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33年前の日本は”左翼”の威張る経済大国だった?今は? 朝鮮戦争のこと

2018-07-30 17:30:31 | 日記
A.土俵のずらせ方
 江藤淳×蓮實重彦の東京駅ホテル対談の末尾で、さんざん他愛ない雑談のあげくこの本を売れる価値のあるものにするために、蓮實氏は巧妙に仕掛ける。江藤氏はまんまとそれに乗ってしゃべる。対話の真の妙味は、お互いの近い部分、共有する部分だけで話を合わせ、相手の好まない、あるいは違いの際立つ部分を押し隠して仲よくするのは三流のやり方である。わざとおだてながら相手の弱みを突いて、自分の土俵に引き込み論破してどや!というのは二流のやり方。一流は、そんな野暮なことはしない。相手の喜ぶ話題で共感を引き出しておいて、いつのまにか土俵をずらしていき、それを最後まで気付かせずにちゃんと互いの違いの意味を際立たせる。さすが。

「蓮實 非常に不思議だと思いますのは、われわれ憲法なんてもの認めないわけですよね、原理として。
江藤 そうです。その通りです。
蓮實 憲法なんていうのは認めない。ただし具体的なさまざまな文脈に従ってそれを利用してもかまわない。しかし、憲法に規制されて生きているわけではない。
江藤 その通りです。
蓮實 法というのはもっともっとでたらめなものだし、第一、法がどのようにできあがるかというのを考えてみれば、それに対してもっとでたらめに、臨機応変に対応しなければいけない。これは憲法以前のわれわれの生きかたの、原理といってもいいですね。ですから憲法賛成、憲法反対ということ自体の、改憲しなければいけない、改憲してはいけない、という議論の不毛性みたいなものですね。これは現場の人は十分わかっているはずだと思ったんですが、実はそうでない。いざというときには本気で憲法持ち出すためにあるんですね。
江藤 そのようですね。
蓮實 問題はむしろそこのことなんで、もし憲法そのものがほんとうに生活に密着したものなら、憲法そのものによってわれわれの生活がすでに律しられているならば、憲法は日々変わっていかなければいけないだろうという感じです。ですから官僚が、それをユーモアで言ったのならわかるのですけれども、ほんとはそうじゃないというところが、政治家を含めて全員が、おそらく全体主義化しているんじゃないかという感じがいたしますね。
江藤 ええ、わたしもそう思いますね。ほんとにそう思います。おそらく正確にいえば、その官僚が金科玉条としているのは、憲法典の条項だと思うんですね。要するに成文化された、いわゆる憲法典です。憲法典なんてものに具体的な生活が拘束されるわけがないので、イギリスのように成文憲法がないところが、いちばん利口な政治をやっている国の一つと考えられていることを見ても、このことは一目瞭然だと思います。それにもかかわらず、いつのころからか、本気に大真面目でそれを信じる“頭の不自由な人”が増えている。これはさっきの主義者、ないしは“左翼”が増えているということと同じだと思うんですね。たいへん非人間的なことだと思います。
蓮實 で、それはまず、憲法を問題にしたときに出てくる非常に非抽象的な命題だと思うんですね。ですから生活の場でそれをいちいちくつがえしていかなければいけないということがあるわけですけれども、そのときに、江藤さんは一種のサーヴィスなさいますね。(笑)つまり遊んでない連中に対して、いくらなんでもその遊びは貧しいんじゃないの、あなたがたのやっているのは。これがたいへんな誤解を生むし、主義者的な反発を受ける。それを楽しんでいらっしゃる。(笑)という感じもするわけですね。
江藤 そこまで言われれば、なにをかいわんやだ。(笑)
蓮實 これは昨日もちょっと話題になったところですけれども、江藤さんはいま旧憲法はよかったというふうにとられる発言をなさいましたね。そうすると、本気で新憲法はいいという人たちが出てくるわけですね。これは旧憲法にしろ新憲法にしろ、われわれにとってほとんど関係のないことです。われわれに関係のある具体的な事象というのは確かに出てくるかもしれないけれども、日々の生活とは違うということがあるんですけれども、実にこの不毛な、新憲法主義者と、江藤さんが旧憲法主義者だというふうに思われ、確かに憲法読んでみると、どっちが面白いかという話はあると思うんです。それからどっちがよく書けているかとか、どちらが法律として完璧だとかいう議論は成り立つと思うんです。だけど、原理としてわれわれはそれを認めないんだと、生活の場においてはですね。これを公に話題にするとまず官僚はそういうことをしてはいけないということにもなるかもしれないし、われわれも国家公務員だからほんとうはいけないのかもしれないけれども、(笑)いくらなんでもその議論はないじゃないという、不毛な議論ですね。
江藤 そうですね。まァただなんというか、現行憲法のほうがいい文章だというような人が出てくると、やっぱりちょっとそれはおかしいぞと思うんですね。まァ旧憲法だってどうせ法律用語で書いてあって、別にたいして美しい文章じゃないけれども、(笑)いまのような変なやつよりは、まだあれは国語になっているじゃないか。
   〔中略〕
蓮實 その場合にね、ぼくですと、あるいはわれわれの世代というのか、世代的な問題かどうかわかりませんけれども、憲法の話はしないというですね、護憲とも改憲ともいわない、それがぼくのとっている態度なんですね。つまり「問題」にしない。江藤さんは、遊びとおっしゃったでしょう。ある点ではこれは議論可能なんだというふうに姿勢をとっていらっしゃいますね。たとえば純法律的にいってもこれはできる問題だろうし、それからしないと奇妙なことになってくる場合もあるし、というお考えをお持ちなのか、一応憲法のお話をご自分からなさるわけですね。その場合に、これは正直伺いたいなというと、非常にばかばかしいあれなんですけれども、憲法議論をなさることにやはりある種の意味をお認めになるのでしょうか。しないと困るというような‥‥‥。
江藤 それは今日、蓮實さんがサーヴィスしてくださって、(笑)この話題を出してくださったので、たいへん心強いと思っているのですが、わたくしは、憲法の議論をするのはおかしいからそんなの真平御免だという人たちが大勢いてもちっともかまわないんですね。それは健全なことだと思うんです。ただぼくの場合には、留学地がアメリカだったということがありますね。わたしが多少知っている外国といったらアメリカで、アメリカは過ぐる大戦の主たる敵国であり、現在でも日本の存立にいちばん大きな影響力を持っている国といわざるをえない。」江藤淳・蓮實重彦『オールド・ファッション 普通の会話 東京ステーション・ホテルにて』中央公論、1985.pp.222-226.

 当時江藤氏が主張していた憲法論は、交戦権の否認を書いた9条への批判、要するに交戦権こそ国家の必要条件であってそれを否認する憲法は、アメリカが日本を半国家として支配するものだと考えるわけで、当然9条改憲の立場になる。1985年の日本でそれをストレートに主張することはかなり少数派で、とくに文学・思想・学問の世界では異端視される保守派右翼とみられる状況だったと思う。それを踏まえて、蓮實氏は自分は憲法について議論はしない、といっておいて、どんどん江藤氏から憲法論を引っ張り出す。それは“左翼”への嘲りと嘆きを当然導く。

 「蓮實 でも、その場合どうなんですかね。八百屋さんでもいいんですけれども、江藤さんがそういうお仕事をなさるときに、もっと別のものを期待していらっしゃると思うんですよ。もっと別のものというのは、たとえば、一般化された“左翼”ですね、日本は。通産省の元官僚あたりまでが無意識に“左翼”的な言辞を弄する時代ですから。そのときにいちばん江藤さんが期待していらっしゃるのが、左翼のなかから、江藤さんのような商売をする人が出てきてほしいといっていらっしゃるんじゃないかと思います。つまりおれくらいのエネルギーを出してほしいと。おまえらは、まともな商売していないじゃないか。
江藤 それはある。真面目にやれ。プロならプロらしくやれ。
蓮實 ぼくはどちらかというと、文化的な形勢としてはたぶん左翼だと思うんです。
江藤 うん、なるほど。
蓮實 左翼だというのは、なにしろ東大仏文ですしね。(笑)ただし、いまいちばん情けないのは、左翼発言者たちの、まず礼儀のなさですね。さっきおっしゃったような意味で。それから主義に殉ずればいいのではないかと思っている程度の発言に対する責任のなさね、これは世界各国をみていくとアメリカでさえ左翼はもっと面白いですね。
江藤 そうです。アメリカの左翼、なかなか面白いです。
蓮實 アメリカでさえ左翼は面白い。フランスの左翼は堕落したにしても、日本の左翼よりはやっぱり面白い。“主義”を超えたでたらめな力を吸収する装置としていまだに機能している。そうした魅力を左翼が持とうともしない日本で、ひそかにぼくがめぐらしうる陰謀なのかと思うのですけれども、こうして江藤さんとお話する目的は、やはり「頑張れ左翼」ということ以外にないんじゃないか。だれもぼくを左翼とは思ってくれないし、ぼくも、いわゆる制度化された左翼というものに関しては涸渇した記号以上のイメージをもっていない。ぼくが左翼だなんていうと、老舗の“左翼”の方々は怒ったり笑ったりなさるでしょうけど、やっぱりしなやかな論客がいてくれないと困るわけです。残念ながら吉本さんは左翼じゃないんですね。すると、日本の将来は暗いんじゃないかと。
江藤 そうですね。その左翼はひげカッコなしの左翼という意味でおっしゃるのだと思いますけれども、吉本隆明さんは、もともとラジカルな人でしたが、そのラジカリズムがだいぶ希薄になってきたようですね。お年のせいか、健康のせいか知りませんけれどね。ぼくは左翼からひげカッコをとるものは真のラジカリズムだと思うんですよ。ぼくはラジカルなことが好きで、というか生来の体質なのかもしれないけれども、(笑)まァ制度というのはラジカルじゃない。非常に隠蔽性の高いものですから、制度化されたものは左翼でも右翼でも面白くないんですね。その行動や思考がどっちに傾いていようと、やっぱり人間が少しでも自由にものを考えようとするときには、現代の宿命でラジカルにならざるをえない。そのラジカリズムをどんな踊りにしてみせるかというのは、それぞれの芸でしょうけれども、ほんとうにぼくは、そういう意味でのラジカリズムを求めたいですね。そういうラジカリズムというものは柔軟なものです。運動性に富んでいるんです。まむしのようにピューっと飛ぶようなものでもあって、やはり礼儀や常識がないところに真のラジカリズムは育たないと思うのです。その上であるとき、礼儀も常識もかなぐり捨てる一瞬がある。それでなにかをし遂げるのです。そのためには、捨てるものの重さが、それが自分にとって、客観性があるかないかは別としていかに尊いものかということを知っていなきゃね、ラジカルになれっこないんでね。衝立に向かって怒鳴っているような形のラジカリズムなんてあるわけがない。だけど、そういっちゃなんだけれども、一度っきりの人生なんだから、もっと面白おかしくやったらいいんじゃないかと思うんですけれどもね、一般にはあまり面白おかしくないんですね。ぼくは大江君のことをきのうも言ったけれども、野上弥生子さんが亡くなって、新聞に書いているのを見たら、この人はほんとうになにが面白くて生きているんだろうと思った。なにが面白いんだろう。さぞつまらないだろう。ぼくは大江君という人を若いころよく知っていたけれど、こんなつまらないことを書く人じゃなかったですね。小説書いているときは、あんなもの書いているときよりは少しはましかもしれない。それだってね‥‥‥。文壇官僚みたいになっちゃって、平和と民主主義と基本的人権の。」江藤淳・蓮實重彦『オールド・ファッション 普通の会話 東京ステーション・ホテルにて』中央公論、1985.pp.232-235.

