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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

教育の商品化をよしとする思想

2015-02-28 23:45:14 | 日記
A.進学塾が行う教育とは
 たまたまNHKで国会の予算委員会審議の中継を見ていたら、下村博文文科省の違法献金疑惑で民主党の議員が、下村氏を追及している場面だった。問題になったのは、下村氏の政治活動を応援するのを目的とする民間有志の団体「博友会」から献金を受けていたことだ。この会は選挙区の東京11区(板橋区など)だけでなく全国にあるらしく、下村氏はこれは政治資金規正法にかかる政治団体ではないから法的に問題はないと言っていたが、どうも怪しい。
 民主党議員は六つある博友会うち「中四国博友会」(広島市)のHPで「下村氏の政治活動を支援する」との目的を規約にうたい、東京の下村氏事務所を問い合わせ先にしていたことを指摘。また下村氏がフェイスブックで「中部博友会」(名古屋市)を「後援会のひとつ」と記していることは認めたが、博友会での記念写真に暴力団関係者で逮捕歴のある人物と並んでいたことは、「言いがかりだ」と反発していた。
 下村氏はこの問題とは別に、自身が代表の「自民党東京都第11選挙区支部」が2012年に外国人から寄付を受けていたとして大阪市の企業や個人に計96万円を返金したと説明。翌年名古屋市の男性からの4万8000円の寄付も「反社会的勢力との関係があるという報道に気づき、今年1月に返金した」という。

 政治団体として届け出てもいない後援会を、全国にもっているのはどうしてだろう?と思っていたら、今日東京新聞にこういう記事があった。
「下村博文・文部科学相の違法献金問題で浮かび上がったのは、下村氏と塾業界との密接な関係だ。下村氏は学習塾経営の経験をもち、問題とされた支援組織「博友会」は学習塾関係者らで構成されている。自民党文教族としての歩みは、文部科学省が塾と公教育の連携を強化してきた歴史と重なる。だが、塾の安易な参入を許せば、ますます受験学力偏重に傾き、公教育の総合性が破壊されかねない。ましてや政治と塾業界の癒着が疑われるようでは、本末転倒もはなはだしい。(沢田千秋・林啓太)東京新聞2015年2月28日朝刊こちら特報部。

 「公教育が『問題児』を生み出し、彼らの行き場を奪っている。そのすき間を埋めることができるのは私塾しかない」
 下村氏は、専門誌「法律文化」の二〇〇四年九月号に掲載されたインタビューで塾の活用を訴えている。下村氏が「孰」へ肩入れするのは、自身の経験に基づくのだろう。昨夏に出版した半生記「9歳で突然父を亡くし新聞配達少年から文科大臣に」によると、群馬県高崎市に生まれた下村氏は交通事故で父親を失い、奨学金で高校に通学。卒業後に半年間、新聞配達をして早稲田大学に入った。在学中の一九七七年、東京都板橋区内で学習塾の経営を開始。大学卒業後、塾を「博文進学ゼミ」と命名して拡大させた。最終的には二千人の生徒を抱えるまでになった。
 八九年、都議に転じた後、塾の経営は人に譲った。九六年の衆院選で東京11区から初当選を果たす。もともと政治家志望だった下村氏は著書で「塾を大きくしたかったのは、政治家になるための資金確保と選挙地盤づくりが目的」と正直に書いている。
 下村氏をよく知る塾関係者の評価はさまざまだ。
 地元選挙区の塾経営者は「教育理念が感じられず、政治家になるために塾を足掛かりにした人でしょう。初めて都議選に立候補した時、塾の教え子の家に上がり込み握手を求めたというのは有名な話」と手厳しい。一方、博友会に所属する都内の塾経営者は「学校や塾の垣根を越え、子供たちが夢や希望を持ち、やる気になる教育が必要と繰り返していた」と尊敬の念を隠さない。
 かつての学習塾は銀行借り入れの際は信用保証協会の対象業種にもなれず、「受験戦争の元凶」「日陰に咲くあだ花」と揶揄された。そんな中、塾経営者から政界入りした下村氏は業界の「星」だった。前出の博友会メンバーは「塾の仲間は互いに顔見知りが多く、勉強会のような小さな集まりで、一、二万円の会費を払って下村先生を呼んでいた」と振り返る。
 下村氏は、文科政務官、自民党教育再生実行本部長を歴任するなど文教族としてキャリアを重ね、塾業界の期待に応えていく。〇三年、構造改革特区での株式会社立大学参入の際は、「営利目的の会社が学校を直接的に設置するのは不適切」と反対する文科省を説得した。
 一二年十二月、念願の文科省に就いた下村氏は、公立学校の経営を民間の事業者に委託する公設民営学校の導入に意欲満々だ。与党内でも慎重論が根強いが、下村氏は「公立義務教育で十分に対応できない不登校児、発達障害児。あるいは、もっとスポーツ、芸術に特化したことを学びたい(子供への)教育対応を公設民営学校のイメージとして考えている」と強調する。」
「では、下村氏らが塾の活用に熱心なのはなぜか。藤田(英典・共栄大教授)氏は、日教組への対抗心を疑う。「安倍晋三首相や下村氏ら自民党の中心的な議員は、日教組憎しの姿勢だ。学校教育の質が低下したのは日教組のせいだという保守派の主張と、学習塾との連携を進めるべきだという主張がセットで出てきている面もある」とみる。
 世取山(洋介・新潟大准教授)氏は、アベノミクスの成長戦略との関連に注目する。「公教育で労働力として役に立つ人材を養成する狙いがある。規格化された能力を伸ばすには、学習塾との連携が効果的。成長戦略に基づき、学習塾を新産業として育成していきたい考えもある」
 公教育と学習塾との野放図な連携は、癒着の温床になりかねない。下村氏の違法献金疑惑は、はからずもそれを証明した格好だ。
 世取山氏は「業者選定での公正性の確保はできない。各業者の教育手法の効果を客観的に評価するのが難しいからだ。自治体や政府との癒着が起きやすくもなる」と警鐘を鳴らす。」(東京新聞二〇一五年2月28日朝刊より)

 なるほど、この人は学習塾業界というバックを背景に文科大臣に成り上がった人なんだな。学習塾とくに進学塾という存在は、受験に勝つために親が費用を負担して購入する教育商品であり、合格実績という指標で市場競争の勝ち抜きを追求する。安倍政権の教育改革というのは、すべての子どもに公平平等に質の良い教育を保証するという公教育の理念を捨てて、市場原理に教育を投じようとする指向が強い。目に見える成績は、子どもにどれだけ金をかけて見返りの多い商品を買えるかの勝負で決まると考えている。富裕層の親を持つ子どもほど、夢や希望が与えられる教育を文部科学大臣が追及しているとしたら、教育は死ぬのだろう。



B.新憲法草案をめぐる駆け引き
 半藤一利『昭和史』後編の戦後史について、ぼくは3つの話題だけとり上げようと思う。ひとつは前回の「天皇・マッカーサー会見」について。2つめが今回の「新憲法草案」のこと。3つ目は「東京裁判」である。戦後の占領時代をめぐっては、同じ激動の昭和といっても『昭和史』では、戦争終結まではおもに国内政治指導者たちの動きを追い、戦後はアメリカとの関係、マッカーサーだけでなく朝鮮戦争、冷戦という世界の環境の激変の中で、アメリカという宗主国と保守政権がどういう関係を構築するか、というテーマが重点的に触れられる。これをめぐってさまざまな問題が派生したが、基本は3つの大問題、戦争の後始末として昭和天皇をどうするか、占領終了後の軍事的な安全保障体制をどうするか、そして日本をどういう社会に変えるかのグランド・デザインである。これが占領統治6年間の課題だったと思う。
 半藤『昭和史』は、その各時点のキー・パーソンの言動に即して、語り口調で説明していく。それは面白いのだが、そろそろ他の本も読みたいので、この3つに絞ることにした。そこで、今回は「新憲法草案」だが、敗戦の1945年暮れに立ちあがった「松本委員会」(幣原内閣が作った国務大臣松本烝治を長とする憲法問題調査委員会)の作った憲法改正案のところから。

「しかし、委員会は外からの批評や悪口にはびくともせず、とくに松本委員長はとにかく早く仕上げてGHQに提出を、と頑張ります。前年十月二十七日の第一回総会以来、総会六回、小委員会十五回、力の限りを尽くして討議してきたのだから、つべこべ言われる筋合いはないと言わんばかりにふんぞり返って二月二日、第七回総会をもって任務完了、GHQに提出する憲法案としてこれは冠絶し最高のものである、と全委員が胸を張って解散したのです。
 一方、GHQはカンカンです。翌日の二月三日、マッカーサーはホイットニーを部屋に呼び、日本人には任せておけないので民生局で憲法を起草するよう伝え、その際には基本的な三つのことを守ってほしい、と自らの考えを述べます。マッカーサー三原則として知られたもので、これにのっとってホイットニー以下民生局の人たちが憲法草案をつくりあげていくことになります。
 一、天皇は国の元首の地位にある。
天皇家はつぶさずに、皇位の継承は世襲とする。天皇は元首ではあるけれど、その職務(仕事)および権能(権限)は憲法に基づいて行使され、憲法に示された国民の基本的意志に応えるものとする――ちなみにこれは、後でひっくり返ります。
 二、国権の発動たる戦争は、廃止する。
 ふつう国家主権が衝突した際、こちらの意志を押し通すために、政治の延長として戦争がはじまるわけですが、日本はそういった行動は廃止する。また紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持する自衛のための手段としての戦争をも放棄する。日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想、つまり国際連合に委ねる――この時はまだ日米安全保障条約は結んでいませんから、アメリカに任せるということではありません。また、日本が陸海空軍をもつ権能は、将来も与えられることなく、交戦権が与えられることもない。つまり軍隊をもたない、ということです。
 三、日本の封建制度は廃止される。
 八月十五日以来、GHQが行なってきたさまざまな改革は、日本のあらゆる封建制度の破壊でしたから、これは今さらでもありますが、貴族の権利は、皇族を除き、現在生存するもの一代以上には及ばない。貴族とは「公侯伯子男」爵のことで、すでにもっている人は仕方ありませんが、世襲はしない、すべて一代限りで終わりにする。また、皇族の外側にいる華族の地位は、今後どのような国民的または市民的な政治権力も伴うものではない。
 これを受けてホイットニーは二月四日、すでに三八度線をめぐってソ連や朝鮮との話し合いがはじまっていた朝鮮部担当を外した民生局の全員、二十五人を集めて大号令を出しました。
「これからの一週間、わが民生局が憲法制定の役割を担うことになった。ジェネラル・マッカーサーは、日本国民のために、新しい憲法を起草するという歴史的意義のある任務を、われら民生局に委託されたのである。もちろん、草案の基本は、ジェネラル・マッカーサーの略述された三原則にあることは申すまでもない。日本政府の係官と、日本政府提出の憲法草案についてのオフ・ザ・レコード(記録しない)の会合を予定している二月十二日までに、われわれは新憲法草案を完成し、ジェネラルの承認を受けておかなければならない」
 日本から草案が出てきて討議することが予定されている二月十二日の会合までに、とにかくこちらの新憲法草案を完成させてマッカーサー元帥の承認を受けておかねばならん、もたもたしていられない、と大演説をぶち、行政課長チャールズ・L・ケーディス大佐、法規課長マイロ・E・ラウエル中佐、アルフレッド・R・ハッシィ・ジュニア海軍中佐がそれぞれ天皇制、戦争放棄、国民の権利などの分野の責任者に指名されました。
 さてこの二十五人をよく眺めますと、一人として憲法の専門家はいませんでした。GHQはよくできる学者的な人がたくさんいましたが、軍人ですし、憲法を大学などで専門的に勉強してきた人は見当たりません。ただし、皆若いんです。松本委員会の平均年齢が六十歳とすれば、それより三十歳ほども若い人たちがずらりと並びました。彼らは、マッカーサーの命令で日本の民主化を完成させるための憲法をつくるというので俄然興奮して、世界各国の憲法などを猛勉強するのです。ホイットニーは演説の最後に付け加えたといいます。
「私は充分な説得をとおして、日本側との合意を得たいと思っているが、説得がどうしても(日本が同意せず)不可能となったときには、力を用いる(GHQの権力を行使する)と脅かすことによって同意させる覚悟である。また、そうしてもよいという権限をジェネラル(マッカーサー元帥)から与えられているのである」
 日本がなんと言おうとこちらの作った憲法を受け取れと言うつもりだから、しっかり作れよ――これはいくらなんでもあんまりではないか、と思われなくもありませんが。
 こうして翌二月五日からはじまった作業は、もうねじり鉢巻でシャカリキになって、なんとか十二日までに終了しました。この一週間はすべて密室です。誰も入れず、三部会に分かれたメンバーが部屋に籠り、もちろんアメリカの憲法も含め、世界中の憲法を必死で学び、真剣な討議を経て草案作りに励んだ、ということになっているのです。いや、事実はそうではなくて、それ以前から作業ははじめられていて、相当な時間がかかっているのだ、という説もあります。私も、あるいはそうじゃないか、と思うのですが、事実は雲霧のかなたにあります。」半藤一利『昭和史1945-1989』平凡社、2009、pp.172-176.

