A.進学塾が行う教育とは
たまたまNHKで国会の予算委員会審議の中継を見ていたら、下村博文文科省の違法献金疑惑で民主党の議員が、下村氏を追及している場面だった。問題になったのは、下村氏の政治活動を応援するのを目的とする民間有志の団体「博友会」から献金を受けていたことだ。この会は選挙区の東京11区(板橋区など)だけでなく全国にあるらしく、下村氏はこれは政治資金規正法にかかる政治団体ではないから法的に問題はないと言っていたが、どうも怪しい。
民主党議員は六つある博友会うち「中四国博友会」(広島市)のHPで「下村氏の政治活動を支援する」との目的を規約にうたい、東京の下村氏事務所を問い合わせ先にしていたことを指摘。また下村氏がフェイスブックで「中部博友会」(名古屋市)を「後援会のひとつ」と記していることは認めたが、博友会での記念写真に暴力団関係者で逮捕歴のある人物と並んでいたことは、「言いがかりだ」と反発していた。
下村氏はこの問題とは別に、自身が代表の「自民党東京都第11選挙区支部」が2012年に外国人から寄付を受けていたとして大阪市の企業や個人に計96万円を返金したと説明。翌年名古屋市の男性からの4万8000円の寄付も「反社会的勢力との関係があるという報道に気づき、今年1月に返金した」という。
政治団体として届け出てもいない後援会を、全国にもっているのはどうしてだろう?と思っていたら、今日東京新聞にこういう記事があった。
「下村博文・文部科学相の違法献金問題で浮かび上がったのは、下村氏と塾業界との密接な関係だ。下村氏は学習塾経営の経験をもち、問題とされた支援組織「博友会」は学習塾関係者らで構成されている。自民党文教族としての歩みは、文部科学省が塾と公教育の連携を強化してきた歴史と重なる。だが、塾の安易な参入を許せば、ますます受験学力偏重に傾き、公教育の総合性が破壊されかねない。ましてや政治と塾業界の癒着が疑われるようでは、本末転倒もはなはだしい。(沢田千秋・林啓太)東京新聞2015年2月28日朝刊こちら特報部。
「公教育が『問題児』を生み出し、彼らの行き場を奪っている。そのすき間を埋めることができるのは私塾しかない」
下村氏は、専門誌「法律文化」の二〇〇四年九月号に掲載されたインタビューで塾の活用を訴えている。下村氏が「孰」へ肩入れするのは、自身の経験に基づくのだろう。昨夏に出版した半生記「9歳で突然父を亡くし新聞配達少年から文科大臣に」によると、群馬県高崎市に生まれた下村氏は交通事故で父親を失い、奨学金で高校に通学。卒業後に半年間、新聞配達をして早稲田大学に入った。在学中の一九七七年、東京都板橋区内で学習塾の経営を開始。大学卒業後、塾を「博文進学ゼミ」と命名して拡大させた。最終的には二千人の生徒を抱えるまでになった。
八九年、都議に転じた後、塾の経営は人に譲った。九六年の衆院選で東京11区から初当選を果たす。もともと政治家志望だった下村氏は著書で「塾を大きくしたかったのは、政治家になるための資金確保と選挙地盤づくりが目的」と正直に書いている。
下村氏をよく知る塾関係者の評価はさまざまだ。
地元選挙区の塾経営者は「教育理念が感じられず、政治家になるために塾を足掛かりにした人でしょう。初めて都議選に立候補した時、塾の教え子の家に上がり込み握手を求めたというのは有名な話」と手厳しい。一方、博友会に所属する都内の塾経営者は「学校や塾の垣根を越え、子供たちが夢や希望を持ち、やる気になる教育が必要と繰り返していた」と尊敬の念を隠さない。
かつての学習塾は銀行借り入れの際は信用保証協会の対象業種にもなれず、「受験戦争の元凶」「日陰に咲くあだ花」と揶揄された。そんな中、塾経営者から政界入りした下村氏は業界の「星」だった。前出の博友会メンバーは「塾の仲間は互いに顔見知りが多く、勉強会のような小さな集まりで、一、二万円の会費を払って下村先生を呼んでいた」と振り返る。
下村氏は、文科政務官、自民党教育再生実行本部長を歴任するなど文教族としてキャリアを重ね、塾業界の期待に応えていく。〇三年、構造改革特区での株式会社立大学参入の際は、「営利目的の会社が学校を直接的に設置するのは不適切」と反対する文科省を説得した。
一二年十二月、念願の文科省に就いた下村氏は、公立学校の経営を民間の事業者に委託する公設民営学校の導入に意欲満々だ。与党内でも慎重論が根強いが、下村氏は「公立義務教育で十分に対応できない不登校児、発達障害児。あるいは、もっとスポーツ、芸術に特化したことを学びたい(子供への)教育対応を公設民営学校のイメージとして考えている」と強調する。」
「では、下村氏らが塾の活用に熱心なのはなぜか。藤田(英典・共栄大教授)氏は、日教組への対抗心を疑う。「安倍晋三首相や下村氏ら自民党の中心的な議員は、日教組憎しの姿勢だ。学校教育の質が低下したのは日教組のせいだという保守派の主張と、学習塾との連携を進めるべきだという主張がセットで出てきている面もある」とみる。
世取山(洋介・新潟大准教授)氏は、アベノミクスの成長戦略との関連に注目する。「公教育で労働力として役に立つ人材を養成する狙いがある。規格化された能力を伸ばすには、学習塾との連携が効果的。成長戦略に基づき、学習塾を新産業として育成していきたい考えもある」
公教育と学習塾との野放図な連携は、癒着の温床になりかねない。下村氏の違法献金疑惑は、はからずもそれを証明した格好だ。
世取山氏は「業者選定での公正性の確保はできない。各業者の教育手法の効果を客観的に評価するのが難しいからだ。自治体や政府との癒着が起きやすくもなる」と警鐘を鳴らす。」(東京新聞二〇一五年2月28日朝刊より)
