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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

若手官僚が立ち向かうのは、ゴジラではない・・日本の医。

2016-09-16 00:12:06 | 日記
A.若手官僚はヒーローになれるか
  「シン・ゴジラ」という映画が人気だというので、気分転換に映画館に観に行った。ただの話題の大ヒット娯楽映画だからという理由で、わざわざ映画館にお金を払って行くという習慣はぼくにはない。きっかけはfacebook経由で垣間見た小さなブログ記事。この映画で若手官僚の一人を演じた市川実日子のイメージについてあれこれ話題にしていた。役名は尾頭ヒロミという環境省自然環境局野生生物課長補佐である。市川実日子という女優はいろんな映画作品に出ている人だが、ちょっと奇妙なキャラクターを演じると独特に際立つ。「レンタネコ」なんかいい味だった。
  それがこの「シン・ゴジラ」では、終始パソコンを睨んだ優秀な官僚ということで要所でゴジラについての的確な判断を専門用語を使って立て板に水でしゃべっている。色気も何もないすっぴんが観客には実にカッコよく見える。全体にこの「シン・ゴジラ」の登場人物はやたらに多いのだが、有名俳優もワンシーンだけとか、最後のクレジットは全員平等のロゴでアイウエオ順に並んでいる。確かに、市川実日子は日系アメリカ人特使役の石原さとみを上回ってカッコいい。

  「映画「シン・ゴジラ」の進撃が止まらない。東宝によると、封切り45にちの興行収入は65.6億円。延べ450万人の観客を集め、平成ゴジラシリーズ以降の記録を更新した。なぜ幅広い観客を夢中にさせるのか。「エヴァンゲリオン」シリーズで知られる庵野秀明監督らが作ったコンセプトに秘密がありそうだ。
   ゴジラの口に薬剤を投与する場面で、客席から一斉に「イッキ!イッキ!」と飲み会のようなコールが起こった。東京・新宿で開かれた上映会「女性限定鑑賞会議」の一幕。定員の429席が3分で完売した。声援も拍手もペンライトもOK.「庵野―!」「東宝―!」と、会場はアイドルのコンサートさながらだ。
   上映終了後には市川実日子さんら出演者が登壇。興奮する客席に向かって松尾諭さんが「まずは君たちが落ち着け!」と映画の決めゼリフをまねて言うと、ますますヒートアップした。
   フリーライター丸山みゆきさんは防護服姿で参加。「ネットの盛り上がりが異様で、見なくてはと思いました」。実際に見ると、最前線で働く人々がゴジラという危機に立ち向かう展開に「日常と非日常がシンクロしていて、3・11後のリアルさがある」と感じた。「セリフを覚えてコスプレで楽しみたいという気持になる。お祭り的な感じですね」
    東宝によると、公開当初はゴジラファンの男性が主な観客だったが、次第にカップルや女性同士、親子連れへ広がっているという。また文芸評論家の加藤典洋さんが「新潮」10月号に「シン・ゴジラ論」を発表するなど、政界や経済界、学界から発言が相次ぎ、「シン・ゴジラ論壇」の様相を呈している。政府の危機管理体制を細密に描くことで東日本大震災時を想起させたからだろう。
  東宝の山内章弘エグゼクティブプロデューサーは「難解な部分があるので客層が狭まる心配もあったが、むしろ観客層が広がっている」と話す。その理由として「1人の主人公の目線でなく、多様な人物の視線から描いた」ことと、だからと言って「1回見ただけでは分からない映画にしなかった」ことを挙げる。
  「社会派の政治サスペンスとして面白がってもらえるのでは、と思っていましたが、情報量が圧倒的に多いために、スーツ男子が格好良いとか、企業の組織論として見たとか、他にも私たちが予想もしない様々な楽しみ方が出てきています」
  それでいて物語の骨格はシンプルだ。巨大生物が街を壊し、人間が阻止する。ただそれだけ。幹となる物語以外の、主人公の恋愛や家庭などサイドストーリーは一切排除してある。だから枝葉にこれだけ情報を詰め込んでも、分かりにくくはない。
 かつては「金環蝕」「日本沈没」といった国家規模の事態を扱った娯楽映画が数多く存在した。しかしこの「シン・ゴジラ]ほど、多視点主義とサイドストーリー排除の両方を徹底した作品はそう多くはない。
   東宝は今後もゴジラ映画を作り続けるという。ただし今回のスタッフがそのハードルを恐ろしく上げてしまった。「シン・ゴジラ」に挑む新たな作り手は果たして現れるのだろうか。(山崎聡、編集委員・石飛徳樹)」朝日新聞2016年9月13日朝刊、34面文化・文芸欄。