 GHQ(民生局)は、日本政府が作る憲法草案は、明治の帝国憲法を適当に見かけだけ手直ししたものでしかなく、徹底した民主化をすすめるGHQの方針からは問題外のしろものだと見た。そしてこうなったらこっちで草案を作ってしまえ、とスタッフ25人で憲法草案を作ってしまい、それを日本政府に突き付けたわけだ。

 「そして翌十三日、戦後日本のもっとも面白い一日と言っていいかと思いますが、麻布市兵衛町の外務大臣官邸に午前十時、日本側は吉田茂外相、松本国務大臣、終戦連絡中央事務局次長の白洲次郎さん、そして外務省の通訳長谷川元吉さんの四人が集まります。じつは当日、閣議が行われていたため、このような少人数でした。一方アメリカ側は、ホイットニー准将、ケーディス大佐、ハッシィ中佐、ラウエル中佐の四人が定刻に車で乗りつけました。寒い時期ですから少しでも暖かいところでと、陽のぽかぽかあたるサンルームに設けられた会場で、あいさつのあと会議がはじまりました。
 そこでいきなり、ホイットニーが長々と演説をぶったのです。内容は、日本側に残っている記録とアメリカのそれでは少し違っています。日本側の記録によると、
 「(われわれはここに、わがGHQが作成した憲法草案を日本側に提出する、として)本案は内容形式共に決して之を貴方に押付ける考にあらざるも、実は之はマカーサ元帥が米国内部の強烈なる反対を押切り、天皇を擁護申上げる為に、非常なる苦心と慎重の考慮を以て、之ならば大丈夫と思う案を作成せるものにして、また最近の日本の情勢を見るに、本案は日本民衆の要望にも合するものなりと信ずと言えり」
 つまり、天皇陛下をお守りするために自分たちは非常に慎重にかつ苦心してこの草案を作った。またGHQの観察する日本人の今の精神状態に、これはもっとも合った内容であると思う、というわけです。
 一方、アメリカ側の記録(『ラウエル文書』)では、
 「御存知かどうかわかりませんが、最高司令官は、天皇を戦犯として取り調べるべきだという他国からの圧力から、天皇を守ろうという決意を固く保持しています。これまで最高司令官は、天皇を護ってまいりました。それは彼が、そうすることが正義に合すると考えているからであり、今後も力の及ぶ限りそうするでありましょう。しかし皆さん、最高司令官といえども、万能ではありません。けれども最高司令官は、この新しい憲法の諸規定が受け容れられるならば、実際問題として、天皇は安泰になると考えています。さらに最高司令官は、これを受け容れることによって、日本が連合国の管理から自由になる日がずっと早くなるだろうと考え、また日本国民のために連合国が要求している基本的自由が、日本国民に与えられることになると考えております」
 日本の記録に比べて具体的ですね。マッカーサーは天皇の身柄を守ってきたけれども、後ろに極東委員会がいることを匂わせつつ、彼も万能ではない、しかし日本がこの案を受け入れるならば天皇は安全であるうえ、日本の占領も早く終わって独立国家になるだろう、またわれわれが日本に与えようとしている自由が、もっとはっきり国民に与えられることになろう、というのです。
 いずれにしろ、まさか相手から憲法草案が出てくるとは思っていなかった日本側四人は、この演説を呆然と聞き、仰天しました。その様子がアメリカ側の記録に残っています。
 「はっきりと、茫然たる表情を示した。白洲氏は座り直して姿勢を正し、松本博士は大きな息をつき、特に吉田氏の顔は、驚愕と憂慮の色を示していた」
 アメリカ側はいい気なもので、勝手なことを書いていますが、日本にすれば「こんな高飛車な話はないじゃないか」という思いでしょう。ただ『ラウエル文書』のホイットニー演説をよく読めば、必ずしも憲法を押しつけているわけではないようにも思えます。微妙ではありますが、黙って言うことを聞いている方が日本のためになるんだよ、と匂わせてはいますけれど。
 ただ、その場にいた日本側は、これはものすごいものを上から押しつけられたぞという印象だったのでしょう。いや、衝撃かな。それを一番よく表しているのが、昭和二十九年(一九五四)七月七日、自由党憲法調査会で松本博士が行った講演です。この後三か月ほどで松本さんは亡くなりますから、ほぼ最後の演説ということになります。
「ホイットニー少将(ママ)が立ち、向こうの案をタイプしたもの八、九冊ぐらい机の上に出して、極めて厳格な態度でこういうことをいいました。日本政府から提案された憲法改正案は司令部にとって承認すべからざるものである。この当方の出した提案〔十一章九十二条〕は司令部にも米国本国も、また連合国極東委員会にも、いずれにも承認せらるべきものである。マ元帥はかねてから天皇の保持について深甚の考慮をめぐらしつつあったのであるが、日本政府がこの自分の出した対案のような憲法改正を〔世界に〕提示することは、右の目的(天皇の保持)を達成するために必要である。これがなければ、天皇の身体の保障をすることはできない。この提案と基本原則および根本形態を同じくする改正案を、速やかに作成し提出することを切望する、と言われました。そして二十分くらい庭を見てくるからその間に読んでくれ、といって向こうの人たちは寒い時でしたが庭に出ていきました」
 GHQ提案を、そのままではなく草案として検討するとはいえ、根本形態はこれと同じ改正案を速やかに提出せよと言われた、つまり押しつけられたことを強調しているわけです。このあたりは非常に微妙ですが、四人の気持ちからすればこれに近かったのでしょう。
 (中略)
 こうして、わずか二十分ぐらいですが、読みながら四人が検討していると、天皇は“国家のシンボル”と書いてある。この“国家のシンボル”とは何ぞや、というわけで、松本国務大臣は「こんな文学的表現では法律にならん。それに“主権在民”とは何だ、日本の国はもともと君民共治あるいは君臣一如といって、天皇陛下も国民もひとつのものである。それを話して主権を国民に与えるというのは、日本建国の精神にも外れている、根本的に日本の精神とは離れている」などぶつぶつ言っていました。」半藤一利『昭和史1945-1989』平凡社、2009、pp.179-183.

GHQ草案を突きつけられた日本政府はびっくりしたが、これを拒否すれば天皇の戦争責任追及は避けられないといわれる以上、結局これをもとに新憲法ができる。「押しつけ憲法である」という意見は当初からあったが、下書きを日本人抜きでGHQが書いたということでは確かに「押し付け」といえなくもない。だが、内容は画期的で、いわばこの若い25人は一国の革命プランを1週間で書いて、それが現実にその後の日本国の基礎になったという意味では、もはや歴史に刻まれている。実際、半藤氏も言うように当時の日本人の多数はこれを歓迎したといってもいいのではないか。それは、戦争を導いた指導者の政治に比べ、GHQの政治改革は国民の眼からみて、はるかにましなものと映ったからではないか。

 「それでも日本政府はGHQに、「あなた方の案では、日本国民に激しいショックを与え、彼らに民主主義自体に対する反対の態度を取らせるだろう、非常に危険である」と盛んに言ったようです。ただ、歴史に「イフ」はありませんが、もしも実際に日本がこの草案を突っぱね、予告通りGHQが直接日本国民に問うたとしたらどうなったかを考えることは、必ずしも無駄ではありません。当時を知っている人、それも年代によってそれぞれ違うと思いますし、私などは子どもでしたが、その後ずっと戦後を生きているなかで、もしもあの時、GHQが直接に日本国民に意見を問うていたらと思うと……。
 当時の日本国民は、戦争の悲惨を痛感していましたし、軍部の横暴にこりごりしていましたから、平和や民主主義や自由といった、占領軍が示してきた新しい価値観を貴重なものと感じる人が多かったと思うんです。悲劇をもう一度繰り返したくない、戦争は本当にこりごりというのが現実でした。そこに敗戦の虚脱感が合わさって、なんというか、日本政府よりもアメリカを信じている人のほうが多かったのではないか、と私などは観察するのです。すでに二百日に及ぶ占領下の生活のなかで、下品な言い方をすれば、GHQと“寝てしまった”日本人にとっては、GHQは日本政府よりもよっぽど信頼のおけるいい旦那だったと思わないでもないんです。それ以上にGHQの政策によって、なんとなしに日本に対する嫌悪感のようなものが強くなって、むしろアメリカへの親近感をもちはじめていたんですね。日本人は、そのうえに当時たいへん功利的にもなっていましたし、アメリカという大金持ちの国が「こういうかたちで国を作ったらどうですか」と一括して、それもタダで、さらに「こういうふうに運用すればいいんですよ」とアンチョコ付きで出してきてくれているんです。しかも象徴であれ何であれ、最大の問題であった天皇制が温存されているのです。文句を言う筋合いじゃありません。アメリカも相当、日本の世情を調べていましたし、政府が「国民はショックを受けて反対しますよ」といくら言っても、実際は歓迎したと思うんですよ。」半藤一利『昭和史1945-1989』平凡社、2009、pp.192-194.

