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福田恆存の演技・演劇・せりふ論8 美大生の多数は女子!

2019-05-20 13:19:37 | 日記
A.ハムレットの悲劇
 このブログでいろんな人の書いた文章をそのまま抜粋引用していると、その文章にはみな固有の癖があることがわかった。現代日本語の文章は、いちおうの標準的な書記法があり、さらに仮名遣いや使える漢字にもある程度制限があるから、とくに凝った文章を意図的に書くのでなければ、その表記は共通の似たようなものになると考えるかもしれない。例えば、新聞の記事や論説の文章は、読みやすく内容が正確に読者に伝わることが大事で、誰が書いたか個性が出るようなものは求められない。しかし、世間で文筆家や論客などとして知られる人の実際に書かれた文章を読むと、そんなにきちんとした文章とも言えず、中には悪文に近いものもある。
「だ、である調」か「です、ます調」かから始まって、句読点をどこで打つか、主語の省略や曖昧化など、西洋語に比べて構文の形式はかなり自由自在で、それでもなんとなく通じてしまう。詩人や小説家なら、どれだけユニークな文体や表現をするかにいわば命をかけるわけだろうが、読者に抵抗や苦痛を与える文章というのもある。現代の若い世代の書く小説などは、よくえいば形式に囚われない、悪くいえば口語表現に偏したでたらめに近い文章が多いと感じる。それでも、ちゃんと読者に通じてしまうところが日本語の融通無碍なのだ、といえなくもないが。
福田恆存は、日本語の形にこだわった人として知られるが、旧仮名や難しい漢字を使った文章は、古文や漢文ほどではないが、かなり慣れるまで苦労する。先に読んだ『せりふと動き 役者と観客のために』(玉川大学出版部)は、雑誌などに連載された文章を本にしたものだが、福田流の独特の文章で書かれている。それに比して、名著として今も読まれる『人間・この劇的なるもの』(新潮文庫)は、文庫版にするときにかなり文章を現代仮名遣いにするなどの改訂を行ったのかどうかは、全集と対照させて調べる必要があるかもしれないが、とにかく『せりふと動き』よりは脱色された、今の人でも読みやすい文章になっている。とはいえ、福田の文体はしっかり残っていて、例えば、通常なら一文が終り、読点を打って次に行くところを句点で並べ、逆にいったん読点を打って終った文にすぐ続けて、「が、~」とする場合が頻出する。これは著者の癖だろう。英文学者でもあった人だから、but,で次を続けるというのは英語の影響かもしれない。
ある時代まで、日本の文筆家は「文学部的教養」を身につけていたから、英文出身、仏文出身、独文出身、あるいは国文出身などの基礎的教養の背景が文章に表れていたと思う。いまはもう、そうした外国文学の影響は希薄になったが、村上春樹がアメリカ20世紀文学の影響を強く受けたといわれているように、文体や表現の個性を保つにはその主の地盤がないと骨のない文章になってしまう。福田恆存の『人間・この劇的なるもの』の文章では、述語はひらがな中心になっているが、彼が重視する箇所では特別な漢字を使う。例えば、「見失う」ではなく「見うしなう」とする一方で、「演技」ではなく「演戯」というように。

