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男優列伝 三國連太郎2  ・・美術の現代

2017-02-23 00:22:55 | 日記
A.男優列伝Ⅱ 三國連太郎2
  俳優というものは、ぼくたちと同じ人間、現実にさまざまな肉体的条件や私的な経験をもつ1人の人間なのだが、舞台の上やフィルムの中では自分とはまったく別の人間になる。役の中の人間になっていない場合は、下手な役者、演技として失敗していることになる。もちろん自分の肉体や声や動作で表現する以外にないから、自分であることをまったく捨てることなどできない。しかし、名優なら役の人物になるために、体重を増やしたり減らしたり(R・デ・ニーロの減量は有名)、髪を剃ったり伸ばしたり、身体障害者と同じ動きをしたりするまで自分を変形することもする。三國連太郎は若いとき、映画の老いた男を演じるために歯を抜いてしまったという。そこまでやるかということをやってしまう俳優なのだ。
  しかし、肉体の変形や変装なら専門家の技術を頼めばある程度できるとして(今はCG映像加工はいくらでもできる)も、演じる人物の心の中、その人間の思想・感情・嗜好まで同一化するのは難しい。なによりその人物を内側から理解していなければならないし、その場面で本人が何をどう感じるかを観るものに分るように演じなければならない。その場合、俳優のとる方法は2つに1つ。
  ひとつは、カメレオン俳優になる、つまり自分という要素を消してどんな人物にもなりきってしまうやり方。いろんな表現の技を幅広く豊富に持っていて悲劇だろうが喜劇だろうが役によって使い分ける「器用な役者」の道である。今のヴェテラン俳優なら西田敏行や橋爪功に柄本明から、小林薫、香川照之、堤真一などあげていけば数多いし、若手俳優ならば堺雅人や綾野剛、長谷川博己、松田龍平あたりは、きっとそこにいくだろう。まあ俳優としての力量を発揮して成功するのはこっちが普通・王道ともいえる。
もうひとつは、逆に自分のキャラクターに役の人物を乗せてしまうやり方。善悪どんな役をやっても同じようなタイプの人間に見える頑固で「不器用な役者」の道である。竹中直人とか役所広司とか渡辺謙とかは、もちろん「器用さ」も「幅広さ」も立派にこなせるんだけど、やっぱりぼくらの側にその役者のある固着したイメージが色濃く残って、個々の役を超えているのが魅力になる。この「男優列伝」でとりあげる予定の人なら緒形拳と仲代達也、平幹次郎はあえて分ければ前者の「器用な役者」タイプ。高倉健と加藤剛そして山﨑努は「不器用タイプ」になるといえるかな。そう考えてみると、この三國連太郎という俳優はどっちだろう?役になり切ることにおいて格別の努力を払うという点では人並み外れている。しかし、観ているとどれも紛れもなく三國連太郎なのだ。その迫力、怪しい凄みはただの演技の技術なんかではない。

「小学生のころから、私はおぼろげながら自分の家系に疑念を抱くようになっていました。学校では何も教わりませんでしたし、親も何も言ってくれませんでした。
 でも、何か感じるものがあったのです。棘というか、どこか心にひっかかるしこりのようなものに、取りつかれていました。
 事実、何となく差別をうけていることを意識させられることが多くありました。たとえば、裕福な家の子どもの自転車がなくなると、真っ先に疑われるのは私でした。何もしていないのに、駐在所に引っぱられていかれるのです。
 祖母の墓地が寺の都合で撤去されたのもまた、子供心に衝撃的でした。
 このことは、いまでも記憶から消すことができません。
 そのような私の内部に埋め込まれた差別の棘は成長するにつれて、ますます自分の中で膨張していきました。
 後になって、菊池山哉の諸々の文献に興味を抱く要因ともなったようです。
 その過程で祖父の出身地が、伊豆半島に数ヵ所あった被差別の一つだと知らされたのです。
 親父は西伊豆の松崎という鄙びた村落の出身ですが、祖父の代からつづく桶屋をしていました。
 当時、棺桶作りは死穢(しえ)にかかわるということで、あまり社会には印象のよくない仕事として賤視されていたようです。
 親父は1920年代、日本がロシア革命に干渉した西欧の尻馬に乗ってシベリア出兵した際に志願しました。
 結婚して生まれた子どもに恐らく、差別のつらい思いをさせたくないという願いを込めて従軍したのでしょう。
 帰国後は軍隊時代に覚えた技術を生かして電気工事の職人として就職したのです。
 親父は権力を忌み嫌い、反骨精神にあふれた男でしたね。
 被差別の苦悩体験を、強烈に持っていたようです。
 棺桶作りのような人の死にかかわる仕事をしていたため、穢れているということで、差別されていたのでしょう。
 無学で、無口な親父でした。これは被差別のルーツを持つことで影響していたのかよく解りませんが、正確に聞いていません。
 家系については何も語ってくれなかったのです。多分、軍隊でも、軍隊を除隊してからも、差別に痛めつけられたのではないでしょうか。
 ともかく父は国家などの笠を被った権力者に対して、激しい恨みや憤りを覚えていたことは確かなようです。戦後になって、たまたま東京見物などに来ても、靖国神社などには見向きもしませんでした。
 当時、軍人に与えられた従軍記章なども、大事にしまっておくどころか、犬の首輪代りにしていましたよ。(笑)」三國連太郎『生きざま死にざま三國連太郎』KKロングセラーズ、2006.pp.46-48.