 もう勝負はあった、という感じである。結局江藤氏は、形骸化した戦後民主主義のピエロとして大江健三郎を持ち出して終る。蓮實氏が自分は左翼だとはっきり言っているのに、昨日からずっと親しみをもって対話してきたために、この作為に気がつかない。つまり、1985年には、もう昔の左翼も右翼も、改憲も護憲も、土俵がずれてしまったのに気がつかない。ポストモダン派は、この状況にテキストを読み替えれば新しい潮流が出てくると言っていた。蓮實氏を含めこの戦略は、左翼のリニューアルとして出てきたと思う。
 江藤淳は妻の喪失に耐えられず惜しくも死んでしまったけれど、現在の日本は85年当時と逆に、文化的な形勢も政治的状況も、官僚も政治家も学会でも“右翼”が威勢が良くて、改憲は目前まで来ている。「左翼頑張れ」ではもうオールド・ファッションで身動きが取れない。蓮實先生はしなやかに遊んでいるが、ラディカリズムをやるには40代の元気な人が出てこないと‥‥‥。



B.朝鮮戦争の功罪?誰にとっての・・が問題だ。
 米朝首脳会談で、トランプと金正恩は朝鮮戦争を終わらせるぞと言ったはずだが、ただ言っただけなのか、ほんとに終わらせるのか、まだわからない。戦争というのは、人がたくさん死んだり、街が壊れたり、悪いことばかりのようだが、「よい戦争」がある、という立場からは、戦争をしなければもっと悪いことが起きたという理屈だし、「わるい戦争」だという立場は、要するに負けてしまったからそう言うしかない、という理屈になる。でも、そんな後付け論ではなく、現実の戦争を見ると、戦争でかなり美味しい利益を得る者が必ずいて、不幸にも死んだり傷ついたり者はかわいそうな犠牲者で終ってしまう。朝鮮戦争の場合、誰が得して誰が損したかが問題だ。犠牲者はもちろん朝鮮半島の人々なのは間違いない。

 「耕論 朝鮮戦争と戦後日本:
南北と在日 家族も分断:作家 朴 慶南さん 
 朝鮮戦争が始まった1950年、私は生まれました。生年月日を書くと、戦争と家族のことをいつも思います。
 父は、日本の植民地支配下の朝鮮半島南部で生まれました。7歳の頃、日本に先に来ていた私の祖父を頼り、家族で来日しました。やがて父は鳥取で飛行場をつくる仕事に就き、朝鮮人のまとめ役になったそうです。
 日本では戦後も朝鮮人への厳しい差別があり、まともな仕事につけませんでした。父はアメを売って、日々の生活を何とかしのいでいました。
 朝鮮戦争の特需は、日本経済に大きな弾みとなりました。「金へん景気」と言われた頃です。父は、はかり一つでくず鉄屋を始めました。
 同じ民族が南北に分断され、血を流しました。父はそのことでいつも心を痛めていました。対立は、我が家にも影響を及ぼしています。家族、親戚は、南、北と日本に引き裂かれているのです。
 父方の祖父は59年、「帰国事業」で日本から北朝鮮に渡りました。祖父は、長男である父に一緒に行くよう求めました。私は9歳でした。父は家族を連れて行くことに不安を感じたのでしょう。日本に残りました。代わりに年の離れた父の弟が行きました。
 北朝鮮は、戦争で米軍の激しい空爆を受け、荒れ果てていました。父は毎月のように薬や粉ミルク、服などを段ボールに詰め、お金も送りました。弟から「もし兄さんが韓国籍を取れば、私たちはこの地で生きていけない」と言われ、朝鮮籍のままでした。このため父は長い間、故郷の韓国に行けませんでした。
 2000年6月、金大中大統領と金正日総書記の間で史上初の南北首脳会談が開かれました。父はテレビに釘付けでした。「南北に自由に行けるようになる」。そんな喜びもつかの間、現実は、そうたやすくはありませんでした。
 在日社会も韓国を支持する民団と北朝鮮を支持する総連という組織が、対立を深めました。家族や友人の間でそれぞれ別々の組織に属する人もいます。いつもけんかしているわけではなく、日常の付き合いが続いていることも珍しくありません。
 2月の平昌五輪では、南北の選手団が朝鮮半島をかたどった「統一旗」を掲げて行進しました。あの旗を見ると胸が熱くなります。そして4月の南北首脳会談、6月の米朝首脳会談。私は一日中、テレビを見ていました。
 朝鮮戦争は休戦のままです。昨年の今頃は米国の北朝鮮への攻撃が取りざたされました。まずは戦争を終わらせ、不安定な状況を解消して欲しいと思っています。
 父は7年前に亡くなり、遺灰をふるさとの川にまきました。自由に行けなかった南の地で、いま眠っています。 (聞き手・桜井泉)

 朝鮮半島は日本の隣国であるだけでなく、植民地支配の過去があり、日本にはいまも「在日」の人たちが多数いる。分断国家に家族親族友人のいる人たちは、そのことを常に忘れることはできないだろうが、大多数の日本人はそのことを知らないか、関心がないのは、困ったことだ。

「軽武装・経済重視」明確に:東京大学名誉教授 武田 晴人さん
 朝鮮戦争が戦後の日本経済に与えた最大の影響は、進む方向性を大きく絞り込んだこと。経済成長のために何をすべきかが明確になりました。
 戦後改革で国のかたちがある程度決まった後、市場経済に戻そうとしたのが1949年のドッジラインです。統制をやめ補助金を廃止しましたが、それは劇薬にすぎた。処方箋は間違っていなかったかもしれませんが、当時の日本には体力がなく、副作用でふらふらになってしまった。
 カンフル剤になったのが朝鮮戦争の特需です。敗戦後の日本は外貨不足に苦しみましたが、特需により一時的に解消されます。米軍の物資調達がドル払いだったからです。
 当時の日本人は、特需が一時的なものだということはわかっていました。外貨に余裕がある間に輸出を拡大しなければならない、貿易を介してしか経済発展はないというのが共通了解でした。
 朝鮮特需でブームに沸いたのは、小麦や砂糖、綿糸など軽工業や食品工業が主体でした。しかし、いずれアジア諸国でも軽工業が発展するだろうから、そこで競っても将来はない。他のアジア諸国がまだやっていない機械や金属などの産業を育て、産業構造を重化学工業化すべきだと当時の政策担当者は考えました。より高度な産業へのシフトが、50年代後半の産業政策、貿易政策の焦点になります。それが高度成長につながっていくわけです。
 ただ、実際の経済成長とはずれがありました。50年代後半から、日本の貿易依存度は低くなっていきます。政治家や官僚は貿易、貿易と騒いでいたけれど、現実には内需依存で日本経済は拡大したわけです。最初は設備投資が、後を追うように個人消費が伸びた。生産と雇用が拡大し、賃金も上がっていきました。
 朝鮮戦争によって、東アジアの地政学的なかたちが決まりました。日本が西側陣営に明確に属するようになったなかで、「軽武装・経済重視」を実現できたことは、朝鮮戦争のプラスの影響だったといえます。マイナスは、朝鮮半島と中国という大きな輸出市場を日本が失ってしまったことです。中国は、戦前の日本にとって輸出の3割近くを占める市場でした。それがなくなったことは、経済発展の制約になりました。
 朝鮮戦争がつくりだし、日本の高度成長を支えた条件は、70年代には消滅しました。入れ替わるように韓国、台湾、そして中国が急激に経済成長し、90年代以降には東アジアに巨大市場が出現します。全世界の目がこの地域に向くようになりました。
 遠くない将来、朝鮮戦争が終結すれば、経済面での世界地図の大きな変化に、政治がようやく追いついたことになります。 (聞き手 編集委員・小沢智史)

 日本にとって、とくに戦後の疲弊していた日本経済にとって朝鮮戦争は明らかにプラスに働いたというわけだ。そのことももう忘れている過去だが、日本人は朝鮮半島に足を向けては寝られない。

 自衛隊・沖縄 今に連なる: 中京大教授 佐道 明弘さん
 多くの日本人は、朝鮮戦争が戦後日本にどれだけインパクトを与えたのかを忘れがちです。政治や経済、社会に、はかりしれない大きな影響を与え続けました。あの戦争がなければ、日本はまったく違う国だったかもしれません。
 1950年6月25日に突然、戦争が起こらなければ、後に自衛隊の前身となる警察予備隊が同年8月にできることはあり得なかったでしょう。日本に駐留していた米軍を朝鮮半島に出動させたために、必要とされたからです。
 終戦直後から、再軍備に向けて、旧陸海軍のさまざまなグループが水面下で活動していましたが、日本政府にも国民にも、再軍備についての展望や広範な合意はありませんでした。世界的な戦争がすぐ近くで起きてしまったから、マッカーサーの指令で、国民的な議論は二の次のまま、つくられました。
 日本が独立を回復したサンフランシスコ講和条約と旧日米安保条約の締結も、朝鮮戦争がなければどうなっていたでしょう。日米交渉にもっと時間がかかり、独立がずっと後になった可能性があります。現在とは違う日米関係や対外関係になっていたかもしれません。こうした点からも、現在まで続く戦後日本のかたちがつくられたのは朝鮮戦争があったからだといっても過言ではないと思います。
 日米安保条約でアメリカが一番欲しかったのは、朝鮮半島に何かあったときに備えるために、この地域で自由に使える基地でした。1980年代末から90年代にかけて盛んに「冷戦が終わった」と言われましたが、それはヨーロッパのことで、アジアでは、朝鮮半島が典型ですが、冷戦の構図はそのままでした。
 朝鮮戦争ではイレギュラーな形で、歴史上例のない国連軍が編成され、日本国内の米軍基地にもまだ国連軍の旗が掲げられています。そのうち3カ所は沖縄の基地です。
 現在、日本の国土の0.6%に過ぎない沖縄県に、在日米軍専用施設の7割以上が集中していて、普遍間などその大多数を占めるのが海兵隊の基地です。海兵隊は50年代以降に反米軍基地運動が高揚したために本土から沖縄に移りました。今も沖縄に常駐している理由は、朝鮮半島有事の時に米国の要人を救出することが最大の任務だからと考えられています。朝鮮半島情勢は沖縄にも大きく影響しているのです。
 朝鮮半島の状態がどう変わるのか、まだ予断を許しません。しかし、日本は朝鮮半島やアジアの国々とどのような関係を築くのか、自らの安全をどのような防衛戦略で確保しようとするのか、しっかりと立ち止まって、国民的な議論をして考えるべき時でしょう。 (聞き手・池田信壹)」2018年7月28日朝刊、13面オピニオン欄。

 米朝韓が平和条約を結んで朝鮮戦争が終結し、北朝鮮が「普通の国」(核保有国の可能性を残すかもしれないが)になるとしたら、米軍駐留の意味は変わり、安倍首相が強調してきた「東アジアの安全保障環境の激変」が、これまでとは別の方向に変る。中国の軍事的拡大もあり、そう簡単にいくとも思えないが、少なくとも今までとは別の配置図を考えておく必要はあるだろうな。
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江藤-蓮實対談・・・世代論の構図と時代  大江健三郎の異質。

2018-07-28 15:20:22 | 日記
A.世代意識と個人意識
 誰でも自分がある日この世のどこかに生れたわけで、その生まれた時代と場所のもつ意味、自分がどういう時代のなかに生まれ、どういう場所で成長したかは、後でだんだんわかってくるだろうが、そこを生きている現時点ではわからないし考えられない。とくに小学校に入るまでの幼児期は、個人としての自分も、周囲の人間関係も、「社会」という概念はまだないから、時代も世代もイメージしていない。ただ、自分よりずっと年長の大人たちのなかで、可愛がられたり、怒られたり、教えられたりして過ごす。実はその幼児期をどう過ごしたかは、ずっと後になって自分がどういう人間かを考えたとき、いろいろな影響を蒙っていることに気づく。まずは親、兄弟姉妹、親族、そして交際のある人々。一緒に遊ぶ友だちは、ほぼ同じ地域の似通った環境にある子どもたちで、それが上の学校に行くにつれて、多様化するとは限らない。時代の特徴は学校における同世代、つまり同級生とか同期生の共通体験になるから、「ある世代」というものが共通意識を形成して、「上の世代」や「下の世代」との意識の差異を強調することにもなる。
 バブルに向かう豊穣な1985年4月に行われた江藤淳と蓮實重彦の1泊2日の対談記録、『オールドファッション』にも大学教師として学生に向き合った世代論の部分がある。