 戦争に負けたことは取り返しがつかないし、悲惨で愚劣な結果に終わったことは間違いないが、もし戦争が日本国民に結果的になにか重要な福利をもたらしたとすれば、それは日本国憲法がもたらした70年の平和ではないか。戦争に負けていなかったら、陸海軍は消滅せず財閥解体や農地改革や労働組合公認が実現することはありえなかったし、日本はやがて自衛隊という軍隊を持つことにはなったが、他国と武力で戦争をしたりはしなかったし、自国民も他国民も殺していない。「靖国の英霊」という言葉は偏狭に過ぎるが、戦争の犠牲者の死が無駄でなかったとすれば、こういうことなんだろう。
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「被害者の物語」にすがる、「勝利者の物語」を誇る、どっちも傲慢!

2015-02-26 18:00:14 | 日記
A.「心理学」概論・的な・・?
 人は誰も「自分らしくありたい」と思うものだ、とまず措く。次にどうしたら「自分らしくあること」ができるのか?と問う。そして「自分探しの旅に出る」みたいなお子様向けおとぎ話は別として、エリクソン以来のアイデンティティ論では、自分という存在の根拠にあるものが、幼年期から青年期までの体験とその振り返りによる物語に依存すると考えた。それは初めは無意識に半ば自然に形成されるが、深刻な危機を経験しくぐり抜けることで、強い方向をもった価値観や世界観にまで構築される。そこまでいかないと、人は自信をもって「自分らしくあること」ができないと考える。心理学的自我論や精神分析でも、この「自分とはなにか?」というテーマが大きな意味をもつ。
 これを個人ではなく、ある集団や民族、そして国家まで敷衍した場合、より具体的にはどんなことが問題になるだろうか?ひとつの材料として、文化人類学者パトリック・ルーカス氏へのインタビュー(朝日新聞2015年2月25日朝刊17面オピニオン欄)「中華民族復興」「我々は特別な民」共産主義に代わる便利な統治の道具」を引いてみる。

「――「偉大なる中華民族の復興」。習近平政権が強調するこのスローガンからお聞きします。どう見ますか。
「習近平氏の発する言葉は、この20~30年間の中国の最高指導者のなかで、もっとも民族主義的な色彩が強いものだと言えるでしょう。彼の言葉にはイメージ的なものも含めて二つの理論が盛り込まれています。一つは『中国は特別である』ということ。もう一つは『中国の需要は他者より大事だ』といったものです」
「『偉大なる中華民族の復興』とは、我々は歴史上優秀な民族であり、アジアの中心だった元々の地位に戻ると言いたいのです。こうした考え方は、とても危険です。歴史がどうだからといって、そのことで未来を決めることはできないから」
――ナショナリズムについて、あなたは今の中国で高まっているのは愛国主義ではなく民族主義だと、はっきり区別していますね。
「愛国主義には健康的な部分もあり、必ずしも他者を傷つけるわけではありません。民族主義はそもそもが差別意識であり、他者を必要とする。そして往々にしてその他者に害を与えます。『我々は別の人よりも優れており、特別』、だから、『我々はやりたいことができる』。それが基本理論です」
「中国政府の高官や外交官の言葉を思い起こしてみても、『中国の歴史は特別』『中国の思想は特別』などなど、この種の発言がなんと多いことか」
――民族主義をあおるような言葉が使われる背景をどう見ますか。あなたは経済改革が始まった1980年代から中国を研究してきました。
「歴史を遡ってみれば、80年代、中国共産党は『破産』しました。共産党が呼びかける共産主義のイデオロギーを、だれも信じなくなったからです。私の知る党首官僚自身ですら、そうでした。共産党は、市民の信任を得るため、何か新たなものを必要としました」
「共産党がまず導入したのは人々の物質的な要求を満足させる方法。共産党には欠点もあるけれど、いうことをきいてくれれば誰もが豊かになれますよ、というものでした。」
「これは悪くありませんでした。みんなが自転車やミシン、テレビを持つようになりました。しかし、物質的な欲求をある程度満足させた人々は、もっと多くの物質的な欲求を満足させると同時に、精神的な欲求も満足させたいと思ったのです」
「人々は、この社会は不平等だと考え始めました。権力者や金持ちは、すべてを思いのままにしているが、そうでない人は、すべてにおいて受動的でなければならない、と」
――不平等の問題が、共産党統治を揺るがす最初の危機として現れたということですね。
「そう。もう一つは社会システムの問題です。人々は、共産党に何も依存していないと思う一方、何も社会的な貢献をしようとしない。指導者が何と言おうが、自分の人生とは関係ないと思ってしまう。統治を空洞化しかねない二つ目の危機でした。共産党は一党支配を変えることができない。共産主義はいわば淘汰され、民族主義が統治に使われ始めたのです」
――「抗日戦争勝利50周年」の1995年前後、当時の江沢民国家主席は愛国主義教育を強めました。
「ここで登場したのが『被害者の物語』。これは極めて便利なものでした。なぜならば、西欧や日本から受けた被害の歴史を強調することで『ほかの民族は堕落しており、野蛮であり、自分たちは善良で無辜である』と言えるから。この場合の敵は、西欧人であり帝国主義。さらに日本人と、その侵略行為でした。民族主義と共に、こうした『記憶』が呼び起されたのです」
「民族主義を広めるのは実はびっくりするくらい簡単です。理論が簡単、というより空っぽですから。空っぽの核心によく入れられるのが『歴史』。これは中国だけでなく、日本などでも同じでしょう」
「興味深いことは、49年の建国の際に毛沢東たちが訴えたのは、中華民族が立ち上がった『勝利者の物語』だったということです。80年代まで、統治者は『被害者の物語』を必要としなかった。中国の庶民たちの記憶もこの点、もやっとしているように見えます。指導者やエリートが『我々の社会は元々こうだ』と言い出すと、人々はわりと簡単に歴史認識を変えてしまいます。それだけ民族主義は、統治者にとって使いやすい道具ということなのです」
――ただ2012年の反日デモでは、日本車だとの理由でパトカーまで壊されました。
「中国政府も民族主義のパワーが大きくなりすぎて、コントロールできない状況が生じています。中国政府は対外的に一寸たりとも譲らないといった強硬姿勢を見せていますが、問題は、それでどうやってほかの国と付き合っていくかです。政治はお互いに譲歩するものです。しかし、外国人に譲歩をすれば、政府も批判を免れなくなっています」
――あなたはこうした民族主義が、中国国内の少数民族に与える影響も指摘しています。
「正確に言えば、中国の民族主義は中国人全体の民族主義ではありません。漢族の民族主義です。最近の『漢服運動』はその一つの例です。」

 今年は戦後70年であるとともに、大隈重信内閣が当時の中華民国政府に日本の権益拡大を求めた「対華21カ条要求」から100年にあたる。要求への抗議を機に、中国では愛国主義と民族主義が混ざった排日運動が高まり、それが日中戦争へとつながる日本の対中強硬論を煽った。(「取材を終えて」中国総局長・古谷浩一) 

 ここでルーカス氏は現代の中国、習近平政権の中国のことを語っているのだが、日本から見ると、鏡を背にした裏表のような気がする。なかでも歴史のある時点で「勝利者の物語」から「被害者の物語」に取り換えられたという観点は面白い。同じ自分は他より優れているという自己規定でも、「勝利者の物語」に立っている時は、他者は劣位(能力的に劣った、貧しい、弱き者)なのだから、保護し指導してやるべき存在として見ている。自分に従えば可愛がってやるぞ、と勝手に思っている。
これが「被害者の物語」では、他者は自分よりも本質的に劣った者であるのに、不当で暴虐な権力や武力を手にしているために自分は痛めつけられ苦しむことになった。自分は被害者である、と考える。民族主義・愛国主義の現れ方は、同じ自己規定でも正反対のものになる。日本の場合、「自虐史観」が「加害者の物語」だから拒否するという人は、日本が経済大国を誇っていた時代には「勝利者の物語」で余裕をもって落ち着いていたのだが、バブルがはじけて日本経済がおかしくなってからは、一気に「被害者の物語」を歌い始めた。
  肝心なことは、自分が他者より優れている、他者は自分より劣っている、という判断に一義的合理的な根拠などない、ということだ。だから、そこから出てくる言説はみな、自分に都合のよい愚かな妄想の組み合わせになり、それを歴史に適用してプライドを保とうとするのは、歪んだ精神のひきつりのようなものだ。習近平政権も安倍晋三政権も、一党独裁の強力政権みたいに見えているが、実は国民は以前のように指導者を信頼も信用もしていない。だから、敵を作って攻撃する「被害者の物語」を引っ張り出して、「中華民族の栄光」「日本民族の優秀さ」などを根拠に見えを切ってみせる。それは内側の劣勢感情に訴えかける政治で、これからの世界をますます暗くすると思う。



B.戦後神話の出発点
 半藤一利『昭和史』は1926-1945の前篇と1945-1989の後編の二分冊になっていて、戦争終結までが前篇である。ここまでこのブログでかなり順番に読んで引用してきて、戦争が終わった。引き続く後編も読んでみると、同様にとても面白い。だが、後編もこの調子でやっていくと、あと一か月かかってしまうのと、戦後についてはサンフランシスコで講和して占領が終わるまでの大変革については、確認する必要があると思うが、その後はぼくも生まれて記憶がある世界になるので、『昭和史』戦後篇はここではぐっとはしょって、いくつかのトピックだけを採り上げることにする。
 まずは、占領者マッカーサーと昭和天皇の会見、第一回の会談のことである。敗戦国の元首が占領者の元帥を訪ねて何を話したのか?ぼくたちが知っている神話は、天皇が国民のために自分はどうなってもいい、と言って元帥マッカーサーは感動したというものである。それはほんとうだったのか?