 16歳で独り気ままな放浪の青春を送った佐藤政雄には、捨てたはずの家にいる父と母に、対照的な感情を抱いていた。出自は子どもを逃れられない檻に入れるが、彼にとっては差別を受けない境遇の母の方が利己的で穢れており、自分の実の父であるかも疑わしい被差別出身の父の方が、人として尊敬に値していたようだ。自分は奇妙なハーフで、しかも自分の中に限りなく自由になりたいという希求と、たとえどんな結果になろうと自己を抑制しようという選択はない、という人がなぜか俳優という仕事に就いてしまった。

 「映画の役名がそのまま私の芸名になり、「三國連太郎」としての人生がそこから始まりました。
「阪大工学部卒業の経歴の持ち主で、特技は水泳と柔道。とくに水泳はチャンピオン。
 その堂々たる体格と国際的スタイルに合わせて知性美を持つ有望な新人スター」(宣伝用惹句)
これが見事にはまり、この宣伝文句に縛られるような形で、私はカメラのないときでも、〈嘘〉を日常に私を演じなければならなくなったのです。生きるため仕方のないことと、自己正当化(?)しなければ引っ込みがつかなくなってしまいました。
 まずは食べていかなくては生きられません。この機を逃したら、他に仕事が見つかるアテがありませんし、装いながら世間を生きるしかないと自己正当化したのですね。
 せめてもウソをつくこと、虚構の中で生きることを、拒否して生きたいと願った戦時下を省みながら、偽りの中でしか生命を維持できない現実を知って、独り無情観に浸った訳です。
決して平然と生きていた訳ではありません。
 いつもヒヤヒヤしていたのです。まさしく生きている形骸みたいなものでしたよ。」三國連太郎『生きざま死にざま三國連太郎』KKロングセラーズ、2006.pp.79-80.
 
 出自も過去からも自由であるべき自分が、気がつけばありもしない虚構の経歴を負った「映画スター」などになっている。無賃乗車のようなケチな犯罪者として警察に逮捕されるのは、一介の虫けらホームレスに等しい存在には痛くも痒くもない。しかし、世間に名を知られる俳優として、自分を偽っている疚しさに彼はやがて耐えられなくなってカミングアウトした。



B.アートと社会 第7回 現代美術のゆくえ  21世紀の美術 
ここまで述べてきたように、近代の文化は合理的・分析的・効率的なものを好むと同時に、その反動として非合理で情念的・超自然的なものをアートのなかに持ち込もうとしました。20世紀後半は世界の多くの国で産業化工業化がすすみ、経済発展を遂げ大衆消費社会が出現したことで、美術も大きく変わります。美術館や画廊では壁にかけた絵がまだ売られていますが、前衛美術の世界はもっと違った形で作品が作られています。とりあえず、20世紀後半にどんな作品が出てきたのかをざっと紹介すると・・。

