試みるのは、日本語というものを自分の中で客観化するためのよい訓練です。
 こういうことは子供を育てるとわかります。子供から「これ、どういう意味」と聞かれて説明しようとする。言い換えてはいけない。言い換えるのではなく、その言葉の持つ元の意味に戻って、しかも子供に分かる範囲で説明しようとすると、非常に難しい。辞典に頼ろうとすると、辞典というのは意外にインチキであることがわかる。きちんと説明してない場合が多い。一番よくあるのは、Aを見ると「Bを見よ」って書いてあって、Bを見ると「Cを見よ」って書いてあって、Cを見ると「Aを見よ」って書いてある。グルッと回って元に戻ってしまう。これは、わかっている者同士でなければ結局わかりません。
 その点、英和辞典、和英辞典というような外国語の辞典は楽です。ほぼそれに相当する言葉を見つけてくればいいんですから。同国語内、同言語内の辞典というのは、実はなかなか難しいのです。
 広辞苑によれば、「物=形のある物体をはじめとして、存在の感知できる対象」「事=意識・思考の対象のうち、具象的・空間的でなく、抽象的に考えられるもの」。どうも「物」の方が具体的で、「事」の方が抽象的であると、広辞苑は言います。
 これでもいいですが、ぼくの考えでは、たぶん「物」の方が物質的、空間的で、「事」の方が現象的なんではないか。現象というのは時間軸が関わりますね。そういう違いもあるのではないかなという気がします。
「食べる物」というのは具体物です。「食べる事」というのは行為ですね。非常に大雑把に言えばそういう感じなんだけれど、しかし日常的に使えば使うほど、この二つは、なかなか微妙な差があって味がある一対です。
 ともかく「物」というのは何かの対象である。人間が働きかける、その働きかけの対象が「物」であるとしましょう。認識論も含めて。
「物語」を「物」と「語」の二つの言葉に分けてみれば、「物」の方にはあまり重い意味はない。大事なのは「語る」方でしょう。「語ら」れる対象として「物」がある。何かについて「語る」ことが「物語」である。「何か」は、とりあえず括弧に入れておく、と。「語る」という行為に意味がある。
 では「語る」とは何か。これまた広辞苑によれば、「筋のある一連の話をする」。ちょっと足りないなという気がするんだけど、まあそうでしょう。大事なのは「一連の話である」ということです。始まりがあって、途中があって、終わりがある。そういう話をする。
 それでは「話」とは何かというふうになると、だんだんわからなくなってしまう。
 では、こう言えばどうでしょう。「語る」とは、単に「話す」ということではない。それから伝える、ということでもない。言う、でもない。言ってみれば事件があって、その事件の主体たる人格がそこにいて、現象が起こって、変化(=時間)がある。それを一つのまとまりとして、他人に話す。それが「語り」である。
 ここで大事なのは「時間」です。人間には「時間の感覚」がある、と言うと、そんなあたりまえのこと、ということになってしまいますので、例を挙げてみましょう。
 例えばシマウマです。シマウマに時間の感覚があるか。たぶんないと思います。彼らには現在しかない。イマウマは「昨日何を食ったか」とは思い出さない。シマウマにあるのは、目前にある危険を回避すること。目前にある食物を摂取すること。それから発情期には、目前にある異性と交わること。これぐらいが生きていく上の基本原理です。
 シマウマの頭にあるのは常に目前のことだけです。集団でいて、危機が迫ったら一番臆病な奴がまず逃げ出して、そうすると全部が逃げる。二、三頭がライオンの犠牲になるかも知れないけれど、あとは助かる。そこで忘れる。
 アフリカの野生動物を撮った映像でよく見ますけど、一頭が捕まって殺されて食われている時、他の連中はもう安心だから、その近くで悠然と草を食んでいる。その一頭に同情して涙を流しはしないし、食われている仲間を見ながらも、恐怖を感じてはいない。もう脅威は去っているから。
 なぜそうなのかと言えば、時間の感覚がないからです。「さっきこんな目に遭った。で、いずれはぼくもあんな目に遭うかもしれない」とは思わない。その辺がたぶん、シマウマの知性の限界。したがってシマウマには「物語」はない。
 犬はどうでしょう。犬にはある程度の時間感覚があります。例えば昔飼われていた飼い主と会うと、ちゃんと覚えていて喜んで飛びつく。その時犬の中には、「昔飼われていた人」という、「昔」という概念がたぶんあるのだと思います。今の飼い主と違うことがわかるし、どっちが今餌をくれているかもわかる。だけど「なつかしい」という感情も持つ。犬の場合、一種の時間の感覚があるのだろうということができると思います。
 ちなみに、シマウマに過去はない、時間感覚がないと言いましたが、これは大脳が知覚するような個体レベルでの感覚という意味です。種全体としては、生まれて育って大人になって、子を産んでそれを育てて、やがて死ぬという、その時間軸の中において生きていることには違いないんだから、そういう意味では一個体としてでも、あるいはずうっと継続する種としてでも、無自覚的な時間の感覚といったらいいのか、つまり「時間」の中で暮らしている、生きていることには変わりはない。ただそれを大脳のレベルで、情報として認知したうえで、それを現在でない過去とか未来へ外挿する=エクストラポレイトextrapolateする、外へ伸ばしてみることができない。「今がこうだから、明日はこうであるだろう」とか、あるいは「今はこうだけど、昨日はこうであった。一年前はこうであった」と、その時点から先へ延ばしてみる想像力がない、ということです。
 つまり時間感覚というのは、過去へ延ばすにしても、未来へ延ばすにしても、想像力の問題なのです。その力がシマウマにはない。犬には少しあるかもしれない。
 ジャック・ロンドン(1876~1916)という、面白い冒険小説をいっぱい書いたアメリカの作家がいます。彼はゴールドラッシュ時代のアラスカに金を探しに行っていて、その時の体験を基にいくつかの話を書いているのですが、一番有名なのが『荒野の呼び声』と『白い牙』という話。どっちも犬の話、狼の話です。
『荒野の呼び声』の方は、犬が野生に戻る話で、『白い牙』の方が逆、オオカミが犬になっていく話だったと思います。読みやすくて面白い話です。
 バックという『荒野の呼び声』の主人公の犬が、たき火のそばで夢見るように炎を見つめて寝そべっている時、「今まで食った物のことを考え、これから食うもののことを考えた」という一行があって、昔読んだ時、「うまいな」と思って、いかにも犬が考えそうなことだと思ったんです。だけど今思うと、ちょっとあれは無理じゃないかなという気がします。つまり犬というものは、昔食った物のことは考えないんじゃないか、それほどの知性はないんじゃないか。
 いずれにしても「語る」ためには、時間の感覚、記憶、それから未来に向けた想像が必要である。想像というのはイマジネーションですね。」池澤夏樹『世界文学を読みほどく スタンダールからピンチョンまで』新潮選書、2017.pp.35-40. 

 総論は、まず「物語」について、次に「小説」とはどういうものか、一応の定義を与えて、さらにそこから長編小説というものの達成をスタンダール『パルムの僧院』からトルストイ『アンナ・カレーニナ』、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』と、順に具体例で考えていくという構成になっている。

