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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

ばたふらい・胡蝶の夢・・老荘のディファレンス

2013-10-30 18:43:58 | 日記
A.ちょうちょになった夢か、ちょうちょがぼくになった夢か
 あれは何年前のことだったか。九州最南端の佐多岬に友人と二人で行った時、灯台に歩いてゆく途中でとても美しい色をした蝶を見た。鮮やかな青と黒い羽をした蝶が、夏の強い光の中でひらひらと飛んでいた。見とれているうちに、あれは誰かが蝶に姿を変えているのかもしれないと思った。それから数年後、友人は50代の終わりに、短い闘病生活の果てに癌で亡くなってしまった。その後で、今度は沖縄の宮古島にひとりで行ったとき、同じ友人と二人でこれも以前、宮古島に来たことを思い出していると、海を眺める高台に一羽の蝶が飛んでいた。佐多岬の蝶とは違った色だったが、やはり美しい色をしていた。
 ぼくは佐多岬の記憶が蘇って、彼が蝶になって飛んでいるような気がした。蝶は夢を誘う不思議な動物である。人も蝶も短い生の中で、ある時ある場所を儚く生きているのだが、人間が俗なる世界のあれこれを思い煩って、つかのまの夢の中だけ自由になっているのにたいして、蝶はまるで地面を這う虫だった時代を脱ぎ棄て、羽を広げた瞬間から夢をそのまま生きて飛翔しているように見える。そのまま自由に飛んで、しかし短い生涯を終える。

 昔読んだ書物によれば、「物象化」Materialisierungはマルクス主義の哲学用語で、人間同士の関係、人が人に対していかなる立ち位置に立つか、つまり権力という磁場での人と人の関係が、まるで外界に実在する物と物の関係のように現象している、あるいはそのように人々に意識されていることを指す。「資本論」的視界のなかでは、労働という行為の成果が商品となり貨幣となることで「物象化」が完成する。「疎外」Entfremdungも、「経哲草稿」的視界のなかでは、この世に生きている人の心と行為が、蛹が孵化するように羽根を得て、物に転化する。しかし、物になった途端、それは自分自身を拘束し自由を奪う。
 しかし、『荘子』に出てくる「物化」は、そういう意味ではない。荘子は、すべては移ろい変わっていく儚いものだということを「物化」と呼んでいる。たとえば次の文は「胡蝶の夢」として知られる『荘子』中の有名な箇所である。荘子は蝶になって飛ぶ夢を見る。

「【原文】昔者莊周夢爲胡蝶。栩栩然胡蝶也。自喩適志與。不知周也。俄然覺則蘧蘧然周也。不知周之夢爲胡蝶與。胡蝶之夢爲周與。周與胡蝶則必有分矣。此之謂物化。
 【読み】昔者(むかし)莊周夢に胡蝶と為る、栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。自ら喩(たの)しみて志に適(かな)えるかな。周たるを知らざるなり。俄然として覚むれば、即ちる蘧蘧然(きょきょぜん)として周なり。周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを知らず。周と胡蝶とは則ち必ず分有り。此を之れ物化と謂う。
【現代語訳】 いつか、荘周は夢の中でチョウになっていた。ひらひらと舞うチョウの身に、気持よく満足しきって、自分が荘周であることも忘れていた。やがてふと目が覚めれば、まぎれもない荘周である。はて、これは荘周が夢でチョウになっていたのか。それともチョウが夢で荘周になっていたのか。荘周とチョウには、きっと区別があるはずだ。これこそ「物化」(万物の変化)というものなのだ。」福永光司/興膳宏訳『荘子 内篇』斉物論篇第二、ちくま学芸文庫、2013。Pp.91-92.



B.老子と荘子の違いは?
 「道家」呼ばれた老荘思想は、のちに中国の民間信仰に取り込まれて「道教」という一大宗教になる。しかし、それは老子や荘子のあずかり知らぬことである。ともかく、とりあえずぼくが知りたいのは、老子と荘子の違いは何か?ということである。福永光司(1918-2001)という学者は、老荘思想・道教研究という分野で画期的な研究者であったというが、その『荘子 内篇』解説を読んでみた。福永先生は、5つの相違点をあげている。

