A.ちょうちょになった夢か、ちょうちょがぼくになった夢か
あれは何年前のことだったか。九州最南端の佐多岬に友人と二人で行った時、灯台に歩いてゆく途中でとても美しい色をした蝶を見た。鮮やかな青と黒い羽をした蝶が、夏の強い光の中でひらひらと飛んでいた。見とれているうちに、あれは誰かが蝶に姿を変えているのかもしれないと思った。それから数年後、友人は50代の終わりに、短い闘病生活の果てに癌で亡くなってしまった。その後で、今度は沖縄の宮古島にひとりで行ったとき、同じ友人と二人でこれも以前、宮古島に来たことを思い出していると、海を眺める高台に一羽の蝶が飛んでいた。佐多岬の蝶とは違った色だったが、やはり美しい色をしていた。
ぼくは佐多岬の記憶が蘇って、彼が蝶になって飛んでいるような気がした。蝶は夢を誘う不思議な動物である。人も蝶も短い生の中で、ある時ある場所を儚く生きているのだが、人間が俗なる世界のあれこれを思い煩って、つかのまの夢の中だけ自由になっているのにたいして、蝶はまるで地面を這う虫だった時代を脱ぎ棄て、羽を広げた瞬間から夢をそのまま生きて飛翔しているように見える。そのまま自由に飛んで、しかし短い生涯を終える。
昔読んだ書物によれば、「物象化」Materialisierungはマルクス主義の哲学用語で、人間同士の関係、人が人に対していかなる立ち位置に立つか、つまり権力という磁場での人と人の関係が、まるで外界に実在する物と物の関係のように現象している、あるいはそのように人々に意識されていることを指す。「資本論」的視界のなかでは、労働という行為の成果が商品となり貨幣となることで「物象化」が完成する。「疎外」Entfremdungも、「経哲草稿」的視界のなかでは、この世に生きている人の心と行為が、蛹が孵化するように羽根を得て、物に転化する。しかし、物になった途端、それは自分自身を拘束し自由を奪う。
しかし、『荘子』に出てくる「物化」は、そういう意味ではない。荘子は、すべては移ろい変わっていく儚いものだということを「物化」と呼んでいる。たとえば次の文は「胡蝶の夢」として知られる『荘子』中の有名な箇所である。荘子は蝶になって飛ぶ夢を見る。
「【原文】昔者莊周夢爲胡蝶。栩栩然胡蝶也。自喩適志與。不知周也。俄然覺則蘧蘧然周也。不知周之夢爲胡蝶與。胡蝶之夢爲周與。周與胡蝶則必有分矣。此之謂物化。
【読み】昔者(むかし)莊周夢に胡蝶と為る、栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。自ら喩(たの)しみて志に適(かな)えるかな。周たるを知らざるなり。俄然として覚むれば、即ちる蘧蘧然(きょきょぜん)として周なり。周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを知らず。周と胡蝶とは則ち必ず分有り。此を之れ物化と謂う。
【現代語訳】 いつか、荘周は夢の中でチョウになっていた。ひらひらと舞うチョウの身に、気持よく満足しきって、自分が荘周であることも忘れていた。やがてふと目が覚めれば、まぎれもない荘周である。はて、これは荘周が夢でチョウになっていたのか。それともチョウが夢で荘周になっていたのか。荘周とチョウには、きっと区別があるはずだ。これこそ「物化」(万物の変化)というものなのだ。」福永光司/興膳宏訳『荘子 内篇』斉物論篇第二、ちくま学芸文庫、2013。Pp.91-92.
B.老子と荘子の違いは?