 「午後は、物語、小説というのは、どうしても主人公、つまり人間中心に考えがちである。しかし実際には、人が動く「場」の方もかなり重要なのだ、という話をします。
 この一週間でぼくがお話ししようとしているのは、要するに人と世界の関係の話です。われわれは物語、小説によって、自分たちの世界観を表現しようとする。だからぼくたちの世界観自体が変われば、表現の仕かたや内容は変わっていく。もしも今、物語や小説そのものが非常に大きく変わろうとしているとするなら、――それがどう変わろうとしているかを、この一週間で見ていくわけですけど――その理由は、ぼくたちの目に映っている世界のありかたが変わっているからじゃないか。
 例えば、十九世紀の前半にスタンダールが見ていたような世界のありかたと、今ぼくたちが見ている世界というのは違う。また、1945年に生まれたぼくが見ているような世界と、1980年代になってから生まれた皆さんが見ている世界とずいぶん違う。世界像がこんなに速やかに変わるというのは、実に不思議なことですけれど、実際変わりつつあるんじゃないかと思います。そしてそれが、ここまで小説が変わってきている原因ではないのか、という結論に持っていきたいので、これから十の小説を論じながら、その主人公たちの性格、ふるまいを分析すると同時に、それが起こった「場」を見、どういう世界観で動いていたかを考える。そういうことがやはり大事になってきます。
 そこで、「場」ないし「舞台」のことをちょっと考えましょう。
「場」とは何か。例によって広辞苑。「物事の行われる広いところ」、まあとりあえずこれでいいと思います。日本語の「ば」の語源は庭であるらしい、ということも付け添えておきます。
 例えば宮殿があって、その前の広い空間で踊りをする。それをその宮殿の階の上から宮殿の主が見る。これがたぶん「場」なんだろうと思います。京都御所の前にも広いスペースがありますね。
 沖縄の首里城は中国式の宮殿なんですが――を考えると、比較的わかりやすいかもしれません。沖縄語では「場」は「Nâなあ」です。「遊び」は「あしびašibi」と言い、「遊(あし)び」というのは踊りや芝居のことなのですが、「遊び」をする場は「あしびなあ」と言うのです。
 ある空間があって、そこで何かが行われる。この、「空間があって、そこで何かが行われれる」というのが、一番歴然としているのは演劇です。
 その空間のことを舞台といいます。舞台は「舞をする台」と書きます。台であるから普通は一段高くなっている。しかしそれは必然的なことではなくて、例えばギリシャやローマの円形劇場の場合は、舞台は平土間ですね。だいたい丸くて、その周辺に客席が円錐形に取り囲んでいる。アンフィテアトルと言います。その、人々の視線によって囲まれた何もない空間に、登場人物、俳優、踊り手、歌い手、あるいは演説者が表れて何かが始まる。
ピーター・ブルック(1925~)という、イギリスで一番すぐれた演出家が書いた演劇論で、象徴的なタイトルのものがあります。『なにもない空間』(1968)。芝居はそこから始まる。いったん始まってしまうと、人は演者の方に目を奪われがちだが、実はその空間がなければ、その「場」がなければ、何も始まらない。」池澤夏樹『世界文学を読みほどく スタンダールからピンチョンまで』新潮選書、2017.pp.42-44. 

 スタンダール以下の各論は、それぞれ大変面白いのだが、部分引用はご遠慮させていだだいて、次回ドストエフスキーと池澤氏の「静かな大地」にだけ触れて、最後の総括にいくという駆け足をしてみる予定である。


B.戦争の現実的問題
 今日の段階では、ロシア軍がウクライナ南東部の都市マウリポリを制圧したと発表し、プーチンは最後に残って抵抗する製鉄所への攻撃は停止すると表明と伝えられ、ウクライナ政府と欧米メディアは、まだ抵抗は続いていると報道している。戦争の現場はつねに流動的で、予測困難なものと思われるが、日本は軍隊をなくして戦争をしないと憲法に書いた国だから、自衛隊という軍隊(のようなもの)はあるけれど、実際に戦後77年戦争をしていないから、実践を体験している人はほとんどいない。それでも、戦争の専門家はいるわけで、マウリポリの製鉄所が戦闘の要塞化して抵抗しているとすれば、それはどうして可能なのか。

 「劣勢 立てこもりに活路:松村五郎・元陸自東北方面総監 
 ロシア軍がウクライナのマリウポリを包囲し、ウクライナ軍が製鉄所に立てこもって抵抗を続けている。なぜ、こうした戦闘に行き着いたのか。現代戦に詳しい松村五郎・元陸上自衛隊東北方面総監に聞いた。
 製鉄所には旧ソ連時代に作られた巨大な地下施設がある。発電や給水などの施設も備えているようだ。追い詰められたウクライナ軍は、製鉄所の地下施設しか攻撃を防ぐ場所がなくなっているのだろう。
 もともと、第2次大戦まで戦闘は、市街地の周辺部で行われていた。旧日本軍から自衛隊に受け継がれている「森は兵をのむ」という言葉がある。平野部なら可能な近代兵器を使った戦闘が、森に隠れている相手には通用しないからだ。
 ところが、第2次大戦後、侵略された国民や武装勢力、民兵などが、戦力で圧倒する正規軍に戦いを挑むケースが増えている。ウクライナ軍や民兵も装備で劣り、建物からロシア軍を狙い撃ちでき、一般市民に紛れ込める市街地に立てこもる選択肢しかなかった。
 地下施設を攻撃するうえで、ロシア側が被害を最小限に抑えようとするなら、空爆で出入り口や換気施設などを破壊しようと考える。懸念されるのが化学兵器の使用だ。ロシアは化学兵器禁止条約の批准国だが、要人暗殺用にノビチョクを開発するなど、世界で最も化学兵器分野で進んだ国でもある。人道的に許されるはずはなく、国際世論の猛烈な反発を招くことは間違いない。
 製鉄所を包囲して封じ込め、相手が疲弊するのを待つ方法もある。ただ、ロシアは政治的に「マリウポリを制圧した」と宣言したい。空爆や砲撃の可能性を指摘する報道が出ている背景には、ロシアの政治的思惑が見え隠れしている。
 残念ながら、マリウポリは数日のうちに制圧される可能性が高い。ロシアはマリウポリに投入した戦力を、鉄道駅への攻撃が報じられたドネツク州北部にあるクラマトルスクの正面に転用するだろう。クラマトルスクを制圧すれば、ドネツク州のほか、すでにほぼ押さえているルハンスク州、ザボリージャ州南部、ヘルソン州に加え、ハルキウ州などの攻略を急ぎ、当面最小限の目標の達成を目指すだろう。ウクライナ軍が押し返すことができるかどうか、今の時点ではまだわからない。 (聞き手・牧野愛博)」朝日新聞2022年4月22日朝刊7面国際欄。

 もうひとつ、ロシアへの対抗戦略として経済制裁をやっているが、どの程度効果があるのか。貿易経済の制限は、やる方も犠牲を覚悟しなければならない。グローバルな自由貿易が世界をひとつにし民主化を普及させると考えてきたこれまでの世界経済の流れがここで変わる。それは先導してきたアメリカにとって、どういう意味があるのか。ポール・クルーグマンは、ウクライナでロシアを押し戻すために断固できることはやらなければならず、南北戦争の教訓を持ち出して、ロシアの資源供給を断ちたくないドイツを弱腰と難じている。