 「荘子はしばしば老子と結びつけられて“老荘”とよばれる。司馬遷も、荘子の思想を系譜づけて、「其の要は老子の言に本づけ帰す」――その本質は要するに老子の思想に帰着すると評している(荘周列伝)。そしてこの司馬遷の見解を私もまた肯定する。しかし、ここで注意されなければならないのは、荘子の思想が、その成立の歴史的基盤と、その思想的立場とにおいて、一般的には老子と同じ系列に属しながら、しかも、そのいくつかの重要な点で老子と異なっているということであろう。荘子と老子の思想的な相違については、本文のなかでも二、三触れているが、私はこれを次のような五つの点で考えることができるのではないかと思う。
 その第一は、老子の思想の根柢が、「清虚もて自ら守り、卑弱もて自ら持す」(『漢書』芸文志)というように、“世に処し身を保つ”ことにおかれながらも、なお政治への強い関心がもたれ、支配への積極的な意欲が感ぜられるのに対して、荘子にはそれがほとんど認められないか、もしくは、極めてネガティブにしか説かれていないということである。老子にしばしば見られる「民」「百姓」「国」「天下」「王」「万乗之王」などの言葉が、荘子では、「予は天下を用て為す所無し」(逍遥遊篇二、20頁)という言葉で無造作に否定し去られている。したがって、老子において政治的理想人格として用いられた聖人の概念が、荘子では、「至人」「神人」「真人」というような主体的性格をもつ概念におきかえられている。
 その第二は、両者における「道」の概念の内容の転化が指摘される。老子では「物有り混成し、天地に先立ちて生ず。・・・以て天下の母と為す可し。・・・之に字して道と日う」(第25章)というように、天地万物の根源としての静的な、また本体論的な実在として考えられていた道が、荘子では、「天地に先立ちて生ずる者有り、物ならんや。物を物とする者は物に非ず」(外篇知北遊篇10)といい、一虚一満、其の形に位まらず。・・・消息盈虚して、終われば則ち有た始まる。・・・動くとして変ぜざるは無く、時として移らざるは無し」(外篇秋水篇1)というように、刻々流転してやまぬ変化そのものが道と考えられている。したがって老子では、「其の根に帰る」(第16章)とか、「嬰児に復帰す」(第28章)、「樸に復帰す」(同上)とか、「古の道を執りて以て今の有を御む」(第14章)とかいいように、太古樸素の道に復帰することが強調されるのに対して、荘子では、「物に乗じて心を遊ばしむ」(人間世篇2、131頁)とか、「時に安んじて順に処る」(養生主篇5、105頁)とか、「将らざる無きなり、迎えざる無きなり」(大宗師篇4、216頁)とかいうように、道とともに往き変化に乗って遊ぶことが強調される。
 その第三は、その第二と関連して、両者の間に歴史観の相違が見られることである。老子においては、復帰すべきものとして「古の道」(第14章)が強調され、いわば後ろむきの歴史観が説かれているのに対して、荘子においては、「時に安んず」(養生主篇5、105頁)といい、「物と春を為す」(徳充符篇4、180頁)といい、「時を心に生ず」(同上)というように、与えられた「今」を問題とし、現在をいかに生きるかという現実との対決、いわば前向きの歴史観が説かれている。
 その第四は、両者における「無為」の概念の内容の転化である。老子では、「得難きの貨を貴ばず」(第3章)とか、「腹の為にし、目の為にせず」(第12章)とか、「民に利器多くして、国家滋ます昏し。人に技巧多くして、奇物滋ます起こり、法令滋ます彰らかにして、盗賊多く有り」(第57章)とかいうように、外を対象として説かれた無為が、荘子では「物に乗じて心を遊ばしむ」(人間世篇2、131頁)とか、「生を忘れる」(大宗師篇6、230頁)、「己を忘れる」(外篇天地篇9)とかいうように、内なる心に転ぜられて、無心の意味に発展してゆく。
 したがってまた、これと関連して、「足るを知れば辱められず」(第44章)とか、「止まるを知れば殆うからず」(第32、44章)とか、「身の殃を遺す無し」(第52章)とかいうような老子の即自的な保身への関心が、荘子では、「至人は己れ無し」(逍遥遊篇1、10頁)といい、「事の情を行いて其の身を忘る」(人間世篇2、130頁)といい、「相い忘るるに生を以てし、終窮する所無し」(大宗師篇6、230頁)というような忘生または捨身における高次の全真として説かれている。
 その第五は、しばしば指摘されるように、荘子の思想に著しく認識論的な反省の加えられていることである。例えば、「道は一を生じ、一は二を生じ、三は万物を生ず」(第42章)というように、単に流出論的に説かれた老子の宇宙生成論が、荘子では、「天地も我と並び生じて、万物も我と一為り。既に已に一為り。且れ言有るを得んや。既に已に之を一と謂う。且れ言無きを得んや。一と言と二と為り、二と一と三と為る」(斉物論篇4,65頁)というような精緻な認識論に組織しなおされている。したがって、認識論的な反省において吟味を加えられた「言」や「知」への反省、換言すれば、認識そのものの価値に対する反省は、荘子においては、必然的に「道」と「言」、「体験」と「認識」の対立矛盾への反省となり、道が体験の意味をもってくるとともに、体験を重んじて認識を斥けようとする傾向をおびてくる。そして、ここに我々は、中国的解脱の最も高き実践としての「禅」と「荘子の思想」との極めて緊密な精神史的つながりを見出すことができるであろう。」福永光司/興膳宏訳『荘子 内篇』、福永の「内篇解説」から、ちくま学芸文庫、pp.293-296.

 古代中国思想は、みな今に残る漢字で書かれたテキストが原典であるから、福永先生はオリジナルな『老子』『荘子』から厳密なテキストクリティ-クにもとづいて、老子と荘子の明確な相違点をあげている。少々しつこいほどの記述だが、なるほどよくわかる。

 「要するに、荘子と老子は、春秋戦国のほぼ同じ時代(その差は約百年ぐらいか)と、宋文化圏のほぼ同じ地域(老子の生地は今の河南省帰徳府鹿邑県の東で、荘子の生地である商邱県の附近を距たること約六十キロメートルと伝えられる)とを背景として、同じような思想的基盤の上に立つものではあるが、両者の思想としての性格には、必ずしも同じくないものがあり、老子の思想がより多く処世の智恵であるのに対して、荘子の思想はより多く現世的な生を問題としているということができよう。老子があるいは黄帝と結びつけられ、あるいは彼自身偶像化されて、卑俗な民間宗教の対象となり得る性格を多分にもつのに対して、荘子には世俗の偶像化を寄せつけぬ思想としての厳しさと奔放さがあるように思われるのである。」福永光司/興膳宏訳『荘子 内篇』、福永の「内篇解説」から、ちくま学芸文庫、p.297.

 孔子の故郷は今の山東(シャントン)省曲阜、老子は河南(ホーナン)省鹿邑、荘子も河南省商邱で、地理的にはどちらも中国大陸の中央、いわゆる「中原」の広大な平原だが、黄河の南でも孔子は少し山の見える北側、老子や荘子はもっと南西の土地である。老子は洛陽に出て教えを語り、荘子は故郷の近くで長く過ごした(らしい)と伝わるが、確かなことはわからない。思想と土地風土の繋がりがどの程度のものか、何とも言えないが、海は遠く山岳地帯も遠く、河南は長城を超えて攻めてくる北方の異民族からも遠い、気候風土は暑くもなく寒くもなく穏やかな土地のようだ。しかしどこまでも広がる平らな場所だから、古代以来多くの国家が興亡を続け戦乱も絶えなかった。
「道tao」という言葉は、その後の中国で、さまざまに変奏されながら、ある意味では老子の中にあったいかがわしく呪術的な世界を展開し、ある意味では荘子の中にあった儒教的国家官僚的知に対して開放的で自由な思想の飛翔を可能にした、と言えるのかもしれない。
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福島のドン・キホーテ?シュッツを読む。

2013-10-28 01:47:10 | 日記
A.放射能のリアリティについて
 週末に福島県田村市に行ってきた。大型の台風がふたつ、太平洋から右旋回して関東に同時にやってくるという予報があったので、交通機関の異常があればどうしようかと、ちょっと不安もあったが、幸い大風は逸れて東北新幹線は滞りなく動いていた。田村市は郡山から磐越東線をいわき行きに乗り、三春を経て船引(ふねひき)という駅で下りる。人口38,000人ほど。2005年の平成大合併で田村郡に属する船引町、滝根町、大越町、都路村(みやこじむら)、常葉町の5町村が合併してできた町である。田村市の東の端、都路村全域は福島第一原発から西へ20㎞圏内、原発事故以来強制避難となった。大震災直後、大熊町、双葉町など浜通りの避難者は、まずこの田村まで避難した。しかしここも放射能汚染で安全とはいえなかった。世界にその名を知られたFUKUSIMAの、風光明媚な阿武隈山地の麓、都路の人々は今も避難所に暮らしている。
 辿り着いた田村市民センターで行われたのは、田村市復興応援隊主催、田村市共催の復興シンポジウム「それぞれが主人公の、新しい田村市づくり」。催しは田村市長冨塚宥暻氏の挨拶にはじまり、岩手県釜石のNPO法人@リアスNPOサポートセンター代表理事、鹿野順一氏を招いての基調講演、後半は「住民が主体となった復興の動き」として都路の農民坪井さんと区長の遠藤さんの報告。田村市復興応援隊は、政府の復興支援予算を受けてNPO法人Costerが受注してこの7月から活動を始めた事業である。大震災復興支援といっても、三陸沿岸、宮城の海岸平野、そして福島の浜通りでは、問題の量と質がまったく違っている。
 三陸では津波によって、人が住んでいた町自体が無残に流され多くの人が死んだ。そこでの復興とは、生き残った人たちがもう一度新しい町を作っていくことであり、子どもたちの未来のために努力を尽くすことである。宮城の場合も、家も土地も根こそぎ失って悲しみは深いが、これから頑張っていけば再建はじゅうぶん可能だろう。瓦礫が片付いた風景は、過去ではなく未来に向いている。しかし、福島の場合はある意味でもっと複雑で難しい。ぼくは船引駅から会場への道を歩きながら、電車の中で読んだ現象学的社会学のアルフレッド・シュッツのドン・キホーテ論を反芻していた。