「道家」呼ばれた老荘思想は、のちに中国の民間信仰に取り込まれて「道教」という一大宗教になる。しかし、それは老子や荘子のあずかり知らぬことである。ともかく、とりあえずぼくが知りたいのは、老子と荘子の違いは何か?ということである。福永光司(1918-2001)という学者は、老荘思想・道教研究という分野で画期的な研究者であったというが、その『荘子 内篇』解説を読んでみた。福永先生は、5つの相違点をあげている。
「荘子はしばしば老子と結びつけられて“老荘”とよばれる。司馬遷も、荘子の思想を系譜づけて、「其の要は老子の言に本づけ帰す」――その本質は要するに老子の思想に帰着すると評している(荘周列伝)。そしてこの司馬遷の見解を私もまた肯定する。しかし、ここで注意されなければならないのは、荘子の思想が、その成立の歴史的基盤と、その思想的立場とにおいて、一般的には老子と同じ系列に属しながら、しかも、そのいくつかの重要な点で老子と異なっているということであろう。荘子と老子の思想的な相違については、本文のなかでも二、三触れているが、私はこれを次のような五つの点で考えることができるのではないかと思う。
その第一は、老子の思想の根柢が、「清虚もて自ら守り、卑弱もて自ら持す」(『漢書』芸文志)というように、“世に処し身を保つ”ことにおかれながらも、なお政治への強い関心がもたれ、支配への積極的な意欲が感ぜられるのに対して、荘子にはそれがほとんど認められないか、もしくは、極めてネガティブにしか説かれていないということである。老子にしばしば見られる「民」「百姓」「国」「天下」「王」「万乗之王」などの言葉が、荘子では、「予は天下を用て為す所無し」(逍遥遊篇二、20頁)という言葉で無造作に否定し去られている。したがって、老子において政治的理想人格として用いられた聖人の概念が、荘子では、「至人」「神人」「真人」というような主体的性格をもつ概念におきかえられている。
その第二は、両者における「道」の概念の内容の転化が指摘される。老子では「物有り混成し、天地に先立ちて生ず。・・・以て天下の母と為す可し。・・・之に字して道と日う」(第25章)というように、天地万物の根源としての静的な、また本体論的な実在として考えられていた道が、荘子では、「天地に先立ちて生ずる者有り、物ならんや。物を物とする者は物に非ず」(外篇知北遊篇10)といい、一虚一満、其の形に位まらず。・・・消息盈虚して、終われば則ち有た始まる。・・・動くとして変ぜざるは無く、時として移らざるは無し」(外篇秋水篇1)というように、刻々流転してやまぬ変化そのものが道と考えられている。したがって老子では、「其の根に帰る」(第16章)とか、「嬰児に復帰す」(第28章)、「樸に復帰す」(同上)とか、「古の道を執りて以て今の有を御む」(第14章)とかいいように、太古樸素の道に復帰することが強調されるのに対して、荘子では、「物に乗じて心を遊ばしむ」(人間世篇2、131頁)とか、「時に安んじて順に処る」(養生主篇5、105頁)とか、「将らざる無きなり、迎えざる無きなり」(大宗師篇4、216頁)とかいうように、道とともに往き変化に乗って遊ぶことが強調される。
その第三は、その第二と関連して、両者の間に歴史観の相違が見られることである。老子においては、復帰すべきものとして「古の道」(第14章)が強調され、いわば後ろむきの歴史観が説かれているのに対して、荘子においては、「時に安んず」(養生主篇5、105頁)といい、「物と春を為す」(徳充符篇4、180頁)といい、「時を心に生ず」(同上)というように、与えられた「今」を問題とし、現在をいかに生きるかという現実との対決、いわば前向きの歴史観が説かれている。