1.いろいろな試み
  第2次大戦後すぐ、アメリカに出てきたジャクソン・ポロックの「抽象表現主義」アクション・ペインティングに続いて、ヨーロッパでも「アンフォルメル」のような抽象画のブームのような時代があり、それが行き詰まった60年代に注目されたのが一般に「ポップ・アート」と呼ばれるものです。A・ウォーホル、R・リキテンシュタイン、J・ジョーンズなどの作品で、これは抽象画ではなくいわゆる「絵」を半分超えて、というか人が手で描いた一枚の絵が芸術作品だ、というのをおちょくる。有名人の顔写真やスーパーで売っている品物を色を変えて遊ぶ、とか、安物コミックの一コマを拡大してしまう、とか、絵の中にモノをはめて蓋をつけるとか、今までの芸術作品という概念をぶち壊しました。それはかつて1917年に便器を逆さにして美術展に置いたデュシャンの継承とも思えるし、ベンヤミンの言う「複製芸術」への皮肉な反撃でもあります。とくにウォ-ホルはニューヨークで大人気のヒーローになり、今では現代美術の古典に位置づけられています。
  また、抽象画への反動のように「新しい写実主義」も出てきます。「オップ・アート」「ミニマル・アート」など極端に繊細な表現や、逆に表現主義のなかの理知的な面を拡大するものもあり、続く1970年代には、前者は写真以上に本物そっくりに描く「スーパーリアリズム」の作品となり、後者は光とか形とかある要素だけを極端に前面に出す「コンセプチュアル・アート」になります。そこでは「絵画」の概念を超えて、ヴィデオやコンピューター等の新しいテクノロジーを利用した表現、また3次元のインスタレーションや空間デザイン、さらには野外に飛び出して都市アートや自然を取り込む環境芸術など、美術表現の素材、方法、場が大きく変わりました。80年代は、絵画、彫刻、写真、映画、建築、などの境界があいまいになり、なんでもありの表現です。世界経済の拡大に伴ってこういう前衛アートの百花繚乱になったのですが、21世紀に入る頃から、たいがいの試みはみんな既にやり尽されてしまい、もう新しいことといっても、薬物で視覚そのものを狂わせるぐらいしかない。
  綺麗な絵を壁にかけて鑑賞する保守的で古い絵画ファンはそれで満足するでしょうが、「近代」の本質をどこまでも追求してきたアーティストは、それでは満足できない。これまで絵画の歴史で見てきたように、「近代」はつねに新しいもの、見る者を覚醒させるユニークなもの、「美しさの革命」を求めるものだからです。だとすると、そういう試みがやり尽されてしまったとしたら、「近代」は終わって、「後近代」ポストモダンが始まっているのでしょうか?