 「ハムレットは劇中人物であると同時に作劇者である。のみならず、かれは劇中人物でありながら、また観客の指導者でもある。なぜなら、ハムレットは、ハムレット自身の内的必然性、あるいは『ハムレット』劇の外的必然性によってのみは行動しない。同時に、かれは観客の眼を、その感情を、心理を、思想を、つねに誘導しようとして、『ハムレット』劇のなかを、忙しく、敏捷に立ち廻る。かれは自己の性格を解剖し、自己の死を解説し、そしてそれを、死に至る過程を演戯する。
 ハムレットはつねに明確に自分の置かれた地位を意識している。他の登場人物、外的条件、それと自分との関係を、即座に、的確に、読みとる。同時に、ハムレットはそれをすなおに受けいれる。かれの意識は極度に明澄ではあるが、そのことはかれを閉鎖的な自意識家や空想家に仕たてあげたりはしない。極度に強烈な意識のために、ハムレットは徹底的に現実家にならざるをえなかったのだ。ただこの現実家は、現実家であるがゆえに、与えられた現実の様相を見誤ることはなかった。かわりに、ただその現実が気に食わなかったのである。現実が気にいらぬ現実家というのは、ことばの矛盾ではない。現実がありのままに映っていない空想家の眼にのみ、現実はしばしば薔薇色に輝く。かれらは現実に媚び、現実に媚びられ、なれあいの生涯を送る。
 言葉を綿密に選択するならば、空想家とは理想主義者のことである。が、理想家のことではない。理想家は同時に現実家である。が、理想主義者に対立するものは、現実家ではなくて、現実主義者である。理想主義者は、理想と現実との一致を信じ、それへの努力に生きがいを感じている。現実主義者は、両者が一致しないことを知って、生活から理想を追放して顧みない裏返しの理想主義者にすぎない。現実家は同時に理想家である。かれは理想と現実との永遠に一致しないことを知っている。かれにとって、現実に転化しないからこそ、理想は信じるにたるものであり、理想に昇華しないからこそ、その生きにくい現実は、いつまでも頼りになるものなのである。
 ハムレットは、そういう二律背反のうちに生きている。かれは亡霊が見たかった。現実のなかにおける、自分の行動のきっかけがほしかったのだ。が、亡霊は、ひとたび見てしまえば、それもまた現実の一因子にすぎぬ。

 いつかの亡霊は悪魔の仕業かもしれぬ、悪魔は自由自在に、かならず人の好む姿を借りて現れるという。あるいはこちらの気のめいっているのにつけこんで、おれを滅ぼそうという腹かもしれない。こういうときは、とかく亡霊などに乗ぜられ易いものだ、もっと確かな証拠がほしい――それには芝居こそもってこいだ、きっとあいつの本性を抉りだして見せるぞ。 (第二幕第二場)

 現実家ハムレットは、こうしてふたたび現実そのもののうちに、行動のきっかけを求めはじめる。それは、懐疑とか、反省とかいうものではない。まして、性格上の矛盾や分裂破綻を意味するものではない。理想家でありながら現実家であるという二律背反――それはハムレットの、のみならず人間生得の、生きかたなのである。
 ハムレットは、自己の宿命を待ち構えている人間である。いいかえれば、これが宿命であると納得のいく行為の連続によって、自己の生涯を満したいと欲している人間なのである。が、ハムレットは、最初に、私たちのまえに、宿命を失った人間として、それをどこかに見つけださなければならぬ人間として登場する。かれは、まず、王位継承権を失った王子なのである。王子とは王位継承権をもった人間のことだ。ハムレットの地位はすでに矛盾を含んでいる。
 父王が死ぬ。その弟に母が嫁する。それによって、ハムレットは二度、父を失うのである。たんに王位を簒奪された王子なら、それを取りかえせばいい。ハムレットのばあいは、そうはいかぬ。ひとは好んで、ハムレットの母親にたいする愛情にエディプス・コンプレックス的性愛を見たがるが、そういう複雑な近代的解釈によって、事をむずかしくする必要はない。話はもっと単純なはずである。ハムレットは、王位と自分との間に母親が立ちはだかっているのを知らねばならぬのだ。母親の存在によって、ハムレットは王位を二重に奪われているのである。単純な復讐劇によっては、かれの宿命はあらわにされない。かれは、もし父が死ななかったら、すなおにふるまえたであろう王子の地位を、そして、いずれは生まれながらの名君として、意識せずに生きたであろう自己の宿命を失ってしまったと同時に、父王を殺された多くの王子に、かえって生きがいを感じさせたはずの復讐劇の主人公たる宿命をも失っているのである。
 ハムレットは、なにをしてもいいが、なにもしなくてもいい。ただ、かれはなにかをせずにいられない男なのである。なにごとかをしなければならない。しかも、なすべくしてなさねばならぬ。事は起こるべくして起こらねばならぬ。ハムレットのうちには、亡霊を見たがる男と同時に、それを拒絶しようとする男が棲んでいる。宿命を欲するハムレットは、一方では宿命を却けようとしているのだ。そのことについて、吉田健一は、こういっている――「彼は自分が抱いた思想に、人間たる自分を少しでも犠牲にすることを拒否している。」つまり、思想と人間生活、理想と現実、この両者のあいだに引き裂かれ、しかも、いずれかを他の一方のために犠牲にすることを拒否する男として、ハムレットは描かれている。
 この二律背反は、そのまま宿命と自由との二律背反に通じる。ハムレットは、与えられた宿命をすべて受けいれながら、しかも無限に自由であり、闊達である。意識家としてのかれは、つねに自分はこういう男だと自己規定するが、その断定の強さと確さとにもかかわらず、行動家としてのかれはすこしもそれに捉われない。ハムレットはみずから好んで自分に枷をはめながら、それを毀(こぼ)ち、そこから脱けだすことに、ひとり興じているようにみえる。いわば自分と隠れん坊を楽しんでいるのだ。読者が『ハムレット』劇の構成に、とかくその主筋を見うしないがちな理由も、またハムレットの性格に分裂と矛盾を見いだす理由も、そそらく、そこにあろう。
 が、自分との隠れん坊に打ち興じているハムレットの姿に、いささかも自己韜晦の影は見られない。ハムレットは子供のように無邪気である。自分はなにものにでも成れるとおもっている。じじつ、かれはなにものでもありうる。いかなる作品の悲劇的英雄を見ても、ハムレットほど陽気な諧謔を弄する人物はいない。しかも、かれの諧謔は、どんなに痛烈なばあいでも、また一見、下品に見えるばあいでも、その天性において、つねに品格を保っている。天真爛漫な子供が、どんなに穿った毒舌や卑猥な野次を放っても、無邪気な魂を裏切り示すようなものだ。無垢な心というものは、品ということ、そのことにも捉われないからである。