その第四は、両者における「無為」の概念の内容の転化である。老子では、「得難きの貨を貴ばず」(第3章)とか、「腹の為にし、目の為にせず」(第12章)とか、「民に利器多くして、国家滋ます昏し。人に技巧多くして、奇物滋ます起こり、法令滋ます彰らかにして、盗賊多く有り」(第57章)とかいうように、外を対象として説かれた無為が、荘子では「物に乗じて心を遊ばしむ」(人間世篇2、131頁)とか、「生を忘れる」(大宗師篇6、230頁)、「己を忘れる」(外篇天地篇9)とかいうように、内なる心に転ぜられて、無心の意味に発展してゆく。
したがってまた、これと関連して、「足るを知れば辱められず」(第44章)とか、「止まるを知れば殆うからず」(第32、44章)とか、「身の殃を遺す無し」(第52章)とかいうような老子の即自的な保身への関心が、荘子では、「至人は己れ無し」(逍遥遊篇1、10頁)といい、「事の情を行いて其の身を忘る」(人間世篇2、130頁)といい、「相い忘るるに生を以てし、終窮する所無し」(大宗師篇6、230頁)というような忘生または捨身における高次の全真として説かれている。
その第五は、しばしば指摘されるように、荘子の思想に著しく認識論的な反省の加えられていることである。例えば、「道は一を生じ、一は二を生じ、三は万物を生ず」(第42章)というように、単に流出論的に説かれた老子の宇宙生成論が、荘子では、「天地も我と並び生じて、万物も我と一為り。既に已に一為り。且れ言有るを得んや。既に已に之を一と謂う。且れ言無きを得んや。一と言と二と為り、二と一と三と為る」(斉物論篇4,65頁)というような精緻な認識論に組織しなおされている。したがって、認識論的な反省において吟味を加えられた「言」や「知」への反省、換言すれば、認識そのものの価値に対する反省は、荘子においては、必然的に「道」と「言」、「体験」と「認識」の対立矛盾への反省となり、道が体験の意味をもってくるとともに、体験を重んじて認識を斥けようとする傾向をおびてくる。そして、ここに我々は、中国的解脱の最も高き実践としての「禅」と「荘子の思想」との極めて緊密な精神史的つながりを見出すことができるであろう。」福永光司/興膳宏訳『荘子 内篇』、福永の「内篇解説」から、ちくま学芸文庫、pp.293-296.
古代中国思想は、みな今に残る漢字で書かれたテキストが原典であるから、福永先生はオリジナルな『老子』『荘子』から厳密なテキストクリティ-クにもとづいて、老子と荘子の明確な相違点をあげている。少々しつこいほどの記述だが、なるほどよくわかる。
「要するに、荘子と老子は、春秋戦国のほぼ同じ時代(その差は約百年ぐらいか)と、宋文化圏のほぼ同じ地域(老子の生地は今の河南省帰徳府鹿邑県の東で、荘子の生地である商邱県の附近を距たること約六十キロメートルと伝えられる)とを背景として、同じような思想的基盤の上に立つものではあるが、両者の思想としての性格には、必ずしも同じくないものがあり、老子の思想がより多く処世の智恵であるのに対して、荘子の思想はより多く現世的な生を問題としているということができよう。老子があるいは黄帝と結びつけられ、あるいは彼自身偶像化されて、卑俗な民間宗教の対象となり得る性格を多分にもつのに対して、荘子には世俗の偶像化を寄せつけぬ思想としての厳しさと奔放さがあるように思われるのである。」福永光司/興膳宏訳『荘子 内篇』、福永の「内篇解説」から、ちくま学芸文庫、p.297.