 
B.ドン・キホーテは狂人ではなかった
 あの大震災の後、福島第一原発が大気中に放出した放射性物質は、数百年消えないのだからその場所で暮らすこと自体、危険(なのかもしれない)という言説がある一方で、何を神経質になっているんだ。もう放射能なんて病院でレントゲン写真を撮られる程度のことで、人体への影響なんてほとんどないんだ、という言説もある。自分が安全な場所にいると思うかどうかがその人の世界認識の出発点で、そのリアリティの根拠は自分の妄想にあるのではなく、自分の周りにいる現実の人間たちとの関係、相互作用にこそある、というのがシュッツの立場。これを田村市のさびしい道を歩きながら、ぼくはドン・キホーテ論と結びつけて考えていた。
 
「どのような情況のもとで、われわれは物事を現実的だと考えるのか」ウィリアム・ジェームズは『心理学原理』における注目すべき一章でこの問題を提起し、そこから現実realityの多様な次元に関する理論を展開している。ジェームズによれば、いかなる対象も矛盾を来さない限りは、事実上、絶対的現実として信じられ、かつそのように位置づけられる。しかも、ある思念された事柄が他の事柄によって矛盾を来すことがないのは、その事柄が他の事柄について対立的な自己主張を始めない限りにおいてである。しかし一旦この対立がはじまると、人はいずれを保持するのかという選択に直面せざるを得ない。どのような主張でも、それが存在自体に関わるものであれ、ただ属性に関するだけであれ、そうだと考えられている事実そのものを通して信じられるのであって、それは、その主張が同時に信じられている他の主張と衝突していなければそれぞれの主張の基本が同一であると確信してしまうからである。現実的と非現実的との間の真の区別、すなわち信頼と不信や疑惑を扱う全体心理学は、これもウィリアム・ジェームズによると、二つの精神的事実に基づいている。第一は、われわれが同一の対象についてさまざまに異なる思考をしがちであるということ、第二に、そうした場合にどの思考法を採り、どれを捨てるかという選択をおこなうということである。あらゆる現実の源泉はわれわれ自身なのである。絶対的見地とか実用的見地とかに関係なく、それは主観的なのである。それ故、いくつかの――おそらくは無数の――多様な現実の次元が存在し、それぞれの現実がそれ自体固有の、他と区別された存在様式をもっている。それをジェームズは、「下位宇宙sub-universes」とよんだ。この下位宇宙には、常識によって経験される感覚や物理的「事物」からなる世界があり、それが至高の現実paramount realityといわれるものである。このほかにも科学の世界、観念的諸関係の世界、「種族の偶像」、キリスト教の天国と地獄のような超自然的世界、諸個人の見解からなる多様な世界、そしてついにはこれも限りなく存在するまったくの狂気と奇行の世界がある。われわれが思念する対象はすべてこうした諸々の世界のいずれかに関係づけられている。おのおのの世界は、われわれがそれに心を奪われている間は、それ固有のありようで現実的である。つまりわれわれの精神と何らかの関係を保持していて、そこに相対立するより強力な関係さえなければ、その提唱は現実的とされるのである。」アルフレード・シュッツ『現象学的社会学の応用』桜井厚訳、御茶の水書房、1980(原著Alfred Schutz”Collected Papers Ⅱ,Studies in Social Theory :Applied Theory”1964)第四章 ドン・キホーテと現実の問題、pp.70-71.

 ドン・キホーテを原発放射能に怯えて、これと闘おうとする反原発派idealistだとしてみると、サンチョ・パンサのごとき実証主義を信じるrealistは、東電・安倍政府・経団連といった原発推進派になるだろう。どっちのいうことが真実なのか?田村市の町を歩いて目に入る風景は、瓦礫の「被災地」にあるような破壊や悲劇の痕跡はまったくない。震災以前からあった町並みは少しくたびれてはいるものの、昔通りに健在である。つまり、風景を表から見るだけなら、家も町も何も変わっていないのだから、この町に生きる人びとにとっては、東京にいる脳天気な都市住民のようにはサンチョ・パンサになれない。放射能は目に見えないし、今目の前では何も壊していないし、少しも被害などないと言ってもおかしくはない。でもこれは、ドン・キホーテに伯爵夫人が企んだように、「やらせ」だとしたらどうだろうか?

「ウィリアム・ジェームズの文章をすこしだけ引用したのは、われわれの目的、すなわちセルバンテスMiguel Cervantes のドン・キホーテのなかにある現実の問題の分析を限定するためである。いまわれわれの関心は、セルバンテスの小説がウィリアム・ジェームズの指摘した多元的現実multiple realities の問題自体を体系的に取り扱っている点、および、ドン・キホーテの冒険にある多様な場面が、われわれがどのように現実を経験するかという中心的テーマに関する優れた事例を提供している点にある。この問題は数多くの局面を有し、弁証法的な構成となっている。そこにはドン・キホーテの狂気の世界や騎士の世界があり、それらの現実の下位宇宙は、床屋や住職、家政婦、姪といった人たちが日々の生活を送るなかで自明なものと考えている日常生活の至高の現実と、矛盾するものである。彼の幻想の下位宇宙が、そこには城や軍隊や巨人ではなく、ただ宿屋や羊の群れや風車があるだけという、至高の現実と衝突するとき、それでもなおドン・キホーテが自分の下位宇宙に現実のアクセントを与え続けるのは、いかなる方法によるのか。ドン・キホーテの私的世界が唯我的ではなく、この世界の内部に他の人々が存在し、しかもこうした人々が、単にドン・キホーテの経験の対象としてあるだけではなく、少なくともある程度には、かれの現実を実際的なもの、可能なものとして一緒に信じ合うことがどうしてできるのか。そして結局のところ、ドン・キホーテの狂気の下位宇宙も、われわれサンチョ・パンサが日々の生活を送る――ウィリアム・ジェームズの言葉でいえば――感覚的な至高の現実も、一見するような一枚岩的なものではないことが明らかになる。そのいずれもが、いわば経験の飛び地enclavesを含んでおり、それらはドン・キホーテやサンチョ・パンサがそれぞれに自明視している下位宇宙を超越し、そのいずれとも矛盾しない別の現実の領野と関係しているのである。そこには謎にみちた驚くような夜想の物音があり、死と夢、空想と芸術、予言と科学とがある。ドン・キホーテ、そしてまたわれわれサンチョ・パンサが、自分の下位宇宙をはみ出すようないろいろな経験をしたにもかかわらず、なお、一旦ホーム・ベースとして自ら選んだ閉鎖的下位宇宙が現実であるという信念を維持していられるのは、いかなる仕方によるのだろうか。」A・シュッツ「ドン・キホーテと現実の問題」(桜井厚訳『現象学的社会学の応用』御茶の水書房、1980.Pp.71-73.

