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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

い~かげん 選挙 やめてくれ! ・・Scheonberg

2016-10-30 22:17:51 | 日記
A.つかれた選挙
 今年は春から選挙が続いた。参議院選挙、都知事選挙、それに先頃の衆議院補選。どれも投票したけれど、ぼくの投じた候補はみな落選した。せっかく一票を投じても落選しては無駄な死に票だから、気分もよくないし選挙なんて行く価値はないと考えるなら、それは選挙というものの意味を理解していないことになる。教科書的に言えば、意見や政策の違う複数の候補者がいて、競い合って有権者の支持を求め、その結果が示す分布がその時点での「民意」だとわかることが重要であり、当選した人物はその「民意」を体現して政治権力執行権を与えられる、ということになる。
 ということに、なったわけだが、どうにもすっきりしない。ぼくの一票が死に票になったことがすっきりしない、のではなく、投票率35%という選挙では選挙自体の正当性が怪しくなるからだ。当選した候補者は75,755票、次点で落選の候補者は47,141票、第3位の幸福の科学の候補者は2,824票だった。つまり有効票総数は125,720票(これが全有権者中34.85%)とすれば、当選候補の獲得票率は過半数を越える有効票の60.25%だが、全有権者36万人のわずか20%(20.99%)でしかない。有権者の5人に1人しか支持する票をもらっていなくても、次点を上回っていれば国会議員になれる。投票率が下がれば下がるほど勝者に有利に働いたとすれば、それは小池百合子人気の影響だというよりも、有権者の3分の2が選挙に行くつもりがないという判断をしたということが二重に危機的だ。つまり、人々は選挙に関心がないという危機と、選挙に行かなくても何も問題はないと思っていることの危機。
 なのに、また年内に衆院選をやる、かもしれないという。い~かげんにしてくれ!

「民意と政党 つなぐ回路を:世論調査部長 前田直人
 「真の勝者」と呼べる政党はどこか。それが、どうにも判じがたい。今月終った三つの注目選挙のことだ。
 新潟県知事選は野党系が制し、衆院東京10区と福岡6区の補欠選挙は与党系の2勝。しかし、その内実は自民も民進も組織にゴタゴタを抱え、矛盾を取り繕いながら「勝ち馬」を求める姿がきわだつ戦いぶりだった。
 「日本国中で自民党が支持されているかどうかは、慎重に検討して対応すべきで……」。自民の二階俊博幹事長によるそんな控えめな言葉がストンと胸に落ちる。
 政党の地力はどうだったか。朝日新聞が選挙情勢調査にあわせて行った世論調査から、3地域の主な政党支持率をピックアップしてみた。
 新潟県   自民32%▽公明1%▽民進7%▽共産2%
 東京10区 自民33%▽公明2%▽民進12%▽共産6%
 福岡6区  自民37%▽公明2%▽民進9%▽共産2%
 自民が第一党だが、どこも3割台で3人に1人くらい。最大勢力は無党派層で、新潟が54%、東京10区が44%、福岡6区が48%だった。
 鮮烈だったのは、原発再稼働が争点になった新潟県知事選だ。自主投票の民進を除く野党3党が担いだ再稼働慎重派の新顔が無党派層を味方につけ、自公推薦候補に土をつける「大金星」をあげた。
 旧来型の組織戦は形なしだった。民進の支持団体の連合新潟は自公推薦候補を支持したが、民進支持層の大半が野党系へ。あてが外れた自民関係者からは「連合とは何なんだ」とのぼやきを聞いた。
 鳩山邦夫元総務省の死去に伴う福岡6区補選では、自民は無所属新顔2氏の公認争いの決着がつかず、選挙前に公認できずじまい。当選した邦夫氏の次男を後追いで公認したが、自民県連が推した新顔は得票率13%と惨敗した。
 自民公認候補が勝った東京10区は小池百合子・東京都知事の人気頼みだったが、投票率は34.85%と自民支持率と大差ないレベルに低迷した。
 争点が明確だった新潟を除けば、これまでの与党の勝ちパターンと同じ。つまり、手練手管にたけた自民が波風をおさえ、低調な中で2補選をしのいだのが実態である。
 次の衆院選へ態勢固めを急ぐ自民も民進も、進む道を見失ってはいないだろうか。
 自民は、原発再稼働反対という県民世論がもたらした「新潟ショック」に揺れ、衆院選候補者の差し替えまでちらつかせるスパルタ式の組織引き締めに懸命だ。民進は野党共闘を支える市民らとの意思疎通を欠き、自らの「応援団」の間に不信を広げる悪循環の中でおぼれている。
 「市民と政党をつなぐ回路を張り巡らすことが、今後の課題です」。野党共闘を求める市民グループの関係者から、そんな指摘を聞いた。
 与野党や市民の別を問わない重い課題だ。争点化から逃げず、組織の利害とは無縁の民意と政党の間の目詰まりをなくす。その対話の「回路」を築く競い合いにこそ、全力をあげるべきときだろう。」朝日新聞2016年10月30日朝刊、4面総合欄。

 原発再稼働が争点であれば、原発立地県では無党派層が選挙に行って投票率が上がる。特定イシューへの意思を問われていると感じるからだ。しかし、東京10区や福岡6区では、そういう構図がなかった。ほんとうは問うべきイシューがないわけではない。たとえば憲法や消費税や年金・保険制度をどうするか、選挙で明確な争点になれば、無党派層も投票に行く気になるかもしれない。しかし、オリンピックを安倍晋三首相に任せておけばこの国はなんとかなるだろう、というようなまったく根拠のない希望から、ただの人気投票みたいな選挙に行くのは、まったく無駄で魅力のないものになっているのだ。そこにつけこんで、今のうちに与党の盤石体制を固めるために解散総選挙をやろうというのは、まったく亡国の道だな。



B.音楽の話・どこから始めようか?
 この秋から、ぼくは「アートと社会」をテーマにする講義を始めた。まずは美術編として、絵画を中心に話をしている。そろそろ美術編は一区切りなので、次は音楽編にするつもりだが、どこから話をはじめようか?およそのプランはあるのだが、絵画なら学生に図版を画像で並べて見せることも簡単なので、ルネサンスから19世紀、そして20世紀終了までの現代美術まで、材料には事欠かない。ついでに毎回、スケッチブックとクレヨンを与えて学生に「ぬりえ」をしてもらっている。だが、音楽編では画像だけでは説明にならない。いろんな音楽作品を実際に音で流す必要がある。これも今は、いちいちCDを購入して、手間のかかるサンプリングをしなくても、ある程度は手に入るのだが、現代音楽の特殊な作品とか、民族音楽とか、雅楽・能楽・三味線音楽などは探すのが手間である。しかたないので、ピアノや楽器ももちこんでお粗末ながら自分でやるしかないか。