 「蓮實 三十五くらいまでの連中はどっかで、この野郎と思っているのがわかったんです。ところがいまの学生たちは、この野郎とかいう、そういう挑戦みたいなものを、いつごろかわかりませんけれども、それをごく簡単に共通一次の世代だというふうには言いたくありませんけれどもね、教師は教師なんだという制度性をかなり安易に認めているという感じがして、それがちょっとぼくは‥‥‥。
江藤 なるほどね。それはやはり東大の駒場で教えていらっしゃるからということもあるんじゃないでしょうか。つまり、将来専門を同じくしようとする学生は、当然昔から先生に対する、さっきおっしゃった愛憎、ないあわされた感情をもつに決っている。先生をなんとかこえなきゃならない。しかしできるからあの人は先生なんだというというものがあったと思うんです。わたしのいる場所はちょっとまた特別で、つまり理工系の学生しかいないというのは、そういう意味では条件が違うんですね。つまりこっちからしてみると、数学や物理で学生と競争する意味が、はじめからないんですね。それはもうお互いにわかりきったことで、もうその問題は終わっちゃっているわけですよ。しかし、逆にいうと語学や文学でくれば、少なくとも役割の定義上われわれのほうが圧倒的に強いことになっている。そこでは、それぞれ相互に問題がはじめから解決されてしまっていて、コンプレックスの生じる余地がないんです。これはある意味ではとても居心地のいい環境です。もっともある意味では危険で、緊張感を持ちつづけていないと、無限に安易になれる可能性もある。わたしは今年で十五年目になるわけですけれども、そのうちの、そうですね、はじめの三分の一くらいは、この危険をしょっちゅう感じてました。自己規制していないと、とんでもないことになる。なにを言ったってみんなほんとだと思って聞いているんですからね。それはたいへんなことで、文科系のよくできる学生を相手にしているとき以上に、こちらがしょっちゅう自分を律しながらやっていかないと、無責任になってしまう恐れがあるんですね。ですからなんといったらいいんでしょうね。つまり彼等がわたしの授業をとらなければ一生絶対体験しないであろうことを、どれだけ一生懸命やるようにしむけるかという術が無視できなくなってくるんですね。まァどんな学生に教えるときでもそうでしょうけれども、力を入れるというか、一生懸命教えると、やはり通じるものだなという感じがしてきたのは、最近四、五年でしょうかしらね。その通じかたが多少とも深まってきたような気がするので、教師というものは、これは三日やったらやめられないものかなと、(笑)わたしは自分がこんなに教師業が好きだとは思っていなかったんです。だけれども、どうも好きであるかのようですね。少なくとも工業大学の教師は、大変気に入っておりますね。
蓮實 でも、いいことでした。(笑)
江藤 まァね。でも、それとは別に、蓮實さんのおっしゃることは、分かるような気がします。なんというのかな、そういう屈折した思いがなくなって、制度としての教師を無抵抗に、一方的かつ安易に認めてしまうところはあると思います。おそらく一般学生、東大の学生にいちばんあらわれているのかもしれないけれども、それはあるでしょうね。
蓮實 まァ中学高校、小学校以来ですけれども、とくに中学で、われわれのころは教師は当然敵であるわけですね。親父が敵であったり、年長者が敵であったりするのと同じような形で。いまでも、たとえば校内暴力というような形で反発があったりはしても、どうも余裕のある軽蔑を教師に対してしていないと思うんです。これはいつごろからのことかわかりません。たぶん三十五、六の人たちもそうなのかもしれない。その関係をみてますと、どうも文化一般にもそういうことが現われていて、もっと下の連中になっちゃうと価値の相対観みたいなものがかなり大幅に植えつけられていて、もう軽蔑すらしないと。
江藤さんはこの前二人の若い批評家と対談なさっていましたね。あれをちらちら読んでいまして、あの人たちは軽蔑を知らないんですね。彼らは別に学生ではなくてかなり年なんですね。なにか自分の思っていることを正確に相手に伝えて真剣に相手と向かい合うと、そのままでコミュニケーションが成立すると思っているんですね。
江藤 そうです、そのとおりです。
蓮實 そら恐ろしいといえばそら恐ろしいんですが、正当な思想を正当に表現しあっただけでは絶対に伝わらないなにかがある。とりわけ文学なんていう概念はですね。自分をわたしですということだけではだめなんで、それを否定するところからはじまるわけですね。そこを非常に素直に自分をわたしですと。わたくしが江藤さんについてこう思っていますという、まァ素直といいますかね、頭だってあまりいいとはいいかねるような、そういう対応の仕方をしていますね。戦略なしといえば戦略なしなのか、誠実といえば誠実なのか。しかしそれでは文学という芸が生まれる余地がないではないか。
江藤 ぼくもそう思います。
蓮實 おそらく、かなり正当に自分を読んでくれるなというふうにお感じになったにしても、あれじゃァ面白くないんじゃないかという気がするんです。
江藤 おっしゃるとおりなんですね。つまり人間同士で話をしているという感じが、目の前に確かに二人、若い批評家が座っているのだけれども、その感じが伝わってこないんですよ。なにかブラウン管が二つおいてあって、等身大の人の形が二つ映っている。そこから声が出ていて、いろいろ名論卓説が聞こえて来るのだけれども、いったい全体自分のことなのかなァという感じで、切実な言葉が聞こえないんですね。それに対してこっちもなにかしゃべっているのですが、どんなシステムを通じて先方に伝わっているのか、もう一つ得心が行かない。これはどうも人間同士が対坐して、普通の会話をしているというようなこととは、ちょっと違うんじゃないか。したがって、あまり面白くないし、とまどいもするし、くたびれもする。わたしは、お二人とも、それぞれ戦術もたてていたんだろうと思うんですね。話の途中で一服することになり、中座してちょっと手洗いに立ったんですよ。そしたら、手洗いのなかで雑誌の編集長とその二人のうちの一人が相談しているんだ。(笑)これからどういうふうにもっていこうかってやっているんで、(笑)こっちは大変まずいところへ入っちゃったような気がしてね、失礼といって別の手洗いに逃げたんですよ。(笑)
蓮實 配慮を示されたわけですね。
江藤 だから戦略も戦術もおそらくあるんですね。ただないのはなにかといったら、なんていったらいいのかな、これは言葉が適切かどうかわからないけれども、礼儀がないんですね。礼儀というのは、つまり律義にまじめにしゃべったら相手に通じるとは限らないということを悟ることがまず礼儀で、つまり言葉の不完全性については、先刻わたしも承知してますよというところを見せないと、相手に気持ちが伝わらないんですね。それがないんだと思う。この頃は流行らなくなったけれども、大学紛争時代に活動家の諸君が、いまやァーわれわれはァーなんとかでェーかんとかだァーキャァーってやっていましたね。あれをそのまま会話のレヴェルに下した話し方なんですね。全共闘と関係があったのかどうか知らないけれども、あそこにあった一種の言語上の病理が、そうとは知らぬ間に、若い知識人のなかに沁み込んでいるんですね。だから礼儀と常識ですね。いちばんくだらないことで、知的でないことのように聞こえるかもしれないけれども、それがないと、知識も知も発展していかないようなところが、人間にはどうもあるんじゃないかと思いますね。ぼくははっきり言って、なんでも申し上げるけれども、柄谷君の欠点はそこだと思う。あの人は礼儀も常識もなくて単に頭がいいだけだと思う。(笑) 
蓮實 (笑いながら)‥‥‥フーンという以外ないな。(笑)
江藤 別に、(笑)おっしゃって頂かなくても。‥‥‥だから、それじゃァ、やはり文化にならないんですね。無限に痩せ細っちゃうと思うんですね。
蓮實 わかりますね。わかります、というのは、いま文化にならないとおっしゃったのは、江藤さんが、やはり文化になさりたいわけですね。
江藤 そうですね。
蓮實 それは非常にぼくもよくわかるんです。ですからサーヴィスなさるわけでしょう。
江藤 ええ、まァそうでしょうね、きっと。」江藤淳・蓮實重彦『オールド・ファッション 普通の会話 東京ステーション・ホテルにて』中央公論、1985.pp.204-210 .

 この会話の行なわれた1985年に、50歳前後の二人の文人からみて、戦前から名をなした師匠的な上の世代として小林秀雄、河上徹太郎から渡辺一夫、大岡昇平、同世代として名が出るのは大江健三郎や石原慎太郎、下の世代の知識人として想定されているのは、40代半ばの柄谷行人、30代の渡辺直巳、もっと若い20代末の田中康夫や浅田彰あたりである。教師として学生を評する部分にある、「三十五ぐらいまでの連中」とはいわゆる戦後生まれの「団塊の世代」で、全共闘がらみの学生時代を知る連中である。彼らは教師に反感や侮蔑感をもっていたが、その後は制度を素直に受け入れて、ある意味まじめに教師のいうことを聞く。ぼくはちょうどこのとき三十五だから、教師を「この野郎」と思っていた最後の世代になる。

 「レジスタンスというのがあって、国が割れましたね。それはフランス人にとってやっぱりいいことじゃなかったんだなと、そのときつくづく思いました。レジスタンスが悪いというんじゃないんです。国が割れて、お互いに通報し合うとかいうようなことが、おそらくあっちこっちであった。フランス人の人間観は、もともと日本人ほど甘くはないだろうけれども、それにさらに一層いやな影をつけたなァと思いました。日本は戦争に負けたけれども、そういうことはあんまり眼につかなかったから、その意味ではしあわせなのかなと思ったことがあります。それはずいぶん前のことで、六四年の夏でした。なにをきっかけにしてそう思ったのか、よく覚えていないんですけれども、あるときハタとそう思ったんです、だからレジスタンスは善でナチ協力は悪だというような簡単なものじゃないんで、まァそれは政治的には戦後そういうことになったかもしれないけれども、この国でその間にかもしだされた人間と人間との間の付き合い方の雰囲気には、どうもひどく荒れ果てたいやなものがあるぞという気がしたことがあります。それはおそらくかなり特殊なもので、歴史的に積み重ねられてそうなったというものとはまた別のものだろうと、思ったことがあるんですがね。日本でそれと一脈相通じるものがあるとすれば、やはり戦後の占領時代に与えられた、強烈な政治的方向づけを伴った「問題」性ですね。まァ民主主義なら民主主義という。これがみんなを“左翼”にしちゃっているんじゃないかと思います。ぼくなどはそういう方向づけに対する一種の相対感覚から始まっているんです。われても。に対する一種の相対感覚から始まっているんです。戦争中はお国のためで、戦後になってからは民主主義といわれても、ハイそうですかとオイソレと信用するわけにもいかない。昨日まで別のこと言っていた先生が、小学校の先生、中学校の先生、みなさん今度は新しいことを教えなくちゃならなくなって、うまく切り替えられない人は追放されてやめていったというようなことがありましたので、やはりどうしたってそこは嘲笑的になるし、相対的にもなる。もっと若い人たちは、ためらいなく、おだてられて、君たちは100パーセント新制中学の出だ、君たちこそ民主主義の子だ。君たちが日本を背負って立つ、新生日本はこれこれしかじか。新憲法ほど素晴らしいものはないと教えられて、ほんとにそう思いこんでしまった。ちょうどぼくらが戦争中、忠君愛国と思いこんだのと同じようにそう思いこんで、そのお題目に対する相対的な距離の取り方をまったく知らないままに過ぎてきた人たちが、どんどん再生産されてきている。四十五から三十五くらいの年代の人々のなかに、そういう“左翼”が多いのではないかと思う。しかし不思議なことによくしたもので、四十年たつと、いま教育を受けている若い人たちのあいだでは、そんなものはもうあんまり流行らない昔の標語みたいなもので、いまさらそんなこといったってナウくないぞというようなことを言う人もまた出てくる。しかし、五十代、六十代にまで及んでいるかも知れない“左翼”的方向付けは、たいへん根深いものだと思います。そもそも近現代の文明が「問題」性の方向に向かって動いているうえに、さらにしんにゅうがかかっている。
こういうこともありますね。中央官庁のお役人と話してごらんになるといい。憲法にしたがって外交をやってますとか、憲法の英訳文とか、大真面目でそんなことをいう官僚が、そこらにゴロゴロしていますよ。」江藤淳・蓮實重彦『オールド・ファッション 普通の会話 東京ステーション・ホテルにて』中央公論、1985.pp.216-218.