 福島のこの場所が、いったん放射能から安全だという見解をホーム・ベースとして「自ら選んだ」閉鎖的下位宇宙が、明らかな現実だという信念を維持していられるのは、いかなる仕方によるのだろうか?逆に言ってみよう。福島のこの場所が、あちこちに放射性物質が飛び散った以上、内部被ばくの危険に満ちたデンジャラスな場所だという見解をホーム・ベースとして「自ら選んだ」閉鎖的下位宇宙が、疑いなく現実であるという信念を維持していられるのは、いかなる仕方によるのだろうか?実証主義的客観的事実という形で人が認識できるのは、視覚や聴覚や嗅覚や触覚で認知した(と思った)ごく単純な存在だけで、人間同士の相互作用から生成するリアリティについては、目の前にある物体を知覚するようなわけにはいかない。
 それゆえに、ドン・キホーテが生きている現実と、サンチョ・パンサが生きている現実は別世界ともいえるが、この2人は常に会話を通じてある高次の弁証法的理解に達する。だとすれば、この田村市を無防備に歩いているぼくは、ドン・キホーテなのか、それともサンチョ・パンサなのか?放射能の雨の中にいるのか、平和で美しく、生命の危険など皆無な世界なのか?その決め手は、客観世界(科学的事実)の方にあるのではなく、周囲を見渡した時そこにいる具体的な他者たちとの関係を解釈する閉鎖的宇宙にある。というシュッツについて、真面目に論文を書かなければ・・ううっ、やっていない、ヤバ。
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ヴェーバー先生の『儒教と道教』を蔵出ししてみた

2013-10-26 03:09:58 | 日記
A.読書階級が権力をもつ社会で挫折するということ
 大学生が本を読むのは、昔は当然だった。だって本を読まずに知識を得、思考を鍛えることなどありえないから。読書といっても、そのへんで売っている一般大衆向けのハウツー本や、娯楽本などは問題外。薄っぺらい文庫新書の類もまだ安易。そんなものを読んでいるうちは三流学生で、インテリ予備軍なら本格的な学術書、できれば古典的名著からはじめて原典を英語、仏語、独語といった原語で読むくらいでないとダメ。大学院に行ってそれらを読みこなして立派な論文を書いてはじめてまっとうな知識人の仲間の入口に入れる。という暗黙の了解があったと思う。実際はそれを達成できる秀才は、そんなにいたはずもないのだが、そういう世界に大きな価値と尊敬を集める時代があったとは思う。
 しかし、今の日本の大学生のマジョリティは、そんなことに意味を見出す土壌が失われていて、無理矢理宿題や試験でぎゅうぎゅう追い詰めない限り、自分で本を買って読もうなどという行動をとらない。本を読まないでテレビばかり見ている、と嘆かれた話も遠い昔のことで、今の大学生は本も読まないがテレビも見ない。マンガもあんまり読まない。じゃあ、何をしているのかというと、仲間とつるんでぐちゃぐちゃしゃべっているか、バイトやスポーツや旅行のスケジュールを一杯にしてエンジョイ・タイムに生きている、ように見える。もちろんそれは大人の偏見で、いろんな学生が見えない場所でいろんなことをしているはずだ。でも、知的な世界へのポジティブな憧れは、どうも地に墜ちたような気がする。
 ある個人が社会で成功するということは、いずれにせよ同じ道を歩くライバルとの競争に勝ち抜く必要があるだろう。王侯貴族が支配する身分制社会はいざ知らず、いやハードな身分制社会でも個人の能力による競争はあるだろうから、問題はいかなる能力において競争が行われるか、になる。戦国時代のような武力がものをいう世界では、体力腕力に武器を扱う身体能力がものをいっただろう。しかし、武力腕力だけでは国家の統治はおぼつかないから、知識と思考力が優れた人材も重用される。中国文明が築き上げた科挙制度による読書階層の官僚権力支配は、読書階級のエリートが圧倒的な力を発揮できる社会だった。多くの書物を読み、美しい文字文章を書き、それゆえに人々に畏敬される知識人が、圧倒的な成功と称賛を得た社会。死ぬほど勉強して難関試験に受かったエリートは、栄光の未来が保証される社会。
 しかしそれは同時に、エリートになりそこなった無様な敗北者を生む社会でもある。たとえ試験に受かったとしても、競争の論理はいつまでもついてまわるので、ライバルへの嫉視、葛藤、緊張は消えない。自分の能力とこれまでの努力に執着するかぎり、競争のストレスと不満に苛まれる。それに精神的に耐えられなくなった人間は、心を壊してしまう。儒教の経典は中国社会の官僚選抜試験の教科書になった。受験生はいやでもこれを頭に叩き込んで、すみずみまで暗記しなければならない。優秀な才能に恵まれた若者のうち、このエリート路線を疑いもなく歩く人たちがいて、しかし他方でこの路線を歩いていく先に何があるのか、を危惧する人もいる。じゅうぶんな知識と思考力を獲得した限られた学生だけの話だが、そこから先、輝く世俗の成功にすすむエリート、たいがいは鼻持ちならないエリートになる人と、そこに疑問を感じて脱落してしまう人がいるはずだ。いったんこの路線を脱落すると、復活はありえない。
 中国の社会で、公認官学としての儒教にたいして、文字も読めない大衆の根深い信仰を提供したのは「道教」、老荘に発する読書エリートへの対抗文化である。



B.懐かしきマックス・ヴェーバーを引っ張り出してみた。
 「世界宗教の経済倫理 序言」を、若い時に大塚久雄の訳で読んだ。なにかとても重要なことがここに書かれている、と思った。ぼくたちが生きているこの世界、近代と呼ばれる歴史の大きな流れの中で、日本やヨーロッパやアメリカや中東や、さまざまな地域の個別の文化や問題は異なっているものの、現代世界にはある共通の方向と価値のようなものがあって、それにどう向き合って人間の生き方の条件を考えるのか?ヒントのひとつは資本主義という経済のシステムであり、もうひとつはマックス・ヴェーバーが追求した宗教という価値のシステムだと意識するようになった。ぼくはヴェーバーを読んで、拙い卒論に取り入れた。
 ヴェーバーの文章は、言葉に言葉を重ね、注釈に注釈をつけていくような粘着した文章なのだが、どこまでも正確に確実な言明を伝えようという迫力に充ちている。ヴェーバーの『宗教社会学論文集』巻一の中にある「儒教と道教」は、広範な比較宗教社会学において重要なアジアの宗教に関する綿密な研究である。ぼくはこの翻訳本を、大学生の頃に購入していたのだが、ちょっと読んで難しくてずっと本棚の奥にしまったまま、もう数十年が経過してしまった。たまたま道教のことをブログに書きはじめて、書棚をみたら『儒教と道教』があった!