「ヨーロッパ中世のグレゴリオ聖歌は単旋律で、はっきりとした拍節もなく、和音もありません。この一本線の音楽から複数の線が並行するようになり、和音が生まれたり、対旋律ができたりと複雑化してゆきます。何百年ものうちに音楽の様式は変化します。楽器の数も増えてきます。そのあいだに音楽をめぐる思想もいろいろ出てきました。
 美術史から借りてきた用語で、中世からルネサンス、バロック、ロココ、古典派、ロマン派といった流れが西洋音楽史にはあります。そしてだんだんと音楽は複雑になってきました。それが十九~二十世紀には加速し、二十世紀ともなると新しい技法や方法論を考えて、それを創作に応用すれば「新しい」と考えるかのようなことさえ出てきました。前衛や実験といった語も頻出してきました。
 一オクターヴにある十二の音を平等に扱う(シェーンベルク創始の)十二音技法。音の高さのみを扱った十二音技法に対して、拍や音色といったものまでパラメータ化して組織しようとするセリー音楽。いや、ひとつひとつの音の組み合わせではなく、音それぞれが動くさまを統計学的手法で処理する。あるいは音の重なりをクラスター(音塊)としてとらえる。逆に、音のありようを可能なかぎりコントロールしないようにする偶然性・不確定性。最小限の素材の変化に注目するミニマル・ミュージック。さらに、調律のあり方そのものを問い直してゆくひとたち……。
 音楽を複雑にしてゆくのみではなく、ときには揺り戻しや反動があり、別のかたちで音楽を見直すということも生じてきます。けっして歴史は一本の線のように扱うことはできません。
 ジャズやロックもだんだんと複雑化してゆきました。しかし、これもまた、突然、原理主義のようにシンプルなところに戻ってしまったりします。ディキシーランドとかニューオリンズのジャズから、ビッグバンドのジャズになり、ビバップになる。はるかにハーモニーの構造は複雑になって、それが飽和状態になったあたりでフリー・ジャズが登場、エレクトリック・サウンドが導入され、ある要素は複雑化しながら別の要素はシンプルになったりもします。細かく見ていけばきりがありませんが、複雑化と単純化が入り混じるところが音楽の歴史にはあります。
 古代より音楽は数理的な論理性と情緒性との両方をそなえたものとされてきました。ひとつのメロディーは、聴く人に何らかの感情をもたらしつつ、それぞれの音は周波数をもち、前の音と数理的な関係をもっています。時代によって、あるいは個人によって、音楽の聴き方、音楽についての考え方は数理性/情緒性のどちらに比重があるか変わってきます。そしてそれは当然、音楽をつくるときにも大きくかかわってくるのです。
 シェーンベルク
 ヨーロッパの芸術音楽を大きく変革したひとりの人物として、アルノルト・シェーンベルク(1874~1951)を忘れることはできません。ドレミファで長調と短調という調性によって音楽がつくられるようになったのは十六世紀から十七世紀にかけてでした。現在に至るまで、この調性は多くの音楽の基本になっています。しかし十九世紀の後半になってくると、作曲家たちはさまざまな表現とその複雑化を押し進めるなか、調性はひとつの限界に達したかにみえ始めました。リスト(1811~86)やワーグナー(1813~83)、あるいはドビュッシー(1862~1918)はそれぞれに調整システムに対して新しい解決法を見いだしましたが、シェーンベルクはさらにドラスティックな方法を考え出すことになります。まず、調性をもたない、無調、そして十二音技法です。
 はじめはワーグナーやマーラー(1860~1911)の響きの延長上に、音楽史的には、後期ロマン派風と呼ばれるスタイルで作品を書いていた――その代表例は「浄められた夜」(1899年)であり「グレの歌」(1910~11年)でしょう――シェーンベルクですが、無調作品の『月に憑かれたピエロ』(1912年)などを経て、十二音音楽へと至ります。
 十二音技法とは、一オクターヴにある十二音を平等に扱うというものです。調性だと、中心となる主音があり、二番目に属音があり、というような一種のヒエラルキーがあります。ハ長調ならハ音が中心(ド)で、ト音が属音(ソ)になるというように、です。しかし、こうしたものがなくなっています。それだけではありません。平等にというのが大切で、セリー(音列)というのをあらかじめつくっておき、そこでは十二の音に偏りがないように順番を決め、メロディや和音へとあてはめていきます。そして今度はそのセリーを逆から読んでいったり、上下を逆さにしたりすることで変化をつけてゆくのです。こうすることによって、シェーンベルクはみずからの方法論が、調性にかわるものであり、かなり長いあいだ有効であり、将来は子どもが十二音音楽でうたを歌うようになるだろうと考えていました。
 シェーンベルクはオーストリア、ウィーン生まれのユダヤ系だったため、第二次世界大戦が近づいてくると故郷を離れ、アメリカ合衆国に亡命します。かの地では大学で教えたりしていましたが、弟子のひとりにジョン・ケージがいたことは、二十世紀の音楽の流れをみるうえで、記憶しておくべきことでしょう。」小沼純一「現代の音楽5」(森山直人編『メディア社会における「芸術」の行方』)藝術学舎、2014.pp.56-59.
 
 シェーンベルクも「浄められた夜」などはCDを持っているのだが、無調時代の音楽や十二音の作品はあまり手に入らない。シェーンベルクでもこうなのだから、もっとマイナーな作品は厄介だな、と思ってネットで検索してみたら、おお!少なくとも20世紀の音楽作品の主要なものなら、U-Tubeにたいてい載っている。そうか、時代はずいぶん便利なことになっていた。ダウンロードできるものも多い。ありがたいことだが、さすがにジョン・ケージの例の曲ばかりはない。自分でやるか。
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100年を生きようとは思わないが・・世のうつろいを観てみたいとは思う。

2016-10-29 04:23:24 | 日記
A.貴種の知性
 天皇制というこの国を鳥かごのように覆ってきた想像の共同体システムは、皇族という具体的な人間によって担われなければ機能しない唯物論的根拠がある。昭和天皇という近代日本史の焦点のような存在に対して、その弟という位置にある人が、どういう思想を抱いたかを、その死にあたって確認しておくことは、非常に意味のあることだと思う。三笠宮崇仁という人は、20代の皇族、皇室の藩屏として陸軍軍人となり、中国大陸で軍参謀を務め、あの戦争の現場をこの目で見た人である。戦争が敗北に終わり、兄である昭和天皇がいかにあるべきか、日本という国家がどこに行くべきか冷静に考えることのできた稀有な人物であったように思う。

「戦後皇室の歩み 体現:三笠宮さまをしのぶ 皇室担当特別嘱託 岩井克己
 ぴしっと背筋の伸びた人という形容がふさわしい人だった。
 生前、様々な行事に出席した三笠宮崇仁さまは常に端然と背を伸ばし、いかにも陸軍で鍛え抜かれた剛毅なたたずまいだった。それでいて高圧的なところは全くなく、率直な語り口で「親しみやすいリベラルな大学教授」といった風情。歴史に向き合う真摯な研究生活をうかがわせた。
 皇居へも自ら自動車のハンドルを握って乗り付け、護衛なしで宮内庁での用件や資料調べなどに歩き回った。宮内庁の廊下の曲がり角で鉢合わせしたことも何度かあった。
 大戦中、支那派遣軍参謀として中国に着任すると、陸軍士官学校同期の青年将校が「兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるに限る」と語るのにがくぜんとし、多数の中国人捕虜を毒ガスの生体実験に使う映画も見たという。「皇軍」の軍紀の乱れに対する宮さまの怒りは激しかった。
 軍内で宮さまが将校らに対して行った講話の記録は戦後まで秘されていたが、内容は激烈だ。「反民衆は絶対に不可である」と叫び、中国共産党の八路軍は「対民衆軍紀も極めて厳正であって、日本軍の比ではない」と猛省を促した。
 終戦間際の1945年8月12日、昭和天皇が自ら皇族に戦争終結を説明し協力を求めた皇族会議の席で、宮さまは強く陸軍の反省を要望。その後、阿南惟幾陸軍大臣が宮邸を訪れて天皇に降伏を翻意するよう促してほしいと懇願したが、宮さまは「陸軍は満州事変以来大御心にそわない行動ばかりしてきた」と応じなかったという。
 戦争責任についても、46年2月27日の枢密院本会議で天皇退位の必要を示唆する発言をし、新憲法に関する同年6月8日の本会議でもこう述べた。
「満州事変以来日本の表裏、言行不一致の侵略的行動については全世界の人々を極度に不安ならしめ、かつ全世界の信頼を失っていることは大東亜戦争で日本がまったく孤立したことで明瞭である。従って将来国際関係の仲間入りをするためには、日本は真に平和を愛し絶対に侵略を行わないという表裏一致した誠心のこもった言動をしてもって世界の信頼を回復せねばならない。(略)憲法に明記することは確かにその第一歩である」
 戦争に対する切実な反省は生涯抱き続けていた。
 98年11月26日、来日した中国の江沢民国家主席(当時)を迎えて開かれた宮中晩餐会。天皇陛下から主席を紹介された際、宮さまは「旧陸軍の軍官として南京に駐在し、日本軍の暴行を自分の目で見た。今に至るまで深く気がとがめている。中国の人々に謝罪したい」との趣旨を述べたことが江氏の外遊記録(06年刊)に記されている。
 戦後は東大で学び、歴史研究者の道を選ぶ。戦後改革によって、それまで皇族として祭り上げられていた生活は激変した。通学には満員電車に揺られ、時にはダットサンの自家用小型トラックを自分で運転した。
「さいわいにも終戦後の民主化政策の世の中に東大に籍を置くことができたからこそ、講義のときには前でも後でも自由に好きな席に座れたし、後方のお目付役に後髪をひかれる思いもなく、そして昼休みは薄ぐらい研究室の片隅で、愉快に友だちと語りあいながら塩鮭のはいったアルミの弁当箱をひらく楽しみも味わえた」(著書『帝王と墓と民衆』所収の「わが思い出の記」)と振り返った。
 「(敗戦、戦争裁判という)悲劇のさなかに、かえってわたくしは、それまでの不自然きわまる皇室制度――もしも率直に言わしていただけるなら、『格子なき牢獄』――から解放されたのである」(同書)
 50年代には紀元節復活運動について「歴史研究者として、架空の年代を国の権威をもって国民におしつけるような企てに対しあくまで反対」と表明した。
 「昭和十五年に紀元二千六百年の盛大な祝典を行った日本は、翌年には無謀な太平洋戦争に突入した。すなわち、架空な歴史を信じた人たちは、また勝算なき戦争を始めた人たちでもあったのである」(「紀元節についての私の信念」文芸春秋59年1月号)
 悲惨な戦争を軍人として見聞し、戦後の平和と民主化によって、実は皇室の側も解放されたのだということを体現した、昭和世代の最後の宮さまだった。」朝日新聞2016年10月28日朝刊32面。