  ハムレット  お姫様、お膝の間に割りこんでも苦しゅうないかな?
  オフィーリア いけませぬ、そのようなことを。
  ハムレット  いや、ただ頭をのせるだけさ。それでも?
  オフィーリア いいえ、どうぞ。
  ハムレット  なにか野卑なことでもと?
  オフィーリア べつに、なにも。
  ハムレット  女の子の膝の間に寝るというのは、それほど大したことでもあるまいが。
  オフィーリア え、なにが?
  ハムレット  べつに、なにも、
  オフィーリア なんですか、大層おはしゃぎになって。
  ハムレット  誰が、わが輩がか?      (第三幕第二場)

 こういう箇所に出あっても、私たちはハムレットの無邪気さを見あやまりはしない。佯狂(ようきょう)――そんなものではない。狂気を証明するために、あるいは、佯狂に託して女に嫌味をいうために――そんな手のこんだものではない。こっらの卑猥なことばは、もっと手放しのものである。ハムレットはいつでも手放しだ。敵の手中にありながら、大人の眼から見たら危いとおもわれるくらい、つねに無警戒である。ポローニアスはそれを知りながら、依然として危い橋を渡る。しかも、陽気に、なんの屈託もなく。
 私たちの常識は、もしそれらの言動が緻密に計算された佯狂でないならば、単純な狂気そのものだと判断しかねない。故意のものか、無意識のものか、そのどちらかであることを欲する。なるほど、それを佯狂と考えるよりは、真の狂気と見なすほうが、私には真実に近いとおもわれる。なんにでもなれるハムレットは、瞬間的には狂人にもなれる。意識的ハムレットは、かれが徹底した意識家であるがゆえに、自己の意識を安心してどこかに預け、意識から遮断されたところで、自由にふるまっているのだ。」福田恆存『人間・この劇的なるもの』新潮文庫、1960.pp.49-56. 