「隠者Anachoretenは、荘子の書物によってのみならず、保存された画像作品からみても、儒教徒たち自身の認めるところによって考えても、中国には古い時代からつねに存在してきたのみならず、英雄や読書人たちはもともとは老年期には森林生活を孤独のうちに送っていたという仮定に導きかねない覚え書きさえ見出される。純粋な戦士壮行会においては、事実上しばしば『老人』は無価値なものとして遺棄にゆだねられていた。それで、隠者たちのこれ等の『年齢層』が当初はこの種の人たちから補充されていたということは、じゅうぶん考えられうることなのである。しかしながら、それは不確かな推測である。つまり、歴史時代においては老人たちの隠者=生活Vanaprastha-Existenzはけっして、インドにおけるようには、正常のものと見なされていなかったからである。
 とはいえ、『現世』からの隠退だけが、思索と神秘的な感覚das mystische Fühlenとのための余暇と気力とをつくりだしたのである。――孔子も荘子も――官職を自身の救済追求のために拒んだが、孔子は官職に不自由していたという点にあったにすぎない。
 政治的に不成功の読書人にとっても、この隠逸Anachoretentum は政治からの隠退の標準的な形式とみなされ、自殺や、処罰されたいという申し出のかわりになった。呉国における、ある諸侯国の君候の弟の仲雍は隠者の庵におもむいている。そして、成功をおさめた皇帝である黄帝についてすらも荘〔子〕の報ずるところによれば、かれは退位して神仙となった、というのである。
 古代の隠者たちの『救済目的』は、たんに1.長寿法的makrobiotsch 2.呪術的magisch傾向のものにすぎないと考えてよい。つまり、長生と呪力と〔の獲得〕が、師匠たちの。また少数ではあったが、かれらのもとに逗留して師に仕えていた弟子たちの目標であった。」マックス・ヴェーバー『儒教と道教』木全徳雄訳、第7章正統と異端、第二節隠逸と老子(抜粋)。創文社、1971.pp.296-298. (原著:Max Weber “Konfuzianismus und Taoisumus”gesammelte Aufsatze zur Religionssoziologie�.第4版1947.)

 よく知られているように、ヴェーバーの関心はなぜ西ヨーロッパにおいてだけ、近代資本主義が発達したのか?という歴史的難題である。世界を見渡すと、古代以来ヨーロッパなどは辺境であって、中東やエジプト、インド、なかんずく中国文明は、あらゆる意味で先進的で、近代をいち早く実現してもおかしくないのに、遂に中国は眠れる獅子のまま停滞した。その理由をヴェーバーは宗教を通じて探究する。当然、議論の中心は儒教になるが、儒教から分れてもうひとつの流れを形成したのが道教である。これについても、さすがにヴェーバーはドイツで手に入るあらゆる文献を渉猟網羅し、老荘思想の本質に迫っている。

「だが、それに連接して、現世にたいする『神秘主義的な』態度とそれを基礎とする哲学とが形成される可能性があったし、また事実そうしたことが起ったのであった。賢者は、ただ、世俗をことに世俗的な高位と官職とを引退した隠者たちAnachoretenにしかものを教えることはできない、――というのを、皇帝であった黄帝は答えとして受け取っている。隠者は『処士』》Gelehrten die Hause sitzen《つまり、官職につかなかった学者なのである。後世の、儒教的な官職補任期待者との対立関係はもうこの中に暗示される。隠逸の『哲学』はそれよりもはるかに徹底していた。すべての神聖の神秘主義genuine Mystikにとってそうであったように、絶対的な世事無関心die absolute Weltindifferenzが自明の目標であり、また――これは忘れてはならないことだが――長寿法的に重要な目標das markrobioteisch wichtige Zielでもあったのである。そこで、長生は――既述のように――隠逸生活の一つの傾向であった。
 さてこの見地からみて重要だと思われたのは、原始的な『形而上学』によれば、とりわけ、生命の明らかな担い手である呼吸の節約的な、また合理的な処理(いうなれば、『管理〔法〕』》Wirtschaften《である。呼吸調節が特殊な種類の脳髄の状態を引き立てることができるという生理学的に確認しうる事実が、さらに徹底した結論に導いた。『至人』》der Heilige《は『不死不生』であるべきであり、あたかも生きていないかのようにふるまうべきである。『わしは愚かな(それゆえ、世才を脱した)人間なのだ』と老子は、自分の聖人らしさを保証して言っているし、荘子は(官職によって)『束縛』されることを欲しないで、むしろ『泥だらけの堀のなかの一匹の子豚のように』生存したいと願った。『みずからを一気dem Aetherに等しくし』『肉体を投げ棄てる』ことが目標となった。
 かなり古い現象にインドの影響が働いていたかどうかについて、専門家たちの意見はまちまちである。官職から身を引いたこれらの隠者たちのうちのもっとも著名な者、すなわち、伝説が正しければ孔子より年長で孔子の同時代人であった老子のばあい、このインドの影響は痕跡がないようには見えないのである。

