A.パンとサーカス
権力者が民衆に対して抱く猜疑心と支配欲は、どこでも似たようなもので、とりあえず日々の食物を与えて飢えさせないことと面白い見世物を用意して不満を解消させること、これさえやっておけば民衆は従順に言うことを聞く。古代ローマではこれを「パンとサーカス」と言って政治の要諦とした。民衆が為政者に不満を抱くのは、食べ物も満足に得られない貧困が蔓延したり、気晴らしの楽しみも禁じられて自由がないと感じるときである。さらに戦争や内戦のような危機的状況が起こると、人々はいやでも我慢を強いられ生活が苦しくなるので、権力者はこの「パンとサーカス」をどうやって民衆に効果的に与えるか、プロパガンダに知恵をひねる。それはそのまま宗教の問題でもあった。
ドストエフスキーが生きた19世紀のロシアという社会は、農奴制と皇帝権力で成り立つ中世的な世界で、それをロシア正教が支えていた。『カラマーゾフの兄弟』という小説は、そのロシア的なるものを多角的に問題として批判的に提示している。その後半のハイライトになるのが大審問官の章だと、池澤夏樹さんは指摘する。それは次兄イワンが弟アリョーシャに聞かせる自作の叙事詩という形で、キリストによる救済と人間の自由との矛盾として提示される。
「この後が有名な大審問官の章です。
異端審問は中世のスペインで最も厳しかった。異端審問とは、正しくない信仰を広めようとしている者を見つけ出しては、「悪魔の手先」といった次から次へ火あぶりにする、という宗教裁判です。インクィジションInquisition。カトリックが最も血まみれになった時代ですね。その中世のスペインで、キリストが再び現れる。街を歩いていると、なぜか人々は彼がキリストであることに気がついてすがる。病気の者が寄ってきて「お救いください」と手を差し伸べると、奇跡が起こって救われる。足の萎えた者が立ちあがって歩く。みんなが感動して、「ホサナ!」――主を讃える言葉です――と口々に言いながらだんだん人数が増えて歩いていく。
そこにたまたま異端審問でも一番の強硬派である大審問官が通りかかって、キリストに気がつく。そして兵隊を送って彼を捕まえさせ、一対一で対決する。大審問官はキリストに、「何のためにまた出てきたんだ」と厳しく問いかける。「もうお前は必要ない。私たちはお前なしでやってきた。制度を作ってこうやって維持してきた」。
大審問官が一方的に喋る。それをキリストは黙って聴いている。
最終的に大審問官が言うのは、ここは読んでいただきたいんですが、「人間は自由に耐えられない」「人間は結局は、自由よりパンを求めてしまう」ということです。
キリストの「荒野における三つの試練」というものがあります。キリストが荒野で修業をしている時に、悪魔が現れて三つの問いかけをする。
まず、「神の息子ならば、そこにある石をパンに変えてみろ」。キリストは、「人はパンのみにて生きるにあらず」と答えます。人はパンによってではなくて、神の言葉によって生きるんだと言って断る。
次に悪魔はキリストを、高い高い神殿のてっぺんまで連れて行って、「神の子なら、ここから飛び降りてみろ。てんしが支えてくれるだろう」と言う。キリストはこれも「神を試みてはいけない」と言って断る。
三番目に「もし私と契約をするんだったら、地上の全ての宝、全ての権威をお前にやろう」と言う。キリストはそれも断る。
三番目の問いかけには別な話がありますね。ファウスト伝説。ファウストはそう言ってきた悪魔と契約をして、地上の喜びを味わって――具体的には若い女と仲良くなって――、それから名声を得て、金を得る。しかし契約の終りの時期がきたときに、いかに救われるかという話です。悪魔との契約による地上の栄光というのは古いテーマです。
これをまた持ち出して、大審問官は言います。「人はパンではなくて、神の言葉で生きるというけれども、そのためには人は自分の自由意志を持っていなければならない。自分で選んだのでなければいけない。そうでないと信仰の意味がない。ところが普通の人間には、その自由に耐えうるだけの力がない。だからその代わり教会が権威を以て――ということは、自由を束縛して――、魂の救いを保証してやる。自由を捨てる、教会に服従をする、言うことを聞く。その代わり魂の救いを保証するという契約のシステムを組み立ててやってきたのに、いまさらおまえが出てきて、再び人間に自由を与えられてたまるか。その結果、人間がより幸せになると思うか。人間というのはしょせん弱くて駄目なものだから、自由を担うだけの力はない」と言う。そして「したがって、私はおまえを明日火あぶりにする」と言いわたします。