  予測不可能な激甚災害(この場合は巨大生物ゴジラの出現)に国家政府として立ち向かうドラマ、という大枠にこの「シン・ゴジラ」は、単なる怪獣スペクタクルや娯楽エンタメを越えた別のテーマをつなげている。その見どころは、手の込んだリアルCG映像の破壊場面と交互に、総理大臣・官房長官・防衛大臣から補佐官や与党幹部の政治家など、直接の責任を担う地位にある人物を登場させ、日本の行政統治機能の内部で何が起こるかを具体的に描く。途中で、永田町にゴジラが迫ってくるのでヘリで脱出する首相以下政府首脳が墜落して死んでしまう。それでも残されたスタッフで、ゴジラ壊滅に核兵器まで使うと介入してくる米国政府に、必死で対抗する若手官僚たち。この構図は、従来のパニック映画とは違うもので面白いといえば面白い。
  霞が関の官僚というのは、法律に基づいて国家の組織として行動しなければならないが、非常事態でも冷静に職務に忠実に、国際関係まで見通しながら総合判断をするのだ、とこれを見た観客は思うのだろう。首相や大臣というトップは、官僚の提供する情報やアドヴァイスにしたがって最終決定をするだけで、実質的な政策の準備決定は官僚の手にかかっている、というのは本当だろうか?自衛隊という実力組織の武力は、例によってゴジラにはほとんど通用しない。安倍首相はこの映画を引き合いに出して自衛隊の活躍を描いて素晴らしいと言ったらしいが、映画観てないんじゃないか。ゴジラの出現を予言した謎の研究者は写真でしか出てこないが、その写真が岡本喜八であるのは意味深。
  日本の中央官僚が優秀なのかどうか、ぼくはよく知らないが、おかしな言動を平気でする政治家に比べれば官僚くらい冷静で知的であってほしいとは思う。でも、この映画の官僚たちのように日々職務に邁進する国家の担い手が素晴らしければ、国民は安心して頼っていればいい、というふうに考えるならばそれは「お上のなさることには逆らわぬ」愚民根性を克服できないことになる。怖いのはゴジラではなくて、人間が下すあやまちだ。



B.西欧医学と日本人
   日本の医学は長い間、中国の文明の影響下にあった。今でいう漢方は主として養生と薬物治療が中心だが、その考え方のもとには儒教よりは道教の流れからくる陰陽道タオイズムや、自然に遍在する生気論いわゆる合気道などでいう「気」をコントロールするという生命思想がある。中国へ留学した仏僧が、釈迦の仏典と一緒に持ち込んだ医療知識は、そのまま日本民衆への仏の恩恵と受け取られた。それがまったく無縁な西洋と接触したのは、戦国時代の南蛮つまりポルトガルやスペインから来た人のもたらした異質の文明に、薬物医学知識も含まれていたからだ。ただしそれはもっぱら外科が中心だったという。その後の江戸時代の鎖国体制は、ヨーロッパ文明を遮断していたように見えるが、長崎のオランダ商館を通じてわずかに輸入されたオランダ医学書によって、19世紀初めには蘭学が盛んになる。
   このタイミングはある意味で絶妙だったと思う。江戸時代の日本人の読書愛好と知的好奇心は、全体から見れば一部の余裕ある武士や商人に限られたが、確かにオランダの医学書を読みこなし解剖学から病理学に至るだけの知的レベルを達成していたことは、やはり世界史を見渡して誇れることかもしれない。同時に、18~19世紀の西ヨーロッパでじわじわと成熟していった近代科学の実証精神が、医学医療の領域で紆余曲折達成したことを、異文化の極東の島国で短期間に「蘭方医」の実用段階まで咀嚼受容したことは、これも驚くべきことだったかもしれない。