 憲法、とくに9条を変えなければいけない、という主張をする人々(たとえば安倍晋三氏、橋下某氏、百田某氏ら)の、一番の論点は、たぶんこういうことだろう。人間が作る国家は、利己的な闘争を必然とする。そこで物事を最終的に解決するのは武力、つまり軍事力・組織された暴力しかない。ところが9条を護持するという連中は、その武力・軍事力をあえて持たず、諸国民の理性を信頼して裸でやっていくというバカげた夢のような理念を唱えている。その結果、日本人は国を守るために命を捨てる覚悟を持たず、ダラけた無責任な妄想に甘える堕落した国家になっている。すべてはアメリカが日本を骨抜き無力化するために押しつけた憲法9条のせいである。今こそここを変えて正気の日本を取り戻す好機である、と。
 あはは、と笑おう!これが大いなる妄想であることを、三笠宮さまは判っていらっしゃる。昭和の大日本帝国がその表むきの正義のもとに、朝鮮、中国大陸、東南アジア、南太平洋で繰り広げた戦争は、利己的で暴力的な侵略戦争であったこと、現地の人々にとって理不尽なものでしかなかったことを、その盟主であった皇族の誰より痛感していたからこそ、この人の戦後の歩みがあった。
 三笠宮さまにとって、若い帝国の臣民や占領国の人々が犠牲になることは人間として辛い痛みでしかない。しかし、帝国の中枢にある権力者たちは、己の利害のために兵士の若者や「土人」である外国人が死ぬことは喜ばしいことでしかない。武力によって権力が維持されると信じる者には、国家のためと死んでくれる人間がどうしても必要なのだ。だから、靖国になんとしても祈るのである。死んだ英霊は、国家や郷土父母のために喜んで死んだ、ということにしたい人々は、自分では絶対に最前線の戦場で死ぬ気はない。まやかしを見抜く人がまた一人消えた。



B.雑音の音楽化
 20世紀の音楽に起ったことは、十二音平均律と調性という近代の厳選された音の秩序を、もう限界と感じたところから、それ以外の音を取り込む実験が始まった。

「楽器による「楽音」や、話すのとは異なった「歌声」によって、音楽は、あまたの音とは区別され、一種の「作品」となっています。でも、楽音や歌声と、それ以外の音とは区別できるのでしょうか?していいのでしょうか?たとえば打楽器はどうでしょう?普通の楽器でも、ヘタに弾けば雑音、ノイズです。打楽器は単体で響かせたら雑音として認識されてもおかしくないかもしれません。逆に、身近なもの、ナイフやフォーク、柱時計の時報など、雑音のようだけれども、音楽のように、音楽として、認識できるものもあるでしょう。
 一九世紀末から都市にはこれまでなかったようなノイズが増えてきました。異なった文化圏から届けられた楽器はこれまで耳にした経験のない、不思議な響きをたてます。こうしたなかで、二十世紀になると、楽音とノイズの区別はだんだんと曖昧になっていきました。そこに「未来派」の誕生です。イタリアの文学者フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ(1876~1944)は一九〇九年、パリの新聞フィガロに「未来派宣言」を発表し旧来の芸術の破壊と、科学技術の発達を芸術に取り入れようとする、一種の芸術運動を起こします。その延長線上で、ルイジ・ルッソロ(1885~1947)は「騒音芸術」を一九一三年に発表します。イントナルモーリ(Intonarumori)というノイズ発生装置を開発し、コンサートを行いました。また、フランスの作曲家、エリック・サティ(1866~1925)は、ジャン・コクトー(1889~1963)、パブロ・ピカソ(1881~1973)と組んだバレエ『パラード』(1917)において、タイプライターやピストル、船の汽笛、鎖の音などをオーケストラのなかに組み込み、楽音とノイズの共存を提示しています。また、イタリアの作曲家、オットリーノ・レスピーギ(1879~1936)はオオーケストラ曲『ローマの松』(1931年)のなかで、はじめて、鳥の声をレコードで響かせることを行なっています。
 打楽器合奏の音楽は世界的にみれば珍しくありませんが、西洋文化圏の芸術音楽でははじめて打楽器アンサンブルのために書かれたとされるエドガー・ヴァレーズの『イオニザシオン』(1931年)が生み出され、打楽器の多彩・多様な使用が頻繁になってきます。
 テルミンなどの電子楽器、ミュージック・コンクレートや電子楽器と、音楽における楽音/ノイズはこうしてつながってくることになります。また、「ノイズ・ミュージック」と称される音楽が登場したり、ただ「ノイズ」と呼ばれるものがあったり、さらにはさまざまな現実音を取り込んで、「楽器音」としてしまう「サンプリング・マシン」「サンプラー」も一九八〇年代には登場し、現在ではすべての音は音楽の素材となりうることがごく普通に受け入れられています。
 十九世紀から二十世紀を経て現在の二十一世紀へと、楽音とノイズの区別がなくなってきます。そうしたなかで、音楽そのものも問われるようになってきたのです。旧来の音楽の概念はもちろん強固ですし、それを否定する必要もないでしょう。しかし、一口に音楽といってもその概念は非常に広くなっていることは認識しておくべきでしょう。単に知識や概念としてではなく、自らの感覚、感性も拡大されていてしかるべきなのです。それでこそ、音楽の未来を思考=志向できるはずです。」小沼純一「現代の音楽1」(森山直人『メディア社会における「芸術」の行方』藝術学舎、2014)pp.18-20.

 打楽器は、音楽にとってはあくまで脇役のように思われてきたが、じつは多様な旋律を奏で和声を生み出す楽器よりも、根源的な音楽をもたらすものだと気がついたのが、20世紀だった。人は、声を出して歌うことと同じ次元で、ものを叩いて音を出す行為をしていたのは疑いようもない。
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スマホとサバ茶漬け・・高度経済成長の前と後を生きる人はまだいるぞ!

2016-10-27 01:18:43 | 日記
A.一身にして三世を生きる・・
 自分が今日、どこを歩いて何時ごろどこに行ったか、明日はまだ覚えているだろうが、明後日になれば自分でも正確には覚えていない。覚えている必要がないから、自分のことでも人は忘れる。ところがスマホを持っているだけで、何時何分にどこにいたかをすべて記録されている!それは「サービス」と呼ばれているわけだが、まったく自動的に入った店の名まで記録されていて、ビッグデータとして蓄積されている。これはもはや当たり前の環境となっている。だって、電車に乗ればみんなスマホを眺めているほど人間に密着しているわけだから。でも、それは自分だけの情報ではなく、誰かがどこかで知ることができるとしたら、プライヴァシーなどないではないか。

「スマホの位置情報サービス:行動筒抜けの不気味さ
 まずアンドロイドスマートフォンを使っている方に。グーグルマップアプリを起動し、左上の三重線で表示されたメニューを開いて、タイムラインという項目をタップしてほしい。ぎょっとしないだろうか。
 これは「グーグルロケーション履歴」といって、ユーザーが移動した場所を克明に記録するサービスだ。記者が仰天したのは今年6月の亡父の納骨の日。千葉の霊園で納骨を澄ませ、近くの店で会食した。その料理店の名まで正確に表示されている。全地球測位システムのほか、各地のWi-Fi基地局名などを基に位置を正確に記録されているのも驚きだ。
 アンドロイドだけではない。iPhoneでは次の操作をしてみよう。設定→プライバシー→位置情報サービス→システムサービス→利用頻度の高い位置情報。
 位置情報サービスをオフにしている場合などを除き、自宅が自動判別され、よく訪れる場所なども記録されているはずだ。
 こうした情報は無意味に記録されているわけではない。例えば職場までの交通混雑状況を教えてくれるし、「あの日行ったお店は?」といった記憶の手助けになる。
 半面、自分の行動が知らぬ間に子細に記録されている点は、えもいわれぬ不気味さがある。iPhoneなどiOS製品では、「利用頻度の高い位置情報」は利用者の端末だけに記録され、アップルには送信されないと明記されている。一方、グーグルは、ロケーション履歴がオンになっている場合、その情報をグーグルが保存していると、これも明記している。
 自分の情報がどう保存されているか、「Google コジンジョウホウトプライバシー設定」で検索し、最初のリンクから確認してみよう。このページの「プライバシー診断」で、提供する情報を設定できる。むろん「ロケーション履歴」も含まれている。
 スマホの時代になって、個人情報はきわめて複雑で巨大なデータとなった。それをどこまでコントロールできるのか、端末やOSメーカーを信じられるのか。困難な問題が生まれている。(丹治吉順)」朝日新聞2016年10月25日朝刊、15面オピニオン欄「ネット点描」

 じつはぼくは、スマホを持っていない。こう誰も彼もスマホなしでは夜も日も明けない時代だというのに、ガラケーを使っている。もはやほんとのガラパゴス島の古代生物である。しかし、それで何か困るかというと別に困っていない。このサイバー空間を疾走するような世界が、もう少しすると予想外の事態、この夏の話題になったポケモンGOはもうただのエピソードになってしまうだろうが、もっと重大な変化が起こるのかもしれない。でも、少なくともスマホを持つのをやめれば問題の場から脱出できる。
 そういうことをちょっと考えていたら、ぜんぜん別の飛びぬけた話題が新聞の片隅に載っていた。