キリストは立ちあがって、実に穏やかな顔で近づいて、大審問官の唇に軽く口づけをして、一種のショックを与えます。その口づけの意味というのは、「あなたの言うことは全部わかっている。人間は自由に耐えられるものではない。それでも私は今も必要とされている。だからやってきたのだ」ということです。
大審問官はそこで、一種の心の動きを覚えて、火あぶりにせずに彼を逃がします。自ら扉を開け「出て行け、二度と戻ってくるな」と。そこでキリストは消える。
「大審問官」はこういう話です。人間は自由意志に値しない、自由意志を担うだけの力がない。パンで釣ればなんでもしてしまう。諸全その程度のものだっていうニヒリズムの無神論が、非常に説得力のある形で展開される。
これが『カラマーゾフの兄弟』の中で、多くの読者にとって一番強烈に残る部分です。揺さぶりをかけられる。ある意味では、二十世紀になってからのキリスト教の凋落を予言するような議論です。
この先に、例えば「実存主義」という考え方があります。サルトル(1905~80)は「人間は生まれつき自由という刑に科せられている。刑罰を受けている。生まれた時から自由であるという重みを、先天的にちょうど原罪のように背負わされている」という言い方をしています。キルケゴール(1813~55)を経てサルトルに至って形ができた実存主義というのは、一番簡単に言ってしまうとこういうことです。
人は何かを選ばなければ一歩も先へ進めない。慣習に従って人と同じようにして選んでいれば楽でいいけれど、自由意志というものをしっかり立てて、自分の選択に自分で責任を取ろうとすると、非常な困難が生じます。
パンの方はどうか。結局人はパンだけを求めて右往左往するようになってしまいました。今の時代に引きつけて考えれば、全てはパンの話です。商品の話であり、お金の話であり、安楽な暮らしの話であって、魂の救済の話はほとんど聞こえてきません。こういう時代だから、いきなり百三、四十年前に戻って、ドストエフスキーが書いた話に飛び込むと、改めて自分たちはどこまで来てしまったか、ということがわかってショックなんですね。
昔ローマ時代に、「パンとサーカス」という言いかたがありました。民衆を思い通りに動かすには、パンとサーカスがあればいい、これは支配者の側からの言葉ですね。食べる物を十分に与えて、それから適当な娯楽――サーカスであったり、あるいは人と獣、あるいは人同士が殺し合うグラディエーターの試合--があれば、民衆はそれだけで満足して、文句を言わない。パンや遊びが足りないと、革命を起こす。今もって通用する真理であるところが、情けないと言いましょうか。
ゾシマは「ロシアの民衆への信頼が、最終的にロシアを救うだろう」と言っていた。この時の民衆というのは、非常に素朴に働いて、食べて、愛情深く子供を育てて、神にすがる、ある意味で単純化された理想の民衆の姿です。
ゾシマは修道院で、いろいろな相談事を持ちかけてくる人々一人一人の話を、実際に聞いて、導きを与えていました。そういうことを通じて、民衆は信頼できる、社会の上層部は乱れている、濁っているかもしれないけれど、民衆は信頼できるというふうに考えていた。
これはトルストイにもあったことですが、当時のロシアのインテリたちには大衆コンプレックスがありました。あるいはその頃までは、本当に信頼に値する民衆がいたのかもしれない。
今、ぼくは大衆を信頼しません。一つは、大衆がプチブル化して、あまりにも「パンとサーカス」ばかりに終始するようになってしまったことと、それから二十世紀も特に後半になって、おそらくドストエフスキーが考えていなかった、大衆を操作する技術が非常に発達したということがあるからです。教会もある意味では、一般信徒に安定した一種の幸福を授けるためのシステムだったかもしれない。少なくとも大審問官は、教会はそういうものと信じて、機能させていました。大衆操作と呼んでいいかどうかはわからないですけれど、「導き」であるとは言っていた。