「日本人が西欧の学術を取り入れた歴史は、日欧通行の開始から幕末開港以後に及ぶが、仮にこれを三期に分けることができる(佐藤昌介『洋学史研究序説』岩波書店、1964)。第一期は、ポルトガル・スペイン系学術の時代、第二期は、オランダ系学術(蘭学)を主とする時代、第三期は、開港以後、イギリス・フランス系の学術が加わった洋学の時代である。各時代を通じて、学術のうちに医術が占めた比重はかなり大きかった。医術は支配者も民衆もともに、もっとも期待を寄せた異国文明の要素だったからである。明治政府がドイツ医学の採用を正式に決めると、以後は、オランダやイギリス系の医学はすたれた。
 十六世紀半ばにポルトガル人、ついでスペイン人が渡来し、こういう南ヨーロッパ人をわが国では南蛮人と呼んだ。「南蛮」とは中国でいう中華周辺の四種族、東夷、西戎、南蛮、北狄の一つで「南方の異国人」である。ポルトガル人が伝えた医術(とくに外科)が南蛮流と呼ばれた。一六三九年、オランダ商館を平戸から長崎出島に移して日蘭通行時代が本格化した。北方のオランダ人は南欧人に比べて毛髪の色が赤く、紅毛人とあだ名され、かれらが伝えたヨーロッパ医術は紅毛流と呼ばれた。これもまた外科を特色とした。日本人がオランダ書を直接学び、外科術だけではなく、医学の全般に関心を向けたのは『解体新書』以来である。
 ポルトガル人の渡来(1543)、長崎出島の蘭館開設(1641)、『解体新書』(1774)、ペリー来航(1853)とおよそ百年ずつのステップで、日本人の「西欧学事始」は進行した。」梶田昭『医学の歴史』講談社学術文庫、2003.pp.280-281.

 『解体新書』に結実する解剖「腑分け」の知的感動は、翻訳の苦労から死体解剖まで『蘭学事始』に詳しい。しかし、江戸時代末期まで医の主流は漢方医や漢方薬、それに鍼灸按摩などの伝統療法だった。長崎の細い管を伝って入る書物による蘭学は、実用的で利用可能な形である限り学習を許されたが、医学と軍事兵器の知識がその代表で、キリスト教や社会思想的なものは遮断された。それでも幕末には、西洋列強の脅威を意識するほど蘭学の知識は求められもした。

「ヴェサリウスの『人体構造論』、コペルニクスの『天体の回転について』が刊行されたのは一五四三年、わが国に目を移すと天文十二年(1543)、この年の八月、一艘の中国船が嵐をのがれて種子島へ辿り着いた。船に乗っていたポルトガル人三名によって、初めてわが国に鉄砲が伝えられた。正確には、島の領主種子島時尭が、かれらの携えた二挺の銃を二千両で購入したのである。
 ポルトガル人はすでに三十三年前、インドからゴアを奪い、十四年前、マカオを支配下においていた。イベリア半島からの遠征者たちは、初めて喜望峰を廻ってから約半世紀を経て、日本へやって来たのである。
 日本の医学はこれからしばらく、南蛮の波に洗われるのだが、その頃の医学はどういう状態であったか、振り返ってみよう。
 十六世紀までの日本は、いうまでもなくアジア文化圏の一部として、中国医学の影響下にあった。
 〔注〕日本の古代国家(『大宝律令』、701)では、典薬寮に、医・呪禁(じゅごん)・針・薬園・按摩の五種をおいた。呪禁は道教の方術で、呪禁師は医師につぐ地位にあったが、八世紀後半に、按摩とともに公認を取り消される。こののち呪禁の一部は陰陽道に吸収されるが、陰陽道も室町末期、貴族の没落とともに卜占、加持祈祷に変質した。大安・友引などの日取り、星回り、相性などの俗信は陰陽道の名残である。典薬寮五種のうち、針と薬園(いわゆる漢方)は明治八年(1875)、「西洋七科の制」によって正統医学の座を失った。
 十二世紀末以来の日中関係は、かつての七~九世紀における通交が唐帝国への朝貢だったのに対して、もっぱら商人と僧侶の往来の形をとった。
 六波羅政権が成立したあくる年一一六八年に入宋した栄西は、建仁寺を建立して臨済宗の開祖となったが、『喫茶養生記』を書き、茶が養生の仙薬であることを説いた。将軍実朝に呈上されたこの本は、鎌倉初期の代表的医書、そのころ僧侶は、また医者でもあった。
 室町幕府が対明貿易に積極的に乗り出すと、僧医、在家の医者、鍼術家などの渡明が相次いだ。武蔵の田代三喜は一四八八年渡明、李朱医学に通じ、一四九八年帰国、古河にあって関東にならびない名医であった。坂浄運は一四九二年ごろ入明、『傷寒論』の医学を伝えたというが、この人の生涯については詳しくは判っていない。
〔注〕李朱医学とは李東垣、朱丹渓(ともに元時代の医家)の医学。室町、安土桃山、江戸時代にわたってわが国に大きな影響を及ぼした。「金元医学」ともいう。日本語の「病気」、「元気」は、宋以後の医学説(五運六気説)、とくに李朱派の影響の現れである(小川鼎三『医学の歴史』)。中国史は北宋のあと、金と南宋の併立、そして元の時代になり、元の使者が筑紫へやって来る(1269)のである。