「これまでの基本となるのはマッカーサーの回想録にある記述で、そこでは天皇はマッカーサーにこう言ったことになっています。
 「私は、国民が戦争遂行にあたって政治・軍事両面で行ったすべての決定と行動にたいする全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する連合国の裁決にゆだねるためにおたずねしました」
 ところが奥村勝蔵さんの手記をもとにして外務省の発表では、そんなことは言っていないことになっています。ですから現在でも、回想録はマッカーサーが勝手に書いたものと主張する人もいます。私はその外務省発表の時、朝日・毎日・読売の三誌から感想を求められ、ほぼ次のように答えました。毎日新聞に発表されたものを読み上げます。
 「もし今回の記録(奥村報告のこと)が事実とすれば、マッカーサーが昭和天皇の人格に感動して日本の占領政策が決まったという事実が全否定されるわけで、日本の占領史を見直す必要が出てくる。だが、天皇が戦争責任に言及したという事実は、米側の記録ではマッカーサー回顧録のみではなく、公的文書にも残っている。諸外国から天皇の戦争責任を追及する声の高かった時期に、天皇本人が戦争責任に言及した事実が漏れたり、記録に残ったりすることを恐れた政府筋が、あえて記録上で伏せた可能性が残る」
つまり、この時は天皇の身柄がどうなるかわかっていませんでした。そんな時に戦争責任を負うなどという言葉を残して、それが相手の耳に入ってしまえば、本当に天皇が全責任を負うことになる可能性があります。そこで当時の政府筋が伏せた、奥村さんの記録から外したのではないか、というのが私の説です。ところが「そうではない、天皇がそんなことを言うはずはない、最初から戦争責任などないのだから」と強く主張する人もいて、そうなると水掛け論ですが、ともかく日本側の記録としては、外務省の奥村報告、それとほとんど同じ内容の宮内省に残る記録とともに、天皇が戦争責任に言及していないことになっています。
 ところが、アメリカ側の記録ではすべて言及したことになっているのです。とくに、私のコメントにある「公的文書」とは、会談一か月後の十月二十七日にGHQの政治顧問ジョージ・アチソンがアメリカ国務省に宛てて打った極秘電報で、秦郁彦さんが発掘したものですが、そこにはこうあります。
「天皇は握手が終わると、開戦通告の前に真珠湾を攻撃したのは、まったく自分の意図ではなく、東条(英樹)首相のトリックにかけられたからである。しかし、それがゆえに責任を回避しようとするつもりはない。天皇は、日本国民のリーダーとして、臣民のとったあらゆる行動に責任をもつつもりだ、と述べた」
 つまり、東京裁判がどうのこうのも無関係のこの時点で、すでにこのような電報が打たれているわけですから、おそらく天皇がそう言ったのは間違いないのではないでしょうか。加えて、会見の八回目以降に通訳を務めた松井明さんが残したメモには、「奥村氏によれば、余りの事の重大さを考慮して記録から削除した」と記されてもいます。
さらに、皇太子(現天皇)の家庭教師を務めたバイニング夫人――マッカーサーのお気に入りでした――が残した日記を、東京新聞が発掘して昭和六十二年(一九八七)十月三日付紙面で抜粋を掲載しています。うち会見について、マッカーサーから聞いた話として書かれた十二月七日の項を引用しますと、
元帥「戦争責任をおとりになるか」
天皇「その質問に答える前に、私のほうから話をしたい」
元帥「どうぞ。お話なさい」
天皇「あなたが私をどのようにしようともかまわない。私はそれを受け入れる。私を絞首刑にしてもかまわない」
これは原文では、You may hang me.となっています。天皇は続けて、
「しかし、私は戦争を望んだことはなった。なぜならば、私は戦争に勝てるとは思わなかったからだ。私は軍部に不信感をもっていた。そして私は戦争にならないようにできる限りのことをした」
ほかにも、同志社大学で教鞭をとったオーティス・ケリーのおばさんが書いたものや、その他一つ二つ、天皇陛下がマッカーサーに「戦争責任は私にある」ということを言った記録が私の手元にあります。そして、回想録にもあるように、マッカーサーはこの時ひどく驚き、心の底から感動したようです。戦争に敗けたどこの国の元首が、自ら訪ねてきて「自分に責任があるから身の処置は任せる」などと言うだろうかと。確かに、歴史をみれば、たいていが亡命または命乞い、責任はないと強気に出るくらいで、自分からYou may hang me. と言った例などないでしょう。マッカーサーは「この人は」と思った、と回想録にもありますし、自ら何度も語っています。つまり、占領政策スタートの基本に、天皇に対するマッカーサーの大いなる尊敬が生まれてしまったのです。そして一回目の会談が終わった時、来訪時は出迎えもしなかったにもかかわらず、彼は天皇を車に乗り込むまで見送ったというのです。」半藤一利『昭和史 1945-1989』平凡社、2009、pp.39-42. 

 日本のやった戦争を指導した中心部は、誰なのか?占領後すぐ始まった戦犯逮捕でも、軍の幹部、とくに開戦を推進した陸海軍のトップ、それに同調した大臣などは戦犯とみなされ、やがて始まる極東国際軍事法廷、いわゆる東京裁判にかけられた。しかし、日米開戦への関与の程度はあいまいで、ナチスのような思想的・組織的な一体性は見分けにくい。形式的な最高責任者はなんといっても天皇なのだが、ヒトラーと違って天皇は皇居の奥深くにいただけで、終戦のラジオ放送まで、国民の前に一度も出ることもなく、演説はおろか声を聞いた人もいなかった。
 この神格化された戦争最高指導者大元帥、元首にして古代から続く祭祀の統率者。マッカーサーは、天皇に会うまでこの天皇という存在がよくわからなかったのではないか。アメリカ人からみれば、近代国家の元首であれば、西洋国家と同じ統治機構によって支えられた存在であって、宗教的な要素はあっても政治と宗教は別なものと考えているはずだ。しかし、戦争末期の日本人の特攻や玉砕をみると「天皇陛下万歳!」で死んでいくのはほとんど狂信的天皇教信者としか思えない。天皇は軍人のトップでもあって、陛下の命令の下に多くの若者が戦争で人を殺し、殺された。そうであれば占領統治の要は天皇を戦争の元凶として処罰するか、天皇制を廃して日本共和国にするしかない。だが、降伏条件として日本がしがみついた天皇制維持という心情的悲願はどこからくるのか、天皇に会うまでマッカーサーは分からなかったのかもしれない、と思う。

「これでいよいよ日本の占領時代が本格的にはじまるわけです。ともかく、天皇とマッカーサーの会談は無事に済んだ、むしろ打ち解けたというのでほっとしたところはあったのですが、基本的にはこれからどうなるかについてはまったくだれも自信がありません。たったひとつあるのは、ポツダム宣言を受諾する際に日本側がつけた条件です。「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解のもとに」、つまり降伏後の日本における天皇の地位、国体が保証されることを確認したうえで受諾したことです。これに対する連合国側の返答は、「日本国の最終的の政治形態は、ポツダム宣言に遵い日本国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす」でした。つまり、これからの日本の国のかたちは、国民の自由意思にまかせるといっています。国民が選べる、というのが唯一の頼みの綱でした。まあ実際問題として、これはすべて裏切られるのですが、この時点では「国民の自由意志」に国家の運命はかかっていたのです。ただ、国家のかたちはそうであったとしても、天皇の身柄については確実ではない。ではどうなるか、それがこの後緊要の大焦点になるわけです。
 その点について日本の指導者が知っているのは、戦争中にちょこちょこ発表されていた連合国の人たちの意見です。たとえば昭和十九年十月、孫文の長男の孫科が「ミカドは去るべし」という論文を発表しています。
 「天皇崇拝の思想は日本の侵略行動の真髄であるがゆえに、ミカドはその地位から去るべきである。……日本において、軍国主義と軍閥の力と天皇制とは、本質的に織り合わされているのだ」
 つまり軍国主義と天皇制は同じものであるから、全部つぶすべきだというのです。また、戦が終わってから、中国の作家、林語堂はこう語っています。
 「日本の民主主義を確保するためには、当然、今上天皇は廃位されねばならない」
 さらに中国の新聞「解放日報」は社説で主張しました。
 「日本天皇は国家の元首であり、陸海空軍の大元帥であるから、戦争に対して負うべき責任はのがれることはできない」
 こういった意見が発表されていましたから、はたして連合国がどう出てくるか――天皇制をどうするのか、裕仁天皇の身柄をどうしようとしているのか――について、日本のトップはいてもたってもいられないほど疑心暗鬼になっていたのです。
 ちなみに、日本がまだ激しい抵抗を続けていた昭和二十年六月の時点でのアメリカの世論はどうだったでしょう。戦争終了後、天皇の身柄をどうすべきかについて、六月二十九日のギャラップ調査によると、
  処刑せよ  三三%
  裁判にかける  一七%
  終身刑とする  一一%
  外国へ追放する  九%
  そのまま存続   四%
  操り人形として利用する  三%
  無回答  二三%
 これはもちろん日本には知らされていませんが、アメリカの世論としては大半が天皇に責任あり、とする意見だったことになります。こういう厳しい状況下で、日本の戦後のあゆみがはじまったわけなんですね。」半藤一利『昭和史 1945-1989』平凡社、2009、pp.45-47.

 ちゃんと文献で調べたわけではないので、ぼくの今のところの大雑把なアイディアだが、大日本帝国の戦争指導部の中にはいくつか違った層があって、「昭和史」的には、明治国家で中枢支配層を形成していた薩長藩閥以来の伝統的な人々がひとつ。それから昭和になって表に出てきた新興軍閥的な人々(満州国関東軍などに関与した軍人と革新官僚あたりか)があって、これらと三井住友安田といった財閥が複雑に結び、さらに昭和になって民間右翼が扇動する形で2.26まで行く。天皇はこれらに担がれていたが、天皇の心情に一番近いのは伝統的支配層であって、彼らからみれば、昭和維新などと言っている連中は体制転覆を図るクーデタ革命派であって、これは絶対抑えねばならない。左翼共産党なぞは弾圧してすでに消えてしまったが、自分たちの権力を脅かすのは、天皇革命を企む青年将校的な連中である、と思っていた。それが日中戦争の泥沼と外交の失敗で、じたばたするうちに日米開戦の時点に来てしまって、いったい誰が責任があるのか、と言われても明確に答えることが誰にもできない。
 戦争が終わって米軍進駐がはじまった時、近衛文麿が語ったという文章をだいぶ前に読んだ時、この人はこの時もこんなことしか考えてなかったのか、とあきれた覚えがある。彼は自分は必至で戦争回避に動いたのに、軍部の一部が暴走してああなってしまった、悪いのはすべて軍部それも過激思想にかぶれた皇道右翼的軍人だ。戦争が終わって、軍部が解体したのはよかったが、これから気をつけないといけないのはあの連中の生き残りが、こんどは左翼共産主義と結びついて天皇制をゆさぶる恐れがある、自分は戦後日本の再建はこれがまず大事だと思うから、アメリカと協力して先頭に立って再建していきたい。要するに旧体制の支配層のど真ん中にいた近衛は、自分たちの地位と権益を守ることしか考えていなかった。三百万人の国民の死という犠牲を少しも顧慮していない。A級戦犯の資格がある。
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泥まみれの中の識見と品格について

2015-02-24 02:00:00 | 日記
A.国会の議論が汚れている
 戦後民主主義と一口に呼ばれる国民主権の政治制度のもとで、選挙で選ばれた立法府の役割は大きい。これとは無縁の、天皇に主権が存した戦前の帝国議会においても、国会議員の権威と品格はそれなりに「選良」であったと思う。むしろ、男子のみしか選挙権も被選挙権もなかった時代、国会議員にはそれなりの識見と実力が伴っていたのではないかとも思う。現在の国会中継を見ていると、どうも国会議員の質が劣化しているような気がする。政治家としての識見や品格とは無縁の、国民の負託を受けた自覚よりも時流に乗って気分で意に沿わぬ者を、口汚く罵り唾を吐くような言動が目立つ。

「安倍晋三首相は二十三日の衆院予算委員会で、日教組をめぐる以前の自身の答弁について「正確性を欠く発言があったことは遺憾で、訂正する」と述べた。二十日の予算委で、日教組と人的交流がある日本教育会館(東京都千代田区)が国から補助金を受け、与党時代の民主党議員に献金していたとの答弁内容をいずれも誤りと認めた。
「補助金をもらっている」
 首相は二十日の予算委で「日教組は補助金をもらっている。教育会館から献金をもらっている議員が民主党にいる」と答弁した。これについて、首相は二十三日午前の委員会で、日教組での補助金はなかったと撤回。午後には、教育会館からの献金についても「決算書を確認したところ、議員献金はなかった」と発言を訂正した。民主党の山井和則氏らへの答弁。
 首相は十九日の予算委で、西川公也農相が精糖工業会の関連団体である精糖工業会館から献金を受けたことを問題視する民主党議員に向かって「日教組はどうするんだ」と、答弁席に立たずにやじを飛ばした。二十日には別の民主党議員から、そのやじを批判されると、教育会館から献金を受けた民主党議員がいるなどと答弁。民主党側は事実ではないとして訂正と謝罪を求めていた。」東京新聞2015年2月23日夕刊1面。