第四節 神秘主義の実際的帰結
 本節でわれわれが老子を問題にするのは、哲学者としてではなくて、かれの社会学的な地位と影響においてである。儒教との対立は術語のなかからしてすでにあらわれている。カリスマ的皇帝に特有な調和的態度を、孔子の孫である子思は「中庸」〔という書物〕のなかで均衡状態と特徴づけているのに、――老子の影響をうけたもしくは老子を奉じていると自称している著作においては、右の状態は、空虚Leere(虚)または非存在(無)であるといわれ、『無為』(なにごともしない)および『不言』(なにごとも言わない)によって得られる、とされるのである。こうした虚や無や、無為や不言などは明らかに、決してたんに中国的であるにとどまらない、典型的に神秘主義的な範疇Kategorienなのである。
 儒教の教義によれば、礼、つまり、儀式の規則と祭儀とは、中の産出のための手段なのだ、――〔ところが〕神秘家たちの見解によればそうしたものはまったく無価値であった。あたかも無心であるかのようにals hätte man keine Seeleふるまい、そうすることによって心を官能から解放すること、――それが、独力で道士(いわば道taoドクター)の力に至りうる精神的態度であった。生は『神』》shen《の所有に同じく、それゆえ長寿法は養神に等しい、――このことを、老子の著とされている道徳経は教えているが、それはまったく儒教徒と一致している。ただ手段こそがまさしく異なるのだが、長寿法的な起点は同じであった。
 すでにわれわれがたびたび出会ってきた基礎的範疇である『道tao』は、これによって後世に異端説が『道家』として》als Taoisten《儒家から分れたものであるが、この『道』は両学派に、一般にはすべての中国的思惟にいつも共通であった。同様に、すべての古代の神々も両学派に共通であった、――もっとも『道教』は万神殿das Pantheonを、正統〔儒〕教には非古典的と見なされている多数の神々の分だけ、主として人間の神格化Apotheose von Menschen――これは長寿法の歪曲である――によって豊富にしてきたのではあるが。古典的文献も――ただ異端者たちのもとでは、儒教徒からは非古典的として拒否された老子の道徳経と荘〔子〕の書とがそれに加わった点を除けば――両学派に共通であった。しかし孔子みずからさえも――その点をデ・フロートは大いに力説するが――敵手の基礎的範疇を、あの「無為」(放任laissez faire)すらも、拒否しなかったし、また明らかに時折りは、道において完全な無為者の呪術的カリスマの説に近い態度をとっていたらしい。」M・ヴェーバー『儒教と道教』創文社、pp.298-300.
 
 老荘思想って、ある意味で読書階級、選抜競争試験社会のエリート挫折者の思想なのかもしれない。エリート君たちよ!君たちの理想とする社会、それは自分の浅はかな権力欲を満たすための虚構であり、世俗の欲望を求めるだけの愚かなものなのだよ。俺たちはもうその路線は捨てたんだ。どっちが心地よく快適な人生を生きられるか、どっちが健康で長く生きられるか、さあ勝負だぜ!「老いた知識人」は無用の人なのだが、無用の人であることほどadventageousなことはないのだ、と主張しているわけだな。居直りといえば居直りなんだけど、本も読まない庶民にはじっくり受ける要素があるよな。
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詩想・試走・思想・志操・歯槽膿漏 -日本で道教?

2013-10-24 21:32:45 | 日記
A.「思想の巨人」はいるのか?
 難しい本をすらすら読んで、さくっと理解し、それを人に解説できるひとがいたとしたら、少なくとも頭の冴えた秀才だといえるだろう。あるテーマについて聞いたら、ちゃんと既存の文献知識に基づいて、間違いのない独自の見解を述べることのできるひとがいたとしたら、少なくとも優秀な学者だとはいえるだろう。誰もまだ答えの出せなかった問題を、独創的なひらめきで解いてしまったひとがいたとしたら、少なくとも天才的な頭脳だといえるだろう。でも、そんな人はめったにいるものではない。めったにいないから、歴史に残るわけだが、歴史に残ったのは、その価値を評価できる他の人間が、その人のとび抜けた能力と成果について、ちゃんと記憶し書き残したからでもある。それはやっぱり、文字のお蔭であって、文字になっていない行為や思想では、そのときその場にいた人にしか伝わらない。

 とび抜けた知性、ふつうの人間にはとても到達できそうもない巨大な知的巨人、というものがどこかにいるのではないか、という期待が、歴史のある局面でつねに現れる。宗教は言葉だけの世界ではなく、不立文字などというスローガンもあるほど、言葉より行動、経典より修行という立場もあるのだが、モーゼ、イエス、釈迦、ムハンマドなど世界宗教の開祖の教えは、言葉によって後世に伝わり、長い時を超えて人々を導き、拘束している。後世の人間は、それを読み考えることで、さらなる言葉を生み出し、議論し、やっぱりこれはすごい!と思うことで宗教という運動が展開する。
 思想や宗教という面倒くさい問題について、いっぱい本を読んで解説したり、注釈したりする人は、大学なんかにたくさんいる。でも、ただこれはこう、あれはこう、と説明するのではなく、だからどうなんだ?という問いに、明確な答えを出せる人は学校という場所にはまずいない。それは、学校という所がそんなことを教える場所ではないからだ。
 近代以降の社会に生きているぼくたちは、もはや超人的な神の言葉を伝える教祖がこの世に現れるとは思っていない。神という観念自体が、疑われて久しい。日本という社会では特に、一神教的な世界の創造者としての神観念じたいが、もともとあるのかないのか、きわめて怪しい。でも、神仏という言葉にこだわらなければ、いつの時代にも真実の言葉を語る、とび抜けた人、それは哲学者であったり、科学者であったり、文学者や実践家であったりするだろうが、とにかくそういう古今の知識に通じているだけでなく、人々の生き方に深い影響を与えるような「思想の巨人」がどこかにいるのではないか、と思えば、その人の書いた言葉、語った言葉を読んでみたいと思うのは当然だと思う。でも、そんな人、いるの?