 この対談は、副題が「普通の会話」となっていて、東京駅ステーションホテルで、夕食、食後のお茶、夜のくつろぎの時間、そして朝食後の再度の会話と、部屋と時刻を移りながら、とくに話題を決めずに繰り広げられている。たしかに「普通の会話」それも、私的で親密だがほぼ初対面の紳士同士の知的会話として節度を保っている。おそらく編集者が同席し録音しているはずで、そういう意味では公開を予定された対談である。江藤淳氏は、23歳で書いた漱石論にはじまって以後若手文芸評論家として注目作を発表し、1962年にプリンストンに留学、それまで文筆一本だったが1971年東工大に就職。文芸評論からひろがって政治的論説を展開。85年当時はGHQ占領下の検閲問題や憲法問題などで“右派”的立場を鮮明にしていた。蓮實重彦氏は、フローベールなどフランス文学の研究家として東大で教え、同時に映画評論で一家を成していた。ただ一般には高踏的な文化人として当時流行になったフランス現代思想やポストモダンの紹介者のひとりと見られていた。二人の政治的立場は、あまり重なるところも触れ合うところもないかのようだった。
 しかし、この対談の最後の「朝の対話」のなかで、実は江藤に対する蓮實のある仕掛けが行われていたことを、改めて読むとわかる。前日までの和気藹々の土俵づくりに成功した蓮實は、先輩江藤に敬意を表しながら巧みに憲法論の本音を引き出す。この点は、次回に。



B.大江健三郎の総まとめ入り
 江藤淳は1932年東京百人町生まれで石原慎太郎も同年神戸市生まれ、大江健三郎は1935年伊予(愛媛県)内子町生まれ。石原は父の転勤で神戸から小樽、逗子と移って育ち、銀行員の息子で、鎌倉に移った江藤とは湘南中学で1年違いの旧友。ちなみに1936年六本木生まれの蓮實重彦は、父は美術史家で初等科から学習院。こうした育ちだけでいえば、同世代といっても、江藤が懐かしむ昭和10年代の東京山の手ブルジョア的生活は江藤と蓮實には共通するし、上級サラリーマン転勤族の子という点では江藤と石原は共通するが、大江健三郎はそういう意味では、まったく違う環境で成長した人である。つまり、四国の山の中で生まれ育った大江は、高校でいじめにあって松山東高校に転校し、同級にいた伊丹十三と親しくなったのち東大仏文進学。在学中23歳で書いた『飼育』で芥川賞。東大仏文という点では、蓮實と同じだが、日本の農村共同体を体験しているかどうかは、大きく違うはずだ。
同世代の新進若手アーティストというだけで結成された「若い日本の会」(1958年)には、江藤をはじめ石原慎太郎、大江健三郎、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之らが参加して、60年安保に反対声明などを出したことはもう忘れられているが、その後のこの人たちの軌跡を見ると信じられないくらい立場はばらばら。彼らが一瞬ひとつの共感を感じたのは、軍国少年だった自分たちの純粋さに対比して戦争と軍隊を体験している上の世代、とくに戦争に深くかかわった岸信介への反発という点と、これからは俺たちの時代だ、という高揚だったのだろう。それから半世紀以上が過ぎ、先日浅利慶太も亡くなった。この世にあるのは、石原、谷川、福田そして大江健三郎くらいだが、みなさんさすがにご高齢で人生の終わりかたを考えておられるだろう。

 「世界を創造 一枚の絵図に:「同時代ゲーム」脱・私小説の遠地点:
 ノーベル文学賞作家、大江健三郎さん(83)の小説作品を集めた「大江健三郎全小説」(全15巻、講談社)の刊行が始まりました。大江作品の魅力を、シリーズ企画「今読む大江文学」で探ります。初夏には、作家の池澤夏樹さんに寄稿してもらいました。
今読む大江文学 作家 池澤夏樹
 昭和初期の日本の文学には三つの潮流があった。とかつて平野謙が言った。自然主義私小説、プロレタリア文学、そしてモダニズム。
 これを受けて丸谷才一は、この三つは現代にもある程度まで継承されていると言う。実例を挙げれば、私小説の旗手は大江健三郎、プロレタリア文学は井上ひさし、モダニズムはもちろん丸谷ご自身。
 うまい見立てだが、ぼくは大江に対してこれは少し酷ではないかと思った。この作家にはたしかに『個人的な体験』のような、正に個人的な体験を土台とする作品がある。しかしながら彼はこの路線から離脱しようと多大な努力を払ってきたのだ。
 〇        〇        〇 
 最も大きなハンディキャップはスタートが早すぎたこと。創作はある程度の社会体験を前提とするものだから、大学生で芥川賞というのは困惑すべき事態だ(ぼくなど四十二歳の受賞でも先の不安に目の前が暗くなったものだ)。
 彼の場合、自分の二十三年分の生活体験と少量の知識しか素材がなかった。これでは私小説に傾かざるを得ない。彼自身がこう言っている――
 (内向の世代)の人たちがゆったり成熟して文壇に出られたのに対し、私はずいぶん早く書き始めて、なんだか「子役上がり」のモロさが…‥これは尊敬する同時代者美空ひばりさんから直接聞いた言葉‥‥‥自覚されていて、友人の輪に入りにくかったからでもあると思います。(『大江健三郎 作家自身を語る』聞き手・構成 尾崎真理子、新潮社)
 この自覚から大江健三郎は私小説的な手法の使用を試みる。そこで支えとなったのが渡辺一夫のラブレー研究や、ブレイクやオーデンなど英語の詩、そして山口昌男が日本に紹介した文化人類学だった。それで離脱できたわけではない。遠く離れてはまた引き戻される。だから彼の作品群を一枚の図の上にプロットしてみると、その軌跡は私生活を一方の焦点とする楕円軌道を描く。
 〇         〇          〇 
 その中で遠地点(アボジー)にあるのが『同時代ゲーム』である、とぼくは思う。つまりこれが私小説から最も遠い。結構の大きさ、奇想の奔放、エピソードの多様、骨幹を成す思想の雄大‥‥‥とんでもない創作力の産物として受け取らざるを得ない。こんな小説を日本語で書いた作家は誰もいなかった。
 何よりもこれは創生譚であり、革命譚である。それでいて細部はおそろしく人間的。登場するのは作者の手の中の操り人形ではなく、勝手に四方八方へ走って行ってしまう始末の悪い奴らだ。
 創成された宇宙とそういう連中の間の遠い距離を一気に埋めるために、冒頭に神話的・呪術的な場面が用意される。それが妹の「恥毛のカラー・スライド」を目の前にピンで留めて彼女に手紙を書くという場面で、これで作品の色調が決まる。
 勝手にふるまいながらも、登場人物はそれぞれに使命の実現者として機能する。ナラティブ(語り)の原型は民話なのだ。四国の山の中にミニ国家を造って大日本帝国と渡り合った、という記憶=記録が伝えられた果て、最後に文章化するのが遠い外国にいる兄=作家、あるいは一族の最後の者。
 それにしてもなんという濃密な文体だろう。まずは名詞が過剰。普通はここまで名詞を詰め込みはしない。しかもそれらを統語する動詞が何度となく論旨をひねる。一本の紐のようなものではなく、編まれたもの、織られたものとしての文章。いわば一枚の絵図。
 小説を書くという行為の上空には世界を再創造したいという大それた欲望がある。世界を根源から読み替えたいという誘惑がある。それがなくて『白鯨』や『百年の孤独』や『世界終末戦争』や『苦海浄土』がどうして書かれ得ただろう。
 『同時代ゲーム』もその列に連なる。だからこの奇妙な人びとの名、主人公の露巳(つゆみ)と露(つゆ)己(き)、創造者である壊す人、父=神主、オシコメ(押し込め=お醜女?)、亀井銘助(めいめいの韻に注意)、アポ爺(ジー)とペリ爺(ジー)、無名大尉、などなど、詩的な工夫を凝らした/凝らしすぎた名前の登場人物が読後感の中を走りまわり、語りかける。何度となく再読を促し、時には読者の悪夢の中に登場する。
 大江健三郎は書きすぎた。本当はこれ一冊で充分だった。まさかそうは言わないが、しかしそう言い切りたいような作品である。」朝日新聞2018年7月27日朝刊28面、文化・文芸欄。

 これを読んだら、昔読んだ『同時代ゲーム』が幻のように記憶に点滅が起こったが、どんな小説だったか細部は忘れている。ドイツにいるときに夏休みに読了した『万延元年のフットボール』とごっちゃになっている。あれも四国の山のムラが舞台になっていた。そのうち時間があったら(ないわけでもないが)『同時代ゲーム』を読んでみよう。
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オールド・ファッションな二人 1985年の愉しい時間 

2018-07-26 22:08:01 | 日記
A.昭和のレトロ対談
 1985年は昭和の60年。丸の内東京駅舎のなかにステーションホテルがあって、4月8~9日、そこで一泊二日の対談を中央公論が企画した。呼ばれたのは評論家江藤淳と仏文学者蓮實重彦。ホテルのラウンジ、レストラン、宿泊室と所を変えながら自由な談論は佳境に入る。当時、江藤淳は52歳、米プリンストン大学での1年留学生活から戻って東工大で文学を教えており、蓮實重彦は49歳で東大仏文の教授だが、映画論や文学論で注目される著作を次々発表していた。これが10月に『オールド・ファッション』という一冊の本になって刊行された。その初版をぼくは買って読んだのだが、読んだことも忘れていた。ぼく自身が大学の教員として授業をするようになった頃だったから、忙しかったし、江藤淳の本はほとんど読んでいたが、蓮實重彦の本はほとんど読んでいなかった。それからもう33年。東京駅丸の内駅舎は21世紀になって、戦災で失った3階部分を復元してリニューアルし内部も今風になったが、1915(大正4)年開業のステーションホテルは、豪華高級ホテルとして営業している。
 日本が経済的に豊かな国になった80年代、二人は中年人生ど真ん中、著作家・文人知識人として脂の乗り切ったところだった。くつろいだ雰囲気でタバコとブランデーをやりながら、気楽な会話を続けている。話は、おのずと彼らが幼児期を過ごした昭和10年代の回顧に向かう。一般に昭和10年代といえば国家の敗北にむかう戦争の時代なのだが、東京の恵まれた家庭の坊ちゃんであった彼らは、大正洋風文化の名残の中にあった両親や親族に愛されて、幸福な記憶だけがあるのかもしれない。