同じような仕事を今やっているのは広告代理店です。大衆を操作する。大衆を思い通りに動かす。そしてパンを正しく配る。正しく、すなわち最も効率よく。美味しくないパンを美味しそうに見せて配る。それだけで日所生活全てが満ち足りているような幻想、幻覚等を作りあげる。
政治で言えば、無能政治家はどうするか。国外に敵を作ります。敵が攻めてくる。国内が団結しなければ負けてしまう。みんな頑張ろうと言うと、どんな無能な政治家でもしばらく寿命が延びます。まあ、具体例は、ここ二、三年、太平洋の両岸を見て考えて下さい。
こういう人の心の動かし方の技術は発達しました。そして理念はなくなりました。教会には神がいて、聖書があって、人々の魂を扱っていた。今その人々を動かすためのシステムは魂のことを言いません。パンのことだけです。
さきほどぼくは、『カラマーゾフの兄弟』は、ドストエフスキーが死ななければ続編が書かれたはずだと言いました。どんな話になるのか。アリョーシャの話です。最後、死んだイリューシャのお墓の場面、お葬式の場面で終わりと言いましたけれど、アリョーシャはそこで少年たち、若い友人たちに囲まれています。慕われています。明らかにキリストのイメージですね。
ということは、アリョーシャ自身がこの後、平凡な市民となって幸せに一生を終えるはずがないことが示唆されている。アリョーシャはやがてリーズと彼女自身が予言したとおり結婚します。しかしその結婚生活はうまくいかなくて、彼は一人で首都に行って、さまざまな思想活動に従事した挙句、最終的にはロシアの皇帝を暗殺する。あるいは暗殺しようとして死刑になる、という話を考えていたようです。
そういう形でなければロシアは救われない、というのが最後にドストエフスキーが考えていたことかもしれません。
ちなみに作者ドストエフスキーが死んだ一か月後に、皇帝は本当に暗殺されました。そういう時代でした。
今日は、ここまでが長かったので、この講義全体のテーマである、この作品と世界との関係については、言わないでおきます。しかし、『カラマーゾフの兄弟』を成立させている世界は、われわれが今生きているこの世界と非常に近い。情欲、信仰、無神論と哲学、それから自由の問題。パンとサーカスのことも含めて、今の時代と非常に重なるところが多い。その上で別の要素が加わったのが今だとすれば、これはまさに現代の小説としても読むことができます。思想的なリアリズムとして一つ一つ機能しています。
これに比べると、例えば昨日のスタンダールの『パルムの僧院』は一種のおとぎ話でした。『アンナ・カレーニナ』は、ぼくに言わせればいささか卑俗です。話全体が俗の方に寄り過ぎています。しかし、『カラマーゾフの兄弟』は、今のわれわれの話として読める。
おそらく今のわれわれと世界観の相当部分を共有する、そういう立場で書かれているからで、先見の明があるというか、これが人間にとっての永遠に近い重大な課題なのか、ということを思わせる小説です。」池澤夏樹『世界文学を読みほどく スタンダールからピンチョンまで』新潮選書、2017.pp.154-.161.
最近も、東京新聞で連載が完了したその名も『パンとサーカス』という小説を、島田雅彦が書いている。これは、「政治的関心を失った民衆には、食料(パン)と見世物(サーカス)を与えておけば支配は容易い。戦争、犯罪、天災、疫病――どれもがサーカスとなる。ヤクザの二代目、右翼のフィクサー、内部告発者、ホームレス詩人……世直しか、テロリズムか? 諦めの横溢する日本で、いざ、サーカスの幕が上がる!」というエンタメ小説を狙ったというが、基本構図はアメリカ依存を基本とする日本の限りなく従順な民衆に対して、トリックスターの逆転を仕掛ける話だというが、連載時にはほとんど読んでいない。島田雅彦は東京外大露語科出身だから、ドストエフスキーはロシア語で読んでいるだろう…と思っていいのかな。
B.過去の美化はどこでもアイデンティティを刺激する