なるほど、この人は学習塾業界というバックを背景に文科大臣に成り上がった人なんだな。学習塾とくに進学塾という存在は、受験に勝つために親が費用を負担して購入する教育商品であり、合格実績という指標で市場競争の勝ち抜きを追求する。安倍政権の教育改革というのは、すべての子どもに公平平等に質の良い教育を保証するという公教育の理念を捨てて、市場原理に教育を投じようとする指向が強い。目に見える成績は、子どもにどれだけ金をかけて見返りの多い商品を買えるかの勝負で決まると考えている。富裕層の親を持つ子どもほど、夢や希望が与えられる教育を文部科学大臣が追及しているとしたら、教育は死ぬのだろう。
B.新憲法草案をめぐる駆け引き
半藤一利『昭和史』後編の戦後史について、ぼくは3つの話題だけとり上げようと思う。ひとつは前回の「天皇・マッカーサー会見」について。2つめが今回の「新憲法草案」のこと。3つ目は「東京裁判」である。戦後の占領時代をめぐっては、同じ激動の昭和といっても『昭和史』では、戦争終結まではおもに国内政治指導者たちの動きを追い、戦後はアメリカとの関係、マッカーサーだけでなく朝鮮戦争、冷戦という世界の環境の激変の中で、アメリカという宗主国と保守政権がどういう関係を構築するか、というテーマが重点的に触れられる。これをめぐってさまざまな問題が派生したが、基本は3つの大問題、戦争の後始末として昭和天皇をどうするか、占領終了後の軍事的な安全保障体制をどうするか、そして日本をどういう社会に変えるかのグランド・デザインである。これが占領統治6年間の課題だったと思う。
半藤『昭和史』は、その各時点のキー・パーソンの言動に即して、語り口調で説明していく。それは面白いのだが、そろそろ他の本も読みたいので、この3つに絞ることにした。そこで、今回は「新憲法草案」だが、敗戦の1945年暮れに立ちあがった「松本委員会」(幣原内閣が作った国務大臣松本烝治を長とする憲法問題調査委員会)の作った憲法改正案のところから。
「しかし、委員会は外からの批評や悪口にはびくともせず、とくに松本委員長はとにかく早く仕上げてGHQに提出を、と頑張ります。前年十月二十七日の第一回総会以来、総会六回、小委員会十五回、力の限りを尽くして討議してきたのだから、つべこべ言われる筋合いはないと言わんばかりにふんぞり返って二月二日、第七回総会をもって任務完了、GHQに提出する憲法案としてこれは冠絶し最高のものである、と全委員が胸を張って解散したのです。
一方、GHQはカンカンです。翌日の二月三日、マッカーサーはホイットニーを部屋に呼び、日本人には任せておけないので民生局で憲法を起草するよう伝え、その際には基本的な三つのことを守ってほしい、と自らの考えを述べます。マッカーサー三原則として知られたもので、これにのっとってホイットニー以下民生局の人たちが憲法草案をつくりあげていくことになります。
一、天皇は国の元首の地位にある。
天皇家はつぶさずに、皇位の継承は世襲とする。天皇は元首ではあるけれど、その職務(仕事)および権能(権限)は憲法に基づいて行使され、憲法に示された国民の基本的意志に応えるものとする――ちなみにこれは、後でひっくり返ります。
二、国権の発動たる戦争は、廃止する。
ふつう国家主権が衝突した際、こちらの意志を押し通すために、政治の延長として戦争がはじまるわけですが、日本はそういった行動は廃止する。また紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持する自衛のための手段としての戦争をも放棄する。日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想、つまり国際連合に委ねる――この時はまだ日米安全保障条約は結んでいませんから、アメリカに任せるということではありません。また、日本が陸海空軍をもつ権能は、将来も与えられることなく、交戦権が与えられることもない。つまり軍隊をもたない、ということです。
三、日本の封建制度は廃止される。
八月十五日以来、GHQが行なってきたさまざまな改革は、日本のあらゆる封建制度の破壊でしたから、これは今さらでもありますが、貴族の権利は、皇族を除き、現在生存するもの一代以上には及ばない。貴族とは「公侯伯子男」爵のことで、すでにもっている人は仕方ありませんが、世襲はしない、すべて一代限りで終わりにする。また、皇族の外側にいる華族の地位は、今後どのような国民的または市民的な政治権力も伴うものではない。
これを受けてホイットニーは二月四日、すでに三八度線をめぐってソ連や朝鮮との話し合いがはじまっていた朝鮮部担当を外した民生局の全員、二十五人を集めて大号令を出しました。
「これからの一週間、わが民生局が憲法制定の役割を担うことになった。ジェネラル・マッカーサーは、日本国民のために、新しい憲法を起草するという歴史的意義のある任務を、われら民生局に委託されたのである。もちろん、草案の基本は、ジェネラル・マッカーサーの略述された三原則にあることは申すまでもない。日本政府の係官と、日本政府提出の憲法草案についてのオフ・ザ・レコード(記録しない)の会合を予定している二月十二日までに、われわれは新憲法草案を完成し、ジェネラルの承認を受けておかなければならない」