「新米の味・一粒一粒が「食べて」と主張
 日本人がたくさんお米を食べていたころ、新米の炊きたてご飯はとびっきりのごちそうでした。
 炊き上がった新米は、一粒一粒が自己主張していた。子どもの頃の諏訪万里子さん(69)=北九州市=には、米粒が「私も、私も」と言っているように思えた。
 福岡県の「へそ」、頴田村(現飯塚市)の田園で育った。9人きょうだい、11人家族。10月になると家族総出で稲を刈り取った。
 まだ炊飯器が普及していない時代。大きな羽釜で新米を炊く。米がしっとりしているから、水は少なめでいい。いい香りが「プーン」と立ち上がってきたら炊きあがりの合図だ。炊きたての米はつやつやで、薄緑色だった。
 「昔の新米はみんな薄緑色をしていたんです。今みたいに機械で乾燥させず、天日干しだったからでしょうか」
 新米ができたら、まず最初に食べるものがあった。サバ茶漬け。秋のサバは脂がのって特においしい。その時期になると、母がバスで往復2時間かけて、新鮮なサバを買ってきた。
 夏にとれた新ゴマをすり鉢でつぶし、しょうゆを注ぎ、サバの切り身を漬けておく。炊き立てのご飯にサバを数切れ乗せ、畑でとれたばかりのネギを添えたら熱いお茶を注ぐ。最期にしょうゆを数滴垂らしてできあがり。
 「食べると秋が始まるなあ、という気持になりました。料理上手な母は季節の料理をたくさん作ってくれたけど、サバ茶漬けが一番」。結婚してからも、2人の娘に作って食べさせた。(広江俊輔)
 藤巻紘子さん(71)=東京都江戸川区=は田んぼでの馬との“格闘”が忘れられない。終戦の年、宮城県文字村(現栗原市)の農家に次女として生まれた。
 雪解けのころから米作りは始まる。保存しておいたもみを発芽させ、苗を育てる。その間に田んぼに水を引き込み、代かきをする。ここで、子どもと馬の出番だ。
 当時、家には3頭の馬がいた。馬鍬を取り付け、鼻面に竹の棒を結び、泥田を引っ張っていくのは子どもの役目。「一頭はサラブレッド系の背の高い馬。これが気性が荒くて大変だったんです」と紘子さん。おとなしく歩いているかと思うと、突然走り出す。棒を握り続けるのが精いっぱい。田んぼを引きずられ泥だらけになった。「見かねたおじが交代すると、馬はすました顔でゆっくり歩きだすんですよ。子どもだと思って馬鹿にされたんでしょう」
 農家が互いに作業を助け合う「結」という仕組みがあり、田植えのときには30人ぐらいが家の水田に入った。当時は手植え。手伝いの人たちには食事のほか、午前と午後の2回、「小昼」も出した。「おにぎりが1人2個なので60個も作る。祖母の役目でしたが、私も作ったり運んだりしました」
 田植え、草取り、刈った稲運びなども手伝った。田植えの時期には「農繁休暇」で小学校は1週間休みになり、毎日働いた。それだけに、新米が食卓にのぼるのが待ち遠しかった。米農家とはいえ、よい米は売ってしまうので、ふだん食べているのは欠けたり未成熟だったりして出荷できない「くず米」だった。
 新米が出る日の献立は決まっていた。焼いた塩引きのサケ、とろろ汁。家族と親戚11人で暮らしていたので、三升炊きの大釜をかまどで炊いた。祖母にねだると、おこげを作ってくれた。
「1年分の働きが報われる特別な夕ご飯で、何杯もご飯をおかわりしました」と紘子さん。今でも田舎から米が送られてくると、同じ献立にしている。活躍した大釜は今も田舎の物置で眠っている。(浅野真)」朝日新聞2016年10月26日朝刊、23面生活欄。

 ここで新米の思い出を語っている69歳と71歳の女性が子どもだった頃というのは、半世紀ほど昔、第二次大戦後の1950年代から60年代初めくらいの農村だろう。ぼくもその時代、農村ではなく東京で幼い子どもとして生きていたが、母の実家が山梨の農家だったから何度か訪れて、なんとなく遠い記憶のどこかでこの光景が想像できる。農家では祖父母から孫子、牛馬まで大家族で暮らしていて、田植えや刈り入れの農繁期には一家親族総出で農作業をし、学校も休みになる。収穫した新米を最初に食べる日は、儀式にも似て自然と世界に感謝の念を抱いたであろう。その賑わいと心の豊かさは、何ものにも代えがたい生命の実質を持っていたはずだ。
 そういう経験を記憶に留めている人が、高齢者と呼ばれてまだこの世には生きている。1950年代には日本人の半分以上は農村漁村に暮らしていた。しかし、その後の半世紀でこのような生活は失われた。今の農村は、若者も子どももいない人気のない世界になろうとしている。
 一身にして三世を生きる、という言葉がある。今、高齢者となっている人々の多くは、日本が戦争敗戦で飢餓と欠乏の時代に生まれ、戦争の記憶を語る親のもとで育ち、高度経済成長の達成が行きわたる前に成人し、豊かさに向かって必死で生活を築き上げ、気がつけば飽食の時代、経済大国を享受して年老いた世代である。AIとビッグデータのサイバー空間が支配する21世紀現代に、その人たち(ぼくもその中の一人)も確かに生きている。経済成長とは何だろう?日本で経済成長以前の世界、経済成長の世界、そしていまや経済成長以後の世界を、同じ人間が生きてしまったわけだ。
 あの経済成長の果実を喜んでいたバブルの浮かれは、何だったのか?そして今現在の、すべてが縮んでいく、その縮んでいく未来を神経症的に怖れてむりやり元気!のカンフル剤を求めるような世界を見ていると、もう再び戻ることはできない高度成長以前の、「新米サバ茶漬け」の深い味わいが、文明論的に大きな価値があるように思えてしまうのだった。



B.20世紀の「現代音楽」について
 音楽は楽器か人の声で奏する以外にはなかった、そういう時代が人類の歴史の大半だった。20世紀になって、音楽はやっとレコードや磁気テープで記録・再生可能になった。これは大きな変化だった。自分で楽器を鳴らすか、演奏会に行かないかぎり音楽らしい音楽を聴くことができなかった時代が終わり、歌曲だろうがオーケストラだろうが、好きな時に自宅で聴くことができるようになった。それでも録音の元、音源は演奏家がどこかで楽器を鳴らし歌っていたわけだが、20世紀の半ばになると、録音した自然の音を組み合わせたり、生の人間や楽器でなくても電気/電子機器で音が出せる技術が実用化した。

「第二次世界大戦以前にも、いくつもの電気/電子「楽器」は存在していました。テルミンやオンド・マルトノ、あるいはトラウトニウム(Trautonium)があり、ハモンド・オルガンやエレキギターもありました。しかし、一九四〇~五〇年代に、楽器としてではなく、スタジオでつくられる音楽が誕生します。ひとつはフランスのミュージック・コンクレート(Musique concréte)、もうひとつはドイツの電子音楽(Elektronische Musik)です。
前者は、かつて「具体音楽」と訳されたように、現実界にあるさまざまな現実音・具体音を素材としてつくられた音楽です。もともとエンジニアであったピエール・シェフェール(1910~95)と、作曲家ピエール・アンリ(1927~)とがミュージック・コンクレートの創始者と呼ばれるようになります。
 一方、電子音楽は、ドイツのケルン、西ドイツ放送(WDR)の電子音楽スタジオで生まれます。こちらはミュージック・コンクレートの具体音・現実音に対し、電子的な発信音を素材にするところからその名がとられています。代表的な表現者は、カールハインツ・シュトックハウゼン(1928~2007)です。
 はじめのうち両者は対立していました。何を素材とするかとともに、前者がレコード、後者がテープを媒体としていたことも違いのひとつとしてありました。しかし、これらの区別はすぐ曖昧になります。ミュージック・コンクレートにも電子音が、電子音楽にも具体音が用いられるようになり、さらにどちらもテープを記録媒体とするようになったからです。以後、しばらくは総称してテープ音楽と呼ばれたりしていたのでしたが、テープという媒体も次第に使われなくなって、今では広い意味での電子音楽と呼んでいることが多いでしょう。とはいえ、今でもわざと「ミュージック・コンクレート」の語を新しい作品でもつけることもないわけでは成りません。
 日本においては、世界的にもかなり早いうちにNHK内に電子音楽スタジオがつくられ、一九五五年から黛敏郎(1929~97)、諸井誠(1930~)、武満徹(1930~96)といった人たちの作品が続々と世に送り出されてゆきました。武満徹の『水の曲』(1980)は、水による多様な音をテープの編集によって作品化したもので、限定された素材によるミュージック・コンクレート作品として認識されています。
 シンセサイザー(synthesizer)の語にあるsynthesizeは総合、合成といった意味をもっています。一九五〇年代にこの名称はすでに使われていたようですが、十九世紀以来の多くの電子的な技術が、この電子楽器の開発に費やされています。一九六〇年代になって、この名はウォルター・カーロス『スウィッチト・オン・バッハ』というレコードによって大きく知られるようになります。前衛的・実験的な電子音楽が、バッハのよく知られた音楽によって一般化した、と言って。もいいかもしれません。そしてそれはスタジオから外に飛び出し、さらに鍵盤を備え、コンサートでも使われるようになります。ロック、ジャズ、ポップスで、シンセサイザーはこれまでになかった音を響かせてゆきました。はじめは単音しかでなかったのが、一度に複数の音が出るようになり、アナログからデジタルへと変わってゆきました。
 先のカーロスとともにシンセサイザーを広く知らしめたのは、冨田勲でした。作曲家の抱く音のイメージは必ずしも現実にある楽器の音とはかぎらない、と一九七四年のアルバム『月の光』を皮切りに、ドビュッシー、ラヴェル、ホルストなどの作品をつぎつぎにシンセサイザーで演奏・録音し、世界中にその名は広まることになりました。その後も冨田勲の試みは続きますが、二〇一三年には『イーハトーヴ交響曲』で、ボーカロイド(音声の合成をする技術と、とりあえず言っておきましょう)「初音ミク」をオーケストラと合唱とともにライヴで共演させることに成功しています。
 またシンセサイザーは一九七〇年代あらゆるライヴ・バンドで使われるようになりますが、とくにドイツのクラフトワーク、日本で一九七八年から活動を開始したYMOことイエロー・マジック・オーケストラといった「テクノ・ポップ」での存在は忘れることができないでしょう。