孔子の故郷は今の山東(シャントン)省曲阜、老子は河南(ホーナン)省鹿邑、荘子も河南省商邱で、地理的にはどちらも中国大陸の中央、いわゆる「中原」の広大な平原だが、黄河の南でも孔子は少し山の見える北側、老子や荘子はもっと南西の土地である。老子は洛陽に出て教えを語り、荘子は故郷の近くで長く過ごした(らしい)と伝わるが、確かなことはわからない。思想と土地風土の繋がりがどの程度のものか、何とも言えないが、海は遠く山岳地帯も遠く、河南は長城を超えて攻めてくる北方の異民族からも遠い、気候風土は暑くもなく寒くもなく穏やかな土地のようだ。しかしどこまでも広がる平らな場所だから、古代以来多くの国家が興亡を続け戦乱も絶えなかった。
「道tao」という言葉は、その後の中国で、さまざまに変奏されながら、ある意味では老子の中にあったいかがわしく呪術的な世界を展開し、ある意味では荘子の中にあった儒教的国家官僚的知に対して開放的で自由な思想の飛翔を可能にした、と言えるのかもしれない。
あれは何年前のことだったか。九州最南端の佐多岬に友人と二人で行った時、灯台に歩いてゆく途中でとても美しい色をした蝶を見た。鮮やかな青と黒い羽をした蝶が、夏の強い光の中でひらひらと飛んでいた。見とれているうちに、あれは誰かが蝶に姿を変えているのかもしれないと思った。それから数年後、友人は50代の終わりに、短い闘病生活の果てに癌で亡くなってしまった。その後で、今度は沖縄の宮古島にひとりで行ったとき、同じ友人と二人でこれも以前、宮古島に来たことを思い出していると、海を眺める高台に一羽の蝶が飛んでいた。佐多岬の蝶とは違った色だったが、やはり美しい色をしていた。
ぼくは佐多岬の記憶が蘇って、彼が蝶になって飛んでいるような気がした。蝶は夢を誘う不思議な動物である。人も蝶も短い生の中で、ある時ある場所を儚く生きているのだが、人間が俗なる世界のあれこれを思い煩って、つかのまの夢の中だけ自由になっているのにたいして、蝶はまるで地面を這う虫だった時代を脱ぎ棄て、羽を広げた瞬間から夢をそのまま生きて飛翔しているように見える。そのまま自由に飛んで、しかし短い生涯を終える。
昔読んだ書物によれば、「物象化」Materialisierungはマルクス主義の哲学用語で、人間同士の関係、人が人に対していかなる立ち位置に立つか、つまり権力という磁場での人と人の関係が、まるで外界に実在する物と物の関係のように現象している、あるいはそのように人々に意識されていることを指す。「資本論」的視界のなかでは、労働という行為の成果が商品となり貨幣となることで「物象化」が完成する。「疎外」Entfremdungも、「経哲草稿」的視界のなかでは、この世に生きている人の心と行為が、蛹が孵化するように羽根を得て、物に転化する。しかし、物になった途端、それは自分自身を拘束し自由を奪う。
しかし、『荘子』に出てくる「物化」は、そういう意味ではない。荘子は、すべては移ろい変わっていく儚いものだということを「物化」と呼んでいる。たとえば次の文は「胡蝶の夢」として知られる『荘子』中の有名な箇所である。荘子は蝶になって飛ぶ夢を見る。
「【原文】昔者莊周夢爲胡蝶。栩栩然胡蝶也。自喩適志與。不知周也。俄然覺則蘧蘧然周也。不知周之夢爲胡蝶與。胡蝶之夢爲周與。周與胡蝶則必有分矣。此之謂物化。
【読み】昔者(むかし)莊周夢に胡蝶と為る、栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。自ら喩(たの)しみて志に適(かな)えるかな。周たるを知らざるなり。俄然として覚むれば、即ちる蘧蘧然(きょきょぜん)として周なり。周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを知らず。周と胡蝶とは則ち必ず分有り。此を之れ物化と謂う。
【現代語訳】 いつか、荘周は夢の中でチョウになっていた。ひらひらと舞うチョウの身に、気持よく満足しきって、自分が荘周であることも忘れていた。やがてふと目が覚めれば、まぎれもない荘周である。はて、これは荘周が夢でチョウになっていたのか。それともチョウが夢で荘周になっていたのか。荘周とチョウには、きっと区別があるはずだ。これこそ「物化」(万物の変化)というものなのだ。」福永光司/興膳宏訳『荘子 内篇』斉物論篇第二、ちくま学芸文庫、2013。Pp.91-92.
B.老子と荘子の違いは?