日本から草案が出てきて討議することが予定されている二月十二日の会合までに、とにかくこちらの新憲法草案を完成させてマッカーサー元帥の承認を受けておかねばならん、もたもたしていられない、と大演説をぶち、行政課長チャールズ・L・ケーディス大佐、法規課長マイロ・E・ラウエル中佐、アルフレッド・R・ハッシィ・ジュニア海軍中佐がそれぞれ天皇制、戦争放棄、国民の権利などの分野の責任者に指名されました。
さてこの二十五人をよく眺めますと、一人として憲法の専門家はいませんでした。GHQはよくできる学者的な人がたくさんいましたが、軍人ですし、憲法を大学などで専門的に勉強してきた人は見当たりません。ただし、皆若いんです。松本委員会の平均年齢が六十歳とすれば、それより三十歳ほども若い人たちがずらりと並びました。彼らは、マッカーサーの命令で日本の民主化を完成させるための憲法をつくるというので俄然興奮して、世界各国の憲法などを猛勉強するのです。ホイットニーは演説の最後に付け加えたといいます。
「私は充分な説得をとおして、日本側との合意を得たいと思っているが、説得がどうしても(日本が同意せず)不可能となったときには、力を用いる(GHQの権力を行使する)と脅かすことによって同意させる覚悟である。また、そうしてもよいという権限をジェネラル(マッカーサー元帥)から与えられているのである」
日本がなんと言おうとこちらの作った憲法を受け取れと言うつもりだから、しっかり作れよ――これはいくらなんでもあんまりではないか、と思われなくもありませんが。
こうして翌二月五日からはじまった作業は、もうねじり鉢巻でシャカリキになって、なんとか十二日までに終了しました。この一週間はすべて密室です。誰も入れず、三部会に分かれたメンバーが部屋に籠り、もちろんアメリカの憲法も含め、世界中の憲法を必死で学び、真剣な討議を経て草案作りに励んだ、ということになっているのです。いや、事実はそうではなくて、それ以前から作業ははじめられていて、相当な時間がかかっているのだ、という説もあります。私も、あるいはそうじゃないか、と思うのですが、事実は雲霧のかなたにあります。」半藤一利『昭和史1945-1989』平凡社、2009、pp.172-176.
GHQ(民生局)は、日本政府が作る憲法草案は、明治の帝国憲法を適当に見かけだけ手直ししたものでしかなく、徹底した民主化をすすめるGHQの方針からは問題外のしろものだと見た。そしてこうなったらこっちで草案を作ってしまえ、とスタッフ25人で憲法草案を作ってしまい、それを日本政府に突き付けたわけだ。
「そして翌十三日、戦後日本のもっとも面白い一日と言っていいかと思いますが、麻布市兵衛町の外務大臣官邸に午前十時、日本側は吉田茂外相、松本国務大臣、終戦連絡中央事務局次長の白洲次郎さん、そして外務省の通訳長谷川元吉さんの四人が集まります。じつは当日、閣議が行われていたため、このような少人数でした。一方アメリカ側は、ホイットニー准将、ケーディス大佐、ハッシィ中佐、ラウエル中佐の四人が定刻に車で乗りつけました。寒い時期ですから少しでも暖かいところでと、陽のぽかぽかあたるサンルームに設けられた会場で、あいさつのあと会議がはじまりました。
そこでいきなり、ホイットニーが長々と演説をぶったのです。内容は、日本側に残っている記録とアメリカのそれでは少し違っています。日本側の記録によると、
「(われわれはここに、わがGHQが作成した憲法草案を日本側に提出する、として)本案は内容形式共に決して之を貴方に押付ける考にあらざるも、実は之はマカーサ元帥が米国内部の強烈なる反対を押切り、天皇を擁護申上げる為に、非常なる苦心と慎重の考慮を以て、之ならば大丈夫と思う案を作成せるものにして、また最近の日本の情勢を見るに、本案は日本民衆の要望にも合するものなりと信ずと言えり」
つまり、天皇陛下をお守りするために自分たちは非常に慎重にかつ苦心してこの草案を作った。またGHQの観察する日本人の今の精神状態に、これはもっとも合った内容であると思う、というわけです。
一方、アメリカ側の記録(『ラウエル文書』)では、
「御存知かどうかわかりませんが、最高司令官は、天皇を戦犯として取り調べるべきだという他国からの圧力から、天皇を守ろうという決意を固く保持しています。これまで最高司令官は、天皇を護ってまいりました。それは彼が、そうすることが正義に合すると考えているからであり、今後も力の及ぶ限りそうするでありましょう。しかし皆さん、最高司令官といえども、万能ではありません。けれども最高司令官は、この新しい憲法の諸規定が受け容れられるならば、実際問題として、天皇は安泰になると考えています。さらに最高司令官は、これを受け容れることによって、日本が連合国の管理から自由になる日がずっと早くなるだろうと考え、また日本国民のために連合国が要求している基本的自由が、日本国民に与えられることになると考えております」
日本の記録に比べて具体的ですね。マッカーサーは天皇の身柄を守ってきたけれども、後ろに極東委員会がいることを匂わせつつ、彼も万能ではない、しかし日本がこの案を受け入れるならば天皇は安全であるうえ、日本の占領も早く終わって独立国家になるだろう、またわれわれが日本に与えようとしている自由が、もっとはっきり国民に与えられることになろう、というのです。
いずれにしろ、まさか相手から憲法草案が出てくるとは思っていなかった日本側四人は、この演説を呆然と聞き、仰天しました。その様子がアメリカ側の記録に残っています。
「はっきりと、茫然たる表情を示した。白洲氏は座り直して姿勢を正し、松本博士は大きな息をつき、特に吉田氏の顔は、驚愕と憂慮の色を示していた」