 音楽の概念は世界各地、文化圏によってそれぞれ異なっています。けれども、「これは音楽か?」「音楽とは何か?」と、人々に考えさせ、意識させた人物は、ジョン・ケージ(1912~92)以前には存在しなかったのではないでしょうか。演奏者が何も演奏しない『4分33秒』。演奏行為として、ステージ上で卵を焼いたり、チェスをしたり。作曲にあたって、ひとつひとつの音をできる限り自らの意思を排して決めていく。ピアノの内部にある弦にボルトやゴムなどを挟み込み、音を変えてしまった「プリペアド・ピアノ」を開発する。などなど、ケージの行なったこと、エピソードをあげていったらきりがありません。
 ケージはなによりも、音響現象を「聴く」ということを生涯を通して考え続けました。聴くというのはごくごく普通の行為としてあるけれど、ある音を虚心に聴くことはなかなか難しい。その音の始まりから持続、終わりまで注意深く聴くことは容易ではありません。ましてや、次々に生起する音、音たちなど、すべて追うことはとても不可能です。
 一見突飛に思われるケージの行為ですが、これは人が「聴く」ということをどう自覚するかを知らせる、感じさせることなのです。」小沼純一「現代音楽1」(森山直人編『メディア社会における「芸術」の行方』藝術学舎、2014)pp.14-17.

 ミュージック・コンクレート、電子音楽、そしてジョン・ケージ。第二次大戦後の「前衛音楽」の音自体への革新、それは電子機器による音色の自在な操作、ということが中心だが、シュトックハウゼンは電子音響を使って西洋の調性音楽のみならず楽器そのものを超越しようとしたし、ケージはそもそもの音の芸術という音楽自体の存在に、音楽家として疑問を投げて挑戦した。それは、確かに画期的な試みだったと思うが、それゆえに「20世紀現代音楽」は、一般の音楽愛好家からも、社会からもちゃんと理解されなかったと思う。しかし、その技法応用面では、じつは多様な形で、たとえば映画音楽や環境音楽などの形で浸透していたのだ。
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山に登るということ・・。

2016-10-24 05:50:48 | 日記
A.山に登るという行為
人間がやることのうちで、およそ無意味なことの最たるものは、山に登ることである。まず、何もない山のてっぺんになんか登っても何の利益も得られない。景色がよいかもしれないが、天候次第で何も見えないか身の危険もある。もし計画が間違って遭難し、多くの人に救助のため多大な苦労をかけるなら、私的趣味のために人に迷惑をかける不届きな行状である。どうみても褒められたことではない。たとえば、今日の片隅のニュース。

「遭難53歳 13日ぶり保護:奈良の山中 わき水でしのぐ
 奈良県天川村の弥山(1895㍍)で登山中に行方不明になっていた島根県土木部長の富樫篤英さん(53)=松江市内中原町=が22日、13日ぶりに村内で見つかった。肋骨などを折っていたため入院したが、意識はあり、命に別状はないという。
 同日正午ごろ、弥山に登っていた男性(48)が登山道で富樫さんを見つけ、110番通報。富樫さんは「2週間ほど遭難している。持っている衣服を全部着て寒さをしのいでいた」と話し、飲み物とおにぎり2個を渡すと、その場で食べたという。その後、県の防災ヘリコプターで県内の病院に搬送された。
 富樫さんは今月8日に単独で弥山へ入った。その日夜は山頂の山小屋に泊まり、9日朝に朝食をとった。昼には下山予定だったが、11日になっても出勤せず、家族が警察に届け出た。奈良県警や消防、山岳救助隊は20日まで述べ約110人態勢で捜したが、見つからなかった。
 吉野署員に対し、富樫さんは「八経ケ岳を回って下山していたところ、ガスが出た。山中に迷い込み、崖下に滑落した」と説明。食糧を何も持っていなかったといい、「2日ほど痛くて動けず、3日目にわき水がある所まで移動した。その場で10日間ほど救助を待ち、天候がよかった21日に少しずつ崖を登り始めた」と話したという。」朝日新聞2016年10月23日朝刊、34面社会欄。

 いい年をして何をやってるんだ、という非難は当然あるだろう。食糧もなく水だけで13日生きのびた生命力のしぶとさも呆れるほど馬鹿である。でも、この人の行為にはどこか人間的な明るさがある。その延長上に、「登山家」という肩書に飾られた最高峰の女性の勲章がある。「登山家」というのは職業ではない。でも、地球上の7大陸最高峰制覇という記録は、確かにすごい!

「田部井淳子さん死去 77歳 女性初エベレスト登頂
 1975年に女性として世界で初めてヒマラヤの最高峰エベレスト(8,848㍍)に登頂した登山家の田部井淳子さんが二十日、腹膜がんのため、埼玉県内の病院で死去した。七十七歳。福島県出身。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は夫政伸氏。
 62年に昭和女子大を卒業。社会人の山岳会でトレーニングを積み、「女性だけで外国の山へ」との目的で「女子登攀クラブ」を創設した。三十五歳でエベレストに登頂した後も活発に海外の山に挑み続け、92年には女性で世界初の7大陸最高峰登頂を果たした。95年に内閣総理大臣賞を受賞した。七十歳を過ぎても年五~六回、海外登山に出掛け、六十を超える国・地域の最高峰、最高地点に登った。
 東日本大震災の被災者を元気づけようと、一緒に福島県内の山を登る活動もしていた。著作に「田部井淳子の実践エイジング登山 いつでも山を」「エベレスト・ママさん」などがある。
 田部井さんは、95年9月から翌6年1月にかけて本紙で「この道」を連載した。」東京新聞2016年10月23日朝刊1面。
「作家で同郷の玄侑宗久さんの話:田部井淳子さんは、高校教師をしていた私の父の教え子で、高校生のころから家にもよく来ていた。病気とは聞いていたが、前にしか進まない人。病気だからやめておくか、ということなく行けるところまでえ行くという印象だった。田部井さんは語り口から故郷のイントネーションが抜けず、魅力になっていた。それはふるさとの方々との太い交流があったからなのでしょう。」東京新聞、同日朝刊27面社会欄。

 ぼくは山登りを自分の青春の記念碑として、その頂点で失敗して遭難して人々に迷惑をかけてしまった人間である。田部井さんのような栄光の登山家には、とても顔向けのできない落伍者である。でも、こういう生き方があることは、自分に向き合う自省の理性と、人間の能力暴力への限界を意識することにおいて、特別に意味があるとおもう。



B.現代の音楽
瀬木慎一『社会のなかの美術』は読了、ということで、この本が書かれた七〇年代は日本がバブル経済に向かう金まわりがよい時期だから、美術市場は膨らんでいったはずだが、いまはどうなっているのか気になるところだ。しかし、今やっている授業が音楽に絡んでくるので、とりあえずまた音楽の話に戻って、森山直人編『メディア社会における「芸術」の行方』藝術学舎、2014,の中の現代音楽の部分(執筆者は小沼純一氏)を読んでみる。
われわれが現在、「音楽」として日々聴いてものは、楽器によって鳴らされた「楽音」でつくられており、それ以外の音、自動車や町の雑踏、飛ぶ鳥や犬猫の鳴き声などは、「雑音」として音楽から排除しています。しかし二〇世紀の半ばから、そうした「楽音」以外の音響を、音楽に取り入れようという試みがなされた。とくに、エレクトロニクスの発達で電子音響の創作・加工・記録ができるようになって、それは音楽の一部となってきたというお話。

