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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

困ったもんだよ醗酵一宇

2015-03-20 04:06:50 | 日記
A.「八紘一宇」
 三原順子(今はじゅん子)という人は、昔アイドル的なタレントだったのは微かに覚えている。金八先生かなんかで不良少女をやっていた。今は自民党の参議院議員で、50歳くらいか。その三原議員が国会の質問で「八紘一宇」を理想の価値観として語ったというので、話題というか問題になってしまった。言うまでもなく(いまは言わないとわからなくなっちゃったのかもしれない)、「八紘一宇」や「大東亜戦争」という言葉は、日本がはじめた戦争のスローガンで、戦後にこの言葉を使うことは、軍国主義イデオロギーを宣揚する極右の立場に立つことに等しい。少なくとも国会の質問の場で議員が「八紘一宇」を望ましいものと語ることは、戦後の出発で約束したこと、国際社会が前提とする秩序を否定し引っくり返すことを意味する。公文書では禁止用語となっている意味を、議員は知らなかったわけだ。
 三原議員がたんに歴史に無知であったミスだとしても、それを疑わずに平気で「八紘一宇」を口にする今の自民党と国会の雰囲気は、危機的だと思うが、どういう文脈で「八紘一宇」を語ったのかは気になる。

「三原じゅん子議員が3月16日に行った国会での質問と、麻生財務相、安部首相の答弁の全文は以下の通り。
三原参院議員:私はそもそもこの租税回避問題というのは、その背景にあるグローバル資本主義の光と影の、影の部分に、もう、私たちが目を背け続けるのはできないのではないかと、そこまで来ているのではないかと思えてなりません。そこで、皆様方にご紹介したいのがですね、日本が建国以来大切にしてきた価値観、八紘一宇であります。八紘一宇というのは、初代神武天皇が即位の折に、「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)になさむ」とおっしゃったことに由来する言葉です。今日皆様方のお手元には資料を配布させていただいておりますが、改めてご紹介させていただきたいと思います。これは昭和13年に書かれた『建国』という書物でございます。
「八紘一宇とは、世界が一家族のように睦(むつ)み合うこと。一宇、即ち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一番強いものが弱いもののために働いてやる制度が家である。これは国際秩序の根本原理をお示しになったものであろうか。現在までの国際秩序は弱肉強食である。強い国が弱い国を搾取する。力によって無理を通す。強い国はびこって弱い民族をしいたげている。世界中で一番強い国が、弱い国、弱い民族のために働いてやる制度が出来た時、初めて世界は平和になる」
ということでございます。これは戦前に書かれたものでありますけれども、この八紘一宇という根本原理の中にですね、現在のグローバル資本主義の中で、日本がどう立ち振る舞うべきかというのが示されているのだと、私は思えてならないんです。麻生大臣、いかが、この考えに対して、いかがお考えになられますでしょうか。
麻生財務相:もうここで戦前生まれの方というのは、2人くらいですかね、あの、他におられないと思いますけど、これは、今でも宮崎県に行かれると八紘一宇の塔というのが立っております。宮崎県の人、いない? 八紘一宇の塔あるだろ? 知ってるかどうか知らないけど。ねえ、福島(みずほ)さんでも知っている。宮崎県関係ないけど、八紘一宇っていうのは、そういうものだったんですよ。で、日本中から各県の石を集めましてね、その石を全部積み上げて八紘一宇の塔っていうのが宮崎県に立っていると思いますが、戦前の中で出た歌の中でもいろいろ「往け、八紘を宇(いえ)となし」とか、いろいろ歌がありますけれども、そういったもののなかにあってひとつのメインストリームの考え方のひとつなんだと私はそう思いますけれども。
私どもはやっぱり…なんでしょうねえ…やっぱり世界の中で1500年以上も前から、少なくとも国として今の日本という国の、同じ場所に同じ言語を喋って、万世一系天皇陛下というような国というのは他にありませんから。日本以外でこれらができているのは10世紀以降にできましたデンマークくらいがその次くらいで、5世紀から少なくとも「日本書紀」という外交文書を持ち、「古事記」という和文の文書を持ってきちんとしている国ってそうないんで。そこに綿々と流れているのはたぶんこういったような考え方であろうということで、この清水(芳太郎)さんという方が書かれたんだと思いますけれども。
こういった考え方をお持ちの方が三原先生みたいな世代におられるのに、ちょっと正直驚いたのが実感です。
三原議員:はい、これは現在ではですね、BEPS(税源浸食と利益移転)と呼ばれる行動計画が、何とか税の抜け道を防ごうという検討がなされていることも存じ上げておりますけれども、ここからが問題なんですが、ある国が抜けがけをすることによってですね、今大臣がおっしゃったとおりなんで、せっかくの国際協調を台なしにしてしまう、つまり99の国がですね、せっかく足並みを揃えて同じ税率にしたとしても、たったひとつの国が抜けがけをして税率を低くしてしまえば、またそこが税の抜け道になってしまう、こういった懸念が述べられております。
で、この期に及んで単に法人税をもっと徴収したいというような各国政府の都合に基づくスタンスから一歩踏み出してですね、つまり、何のためにこうした租税回避を防止するかという理念に該当する部分を強化する、こういったことが必要なのではないかと思っております。
総理、ここで、私は八紘一宇の理念というものが大事ではないかと思います。税の歪みは国家の歪みどころか、世界の歪みにつながっております。この八紘一宇の理念の下にですね、世界がひとつの家族のように睦み合い、助け合えるように、そんな経済、および税の仕組みを運用していくことを確認する崇高な政治的合意文書のようなものをですね、安部総理こそがイニシアティブをとって提案すべき、世界中に提案していくべきだと思うのですが、いかがでしょうか?
安倍首相:こうした、いわば租税回避ができるのは本当に多国籍企業であり、巨大な企業であってですね、こういう仕組みを、こういう企業のみが活用できるわけでございます。まさに日本の中でコツコツ頑張っている企業はそういう仕組をとても活用することができないわけでございまして、そういう意味において正直者が馬鹿を見てはならないわけですし、しっかりとそれを進めていく国とそうでない国に大きな差が出てはならないわけでございますので、BEPSプロジェクトの取組みがですね、OECD租税委員会において進められているわけですが、本年中の取りまとめに向けてですね、日本政府としてもしっかりとリーダーシップを取っていきたいと、このように考えております。」haffington post pressより 