 この本の中心をなす「ハムレット論」は、こうして人間の本質に迫っていくのだが、それに続いて他のシェイクスピア悲劇作品の主人公、リア王、マクベス、オセローなどについても、もちろんこの文脈で福田流の考察は続く。

 「ドン・キホーテは中世騎士物語の主人公をまねる。エムマ・ボヴァリーは恋愛小説の主人公をまねる。いずれも物語の主人公になりそこねるが、その失敗によって、はじめて「小説のなかでおこなわれた小説の批評」が完成するのだ。
 ところで、シェイクスピアの主人公たちは、何をまねようとしているのか。その答えは、かならずしも明確ではない。もし、作者シェイクスピアがなにをまねようとしたかと問われるならば、それには容易に答えられる。かれが歴史や伝説にまなんだ。同時代の作品からさえ人物や筋を盗んでいる。『リア王』と『マクベス』はホリンシェッドから、『オセロー』はイタリアの『百物語』から、『ハムレット』は『デンマーク国民史』あるいはキッドの『原ハムレット』から。その他の作品についても、その点ひとつの例外もない。しかし、リア王もマクベスもオセローもハムレットも、ドン・キホーテやエムマ・ボヴァリーのようには、なにかをまねているのではない。かれらは、なにかのパロディではない。あくまでリア王はリア王であり、オセロー将軍はオセロー将軍である。たとえなにかをまねることがあったとしても、それは、『マクベス』において王位簒奪者が王をまねるという程度に、あるいは『ハムレット』において王子が王をまねるという程度にとどまる。
もしかれらがなにかをまねているとすれば、人間性のより本質的な在りかたにおいてである。というのは、かれらは「物まね」という人間の本性を演じているのだ。いいかえれば、演劇そのものを演じているのである。それが、「演劇の演劇」ということなのだが、『ドン・キホーテ』や『ボヴァリー夫人』が「小説の小説」といわれる以上のものが、そこにある。なぜなら、シェイクスピアの悲劇の主人公たちは、おどけた騎士や田舎町の平凡な主婦よりは、はるかに意識的だからだ。彼らは多少とも自分の物まねを意識しており、彼らの意識はときに作者シェイクスピアの意識を超えるようにみえるときさえある。が、ドン・キホーテもエムマ・ボヴァリーも、自分たちが物まねの犠牲者であることを、作者ほどには意識していない。いや、ぜんぜん意識していないといっていい。
シェイクスピアの主人公の死を、同時代の他の劇作家のそれとくらべて見れば、そのことは明らかになろうと、エリオットはいっているが、かれらの意識的な物まねは、なにも劇の最後においてのみならず、その発端からはじまっているといえよう。近代的な作劇術からいえば、シェイクスピア劇の発端と作因には、つねに一種の無理がある。オセローともあろうものが、イアゴーの隙だらけなうそに、なぜ易々とだまされたか。リア王は不孝な二人の姉娘を信じ、選りに選って、たった一人の孝行娘を却けたが、なぜその反対ではなかったか。マクベスやハムレットの悲劇の作因に、なぜたあいもない超自然のものを選んだか。このばあい、史実や伝説がそうなっていることを知っても、私たちはなにも得はしまい。問題は、シェイクスピアにとって、作因の強力な必然性など、どうでもよかったということである。
オセローは劇の最後においてはじめて[自分自身をだます]のではない。彼は、最初から、自分をだましている。なにもイアゴーの手を借りる必要はなかった。かれは嫉妬がしたかったのだ。激しい情熱のとりこになり、それを味わいたかった。ただそれだけのことだ。イアゴーに無目的の悪を見る近代的解釈は、オセローの愚昧を合理化するためのおもいすごしにすぎまい。愚昧といえば、シェイクスピア劇の主人公たちが不幸に導入される過程は、すべて愚かしい。が、リア王は愛する娘に欺かれる老婦の悲哀と憎しみを、マクベスは野心家の不安と恐怖を、ハムレットは志を得ざる王子の憤りと狂気を演じたかったまでである。 