「二十世紀の音楽状況が生まれる背景には、十九世紀半ば以降のテクノロジーの発展がありました。写真、レコード、映画、そして交通や電気も忘れてはならないでしょう。二十世紀になるとさらにラジオが加わってきます。
 一九一九年に初の電子楽器であるテルミンがロシア(旧ソ連)で、続いて一九二八年にオンド・マルトノがフランスで、また一九三四年にハモンド・オルガンがアメリカ合衆国で発明されます。第一、第二次両世界大戦間にはほかにも新しい楽器が出てきましたが、現在も用いられているものはこれらを除いてほとんど残っていません。
 戦争とテクノロジーは切っても切り離せないものです。「楽器」を超えたかたちで新しい音楽が一九四〇~五〇年代に生まれてきます。ひとつはフランスのミュージック・コンクレート、もうひとつはドイツの電子音楽です。前者は、その名のとおり、現実にある音を素材とする音楽。楽音も雑音も素材としては同等に扱われます。録音のみではなく、加工し、新たに構成する。後者は発信音が中心となります。
 はじめのうちこそ両者はそれぞれの存在価値を主張していましたが、一九五〇年代も後半になってくるとほとんど区別がなくなり、当時の媒体の呼び名を借りて「テープ音楽」と呼ばれたりするようにもなりました。しかしテープという素材=媒体も衰退し、さらにシンセサイザーヤコンピュータによる発音が常態化したことで、名称の重要性は薄れました。今ではよりシンプルに電子音楽となるでしょうか。いえ、音楽に電子的なものがないほうが珍しくなり、特別な呼び方も必要なくなっているともいえるでしょう。
 放送局のスタジオなどでつくられていた電位音響ですが、真空管からトランジスタ、さらにICチップへと発達してゆくなか、機器はよりコンパクトになってゆきます。シンセサイザーは一九六〇~七〇年代にポピュラリティを獲得します。アメリカの音楽家のウォルター・カーロス(現ウェンディ・カーロス)(一九三二~)の『スウィッチト・オン・バッハ』(一九六八年)、あるいは日本の音楽家・冨田勲(一九三二~)によるドビュッシー作品のアルバム『月の光』(一九七四)もその例ですが、同時にロックなどでの使用も忘れることはできません。さらに、ドイツのロックバンド・クラフトワークや日本のYMOによる「テクノ」の登場は、その名称ともども、従来のアナログな音楽とは異なった位置に音楽が移行したことを示しました。一九八〇年代に入ると、コマーシャルや映画のなかに、さらに進むと家庭用電気器具や駅での列車の発着音などにも電子音が一般化するようになります。
 一方、イタリアの「未来派」の芸術家ルイジ・ルッソロ(一八八五~一九四七)は一九一三年「騒音芸術」を提唱し、騒音楽器イントナルモーリを制作しました。
 ヨーロッパにおいては、あくまで他の楽器の伴奏程度にとどまりまっていた打楽器がそれだけで独立した、作品が書かれるようになります。こうした打楽器がそれだけで独立した、作品が書かれるようになります。こうした打楽器のみによる作品は、一九二〇年代後半からつくられます。また従来の楽器を特殊な弾き方で演奏することも生じてきます。楽音以外の音を音楽作品として取り込んでくるという発想がより進んでくるのは、ミュージック・コンクレートや電子音楽の影響にもよっています。
 ポピュラー音楽の分野において、はじめの頃、ノイズは音楽作品のなかに効果として挿入される程度でした。しかし、一九八〇年代も後半になってサンプリング・マシン(サンプラー)が一般化することでどんな音でもドレミが出せるようになり、そうしたところから楽音と非楽音の対立性はあまり意味をもたなくなってゆきます。
 テルミンは、ロシア(旧ソ連)の物理学者レフ・セルゲーエヴィッチ・テルミン―西洋式にレオン・テルミンともいう―(一八九六~一九九三)によって一九一九年に世に出された世界初の電子楽器です。通常の楽器と異なり、外見はアンテナのある箱のようです。楽器本体に触れずに両の手で音量と音程をコントロールするところも特徴としてあります。アメリカで人気を得、たとえば映画『白い恐怖』(監督:ヒッチコック、一九四五年)や『地球の静止する日』(監督ロバート・ワイズ、一九五一年)などの恐怖シーンに使われたりしています。のちに開発されるムーグ・シンセサイザーの原型になったといえるでしょう。また、テルミン博士自身の波瀾に満ちた生涯については、ぜひドキュメンタリー映画『テルミン』(原題:Theremin – An Electronic Odyssey監督・スティーヴン・M・マーティン、一九九三年)を観てほしいと思います。旧ソ連でのテルミン開発からアメリカ合衆国での成功、当時としては稀有なアフリカ系アメリカ人であるダンサーとの結婚、秘密警察(KGB)による拉致、謎に満ちた空白時期、そして生存の確認と合衆国への帰還。旧ソ連とアメリカ合衆国の対立がひとりの人物にいかにかかわりがあったかが示されています。
 一方、オンド・マルトノは、原理はテルミンと変わりませんが、鍵盤とリボンによって、はるかに音のコントロールがしやすくなっています。鍵盤では固定的な音を得ることができ、リボンではグリッサンドヤポルタメントのような漸次的な音の変化も得られます。こちらは、フランスの音楽教育者、モーリス・マルトノ(一八九八~一九八〇)によって一九二八年につくられました。マルトノは『アクティヴ・リラクゼーション』(大矢素子訳、春秋社)のような本も著しています。テルミンと比べオリジナル作品が多いのも特徴でしょう。この楽器のために、主としてフランスの作曲家たちが作品を手がけています。アルチュール・オネゲル(一八九二~一九五五)『火刑台上のジェンヌ・ダルク』、アンドレ・ジョリヴェ(一九〇五~七四)『オンド・マルトノ協奏曲』、オリヴィエ・メシアン(一九〇八~九二)『美しい水の祭典』、『トゥランガリラ交響曲』、トリスタン・ミュライユ(一九四七~)『空間の流れ』など。
 日本では原田節や大矢素子のような演奏家が活躍しています。」小沼純一「現代の音楽1」(森山直人編『メディア社会における「芸術」の行方』藝術学舎、2014.pp.10-13.
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文化の大革命があったのは、どこ?

2016-10-21 05:22:22 | 日記
A.文化大革命ってのが、中国であったんだよ・・え?
 歴史上の大きな出来事は、その評価が定まるのに半世紀ではまだ難しいかもしれない。50年くらいだとその事件を生きて経験した当事者がまだ生きていて、何かとややこしく物議を醸してしまうからだ。しかし、経験者がいなくなってしまうと後世の勝手で恣意的な歴史観が出てきても、それを訂正するのは難しくなる。歴史家の役割は、それをいかに冷静に事実を確認しつつ歴史を描くかになる。50年前に中国で始まった文化大革命、いわゆる文革は、中国国内を大混乱に陥れ10年続いて終息した。それがどういう意味を持っていたのか、中国人にとってもいまだに明確な総括は定まっているとはいえないようだ。
ぼくも個人的な記憶として、高校から大学時代に御となりの共産中国で、同世代の若者が毛沢東語録を手に、上の世代の党幹部をつるし上げ「走資派」という札をかけて糾弾している映像を見て、いったい何が起こっているのかと正直よくわからなかった。ただ紅衛兵という10代の若者たちが、権力の座にある年寄りたちの腐敗を追求し、罵倒しているのはなにか痛快な感じがしたのは確かだ。東西冷戦の向こう側の共産党が支配する国で、どうしてまた大革命が必要なのか、それはただの権力闘争なのか、やがて毛沢東は死に文革は終わった。