 この騒動は、農林水産大臣が国の補助金を受けている団体から献金を受けていたことを、国会で野党に追求された場面で飛び出した。大臣は返金したから問題はないと居直ったが、さらなる追及を受けて、首相までとばっちりが及んだことで、結局辞任することになった。

「西川農林水産大臣は、23日、安倍総理大臣と総理大臣官邸で会談し、みずからの政党支部が国の補助金を受けた企業などから献金を受けていた問題などで、これ以上、国会審議に影響が出ることは避けたいなどとして辞表を提出し、受理されました。
安倍総理大臣は、西川農林水産大臣の後任に林芳正前農林水産大臣を充てることを決め、認証式などを経て、林大臣の就任が正式に決まりました。
西川農林水産大臣の政党支部を巡っては、国の補助金を受けた栃木県内の木材加工会社から300万円の献金を受け取っていたほか、国の補助金を受けた砂糖の業界団体の代表が社長を務める会社からも100万円の献金を受けていたことが分かりました。西川大臣は、これまでの国会審議などで、「違法性はないと判断している」としたうえで、「農林水産大臣という職責に鑑みて、疑問を持たれないようにいずれも返金した」と説明してきました。
 しかし、野党側が「資質に問題がある」として追及を強めていたことなどから、西川大臣は、これ以上、国会審議に影響が出ることは避けたいなどとして、閣僚を辞任する意向を固め、23日午後5時すぎ、総理大臣官邸で安倍総理大臣と会談して辞表を提出し、受理されました。
会談のあと、西川大臣は総理大臣官邸で記者団に対し、「私がいくら説明しても分からない人は分からないということで、農林水産大臣の辞表を出してきた。安倍総理大臣からは『農業関係の仕事を大変よくやってくれた。引き続きできればやってほしい』ということだったが、私はもう自分で決めたので、政府から外れるということを申し上げてきた。安倍総理大臣も了承してくれた」と述べました。
そのうえで、西川大臣は「全部説明できたし、法律に触れることはないということは安倍総理大臣も分かってくれた。これから農政改革をやるときに内閣に迷惑を掛けてはいけないということで、みずから辞表を出した」と述べました。
そして、安倍総理大臣は、後任の農林水産大臣に林芳正前農林水産大臣を充てることを決めました。」(NHKNewsWEB 2月24日)

 時の内閣で閣僚がときどき不祥事で辞任する、という事態は珍しくない。たいがいはつまらない言いがかりだと首相はかばうが、結局ことが大きくなることを嫌って、トカゲのしっぽを斬る。安倍第2次内閣でもこれで3人目か。ただ少しも潔さを感じさせない辞め方だ。下の者には傲慢に威張り、上にはへいこらする。自分は悪くないが、これ以上迷惑をかけないために辞表を出すという理屈。考えてみれば、昔からこういう性癖は変わっていないか。



B.歴史の教訓をきちんと学ぶ・・?
 半藤一利「昭和史」戦前編も最後に来た。著作権への配慮もあり、この本の記述をあまり大幅な引用でするのは避けたいと思っていたのだが、結局最後の1945年8月にいたる部分は飛ばすには惜しい気がして、結論部分まで引用してしまう。日本という国が、国内外の人々の犠牲の上にかくも救いようのない危機に陥ったことは、古代からの長い歴史でも一度もなかったことだ。なにがこんな事態を招いたのか?それを徹底的に反省することは、後世への責任としても重要だ。

「よく「歴史に学べ」といわれます。たしかに、きちんと読めば、歴史は将来に大変大きな教訓を投げかけてくれます。反省の材料を提供してくれるし、あるいは日本人の精神構造の欠点もまたしっかりと示してくれます。同じような過ちを繰り返させまいということが学べるわけです。ただしそれは、私たちが「それを正しく、きちんと学べば」という条件のもとです。その意志がなければ、歴史はほとんど何も語ってくれません。
 この十五回にわたる授業を終わるに際して、では昭和史の二十年がどういう教訓を私たちに示してくれたかを少しお話ししてみます。
 第一に国民的熱狂をつくってはいけない。その国民的熱狂に流されてしまってはいけない。ひとことで言えば、時の勢いに駆り立てられてはいけないということです。熱狂というのは理性的なものではなく、感情的な産物ですが、昭和史全体をみてきますと、何と日本人は熱狂したことか。マスコミに煽られ、いったん燃え上がってしまうと熱狂そのものが権威をもちはじめ、不動のもののように人々を引っ張ってゆき、流してきました。結果的には海軍大将米内光政が言ったように“魔性の歴史”であった、そういうふうになってしまった。それはわれわれ日本人が熱狂したからだと思います。
 対米戦争を導くとわかっていながら、なんとなしに三国同盟を結んでしまった事実をお話ししました。良識ある海軍軍人はほとんど反対だったと思います。それがあっという間に、あっさりと賛成に変わってしまったのは、まさに時の勢いだったのですね。理性的に考えれば反対でも、国内情勢が許さないという妙な考え方に流されたのです。また、純軍事的に検討すれば対米英戦争など勝つはずのない戦争を起こしてはならない、勝利の確信などまったくないとわかっていたのですから、あくまでも反対せねばならなかったし、それが当然であったのに、このまま意地を張ると国内戦争が起こってしまうのではないか、などの奇妙な考えが軍の上層部を動かしていました。昭和天皇が『独白録』のなかで、「私が最後までノーと言ったならばたぶん幽閉されるか、殺されるかもしれなかった」という意味のことを語っていますが、これもまた時の流れであり、つまりそういう国民的熱狂の中で、天皇自身もそう考えざるをえない雰囲気を感じていたのです。
 二番目は、最大の危機において日本人は抽象的な観念論を非常に好み、具体的な理性的な方法論をまったく検討しようとしないということです。自分にとって望ましい目標をまず設定し、実に上手な作文で壮大な空中楼閣を描くのが得意なんですね。物事は自分の希望するように動くと考えるのです。ソ連が満州に攻め込んでくることが目に見えていたにもかかわらず、攻め込まれたくない、今こられると困る、と思うことがだんだん「いや、攻めてこない」「大丈夫、ソ連は最後まで中立を守ってくれる」というふうな思い込みになるのです。情勢をきちんと見れば、ソ連が国境線に兵力を集中し、さらにシベリア鉄道を使ってどんどん兵力を送り込んできていることはわかったはずです。なのに、攻めて来られると困るから来ないのだ、と自分の望ましい方に考えをもっていって動くのです。
 昭和十六年十一月十五日、大本営政府連絡会議は、戦争となった場合の見通しについて討議しました。ここで決定された戦争終結の腹案は、要するにドイツがヨーロッパで勝つ、そうすればアメリカが戦争を続けていく意志を失う、だから必ずや栄光ある講和に導ける、というまったく他人のふんどしで相撲を取るといいますか、夜郎自大的な判断を骨子にしたことでした。同時にこの時、アメリカに対する宣伝謀略を強化するという日本流の策も決めるのですが、それはまず「アメリカ海軍主力を日本近海へ誘致するようにする」、これは日露戦争の日本海海戦を夢見ているんですね。アメリカ海軍がきちんと自分たちの希望する道を通って日本近海に来てくれる、その時は迎え撃って撃滅してみせる、というのです。そして「アメリカのアジア政策の反省を促して日本と戦うことの無意義をアメリカに説く」、勝手にそんなことを決めてもアメリカはきいてくれるはずはない。ですが、日本は真剣にそう考えたのです。そうできると夢みたのです。」半藤一利『昭和史』2009,平凡社pp.503-506

 時の勢い、「かくなりゆくゐきおい」のままにながれる、というのは、津波に流されるほかないというのとは違う。丸山真男が正論を説得力豊かに述べても、ついに日本人はそれを受け容れずに、西洋近代そのものの原理は自分たちには無縁な作為で、自分たちに心地よい曖昧な気分の方を喜んでしまうのは、宿啊なのか。それとも、それこそが日本人という虚構の西欧近代の自己流変換の常套手段なのか。だとしても、1941年の無謀な決断は、防げなかったのか。

 「三番目に、日本型のタコツボ社会における小集団主義の弊害があるかと思います。陸軍大学校優等卒の集まった参謀本部作戦課が絶対的な権力をもち、そのほかの部署でどんな貴重な情報を得てこようが、一切認めないのです。軍令部でも作戦課がそうでした。つまり昭和史を引っ張ってきた中心である参謀本部と軍令部は、まさにその小集団エリート主義の弊害をそのままそっくり出したと思います。
 そして四番目に、ポツダム宣言の受諾が意思の表明でしかなく、終戦はきちんと降伏文書の調印をしなければ完璧なものにならないという国際的常識を、日本人はまったく理解していなかったこと。簡単に言えば、国際社会のなかの日本の位置づけを客観的に把握していなかった、これまた常に主観的思考による独善に陥っていたのです。
 更に五番目として、何かことが起ったときに、対症療法的な、すぐに成果を求める短兵急な発想です。これが昭和史のなかで次から次へと展開されたと思います。その場その場のごまかし的な方策で処理する。時間的空間的な広い意味での大局観がまったくない、複眼的な考え方がほとんど不在であったというのが、昭和史を通しての日本人のありかたでした。
 と、いろいろと利口そうなことを言いましたが、昭和史全体を見てきて結論としてひとことで言えば、政治的指導者も軍事的指導者も、日本をリードしてきた人々は、なんと根拠なき自己過信に陥っていたことか、ということでしょうか。こんなことを言っても喧嘩過ぎての棒ちぎれ、仕方ない話なのですが、あらゆることを見れば見るほど、何とどこにも根拠がないのに「大丈夫、勝てる」だの「大丈夫、アメリカは合意する」だのということを繰り返してきました。そして、その結果まずくいった時の底知れぬ無責任です。今日の日本人にも同じことが多く見られて、別に昭和史、戦前史というだけでなく、現代の教訓でもあるようですが。
 そういうふうにみてくれば、昭和の歴史というのはなんと多くの教訓を私たちに与えてくれるかがわかるのですが、先にも申しました通り、しっかりと見なければ見えない、歴史は決して学ばなければ教えてくれない、ということであると思います。」半藤一利『昭和史』2009,平凡社pp.506-507.