かれらはいずれも最初に意識して自分の役割を選ぶ。すくなくともギリシア悲劇の主人公にくらべて、かれらははるかに自由であり、その破局はすべて避けようとおもえば避けられたものである。演劇史の常識にしたがえば、そこに運命劇から性格劇への発展がうかがえようし、自由なる個人の成熟を見ることもできよう。が、劇場において、観客は自由の勝利などというものに喝采を送りはしない。宿命に押しひしがれた主人公の受苦にのみ感動する。つまり、ひとびとは社会では自由を、劇場では宿命を求めるというわけだ。いいかえれば、エリザベス朝人は自由意思によって宿命を選ぶというディレムマを犯したのである。
ギリシア悲劇において主人公の受苦を壮大に見せるものは、人間の自由ではなく、宿命の必然性である。その前提には、宿命にたいする、あるいは神々にたいする、人間の信頼感があった。宿命は人間の側で選びとるものではなく、神々の側から人間に与えるものである。が、もし、個人がそれを選びとらねばならぬものなら、その最後の仕あげも、個人が自分の手でやってのけねばならぬということになる。
こうして、オセローは最後に自分自身をだまさずには、死んでいけなかったのだ。宿命にたいして信頼感をもちえなかったかれは、宿命による敗北を認めながら、しかも自分自身を励して、敗北のあとに生き残ろうとする。リア王もその義務を放棄した。宿命にたいする信頼感からではなく、自己にたいする不信からだ。ただ、ハムレットのみは、最後まで宿命を信じようとしていた。が、そのかれも、やはり自分で自分の生涯を解説しきれぬことをおもい知らされながら死んでいった。
自分を滅ぼすものの正体をはっきり見きわめ、その上に自分を押しあげ、壮大にまつりあげること、この強烈な個人主義のうちにエリオットがストイシズムを見たのは当然である。」福田恆存『人間・この劇的なるもの』新潮文庫、1960.pp.79-83.

 どのような人間にも、個人の力や意思ではどうすることもできないことがあり、それはこの世に生まれたことから始まって、死ぬことまでつねに予測不可能な理不尽な事態ともいえる。それを宿命というならば、問題は宿命に逆らってこれと戦うか、すべてを受け容れて諦めるか、ということになるが、自分の力でできることなどたかが知れている。だとすれば、シェイクスピア劇の主人公たち、ハムレットやリア王やオセローやマクベスたちは、何をしようとしたのか。福田によれば、かれらは宿命に立ち向かうことが自身の敗北に終わることを自覚しながら、それを理想主義者でもなく現実主義者としてでもない、あえてその行為によって、理想家としての現実家として「演戯」しようとしたのだと見る。そしてそれが、演劇によってしか可能でないことを示したと。



B.女性の女性のための美術
 昨年夏、新潟県の十日町・津南町で開かれた「大地の芸術祭」に行って、学生たちと来場者の調査をした。田園地帯に散在する施設や野外で現代美術の展示やパフォーマンスを、観客が巡って鑑賞するという国際美術展である。ふだん現代美術に縁のない観光客も、こうしたかたちで作品に接し、体感する大規模な美術展として、3年に一回開かれて地元の人や学生など支援ボランティアが参加し、来場者数も伸びている。しかし、海外も含む出品作家は、75%が男性だということは知らなかった。