「体制内で見た文革:中国で文化大革命が発動されて50年。多くの中国人が信じた共産主義の理想は色あせ、社会は大きく変質したが、共産党政権は依然として苛烈な権力闘争のなかにある。中国は何を学び、何を失ったのか。党幹部の立場で文革を経験し、その後も体制内で歴史研究を続ける天津社会科学院の名誉院長、王輝氏に話を聞いた。
――文革は、毛沢東主席が大衆を動かした政治運動です。多くの若者が「紅衛兵」となり、荒廃した経済の立て直しを主張した党指導者らを「資本主義の道を歩む実権派」などと打倒しました。王さんも党幹部として、造反派や紅衛兵に何度も捕まったそうですね。
 「赤い腕章の人々の連行され、一時拘束されました。彼らは私の上司の政府指導者を捜しており、私に居所を教えるように迫りました。自由を失うことがいかに苦痛かよく分りました」
――造反派は、党委員会も襲撃し、行政機能も止まりました。
 「社会は混乱し、あらゆる規範を失っていました。恐怖でした。文革の初期、批判を受けた党幹部の自殺がもっとも多かったのです。私は(文革推進派の目的で新たに設けられた権力機構である)文革弁公室の副主任として毎日、誰々が川に飛び込んだといった報告を受け続けました。町中が緊張してコントロールを失っていました」
――幹部として何を感じましたか。
 「無力感、むなしさです。どうしたらいいか分りませんでした。行政の仕事ができる状況ではなく、ただただ役所で時を過ごしていました」
――秩序は軍の出動によって回復しました。
 「もし中国にこのような特殊で強大な軍隊がなければ、どうなっていたか。中国で、軍は戦闘部隊であると同時に、(国内の社会秩序を維持するための)工作部隊でもあるのです。単純に国防を担っているわけではありません」
――その特殊な軍の存在が、中国の民主化を困難にしているのではないですか。
 「当然のことです。中国共産党は暴力革命によって政権を握った。暴力による政権奪取の必然の結果は専制政治です。それは民主化をもたらすことはないのです」
――文革後、検査を受け、党幹部の職を一時失いました。
 「上司である天津市のトップが失脚したからです。中国社会の特徴はすべてが数珠つなぎにあること。不満だったが仕方がない。私の場合、比較的、軽い方でした」
 「文革後も基本的には文革のやり方が続きました。文革中、多くの幹部が批判され、それに連なる人々がみな失脚しました。文革が終わると、今度は、文革で失脚しなかった幹部が、みな引きずり下ろされました。現在の政治闘争においても、こうした点はいまだあに文革の影響を受けています」
――文革は中国社会に何をもたらしたのでしょう。伝統的な文化や価値観が否定され、宗教施設なども壊されました。
 「文革中には過激な破壊活動が起きました。現在、中国が抱える問題はすべて文革がもたらしたものだという見方もあります」
 「(共産党への)信仰、理想、信念といったものが失われました。(豊かで平等な社会をつくるといった)共産主義の理想を信じる気持ちがなくなりました。人々は自信をなくし、残ったのは拝金主義と享楽主義でした」
――影響は大きいですね。
 「大きいです。だから、習近平国家主席は今、『自信を持て』と強調しているのです。中国人は自分たちの理念や文化に自信を持たなければならない、と」
――一方で、文革時代を懐かしむ人もいます。
 「貧しかったが、腐敗もなかった。だから、一部の人々は今、貧富の格差がなく、腐敗のなかった時代を懐かしむのです」
――文革にもいい面があったというのですか。
 「文革は高度に集中した伝統的計画経済を打ち壊し、その後の改革開放への条件をつくった。もし文革の歴史がなければ、中国はソ連の道をたどったでしょう」
「文革前に、多くの庶民は知りませんでしたが、私は幹部として何が起こっているのかを見ていました。党内には、すでに特権階級が生まれつつあった。幹部たちは夏は避暑地の北戴河に行き、庶民には一生、手が届かない生活をしていたのです。文革がなければ、特権化はさらに拡大し、中国は(民主化を求めた群衆にチャウシェスク大統領が殺された)ルーマニアと同じになっていたでしょう」
――改革開放は中国を豊かにしましたが、格差が拡大し、腐敗も横行するようになりました。
「鄧小平は両手でつかめと言いました。改革開放と政治の二つを、です。しかし、改革開放のカギを握るのは、一部の人が先に豊かになるという先富論です。そうした人々は権力を持ち、権力を私有化する。公権力を金に換える。金持ちが生まれるということは、貧しい人々ができることでもある。それが今の社会なのです」
「鄧小平の言ったことは元々、矛盾があったのです。鄧は貧富の格差が拡大すれば、改革は失敗だとも言いましたが、実際に、社会は金持ちと貧乏人とに両極化してしまいました」
――習体制は「反腐敗」を掲げ、不正の摘発で多くの高官が失脚しています。
「反腐敗は必要です。法的な手続きに沿って進めるのでは、何もできない。民主プロセスとは違うが、それでもこれしかない。おかげで、役人は安心して生活できなくなっていますけどね」
――「反腐敗」が加速して、中国で再び文革が起きることはありませんか。
「ありえません。文革は毛沢東がいたから起きたのです。歴史上の特殊な時期に、最高の威厳を持った領袖がいたから起きた。毛沢東はもういません。第二の毛沢東には誰もなることはできません」
「もう一つ、時代の変化があります。今の庶民が求めているのは生活の安定と経済成長です。私が革命に参加したころとは違います。あのころは経済のことなんて考えていませんでした」
――これから中国政治はどこへ向かうのでしょう。
「中国は今、左(共産主義)に進むこともできず、かといって右に行くこともできない。右とは米国式の民主政治の道です。このまま進んでいかなければ、生き残ることはできません」
――民主化には進めませんか?
「進めば、中国は四分五裂の道をたどるでしょう。これは怖いことです。米国は望んでいるかもしれないが、中国がソ連のように崩壊したら、経済も大混乱を起こす。かわいそうなのは庶民たちです。金持ちたちはみな国外に逃げるのだろうけど……」
――では、共産主義の道は?
「すでに貴族権益のようなものを持つ階級も生まれているから、左にも行けない。今や中国にどれだけの大金持ちがいると思いますか。彼らから再び財産を奪ったら、大混乱になります。ただただ、今のままでやっていく。これしかほかに道はありません」(中国総局長=古谷浩一)」朝日新聞2016年10月20日朝刊、15面オピニオン欄。

用語解説「文化大革命」:経済政策の失敗などを受け、毛沢東が1966年、階級闘争の継続などを呼びかけて発動した政治運動。共産党の官僚化や特権化に対する市民の不満を刺激し、紅衛兵や造反派労働者らが組織され、各地で政府機関などが襲撃された。反革命とされた人々はつるし上げを受け、1千万人に上るとも言われる死者を出した。また、党内の権力闘争が激化し、国家主席を務めた劉少奇ら多くの高官が失脚、迫害された。76年に事実上終結した。
 共産党が81年に出した歴史決議は「文革は指導者が誤って引き起こし、それが反革命集団に利用された」として毛沢東の一定の責任を認めたうえで、「党と国家と各民族人民に大きな災難をもたらした内乱」と位置づけている。

 中国という巨大な国家と社会を理解するのは一筋縄ではいかない。日本を含む帝国主義の餌食になって蝕まれていた中国に、戦争を勝ち抜いて人民共和国を樹立した最大の国父、毛沢東が、その最高指導者でありながら自分の国家の党幹部に対して、若者に反乱を扇動し、全国の行政責任者、企業幹部、知識人といった指導層を、資本主義を復活させようとする反革命分子と名指して闘争を呼びかけた。これは歴史的にみても、きわめて異常な出来事である。しかし、革命家としての毛沢東は、思想的に永久革命を追求した。
 結果的にそれは失敗し、次に出てきた鄧小平は「改革開放」を唱えて、経済成長優先の路線にひた走った結果、社会主義ソヴィエト連邦は崩壊したが、中華人民共和国は生き残り、いまや世界経済を牽引する経済大国になっている。中国には大金持ちが生まれ、格差が開き貧困者が増大する社会が実現している。その現状に文革はどういう意味を持っているか?日本人は、そのことを知ろうとも考えようとも思っていない。だから中国に勝てないのだ!



B.バブルに向かう奇妙な時代
 1970年代はいまや日本人の記憶から忘れられた時代なのかもしれない。その当時を生きていた人間(ぼくもその一人)は、まだ日本は欧米先進国に追いついていなくて、でも貧しかった国がどんどん物質的に豊かになり、なんとなく日本は世界でも安全でお気楽な先進国に向かって走っているような気がしていたのである。自分が今生きている時代のほんとうの意味を、ほとんどの人は知ることができない。歴史を学んで人は少し賢くなれるのだが、賢くなったところで自分の生活がよくなるわけではない。歴史の流れに無力な一個人でしかない自分が、何をしたところで変わるものではないと思うのが普通だ。でも、あの日本が他の諸国に比べて奇跡的に経済的幸福に向かっていた時代、その中にいたぼくたちは次に何が起こるか、何もわかっていなかった。