アメリカ側はいい気なもので、勝手なことを書いていますが、日本にすれば「こんな高飛車な話はないじゃないか」という思いでしょう。ただ『ラウエル文書』のホイットニー演説をよく読めば、必ずしも憲法を押しつけているわけではないようにも思えます。微妙ではありますが、黙って言うことを聞いている方が日本のためになるんだよ、と匂わせてはいますけれど。
ただ、その場にいた日本側は、これはものすごいものを上から押しつけられたぞという印象だったのでしょう。いや、衝撃かな。それを一番よく表しているのが、昭和二十九年(一九五四)七月七日、自由党憲法調査会で松本博士が行った講演です。この後三か月ほどで松本さんは亡くなりますから、ほぼ最後の演説ということになります。
「ホイットニー少将(ママ)が立ち、向こうの案をタイプしたもの八、九冊ぐらい机の上に出して、極めて厳格な態度でこういうことをいいました。日本政府から提案された憲法改正案は司令部にとって承認すべからざるものである。この当方の出した提案〔十一章九十二条〕は司令部にも米国本国も、また連合国極東委員会にも、いずれにも承認せらるべきものである。マ元帥はかねてから天皇の保持について深甚の考慮をめぐらしつつあったのであるが、日本政府がこの自分の出した対案のような憲法改正を〔世界に〕提示することは、右の目的(天皇の保持)を達成するために必要である。これがなければ、天皇の身体の保障をすることはできない。この提案と基本原則および根本形態を同じくする改正案を、速やかに作成し提出することを切望する、と言われました。そして二十分くらい庭を見てくるからその間に読んでくれ、といって向こうの人たちは寒い時でしたが庭に出ていきました」
GHQ提案を、そのままではなく草案として検討するとはいえ、根本形態はこれと同じ改正案を速やかに提出せよと言われた、つまり押しつけられたことを強調しているわけです。このあたりは非常に微妙ですが、四人の気持ちからすればこれに近かったのでしょう。
(中略)
こうして、わずか二十分ぐらいですが、読みながら四人が検討していると、天皇は“国家のシンボル”と書いてある。この“国家のシンボル”とは何ぞや、というわけで、松本国務大臣は「こんな文学的表現では法律にならん。それに“主権在民”とは何だ、日本の国はもともと君民共治あるいは君臣一如といって、天皇陛下も国民もひとつのものである。それを話して主権を国民に与えるというのは、日本建国の精神にも外れている、根本的に日本の精神とは離れている」などぶつぶつ言っていました。」半藤一利『昭和史1945-1989』平凡社、2009、pp.179-183.
GHQ草案を突きつけられた日本政府はびっくりしたが、これを拒否すれば天皇の戦争責任追及は避けられないといわれる以上、結局これをもとに新憲法ができる。「押しつけ憲法である」という意見は当初からあったが、下書きを日本人抜きでGHQが書いたということでは確かに「押し付け」といえなくもない。だが、内容は画期的で、いわばこの若い25人は一国の革命プランを1週間で書いて、それが現実にその後の日本国の基礎になったという意味では、もはや歴史に刻まれている。実際、半藤氏も言うように当時の日本人の多数はこれを歓迎したといってもいいのではないか。それは、戦争を導いた指導者の政治に比べ、GHQの政治改革は国民の眼からみて、はるかにましなものと映ったからではないか。
「それでも日本政府はGHQに、「あなた方の案では、日本国民に激しいショックを与え、彼らに民主主義自体に対する反対の態度を取らせるだろう、非常に危険である」と盛んに言ったようです。ただ、歴史に「イフ」はありませんが、もしも実際に日本がこの草案を突っぱね、予告通りGHQが直接日本国民に問うたとしたらどうなったかを考えることは、必ずしも無駄ではありません。当時を知っている人、それも年代によってそれぞれ違うと思いますし、私などは子どもでしたが、その後ずっと戦後を生きているなかで、もしもあの時、GHQが直接に日本国民に意見を問うていたらと思うと……。
当時の日本国民は、戦争の悲惨を痛感していましたし、軍部の横暴にこりごりしていましたから、平和や民主主義や自由といった、占領軍が示してきた新しい価値観を貴重なものと感じる人が多かったと思うんです。悲劇をもう一度繰り返したくない、戦争は本当にこりごりというのが現実でした。そこに敗戦の虚脱感が合わさって、なんというか、日本政府よりもアメリカを信じている人のほうが多かったのではないか、と私などは観察するのです。すでに二百日に及ぶ占領下の生活のなかで、下品な言い方をすれば、GHQと“寝てしまった”日本人にとっては、GHQは日本政府よりもよっぽど信頼のおけるいい旦那だったと思わないでもないんです。それ以上にGHQの政策によって、なんとなしに日本に対する嫌悪感のようなものが強くなって、むしろアメリカへの親近感をもちはじめていたんですね。日本人は、そのうえに当時たいへん功利的にもなっていましたし、アメリカという大金持ちの国が「こういうかたちで国を作ったらどうですか」と一括して、それもタダで、さらに「こういうふうに運用すればいいんですよ」とアンチョコ付きで出してきてくれているんです。しかも象徴であれ何であれ、最大の問題であった天皇制が温存されているのです。文句を言う筋合いじゃありません。アメリカも相当、日本の世情を調べていましたし、政府が「国民はショックを受けて反対しますよ」といくら言っても、実際は歓迎したと思うんですよ。」半藤一利『昭和史1945-1989』平凡社、2009、pp.192-194.