 「貿易は必ず平和をもたらすか:ポール・クルーグマン 
 1861年4月12日、米国で反乱軍がサムター要塞を砲撃し、南北戦争が始まった。この戦争は結果的に南部にとって大打撃となり、青年男子の5分の1超を失うことになった。しかし、なぜ南部の分離主義者たちは勝てると信じていたのだろうか。
 理由の一つは、自分たちが強力な経済的武器を持っていると考えたからだ。当時、世界を引っ張っていた英国の経済は、南部の綿花に大きく依存しており、その供給が絶たれれば、英国は南部連合の側に立って介入せざるを得ないと考えたのである。実際、南北戦争は当初「綿花飢饉」を引き起こし、多くの英国人が失業した。
 だが結局、英国は中立を貫いた。一つの理由は英国の労働者が南北戦争を奴隷制度に対する道徳的な聖戦とみなし、苦しい状況ながらも北軍の大義に賛同したからだ。
 なぜこのような古い歴史を振り返るのか。それは、ロシアのウクライナ侵攻と明らかに共通性があるからだ。南部の奴隷所有者たちが英国の綿花依存を見ていたのと同じように、ロシアのプーチン大統領は、欧州、特にドイツのロシア産天然ガスへの依存を見ていたのは明らかなようだ。つまり、経済的依存のためにこれらの国々が自分の軍事的野心を支えざるを得なくなると考えたのだ。
 そして彼は完全に間違っていたわけではない。私は先日、ウクライナの自由のために経済的犠牲を払おうとしないドイツを非難する記事を書いた。戦争が始まる直前にウクライナが軍事援助を求めた時のドイツの対応がお粗末だったことも忘れてはならない。英米は大急ぎで大量の対戦車ミサイルを含む兵器を提供し、これらは首都キーウ(キエフ)へのロシアの攻撃を撃退するのに大きな役割を果たした。ドイツが渋々送ったのは、ヘルメット5千個だった。
 それに、トランプ氏がまだ米国の大統領だったら、国際貿易は平和ではなく強制のための力であるというプーチン氏の考えが立証されただろうことは疑いない。
  •   *   *  
 私がドイツに恥をかかせ、民主主義のより良い擁護者になるよう仕向けようとしていると思うなら、その通りである。しかし、私はまた、グローバル化と戦争の関係について、より広い視点から指摘をしようとしているのだ。これは多くの人が想定していたほど単純な話ではない。
 欧米のエリートの間では、貿易は平和に役立ち、逆もまたしかり、と長い間信じられてきた。米国が第2次大戦よりも前から続けてきた貿易自由化の推進は、常に政治的な事業という側面があった。フランクリン・ルーズベルト大統領のもとで国務長官だったコーデル・ハル氏は、関税を引き下げ、国際貿易を拡大することが平和の礎になると固く信じていた。
 欧州連合(EU)もまた、経済的であると同時に政治的な事業だった。1952年に設立された欧州石炭鉄鋼共同体は、フランスとドイツの産業を相互依存させ、二度と欧州で戦争を起こさないことを明確な目標にしていた。
 そして今のドイツの弱さの理由は1960年代にまでさかのぼる。西ドイツ政府は、西側との結びつきが強まれば、東側諸国の市民社会が強化されて民主化が進むと考え、ソ連との経済関係を含む関係正常化を目指して「東方政策」を推進した。1973年、ロシア産天然ガスがドイツに供給されるようになった。
 つまるところ、貿易は平和と自由を促進するのだろうか。確かにそういう場合もある。しかし、繁栄よりも権力を重視する権威主義的な支配者は、他国との経済統合を悪行の許可証と見なす場合がある。強い経済的利害関係を持つ民主主義国は権力の乱用に目をつぶってくれると考えるのだ。
 ロシアに限った話ではない。EUは、ハンガリーのオルバン首相が自由民主主義を手際よく解体している間、何年間も傍観してきた。この弱腰の原因は、欧州、特にドイツの企業がコスト削減のためにアウトソーシングを追求する中で行ったハンガリーへの多額の投資によってどれだけ説明がつくだろうか。
  •    *    *  
 さらに本当に大きな問題がある。中国だ。習近平国家主席は、中国と世界経済との密接な統合を台湾進攻といった危険な政策を避ける理由ととらえているのか、それとも欧米の弱腰な対応を期待する理由と考えているのか。それは誰にもわからない。
 私は保護貿易主義に回帰すべきだと言っているのではない。トランプ氏が国家安全保障を持ち出してカナダ産アルミに関税を課したような茶番はともかく、貿易に関する国家安全保障上の現実の懸念は、私たちがかつて信じていた以上に真剣に受け止める必要があると言いたいのだ。( 中 略 )
 具体的には、欧州はロシアの石油とガスの輸入を断つために迅速に行動しなければならず、欧米はウクライナに対し、プーチン氏を抑えるだけでなく、明確な勝利を得るために必要な武器を供給する必要がある。ここにはウクライナにとどまらない大きなものがかかっている。(NYタイムズ、4月11日付電子版 抄訳)」朝日新聞2022年4月22日朝刊、13面オピニオン欄、コラムニストの眼。
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ウクライナの歴史を知る 10 プーチン・ドクトリンとは?  問題小説

2022-04-19 00:32:17 | 日記
A.なんのための戦争か
 人々に災いや危険をもたらす戦争は、自然災害ではなく、軍隊をもった権力者の人間がある目的と手段を周到に考慮し、準備して開戦にいたる社会的行動だと考える。攻め入る側も攻め込まれた側も、それぞれに自分たちの正義があり主張がある。今も続いているウクライナの戦争は、攻めこんだロシア側の言い分より攻め込まれたウクライナ側の言い分の方が説得力があるかどうか、ぼくたちはそれを公平に判断できるほど確実な情報をもっていない。ウクライナを応援する欧米側の報道は、ロシア軍が現地で非戦闘員の市民を多数殺し、都市を壊滅させるような爆撃をしていることを、人道への罪として強く非難している。それはもちろん許し難い行為だが、そこまで軍隊がやっているのはロシアの軍人兵士がみんな正常な神経を失った悪人だというよりは、この戦争を決断したロシア国家権力者が、ウクライナの現政権に強い憎悪感情をもって断固とした命令を下したからだろう。
 それにしても、何のためにこんな戦争をやっているのか?それについてこれまで読んできた黒川氏の『物語 ウクライナの歴史』は、ソ連崩壊とウクライナの独立までの記述なので、今回の戦争について遠因はわかるが、21世紀の事情はわからない。そこでいくつか出てきた文献のうち、プーチンの意図と目的について、かなり詳しく説明しているロシア史政治の専門家、下斗米信夫氏の論文を一部引用しておく。今のところ邦文では一番信頼できるウクライナ侵攻をめぐるプーチンの意図について触れている。