 もうひとつぼくが恐怖を抱くのは、戦争末期の神がかりの精神主義を、多くの庶民は疑わずに従ったらしいことだ。指導者の愚かさと責任は指弾されて当然だが、刀折れ矢尽きて戦争をやめる他ない状況に至っても、日本は負けない、神風特攻、本土決戦、撃ちてし止まんなどと言って駆り立てていたのは、狂気でしかないと後で思ったにしても、そのときその場では信じていたのだろうか。
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無条件であってもいいが無節操では困る

2015-02-22 03:58:15 | 日記
A.父母の戦争の記憶
 ぼくの父は大正九年、西暦で1920年の生まれ、母は一つ下の大正十年、1921年の生れだった。大正ど真ん中の世代で、太平洋の戦争がはじまった昭和十六年、1941年には父は満で云えば21歳、母は20歳だった(当時は数えで年齢を呼んだから、22歳と21歳)。もちろんまだ結婚はしておらず知り合ってもいない。この世代の若者は、不幸にも同級生の何人かは戦争で亡くなっている。男子に限れば3割以上が戦死や戦病死しているだろう。幸い生き残った者も、敗戦後の苦しい時代を歯を食いしばって生きたはずだ。戦争が終わって、とりあえず爆弾が降ってくる恐怖や、兵隊にとられて外地に兵士として派遣されることはなくなったが、戻った国土は焼野原、食糧もなければ仕事もない。たいへんだったろうな、と思う。
 とは思ったが、ぼくが物心ついた頃は、とりあえず戦後の食糧難も朝鮮戦争も終わっていて、日本は貧しいがのどかに平和だったから、終わった戦争のことはあまり想像できなかったし、親たちも語らなかった。みんな日々の生活に追われながら、遠い豊かなアメリカの文化に憧れていたような気がする。小学生のぼくは、それが別に特別なこととは思わず、戦争の時代に生まれなかった自分は単純に良かったと思うだけだった。父は軍隊の経験があったし、母は空襲の体験があった。でもそれを聞いたことはわずかしかなかった。
 人が死ぬのは重い出来事だし、それも戦争のような異常な状態で人が死ぬ(つまり殺される)ことを目の前で経験した人は、簡単にそれを語ることは難しいだろう。でも、断片的にあるいは意図的に過去の戦争に結びつく話題の時は、親たちにはある緊張した青春の思い出があるのだろうなと思ったし、とくに陸軍の兵隊だった父には、簡単には語れない記憶があるのだろうと思った。ただし父は、中国大陸や南方の外地に行くことはなく、実は自分の家からさほど離れていない高射砲部隊にいたのだが、直接の米軍との戦闘はお粗末なくらいのものだったらしい。ぼくはこのことを小説に書こうとしているのだが、まだその前の、昭和19年で止まっている。



B.無条件降伏か?
 戦争末期の日本が、条件として突きつけられたヤルタ会談の結論は、両手を挙げて負けたからもうどうされても文句ありませんという「無条件降伏」だった。それは国家の意思決定を外国から来た占領軍トップの言うがままに、ことによればマッカーサー元帥は天皇を処分することだってできる。日本固有のアイデンティティとも言うべき「国体」(国民体育大会ではない)天皇制国家の根幹を変えることはできない、という理由で戦争終結をためらったことで、百万人以上の人命が失われた。これは国家の理念に関わることではないか。

「ドイツの場合は、降伏を申し出てから二日後に調印をしていますから、あっという間に戦争は終わったのですが、日本の場合、本土にまだたくさんの兵隊がいます。アメリカ軍ははるか沖縄にしかいませんし、ソ連軍は満州に入ったばかりですから、いきなり降伏調印というわけにもいかず時間がかかります。そしてそれを利用したのがソ連でした。
 日本がソ連侵攻に関してもっと真剣に考えるなら、直ちに満州に天皇の使者を送り、政府同士で戦闘停止の取り決め事をきちっとしなくてはいけなかったのです。ソ連は、最初は米英中の三国だったポツダム宣言の中に参戦してから入ったのですが、日本は「ポツダム宣言を受諾したのだからソ連もわかっているだろう」と思い込んだ、これが浅はかなんですね。まず第一の誤りは、ポツダム宣言受諾は降伏の意志の通達でしかなかった、ですからソ連軍はそのまま満州をぐんぐん攻めてきます。参謀長のアントノフ中将は八月十六日、堂々と布告で言明しています。
 「天皇が十四日に行った通告は、単に日本降伏に関する一般的なステートメントに過ぎず、日本軍の降伏が正式に実行されていない以上は、極東におけるソ連軍の攻撃態勢は依然、継続しなければならない」
 そして二番目の誤りは、アメリカ軍が連合軍の代表であり、その連合軍の最高司令官としてトルーマンが任命したマッカーサー元帥と交渉をしてさえいれば、ソ連にも通用すると思っていたことです。しかし、降伏がきちんと調印された時にはじめてマッカーサーが連合国軍の最高司令官になるということであって、日本はそれも知らなかったのです。
 ソ連としては、降伏文書に調印がなされるまではチャンスがあるのだとガンガン攻めます。無知であった日本は、八月十七日、大元帥陛下の命令にしたがって、関東軍も武器を投じて無抵抗になりました。それでいいと思ったのです。そこでソ連軍が攻めてくる、そんな状況が続きましたので、満州の悲劇がはじまるのです。こうして日ソのいわゆる「一週間戦争」後の戦闘においては、ソ連軍の思う存分の攻撃のもと、日本は軍隊のみならず一般民衆も巻き込まれて悲惨な犠牲者を限りなく出すことになりました。実に戦死八万人、一方、ソ連軍は八千二百十九人、負傷二千二百四人と発表されています。そして日本側の数字で五十七万四千五百三十八人が捕虜(?)としてシベリアに送られ、何年も労働をさせられて無事に引き揚げてきたのは四十七万二千九百四十二人ですから、十万人以上がシベリアの土の下に眠っていることになります。ソ連側の数字はありません。
 同時に日本防衛の最前線とされた満州にはそれまで多くの日本人が渡ってゆきましたが、どこに何人いたか、なかなか正確にはわかりません。百五十万近く住んでいたといいます。そして引き揚げ者の数は、満州からは百四万七千人、また旅順や大連など関東州からは二十二万六千人ですから、単純には計算しにくいのですが、一般民間人で満州で亡くなったのは十八万六百九十四人とされています。引き揚げでもさんざんの苦労をせねばなりませんでした。そして満州はあっという間にソ連に席巻されました。
 九月二日、東京湾に浮かんだアメリカの戦艦ミズーリ号の上で降伏文書の調印式が行われ、日本は太平洋戦争を「降伏」というかたちで終えました。これが「無条件降伏」だったか、よく問題になります。たしかに一条件を出して、それをのんでもらったので無条件ではないということになりますが、よくよく考えれば、GHQ(連合国最高司令部)がつくった新憲法によって、少なくともこれまでもってきた日本の国体、天皇主権の国家は否定され、国民主権の国家になったわけですから、天皇の身柄はたしかに象徴というかたちで助かったものの、結果的には出した一条件さえ無視されていたことになるのではないかと思います。」半藤一利『昭和史 1926-1945』平凡社ライブラリー、2009.pp.493-496.
 
 アメリカなどの連合国からみれば、日本が天皇制をとるか共和制を取るかなどは、日本国民が国内で決めればよいことであって、重要課題の優先事項は、いかにスムースに戦争を終わらせ、戦後を設計するかということであり、とにかく日本は天皇さえ残してくれれば降伏しますと言ってしまったのだから、あとはどうとでもなる、はずだった。でも、この日本列島を切り刻んで、分裂国家を実現する可能性もあったと考えると、むしろ日本という国は奇跡的に幸福(降伏ではなく降服)だったのかもしれない、とぼくは思って見た。

「拙著『ソ連が満州に侵攻した夏』にも書いたことですが、アメリカの三省(陸軍・海軍・国務)調整委員会は、早くから日本占領の統治政策について研究討議を重ねていました。結果として、その第一局面の九か月間は、米・英・中国・ソ連の四か国が進駐し、これを統治する。この場合、日本本土を四つに分けて、関東地方と中部および近畿地方を米軍三十一万五千、中国地方と九州地方を英軍十六万五千、四国地方と近畿地方を中国軍十三万(近畿地方は米・中の共同管理)、そして東北地方と北海道はソ連軍二十一万が統治する。さらに、東京は四か国が四分割して統治する、という決定をみていたのです。そして、これが成文化されたのが、なんと、昭和二十年八月十五日のことであったというじゃありません。
 もちろん、これは日本の早期降伏によってパアとなりました。ところがソ連はしつこいのですね。八月十六日にスターリンはトルーマンに親展極秘の一書をしたためました。
 「一、ソ連軍に対する日本国軍隊の降伏地域に千島列島全部をふくめること(中略)
 二、ソ連軍に対する日本国軍隊の降伏地域に、……北海道の北半分をふくめること。北海道の北半と南半の境界線は、島の東岸にある釧路市から島の西岸にある留萌市にいたる線とし、右両市は島の北半分にふくめること。
 この第二の提案は、ロシアの世論にとって特別の意義をもっています。……もしロシア軍が日本本土のいずれかの部分に占領地域をもたないならば、ロシアの世論は大いに憤慨することでしょう。私の、このひかえめな希望が反対をうけることのないよう、私は切にのぞんでいます」
 この時になっても、まだ北海道の北半分を領土とすることを主張するソ連の提案を、トルーマンは真っ向から否定しました。おかげで日本はドイツのように分割されることなく、戦争を終結できたわけです。こうした歴史の裏側に隠されていた事実をのちになって知ると、いやはや、やっと間に合ったのか、ほんとうにあの時に敗けることができてよかったと心から思わないわけにいきません。
 それにしても何とアホな戦争をしたものか。この長い授業の最後には、この一語があるというほかはないのです。ほかの結論はありません。」半藤一利『昭和史 1926-1945』平凡社ライブラリー、2009.pp.496-498. 