戦争に負けたことは取り返しがつかないし、悲惨で愚劣な結果に終わったことは間違いないが、もし戦争が日本国民に結果的になにか重要な福利をもたらしたとすれば、それは日本国憲法がもたらした70年の平和ではないか。戦争に負けていなかったら、陸海軍は消滅せず財閥解体や農地改革や労働組合公認が実現することはありえなかったし、日本はやがて自衛隊という軍隊を持つことにはなったが、他国と武力で戦争をしたりはしなかったし、自国民も他国民も殺していない。「靖国の英霊」という言葉は偏狭に過ぎるが、戦争の犠牲者の死が無駄でなかったとすれば、こういうことなんだろう。
たまたまNHKで国会の予算委員会審議の中継を見ていたら、下村博文文科省の違法献金疑惑で民主党の議員が、下村氏を追及している場面だった。問題になったのは、下村氏の政治活動を応援するのを目的とする民間有志の団体「博友会」から献金を受けていたことだ。この会は選挙区の東京11区(板橋区など)だけでなく全国にあるらしく、下村氏はこれは政治資金規正法にかかる政治団体ではないから法的に問題はないと言っていたが、どうも怪しい。
民主党議員は六つある博友会うち「中四国博友会」(広島市)のHPで「下村氏の政治活動を支援する」との目的を規約にうたい、東京の下村氏事務所を問い合わせ先にしていたことを指摘。また下村氏がフェイスブックで「中部博友会」(名古屋市)を「後援会のひとつ」と記していることは認めたが、博友会での記念写真に暴力団関係者で逮捕歴のある人物と並んでいたことは、「言いがかりだ」と反発していた。
下村氏はこの問題とは別に、自身が代表の「自民党東京都第11選挙区支部」が2012年に外国人から寄付を受けていたとして大阪市の企業や個人に計96万円を返金したと説明。翌年名古屋市の男性からの4万8000円の寄付も「反社会的勢力との関係があるという報道に気づき、今年1月に返金した」という。
政治団体として届け出てもいない後援会を、全国にもっているのはどうしてだろう?と思っていたら、今日東京新聞にこういう記事があった。
「下村博文・文部科学相の違法献金問題で浮かび上がったのは、下村氏と塾業界との密接な関係だ。下村氏は学習塾経営の経験をもち、問題とされた支援組織「博友会」は学習塾関係者らで構成されている。自民党文教族としての歩みは、文部科学省が塾と公教育の連携を強化してきた歴史と重なる。だが、塾の安易な参入を許せば、ますます受験学力偏重に傾き、公教育の総合性が破壊されかねない。ましてや政治と塾業界の癒着が疑われるようでは、本末転倒もはなはだしい。(沢田千秋・林啓太)東京新聞2015年2月28日朝刊こちら特報部。
「公教育が『問題児』を生み出し、彼らの行き場を奪っている。そのすき間を埋めることができるのは私塾しかない」
下村氏は、専門誌「法律文化」の二〇〇四年九月号に掲載されたインタビューで塾の活用を訴えている。下村氏が「孰」へ肩入れするのは、自身の経験に基づくのだろう。昨夏に出版した半生記「9歳で突然父を亡くし新聞配達少年から文科大臣に」によると、群馬県高崎市に生まれた下村氏は交通事故で父親を失い、奨学金で高校に通学。卒業後に半年間、新聞配達をして早稲田大学に入った。在学中の一九七七年、東京都板橋区内で学習塾の経営を開始。大学卒業後、塾を「博文進学ゼミ」と命名して拡大させた。最終的には二千人の生徒を抱えるまでになった。
八九年、都議に転じた後、塾の経営は人に譲った。九六年の衆院選で東京11区から初当選を果たす。もともと政治家志望だった下村氏は著書で「塾を大きくしたかったのは、政治家になるための資金確保と選挙地盤づくりが目的」と正直に書いている。
下村氏をよく知る塾関係者の評価はさまざまだ。
地元選挙区の塾経営者は「教育理念が感じられず、政治家になるために塾を足掛かりにした人でしょう。初めて都議選に立候補した時、塾の教え子の家に上がり込み握手を求めたというのは有名な話」と手厳しい。一方、博友会に所属する都内の塾経営者は「学校や塾の垣根を越え、子供たちが夢や希望を持ち、やる気になる教育が必要と繰り返していた」と尊敬の念を隠さない。
かつての学習塾は銀行借り入れの際は信用保証協会の対象業種にもなれず、「受験戦争の元凶」「日陰に咲くあだ花」と揶揄された。そんな中、塾経営者から政界入りした下村氏は業界の「星」だった。前出の博友会メンバーは「塾の仲間は互いに顔見知りが多く、勉強会のような小さな集まりで、一、二万円の会費を払って下村先生を呼んでいた」と振り返る。
下村氏は、文科政務官、自民党教育再生実行本部長を歴任するなど文教族としてキャリアを重ね、塾業界の期待に応えていく。〇三年、構造改革特区での株式会社立大学参入の際は、「営利目的の会社が学校を直接的に設置するのは不適切」と反対する文科省を説得した。
一二年十二月、念願の文科省に就いた下村氏は、公立学校の経営を民間の事業者に委託する公設民営学校の導入に意欲満々だ。与党内でも慎重論が根強いが、下村氏は「公立義務教育で十分に対応できない不登校児、発達障害児。あるいは、もっとスポーツ、芸術に特化したことを学びたい(子供への)教育対応を公設民営学校のイメージとして考えている」と強調する。」
「では、下村氏らが塾の活用に熱心なのはなぜか。藤田(英典・共栄大教授)氏は、日教組への対抗心を疑う。「安倍晋三首相や下村氏ら自民党の中心的な議員は、日教組憎しの姿勢だ。学校教育の質が低下したのは日教組のせいだという保守派の主張と、学習塾との連携を進めるべきだという主張がセットで出てきている面もある」とみる。
世取山(洋介・新潟大准教授)氏は、アベノミクスの成長戦略との関連に注目する。「公教育で労働力として役に立つ人材を養成する狙いがある。規格化された能力を伸ばすには、学習塾との連携が効果的。成長戦略に基づき、学習塾を新産業として育成していきたい考えもある」