 「美術界の不均衡に一石: 芸術祭参加の作家 男女半々に 
 今年8月、愛知県で開幕する国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」(あいトリ)が、参加する作家数の「男女平等」を発表し話題になっている。芸術監督を務めるジャーナリストの津田大介さん(45)が「男女格差解消の一助に」と決めた。作品発表の場で「ジェンダー(性差)平等」を打ち出す背景は? 【永田晶子、山田泰生】
 津田氏「ガラスの天井」挑む
 愛知県などで構成する実行委員会が名古屋と東京で開いた記者会見によると、2ヶ月半の会期中に行う現代美術展や舞台芸術に国内外の74組が参加。うち女性作家は32人で個人でみると男性とほぼ同数になる。「情の時代」をテーマに掲げ、作家は担当キュレーター(学芸員)が推薦した美術家から津田さんが約1年かけて選んだ。
 登壇した津田さんによると、男女同数を決めた契機は昨年起きた大学医学部入試の女性差別問題。英国の専門誌がアート界に影響力をもつ人物らを発表する2018年の「パワー100」で、性被害を告発する「#MeToo」が3位に入ったことも重視した。国内の現状を調べ、「著しい不均衡があると分かった」として会見でデータを示した。
 各地の自治体が主催に関わり、現代美術を展示する主要国際芸術祭の参加作家は男性が多く、約8割を占めるケースもある。一方、美術大で学ぶ学生は女性が多く昨年の入学者は東京の武蔵野、多摩両美大は約7割、地元の愛知県立芸術大は約8割が女性。だが、教員は例えば東京芸術大と武蔵野美大は8割強が男性。美術館学芸員は3人に2人が女性だが、館長職は男性が8割強と逆転する。
 津田さんは「男女平等が実現しないのは、美術界に一般企業と同じ『ガラスの天井』があるから」と分析。[自分の権限で何ができるか考え、男女半々にした]。イタリアで開催中の世界最大規模の現代美術の祭典「ベネチア・ビエンナーレ」も同様の方針を打ち出しており「ジェンダー平等は国際的潮流。日本の美術界も向き合うべきだ」と話した。
 東京の会見で津田さんは「女性にゲタを履かせるのか」「展示の質が低下しないか」などの意見も寄せられたと明かした。「質は量が担保する。女性美術家は非常に多く、テーマに合った作家を選んだので質は落ちない」と反論した。
 識者ら「やっとだ」
 識者はどう見るのか。ジェンダーの視点から展覧会を数多く企画してきた笠原美智子ブリジストン美術館(東京)副館長は「やっと、という思い。美術が専門でない津田さんが声を上げ、問題提起がなされたのは美術界として情けない」。男性作家がより多く選ばれてきた状況を「誰も不思議に思わないほど、性差別が内在化している」と指摘し、[市民の意識は変化しており、美術界も対応を迫られるだろう」と見る。
 13年のあいトリで芸術監督を務めた五十嵐太郎・東北大大学院教授(建築史)は「芸術祭の枠組みを決めることが芸術監督の役割。今回は男女同数という明確な数値を掲げ、美術愛好者以外の関心も呼ぶことに成功した」と語る。
 津田さんは「社会情勢を踏まえた明確なコンセプトを打ち出すことができる」として芸術監督に選ばれた。3年ごとに実施されるあいトリは8月1日~10月14日、名古屋、豊田両市で開催される。」毎日新聞2019年5月17日朝刊、24面、総合・社会欄。

 この記事についているデータによれば、美術系大学新入生の男女比(2018年)は、東京芸大美術で女子が約6割超、武蔵野美大や多摩美術大で約7割、京都市立芸大(美術)では85%が女子となっている(出典は大学受験「パスナビ」旺文社)という。海外ではどうなっているのか知らないが、とにかく日本では美大進学者の多くが女子であるという事実をどう考えるのか。美大出身者の卒業後の進路は、必ずしも画家やデザイナーなどで成功する道を進むわけではないとしても、学校の美術教師の道は狭く、一般企業への就職も楽ではあるまい。本人や保護者たちがそう考えているとすれば、美大女子への眼は「好きなことをやりたいならやってみれば」という寛容で裕福な親をもった女の子という視線であり、それは同時に男の子ならそんなリスクの多い道はお奨めできない、という視線でもある。美術にせよ音楽にせよ、あるいはダンスや演劇でも、この国の高等教育は「お稽古事の趣味道楽」はごく一部の才能に恵まれた上流階級子弟にだけ許されるもので、国家に必要な人材とは、もっと実学的効用に貢献するもの、と考える人々が、上から下まで、政治家から庶民にまで深く浸透しているというのは、明治以来変わっていない。
 女子に男子以上のチャンスを与えることは、この社会を活性化し高度化するために必要なことだと思う。ただし、それが美術大学という場所で行われている教育の中身を、そのままにしてよいか、という問題はまた別で、美大男性教員が古い体質の美術団体のボスであったりする例を見ると、こっちも改革した方がよさそうだ。
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