 これも井上ひさしの書いた「一分の一」という空想小説では、日本が敗戦後米英中ソで四分割されたというお話になって、四国では中国語が話され、東北では社会主義になっているという笑えないがとても笑える物語である。領土を削られ分割占領された先に、国家の分断が待っている。ドイツは実際にそうなっていたわけで、首都ベルリンは東独の中に浮かぶ西側の島のようなことになった。悪い冗談ではすまない事態が、もう少し降伏が遅れたら現実になっていた、というのは恐ろしい。

「八月十五日の朝まだき、天皇の戦争終結の放送の前に、最後まで国体護持すなわち天皇の身柄の安全にこだわった阿南陸相は、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」の遺書を残して、割腹自決いたしました。全陸軍を代表して悲惨な国家敗亡をもたらした罪科を、天皇陛下にお詫びしたものなのでしょう。しかし、深読みすれば、平和を取り戻すための犠牲となり、大陸に南溟に、太平洋の島々に、空しく散っていかねばならなかった数限りない死者に対して、心からなるお詫びを述べているのではないか。そう思われてなりません。
 話が長くなりますので、太平洋戦争下の戦闘についてはいちいちふれませんでしたが、たくさんのところで日本の兵隊さんたちが亡くなっています。主な戦場でのそれを、一挙に読み上げます。
 ガダルカナル島で戦死八二〇〇人、餓死または病死一万一〇〇〇人、
 アッツ島で戦死二五四七人、捕虜二九人、ということはほぼ全滅です。
 ニューギニアで病死をも含む戦死十五万七〇〇〇人、
 タラワ島で戦死四六九〇人、ここも玉砕で捕虜一四六人、w
 マキン島も玉砕で戦死三四七二人、捕虜二五〇人、
 ケゼリン島も玉砕で戦死三四七二人、捕虜二五〇人、
 グアム島で戦死一万八四〇〇人、捕虜一二五〇人、
 サイパン島で戦死約三万人、市民の死亡一万人、捕虜九〇〇人。
 島だけでなく、陸上でもたくさんの人が死んでいます。
 インパール作戦で戦死三万五〇〇人、傷ついた人あるいは病気で倒れた人四万二〇〇〇人、インパール作戦の一つとしてビルマの東、中国本土で戦われた拉孟騰越も玉砕で戦死二万九〇〇〇人、生存者一人――無事脱出したこの人がこの戦いのことを語りました――、
ペリリュー島も玉砕で戦死一万六五〇人、捕虜一五〇人、
フィリピン――レイテ島やミンダナオ島、ルソン島のマニラ周辺など多くの場所で戦闘が行われ、その全域での戦死四七万六八〇〇人、生存三万三〇〇〇人――終戦まで戦いましたので、最後に生き残っていた人という意味です。
硫黄島も玉砕し、戦死一万九九〇〇人、捕虜二一〇人、
沖縄では戦死一〇万九六〇〇人――これは中学生や女学生など義勇兵も含めます――市民の死亡一〇万人、捕虜七八〇〇人。
 さらに日本本土空襲による死者は、日本全国で二九万九四八五人、二三六万戸の家が灰や瓦礫となりました(昭和二十四年経済安定本部発表の公式調査による)。
 また八年間にわたる日中戦争の死者は、満州事変と上海事変も入れて、総計四一万一六一〇人ということです(臼井勝美『日中戦争』による)。ただし、これには「日ソ一週間戦争」の戦死約八万人も含まれているようです。
 以上のように、日本人はあらゆるところでむなしい死を遂げていったのです。
 戦争が終わってしばらくは、日本の死者は合計二百六十万人といわれていましたが、最近の調査では約三百十万人を数えるとされています。
 そして、特攻作戦によって若い命を散らしていった人たち――前に話しましたように戦争末期、「志願によって」という名目で、ただし半分以上は命令によって「十死零生」の作戦に参加した人たちです――は海軍二千六百三十二人、陸軍千九百八十三人、合計四千六百十五人。
 これだけの死者が二十年の昭和史の結論なのです。」半藤一利『昭和史 1926-1945』平凡社ライブラリー、2009.pp.500-503. 

 このような大量殺戮をどういう形で誰が裁けるのか?日本人は自分の手で決着をつけるのを忘れて、勝手なナルシシズムとナショナリズムを捏造しているのではないか?
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せいじょう、せいだん、しゅうせん、はいせん・・

2015-02-20 13:56:37 | 日記
A.日本のイメージについて
 インドやトルコを旅していた時、ぼくがごく普通の庶民と思われる人と互いにお粗末な英語で話した時に感じたことだが、日本のことにはほとんど無知な、高等教育など受けたことのない人でも、昔の戦争時にヒロシマ、ナガサキにアメリカが核爆弾を落としたことは知っていた。その悲惨さも知っていて、ぼくが日本人だというと同情の表情を示されることもあった。トルコの向こうの中東地域には行ったことがないが、日本に対する一般的なイメージの中に、「カミカゼ特攻」と「ヒロシマ」という言葉は伝説化しているのかもしれない。つまり、日本はかつて最強のアメリカに敢然と戦いを挑んで、国民を挙げて3年半も戦争をし、最後に自爆テロともいうべき特攻攻撃をし、非戦闘員への無差別殺戮である原爆を落とされて敗北した、「アジアの英雄」「反米のサムライ」というイメージ。戦後は米軍を主とする占領統治を受け、軍を解体し別の国家になった、どんな国家になったかは知らないとしても、輸入された日本製品の優れた性能は、おお!日本人は復活していると思ったかもしれない。それにイスラエルの空港で自爆テロともいえる戦闘をした日本赤軍のことも加わる。日本は欧米白人植民地支配への抵抗をした国であると。
 もちろんこれはほとんど誤解に等しい。しかし、かつて日本が欧米を相手に戦争をしたことは事実だし、特攻や原爆も事実だから、20世紀後半で日本が経済成長して海外に出ていったときに、外国に軍事力は使わない、経済や人道の援助をするだけで、領土や政治的野心などはないのだ、といえば信用を得ることができた。19世紀以来、中東やアフリカやアジアで、勝手な植民地や国境を引いて支配したのは英仏米蘭、つまり日本が戦った相手だから、結果的に日本は虐げられた第三世界人民大衆の味方、あるいは少なくとも敵ではない、と日本軍が出ていない中東イスラーム圏では思われたのは不思議ではない。オサマ・ビィンラディンも「日本の特攻隊はわれわれのやった自爆攻撃と同じだ」というようなことを言っていた。
 しかし、今の日本政府がすすめている政策は、これまでとは違う、米軍と行動を共にして海外で武力行使をするというものだから、さすがに「過激派」とは一線を引く普通の中東の人々も、日本も「ただの国」「欧米と同じ傲慢な国」になってしまったのか、と思うだろうな。

来日した赤十字国際委員会(ICRC)総裁ペーター・マウラー氏のインタビューから:
「―欧米や日本はISを「テロ組織」と呼びます。赤十字の定義は。
「ジュネーブ諸条約の用語にしたがって、ISもボコ・ハラムもアルカイダもタリバーンも『武装組織』と呼んでいます。彼らは一定の領土を支配していますが、そこには私たちの人道支援を必要とする民間人が暮らしているのです」
-日本は欧米と違って中東に軍事介入したことはありません。しかし、ISは「広島・長崎で米国の原爆を受けた日本がなぜ米国につくのか」と批判し、日本を「十字軍寄りの敵」と見なしました。
「残念ながらここ数年、中東では過激主義の台頭と権力の崩壊が進み、政治的に中立な人道支援組織である赤十字の従事者らも危険にさらされ、シリアでは武装組織の人質となっている者もいます。中立だから尊重されるはずだという伝統的な認識に頼ることができなくなりました」
-赤十字は5年前から、核兵器の非人道性をめぐる国際的な議論を主導してきました。人道をめぐる様々な問題がある中で、なぜ核兵器を採り上げたのですか。「核兵器なき世界」を訴えた2009年のオバマ米大統領の登場や、「核兵器使用の破滅的な人道的結果」に言及した2010年の核不拡散条約(NPT)再検討会議の最終文書も関係があるのでしょうか。
「生物・化学兵器、地雷、クラスター爆弾などの問題に取り組む中でも、赤十字はジュノー博士らが広島の被爆者救援にあたった1945年の立ち位置を維持し続けてきました。ただ、何十年にもわたって核兵器の非人道性がわかっていたのに、核軍縮プロセスが単なる幻想であり続けてきたのが現実です」
 「核兵器は、基本的には戦略的な軍事・安全保障の装置であり続けてきました。しかし、前回5年前のNPT再検討会議以降、その人道的影響と核軍縮の重要性を国際社会に思い出させるような政治状況が生まれてきたのです。いつ、どこで、何を交渉するかを決めるのは国家の責任です。私たちができることは、核兵器の何が問題なのかを国家に思い出させることです」
(朝日新聞2015年2月20日朝刊17面オピニオン欄:聞き手 田井中雅人)

「―今回の訪日で、広島を訪問されました。
「被爆者の証言を聞いて、私たちが近年議論してきた核兵器の人道的影響をすべて物語っていると思いました。この兵器の無差別性や世代を超えた長期的な影響、(病院などの)支援施設の破壊の可能性などです。強調しておきたいのは、核兵器が使われたら、環境や食糧事情に与える影響は制御不能だということです。この3年間、赤十字だけでなく多くの研究によって、このことが指摘されています。原爆投下から70年。今こそ被爆者の核廃絶への願いを受け止め、それを約束から現実へと動かすことが必要です」

 赤十字と核兵器:赤十字国際委員会(ICRC)の駐日首席代表だったマルセル・ジュノー博士は1945年、原爆投下直後の広島に医薬品を届け、自らも被爆者らの治療にあたった。ICRCは2010年に総裁声明を発表し、「爆弾の物理的影響は信じがたく、いかなる想定も越え、想像を絶する」との博士の言葉を引いて「核兵器の時代に終止符を」と訴えた。これを機に、核兵器の非人道性に焦点を当てた国際議論の潮流が生まれた。

 赤十字の立場は、国家や政治の利害の外に立って、人の生命と安全に人権と平等の理念から最大限の援助をするというものだろう。戦争や紛争地域での活動は、そういう立場によってしか可能でない。武器をもって敵か味方か、を迫るのは野蛮である。そう考えると、最近の日本では外交や安全保障における「国連」を基本とする立場が、政治家から消えているように思う。安倍政権は自衛隊を国連決議なしでどこにでも派遣できる、集団的自衛権の自衛隊関連法案を通そうとしている。
 ある意味で、戦後はほんとに終ったのだろうし、それも戦争の痛い教訓を忘却することで悪い方向に旋回している気がする。



B.「聖断」と「終戦」
 半藤一利『昭和史』前半も、最後の八月十三、四日の場面だが、このへんはさすがに詳しい。半藤氏の「日本のいちばん長い日」は、岡本喜八で映画にもなったから、この終戦秘話は映像でも描かれている。「聖上」は天皇のこと、「聖断」は天皇の決断、というような言葉も、戦後生まれの人には説明しなければわからなくなったが、「終戦」という言葉は、戦後広く定着した。文字通りただ戦争が終わった、ということ以上の意味はないはずだが、「敗戦」ではなく「終戦」を意図的に使ったふしもある。つまり、日本はぶざまに無条件降伏したわけではない、負けるには負けたが主権者・神である天皇の決断によって、この戦争を終えたのだから「終戦」でよいのだ、という考え方が漂う。しかし、どう考えてもこれは通常の「戦争の敗北」ではなく、足腰の起たぬまで戦って壊滅的に負けた特別な「敗戦」と呼ぶべきだった。