2.西洋モダニズムは世界を席巻したのか?
  美術のお話をひとまず終わるにあたって、はじめの問いに帰ってみましょう。つまり、マックス・ウェーバーの「西洋近代が創り出した合理的で普遍的な価値は、まったく異なる文化圏でも受け容れられたのはなぜか?」という問いです。西洋の社会はユダヤ=キリスト教という一神教の背景をもっています。一神教の特徴は、この世のすべては唯一の神が造っているという出発点です。動物も人間も、山や川も神の意志で造られたと考えます。この世に自分がいるのも神様の意志の結果です。そこから、神の姿に似せて作られた人間が、他の動物や自然に対して特権的な存在になります。人間は自分の力で、自然や他の動物を自由に変えていいのだ、という作為の正当化が導かれます。神様の前では人間は無力だけれども、自然や動物に対しては思い通り使っていい。そこから「近代科学」が生まれまたともいえます。
  16世紀から始まり、19世紀になって社会のさまざまな領域に具体的な現実として現れた「科学技術の成果」、鉄道・飛行機・電信電話・軍艦大砲は、20世紀の初めには第1次世界大戦という悲惨な帝国主義戦争をもたらしました。「近代」が人類の歴史のなかで、とんでもない飛躍を遂げたのは、確かに科学技術のおかげです。そしてその科学技術をもたらしたのは、形式合理性と経験的実証主義、効率重視や計算可能性、集団より個人、根拠のない伝統を破壊する精神のみずみずしさにありました。とりあえずそれは科学技術という実用性において一般に認められたわけですが、ほんとうの価値は「技術」にはありません。神の造った秩序、世界の真実は「科学」の前に開かれている。西洋人はそう思うでしょうが、ぼくたち東洋人はもともと唯一の神など考えたこともない。自然の山や川ははじめからそこにあり、人間も犬猫動物も生きて死ぬその自然と同じ存在としか考えないのです。人間はただの自然のひとつでしかない。他の動物や自然の生命を自由に操作していい、とは思いません。
  では、そういう異文化に生きている非西洋人であるぼくたちは、どうして明治維新以来、必死で「西洋近代」を学習し、フランス人やイギリス人やドイツ人や、ついにはアメリカ人の思考や行動様式を律儀に真似して得意になっているのでしょうか?それは「西洋近代」モダニズムを、「すすんだ」文明として憧れてしまったことに根拠があります。黒い髪と眼をもつ六頭身モンゴロイドの末裔である日本人であることを嫌って、西洋列強に認められる「名誉白人」になろうとした、卑屈な努力はいまもなおジャパンの底流に流れている地下水です。これを変えてもいい、とぼくは思います。少なくとも美術について言えば、日本の才能ある画家・彫刻家たちは必至で西洋の新潮流を追いかけて、パリに行きニューヨークに行って、一流を目指しましたが、トップに立てなかった。それはあのエコール・ド・パリで名を成したレオナルド・フジタを見れば象徴的です。彼は祖国日本からも排除されてしまった。
  問題は、次に扱う音楽ほど、美術は異文化世界に浸透するほどの普遍性をもてたのか、ということです。確かに遠近法や陰影の技法は、近代の美術として非西欧世界にも広がっていきました。しかし、人間の視覚は飼い慣らされた視野とイメージから逃れることは難しいのです。それはたとえば、日本の美術で「洋画と日本画」という鎖国的なジャンルを作ってしまったことが典型的です。「洋画」とは西洋の画家が使う油絵でキャンバスに描くということで、「日本画」というのは、油絵具ではなく紙や絹布に自然の鉱物などから採った岩絵具で描くということ以上の意味はありません。考えてみればこれは、日本の文化が外来文化に対してつねに繰り返してきた和魂洋才・換骨奪胎・柔抱擁の妙技です。「日本画」という特殊な自足的な世界を組織化してしまうことで、グローバル世界の美術の先端の動向と切り離して、日本という国の縄張りを引き、うちわの美を取り引きしているのです。
     
3.普遍性universalと個別性uniqueness
  この一連の講義でぼくが話してきたことは、あえてうんと要約してしまえば、こういうことです。
  人が自分の眼で捉えられる「美しさ」には、古代ギリシャ以来の合理的・構成的・数学的「絶対の美」があるという明晰な普遍性に立つ考え方と、これを冷たく息苦しく堅苦しい桎梏とみて、破壊的で情緒的な「私的な真実の表明」として創作された個別性に立つ作品に萌えるべきである、という2つの立場がありました。20世紀そして21世紀の美術について、この対立はもはや無意味な問いになっています。「美しいもの」は時空を超越した幾何学のようなものとしてあるのかもしれない、けども、ぼくたちの生きている日常世界では、美術作品など時がたてば、月並みな当たり前のつまんない骨董品にしか見えない。それはアートがもう宗教的な意味も政治的な役割も失って、ただ社会のなかで娯楽商品のようなものとして消費されているからです。それでもアート作品が、人の感性を変える力を発揮できるかどうか、アーティストは職人としてではなく、「美の専門家」として作品を作り続けるしかない。
  それは「近代」の延長線上にあるのか、それとも「近代」は終わったのか。
20世紀の終わりに、「西洋近代」を超えたグローバルな価値が世界を覆って、普遍性は一段と強まりました。しかし同時に、国籍や民族固有のローカルでピュアな価値をどうやったら生き延びさせるのか、それが現在の問題になりました。日本は長い文化的伝統をもつ国で、美術についても仏像や絵巻物、書や浮世絵など「近代」に出会う前から独自のアートを作っていました。それをただユニークだと自慢してもそれだけでは仕方がない。第一、日本人のぼくたちがそれをどこまで理解しているでしょうか?普遍的「近代」に対して固有の価値を主張するには、歴史の古層にまで遡る必要があるのです。それは社会学の役目でもあります。でも、学生諸君にそこまで考えろ、と今ぼくは言う気は起きません。たぶん君たちは、ぼくが何を言っているのか、半分ほどしか理解できないでしょう。それで別に構わない。傲慢ですが、アートのいい所は、目の前に提示される作品を自分の眼で味わうしかない、ということです。
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