「かつて「タイム」誌のインタビューを受けた際、記者の話では、ある専門家は、72年の日本での美術取引高は1兆2000億円と推定できると語ったということだが、そこまで多くはないとしても、全分野をあわせるとその半分くらいはあろうというのが、私などの観測である。
 ともなく、驚くべき市場の拡大であり、自分の身辺からだけではとうてい測りえない全体の、及びもつかない膨張が現実に生じている。ここまでくれば、美術売買は一個の大産業であり、銀行がすすんで資金を融通し、企業、個人が競って作品を蒐集し、デパートが美術部門を拡張し、画廊がスペースを拡げ、人気作家が注文に追いまくられるのも当然であろう。
 この急速度の市場発展の現れとして、この一年間で五倍、一〇倍に価値のはね上がった人気作家がいくらもいるし、そこまでいかなくとも、この10年くらいの期間で全体としてその程度の伸びが見られるのが実情であり、それを平均値とした高い水準の上に立って、一定数の人気作家の異常な価格高騰が頻発するのは避けがたい。
 現在、生存している日本の画家の最高価格は、岡鹿之助の号あたり250万円だと言われているが、100万円以上の相場を持つ画家は、かなりの数にのぼる。この価格は、現存作家の新作に関する限り、世界的水準を超えており、ピカソ、シャガール、ダリのそれを上回り、彼らを含めた現代の世界的巨匠の過去の名作を、らくに入手できるほどの高額のものである。
 多数の美術収集家のいる、すぐ隣の韓国、台湾、あるいは日本人の血を引くハワイの二世にすらも無関係に、日本独自につくられるこの価格体系は、摩訶不思議なものであり、いつまでそれが維持できるか疑わしいとしても、ここまで美術蒐集のエネルギーが膨張すると、国外にその吐け口を見出すことになるのも、自然の勢いと言える。
 71年に、ロンドンのオークションで、十四世紀中国の陶器を、新記録の57万3300万ドルで日本の美術商が落札したのをはじめとして、絵画、版画、工芸の各分野で、日本人バイヤーの活躍が目だち、日本人に人気のある印象派、エコール・ド・パリの作品を中心としたあるオークションでは、全体の三分の一、あるいは五分の一が日本人によって買い占められ、72年9月、ニューヨークでおこなわれたミネアポリスのウォーカー・アート・センターのオークションでは、中国陶器を国際価格の三倍もの高値で日本人が強引に入札し、人々のひんしゅくを買っている。
 これに似たケースを、最近至るところで見かける。
 また、世界最大の施設であるニューヨークのメトロポリタン美術館が、経営難から売りに出したが、あまりの高額のためにイタリーのフィアット自動車の社長が購入を断念したという、アンリ・ルソーの「熱帯」が、先年、六億円(?)という空前の価格で東京の日動画廊によって引きとられ、いち早く関西の某実業家の手に渡ったことがあった。
 庶民たちは、複製画か、せいぜい安価な油絵を室内に飾って満足しているというのに、市場の頂点におけるこの盛況はファンタスティックというほかないが、同時に、底辺は底辺でそれなりに活発であり、先日、銀座のあるデパートがおこなった大衆向けのセールでは、用意した平均価格十余万円の1000点の作品が700点売れ、総額にして一億数千万円の売上げが一時にあったと言う。
 こんなにも多量の絵画が次から次へと出ていくのでは、まもなく市場は飽和点に達するのではないかという危惧をよそに、販売する側は、大衆市場もまた本格的にはこれからであり、まだまだ開拓する余地が広大にあるという絶大の自信を見せていた。
 一体、日本の美術界はどうなっているのだろう、と日本通の外国人専門家は大きく首をかしげる。
 永年、低い水準を低迷していた日本の美術市場が、めざましい経済成長に恵まれて急激な発展をみせ、異常ともいえるブーム現象を引きおこしているのは以上見た通りであるが――ひるがえって全世界的に見れば、美術市場の発展はひとり日本だけのものではなく、ブームという言葉を使うならば、世界中が近年、ブームの状態にあった。
 ロンドン、パリ、ニューヨーク――どこのオークションでも新高値が続出する最近であり、美術作品の高踏はとどまるところを知らない。
 例のニクソン・ショックによって、一時、沈滞していたニューヨークの場合を見ると、一国の経済は依然として深刻な輸入赤字に悩みながらも、美術投資の面では漸次、生気がよみがえり、71年12月以来の回復がいちじるしく、パーク・バーネットの71年度の売上げは、4290万ドルに達している。前年より330万ドルの増加である。
 ニューヨークがこうであるから、世界最大の美術市場を誇るロンドンの上昇はめざましく、サザビーの総うりあげ4329万6000ポンドのうち、三分の一がロンドンによって占められている。なぜ今もなお、ロンドンに世界中の美術作品が集まるのかは不思議だが、要するに、ここではすべてのものがもっとも高価に売れるという歴史的事実をぬきにしては、その要因は考えられない。
 たとえば、印象派の本拠であるパリでは、その種の作品がどんどん海を越えて行ってしまうので、そこでいいものを見つけ出すのは容易ではないと言う。移動がらくなデッサン類になると、60パーセントがパリ方面からもたらされて、パリにおけるよりもずっと高価に売買され、しかもそのうちの三分の二が、ふたたびパリ方面へ戻ると言うことである。
 しかし、そのパリでも美術市場は盛んであり、オテル・ドルオーをはじめとする全オークションの総売上げは、72年前期は300万フランに達し、その前半期より25パーセントの伸びを示している。サザビーのパリ支店は67年9月に設けられ、これまでに1500万ポンドの収入があり、72年1年だけで200万ポンド以上の売上げがあったと報告されている。そして、扱った作品の半分が印象派と現代の巨匠のものだった。
 これら三大市場以外というと、西ドイツの繁栄が注目されているが、サザビーの発表によると、この国の中心であるミュンヘンの場合を見ても、期待されたような伸びは今のところ見られず、69年9月にそこに設けた同社の支店も、どうにか経営が維持されている程度だと言う。具体的には、この支店を通してロンドンへ出た各種の美術作品は、70年7月から71年までで、わずかに100万ポンドにとどまり、またドイツ人がもっぱら蒐集し、そして外国人のバイヤーが目をつけるのも、ほとんど表現派のものに限られているようである。
 そうだとすると、ロンドン、パリ、ニューヨークの三大市場に次ぐのは、どうしても東京だということになるが――かりに、日本全体で一年間に5~6000億円の美術作品が動いたとして、それはかなりのところまで先進市場に追いついていることになる。
 前期の数字は、みな、オークション場の売上げであり、そのほかにそれぞれ何百という画廊があることを考えると、各都市における美術売買は、かなりの巨額になるにしても、日本も今や、ほぼ同じ水準に達したことが確実に推定できるのである。
 ただ日本の場合は、売買される作品の大多数が日本のものであり、その価格も全般的にきわめて高い水準にあって、国際的関連性をいちじるしく欠如している点が異なっている。
 ドイツでは、やはり自国の表現派の作品が高価であることはさきに述べた通りだが、それでも表現派の絵画はひろく国際性を持ち、最近では、とくにアメリカで相当の評価を受けている。それにひきかえ、日本の近代、現代美術は、現に国外で活躍している少数の前衛画家と、しだいに増えつつある優秀な版画家を除いては、ほとんど自国だけの存在であり、しかも、国際的評価を欠如している反動として、その頂点をなす部分に、通年では絶対に考えられぬ高い価格が与えられている反動として、その頂点をなす部分に、通年では絶対に考えられぬ高い価格が与えられている結果となっている。そしてまた、ここ数年の異常な美術投資熱にあおられて、従来、評価の低かった傍流画家や有望な新進作家の急騰が目だち、日本の美術界はこのところ、全体として極度に経済的様相を呈して騒然としている。一部のプロ投資家と利潤追求のみを目的とする一部の画商にとっては、これほど安定して短期間に大きな利潤をあげることのできる天国市場はないだろう。」瀬木慎一『社会のなかの美術』東書選書、1978.pp.174-180.
 
 これは今から思えば、バブル経済のまだ助走だった。金まみれ、投機的市場が美術にも狂奔する時代が始まっていた。そして瀬木先生が危惧したように、美術品の値段ばかりがつり上がったが、その中身はグローバルとは程遠く、世界には無縁な日本だけで成り立つ囲われた世界で、見せかけの美術ブームが踊っていたのである。

「頂点のみがいたずらに高く、底辺がきわめて狭小な日本の美術界は、たとえれば、ちょうど、深海からそそり立つ日本列島そのもののような屹立型に当たるだろう。美術ブームと言われ、頂点がいよいよ高まるにつれて、底辺もいくらかは拡がってきたように見えるが、両者のバランスはいまだとれておらず、すでに伝統的にできあがった型が増幅されたにすぎないというのが、その偽らぬ姿である。
 ある水準以上の人気画家となると、ほんの100人か200人程度に限られていて、そこへにわかに増加した何千、何万という蒐集家が殺到するのだから、価格が高騰するのも無理はない。現在、人気作家の新作を最初に直接受け取ることができる人間は、画商でもわずかな人々であり、二番手、三番手でなければ手にすることができないものが大部分なのである。したがって、一般の愛好者の手元にとどくには、多くの段階をへなければならない。
 そのために、少なからぬ蒐集家たちがあふれ出し、彼らはやむなく有望な新進に注目することになるのだが、一部の人々が一人の画家を押し出すと、とたんにだれもかれもがそこへ押しかけていき、新進がたちまちのうちに、人気作家となる。
 こうした貪婪な新人発掘のくりかえしによって、この世界は幾分、その間口を拡大し、既成の順列を崩してきたことは事実だとは言え、屹立型の基本形態を変えるには至っていない。
 そのことは、大多数の蒐集家の趣向が一致して、一定の型の作品に向かっていることではっきりとしている。一定の型とは、主題の視覚的、情緒的理解が即時的に容易な、美麗で、技巧にとんだ小型の具象作品であり、それ以外ではない。それ以外のものは、いかに力作であろうと、革新的であろうと、蒐集の対象とはなりえず、非常に拒否されてしまう。だから、人気画家となるためには、自己の創造的欲求をできるだけ抑制して、はじめから意図的にこの型の作品をつくり出さなければならない。
この種の作品は、批評の面では売り絵として軽視され、画家自身も多少の羞恥と諦めをもって描いているのだが、現実にはそれが、表面的なきれいさと、市場での流動に適しているために、蒐集層に歓迎されて出回る。仕方なしに画家は、この型にはまった作品を描き続けるのだが、そうしているうちに、いつのまにか創造的意欲をすっかり喪失し、一個の凡庸な商業画家となっている自分を見る。
実際問題として、自己の欲求通りに描いた作品で生活している画家は、稀少であり、なお良心を残しているものは、作品を商業的なものとそうでないものとに描き分けなければならない。それさえも、生活の安定とともに、やがてはやれなくなる画家が数多い。
従来も見られたこの現象が、今日の美術ブームによってますます拍車をかけられ、永年の努力をあっさり放棄し、すすんで商業的世界に身を投じる有能な画家が近ごろ少なくない。おお、ぶるーたすよ、お前もか、というおもいが街を歩くと至るところでする。
永年、ヨーロッパにいて、真面目な勉強をして帰国したある画家が、先日、東京で個展を開いたところ、すぐさま皆売れてしまい、びっくりしたものの、周囲を見まわして、話にもならぬ軽薄な絵画が飛ぶように売れているのを見て、胸を撫でおろし、いったい日本はどうなっているのかと慨嘆していたが、日本の現代画家の歴史的弱点がもっともあらわに露呈しているのが、現在である。画家が要求される技術のために、より安楽な生活のために、このようにいとも簡単に自己を放棄し、思想を裏切っている時代はない。」瀬木慎一『社会のなかの美術』東書選書、1978.pp.180-182.

 それからもう半世紀近くが経とうとしている。バブルに沸いた80年代に、世界第2位の経済大国を誇って、うあっはは!状態だった日本は、いまや見る影もなく凋落して、かつての栄光をしのぶよすがもなく燻っている。でも、人間は愚かな経験から深い知恵を学ぶことができる。美術の真の価値と審美眼は、あの経験があったればこそ鍛えられた、と思いたい。
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