 京都の曲直瀬道三(正盛、1507~94)は関東に下り、足利学校で儒学を学び、田代三喜から李朱医学を伝えられた。一五四五年、京都へ帰って医術を業とする。彼の主著『啓迪集(けいてきしゅう)』は、わが国最初の系統的な診療医典である。序文を寄せた策彦周良(さくげんしゅうりょう)は、二度にわたり対明交渉の主席をつとめた天竜寺の僧である。道三は鉄砲伝来のことも聞いていたにちがいない。二年の間に、すでに日本人は鉄砲を自力で製造するようになっており、その年、国産の火器は六百丁以上、野戦や築城の方法に大きな変革が訪れつつあった。
 当時、堺の繁栄はイエズス会の宣教師によってイタリアのヴェネチアに比せられ、京都、堺、博多の人口はヨーロッパの中世都市に伍していた。商人たちは生糸や鹿皮の買いつけに、中国南部はもとより、ジャワ、マラッカまで船を出していた。
 イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが来日し(1549)、ルイス・デ・アルメイダが豊後の領主、みずからもドン・フランシスコと教名をもった大友義鎮(宗麟)の援助の下に、大分に病院を開設したのは、日本にとってこのような時期であった。
 曲直瀬道三も同志と相語って入信し、門弟百人を率いて教会のために尽くしたという(海老沢有道『切支丹の社会活動及南蛮医学』冨山房、1944)。
  一五五九年から六二年にかけての大分病院の最盛期には、外来のほか、内・外科、らい病棟あわせて百人以上の入院患者を扱った。外科はポルトガル流で行われたが、内科は漢方であった。宣教師も漢書を学び、伝道旅行には漢方薬を携帯した。
 海賊たちのルネサンスを、日本人は南蛮人とともに生きた。信長の安土城は、規模の壮大さと設計の巧みさによって、宣教師たちを驚かせるに十分だった。商人たちは世界の交流の巷に入ってゆく。万能人、自由人であった本阿弥光悦(1558~1636)がガリレオ・ガリレイと生没年をほぼ同じくするのは偶然ばかりとは思えない。ルネサンスは西と東で花開いたのである。
 一五八七年(天正十五年)、秀吉は宣教師の国外追放を命じ、以後、京都や堺の町から異国人は日に日に減っていった。「なにがなんでも、かれらは外国人をしめだそうとした」(ネルー『父が子に語る世界歴史』大山聡訳、みすず書房、1959)。
 ネルーは続けてこういう。「日本のこの反応は同情できる。むしろかれらが、ヨーロッパ人とほとんど交渉がなかったにもかかわらず、宗教という羊のころもをかぶった帝国主義の狼を看破する炯眼をもっていたことこそ、驚くべきことだ」。インドはゴアの地をポルトガルの艦隊に奪われたのは一五一〇年、ザビエルは四二年にこの地に到着、ここから日本への伝道に向かったのである。なおネルーはこれを獄中で綴っているが、かれの日本理解こそ驚くべきだ。かれは「官女ムラサキ」の(源氏)物語にも言及している。
  キリシタンの医学は南蛮流外科として残ったが、切支丹病院は各地から姿を消していった。ヨーロッパではこれに前後して、オランダがスペインの支配を脱して独立し(一五八一)、イギリスでもスペインの艦隊を破る(一五八八)。産業資本家が中継貿易業にとって代りつつあった。
  十六世紀の日欧通交期に、ヴェサリウスの解剖学は日本へ渡来しなかった。二百年後、出島商館のオランダ人がもたらした一冊の解剖学書、日本医学に衝撃を与えた『ターヘル・アナトミア』こそ、姿こそ変われ、かつて種子島の年、バーゼルの地で刊行された「ヴェサリウス解剖学」だったのである。」梶田昭『医学の歴史』講談社学術文庫、2003.pp.282-287.

  医とは人の身体の病変を治療し回復させるものだと考えられたが、その肝心の身体について、人類が正しい解剖学的知識を得たのは16世紀半ば、日本人が初めて種子島で銃を手にした時代だった。しかし、その後も日本では人間の身体の内部をこの目で確かめようと考える医者はおらず、中国の自然秩序に重きを置く生気論的身体観が支配的だった。それがよかったか、悪かったかは一概に言えないが、明治以降の西洋的近代化の圧倒的な流入を見たときに、少なくとも日本人の医学に対する態度は西洋医学の必死の学習と、その実用的効果に目を輝かせただろうことは疑えない。
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