 「蓮實 でも江藤さんはそういうお仕事なさったときに、われわれからみると、残念だというか、おそらく江藤さんは、こいつらは引っ掛かってくるんじゃないかと思うと、間違いなくその人たちだけが引っ掛かるという点はありませんか。
江藤 そうですね。それはありますね。(笑)いやになっちゃうくらいですね。(笑)アリャリャコラサ、というようなもので。(笑)
蓮實 どこの国も貧しいんですけれども、その点において日本の貧しさが出るなという感じがしますね。
江藤 ほんとにそうですね。いやね、豊かな社会とかね、(笑)言うでしょう。こんなことめったな人には言えないけれども、蓮實さんにお目にかかったら、ぜひ申し上げようと思ってきたのは、わたしどもが子供のころ過ごした世の中というのは、GNPというような指標でいえば、現在とは比べものにならないほど貧しかったに違いない。何十分の一か、もっと貧しかったか。『監督小津安二郎』を拝見していると、蓮實さんはわたくしよりいくらかお若いけれども、ほとんど年代が違わない。似たような育ち方をしているなという、懐かしさを感じるんです。凄く懐かしかったのは、学校の帰りによその家に行っておやつ食べてきちゃいけないということ、(笑)ねっ、…‥‥。
蓮實 そう、そう。
江藤 家にまず帰ってきて、ただいまと言って、それからだれだれ君のところに遊びに行ってもいいですかと言って、蓮實さんのお家へ行って、おいしいドーナツかなんかいただいてきて、それをちゃんと家に戻ったら報告するということで成り立っていましたね。そういう世界があって、それはいろんなものに支えられていたから、いい気になるのは、ほめられたことではないとは思うけれども、子供の感覚の世界としてみれば、それはかけがえのないものですからね。そう考えてみると、あのころわたしどもが享受していた生活、それからその生活を律していた時間のリズムとか、それを取り巻いていた空間の広さとか、いろんなことですね。さらにいえば肉親だけではない、いろいろ身辺にいた人たちとの人間的な交流とか、もろもろの生活を支えていた要素を思い出してみると、いまのほうが豊かだという感じはぜんぜんもてないんですね。いまのほうがおそらく窮乏しているのだろうと思う。その窮乏感をたとえば、車を持っているとか、電気冷蔵庫があるとか、皿洗い気を備え付けたとか、システム・キッチンに変えたとか、そういうことで隠蔽しようとしているだけのことであって、かつてわれわれがもっていた、かりそめの豊かさとは比べるべくもない。まァこれは、永遠のノスタルジアで、幼少年期を懐かしんで美化するのは、あらゆる人間の通弊ですから、こういう感じ方そのものにはじめからバイヤスがかかっているとは思うのですが、しかしそれをつとめてこそぎ落してみて考えてみると、少なくともあのころに比べてちっとも豊かになっていないという感じがするんですね。それどころか、ぼくは昭和五十四年から五十五年まで、一年間アメリカに行っていまして、帰ってきてからいつの間にかもう五年たってしまったのですが、この過去五年間ぐらいのあいだに、日本および日本人が逆落としに貧乏になっているような感じがするんですよ。たとえば山手線に乗っている人たちの着ているものが、みすぼらしいとは到底いえない。女の人のハンドバッグのようなものでも、エルメスとかグッチのブランドものを持っている人はざらにいると思うんですが、それがちっとも豊かなものに感じられない。もう一つぼくが不思議でならないのは、都市論の流行です。いまの東京のいったいどこに、都市空間などというものがあるだろうか。そんなものがもはや存在していないことを、完膚なきまでに残酷に描き切ったところが、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』の新鮮さではなかったのか。田中君は、東京の都市空間が崩壊し、単なる記号の集積と化したということを見て取り、その記号の一つ一つに丹念に注をつけるというかたちで、辛くもあの小説を社会化することに成功しているではないか。ぼくらが、いままでよりどころにしていた記号がことごとく、毎日ぐらぐら変化するようなところで、いったいいかなる都市論が可能なのか。いやその状況があまりにチャレンジングだからこそ、都市論なるものが流行しはじめたのか。そのへんはどうなんでしょうね。
蓮實 いまおっしゃったことはぼくもいつも考えていることなんですけれどもね。たぶん二つ問題があるような気がするんです。一つは、われわれが幼少期を送りえた時代には、いまおっしゃったように、学校から帰ってきた時間をどう過ごすか、それを母親にどう報告するかってことが、誰がきめたわけでもないのに、きまっているわけですね。
江藤 そうですね。塾にはいかなかった。(笑)そんなものなかったから。
蓮實 その限りにおいてまったく自由なわけですが、それでも自分の居場所をかっきりきめ、人さまの家でやたらものを食べない。また友達を塀の外からどう呼ぶかとかそういうことが明確に決まっていましたね。あれはことによるとね、昭和十年代周辺だけに日本のブルジョワの家庭に起こった特殊な輝きじゃないかという気がするんです。歴史的なことなのかなと。つまりそのころ、ようやくそろそろ電話がひけはじめるけれども、電話はあらゆる人の家にあるわけではなかった。それから鉱石ラジオが普通のラジオに変わったとか、郊外電車が伸びてゆくとか、昭和十年代周辺の、日本の市民社会が持った一種のエア・ポケットみたいなものじゃなかったろうか、つぎにいろいろな事件が、こう陰惨なものが起こってくるかもしれないけれども、ことによったら、その直前の不気味な明るさをもった秩序、そういうものじゃないかなと思います。
江藤 エア・ポケットというのはわかりますね。そういうものを確かに体験しているんじゃないかなという感じはわたしにもあります。
蓮實 それは文学をとってみても、いま見てみると、ちょうどわれわれが生まれて幼少期を過ごした時期の日本映画というのは、大変すばらしい映画だったと思いますね。それではやはり四十年代に少し落ちて、それから五十年代に続くわけですけれども、文化的な生活水準その他とは別に、芸術的な、映画の場合だったらほとんど、誰も芸術だと思って見ていたわけじゃないでしょうけれども、いま見てみると、まさかと思われるようなすごいことが行なわれている。それはことによると、そういう歴史的な一時期の、郊外電車が伸びていくところですね、そういうものを東京の都会のブルジョワジーが、満喫している一種の切ない喜びの表現だったんじゃばいかなというようなことを考えますね。それ以前の小津の子供を扱った映画を見ると、ああこれだということなんですね。
江藤 谷崎なんかにもありますね。谷崎も円本で印税がまとまって入って。自分の美意識に適合できるような生活ができるようになった後の『蓼喰ふ虫』とか、『卍』とか、あのころの作品にはある自足感というか、自信というか、そういうものがありますね、それはもうまもなく戦争になって、執筆中断を余儀なくされた『細雪』にも反映していますね、その翳りもね。確かにそうですね。
蓮實 大岡さんとか中村光夫さんとか、ああいう方が出ていらっしゃった時期、吉田健一さんの存在なんかもそうだと思うし、川上徹太郎さんにしてもそうでしょうが、あれはある種の余裕がないと成立しえない部分がありますね。
江藤 そうですね。その前はプロレタリア文学でがたがたっとして、それからふっとエア・ポケットができてね。
蓮實 あの方々が出ていらっしゃった時代というものと重なりあっていて、単なる昔ではなくて、非常に歴史的な役割をおびている昔ではないかなという。――これはわれわれの父親とか母親の世代に聞いてみても、どうも彼らもあまり比較する対象がないのでわからないんですけれども、そういえば、うちの母親あたりから、女がスキーに行くようになったとか、そんな話を聞いたりもしています。小津にも女性がスキーに行くようになったとか、そんな話を聞いたりもしています。小津にも女性がスキーをする喜劇があるし……。
江藤 そうですね。わたくしの母親は早くなくなりましたから、スキーに行ったとは思いませんけれども、おぼろげに覚えているのは、蓄音機をかけて、父母を含めた同世代の友達が楽しそうにダンスをしていた情景ですね。親父が酔っ払って、わたしはまだ小学校にも上がっていないガキだったんですが、三分ぐらいその中に連れ込まれて、(笑)親父とダンスの真似ごとをやったという、(笑)記憶がある。叔父や叔母になりますと、確かにもうスキーに行っておりましたね。わたしの叔父が、叔父っていうのは親父と一番下の弟ですが、大学を出て、興銀に入って、富山の支店に赴任する前に結婚して、任地から最初に送ってきた写真が叔母と二人でスキーをしている写真でしたね。祖母から見せてもらったのを覚えています。そういう時期ですね。それは確かにあった。
蓮實 これはもう一度歴史的に洗い直してみないと、なんともいえないと思いますけれども、最近、とくに昭和十年代の日本映画、それから文学などを考えてみた場合に、あれはわれわれの世代しか知りえなかった幼年時代なのかなという気がします。」江藤淳・蓮實重彦『オールド・ファッション 普通の会話 東京ステーションホテルにて』中央公論社、1985.pp.115-123.

 この本をずっと忘れていたが、研究室の片隅にあったらしく、それをまとめて山形の鶴岡に送って整理していたら出てきた。33年も経ったから、この本の時間も止まったまま遠い過去になっている。江藤淳は妻を亡くした翌年の1999年66歳で鎌倉の自宅で自殺した。蓮實先生の方は、東大総長を務めて東大を退職し一昨年も「三島賞」受賞騒動などで活躍中だが83歳になっている。幼児期の懐かしさと同時に、二人はこの85年という時代も幸福な充実を感じていたのだろう。そして、その後の日本が辿った道は、凡庸で愚劣で品位に欠けたものに見えていたのではないか。



B.人生は無理ゲーか?
 若者に希望をもって頑張れと言う教師がたくさんいるのだろう、とは推測する。でも、若者が頑張る場所はルールの決まったゲームのようなものであり、優秀な選手は勝ち残れるが、かならず敗者や脱落者を産む。そもそもこのゲームはクリアが不可能なゲームで、脱落することも他のゲームに乗り換えることもできない、としたら、結果が芳しくないのは自分の能力や意欲がまるでダメだから、というしかなくなる。教師の励ましは、ただ絶望の脅迫と変わらない。そんなことになっているのだとしたら、学校は灰色の地獄だろう。

 「ルール大転換 無理筋:高校卒業後 つまずく若者
突然ですが、持論です。18歳、無理ゲー説
 「18歳無理ゲー説」という話を、数年前から大学生にしている。
 「無理ゲー」とは「クリアが無理なゲーム」。18歳まで高校で教師から言われることは「黙って言うことを聞きなさい」「ネットは危険。SNSはよくない」「先生が指定した教材を使いなさい」。
 これが大学に入ったり、社会に出たりすると180度変わる。「なぜ自分から動かないの」「なぜ若いのにネットを使えないの」「そのくらい自分で調べなさい」
 私は学生にこの話をするとき、自分のせいにしないでほしいと付け加える。10年ほど若者を取材してきて気付いたのだが、この無理ゲーをクリアできないのは自分がバカだからだと思っている人が、少なくない。昨年、就活で苦戦していたある女子大学生は、この話を聞いた後、涙を流した。「まさに無能だからだと思っていました」
 たしかにごく一部の優秀な人は、自分で乗り越えていく。でも、受動的な態度が「正解」だと教えておいて、手のひらを返す社会に責任はないだろうか。
 社会に出る前に新たな世界のルールを学び、練習してほしいと思い、ここ3年ほど大学で「情報の調べ方」を教えている。
 無理ゲーにつまずいた若者にとって、ネットにあふれる情報は、砂漠と同じだ。砂粒の違いなどわからない。ネット以前なら、手に入る情報は限られていた。無限の砂粒に立ち尽くすことはなかったろう。
 「どのサイトの記事なら信用できますか」。学生たちは答えを求め、不安そうに聞いてくる。正解などないこと。要るものと要らないものを自分で考え、より分けること。ひとつひとつ教えると、まさに水が染みこむように、吸収していく。
 「最近の若いやつはダメだな」。嘆きたくなったら、ぜひ、彼らが育ってきた世界のルールに思いをはせてみてほしい。 (原田朱美)」朝日新聞2018年7月24日朝刊11面オピニオン欄、ネット点描。

 これも日本の学校や教師が、生徒たちにとって重要な考えるべきことを考えず、考えなくていいことばかり考えている例なのかもしれない。

 「学校のエアコン もはや必需品:HAFFPOST
 命に関わる危険な暑さが連日、日本列島を取り巻いている。そんな中、学校でのエアコン設置が遅れている現状を、内田良・名古屋大学大学院准教授(教育学)が分析、「小中のエアコン設置 いまだ半数 暑くても設置率1割未満の自治体も 莫大な予算が課題」(18日)で明らかにした。
 内田氏は文部科学省の調査をもとに、公立小学校のエアコンの設置率をまとめ、設置率は全 都道府県ごとの設置率と最高気温との関係も分析。愛知や奈良など、最高気温が高いにもかかわらず、設置が遅れている自治体もあった。エアコンの導入が進まない背景には、各自治体の財政事情がある。それでも内田氏は「エアコンはもはやぜいたく品ではなく、必需品」と、整備の拡充を訴える。
 学校教育をめぐっては、部活動の休みが少ないことや、組体操の事故などが問題となり、過度な「根性論」や「前例踏襲」がはびこっている実態が浮き彫りになった。エアコン設置問題も、実は根は同じなのではと思うのは私だけだろうか。 (関根和弘)http://huffp.st/7oosaeG」朝日新聞2018年7月24日朝刊11面オピニオン欄

 この数日、暑さと湿気は耐え難く、エアコンについ頼りたくなる。近年、人が我慢して耐えられる限度を超えてきたように感じる人が多い。子どもたちが過ごす学校の教室で、エアコンのない学校が半数だという。地域の条件は違うものの、子どもの体調や学習に悪影響がないとはいえない学校は多いだろう。もっとも、ぼくたちがそうやってエアコンに頼れば頼るほど、電力供給は逼迫し外気はさらに上昇するのだが…。
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「戦史」精神力と奇襲で勝てると思う参謀? 自殺論のこと