 「プーチン大統領による2022年2月24日のウクライナへの攻撃決定といきなりの空爆に始まる軍事侵攻は世界を驚かせた。冷戦終焉とソ連崩壊後30年、平和の褒賞どころか人類は1962年のキューバ危機以来の核戦争寸前となってきた。NATO(北大西洋条約機構)東方拡大政策がロシアにとっての歴史的兄弟国であるウクライナとの戦争に至った。
 ウクライナは1000年前の正教とカトリックの分裂に由来して二つに分かれていた。本来のウクライナには辺境という意味があるが、それはモスクワからではなくポーランドの辺境という意味だった。現在のウクライナの領土の東側が歴史的にマロ・ルーシとよばれた広義のロシアの地であれば、今「西側」の大使館が避難しているリビウはかつてハプスブルク帝国の地、第二次世界大戦時にスターリンが併合したガリチアであった。ソノチノバンデラなどの民族主義者は第二次世界大戦時の一時期ナチスと組み、1953年までスターリンとも戦った。プーチンがウクライナの右派民族主義者をナチスというのはこのためである。
 核大国ソ連が崩壊した時の最大の問題は、核管理と黒海艦隊など戦略部隊をどう分割するかであった。独立国家に分割するのでなくCIS(独立国家共同体)という戦略部隊が管理するという当初の構想はウクライナのボイコットで破綻、結局1997年に黒海艦隊は共同運営、セバストーポリ港は20年間(2017年までの)賃貸という妥協が成立していた。プーチン政権はヤヌコビッチ政権との間でこれを25年まで延長し(2010年のハリコフ合意)、同艦隊は共同管理下にあった。
 2014年ソチ五輪直後、NATO加盟派と右派とがマイダン革命という名のクーデターでヤヌコビッチ政権をたおしたのは、この情勢を逆転させるためであった。だが100名以上の犠牲者を出す暴力革命となった。多くは政権側の機動隊の暴力と思われたが、最新のカナダの研究者(カチャノフスキー)は革命派のスナイパー部隊が原因という学説を唱えている。親NATO側の「マイダン革命」に対抗して、これを違法なクーデターと考えたプーチンはクリミアを併合した。マイダン派が新政権の発足に手間取っている間に、ロシアは1953年までのロシア領土だったクリミアを取り戻したものの、ウクライナを失ったと言われるゆえんである。以後米ロ対決は幾多の仲介案があったものの今日の最悪の結果となった。
 今回の戦争、軍事侵攻の目的はウクライナの軍事占領ではなく、2022年2月15日に独立させたロシアのドネツク、ルガンスク2共和国の要請に基づく軍事作戦であるとプーチンは語った。その目的は自己の安全のためウクライナの「非軍事化」「非ナチ化」、そしてソ連崩壊時のウクライナ憲法にもある中立へ戻すためと主張する。だがそのための短期的な核兵器の行使までちらつかせた軍事作戦は、人類社会をもチキンゲームに巻き込んでいる。1945年クリミアのヤルタで誕生した戦後世界の根幹は2014年のクリミア併合と、そして8年後のウクライナ戦争で決定的に毀損された。こうして1945年にまさにこの地のヤルタ会談で決まって以降の世界秩序からのゲーム・チェンジャーとなったロシアだ。つまり国連ができた時の最重要国、英米ソの関係が決定的に分裂した。
 ソ連崩壊とその後、そして2000年以降のロシア政治を筆者はE・H・カーのタイトルを借りて『新危機の20年』(朝日新書)として公刊した。そのなかで、プーチンの首相期(2008‐11年)を含め22年にわたるプーチン政治そのものが、実はNATOの東方拡大問題の動きと実は正確に対応してきたことを指摘した。
 その出発点は1999年6月のコソボ紛争である。この時ロシア平和維持部隊の指導者プーチン(安全保障会議書記)と、米国側NATO拡大のリーダー、ストループ・タルボット国務次官とがプリシュチナ空港での出会いとなった。冷戦期のNATOとは、ソ連封じ込めのため、ヨーロッパに『米国が入り、ドイツが下がり、ロシアは追放』された同盟関係のことだ。
 他方プーチンは冷戦末期の東独でKGB情報将校として対岸からNATOを見てきた人物だ。ソ連崩壊後、恩師のソプチャーク、サンクト・ペテルブルク市長のもとの国際担当をへて、1996年からクレムリン入りしてから1999年に安保担当書記となった。国内ではチェチェンなどの対テロ戦争が勃発、ひ弱な民主化派が退潮するとエリツィン大統領は1999年に後継者にプーチンを指名した。その意味ではNATO拡大がプーチン体制を生み出した。
 プーチンがクレムリンに入った1996年は、ちょうどベーカー国務長官が言った「1インチも動かさない」はずのNATO拡大問題が国内で燃えさかった時だった。クリントン大統領は9月にデトロイトで、ポーランドなど東欧移民労働者を前にチェコ、ポーランドなどに広げることを訴えた。米民主党支持者には中東欧出身のユダヤ人やカトリック教徒が多い。キューバ危機後、暗殺されたケネディやバイデン現大統領はいずれもカトリック教徒だが、民主党政権時に国際的安全保障上の危機が生じるのは米国の内政から見ると偶然とはいえない。
 実際クリントン政権の周辺には冷戦後台頭したネオコン系東欧移民末裔の政治家、思想家が出だした。なかでも哲学者ケーガンは、ヨーロッパ人はなぜ「敵」と戦わないのかと米国の覇権と同盟の結束を訴えたがその夫人こそウクライナ危機のもう一人の司令塔となるビクトリア・ヌーランド元NATO大使、現国務次官である。彼らはユーゴ紛争、コソボ紛争での国連や欧州の無力をきっかけにNATOの軍事力を域外で利用する米国例外主義の立場を主張、1999年に新ユーゴスラビア、つまりセルビアの聖地でもあったコソボで国連決定を無視してNATO軍を利用してイスラム系アルバニア人からなる国家を創出した。実は今回プーチンがドネツク、ルガンスク独立承認で無理やりつかった法理のモデルはコソボで最初に英米系の学者が主張した。つまり国際法でいう「保護する責任」というやり方、現在は東ウクライナのロシア系住民に対する差別と「ジェノサイド」から独立した国の要請で「特別軍事作戦」として展開している訳だ。このやり方のロシア側のイデオローグは、1990年代にオルガノフ(政商)のTVキャスターを経てプーチンのブレーンとなったチェチェン系のウラジスラフ・スルコフだった。マラフェーエフら正教系オリガルフもチェチェン系と並んでこの地に民間軍事組織を提供した。ハイブリッド戦争とも言われるが、米国の民間軍事会社をまねした。その敵となったのはウクライナ政商系やチェチェン人、「ネオナチ」など各種の民間軍事組織であった。
 今回の危機の原因について奇しくもロシア(セルゲイ・カラガノフ)と米国を代表するロシア政治学者(アンジェラ・ステント)がともに『プーチン・ドクトリン』という論文を本年初めに公表しているのは偶然ではない。カラガノフは12月にウクライナのNATO加盟はロシアへのレッドラインだと米国政府への条約草案で論じた時がプーチン・ドクトリンの誕生という。
 プーチンの国際観が変貌したのは、カラガノフによれば2007年のミュンヘンの安全保障会議演説であった。米国の世界政策に異議を唱えた。翌年NATOがジョージアとウクライナへのNATO拡大を米国がごり押ししたが、これはロシアを挑発すると米国のロシア大使で現CIA長官のウィリアム・バーンズや仏独が批判、即座の承認が見送られたことが今日の米ロ紛争の遠因だ。案の定8月のジョージア紛争となった。親米派サーカシビリ大統領が、米国の黙認でアブハジアと南オセチアというジョージア内少数民族の未承認国家を攻撃したのに対し、ロシア軍側が平和維持活動としてこれを撃退、そして返す刀で首都トビリシまで攻め込む短期作戦をとった。
 今のウクライナ紛争はプーチンからはこの繰り返しだ。カラガノフによれば、今回はNATO拡大の対象であったウクライナをクーデター以前の憲法にある中立化することをめざし、攻撃することによって米国支配の世界秩序を「創造的に破壊」するのがその骨子だという。やや古くさい言葉だが「アングロサクソン」優位の世界秩序に対し、場合によっては軍事力を行使しても抵抗することが、その中心概念である。米国中心の戦後の一極支配は終わり、世界は多極化し、中国と米国と、経済力こそ劣るもののロシアを三極とする「多極世界」が登場したという考えは、米国の一元的支配が終わったというシカゴの国際政治学者ミアシャイマーの考えとも近い。
 プーチンから見ると、ABM条約やINF条約といったヨ-ロッパの安全保障の根幹をなす条約を今世紀になって米国が一方的に破棄した。その結果、もしウクライナがNATOに加盟すると同地のミサイルはゴルバチョフ時代は30分あったが、今は7分でモスクワを攻撃できるようになる。その上、昨年の一連の過程でミンスク合意Ⅱという、今から考えれば流血抜きで解決できたはずの選択をゼレンスキー政権が選挙公約を破って拒否し出した。プーチンを「悪魔」と呼んだバイデン民主党政権ができるとゼレンスキーは態度を変えNATO加盟を期待して東ウクライナ奪還を急いだ。この右顧左眄ぶりがミンスクⅡを支持していた米欧からもいったんは見放されたゼレンスキーが、同国の核保有までくちばしったことは中立と非核化、領土保全を書いたブダペシュト覚書(1994年)違反だった。
  ステント教授は今回の危機の原因を昨年3月に求めている。ウクライナ軍とロシア軍が対峙、関係が緊張した。前年秋アゼルバイジャンがナゴルノ・カラバフの「自治共和国」問題でアルメニア軍を撃滅した方式を応用、トルコから提供された軍用ドローンを使ってウクライナ軍がミンスクⅡの対象であった二つの「共和国」とクリミア半島奪還を掲げ密かな作戦を行った時期だった。プーチンは敏感に反応し、今回と同じ10万前後のロシア軍を動員して、圧力をかけた。その時の紛争はNATOが情報を開示していないので不明だが、NATO側ではトルコが重要な役割を演じ、2共和国へドローンなどを使った攻勢を仕掛け、このことでウクライナの即時NATO加盟をはかるものだったようだ。プーチンはこれを抑止した。この成功経験が4月14日のプーチン・バイデン電話会談となり、6月の米ロ首脳会談で米ロは「予測可能な戦力的安定関係」を目指すことになった。そうでなくとも8月のバイデン政権によるアフガニスタンからの撤兵は米ロ両国がさらに共通して話し合う必要性を増やしていた。他方、ゼレンスキーは9月の首脳会談でバイデン大統領へNATO加盟の履行を求めたが、条件が熟していないとしてバイデンは拒否した。そうでなくとも「ウクライナ疲れ」気味の政権では米ロの対話ムードが増した。
 10月末のバルダイ会議でプーチンは「穏健的保守主義」という主張から対米融和を強調、ジュネーブ合意での「戦略的安定」対話からより具体的な話し合いを目指すことになった。バイデン大統領周辺ではサリバン補佐官、それにウィリアム・バーンズCIA長官(2019年の回想録で「NATO加盟は挑発」と書いた)が対ロ対話派だった。後者は毎月モスクワを訪問して「バック・チャンネル」として機能した。その米ロ協力の結果は今年1月ロシア当局が民間のハッカー集団を摘発したことでも知られる。
 プーチンのバイデンとの12月当初のオランダオンライン首脳会談は米ロ関係の転機になったかに思われた。仏独が参加したミンスクⅡの履行が「戦争でもなく、平和もなく」というゼレンスキーのサボタージュで不可能になった以上、外交を通じた新たな米ロ間、つまりミンスクⅢを目指す交渉となった。この会談でバイデンは、ウクライナのNATO加盟は遠くなった、かといってウクライナ国境に再び結集し始めたロシア軍が侵攻し始めたら、米国は経済制裁で臨むと、あらかじめ釘を刺した。ウクライナには米兵を派遣する国益はないとして、翌日は小規模なロシアの介入なら黙認すると「失言」した。
 こうした結果がプーチンのウクライナ「中立」への「強要外交」の開始であったと思われる。ウクライナのNATO参加を20年程度棚上げする案もあり得たかもしれない。EUをかませることも民間専門家では議論された。ルールは外交解決だった。90年代に米国が「1インチも動かさない」と語りながら条約化しなかった90年代初めの反省を込めて、ロシアと米国は条約案を取り交わすことになった。早速12月半ばの条約交渉でプーチンはウクライナの加盟は「レッドライン」であることを、兵力展開への具体的交渉と並んで展開した。ミンスクⅡの関係者をはじめ欧州でも、政経分離のメルケル政権にかわる社民党の新東方政策を掲げるドイツのショリツ独政権が新しい動きをはじめた。
 さすがに12月に2度にわたるプーチン・バイデンによるビデオ首脳階段を経て、1月にはヨーロッパ、そしてグローバルな今後の安全保障を左右する一連の会議が始まり、緊張緩和、脱エスカレーションの方向にあるかに思われた。1月米ロのジュネーブ交渉でも溝は埋まっていないが、それでも米ロ双方が交渉による解決に前進した。この間OSCE、NATO・ロシア協議などが並行して行われた。この間15万程度のロシア軍が動員される。しかしそれでも、ウクライナの「中立」か、NATO「加盟」かの溝は埋まらなかった。チキンゲームの性格は深まった。」下斗米伸夫「NATO拡大が作ったプーチン戦争の悲劇」(『現代の理論』2022春号、認定NPO現代の理論・社会フォーラム)pp.4-9. 
 