B.三教指帰における道教
 平安時代初期の最高の知性、後に真言密教の日本における開祖となって「お大師様」と崇められる空海が、故郷讃岐を出て大学に学び、延暦16年(797)24歳の時に書いたという最初の文章が「三教指帰」(さんごうしいき)てある。これは当初、「聾瞽指帰」(ろうこしいき)と題されていた。漢の枚乗「七発」に「瞽(めし)いたるを発(ひら)き、聾(みみつぶ)れたるを披(ひら)く」とあるのに由来する。これはのちに少し修正されて「三教指帰」の名で残っている。日本思想史においても特筆すべき著作であり、これを24歳の青年が書いたという事実自体、信じられないようなことである。
 この文章は漢文で書かれているが、戯曲仕立てになっていて、五人の登場人物が議論を交わす思想のドラマであり、青年空海が中央の大学で高級官吏の道を歩むことを期待した親族の反対を押し切り、出家して仏教の修行に身を投じる宣言の意味をもっていたと言われる。すでに多くの漢籍を読み、梵字や唐語もマスターして当時の国際レベルの高い知識に到達していた佐伯真魚(空海の本名)は、儒教、道教、仏教の三つの世界思想のエッセンスについて、その優劣を「三教指帰」によって比較検討し、最終的に仏教を選んで都を去り、いずこともない修行の旅に出たといわれる。ただ仏教を優れたものとしたのではなく、当時の奈良仏教は真の仏教ではないと批判して、より本質的な高みを求めていった。それからの7年間、彼がどこで何をしていたのか記録にはない。
  やがて延暦23年(804)、31歳の空海は藤原葛野麻呂を大使とした遣唐使船に乗船し、唐に渡る。その後の空海の歩みはよく知られているように、たった2年の留学で最新の真言密教をマスターして、経典と仏具などを持ちかえって日本に伝え、朝廷のバックアップを獲得しながら、同じく唐から帰国して先行する最澄の比叡山延暦寺に対して、高野山に仏道修行の場を開いて平安仏教の礎を築いた、というのは日本史の教科書で教えられている通り。それはともかく、道教という思想を日本で本格的に論じたという点でも、「三教指帰」は、画期的なものだろう。それでちょっとそこを考えてみた。
  8500字の「三教指帰」には、人生に悩みをもつ人物が儒教を代表する亀毛先生、道教を代表する虚亡隠士、そして仏教を代表する仮名乞児に順番に問いを投げかけ、それぞれの答えを聴くというドラマが描かれる。『荘子』の訳者、福永光司は「三教指帰」一字一句の出典を調べ、そこには「文選」「芸文類聚」「初学記」をはじめ、「史記」「漢書」「三国志」「世説新語」「顔氏家訓」などを自在に引用し、儒教論では四書五経を、道教論では老荘をはじめ「准南子」「抱朴子」を駆使し、仏教論では「法華経」「金光明最勝王経」を精読している跡が見えると指摘、当時の日本で手に入る南都六宗の経典のすべてが駆使されているという。これがどれほどとび抜けた知的作業の生み出した結果であるかは、今日のぼくたちには想像もつかない。
 しかも若き空海は劇作家としての才能も発揮し、儒者の亀毛先生は舌で枯れ木の花を咲かせるほどの弁舌を展開し、道教タオイストの虚亡先生は神仙に暮らす仙人らしく蓬髪でボロボロの姿でひっひっひと語り、仏教の仮名乞児はツルツルに頭を剃って錫杖と破れた木鉢を手にする乞食坊主で教えを説く。ドラマの冒頭で、ある館の主、兎角公子が母方の甥の蛭牙公子の粗暴・賭博・女色・傲慢に溺れた非行ぶりに手を焼いている。そこで3人の賢者をよんで蛭公に教唆教誨をたれてもらおうということになる。まず、招かれた儒者の亀毛先生、続いて道教を実践する虚亡先生が現れて教えを述べる。
  空海による道教論は、日本で道教を思想的問題として論じたものとして、それ以前もそれ以後も現れなかったという意味でユニークである。空海のタオイズムの理解は、本質を突いて深い。「三教指帰」の道教論をかいつまんで読んでみると、(ぼくもどこまで読み込めるか自信はないけれども・・)だいたい以下のようなものだろう。
 巻中 虚亡隠士論
 兎角公、亀毛先生、蛭牙公子の三人が虚亡隠士に天尊の隠術、養生久存の術を問う。隠士がいう。秦の始皇帝や漢の武帝は長寿不死を求めたが、一方では肉欲にふけり、女を近づけていたのは誤りであった。唾液も精液も出すな。貪欲をはなれよ、つつしめ、美食をするな。孝であれ、仁慈をもて。女にふけるな。禄を貪るな。断つべきものは五穀、五辛、酒、肉、婦女、歌舞、はげしい喜怒哀楽。大切なのは道教が教えるいろいろな薬品、食餌による養生である。そうすれば若返り、命を延ばし、また水上を歩み、鬼神を使い、天空にのぼる。命は天地日月のように長い。虚亡隠士がこれだけを説くと、三人は道教が儒教より優れる所以を了解した。

 この場面で、儒教の亀毛先生が加わっていて、なるほどと納得してしまう。このあと、仮名乞児が出てくると、虚亡隠士も乗り越えられてしまうのだが、とりあえず、道教の説くところは儒教のようにこの世の栄達、自分の生命の健康長寿、社会の政治的安定などという世俗的欲望の追求には、本質的に人間の生というものにとっては人工的な空しいものでしかない。まずはそれを離れて、ささやかな、しかし無理のない自然の摂理に従った生活が大事である。ということになるだろう。
 老子、荘子が説いた穏やかで肩の力を抜いた生き方は、孔子のように怪力乱神を否定したくそまじめで道徳本位の生活に対して、漢方薬のようなユルい倫理である。ウェーバー的な視点からすれば、魔術や呪術ツァウバーがそこここに潜り込んでいる世界である。空海はそこまで見切ったところで、仏教の仮名乞児を呼込むのだが、ぼくはもう少し道教、いや思想としての老荘を考えてみたい。
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「荘子」を読んでみる

2013-10-22 21:09:01 | 日記
A.Taoismの源流
 日本の隣国になる朝鮮半島、中国大陸、台湾、越南(ヴェトナム)のどこにも、ぼくは今まで一度も行ったことがない。外国といっても、今はその気になれば飛行機に乗ればすぐ行かれるし、国交のない北朝鮮以外は日本のパスポートで問題なく旅行できる。韓国など距離的には沖縄に行くより近い。それでも行かなかったのは、たんに機会がなかったこともあるが、この地域をかつて日本が植民地統治をしたり、軍隊を送って戦争をしたという事実が、ぼくの中で心理的に渡航をためらわせるものがあったことは確かだ。自分は戦争の時代には生まれていなかったし、戦争の責任を問われても答えようもない気がしてはいたが、ただ気楽に観光旅行をするのがどうもすっきりしなかった。
 そんなこと今さら気にすることないじゃん、と言うかもしれない。あるいは、それならなおさら現地に行って直接感じて考えてみるのも意味がある、と言われるかもしれない。実際、ぼくは今まで東南アジアやインドやトルコや、北米、南米とあちこち歩き回ったし、ヨーロッパには住んでもいた。その土地をちょっと訪れたくらいで、そんなに何かが解るわけでもないということも知っている。でも、東アジアには距離を感じていた。これはマズいかもしれない。

 古代インドに由来する仏教と、古代中国文明から発する儒教は、日本に伝わって日本の文化や歴史に少なからぬ影響を与えてきた。このブログでも、いくつかの文献を手がかりに儒教と仏教については考えてきた。日本人の思想にも儒教と仏教は、深く喰いこんでいる。でも、アジアの3大宗教ともいわれる道教については、ほとんど無知である。イスラーム教が、日本では宗教としてほとんど無縁であるように、道教もぼくたちの意識に登ることはまずない。でも、それはイスラーム教のように思想的・社会的にまったくルーツを異にするものなのだろうか?ということで、ちょっと道教を齧ってみようと思う。まずは、手始めに道教が経典として尊重する「老子」「荘子」、とくに『荘子』を読んでみることにする。
 ただし、道教taoismでは老子を道徳天尊として「観」(道観)という施設に祀るが、歴史的に老子や荘子が、イエスやムハンマドのように教祖とか始祖とかいう存在ではないということに注意が要る。つまり、老荘の弟子たちがその教えをもとに道教の教団が成立したわけではなく、老子、荘子と道教との間に直接のつながりはない。古代中国の春秋戦国時代に輩出した諸子百家の中で、老荘のことは道家と呼ばれるが、その教えは道家思想であり宗教としての道教とはいわない。儒家の教えを儒教というから、道家の教えが道教だと考えるのは誤りだという。この点を混同してはいけない。
 道教は書かれた文書としての『老子』『荘子』を教典とし、老子を拝むのだが、思想家老荘の系譜として成立したわけではない。道教は、老荘の思想にさまざまな民間信仰が融合して形成されたものであり、それゆえに広く大衆が信仰する宗教として今も存在する。