2018-07-24 12:38:17 | 日記
A.戦争の記録について
 歴史の研究のなかで、実際にあった戦闘の記録を確定する「戦史」という分野は、政治史や経済史や社会史といった他の分野に比べて、残された資料そのものの信頼性や、その分析評価の視点を確かめるのに困難があるものと考えられる。まず、戦場で戦った当事者が命を失ったり記憶をなくしたりしている率が高いし、全滅や沈没してしまった戦闘は、詳細な記録は残りにくい。人間の行為の中でももっとも緊張した特別な戦争の現場。ことが生死を懸けた異常事態の戦場であるから、冷静で客観的な記録を残すことはどこまでできるか、生き残った人の証言は事後の記憶であり、間違いや変形された証言である可能性も高い。しかし、「戦史」は逆にできるかぎり正確に記録し、検討される重要な資料として書き残されてきた。正規軍同士の会戦であれば、両軍がどのような作戦と行動でぶつかりあい、勝利と敗北はどんな経過で決まり、どこに問題があったか、それはまず戦争を職業とする軍にとって、もっとも重要なデータとなる。
 19世紀までの戦争は、広い荒野や大洋上で行われることが多く、交戦国のみならず第三国の観戦武官やジャーナリストが見守る中で短期間で決着がついたので、客観的な「戦史」も書かれやすかった。しかし、第1次大戦以降の長期で大規模な戦争は、それ以前の戦争とは姿を変え国家の総力を費やす過酷な戦闘になった。「戦史」の意味と価値も、軍事専門家にとって再検討すべき課題になった。明治の日本軍の指揮官養成教育においても、過去の戦史について研究するため、時代をさかのぼって戦国時代の戦闘、各地で繰り広げられた「いくさ」の記録が掘り起こされ、教科書的な記述を作る必要に迫られた。そこで、陸軍参謀本部は「関ケ原」などの大規模戦闘の記録をまとめ「戦史」が作られた。だがなにしろ300年ほど昔のことで、歴史資料の吟味からはじめなければならず、そこには近代戦争を知った軍の戦史観でさばききれないものが当然あったと考えられる。

 「参謀本部製の戦国戦史の理念や戦史観は、いかなるものか。
 『関原役』の刊行が目前にせまった明治25年12月、川上の名(横井が実質の筆者か)で、「日本戦史緒言」という、事業の刊行主意書にあたるものが書かれており、それが『関原役』巻の冒頭に掲げられている。
 注目すべきは、川上がそのなかで「兵学によくあてはまるよう記述しようとしたが、当時の歴史書は今まで一度も今日さし迫って必要な条項を詳しく記録していない。そのため細大漏らさず詳しく、終始が整った戦史を修するに役に立たな」勝った、にもかかわらず、手段を尽くして「この書を編」したと述べている点である。資料の収集は帝国大学ほかの協力をえて、当時の水準では可能な限りおこなわれたと考えてよい。しかしそれでも兵学に役立つものを詳しく書いたものはえられなかったと断言する。にもかかわらず「兵学的記述」を含めて、編修は無事完成したといっているのである。
 これは、「広く材料を収集し」たが、兵学の観点から見て役に立つ資料はなかった、だが戦史は書かれねばならない、だから史書がはっきり語らない点は、あえてみずからの判断で踏みこんで書いた、と告白しているに等しい。この判断のもとになるものは何か。それは某武将は戦場においてこのような心理状態にあったに違いないという推測や、資料を分析し叙述する側が有するところの戦術眼や用兵面での知識であろう。我々はそれらをもとに、戦闘の各局面を積極的に再構成した、つきつめれば。川上が書いている文章は、そんな意味になる。
 そもそも戦闘は変転極まりない動きの連続であるから、これを客観的に記録すること自体が難しい。いわんや同時代史料に将兵の心理状態が記録されていることなど望むべくもない。旧陸軍の将校で陸上自衛隊幹部学校教官であった浅野雄吾氏は、「指揮官がいかなる心境において決心し、命令したかとか、殺傷破壊によって精神上のパニックがどのようなものであったかを如何にして把握するかという問題は修養書としての戦史を書く者のもっとも頭を悩ますところである」として、それは「歴史的事実と文学的虚構の接点に立たされた研究の難しさ」なのだといい切っている。氏の、戦史を書くのは、ともすれば「文学的虚構」への誘惑に駆られる、科学の見地からいえば、かなり危うい精神的な営みであることの指摘は、極めて重要である。
 さらに『日本戦史』編集者が、ある合戦を研究・分析するにあたり、始めに持っている戦術や用兵面に関する知識は、当然地味な調査研究の積み重ねの結果はじめて明らかになる戦国期当時のそれではありえず、基本は明治陸軍の戦術眼と軍事知識でしかない。さらに軍隊の組織、兵の徴募法、補給、戦死傷者への補償を含めた対応、その他のあり方は、近代国民国家下の明治軍隊と戦国期軍隊では当然全く異なる。明治中期という時点は、中世から戦国期の社会経済方面の学問的研究など、まだまったく手が付いていないのであり、これらの点にいくらかでも注意が払われた形跡はない。
 結局「緒言」から導かれる結論は、『日本戦史』は、近代軍隊の目線で戦国戦史を書いたということである。それは実際には戦国戦史ではありえず、戎衣(甲冑・軍服)や武器のみ古風な、近代野戦からの類推としての架空戦史であろう。
 事業の総括責任者としての川上と現場の横井の、このテーマにかんする知識水準、方向は同じではない。しかし、横井自身は正規の将校教育を受けていないが、自学自習と多年戦史編さんに従事し、陸軍特別大演習などを参観するなかで、プロの軍人に準ずる戦術の知識、地形についての判断力を養ったはずである。
 こういう意味で、筆者は『日本戦史』を近代軍人の眼による擬古物語と考える。背景には、日本では近代史学のゆりかご時代に、大局観を有した軍事史が根づかなかったこと、外征戦争を志向する軍隊への転換が進むなかで、反対する陸軍反主流派を押さえこむ動きの一環として、軍人が自由な兵学研究をするのを禁じたこと、戦史といえば戦術と精神力に偏した戦闘戦史としてしか理解できなかった軍人世界の形成があった。
正確で具体性のある戦闘関係の資料がえられなかったため、『日本戦史』が、江戸時代の娯楽本位に書かれた軍記物・軍談などに頼りながら、強引に架空戦史を書いた点は、国民の歴史意識をゆがめる結果になっており、おおいに問題である。第三章で述べたように、長篠の合戦で織田軍が大量の鉄炮を動員し、三段撃ちによって武田の騎馬隊を粉砕してという、歴史教科書にも載っていた「新戦術」、歴史の誤った常識を作ったのは、明治36年(1903)刊の『日本戦史 長篠役』であった。このほか織田信長が桶狭間の奇襲作戦で、今川義元の大群を破ったという常識も、事実に反することが明らかにされている。
さらに関ヶ原の勝敗を決したとされる小早川秀秋の寝返りについても、「東軍」につくかどうか躊躇していたのを、家康から催促の鉄炮を打ちかけられて、正午頃ようやく「西軍」を裏切ったというが、最新の研究では、信頼できる資料による限りまったく根拠がない。小早川は開戦と同時に裏切り、まさに布陣しようとしていた石田三成方は瞬時に総崩れになったというのが真相のようで、昼頃までは勝負がどちらに転ぶかわからない激戦だったというのは、江戸中期以降の軍記物作者の創作だといわれている。また『日本戦史 関原役』掲載の両軍の布陣図は、江戸時代に描かれたどの布陣図にも似ておらず、参謀本部が独自につくったのではないかという。
さらに深刻な問題は、近代の軍人による軍の立場からの架空戦史の誕生が、近代の指導的軍人の思考と志向を縛り、史実とかけはなれた「戦訓」をもとに、現実の戦争を構想させ実際に実行する、という愚を犯させたかも知れないことである。著名な例だが、日米開戦必至の状況のなかで、ハワイ真珠湾奇襲の必要を主張した連合艦隊司令長官山本五十六は、海軍大臣嶋田繁太郎に宛てた昭和16年(1941)10月24日付書簡で、「結局桶狭間とひよどり越えと川中島とを併せおこなうの、やむをえざる羽目に追い込まれる次第にござ候」とみずからの立場を説明している。周知のように、帝国陸海軍は奇襲を多用したが、それは実際には戦利に合っていないから、情報収集、索敵と防御の手段にすぐれた米軍によって、ほとんどは事前に察知され、惨憺たる敗北に終わった。」高橋昌明『武士の日本史』岩波新書、2018.pp.226-230.

 太平洋戦史の類が、戦後数多く書かれたが、その作戦を立案し、それを実際に戦った軍の中枢にいた作戦参謀がいかなる知識・教養の持ち主で、軍事のプロとしてなにを判断の根拠としていたか、かれらの受けた「戦史」教育について検討する必要はあると思う。もし近代戦を立案するのに「ヒヨドリ越え」や「川中島」、奇襲・夜討ちによる一発大逆転とか、天才的な指揮官や勇敢な兵士の精神力だけに期待していたとすれば、それは時代錯誤の無能を証明する。真珠湾をはじめ日本軍の各種の作戦をふりかえると、どうも無謀な戦争をやったといわれてもしかたがない。



B.自殺の増減
 日本の自殺者毎年3万人が続いたという報道が話題になったのは、21世紀になる直前だった。リーマンショックで世界同時不況が起こり、その前からバブルがはじけていた日本では、経済の衰退が顕著になっていた。安定した生活を送っていたはずの日本人が、じわじわと不安に襲われ、いろいろな危機をきっかけに自殺に追い込まれるのだろうと考えられた。それが最近は2万人台に戻ってきたという。

 「金融危機翌年から2011年「3万人時代」平成経済:「経済損失4兆円超」推計も
 98年、日本の年間自殺者数は3万2863人になった。97年までの20年間は多くて2万5千人台だったので、異常な増え方だった。
 その後も03年の3万4427人をピークに、年3万人超え続く。しかし、「自殺宅策基本法」ができたのは06年。自殺は個人の心の問題だから、と法律づくりが遅れたのだ。
 NPO「自殺対策支援センター ライフリンク」(東京)は08年、こんな推計を発表した。
 98~07年の10年間を、もし97年と同じ自殺率で推移していたとして比べると、経済的損失は全部でいくらになるか。結果は…… 4兆3900億円!
 「社会の生きづらさ、息苦しさなどを数字にしてカウントしたら、経済的損失はケタ違いになります」と、代表の清水康之さん(46)。
 ライフリンクを起こして14年、清水さんは「生き心地のよい社会」を目指してきた。清水さん、平成はどんな時代だと言えますか?
 「日本の化けの皮がはがれた時代、ですね」
 敗戦後の日本は、どんどん豊かになると思っていた。それは幻想だった。倒産、リストラ、低賃金。セーフティネットもなく人々が追い詰められる。日本はそんな国だった。
 とはいえ法律ができ、国、自治体、企業、民間団体が対策に取り組んできた。その結果、12年目に自殺者は2万人台に戻り、減少傾向が続いている。
 もっとも、自殺者が減ってきたことを、手放しで喜ぶことはできない。
 厚生労働省は18年版の自殺対策白書で、今の日本でも人口10万人当たりの自殺者数「自殺死亡率」は世界ワースト6位と位置づける。
 さらに、佐藤久男さん(74)は言う。秋田市にある自殺対策のNPO「蜘蛛の糸」、その理事長だ。
 昭和は「1億総中流社会」だった。平成で「格差社会」になり、格差が固定してきている。「がんばってもはいあがれないと、人は絶望へと追い込まれかねません。富める者から富めない者へ」     おカネが回る循環型経済にしないと、危うい」朝日新聞2018年7月22日朝刊4面。


 社会学では、自殺の研究はフランスの社会学者、エミール・デュルケームが書いた『自殺論』(1897)が古典として知られている。19世紀末期のヨーロッパ各国では自殺が増大していたが、彼は当時整備されつつあった統計数値をもとに、自殺は偶然的・個人的な現象ではなく、社会的要因から説明できることを示した。自殺率が短期間ではほぼ一定値を示したフランスなど各社会は一定の社会自殺率を持っているとし、どのような人々が自殺しているのかを分析するために、デュルケームは社会的要因(社会的事実)から4つの自殺類型を提示した。その一つが有名な「アノミー的自殺」で、それまで伝統的な宗教などの規範で秩序づけられていた人間のあり方が、根拠を疑われ、社会規範が人々の行為をコントロールできなくなった(それをアノミーと呼ぶ)ために起こる自殺は、近代特有のものと考え、新たな社会再組織のための方策が必要だとした。
 百年以上前のこの『自殺論』には、統計データの解釈やその分析への批判もあるが、大筋で現在も参照すべき論点が多いと思う。それはただ3万人という数字や自殺率(10万人当たり)19.5%、世界ワースト6位という数字の増減だけの問題ではない。何のために生きているかわからなくなる時が誰にもありうるとしても、それだけでは人は簡単に自殺しないし、誰かに声をかけられるだけで思いとどまる未遂者のほうが自殺者よりもおそらくはるかに多い。でも逆に、漠然とした形でも社会に見捨てられていると思えば、衝動的に死の誘惑にかられるのもきわめて人間的なことではあるのだが。
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サムライ・日本刀・切腹のウソ  移民問題の失敗