「チキンゲーム」という言葉は、ある交渉において、2人の当事者が共に強硬な態度をとり続けると、悲劇的な結末を迎えてしまうにも拘らず、プライドが邪魔をして双方共に譲歩できない状況の比喩として使われる場合もある。バートランド・ラッセルが、チキンゲームを「瀬戸際外交」と比較した研究は有名である。ゲーム理論における研究対象にもなっており、非ゼロ和ゲームと深い関わりがある。チキンゲームは、交渉における重要な基本原理であり、譲歩する猶予が与えられた各プレイヤーの戦略として記述される。そして双方のプレイヤーの少なくとも一方が譲歩しない限り、悲劇的な結末は避けられない。チキンゲームは、ゲーム理論における研究対象にもなっており、非ゼロ和ゲームと深い関わりがある。チキンゲームは、交渉における重要な基本原理であり、譲歩する猶予が与えられた各プレイヤーの戦略として記述される。そして双方のプレイヤーの少なくとも一方が譲歩しない限り、悲劇的な結末は避けられない。 (以上wikipedia)
 冗談ではなく、ウクライナの戦争の現状は、ロシア軍による東南部マウリポリ占領で終了などとはいかないだろう。停戦交渉は行き詰まり、チキンゲームの様相は強まる。ロシアが核大国であることがこれほど不気味な未来を招きかねない2022年の春である。


B.皇室についてどう語るのか?
 女性週刊誌を中心とする大衆週刊誌は、いまだに毎週小室夫妻の動向をあれこれ報道し、それをTVもニュースで垂れ流している。みんなが興味を持ち週刊誌が売り上げを伸ばすことを期待してやっているのだろうが、情報として公共的価値はない。これだけ不愉快な皇室報道をやっていながら、一方で天皇制そのもののあり方について発言すること自体を自己規制したり、右翼に攻撃されるのを恐れてタブーにするメディアは一向に変わらない。

「土曜訪問:上皇ご夫妻の「冒険」小説刊行 森達也さん(作家・映画監督)
「象徴」語れる社会に:オウム真理教の内部から撮影した映画「A」など、常識を揺さぶる作品を発表し続けてきた森達也さん(65)。三月に刊行した新著「千代田区一番一号のラビリンス」(現代書館)にも驚いた。主要登場人物の名は「明仁」と「美智子」。上皇ご夫妻が冒険を繰り広げるファンタジー小説だ。
 話題騒然となりそうな作品に思えるが、発売の二週間後、森さんは浮かない表情だった。「本への反響はいまのところ全然ありません。黙殺か炎上か、どちらかだと思っていましたが…」。聴けば、雑誌で書評される予定が二件立ち消えになったばかりだという。かつて映画「A」でも体験した「見慣れた風景です」。
 物語は、虚実の合間を漂いながら進んでいく。
 舞台は天皇の生前退位を控えた平成末の日本。映画監督の「克也」は、憲法をテーマにしたフジテレビのドキュメンタリー番組で、憲法一条、つまり日本の象徴とされる天皇の日常を撮影することを計画する。
 これは2004年の森さんの実体験がベースだ。「天皇制は社会の隅々まで息づいているのに語られにくい。勉強するほど違和感をもった」。皇居に手紙を送ったり、「ご学友」にメールアドレスを尋ねたり、さらにフジテレビからは「手法に違和感がある」と迫られ…。天皇の撮影がいかに困難か。さまざまなアプローチが失敗する過程そのものを映像に収めていったが、企画は破綻した。
 「その後も二人への思いは強くなった。テレビなどで見ていると、国民に何か伝えたいんじゃないかと思えた」。例えば2014年は栃木県で、足尾銅山の公害を明治天皇に伝えようとした田中正造の直訴状を見学し、16年には敗戦で多くの死者を出した満蒙開拓団の記念館を訪問している。「これらはすべて私的な旅行。車中で何を話しているのかな、とか妄想するわけです。その妄想を文字にして悪いことはない。小説という空間ならできる」
 小説は雑誌連載が一度決まったが中止になり、その後も大手の文芸誌や出版社に軒並み断られたという。「『役員会で反対された』とか『むちゃくちゃ面白いけどうちは無理』とか理由はいろいろ。でも『天皇だからだめ』とは絶対に言わない。要するに過剰な忖度によって形成される菊のタブー。小説のテーマが小説の扱いにも表れた」
 作中でカギを握るのは、存在するのに触れない、見える人にしか見えない謎の生き物「カタシロ」。克也は出会うはずのない明仁と美智子に出会い、比喩ではなく文字通りの「ラビリンス(迷宮)に迷い込む。
 印象的なのは、二人のチャーミングな人物造形だ。口数は多くないが常に思考を巡らせている学者肌の明仁と、本の虫で好奇心旺盛な美智子。ソファでテレビを見てくつろぎ、孫の成長が楽しみで、時には時代劇「暴れん坊将軍」のようにお忍びで街に繰り出す。
 森さん自身は「天皇制が危険なシステムであることは確かで、その危険性が自由に語れない空気でより強くなっている。ならば要らないんじゃないかという立場」だというが、好意さえ感じる描写だ。「『森さんからのラブレターだ』という人もいました。右だけでなく、左からの反発もあるかもしれない。ただ、二人には反論権がないからそこへの批判はあるかもしれませんが、誹謗中傷と思われる書き方はしていないつもりです」
 本の帯に「問題小説」という言葉がある。この小説が「問題」だとすれば、原因は内容ではなく、私たちの「象徴」について語れない社会の方ではないか。「タブーがあるとされながら、結婚などのプライバシーをスキャンダルとして消費する皇室報道は見ていて気持ちが悪い。実際の明仁上皇は『象徴』について『模索する』と何度も発言されていたが、本来は、そのポジションを与えたこちら側が考えなければならない」
 刊行された以上、この小説をお二人が読む可能性もゼロではない。「登場する人みんなに献本しました。もちろん二人にも読んでほしいですね」。もしそうなったら、どんな表情を浮かべるだろう…。森さんにつられ、私もそんな妄想をした。  (谷岡聖史)」東京新聞2022年4月16日夕刊5面。
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ウクライナの歴史を知る 9  棚ボタの独立?  ロシア人の考え方

2022-04-16 15:40:46 | 日記
A.350年待った独立 
 「ソ連」と呼ばれた国家は複数の社会主義共和国による連邦といっても、実質的にはクレムリンに君臨したソ連共産党が取り仕切るひとつの国、として70年間、国際社会からアメリカと対峙する世界の中心的存在のひとつと見られていた。それが1991年、ゴルバチョフ大統領に対する保守派のクーデターが失敗し、ソ連自体が解体し独立国家共同体に移行した。その解体を先導したのがウクライナの独立宣言だった。歴史上何度か試み、繰り返されたウクライナの独立が今度こそ実現することになった。