「八紘一宇」があの戦争の時代に生きた人々にとって忘れ難い言葉なのは、昔から使われた四文字熟語ではなく、20世紀になってから田中智学という僧が、日本書紀から探し出して「全世界を一軒の家のような状態にする」日本的な世界統一の原理として造語したものである。昭和になって日中戦争が泥沼化する中、「八紘一宇」は日本が盟主となってアジアを軍事的に制覇するスローガンとして大宣伝した。1940年(昭和15)8月、第二次近衛文麿内閣が基本国策要綱で大東亜新秩序の建設をうたった際、「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国(ちょうこく)の大精神に基」づくと述べ、これが「八紘一宇」という文字が公式に使われた最初になる。つまり「八紘一宇」という言葉の寿命は造語から禁止用語まで10年もなく、日本が負けた戦争の記憶と一体となっていた。
 三原議員はこの発言をみる限り、「八紘一宇」をそうした血塗られた歴史にまみれた語であることを知らず、何か麗しい理想として受け取って質問の趣旨の装飾になると思ったらしい。この人は靖国にも議員になる前から参拝しているという。自民党の若手議員の多くがかくも無知だとすれば、教育をもう一度やり直さないといけない。さすがに麻生太郎はこの語の意味するところは知っている。それでつられて余計な発言をしそうになって踏ん張った。安倍氏もつい調子に乗って失言をしたりはしなかったが、意図せずにそれを仕掛けたとしたら三原じゅん子は天然ボケ女優として名を残したかも知れない。



B.日本のユニークネスを「近代の超克」につなげる道筋
 「万世一系」神話が世界に冠たる日本のユニークネスだ、という言説は歴史的にはいつ頃から成立したのだろう?ぼくはたぶん儒教が日本に持ち込まれてからだと思う。それも朱子学や陽明学が、地上の最高権力である皇帝の正統性・正当性を超越的な天による賦与に求める思想が入ってからだと思う。日本の生真面目なエリート知識人は、先端思想を学べば学ぶほど、文明の後進的な日本の劣勢コンプレックスに苛まれ、そこを一気に越えようと儒教の教える皇帝・王朝の滅亡・交替、つまり革命の歴史を読みかえて、わが日本にはそのような対立・破壊・醜悪な闘争はない、万民が一君のもとに友愛家族のように睦みあう瑞穂の邦をやってきたのだというアイディアにナショナル・アイデンティテイを求めた。われわれは中国よりどこよりも素晴らしい国に住んでいる。これは牧歌的なイメージだが、ひとたび武力を手にして軍事的な世界戦略に結びつくと、「ヤマト文明」を世界に及ぼし征服して最終戦争に勝つことが、日本に課せられた歴史の使命、世界平和への積極的で唯一の道なのだ、と言い始めた。その結果は、いまさら言うまでもない。国家の破滅は自ら招いたことは明らかだ。そういう歴史をわれわれはもっている。