「道家」呼ばれた老荘思想は、のちに中国の民間信仰に取り込まれて「道教」という一大宗教になる。しかし、それは老子や荘子のあずかり知らぬことである。ともかく、とりあえずぼくが知りたいのは、老子と荘子の違いは何か?ということである。福永光司(1918-2001)という学者は、老荘思想・道教研究という分野で画期的な研究者であったというが、その『荘子 内篇』解説を読んでみた。福永先生は、5つの相違点をあげている。
「荘子はしばしば老子と結びつけられて“老荘”とよばれる。司馬遷も、荘子の思想を系譜づけて、「其の要は老子の言に本づけ帰す」――その本質は要するに老子の思想に帰着すると評している(荘周列伝)。そしてこの司馬遷の見解を私もまた肯定する。しかし、ここで注意されなければならないのは、荘子の思想が、その成立の歴史的基盤と、その思想的立場とにおいて、一般的には老子と同じ系列に属しながら、しかも、そのいくつかの重要な点で老子と異なっているということであろう。荘子と老子の思想的な相違については、本文のなかでも二、三触れているが、私はこれを次のような五つの点で考えることができるのではないかと思う。
その第一は、老子の思想の根柢が、「清虚もて自ら守り、卑弱もて自ら持す」(『漢書』芸文志)というように、“世に処し身を保つ”ことにおかれながらも、なお政治への強い関心がもたれ、支配への積極的な意欲が感ぜられるのに対して、荘子にはそれがほとんど認められないか、もしくは、極めてネガティブにしか説かれていないということである。老子にしばしば見られる「民」「百姓」「国」「天下」「王」「万乗之王」などの言葉が、荘子では、「予は天下を用て為す所無し」(逍遥遊篇二、20頁)という言葉で無造作に否定し去られている。したがって、老子において政治的理想人格として用いられた聖人の概念が、荘子では、「至人」「神人」「真人」というような主体的性格をもつ概念におきかえられている。
その第二は、両者における「道」の概念の内容の転化が指摘される。老子では「物有り混成し、天地に先立ちて生ず。・・・以て天下の母と為す可し。・・・之に字して道と日う」(第25章)というように、天地万物の根源としての静的な、また本体論的な実在として考えられていた道が、荘子では、「天地に先立ちて生ずる者有り、物ならんや。物を物とする者は物に非ず」(外篇知北遊篇10)といい、一虚一満、其の形に位まらず。・・・消息盈虚して、終われば則ち有た始まる。・・・動くとして変ぜざるは無く、時として移らざるは無し」(外篇秋水篇1)というように、刻々流転してやまぬ変化そのものが道と考えられている。したがって老子では、「其の根に帰る」(第16章)とか、「嬰児に復帰す」(第28章)、「樸に復帰す」(同上)とか、「古の道を執りて以て今の有を御む」(第14章)とかいいように、太古樸素の道に復帰することが強調されるのに対して、荘子では、「物に乗じて心を遊ばしむ」(人間世篇2、131頁)とか、「時に安んじて順に処る」(養生主篇5、105頁)とか、「将らざる無きなり、迎えざる無きなり」(大宗師篇4、216頁)とかいうように、道とともに往き変化に乗って遊ぶことが強調される。
その第三は、その第二と関連して、両者の間に歴史観の相違が見られることである。老子においては、復帰すべきものとして「古の道」(第14章)が強調され、いわば後ろむきの歴史観が説かれているのに対して、荘子においては、「時に安んず」(養生主篇5、105頁)といい、「物と春を為す」(徳充符篇4、180頁)といい、「時を心に生ず」(同上)というように、与えられた「今」を問題とし、現在をいかに生きるかという現実との対決、いわば前向きの歴史観が説かれている。
その第四は、両者における「無為」の概念の内容の転化である。老子では、「得難きの貨を貴ばず」(第3章)とか、「腹の為にし、目の為にせず」(第12章)とか、「民に利器多くして、国家滋ます昏し。人に技巧多くして、奇物滋ます起こり、法令滋ます彰らかにして、盗賊多く有り」(第57章)とかいうように、外を対象として説かれた無為が、荘子では「物に乗じて心を遊ばしむ」(人間世篇2、131頁)とか、「生を忘れる」(大宗師篇6、230頁)、「己を忘れる」(外篇天地篇9)とかいうように、内なる心に転ぜられて、無心の意味に発展してゆく。