2018-07-22 01:38:32 | 日記
A.「武士」の虚像と実像
 日本刀は「武士の魂」という観念は、応仁の乱から大坂夏の陣まで戦で人が殺し合った残酷な時代ではなく、元和偃武以降の平和な江戸時代に作られたもので、幕末のテロと内乱ではたしかに刀で切り合ったりしたが、腰に二刀を帯びるのは戦闘のためではなく、武士身分の象徴だったからだ。実際、源平の合戦や南北朝までは主要な武器は弓であり、その後の集団戦では槍だったという。刀は2,3メートル以内の接近戦でしか有効ではなく鎧兜で武装されると、打撲で相手を倒してからとどめと首を落とすときにしか使えない。鉄砲が導入された戦国末期も、命中率は高くなく、黒沢明の映画に出てくる騎馬武者の疾走も、当時の馬はもっと小さく長時間の疾走などできなかった。チャンバラ映画のような、刀剣の切り合いも、実際に刀を交えて数太刀合わせたら刃こぼれしたり曲がったり、二、三人切ったら使い物にならなくなったという。そういう武器と戦闘の実態を知れば、後世の絵にかいた武士と刀のヒーローは虚像だったことが高橋昌明『武士の日本史』(岩波新書、2018)を読むとよくわかる。「サムライ・ニッポン」などと得意になるのは、実際の歴史とはかけはなれたものだった。
 しかし、「切腹」というものはたしかに武士に対する法的な処分として位置づけられていたし、実際に切腹する事例は明治維新まであったし、その作法も決められていた。鎌倉幕府滅亡時の北条得宗一族の集団自殺は、まだ制度化や形式化されていたものとはいえないが、その後は刑罰として本人が意志的な自殺の形式をとることで「武士の名誉」を示す意味はあったのだろう。そこに精神的な覚悟という特別な観念が付与された。明治以降の日本軍では、旧来の武士身分の特権性は失われたが、戦士としての精神をシンボル化するために、日本刀や切腹の精神性が導入され、軍人の責任の取り方として理念が再構築された。

 「東アジア世界からみた武士の思想と切腹
 代表的な士道論の内容をまとめてみた。この際考えてみたいのは、こうした武士の思想を、東アジアという世界のなかに置いてみれば、どのような歴史理解の眺望が開けるか、という問題である。
 結論からいえば、中国・韓国の思想史の専門家たちにとって、武士道の異様さはもちろん、儒教にもとづく士道という武士の倫理思想も、非常に不思議で、おそらく理解に苦しむところであろう。なぜか。儒教は、法や武力のような強制による支配ではなく、礼楽(広義の文)や詩(狭義の文)によって人々の道徳心を高めながら、社会の秩序と神話を実現するのを理想とする。この思想の根本は「力」に対する徹底的な忌避であろう。武や武人は見下げられた。「力」の権化である武は、徳の反対物であるし、武人は「義理(道義・節操)を知らず」、粗野で教養にも欠けるからである。中国の古いことわざに「よい鉄は釘にはしない、よい男は兵隊にはならない」とあるように、兵は、異民族や流浪の没落農民、人間の「屑」や犯罪者のなるものとされた。また中国の伝統思想では、戦争は悪徳である。為政者による無用の戦争を詩歌によって抑制することも、詩歌・詩人の正しいあり方として、社会的に公認されていた。中唐の詩人白居易の「新(しん)豊(ぽう)の臂(うで)を折りし翁、辺(へん)功(こう)を戒むるなり」は、辺境での戦功を賞の対象とせず、むやみに戦争をしないように努めた玄宗皇帝治世前半の名宰相宋(そう)璟(えい)を讃え、その正反対だった治世後半の陽国中(楊貴妃の一族)を批判する詩である。
 しかし、現実の政治が、利に走り教養を積む暇もなく、それゆえ徳を体得していない庶民や夷狄を対象にする以上、無為・無政府は、儒家の取る道ではない。天使のもとに、中央・地方に厳然と政府が組織され、百官有司(有司は役人のこと)が完備されるのは、聖人の定めた典賞にかなっている。力を代表する刑や兵も、欠けるところがあってはならない。君子の徳にもとづく治国平天下の肝心な点は、刑と兵を設けて、しかも用いざるところにある。
 中国では、古代の漢代にはすでにかなり整った官僚制が存在した。支配イデオロギーの中心に据えられたのは儒教で、正統教学として採用された儒教を学び、その教養を身につけたものが、高官となって政治を指導するという方向が打ち出されてゆく。それにともない、中国官僚制を長く特徴づけた文官優位の原則も制度化された。六世紀末の隋に始まる科挙制度は、皇帝政治を支える官僚の選抜試験で、儒教的教養が問われた。科挙は建前としては万人に開かれ、人の生まれつきではなく、誕生後の学習で得られた能力によって人材を選抜するシステムである。漢・唐代にはまだ官吏登用の基本は家格によっており、高位の官僚は豪族や貴族が占めていた。しかし、唐末から五代にかけての動乱期に貴族層が大量に没落したことによって、日本の平安時代にあたる宋代に、科挙はようやく完成されたものになる。国家・社会制度が中国の圧倒的な影響力のもとに置かれた高麗や朝鮮王朝も、文人支配を建前にしていた。
 東アジア世界の周縁にあった日本では、古代以来中国大陸や朝鮮半島から、律令制という国家の支配制度をはじめ、高度な思想・文化・宗教・科学技術にいたるまで、じつに多くのものを学んだ。ところが、科挙はその後も含めてついに採用されなかったし、儒教の理解や普及も充分とはいえない。古代では氏族制が残り、続いて貴族制が長期に渡って生命力を保った。
 日本古代の官僚制では、貴族は父祖の地位に応じて、子孫が自動的に一定の位階を得ることができる蔭(おん)位(い)の特典を持っている。唐や高麗にも同様の制度があったが、日本のそれは適用される親族の範囲こそ狭いけれど、授与される位ははるかに高い。平安時代の支配層であった文官貴族をみても、儒教を精神の背骨としたと評価できる高位の貴族は、数えるほどしかいない。日本の古代中世の社会では、儒教は儒学、それも主に博士家という文士のイエの家業の形でしか存在しなかったし、個人と社会を律する強固な規範にはなりえなかった。
 だから日本のような文(儒)未確立の社会には、武士や武を明確にマイナス価値と位置づけ、しかも柔軟に体制内にとりこむ試みは現れにくい。むろん、日本の平安時代も中国にならったいちおうの文官優位社会である。特有のケガレ観から殺生にたいする忌避もあり、決して武が全面開花したわけではない。だが、武士でもないのに武をもてあそぶ文官貴族がいる。「殺生戒」を唱える仏教や寺院社会にすら、暴力行使を思想的に正当化し、みずから武力を保持し行使することをためらわない現実があった。
 武士を忌避しなかった日本社会は、その後武士が名実ともに治者として君臨する近世社会を迎える。一七世紀後半の頃から、いわゆる文治政治への転換が起こり、「徳川の平和(Pax Tokugawa)」が実現し、軍事集団は武力を凍結された。治者として実際政治を担当するのは、かつて「腰抜役」と軽蔑されていた役方(『政談』)、つまり文官の実務行政官僚たちである。近世にあっては、武士の政権といいながら、治者であるのが武士の主たる側面になった。その変化は、戦士が本来だったそれまでの武士のあり方に、深刻な修正を迫った。
 そして、近世半ば以降は、儒教が諸学・諸思想と習合しつつではあるが、初めて社会に一定の滲透を見た時代である。そこでは、武の対立物であった儒教が、皮肉にも武士の治者としての自覚をうながす教養体系として機能し始めた。その意味で、儒教によって自分を厳しく律する武士の姿は、実像というより、時代の要請が生んだ彼らの努力目標だった。
 もう一つ問題点をあげるなら、山鹿素行も『武道初心集』も、武士たるもの、日々夜々、常時死を心がけるという。しかし儒教では、君父の死にたいするいかに深い悲しみであろうとも、それを礼によって抑制し「性(理)」によって人欲に傾く「情」の部分を抑えてゆこう」と教えた。中国戦国時代に、讒言にあって楚の国から放逐されながら、楚の衰運を憂え汨羅に身を投じた忠臣屈原の自殺が、しばしば遺憾とされるのはその考えによる。儒教が要求するのは何よりもまず思慮、そして思慮によって中庸を守ることである(仏教でも同じだが)。死に急ぎは直情径行の最たるもので、野蛮人の美学に過ぎない。「士はおのれを知るもののために死す」とは、任侠(ヤクザ)の世界でのみ通用する物言いにすぎない(侠と儒とは対極概念)。事実、歴史をふりかえってみても、国家に殉じた臣という人物を探すのはなかなか難しい。
 以上の儒教の基本性格は、じつは日本人の歴史・思想史の専門家にも、あまり留意されていないかのように、筆者にも思える。素行のような一流の学者が唱えた士道論ですら、儒教の教説そのものではない。武士が支配勢力になりあがっていった日本歴史の特殊性を踏まえ、彼らの為政者としての心がけや振舞いを、平和な世にふさわしく儒教風に洗練させたもの、と位置づけねばならない。だから幕末になって対外危機が叫ばれるようになると、高遠藩の藩医兼藩儒であった中村中倧のような儒者は、「わが国は武国で、おのずから武士道がある。これは儒学の道の助けを借りず、仏の心を用いない、わが国自然の道である」(『尚武論』)と、武士の倫理道徳から儒教を引きはがす論を主張するようになるわけである。
 『葉隠』が倫理思想として、広がりを持つものでなかった点は、すでに述べた。加えて、武士道という用語の使用例は、近世以前には遡らない。武士道を倫理思想の対象として学問的に論じた先学に古川哲史氏がいるが、彼は「この語はこの時代(近世)にはほんの一部の人々に使用されただけである」と断じ、従来それが通説であった。
 近年、武家社会史の専門家である笠谷和比古氏は、古川市の断定を相対化しようとして、武士道の用例を、より広くより多くの近世の著作物にあたって採録しているが、それでもその最盛期は一七、一八世紀で、近世後期になると道徳上の義務的性格を帯びるようになり、武士道論は士道論の中に併合されてゆき衰退した、と結論づけている。
 これにたいし日本文学研究の立場から、武士の思想を精力的に論じている佐伯真一氏は、武士道は言葉自体としてはある程度の広がりがあったから、古川市の指摘は誤解を受けやすいけれど、倫理思想の用語としての使用に限ってみれば、その指摘は妥当性を欠くとはいえないとし、笠谷氏が衰退期とみた一九世紀に入ると、むしろ武士道を盛んに主張する思想が多く世に出るとしている。
 いずれにせよ、近世中期ともなれば、現実には戦闘による死の危険は去り、「追腹(殉死)」も禁じられて、武士社会は安穏を享受していた。だから、武士たることを自負し世間の風潮を憂うる者は、おのれがそうだと思いこんだ戦乱期の武士のあり方を、強調しないではいられなかった。『葉隠』には、全編死とか狂とかの言葉が氾濫し、無私の捨身を時にファナティックに、時に鋭敏・繊細な言語感覚で主張する。異様な印象は拭い難いが、それは、泰平の世なるがゆえに、死の潔さを、逆にいっそう過激な形で、武士生活のすべてに渡る心がけ、生き方として説いたものである。しかし、こうした異議申し立ては、はかない抵抗というほかはなく、武力を凍結された状態が延々と続くなかでは長続きせず、衰退するのは理の当然であった。
切腹は、武士のメンテリティを示す自殺または刑死の方法とされている。割腹・屠腹・腹切ともいわれ、外国にもhara-kiriの名で知られる。
 切腹の元祖とされるのは、第一章に登場する藤原保昌の弟の保輔で、「強盗の張本」として、永延二年(九八八)、獄中で死んだ。捕縛された時に自殺を図り、「刀をぬいで腹を切り、はらわたを引き出した」傷が原因だという(『続古事談』巻五)。
 平安時代以降、自殺の一方法として行なわれるようになったが、広まるのは鎌倉末期から南北朝期で、元弘三年(一三三三)、近江番場(現滋賀県米原市)で六波羅探題の将士が集団自殺し、続いて鎌倉で得宗高時以下が大量自殺した時の衝撃がきっかけではないかと思われる。『太平記』によれば、前者は四三二人、後者は八七三人が腹を切り、あるいは差し違え、またみずから首を掻き落としたという。
 これ以前の武士は、自殺時にはほかの方法を用いることが多く、刀を口に含み俯しに貫いて絶命するなどした。また中世以降も、切腹は武士や男性に限られた自殺法ではなかった。後世には、短刀を左腹に突き立て、右まで回して引き抜き、次いで胸の下から十文字になるよう切り下げ、さらに喉を突くのが正式の作法とされたが、実例はそれほど多いわけではない。
 古式では、藤原保輔のように腹を切り内臓を引き出した。その事実から、生命の源である内臓を神に供えることににより、その神を祀る共同体にたいする祈願者の偽りのない赤心を示すのが、切腹の本義であり、山の神信仰と狩猟の儀礼に起源を持つという説がある。これによれば、武士の切腹は、武運つたなく死に直面した武士が、弓矢の神と彼の帰属する武士集団への最後の忠誠表明をする、という意味をもっていたことになる。鎌倉幕府滅亡時の二つの大量自殺は、得宗に対する近親グループ(北条一門や得宗被官)の献身と忠誠の心情を、劇的な方法で表わさんとしたものであろう。その凄絶さは、得宗の専制政治への各方面からの反発・憎悪を感知していた彼らの、前途なき絶望感が噴出したもの、とも解釈できる。
 腹を切るのは苦痛が多く、死にいたるのも難しいが、勇壮であり、自分の真心を戦場または人前で顕示するには、有効な方法と考えられていた。敗軍の将兵が捕虜を嫌っておこなうのが多いが、主君のためにする追腹、職務上の責任などから迫られてする詰腹などもある。
 刑罰としての切腹は、室町時代からおこなわれたが、近世では、幕府・藩が採用し、侍以上の上級武士にたいする特別の死刑法になった。幕府法では、五〇〇石以上の者は大名屋敷などの屋内で、それ以下の者は牢屋内で、夕方から夜にかけて執行されるのが例であった。
 『古事類苑』法律部二に引用された諸資料から判断すると、前者の切腹の作法は、庭の一画の一丈(三メートル)四方に砂を敷き、その上に縁なしの畳二枚を置き、白木綿の布や、赤毛氈などで覆って切腹の場とする。囚人が無垢無紋の水浅葱(囚人服の色)の裃を着てそこに座ると、正副二名の介錯人が進み出る。正介錯人は姓名を名乗って一礼し、刀を抜いて囚人の背後に立つ。ほかの役人が奉書紙に包んだ九寸五分(28.8センチ)の木刀を三方(白木を用いた膳具の一種)に載せ持参、囚人から九〇センチほど離れた前に置くと、副介錯人は囚人の介添えをして衣服を肌ぬぎにさせる。副介錯人は囚人に三方を取るよううながし、囚人が手を差し伸べて取ろうとする瞬間、正介錯人が刀を振るって首を切った。副介錯人は首を取って検使に見せ、検使は始終を見届けた旨を述べて執行を終える。木刀の替わりに扇を出したり(扇腹)、時には本物の短刀を用いることもあった。切った首や死体は、遺族・家来などに下げ渡される。」高橋昌明『武士の日本史』岩波新書、2018、pp.190-200.
 