公教育と学習塾との野放図な連携は、癒着の温床になりかねない。下村氏の違法献金疑惑は、はからずもそれを証明した格好だ。
世取山氏は「業者選定での公正性の確保はできない。各業者の教育手法の効果を客観的に評価するのが難しいからだ。自治体や政府との癒着が起きやすくもなる」と警鐘を鳴らす。」(東京新聞二〇一五年2月28日朝刊より)
なるほど、この人は学習塾業界というバックを背景に文科大臣に成り上がった人なんだな。学習塾とくに進学塾という存在は、受験に勝つために親が費用を負担して購入する教育商品であり、合格実績という指標で市場競争の勝ち抜きを追求する。安倍政権の教育改革というのは、すべての子どもに公平平等に質の良い教育を保証するという公教育の理念を捨てて、市場原理に教育を投じようとする指向が強い。目に見える成績は、子どもにどれだけ金をかけて見返りの多い商品を買えるかの勝負で決まると考えている。富裕層の親を持つ子どもほど、夢や希望が与えられる教育を文部科学大臣が追及しているとしたら、教育は死ぬのだろう。
B.新憲法草案をめぐる駆け引き
半藤一利『昭和史』後編の戦後史について、ぼくは3つの話題だけとり上げようと思う。ひとつは前回の「天皇・マッカーサー会見」について。2つめが今回の「新憲法草案」のこと。3つ目は「東京裁判」である。戦後の占領時代をめぐっては、同じ激動の昭和といっても『昭和史』では、戦争終結まではおもに国内政治指導者たちの動きを追い、戦後はアメリカとの関係、マッカーサーだけでなく朝鮮戦争、冷戦という世界の環境の激変の中で、アメリカという宗主国と保守政権がどういう関係を構築するか、というテーマが重点的に触れられる。これをめぐってさまざまな問題が派生したが、基本は3つの大問題、戦争の後始末として昭和天皇をどうするか、占領終了後の軍事的な安全保障体制をどうするか、そして日本をどういう社会に変えるかのグランド・デザインである。これが占領統治6年間の課題だったと思う。
半藤『昭和史』は、その各時点のキー・パーソンの言動に即して、語り口調で説明していく。それは面白いのだが、そろそろ他の本も読みたいので、この3つに絞ることにした。そこで、今回は「新憲法草案」だが、敗戦の1945年暮れに立ちあがった「松本委員会」(幣原内閣が作った国務大臣松本烝治を長とする憲法問題調査委員会)の作った憲法改正案のところから。
「しかし、委員会は外からの批評や悪口にはびくともせず、とくに松本委員長はとにかく早く仕上げてGHQに提出を、と頑張ります。前年十月二十七日の第一回総会以来、総会六回、小委員会十五回、力の限りを尽くして討議してきたのだから、つべこべ言われる筋合いはないと言わんばかりにふんぞり返って二月二日、第七回総会をもって任務完了、GHQに提出する憲法案としてこれは冠絶し最高のものである、と全委員が胸を張って解散したのです。
一方、GHQはカンカンです。翌日の二月三日、マッカーサーはホイットニーを部屋に呼び、日本人には任せておけないので民生局で憲法を起草するよう伝え、その際には基本的な三つのことを守ってほしい、と自らの考えを述べます。マッカーサー三原則として知られたもので、これにのっとってホイットニー以下民生局の人たちが憲法草案をつくりあげていくことになります。
一、天皇は国の元首の地位にある。
天皇家はつぶさずに、皇位の継承は世襲とする。天皇は元首ではあるけれど、その職務(仕事)および権能(権限)は憲法に基づいて行使され、憲法に示された国民の基本的意志に応えるものとする――ちなみにこれは、後でひっくり返ります。
二、国権の発動たる戦争は、廃止する。
ふつう国家主権が衝突した際、こちらの意志を押し通すために、政治の延長として戦争がはじまるわけですが、日本はそういった行動は廃止する。また紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持する自衛のための手段としての戦争をも放棄する。日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想、つまり国際連合に委ねる――この時はまだ日米安全保障条約は結んでいませんから、アメリカに任せるということではありません。また、日本が陸海空軍をもつ権能は、将来も与えられることなく、交戦権が与えられることもない。つまり軍隊をもたない、ということです。
三、日本の封建制度は廃止される。
八月十五日以来、GHQが行なってきたさまざまな改革は、日本のあらゆる封建制度の破壊でしたから、これは今さらでもありますが、貴族の権利は、皇族を除き、現在生存するもの一代以上には及ばない。貴族とは「公侯伯子男」爵のことで、すでにもっている人は仕方ありませんが、世襲はしない、すべて一代限りで終わりにする。また、皇族の外側にいる華族の地位は、今後どのような国民的または市民的な政治権力も伴うものではない。
これを受けてホイットニーは二月四日、すでに三八度線をめぐってソ連や朝鮮との話し合いがはじまっていた朝鮮部担当を外した民生局の全員、二十五人を集めて大号令を出しました。
「これからの一週間、わが民生局が憲法制定の役割を担うことになった。ジェネラル・マッカーサーは、日本国民のために、新しい憲法を起草するという歴史的意義のある任務を、われら民生局に委託されたのである。もちろん、草案の基本は、ジェネラル・マッカーサーの略述された三原則にあることは申すまでもない。日本政府の係官と、日本政府提出の憲法草案についてのオフ・ザ・レコード(記録しない)の会合を予定している二月十二日までに、われわれは新憲法草案を完成し、ジェネラルの承認を受けておかなければならない」