ウクライナの戦争の推移は、日々世界のメディアで細かく報道されているように思うけれど、欧米メディアだけを見ていると、こんなに世界中で批判されているプーチンがどうしてロシア国内では80%という高い支持率を維持しているのか、不思議な気がしてくるし、言論抑圧や批判を封じる国家の体質はソ連時代と変わっていないかのようにも思われる。しかし、それも一面的な見方かもしれない。このネットSNS時代に、メディアの規制と操作だけで国民世論を一方向に誘導するというのは、情報統制をKGB的にやれたソ連時代のようなわけにはいかないのではないか。つまり、ロシア人の過半数にとってプーチンの言うことには、心情的に共感できる部分があるとは言えるのかもしれない。それは一言でいえば、ロシアのナショナリズム、たぶんに幻想的な世界を二分した強国であったソ連時代への郷愁ではないだろうか。美化されるナショナリズムというものは、自分たちの過去の歴史に、英雄的な壮挙だけを見出し、都合の悪い事実は無視することによって装飾される。対ナチ戦勝記念日、というのはまさにそういう自己賛美のウラー‼のお祭りなのだろう。
「プーチン政権 早期崩壊論の盲点 大衆に根付かせた愛国心:常盤 伸
ロシアがウクライナへの侵略戦争を開始し、二カ月が経過した。当初、プーチン政権の早期崩壊論が盛んに語られた。厳しい対ロ制裁で経済は大打撃を受け反戦デモが拡大。支配層からも離反が活発化し、政権はもたないとの見立てだ。私はそうした予測には懐疑的だったが案の定、プーチン支持率は急増、政権崩壊の兆しは見えない。
こうした希望的観測が絶えないのはなぜか。おそらく、ロシアを西側社会と同じ尺度で判断し、ロシア独特の大衆意識の動向を軽視しているからではないか。
さて、今回の侵攻を受け従来主流だったプーチン観も見直しが必要だろう。プーチン氏は基本的に「プラグマティスト」であるとの見方だ。権力維持と政治目標の達成が最重要課題で、イデオロギーにはこだわりがないという見方だが、ウクライナへのいわば妄執から侵攻に突き進んだ現在、その見方は説得力を失った。
「原点」に立ち戻ろうと、1999年末、当時のエリツィン大統領から大統領代行に指名される直前にプーチン氏が発表した論文「千年紀の境い目におけるロシア」を最近再読した。すると軽視されていた重要な点に気がついた。「愛国心」について「大多数のロシア国民にとり、完全にポジティブな意味をもつ。祖国とその歴史、偉業を誇りに思う感情だ」と強調。一方で国民が「愛国心を喪失し、偉業を達成する能力をもつ国民としての自己を失っている」と当時の状況を批判的に見ていたのだ。
翌年大統領に就任するとソ連国家の曲を復活させたり、愛国心育成プロジェクトを始めたりしたものの基本的には、改革者として振る舞った。しかし、対独(ナチス)戦勝六十周年の2005年以降、愛国主義が政策の中心を占めるようになる。
さらに「三期目」の12年以降は、第二次大戦の対独戦勝のシンボルとして、黒とオレンジのストライプ模様の「ゲオルギーのリボン」を胸につけたり、モスクワなどロシア全土で戦没者の遺影を掲げて行進したりする「不滅の連隊」運動など、当局主導で愛国主義を、主要メディアなどを通じて大々的に推進し、国民的運動とした。
今やナチス・ドイツと戦って勝利した大祖国戦争の記憶は、愛国主語の根幹として絶対不可侵の存在だ。プーチン政権は、ゼレンスキー大統領らウクライナ政権をネオナチと決めつけ、侵略を正当化する。言語道断な口実だが、プーチン統治の二十二年間で大衆の意識のなかにこうした政権の愛国プロパガンダ(政治宣伝)を受け入れる土壌が出来上がっていたのだ。
プーチン氏ほど国民の意識を巧みに操ってきた指導者は珍しい。プーチン体制の行方を占う意味でも、その点を軽視すべきではないだろう。」東京新聞2022年4月27日夕刊3面、デスクの目。
プーチンを支持するロシア人をぼくらは笑えない。この日本という国でも、明治維新以来の大日本帝国を美化し民族の輝かしい歴史だとみたくてたまらない人たちがいる。そういうナショナリストにとっては、日本のやった戦争を否定し批判する言論は、「反日」つまり民族を貶める間違った歴史観を広める陰謀にみえる。自分の国に誇りを持ちたいという心情はわかるけれども、それは歴史のゆがんだ虚像を信じる偏見で、プーチンがやっているように自分勝手な戦争を始める大きな動機になるから、始末が悪いということは記憶するべきだと思う。