 1970年に三島由紀夫が切腹したとき、一種の人工的な「武士の精神」を蘇らせたいという三島の妄想的表現行為は、日本人に異様な衝撃は与えたが、その意図を「武士」にむすびつけて理解する回路はもうなかった。そもそも三島由紀夫は歴史的に定義される武士ではなく文人だったし、権威に対する忠誠の証としての切腹(敵に屈する恥辱を拒否する切腹)、主君からの懲罰としての切腹(自分に帰責する罪の償いとしての切腹)という歴史的意味をまったく無視した、ある意味で西洋的な表現行為だったから、といえるかもしれない。



B.少子化=国家の衰弱モデルへの文化論的批判について
 人口動態という一国社会を根柢から時間的に規定する要素について、日本ほど深刻な事態が予想された国はなく、20世紀の終わりにそのことに気づいて警鐘を鳴らした知識人がかなりいたことも、たしかな事実だと思う。ファシズムの暴力を打破した第二次大戦のもたらした反動としての、飛躍的経済成長と人口爆発は、団塊の世代が高齢者になり、子どもを産むことの意味が女性の幸福にとって疑問視される時代が来て、先進諸国は軒並み少子化が進行する事態になった。最大多数の経済的幸福の増大にとって、人口という個人を越えた課題、しかもきわめて個人的な課題が何を導くかに、多くの市民は鈍感だった。日本は、その先頭を走っていたが故に危機を認識したにもかかわらず、結局なにひとつ有効な対策を講じなかった。フランスの人類学者トッドの診断は、それを比較文化論的視野から説明する。つまり、西洋とは異なった文化的背景、伝統的なイエ的家父長制家族観と、個人よりも集団を優先する社会観を日本の特徴とみて、それが移民の排斥拒否に結びつくとき必然的な国力衰退の原因とおく。果たしてこれは正しいか?

 「行動せず議論 移民は流入:エマニュエル・トッドさん(仏人類学者・歴史学者)
 1990年代に初めて訪日したとき、将来の少子化など人口動態の問題を語る人は多かった。欧州より意識が高いと思いました。来日はこれまで16、17回になりますが、今はこう考えています。人口動態危機について、日本人には何も行動しないまま議論し続ける能力があると‥‥‥。
 国力を増したければ人口動態危機に取り組むはず。それをしない姿勢をナショナリズムとはいえません。
 日本の問題は、女性が働くと子どもをつくれなくなるというところにあります。
 家族人類学の視点から見ると、日本は長男が家を継ぐ直系家族の国です。往々にして、男の方に特権がある。消えつつある家族形態ですが、その価値観はゾンビのように今も残り続けています。
 現代日本で、男尊女卑が激しいわけではない。女性は高等教育を受けられるし、職業上のキャリアを積み上げることもできる。けれどキャリアを積もうとすると子どもをつくりにくい。「あれか、これか」の二者択一を迫られる。
 日本の場合、直系家族というシステムが頂点に達したのは明治期で、近代化のスタートと重なりました。テクノロジーを次世代に伝えながら完成するには効果的でした。競争にも強い。同じく直系家族のドイツは近代化へ離陸すると、わずかの期間で英国より強国になった。明治日本の離陸も恐るべきものでした。しかし、これまでのやり方を断絶し、システムを大きく転換するときに直系家族の価値観は困難に直面します。方向を変えられないのです。
 日本は移民政策に消極的です。ドイツは今、移民を最も受け入れている国の一つですが、直系家族が移民導入の足かせにはなっていません。
 日本文化には、極端な礼節へのこだわりがあります。他人に決して迷惑をかけない。それは一つの価値ですが、移民問題に当てはめてみるとどうなるか。礼節という文化が脅かされることになる。フランスなら話は簡単だ。もともとお互いに不作法だから失うものなどありません。
 現実問題として、日本が移民を拒むのは不可能です。人口減社会の日本では、労働力不足が深刻化し、技能実習生という名の「移民」がすでに始まっています。自分たちだけで暮らしたいという閉鎖的な夢と、外への解放という現実。意識が現実と切り離され、移民の流入はウソの中で始まっているのです。
 人口動態危機の解決策として優先するべきは、まず女性が快適に働き、子どもを産むことができる政策です。未来に向けて豊かになるために、政府は保育園整備や児童手当に巨額の予算を投じるべきです。今すぐ豊かになることしか視野にない政策は、将来、国を貧しくします。(聞き手・大野博人)」朝日新聞2018年7月18日朝刊13面オピニオン欄「鏡を見よう、日本」

 1980年代後半、非熟練労働者の不足が顕著になり、中東などからの不法な外国人労働者が急増したことを背景に、当時の労働省も外国人労働者受入れ問題の検討懇談会を開設した。1988年ごろ大手メディアも「外国人労働者問題」をさかんにとりあげた。1989年に出た西尾幹二『「労働鎖国」のすすめ 外国人労働者が日本を滅ぼす』(カッパビジネス)光文社、同じ年カリフォルニア移民体験を書いた『ストロベリー・ロード』で大宅壮一ノンフィクション賞を受けた石川好が、『鎖国の感情を排す 石川好・戦後とアメリカを質す12篇』(1985年、文藝春秋)も出していたので、ちょうど1987年4月から始まった月一回の深夜討論番組「朝まで生テレビ」で、何度か外国人労働者問題がとりあげられていた。その結果ばかりとはいえないが、日本国内の議論の大勢は、異文化移民の増大への警戒・拒否論に傾き、移民なしでも日本は今の生活水準を維持してなんとかなるという楽観論に囚われた。一つの証拠をあげよう。

「単純労働者の入国問題に関する主な意見
単純労働者についても受入れてはどうかとするもの
○わが国の国際的受容性を高め,また対外摩擦の解消にも役立つことが期待されること。
○わが国において一定の分野には労働力不足が現に存在し,これを埋める日本人労働者を確保することが困難であること。
○わが国社会の国際化に貢献(外国人,異文化の接触等)。
○経済格差がある限り外国人労働者の流入は不可避であり,これを不法就労者として取締りの対象とするだけでは問題の解決にならないこと。
○現在の不法就労者問題を放置すれば,事態はさらに悪化,陰湿化,社会問題化,国際問題化し,アジアの中で孤立しかねないこと。
○一定の範囲で正規に許可することにより,悪質な雇用主やブローカーからの搾取を防止できるようになること。
○ヒトの自由化が避けられない以上,西欧諸国の先例に学び,しかるべき対応策をとりつつ,徐々に門戸を開放すべきこと。

単純労働者の受入れは行うべきではないとするもの
○日本の労働条件の低下,失業率の上昇を招き,労働市場の混乱も招きかねないこと。
○低賃金による外国人労働者の搾取である,ダーティワークを外国人に押しつけているといった非難を受けかねず,新たな国際的摩擦の要因となる可能性があること。
○犯罪率の増加は必至との危ぐ。
○一部の職種の短期的労働者不足には役立つかもしれないが,結局大量の外国人労働者及びその家族の流入により,その子女の教育問題や街の一角のスラム化などに伴う膨大な社会コストが予想されること。
○安易な導入は,人種的対立や偏見を醸成させかねず,日本人の意識の国際化が先決。
○外国人労働者の受入れにより失業,社会的文化的摩擦等の諸問題に直面した西欧諸国の経験を他山の石とすべきこと。
○今日の経済社会の発展をもたらした同質的な日本社会は軽戈に変えるべきでないこと。
○他国の救済のために外国人の失業者を受入れる必要はなく,発展途上国に対する援助は,途上国自身における雇用機会の増大に資する経済協力や投資活動によるのが本筋であるべきであること。
(出所)法務省入国管理局「外国人労働者問題への対応 p5~6

トッドの論に全面的には賛成できない。いまの日本社会は、イデオロギー的には復古的ナショナリズムや伝統家父長家族の男社会が残存しているのは嘘ではないが、日本人のマジョリテイーはそれをいいことだとも、そこに帰るべきだとも思っていないと思う。文化人類学的家族類型をあてはめて、人口問題に適用するのは、実情からはズレる認識だと思う。しかし、外国人労働者問題について、あの時点で人口問題と結びつけて議論したかといえば、心もとない。 
それから30年が経過したいま、あいかわらずこの国の保守指導層は、すべては経済成長なしには解決しない、少子高齢化の問題は自分勝手な女たちの意識を変え、国家のため国力のため、日本人の子どもを増やす以外に手段はないと信じている。しかし、現実はとっくにそんな次元を超えて、外国人の労働力に頼らずに日本経済を支えることなど困難になっている。コンビニでもスーパーでも、工場でも農村でももはや外国人移民の力を借りなければ、急速に衰弱するほかないのが現実ではないか。この問題をマジに考えるなら、急いでやらなければならないことはたくさんある。でも、安倍政権はそんなことには関心がなく、憲法改変とか、労働法制の大幅緩和とか、自衛隊のさらなる増強とか、見当違いのことばかりやっている。国家の未来をちゃんと考えているとは、思えない。これこそ後世に禍根を残すふるまいだ。
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