B.とりあえず『荘子』を読んでみた。
 「聖書」や「コーラン」あるいは仏典や「論語」などと比べて、『荘子』はひどく格調が高くない。神や仏の教えを説くもの、というよりはほとんど冗談のような、諧謔に満ちたパロディに溢れ、気まじめで真剣な言説に対して、おちょくっている。そういう意味でひどく愉快な思想である。たとえば次のような文章。

 孔子適楚。楚狂接輿遊其門曰。「鳳兮鳳兮。何如之衰也。來世不可待。往世不可追也。天下有道。聖人成焉。方今之時。僅免刑焉。福輕乎。莫之知載。禍重乎地。莫之知避。已乎已乎。
臨人以。殆乎。殆乎。畫地而趨。迷陽。迷陽。無傷吾行。山木自寇也。膏火自煎也。桂可食。故伐之。漆可用。故割之。人皆知有用之用。而莫知無用之用也。『荘子』人間世篇第四、八。
【現代語訳】
 孔子が楚の国に行ったとき、楚の狂接輿が孔子の門のあたりをうろつきながら歌った。
「鳳凰よ鳳凰よ、何たる徳の衰えか
 未来はあてにならないし、過去は取りもどせない
 天下に道のある世なら、聖人はなすべきことをなす
 天下に道のない世では、聖人はその命を全うする
 今のようなご時世じゃあ、刑を逃れるのが関の山
 幸せは鳥の羽より軽いのに、誰も拾おうとしない
 災いは大地より重いのに、誰も避けようとしない
 よしなよ、よしなよ、人に徳を押しつけるのは
 あぶない、あぶない、大地を仕切って走るのは
 バカになれ、バカになれ、わが歩みこそ大切に
 引っこめ、遠回りせよ、わが足にけがするな
 山の木は我とわが身を損ない、灯火は我とわが身を焼きつくす。肉桂はなまじ食用になればこそ伐られ、漆はなまじ有用なればこそ割かれる。人はみな有用の用を知るが、無用の用を知るものはない」。

 注:狂接輿は逍遥遊篇三に見える楚の隠者。「狂」は、世間一般の常識的な生き方をことさら拒否した生きざまをいう。この一段は、次の『論語』微子篇の話のパロディになっている。「楚の狂接輿 歌いて孔子を過ぎて曰く、「鳳よ鳳よ、何ぞ徳の衰えたる。往く者は諫む可からず、来たる者は猶お追う可し。已みなん已みなん、今の政に従う者は殆うきのみ」と。孔子下りて之と言わんと欲す。趨りて之を辟く。之と言うを得ず」。福永光司・興膳宏訳『荘子 内篇』、ちくま学芸文庫、2013、pp.158-160.

 『荘子』には、孔子や顔回といった儒教の重要人物が登場する。時代的に孔子よりも後なので、広く知られた聖人とその伝説を縦横無尽に取りこんで、片っ端から彼らを皮肉と笑いでひっくり返していく。ほとんどタモリみたいである。一見ふまじめなのだが、その言説の根柢には戦国時代の過酷な現実を、包みこんで人間というものを冷静に、しかも大局的に見る視線がある。

 「『荘子』の著者、すなわち荘子(子は尊称)は名を周といった。荘周の年代については詳細を明らかにすることはできない。現在伝えられている最も古い荘周の伝記は、「西暦前一世紀、漢代に書かれた司馬遷の『史記』であるが、『史記』の荘周列伝には、ただ「梁の恵王(前370~319在位)、斉の宣王(前319~301在位)と同時」つまり西暦四世紀の中ごろの人とだけしか記録していない(前384~322を生きたギリシアのアリストテレスとほぼ同時)。(中略)
 要するに荘周は西暦前370年ごろ~300年ごろの約七、八十年の生涯をこの世で過したことになる。ちなみに、荘子の没年を西暦前300年ごろとすれば、同じ時期を諸国の遊説に活躍していた孟子との関係が一おう問題となるが、両者の交渉に関しては『孟子』のなかにも、『荘子』のなかにも、一言も触れられていない(先秦の文献にも全くその記事が見えていない)。その理由に関しても、学者はいろいろと憶測を逞しくしているが、おそらく当時の孟子にとって、荘子の存在はそれほど警戒すべき思想的敵性をもつものでなく、荘子にとっても孟子の存在は孔子ほど大きな関心の対象ではなかったのであろう。
 ところで、荘子の生きた西暦前四世紀の中国とはいかなる時代か。それは古代中国の歴史において、戦国時代とよばれる、闘争と殺戮の血なまぐさい時代であった。戦国時代の歴史が七つの大国、すなわち「秦」(今の陝西・甘粛の地方を根拠地とした西方の大国。戦国時代の末期に始皇帝が天下を統一して新しい王朝を建てた)、「斉」(今の山東地方を根拠地とし、かつて春秋時代には覇者桓公を出した東方の大国。戦国時代の初め―前386年―家老の田和が国を奪って君主となった)、「燕」(今の河北に拠った北方の大国。戦国時代の中ごろ、宰相の子之が君主を脅迫して国を譲らせるという事件があった)、「楚」(今の湖北・安徽・河南の一部に拠った南方の大国。「離騒」の詩で有名な屈原―前299年自殺―の祖国)、「韓」「魏」「趙」(今の山西を根拠地として河南河北の一部を領有し、かつて春秋時代には文公という覇者を出した大国晋を、西暦前403年、三人の家老が簒奪してそれぞれ建てた国。史家はこの簒奪の年を以て戦国時代の始めとする)を中心として展開するが、これらの大国にとって最大の関心は、「国を富ます」ことであり、「兵を強くする」ことであり、そのための狡知であった。内においては絶え間なき苛斂誅求が、外においては不断の戦争侵略が、人間の生活を闘争と殺戮のなかで凌辱し、飢餓と流亡の中で翻弄した。“今の世は殊死の者(刑死者)枕を並べ、桁楊の者(罪人)道路にひしめき”、“殺され死せし者は沢を以て量る”と懼れさせ、“人間が生きるとは、憂しむことだ”(いずれも『荘子』のなかに見える言葉)と嘆かせた不安と絶望の社会が、戦国時代なのである。荘子が生きたのは、このような不安と絶望にみたされた時代であった。彼の哲学は、このような不安と絶望の超克として始まるのである。」福永光司・興膳宏訳『荘子 内篇』解説、ちくま学芸文庫、pp.286-289.

 殺戮と飢餓の中で生きる他ない世界で、人はいかに人間的でありうるか。儒教が高い理想と現実への政治的関与を志すのに対して、そんなことをしても「富国強兵」を追求することに夢中になっている権力者の餌食になるだけだ、と強烈なアンチをかます。ほとんど痛快である。
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