 「1985年ソ連共産党の書記長に就任したゴルバチョフ(1932~)は、抜本的な改革を行えば、共産党の支配するソ連というシステムは存続しうると信じていた。そしてグラスノスチ(情報公開、ウクライナ語ではフラスニスティ)とペレストロイカ(再建、ウクライナ語ではペレブドーヴァ)を両輪とする政策を開始した。しかしともに進むべきはずであった二つの政策はグラスノスチのみが先行し、ペレストロイカは既得権益の抵抗にあって遅々として進まなかった。グラスノスチは、ゴルバチョフの意図に反して、国民の働くインセンティヴには向かわず、むしろ批判するインセンティヴとなり、また何よりも危険なことに民族主義に火をつけた。スターリン、フルシチョフ、ブレジネヅら歴代の指導者は細心の注意をもって各地の民族主義をコントロールし、それによって帝国としてのソ連の維持してきたが、グラスノスチにより民族主義抑圧のたがが外れ、ソ連の解体を招くことになった。
 ウクライナでソ連体制に対する不信が最初に高まったのは、チェルノブイリ(ウクライナ語チョルノビリ)原子力発電所の爆発事故によってであった。1986年4月26日、キエフ北方約100キロにあるチェルノブイリ原発第四号炉が爆発した。192トンの核燃料のうち4%が大気中に放出され、広島型原爆500発分の放射能が広がった。事故それ自体も史上空前であったが、事態を一層悪くしたのは、ソ連の隠蔽体質であった。ゴルバチョフの政権獲得から一年あまり、グラスノスチもまだ浸透していない時期だったこともあり、事故は28日まで伏せられた。そのためもっと早く公表されて必要な措置がとられていれば助かったであろう多くの命が失われ、何万という人々がいまだに後遺症に悩むことになった。またこの事故は他の環境問題にもウクライナ人の注意を向けた。ソ連はこれまで生産性至上主義で、環境問題にはほとんど無関心であった。問題がおこったとしても隠すのみであった。ウクライナはソ連第一の重化学工業地帯と誇っていても、気がつけば工場・鉱山の排出する汚染物質は垂れ流しで、ウクライナ南部、東部はソ連有数の汚染地帯となり、住民の健康問題が深刻になっていた。
 グラスノスチが浸透してくると、これまで抑えられてきた不満が吹き出てきた。長い間タブーであった歴史の「空白」を明らかにしようとする動きも出てきた。1932~33年の大飢饉が公に議論され、1930~40年代に保安警察によって虐殺された人々の大規模な墓場が発見された。第4章で触れたマゼッパの行動は裏切りではなく、ロシアから分離しようとする試みであるとの論文も現れた。そしてこれまで批判の対象だった第一次世界大戦時の「ウクライナ国民共和国」も正当な民族の渇望の表われと解釈されるようになった。またコストマーロフ、フルシェフスキー、ヴィンニチェンコなど過去の人物の名誉も回復された。
 ウクライナ語復権の動きも高まり、1989年には「ウクライナ言語法」ができ、ウクライナ語が国語となった。また長い間禁止されてきた青と黄のウクライナ民族国旗が現れ、人々はウクライナ国歌「ウクライナはいまだ死なず」を歌い、ヴォロディミール聖公の三叉の鉾の章を胸につけるようになった。
 禁止されていたユニエイト教徒もヴァティカンやアメリカの後押しもあり、1987年より公然と活動するようになった。1989年ゴルバチョフがヴァティカンを訪問したのを機に、ソ連はようやくユニエイト教会を合法化した。またスターリンにより1930年以来禁止されていた「ウクライナ独立正教会」も合法化された。ウクライナのロシア正教会も1990年以来自治を与えられていたが、1991年モスクワから完全に独立して「ウクライナ正教会」となった。こうしてウクライナには、ユニエイト、ウクライナ独立正教会、ウクライナ正教会、ロシア正教会(ウクライナ在住のロシア人が信徒)が並立することとなった。
 このような状況下で、1989年9月、民族主義を長く抑圧してきたシチェルビツキーがウクライナ共産党第一書記の地位を解任され、ヴォロディミール・イヴァンコに替わった。イヴァンコはまもなくモスクワの党中央に呼ばれ、スタニスラフ・フレンコが第一書記となった。シチェルビツキーの失脚は、ウクライナにおける変化を加速することになった。
 シチェルビツキー失脚の直後(1989年9月)、「ペレストロイカのためのウクライナ国民運動」(「運動」という意味のウクライナ語「ルーフ」の略称で一般に呼ばれる)が結成された。これは人権・少数民族の権利・宗教の保護、ウクライナ語の復権を求めるゆるやかな組織で、独立までは求めず、ソ連が主権国家の連合体となることを要求していた。ルーフは詩人イヴァン・ドラチ(1936~)が議長となり、ミハイロ・ホリン、ヴォロディール・ヤヴォリフスキーらのインテリや反体制運動家が幹部となった。ルーフは30万人近くの市民に支持され、独立に至るまでの民間の運動をリードすることとなる。ルーフは新しい政治手法として公開の集会を盛んに開催した。集会には数万、ときには20万人の人々が参加した。その最大規模のものは、1990年1月に30万人(あるいは50万人ともいう)を動員してリヴィウとキエフをつないだ「人間の鎖」であった。
  独立達成 
 1990年3月ウクライナ・ソヴィエト共和国の議会である「最高会議」(ヴェルホヴナ・ラーダ)の選挙が行われた。これまでにルーフは急進化し、ウクライナの独立を主張するようになっていた。選挙では、依然として共産党が議席のほぼ三分の二を占めたが、親ルーフの候補者は種々の選挙妨害にもかかわらず約四分の一の議席を獲得した。この選挙で初めて反対党が現れたのである。選挙では、反体制運動家であったルキアネンコ、チョルノヴィル、ホリンらが当選した。この頃には共産党の権威が落ち、10万単位で党員が離脱するようになった。ウクライナの政治は、すべてを牛耳ってきた共産党に代わり、これまで飾りものにすぎなかった最高会議が引っ張っていくことになる。
 同年六月、ソ連からの独立傾向を強めてきたロシア連邦は主権宣言を行った。これに引き続いてウクライナの最高会議も同年七月十六日主権宣言を行った。ただこの時点ではウクライナが連邦から離れることまでは想定されていなかった。また同月二三日、レオニード・クラフチュークはヴォルイニ州出身の共産党官僚で、議長就任まではイデオロギー担当のウクライナ共産党第二書記であった。彼は、議長就任後は時の流れを敏感に感じ、ウクライナの主権確保に大きな役割を果たす。そして一年半後には独立ウクライナの初代大統領になる。 
 ソ連では離散傾向にある各共和国を何とか連邦の枠内にとどめようとゴルバチョフが必死の努力を試みていた。しかし同年三月リトアニアは独立してソ連から離脱するとの宣言を発し、ソ連の解体傾向に弾みをつけることになった。それでもゴルバチョフ大統領(1990年三月以来大統領)は1990年11月新しい連邦条約の草案を発表し、翌1991年3月その賛否を問う国民投票をソ連で行った。ウクライナでは、ゴルバチョフ提案の連邦維持に70%が賛成したが、他方ウクライナのみで用意された「主権国家ウクライナが主権国家連邦に加わるとの前年最高会議の決議に賛成か」との質問には80%が賛成した。
 独立達成を決定的にしたのはクーデター事件であった。1991年8月19日、モスクワの保守派は非常事態を宣言し、クリミアのフォロスの大統領別荘で休暇をとっていたゴルバチョフを拘禁して権力移譲を迫った。同日クーデター側はキエフに使者を送り、クラフチュークにクーデター支持を要請した。彼は非常事態はウクライナでは適用されないと答えたが、クーデターには支持も不支持も表明しなかった。クーデターはロシア最高会議議長エリツィン(1931~)の勇敢な抵抗であっけなく失敗した。主導権はゴルバチョフからエリツィンに移った。そして誰の眼にもソ連はもたないことが明らかとなった。
 クーデター失敗の勢いもあり、8月24日ウクライナ最高会議はほとんど全会一致で独立宣言を採択した。後にこの日は独立記念日となる。国名は単純に「ウクライナ」となった。また最高会議は共産党をクーデターに加担した廉で禁止した。クラフチュークは共産党を離党した。九月には最高会議は民族主義の伝統にもとづく国旗、国歌、国章を法制化した。国旗は上が大空を表わす青、下が大地(麦畑)を表わす黄の二色旗、国家は1865年ヴェルビツキー作曲の「ウクライナはいまだ死なず」に、国章はヴォロディーミル聖公の国章であった「三叉の鉾」である。いずれも中央ラーダ政府が制定したものの復活であった。またソ連を構成していた多くの共和国がウクライナにならって独立宣言をした。
2月1日、ウクライナの完全独立の是非を問う国民投票と初代の大統領を決める選挙が行われた。国民投票では90.2%が独立に賛成した。ロシア人の多いハルキフ、ドネツク、ザポリッジア、ドニプロペトロフスクの各州でも80%以上が賛成であった。ロシア人が過半数を占めるクリミアでも賛成は54%と過半数を上回った。大統領選挙ではクラフチュークが62%の得票率でルーフの候補であるチョルノヴィル・リヴィウ州議会議長(得票率23%)を破って当選し、初代大統領に就任した。この国民投票に関し、ウクライナ生まれのポーランド人ロマン・トウルスキ氏は次のような話を紹介している。