日本から草案が出てきて討議することが予定されている二月十二日の会合までに、とにかくこちらの新憲法草案を完成させてマッカーサー元帥の承認を受けておかねばならん、もたもたしていられない、と大演説をぶち、行政課長チャールズ・L・ケーディス大佐、法規課長マイロ・E・ラウエル中佐、アルフレッド・R・ハッシィ・ジュニア海軍中佐がそれぞれ天皇制、戦争放棄、国民の権利などの分野の責任者に指名されました。
さてこの二十五人をよく眺めますと、一人として憲法の専門家はいませんでした。GHQはよくできる学者的な人がたくさんいましたが、軍人ですし、憲法を大学などで専門的に勉強してきた人は見当たりません。ただし、皆若いんです。松本委員会の平均年齢が六十歳とすれば、それより三十歳ほども若い人たちがずらりと並びました。彼らは、マッカーサーの命令で日本の民主化を完成させるための憲法をつくるというので俄然興奮して、世界各国の憲法などを猛勉強するのです。ホイットニーは演説の最後に付け加えたといいます。
「私は充分な説得をとおして、日本側との合意を得たいと思っているが、説得がどうしても(日本が同意せず)不可能となったときには、力を用いる(GHQの権力を行使する)と脅かすことによって同意させる覚悟である。また、そうしてもよいという権限をジェネラル(マッカーサー元帥)から与えられているのである」
日本がなんと言おうとこちらの作った憲法を受け取れと言うつもりだから、しっかり作れよ――これはいくらなんでもあんまりではないか、と思われなくもありませんが。
こうして翌二月五日からはじまった作業は、もうねじり鉢巻でシャカリキになって、なんとか十二日までに終了しました。この一週間はすべて密室です。誰も入れず、三部会に分かれたメンバーが部屋に籠り、もちろんアメリカの憲法も含め、世界中の憲法を必死で学び、真剣な討議を経て草案作りに励んだ、ということになっているのです。いや、事実はそうではなくて、それ以前から作業ははじめられていて、相当な時間がかかっているのだ、という説もあります。私も、あるいはそうじゃないか、と思うのですが、事実は雲霧のかなたにあります。」半藤一利『昭和史1945-1989』平凡社、2009、pp.172-176.
GHQ(民生局)は、日本政府が作る憲法草案は、明治の帝国憲法を適当に見かけだけ手直ししたものでしかなく、徹底した民主化をすすめるGHQの方針からは問題外のしろものだと見た。そしてこうなったらこっちで草案を作ってしまえ、とスタッフ25人で憲法草案を作ってしまい、それを日本政府に突き付けたわけだ。
「そして翌十三日、戦後日本のもっとも面白い一日と言っていいかと思いますが、麻布市兵衛町の外務大臣官邸に午前十時、日本側は吉田茂外相、松本国務大臣、終戦連絡中央事務局次長の白洲次郎さん、そして外務省の通訳長谷川元吉さんの四人が集まります。じつは当日、閣議が行われていたため、このような少人数でした。一方アメリカ側は、ホイットニー准将、ケーディス大佐、ハッシィ中佐、ラウエル中佐の四人が定刻に車で乗りつけました。寒い時期ですから少しでも暖かいところでと、陽のぽかぽかあたるサンルームに設けられた会場で、あいさつのあと会議がはじまりました。
そこでいきなり、ホイットニーが長々と演説をぶったのです。内容は、日本側に残っている記録とアメリカのそれでは少し違っています。日本側の記録によると、
「(われわれはここに、わがGHQが作成した憲法草案を日本側に提出する、として)本案は内容形式共に決して之を貴方に押付ける考にあらざるも、実は之はマカーサ元帥が米国内部の強烈なる反対を押切り、天皇を擁護申上げる為に、非常なる苦心と慎重の考慮を以て、之ならば大丈夫と思う案を作成せるものにして、また最近の日本の情勢を見るに、本案は日本民衆の要望にも合するものなりと信ずと言えり」
つまり、天皇陛下をお守りするために自分たちは非常に慎重にかつ苦心してこの草案を作った。またGHQの観察する日本人の今の精神状態に、これはもっとも合った内容であると思う、というわけです。
一方、アメリカ側の記録(『ラウエル文書』)では、
「御存知かどうかわかりませんが、最高司令官は、天皇を戦犯として取り調べるべきだという他国からの圧力から、天皇を守ろうという決意を固く保持しています。これまで最高司令官は、天皇を護ってまいりました。それは彼が、そうすることが正義に合すると考えているからであり、今後も力の及ぶ限りそうするでありましょう。しかし皆さん、最高司令官といえども、万能ではありません。けれども最高司令官は、この新しい憲法の諸規定が受け容れられるならば、実際問題として、天皇は安泰になると考えています。さらに最高司令官は、これを受け容れることによって、日本が連合国の管理から自由になる日がずっと早くなるだろうと考え、また日本国民のために連合国が要求している基本的自由が、日本国民に与えられることになると考えております」
日本の記録に比べて具体的ですね。マッカーサーは天皇の身柄を守ってきたけれども、後ろに極東委員会がいることを匂わせつつ、彼も万能ではない、しかし日本がこの案を受け入れるならば天皇は安全であるうえ、日本の占領も早く終わって独立国家になるだろう、またわれわれが日本に与えようとしている自由が、もっとはっきり国民に与えられることになろう、というのです。
いずれにしろ、まさか相手から憲法草案が出てくるとは思っていなかった日本側四人は、この演説を呆然と聞き、仰天しました。その様子がアメリカ側の記録に残っています。
「はっきりと、茫然たる表情を示した。白洲氏は座り直して姿勢を正し、松本博士は大きな息をつき、特に吉田氏の顔は、驚愕と憂慮の色を示していた」
アメリカ側はいい気なもので、勝手なことを書いていますが、日本にすれば「こんな高飛車な話はないじゃないか」という思いでしょう。ただ『ラウエル文書』のホイットニー演説をよく読めば、必ずしも憲法を押しつけているわけではないようにも思えます。微妙ではありますが、黙って言うことを聞いている方が日本のためになるんだよ、と匂わせてはいますけれど。