「八月九日午後十一時五十分、最高戦争指導会議のメンバー六人全員のほか、枢密院議長の平沼騏一郎と陸海軍の軍務局長、そして迫水書記官長が陪席して、ポツダム宣言をどのように受諾するかについて真夜中の御前会議が開かれました。この時のもようは後に絵に描かれて残っていますが、十五坪(約五十平方メートル)ほどの非常に狭い地下防空壕に机を置いて、正規の御前会議のスタイルで行われました。
 そこで鈴木首相はそれまでのいきさつを奏上し、「結論が出なかったので天皇のご判断を仰ぎたい」といきなりやりましたから、軍部は「そんなはずはない」と心の中では思ったでしょう。ふつう御前会議では天皇は発言しないことになっているのですから、その意見を求めるとは約束違反もいいところです。あるいは軍部の人々は心のうちでかんかんになったと思いますが、天皇の前では言えません。そのしきたりも破り、天皇も「それなら私の意見を言おう」と素直に応じます。事前に打ち合わせをしていたわけではないでしょうが、この辺が昭和天皇と鈴木貫太郎との一種の“あ・うんの呼吸”で、昭和十四年から十一年末まで天皇と侍従長の関係で、天皇は鈴木さんを父親代わりのように信頼していた、その言わんとすることを飲み込んだと思うしかないのですが。そうして静かに話しました。
 「私は外務大臣の意見に同意である」
 つまり一条件でいいというわけです。さらに天皇は腹の底から声を絞り出すようにして説明しました。
 「空襲は激化しており、これ以上国民を塗炭の苦しみに陥れ、文化を破壊し、世界人類の不幸を招くのは、私の欲していないところである。私の任務は祖先から受けついだ日本という国を子孫に伝えることである。今となっては、一人でも多くの国民に生き残っていてもらって、その人たちに将来ふたたび起ちあがってもらうほか道はない。
 もちろん、忠勇なる軍隊を武装解除し、また、昨日まで忠勤を励んでくれたものを戦争犯罪人として処罰するのは、情において忍び難いものがある。しかし、今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思う。明治天皇の三国干渉の際のお心持をしのび奉り、私は涙をのんで外相に賛成する」
 こうして日本は、連合軍側に一条件のみ希望として伝え、それでよしとなれば降伏すると決定しました。八月十日午前二時三十分をやや過ぎていました。その晩は、宮城の前の松がくっきりと影を広場に落とすような、ものすごく綺麗な月夜だったそうです。会議を終えて外へ出た時、吉積正雄陸軍軍務局長がいきなり「約束が違うではないか」と軍刀に手をかけ鈴木首相の前に立ち塞がったのを、阿南さんが「吉積、もういい」と止めたという話も残っています。

 十日の朝が空けると同時に、外務省は、中立国であったスイスとスウェーデン駐在の日本公使を通して「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解のもとに」ポツダム宣言を受諾する、という電報を打ち、連合国に伝えました。非常にわかりづらい文章ですが、これが成文なのです。簡単に言えば、天皇のもつ大権が保護されることを了解してもらい、それを条件としてポツダム宣言を受け入れ降伏する、つまり天皇制の護持を保証してもらいたいという内容です。
 受け取ったアメリカは、さすがに困ったようです。グルー元駐日大使など「すぐにOKして早く日本を降伏に導いたほうがいい」と考え、陸軍長官スチムソンも「日本は大変な苦境に陥っていてなお、懸命に天皇制の保証を求めているのだから」とグルーに同感し、「日本人は最後までとにかく天皇が好きなんだなー」と言い知れぬ感動に浸ったと後に書いています。アメリカとしても、これ以上戦争を続けるとすれば次は本土決戦です。そうなれば、硫黄島や沖縄での日本兵の猛反撃で相当のアメリカ兵が死んだように、またすごい流血が予想される、戦争が長引くことに比べれば、天皇制は小さな問題で、この際、日本の希望条件を容れてやろうじゃないか、という意見がかなり強かったのです。しかし、強硬な人もたくさんいました。特にバーンズ国務長官は、「これを受け入れれば無条件降伏にならない、われわれはこれまで何度も無条件降伏を宣言している、今になってなぜ日本に譲歩する必要があるのか、断固突っぱねろ」という具合でした。
 また日本の要求をイギリス、ソ連、中国に知らせると、イギリスと中国は比較的早く返事がきて、どちらかと言えばこれ以上の流血の惨事より条件をのんだほうがいいのでは、という意見でした。ただソ連はなかなか結論が出ず、またアメリカ内部の議論も長引き、ようやく日本時間の八月十二日の夜、連合軍側からの解答が決まります。そこでサンフランシスコ放送を通して日本に伝えました。それは実にあいまいで、何にも答えないような回答でした。
 「日本国の最終的の政治形態は、ポツダム宣言に遵(したが)い、日本国民の自由に表明する意志により決定せらるべきものとす」(定訳)
 これもわかりづらいのですが、今後の日本国の政治のかたちは国民が自由に選ぶ、その意思によって決定するというのであって、天皇制を保証したわけではありません。さらに、大事な部分がこれに続いています。日本本土の占領の時には、
 「天皇および日本国政府の国家統治の権限は……連合軍最高司令官にSubject toするものとす」
 この「Subject to」を、外務省が苦労して「制限下におかる」と訳したのですが、軍部はそれを認めず、「隷属する」と解釈しました。したがって天皇も日本政府もマッカーサーに隷属することになるのです。すると最初の「日本国民の意思に任せる」なども当てにできないじゃないか、ということになり、ふたたび大激論です。戦争をはじめるのは簡単ですが、終わらせるのがいかに難しいかということの証明ですね。
 十三日の朝から最高戦争指導会議での議論は続き、軍部はこう主張します。
 「国体の根源にある天皇の尊厳を冒瀆している。こういうことはわが国体の破滅、皇国の滅亡を招来するもので、何らこちらの希望的条件を容れてもらっていないではないか」
 そしてもう一度連合国に、国体を保証してくれるのか、天皇の身柄は安全なのかを聞くべきだと要求します。東郷外相は、この上に聞き直すことは外交的には交渉の決裂を意味する、少なくとも天皇陛下が皇位にとどまることは保証されているではないか、というわけです。しかし軍部は納得せず、がたがたやっている間に空しく時間は経っていきます。
 七十八歳の鈴木首相は、それを黙って聞いていました。通訳がわりに秘書官としてそばにいた息子の一さんに、私は『聖断』を書く時に何度も会って話を聞きましたが、耳が遠いせいもあり、とにかく鈴木首相は忍耐強かったそうです。聞えているのかどうか、ただ黙って聞いていたといいます。やがて、その貫太郎さんは背筋を伸ばして、議論がどうにもならなくなった最後の段階で、はっきりこう言ったそうです。
 「軍部はどうも、回答の言語解釈を際限なく議論することで、政府のせっかくの和平への努力をひっくり返そうとしているように、私には思えます。なぜ回答を、外務省の専門家の考えているように解釈できないのですか」
 外務大臣の方に賛成する意見でした。東郷外相は百万の味方を得た想いであったようです。これには軍部も唸って言葉が出ませんでしたが、再度の連合国への照会をあきらめたわけではなく、最後まで粘ったようです。しかし午後からは予定通り閣議を開かねばならず、最高戦争指導会議はいったん休憩となります。」半藤一利『昭和史 1926-1945』平凡社ライブラリー、2009.pp.482-488.

 昔、「日本のいちばん長い日」を映画で見た時も思ったが、戦争の指導者たち、日本のトップは最後の最後まで、国民の犠牲にではなく負けたら天皇制の護持ができるかだけを、異常に気にしていたのだな、ということだ。天皇制がこの戦争を導いたのか、そうであれば戦争責任は最終的に天皇にあることになるから、負ければ天皇が処罰され、天皇制が廃止される。それだけはなんとしても阻止したい。もし、天皇制は伝統的民族的な「国体」という文化であって、戦争の精神でも原因でもないとすれば、敗戦は軍事的短期的なもので天皇制は維持される、これなら受け容れる、というわけだ。結果的にポツダム宣言を受諾し、「玉音放送」が流れて「終戦」になり、昭和天皇と天皇制は占領下の「民主化」によっても維持された。いわば無条件降伏ではなく唯一の条件は、連合国においても受け容れたことになる。これでよかった、といっていいだろうか?

「十時五十分から会議がはじまりました。例によって鈴木首相が経緯を説明します。いくら議論を重ねても結論が出ないので、「まことに恐れ入りますが、陛下のご意見をうかがいたい」という。聖断を再び仰いだわけです。そこで天皇陛下は静かに口を開きます。この時の天皇の言葉は、列席した大臣の手記などいろいろなかたちで伝わっています。それらを下村宏情報局総裁がまとめ、鈴木首相にも承認を得たものがあります。非常に長いのですが、これによって戦争が終わったことになりますし、内容は終戦の詔勅とほぼ同じとはいえ、もっとわかりやすく話されていますので読んでみます。
 「反対論の趣旨はよく聞いたが、私の考えは、この前言ったことに変わりはない。私は、国内の事情と世界の現状をじゅうぶん考えて、これ以上戦争を継続することは無理と考える。国体問題についていろいろ危惧もあるということであるが、先方の回答文は悪意をもって書かれたものとは思えないし、要は、国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際、先方の回答を、そのまま、受諾してよろしいと考える。陸海軍の将兵にとって、武装解除や保障占領ということは堪えがたいことであることもよくわかる。国民が玉砕して君国に殉ぜんとする心持もよくわかるが、しかし、私自身はいかになろうとも、私は国民の生命を助けたいと思う。このうえ戦争を続けては、結局、わが国が全く焦土となり、国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、私として忍びない。この際、和平の手段にでても、もとより先方のやり方に全幅の信頼をおきがたいことは当然であるが、日本がまったくなくなるという結果に比べて、少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興という光明も考えられる。わたしは、明治天皇が三国干渉の時の苦しいお心持をしのび、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、将来の回復に期待したいと思う。これからは日本は平和な国として再建するんであるが、これは難しいことであり、また時も長くかかることと思うが、国民が心を合わせ、協力一致して努力すれば、必ずできると思う。私も国民とともに努力する。
  今日まで戦場にあって、戦死し、あるいは、内地にいて非命にたおれた者やその遺族のことを思えば、悲嘆に堪えないし、戦傷を負い、戦災を蒙り、家業を失った者の今後の生活については、私は心配に堪えない。この際、私のできることはなんでもする。国民は今何も知らないでいるのだから定めて動揺すると思うが、私が国民に呼びかけることがよければいつでもマイクの前に立つ。陸海軍将兵はとくに動揺も大きく、陸海軍大臣は、その心持をなだめるのに、相当困難を感ずるであろうが、必要があれば、私はどこへでも出かけて親しく説きさとしてもよい。戦争は終結することになるのですが、これで戦争が「終わった」わけではないのです。閣議がもう一度、ポツダム宣言を受諾して降伏することを一致して決め、さらにその閣議決定を鈴木首相が改めて天皇陛下に奏上するという手続きを踏むわけです。
 閣議はすぐに行われ、詔書の字句をめぐっていろいろと時間を費やしますが、ともあれ一致して了承し、八月十四日午後十一時、日本のポツダム宣言受諾はふたたびスイス、スウェーデン駐在の日本公使を通して連合国に通達されました。ですから、アメリカもイギリスも連合国はみな、通達を受け取った日本時間の八月十四日夜が「勝利の日」になったのです。一方、日本はこれを、全国民に動揺させずにうまく治めるよう知らせるため、十五日正午に天皇が放送するかたちになりましたから、日本国民は八月十五日に戦争が終わったと思っているようですが、実際は八月十四日で終結、ということになります。」半藤一利『昭和史 1926-1945』平凡社ライブラリー、2009.pp.490-493.  

 戦争指導部の動きなど何ひとつ知らされていない国民には、八月十五日の天皇のラジオ放送が、長い戦争の「終わり」だったのは実感だから、「終戦」でいいのかもしれない。しかし、歴史というのはどこへ行くかわからないし、歴史の解釈というのも不動のものではないから、この1945年8月の出来事は繰り返し確認される必要があると思う。われわれの国は一度愚かな戦争をして壊滅的な敗北をした。それは自然災害とは違う。人間が決断してやったことなのだから責任は明確に、広く確認されなけらばならない。
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