ソ連時代にウクライナ独立について国民投票が行われたが、その直前に外国に住むウクライナ人の若者たちがやって来て、奥地の町や村をも訪れ、独立に賛成せよと、運動してまわった。そして選挙結果は90パーセントもの国民が独立に票を投じた。翌日その若者達は一日中、夜どおし、歌い踊り、勝利を祝ったが、好奇の目で見る現地人が「くたびれないのか」と聞くと、「我々だけで踊っているのではない。先祖の魂も一緒です」と答えたそうだ。 (トウルスキ、晝間勝子著『いくとせ故郷きてみれば』)

 すでにバルト三国はソ連を離脱していたが、ウクライナの独立でソ連は事実上解体した。12月7~8日、ウクライナのクラフチューク、ロシアのエリツィン、ベラルーシのシュンケヴィチの三首脳がベラルーシのミンスク郊外に集まり、ソ連の解体を宣言し「独立国家共同体」(CIS)を結成した。エリツィンはゴルバチョフの権力を奪取するためならソ連解体も厭わなかったという。ゴルバチョフは連邦維持のための最後の巻き返しを図るが、中央アジアの諸共和国がエリツィン側についたため挫折した。21日カザフスタンのアルマ・アタで11カ国首脳がCIS条約に調印した(アゼルバイジャンは93年に加盟を批准)。25日ゴルバチョフは大統領を辞任し、ここに70年続いたソ連は名実ともに消滅した。
 ウクライナの独立をポーランド、ハンガリーはただちに承認した。ウクライナ移民を多く抱えるカナダも早期に承認している。アメリカは12月24日承認した。日本は12月28日ウクライナを国家として承認し、翌1992年1月26日外交関係を樹立した。
 このウクライナの独立宣言は、20世紀になって六回目のものであった。すなわち1918年1月、キエフでの中央ラーダの「ウクライナ国民共和国」、同年11月、リヴィウでの「西ウクライナ国民共和国」、1919年1月、キエフでのディレクトリア政府と西ウクライナ政府が合併した「ウクライナ国民共和国」、1939年3月、フストでの「カルパト・ウクライナ共和国」、そして1941年6月、リヴィウでのOUNによるウクライナ独立宣言に続くものである。しかしこれら以前の独立宣言はいずれも長続きしないか、または最初から長続きする見込みのないことを知りつつ象徴的になされた行為にすぎなかった。それに対して今回の独立は、統治能力をもつ政府を有し、ウクライナ人が居住するほぼ全域をカバーし、国際的にも承認された上での独立であり、永続する蓋然性をもつ独立である。その意味では壮途半ばに潰えたフメリニツキーのウクライナ独立への夢が350年を経てようやく現実のものとなったわけである。
 やっとのことで手に入れた独立は、流血をともなわず、平和裏に行われたものであった。このことはまことに喜ばしいが、他方「棚ぼた」的なところもあった。ウクライナがソ連に残っていればソ連が存続したかもしれないという意味からすれば、最後の段階でソ連にとどめを刺す決定的な役割を果たしたといえる。しかし全体的に見れば、ソ連が自ら崩壊していくことに便乗した面が強い。したがってレーニンやピウスツキ、マサリクのような建国の英雄も生まれなかったし、フルシェフスキーやペトリューラのような独立運動を象徴するような人物もいない。また旧体制の中枢にいた者たちが独立派にやすやすと転向したため、旧体制がそのまま独立国家に移行し、看板だけ替わって中身はほとんど変わらない状態となった。これが、何世紀にもわたってウクライナ民族の夢であった独立がやっと達成されたにもかからわず、「目出度さも中くらい」な独立になった理由であろうかと思われる。
 ウクライナの将来性
 独立後のウクライナは多種多様な問題をかかえて、その歩みは多難である。しかし、それでもってウクライナの重要性が減るわけではない。中・長期的に見れば、ウクライナは大きな潜在力を備えている。本書まえがきでも触れたが、ウクライナの重要性と将来性についてあらためて二点を指摘して本書のまとめとしたい。
 第一には、大国になりうる潜在力である。ウクライナは面積ではヨーロッパでロシアに次ぐ第二位であり、人口は5000万人でフランスに匹敵する。石油・天然ガス資源こそ十分ではないが、鉄鉱石はヨーロッパ最大規模の産地である。農業については、世界の黒土地帯の30%を占める。いずれは「ヨーロッパの穀倉」の地位を取り戻すであろうし、21世紀に世界で食糧危機が起きるとすれば、それを救う可能性のある国といわれている。耕地面積は日本の全面積に匹敵し、農業国フランスの耕地面積の二倍もある。工業・化学技術面では、かつてはソ連最大の工業地帯であり、それを支える科学者・技術者の水準は高く、層も厚い。国民の教育水準は高く、国民性は堅実で忍耐強い。
またこれは独立後初めてわかったことだが、外交についてもその能力は高い。ロシアとアメリカの間のバランスを巧みにとってその安全保障を確保している。大国のみでなく、ポーランドなどの中・東欧諸国やカフカス・中央アジアとも友好関係を築くことに成功した。場合によってはリーダーシップをとっている。そしてその外交手法は穏健・協調的で、既存大国がもつ傲岸さはない。このようにウクライナはバランスのとれた総合力を有しており、ゆくゆくは全ヨーロッパ・旧ソ連の中でも大国となる可能性を十分もっている。
第二は地政学的な重要性である。これまで見てきたようにヨーロッパでウクライナほど幾多の民族が通ったところはない。ウクライナは西欧世界とロシア、アジアを結ぶ通路であった。それゆえにこそウクライナは世界の地図を塗り替えた大北方戦争、ナポレオン戦争、クリミア戦争、二次にわたる世界大戦の戦場となり、多くの勢力がウクライナを獲得しようとした。ウクライナがどうなるかによって東西のバランス・オブ・パワーが変るのである。フランスの作家ブノワ・メシャンは、ウクライナはソ連(当時)にとってもヨーロッパにとっても「決定的に重要な地域のナンバー・ワン(Espace vital No.1)」といっている。またこの地域はソ連が思いもかけず崩壊して、いまだ安定した国際関係が十分でき上っていない。その意味でウクライナが独立を維持して安定することは、ヨーロッパ、ひいては世界の平和と安定にとり重要である。これはアメリカや西欧の主要国の認識であるが、中・東欧の諸国にとってはまさに死活の問題である。」黒川裕次『物語 ウクライナの歴史 ヨーロッパ最期の大国』中公新書、2002.pp.245-256.