ただ、その場にいた日本側は、これはものすごいものを上から押しつけられたぞという印象だったのでしょう。いや、衝撃かな。それを一番よく表しているのが、昭和二十九年(一九五四)七月七日、自由党憲法調査会で松本博士が行った講演です。この後三か月ほどで松本さんは亡くなりますから、ほぼ最後の演説ということになります。
「ホイットニー少将(ママ)が立ち、向こうの案をタイプしたもの八、九冊ぐらい机の上に出して、極めて厳格な態度でこういうことをいいました。日本政府から提案された憲法改正案は司令部にとって承認すべからざるものである。この当方の出した提案〔十一章九十二条〕は司令部にも米国本国も、また連合国極東委員会にも、いずれにも承認せらるべきものである。マ元帥はかねてから天皇の保持について深甚の考慮をめぐらしつつあったのであるが、日本政府がこの自分の出した対案のような憲法改正を〔世界に〕提示することは、右の目的(天皇の保持)を達成するために必要である。これがなければ、天皇の身体の保障をすることはできない。この提案と基本原則および根本形態を同じくする改正案を、速やかに作成し提出することを切望する、と言われました。そして二十分くらい庭を見てくるからその間に読んでくれ、といって向こうの人たちは寒い時でしたが庭に出ていきました」
GHQ提案を、そのままではなく草案として検討するとはいえ、根本形態はこれと同じ改正案を速やかに提出せよと言われた、つまり押しつけられたことを強調しているわけです。このあたりは非常に微妙ですが、四人の気持ちからすればこれに近かったのでしょう。
(中略)
こうして、わずか二十分ぐらいですが、読みながら四人が検討していると、天皇は“国家のシンボル”と書いてある。この“国家のシンボル”とは何ぞや、というわけで、松本国務大臣は「こんな文学的表現では法律にならん。それに“主権在民”とは何だ、日本の国はもともと君民共治あるいは君臣一如といって、天皇陛下も国民もひとつのものである。それを話して主権を国民に与えるというのは、日本建国の精神にも外れている、根本的に日本の精神とは離れている」などぶつぶつ言っていました。」半藤一利『昭和史1945-1989』平凡社、2009、pp.179-183.
GHQ草案を突きつけられた日本政府はびっくりしたが、これを拒否すれば天皇の戦争責任追及は避けられないといわれる以上、結局これをもとに新憲法ができる。「押しつけ憲法である」という意見は当初からあったが、下書きを日本人抜きでGHQが書いたということでは確かに「押し付け」といえなくもない。だが、内容は画期的で、いわばこの若い25人は一国の革命プランを1週間で書いて、それが現実にその後の日本国の基礎になったという意味では、もはや歴史に刻まれている。実際、半藤氏も言うように当時の日本人の多数はこれを歓迎したといってもいいのではないか。それは、戦争を導いた指導者の政治に比べ、GHQの政治改革は国民の眼からみて、はるかにましなものと映ったからではないか。
「それでも日本政府はGHQに、「あなた方の案では、日本国民に激しいショックを与え、彼らに民主主義自体に対する反対の態度を取らせるだろう、非常に危険である」と盛んに言ったようです。ただ、歴史に「イフ」はありませんが、もしも実際に日本がこの草案を突っぱね、予告通りGHQが直接日本国民に問うたとしたらどうなったかを考えることは、必ずしも無駄ではありません。当時を知っている人、それも年代によってそれぞれ違うと思いますし、私などは子どもでしたが、その後ずっと戦後を生きているなかで、もしもあの時、GHQが直接に日本国民に意見を問うていたらと思うと……。
当時の日本国民は、戦争の悲惨を痛感していましたし、軍部の横暴にこりごりしていましたから、平和や民主主義や自由といった、占領軍が示してきた新しい価値観を貴重なものと感じる人が多かったと思うんです。悲劇をもう一度繰り返したくない、戦争は本当にこりごりというのが現実でした。そこに敗戦の虚脱感が合わさって、なんというか、日本政府よりもアメリカを信じている人のほうが多かったのではないか、と私などは観察するのです。すでに二百日に及ぶ占領下の生活のなかで、下品な言い方をすれば、GHQと“寝てしまった”日本人にとっては、GHQは日本政府よりもよっぽど信頼のおけるいい旦那だったと思わないでもないんです。それ以上にGHQの政策によって、なんとなしに日本に対する嫌悪感のようなものが強くなって、むしろアメリカへの親近感をもちはじめていたんですね。日本人は、そのうえに当時たいへん功利的にもなっていましたし、アメリカという大金持ちの国が「こういうかたちで国を作ったらどうですか」と一括して、それもタダで、さらに「こういうふうに運用すればいいんですよ」とアンチョコ付きで出してきてくれているんです。しかも象徴であれ何であれ、最大の問題であった天皇制が温存されているのです。文句を言う筋合いじゃありません。アメリカも相当、日本の世情を調べていましたし、政府が「国民はショックを受けて反対しますよ」といくら言っても、実際は歓迎したと思うんですよ。」半藤一利『昭和史1945-1989』平凡社、2009、pp.192-194.
戦争に負けたことは取り返しがつかないし、悲惨で愚劣な結果に終わったことは間違いないが、もし戦争が日本国民に結果的になにか重要な福利をもたらしたとすれば、それは日本国憲法がもたらした70年の平和ではないか。戦争に負けていなかったら、陸海軍は消滅せず財閥解体や農地改革や労働組合公認が実現することはありえなかったし、日本はやがて自衛隊という軍隊を持つことにはなったが、他国と武力で戦争をしたりはしなかったし、自国民も他国民も殺していない。「靖国の英霊」という言葉は偏狭に過ぎるが、戦争の犠牲者の死が無駄でなかったとすれば、こういうことなんだろう。