「抑々(そもそも)、日本思想における外来性・土着性とは何か。仏教的・儒教的、云々的という仕方で外来性を述べたてていくとき、土着的・固有的なものとして一体何が残り得るであろうか。なるほど、神話的・民俗的な〝固有思想″や〝皇室中心主義的思想″の如きいくつかのモメンテが残るかもしれない。しかし、思想史的にみて、また、比較文化論的にみて、真に「日本的」と形容されるに値するものは、果たしてそのような〝土着的″なモメントであろうか?鎌倉時代以降の「日本仏教」や江戸時代後半の「日本儒教」のごときは、優れて「日本的な」思想形象ではないのか?なるほど、それらは「仏教」であり、「儒教」であるというかぎりでは外来的かもしれない。しかし、そのように言うとき、西洋文化なるものも、宗教にせよ学問にせよ、西洋諸国自身にとっての外来文化、すなわちヘブライ・ギリシャ的な外来文化と称せざるを得なくなるであろう。認定の基準をよほど明確にしつつ思想的内実を詳らかに検討することなくして、安直に外来的か固有的かと劃することは、思想史的分析や思想的討究においては百害あって一益もない。
 われわれが敢えて如上の言葉を挿んでおいたのは、京都学派の歴史哲学や国家哲学にあっては、――加藤氏(*加藤周一のこと)流にいえば「外来の論理」と〝土着的″な思想とが渾融しており――視角の取り方いかんでは、全く土着的な前近代的思想の追認にもみえ、反転しては亦、若干の〝土着的夾雑物″を交えた西洋哲学の真似啼きにもみえるという事情が厳にあるからにほかならない。京都学派の「近代超克論」を見定めるためには、既成の〝和洋″観的道具立てをいったん括弧に収めて臨まねばならぬ所以である。
 本稿では田辺元の「種の論理」に立入るつもりこそないが、京都学派の歴史・国家哲学の前提的了解を見る一具として、昭和十四年に「京都大学学生課主催の日本文化講義」としておこなわれ、翌年岩波書店から上梓された有名な『歴史的現実』から二三の条を引用しておこう。田辺元は説いて言う。「歴史は歴史でないものから之を考えてはならない。‥‥歴史を現実と離れた理念で批判することは許されない」。それでは「歴史的現実」とは何か?「現実とはこの現在に我々が直接に面接してゐるものである」。――田辺は、周知のように、一種独特の時間論を展開し、時間性と空間性との統一態を説くのであるが、これは省いて歴史・国家間の一端をみておけば足ると念う。
「唯物史観が自然的な側面に重きを置き、因果的に、過去を主として考へるのに対し、精神の実現すべき目標を未来に置き、それが目的論的に現在を支配してゐるとすると、観念史観・唯心史観となる。単に因果的に規定されると考へるのは過去が現在を支配するといふ事であり、又目的論的に働くといふのは未来が現在を規定するといふ事であるから、この両者は一見すると反対の様に見えるが、実は却て同じ関係を裏と表から見たものに過ぎない。そのどちらも真の現在を捉えてゐない、現在の無の円環的統一を見失ってゐるのであつて、歴史の見方としては不十分であるといはなければならぬ」と述べ、唯物史観と唯心史観との双方を斥けつつ、田辺としては「現在の無の円環的統一、とやらに定位する。
 ところで「過去と未来が方向を異にするやうに、種族と個人は方向が逆である。この方向の逆なものを統一するものとして現在に対応するのが人類である」。だが「真の人間は別に種族の外にあるのではない」。「歴史社会の構造契機である種続・個人・人類の関係を時間の過去・未来・現在に対比して考へ、その契機のどの一つも他の一つを媒介してゐる」という発想を田辺はとる。