したがってまた、これと関連して、「足るを知れば辱められず」(第44章)とか、「止まるを知れば殆うからず」(第32、44章)とか、「身の殃を遺す無し」(第52章)とかいうような老子の即自的な保身への関心が、荘子では、「至人は己れ無し」(逍遥遊篇1、10頁)といい、「事の情を行いて其の身を忘る」(人間世篇2、130頁)といい、「相い忘るるに生を以てし、終窮する所無し」(大宗師篇6、230頁)というような忘生または捨身における高次の全真として説かれている。
その第五は、しばしば指摘されるように、荘子の思想に著しく認識論的な反省の加えられていることである。例えば、「道は一を生じ、一は二を生じ、三は万物を生ず」(第42章)というように、単に流出論的に説かれた老子の宇宙生成論が、荘子では、「天地も我と並び生じて、万物も我と一為り。既に已に一為り。且れ言有るを得んや。既に已に之を一と謂う。且れ言無きを得んや。一と言と二と為り、二と一と三と為る」(斉物論篇4,65頁)というような精緻な認識論に組織しなおされている。したがって、認識論的な反省において吟味を加えられた「言」や「知」への反省、換言すれば、認識そのものの価値に対する反省は、荘子においては、必然的に「道」と「言」、「体験」と「認識」の対立矛盾への反省となり、道が体験の意味をもってくるとともに、体験を重んじて認識を斥けようとする傾向をおびてくる。そして、ここに我々は、中国的解脱の最も高き実践としての「禅」と「荘子の思想」との極めて緊密な精神史的つながりを見出すことができるであろう。」福永光司/興膳宏訳『荘子 内篇』、福永の「内篇解説」から、ちくま学芸文庫、pp.293-296.
古代中国思想は、みな今に残る漢字で書かれたテキストが原典であるから、福永先生はオリジナルな『老子』『荘子』から厳密なテキストクリティ-クにもとづいて、老子と荘子の明確な相違点をあげている。少々しつこいほどの記述だが、なるほどよくわかる。
「要するに、荘子と老子は、春秋戦国のほぼ同じ時代(その差は約百年ぐらいか)と、宋文化圏のほぼ同じ地域(老子の生地は今の河南省帰徳府鹿邑県の東で、荘子の生地である商邱県の附近を距たること約六十キロメートルと伝えられる)とを背景として、同じような思想的基盤の上に立つものではあるが、両者の思想としての性格には、必ずしも同じくないものがあり、老子の思想がより多く処世の智恵であるのに対して、荘子の思想はより多く現世的な生を問題としているということができよう。老子があるいは黄帝と結びつけられ、あるいは彼自身偶像化されて、卑俗な民間宗教の対象となり得る性格を多分にもつのに対して、荘子には世俗の偶像化を寄せつけぬ思想としての厳しさと奔放さがあるように思われるのである。」福永光司/興膳宏訳『荘子 内篇』、福永の「内篇解説」から、ちくま学芸文庫、p.297.
孔子の故郷は今の山東(シャントン)省曲阜、老子は河南(ホーナン)省鹿邑、荘子も河南省商邱で、地理的にはどちらも中国大陸の中央、いわゆる「中原」の広大な平原だが、黄河の南でも孔子は少し山の見える北側、老子や荘子はもっと南西の土地である。老子は洛陽に出て教えを語り、荘子は故郷の近くで長く過ごした(らしい)と伝わるが、確かなことはわからない。思想と土地風土の繋がりがどの程度のものか、何とも言えないが、海は遠く山岳地帯も遠く、河南は長城を超えて攻めてくる北方の異民族からも遠い、気候風土は暑くもなく寒くもなく穏やかな土地のようだ。しかしどこまでも広がる平らな場所だから、古代以来多くの国家が興亡を続け戦乱も絶えなかった。
「道tao」という言葉は、その後の中国で、さまざまに変奏されながら、ある意味では老子の中にあったいかがわしく呪術的な世界を展開し、ある意味では荘子の中にあった儒教的国家官僚的知に対して開放的で自由な思想の飛翔を可能にした、と言えるのかもしれない。