 ウクライナ大使を務めた黒川氏のこの著書を読んできたのだが、今回ロシア軍のウクライナ侵攻が起きて、改めてロシア帝国、ソヴィエト連邦の時代からウクライナが常に、モスクワからの支配に抵抗し独立を目指す民族主義を抱きながら、ことあるごとに自治と独立への動きは潰されてきたことがわかる。黒川氏の筆致は、このウクライナ民族主義の側に立って、ツァーリやボルシェビキへの抵抗という視点からウクライナの歴史を記述している。ウクライナがロシアにとって死活的に重要な地であったこと、そしてここをめぐって周辺諸国が争い合ってきたこと、とくにポーランド、オーストリア・ハンガリー、ドイツといった西方の勢力と、ロシアという東方の大国とのせめぎ合いの悲劇に直面してきたことがよくわかる。そういう歴史の延長上に、いまの戦争が起きていることを、この地域についてほとんど無知だった日本人は知る必要がある。それはウクライナだけでなくロシアについても言える。


B.ロシア人とは?
 今度の戦争はロシアが仕掛けたもので、まだその行方はわからない状態だが、ロシア軍がウクライナ市民に残虐な暴行殺戮をしているという報道によって、ロシア人全体に対する非難や憎悪が欧米や日本でも広がっているという。ロシアという国家や政府が行ったことが、ロシア人全体への責任につながるものではない、といいながら、こうしたヘイト行為は常に起こってしまう。ソ連解体以後、日本では以前ほどロシアへの敵視や批難は目だたなくなり、北方領土も友好的に変換の期待も出てきたが、それだけロシアへの関心も薄くなっていた。それが今、ロシア批難の大合唱に転換した。

「なぜロシアは力ずくか:インタビュー 前北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター長 岩下明裕さん
 国境を越えて隣国ウクライナへと侵攻し、街を、暮らしを破壊し、人々を虐殺する。ロシアの軍事行動に対して、これが現代に行われることか、と思う人が多いだろう。ロシアはなぜこうなのか。長年にわたりこの国の対外行動を見つめ、考えてきた岩下明裕さんに聞いた。
 ――ロシアはなぜ周辺国に力で踏み込むのでしょう。
「40年近くロシアを見てきましたが、あの国にはミッション(使命)があるんですね。自分たちは偉大である、偉大な民族である、責任があると。周りに対しても自分たちが導かなければいけない、みたいな思い込みがある」
「帝政ロシア時代も、共産党時代のソ連にも、ロシア連邦になってからも、基本的に同じです。日本では大国主義はけしからんと言う。でもロシア人にそんなことを言っても、まず理解されない。当たり前じゃないか、みたいな感じ。それくらい染みついています。そうした思いをプーチン氏とその支持者が代表している。この責任と使命のもとで、お前たちウクライナを解放してやるんだと」
 ――やられる側にとってはたまりませんが。
「邪悪に向かわせる連中がいるから救ってやると。実際にはそこまで言いませんが、そういう感じです」
 ――それは、何から何を救うのでしょう。
「ウクライナは北大西洋条約機構(NATO)に入ろうなどと考えた。誤った西側の毒リンゴを食べたのだから解毒してやる。正しいスラブの仲間として抱擁したい、という気持ちでは」
 ――そのことと住宅や病院や学校を破壊していくのとは、まったくつじつまが合いませんが。
「開放しているから、彼らにとってはいいんでしょう。解放するためには武力も辞さない」
「たぶん、ロシアに言わせると、米国はもっとやっているではないかと。かつて中南米諸国などで反米的な政権を倒そうとしたし、アフガニスタンの空爆やイラクの解放もそう。偉大なるロシアが大義を掲げてやることに、お前らから口出しされる筋合いはないはずだ、と」
 ――うーん‥‥‥。
「日本人が体験した例で言えば、第2次大戦末期の千島列島へのソ連軍の侵攻です。あの時、ソ連は島を奪って占領した。明治期に日本とロシアが平和的に日本領だと定めた地域です。日本のいわゆる植民地でもないし、軍事的に獲得した土地でもありません」
「日本が連合国に降伏する過程で、ソ連は一方的に攻め込み、力で境界線を変えた。彼らの理屈では日本の軍国主義からの『解放』です。ミッションだから。実際は自分の土地ではないところに入ってきて、住んでいる日本人を追い出し、支配したわけです。日本人を軍国主義から解放したなら、島は日本人のものになるべきでしょう。解放とはどの口で言うか、です。解放後に、日本人を放逐し、ロシア人を移住させる。これは『解放』という名の侵略です」
「だから、ウクライナの戦争を見て、私はソ連から島を奪われた経緯を思い出しました。元島民の方も、幼い頃に体験したことを思い出すと言っています」
 ――千島の経験と今のウクライナの状況が似ていると。
「いや、比べものにならない。ウクライナのほうがはるかにひどい。あんな虐殺はありませんでしたから。しかも、これをロシアは国としての戦争とは呼ばない」
「ロシアの気分を代弁すれば、わが兄弟よ、なぜお前までが敵(西側)の陣営に入ろうとするのだ、ではないでしょうか。身内に背かれた憎しみを感じます。国と国との関係は、もう少しさばけたものであるべきなんですが」
なぜ、今、なのですか。
「かつてのソ連は世界政治の中でもっと力があった。ところが冷戦が終わった後のロシアは、やりたいことができない。私たちは『ソ連は負けた』と思うけれど、彼らは「ソ連は解体したが、我々ロシアは負けていない』と思っている。一緒に冷戦を終わらせたはずなのに、なぜロシアだけ西側にいじめられているのかと考えている」
「西側の圧力にめげず、国力を大分戻すことができた。だがウクライナは西側に往こうとしている。今、力を使ってでも引き留めなければ手遅れになる、ということでしょう」
「もう少し長い目で見ると、現在起きていることは冷戦の初期段階に似ています。第2次大戦末期から1948,49年ごろまで。どこに東西の境界があるか、まだわからなかった時期です。社会主義と資本主義の、東側と西側の境界線ができて構造化されたのが冷戦でしょう。今は境界が新たに生まれる前の流動期です」
 ――プーチン氏は新たな境界を作ろうとしているわけですか。
「今回いきなりではなく、少しづつ仕掛けてきました。2008年のジョージア(グルジア)戦争がまずそう。次が14年のウクライナからのクリミア併合。暴力的だったのは、ウクライナ東部の親ロシア派の武装勢力がドネツクトルハンスクの独立を宣言した時です。ロシアは事実上、軍を送ってこれを支援し、支配を確立しました。ここまでが予行演習だとすると、今回は全面的にポスト冷戦期の秩序に挑戦しています」
 ――この戦争の後、地域はどうなると見ますか。
「10年ぐらいの期間で、そしてプーチン氏が当面、大統領に居続けることを前提にすると、ウクライナに東側の『人民共和国』と西側の『民主共和国』ができて境界が固着する。後者はNATOに入るかもしれませんが、『あれは偽ウクライナだ』とプーチン氏は主張する。そういうシナリオを私は考えています。冷戦期の東西ドイツと同じようなかたちです」
「もともとロシアには、隣国との境界はとても危険なところだという発想がある。放っておくと敵が攻めてくるかもしれない。だからとりでとして固めるし、国境は遠ければ遠いほどいい。そのことも今回の背景にあると思います」 
 ――それにしても、共産ソ連、いまのロシアと、体制が変わってもどうして専制的、非民主主義的なのでしょう。
「その問いはどうでしょう。帝政時代もソ連時代も比較的自由な時代はありました。それと、今のロシア人に尋ねたら『ロシアにはロシアの民主主義がある。お前の言っている民主主義は意味が狭すぎる』と言うでしょうね」
  ( 中 略 )
 ――ロシアは日本に対して3月、平和条約の交渉を継続しないと言ってきました。北方領土問題はどうなるのでしょう。
「交渉の話をする状況ではないし、島の引き渡しうんぬんは今の戦争とは関係ありません」
 ――どういうことですか。
「この問題は安倍晋三政権のときに終わっています。残念ですが、淡い期待は捨ててください。プーチン氏にすり寄って翻弄された、安倍外交の失敗を真剣に反省することです」
「あのとき日本は(1956年の日ソ共同宣言で引き渡しに同意した)2島でもいいという方向になりかけた。でもロシアは、引き渡し後の島に日米安保条約が適用されないことを保証しろと突きつけてきた。日米安保は、米軍が日本国内のどこでも展開できることが基本です。それに制限をつけろと。無理ですよね。下手をすると次は北海道を対象外にしろと要求しかねません」
「色丹島にはロシア人3千人が住んでいて、そのまま日本に戻っていたとしたらどうなるか、想像して下さい。もしプーチン氏が『日本の統治が悪くてロシア人が迫害されている、彼らを守るために軍事行動をする』と言い出したら?今回のウクライナがそうでしょう。恐ろしいシナリオです」
 ――どうすれば。
「どうにもなりません。10年は今のままの状況を覚悟して、地域と元島民への支援を続けるしかないでしょう。残念ですが」  (聞き手・刀祢館正明)」朝日新聞2022年4月14日朝刊13面オピニオン欄。
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