 ここにおいて、媒介項をなすものがまさしく「国家」なのです。「人類の解放社会が成り立つのは種族の閉鎖社会の関係に於て之を超える所である。閉鎖社会は一方に個人に束縛を加へてその自由な働きを限定し、個人は他方この社会と方向を逆にするものであり乍ら然も両者が調和された時、即ち個人が種族の中で一々自分の行為の目的を実現出来るやうになり、又個人が種族の進む方向に自己の行先を認め、閉鎖社会の規律や統制がそのまま個人の自由な行為と媒介され統一された時、種族は閉鎖性から人類的開放性に高められる。これが国家である」。「国家は単に種族ではない。国家は種族が同時に文化特に直接には法を通して人類の立場に高まり、その立場で個人と媒介調和せられ主体化せられたものである。国家は単に種族的社会でなく、個人をして夫々その所を得せしめる国家即自己の統一でなければならぬ」。そして、「種族の立場からの対立がありながら個体との調和・統一を通して他の種族と文化的に結びつくやうな国家の集まり」、それが「世界」にほかならないのである。
このような了解の文脈において、天皇制や八紘一宇の思想が定位される。「善い国家は善い個人を通してのみある」。「その実例は遠い所に求めなくとも我々の生れた此の日本の国家を考えへて見ると、それが既に現実になってゐることを認めねばならぬ。抑々天皇の御位置は単に民族の支配者、種族の首長に止まつてゐらせられるのではない。一君万民・君民一体といふ言葉が表はしてゐる様に、個人は国家の統一の中で自発的な生命を発揮する様に不可分的に組織され生かされて居る、国家の統制と個人の自発性とが直接に結合統一されて居る、之が我が国家の誇るべき特色であり、さういふ国家の理念を御体現あらせられるのが天皇であると御解釈申上げてよろしいのではないかと存じます。又斯様な内部的な組織の調和は対外的にも調和を伴ふ。それで日本の文化は排他的・閉鎖的でなく統一が開放的な意味をもってゐる。これがいろいろ難しい解釈のある八紘一宇といふ言葉の意味かと考へます」。
読者は、われわれが本書の第二・第三章以来稍々詳しく紹介・祖述しておいた高坂正顯、高山岩男氏の氏等の『世界史の哲学』をここで想起されるであろう。田辺元の場合、国家と世界との中間項をなすブロック的圏域のアクチュアリティーの認識が欠如しており、また、歴史の空間性というとき、和辻哲郎以来のかの風土性という論点もみられない。総じて歴史哲学としての具象性、社会・国家哲学としての具体性に欠けることも覆えない。しかしながら、われわれが敢えて一端を引用しておいた所以でもあるが、京都学派の世界史の哲学を以て、西田・田辺から一旦切断して、弟子筋による〝鬼子″と見做すことは正鵠を失すると言わねばならない。「近代の超克論」に関しても同様である。田辺は「科学と結びついて科学を生かして行く宗教的精神が新しい時代の建設の原理になると思ふ」と語り、また、「歴史は時間が永遠に触れる所に成り立つのであり我々個人はそれぞれの時代に永遠と触れてゐる。古人は、個人は国家を通した人類の文化の建設に寄与することによつて永遠に繋がる事が出来る」とも説いている。」廣松渉『〈近代の超克〉論』講談社学術文庫、1989. pp.213-218.

西洋近代の科学・技術・思想・文化の基礎にあるのは、何世紀にもわたって対立し殺し合い奪い合ってきた諸民族・諸国家の闘争の果てに、苦心して考え出された合理的で機能的な社会システムである。政治システムとしての君主制は制御され無害化され、保守派が君主をかついで歴史を逆に戻そうとした場合は君主制自体の廃棄をも厭わなかった。明治の日本人が、帝国主義列強の中で国家の自立を追求しようとした緊張に、天皇制の近代化も当然含まれていた。ただ万世一系イデオロギーは、その段階では人に迷惑をかける実害よりは、自分の深い心の拠り所として安定していたのだと思う。しかし、日本人はもう自分たちは西洋と同じ地位に達し、近代のもつ病巣を西洋人が語りはじめると、そうか奴らの文明はもう終わりだ、俺たちのほうが次の文明をリードするのだと考えた。そのためには周辺のバカな国に教えてやらなければならない。天皇陛下は大いなる慈悲と威光をもって、お前たちを幸福に導いて下さるのだ、と。その結果何が起こったか。武器をもった軍隊が出て行って戦争をしたのだ。

「われわれは固より京都学派第二世代の営為を以って〝学祖の掌中を出ないもの″と評し去る心算はない。昭和十年代における西田・田辺の推転には、却って第二世代からのインパクトを勘案しなければならないことをもわれわれは知っている。しかし、近代超克論や一種独特の国家哲学ならびに世界史の哲学が西田哲学派の正系的展開として登場したという事実は、飽くまで銘記しておかねばならない。戦時下における「近代の超克」論は、決して〝京都学派の末流が偶々時潮に阿って思い付き的に洩らした迷論″といった代物ではないのである。
尤も、京都学派の論客たちが歴史的現実としての「近代」、乃至は、近代的知の地平に照応するイデオロギー形態としての所謂「西洋哲学」の超克という課題を当初から意識していたとは看じ難い。京都学派第二世代の主流が世界史の哲学や近代の超克を説くに至った心理的な背景には、昭和初期に一世を風靡した感のあったマルクス主義ないしは唯物史観に対するコンプレックスと対抗意識が介在していたものと忖度される。
「今にも世界のここかしこに暴動が勃発して明日からでも共産的な社会が産れるかのやうな気配で、社会問題が論ぜられてゐた時代があった。その頃は、世界歴史はどのやうな運動法則をもち、世界歴史はどのやうな帰趨に向かって動いて行くかは、殆んど自明のこととされてゐた。原理も定まってゐるし、結論も定まってゐる。問題はただそれを何時、いかなる手段で実現させるかに存してゐる。さう信じてゐた人も少なくはなかつたであらう。しかし実際の歴史の動きはこの予想を裏切つた。問題はそれほど自明ではなかつたのである。歴史を動かずものは単なる物質ではなかつたのである。それならば歴史の実体は何であらうか。かう問はれてみると、問題はやはり解決されてゐた訳ではない。歴史的物質が直ちに歴史の実体ではないにせよ、だからと云つて精神だけで歴史が動くと云ひきれるものでもない。その上、現代の危機的状勢は、緩和されたどころか、むしろ一層激化されてゐる。唯物史観が指摘したやうな矛盾も確かに残存する。世界はどのやうな方向に動かうとしてゐるのか。世界史には一定の運動法則が見出されるか。せめて何らかの傾向が発見されるか。このやうな問題には、一般の世界歴史は答へる必要はないであらう。しかし世界史の哲学はかかる問題を避けることは出来ない。もしそれに答へ得ないと云ふならば、それは歴史的理性の限界を越えるからである所以が示されなければならない」(高坂正顯「歴史的不変と世界の動向」)
この一文の如きは、深層的心理の所在を忖度せしめるに足るであろう。勿論、動機そのものは事柄の本質にとって副次的である。現に右の一文の立言内容は、当時のインテリ層にとって切実感をもって迫りうるものを孕んでいたと思われる。嘗つて唯物史観とその世界史的展望に〝共感″し、その後、ナチスの登場によるドイツ共産党の潰滅、スペインやフランスにおける人民戦線の敗北、等々を介して〝夢を破られ″、転向ないし距離を設けるようになった者にとっては、それは一層切実感をもった筈である。とすれば、如上の問題提起は、まさしく広汎なインテリ層の胸襟に触れ得る者であったであろう。」廣松渉『〈近代の超克〉論』講談社学術文庫、1989. pp.218-220.

 廣松渉はなんで「近代の超克」の議論、とくに京都学派にこんなにこだわるんだろうと、ぼくはちょっと不思議だった。こんな連中は戦争の昂揚気分に乗っただけのアホじゃないか。こんなこと言っといて、負けたあとはどうしたのか、ぼくらは知っている。幹部軍人や政治家だけがアホだったんじゃない。戦争責任と言うなら、このようなイデオロギーが戦争を推進し、壊滅するまで国体にこだわった原因じゃないかと。たぶん廣松氏の視角の鍵は、このマルクス主義という当時の近代思想の到達点、そこに自分たちもすぐ到達できると錯覚した日本のエリートが、事態の推移が複雑化して、国内外で左翼は弾圧され、ナチスみたいなのも出てきて、失望しわけがわからなくなっていた時に、京都学派の言説は、一種の救いの誘導になったのではないか、というあたりにあるのだろう。少なくとも西田哲学は西洋への目配りと乗り越えはやろうとしていたと。でも、そんなんだろうかな。
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